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#5137 DNAや遺伝子だけではわからない学力 Dec.31, 2023 [5.1 脳の使い方]

#5136の続きを書きます。学力の高さは遺伝かという問題を俎板(まないた)に載せてみました。

 人のDNAは60億塩基対で、チンパンジーとの差異は1.2%しかありませんから、人同士のDNAの違いなんてほとんどどうでもいいようなごくわずかでしょうね。

 人のDNAは30億個の塩基対から構成されていますが、2組が絡まっているので合計60億塩基対です。そのうち、遺伝子として働いているのは1~2%ですから、ほとんどが意味がないのか眠っています。でも、無限大の1~2%というのはやはり無限大です。(笑)
 ところが、無限大にある組み合わせのうちで、ホモサピエンスを成り立たせている30億塩基対のほとんどが共通しています。個体差はわずかです。

 ではどれくらいなのか?情報量を計算してみます。
 塩基は4種類ですから、

  4^3,000,000,000

 ですね。これが4ビットの回路が30億並んだ時の表しうる組み合わせの最大値ですが、表す数の単位がありません。
 わずか100個の塩基対でも膨大な量の組み合わせがあります。
  4^100=1.6×10^60
 の情報量をもっています。
 人間のDNAが持ちうる情報量の大きさは途方もないものです。でも、その内で遺伝子として働いているのは1~2%のみです。実際には30億塩基対の1%だとすると、3千万塩基対が遺伝子だということです。


 生まれてから、さまざまな五感の刺激や意識への刺激で、その機能が発現する遺伝子もあるのでしょう。免疫がウィルスが侵入してきたときに、それぞれのウィルスに対応して抗体を産生して免疫反応するように、五感や意識の強い刺激で何らかのスイッチがオンになり、特殊な機能を担う機構が動き出すということがあるのかもしれません。
 棋士が指した将棋の手順を記憶し、初手から詰み迄ミスなく再現できるのも、そうした眠っている遺伝子の発現現象に似たメカニズムが動き出したのかもしれませんね。

 遺伝子の発現をコントロールしている部分への研究分野をエピジェネティクスというようです。DNAの98%は不要なのかあるいは眠ったままです。
 遺伝子の制御系が存在していることは確かなようですが、そのスイッチがどのようなメカニズムでonとなるのかはわかっていないことが多いのでしょう。

 遊びに異常に熱中すると、映像記憶やその意識的な操作のスィッチがonに切り変わるのだと考えると、プロの棋士やビリヤードのチャンピオンクラスの人たちのトレーニングがもたらすものが理解できます。珠算も同じですね。名人クラスの職人も同じことが言えるのだと思います。しかし、これら遺伝子やその発現とどこかで関わりがあるのかどうかは不明です
 一流の学者にも同じことが起きています。学部のゼミの指導教授だった市倉宏祐先生(哲学)は、あるとき歩きながら思索が始まってしまって、うっかり工事中のマンホールに落ちて肋骨を数本骨折しました。マンホールにまったく気がつかなかった、気がついたら落っこちていた、何が起きたのかしばしわけわからん状態と笑って話されていました。少年特攻兵(予科練)の指導教官であった元ゼロ戦のパイロットが、蓋の開いていたマンホールに落下、1か月間の入院でした。思索に意識を集中したために起きた事故でした。数学者の岡潔先生も、道端で木の枝を拾って土の上に何か書き出したら、暗くなるまでそのままずっとやっていたようです。意識の集中が切れません。

 こういう人は、眠っていた遺伝子の無数にあるスイッチのどれかが、あるいは外的刺激で映像記憶やそれを脳内で操作するスイッチがonになっている可能性がありそうです。岡潔先生の例でいうと、脳内に浮かんでいる数式を地面に写し取って、確認しているのでしょう。モーツアルトは、曲が思い浮かび、それを譜面に写し取るだけ、本とかどうかはわかりませんが、そういうことが起きていた可能性が大きい。隣に住んでいた天才少年は小学生低学年の頃、釘で地面に相撲の絵を描いてました。それを見たオヤジが驚いて言ってました。「線の引き方に迷いがない、一度も線を修正しなかった、あんな絵の描き方をする人間は初めて見た」と。脳内の映像をそのまま地面に描けたようです。脳内に相撲の映像が浮かんでも、それを描く技術は別です。しかし、それをやすやすとやってしまう。
 いいことばかりではありませんね、並外れた集中力が無意識に働いたときには、周辺に意識が行き届きませんから、歩いていてマンホールに落ちるなんてことで生命にリスクのある場合もあるのです。社会的な適応性が失われるなどの「副作用」があります。集中モードを自分の意志では解除できないところまで行ってしまう。ビリヤードの映像が浮かんで、無限にビリヤードができて、体が疲れきるまで眠れないというのは、自分の意志ではどうにもならないゾーンに入ってしまった結果です。そんなことを日常続けていたら、傍から見たらすこしヘンな人間に見えるでしょう。集中モードの時は、話しかけられてもまともな返事ができません。音としては認識できますが、意識があることを考えることに全部使われてしまい、話しかけられた意味内容を理解できないのです。わたしの場合は、高校時代はせいぜい2週間が限界でした。それ以上やったら、気がおかしくなるという恐怖がありました。20歳の頃はさらにその限界が1か月くらいまで伸びていますから、だんだん慣れるもののようです。でも、慣れるのに時間をかけないと危うい。
 ブロの棋士や学者の岡潔先生や市倉宏祐先生だけでなく、過度な集中が長い時間続けば、誰にでも起きる現象なのだと思います

 さて、集中力が異常の高まるスイッチの話はともかくとして、分かっている事柄があります。
 癌抑制遺伝子の発現をコントロールしている遺伝子が2年前に見つかっています。制御部分は120個のアミノ酸から構成されていることがわかっています。ごく短い部分ですね。短い部分の遺伝子の役割解明はこれからです。

 人類(ホモサピエンス)が地球上に現れてから47万年です。25年で1世代とすると18800世代ですから、わたしたちはその末端に位置しています。個体間の遺伝子の差はごく小さいものでしょうが、癌抑制遺伝子が一つ壊れたり、発現しないように制御されただけでも、免疫系に異常が起きて癌を発症して死に至るということがあるくらいですから、無視できませんね。

 さてここまで縷々関係がありそうな、そしてなさそうな曖昧模糊とした話を並べてきました。わからないものはわからないでいいのです。わかったふりをしないことが大事です。(笑)
 プロの棋士やビリヤードのプロ、一流の学者の観察的な事実から、意識の集中度を著しく上げ、映像を記憶したり、映像を操作するスイッチがありそうで、それを利用できると学力が大幅にアップできそうなのですが、そのスイッチが遺伝子と関係があるかどうかは、残念ながらわかりません。ネットをググってもそういう情報は出てきません。

 強い好奇心や、遊びへの熱中、学問への著しい耽溺などが、そのスイッチをオンにするらしいことだけは確かなようです。そうなったときには、周囲の音や光、匂い、味覚、感触などの感覚器官が働かなくなり、集中している事柄以外は認識されなくなるようです。音も光も耳や目に届いているのだけれど、意味のあるものとしてのが理解できないと言えば、事態をより正確に表しています。
 よくはわかりません。

 さて、あと3時間で、新年です。
 今年も一年、弊ブログにお付き合いいただいて、ありがとうございました。
 皆様よいお年をお迎えください。

#1784 小さな塾だからできること:4段階の指導 Dec. 28, 2011 [57. 塾長の教育論] 


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#5136 学力の高さは遺伝が50%、環境が30%は本当か?:脳の使い方が決め手! Dec. 29, 2023 [5.1 脳の使い方]

 遺伝の影響はありますね。でも、具体例を探すととても少ないのです。
 私の周囲でそれを感じたのは一人だけでした。隣の男の子でした。IQ180という噂でした。あの子はたしかに遺伝的な影響が大きかったのでしょう。10歳くらい離れていたお姉さんも高校で学年トップでしたから。でも、他の兄弟はそうでもありませんでした。同じ父と母から生まれても、学力の個体差は大きいのです。
 好いことばかりではありません、こういう特別な子は社会的な適応がむずかしいのです。普通の頭のわたしたちには考えもつかない悩みを抱えています。
(霊能力の強い人も同じです。異能の人はそれぞれその能力が故の悩みも抱え込んでしまいます。見たくないシーンが時空を超えて見えてしまうなんてことがあります。都合の良い方向だけには働かないのです。両親が死んでしまうのが1か月前からわかってしまったらどうします?父親は病気で死の病に臥せっているのに、元気な母親もすぐになくなってしまうことがあらかじめ見えてしまったら、1か月泣いて暮らすしかありません。兄弟姉妹に告げるのもつらい。叔母がそうでした。祖母も特別な人でしたから、たしかにこの種の異能は遺伝と関係があります。ご亭主の浮気のシーンが見えてしまったらどうします?女性の染色体に鍵となる遺伝情報が載っているのかもしれませんね。)

 学力に関しては、遺伝で確実だと思える例は1/1000くらいなものです。この手の調査で看過されているのが脳の使い方です。
 具体例を三つ挙げましょう将棋のプロは頭がいいと言いますが、たしかにそうですね。それでは頭がよいから将棋のプロになったのかというと、逆だと思うのです。将棋して夢中で遊んだから頭がよくなったということ。簡単な理屈でしょ?

 少し具体的に説明します。プロになったときには、自分が指した将棋を暗譜していて、最初から手順通りに並べられます。これはプロなら当たり前の技です。脳に映像として残っているので、それを盤上で再現したらいいだけです。異常な集中力が働くと、映像を脳が勝手に記憶してしまいます。自由に引っ張り出せる領域に保存してしまうのです。だから、プロの棋士は脳の使い方が違っています。わたしのように普通の人が、指した将棋を初手から詰み迄、間違いなく並べるなんて芸当はできませんよ。奨励会を抜け出てプロになったときには、こうした能力が身についてしまっているのでしょう。もちろん、その能力は自分の指した将棋の手順を記憶できるだけにとどまるはずもありません。読みが深く、盤上の戦況を俯瞰できるようになります。論理的な読みが深くなるだけでなく、ああこの手筋は悪手だ、こちらの手の方が好手だと感覚的な判断も正確になってきます。

 わたしは小学生のころから、床に就くと、ビリヤードのテーブルと赤いボールと白いボールが映像として浮かびました。脳内でビリヤードできるんです。これも昼間に夢中でゲームしたからです。集中力が異常に高くなると起きる現象です。

(スリークッションの世界チャンピオンだった小林伸明先生もビリヤード店の息子でしたが、脳内でビリヤードのトレーニングやっていたはずです。小林先生のお店の「四つ球常連会」で4年間ほどお付き合いがありました。国内でさまざまな種目で60回以上チャンピオンになっている町田正さんも八王子のビリヤード店「チャンピオン」の次男坊でしたが、同じことをしていたと思います。素振り用の鉄製のキューまでありました。町田さんのお父さん(プロのビリヤードコーチ)に少しだけ習ったことがあります。ブログの検索ボックスに検索キーとして小林伸明先生や町田正先生のお名前を入れたら、いくつか記事が出てきます。)

 ビリヤード店と居酒屋が家業でしたから、ビリヤード台の上に載って5歳のころから遊んでいました。お客さんで、ビリヤードをやり始めの頃の人が、ご飯を食べようとして、無意識に左手でレストを作って、箸でご飯茶碗を突っついてしまい、はっと気がついたなんて人はときどきいましたね。
 就寝してから映像が浮かびだすと、数時間眠れません。ずっと脳内でビリヤードをやっており止められません。脳内で球を撞いているのに、球を撞くときの感触が指にあります。脳はいろんなものを再現してくれます。脳の中でやった基本パターンを実際に、目が覚めてからビリヤード台でやってみます。手の感触を含めて、比較してみるのです。上達しないわけがありません。

 台の枠木の上に、紺色のピース(タバコ)の空箱を乗せます。ピースの箱は小ぶりでその幅は1.5㎝くらいなものですが、キューを素振りして、(キューの先端が)10㎝くらいはみ出すようにストロークします。これは基本トレーニングのひとつでした。肘が安定しないとピースの箱の紙の部分に触ってしまい、台から空箱が落ちます。慣れてくると、目をつぶってやれるようになります。目をつぶっても脳には見えています。映像が浮かんで、空箱の空間の中心部分を正確に撞けます。100回連続しても紙に触れることはありません、不思議ですね、見えている、つまり映像が脳に浮かんでいます。そうすると、実際にはキューをもたないでも、イメージするだけでトレーニングできるのです。
 ブログも目が疲れているときは、目をつぶってタイピングし、漢字変換するときに目を開けて確認します。目をつぶっている方がキーボードにミスタッチが少なくなります。意識が集中していて、気が散らないからでしょう。

 珠算を習い始めたのは小5、中2まで高橋珠算塾でトレーニングしてました。算盤玉が脳に浮かびます。ビリヤードで脳で映像を操ることになれてしまっていたからです。だから、暗算が得意でした。暗算の時に珠の動きに合わせて手を動かすと、やはり実際に珠をはじく感触があります。その方が楽です。計算が終わるとソロバン珠の映像と指の感触で珠がどのような配置になっているのかわかります。
 古里で最初に商工会議所主催で市民珠算大会を開催したときに、わたしは主催者側の一人でした。10ケタの読上げ算の読み手が市内には3人だけでした。一人は高橋珠算塾の高橋尚美先生、もう一人は富士珠算塾の板野国男先生、そしてわたしの3人でした。根室高校には高速読上げ算のできる先生はいませんでした。
 暗算部門だけは出場したかったので出ました。第1回市民珠算大会で暗算部門で優勝の実績を残しておきたかったからです。根室高校珠算部員ではありませんでしたが、生徒会の先輩の指示(「来週、全道大会行くぞ」って、急に言われます)で高校の全道大会に毎年選手として出場していたので、ローカルな大会では暗算部門以外は興味がありませんでした。総なめにする自信はありましたよ。(笑)

 この映像記憶というものを脳で操れたら、それを学習に利用しただけで、学力は格段にアップします。この技が学習に利用できることに気がついたのは中2のとき。すぐに学力が上がっていき、高校生の時には授業ではつまらなくて、公認会計士二次試験講座の参考書で独学で学習を始めました。
 当時は七つの試験科目(簿記論・会計学・原価計算・経営学・商法・経済学・経営学・監査論)があり、経済学は近代経済学でしたが、マルクス『資本論』やヘーゲル哲学へも手を伸ばしました。すぐに公認会計士2次試験勉強では飽き足らなくなっていました。授業中に脳内で公認会計士受験参考書の理解できなかった文章を思い浮かべて、考え抜くことができるようになっていました。哲学書も同じでした。数行の文章そのまま記憶して、暇なときに引き出しから取り出すように記憶を引っ張り出して、俎板に載せます。意識の集中が始まると授業はまるで聞こえてません。(笑) 意識を手中しても答えが見つからないときは、意識を分散します。無関係に見える事象の中に相似なパターンがみえてつながってきます。
 原価計算は学校の授業(選択科目で工業簿記)で習う前に、1年次の春休み1週間で問題集1冊丸ごとやり終えていました。10時間前後の勉強を7日間続けると、脳が興奮して、就寝しても勝手に昼間の学習事項が脳内に浮かんできて消えません。疲れきるまで眠れなくなります。あの当時なら1か月そんな生活を続けたら、たぶん気がおかしくなったでしょうね。年齢を重ねるごとに、限界時間は長くなっていきました。1か月くらいならへっちゃらに。それにしてもクールダウンは必要でした。

 都市銀行に就職して独学で公認会計士になるつもりでしたから、根室高校商業科へ進学。中学校の担任から母親が2度呼び出され、「この子は大学へ進学する子だから、普通科がいい」と言われ、「商業科へ進学して公認会計士になるというのが息子の意志ですから」とあきらめてもらったのですが、山本幸子先生が見抜いた通りになりました。高校3年の春に担任の冨岡先生から進路を問われて、都市銀行へ就職して公認会計士になる旨告げると、「都市銀行には就職したい生徒がいるので、譲ってやれ、おまえは生徒会でも活躍したし、日本銀行に学校推薦できるので、そちらにしろ」と言われたのです。高卒で一生大卒に使われるのは御免でした。日銀だと近くても釧路勤務です。好きな彼女もいたので、日銀勤務なら翌年ぐらいに結婚していたでしょう。
 家業も毎日手伝っていたので、どうしたらいいのかわけもわからず、12月になってしまい、宙ぶらりん。結局、オヤジに相談して大学へ進学していいか確認しました。オヤジは即答、OKでした。オフクロもわたしが言い出すのを待っていたようでした、ありがたかった。しかし、受験勉強2か月で目標の大学に合格できるわけもなく、浪人。店番しながら勉強すればいいやくらいに思っていたら、同級生の根室高校最後の総番長だったヒロシが「ebisu、東京へ一緒に行こう」と誘ってくれました。3年生の秋頃からあいつと二人で一緒に歩いて帰ることが何度かあり、気が合っていました。すぐにオヤジの許可をもらって、ヒロシと一緒に羽田空港に降り立ちました。あいつがわたしの運命を変えてくれました。その大事な友が今年1月に亡くなった。もう一人同じクラスで東京の大学へ進学したムサシが10/30に亡くなっています。最初の初夏のころに「ホームシックで寂しい、会ってくれ」と葉書が来ました。ヒロシのところへ集まって、朝まで酒飲みました。ムサシは人っ子のいい奴でした。

 閑話休題、学力の高さの話でした。遺伝や環境以外の要素で非常に影響が大きいと思われるのは、脳の使い方です。子供時代に何かの遊びに夢中になる時期を過ごした人は、脳の使い方が他の人とは違ってくるというのがわたしの仮説でしたプロの棋士にその典型例を見ます
 遊びへの熱中や意識的な脳の使い方のトレーニングの次第で、学力は上がるし、将棋は上手になるし、ビリヤードもセミプロクラスには上達できます

 だれだって、先祖には頭のよかった人も悪かった人もいますよ。頭の使い方次第で学力ぐらいはいくらでも何とでもなります。無心に遊んで、そして勉強もしてください。脳の使い方が変容します。
 職人だって頭を使わないやつは一人前にはなれません。いや、職人こそいい頭脳にしておかないと、よい仕事ができゃしません。(笑)

<余談:意識の集中と分散を切り替えるスィッチ>
 脳を集中モードにもっていくのは簡単ですが、分散モードにするのはトレーニングが必要です。意識の集中は凸レンズの作用に似ていて、特定の事象に焦点が集まり、周辺が見えなくなります。意識の分散モードはどこにも意識を置かないのです。ボーっとしている状態なのですが、とても有用な働きがあります。論理的に考えたら、異分野でまるで関係ない事象が関係してきます。異分野の知識に同型性が見つかります。たとえて言うと「クォンタム・リープ」が起きます。これは集中モードではできないことです。だから、両方を使い分けられたら、とっても便利です。
 座禅やヨガの瞑想は呼吸のコントロールで意識の切り替えを可能にしてくれます。いつのころからか、自然に使い分けていました。数呼吸で意識モードを切り替えられますが、切替スィッチを意識して繰り返すと、スィッチが実体化してきます。
 意識の仕組みってよくわからないことが多いのです。たとえば、意識と心って関係があることは誰にでもわかりますが、どの部分が重なって、どの部分が重なっていないのか、そしてそれらの間の関係はどのようなものなのか、なんてことはまだ誰にもわかりません。人間の脳とか意識、こころを丸ごと人間の脳をで把握するという試み自体が矛盾をはらんでいるのかもしれません。人間の脳よりもスペックの高い意識やこころがなければ、不可能なのかもしれないのです。しかし、自分の意識の構造や働きを、自分自身が観察した結果は書けます。

*#5137 DNAや遺伝子だけではわからない学力 Dec.31, 2023


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<所要時間>
 この記事は作成に30分かかっていません。後で編集するでしょうね。文字数は2583です。
 29日午後10時、編集後3228文字です。
 29日午後11時、3520文字。
 30日午前9時、4042文字。
 30日正午、4608文字

 1/1 8:15、4743文字

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#5135 ブログ発信開始からこれまでの経緯:データ Dec. 28, 2023 [A8. つれづれなるままに…]

 ブログを書き始めたのは2007年11月下旬でした。スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で2006年7月20日に手術をして、1年たって体力は回復せず、体重も手術前に比べて12㎏ほど減少して、集中力の著しい衰えを感じていました。ライフワークだったマルクス資本論の論理構造を明らかにするというテーマについて書けないのではないかと不安が萌し、文章が書けるかどうかを試すために、ブログで地域の学力問題や医療問題を採り上げました。
 書き始めのころは、アップした記事を読み直すと、漢字変換ミスや文章になっていないところがたくさんあって、ひどかった。直しきれずにミスが残っていれば、ありがたいことに読者の誰かが指摘してくれます。そうして、時々読者のみなさんと対話しながら、先月下旬で16年間が過ぎました。
 アップした記事は5134本ですから、

 5134÷(16年+1か月)=319(本/年)

 年間319本もアップしていたのですね。これでは多すぎます。(笑)
 平均して4000字だとすると、岩波文庫版は17行×43字=731/ページですから、400ページの本を70冊ほど書いたことになります。テーマが異なっても内容が重複していることが多々ありますから、ご覧の通り、中身はそれほど濃くありません。

 ついでですから、1日当たりのPV(Page Viewer)数も計算してみます。昨日までのPV数は7525530ですから、
  7,525,530 PV÷(16年×365+30days)=1282 (PV/day)
 
  記事ひとつ当たり、PV数がどれくらいなのかも計算してみます。
 7,525,530 PV÷5134タイトル=1465(PV/タイトル)

 タイトルひとつ当たり1465回読まれていますね。どうもありがとうございます。

 2002年の11月から昨年(2022年)9月まで古里で学習塾をしていましたが、「塾の先生一日中ブログ書いている」なんて噂もありました。ほぼ毎日アップしてましたし、長い記事もあるのでそういう誤解が生じる余地がありましたね。
 四百字詰め原稿用紙10枚分くらいなら、内容にもよりますが、おおむね30~90分でアップしています。見直しやデータの追加をするために翌日以降に修正・編集・追記を随時しています。そちらの方に同じくらいの時間がかかっています。長いものだと四百字詰め原稿用紙で40枚程度のものもあります。
 発信している記事が多くても、それほど時間を費やしていないのは、タイピング速度が大きいことと、文書作成ソフトWORDの編集機能が強力だからです。思いつくまま”バチバチバチ”とタイピングしてからチェックを兼ねて後編集して体裁を整えたらいいだけです。

 冬は雪が降ると4~5時間も家の前の雪かきをよくしていました。バス停があるのできれいにしておきたいからです。きれいにするとブルドーザーが回ってきて、雪を置いていく、それでまたその雪を道路の向こう側の空地へ運ぶという風に。全身汗びっしょり、ついには、水分補給が追い付かなくて、尿管結石で苦しい思いを5日間ほどしましたね。(笑) 冬はブログをタイピングする時間が少なくなっていました。
 胃と胆嚢の全摘、胃の周辺のリンパ節切除、癌が浸潤していた横行結腸の一部切除をしているので、コップ一杯の水でも30分はかけないと下痢してしまいます。だから、東京へ引っ越しましたが、命懸けでした。夏場の水分補給が追い付かない可能性が7割くらいありました。過酷な環境の中で、身体の方が驚いて、水分吸収がよくなりましたよ。そして3月に古いエアコン2台を取り換えたので、例年になく暑い夏でしたがなんとかなりました。

 修士論文を書くときにドイツ語文献の引用があるので、20代(1970年代)の時にOLYMPIA製(スイスメーカー)の欧文タイプライターを買って、タイピング教本でタッチタイピングの練習をしたので、それ以来ブラインドタッチで入力できます。機械式のタイプライターよりも、パソコンはキータッチが格段に楽です。
 1990年頃、ワープロを仕事で使い始めたときに、「ebisuさんと同じ年代の人は人差し指でタイピングしてます。10本全部使う人は見たことがありません」と褒めてくれた新入女子社員がいたことがありました。いまじゃ当たり前ですが、当時はタッチタイピングは「特殊技能」でしたね。
 ワードの編集機能の良さとタイピング速度の大きさの両方の相乗効果で、手書きしていた時の3~5倍の文書処理ができます。ワープロやパソコンのお陰で、こなせる仕事量が飛躍的に伸びました。重要な仕事は提案書の作成や協議書や稟議書などの社内文書作成を含みます。文書による定期的な報告も必要です。2年ほどOASISという富士通製のワープロを使った後で、社内にパソコンが導入され、文書作成にはワードを使うようになりました。
 臨床検査センターのSRLには1984年2月から1999年の9月末まで勤務しましたが、その間に発信した文書は8㎝のファイルで8冊ありました。その後3年間で3冊増えています。発信文書に連番を振る習慣は、1978年に産業用エレクトロニクス輸入商社に勤務してからのものです。文書管理の基本は大事です。
 要するに長い時間をかけて文書作成になれちゃったというわけです。

 ブログを始めた一番の動機はライフワークをやれる文書作成能力と体力や集中力があるのかを試すためでした。

 ライフワークは「マルクスと数学」というカテゴリーにまとめてあるのでそちらをご覧ください。『資本論』の構造が明らかになっています。ヘーゲルとの関係も。マルクスが『資本論第一巻』でその方法的な破綻に気がついてしまいました。
 これはまったくの新説です。マルクス資本論の論理構造全体を俯瞰できた学者はいません。同時に、マルクス批判でもあります。マルクス自身が『資本論第一巻』を世に出した後、体系構成の方法にヘーゲル弁証法を利用したことの誤謬に気がついたというのがわたしの推測です。だから死ぬまでの16年間、続巻を出さなかったのです。出せなかったといった方が精確ですね。16年間の空白の期間の意味を考えたマルクス学者がいなかったというのはとっても不思議です。
 ところで、資本主義経済の分析と新しい経済社会のデザインはまったく異なる分野の仕事です。方法的に破綻したマルクスは晩年の研究テーマをそこに移しています。
 新しい経済社会の建設は企業のマネジメントが鍵です。わたしはそこへの言及も始めています。
 新しい経済理論が書けたら、ライフワークを超えることになるでしょう。

 ブログを書き始めてから、1年後くらいに体力的にきつくて、ブログをやめようかと悩みました。そのときに、SRL社長だった近藤さんから「続けたら...」というメールをもらって、何とかつなげることができました。近藤さんにあらためて、「ありがとうございます」です。
 近藤さんは2009年10月31日に根室まで来てくれました。養老牛温泉へ泊って、地域医療問題と都会との学力格差の問題を語り明かしました。カテゴリ―「養老牛温泉夜話」にまとめてあります。
 SRLは創業社長の藤田光一郎さんが小児科医、近藤さんも医師免許持っている元厚生省の技官です。2人とも異色でしたが、お二人の色は違っています。幸いなことに、両方の社長の特命係として仕事したことがありました。厄介ごとが持ち上がるとお呼びがかかるのです。厄介ごとは扱いにくい人間でなければ適切に処理できません。(笑)
 厄介な仕事を請け負うたびに、必要な人材が周りにそろっているのです。戦略は自分で考えます、しかし実際の仕事はチームでやるので、それぞれの分野でトップレベルの人材がそろわないと不可能なのです。それがちゃんとそろってしまう、つまりふだんから異分野のトップレベルの人材とのネットワークが自然発生的にできあがっているということ。社の内外を問いません。やって楽しい仕事は社内の人間だけで間に合うようなものばかりではありませんから。何か仕事をするたびにネットワークが広がり、パイプが太くなります。

 塵も積もれば山となるの譬え通り、16年間で5100タイトル、750万アクセスを越えました。
 お読みになってくださっている読者の皆様に心より感謝申し上げます。


養老牛温泉夜話(1) #780 Nov.1, 2009 [23. 養老牛温泉夜話]


*この記事は文字数は3096字です。最初にアップしてから1日で、編集と追記で300文字ほど増えています。


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#5134 "t"音の脱落・変化例② Dec. 23, 2023 [49.1 英語音読トレーニング]

 NHKラジオ講座大西泰斗先生の「英会話」から。

 12/19放送分のテキスト、「レッスン173」。
 I won't let you down again.
 脱落部分を[ ]でくくると次のようになっていました。
 I won'[t] le[t] you down again.
   アイ・ウォン・レ・ユー…


 12/20放送分のテキスト、「レッスン174」。
 I'm going to be a teacher no matter what it takes.

   この文の最後の節が次のように発音されていました。
 Whati[t] takes
   ワ・リ・テイクス

 taは「ラ」、tiは「リ」、tuは「ル」、teは「レ」、toは「ロ」となります。
 tが連続しているので、ひとつ脱落します。

 d音の脱落事例。レッスン174の文から。
 Beethoven an[d] Brahmus.
  andは速くなると、消失しますが、強調するときd音ははっきり発音されます。

 わかりにくかったのは、次の文です。
  I was planning on going , but it was hard to travel abroad at that time.

  この文の次の部分が...
 but it was hard to 
  バ・ウィル・ハード・ツー

 速くなるとbe動詞は音が脱落しますが、これは完全には脱落しておらず、変化していますが、何がどのように変化したのか途中の過程がわかりません。
 わかる方は教えてください。

 ―追伸―
 『リスニングのお医者さん』で調べてみました。
「子音が続く場合は、前の子音は聞こえない」p.52
 ⇒ What it takes

「tが母音に挟まれると「ラ行」に聞こえる」p.148
 better:ベラ―
 butter:バラ―
 cutter:カッラー
 cotton:コロン
 latter:ララー
 litter:リラ―
 letter:レラー
 matter:マラー
 kitty:キリ―
 pretty:プリリー
 pattern:パラン
 pity:ピリー

 音の変化や脱落のルールを知らなきゃ、リスニング力はなかなか上がりません。シャドーイングやオーバラッピングトレーニングをするのと並行して、『リスニングのお医者さん』のような本を使ったリエゾンや脱落のような音の変化に関するルールを知っておくことはシャドーイング力やリスニング力を強化するのに役立ちます

 小学生は口の形のトレーニングからしっかりやるのがおススメ。たとえば、wonderful。wの発音は口をとがらして前に突き出し、f音は上の歯を軽くした唇に当てて”ワンダーフォー”。日本語と英語は口の形が違います。RとLの発音も口の形と舌の位置を常に意識して発音していると、リスニングでしっかり聞き分けられます。これをいい加減にやると中高生になってからでは癖がついてしまっているので、なかなか治らないということになります。いま、小3から英語授業を導入していますが、すこし心配です。以前から、小学生で英語をやっている生徒たちの1/3くらいは英語嫌いになっていましたので。

<余談-1:音読トレーニング>
 NHKラジオ英会話でシャドーイング、オーバーラッピングをしています。シャドーイング10回目くらいからテキスト見ないでやれますから、オーバーラッピングに切り換え、息とリズム(強弱・緩急)がお手本とピタッと合う感触を楽しみます。同じやり方で30回は退屈であくびが出ますから、意識を集中させる事項をその都度切り換えたら、飽きずに30回やれます。たとえば、冠詞に集中して読む、前置詞に意識を集中して読む、リエゾンに意識を集中する、音の脱落部分に意識を集中するという風に、自分で工夫してみてください

 毎回30回で、数取器でカウントしています。ようやく960回ですから2か月たったことになります。今日、ラジオ英語講座の「タイムトライアル」を聞いてみたら、以前よりもちゃんと聞こえて、シャドーイングが楽になっていました。同じ文を体に沁みこむように繰り返すトレーニングが好いようです。きっと英語のリズムが身に染みてくるのでしょうね。
 カウントが5000回(480回/月なので11か月後)を超えたときに、耳と口と脳の反応がどうなっているのか楽しみですね。

<余談-2:英作文問題と解説集作成作業の進捗状況>
 ラジオ英会話1月号を英作文問題に改作して、入力が完了しました。1486回、A4判で1733ページ。
 明日は年賀状書きをしようと思っています。



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 今手持ちの本を見たら、音の脱落やリエゾン、変化は次の2冊の本の解説がよさそうですから、目を通してみます。
 『お医者さん』の方はリエゾンのルールを詳しく解説しているので便利ですね。長文トレーニング用の本もこの著者は同じシリーズで出しています。
 
英語リスニングのお医者さん 初診編

英語リスニングのお医者さん 初診編

  • 作者: 西蔭浩子
  • 出版社/メーカー: ジャパンタイムズ出版
  • 発売日: 2020/01/07
  • メディア: Kindle版
英語リスニングのお医者さん<長文編>

英語リスニングのお医者さん<長文編>

  • 作者: 西蔭 浩子
  • 出版社/メーカー: ジャパンタイムズ
  • 発売日: 2004/09/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




英語をモノにする7つの音読メソッド(CDなしバージョン)

英語をモノにする7つの音読メソッド(CDなしバージョン)

  • 作者: 川本佐奈恵
  • 出版社/メーカー: ベレ出版
  • 発売日: 2015/03/06
  • メディア: Kindle版
 これはライフワークです。「A2.マルクスと数学」というカテゴリーにまとめてあります。

#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023



 

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#5133 根高同期忘年会 in 有楽町 Dec. 21, 2023 [90.根高 こもごも]

  昨日12/20有楽町で午後4時から同期会があった。集まったのは18名、1967年(昭和42年)に卒業したのは350名だった。そのうち46名が故人である。今年はとくに多かった。根室商業以来続いていた総番長制度を廃止した、最後の総番長のヒロシが1月に亡くなっている。もともとは血の気の多いヤンシュウ(出稼ぎ漁師)の多い漁師町、地元のヤクザもいるし、そういう人たちと根室商業の生徒がいざこざを起こした時には、総番長の出番だった。だから、仁義が伝わっていた。「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さってありがとうさんにござんす。手前生国発しますところ、...」というやつだ。やくざ映画で見ているでしょう、腰を落として左手を後ろに回し、右手を前へ出して掌を見せての口上。わたしは5年先輩の野球部のキャプテンだったSMさんが目の前でやってくれたのを見ている。ヤクザともめごとが起きたときには、「向こうさんの流儀で挨拶しなくっちゃいけない、一言でも間違えたら、殺されたって文句は言えない」、そう語った。仁義の台詞を書いた小さく折りたたんだ紙ももらった。金刀比羅神社のお祭りには、SMさんが高下駄を履いて、その後ろを2mほど下がって目つきのキツイ十数人がついて回っていた。ヤクザもお祭りの宵宮には夜店の場所割で巡回していたから、なんだか危ない図だった。おっかない顔してたから、あの日だけは気軽に声を掛けられなかった。年に一度の伝統、いや伝説かな、デモンストレーションである。見たのは中2の時だった。
 ヒロシも野球部だったが、本人に確認したが伝わっていなかった。SMさんが時代に合わないので、後輩に伝えなかったのだと思う。5年先輩までは、「総番長を張る」のは、いざことが起きれば命懸け、覚悟のいる地位だったのだ。ただの不良の集まりとは違っていたが、2年先輩あたりからすっかり崩れてしまっていた。

 新聞部のケイジも亡くなった。あいつは声がでかくて愉しい奴だった。新聞部の部室は生徒会室に間借りしていたので高校時代の彼はよく知っている。輪転機が生徒会室に設置してあったので、新聞部と共用していた。ケイジはシステムハウスを起業した。技術を覚えれば若い社員は独立していく者が相次ぐ、派遣すれば派遣元がどれくらい支払っているかはすぐにその派遣社員に知れる。人の管理が案外たいへんなのだ。ストレスだったろうとAKが語っていた。亡くなる前に会社を整理していたようだ。
 システム開発仕事が多かったわたしにはその辺の事情がよくわかる。予算と決算情報を社員にオープンにして処遇を改善すればいいだけだが、それができる経営者は少ない。規模が50人を越えたら、個人企業から会社経営への切り替えが必要になる。それができたら、売上100億円の企業に育つ例が多い。1984年にSRLで経営統合システム開発を担当したときに、NCDさんのSEが3人パートナーになったが、1年後に仕事が終わると、Tさんが独立して池袋で起業した。シオリさんは結婚退職し、M山さんだけが残ったが、彼は間もなく取締役総務部長に就任した。1978年から6年間付き合ったオービックの芹沢SEは数年後に開発担当取締役になっていた。独立するか、残って取締役を目指すかは腕とコミュニケーション能力次第の業界なのである。

 10月末にムサシが突然亡くなった。具合が悪くなり、タクシーで病院へ行ってその日のうちに亡くなったと聞いた。ムサシは寂しがり屋で人っ子のいい奴だった。三人の副番の一人で、ヒロシと同じGクラスだからいいコンビだった。東京へ出てきた年に、ムサシから葉書が来た。「ホームシックだ、寂しい、会ってくれ」とあいつらしい文面。さっそく、高円寺のヒロシのところは集まって朝まで飲み歩いた。花咲港のJRの駅から、自宅まで自分の地所を通って家路につけるやつだと担任の冨岡先生が冗談交じりに話したことがあったが、本当だったようだ。牧場の跡取り息子で鷹揚な奴だった。もちろん、牧場は継がず、東京で亡くなった。

 そんなことが続いたので「根室高校第19期生忘年会。偲ぶ会」を開くことにしたのだ。今年あっておかないと、来年はまた誰かが逝ってしまうかもしれないと、多少の危機感も感じてのことだった。わたしは二十数年ぶりの参加だった。ほとんどが見知った顔だから懐かしかった。

 52歳の時に古里へ戻って、お仲人さんである根室印刷の創業者であり文学博士(専門は考古学)である北構保男先生のところへご挨拶に行った。根室商業高校同期の北構先生の親友・田塚源太郎先生(国後島出身の歯科医)の昔話や東京での生活に話が弾んだ。その際に、「同期の友人は皆逝ってしまった、昔話をできるのはもう君くらいしかいない、時々来て話し相手になってくれ」、そう仰った。先生は大正6年生まれだったので、そのときには84歳である。
 わたしたちの同期は団塊世代真っただ中、74歳と75歳が混じっている。十年後でも半数は生き延びているだろうから、ずいぶん長生きになったと言えるだろう。

 幹事さんのFGが急遽やれなくなり、KKがピンチヒッターになったよし。会場の手配は21歳の時に税理士試験に合格してそれ以来有楽町交通会館で事務所を開いているH勢である。だから、有楽町になった。
 会場に15分前に到着したら幹事さんのK.Kが目の前にいた。2人すでに来ていた。5分ほどたつと税理士のHが来て、30年ぶりくらいなのでわたしの向かいに座る。高校1年の時に同じクラスで仲の良い友人だった。高校生の時から優秀な奴で生徒会へ引っ張り込んで副会長をやってもらった。応援演説は先輩の副会長2人へわたしがお願いした。その内の一人HH先輩は札幌在住で岩見沢で税理士をしている。H勢は現在は弁護士と一緒に共同で法人を作って運営しており、25名ほどもスタッフがいるという。求人難だと言っていた。「お前ももう年だから、所長が10年は仕事を続けられないと思ったら新人が来るはずがないな」と応じると、後継者が欲しいのだという。
 穏やかな表情のH勢は営業が上手そうだ。税理士資格はもっていても営業がちゃんとできるやつは稀だ。いかにもやる気の人は、しかも若ければ警戒される。H勢は風格が備わってきたから、代わりを務められる人材を見つけるのは難しそうだ。どこだって中小企業は後継者を見つけること自体がたいへんな仕事ではある。H勢は終活に突入しているということだろう。首尾よく人が見つかると好い。

 サイトウタカオの弟子のタケシが、「このごろ身の回りで次々に亡くなっていく、団塊世代は競争が激しくてストレスが強かったので、早死にしているのではないか」と持論を語る。年代は異なるが、一回り年上だったサイトウタカオ氏も亡くなった。自身も小さな膀胱癌が見つかって経過観察中だ。同じ病気を患っている同期のMTとは住所が近いので同じ病院で検査を受けているという。

 斜(ハス)向かいに座っていたTTが誰かに問われて自分の職業を言った。半導体製造設備開発事業の企業に勤務していて設計をやっていたという。興味が湧いたので会社名を聞いたらアドバンティストだという。半導体製造装置では世界ナンバーワンの企業である。1984年に転職するときに選択肢が3社あり、その中のひとつがセミコンダクター製造企業のフェアチャイルド・ジャパンだった。経理課長職で850万円の年俸の提示があった。後はプレジデント社と臨床検査業のSRLだった。ファイルにある財務諸表をざっと眺めたら、SRLが高収益で成長性が高い企業であることが分かった。経営分析モデルと開発して6年間経営分析とデータに基づく経営改革をしていたから、数分眺めただけでどんな企業か判断がつく。給料は3社の中では低かったが、臨床検査業界では給料の高さもナンバーワン、そして新宿西口の超高層ビルであるNSビル22階だったので、SRLに決めた。
 向かい側の席の方で誰かが、「学校の先生風に見える」と発言した。大学と高校、考えたことはあった。経済学の研究を進展させるためにもフィールドワークが必要だった。そのためにその都度業種を変えて転職した。

 隣のボックスの左斜向かいはC組のIIだ。小学校の時の同級生で中規模ゼネコンで高速道路の建設に携わって、その後独立して今も現役、元気がいい。緑内障で右目がほとんど見えないという。車の運転は大丈夫だと言い切っていた。「おいおい、夕暮れ時、右側から飛び出してきたら、気がつくのが0.5秒遅れたら子供や若い人をはねる可能性が強い。反応速度が遅くなっているので、わたしは昨年引っ越して来るときに車は処分した。環境が変わればリスクは大きくなるから」、そう伝えた。首都圏だって郊外に住んでいたら車を手放せない事情もよくわかる。ましてや現役で現場を飛び回ることが多ければ、なおさら車は手離せない、ジレンマです。人にはそれぞれ事情というものがあるから、自分の意見を押し付けてはいけない。

 隣のボックスの二人目はAKだ。こいつはユニークな奴で、盛岡で手広く商売をしている。ブテックをいくつか持っていて、タイによく遊びに行くのでタイ式マッサージの学校ももっていたはず。真っ黒な顔をしているので、「タイでは日本人に間違われるだろう?」と訊くと、「よく間違われる」と愛想のよい返事、そう言った後で気がついて、大笑い。あいつはれっきとした日本人である。冬は寒いので半分くらい沖縄暮らしだそうで、相変わらず元気がよすぎ、声がでかい。でも、あいつがあいつらしいことがうれしい。8時過ぎの新幹線で盛岡へ帰るのだそうだ。AKは総番長だったヒロシと中学時代からの仲良しだった。ヒロシは今年1/10にリンパ腫と間質性肺炎で亡くなっている。1年ほども札幌の癌センターで入退院を繰り返していた。東京へ出ようとわたしを誘ったのはヒロシだった。札幌の白馬ビリヤードで少し時間を潰して、千歳空港からスカイメイトで一緒に羽田へ降り立った。スカイメイトというのは、全日空のヤング向けの半額料金である、1967年にたしか6500円だった。

 お店のスタッフが手際よく次々に料理を運んでくる。最初に仕事に慣れた感じの女性スタッフが、2時間飲み放題というシステムを説明したが、よく聞いていなかったのか、幹事のKKは時間は3時間だとみんなに説明している。
 有楽町で、いくら時間が早いからと言って5000円会費で3時間はあり得ないというのがわたしの判断。H勢と楽しく会話しながら、頭は採算計算の並列処理をし始めている。おやおや、これは仕事モードに脳が切り替わっていると気がついた。
 家賃は売上の20%が相場だから、お店は4000円、並んでいる料理の原価を考えると2500円くらいはかかっている。間接費を入れたらほとんど儲けなしだ。だから3時間はあり得ない。早い時間は仕入れ量を増やすために採算度外視で営業しているのではないだろうか?
 そうこうしているうちに、鍋物が食べ終わった後に投入する〆のご飯が運ばれてきた。右隣に座っていたシゲルが、中身を空けて、ご飯を入れた。5分ほどで食べごろになった。

 美術部長だったカツエは用事があるので途中で帰ると幹事から聞いていた。遠い席に女性陣4人が座っていたが、手を挙げて合図を送ってきた。帰るのでエレベータの前まで来てくれという。エレベータ前で椅子に座ってタバコを吸い始めた。タケシにライターないかと訊いたら、奴は電子タバコ(笑)。お店のスタッフに鍋物に使う長いライターを借りて火をつける。カツエはかわなかのぶひろ展 日常の実験・実験の映像』という100頁ほどの本をもってきていた。ご亭主の出版した本だから、渡したくて持ってきてくれたのだ。アングラ劇場関係のビジネスをして、渋谷にビルをもっていると噂で聞いていた。高校3年間ずっと同じクラスで仲の良い友人だった。漁師の娘で、遊びに行ったら、「お汁粉食べるか?」と聞くので、「食べる」というと、階下の台所へ降りて行って大きな鍋からどんぶりにお玉でよそってくれた。ふだんからあんなに食べるのかと驚いた。カツエは昔、大橋巨泉の番組に2回出演したことがあった。またそのうちに会おうということになった。

 隣のテーブルで、火が消えているので、火をつけ直して鍋物にご飯を投入しようとしている人がいたが、もう時間切れである。あと15分だった。そのときになって幹事さんが気がついた。やはり2時間である。
 さて、手つかずで残されたこの後入れのご飯等の具材はSDGsのかまびすしい昨今では、どうするのだろう。店長の判断次第である。自分が店長ならどう判断するのかと頭の中の別の自分が問いかける。

 お開きになった後、男8人でビックエコーで1.5時間2次会をした。AKと小学生の時の同級生の通称「あんちゃん」が、そしてタケシが歌った。誰かが歌い始める前に、K山はうるさいと一言、あいつは話がしたかったのだ。少し時間がたってから隣に来て喋っていた。三菱商事で仕事していたが50歳くらいで子会社勤務だったかな。団塊世代は競争が激しかったとタケシが言ったときに、青山学院大へ進学したK山は学生運動真っ盛りだったと言った。あの時代の大学生なら当然だと。K山とは、小学生の1~3年まで同じクラスだった。家も歩いて4分ほどの距離。高校生の時はA組で柏原先生が担任。「小中高と俺たちと一緒に「進学?」してきた先生は一人だけ」と言ったので、水晶島出身で、予科練に合格、土浦航空隊へ特攻兵として出発寸前に敗戦となり、釧路工業高校から日大へ進学しで先生になったと教えてあげた。予科練には優秀な若者が選抜されて集められいた。敗戦が数か月遅れたら、わたしの恩師の市倉宏祐教授が土浦でゼロ戦の操縦を教えていた可能性があった。社会科の教師として、そういう経歴が先生の発言や行動の背景にあったことを知ってた教え子は皆無だろう。
 タケシがわたしは古里へ戻って20年間学習塾をやっていたと紹介してくれた。同期の数人から評判を聞いていたらしい。KHが「紳士服製造の企業じゃなかったか?」と訊くので、「三年間いた」と返事した。やることがあり、業種を変えて7つの企業を転々としたことは内緒、どことなく謎めいた部分がある方がが面白い。

 公認会計士でドイツ銀行に勤務したことのあるO(中大へ進学)がべ平連でやっていたと昔を懐かしむ。私の所属していた市倉宏祐ゼミからは大学処分者が(一学年上に)一人出た。同期のゼミ員の一人Sは赤軍派の分派の「さらぎ派」だった。敵対する派に捕まることを恐れて、朝早く学校へ来て、昼からのゼミに参加していた。帰りは3人ほどで「護衛」してやった。激動の時代だったな。
 一人台40代の奥さんのいる旧知の同期がいる。中1の女の子がいて、スマホの写真をタケシに見せていた。現役で頑張っている。すこぶる健康そうで、また一人できる可能性があるんじゃないかと冷やかされていた。

 ビッグエコーは最後に上場準備の仕事をした外食産業(東和フーズ)の本社が銀座にあり、いま同期と入ったこの店舗は、退職時の送別会の2次会で使ったカラオケ店だった。外に出た瞬間にあの日のメンバー数人の顔が記憶によみがえった。2002年の夏だった。

 MTとタケシとわたしは新宿までは一緒なので、有楽町駅から山手線外回りに乗った。タケシは向かいの席で真っ赤な顔をして居眠り、わたしはMTと話し込んでいた。一番前の方から出たので、新宿駅は中央改札口ではないところへ出た。京王線の改札口を通り過ぎて、MTは各駅停車ホームへわたしは特急電車ホームへと別れた。
 タケシは代々木駅で降りた。仕事場は代々木駅で降りても歩いてそんなにかからない。

*#4343 Take a chance on you「神田たけ志」50周年劇画展:9/17~22 Aug. 19, 2020



<余談:起業した元同僚の会社の整理、1993年>

 SRLの同時期入社の加藤は、同大安田講堂事件があった年の受験組だった。入試が中止になったので、家庭の事情で浪人はできなかったのでやむなく中大法学部へ入学したと言っていた。あの事件がなければ自分は東大法学部卒だったと、2人だけで新宿で酒を飲んだ時にぼやくことがあった。気持ちはわからんでもない。
 1983年12月にSRLへ転職し、2か月後のわたしと上場準備要員としては入社時期が一番近かった。リクルート社の斡旋でSRLへ入社したところは一緒。八王子ラボで中途社員講習を一緒に受けたときに、あいつSPIテストの結果を見せろと言い出して利かない。ダメだというと、自分のSPIテストの偏差値を見せてくれた。68だった。「ずいぶん高いな」と言ったら、自分のを見せたのだからebisuさんのも見せろと言ってきかない。五月蠅(うるさ)いので、見せた。72だった。それ以来、あいつはすっかり弟分の気分でわたしに接してきた。高学歴は偏差値に弱いのだ。難関大卒と院卒でもトップレベルは学力ががまるで違う、仕事をやらせて見たらすぐに知れる。(笑)
  高校時代から、会計学、経済学、哲学の専門書を問題意識をもって読み、好奇心に駆り立てられて思考し続けたら、大学を卒業するころには知識や思考力に大きな差がついてしまう。生徒会会計を担当し、全部のクラブの部長と副部長をそれぞれ生徒会室へ呼んで公平な予算査定をし、帳簿記帳と決算業務を2年間したのもすばらしい経験になった。丸刈り坊主頭の校則改正の経験も人を巻き込むやり方をそこから学び取ってしまっていた。産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事では同時に社運のかかった5つのプロジェクトを同時に担い、予算編成や予算管理、資金管理を入社早々から担当している。経験智も当然ついてしまうし、場数も踏んでいるから仕事がおおきくても悠然とこなせる。予算編成や予算管理は根室高校時代の経験で、どんな企業規模でも同じことだった。必要にして十分な経験を積んでしまっていた。
 加藤は1991年頃に厚生省の補助金を利用して、企業の社員の健康増進プログラムを開発して独立起業した。大手企業の健康政策のアドバイザーのような仕事だった。1年間は空振り、苦労していたが、心境に変化が出てから事業が軌道に乗り出した。経営コンサルタント仕事の相談が舞い込むようになって、そちらの仕事の専門家であるわたしへ仕事を手伝ってほしいと依頼が来たので、1件だけ900万円の仕事を手伝った。取締役の名刺を用意してくれて、対象の企業を訪問し、決算書類について周辺情報をいくつかリアリングさせてもらい、1978年に開発した25ゲージ、5ディメンションの経営分析モデルに入力し、25ゲージのレーダーチャートをEXCELで作って、どこをどのように改善すればいいのか、一日で調査レポートと提案書を書き終えて、数日後にその企業に説明に行った。仕事が無事終わって、取締役への就任を頼まれたので、土曜日だけで十分こなせるので、人事部へ届けたら、ノーの返事だった。年収がアルバイトの方がずっと多くなる。10件こなせば1~2億の売上になるから、4000~8000万円くらいの年収にはなる。
 SRL人事部が奨めていたはずの兼業にノーの返事、ちょっと驚いた。加藤にその旨伝えたら、副社長のポストを用意すると提案があった。臨床検査業界ナンバーワン企業のSRLでやりたい仕事がたくさんあったので、いまはやめるつもりはないと返事した。そうしたら、奥さんと話をして、社長で来てくれないかと打診があった。奥さんは東大理Ⅲの才女で、某海外有名ブランドの化粧品の開発部長をしていた。せっかくの申し出ではあるけれど、相談には乗れるがダメだと電話で断った。その2か月ぐらい後で、あいつは会社を4~5人の社員へ営業譲渡して整理した。

 健康増進プログラムを事業化したあいつは、客先が増えると、経営コンサルタント仕事を相談されるようになった。そちらの方がずっと市場が大きいのだ。最初のテストケースの仕事を、「わたしにはできないが、ebisuさんならできるはず」と振ってきたので引き受けたのである。数回やって見せたら、頭がよければやれるかもしれない。わたしは産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事(後にセキテクノトロンと社名変更)でさまざまな仕事の傍ら、経営改革のための経営分析を6年間やっていた。当時はこの分野では日本で最先端のスキルをもっていた。
 経営コンサル仕事を受けて、その後の3年間の決算書類を提出してもらい、伸びた経常利益の3割を成功報酬として手数料にもらえば面白いビジネスだった。生産性を上げて数億円利益が増えたら、業績をモニターしているだけで、会社は安定して十分なお金を稼げる。支払う方も楽だ。高収益企業に変われば、経常利益の3割の支払いは借金しないで可能になる。そんなビジネスモデルを考えたが、簡単すぎてつまらない。遊びも仕事も一緒、リスクを伴うものでなければ楽しめない。
  でも楽して過ごすのもありだったかも。経営改革をコンサルしたら、次のターゲットは株式上場だ。4回経験があるので、面白い事業ではある。成功報酬で上場前の株式を割り当ててもらえば、成功報酬だから、コンサルを依頼する側の負担はナシだ。株式上場を手伝うのは通常は証券会社だが、彼らは手続きができるだけで、その前処理、上場要件を満たす高収益企業、高成長企業へと普通の会社を変貌させるスキルはない。いわば株式上場の前処理段階の作業である。10人くらいの規模で数年で売上高を5億円確保できたら、社員一人当たり2000万円程度の給料は支払える。ユニークな企業が誕生したかもしれない。
 事情は変わらないから、いまからだってそういう企業が生まれても自然だろう。やりたい若い人がいたら、ノウハウ全部伝授してあげる。この分野の事業に情熱をもった人でないといけません。(笑)

 断って1か月ぐらいのこと、1993年の3月頃だったかな。電話があり、あいつの声がかすれていたので、何だか嫌な予感がした。「熱はないか?」と訊いたら、「このところ微熱がある」と返事。「大きな病院で検査してもらえ、癌の疑いがある、進行性の癌だったら若いから、そんなにもたない」と告げてしまった。あいつは横浜済生会病院で検査を受けて、胸部に癌が発見された。末期だった、声がかすれていたのは腫瘍が肺と気管支を圧迫していたからだった。
 私はそのころ、金沢の臨床検査センターの決算分析と買収交渉と買収後の立て直し、並行して東北の臨床検査センターとの資本提携話を取りまとめ、東北の会社の方を選んで経営企画室担当取締役で出向が決まったところだった。入院治療を勧められたが、助からないから自宅療養したほうがいいとのわたしのススメ通りに、医師を説得して済生会病院では初めての末期癌患者の自宅療養、通院による治療が始まった。

 夏になってあいつから暑中見舞いが来た。「余命3か月」と書いてあった。慌てて、横浜のあいつの高層マンションを訪れ、見舞った。抗癌剤と放射線治療で髪が抜け、夏なのにエアコンで頭が涼しいと毛糸の帽子をかぶっていた。将棋を所望され、3番指した。奥さんが帰宅するまで帰らないでくれと頼まれ、時々疲れて、15分くらい横になりに寝室へいっては、しばらくするとまた戻ってきて、昔話と将棋をせがむ。7時過ぎに奥さんが帰宅して、挨拶をして別れた。
 そんなふうで、2度横浜を訪れた。1993年9月に2年前に手術した大腸癌が全身転移してオヤジが亡くなり、49日の法要の前日だったかな、奥さんから電話があり、加藤の死を知った。「もうダメそうだと朝言って、肩につかまりタクシーで病院へ、そのまま入院、モルヒネを打ってもらっい3日後に眠るように亡くなった」とのこと。オヤジの法要を済ませて、すぐに横浜を訪れ、線香をあげた。いいやつだったな。
 起業して、一緒にやらないかと言われたのは、加藤が2人目だった。関商事のときも、有力な取引先が日本法人を作るというので、遠藤さんに打診があり、彼はわたしを誘った。売上の3割近くを失い、優秀な社員が引き抜かれたら、関商事が傾く、受けられない相談だったから、この時も断った。
 加藤は2歳年下、兎年生まれ43歳だった。
 ケイジが起業したシステム会社を整理してから亡くなったと聞いて、ずいぶん昔になるが営業権を4~5人の社員へ譲渡して亡くなった加藤のことを思い出した。違いは、営業譲渡したときに、加藤はまだ自分が癌に罹患していることすら知らなかったということ。たまたま、3度わたしが経営に参画するのを断ったので、会社の整理をしたことにある。まるで寿命を知って事前にやったかのように見える、偶然というのは怖いものだ。



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#5132 公理を変えて資本論を書き直す⑥:生産性アップと労働価値説 Dec. 20, 2023 [A2. マルクスと数学]

 前回の生産性アップのシミュレーションの続編です。

産業用・軍事用エレクトロニクス輸入専門商社の生産性を1.5倍にアップしたポイントは
●為替変動に応じて3か月に一度更新される円定価制度・システム導入
●受注残・納期管理システム開発・導入
●売上の平均化による月変動幅の縮小のもたらした効果
●人:東京営業所長遠藤課長の重要な役割
●利益重点営業委員会と電算化推進委員会、そして収益見通し分析委員会、為替対策委員会、長期経営計画委員会、資金投資委員会の連携

  遠藤さんの自分の配下の営業マンの仕事観察:
 営業マンは時間の半分以上を見積書作成や納期問い合わせの英文レター作成に使っています。そこで、
 目標:事務作業時間を10%に短縮

 そのためには何が必要か?

 仮説・検証作業と戦略思考が重要なのです。
 仮に営業マンが社員150人中100人とすると、50%を事務作業に使っていれば、50人分です。それを90%営業活動につぎ込めたら、「100人×90%=90人」となるので、「90/50人=1.8倍、一人当たりの売上高が変わらないとしたら、売上高はいままでの1.8倍ですから、実質的に営業マンを1.8倍に増やしたのと同じ効果が出せます。もちろん、スループット(処理量)が増えれば、それを処理するバックヤードの人員を増やさなくてはならないので、そちらの生産性もシステム化で向上させます。
 案外単純なことなのです。問題はこの目標を達成する戦略です。
 3か月ごとに定価表をコンピュータでプリントアウトすれば、見積書は営業事務の女性社員が独力で作成できます。
 問題は決算月の処理でした。通常の2倍を処理しなければならないので、決算月に受注済みの製品が入荷できるかどうかの確認に追われて、営業マンは営業活動ができなくなります。受注が決算月の前月から激減します。決算月の翌月は気が抜けたようになっているので、そこも受注が通常月に比べて60%くらいしかありません。そうすると受注が減少して売上がいつもの月より増えるので、受注残が激減します。受注残がどうなっているかを把握するのに、また営業マンに負荷がかかります。データをもっているのは業務課員と営業マンです。両方から情報が出てくると整理に時間がかかるだけでなく、精度に影響します。これが難題でした。
 それで、受注実績を管理するためにシステム開発をします。
 受注⇒納品⇒仕入⇒売上⇒仕入のドル決済
 納品と仕入は同時ですがモノの処理(納品・検収作業)と会計処理(仕入)は別です。
 仕事を課題別に整理すると、
 受注管理⇒収益見通し分析委員会&利益重点営業委員会
 納品⇒納期確認は業務課の仕事:電算化推進委員会
 仕入⇒仕入処理の電算化:電算化推進委員会
 売上⇒電算化推進委員会
 外貨決済⇒為替対策委員会

 これら処理のすべてを、「受注残管理・仕入処理・外貨決済」システムを開発して解決することになりました。利益重点営業委員会以外は、実務担当は私一人ですから、実務を調査しそれぞれの分野の専門書を2冊以上ずつ読み込んで、新しい実務設計をしながら外部設計書を作成していきました。
 外貨決済は平均納期で6か月、受注生産の納期の長いものは12か月を超します。だから、100%正確にその時の情報を入力しても、実際の納期とずいぶん離れますので、別途計算して、経理課長に為替予約をしてもらって、為替相場の変動の影響を消していました。外貨決済の90%前後が為替予約できるようになり、経理課長のNさんは喜んでいました。運転資金が売上の1か月を切っており、外貨決済の資金繰りたいへんでしたので。
 このシステムが三菱電機製の2台目のオフコンで円定価表システムと同時に動き出し、受注残レポートが毎月プリントアウトされるようになると、受注残からこれまでよりも精度の高い売上推計もコンピュータ処理されて出力できるようになりました。それで、10月に通常月の2倍の処理量をこなす必要がなくなりました。決算月も通常通りの営業活動ができるようになりました。
 英文レターは営業マンと業務課員から、「何が言いたいのかよくわからない」と海外メーカーからクレームがよくあったので、LAに別会社を作って、そこを経由してやり取りするようにしました。これは社長の関周さんのアイデアです。ハーバードビジネススクール出の女性が社長に就任していました。仕事のできる人で、とってもわかりやすい英文で、速いものでは返事が翌日には届くようになっていました。1978~1983年ですから、当時はインターネットは使えず、テレックスでした。
 この会社の生産性は50%アップしました。長期計画委員会で、予算オーバーの成果がでたら、1/3は社員のボーナスへ配分する案をオーナー社長に飲んでもらっていましたので、ボーナスが増えただけでなく、円安の時でも安定して出せるようになったので、「家のローンが組める」と喜ぶ社員がいました。
 高収益企業となって、内部留保がどんどん厚くなり、自己資本比率が急激に上がったので、資金繰りはとっても楽になり、あの当時10億円の外装がレンガ様の立派なビルが売りに出て、買おうかと社内で協議したくらい財務安定性もしっかりしてました。
 この間の変化を経済学的に眺めると、生産性を1.5倍に、ボーナスは年間100200万円ほど増やしています。労働強度は大きくなるどころか、軽減されています。
 受注残の確認は、ふだんシステムに入力されたデータを納入確認月ごとにプログラムで整理した出力するだけですから、営業と業務課でやっていた集計作業がなくなりました。ゼロになったのです。ゼロになったら、マルクスが生産性向上について主張しているように、労働強度が大きくなったかというと逆です。作業はゼロになったものが多いのですからね。
 仕入処理も電算化しましたから、その部分(検収・仕入処理作業)は業務課員の仕事は入力だけの単純作業になりました。ここでもコンピュータシステムを開発することで仕事が軽減できたということ。外貨決済予定も確定した値が月別に出力されていました。納期が到来していないものも月別に納入予定が出力できるので、受注残から外貨決済額全体は計算できるので、それをベースに季節変動を入れて外貨決済予約をしてました。

 生産性の向上は労働強度の強化によってなされるというのがマルクスのように労働価値説の立場ですが、実際に1.5倍の生産性アップはさまざまな労働をゼロにし、いままできつかった仕事を平準化したり単純化することで精度を向上させつつ、軽減することが多いことがわかります。生産性向上をよく観察すれば誰にでも労働価値説が破綻していることが理解できます。生産性向上は労働強化を伴なわないのです、逆です、軽減もしくはゼロにします。

 労働価値説の立場に立てば、生産性向上は労働強度の拡大ということになるので、ソ連や中国(20年前まで)は経済成長(=生産性向上)が遅れました。マルクス資本論は虚構の労働価値説に基づき、『資本論第一巻』で理論的に破綻した経済理論でした。
「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」の新しい経済社会をデザインするためには、労働価値説に基づかない経済理論が必要なのです

 結果として眺めると、遠藤さんという優れた営業マン、東京営業所長の存在が大きかった。TDK50億円もの設備投資の受注をしたことのある伝説の営業マンでした。10年間毎年5億円ずつ。小さい受注を嫌がらずに、コツコツこなして、大きいプロジェクトの匂いを嗅ぎつける。京セラの黎明期に創業である稲森和夫の薫陶を直接受けた人でした。遠藤さんを見て、京セラの稲森和夫、ただものではないと思いましたね。彼と初めて話をしたのは1978年のことです。為替業務では業務課長のY田さんという女性が協力してくれました。
 毎月開催される海外メーカー50社の新製品説明会にはもれなく出席してましたので、すぐに技術営業と技術部に友人がたくさんできました。それぞれ遠藤課長と技術部中臣課長が引き回してくれたからです。
 世界最先端のマイクロ波計測器や時間周波数標準機、質量分析器、液体シンチレーションカウンター、電子線シミュレータなど、男の子にとっては興味津々の数々ですが、それを開発に携わったエンジニアから直接説明が利けるのですから、これを逃してはならない、そう思いました。6年間最低毎月1回は開催されていました。他に東北大の助教授が勉強会の講師としてきていました。技術営業の連中と一緒に毎月マイクロ波計測器の測定原理を教えてもらい、講習会の後は一緒に飲み会へ流れるということになってましたね。マイクロ波計測器はディテクターと制御用とデータ処理コンピュータとインターフェイスから構成されています。案外単純なのです。コンピュータ部分の処理は聞いていてよくわかりました。大学卒業してから、理系分野でこんなに勉強の機会に恵まれるなんて、なんて幸せなのでしょう。知らぬ間に門前の小僧は勉強になりました。刺激的で楽しかった。


#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023 




 


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#5131 ”t”音の脱落例 Dec. 19, 2023 [49.1 英語音読トレーニング]

 今日のラジオ英会話30回音読トレーニングから...

 I won't let you down again.(二度と君をがっかりさせない)

 この文が次のように発音されていました。
 I wan['t] le[t] you down again.
    ウォン・レ・ユー

 The Chrismas tree turned out great, didn't it?
 付加疑問の部分がt音が脱落して、
 didn['t] it ⇒ did/nit 
         ディドニッツ

  ところで、テキストを「週に4日×30回」音読して、累計で1000回を超えました。2か月ちょっとですが、シャドーイングが毎回15回目くらいから、息をピッタリ合わせてやれるようになってきました。チャンクごとに英語のままで意味が入ってくる頻度が増えました。1年間やると5000回を超えるので、どんなふうに耳と言語処理脳が変化するのか楽しみです。
 受験生対象に4年前から作り始めた、ラジオ英会話テキストを利用した英作文問題はA4判で1700ページ、16000問題を超えています。塾は昨年9月でやめたのですが、英作文問題とその解説の作成作業と、emailでの十数人の人たちへの配信はまだ続いています。最近は、チャンクごとにタイピングするのが癖になっているので、タイピング自身が音読や英作文トレーニングに変化してきたようです。音読トレーニングと英作文問題作成は相乗効果があるようです。

 英語はジャパンタイムズを社会人になってから通算十数年読んでいたのと院生時代に数冊の専門書を英語版で読んだことがベースかな。読むことだけ、偏った英語の学習を続けていましたね。
 社会人になってからは会計情報システムやシステム開発関係の最先端の専門書の翻訳書が出版されないので、仕方なしに原書で読んでました。産業用エレクトロニクス輸入商社へ1978年に入社して仕事の関係からシステム開発関係の専門書を読むことが多くなしました。1984年に2月にSRLへ転職すると会計情報システム開発を担当したので会計情報システムに関する800ページほどの専門書を読みながらやりました。それまで6年間の経験では足りないものがあったからです。だから、システム開発関係の本は原書で読むことが多かった。最先端で仕事していると英語で書かれた最新の本を読まないと間に合わないのです。経営統合システムは8か月で本稼働させたのでその後は医学分野の本へ手を伸ばしていきました。
 経済学の本は専門家ですから、周辺知識があるのと読み慣れているのであまり辞書のお世話にならずに読めます。16年間臨床検査の企業で仕事していたので、仕事で必要に応じて科学雑誌や医学関係の専門誌が図書室に二十数種類あったので、仕事の時間中に読んでいました。
 部署異動の都度、引き継いだ仕事はシステム化したり標準化するので、数分の一になり、暇な時間がたくさんできました。だから、仕事時間中に専門書を読む機会が多かったのです。そういう点では産業用エレクトロニクスの輸入商社も臨床検査センターのSRLもいい会社でした。SRLでは、学術開発本部で仕事していた1990年前後の2年弱は、海外製薬メーカからの八王子ラボ見学対応も担当させてくれたので、英語に接する機会が多かった。製薬メーカーとの検査試薬の共同開発という開発部の仕事も塩野義の膵癌マーカーと日本DPC社のⅣ型コラーゲン検査薬を担当したので、産先端の医学雑誌を読む必要がありました。仕事って知的好奇心を満足させる幸せを運んできてくれます。

 仕事では専門書を読むだけでよかったから、英会話はできないのです。これは別のトレーニングが必要です。英会話用の語彙とフレーズを使えるレベルまでもっていくのは、それはそれでたいへんですね。いまある事情があって、やる必要を感じているので、2か月ちょっと前から、「30回音読トレーニング」を始めました。
 観察と記録はとっても大事です、自分自身に起きる変化を気がついた都度ブログにアップしてみます。

<余談:30回音読トレーニング>
 30回音読はハンドルネーム「元・後志のおじさん」が投稿欄で教えてくれたメソッドです。ヒロスケさんも同様のメソッドをもっていますね。お二人とも英語の達人です。

#5113 公理を変えて『資本論』を演繹体系として書き直すことは可能か? Nov. 13,2023



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#5130 めずらしいwayの用法:it's way too small. Dec. 15, 2023 [49.1 英語音読トレーニング]

 NHKラジオ英会話放送(大西泰斗先生)を聞いていたら、wayの珍しい用法がでてきました。12/12の放送分です。


That's good. I like to cook sometimes. My only issue is this closet. It's way too small.
 (それはいいね。僕は時々料理したいから。一つだけ問題なのはこのクローゼットだ。あまりにも小さすぎるよ)

 wayが「道・方法」ではないことは、前段の話題からすぐにわかりますね。クローゼットの話だから、「小さすぎる」といっているだけ。too smallはwayの説明語句ではないということ。これは「指定ルール:指定は前に置く」ですから、too smallという形容詞句を指定するのは副詞しかありません。それで、辞書を引くとway2というのがありました。「副詞:はるか、ずっと、ずいぶん」(『スーパーアンカー』)。

 高校1年生のみなさん、辞書を引くときは、品詞に見当をつけてから引く癖をつけましょう。2年生や3年生にはあたりまえのことですからね。

 12/14の放送テキストにも興味深い文が載っています。
Cynthia, did you look at the hits chart today?
 (シンシア、今日のヒットチャート見たかい?)
No, I've been busy with other things. What about it?
 (いいえ、あたし忙しかったの。それがどうかしたの?)

 大谷先生はこの "What about ~ ?"は「相手に説明を求める表現です」と説明していました。「~がどうしたのですか?」という意味です。
 その通りですが、では"How about ~ ?"とはどう使い分けるのでしょう?
 お誘いや示唆の場合が"How about ~ ?"の受け持ちです。


 英英辞典を見比べてみます。
how/what about…??
1 used when asking for information about sb/sth or for sb’s opinion or wish
How about Ruth? Have you heard from her lately?
I’m going to have chicken. What about you?
(わたしは地金にするつもりだけど、あなたは何にするの?)
2 used when making a suggestion
What about going to a film tonight?
(今夜映画をみにいくのはどう?)
Oxford Wordpower Dictionary [コピーライト] Oxford University Press 2012

How/What about?
used when suggesting or offering something to someone
How about a trip to the zoo this afternoon?
    (午後、動物園へ行かない?)
"Coffee, Sarah?" "No, thanks." "What about you, Kate?"?
 CALDより引用

 オックスフォードの例文には示唆・お誘いにwhatの方を挙げています。これを"How about going to a film this night?"と書いてもOKですね。でもニュアンスは違います。
 CALDは"How about ~ ?"の例文は明らかにお誘いですね。"What about ~ ?"の方は「サラ、珈琲は?いらないわ。ケイト、あなたは何にする?」と水なのかお茶なのかお酒なのかわかりませんが、「何か」に重点を置いています。相手の意見を尋ねる感じが出ています。ここでHowを使うと、(わたしは珈琲を飲むけど)あなたも飲まない?」というお誘いの感じが強く出ます。そういうことなのでしょうね、ニュアンスが違ってくる。
 だけど、そんなことを考えていたら、会話できませんね。(笑)
 意識せずにとっさに口を突いて出てくるようにトレーニングしなきゃいけません。それには実際に会話するのが一番手っ取り早いのかもしれません。

 日本語での解説サイトを二つ見つけましたので紹介します。
①「3分で簡単にわかる!「what about」と「how about」の違いとは?意味や使い分けを英会話講師がわかりやすく解説!

How about と What about の違いは何? 使い分けのポイントを解説!


 受験英語で割り切るなら①でも結構ですが、英英辞典2冊の説明とも比較検討した結果、②の方に軍配を上げたいと思います。

 さて、この話の要点は本文中のアンダーラインのところです。whatが出てきたら類似表現のHowとどのように使い分けるのかという疑問が出るか出ないかは、社会人や研究者になったときには、致命的な差になります。一番大事なのは問題を発見することなのです。そういうトレーニングを小中高生のうちにどれだけしましたか?
 教育の最重要部分のひとつは、物事に触れて疑問が出るか出ないかということ。好奇心がなければ、疑問が出ずに素通りです。疑問が出たら、「なぜだろう」と自分の頭、自分のもっている情報で考えてみることです。そのあとにネットで検索した見たらいい。
 こういう小さな疑問が常に湧き、なぜかと考えることを繰り返すと、それが習慣になります。習慣はいつしか性格の一部を形成することになります。そういうふうにしてよく働く頭脳が創られていきます。


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#5129 高校同期会で有楽町へ Dec. 14, 2023 [90.根高 こもごも]

 昨日12/13、同期会が有楽町であるので出かけた。昨年11月下旬に極東の町から東京へ戻ってきてからは、半径3㎞以内で暮らしていたので、都心へは出かけたことがなかった。だから、不安だった。
 新宿までの長いこと、永遠につかないかと思ったがそんな私の心情を特急電車がくみとってくれるはずもなし、ようやく電車は新宿駅へ到着。滅多に来ることがないので地下街を5分ほど偵察、21年前とはまるで様子が変わっていた。SRLへ転職した理由の一つが、西口駅前の「超高層ビル」のNSビル22階に本社があったからだった。せっかく東京で仕事するのだから、一度は超高層ビルで仕事したかった。1984年2月、念願がかなったわけだ。本社勤務は2年間だけだった。そのあと1~3年でさまざまな部署(購買課⇒学術開発本部⇒関係概査管理部⇒東北の関係会社へ出向⇒本社経理部管理会計課・社長室・購買部兼務⇒SRL東京ラボ出向⇒帝人との合弁会社出向)を異動して歩いた。普通の会社からは考えられない、会社都合で「支離滅裂な異動」が続いた、半分くらいは自分のせいでもあるのだが…。

 そんな感慨に浸りながら、どういう経路で行けばいいのか考えるのも面倒なので、山手線で渋谷・品川回り(内回り)で行くことに決めた。電車は込み合っていた。有楽町で降りたら、駅構内がまるっきり違っていた。中央口から京橋口までなが~い通路ができている。中央西口から出たら、ここはどこ?って感じで、パニックに陥る。
 18歳で東京に出てきたときにも感じたことがなかった街との違和感、違和感というよりももう異次元の世界だ。2002年の春まで2年間銀座五丁目スズラン通りのとある会社の本社ビルで上場準備の仕事をしていたのが嘘のような「お上りさん」状態なのだ。
 会場のこじゃれた居酒屋までどうやっていったらよいのか茫然自失、面倒なので「0101」の新しいビルの前からヒロコへ電話を入れた。
「駅前の丸井のビルの正面玄関にいるんだけど、迎えに来てくれない?」
「え!20日だよ」
 (笑)聞き違えたのだろう、有楽町界隈、銀座をぶらぶらする気力なしで、戻ってきた。有楽町駅から日比谷への通りが、電飾できれいだったのが思い出された。

 帰路、スマホをチェックすると知らない固定電話から何度も着信があったが無視していた。原則出ないことにしている。夜8時過ぎにまたかかってきたので電話に出たら、
「トシ、久しぶり」
 タケシから電話だった。仕事場から用事があって電話を何度もかけたが出ないと叱られた。(笑)

 タケシも同級生で数年前に古里で、劇画家となってから五十周年記念展を開いた。
 タケシの要件は調べて明日返事するからと伝えて電話を切ると、今度はヒロコからだった。
 ケンキチの方から日時と場所の案内をメールで送るように手配したという。

 1967年だったかな、ケンキチが学生運動で反対セクトに捕まったという情報が流れて、喫茶店に缶詰めになっているので、様子を見に行ってくれと頼まれたことがあった。セクトには関係したくなかったが、友達の一人だから、しかたなくいったらすでにいなかった。後で無事に戻ってきたようだ。あの場にいたらちょっとやばいことになっただろう。助け出すのを黙って見ているはずがないからだ。素手で1~2人戦闘不能にすれば、ひるんでスキが出るだろうと修羅場を覚悟して「偵察」にいった。角材を拳で受けても骨折しないくらい小学生の時に鍛えてあった。ただ殴れば場所によっては危険すぎるので場所を選ばなくてはいけないが、動くからちゃんを思ったところに拳を叩き込めるか心配だった。二十歳前に殺人犯にはなりたくなかった。
 ケンキチはカナメと同じ郡部出身だったから、カナメを通じて知った。カナメは優秀な奴で、短大卒業した年に税理士試験に合格して、それ以来有楽町で税理士事務所を構えている。若いのに一等地で勝負しようとは見上げた根性だ。1年生の時に同じF組だった。今回の同期会の会場設定はカナメの仕事だ。

 丸刈り坊主頭の校則改正をやった後で、生徒会の先輩の副会長FさんとHさんの二人に「俺たちが応援演説やるから会長に立候補しろ」と「指示」があった。ノーは言えないので生徒会顧問へその旨申し出たら、校長からストップ。生徒会会計なのでダメだという。何をやりだすかわからない危険人物視されてました。警察の公安からも目をつけられていました。
 昔の生徒会会計は生徒会の帳簿をつけて決算業務をしていました。だから先輩の生徒会会計から後輩へ指名制で決められていました。各部への予算の割り振りも生徒会会計が個別に各部の部長と副部長を生徒会室に呼んで、順に査定を申し渡しました。だから、権限は絶大、簡単には変えられないのです。でも、両方だってやれるし、後輩のH田に任せてバックアップすればいいだけ。生徒会顧問が困った顔をしたので、裏の事情を察して先輩二人に話して立候補は取りやめたのです。その代わりに優秀な友人がいるので副会長に立候補させるから、応援演説をしてもらえるか訊いたら、OKでした。それでカナメを説得した。ヒロコは中央執行委員、同級生のカズコも中央執行委員に立候補した。そして中学校の時に一人で褌を占めて鉄炮をしていたオサムが会長に立候補した。当時は私立高校が1校あり、その生徒会とも交流をもったし、部活も女子バレー部で親善試合を組んだ。やりたいことはいつだってやれるものだ。やれないいいわけなんかしてないでどんどん始めたらいい。古いことを壊したり、新しいことを始めると危険視されるのはいつの時代でもあることです。
 一緒に歩いてくれた、いい仲間たちだった。

 一度「予行演習」したので、今度は不安な気持ちなんてない、迷わず会場へ足が運べるだろう。ケンキチから今日か明日にもメールが入る、楽しみだ。

 今年は同級生が二人亡くなった。一緒に東京へ出てきたヒロシとムサシだ。ヒロシは根室商業以来続いた総番制度の最後の総番長だった。ムサシは副番長3人のうちの一人だった。一番早く死にそうになったわたしが生き残り、元気だった二人がそれぞれ病気と闘って逝ってしまった。東京へ出てきたころ、ヒロシのところへ行って何度か朝まで飲んだ。
 タケシの用件は先ほど電話で済ませた。

 70歳を過ぎると、癌を患う人が増える。2006年にステージ3.5?だったわたしもいつ逝っても不思議ではない。速度のわからない列車に乗っているうえに、終着駅がどのあたりかもわからぬ、ただ、車窓から旅を楽しむのみ。

 一休さんのこの短歌に痺れる...
 門松や 冥土の旅の 一里塚
  雨降らば降れ 風吹かば吹け


 20日の同期会で会うのが今生の別れとなる人もいるかもしれない、楽しく飲みたい。
 他人ごとと思ってお気楽に書いてはいるが、自分事かもしれません(笑)

<余談:スマホの道案内機能>
 その後使っているihoneで道案内機能を試してみた。ihoneオリジナルのアプリよりもGoogleMapsの方が使い勝手がよいことが分かった。これは「お上りさん状態」のわたしには便利がいい。来週はこの機能を使って会場まで行ってみたい。楽しみが一つ増えました。


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#5128 公理を変えて資本論を書き直す⑤:生産性シミュレーション Dec. 11, 2023 [A2. マルクスと数学]

企業経営に及ぼす生産性の影響を数字で確認するのが今回の目的です。投下労働量が同じでも生産性が1.5倍になれば、商品の価値(=売上)も1.5倍になります。つまり生産性というファクターを導入したら、労働価値説は成り立たないということ。こんな当たり前のことが『資本論第1巻』(1867年)以後、議論されたことがありません。マルクス自身は生産性向上を労働強度の強化で説明しますが、それは現実とは矛盾します。生産性向上は労働の軽減や短縮、作業の単純化を伴なうケースが多いのです。SRLでは最初の大きな生産性アップはRI部の分注作業の自動化(1983~87年)でした。小さなメーカーと共同で自動分注機を開発し、手作業での分注作業はゼロになりました。そのメーカーは大きく育って今ではPSS社という名前で上場している企業です。フランスが新型コロナ検査用にその会社の自動PCR検査機器を大量に購入して新聞をにぎわしました。生産性向上の裏には現場の工夫がそれぞれにあります。そうしたことを念頭に置きながら、シミュレーションデータを眺めてください。
 以下は産業用エレクトロニクスの輸入商社の経営改革実例がデータの背後にあります。



輸入商社  
<ケース1> 金額単位:百万円
社員数(人) 150
売上 4,000
1人当たり売上 26.7
売上総利益率 30%
売上総利益率 1200
物件費 450
1人当たり人件費 5
総人件費 750
売上原価 1200
利益 0
10年後自己資本額 10
20年後自己資本 10


 業種は輸入商社、資本金は1億円、売上規模は40億円、社員数は150名の中小企業を想定したシミュレーションです。
 社員の平均年収は500万円とします。粗利は30%ですから、売上総利益は年間12億円です。ここからすべての人件費と物件費を支払うものとします。
●人件費総額 500万円×150人=7.5億円…労働分配率は62.5
●物件費 4.5億円
 増資しないと、運転資金が回らないでしょう。こんな企業で増資に応じる株主は考えにくいのです。数年で経営破綻します。

<ケース2では、社員数はそのままで売上が1.5倍になりました。生産性が1.5倍になったということです。


<ケース2> 金額単位:百万円
社員数(人) 150
売上 6,000
1人当たり売上 40
売上総利益率 30%
売上総利益 1800
物件費 450
1人当たり人件費 8
総人件費 1200
売上原価 1650
経常利益 150
売上高経常利益率 2.5%
売上高税引後利益 90
10年後自己資本額 900
20年後自己資本 1600


売上総利益が12億円から18億円に増えていますから、社員の平均年収を500万円から800万円に増やせます。経常利益が1.5億円になるので、40%が法人税と法人住民税とすると、税引き後利益は9000万円になります。配当を資本金の10%支払うとすると、内部留保は8000万円です。10年後には自己資本額は9億円になります。
 10年後には自己資本が充実して、財務安定性がしっかりしてきました。

<ケース3>では、生産性が1.5倍、売上高総利益率が30%から40%へアップしています。物件費も10%強アップ、オフィスを新しいビルに移しました。社員の平均年収は1000万円です


<ケース3> 金額単位:百万円
社員数(人) 150
売上 6,000
1人当たり売上 40
売上総利益率 40%
売上総利益 2400
物件費 500
1人当たり人件費 10
総人件費 1500
売上原価 2000
経常利益 500
売上高経常利益率 8.3%
税引後利益 300
10年後自己資本額 3000
20年後自己資本 5800

 経常利益は5億円、配当を10%、税金を40%、2億円支払い、配当を1千万円支払うと、内部留保に2.9億円回せます。10年後には30億円の内部留保になります。
 自然災害などで、売上が50%ダウンしても3年は持ちこたえられます。
 生産性を50%アップして、売上高総利益率を30%から40%へアップすることができたら、社員の年収は2倍、3年間売上が半減してもそれまで通りに給料を支払い続けて持ちこたえられる企業になるということです。財務安定性の盤石な企業となります。

<ケース4売上高総利益率が30%から25%へダウンしたときのシミュレーションです。産業用エレクトロニクスの専門輸入商社では、急激に円安が進むとこういう事態に見舞われていました。為替変動に対する対策がなかったからです。
<ケース4>  
社員数(人) 150
売上 4,000
1人当たり売上 26.7
売上総利益率 25%
売上総利益 1000
物件費 400
1人当たり人件費 4
総人件費 600
売上原価 1000
経常利益 0
売上高経常利益率 0.0%
税引後利益 0
10年後自己資本額 10
20年後自己資本 10

 社員の平均年収が5百万円から4百万円に下がっています。下げざるを得ません。赤字の会社に賞与を支給するために融資してくれる銀行はありません。社長が自宅を担保に借入しない限り、融資はないのです。だから、社員の給与を下げざるをえません。
 <ケース1>に比べて生産性は下がっていませんが、売上総利益率が下がるとこういうことが起きます。生産性が下がっても同様に社員の年収を削らざるを得ないのです。
 <ケース4>のような企業は賃上げ闘争をしたって無駄です。経営者に経営能力がないのですから、さっさと見限って他に企業へ転職したほうがいいのです。

 予算管理がなされ、決算情報が社員へ公開されている<ケース2>や<ケース3>のような企業では、経営者と賃上げの交渉のテーブルにつくべきです。そして経営分析をして、どれくらい賃上げの余地があるのか、そしてどれだけ賃上げするのか、しっかり話し合いましょう。

 シミュレーションに使ったデータはおおむね1978~1983年まで勤務していた産業用エレクトロニクスの輸入商社をベースにしています。当時の貨幣価値に換算する場合は0.60.7掛けで考えてもらえば、現実に近い数字になります。

 為替変動対策がなかったので、わたしが入社する1978年以前の円安時にはボーナス支給が1か月なんてことがあったようです。円安になると会社は赤字です。できるだけ赤字を小さくするために決算月の10月末に、集中的に受注管理をして、受注した製品をその月に納品できるように無理な努力をしていました。その結果、普段の月の2か月分の売上が立ちます。翌月は通常月の半分しか売上が立ちません。みんな決算月に振り回されるのです。こういう円安の非常時には、社長が銀行借り入れに担保を差し出していたでしょう。

 定価表がなく、営業マンがそれぞれ自分の受注ごとに見積書を作成発行していました。使用する為替レートは営業マンごとにバラバラでした。日本電気府中工場と横浜工場では担当営業所が違うために、同じ製品なのに見積金額が異なるなんて不都合が起きてクレームになっていました。東京営業所長のEさんが京セラの黎明期に稲森和夫の薫陶を受けた優秀な人で、セールスで抜群の成績を上げるだけでなく、営業事務の合理化に鋭い意見をもっていました。円定価表を作成して全営業所へ配布して営業活動しようということになりました。利益重点営業委員会というのがあって、彼がそのメンバーで、唯一の実務担当でもあったのです。Eさんは「営業マンが外へ出ないで、時間の半分は事務所で見積書を作成したり、納期の督促の英文レターを書いている。円定価表をつくって女子社員が見積書を作成できるようになれば、売上は1.5倍にできる。円定価システムをつくりたいので協力してくれ」そう申し入れてきました。よく二人で酒を飲みました。
 わたしは入社して1週間後に経営改革のための5つのプロジェクト(長期経営計画委員会・収益見通し分析委員会・為替対策委員会・電算化推進委員会・資金投資計画委員会)を任されていましたから、為替対策もわたしの仕事でした。それで為替対策と円定価表をセットで問題を解決する方法を考えました。
 受注時の「円定価レート」と仕入時の「仕入レート」と「決済レート」を連動しそれらと為替予約を組み合わせる
ことで、為替リスクをゼロにしました。金利裁定取引で先物は常に円高で為替差益が数千万円恒常的に発生するようになりました。注文する取引先も為替変動の影響受けず、契約時の円定価で購入できるので、為替変動を心配しなくてよくなったのです。円定価表は3か月に一度、為替相場をいくつかの移動平均値で観察して、30日移動平均値で傾向をみて、連動させることにしました。自動的に計算できるような仕組みを入れました。こういうことは人に依存してはいけません。
 定価表を3か月に一度オフコンでプリント、更新することで、製品分野別に売上総利益率のコントロールができるようになりました。それで売上高総利益率を30%から40%へアップしたのです。欧米50社から世界最先端の産業用エレクトロニクス製品や軍事用エレクトロニクス製品ですから、競合品が少ないのです。すぐに効果が出ました。40%へもっていくのに、2年ほどかかっています。受注管理や納期管理システムの開発も必要でした。

 高収益企業となり、内部留保が溜まって財務安定性が強化され、10年後くらいにで株式上場していますが。東大出の3代目に変わって業績不振で上場廃止、2010年頃に他社へ吸収合併されています。あのころ20代だった社員は定年前に会社が経営破綻して、たいへんな苦労をしたと思います。

 労働価値説が真なら、長時間労働すれば商品の価値がアップしますが、そんなことはありません。生産性を2倍にあげたら、商品生産量は2倍となり、売上(=商品の価値)も2倍になります。1.5倍にし、
売上総利益率を30%から40%へアップできたら<ケース3>にあるように給料は2倍にできるのです。品質を維持あるいは品質を向上させて生産性を上げれば大幅な賃上げが可能になることがお分かりいただけたと思います
 商品の価値を決めている因子はたくさんあります。生産性、品質、耐用年数、故障率、使いやすさ、デザインの良さ、使う材料の良さ、仕事をしている人たちのスキルの高さ・仕事の精度、ダイヤモンドのように希少性も商品の価値を高める大きな要因です、水だって飲み水が全地球規模で不足すればその商品価値は膨れ上がります。要するに商品の価値を決めている要因は無数にあるということ
 そんな当たり前のことが、労働価値説に立ってしまうと、マルクスがそうであったように一切見えなくなります。マルクスが『資本論』を1867年に出版してから156年が過ぎましたが、マルクス経済学者で生産性と商品の価値の問題を取り上げた人はほとんど聞いたことがありません。

 マネジメントが下手な経営者は、生産性を上げても社員の給料を上げません。価格を下げて競争力を確保しようとするからです。
 30年前に比べて、上場企業の取締役の報酬は2~3倍になっていますが、従業員(社員と非正規雇用者)の平均給与はアップしていません。どういう神経しているのでしょうね。
 「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」
 こうしたビジネス倫理に照らせば、愚の骨頂の経営です。日産のカルロス・ゴーンのような下劣な経営者は一人だけでたくさんです。
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は江戸時代から日本企業が受け継いできたビジネス倫理です。多くの上場企業の経営者が日本の伝統的なビジネス倫理を忘れています

 予算や決算データを公開して、データに基づいて社員と話し合う企業が増えてほしいと思っています


================================
<余談-1
:関周さん>
 このシミュレーションは産業用エレクトロニクス輸入商社のデータがベースになっています。創業者はスタンフォード大を卒業し、三井合同で人事関係の仕事をしていたお父さんです、関周さんは2代目。お父さんは戦後の財閥解体で、社員の首切りをしなければなりませんでした。その解雇処理という仕事をした後に三井合同を離職しています。「人の首を切って自分が会社に居残るのは嫌だった」と創業社長が言っていたそうです。わたしの入社時の上司だった総務経理担当取締役の中村さんから聞いた話です。中村さんも創業社長の情緒や潔さを受け継いだ人でした
 スタンフォードでHP社の創業者になるヒューレッドとパッカードの2名と友人だった縁で、HP社の日本総代理店をやらないかと話があり、HP社日本総代理店としてスタートした企業でした。後に、HP社は横河電機とと合弁でYHP社を立ち上げます。それで、従業員の半数以上を新会社へ引き取ってもらい、他の欧米のメーカーと総代理店契約を締結して、再スタートしています。2代目の関周さんは慶応大学大学院経済学専攻科で学んだ人でした。大学へ残る道はあったでしょうが、二代目ですから、会社を継がなければならなかったのだろうと思います。少し気の毒な気がします。
 1978年9月の新聞募集広告での中途入社でしたが、1週間後には社運を賭ける6つのプロジェクトを公表し、5つをわたしに任せました。残り1つは利益重点委員会でしたから、ナンバーワン営業の東京営業所長の遠藤さんに任せたのです。プロジェクトメンバーは取締役と部長職1人、課長職が全部で3名でした。実務は5つのプロジェクトはわたしが、利益重点営業委員会は遠藤さんが担当でした。他のメンバーは提案とその進捗の報告を聞くだけでしたね。
 入社したばかりのわたしに社運を賭けた5つのプロジェクトを任せるというのは、関周さん、ずいぶん大胆不敵な人でした。森英恵の会社の方を先に受けて社長面接で採用が決まったので、履歴書を送ってあった関商事の方へ断りの電話を入れたら、経理総務担当取締役の中村さんが、断りでもいいから電話じゃなくて社長に会って直接話をしてみろと言われて、青山の森英恵の本社ビルを出て、関商事のある日本橋人形町へ向かいました。技術部の前を通ったら、さまざまな電子機器が乱雑に置かれてました。マイクロ波計測器用の制御用高性能パソコンや4色プロッターも転がっていました。少年の心を少し残していたわたしの目には魅力的に映りました。「いじってみたい!」(笑) 社長室に通され、関さんと話したら、慶応大学大学院で経済学を学んだことのある人で、同じ経済学の専門家でした。わたし学んだ東京経済大学大学院は開設して10年間合格者なし、文部省からクレームがあり、合格者を出さないなら設置許可を取り消すと言われて、わたしは2期生、2人の合格者の一人でした。そのころの大学院の入試難易度は慶応大学大学院と一緒です。専門がマルクス経済学で『資本論』体系構成に関する研究をしたことを告げました。簿記と珠算が1級(どちらも日商)だったのでそこが異色だったかもしれません。関さんはそのころ40代半ばで会社経営に行き詰まっていました。固定相場制から変動相場制になって今までのやり方が通用しなくなっていたのです。
 いい社長に恵まれました。いい仕事がなければスキルは磨きようがありませんので。その関周さんと経営統合システム開発を巡って、意見が対立し辞職することになるのですから、運命はわからぬものです。辞職を申し出たのが11月下旬でした。引継ぎを1月末までやってほしいと頼まれ、その通りにしました。
 年が明けて、1月に新聞を見て職を探し、リクルート社が斡旋をしていたので、経歴書を持参して試験を受けました。7段階で最高ランクだったので、いい就職先のファイルがオープンになりました。面接を担当してくれた人から、「面白そうだから転職しなくても5年後にもう一度リクルート社へ来てテストと面接を受けてほしい」といわれました。そのときの偏差値は72でしたが、「5年後にはあなたはもっとアップしている」と告げられました。年齢が高くなれば普通は偏差値が下がるんだそうです。面接官の興味を惹いたようでした。
 SRLとプレジデント社とフェアチャイルドジャパン社の3社を選んで2社会社訪問し、成長企業であったSRLを選びました。たしかSRLが一番給料が安かった。500万円くらいの提示でした。フェアチャイルド社は経理課長職で850万円でした。外資はあのころから年収が高かったのです。1984年1月のことです。
 2/1からSRLで仕事しました。2月になってから日商岩井から転職してきた総務部長から電話があり、日商岩井のシステム子会社に課長職で推薦できるので行かないかとお誘いを受けました。SRLで働いていたのでありがたいけど断りました。営業部長の関さん(社長とは親戚ではない)からも電話をもらい、同期が帝人エレクトロニクスにいるので、課長職で転職しないかとオファーを受けました。6年間一緒にシステム開発していたオービックの芹沢SEからも、取引先に輸入商社が20社ほどあるので、輸入商社向けのパッケージソフト開発をしたいので来ないかとお誘いを受けました。彼はそのご開発担当役員になっています。優しくて人情味のある人たちと仕事していたことに会社を辞めて気づかされました。
 すぐに就職が決められる、いい時代でした。SRLでも予算編成と管理の仕事がわたしに回ってきました。入社1か月後には経営統合システム開発の仕事もわたしの担当になりました。産業用エレクトロニクスの輸入商社の10倍以上の規模の開発でした。ラッキーでした。エレクトロニクス輸入商社でも経営統合システム開発をしていたので、何だか続きをしているようでしたね。わたしに任されたのは、会計システムと、買掛金支払いシステムそして投資・固定資産管理システム、各サブシステム(購買在庫管理システム・販売会計システム、原価計算システム)とのインターフェイスでした。8か月で本稼働させています。パッケージソフトの開発のような仕事でした。ここでもスキルがかなり上がりました。米国で出版された会計情報システムに関する専門書がずいぶん役に立ちました。当時はこういう本の翻訳なんかでないのです。システム開発の専門知識と管理会計学の専門知識の両方を兼ね備えた学者がいませんでした。管理会計学の分野でも最先端にいましたから、仕事に夢中でした。

<余談-2:辞職の決意>
 なぜ関商事を辞職したのか今まで書いたことがないので、書いておきます。
 入社して2年目だったかな、受注・受注残・納期管理システムを開発しました。関商事へ入社するまでコンピュータなんて触ったこともありません。だから在職中の6年間でシステム開発関係の専門書を50冊以上読んでいます。10冊ぐらいは英語で書かれた専門書でした。社会人となったら数学も英語も必要になります。それができないならできないなりの仕事しか回ってこないでしょう。社運を賭けるようなプロジェクトを半端な能力の人間に任せたら、会社がつぶれかねませんから。
 入社1か月目に関さんが米国出張して帰ってくると、朝わたしの机の上にHP67がありました。社長秘書に聞くと、「社長がebisuさんにって置いていきました」。うれしかった。プログラマブル関数計算機で、マイクロ波計測器の制御ができるインターフェイスをもった小型コンピュータでした。当時11万円ですから、大卒初任給とほぼ一緒でした。1週間でで400頁の英文マニュアル2冊を読んで数値計算プログラミングをマスターしました。逆ポーランド記法、RPNというとっても扱いやすい数値プログラミング言語でした。経営分析モデルを創るために毎日電卓で膨大な計算をしていました。それを見ていて、いけないなと思ったのでしょう、強力な武器を与えてくれました。線形回帰分析がこの小型コンピュータでやると、電卓で1日かかるような計算が30分で済みます。25ゲージ5ディメンションのレーダチャートと総合偏差値評価モデルをこの時につくりました。13年後にSRLでEXCELに乗せ換えて、子会社関係会社の業績評価システムとして使いました。1992年でも、最先端の業績評価モデルでした。会社の買収の際の買収価格算定にも利用しています。
 関商事へ入社2か月目にはHP96が朝、机の上に載っていました。こちらなプリンター付きで、キーが大きくて扱いやすい、22万円の上位機種でした。HP67は社内ではナンバーワン営業の東京営業所長だけ、入社早々のわたしには、倍の値段の上位機種まで社長がプレゼントしてくれました。まったくの特別待遇でした。社長にしてみたら、5つの経営改革プロジェクトを一人で担わせているのですから、経営分析モデル作成や、経営改善のための経営分析だけに時間を使ってほしくないわけです。社長の目論見通りでしたね。3か月後には三菱電機製のオフコンの3日間のプログラム講習会へ行かせてもらって、COOLという12ケタのダイレクトアドレッシングの言語をマスターしました。3ケタのオペコードに3ケタのオペランドが3個で構成された言語でした。ハードディスクの使用エリアはプログラマー側で指定します。さっそくプログラミングして営業部別・営業所別の売上総利益表を出力してみました。それまで、営業部別・営業所別の売上総利益データがなくて、管理できていませんでした。これがあるお陰で、後から円定価表システムをつくり粗利益をコントロールするようになると、実績結果の対比ができるようになったのです。2代目のオフコンはコンパイラー言語で走るマシンでした。これも3日間の講習に行かせてもらいマスターしました。3言語目でした。PTOGRESSⅡという言語でした。
 納期管理システムで仕入処理を電算化しました。それまで業務課員が手計算していた輸入処理業務はコンピュータ入力すればいいだけで、単純作業になりました。ここでも生産性がアップしていました。もちろん業務の精度は格段に高くなっています。受注データに製品の納期を更新することで、売上推計が可能になりました。為替対策も受注レートと仕入レートと決済レートを連動させることで、高い確率でか為替予約でリスクのカバーができるようになったのです。経理課長のNさん喜んでいました。
 もう為替変動を心配する必要もないし、決算月に売上を2倍計上する必要もない、毎月すれすれの資金繰りで銀行と交渉する必要もなくなったのです。
 会計システムを含めてこれらのシステムを1台の汎用コンピュータで統合システムとして運用しようということになり、NEC製の汎用小型コンピュータ導入が決まりました。社長はコンピュータを三菱から大口取引先であるNECへ変更するのに、ナンバーワンSEの派遣を条件に出しました。難易度の高い仕事ですから当然です。高島さんというSEが担当することになりました。それまで担当してくれていたオービックのSE芹沢さんも凄腕の人でした。外部設計と実務設計はわたしの仕事で、高島さんは内部設計という役割分担でスタート。システム開発で一番難易度の高いのは実務設計です。ここがしっかりしていて、プログラミング仕様レベルで詳細な外部設計がなされていたら、内部設計は試行錯誤がなくなります。プログラミングの工数を半分程度に抑えられます。
 この仕事が進みだした時に、関社長は大学同期の友人でSEだというMさんをシステム開発の助言をしてもらうために1か月間社内でヒアリング調査をさせたのです。外資で撤退したコンピュータメーカにいた方ということしかわかりませんでした。1か月たって調査報告書が出てきて、電算化推進委員会のメンバー全員で読みました。読んでSEではないことが内容から知れました。POSの営業担当だったのです。デパートなんかのレジシステムです。社内の各課の課長をそれぞれ呼んでヒアリングを1か月もしたので、「ebisuさん担当外れたの?」と言われて、やりにくかったのです。委員会のメンバー全員で報告書を読み、業務内容が理解できていないことを確認して、経営統合システム開発にはかかわらないでほしいと申し入れをしました。委員長は営業担当常務のKさんでした。利益重点営業委員会の委員長も兼務でした。
 電算化推進委員会の総意ですから、社長の関さん、了解してくれました。本音はわたしの上司にしたかったのだろうと思います。わたしにとってはタダの足手まといです。若い人ならともかく、50歳前後の人で、これから勉強するのは無理でした。コンピュータのことだけでなく輸入業務や外国為替業務、管理会計業務に精通していなければお手伝いにはならないのです。こちらが教えなければいけません。だから、ノーでした。
 わたしは、社長室のあるビルから歩いて2分の所にあるビルで仕事していました。管理部の平社員でしたが、
電算室が新設になり係長職で異動になりシステム開発専任となっていました。上司は第2営業部長でしたが、システム開発の専門知識がありませんから、電算室へ来たこともほとんどありませんでした。コンピュータを設置してある部屋で一人で仕事してました。経理課や管理部の女子社員が伝票入力に毎日来てました。
 数か月後に仲良しの業務課長から、Mさん昨日また来てましたよと電話で連絡くれました。輸入商社向けの日本では最先端の経営統合システム開発をしていて、仕事をディスターブされたくありませんでした。友人関係と仕事の区別がつかない社長に愛想が尽きて、すぐに社内電話をしたのです。
 「大学同期のご友人が大切なことは理解しているつもりです、しかし仕事は別ですよ、Mさんが関わるならこの仕事はできません、どうしますか?」
 電話の向こうで言葉に詰まってました。無言が十秒間ほど続いたような気がしました。「ご返事がないようですね、お心はわかりました。残念です。辞表を上司に出しおきます」、そう告げて電話を切りました。11月下旬でした。数か月は無職かなと覚悟が決りました。
 プレゼントされていたHP67とHP97は秘書を通じてお返ししました。
 実はこの間にもう一つトラブルがありました。わたしより1年後に採用された総務課長のTさんがなにかと為替対策の仕組みを聞くので答えてあげてました。何だかヘンだなという感じはありました。そうしたら別の案を社長に提案していました。杜撰な案でしたね。取締役会にかけたのでその提案書がわたしの目に入ることになりました。別の案があるならそう言えばいいのに、内緒にして別の案を社長に進言。カチンときたので、理由を示して使い物にならぬ提案であることを明らかにしました。当然没になりました。卑怯なことを承知で、それでも点数上げたかったのです。中途採用の哀しさがありました。アイデアルという傘のメーカーがありましたが、そこが倒産して転職してきた人でした。原価計算制度の運用ミスが祟ったというのがわたしの感想です。製品別原価を計算して採算の合わないものから切り捨てていった。本社費の負担が重くなり、儲かる製品がなくなります。
 送別会は水戸営業所の女性社員が同時期に辞めるので、一緒になりました。送別会に出席しなかったのは社長の関さんと総務課長のTさんぐらいでしたね。
 常務の加藤さんはポルトガルの国際会議で脳出血を起こして倒れ、リハビリを終えて、ようやく通勤可能な状態へ回復しつつありました。加藤さん、「わたしがこんなことになっていなければ、社長に言うのだが...すまない」、そうおっしゃいました。身体が弱っている加藤さんにこんなに心配かけたんだと、身が細る思いをしました。申し訳なかった。
 採用の時に関係した中村取締役はそのご社長とそりが合わずに、数年後に退社しています。いろいろ原因があったのでしょうが、その中のひとつはわたしが関係していたと思います。ギクシャクしていたのをそばにいて感じてました、情の人でしたから。
 あのときあのタイミングでやめたから、SRLへの転職、そして経営統合システム開発の仕事が可能でした。ピンポイントのタイミングだったのです。転職先を探してから辞表出すなんてことをしていたら、別の企業で仕事していたでしょう。大きな経営統合システムを担当するチャンスはなかったでしょう。

 システム化の推進で経営改革を続けた結果、6年間で財務安定性が盤石になり、人形町界隈で10億円の自社ビル購入が可能になっていました。みんなと一緒に株式上場祝いたかった。



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「hp67」の画像検索結果

 HP-97画像

 
  現在使っている5台目のもの...HP-35sはHP67と同じくらいの大きさです。 

 12年ほど前に10500円で購入しましたが、いま65000円もしていますね。

HP-35s に対する画像結果 
 
1978年から使い続けて45年、5台目です。RPN方式の操作がすっかり体の一部になってしまっています。他のメーカーのものは使えません。スタックがxyztと四段あるので、頭の中にもスタックが四段あって、表示されていないのにスタックの中が「いつでも見えています」。(笑)


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