#4961 マルクスは剰余価値学説の間違いに気がついていた? Apr. 21, 2023 [98-0マルクス経済学批判]
<最終更新情報> 4/22朝8時半<余談>追記
4/23朝8:43追記「企業形態の問題ではなく公理選択の問題」等
剰余価値とは、生産過程における資本の循環運動「G⇒W⇒W’⇒G’」において、「G’=G+ΔG」のΔGの部分を指す。これを不払労働=剰余価値だとするもの。換言すると、製造企業が挙げる利潤の源泉は不払労働にあるとするもの。
マルクスは資本家的生産様式の分析の端緒を商品に求めた。商品には抽象的人間労働と具体的有用労働が対象化されており、全社の対象化されたものを価値、後者の対象化されたものを使用価値と定義している。ヘーゲル弁証法の2項対立図式そのものである。
まず「価値表現の関係」が分析され、次に「交換関係」で貨幣が定義される。その貨幣が資本へ転化して資本家的生産様式が分析される。「生産関係」で資本が生産手段と原材料と労働力商品という3つの形態をとることになる。マルクスは、利潤の源泉を不払労働に求めた。
「資本の生産過程」の分析はそれでよかった、『資本論第一巻』はそこまでだった。次に問題となるのは「単純な市場関係」である。市場の中で、資本家的生産様式の工場で生産された商品の価値は、何によって決まるのか?
たとえば、故障が少ないとか耐用年数が長い工業製品は、故障が多く耐用年数が短い製品よりも価値が高く取引される。価格が高いと言い換えてよい。そうした製品は高い市場価格がつき利潤が大きくなる。生産性の高い製品はコストは低くなるから、これもまた利潤が多くなる。つまり、市場では生産過程で労働力がどれほど投下されたか労働の量の問題は市場価値の対象にならないのである。何が市場価格を決めるのか、商品の使用価値の高さが問題になるのである。使用価値の高さとはその商品の品質である。故障が少ない不良品がない、耐用年数が長い、使い勝手がよい、メンテナンスが容易などのことがその商品の使用価値を決めている。価格はコストでも決まるから、生産性の高い商品は利潤が大きくなる。それは断じて不払労働の大きさによるものではない。労働価値説は幻想であったことが「単純な市場関係」を導入すればわかる。こういう関係をわたしは「概念的関係」と呼ぶ。
そういうわけで、経済学の公理に「抽象的人間労働の対象化が価値を形成する」とは言えない。A.スミス、D.リカード、そしてK.マルクスの「妄想」と言ってよい。彼らはギリシア都市国家以来の奴隷労働概念を資本家的生産様式の工場労働に置き換えて思索した、そういう時代だった。だからマルクスの究極の目標は、労働からの人間の解放であった。それが人間の幸福。日本人が数千年培ってきたのは職人仕事観で、仕事からの解放は、人間疎外そのものという価値観である。仕事が神聖なものであったことは神棚に象徴されている。刀鍛冶の毎年の初仕事は、禊をして、新しい刀を打ち、神へささげる。日本人の伝統的な価値観では、仕事は神聖なものである。いいものをつくるのは喜びそのもの。だから職人は手を抜かない。
マルクスは知らなかったが、わたしたちが知っていることがある。デジタル商品である。デジタル商品はいったん開発すれば、再生産に労働は必要がない。電子的にコピーすればいいだけである。だから、デジタル商品は労働価値説や剰余価値学説の埒外にある。そんな単純なことがいまでも理解できないのは、マルクス経済学者だけかもしれぬ。
マルクスは「単純な市場関係」に関する分析を書き貯めていたが、『資本論第一巻』を出版した後、ヘーゲル弁証法でまとめようと思ってそれまでの研究草稿を見直して、方法的破綻に気がついたのだろうと思う。もちろん私の推論だが、「資本論第一巻」を1867年に発刊してから死ぬまでの沈黙、資本論第二巻を出版することがなかったという事実は、わたしの推論を十分に証明しているようにみえる。10年間の沈黙の理由に具体的に言及したマルクス経済学者は現在までのところ一人もいない。
方法的破綻だけでなく、労働価値説そのものが「単純な市場関係」分析では破綻してしまっていた。それゆえ、マルクスは『資本論第一巻』を出版してから、『資本論第二巻』を出版することがなかった。草稿をまとめる術がなくなってしまって、出版できなかったのである。方法的な誤りに気がつき、苦悩のうちに死んだのだと思う。気の毒だと心の底から思う。
「商品の分析」⇒「生産過程」⇒「単純な市場関係」⇒「複雑な市場関係:国内市場と国際市場」⇒「世界市場関係」
これが、元々の大まかな構想だっただろう。上向法とは「単純なものからより複雑なものへ」という体系構成の展開に関するもので、マルクスの専売特許ではない。
一番古いのはユークリッド『原論』である。つぎにデカルト『方法序説』にある「科学の方法四つの規則」に明瞭に述べられている。
『原論』は人類史上初めての数学の体系的な書であるが、「第一巻」は正三角形の作図から始まっている。中学生のもお馴染みの三平方の定理(ピタゴラスの定理)は終わりから2番目である第47章にある。「第2巻」は矩形(長方形)についての考察で、「第3巻」は円と円あるいは円と直線に関する定理が述べられる。「単純なものからより複雑なものへ」順に記述されている。
学(科学)の体系構成の方法としては「演繹的方法」しかないのである。
デカルト『方法序説』の上向法「単純な物から複雑なものへ」は弊ブログ「#4776搾取の理論的根拠は不払労働と労働価値説(1)マルクスの幻想」をご覧ください。
新メガ版として残された膨大な遺稿が出版されているが、晩年のマルクスの研究方向は資本主義に代わる経済社会の模索に変わったようだ。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が言及している。なぜ研究方向が変わったのかについての言及はなかった。利潤の発生しない企業形態である協同組合を模索していたようだ。しかし、その後の経済社会を見てわかるように、協同組合形態は企業形態として主流にはなり得ていない。株式会社形態が圧倒的である。マルクスはここでもまた間違えたのかもしれない。問題は企業形態ではないとすれば、彼の晩年の模索は見当外れとなる。マネジメントの問題、学の公理選択の問題だとしたら、彼は最後の最後まで的を外していたことになる。
新しい経済社会の建設にはどのような企業形態があるのか、あるいはどのような仕事観があるのか、これはこれで、資本家的生産様式の支配する経済社会の分析、あるいは演繹的体系とはまったく異なる新分野である。わたしは公理として、奴隷労働に淵源をもつ工場労働に対して職人仕事を対置したい。カテゴリ―「21世紀の経済社会 理念と展望」にいくつか書き溜めてあるが、新たな経済社会モデルのデザインとなる。人類が存続すれば、試行錯誤を繰り返すのだろう。無限に拡大する欲望の抑制が新しい経済社会を開く扉のカギとなりそうだ。動物本能の抑制に人類は成功するだろうか?
<余談:ブラック企業と利潤>
労働価値説が誤りであっても、経営者の中には低賃金によって利潤を増やそうとするものが多いことは現実が示している。ブラック企業と呼ばれているのが該当する。残業をさせても賃金を支払わないなら、それは不払労働が利潤の源泉になっていることを示している。いまも昔もそういう企業があることは変わらない。
ブラック企業だけでなく、上場企業もそうしていると言えば、驚く人が多いだろう。非正規雇用の拡大によって日本企業は利益を増やしてきた。経営者の報酬はこの30年間で2倍以上になったが、働く人の平均賃金は非正規雇用の拡大によって下がり続けてきた。つまり、日本企業の経営者たちは、利益の源泉を非正規雇用拡大による人件費削減に求めたのである。経営能力がない経営者はこういうイージーな手段で利益を拡大している。平均給与が下がりながら、経営者の報酬は2倍以上となり、企業が高配当を続けると同時に内部留保を増やし続けている背景には、人件費削減というとってはならない武器濫用がある。
わたしは6年間勤務した産業用エレクトロ憎し輸入商社を辞して、1984年2月に最大手の臨床検査会社SRLに上場準備要員として入社したが、リクルート社でSRLのファイルに、過去5年間の決算資料があり、売上高成長率が20-30%、売上高経常利益率が12%の高収益企業であることが興味を引いた。上場準備で経営情報システムを開発しなければいかないことも資料を見て推察がついた。これまでのスキルが生きる。夢中で働いた。
数年がたって、売上高成長率が10%以下に落ち、売上高経常利益率が10%を割り出した。、集荷業務には準社員制度が採られていた。集荷準社員の年収は正社員の半分ほどである。集荷準社員を全員社員と同じ待遇にしたら、計算上SRLの利益はなかった。利益の源泉を人件費の削減で贖ったのである。表面上の利益率は10%を少し切っただけだが、中身は大違いだった。日本の上場企業のほとんどが非正規雇用を増やして人件費を削減して利益率を維持したのである。
なぜそんなことになったのか?日本の大企業経営者は高学歴が多い。受験勉強のエキスパートであるが、経営者として必要な資質はマネジメント能力に秀でていることであるから、ミスマッチが起きている。
リーダーというのは集団活動の中で自然に生まれる。集団がその人間をリーダとして認めると、そこを中心にして集団が動き出す。部活やサイトカイ活動やボランティア活動でそういうスキルを磨く機会をうしなっているのが、受験エリートだろう。もっともマネジメントに向かない人材が大企業経営者であり続けた結果である。最もブカツや生徒会でも旧態依然、前例踏襲でやってきた者にはマネジメントスキルは育たない。部活や生徒会運営やボランティア活動で変革を起こしてきた者だけがマネジメント能力を磨くことができる。
(根室高校から東大へ現役合格した二人目の生徒が20年ほど前にでたことがあったが、その生徒が卒業間近に同級生に「みんな友ッと交わっておけばよかった」とつぶやいたそうだ。行事に一切参加せず、6時間目の授業が終わると、家へ帰って勉強を続けたのだそうだ。受験マシーンにならなければ現役合格無理だったのだろう。3年前に旭川医科大学へ現役合格した生徒は、学校行事にリーダーの一人として参加していた。将来、人を使うことになるから、マネジメント能力を育てる貴重な機会を存分に利用していた。根室市立病院程度の規模なら、十分にマネジメントできるだろう。授業の合間に病院経営の要点も雑談で伝えてあるし、本人もよく考えていた。)
株の持ち合いをやっていた間は、利益が減れば、持ち株を売却することで、どんなにバカな経営者でも利益を上げることができた。しかし、企業会計基準が改正されて、株式に時価評価制度が適用されると持ち株を売却して利益を上げることができなくなった。そこへ非正規雇用の拡大によって利益を維持するという安易な経営が蔓延したのである。
SRLの正社員の給与はいまでも業界ナンバーワンだろう。正規社員で入社するのはとても難しい。東証1部上場して数年後には、20人の採用枠に10000人の応募があったから、500倍の競争率だった。倍率はあまり変わっていないかもしれません。
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4/23朝8:43追記「企業形態の問題ではなく公理選択の問題」等
剰余価値とは、生産過程における資本の循環運動「G⇒W⇒W’⇒G’」において、「G’=G+ΔG」のΔGの部分を指す。これを不払労働=剰余価値だとするもの。換言すると、製造企業が挙げる利潤の源泉は不払労働にあるとするもの。
マルクスは資本家的生産様式の分析の端緒を商品に求めた。商品には抽象的人間労働と具体的有用労働が対象化されており、全社の対象化されたものを価値、後者の対象化されたものを使用価値と定義している。ヘーゲル弁証法の2項対立図式そのものである。
まず「価値表現の関係」が分析され、次に「交換関係」で貨幣が定義される。その貨幣が資本へ転化して資本家的生産様式が分析される。「生産関係」で資本が生産手段と原材料と労働力商品という3つの形態をとることになる。マルクスは、利潤の源泉を不払労働に求めた。
「資本の生産過程」の分析はそれでよかった、『資本論第一巻』はそこまでだった。次に問題となるのは「単純な市場関係」である。市場の中で、資本家的生産様式の工場で生産された商品の価値は、何によって決まるのか?
たとえば、故障が少ないとか耐用年数が長い工業製品は、故障が多く耐用年数が短い製品よりも価値が高く取引される。価格が高いと言い換えてよい。そうした製品は高い市場価格がつき利潤が大きくなる。生産性の高い製品はコストは低くなるから、これもまた利潤が多くなる。つまり、市場では生産過程で労働力がどれほど投下されたか労働の量の問題は市場価値の対象にならないのである。何が市場価格を決めるのか、商品の使用価値の高さが問題になるのである。使用価値の高さとはその商品の品質である。故障が少ない不良品がない、耐用年数が長い、使い勝手がよい、メンテナンスが容易などのことがその商品の使用価値を決めている。価格はコストでも決まるから、生産性の高い商品は利潤が大きくなる。それは断じて不払労働の大きさによるものではない。労働価値説は幻想であったことが「単純な市場関係」を導入すればわかる。こういう関係をわたしは「概念的関係」と呼ぶ。
そういうわけで、経済学の公理に「抽象的人間労働の対象化が価値を形成する」とは言えない。A.スミス、D.リカード、そしてK.マルクスの「妄想」と言ってよい。彼らはギリシア都市国家以来の奴隷労働概念を資本家的生産様式の工場労働に置き換えて思索した、そういう時代だった。だからマルクスの究極の目標は、労働からの人間の解放であった。それが人間の幸福。日本人が数千年培ってきたのは職人仕事観で、仕事からの解放は、人間疎外そのものという価値観である。仕事が神聖なものであったことは神棚に象徴されている。刀鍛冶の毎年の初仕事は、禊をして、新しい刀を打ち、神へささげる。日本人の伝統的な価値観では、仕事は神聖なものである。いいものをつくるのは喜びそのもの。だから職人は手を抜かない。
マルクスは知らなかったが、わたしたちが知っていることがある。デジタル商品である。デジタル商品はいったん開発すれば、再生産に労働は必要がない。電子的にコピーすればいいだけである。だから、デジタル商品は労働価値説や剰余価値学説の埒外にある。そんな単純なことがいまでも理解できないのは、マルクス経済学者だけかもしれぬ。
マルクスは「単純な市場関係」に関する分析を書き貯めていたが、『資本論第一巻』を出版した後、ヘーゲル弁証法でまとめようと思ってそれまでの研究草稿を見直して、方法的破綻に気がついたのだろうと思う。もちろん私の推論だが、「資本論第一巻」を1867年に発刊してから死ぬまでの沈黙、資本論第二巻を出版することがなかったという事実は、わたしの推論を十分に証明しているようにみえる。10年間の沈黙の理由に具体的に言及したマルクス経済学者は現在までのところ一人もいない。
方法的破綻だけでなく、労働価値説そのものが「単純な市場関係」分析では破綻してしまっていた。それゆえ、マルクスは『資本論第一巻』を出版してから、『資本論第二巻』を出版することがなかった。草稿をまとめる術がなくなってしまって、出版できなかったのである。方法的な誤りに気がつき、苦悩のうちに死んだのだと思う。気の毒だと心の底から思う。
「商品の分析」⇒「生産過程」⇒「単純な市場関係」⇒「複雑な市場関係:国内市場と国際市場」⇒「世界市場関係」
これが、元々の大まかな構想だっただろう。上向法とは「単純なものからより複雑なものへ」という体系構成の展開に関するもので、マルクスの専売特許ではない。
一番古いのはユークリッド『原論』である。つぎにデカルト『方法序説』にある「科学の方法四つの規則」に明瞭に述べられている。
『原論』は人類史上初めての数学の体系的な書であるが、「第一巻」は正三角形の作図から始まっている。中学生のもお馴染みの三平方の定理(ピタゴラスの定理)は終わりから2番目である第47章にある。「第2巻」は矩形(長方形)についての考察で、「第3巻」は円と円あるいは円と直線に関する定理が述べられる。「単純なものからより複雑なものへ」順に記述されている。
学(科学)の体系構成の方法としては「演繹的方法」しかないのである。
デカルト『方法序説』の上向法「単純な物から複雑なものへ」は弊ブログ「#4776搾取の理論的根拠は不払労働と労働価値説(1)マルクスの幻想」をご覧ください。
新メガ版として残された膨大な遺稿が出版されているが、晩年のマルクスの研究方向は資本主義に代わる経済社会の模索に変わったようだ。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が言及している。なぜ研究方向が変わったのかについての言及はなかった。利潤の発生しない企業形態である協同組合を模索していたようだ。しかし、その後の経済社会を見てわかるように、協同組合形態は企業形態として主流にはなり得ていない。株式会社形態が圧倒的である。マルクスはここでもまた間違えたのかもしれない。問題は企業形態ではないとすれば、彼の晩年の模索は見当外れとなる。マネジメントの問題、学の公理選択の問題だとしたら、彼は最後の最後まで的を外していたことになる。
新しい経済社会の建設にはどのような企業形態があるのか、あるいはどのような仕事観があるのか、これはこれで、資本家的生産様式の支配する経済社会の分析、あるいは演繹的体系とはまったく異なる新分野である。わたしは公理として、奴隷労働に淵源をもつ工場労働に対して職人仕事を対置したい。カテゴリ―「21世紀の経済社会 理念と展望」にいくつか書き溜めてあるが、新たな経済社会モデルのデザインとなる。人類が存続すれば、試行錯誤を繰り返すのだろう。無限に拡大する欲望の抑制が新しい経済社会を開く扉のカギとなりそうだ。動物本能の抑制に人類は成功するだろうか?
<余談:ブラック企業と利潤>
労働価値説が誤りであっても、経営者の中には低賃金によって利潤を増やそうとするものが多いことは現実が示している。ブラック企業と呼ばれているのが該当する。残業をさせても賃金を支払わないなら、それは不払労働が利潤の源泉になっていることを示している。いまも昔もそういう企業があることは変わらない。
ブラック企業だけでなく、上場企業もそうしていると言えば、驚く人が多いだろう。非正規雇用の拡大によって日本企業は利益を増やしてきた。経営者の報酬はこの30年間で2倍以上になったが、働く人の平均賃金は非正規雇用の拡大によって下がり続けてきた。つまり、日本企業の経営者たちは、利益の源泉を非正規雇用拡大による人件費削減に求めたのである。経営能力がない経営者はこういうイージーな手段で利益を拡大している。平均給与が下がりながら、経営者の報酬は2倍以上となり、企業が高配当を続けると同時に内部留保を増やし続けている背景には、人件費削減というとってはならない武器濫用がある。
わたしは6年間勤務した産業用エレクトロ憎し輸入商社を辞して、1984年2月に最大手の臨床検査会社SRLに上場準備要員として入社したが、リクルート社でSRLのファイルに、過去5年間の決算資料があり、売上高成長率が20-30%、売上高経常利益率が12%の高収益企業であることが興味を引いた。上場準備で経営情報システムを開発しなければいかないことも資料を見て推察がついた。これまでのスキルが生きる。夢中で働いた。
数年がたって、売上高成長率が10%以下に落ち、売上高経常利益率が10%を割り出した。、集荷業務には準社員制度が採られていた。集荷準社員の年収は正社員の半分ほどである。集荷準社員を全員社員と同じ待遇にしたら、計算上SRLの利益はなかった。利益の源泉を人件費の削減で贖ったのである。表面上の利益率は10%を少し切っただけだが、中身は大違いだった。日本の上場企業のほとんどが非正規雇用を増やして人件費を削減して利益率を維持したのである。
なぜそんなことになったのか?日本の大企業経営者は高学歴が多い。受験勉強のエキスパートであるが、経営者として必要な資質はマネジメント能力に秀でていることであるから、ミスマッチが起きている。
リーダーというのは集団活動の中で自然に生まれる。集団がその人間をリーダとして認めると、そこを中心にして集団が動き出す。部活やサイトカイ活動やボランティア活動でそういうスキルを磨く機会をうしなっているのが、受験エリートだろう。もっともマネジメントに向かない人材が大企業経営者であり続けた結果である。最もブカツや生徒会でも旧態依然、前例踏襲でやってきた者にはマネジメントスキルは育たない。部活や生徒会運営やボランティア活動で変革を起こしてきた者だけがマネジメント能力を磨くことができる。
(根室高校から東大へ現役合格した二人目の生徒が20年ほど前にでたことがあったが、その生徒が卒業間近に同級生に「みんな友ッと交わっておけばよかった」とつぶやいたそうだ。行事に一切参加せず、6時間目の授業が終わると、家へ帰って勉強を続けたのだそうだ。受験マシーンにならなければ現役合格無理だったのだろう。3年前に旭川医科大学へ現役合格した生徒は、学校行事にリーダーの一人として参加していた。将来、人を使うことになるから、マネジメント能力を育てる貴重な機会を存分に利用していた。根室市立病院程度の規模なら、十分にマネジメントできるだろう。授業の合間に病院経営の要点も雑談で伝えてあるし、本人もよく考えていた。)
株の持ち合いをやっていた間は、利益が減れば、持ち株を売却することで、どんなにバカな経営者でも利益を上げることができた。しかし、企業会計基準が改正されて、株式に時価評価制度が適用されると持ち株を売却して利益を上げることができなくなった。そこへ非正規雇用の拡大によって利益を維持するという安易な経営が蔓延したのである。
SRLの正社員の給与はいまでも業界ナンバーワンだろう。正規社員で入社するのはとても難しい。東証1部上場して数年後には、20人の採用枠に10000人の応募があったから、500倍の競争率だった。倍率はあまり変わっていないかもしれません。
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#4934 マルクスはなぜ資本論第二巻が書けなかったのか? Feb. 28, 2023 [98-0マルクス経済学批判]
FB上で団塊世代の労働運動家の「ヒッカ」と3日間ほど対話してました。
取り上げたテーマはライフワークに深くかかわる部分でもあります、一度どなたかと議論しておきたかったのです。論点は次の四つです。
(1)マルクスは1867年に『資本論第一巻』を刊行してから死ぬまでの15年間、なぜ資本論第二巻を出版せずににだまり続けたのか?
(2)ヘーゲル弁証法で展開できたのは「資本の生産過程」まで。市場関係が入ってくるとヘーゲル弁証法では論理理解できないことを、『資本論第一巻』公刊後に知った、そこまで書き進めなければわからなかったということ。わたしは、いまから46年前、27歳の時にこの事実に気がつき愕然としました。高校2年生の時から、資本論の体系構成の方法に焦点を当てて読んでいたので、気がつきました。誰もそのことを指摘した人がいませんでしたので、修士論文では取り上げることができませんでした。それまでの資本論研究を覆す異端の説でした。
(3)マルクスは商品から出発して、資本を分析しても、新しい経済社会モデルを記述できないことがわかってしまいました。これもショックでした。この点ではマルクスとほとんど同じ、先が見えませんでした。
(資本論第一巻を出版した後に、方法に躓いたことに気がつき、それ以降の体系の叙述を断念せざるを得なくなったと同時に新しい経済社会モデルもその延長線上にはないことがわかってしまいました。)
(4)MEGA版として世に知られているたくさんの遺稿で、マルクス最後の年間にやっていたことが最近の研究で明らかになっています。その遺稿群から言えること(検証可能なこと)があります。
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』にはMEGA版の、その後のマルクスの研究がコモンやアソシエーションに移ったことが書かれています。マルクスは生産手段の共有化では新しい経済社会が作れないことがわかって、協同組合形式の企業による経済社会モデルを模索していたのです。利潤追求を目的とした企業ではないので、そこに活路を見出すしかなかったのです。無理でしたね。ソ連と中国は『資本論第一巻』のときのマルクスの言説に従って経済社会の建設をしましたが、見事に失敗しています。マルクス自身は晩年には生産手段の共有化では新しい経済モデルが作れないことを見抜いていました。でもいまさら、間違っていたとは言えぬ事情がありました。
わたしの(2)と(3)の論点が、(4)のMEGA版のマルクスの自身の遺稿で論証されたと言えます。
実は(2)の論点は、労働価値説が間違いであるという結論に導きます。市場関係を導入すると、過剰生産が労働価値説では説明ができないのです。どれだけ労働を投下しても、過剰生産されたものには価値がない、売れないのです。デジタル商品も再生産に労働は関係ありません、コピーするだけですから。それに加えて、価値形態論と生産過程での価値と使用価値の対立という論理図式が、市場関係を導入したとたんに破綻してしまうのです。市場価格、個別的生産価格、使用価値と主要な概念は三つあります。ヘーゲル弁証法は二項対立図式ですから、アウトなのです。わたしが気がついたぐらいだから、マルクスも資本論第二巻の原稿を書き始めて初めて方法的な破綻に気がついたのでしょう。市場関係では使用価値が一番基本的な概念ですから、労働価値説が破綻します。「搾取理論」である「剰余価値学説」が破綻しています。これらは稿を変えて詳細に論じます。
同世代の労働運動家との対話を投稿欄へ転載します。前半部分のみ掲載してきます。新しい経済社会に関する対話が後半部分です。これも別稿で扱います。
ソネットブログはワードで作成した文書を貼り付けられないのですが、投稿欄ならコピー&ペーストができますので、本欄ではなく、投稿欄をお読みください。
労働運動家のハンドルネームを「ヒッカ」としてあります。
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取り上げたテーマはライフワークに深くかかわる部分でもあります、一度どなたかと議論しておきたかったのです。論点は次の四つです。
(1)マルクスは1867年に『資本論第一巻』を刊行してから死ぬまでの15年間、なぜ資本論第二巻を出版せずににだまり続けたのか?
(2)ヘーゲル弁証法で展開できたのは「資本の生産過程」まで。市場関係が入ってくるとヘーゲル弁証法では論理理解できないことを、『資本論第一巻』公刊後に知った、そこまで書き進めなければわからなかったということ。わたしは、いまから46年前、27歳の時にこの事実に気がつき愕然としました。高校2年生の時から、資本論の体系構成の方法に焦点を当てて読んでいたので、気がつきました。誰もそのことを指摘した人がいませんでしたので、修士論文では取り上げることができませんでした。それまでの資本論研究を覆す異端の説でした。
(3)マルクスは商品から出発して、資本を分析しても、新しい経済社会モデルを記述できないことがわかってしまいました。これもショックでした。この点ではマルクスとほとんど同じ、先が見えませんでした。
(資本論第一巻を出版した後に、方法に躓いたことに気がつき、それ以降の体系の叙述を断念せざるを得なくなったと同時に新しい経済社会モデルもその延長線上にはないことがわかってしまいました。)
(4)MEGA版として世に知られているたくさんの遺稿で、マルクス最後の年間にやっていたことが最近の研究で明らかになっています。その遺稿群から言えること(検証可能なこと)があります。
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』にはMEGA版の、その後のマルクスの研究がコモンやアソシエーションに移ったことが書かれています。マルクスは生産手段の共有化では新しい経済社会が作れないことがわかって、協同組合形式の企業による経済社会モデルを模索していたのです。利潤追求を目的とした企業ではないので、そこに活路を見出すしかなかったのです。無理でしたね。ソ連と中国は『資本論第一巻』のときのマルクスの言説に従って経済社会の建設をしましたが、見事に失敗しています。マルクス自身は晩年には生産手段の共有化では新しい経済モデルが作れないことを見抜いていました。でもいまさら、間違っていたとは言えぬ事情がありました。
わたしの(2)と(3)の論点が、(4)のMEGA版のマルクスの自身の遺稿で論証されたと言えます。
実は(2)の論点は、労働価値説が間違いであるという結論に導きます。市場関係を導入すると、過剰生産が労働価値説では説明ができないのです。どれだけ労働を投下しても、過剰生産されたものには価値がない、売れないのです。デジタル商品も再生産に労働は関係ありません、コピーするだけですから。それに加えて、価値形態論と生産過程での価値と使用価値の対立という論理図式が、市場関係を導入したとたんに破綻してしまうのです。市場価格、個別的生産価格、使用価値と主要な概念は三つあります。ヘーゲル弁証法は二項対立図式ですから、アウトなのです。わたしが気がついたぐらいだから、マルクスも資本論第二巻の原稿を書き始めて初めて方法的な破綻に気がついたのでしょう。市場関係では使用価値が一番基本的な概念ですから、労働価値説が破綻します。「搾取理論」である「剰余価値学説」が破綻しています。これらは稿を変えて詳細に論じます。
同世代の労働運動家との対話を投稿欄へ転載します。前半部分のみ掲載してきます。新しい経済社会に関する対話が後半部分です。これも別稿で扱います。
ソネットブログはワードで作成した文書を貼り付けられないのですが、投稿欄ならコピー&ペーストができますので、本欄ではなく、投稿欄をお読みください。
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#4776「搾取」の理論的根拠は不払い労働と労働価値説(1):マルクスの幻想 July 7, 2022 [98-0マルクス経済学批判]
「資本家が労働者を搾取」するというのは、資本家が対象化された人間労働の一部を不払いするからだというのが、マルクス『資本論』(1867年)の主張です。もちろん、労働価値説に基づいています。剰余価値学説は労働価値説から派生した理論なのです。
では、労働価値説が現実に根拠をもたぬ幻想だとしたらどうなるのでしょう?もちろん、剰余価値学説も搾取も幻想になります。
数回に分けて論じようと思います。
資本論を構成している論理はヘーゲル(1770-1831年)弁証法です。マルクスの時代に流行った哲学でした。ヘーゲル弁証法は2項対立図式で説明されます。「正・反」の二項対立が一段階アップして「合」にいたります。資本論は価値と使用価値の対立図式で描かれているのです。唯物史観も同じヘーゲル弁証法でできています。ヘーゲル弁証法が現実と一致しないのなら、階級闘争史観である唯物史観も崩れるのです。
科学の方法論としては、17世紀にデカルトが『方法序説』で諸学をさまざま分析・検討した結果、「科学の方法 四つの規則」に言及しています。マルクスは哲学者でもあり数学者でもあったデカルトをスルーしました。なぜでしょう?
演繹的な学問体系の最初のものはユークリッド『原論』です。これは数学書です。ギリシアの自然哲学概念をドクター論文の題材としたマルクスは、どうしてギリシア数学のこの『原論』に言及していないのでしょう?学位論文のタイトルは『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』となっています。
マルクスの『数学手稿』を見たらわかります。彼は数学が苦手でした。微分の無限小概念が理解できなかったくらいですから、数学書を読んでも理解できなかった可能性が大きい。おそらくは読まなかった。興味の対象ではなかったのでしょう。
それで、選択肢が狭まってしまいました。経済学の体系構成の方法はユークリッド『原論』で演繹的体系構成が確立されており、デカルトも『方法序説』で言及していたにもかかわらず、マルクスにはヘーゲル弁証法しかなかった。スタート地点から選択を間違えていたのです。
ヘーゲル弁証法では、概念的把握は現実性と一致しなければなりません。ヘーゲル弁証法を用いた場合に、労働価値説は現実と一致するかという問題が生じます。マルクスは市場関係で重大な方法的間違いに行きついたのです。大きな暗礁に乗り上げ、無残にも彼の資本論は壊れたのです。予定されていた二巻以降が書けなくなり、その後も経済学研究をつづけるも、資本論第一巻の続編を出版できませんでした。何も事情を知らぬエンゲルスが、マルクスの死後、遺稿を集めて資本論第2巻と第三巻を出版してしまいました。マルクスは泉下で臍(ほぞ)を噛んでいるでしょう。
労働価値説は案外もろいものなのです。次回書くことになりますが、市場関係で二項対立図式を論理展開するときに破綻すると同時に現実と一致しません。生産関係(生産過程論)までは破綻せずにすみました。
平面座標(デカルト座標)で有名なデカルト(1596-1650)が科学の方の方法について、いろいろ分析した結果の結論が、『方法序説』「科学の方法 四つの規則」としてまとめられています。ユークリッド『原論』と同じ理由でマルクスはおそらく読んでいませんね。
デカルトの「科学の方法 四つの規則」はヘーゲル弁証法とはまったく異なる方法です。でも、資本論の論理展開と類似しているところもあります。ああ、デカルトは「我思ふゆえに我在り」で有名な哲学者でもありました。
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<デカルト 科学の四つの規則>
まだ若かった頃(ラ・フェーレシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数を、少し熱心に学んだ。この三つの技術ないし学問は、わたしの計画にきっと何か力を与えてくれると思われたのだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。ます論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、道のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり、余計だったりするものが多くまじっていて、それらを選り分けるのは、まだ、下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を彫り出すのと同じくらい難しい。次に古代人の解析と現代人の代数は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことだけに用いられている。そのうえ解析はつねに図形の考に縛りつけられているので、知性を働かせると、想像力をひどく疲れさせてしまう。そして代数では、ある種の規則とある種の記号にやたらとらわれてきたので、精神を培う学問どころか、かえって、精神を混乱に陥れる、錯雑で不明瞭な術になってしまった。以上の理由でわたしは、この三つの学問(代数学・幾何学・論理学)の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければと考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという、堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、なにもわたしの判断の中に含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三に、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
デカルト流に言うと、マルクスは資本家的生産様式の社会の富は巨大な商品集積として現れることから、もっとも単純なものとしてその体系の端緒に商品を措定しました。デカルトの「科学の方法」「第三の規則」と一緒です。それが「価値表現の関係」⇒「交換関係」⇒「生産過程」と階段を上って複雑なものになっていきます。マルクスはそこで行き詰まってしまった。「市場関係」では価値と使用価値の二項対立図式では描けないことがわかってしまったとうのがわたしの推論です。
理由は次回以降で述べたいと思います。
「#4751 資本論:マルクスの出発点について」
<限界効用学説の出現>
マルクス(1818-1883年)が資本論第一巻を出版したのが1867年、その後亡くなる1883年まで16年間経済学研究をつづけるも、著作はだしていません。死ぬまで沈黙を続けています。
その間に限界効用学説が現れ、3人の経済学者が本を書いています。
●カールメンガ― 1840-1921年 『国民経済学原理』1871年
●ウィリアム・スタンレー・ジェボンズ 1835-1892年 『経済学理論』1871年
●レオン・ワルラス 1834-1910年 『純粋経済理論』1874年
限界効用理論は微分が使われていますから、『数学手稿』から推してマルクスが理解できたとは思えません。沈黙の16年間の間に、限界効用学説に基づく三人の経済学者が現れていますから、彼らの著作を手には取ったでしょうね。マルクスにとってはとどめの一撃だったのかもしれません。体系構成の方法で行き詰まりを自覚した、その後に打開の方法を求めて研究を続けるうちに、数学の素養が足りないばかりに、四則演算のみで微分を理解できなかったことで、計算技術においても資本論が時代遅れであることを悟ってしまった。いまさら間違っていたと言えないし、計算技術においても稚拙であったとは吐露できなかった、そうわたしは思います。
市倉宏祐教授の「一般教養ゼミ」で資本論第3巻を読んでいた時に、『資本論』には四則演算だけでなぜ微分積分が出てこないのかという素朴な疑問が生じたのです。その理由は後に『数学手稿』を読むことでわかりました。彼は微分積分が理解できない数学の劣等生だったからです。じつに単純な理由でした。
では、労働価値説が現実に根拠をもたぬ幻想だとしたらどうなるのでしょう?もちろん、剰余価値学説も搾取も幻想になります。
数回に分けて論じようと思います。
資本論を構成している論理はヘーゲル(1770-1831年)弁証法です。マルクスの時代に流行った哲学でした。ヘーゲル弁証法は2項対立図式で説明されます。「正・反」の二項対立が一段階アップして「合」にいたります。資本論は価値と使用価値の対立図式で描かれているのです。唯物史観も同じヘーゲル弁証法でできています。ヘーゲル弁証法が現実と一致しないのなら、階級闘争史観である唯物史観も崩れるのです。
科学の方法論としては、17世紀にデカルトが『方法序説』で諸学をさまざま分析・検討した結果、「科学の方法 四つの規則」に言及しています。マルクスは哲学者でもあり数学者でもあったデカルトをスルーしました。なぜでしょう?
演繹的な学問体系の最初のものはユークリッド『原論』です。これは数学書です。ギリシアの自然哲学概念をドクター論文の題材としたマルクスは、どうしてギリシア数学のこの『原論』に言及していないのでしょう?学位論文のタイトルは『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』となっています。
マルクスの『数学手稿』を見たらわかります。彼は数学が苦手でした。微分の無限小概念が理解できなかったくらいですから、数学書を読んでも理解できなかった可能性が大きい。おそらくは読まなかった。興味の対象ではなかったのでしょう。
それで、選択肢が狭まってしまいました。経済学の体系構成の方法はユークリッド『原論』で演繹的体系構成が確立されており、デカルトも『方法序説』で言及していたにもかかわらず、マルクスにはヘーゲル弁証法しかなかった。スタート地点から選択を間違えていたのです。
ヘーゲル弁証法では、概念的把握は現実性と一致しなければなりません。ヘーゲル弁証法を用いた場合に、労働価値説は現実と一致するかという問題が生じます。マルクスは市場関係で重大な方法的間違いに行きついたのです。大きな暗礁に乗り上げ、無残にも彼の資本論は壊れたのです。予定されていた二巻以降が書けなくなり、その後も経済学研究をつづけるも、資本論第一巻の続編を出版できませんでした。何も事情を知らぬエンゲルスが、マルクスの死後、遺稿を集めて資本論第2巻と第三巻を出版してしまいました。マルクスは泉下で臍(ほぞ)を噛んでいるでしょう。
労働価値説は案外もろいものなのです。次回書くことになりますが、市場関係で二項対立図式を論理展開するときに破綻すると同時に現実と一致しません。生産関係(生産過程論)までは破綻せずにすみました。
平面座標(デカルト座標)で有名なデカルト(1596-1650)が科学の方の方法について、いろいろ分析した結果の結論が、『方法序説』「科学の方法 四つの規則」としてまとめられています。ユークリッド『原論』と同じ理由でマルクスはおそらく読んでいませんね。
デカルトの「科学の方法 四つの規則」はヘーゲル弁証法とはまったく異なる方法です。でも、資本論の論理展開と類似しているところもあります。ああ、デカルトは「我思ふゆえに我在り」で有名な哲学者でもありました。
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<デカルト 科学の四つの規則>
まだ若かった頃(ラ・フェーレシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数を、少し熱心に学んだ。この三つの技術ないし学問は、わたしの計画にきっと何か力を与えてくれると思われたのだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。ます論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、道のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり、余計だったりするものが多くまじっていて、それらを選り分けるのは、まだ、下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を彫り出すのと同じくらい難しい。次に古代人の解析と現代人の代数は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことだけに用いられている。そのうえ解析はつねに図形の考に縛りつけられているので、知性を働かせると、想像力をひどく疲れさせてしまう。そして代数では、ある種の規則とある種の記号にやたらとらわれてきたので、精神を培う学問どころか、かえって、精神を混乱に陥れる、錯雑で不明瞭な術になってしまった。以上の理由でわたしは、この三つの学問(代数学・幾何学・論理学)の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければと考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという、堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、なにもわたしの判断の中に含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三に、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった。
デカルト『方法序説』 p.27(ワイド版岩波文庫180) *重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。
デカルト流に言うと、マルクスは資本家的生産様式の社会の富は巨大な商品集積として現れることから、もっとも単純なものとしてその体系の端緒に商品を措定しました。デカルトの「科学の方法」「第三の規則」と一緒です。それが「価値表現の関係」⇒「交換関係」⇒「生産過程」と階段を上って複雑なものになっていきます。マルクスはそこで行き詰まってしまった。「市場関係」では価値と使用価値の二項対立図式では描けないことがわかってしまったとうのがわたしの推論です。
理由は次回以降で述べたいと思います。
「#4751 資本論:マルクスの出発点について」
<限界効用学説の出現>
マルクス(1818-1883年)が資本論第一巻を出版したのが1867年、その後亡くなる1883年まで16年間経済学研究をつづけるも、著作はだしていません。死ぬまで沈黙を続けています。
その間に限界効用学説が現れ、3人の経済学者が本を書いています。
●カールメンガ― 1840-1921年 『国民経済学原理』1871年
●ウィリアム・スタンレー・ジェボンズ 1835-1892年 『経済学理論』1871年
●レオン・ワルラス 1834-1910年 『純粋経済理論』1874年
限界効用理論は微分が使われていますから、『数学手稿』から推してマルクスが理解できたとは思えません。沈黙の16年間の間に、限界効用学説に基づく三人の経済学者が現れていますから、彼らの著作を手には取ったでしょうね。マルクスにとってはとどめの一撃だったのかもしれません。体系構成の方法で行き詰まりを自覚した、その後に打開の方法を求めて研究を続けるうちに、数学の素養が足りないばかりに、四則演算のみで微分を理解できなかったことで、計算技術においても資本論が時代遅れであることを悟ってしまった。いまさら間違っていたと言えないし、計算技術においても稚拙であったとは吐露できなかった、そうわたしは思います。
市倉宏祐教授の「一般教養ゼミ」で資本論第3巻を読んでいた時に、『資本論』には四則演算だけでなぜ微分積分が出てこないのかという素朴な疑問が生じたのです。その理由は後に『数学手稿』を読むことでわかりました。彼は微分積分が理解できない数学の劣等生だったからです。じつに単純な理由でした。
#4758 資本論:マルクスの出発点について June 1, 2022 [98-0マルクス経済学批判]
数回に分けて、マルクス『資本論』の方法的な誤謬を具体的に明らかにし、マルクスやその後継者であるレーニンや毛沢東がなしえなかった、新しい経済社会のデザインの基礎的な部分を明らかにするのが本稿の目的である。それは共産主義社会ではない、資本主義経済社会モデルの新たなデザインである。マルクス『資本論』の先には新しい経済社会のデザインは現れない。労働価値説が間違っているからである、その根拠も明らかにするつもりだ。
マルクスは何を対象として経済学の分析を始めたのか、それは彼の経済学体系の方法論にもかかわる問題を孕(はら)んでいると同時に、その対象自身のDNAもまた問題にしなければならないことを明らかにしたい。それは今日の支配的な経済社会の有力な価値観になっているからである。ヨーロッパ社会の資本主義の特徴は「強欲」である。
マルクスによって書かれ、編集された『資本論』は1867年の初版第1巻のみで、編集方針を直接指示したのはフランス語版(ラシャトル版)しか存在しない。第2巻と第3巻はマルクス死後に遺稿を集めて並べたエンゲルスの創作である。
マルクス自身は資本論初版の後は、経済学研究をつづけたが、沈黙を守っている。没年の1883年3月14日まで16年間、書き溜め、経済学の研究ノートは書き進められたが、マルクスによって公刊されることはなかった。16年間の沈黙には重大な理由がなければならぬ。マルクスは自身の方法的な誤謬に気が付いたのだと思う。そのことに関しては明白な理由があるので次回以降で扱う。
今回は資本論初版に基づいてその冒頭部分と、対象となった英国の資本主義が受け継いでいるDNAに言及したい。
Der Reichtum der Gesellshaften, in welchen kapitalische Produktionsweise herrscht, ersheint als ein "ungeheute Waarensammelung ", die enzelene Waare als seine Elementarform. Unsere Untersuching beginnt daher mit der Analyse der Waare.
「資本主義的生産様式が支配している社会の富は「商品の巨大な集積」として表れ、個々の商品はその富の要素という形で表れている。したがって、我々の探求は、商品の分析をもって始められるのである。」
The wealth of those societies in which the capotalist mode of production prevails, presents it self as "an immenseaccumulation of commodities," its unit being a single commodity. Our investigation must therefore begin with the analysisof a commodity.
断りがない限り、ドイツ語引用は「資本論第一巻初版復刻版」(青木書店1977年第2刷り)、日本語訳は『マルクス著 牧野紀之訳 対訳初版資本論第一章』(鶏鳴双書1973年初版)からの引用である。英語版は第三版の英語翻訳(モスクワ1965年刊)による。
資本論初版は1867年の刊行で、その10年前からマルクスは『経済学批判要綱』(通称『グルントリッセ』)や『経済学批判』の草稿を書いている。マルクスが分析の対象としたのは産業革命以後の19世紀中葉のイギリスの経済社会であった。
用語に関して2-3注意したい。
マルクスはkapitalishe Productionsweiseと書いておりそのまま訳すと「資本家的生産様式」であって、「資本主義的生産様式」ではない。資本主義はcapitalismであってそのドイツ語はKapitalisumus。資本家的な生産様式が支配的となったイギリスの経済社会から資本論を書き始めていながら、「社会」は複数形「諸社会」になっているから、イギリス以外も想定していたということだ。他の国がイギリスの後を追うように単線的な発展形態をとると考えていたのだろうか。
資本家的生産様式が典型的に現れているのは製造業であった。その製造業では紡績業のように機械化によって飛躍的に生産性を上げてそれまでとは比較にならぬ量の商品生産している企業群がある。そういう現実を見て、「社会の富は巨大な商品集積として現れ」と表現した。もちろん、そうした機械化による大量生産ではない、手工業主体の製造業も併存していた。だから、それら相互の関係を表現して「資本家的生産様式が支配するherrschfen」と書いたのだろう。これからは「資本家的生産様式の支配する」大量生産の時代、そういう生産様式が製造業の中では力をもって手工業的な生産様式をも支配していくと理解すべきなのだろう。注意しなければいけないのはマルクスは生産業にしか言及していないということだ。資本家的生産様式が支配的となるのは製造業だが、商品生産は農業や漁業のような生産業の商品も含んでいる。だから、資本家的生産様式が支配する諸社会の富である商品とは、あらゆる産業が産み出す商品群を指していると読める。その中で支配的な位置を占めているのは大量生産の製造業である。製造業に関してはこれから「資本家的生産様式」が世界中の国々に浸透していくとマルクスは考えていたようである。『資本論』冒頭の文は、アダムスミスの『諸国民の富の性質と原因に関する一研究』"An inquiry into the nature and causes of the wealth of nations" というタイトルを想起させる。スミスは of nationsと書き、マルクスは der Gsellschftenと書いた。
関係代名詞がin welchenと対格(Akkusativ)になっていることから、資本家的生産様式が社会の隅々まで浸透していく様子を表している。herrschenは英語ではrule(支配する)であるが、いま述べたように「in+対格」を従えているので、英語訳版の方のpreveil(普及する、広く行われる)という訳語がドンピシャに感じる、うまいものだ。だが、単に普及していくのではない、他の生産様式が併存しながらも「大量生産製造業が支配的な生産様式」になっていくという意味が英語版には失われている。マルクスは生産様式と書き、製造業以外には言及していない。
マルクスは、サービス産業が製造業と肩を並べ、その世紀の終わりころには製造業を凌いでいるなんて20世紀の状況は考えられなかった。21世紀には形をもたない電子データの情報製品であふれている。マルクスが想定している商品が製造業に限定されたのは19世紀の現実に足場を置いて観察したからで、しかし、いま見れば、人間労働が商品の価値を規定するなんていう労働価値説は妄想でしかないことは明らかだ、は情報商品の価値は労働が規定するものではないことは明らかだ。
辞書を引いたら、managementに対応するドイツ語はdie Leitung である。kapitalishe Produktions weise 「資本家的経営様式 kapitalishe Leitungsweise」 と書いてくれたら、わたしにはすんなりわかる。他の産業も含むからだ。
労働価値説が企業経営の経験のないインテリ・マルクスの妄想だったことは次回以降で述べることになる。サムエルソンはその著書『経済学』の最終章でマルクスの時代には労働価値説が現実とマッチしていたと述べているが、サムエルソンには悪いが、当時も今もそんなマッチングはありえないと思うので、この点についても次回以降で具体的に明らかにしたい。
(実際は他の国では単線的には「資本家的生産様式」が浸透していかなかった。リストがドイツの後発性を採り上げ、自国産業育成のために保護貿易の必要をその著書で公表していた。自由貿易は先発のイギリスに圧倒的に有利でした。そのままでは他の国に「資本家的生産様式」が根付くことはなかったでしょう。マルクスがリストの『経済学の国民的体系』を読んでいたら、単線的な歴史観である唯物史観で割り切るようなことはなかったでしょうね。マルクスはステレオタイプで粗雑な歴史観で物事を見ています。)
そうした資本家的生産様式での生産物ではない商品もまたたくさんある。資本家的生産様式が支配的となる時代以前から連綿と続くさまざまな職人仕事による製品群もその中の一つである。例えば、パン屋、肉屋はそれぞれが職人仕事で19世紀は「手工業」に分類される。20世紀の終わりころにはパン屋も工場で大量生産されるようになったから、「手工業そして小売り」と「工場生産品」の2つの形態が併存している。21世紀になってからは情報商品という新しい商品群が重要な一角を占めるようになっているが、こういう種類の商品もマルクスの視野の外である。ちょっと厄介で、コピーするだけでいくらでも生産しうるのである。一度開発してしまえば、以降のコストはほとんどゼロ。労働価値説が通用するはずもない商品群の売上が急激に増大している。こういう変わり種といえる商品群もマルクスの分析の視野の外にあることは19世紀中葉の資本主義しか見ていないマルクスには当然のことである。そしてそれにとどまらぬ、製造業以外のサービス産業もマルクスの視野の外にあった。
日本について述べると、輸出製造業の製品割合は15%程度にすぎぬ。マルクスの理論、労働価値説ではこうした製造業以外の分野の商品群の説明ができないということ。
もう一つ重要な視点がある。19世紀中葉のイギリスの産業資本とその経営は、普遍的なものではなく、前時代からの「強欲性」という遺伝子をしっかり引き継いだ特殊ヨーロッパ的なものでもあった。15~16世紀初頭の大航海時代はヨーロッパの上流階級はオリエントとの貿易でほしいものを貪欲に手に入れようとしたが、支払い手段の金銀はすぐに底をついた。彼らはそういう貿易の隘路をどのように解決したのだろう?
「オリエントからは、樟脳、サフラン、大黄、タンニンなどの薬品、鉱物性の脂や揮発油などが輸入された。もっとも渇望されたのは、いうまでもなく砂糖や胡椒、グローブ、シナモン、ナツメグといった各種の香辛料だった。故障は一時期貨幣の役目をしていたこともあった。グローブの香辛料は故障の三倍の値段だった。さまざまな染料も輸入された。繊維では生糸と麻で、高級絹織物やビロード、金糸、銀糸も持ち込まれた。アジアを原産地とする宝石、サンゴ、真珠、高七陶磁器も運ばれてきた。これに対してヨーロッパが納入できた商品リストはささやかで、簡単だった。羊毛、皮革、毛皮そして蜜蠟である。このほかにはほとんど何も、地中海の向こう側の人たちを魅了できるものをヨーロッパは提供することができなかった。
オリエントとの交易は慢性的な赤字だった。ヨーロッパ人は、ヨーロッパの外の地域から購入したものはすべて金・銀で支払わなけてばならなかった。何トンもの金・銀がアラブ商人の懐に消えていった。
しかしヨーロッパ上流階級の人々のオリエント商品への渇望は、ドン予億で開くことを知らなかった。需要の増大に比例してヨーロッパの金・銀の貯蔵量は減少していった。そこで、何世紀にもわたってアジアへの輸出のために特別な商品が用意されたのだ。その商品とは、ヨーロッパ人の奴隷である。」
『驕れる白人と戦うために日本近代史』松原久子著・文芸春秋社2005年刊、123頁より
「しかし真実は、どれ雄はヨーロッパのオリエントへの主要な輸出品の一つだった。なぜならば、ヨーロッパは奴隷意外に商品価値をもったものは何もなかったからである。」同書124頁
「「奴隷(スレイブ)」は語源的に「スラブ人」と同じである。大掛かりな奴隷狩りが行われた。ポーランドからボルガ河畔に沿ってウラル山脈にいたるロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷狩りの専門家たちによって、スラブ人の男女たちが捕らえられたのである。」同書125頁
ウクライナへロシアが侵攻して米国とEU諸国が武器を送って助けているが、400百年前にはウクライナ人を奴隷として売り飛ばしていたのは現在のEU諸国の上流階級の人々だった。米国の農場へ向けたアフリカの黒人奴隷貿易はそのあとである。つまり、欲しいものを手に入れるためなら奴隷狩りも、奴隷売買も厭わない強欲な者たちであった。貿易は国家の事業かあるいは民間のお金を集めてなされた、株式会社制度の前段階である。一航海してたくさんの商品をオリエントから持ち帰り、利益を分配した。何でもありの強欲資本主義の遺伝子は産業革命の300年前に創られていたのである。そしてそれは次第に企業形態を高度化させ、東インド会社にも、それ以降の会社組織にも形を変えて忠実に引き継がれているようにみえる。東インド会社はインドの優秀な若者たちがイギリスに反抗することを恐れて、両腕を切り落とし勉学できないようにしている。ビジネスのためなら、利益を極大化するためなら何でもありなのである。
明治期の産業革命以前の日本はヨーロッパとはまったく違う発展をしている。ビジネスに倫理規範がすでにあった。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は近江商人の商売の倫理だが、広く普遍的なものになっている。住友家の家訓にもあるように「浮利を追わない」というのも日本のビジネスの伝統的な価値観の一つである。欧米の資本主義と比較すると、お互いの特徴がよくわかる。
産業革命以後を見ると、国によって違いが濃く出ているように見える。ドイツはイギリスに遅れて産業革命を迎える。イギリスから廉価な輸入品であふれかった「未開」のドイツが自国の産業を育成するためには保護貿易が必要だった。リストは『経済学の国民的体系』(1841年刊)でそのことに言及している。リストの重要性を教えてくれたのは西洋経済史の大家である増田四郎先生である。増田先生と他に2人の大学院生とともに、1年間かけてリストを読んだ、至福の時だったなあ。マルクスはこの著作を読んでいただろうか?
<まとめ>
19世紀イギリスの資本家的な生産様式は先進事例であると同時に、「飽くことのない強欲なビジネス哲学」という特殊な色合いをまとっていた。そのDNA「強欲さ」は20世紀になって覇権がイギリスから米国へ遷っても引き継がれている。配当を多くし、経営が困難になれば平気でレイオフし、経営者が10億円もの年収を得るようなことが平気で行われている。
対照的なのが、江戸期に普及した日本の商道徳である。「売り手よし買い手よし世間よしの三方よし」は利潤の極大化を目的にしない、信用第一にして周りと調和した商売のスタイルを築き上げた。強欲や「浮利」を追うことを嫌うのが日本人が育んできたビジネス倫理である。
<次回以降>
資本論の方法論であるヘーゲル弁証法の基本的な欠陥に言及し、順次、労働価値説が虚妄の理論であることを明らかにしたい。マルクスの方法はヘーゲルというよりもむしろデカルトの「科学の方法第三の規則」と同じもので、プルードンの「系列の弁証法」にも似ている。これも次回以降で詳論したい。
『人新世の資本論』の著者斎藤幸平氏が『資本論』に経済の行き詰まりを打開する方法があるという主張をしているようなので、そのあたりも取り上げていきたい。
マルクスは資本の私的所有に問題があると言っているが、共産主義社会の具体的なビジョンには数か所しか言及がない。「生産手段の私的所有」をテーゼとすると、そのアンチテーゼは「資本(生産手段)の協同化」である。ロシアでレーニンが、中国で毛沢東が資本の国有化をやったが、労働者の搾取が資本家から国家に変わっただけのように見えるが、なぜそういうことが起きるのかにも次回以降で言及したい。
経済社会の分析とあたらしい経済社会の創造はまったく別の仕事であることが明らかになる。マルクスにもレーニンにも毛沢東にも、それらの後継者たちもの不可能だった。新しい経済社会モデルのデザインは働いたことのない、あるいは経営に携わったことのないインテリには無理なことが明らかになるだろう。
マルクスは企業経営がわからず、工場経営をしていたエンゲルスに資本回転率について何度も問い合わせている。全世界の企業が採用している複式簿記の知識もない。必要なスキルをもたずにとても狭い窓からしか経済社会を見ていなかったのである。頼りにしたのは当時の流行り病のヘーゲル弁証法だった。二項対立で描けるほど経済社会は単純ではないということも具体的に明らかにしたい。
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牧野紀之訳「対訳初版資本論第一章」鶏鳴双書3、1973年初版が検索しても出てこないので、別のモノを紹介します。
マルクスは何を対象として経済学の分析を始めたのか、それは彼の経済学体系の方法論にもかかわる問題を孕(はら)んでいると同時に、その対象自身のDNAもまた問題にしなければならないことを明らかにしたい。それは今日の支配的な経済社会の有力な価値観になっているからである。ヨーロッパ社会の資本主義の特徴は「強欲」である。
マルクスによって書かれ、編集された『資本論』は1867年の初版第1巻のみで、編集方針を直接指示したのはフランス語版(ラシャトル版)しか存在しない。第2巻と第3巻はマルクス死後に遺稿を集めて並べたエンゲルスの創作である。
マルクス自身は資本論初版の後は、経済学研究をつづけたが、沈黙を守っている。没年の1883年3月14日まで16年間、書き溜め、経済学の研究ノートは書き進められたが、マルクスによって公刊されることはなかった。16年間の沈黙には重大な理由がなければならぬ。マルクスは自身の方法的な誤謬に気が付いたのだと思う。そのことに関しては明白な理由があるので次回以降で扱う。
今回は資本論初版に基づいてその冒頭部分と、対象となった英国の資本主義が受け継いでいるDNAに言及したい。
Der Reichtum der Gesellshaften, in welchen kapitalische Produktionsweise herrscht, ersheint als ein "ungeheute Waarensammelung ", die enzelene Waare als seine Elementarform. Unsere Untersuching beginnt daher mit der Analyse der Waare.
「資本主義的生産様式が支配している社会の富は「商品の巨大な集積」として表れ、個々の商品はその富の要素という形で表れている。したがって、我々の探求は、商品の分析をもって始められるのである。」
The wealth of those societies in which the capotalist mode of production prevails, presents it self as "an immenseaccumulation of commodities," its unit being a single commodity. Our investigation must therefore begin with the analysisof a commodity.
断りがない限り、ドイツ語引用は「資本論第一巻初版復刻版」(青木書店1977年第2刷り)、日本語訳は『マルクス著 牧野紀之訳 対訳初版資本論第一章』(鶏鳴双書1973年初版)からの引用である。英語版は第三版の英語翻訳(モスクワ1965年刊)による。
資本論初版は1867年の刊行で、その10年前からマルクスは『経済学批判要綱』(通称『グルントリッセ』)や『経済学批判』の草稿を書いている。マルクスが分析の対象としたのは産業革命以後の19世紀中葉のイギリスの経済社会であった。
用語に関して2-3注意したい。
マルクスはkapitalishe Productionsweiseと書いておりそのまま訳すと「資本家的生産様式」であって、「資本主義的生産様式」ではない。資本主義はcapitalismであってそのドイツ語はKapitalisumus。資本家的な生産様式が支配的となったイギリスの経済社会から資本論を書き始めていながら、「社会」は複数形「諸社会」になっているから、イギリス以外も想定していたということだ。他の国がイギリスの後を追うように単線的な発展形態をとると考えていたのだろうか。
資本家的生産様式が典型的に現れているのは製造業であった。その製造業では紡績業のように機械化によって飛躍的に生産性を上げてそれまでとは比較にならぬ量の商品生産している企業群がある。そういう現実を見て、「社会の富は巨大な商品集積として現れ」と表現した。もちろん、そうした機械化による大量生産ではない、手工業主体の製造業も併存していた。だから、それら相互の関係を表現して「資本家的生産様式が支配するherrschfen」と書いたのだろう。これからは「資本家的生産様式の支配する」大量生産の時代、そういう生産様式が製造業の中では力をもって手工業的な生産様式をも支配していくと理解すべきなのだろう。注意しなければいけないのはマルクスは生産業にしか言及していないということだ。資本家的生産様式が支配的となるのは製造業だが、商品生産は農業や漁業のような生産業の商品も含んでいる。だから、資本家的生産様式が支配する諸社会の富である商品とは、あらゆる産業が産み出す商品群を指していると読める。その中で支配的な位置を占めているのは大量生産の製造業である。製造業に関してはこれから「資本家的生産様式」が世界中の国々に浸透していくとマルクスは考えていたようである。『資本論』冒頭の文は、アダムスミスの『諸国民の富の性質と原因に関する一研究』"An inquiry into the nature and causes of the wealth of nations" というタイトルを想起させる。スミスは of nationsと書き、マルクスは der Gsellschftenと書いた。
関係代名詞がin welchenと対格(Akkusativ)になっていることから、資本家的生産様式が社会の隅々まで浸透していく様子を表している。herrschenは英語ではrule(支配する)であるが、いま述べたように「in+対格」を従えているので、英語訳版の方のpreveil(普及する、広く行われる)という訳語がドンピシャに感じる、うまいものだ。だが、単に普及していくのではない、他の生産様式が併存しながらも「大量生産製造業が支配的な生産様式」になっていくという意味が英語版には失われている。マルクスは生産様式と書き、製造業以外には言及していない。
マルクスは、サービス産業が製造業と肩を並べ、その世紀の終わりころには製造業を凌いでいるなんて20世紀の状況は考えられなかった。21世紀には形をもたない電子データの情報製品であふれている。マルクスが想定している商品が製造業に限定されたのは19世紀の現実に足場を置いて観察したからで、しかし、いま見れば、人間労働が商品の価値を規定するなんていう労働価値説は妄想でしかないことは明らかだ、は情報商品の価値は労働が規定するものではないことは明らかだ。
辞書を引いたら、managementに対応するドイツ語はdie Leitung である。kapitalishe Produktions weise 「資本家的経営様式 kapitalishe Leitungsweise」 と書いてくれたら、わたしにはすんなりわかる。他の産業も含むからだ。
労働価値説が企業経営の経験のないインテリ・マルクスの妄想だったことは次回以降で述べることになる。サムエルソンはその著書『経済学』の最終章でマルクスの時代には労働価値説が現実とマッチしていたと述べているが、サムエルソンには悪いが、当時も今もそんなマッチングはありえないと思うので、この点についても次回以降で具体的に明らかにしたい。
(実際は他の国では単線的には「資本家的生産様式」が浸透していかなかった。リストがドイツの後発性を採り上げ、自国産業育成のために保護貿易の必要をその著書で公表していた。自由貿易は先発のイギリスに圧倒的に有利でした。そのままでは他の国に「資本家的生産様式」が根付くことはなかったでしょう。マルクスがリストの『経済学の国民的体系』を読んでいたら、単線的な歴史観である唯物史観で割り切るようなことはなかったでしょうね。マルクスはステレオタイプで粗雑な歴史観で物事を見ています。)
そうした資本家的生産様式での生産物ではない商品もまたたくさんある。資本家的生産様式が支配的となる時代以前から連綿と続くさまざまな職人仕事による製品群もその中の一つである。例えば、パン屋、肉屋はそれぞれが職人仕事で19世紀は「手工業」に分類される。20世紀の終わりころにはパン屋も工場で大量生産されるようになったから、「手工業そして小売り」と「工場生産品」の2つの形態が併存している。21世紀になってからは情報商品という新しい商品群が重要な一角を占めるようになっているが、こういう種類の商品もマルクスの視野の外である。ちょっと厄介で、コピーするだけでいくらでも生産しうるのである。一度開発してしまえば、以降のコストはほとんどゼロ。労働価値説が通用するはずもない商品群の売上が急激に増大している。こういう変わり種といえる商品群もマルクスの分析の視野の外にあることは19世紀中葉の資本主義しか見ていないマルクスには当然のことである。そしてそれにとどまらぬ、製造業以外のサービス産業もマルクスの視野の外にあった。
日本について述べると、輸出製造業の製品割合は15%程度にすぎぬ。マルクスの理論、労働価値説ではこうした製造業以外の分野の商品群の説明ができないということ。
もう一つ重要な視点がある。19世紀中葉のイギリスの産業資本とその経営は、普遍的なものではなく、前時代からの「強欲性」という遺伝子をしっかり引き継いだ特殊ヨーロッパ的なものでもあった。15~16世紀初頭の大航海時代はヨーロッパの上流階級はオリエントとの貿易でほしいものを貪欲に手に入れようとしたが、支払い手段の金銀はすぐに底をついた。彼らはそういう貿易の隘路をどのように解決したのだろう?
「オリエントからは、樟脳、サフラン、大黄、タンニンなどの薬品、鉱物性の脂や揮発油などが輸入された。もっとも渇望されたのは、いうまでもなく砂糖や胡椒、グローブ、シナモン、ナツメグといった各種の香辛料だった。故障は一時期貨幣の役目をしていたこともあった。グローブの香辛料は故障の三倍の値段だった。さまざまな染料も輸入された。繊維では生糸と麻で、高級絹織物やビロード、金糸、銀糸も持ち込まれた。アジアを原産地とする宝石、サンゴ、真珠、高七陶磁器も運ばれてきた。これに対してヨーロッパが納入できた商品リストはささやかで、簡単だった。羊毛、皮革、毛皮そして蜜蠟である。このほかにはほとんど何も、地中海の向こう側の人たちを魅了できるものをヨーロッパは提供することができなかった。
オリエントとの交易は慢性的な赤字だった。ヨーロッパ人は、ヨーロッパの外の地域から購入したものはすべて金・銀で支払わなけてばならなかった。何トンもの金・銀がアラブ商人の懐に消えていった。
しかしヨーロッパ上流階級の人々のオリエント商品への渇望は、ドン予億で開くことを知らなかった。需要の増大に比例してヨーロッパの金・銀の貯蔵量は減少していった。そこで、何世紀にもわたってアジアへの輸出のために特別な商品が用意されたのだ。その商品とは、ヨーロッパ人の奴隷である。」
『驕れる白人と戦うために日本近代史』松原久子著・文芸春秋社2005年刊、123頁より
「しかし真実は、どれ雄はヨーロッパのオリエントへの主要な輸出品の一つだった。なぜならば、ヨーロッパは奴隷意外に商品価値をもったものは何もなかったからである。」同書124頁
「「奴隷(スレイブ)」は語源的に「スラブ人」と同じである。大掛かりな奴隷狩りが行われた。ポーランドからボルガ河畔に沿ってウラル山脈にいたるロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷狩りの専門家たちによって、スラブ人の男女たちが捕らえられたのである。」同書125頁
ウクライナへロシアが侵攻して米国とEU諸国が武器を送って助けているが、400百年前にはウクライナ人を奴隷として売り飛ばしていたのは現在のEU諸国の上流階級の人々だった。米国の農場へ向けたアフリカの黒人奴隷貿易はそのあとである。つまり、欲しいものを手に入れるためなら奴隷狩りも、奴隷売買も厭わない強欲な者たちであった。貿易は国家の事業かあるいは民間のお金を集めてなされた、株式会社制度の前段階である。一航海してたくさんの商品をオリエントから持ち帰り、利益を分配した。何でもありの強欲資本主義の遺伝子は産業革命の300年前に創られていたのである。そしてそれは次第に企業形態を高度化させ、東インド会社にも、それ以降の会社組織にも形を変えて忠実に引き継がれているようにみえる。東インド会社はインドの優秀な若者たちがイギリスに反抗することを恐れて、両腕を切り落とし勉学できないようにしている。ビジネスのためなら、利益を極大化するためなら何でもありなのである。
明治期の産業革命以前の日本はヨーロッパとはまったく違う発展をしている。ビジネスに倫理規範がすでにあった。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は近江商人の商売の倫理だが、広く普遍的なものになっている。住友家の家訓にもあるように「浮利を追わない」というのも日本のビジネスの伝統的な価値観の一つである。欧米の資本主義と比較すると、お互いの特徴がよくわかる。
産業革命以後を見ると、国によって違いが濃く出ているように見える。ドイツはイギリスに遅れて産業革命を迎える。イギリスから廉価な輸入品であふれかった「未開」のドイツが自国の産業を育成するためには保護貿易が必要だった。リストは『経済学の国民的体系』(1841年刊)でそのことに言及している。リストの重要性を教えてくれたのは西洋経済史の大家である増田四郎先生である。増田先生と他に2人の大学院生とともに、1年間かけてリストを読んだ、至福の時だったなあ。マルクスはこの著作を読んでいただろうか?
<まとめ>
19世紀イギリスの資本家的な生産様式は先進事例であると同時に、「飽くことのない強欲なビジネス哲学」という特殊な色合いをまとっていた。そのDNA「強欲さ」は20世紀になって覇権がイギリスから米国へ遷っても引き継がれている。配当を多くし、経営が困難になれば平気でレイオフし、経営者が10億円もの年収を得るようなことが平気で行われている。
対照的なのが、江戸期に普及した日本の商道徳である。「売り手よし買い手よし世間よしの三方よし」は利潤の極大化を目的にしない、信用第一にして周りと調和した商売のスタイルを築き上げた。強欲や「浮利」を追うことを嫌うのが日本人が育んできたビジネス倫理である。
<次回以降>
資本論の方法論であるヘーゲル弁証法の基本的な欠陥に言及し、順次、労働価値説が虚妄の理論であることを明らかにしたい。マルクスの方法はヘーゲルというよりもむしろデカルトの「科学の方法第三の規則」と同じもので、プルードンの「系列の弁証法」にも似ている。これも次回以降で詳論したい。
『人新世の資本論』の著者斎藤幸平氏が『資本論』に経済の行き詰まりを打開する方法があるという主張をしているようなので、そのあたりも取り上げていきたい。
マルクスは資本の私的所有に問題があると言っているが、共産主義社会の具体的なビジョンには数か所しか言及がない。「生産手段の私的所有」をテーゼとすると、そのアンチテーゼは「資本(生産手段)の協同化」である。ロシアでレーニンが、中国で毛沢東が資本の国有化をやったが、労働者の搾取が資本家から国家に変わっただけのように見えるが、なぜそういうことが起きるのかにも次回以降で言及したい。
経済社会の分析とあたらしい経済社会の創造はまったく別の仕事であることが明らかになる。マルクスにもレーニンにも毛沢東にも、それらの後継者たちもの不可能だった。新しい経済社会モデルのデザインは働いたことのない、あるいは経営に携わったことのないインテリには無理なことが明らかになるだろう。
マルクスは企業経営がわからず、工場経営をしていたエンゲルスに資本回転率について何度も問い合わせている。全世界の企業が採用している複式簿記の知識もない。必要なスキルをもたずにとても狭い窓からしか経済社会を見ていなかったのである。頼りにしたのは当時の流行り病のヘーゲル弁証法だった。二項対立で描けるほど経済社会は単純ではないということも具体的に明らかにしたい。
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牧野紀之訳「対訳初版資本論第一章」鶏鳴双書3、1973年初版が検索しても出てこないので、別のモノを紹介します。
資本論〔第1巻〕〈初版復刻版〉 「Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie」
- 作者: Karl Marx/著
- 出版社/メーカー: 青木書店
- 発売日: 2022/06/01
- メディア: 単行本
これは目から鱗が落ちるいい本です、おススメします。