#5276 四か月検診・検査結果 Aug. 23, 2024 [38. cancer]
8/9に採血した検査結果を聞くために、いつものクリニックを受診しました。
消化器内科の専門医の主治医が血圧を測ってくれて、76-120.いつも通りの結果でした。極東の町に住んでいた時には50-90~60-100の範囲でしたから、東京へ戻ってから、血圧がアップしました。新鮮な魚介類が豊富に食べられた極東の町とは食生活が異なるので、その結果かもしれません。
赤血球数とヘモグロビンが基準値下限をわずかに下回っていますが、これもいつも通りです。スキルス胃癌の手術をしてから19年目ですから、鉄欠乏性貧血は仕方がありません。オリヒロの「チュアブル鉄」を毎日一錠飲んでいるだけ。規定量の1/3ですが、これで何とかなっています。
体重は59.0kgで前回受診時と変化なしです。便は毎日あります。下痢の頻度が少なくなりました。
グルコースや中性脂肪が基準値上限をかなり超えています。グルコースが176(基準値上限は109)、トリグリ(TG)は180(基準値上限が149)でした。これは、毎日自家製ヨーグルトに果物をたっぷりトッピングして食べているのと、果物が好きなので多少多めにとっているからでしょう。胃がないので間食を3回しています。スィーツ3回は重要なカロリー補給源ですので、いまのところはやめる必要はないでしょう。18年間ずっと同じです。食事をし終わってから50分くらいで採血しているので、グルコースが高いのはそのせいもあります。そんなわけで特に問題はナシです。
気になったのはBUN(尿素窒素)が20.8(基準値上限が20.0)であったこと。数値自体は誤差範囲ですが、3日間ほど足の甲がむくんでいました。症状から見て腎機能に異常が出た可能性があります。要観察ですね。
NT-proBNPは心不全関係の検査項目です。検査値は55.5(基準値は125以下)ですから問題なしです。3/29にも検査してました。測定値は32.9でした。心房細動は4月以降は起きていません。ちゃんと配慮した生活をしています。
さて、こちらの7月の猛暑日は16日間、8月になってすでに10日間、合計で26日間になっています。東京の気温は五十数年前に比べるとずいぶん高くなりました。猛暑日なんてありませんでしたね。32~33度付近が年間の最高気温だったような気がします。
毎日エアコンをつけて寝ています。
みなさま、暑い折柄、ご自愛ください。
<余談:涼しい夏の思い出>
古里は極東に位置しています、日本一涼しい夏のある町です。
旬の秋刀魚が懐かしい。たっぷり脂ののった180gが珍しくありませんでした。焼いた後のオーブンのカナ皿には5mmくらいの脂の層ができてました。
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消化器内科の専門医の主治医が血圧を測ってくれて、76-120.いつも通りの結果でした。極東の町に住んでいた時には50-90~60-100の範囲でしたから、東京へ戻ってから、血圧がアップしました。新鮮な魚介類が豊富に食べられた極東の町とは食生活が異なるので、その結果かもしれません。
赤血球数とヘモグロビンが基準値下限をわずかに下回っていますが、これもいつも通りです。スキルス胃癌の手術をしてから19年目ですから、鉄欠乏性貧血は仕方がありません。オリヒロの「チュアブル鉄」を毎日一錠飲んでいるだけ。規定量の1/3ですが、これで何とかなっています。
体重は59.0kgで前回受診時と変化なしです。便は毎日あります。下痢の頻度が少なくなりました。
グルコースや中性脂肪が基準値上限をかなり超えています。グルコースが176(基準値上限は109)、トリグリ(TG)は180(基準値上限が149)でした。これは、毎日自家製ヨーグルトに果物をたっぷりトッピングして食べているのと、果物が好きなので多少多めにとっているからでしょう。胃がないので間食を3回しています。スィーツ3回は重要なカロリー補給源ですので、いまのところはやめる必要はないでしょう。18年間ずっと同じです。食事をし終わってから50分くらいで採血しているので、グルコースが高いのはそのせいもあります。そんなわけで特に問題はナシです。
気になったのはBUN(尿素窒素)が20.8(基準値上限が20.0)であったこと。数値自体は誤差範囲ですが、3日間ほど足の甲がむくんでいました。症状から見て腎機能に異常が出た可能性があります。要観察ですね。
NT-proBNPは心不全関係の検査項目です。検査値は55.5(基準値は125以下)ですから問題なしです。3/29にも検査してました。測定値は32.9でした。心房細動は4月以降は起きていません。ちゃんと配慮した生活をしています。
さて、こちらの7月の猛暑日は16日間、8月になってすでに10日間、合計で26日間になっています。東京の気温は五十数年前に比べるとずいぶん高くなりました。猛暑日なんてありませんでしたね。32~33度付近が年間の最高気温だったような気がします。
毎日エアコンをつけて寝ています。
みなさま、暑い折柄、ご自愛ください。
<余談:涼しい夏の思い出>
古里は極東に位置しています、日本一涼しい夏のある町です。
旬の秋刀魚が懐かしい。たっぷり脂ののった180gが珍しくありませんでした。焼いた後のオーブンのカナ皿には5mmくらいの脂の層ができてました。
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#5271 循環器専門医Dr. Iさんに相談 Aug. 10, 2024 [38. cancer]
昨日(8/9)気が向いたので、午後からクリニックへ受診に行ってきました。8月に行く予定になっていたので、とっても暑い(最高気温は35.8度)けど、出かけました。
昨日の循環器専門医はDr. Iでした。呼ばれて診察室へ入るなり、「わたしは2度目ですね」、そして「心配していました」、そうおっしゃった。4回目の受診で、今まではその都度担当医が変わりました。どうやら、毎週金曜日は4人のドクターが交代で派遣されているようです。
心配してくれたのは、電子カルテを見て、イグザレルト服用を6/1から中止していることを知ったからでしょう。
事情を説明しました。胃と胆嚢がないことと、横行結腸の一部切除をしているので、歯にトラブルがあると咀嚼できずにすぐに衰弱してしまうので、歯科治療を優先していますと話したら、それはそうしてくださいとのこと。
そういうわけで、抜歯したときにイグザレルトを飲んでいると問題が生じるので、仕方のない話です。
「どれくらい飲みましたか?」と訊かれて、4月に受診した時から5/31までの1.5か月間と答えました。2か月と10日間飲んでいません。
心拍数が190/分に上がった3回は、標高差60mの上り坂を自転車で時速10kmオーバーで登ったときと、孫と戯れながら駆け足で登ったとき、3度でした。そういうことをしないようにしたので、その後、心拍数が急激に上がったことは一度もありませんと報告しました。
たまたま、昨日中学生の時からの親友のYへ電話して、近況を訊いたら、7月に2週間脳塞栓症で入院治療したとのこと。心房細動があったのかと確認したら、あったと。具合が悪いのを少し我慢していたら、症状がきつくなりおかしいと気がつき、受診、即入院治療となりました。
わたしの一歩先を行っていたようで、親友が亡くなったら寂しいので、あいつも同じことを考えているでしょうね。同病相憐れむの図です。(笑)
同じ日に、高校の同級生で特に仲のよかったYの息子へ電話して、「お父さんその後どうしている?」と尋ねたら、「癌が消えました、髄膜炎を起こして身体にマヒが残っているので、地元の療養型病床の障碍者病棟へ入院してリハビリをしています」とのこと。危機は脱したようで、とっても嬉しい知らせでした。
昨年は、高校同級生のヒロシとムサシが1月と10月に亡くなっています。一緒に東京へ出てきた仲間、とっても寂しい思いをしました、いや、いまもしています。
サイトウタカオの弟子で劇画家になったタケシがたまに電話をかけてきます。お互いの生存確認を兼ねてね。みんな、どこかしら病気を抱えています。身体がポンコツになっていきますから仕方がありません。彼も同じ高校の同級生です。三年生の夏休みが終わると、学校をやめてサイトウタカオのところへ飛んでいきました。押しかけ弟子入りでした、思いっきりの好い奴です。(笑)『御用牙』という作品を記憶している人がいるでしょう。テレビドラマ化もされましたから。原作は小池一夫氏が書いていました。
話を元に戻しますが、ドクターの説明では、心房細動が起きてそのあとが危ないのだそうです。脳梗塞を起こすリスクが高くなります。Yが罹患した脳塞栓症は脳梗塞のひとつです。
カテーテルアブレーション手術は3か月間イグザレルトを飲んだ後でないとできないそうです。2度手術した人が職場の後輩(KY君)でいました、そういうこともあるのですねと言ったら、「4~5回の人もいます、効きの悪い人がいるんです」。わたしの場合は「効きがいいと思います」とのこと。心房細動が頻発するようになると、カテーテル・アブレーション手術の効きが悪くなるようです。
高周波電流で焼灼する方法と冷凍凝固する方法があると説明を受けました。「冷凍は液体窒素でやるのですか?」と確認したら、そうだとのこと。カテーテルで心臓の目標地点まで液体窒素が送り届けることが可能というのは、なかなか信じがたいですが、実際にやっているようですからね。細いカテーテル内を液体窒素が通過していくうちに、体温で液体窒素が温まりますから。手術を決める前に、具体的に尋ねてみようと思います。どちらかを選ばないといけません。
医療用の液体窒素は外科用に1980年頃産業用エレクトロニクス輸入専門商社の関商事(後に、セキテクノトロンと社名変更し、店頭公開、2010年頃に業績不振で上場廃止、他社へ吸収合併)が最初に扱いました。魚の目があったら取ってあげるよと、担当者が勧めてくれましたが、その時はありませんでしたので、試せませんでした。魔法瓶のような容器に液体窒素が充填してあり、30㎝くらいの金属棒をその中に突っ込んで、少量吸い込み、それを患部にたらします。するとその部分が壊死して、新しい細胞に入れ替わります。不思議でした。
歯科治療が終わったら、また受診して、カテーテルアブレーション手術をする方向で調整するつもりです。血液抗凝固剤イグザレルトを3か月間飲み続けるのは、まだ抵抗があります。脳出血のリスクが大きくなるからです。
不整脈も心房細動も自覚症状がありません、ドクターは念のために聴診器を当てて心音を聞いてくれました。
「大丈夫ですね!心房細動ありません!」
専門医のお墨付きがでました。ところで、Dr. Iは目の大きな女医さんです。
<余談:三人>
古里の極東の町へ35年ぶり(2002年)に戻ってきて、御仲人さんの北構保男先生のところへ挨拶に行きました。北構先生は根室印刷の創業者であると同時に考古学者、還暦を過ぎてからオホーツク沿岸の発掘調査に基づいた本を出版し、国学院大の文学博士の学位を取得されています。
根室商業を卒業して歯学部へ進学した田塚源太郎先生と高坂さんの3人で、銀座のデパート屋上で撮った写真が残っています。田塚先生は短歌を詠む人でした。遺稿があったので、奥様と二人の娘さんの協力を得て、北構先生が本にして出版しています。
同期がみんな亡くなって寂しいと仰っていました。田塚先生は国後島の蟹の大漁師の一人息子でした。5月になってから、根室商業に入学してきたと言ってました。田塚先生の2女と小中高とずっと同じクラスでした。そんなこともあって、小学生の頃はよくビリヤードの相手をして遊んでくれたのです。お人柄もよく存じています。北構先生は親友の田塚先生の昔話をするのがお好きでした。嬉しそうに、思い出しながら話してくれました。「こんな話のできるのは、もう君くらいしかいないよ」と言ってました。
昔話をする相手がいないので、時々きて話に付き合えと言われました。
戦時中に文科省からの依頼でベトナムの王族に日本語を教え、フランス語を教えてもらった話は面白かった。当時のベトナムはフランスの植民地でしたから、王族はフランス語が話せたのです。先生は井之頭線沿線に住んでおり、当時の様子を話してくれました。アテネフランセは通ってフランス語の勉強をしたことも。元々は新聞社を創業したかったようです。それが諸事情でかなわぬとなったときに、その代わりに印刷会社を...
根室市議を南紀かやった後、団塊世代のわたしが高校生の時に根室市長選挙に立候補して敗れたことがあります。その後政治の世界からはすっかり足を洗い、印刷業と考古学調査研究の2足の草鞋を履いていました
高校を卒業して、ヒロシとムサシと一緒に東京へ出てきて、三人でしか話せない昔話ももう不可能です。北構先生が、同期がみんな亡くなってしまって寂しいと言ったことが、いまはよくわかります。
昨日の循環器専門医はDr. Iでした。呼ばれて診察室へ入るなり、「わたしは2度目ですね」、そして「心配していました」、そうおっしゃった。4回目の受診で、今まではその都度担当医が変わりました。どうやら、毎週金曜日は4人のドクターが交代で派遣されているようです。
心配してくれたのは、電子カルテを見て、イグザレルト服用を6/1から中止していることを知ったからでしょう。
事情を説明しました。胃と胆嚢がないことと、横行結腸の一部切除をしているので、歯にトラブルがあると咀嚼できずにすぐに衰弱してしまうので、歯科治療を優先していますと話したら、それはそうしてくださいとのこと。
そういうわけで、抜歯したときにイグザレルトを飲んでいると問題が生じるので、仕方のない話です。
「どれくらい飲みましたか?」と訊かれて、4月に受診した時から5/31までの1.5か月間と答えました。2か月と10日間飲んでいません。
心拍数が190/分に上がった3回は、標高差60mの上り坂を自転車で時速10kmオーバーで登ったときと、孫と戯れながら駆け足で登ったとき、3度でした。そういうことをしないようにしたので、その後、心拍数が急激に上がったことは一度もありませんと報告しました。
たまたま、昨日中学生の時からの親友のYへ電話して、近況を訊いたら、7月に2週間脳塞栓症で入院治療したとのこと。心房細動があったのかと確認したら、あったと。具合が悪いのを少し我慢していたら、症状がきつくなりおかしいと気がつき、受診、即入院治療となりました。
わたしの一歩先を行っていたようで、親友が亡くなったら寂しいので、あいつも同じことを考えているでしょうね。同病相憐れむの図です。(笑)
同じ日に、高校の同級生で特に仲のよかったYの息子へ電話して、「お父さんその後どうしている?」と尋ねたら、「癌が消えました、髄膜炎を起こして身体にマヒが残っているので、地元の療養型病床の障碍者病棟へ入院してリハビリをしています」とのこと。危機は脱したようで、とっても嬉しい知らせでした。
昨年は、高校同級生のヒロシとムサシが1月と10月に亡くなっています。一緒に東京へ出てきた仲間、とっても寂しい思いをしました、いや、いまもしています。
サイトウタカオの弟子で劇画家になったタケシがたまに電話をかけてきます。お互いの生存確認を兼ねてね。みんな、どこかしら病気を抱えています。身体がポンコツになっていきますから仕方がありません。彼も同じ高校の同級生です。三年生の夏休みが終わると、学校をやめてサイトウタカオのところへ飛んでいきました。押しかけ弟子入りでした、思いっきりの好い奴です。(笑)『御用牙』という作品を記憶している人がいるでしょう。テレビドラマ化もされましたから。原作は小池一夫氏が書いていました。
話を元に戻しますが、ドクターの説明では、心房細動が起きてそのあとが危ないのだそうです。脳梗塞を起こすリスクが高くなります。Yが罹患した脳塞栓症は脳梗塞のひとつです。
カテーテルアブレーション手術は3か月間イグザレルトを飲んだ後でないとできないそうです。2度手術した人が職場の後輩(KY君)でいました、そういうこともあるのですねと言ったら、「4~5回の人もいます、効きの悪い人がいるんです」。わたしの場合は「効きがいいと思います」とのこと。心房細動が頻発するようになると、カテーテル・アブレーション手術の効きが悪くなるようです。
高周波電流で焼灼する方法と冷凍凝固する方法があると説明を受けました。「冷凍は液体窒素でやるのですか?」と確認したら、そうだとのこと。カテーテルで心臓の目標地点まで液体窒素が送り届けることが可能というのは、なかなか信じがたいですが、実際にやっているようですからね。細いカテーテル内を液体窒素が通過していくうちに、体温で液体窒素が温まりますから。手術を決める前に、具体的に尋ねてみようと思います。どちらかを選ばないといけません。
医療用の液体窒素は外科用に1980年頃産業用エレクトロニクス輸入専門商社の関商事(後に、セキテクノトロンと社名変更し、店頭公開、2010年頃に業績不振で上場廃止、他社へ吸収合併)が最初に扱いました。魚の目があったら取ってあげるよと、担当者が勧めてくれましたが、その時はありませんでしたので、試せませんでした。魔法瓶のような容器に液体窒素が充填してあり、30㎝くらいの金属棒をその中に突っ込んで、少量吸い込み、それを患部にたらします。するとその部分が壊死して、新しい細胞に入れ替わります。不思議でした。
歯科治療が終わったら、また受診して、カテーテルアブレーション手術をする方向で調整するつもりです。血液抗凝固剤イグザレルトを3か月間飲み続けるのは、まだ抵抗があります。脳出血のリスクが大きくなるからです。
不整脈も心房細動も自覚症状がありません、ドクターは念のために聴診器を当てて心音を聞いてくれました。
「大丈夫ですね!心房細動ありません!」
専門医のお墨付きがでました。ところで、Dr. Iは目の大きな女医さんです。
<余談:三人>
古里の極東の町へ35年ぶり(2002年)に戻ってきて、御仲人さんの北構保男先生のところへ挨拶に行きました。北構先生は根室印刷の創業者であると同時に考古学者、還暦を過ぎてからオホーツク沿岸の発掘調査に基づいた本を出版し、国学院大の文学博士の学位を取得されています。
根室商業を卒業して歯学部へ進学した田塚源太郎先生と高坂さんの3人で、銀座のデパート屋上で撮った写真が残っています。田塚先生は短歌を詠む人でした。遺稿があったので、奥様と二人の娘さんの協力を得て、北構先生が本にして出版しています。
同期がみんな亡くなって寂しいと仰っていました。田塚先生は国後島の蟹の大漁師の一人息子でした。5月になってから、根室商業に入学してきたと言ってました。田塚先生の2女と小中高とずっと同じクラスでした。そんなこともあって、小学生の頃はよくビリヤードの相手をして遊んでくれたのです。お人柄もよく存じています。北構先生は親友の田塚先生の昔話をするのがお好きでした。嬉しそうに、思い出しながら話してくれました。「こんな話のできるのは、もう君くらいしかいないよ」と言ってました。
昔話をする相手がいないので、時々きて話に付き合えと言われました。
戦時中に文科省からの依頼でベトナムの王族に日本語を教え、フランス語を教えてもらった話は面白かった。当時のベトナムはフランスの植民地でしたから、王族はフランス語が話せたのです。先生は井之頭線沿線に住んでおり、当時の様子を話してくれました。アテネフランセは通ってフランス語の勉強をしたことも。元々は新聞社を創業したかったようです。それが諸事情でかなわぬとなったときに、その代わりに印刷会社を...
根室市議を南紀かやった後、団塊世代のわたしが高校生の時に根室市長選挙に立候補して敗れたことがあります。その後政治の世界からはすっかり足を洗い、印刷業と考古学調査研究の2足の草鞋を履いていました
高校を卒業して、ヒロシとムサシと一緒に東京へ出てきて、三人でしか話せない昔話ももう不可能です。北構先生が、同期がみんな亡くなってしまって寂しいと言ったことが、いまはよくわかります。
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1643年アイヌ社会探訪記: フリース船隊航海記録 (雄山閣BOOKS 13)
- 作者: 北構 保男
- 出版社/メーカー: 雄山閣
- 発売日: 1983/01/01
- メディア: ペーパーバック
アイヌ史断想―エミシ・エゾとの接点を求めて (1985年) (北海道ライブラリー〈24〉)
- 作者: 北構 保男
- 出版社/メーカー: 北海道出版企画センター
- 発売日: 2024/08/10
- メディア: -
#5260 消化器内科四か月検診 July 19, 2024 [38. cancer]
今日、消化器内科の四か月検診に行ってきました。
順番が来て診察室に入ると、消化器内科医の主治医は端末を叩いて、画面を見ています。
「スキルス胃癌で全摘、鉄欠乏性貧血だったね、前回鉄補充したのはいつだったかな?」
「3月20日ころです」
「まだ早いかもしれないが、鉄剤を打っておきますか?(血液)検査で確認してからでもいいが...」
「どちらでも構いません」
血圧を測って、聴診器を胸と背中に当てて診てくれました。血圧は78-126でした。前回とほとんど一緒です。
「体重は?」
「59kgを維持しています」
「心房細動の薬、夏休みがあるので、多めに出しておくね」
「いえ、歯科治療を受けているので、服薬はストップしています、今回は必要ありません」
その後、心房細動は起きていないし、不整脈の自覚症状もないことを伝えておきました。
「次回、血液検査します」
「はい」
鉄剤とビタミンB12を注射してもらいました。血液検査はなし、次回という指示は今までとは違っていました。四か月検診時に、毎回採血してもらっていました。おそらく、お忘れになったのでしょうね。四か月に一度では、詳しくは覚えていられませんから。
会計のときに、診察カードに「次回、血液検査あり」と書いたポストイットを貼付してあったので、
「次回とはいつのことでしょう?消化器内科医の院長先生の方は四か月に一度の診療です。次回なら11月になりますが。いつもなら今日採血して検査に回してもらってます」
8月に循環器内科医の診察に伺うことにしました。その時に消化器内科医の主治医の方の血液検査もしてくれませんかとお願いしました。おそらく院長もそういうつもりだったのでしょう。
循環器内科は毎回、違うドクターが診察してくれました。これまで3人です。カテーテル・アブレーション手術をそれぞれのドクターが勧めてくれました。勧め方の強さは三人三様でした。迷いました。(笑)
内容は理解したので、抗凝固剤の服用はこのまま中止し、様子見、そして心房細動が出るようなら、カテーテル・アブレーション手術をお願いするという線でお話しするつもりです。
消化器内科医の主治医には四か月に一度だと思い出すのがたいへんでしょうね。端末を操作しながら、どうだったのか記憶を探っている様子でした。わたしはたくさんの患者の内の一人、それも四か月に一度の診察にすぎませんから。
心房細動はその後起きていません。坂を駆け上がったりしない限り、起きないでしょう。自転車で標高差60mの坂を登る時も時速3.5~6km程度に抑えて、脈拍数が上がらないように気を付けています。
水曜日に歯科の1か月検診に行ってきました。ブリッジしている歯の片方の根が傷んでいるようで、レントゲンを撮り、修復できるかどうかドクターが検討してくれています。抜歯の可能性が高いようです。抜歯処置となれば出血するので、抗凝固剤のイグザレルト15mgは当分服用できません。
胃と胆嚢を全適し、横行結腸の一部切除をしているので、歯の治療が最優先なのです。咀嚼に問題があれば、腸内細菌叢が壊れます。消化できずに腸が炎症を起こして、衰弱することになります。
今体調がとっても好いのです。便もとってもいい。一昨年11月に極東の町から20年ぶりに戻ってきたときには、東京の夏を越せるかどうか、水分補給に問題を抱えているので不安でしたが、身体の方が危機を感じて、水分吸収能が上がりました。以前だと確実に下痢を起こすような量の、水分、例えば、「牛乳+ヨーグルト+ザバス」や青汁、煎茶やほうじ茶を毎日飲んでいますが、滅多に下痢を起こさなくなりました。身体の順応がありがたいです。
上り坂をゆっくり登っても心房細動が起きるようなら、循環器専門医が勧めてくれているようにカテーテル・アブレーション手術を選択するのがいいようです。あまり歓迎したくありません。数日入院するだけでも、体重減少が起きて、元に戻すのに数か月かかりますから。
<メモ>
スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、胃と胆嚢の全摘、浸潤していた大腸一部切除手術したのが2006年7月20でしたから、明日で満18年が経過し、19年目に入ります。ステージⅣで手遅れでしたが、なぜか生きています。助かるはずのない症例だと、二人のドクターから言われました。
17年間診察と治療をしてくれた消化器内科専門医の岡田優二先生と手術を担当してくれた消化器外科医の後藤幹裕先生に感謝。後藤先生当時は若かった。30歳くらいでした。
お陰様で生きてますよ!
あとは、食事が摂れなくなったら、そのまま枯れるように死にたい。苦しくありませんから。胃婁や経管栄養での延命は御免被ります。300ベッドの首都圏の療養型病院で「特例許可」から「療養型」への病棟建て替えと経営を依頼されて、老人医療の現場を1年半ほど覗きました。「痛くない、苦しくない、(死が)怖くない」の三つの「ない」でいいのです。生き方同様、死に方も自分で選びたい。でも、お迎えがいつ、どのように来るのかは誰にもわからない。(笑)
順番が来て診察室に入ると、消化器内科医の主治医は端末を叩いて、画面を見ています。
「スキルス胃癌で全摘、鉄欠乏性貧血だったね、前回鉄補充したのはいつだったかな?」
「3月20日ころです」
「まだ早いかもしれないが、鉄剤を打っておきますか?(血液)検査で確認してからでもいいが...」
「どちらでも構いません」
血圧を測って、聴診器を胸と背中に当てて診てくれました。血圧は78-126でした。前回とほとんど一緒です。
「体重は?」
「59kgを維持しています」
「心房細動の薬、夏休みがあるので、多めに出しておくね」
「いえ、歯科治療を受けているので、服薬はストップしています、今回は必要ありません」
その後、心房細動は起きていないし、不整脈の自覚症状もないことを伝えておきました。
「次回、血液検査します」
「はい」
鉄剤とビタミンB12を注射してもらいました。血液検査はなし、次回という指示は今までとは違っていました。四か月検診時に、毎回採血してもらっていました。おそらく、お忘れになったのでしょうね。四か月に一度では、詳しくは覚えていられませんから。
会計のときに、診察カードに「次回、血液検査あり」と書いたポストイットを貼付してあったので、
「次回とはいつのことでしょう?消化器内科医の院長先生の方は四か月に一度の診療です。次回なら11月になりますが。いつもなら今日採血して検査に回してもらってます」
8月に循環器内科医の診察に伺うことにしました。その時に消化器内科医の主治医の方の血液検査もしてくれませんかとお願いしました。おそらく院長もそういうつもりだったのでしょう。
循環器内科は毎回、違うドクターが診察してくれました。これまで3人です。カテーテル・アブレーション手術をそれぞれのドクターが勧めてくれました。勧め方の強さは三人三様でした。迷いました。(笑)
内容は理解したので、抗凝固剤の服用はこのまま中止し、様子見、そして心房細動が出るようなら、カテーテル・アブレーション手術をお願いするという線でお話しするつもりです。
消化器内科医の主治医には四か月に一度だと思い出すのがたいへんでしょうね。端末を操作しながら、どうだったのか記憶を探っている様子でした。わたしはたくさんの患者の内の一人、それも四か月に一度の診察にすぎませんから。
心房細動はその後起きていません。坂を駆け上がったりしない限り、起きないでしょう。自転車で標高差60mの坂を登る時も時速3.5~6km程度に抑えて、脈拍数が上がらないように気を付けています。
水曜日に歯科の1か月検診に行ってきました。ブリッジしている歯の片方の根が傷んでいるようで、レントゲンを撮り、修復できるかどうかドクターが検討してくれています。抜歯の可能性が高いようです。抜歯処置となれば出血するので、抗凝固剤のイグザレルト15mgは当分服用できません。
胃と胆嚢を全適し、横行結腸の一部切除をしているので、歯の治療が最優先なのです。咀嚼に問題があれば、腸内細菌叢が壊れます。消化できずに腸が炎症を起こして、衰弱することになります。
今体調がとっても好いのです。便もとってもいい。一昨年11月に極東の町から20年ぶりに戻ってきたときには、東京の夏を越せるかどうか、水分補給に問題を抱えているので不安でしたが、身体の方が危機を感じて、水分吸収能が上がりました。以前だと確実に下痢を起こすような量の、水分、例えば、「牛乳+ヨーグルト+ザバス」や青汁、煎茶やほうじ茶を毎日飲んでいますが、滅多に下痢を起こさなくなりました。身体の順応がありがたいです。
上り坂をゆっくり登っても心房細動が起きるようなら、循環器専門医が勧めてくれているようにカテーテル・アブレーション手術を選択するのがいいようです。あまり歓迎したくありません。数日入院するだけでも、体重減少が起きて、元に戻すのに数か月かかりますから。
<メモ>
スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、胃と胆嚢の全摘、浸潤していた大腸一部切除手術したのが2006年7月20でしたから、明日で満18年が経過し、19年目に入ります。ステージⅣで手遅れでしたが、なぜか生きています。助かるはずのない症例だと、二人のドクターから言われました。
17年間診察と治療をしてくれた消化器内科専門医の岡田優二先生と手術を担当してくれた消化器外科医の後藤幹裕先生に感謝。後藤先生当時は若かった。30歳くらいでした。
お陰様で生きてますよ!
あとは、食事が摂れなくなったら、そのまま枯れるように死にたい。苦しくありませんから。胃婁や経管栄養での延命は御免被ります。300ベッドの首都圏の療養型病院で「特例許可」から「療養型」への病棟建て替えと経営を依頼されて、老人医療の現場を1年半ほど覗きました。「痛くない、苦しくない、(死が)怖くない」の三つの「ない」でいいのです。生き方同様、死に方も自分で選びたい。でも、お迎えがいつ、どのように来るのかは誰にもわからない。(笑)
#5209 心臓超音波検査:39年前の桜吹雪&世界最先端の臨床検査ラボ Apr. 12, 2024 [38. cancer]
心臓超音波検査をしてきました。検査室に入って、上半身裸になって診察台に横になります。「長いですよ、1時間弱かかります、大丈夫ですか?」と言われて、
「大丈夫です、ところで超音波検査にはどのような資格が必要なのですか?」
と訊いたら、
「わたし検査技師です」
と即答。答え方がすこし妙に感じたので、
「わたしは検査会社にいたことあるけど検査技師さんは検体検査だけじゃなく心臓エコーもやるんだ」
そう伝えたら、
「わたし、(SRL八王子ラボ)細菌課にいました」
普通は会社名を言うのがあたりまえなのに、会社名は言わずにいきなり所属部署名で答えたことにおどろいて、ああ、SRL社員だったということ。社内での会話なら、会社名は聞く必要がありません、所属がどこかで事足ります。だが、わたしはSRLに勤務していたとは言ってない、「検査会社」にいたとだけ答えたはず。SRLで仕事していたことが前提になった返事だったので、
「いつの入社ですか?」
答え方が気になった理由がわかりました、面識があったのです。マスクしてたのでわかりませんでした。1985年の入社、小金井公園で桜が満開の時に会社でお花見をしましたが、その時の新入社員でした。
「カルテが回ってきて苗字を見たときにひょっとして...ラボにいたebisuさんが頭をかすめましたが、まさかと...やっぱりそうでした」
紙コップでお酒を飲んでいたら、花弁が一枚コップの中へ。そのまま飲み干して、「いい桜吹雪だ、散歩してこようかな」と立ち上がると、「わたしも行きます!」と元気な声、風が吹くたびに桜が舞い落ちる公園内を10分ほど一緒に散歩しました。午後2時ころだったかな。美しい桜のせいで腕くらい組んで歩いたかもしれません。風が吹くたびに満開の桜が花吹雪となって散っていく光景とともに記憶に深く刻まれました。
前年は(2/1に入社して)小金井公園で会社の花見をしました。仕事が終わってから夜桜でしたね。あそこは上野公園に雰囲気が似てます。小金井公園は様子が違います、桜の本数がだいぶ多いようで(ネットで検索したら1400本)、場所が広いこともあって込み合っていません。満開の桜が風が吹くたびに花弁(はなびら)が舞い散る中を歩くのは粋で、ちょっと都会っぽい雰囲気なのです。
だから、彼女のことを満開の桜が散っていく光景と同じくらい鮮明に覚えてました。
そして桜が満開のいま、今度は「患者と心臓エコー検査担当者」として再会、顔をじっと見たら、マスクをしたままでも新入社員のころの面影がしっかり残っていました。髪に白いものが混じっていただけ。ちょうど60歳になったと言ってました。こちらはすっかり「花咲かジジイ」になってます。(笑)
「ebisuさん痩せましたね」
「スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で手術をしてから10~12㎏減ってます」
あの当時は腹筋は6パックで68~70㎏の筋肉マンでしたから、細身になりました。よく気がついてくれました。
お陰で45分間の検査も退屈せずにすみました。丁寧な検査が身に沁みました。
八王子ラボでは一度だけ立ち話をした記憶があるだけ、37年ぶり、奇跡のような再会でした。なつかしかった。
そのあと、エコーの動画データは循環器のドクターのパソコンに送られて、それを見ながら診断。
心房肥大はないし心室も異常なし。収縮率もいいので20代の心臓とかわらないと循環器専門医の女医さん。てきぱきした診察でした。
薬は万一の時の血栓予防ですから、念のため継続して飲んでくださいと言われて、ゴールデンウィークが入るので40日分薬が出ました。
血圧120/90mg 脈拍75/分
NT-proBNPが32.9pg(基準値は125以下)で異常なし。
ALP(IFCC)が128でhigh、基準値は38-113
BNPに異常が出ていなければ、心房細動はごく初期で、問題なしなのです。そういうことを理解して循環器専門医の診断を聞いてます。
ALPは腎臓の尿細管の機能異常にかかわりがあります。国際基準値がIFCCのようです。ALP(アルカリフォスファターゼ)には国際基準値と日本基準値(JSCC)があります。Jの字がついているので「ああ、日本人の基準値だな」と気がつきます。基準値って案外緩くて、ときどき変わったりします。臨床検査会社によって基準値が違うこともあります。年齢によって基準値の違うものもあります。たとえば血圧は成人と高齢者は別。人種によって基準値の違う検査のひとつがALPですが、理由があります。脂質は何度か変わっていますね。どこまでが基準値で、どこからが病気だというのは判断が難しいのです。個人差もありますから。
過去の記事を調べたら、「#4200アルカリフォスファターゼ少し高め」が見つかりました。4年前に高かったことがありました。
出生前検査のトリプルマーカ―基準値(MoM値)も人種差の大きい検査です。白人を100とすると、黒人が120、日本人は130です。妊娠週令や体重でも値が違ってきますから、それらと検査値を入れてある計算式で判断しています。この基準値制定に関する妊婦6000人の検体をを集めた3年間にわたる慶応大学産婦人科との産学共同プロジェクトでやってます。プロジェクトのスタートは1990年だったかな。たまたま学術開発本部に異動したときに、暗礁に乗り上げていたのでわたしに「なんとかして」とお鉢が回ってきました。社会的な意義が大きいよい仕事でした。国際的にも意義の大きな研究になったので、担当ドクターは教授になれたでしょうね。費用は検査試薬を製薬メーカー2社に、検査と多変量解析はSRL負担でやりました。こういう調整は社内の技術屋さんと製薬メーカーの両方に個人的なコネクションがないとできません。もちろん担当ドクターとも一度会っただけで、具体的な構想を説明して役割分担を明らかにして信頼関係を築くことも大切です。一つの部署にいただけではできない仕事です。複数の分野の専門知識が必要になります。自慢話ではありませんよ、40年以上も前から、民間企業で重要な仕事は複数の専門分野の職人が集まってプロジェクトを組まないとできない仕事が増えていました。あの当時は時代が変わりつつありました、いまでは複数の分野の専門知識と経験を有していることがマネジメント分野では当たり前になっています。ところが、必要な専門分野のそれぞれに基礎的な理解のあるプロジェクトマネジャーがなかなか育っていないのです。専門用語で話さないと、誤解が生じるので、プロジェクトマネジャーには関連するそれぞれの分野の職人たちと専門用語でコミュニケーションすることが求められます。それぞれの分野にはスキルが高く気難しい職人タイプの人が時々いるので、こちらの力量もしっかり観察される場合があります。「値踏み」(英語ではsize up、音読トレーニングしているアガサの小説に出てきました)されるんです。(笑)
心臓エコー検査をやりながら、検査技師のKさんは患者さんへの基準値の説明がなかなか難しいと言ってました。絶対的なものだと思っている人が多いので、そうではないことを説明するのがたいへんだと。臨床検査会社の人間同士で話しているときには当たり前のことが、患者さんと話すときには当たり前ではないからです。
ところで、細菌検査はとっても危険な仕事なのです。結核菌の同定も毎日しますから、空気感染の恐れがどうしてもあります。だからSRLは一度でも細菌検査を担当したことのある社員が将来結核を発症した場合には、治療費はもちろんのこと休業補償まですることがルールになっています。多剤耐性の結核菌が増えているので、万一感染したら厄介ですから、長いこと担当する検査ではないのです。20代の頃に数年間細菌検査室勤務の経験のある同僚が定年間近になって結核を発症しました。細菌検査をしていたことと因果関係があるかないかは誰にもわかりません。そんなこととは関係なしに、とにかく細菌検査室で仕事したことがあればその事実だけで、SRLは約束通り医療費は出しますし休業補償もします。期限に制限はありません。転職してももちろんルールは適用されます。創業社長の藤田光一郎さんは社員思いの人でしたから、創業間もなく決められたルール、彼の経営方針です。
藤田さんの特命係で2度仕事しました。自己管理の厳しい人であると同時に冷徹な経営判断のできる経営者でした。毎月30項目ほど目標値と実績をメモして管理していました。社員と食事を10回、お客様を20回訪問する、などなど。今月は「20勝10敗」だなんて仰ってました。学術開発本部で仕事したときに、わたしの席の背中が社長室のパーティションでした。毎週、開発部のメンバーと社長が30分ほどミーティングしてましたから、わたしもそのメンバーの一人でした。取締役本部長直属のスタッフだったので、開発部と学術情報部と精度管理室の仕事を同時に担当してました。マネジメントの上手な使い勝手のよい部下だったと思います。本部内で処理しきれないマネジメントがらみの仕事を遠慮なしに片っ端から振ってきましたから。振ってくる仕事が面白かったのです、I神さんとはとっても相性がよかった。異動して半年後くらいに、「数年後にはebisuに使われているかもしれないな」なんて冗談言ってました。取締役学術開発本部長を使うの権限のあるのは代表取締役だけですから、でも買いかぶりでした。(笑)
入社時は上場準備要員として、経営統合システム開発と予算管理の仕事で経理部へ配属。1年間でシステム開発を完了し、3年目になろうとするときに、検査試薬の20%コストカットを提案し、購買課長が不可能というので、専務が「言い出しっぺのお前がやれ、プロジェクトをつくってやる」というので、2か月間の約束で購買課へ「社内出向」。それまでやっていた試薬卸業者との交渉を辞めて、製薬メーカーと直接の価格交渉、それが首尾よくいって16億円利益が増えました。そうしたら、そのまま購買課へ異動辞令が出ました。富士銀行から転籍した管理部門担当役員である谷口専務が、翌年の価格交渉も担当させたかったからです。3回やりました。合計50億円ほどコストカットしてます。試薬の卸業者には今まで通りのマージンを保障するように製薬メーカーにお願いしました。違反があれば検査試薬の卸業業者から報告が入るようにしてありました。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で試薬の購入と検査機器の購入交渉をしてました。購買課へ異動になってからルーチンワークは購買在庫管理システムの手直しと機器購入、検査機器の共同開発を担当、課内の業務の標準化、それでも暇を持て余してチョムスキーの"Knowledge of Language"を読んでいると、学術開発本部長のI神さんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を採り上げて確認し、すぐに折り返し電話がありました。1989年12月、「俺のところに来ないか?」、お誘いでした。OKすると2日後に人事部から異動辞令が出ました。開発部の製薬メーカーとの検査試薬共同開発業務をPERTチャートを利用して標準化、産学共同プロジェクト・マネジャーや海外製薬メーカからのラボツアー要望への対応、本部3部門の全員の業務棚卸と優先順位をつけて順位の低い仕事を3割カットなど、そういう仕事をしてました。1年半で91年4月に新設された関係会社管理部へ異動し、関係会社と子会社の経営分析と臨床検査会社の買収や資本提携交渉を担当。前職の産業用エレクトロニクスの輸入専門商社で1978年に開発してあった25項目5ディメンションの経営分析レーダーチャートと総合偏差値評価システムが役に立ちました。この仕事でHP67とHP97を使っていたので数値プログラミングを習得してます。1993年6月に資本提携した臨床検査会社へ経営企画室担当取締役で出向。3年の約束が、藤田さんの判断で15か月で出向解除。黒字化の具体案ができたので実行許可をもらいに本社へ行ったら、社長と専務に実行を拒否されました。3年で黒字化できるなんて思っていなかったのです。SRL本社よりも売上高経常利益率が高くなる損益シミュレーションがしてありました。子会社化も出向会社社長に飲んでもらっていましたから、SRLではナンバーワンの業績の子会社が誕生するところでした。子会社社長はSRLでは本社役員兼務です。ナンバーワンの業績なら常務取締役か線も取締役で処遇する必要がありましたから、それを嫌ったのです。1994年10月SRL本社経理部管理会計課長の異動辞令がありましたが、社長室と購買部が兼務になっていました。人事問題で我慢のならぬことがあったので、3か月後に経理部長に子会社への出向を要請、子会社のSRL東京ラボへ出向しました。やりたいことがやりたいようにできないなら、そんな部署に長居するつもりはありません。だけど、他の人にはできない仕事であった、富士通汎用大型機に載せていた購買在庫管理システムの更新は、サーバー・クライアントシステムで仕様書を書いて購買課のシステム担当者に渡してありました。富士通からの汎用大型機で提案書が出ていたので、システム部から出向していた担当者のS君むくれてました。わたしが1984年に経営統合システム開発をしたSEだとは知らなかったのです。素人の管理会計課長がなにをいうかというような横柄な態度でした。仕様書を見ても気がつかないのでは、相手にしませんでした。1週間ほどで実務設計とシステム仕様書を書き上げて渡しました。富士通の提案を廃棄して、クライアントサーバーシステムで購買在庫管理システムがちゃんと稼働してましたよ。経理担当部長も社長の近藤さんもご存じなかった。そんなに短期間で仕事ができる社員はいませんから。普通は実務設計書と仕様書を書くのに半年以上かかります。以前の購買在庫管理システムの外務設計はわたしが半分くらい仕様書を書いてあげてました。買掛金支払管理システムのテストをするために購買在庫管理システムが稼働しないとテストできませんから。3年ほど後で、システム部長のS田さんから丁重な謝罪がありました。「いつぞやはebisuさんのことを何も知りませんで、失礼しました」。彼は病理医、わたしがラボのただの機器購入担当だと当時は勘違いしていたのです。日本臨床検査項目コード制定で一緒に動いたシステム開発課長の栗原さんか、そして沖縄米軍への出生前検査導入でプログラマーとして仕事に付き合ってくれた上野君のどちらかがなにか云ったのだと思います。開発を外注していたNCDさんのSE4名が、一緒に1年間仕事したので私のスキルのほどはよく承知しています。産業用エレクトロニクスの輸入商社時代からオービックの芹沢SE、NEC情報サービスの高島SE、NCDの村山・塚田・鈴木・宇田SEなど業界トップレベルのSEとばかり仕事してました。SRLの統合経営情報システム開発は大型のパッケージスステム開発のような仕事でした。しかも業界初でした。よい仕事に恵まれました。
目まぐるしく異動、お陰で、退屈しない会社でした。一番古い子会社のSRL東京ラボへ出向し、最後は、その時社長だった近藤さんの特命プロジェクトで、帝人との治験合弁会社の経営を担当して、四項目の指示(期限通りの新会社スタート、黒字化、帝人との合弁解消と子会社化、帝人の臨床検査子会社の吸収)を2年半で達成し、「卒業」しました。100%子会社化すれば経営の全権を移譲されていたわたしはやりたい仕事(移籍する社員の給料をSRL以上にする、いつでも上場できる体制を整備する)ことができなくなります。仕事のできない人が誰か、新社長で回ってくるので、半年前から頼まれていた300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事を引き受けることにしました。シームレスな老人医療と介護を実現してみたいと夢を見てました。数年で目途はつけられます。数年待てばSRLでは50代前半のうちにSRL本社役員でしょうが、50歳を過ぎたらお金儲け仕事からは足を洗うつもりでした。古里に戻って、高校を卒業するまで育てくれたことへの恩返しが何かできないかと30代のころから考えていました。
96年11月、帝人との臨床治験合弁会社は、近藤さんが社長に就任して初めての一部上場企業との合弁という力量を問われる重要な大仕事でしたから、プロジェクトが途中で暗礁に乗り上げて、それを打開するために急遽わたしを使わざるを得なくなりました。プロジェクトメンバーに一人であるシステム屋のWさんが、「社内でこの仕事をやれるのはebisuさんだけだ」と主張したからです。そのときには子会社のSRL東京ラボで箕輪社長と新ラボ構想の最終段階に入っていました。91年7月に子会社の千葉ラボ(社名SMS)で生産性を2倍にアップする新システム導入「SMS再構築基本プラン」に関係会社管理部課長として関わっていたので、それをさらに進化させた、もっと低コストの世界最先端の自動化ラボをつくるつもりでした。理化学機器の中では臨床検査に使われていた機器には1970年代終わりごろからマイクロ波計測器には標準装備だった双方向インターフェイスバスがありません。購買課で2年半仕事したときに、機器メーカーにしっかりコネをつくっておいたので、SRLへの検査機器導入にはGPIBを標準バスに指定するつもりでした。双方向のバスでないと機器が制御できないからです。たとえば、検査データを処理していて、統計処理をオンラインでやって異常なデータが頻繁に出続けたら、それは機器の不良と判断し、機械をストップさせてチェックするとか、再現性を改善するために「1時間プレヒーティング」するとか、コントロールを定期的にあるいは随時入れて、機器の精度をチェックする、そういうことが可能になります。24時間稼働させるためには機器の制御がどうしても必要です。双方向インターフェイスバスがあれば精度保証がいままでの自動化とはワンステップ別物になります。自動化が低コストでできます。機器製造メーカーにはGPIBを前提に機器をつくってもらうことになります。SRLだけでは無理で、取引業者にも構想を明らかにして協力をお願いしないといけません。それで、一般検査市場でもナンバーワンを企業を目指すつもりでした。SRL東京ラボだけでSRL親会社の半分程度の売上は見込めました。地域別に一般検査会社をつくり、高生産性&低コストのラボを設置すれば、保険点数の50%のディスカウントで、BMLの大口ユーザを絨毯爆撃すれば販路拡大が簡単にできます。SRL営業担当役員は3人いましたが、いくら変わっても営業戦略を練り上げることのできる人がいませんでした。一般検査市場は、SRLが対象としていた特殊検査市場よりも数倍大きいのです。簡単なことでした。
近藤さん、わたしを帝人との合弁会社に投入したのは仕方がなかったとはいえ、その経営判断は誤りであったかもしれませんね。近藤さんはわたしがSRLでどんな仕事をしてきたのはその半分もご存じなかった。彼は90年頃に厚生労働省の医系技官(課長補佐)を藤田光一郎社長が引き抜いた人でした。慶応大学医学部卒の医師、論理で割り切る頭の切れる人でしたね。その代わり「情」が理解できない弱点もありました。他には社長をしてもらいたいような取締役は一人もいませんでした。取締役の中では近藤さんが経営者としての能力はナンバーワンでした。近藤さんが、あの時SRL東京ラボのままで放っておいてくれたら、現在のSRLの売上1000億円は2000億円だった可能性があります。米国進出すれば、さらに3000億円規模の売上拡大ができます。米国進出はいまでもやれます。数年前に竣工した「あきる野ラボ」の自動化もぜんぜん別のものになっていたでしょう。見学して確認はしていませんが、あきる野ラボの自動化はいまいちど根本から見直した方がいいかもしれません。
細菌検査課の39年前の新人と再開してそんなことも思い出しました。桜は人の心を妖しく揺らします。
さて、診断の結果ですが、心臓を動かす電気信号にたまに異常が出るようですが、いまのところ何もする必要なし。今後は経過観察です。カテーテル・アブレーション手術はいまのところは不要ですが、病状が進行すればやった方がいいとは言われました。大腿部の静脈からカテーテルを挿入して、心臓を高周波で低温焼灼(50~60度)します。わたしはやりたくありません。年間10万例の手術であっても、わたしは臆病ですから。(笑)
<帝人との経緯(いきさつ)>
英国のIRS社という染色体画像解析装置製造企業から染色体画像解析装置を3台購入したのは1989年でした。ニコンの子会社のニレコ社とマジスキャンの画像解析用ミニコンを使って開発を2年くらいやっていました。染色体課とラボ副所長が担当してました。目標は1時間当たり6検体の処理能力でしたが1検体しか処理できません。副所長案件は他にもあって、RI部で固定資産台帳に2000万円で載っていた特注案件の機器がブルーシートで覆われ使われていないので、現場の担当者に確認すると、使い物にならないとのこと。どうやら副所長は機器やシステムにまったく専門知識がないことがわかりました。それで、ニレコ社との染色体画像解析装置開発は中止しました。当時は購買課の平社員ですが、経理担当役員のI岩本さんと管理部門担当専務の谷口さんのバックアップがあったので権限は大きかったのです。システムや機械のことがわかる人材が本社部門にはいませんでしたから。そういうタイミングの時に検査管理部の機器担当の尾形さんが、虎の門病院へ英国製の染色体画像解析装置が導入されているので、見学に行こうと誘ってくれたのです。染色体課長の石原さんと三人でサンプル5枚を持参してテストさせてもらいました。25分かかりませんでした。5分/検体で処理できます。あとでIRSのシステムエンジニアに確認しましたが、入り口が違っていました。CCDカメラでデータ入力してました。フィルムではありませんでした。CCDカメラでインプットするとデジアナ変換が不要なのでデータ処理が楽なのです。見るからに自作のボードコンピュータがつながれていました。自作のボードコンピュータの原価はせいぜい200万円です。産業用エレクトロニクスの輸入商社で、マルチチャンネルのマイクロ波計測器の開発をしたときに、担当エンジニアと話して開発過程をモニタリングしてました。だから、カバーを外してみただけで、原価の見当がつきます。2000万円の当時最高レベルの画像解析用ミニコンを使う必要はなかったのです。キーはCCDカメラでした。ニレコ社がフィルムとレンズにこだわっていたので、続けても開発は無理でした。
輸入総代理店が日本電子輸入販売でした。営業担当のSさんに3台買うから1台はバックアップ用でおいてくれるようにIRSに依頼してもらいました。5000万円の装置ですが、高性能のレーザープリンタを含めても原価が1000万円程度なのははっきりしてましたし、台数を多くすれば原価は劇的に下がるので、提案を一つしました。BMLへ販売しろと。SRLで導入したと話していい、その気があるなら、SRLへ話して見学させてもらうこともできるかもしれないと言え、ただし、値引きは1円もするな、必ず値引けと言ってくるが、IRSの経営方針で無理ですと突っぱねたら、すぐに定価で買うから。狙い通り首尾よく言ったようです。S本さんゴルフが大好きな人でした。うまくいったので、セントアンドリュースでゴルフしましょう、会社の了解が取れてますとお誘い。IRSはエジンバラ大学と共同開発しているので、セントアンドリュースでゴルフできるのです。(笑) せっかくのお誘いでしたがお断りしました。S本さんしばらくしょげてました。
S本さんは他に帝人と東北の臨床検査センターから引き合いがあると言ってました。帝人の臨床検査子会社は業績が悪いので、売上を増やすために導入するのでしょうが、染色体検査はSRLが市場の80%を握っているので、割り込むのは不可能。業績はさらに悪化するだろうと判断してました。東北の会社も事情は似たようなものと考えてました。流行らないフランス料理のレストランが売上増のためにメニューを増やして、高級食材の在庫を増やして廃棄損が増えて経営破綻するようなものです。経営が下手な人が社長をしていることはそれだけの情報でわかりました。こういう企業は社長が一生懸命に仕事をすればするほど業績は悪化します。いずれチャンスがあれば、買収しようと学術開発本部へ異動したころ(1990年)に考えてました。
意外とチャンスは早くやってきました。東北の臨床検査センターへの資本提携交渉を関係会社管理部へ異動して1993年3月に担当することになりました。1億円の出資交渉と業務提携をまとめて6月1日付で経営管理室担当取締役で出向しています。SRLのルールでは本当は関係会社の役員出向はできません。本社課長職は関係会社の部長職なのです。創業社長の特命案件だったので、買収交渉を担当した金沢の臨床検査会社と東北の臨床検査会社のどちらでも好きな方を選びなさいと言われて、楽ではない方を選びました。先方の社長の意向が取締役での出向で、創業社長の特命案件だったので、人事部長も異論は言えません、例外扱いになっていました。仕事の指示と報告はすべて藤田社長直接でした。だから、組織上どの部門に属していたかを知るのは15か月後の出向解除の時でした。
帝人との治験合弁会社の経営を担当することになったのは1996年の11月です。社長の近藤さんから、次の4課題を3年でクリアするように言われました。情報を収集・分析していれば仕事のチャンスは数年で巡ってきます。
①期限通りの設立スタート
②赤字会社の黒字化
③資本提携解消・子会社化
④帝人臨床検査子会社の買収
近藤さんが社長になって2年が過ぎたころです、この四課題がどれほど無茶なのかわかっていたのでしょう。経営の全権を委任してくれたら期限通り3年で四つとも達成は約束しますと伝えました。近藤さん迷いなく即答、「任せる」、他に選択肢はありません。たまたまプロジェクトのミーティングに初参加するためSRL本社へ出向いたときにエレベータの前で出かけようとしていた近藤さんと鉢合わせしたので、「聞いているか?」「そのためのプロジェクトに参加するために来ました」と立ち話。2分くらいで課題の確認と全権委任が決まりました。それで、暗礁に乗り上げた合弁会社立ち上げプロジェクトに(11月末から割り込み)参加してます。1月末までに本社の場所を決めて会社の体裁を整えスタートです、3か月しかありませんでした。PERTチャートをすぐに作ってクリティカルパスを確認して次々に手を打ちました。
そういう仕事をしながら、経理担当役員へS本を合弁会社へ異動させてもらいたいと伝えたら、「自分でできるでしょ?」と愛想のない返事、入社時の上司のM井さんが経理課長から取締役になっていました。SRLの近藤さんから任されたのは合弁会社の経理業務ではなくて経営、近藤さんから伝わってませんでしたが、近藤社長から全権委任を受けているので、経理担当役員には拒否権なしです。経理やシステム開発が仕事だと勘違いしていたようです。経理部門出身者に子会社の経営を任せる親会社の社長はいないでしょう。経理・財務以外の仕事はできませんから。
これらの課題の③と④は1990年から自分の手でやるつもりでしたから、願ったりかなったりでした。
帝人の臨床検査子会社は染色体画像解析装置の導入でさらに累積赤字が膨らみ、安居社長からM専務とI常務が、臨床検査子会社をどうするのか処理を迫られていました。相手側の事情も交渉を後押しする力になりました。
臨床検査子会社へはH本さんが社長。本社では部長職で、専務や常務とは同じ一ツ橋閥でした。一ツ橋で本社部長職に臨床検査子会社の経営は無理なのです。H本さん、治験合弁会社がスタートすると、SRLでやっていた治験分の検査が全部帝人臨床検査子会社へ移管されると勘違いしてました。それを帝人本社の常務と専務に説明していたことがわかりました。合弁会社の社長は帝人側のH本さんが兼務でした。
毎月行われる取締役会には非常勤役員としてI常務が来てました。SRL側は営業常務のツーさんとラボ担当役員のH泉さんでした。子会社常務はSRL側、わたしは管理部門担当部長でしたが、SRL社長の近藤さんから、経営の全権を委ねられていました。四課題は自由にやらしてもらえないと約束できない、経営を全権委任してくれるなら3年で課題全部をクリアする旨告げました。近藤さん即答でした。
数か月がたち、帝人の臨床検査子会社の業績が予定通り改善しないので、H本社長の話を聴いていてもよくわからないので、すまないが帝人本社に来てM専務とわたしへもう一度説明してくれないかと帝人本社のI常務から申し入れがあり、日比谷公園近くの帝人本社飯野ビルへ出向きました。データ管理事業へシフトすることで黒字化することを損益シミュレーションと事業分野のマトリックスで説明し、検査の移管がないことも具体的に説明しました。この会議の席上で、H本社長は震えていました。本社役付役員二人の前での業績見通しの説明はストレスが強くかかっていることがよくわかりました。
治験検査の移管は無理なのです。全世界の大手製薬メーカーはすべて取引先ですが、SRLでは精度管理基準(CAPライセンス)は世界で一番厳しいものを採用していますが、帝人の臨床検査子会社はそうではありませんから、SRLから帝人検査ラボへの検査移管は不可能なのです。逆なら問題ありません。臨床検査業界では当たり前の常識ですが、帝人羽村ラボの社長はご存じなかった。丁寧に説明したら、「H本の言うことがさっぱりわからなかった、ようやくわかった、やはり餅は餅屋ですね」そうおっしゃった。H本さん面目丸つぶれでしたが、このままやっても帝人臨床検査子会社の赤字は膨らむばかりということは帝人本社役員のお二人にはよくわかったと思います。あとは処理案についてわたしと交渉するだけ。3か月目くらいのこの会議で大筋に目途がついてしまいました。後は説明した以上の業績改善をして、そのデータをもとに交渉すればいいだけでした。
帝人の臨床検査子会社とSRLのスタートはほぼ一緒でした。そん時で三十数年の歴史がありました。売上規模は1:15です。一橋大卒の本社エリートを社長として何人送り込んでも、臨床検査子会社の再建は無理でした。業界の常識を知らない、検査の専門知識がない、検査機器や自動化の専門知識も経験もない、これではマネジメントに手も足も出せるはずがありません。
帝人の社長が東大出の安居さんに変わりました。一ツ橋閥のM専務とI川専務に遠慮はありませんから、臨床検査子会社の処理を期限をつけて迫りました。お二人困っていました。こういう情報はH本合弁会社社長を外して帝人本社のI川専務と直接交渉し始める少し前に薬学博士のKさんが、I川専務の意向を受けて帝人側の事情をつまびらかに話してくれましたので、やりやすかったのです。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で話をしていたので、ある時から正直に話してくれました。帝人の羽村ラボの見学もさせてもらいました。1時間ほど見学しただけで、このラボはもう駄目だと判断しました。治験検査専用ラボと言ってもいいくらい偏っていました。量が少ないので大規模な自動化やシステム化は無理でした。海外の製薬メーカーからの八王子ラボツアーの対応をしてたことがあるので、SRL八王子ラボの自動化と比較できました。一般検査市場へ出るしかなかったのですが、帝人は医薬品事業を拡大するために臨床検査事業を始めたので、市場が小さい治験検査に特化してしまいました。それがそもそも間違いのもとでした。
I川常務から、帝人臨床検査子会社を治験合弁会社の子会社にするので、両方の社長を兼務してほしいと要請がありました。SRL近藤社長に話をつなぎましたがノーでした。合弁会社2年目に課長職から次長職へ昇格して治験合弁会社の取締役に就任してますが、SRLのルールではSRL本社の次長職が子会社社長をやるわけにはいかないのです。2年続けて昇格というのも前例がありません。
それで、申し出をお断りして、③と④をI常務へ提案して、飲んでもらいました。
「合弁会社をやると決まって業績が振るわず後始末は帝人側でやってきた、こんなケースは初めてです」
そう言いながら笑って、OKしてくれました。M専務とI川常務は安居社長から期限付きで臨床検査子会社の整理あるいは黒字債券を迫られていたのですから、「渡りに舟」でした。ノイローゼになっていた合弁会社のH本社長は帝人本社勤務へ戻ることになりました。
「ebisuさん、H本に傷がつかないように処遇するが、了解してくれるかね」
「異論はありません、精神がだいぶ参っているようですから、楽な仕事につけてやってください」
帝人本社の一ツ橋閥は面倒見がいい。H本さんは、帝人で問題になっていた臨床検査子会社事業から撤退という仕事を首尾よくやったぐらいの評価はしたでしょう。I川常務、そのあたりは情の人でした。
帝人臨床検査子会社の課長職の年収はSRLの半分に満たなかった。社員も同じくらいの比率でした。そんな給与格差の大きい両社からの寄せ集めでしたが、年収は1年もするうちにお互いの知るところとなります。
SRL子会社になり、転籍するときにはSRL並の給料を保障してやろうと思っていました。それには経営改革をするために経営の全権委任を四課題を果たした後にも持たなければできません。しかし、近藤さんの返事はノーでした。現在の職位に関しては過去の業績の結果だから、そういうわけにはいかないとのこと。カチンと来ました。
経理部で入社して、経営統合システム開発では経理チームが一番遅れており、何も手がついていませんでした。原価計算システムチーム、購買在庫管理システムチーム、販売会計システムチームは1年前にスタートしてました。一番遅れていた財務会計システムと買掛金支払い管理システム、投資・固定資産管理システムを8か月で稼働させています。並行して予算編成と予算管理業務も統括してました。このときに、経理担当や役員から管理会計課を新設し課長職へ昇格願いが人事部へ出されましたが、人事部長が拒否してます。理由は上場準備要員としては一番最後に入社したので、まだ昇格が速すぎるという理由でしたね。2年目には検査試薬のコストカット20%を提案して、購買課長が不可能だというので、専務がプロジェクトをつくるから言い出しっぺのお前がやれというので、それまでの卸業者相手の価格交渉を止めて、製薬メーカと直接交渉に切り換えました。2か月間だけの約束で購買課へ出向して、予定通り16億円のコストカットを実現しました。それから半年後、ラボの通勤バスで親会社の富士レビオの元経理部長でSRLの監査役をしているT口さんと一緒になり、「ebisuさん今どこにいるの?」「ラボの購買です」と伝えると、「そうか購買部長してるんだ」、「いいえ平社員です」というと絶句してました。富士レビオが上場したときの経理部長ですから、たいへんさがわかっていました。それを8か月で稼働させるというのは「神業」でした。見るべき人はちゃんと見てくれています。とっても励みになりました。
近藤さんの言「現在の職位は過去の業績の結果ですから」というのは承服しがたい、それに社長でなければ、経営改革を思った通りに実現はできません。SRLから転籍する社員の給料も下げざるを得なくなります。我慢のならないことでした。半年以上前から、首都圏の特例許可老人病院が病棟の建て替えをするので常務理事で来てほしいとお誘いを受けていたので、病院を核にシームレスな老人医療と介護事業を展開してみる気になってしまいました。
SRLを退職してから十数年たって、故郷で小さな私塾をやっていたときに、近藤さん、根室まで遊びに来てくれました。養老牛温泉で、地域医療と教育の地域格差について語り明かしました。どちらかというと感情を排して論理で割り切るタイプの経営者でしたが、ロジックで割り切るだけの人でもありませんでした。3年弱の間、楽しい仕事を回してもらったと思います。
「大丈夫です、ところで超音波検査にはどのような資格が必要なのですか?」
と訊いたら、
「わたし検査技師です」
と即答。答え方がすこし妙に感じたので、
「わたしは検査会社にいたことあるけど検査技師さんは検体検査だけじゃなく心臓エコーもやるんだ」
そう伝えたら、
「わたし、(SRL八王子ラボ)細菌課にいました」
普通は会社名を言うのがあたりまえなのに、会社名は言わずにいきなり所属部署名で答えたことにおどろいて、ああ、SRL社員だったということ。社内での会話なら、会社名は聞く必要がありません、所属がどこかで事足ります。だが、わたしはSRLに勤務していたとは言ってない、「検査会社」にいたとだけ答えたはず。SRLで仕事していたことが前提になった返事だったので、
「いつの入社ですか?」
答え方が気になった理由がわかりました、面識があったのです。マスクしてたのでわかりませんでした。1985年の入社、小金井公園で桜が満開の時に会社でお花見をしましたが、その時の新入社員でした。
「カルテが回ってきて苗字を見たときにひょっとして...ラボにいたebisuさんが頭をかすめましたが、まさかと...やっぱりそうでした」
紙コップでお酒を飲んでいたら、花弁が一枚コップの中へ。そのまま飲み干して、「いい桜吹雪だ、散歩してこようかな」と立ち上がると、「わたしも行きます!」と元気な声、風が吹くたびに桜が舞い落ちる公園内を10分ほど一緒に散歩しました。午後2時ころだったかな。美しい桜のせいで腕くらい組んで歩いたかもしれません。風が吹くたびに満開の桜が花吹雪となって散っていく光景とともに記憶に深く刻まれました。
前年は(2/1に入社して)小金井公園で会社の花見をしました。仕事が終わってから夜桜でしたね。あそこは上野公園に雰囲気が似てます。小金井公園は様子が違います、桜の本数がだいぶ多いようで(ネットで検索したら1400本)、場所が広いこともあって込み合っていません。満開の桜が風が吹くたびに花弁(はなびら)が舞い散る中を歩くのは粋で、ちょっと都会っぽい雰囲気なのです。
だから、彼女のことを満開の桜が散っていく光景と同じくらい鮮明に覚えてました。
そして桜が満開のいま、今度は「患者と心臓エコー検査担当者」として再会、顔をじっと見たら、マスクをしたままでも新入社員のころの面影がしっかり残っていました。髪に白いものが混じっていただけ。ちょうど60歳になったと言ってました。こちらはすっかり「花咲かジジイ」になってます。(笑)
「ebisuさん痩せましたね」
「スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で手術をしてから10~12㎏減ってます」
あの当時は腹筋は6パックで68~70㎏の筋肉マンでしたから、細身になりました。よく気がついてくれました。
お陰で45分間の検査も退屈せずにすみました。丁寧な検査が身に沁みました。
八王子ラボでは一度だけ立ち話をした記憶があるだけ、37年ぶり、奇跡のような再会でした。なつかしかった。
そのあと、エコーの動画データは循環器のドクターのパソコンに送られて、それを見ながら診断。
心房肥大はないし心室も異常なし。収縮率もいいので20代の心臓とかわらないと循環器専門医の女医さん。てきぱきした診察でした。
薬は万一の時の血栓予防ですから、念のため継続して飲んでくださいと言われて、ゴールデンウィークが入るので40日分薬が出ました。
血圧120/90mg 脈拍75/分
NT-proBNPが32.9pg(基準値は125以下)で異常なし。
ALP(IFCC)が128でhigh、基準値は38-113
BNPに異常が出ていなければ、心房細動はごく初期で、問題なしなのです。そういうことを理解して循環器専門医の診断を聞いてます。
ALPは腎臓の尿細管の機能異常にかかわりがあります。国際基準値がIFCCのようです。ALP(アルカリフォスファターゼ)には国際基準値と日本基準値(JSCC)があります。Jの字がついているので「ああ、日本人の基準値だな」と気がつきます。基準値って案外緩くて、ときどき変わったりします。臨床検査会社によって基準値が違うこともあります。年齢によって基準値の違うものもあります。たとえば血圧は成人と高齢者は別。人種によって基準値の違う検査のひとつがALPですが、理由があります。脂質は何度か変わっていますね。どこまでが基準値で、どこからが病気だというのは判断が難しいのです。個人差もありますから。
過去の記事を調べたら、「#4200アルカリフォスファターゼ少し高め」が見つかりました。4年前に高かったことがありました。
出生前検査のトリプルマーカ―基準値(MoM値)も人種差の大きい検査です。白人を100とすると、黒人が120、日本人は130です。妊娠週令や体重でも値が違ってきますから、それらと検査値を入れてある計算式で判断しています。この基準値制定に関する妊婦6000人の検体をを集めた3年間にわたる慶応大学産婦人科との産学共同プロジェクトでやってます。プロジェクトのスタートは1990年だったかな。たまたま学術開発本部に異動したときに、暗礁に乗り上げていたのでわたしに「なんとかして」とお鉢が回ってきました。社会的な意義が大きいよい仕事でした。国際的にも意義の大きな研究になったので、担当ドクターは教授になれたでしょうね。費用は検査試薬を製薬メーカー2社に、検査と多変量解析はSRL負担でやりました。こういう調整は社内の技術屋さんと製薬メーカーの両方に個人的なコネクションがないとできません。もちろん担当ドクターとも一度会っただけで、具体的な構想を説明して役割分担を明らかにして信頼関係を築くことも大切です。一つの部署にいただけではできない仕事です。複数の分野の専門知識が必要になります。自慢話ではありませんよ、40年以上も前から、民間企業で重要な仕事は複数の専門分野の職人が集まってプロジェクトを組まないとできない仕事が増えていました。あの当時は時代が変わりつつありました、いまでは複数の分野の専門知識と経験を有していることがマネジメント分野では当たり前になっています。ところが、必要な専門分野のそれぞれに基礎的な理解のあるプロジェクトマネジャーがなかなか育っていないのです。専門用語で話さないと、誤解が生じるので、プロジェクトマネジャーには関連するそれぞれの分野の職人たちと専門用語でコミュニケーションすることが求められます。それぞれの分野にはスキルが高く気難しい職人タイプの人が時々いるので、こちらの力量もしっかり観察される場合があります。「値踏み」(英語ではsize up、音読トレーニングしているアガサの小説に出てきました)されるんです。(笑)
心臓エコー検査をやりながら、検査技師のKさんは患者さんへの基準値の説明がなかなか難しいと言ってました。絶対的なものだと思っている人が多いので、そうではないことを説明するのがたいへんだと。臨床検査会社の人間同士で話しているときには当たり前のことが、患者さんと話すときには当たり前ではないからです。
ところで、細菌検査はとっても危険な仕事なのです。結核菌の同定も毎日しますから、空気感染の恐れがどうしてもあります。だからSRLは一度でも細菌検査を担当したことのある社員が将来結核を発症した場合には、治療費はもちろんのこと休業補償まですることがルールになっています。多剤耐性の結核菌が増えているので、万一感染したら厄介ですから、長いこと担当する検査ではないのです。20代の頃に数年間細菌検査室勤務の経験のある同僚が定年間近になって結核を発症しました。細菌検査をしていたことと因果関係があるかないかは誰にもわかりません。そんなこととは関係なしに、とにかく細菌検査室で仕事したことがあればその事実だけで、SRLは約束通り医療費は出しますし休業補償もします。期限に制限はありません。転職してももちろんルールは適用されます。創業社長の藤田光一郎さんは社員思いの人でしたから、創業間もなく決められたルール、彼の経営方針です。
藤田さんの特命係で2度仕事しました。自己管理の厳しい人であると同時に冷徹な経営判断のできる経営者でした。毎月30項目ほど目標値と実績をメモして管理していました。社員と食事を10回、お客様を20回訪問する、などなど。今月は「20勝10敗」だなんて仰ってました。学術開発本部で仕事したときに、わたしの席の背中が社長室のパーティションでした。毎週、開発部のメンバーと社長が30分ほどミーティングしてましたから、わたしもそのメンバーの一人でした。取締役本部長直属のスタッフだったので、開発部と学術情報部と精度管理室の仕事を同時に担当してました。マネジメントの上手な使い勝手のよい部下だったと思います。本部内で処理しきれないマネジメントがらみの仕事を遠慮なしに片っ端から振ってきましたから。振ってくる仕事が面白かったのです、I神さんとはとっても相性がよかった。異動して半年後くらいに、「数年後にはebisuに使われているかもしれないな」なんて冗談言ってました。取締役学術開発本部長を使うの権限のあるのは代表取締役だけですから、でも買いかぶりでした。(笑)
入社時は上場準備要員として、経営統合システム開発と予算管理の仕事で経理部へ配属。1年間でシステム開発を完了し、3年目になろうとするときに、検査試薬の20%コストカットを提案し、購買課長が不可能というので、専務が「言い出しっぺのお前がやれ、プロジェクトをつくってやる」というので、2か月間の約束で購買課へ「社内出向」。それまでやっていた試薬卸業者との交渉を辞めて、製薬メーカーと直接の価格交渉、それが首尾よくいって16億円利益が増えました。そうしたら、そのまま購買課へ異動辞令が出ました。富士銀行から転籍した管理部門担当役員である谷口専務が、翌年の価格交渉も担当させたかったからです。3回やりました。合計50億円ほどコストカットしてます。試薬の卸業者には今まで通りのマージンを保障するように製薬メーカーにお願いしました。違反があれば検査試薬の卸業業者から報告が入るようにしてありました。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で試薬の購入と検査機器の購入交渉をしてました。購買課へ異動になってからルーチンワークは購買在庫管理システムの手直しと機器購入、検査機器の共同開発を担当、課内の業務の標準化、それでも暇を持て余してチョムスキーの"Knowledge of Language"を読んでいると、学術開発本部長のI神さんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を採り上げて確認し、すぐに折り返し電話がありました。1989年12月、「俺のところに来ないか?」、お誘いでした。OKすると2日後に人事部から異動辞令が出ました。開発部の製薬メーカーとの検査試薬共同開発業務をPERTチャートを利用して標準化、産学共同プロジェクト・マネジャーや海外製薬メーカからのラボツアー要望への対応、本部3部門の全員の業務棚卸と優先順位をつけて順位の低い仕事を3割カットなど、そういう仕事をしてました。1年半で91年4月に新設された関係会社管理部へ異動し、関係会社と子会社の経営分析と臨床検査会社の買収や資本提携交渉を担当。前職の産業用エレクトロニクスの輸入専門商社で1978年に開発してあった25項目5ディメンションの経営分析レーダーチャートと総合偏差値評価システムが役に立ちました。この仕事でHP67とHP97を使っていたので数値プログラミングを習得してます。1993年6月に資本提携した臨床検査会社へ経営企画室担当取締役で出向。3年の約束が、藤田さんの判断で15か月で出向解除。黒字化の具体案ができたので実行許可をもらいに本社へ行ったら、社長と専務に実行を拒否されました。3年で黒字化できるなんて思っていなかったのです。SRL本社よりも売上高経常利益率が高くなる損益シミュレーションがしてありました。子会社化も出向会社社長に飲んでもらっていましたから、SRLではナンバーワンの業績の子会社が誕生するところでした。子会社社長はSRLでは本社役員兼務です。ナンバーワンの業績なら常務取締役か線も取締役で処遇する必要がありましたから、それを嫌ったのです。1994年10月SRL本社経理部管理会計課長の異動辞令がありましたが、社長室と購買部が兼務になっていました。人事問題で我慢のならぬことがあったので、3か月後に経理部長に子会社への出向を要請、子会社のSRL東京ラボへ出向しました。やりたいことがやりたいようにできないなら、そんな部署に長居するつもりはありません。だけど、他の人にはできない仕事であった、富士通汎用大型機に載せていた購買在庫管理システムの更新は、サーバー・クライアントシステムで仕様書を書いて購買課のシステム担当者に渡してありました。富士通からの汎用大型機で提案書が出ていたので、システム部から出向していた担当者のS君むくれてました。わたしが1984年に経営統合システム開発をしたSEだとは知らなかったのです。素人の管理会計課長がなにをいうかというような横柄な態度でした。仕様書を見ても気がつかないのでは、相手にしませんでした。1週間ほどで実務設計とシステム仕様書を書き上げて渡しました。富士通の提案を廃棄して、クライアントサーバーシステムで購買在庫管理システムがちゃんと稼働してましたよ。経理担当部長も社長の近藤さんもご存じなかった。そんなに短期間で仕事ができる社員はいませんから。普通は実務設計書と仕様書を書くのに半年以上かかります。以前の購買在庫管理システムの外務設計はわたしが半分くらい仕様書を書いてあげてました。買掛金支払管理システムのテストをするために購買在庫管理システムが稼働しないとテストできませんから。3年ほど後で、システム部長のS田さんから丁重な謝罪がありました。「いつぞやはebisuさんのことを何も知りませんで、失礼しました」。彼は病理医、わたしがラボのただの機器購入担当だと当時は勘違いしていたのです。日本臨床検査項目コード制定で一緒に動いたシステム開発課長の栗原さんか、そして沖縄米軍への出生前検査導入でプログラマーとして仕事に付き合ってくれた上野君のどちらかがなにか云ったのだと思います。開発を外注していたNCDさんのSE4名が、一緒に1年間仕事したので私のスキルのほどはよく承知しています。産業用エレクトロニクスの輸入商社時代からオービックの芹沢SE、NEC情報サービスの高島SE、NCDの村山・塚田・鈴木・宇田SEなど業界トップレベルのSEとばかり仕事してました。SRLの統合経営情報システム開発は大型のパッケージスステム開発のような仕事でした。しかも業界初でした。よい仕事に恵まれました。
目まぐるしく異動、お陰で、退屈しない会社でした。一番古い子会社のSRL東京ラボへ出向し、最後は、その時社長だった近藤さんの特命プロジェクトで、帝人との治験合弁会社の経営を担当して、四項目の指示(期限通りの新会社スタート、黒字化、帝人との合弁解消と子会社化、帝人の臨床検査子会社の吸収)を2年半で達成し、「卒業」しました。100%子会社化すれば経営の全権を移譲されていたわたしはやりたい仕事(移籍する社員の給料をSRL以上にする、いつでも上場できる体制を整備する)ことができなくなります。仕事のできない人が誰か、新社長で回ってくるので、半年前から頼まれていた300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事を引き受けることにしました。シームレスな老人医療と介護を実現してみたいと夢を見てました。数年で目途はつけられます。数年待てばSRLでは50代前半のうちにSRL本社役員でしょうが、50歳を過ぎたらお金儲け仕事からは足を洗うつもりでした。古里に戻って、高校を卒業するまで育てくれたことへの恩返しが何かできないかと30代のころから考えていました。
96年11月、帝人との臨床治験合弁会社は、近藤さんが社長に就任して初めての一部上場企業との合弁という力量を問われる重要な大仕事でしたから、プロジェクトが途中で暗礁に乗り上げて、それを打開するために急遽わたしを使わざるを得なくなりました。プロジェクトメンバーに一人であるシステム屋のWさんが、「社内でこの仕事をやれるのはebisuさんだけだ」と主張したからです。そのときには子会社のSRL東京ラボで箕輪社長と新ラボ構想の最終段階に入っていました。91年7月に子会社の千葉ラボ(社名SMS)で生産性を2倍にアップする新システム導入「SMS再構築基本プラン」に関係会社管理部課長として関わっていたので、それをさらに進化させた、もっと低コストの世界最先端の自動化ラボをつくるつもりでした。理化学機器の中では臨床検査に使われていた機器には1970年代終わりごろからマイクロ波計測器には標準装備だった双方向インターフェイスバスがありません。購買課で2年半仕事したときに、機器メーカーにしっかりコネをつくっておいたので、SRLへの検査機器導入にはGPIBを標準バスに指定するつもりでした。双方向のバスでないと機器が制御できないからです。たとえば、検査データを処理していて、統計処理をオンラインでやって異常なデータが頻繁に出続けたら、それは機器の不良と判断し、機械をストップさせてチェックするとか、再現性を改善するために「1時間プレヒーティング」するとか、コントロールを定期的にあるいは随時入れて、機器の精度をチェックする、そういうことが可能になります。24時間稼働させるためには機器の制御がどうしても必要です。双方向インターフェイスバスがあれば精度保証がいままでの自動化とはワンステップ別物になります。自動化が低コストでできます。機器製造メーカーにはGPIBを前提に機器をつくってもらうことになります。SRLだけでは無理で、取引業者にも構想を明らかにして協力をお願いしないといけません。それで、一般検査市場でもナンバーワンを企業を目指すつもりでした。SRL東京ラボだけでSRL親会社の半分程度の売上は見込めました。地域別に一般検査会社をつくり、高生産性&低コストのラボを設置すれば、保険点数の50%のディスカウントで、BMLの大口ユーザを絨毯爆撃すれば販路拡大が簡単にできます。SRL営業担当役員は3人いましたが、いくら変わっても営業戦略を練り上げることのできる人がいませんでした。一般検査市場は、SRLが対象としていた特殊検査市場よりも数倍大きいのです。簡単なことでした。
近藤さん、わたしを帝人との合弁会社に投入したのは仕方がなかったとはいえ、その経営判断は誤りであったかもしれませんね。近藤さんはわたしがSRLでどんな仕事をしてきたのはその半分もご存じなかった。彼は90年頃に厚生労働省の医系技官(課長補佐)を藤田光一郎社長が引き抜いた人でした。慶応大学医学部卒の医師、論理で割り切る頭の切れる人でしたね。その代わり「情」が理解できない弱点もありました。他には社長をしてもらいたいような取締役は一人もいませんでした。取締役の中では近藤さんが経営者としての能力はナンバーワンでした。近藤さんが、あの時SRL東京ラボのままで放っておいてくれたら、現在のSRLの売上1000億円は2000億円だった可能性があります。米国進出すれば、さらに3000億円規模の売上拡大ができます。米国進出はいまでもやれます。数年前に竣工した「あきる野ラボ」の自動化もぜんぜん別のものになっていたでしょう。見学して確認はしていませんが、あきる野ラボの自動化はいまいちど根本から見直した方がいいかもしれません。
細菌検査課の39年前の新人と再開してそんなことも思い出しました。桜は人の心を妖しく揺らします。
さて、診断の結果ですが、心臓を動かす電気信号にたまに異常が出るようですが、いまのところ何もする必要なし。今後は経過観察です。カテーテル・アブレーション手術はいまのところは不要ですが、病状が進行すればやった方がいいとは言われました。大腿部の静脈からカテーテルを挿入して、心臓を高周波で低温焼灼(50~60度)します。わたしはやりたくありません。年間10万例の手術であっても、わたしは臆病ですから。(笑)
<帝人との経緯(いきさつ)>
英国のIRS社という染色体画像解析装置製造企業から染色体画像解析装置を3台購入したのは1989年でした。ニコンの子会社のニレコ社とマジスキャンの画像解析用ミニコンを使って開発を2年くらいやっていました。染色体課とラボ副所長が担当してました。目標は1時間当たり6検体の処理能力でしたが1検体しか処理できません。副所長案件は他にもあって、RI部で固定資産台帳に2000万円で載っていた特注案件の機器がブルーシートで覆われ使われていないので、現場の担当者に確認すると、使い物にならないとのこと。どうやら副所長は機器やシステムにまったく専門知識がないことがわかりました。それで、ニレコ社との染色体画像解析装置開発は中止しました。当時は購買課の平社員ですが、経理担当役員のI岩本さんと管理部門担当専務の谷口さんのバックアップがあったので権限は大きかったのです。システムや機械のことがわかる人材が本社部門にはいませんでしたから。そういうタイミングの時に検査管理部の機器担当の尾形さんが、虎の門病院へ英国製の染色体画像解析装置が導入されているので、見学に行こうと誘ってくれたのです。染色体課長の石原さんと三人でサンプル5枚を持参してテストさせてもらいました。25分かかりませんでした。5分/検体で処理できます。あとでIRSのシステムエンジニアに確認しましたが、入り口が違っていました。CCDカメラでデータ入力してました。フィルムではありませんでした。CCDカメラでインプットするとデジアナ変換が不要なのでデータ処理が楽なのです。見るからに自作のボードコンピュータがつながれていました。自作のボードコンピュータの原価はせいぜい200万円です。産業用エレクトロニクスの輸入商社で、マルチチャンネルのマイクロ波計測器の開発をしたときに、担当エンジニアと話して開発過程をモニタリングしてました。だから、カバーを外してみただけで、原価の見当がつきます。2000万円の当時最高レベルの画像解析用ミニコンを使う必要はなかったのです。キーはCCDカメラでした。ニレコ社がフィルムとレンズにこだわっていたので、続けても開発は無理でした。
輸入総代理店が日本電子輸入販売でした。営業担当のSさんに3台買うから1台はバックアップ用でおいてくれるようにIRSに依頼してもらいました。5000万円の装置ですが、高性能のレーザープリンタを含めても原価が1000万円程度なのははっきりしてましたし、台数を多くすれば原価は劇的に下がるので、提案を一つしました。BMLへ販売しろと。SRLで導入したと話していい、その気があるなら、SRLへ話して見学させてもらうこともできるかもしれないと言え、ただし、値引きは1円もするな、必ず値引けと言ってくるが、IRSの経営方針で無理ですと突っぱねたら、すぐに定価で買うから。狙い通り首尾よく言ったようです。S本さんゴルフが大好きな人でした。うまくいったので、セントアンドリュースでゴルフしましょう、会社の了解が取れてますとお誘い。IRSはエジンバラ大学と共同開発しているので、セントアンドリュースでゴルフできるのです。(笑) せっかくのお誘いでしたがお断りしました。S本さんしばらくしょげてました。
S本さんは他に帝人と東北の臨床検査センターから引き合いがあると言ってました。帝人の臨床検査子会社は業績が悪いので、売上を増やすために導入するのでしょうが、染色体検査はSRLが市場の80%を握っているので、割り込むのは不可能。業績はさらに悪化するだろうと判断してました。東北の会社も事情は似たようなものと考えてました。流行らないフランス料理のレストランが売上増のためにメニューを増やして、高級食材の在庫を増やして廃棄損が増えて経営破綻するようなものです。経営が下手な人が社長をしていることはそれだけの情報でわかりました。こういう企業は社長が一生懸命に仕事をすればするほど業績は悪化します。いずれチャンスがあれば、買収しようと学術開発本部へ異動したころ(1990年)に考えてました。
意外とチャンスは早くやってきました。東北の臨床検査センターへの資本提携交渉を関係会社管理部へ異動して1993年3月に担当することになりました。1億円の出資交渉と業務提携をまとめて6月1日付で経営管理室担当取締役で出向しています。SRLのルールでは本当は関係会社の役員出向はできません。本社課長職は関係会社の部長職なのです。創業社長の特命案件だったので、買収交渉を担当した金沢の臨床検査会社と東北の臨床検査会社のどちらでも好きな方を選びなさいと言われて、楽ではない方を選びました。先方の社長の意向が取締役での出向で、創業社長の特命案件だったので、人事部長も異論は言えません、例外扱いになっていました。仕事の指示と報告はすべて藤田社長直接でした。だから、組織上どの部門に属していたかを知るのは15か月後の出向解除の時でした。
帝人との治験合弁会社の経営を担当することになったのは1996年の11月です。社長の近藤さんから、次の4課題を3年でクリアするように言われました。情報を収集・分析していれば仕事のチャンスは数年で巡ってきます。
①期限通りの設立スタート
②赤字会社の黒字化
③資本提携解消・子会社化
④帝人臨床検査子会社の買収
近藤さんが社長になって2年が過ぎたころです、この四課題がどれほど無茶なのかわかっていたのでしょう。経営の全権を委任してくれたら期限通り3年で四つとも達成は約束しますと伝えました。近藤さん迷いなく即答、「任せる」、他に選択肢はありません。たまたまプロジェクトのミーティングに初参加するためSRL本社へ出向いたときにエレベータの前で出かけようとしていた近藤さんと鉢合わせしたので、「聞いているか?」「そのためのプロジェクトに参加するために来ました」と立ち話。2分くらいで課題の確認と全権委任が決まりました。それで、暗礁に乗り上げた合弁会社立ち上げプロジェクトに(11月末から割り込み)参加してます。1月末までに本社の場所を決めて会社の体裁を整えスタートです、3か月しかありませんでした。PERTチャートをすぐに作ってクリティカルパスを確認して次々に手を打ちました。
そういう仕事をしながら、経理担当役員へS本を合弁会社へ異動させてもらいたいと伝えたら、「自分でできるでしょ?」と愛想のない返事、入社時の上司のM井さんが経理課長から取締役になっていました。SRLの近藤さんから任されたのは合弁会社の経理業務ではなくて経営、近藤さんから伝わってませんでしたが、近藤社長から全権委任を受けているので、経理担当役員には拒否権なしです。経理やシステム開発が仕事だと勘違いしていたようです。経理部門出身者に子会社の経営を任せる親会社の社長はいないでしょう。経理・財務以外の仕事はできませんから。
これらの課題の③と④は1990年から自分の手でやるつもりでしたから、願ったりかなったりでした。
帝人の臨床検査子会社は染色体画像解析装置の導入でさらに累積赤字が膨らみ、安居社長からM専務とI常務が、臨床検査子会社をどうするのか処理を迫られていました。相手側の事情も交渉を後押しする力になりました。
臨床検査子会社へはH本さんが社長。本社では部長職で、専務や常務とは同じ一ツ橋閥でした。一ツ橋で本社部長職に臨床検査子会社の経営は無理なのです。H本さん、治験合弁会社がスタートすると、SRLでやっていた治験分の検査が全部帝人臨床検査子会社へ移管されると勘違いしてました。それを帝人本社の常務と専務に説明していたことがわかりました。合弁会社の社長は帝人側のH本さんが兼務でした。
毎月行われる取締役会には非常勤役員としてI常務が来てました。SRL側は営業常務のツーさんとラボ担当役員のH泉さんでした。子会社常務はSRL側、わたしは管理部門担当部長でしたが、SRL社長の近藤さんから、経営の全権を委ねられていました。四課題は自由にやらしてもらえないと約束できない、経営を全権委任してくれるなら3年で課題全部をクリアする旨告げました。近藤さん即答でした。
数か月がたち、帝人の臨床検査子会社の業績が予定通り改善しないので、H本社長の話を聴いていてもよくわからないので、すまないが帝人本社に来てM専務とわたしへもう一度説明してくれないかと帝人本社のI常務から申し入れがあり、日比谷公園近くの帝人本社飯野ビルへ出向きました。データ管理事業へシフトすることで黒字化することを損益シミュレーションと事業分野のマトリックスで説明し、検査の移管がないことも具体的に説明しました。この会議の席上で、H本社長は震えていました。本社役付役員二人の前での業績見通しの説明はストレスが強くかかっていることがよくわかりました。
治験検査の移管は無理なのです。全世界の大手製薬メーカーはすべて取引先ですが、SRLでは精度管理基準(CAPライセンス)は世界で一番厳しいものを採用していますが、帝人の臨床検査子会社はそうではありませんから、SRLから帝人検査ラボへの検査移管は不可能なのです。逆なら問題ありません。臨床検査業界では当たり前の常識ですが、帝人羽村ラボの社長はご存じなかった。丁寧に説明したら、「H本の言うことがさっぱりわからなかった、ようやくわかった、やはり餅は餅屋ですね」そうおっしゃった。H本さん面目丸つぶれでしたが、このままやっても帝人臨床検査子会社の赤字は膨らむばかりということは帝人本社役員のお二人にはよくわかったと思います。あとは処理案についてわたしと交渉するだけ。3か月目くらいのこの会議で大筋に目途がついてしまいました。後は説明した以上の業績改善をして、そのデータをもとに交渉すればいいだけでした。
帝人の臨床検査子会社とSRLのスタートはほぼ一緒でした。そん時で三十数年の歴史がありました。売上規模は1:15です。一橋大卒の本社エリートを社長として何人送り込んでも、臨床検査子会社の再建は無理でした。業界の常識を知らない、検査の専門知識がない、検査機器や自動化の専門知識も経験もない、これではマネジメントに手も足も出せるはずがありません。
帝人の社長が東大出の安居さんに変わりました。一ツ橋閥のM専務とI川専務に遠慮はありませんから、臨床検査子会社の処理を期限をつけて迫りました。お二人困っていました。こういう情報はH本合弁会社社長を外して帝人本社のI川専務と直接交渉し始める少し前に薬学博士のKさんが、I川専務の意向を受けて帝人側の事情をつまびらかに話してくれましたので、やりやすかったのです。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で話をしていたので、ある時から正直に話してくれました。帝人の羽村ラボの見学もさせてもらいました。1時間ほど見学しただけで、このラボはもう駄目だと判断しました。治験検査専用ラボと言ってもいいくらい偏っていました。量が少ないので大規模な自動化やシステム化は無理でした。海外の製薬メーカーからの八王子ラボツアーの対応をしてたことがあるので、SRL八王子ラボの自動化と比較できました。一般検査市場へ出るしかなかったのですが、帝人は医薬品事業を拡大するために臨床検査事業を始めたので、市場が小さい治験検査に特化してしまいました。それがそもそも間違いのもとでした。
I川常務から、帝人臨床検査子会社を治験合弁会社の子会社にするので、両方の社長を兼務してほしいと要請がありました。SRL近藤社長に話をつなぎましたがノーでした。合弁会社2年目に課長職から次長職へ昇格して治験合弁会社の取締役に就任してますが、SRLのルールではSRL本社の次長職が子会社社長をやるわけにはいかないのです。2年続けて昇格というのも前例がありません。
それで、申し出をお断りして、③と④をI常務へ提案して、飲んでもらいました。
「合弁会社をやると決まって業績が振るわず後始末は帝人側でやってきた、こんなケースは初めてです」
そう言いながら笑って、OKしてくれました。M専務とI川常務は安居社長から期限付きで臨床検査子会社の整理あるいは黒字債券を迫られていたのですから、「渡りに舟」でした。ノイローゼになっていた合弁会社のH本社長は帝人本社勤務へ戻ることになりました。
「ebisuさん、H本に傷がつかないように処遇するが、了解してくれるかね」
「異論はありません、精神がだいぶ参っているようですから、楽な仕事につけてやってください」
帝人本社の一ツ橋閥は面倒見がいい。H本さんは、帝人で問題になっていた臨床検査子会社事業から撤退という仕事を首尾よくやったぐらいの評価はしたでしょう。I川常務、そのあたりは情の人でした。
帝人臨床検査子会社の課長職の年収はSRLの半分に満たなかった。社員も同じくらいの比率でした。そんな給与格差の大きい両社からの寄せ集めでしたが、年収は1年もするうちにお互いの知るところとなります。
SRL子会社になり、転籍するときにはSRL並の給料を保障してやろうと思っていました。それには経営改革をするために経営の全権委任を四課題を果たした後にも持たなければできません。しかし、近藤さんの返事はノーでした。現在の職位に関しては過去の業績の結果だから、そういうわけにはいかないとのこと。カチンと来ました。
経理部で入社して、経営統合システム開発では経理チームが一番遅れており、何も手がついていませんでした。原価計算システムチーム、購買在庫管理システムチーム、販売会計システムチームは1年前にスタートしてました。一番遅れていた財務会計システムと買掛金支払い管理システム、投資・固定資産管理システムを8か月で稼働させています。並行して予算編成と予算管理業務も統括してました。このときに、経理担当や役員から管理会計課を新設し課長職へ昇格願いが人事部へ出されましたが、人事部長が拒否してます。理由は上場準備要員としては一番最後に入社したので、まだ昇格が速すぎるという理由でしたね。2年目には検査試薬のコストカット20%を提案して、購買課長が不可能だというので、専務がプロジェクトをつくるから言い出しっぺのお前がやれというので、それまでの卸業者相手の価格交渉を止めて、製薬メーカと直接交渉に切り換えました。2か月間だけの約束で購買課へ出向して、予定通り16億円のコストカットを実現しました。それから半年後、ラボの通勤バスで親会社の富士レビオの元経理部長でSRLの監査役をしているT口さんと一緒になり、「ebisuさん今どこにいるの?」「ラボの購買です」と伝えると、「そうか購買部長してるんだ」、「いいえ平社員です」というと絶句してました。富士レビオが上場したときの経理部長ですから、たいへんさがわかっていました。それを8か月で稼働させるというのは「神業」でした。見るべき人はちゃんと見てくれています。とっても励みになりました。
近藤さんの言「現在の職位は過去の業績の結果ですから」というのは承服しがたい、それに社長でなければ、経営改革を思った通りに実現はできません。SRLから転籍する社員の給料も下げざるを得なくなります。我慢のならないことでした。半年以上前から、首都圏の特例許可老人病院が病棟の建て替えをするので常務理事で来てほしいとお誘いを受けていたので、病院を核にシームレスな老人医療と介護事業を展開してみる気になってしまいました。
SRLを退職してから十数年たって、故郷で小さな私塾をやっていたときに、近藤さん、根室まで遊びに来てくれました。養老牛温泉で、地域医療と教育の地域格差について語り明かしました。どちらかというと感情を排して論理で割り切るタイプの経営者でしたが、ロジックで割り切るだけの人でもありませんでした。3年弱の間、楽しい仕事を回してもらったと思います。
#5193 四か月定期検診と半跏趺坐 Mar. 18, 2024 [38. cancer]
<更新情報>3/20朝 検査機器やSRLラボ見学について追記
スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、胃と胆嚢を全適し、浸潤していた胃周辺のリンパ節と横行結腸の一部を切除したのは2006年7月20日だったかな。
現在は、四か月に一度検診してもらっています。
血圧は73-122
身長と体重を測定し、採尿して、採血してもらいました。
採血時に注射針がスムースに入ってチクリとした痛みがないので、注射針が何ゲージか訊いてみたら22G。
ネットで調べたら、21~23Gが現在の標準的なものだそうだ。2006年に入院したときは、19Gだったような気がする。血管は太くてはっきりしているが、それでも「逃げる」ことがあり、ベテラン看護師さんが3度やって3度とも失敗。「自信なくしちゃう」と言っていた。細い針に変えてもらったら、すんなりいった。
フェジン静注40mg 2mL。
メチコバール筋肉注射500μg 0.5mg
血圧は極東の町にいたときには50-90でした。看護師さんが慌てて測り直すぐらい低かったのです。
「50-90でしょ、それで正しいんです」、にっこりしながら告げます。
冬は雪かきに4時間精を出して、汗びっしょりなんてことがしばしばでした。床暖房で昼寝するとぽかぽか、椅子に座っていても足は温かかった。夏はサイクリングで毎年500~1700㎞走っていました。だから血圧が低かったのかもしれませんね。走る距離は毎年減っていきましたね。信号のないサイクリングに最適な10㎞のコースがありました。車もほとんど通らない。自分専用のサイクリング道路のようなものでした。
<朝のルーティン>
朝起きると布団の上で12~15分ストレッチ、それで起きて歯を磨き顔を洗ってから、リンパ摩擦を10分間ほど丁寧にやります。脚、腕、お腹、首回り、胸という具合に。それからひじ掛けのない椅子に背中を当てて背反らし2分くらいかな。ブリッジの時のような格好でゆっくり両手を伸ばします、それを25回。椅子の座面と頭部を平行にしてから、頭部を持ち揚げる運動を左右6回ずつ、そしてまっすぐが6回、合計18回。
歯磨きと洗顔も入れると時間は35分くらいかかっていますね。
リンパ摩擦初めたのが2/1からですから47日間続けていますが、どういうわけか下痢が1/3くらいに減りました。そのせいか体重が1.5㎏増加してます。毎日朝と寝る前に測定して、記録票へ記入してからEXCELへ入力してます。
7日間移動平均値をモニターしています。
体重58.1kg
体脂肪率20.7%
内臓脂肪レベル 6
骨格筋率 33.7%
体年齢 46.1歳
基礎代謝 1421.7
BMI値 19.7
ヨガのストレッチは中学生のころからずっとやっていますから、身体はとっても柔軟です。開脚して胸が床にペタっとつきます。閉脚してやっても胸が太ももにペタっとつきます。スキルス胃癌の手術の前までは、ブリッジしてそのまま立てました。術後はお腹を切った跡が当初は攣(つ)っていたのでやめたら、できなくなりました。
<食事と血糖値スパイク>
ご飯は少量ずつ。1日4回、間食2回の計6回です。そのほかにお菓子を2回、これは愉しみのため。
胃がないのでよく噛みますから、モノの味がよくわかります。醤油などの調味料は少ない方がモノの味がよくわかっておいしい。これは胃があるときには気づけませんでした。よく噛むとおいしいのです。少量で満足感が高い。
食事の仕方によっては血糖値スパイクが起きることがあるので、朝食事の1時間前に果物を入れたヨーグルトを食べてます。
昼に食べて1時間くらい後で、散歩したら、先週低血糖症状が起きました。このときは血糖値のスパイク症状はありませんでした。力が入らす、脚がガクンと折れて、3度歩道の脇で腰掛けました。現実とは違った景色が見えますが、いま歩いているのはここのはずだと見当がつくので、なんとかなりました。ブドウ糖を持って歩かないといけません。こんなことは年に一回でしょうね。
胃の全摘で血糖値スパイクで血糖値が上がった後にガクンと下がるようです。上がったときにはひどいときは脈拍が190/分なんてことが、術後18年間で4度ほどありました。救急車呼んでも間に合わないだろうなと考えながら、脈拍の落ち着くのをただ待つだけ。4回とも何とかなりましたが、かなり危なかった。(笑)
最近の症状はただの低血糖症状のようです。食事をして1~2時間後くらいにガクンと血糖値が下がり、意識がもうろうとしてきます。お風呂上りにも低血糖症状が起きやすいのです。指先に震えが来ます。青汁にオリゴ糖を入れて飲むと、10分もしないうちに症状は消えてしまいます。だから、低血糖症状らしいのです。鉄欠乏性貧血症状ではそんなことはないでしょうからね。
可能性としては脳貧血があります。不整脈は自覚症状があるので、もしかすると...
正確には「起立性低血圧症」というのですが、車から降りて立ち上がったときに起きる、お風呂から上がったときに起きる、歩いているときに突然起きるので、当てはまりますね。お風呂に入ると血管が広がり血圧が低下するので、風呂から出て立ち上がると、起立性低血圧になる可能性があります。平常時で「50-90」の血圧だとしたら、お風呂上りはそれ以下。脳貧血では視野が真っ白になるようなのですが、わたしの場合は別の風景が見えてます。現実の風景がその中にフラッシュして現れます。身体の感覚が空中遊泳しているように感じます。ふわふわするんです。起立性低血圧症なら糖分を急いで摂取しなくても座ったり、横になればおさまるのでしょう。この症状が出ているときに不整脈を感じることが多い。不整脈が出始めたら、コントロールはできません、座ったまま、ただひたすらおさまるのを待つだけ。立ってはいられません、転倒します。脚や腕がガクっと瞬間に麻痺します。
どれくらいの頻度で起きるのか、記録をつけてみたいと思います。胃癌で胃の全摘をした患者のみなさんも将来現れる共通した症状かもしれませんので、ブログで情報公開します。予防法あるいは治療法かもしれませんが、見つかるかも。どうやらまだ、他人様のお役にすこしだけ立てそうです。
《血液検査グルコース(血糖)値について》
グルコースのデータはいつも基準値内です。胃と胆嚢の全摘をしているので、2~3時間おきに食事やヨーグルトやお菓子や焼き芋そして果物などを食べてますから空腹時血糖は測れません。いつも昼食後2~3時間で採血していますが、グルコースは基準値内、前回血液検査データは98mg/dLです。基準値は70-109mg/dLですから問題なしと思われます。血液検査で基準値から外れるのは赤血球数とヘモグロビンです。基準値下限をちょっとだけ下回ることがあります。前回は429(基準値430-570)と13.2(基準値13.5-17.5)でした。前々回も同値でした。その前の2回はぎりぎり基準値下限でクリア。(笑) 鉄欠乏性貧血なのでチュアブルFeを毎日1~2錠服用(成人規定量の1/3)しています。HbA1cも測ってもらいたい気がします。以前、極東の町では検査してもらったことがありますが、問題なしでした。たぶん主治医はグルコースに異常が出ている場合にHbA1cの検査依頼を出すのでしょう。当日の食事の影響を受けず、1か月くらいの長いスパンの血糖を反映するので、グルコース(血糖値)の高い人(=糖尿病患者)には必須の検査です。
SRL八王子ラボにはHbA1cの測定器が30台ほど並んでいて、24時間稼働していました。係長独りでやっていたかな。メーカーの担当者がぼやいていました。24時間稼働しているので、機器のメンテナンスがたいへんです。検査機械の方から見たら過酷な使用状況ですから。メーカーの名前は京都第一科学だったかな。糖尿病とHbA1cの文献コピーを持って来てもらいました。検査機器の選定・購入審査・購入を2年半ほど担当したことがあるので、検査現場に用事をつくって話に行く都度、その検査に関わる論文コピーをもらいせっせと読んでいましたから、ほとんどの部署の検査について文献を渉猟することになりました。理化学測定器については前職の産業用エレクトロニクス輸入専門商社で、6年間毎月欧米50社の新製品の説明講習会に出席していたので、測定原理やディテクターの種類やコンピュータによるデータ処理、インターフェイスには「門前の小僧習わぬ経を読む」で詳しかったのです。購買課で検査試薬の価格交渉と機器購入を担当したあとに学術開発本部へスカウトされて異動しましたが、数か月後に海外メーカーからの見学者のラボ内案内を担当しろと指示されましたが、ラボ内で3000項目以上の検査をしていて、検査部だけでも10個ほど、課に分けると30ほどもありましたが、説明は最初からスラスラでした。「ラボ件対応」は学術情報部に三人専門家がいるのですが、彼らの作った説明マニュアルには載っていない、共同開発品のさまざまな情報を担当者として知っていましたので、楽な仕事でした。三人が手が回らないときは、国内の見学要望のお手伝いしてました。大学病院の検査室担当のドクターや臨床検査専門学校の生徒さんたち。専門学校はSRLのラボ見学に参加することで単位を認める授業があって、人数が多いのです。20~30人くらいの小グループに分けて分散実施してました。これは楽しかった。社員食堂も見せますが、デンマーク製の木製のテーブルとイスを購入・設置してました。取引業者に「金に糸目はつけないから、いい製品で提案書を作成してほしい」と依頼して、一番値段の高い業者へ発注しました。1900万円でした。1300万円の提案書をもってきた取引業者へ、「社員が使うのだから、お金に糸目はつけないと言っただろう?あなたのところは1300万円だったけど、1900万円の提案書の業者さんが一番高級感のあるものだったので、そちらに決定しました。冗談で言っているのではないのだから、このどういう基準で審査するか説明するので誤解のないようにしてください」と伝えました。休憩コーナーは布張りの豪華なソファーでした。安物おいていた時にはタバコの焼け焦げがあちこちありました。寝そべっている人もいました。いいものに交換したら、1年間焼け焦げナシでした。社員の躾にも高級品を使ってもらうのはよい影響があります。社員食堂見ただけで専門学校のみなさんの第一志望がSRLになったでしょう。「当社ではルーチン検査部門でも新規項目開発や研究がしたい人は、予算申請して認められたらやれますよ、必要な検査機器も検査試薬も会社が用意します。検査管理部が一次審査しますが、通らなかったら私に直接社内電話してください。面白そうだと感じたら、1件3000万円以内なら何件でもバックアップできます。あなたたちが入社するころには本社経理部門の管理職をしているかもしれません。職務分掌権限規程で研究開発予算の決定権限があります(笑)」。他社でルーチン検査部門へ配属されたら、研究開発は無理でしょうね。SRLは認めていたのです。それがSRLの強みでした。新規開発項目や機械化やコンピュータ化の半分はルーチン検査部門のチャレンジでした。そして給料もダントツ業界ナンバーワンでしたから、臨床検査専門学校の生徒さんたちにはあこがれの的です。使う検査機械も高品質・デザイン性のよいのものを選んで標準化してました。たとえば、ウィルス課の蛍光顕微鏡はツァイスのもので統一、ニコン製の1.5倍の価格でした。品質もいいがデザインが抜群にいいのです。大学のドクターが見学要望されたときには、十数台並んだツァイスの蛍光顕微鏡を見て、「さすがSRLさん、技術が高いのは機器も最高のものを使っているからですね」なんておっしゃる。その通りなのです。大学ではこういう高額品には予算がなかなか通りません。ニコンやオリンパスの蛍光顕微鏡でもいいだろうという話になります。ウィルス検査室の検査員に、蛍光顕微鏡はツァイスを使わせたい。購買課の前には経理部で経営管理統合システム開発と全社予算編成・予算管理業務をしていたので、予算はいくらでも確保できました。検査試薬の価格交渉で2年続けて15~20億円コストカットしていたので、わたしがOKした機器購入は経理担当役員も管理部門担当専務もフリーパスでした。
電子天秤はドイツメーカーのメトラー社製。いろんな部署で電子天秤使うので、そのたびにメーカーが違うので百ページもあるマニュアルを読んでもらうのは不便です。メトラー社の東京営業所へ電話して、八王子ラボの電子天秤は御社に統一するので価格は〇〇引きで取引お願いできますかと言ったら、OKでした。いいものを妥当な価格で買うのが機器購入担当の仕事です。
ところで、歳をとるというのは身体がポンコツになっていくということのようですね。そうは言いながら、あと5年くらい生きられたら、ありがたいなと思っています。いまのところ、とくにそれほど悪いところはありません。
<愉しみ>
元塾生にメール配信している英作文問題と解説は今年の12月までで終わりにするつもりですが、「在庫」は後4年配信できるだけあります。今日も増やしているので、あと半年で、問題数は20,000題を越えそうです。A4判ですでに1860ページあるので、2100ページほどの分量になるのでしょう。
前回のブログで書きましたが、いまは高速音読とシャドーイングを楽しんでいます。
今日は小学生と『坊ちゃん』の音読をしました。面白い箇所が次々に出てくるので、げらげらよく笑います。文章のリズムもいいのでとっても楽しい。週1あるいは隔週で40分ほど、1年たちましたが、読むのが上手になりました。200ページ前後の児童書を四月から百数十冊読んでるようです。だから、漱石の文章のリズムが好いことや、内容の面白みがよくわかる様子。駄文もたくさん読んだ方がいい、名作の底の深さや奥行きの広さをしっかり感じることができるようになります。「読み・書き・計算」スキルの醸成はゆっくりでいいのです。斉藤孝先生の『声に出して読みたい日本語』を1年かけてじっくり読んでます。丁寧な解説をしながらね。本の読みかたも学んでもらいたいので。著者独自の意見にフォーカスする読み方、批判的読み方、論理整合性を追いかける読み方、日本的情緒を育む読み方、文章のリズムを味わう読み方...本は視点を変えてさまざまな読み方があります。日本語がすべての学力の基礎ですから。小学生には英語の音読トレーニングと日本語の音読トレーニングをセットでやるのがよろしいようです。
「禅」という字が出てきたので、今日は、半跏趺坐して瞑想の仕方を教えました。姿勢と呼吸の仕方が飲み込めたらいいのです。呼吸がちゃんとできれば、精神が安定します。子供は素直でよい。ちゃんと真似していました。わたしも小学生の頃に座禅の仕方を教えてもらいたかった。(笑)
心は呼吸でコントロールできますから。心は心ではコントロールのできないものなのです。自律神経の安定に座禅やヨガの瞑想は実に効果が高いのです。六十数年間やって、観測し内省してわかったことです。
<余談-1:低血圧&低血糖症状>
極東の町にいたときには、車を運転して教室のあるビルに到着し、降りた途端に低血圧・低血糖症状(あるいは運転姿勢から急に立ち上がったことによる脳の血圧低下に起因する脳貧血)が出たことが数回ありました。現実のものと別の風景が見えます。現実の風景はときどきフラッシュして現れます。ビルの玄関にはいります、エレベータがあるはずとさがして乗って、降りる階のボタンを押します。目には別の景色が浮かんでいます。どちらが現実なのか視覚ではわからないのです、論理的に考えるしかありません。3階に到着してエレベータから出ますがまだ別の風景が見えています。降りて右側だったはず、まるで空中遊泳しているような体の感覚です、左へ曲がって右のドアと論理的に考えながら、鍵を取り出して教室に入り、間食用にもっていっている果物入りのヨーグルトを食べて、15分くらいすると、意識がはっきりしてきます。
車の運転席から、勢い良く立ち上がるのがいけないときがあるということのようでした。立ち眩みするんです。脳貧血かもしれません。それと低血糖症状が重なると危うい。
一度、女房殿が3週間ほど東京へ行っていて留守の時に、夜9時に仕事が終わって、自宅について車から降りて風除室の電気をつけて、車庫のところの雪を少しかこうと思ったとたんに、脚の力が抜けてガクンと膝が折れ、凍り付いたアスファルトへ膝から崩れ落ちたことがありました。何度かやっても立てずにそのまま倒れましたね。いけないこれでは服が凍り付いて動けなくなり凍死すると、風除室の明かりを目指して中腰で家の中に入りました。まるで空中遊泳のようでした。仏壇にオレンジがあったので、慌ててむさぼるように食べ、床暖房の温かみに包まれて15分もしたら、症状は治まりました。後で見たら、スーツの膝のところが裂けてました。心配させたくなかったので、そのスーツはすぐに捨てました。
現実の景色はときどきフラッシュして現れますが、見えているのは別の景色です。数日前のときは根釧原野の風景が見えてました。その中にいますが、景色の中に溶けてしまっています。原野をなでるように吹いてくる風が草を揺らしていました。鳥も虫も啼いていませんでした。意識を叢(くさむら)に分け入らせたら見えたり聞こえてくるのでしょう。川も流れているはずなのに視野には入って来ません。湿原をゆったりと流れる小川を探せばきっと見えてきます。脳が創り出したものですから。自他の区別がない景色なのです。不思議ですね。風にも空の雲にも草にも川にも虫にも魚にもなれます。オホーツクに面した湾内の岸壁でチカの群れをみながら釣り糸を垂れる少年の日に戻れるかもしれません。
散歩中に低血糖や血圧低下が何らかの理由で起き抗えなくなったら、周りに座れるところがないか探します。あれば半跏趺坐して、背筋を伸ばそうと思います。ゆっくりと息を吐き、自然に息が体に入ってくるのを感じながら、またゆっくりと吐きます、意識がなくなればそのまま成仏できそうです。見たい景色を眺めながら、その景色の中の一匹の虫になって、消えていくのも自然でいい。
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スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、胃と胆嚢を全適し、浸潤していた胃周辺のリンパ節と横行結腸の一部を切除したのは2006年7月20日だったかな。
現在は、四か月に一度検診してもらっています。
血圧は73-122
身長と体重を測定し、採尿して、採血してもらいました。
採血時に注射針がスムースに入ってチクリとした痛みがないので、注射針が何ゲージか訊いてみたら22G。
ネットで調べたら、21~23Gが現在の標準的なものだそうだ。2006年に入院したときは、19Gだったような気がする。血管は太くてはっきりしているが、それでも「逃げる」ことがあり、ベテラン看護師さんが3度やって3度とも失敗。「自信なくしちゃう」と言っていた。細い針に変えてもらったら、すんなりいった。
フェジン静注40mg 2mL。
メチコバール筋肉注射500μg 0.5mg
血圧は極東の町にいたときには50-90でした。看護師さんが慌てて測り直すぐらい低かったのです。
「50-90でしょ、それで正しいんです」、にっこりしながら告げます。
冬は雪かきに4時間精を出して、汗びっしょりなんてことがしばしばでした。床暖房で昼寝するとぽかぽか、椅子に座っていても足は温かかった。夏はサイクリングで毎年500~1700㎞走っていました。だから血圧が低かったのかもしれませんね。走る距離は毎年減っていきましたね。信号のないサイクリングに最適な10㎞のコースがありました。車もほとんど通らない。自分専用のサイクリング道路のようなものでした。
<朝のルーティン>
朝起きると布団の上で12~15分ストレッチ、それで起きて歯を磨き顔を洗ってから、リンパ摩擦を10分間ほど丁寧にやります。脚、腕、お腹、首回り、胸という具合に。それからひじ掛けのない椅子に背中を当てて背反らし2分くらいかな。ブリッジの時のような格好でゆっくり両手を伸ばします、それを25回。椅子の座面と頭部を平行にしてから、頭部を持ち揚げる運動を左右6回ずつ、そしてまっすぐが6回、合計18回。
歯磨きと洗顔も入れると時間は35分くらいかかっていますね。
リンパ摩擦初めたのが2/1からですから47日間続けていますが、どういうわけか下痢が1/3くらいに減りました。そのせいか体重が1.5㎏増加してます。毎日朝と寝る前に測定して、記録票へ記入してからEXCELへ入力してます。
7日間移動平均値をモニターしています。
体重58.1kg
体脂肪率20.7%
内臓脂肪レベル 6
骨格筋率 33.7%
体年齢 46.1歳
基礎代謝 1421.7
BMI値 19.7
ヨガのストレッチは中学生のころからずっとやっていますから、身体はとっても柔軟です。開脚して胸が床にペタっとつきます。閉脚してやっても胸が太ももにペタっとつきます。スキルス胃癌の手術の前までは、ブリッジしてそのまま立てました。術後はお腹を切った跡が当初は攣(つ)っていたのでやめたら、できなくなりました。
<食事と血糖値スパイク>
ご飯は少量ずつ。1日4回、間食2回の計6回です。そのほかにお菓子を2回、これは愉しみのため。
胃がないのでよく噛みますから、モノの味がよくわかります。醤油などの調味料は少ない方がモノの味がよくわかっておいしい。これは胃があるときには気づけませんでした。よく噛むとおいしいのです。少量で満足感が高い。
食事の仕方によっては血糖値スパイクが起きることがあるので、朝食事の1時間前に果物を入れたヨーグルトを食べてます。
昼に食べて1時間くらい後で、散歩したら、先週低血糖症状が起きました。このときは血糖値のスパイク症状はありませんでした。力が入らす、脚がガクンと折れて、3度歩道の脇で腰掛けました。現実とは違った景色が見えますが、いま歩いているのはここのはずだと見当がつくので、なんとかなりました。ブドウ糖を持って歩かないといけません。こんなことは年に一回でしょうね。
胃の全摘で血糖値スパイクで血糖値が上がった後にガクンと下がるようです。上がったときにはひどいときは脈拍が190/分なんてことが、術後18年間で4度ほどありました。救急車呼んでも間に合わないだろうなと考えながら、脈拍の落ち着くのをただ待つだけ。4回とも何とかなりましたが、かなり危なかった。(笑)
最近の症状はただの低血糖症状のようです。食事をして1~2時間後くらいにガクンと血糖値が下がり、意識がもうろうとしてきます。お風呂上りにも低血糖症状が起きやすいのです。指先に震えが来ます。青汁にオリゴ糖を入れて飲むと、10分もしないうちに症状は消えてしまいます。だから、低血糖症状らしいのです。鉄欠乏性貧血症状ではそんなことはないでしょうからね。
可能性としては脳貧血があります。不整脈は自覚症状があるので、もしかすると...
正確には「起立性低血圧症」というのですが、車から降りて立ち上がったときに起きる、お風呂から上がったときに起きる、歩いているときに突然起きるので、当てはまりますね。お風呂に入ると血管が広がり血圧が低下するので、風呂から出て立ち上がると、起立性低血圧になる可能性があります。平常時で「50-90」の血圧だとしたら、お風呂上りはそれ以下。脳貧血では視野が真っ白になるようなのですが、わたしの場合は別の風景が見えてます。現実の風景がその中にフラッシュして現れます。身体の感覚が空中遊泳しているように感じます。ふわふわするんです。起立性低血圧症なら糖分を急いで摂取しなくても座ったり、横になればおさまるのでしょう。この症状が出ているときに不整脈を感じることが多い。不整脈が出始めたら、コントロールはできません、座ったまま、ただひたすらおさまるのを待つだけ。立ってはいられません、転倒します。脚や腕がガクっと瞬間に麻痺します。
どれくらいの頻度で起きるのか、記録をつけてみたいと思います。胃癌で胃の全摘をした患者のみなさんも将来現れる共通した症状かもしれませんので、ブログで情報公開します。予防法あるいは治療法かもしれませんが、見つかるかも。どうやらまだ、他人様のお役にすこしだけ立てそうです。
《血液検査グルコース(血糖)値について》
グルコースのデータはいつも基準値内です。胃と胆嚢の全摘をしているので、2~3時間おきに食事やヨーグルトやお菓子や焼き芋そして果物などを食べてますから空腹時血糖は測れません。いつも昼食後2~3時間で採血していますが、グルコースは基準値内、前回血液検査データは98mg/dLです。基準値は70-109mg/dLですから問題なしと思われます。血液検査で基準値から外れるのは赤血球数とヘモグロビンです。基準値下限をちょっとだけ下回ることがあります。前回は429(基準値430-570)と13.2(基準値13.5-17.5)でした。前々回も同値でした。その前の2回はぎりぎり基準値下限でクリア。(笑) 鉄欠乏性貧血なのでチュアブルFeを毎日1~2錠服用(成人規定量の1/3)しています。HbA1cも測ってもらいたい気がします。以前、極東の町では検査してもらったことがありますが、問題なしでした。たぶん主治医はグルコースに異常が出ている場合にHbA1cの検査依頼を出すのでしょう。当日の食事の影響を受けず、1か月くらいの長いスパンの血糖を反映するので、グルコース(血糖値)の高い人(=糖尿病患者)には必須の検査です。
SRL八王子ラボにはHbA1cの測定器が30台ほど並んでいて、24時間稼働していました。係長独りでやっていたかな。メーカーの担当者がぼやいていました。24時間稼働しているので、機器のメンテナンスがたいへんです。検査機械の方から見たら過酷な使用状況ですから。メーカーの名前は京都第一科学だったかな。糖尿病とHbA1cの文献コピーを持って来てもらいました。検査機器の選定・購入審査・購入を2年半ほど担当したことがあるので、検査現場に用事をつくって話に行く都度、その検査に関わる論文コピーをもらいせっせと読んでいましたから、ほとんどの部署の検査について文献を渉猟することになりました。理化学測定器については前職の産業用エレクトロニクス輸入専門商社で、6年間毎月欧米50社の新製品の説明講習会に出席していたので、測定原理やディテクターの種類やコンピュータによるデータ処理、インターフェイスには「門前の小僧習わぬ経を読む」で詳しかったのです。購買課で検査試薬の価格交渉と機器購入を担当したあとに学術開発本部へスカウトされて異動しましたが、数か月後に海外メーカーからの見学者のラボ内案内を担当しろと指示されましたが、ラボ内で3000項目以上の検査をしていて、検査部だけでも10個ほど、課に分けると30ほどもありましたが、説明は最初からスラスラでした。「ラボ件対応」は学術情報部に三人専門家がいるのですが、彼らの作った説明マニュアルには載っていない、共同開発品のさまざまな情報を担当者として知っていましたので、楽な仕事でした。三人が手が回らないときは、国内の見学要望のお手伝いしてました。大学病院の検査室担当のドクターや臨床検査専門学校の生徒さんたち。専門学校はSRLのラボ見学に参加することで単位を認める授業があって、人数が多いのです。20~30人くらいの小グループに分けて分散実施してました。これは楽しかった。社員食堂も見せますが、デンマーク製の木製のテーブルとイスを購入・設置してました。取引業者に「金に糸目はつけないから、いい製品で提案書を作成してほしい」と依頼して、一番値段の高い業者へ発注しました。1900万円でした。1300万円の提案書をもってきた取引業者へ、「社員が使うのだから、お金に糸目はつけないと言っただろう?あなたのところは1300万円だったけど、1900万円の提案書の業者さんが一番高級感のあるものだったので、そちらに決定しました。冗談で言っているのではないのだから、このどういう基準で審査するか説明するので誤解のないようにしてください」と伝えました。休憩コーナーは布張りの豪華なソファーでした。安物おいていた時にはタバコの焼け焦げがあちこちありました。寝そべっている人もいました。いいものに交換したら、1年間焼け焦げナシでした。社員の躾にも高級品を使ってもらうのはよい影響があります。社員食堂見ただけで専門学校のみなさんの第一志望がSRLになったでしょう。「当社ではルーチン検査部門でも新規項目開発や研究がしたい人は、予算申請して認められたらやれますよ、必要な検査機器も検査試薬も会社が用意します。検査管理部が一次審査しますが、通らなかったら私に直接社内電話してください。面白そうだと感じたら、1件3000万円以内なら何件でもバックアップできます。あなたたちが入社するころには本社経理部門の管理職をしているかもしれません。職務分掌権限規程で研究開発予算の決定権限があります(笑)」。他社でルーチン検査部門へ配属されたら、研究開発は無理でしょうね。SRLは認めていたのです。それがSRLの強みでした。新規開発項目や機械化やコンピュータ化の半分はルーチン検査部門のチャレンジでした。そして給料もダントツ業界ナンバーワンでしたから、臨床検査専門学校の生徒さんたちにはあこがれの的です。使う検査機械も高品質・デザイン性のよいのものを選んで標準化してました。たとえば、ウィルス課の蛍光顕微鏡はツァイスのもので統一、ニコン製の1.5倍の価格でした。品質もいいがデザインが抜群にいいのです。大学のドクターが見学要望されたときには、十数台並んだツァイスの蛍光顕微鏡を見て、「さすがSRLさん、技術が高いのは機器も最高のものを使っているからですね」なんておっしゃる。その通りなのです。大学ではこういう高額品には予算がなかなか通りません。ニコンやオリンパスの蛍光顕微鏡でもいいだろうという話になります。ウィルス検査室の検査員に、蛍光顕微鏡はツァイスを使わせたい。購買課の前には経理部で経営管理統合システム開発と全社予算編成・予算管理業務をしていたので、予算はいくらでも確保できました。検査試薬の価格交渉で2年続けて15~20億円コストカットしていたので、わたしがOKした機器購入は経理担当役員も管理部門担当専務もフリーパスでした。
電子天秤はドイツメーカーのメトラー社製。いろんな部署で電子天秤使うので、そのたびにメーカーが違うので百ページもあるマニュアルを読んでもらうのは不便です。メトラー社の東京営業所へ電話して、八王子ラボの電子天秤は御社に統一するので価格は〇〇引きで取引お願いできますかと言ったら、OKでした。いいものを妥当な価格で買うのが機器購入担当の仕事です。
ところで、歳をとるというのは身体がポンコツになっていくということのようですね。そうは言いながら、あと5年くらい生きられたら、ありがたいなと思っています。いまのところ、とくにそれほど悪いところはありません。
<愉しみ>
元塾生にメール配信している英作文問題と解説は今年の12月までで終わりにするつもりですが、「在庫」は後4年配信できるだけあります。今日も増やしているので、あと半年で、問題数は20,000題を越えそうです。A4判ですでに1860ページあるので、2100ページほどの分量になるのでしょう。
前回のブログで書きましたが、いまは高速音読とシャドーイングを楽しんでいます。
今日は小学生と『坊ちゃん』の音読をしました。面白い箇所が次々に出てくるので、げらげらよく笑います。文章のリズムもいいのでとっても楽しい。週1あるいは隔週で40分ほど、1年たちましたが、読むのが上手になりました。200ページ前後の児童書を四月から百数十冊読んでるようです。だから、漱石の文章のリズムが好いことや、内容の面白みがよくわかる様子。駄文もたくさん読んだ方がいい、名作の底の深さや奥行きの広さをしっかり感じることができるようになります。「読み・書き・計算」スキルの醸成はゆっくりでいいのです。斉藤孝先生の『声に出して読みたい日本語』を1年かけてじっくり読んでます。丁寧な解説をしながらね。本の読みかたも学んでもらいたいので。著者独自の意見にフォーカスする読み方、批判的読み方、論理整合性を追いかける読み方、日本的情緒を育む読み方、文章のリズムを味わう読み方...本は視点を変えてさまざまな読み方があります。日本語がすべての学力の基礎ですから。小学生には英語の音読トレーニングと日本語の音読トレーニングをセットでやるのがよろしいようです。
「禅」という字が出てきたので、今日は、半跏趺坐して瞑想の仕方を教えました。姿勢と呼吸の仕方が飲み込めたらいいのです。呼吸がちゃんとできれば、精神が安定します。子供は素直でよい。ちゃんと真似していました。わたしも小学生の頃に座禅の仕方を教えてもらいたかった。(笑)
心は呼吸でコントロールできますから。心は心ではコントロールのできないものなのです。自律神経の安定に座禅やヨガの瞑想は実に効果が高いのです。六十数年間やって、観測し内省してわかったことです。
<余談-1:低血圧&低血糖症状>
極東の町にいたときには、車を運転して教室のあるビルに到着し、降りた途端に低血圧・低血糖症状(あるいは運転姿勢から急に立ち上がったことによる脳の血圧低下に起因する脳貧血)が出たことが数回ありました。現実のものと別の風景が見えます。現実の風景はときどきフラッシュして現れます。ビルの玄関にはいります、エレベータがあるはずとさがして乗って、降りる階のボタンを押します。目には別の景色が浮かんでいます。どちらが現実なのか視覚ではわからないのです、論理的に考えるしかありません。3階に到着してエレベータから出ますがまだ別の風景が見えています。降りて右側だったはず、まるで空中遊泳しているような体の感覚です、左へ曲がって右のドアと論理的に考えながら、鍵を取り出して教室に入り、間食用にもっていっている果物入りのヨーグルトを食べて、15分くらいすると、意識がはっきりしてきます。
車の運転席から、勢い良く立ち上がるのがいけないときがあるということのようでした。立ち眩みするんです。脳貧血かもしれません。それと低血糖症状が重なると危うい。
一度、女房殿が3週間ほど東京へ行っていて留守の時に、夜9時に仕事が終わって、自宅について車から降りて風除室の電気をつけて、車庫のところの雪を少しかこうと思ったとたんに、脚の力が抜けてガクンと膝が折れ、凍り付いたアスファルトへ膝から崩れ落ちたことがありました。何度かやっても立てずにそのまま倒れましたね。いけないこれでは服が凍り付いて動けなくなり凍死すると、風除室の明かりを目指して中腰で家の中に入りました。まるで空中遊泳のようでした。仏壇にオレンジがあったので、慌ててむさぼるように食べ、床暖房の温かみに包まれて15分もしたら、症状は治まりました。後で見たら、スーツの膝のところが裂けてました。心配させたくなかったので、そのスーツはすぐに捨てました。
現実の景色はときどきフラッシュして現れますが、見えているのは別の景色です。数日前のときは根釧原野の風景が見えてました。その中にいますが、景色の中に溶けてしまっています。原野をなでるように吹いてくる風が草を揺らしていました。鳥も虫も啼いていませんでした。意識を叢(くさむら)に分け入らせたら見えたり聞こえてくるのでしょう。川も流れているはずなのに視野には入って来ません。湿原をゆったりと流れる小川を探せばきっと見えてきます。脳が創り出したものですから。自他の区別がない景色なのです。不思議ですね。風にも空の雲にも草にも川にも虫にも魚にもなれます。オホーツクに面した湾内の岸壁でチカの群れをみながら釣り糸を垂れる少年の日に戻れるかもしれません。
散歩中に低血糖や血圧低下が何らかの理由で起き抗えなくなったら、周りに座れるところがないか探します。あれば半跏趺坐して、背筋を伸ばそうと思います。ゆっくりと息を吐き、自然に息が体に入ってくるのを感じながら、またゆっくりと吐きます、意識がなくなればそのまま成仏できそうです。見たい景色を眺めながら、その景色の中の一匹の虫になって、消えていくのも自然でいい。
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#5116 四か月検診 Nov. 17、2023 [38. cancer]
今日11/17、四か月検診の検査結果を聞きに行ってきました。
血圧は60-113でした。これでも上も下も10程度高いのです。前回の80-130というのはわたしとしてはこの17年間で最大値でした。
赤血球とヘモグロビンが基準値下限を少しだけ割っています。一番注意しなければならない血清鉄は78(基準値は50-200㎍/dL)で基準値内です。安定しています。
血清鉄が安定しているので、7月に三か月検診に行ったときに、四か月ごとでいいと言われました。
検査結果を見てフェジン静注40mgとビタミンB12メチコバール注射液500㎍を打ってもらいました。メチコバールは筋肉注射ですが、不思議と痛くならない。肩への筋肉注射で一度、数日方が上がらないくらい痛みが生じたことがあったので、ちょっと怖い。
スキルス胃癌で胃の全摘をした患者のみなさん、血圧や血清鉄のデータはどうですか?
血圧は60-113でした。これでも上も下も10程度高いのです。前回の80-130というのはわたしとしてはこの17年間で最大値でした。
赤血球とヘモグロビンが基準値下限を少しだけ割っています。一番注意しなければならない血清鉄は78(基準値は50-200㎍/dL)で基準値内です。安定しています。
血清鉄が安定しているので、7月に三か月検診に行ったときに、四か月ごとでいいと言われました。
検査結果を見てフェジン静注40mgとビタミンB12メチコバール注射液500㎍を打ってもらいました。メチコバールは筋肉注射ですが、不思議と痛くならない。肩への筋肉注射で一度、数日方が上がらないくらい痛みが生じたことがあったので、ちょっと怖い。
スキルス胃癌で胃の全摘をした患者のみなさん、血圧や血清鉄のデータはどうですか?
<余談:e-book>
診察まで時間があったのでスマホでe-bookを読みました、夏目漱石の『こころ』です。会計が終わるころには400ページのあたりでした、スマホは便利です。この小説は高校国語の教科書に載っています。当て字が多くて面白い。
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#5109 四か月検診:インフルエンザワクチンでいっぱい! Nov. 11, 2023 [38. cancer]
昨日(11/10)、四か月検診のために掛かりつけの消化器内科専門医に診察してもらいました。
3時からの診療が、今日はドクターに何か急用が入ったらしく4時からの診察になっていました。待合室はごった返しています。循環器専門医は派遣医のようですがそちらは診察室1番で動いていました。
インフルの時期ですから、高齢者のインフルワクチン接種の人で混雑しています。ご夫婦で来られた方、付き添いの人と一緒の方が多いですね。予約が必要なようです。
予約票を提出し、当日は問診表に記入して、それからドクターの問診、そしてワクチン接種という手順のようです。「電気(低周波治療器?)やマッサージは今日はしていませんか?」と受付の女性が確認していました。やっているとワクチン接種はできないそうです。「何かあったときの対応ができないのでお断りしている」と言ってました。ご夫婦で来られた方がご亭主の方がワクチン接種不可でした。
診察室から別の老夫婦が出てこられて、ご主人が立っていられず引き戸にもたれかかりました。診察室の引き戸は軽いですからずるずる動きます。危うく転倒しそうなところを奥さんが支えていました。すぐに、看護師さんが車いすを運んできて座らせていました。カーテンも向こう側で気がついて動きが速かった。「あっぱれ!」です。
スマホで夏目漱石の『こころ』を100頁ほど読んで暇をつぶし、そのあとNHKラジオ英会話の録音を聞いていたら、4時ちょうどに名前が呼ばれ、2番診察室へ。
東京へ戻ってきてから四度目の検診ですから、最初の1分くらいは他の患者さんと勘違いなされたようでした。変わりはないか訊かれ、血圧を測ってくれました。
「70-130です」
「ああ、血圧は手術前に戻っている」
「正常値ですから心配ありません」
2006年、スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、胃の全摘、胃周辺部のリンパ節切除、浸潤していた横行結腸一部切除、胆嚢切除のあと、血圧は50-90に低下して16年間変わらずでした。看護師さんが血圧を測定すると、「あれ!」といって測り直そうとするのが普通でした。「上が100切っているんでしょう?測り直さなくて大丈夫です、いつもそんなものですから」、だいたい驚かれました。東京に来てから食生活が変わったので、それが血圧の数値に影響しています。余談のところで書きます。
検査データが出てから、フェジン(鉄剤)静注とビタミンB12の筋肉注射が必要か判断しますということで、今日は採血だけでした。インフルワクチンで混雑しているので、わたしも来週の方がいいのです。
じつは心臓のほうにちょっと違和感が出ていますが、体調が悪い時だけなので、治療の必要なしと判断してドクターには告げていません。たびたび違和感があれば相談してみます。
<余談:食生活と血圧>
血圧は、2006年に手術した後は、下が50-55,上が90-100という範囲でした。
極東の町にいたときには地元で獲れる魚貝類中心の食事でした。オヒョウのフライ、地元産の癖のない上品な味の牡蠣、鮮度の良いワカサギの天麩羅、たまに揚がるマグロの生、安くて新鮮な鱈のフライ...東京で買ったら食費で毎月20万円もかかりそうな新鮮な食材が格安で手に入ります。毎週2の3度は下痢を起こしていたので、麺類を食べてもスープは1/3くらいしか飲めません。水分を短時間で摂ると下痢を起こして、体重が減るので飲めないのです。薄味のものが多かった。
昨年11月下旬に東京へ戻ってきてからは、肉食が増えました。豚のひれ肉、牛肉、鶏肉が多い食事に変わりました。昼食にはお蕎麦やパスタや食パンにあらかじめ作り置きしてある牛肉と玉ねぎとシイタケの炒めて味付けしたものをトッピングしていただくことが多いのです。
お蕎麦のツケダレは、麺つゆを少し入れてチューブのワサビを溶かし、そのあと卵を溶いてかきまぜたあと、長芋もの刷りお下ろしたものを入れて、かきまぜます。濃い目に調整したツケダレの中へお蕎麦を入れていただいていますから、塩分が多い。生活クラブのインスタントラーメンを間食で摂るときはほとんど汁も飲んでいます。
水分摂りすぎるとすぐに下痢を起こしていましたが、暑い東京の夏を乗り切るために毎日水分摂取量を増やしました。ヨーグルト、カフェオレ、甘酒、ジンジャーエール、緑茶、ほうじ茶などで水分補給を毎日続けているうちに、大腸の水分吸収能がアップしたようです。
麺つゆと魚貝類から肉食中心へ食生活がシフトしたことが、血圧が35もアップした原因だろうと推測しています。このまま落ち着いていれば問題なしです。
食生活は血圧のコントロールと密接に関係しているかもしれません。胃癌で胃の全摘をした人、あるいはこれからする人たちが、参考にしてくれたら幸いです。
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3時からの診療が、今日はドクターに何か急用が入ったらしく4時からの診察になっていました。待合室はごった返しています。循環器専門医は派遣医のようですがそちらは診察室1番で動いていました。
インフルの時期ですから、高齢者のインフルワクチン接種の人で混雑しています。ご夫婦で来られた方、付き添いの人と一緒の方が多いですね。予約が必要なようです。
予約票を提出し、当日は問診表に記入して、それからドクターの問診、そしてワクチン接種という手順のようです。「電気(低周波治療器?)やマッサージは今日はしていませんか?」と受付の女性が確認していました。やっているとワクチン接種はできないそうです。「何かあったときの対応ができないのでお断りしている」と言ってました。ご夫婦で来られた方がご亭主の方がワクチン接種不可でした。
診察室から別の老夫婦が出てこられて、ご主人が立っていられず引き戸にもたれかかりました。診察室の引き戸は軽いですからずるずる動きます。危うく転倒しそうなところを奥さんが支えていました。すぐに、看護師さんが車いすを運んできて座らせていました。カーテンも向こう側で気がついて動きが速かった。「あっぱれ!」です。
スマホで夏目漱石の『こころ』を100頁ほど読んで暇をつぶし、そのあとNHKラジオ英会話の録音を聞いていたら、4時ちょうどに名前が呼ばれ、2番診察室へ。
東京へ戻ってきてから四度目の検診ですから、最初の1分くらいは他の患者さんと勘違いなされたようでした。変わりはないか訊かれ、血圧を測ってくれました。
「70-130です」
「ああ、血圧は手術前に戻っている」
「正常値ですから心配ありません」
2006年、スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、胃の全摘、胃周辺部のリンパ節切除、浸潤していた横行結腸一部切除、胆嚢切除のあと、血圧は50-90に低下して16年間変わらずでした。看護師さんが血圧を測定すると、「あれ!」といって測り直そうとするのが普通でした。「上が100切っているんでしょう?測り直さなくて大丈夫です、いつもそんなものですから」、だいたい驚かれました。東京に来てから食生活が変わったので、それが血圧の数値に影響しています。余談のところで書きます。
検査データが出てから、フェジン(鉄剤)静注とビタミンB12の筋肉注射が必要か判断しますということで、今日は採血だけでした。インフルワクチンで混雑しているので、わたしも来週の方がいいのです。
じつは心臓のほうにちょっと違和感が出ていますが、体調が悪い時だけなので、治療の必要なしと判断してドクターには告げていません。たびたび違和感があれば相談してみます。
<余談:食生活と血圧>
血圧は、2006年に手術した後は、下が50-55,上が90-100という範囲でした。
極東の町にいたときには地元で獲れる魚貝類中心の食事でした。オヒョウのフライ、地元産の癖のない上品な味の牡蠣、鮮度の良いワカサギの天麩羅、たまに揚がるマグロの生、安くて新鮮な鱈のフライ...東京で買ったら食費で毎月20万円もかかりそうな新鮮な食材が格安で手に入ります。毎週2の3度は下痢を起こしていたので、麺類を食べてもスープは1/3くらいしか飲めません。水分を短時間で摂ると下痢を起こして、体重が減るので飲めないのです。薄味のものが多かった。
昨年11月下旬に東京へ戻ってきてからは、肉食が増えました。豚のひれ肉、牛肉、鶏肉が多い食事に変わりました。昼食にはお蕎麦やパスタや食パンにあらかじめ作り置きしてある牛肉と玉ねぎとシイタケの炒めて味付けしたものをトッピングしていただくことが多いのです。
お蕎麦のツケダレは、麺つゆを少し入れてチューブのワサビを溶かし、そのあと卵を溶いてかきまぜたあと、長芋もの刷りお下ろしたものを入れて、かきまぜます。濃い目に調整したツケダレの中へお蕎麦を入れていただいていますから、塩分が多い。生活クラブのインスタントラーメンを間食で摂るときはほとんど汁も飲んでいます。
水分摂りすぎるとすぐに下痢を起こしていましたが、暑い東京の夏を乗り切るために毎日水分摂取量を増やしました。ヨーグルト、カフェオレ、甘酒、ジンジャーエール、緑茶、ほうじ茶などで水分補給を毎日続けているうちに、大腸の水分吸収能がアップしたようです。
麺つゆと魚貝類から肉食中心へ食生活がシフトしたことが、血圧が35もアップした原因だろうと推測しています。このまま落ち着いていれば問題なしです。
食生活は血圧のコントロールと密接に関係しているかもしれません。胃癌で胃の全摘をした人、あるいはこれからする人たちが、参考にしてくれたら幸いです。
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#5073 前歯義歯装着完了! Sep. 27, 2023 [38. cancer]
上前歯の6連のブリッジが入りました。2本抜歯したから、ガッチリついています。
義歯を入れてみて、噛み合わせを確かめ、外して高い部分を削って高さを調整してから装着です。
残っている歯の方にも接着剤を塗布して、歯を装着し、紫外線を当てるとすぐに硬化します。はみ出した接着剤を削り落として、歯科衛生士さんがよく研磨してくれたのでつるつるで歯触りがいい。仮歯と比べるとそれぞれの歯の先端も丸みを帯びて心地いい。その後でさらに微調整。歯科衛生士さんがMサイズの歯間ブラシを入れて確認してくれました。1か所Sサイズ出ないと通らないところがありました。サイズは3種類使っていますから、いままで通りでOKです。
左側が少し調整の余地があるかもしれないので、1週間使ってみて、来週チェックしてくれることになりました。
生活クラブで昨日届いた大根の変わった漬物、美味しく噛めました。
歯と歯茎の境界面がピタッとして隙間がないので気分がいい。
10年もってくれたら十分です。たぶん寿命の方が先に来ます。
スキルス胃癌で全適出したから、歯がきちんとしていないと食べ物が消化できません。
歯科医の主治医のH先生と担当の歯科衛生士さんに感謝。
<余談:歯磨きの仕方の重要性>
いくつになっても自分の歯でしっかり咀嚼するのが、健康を維持する秘訣でしょうね。ブラッシングの仕方を知らないと、早く歯がダメになります。私は間抜けで、最近ようやく歯磨きの仕方がわかってきました。
#5051で具体的に書いたので、気になる方はそちらをご覧ください。使っているブラシの写真も載せてあります。
*「#5051歯の手入れの仕方とその効果:歯茎の出血と口臭が消えた!」
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義歯を入れてみて、噛み合わせを確かめ、外して高い部分を削って高さを調整してから装着です。
残っている歯の方にも接着剤を塗布して、歯を装着し、紫外線を当てるとすぐに硬化します。はみ出した接着剤を削り落として、歯科衛生士さんがよく研磨してくれたのでつるつるで歯触りがいい。仮歯と比べるとそれぞれの歯の先端も丸みを帯びて心地いい。その後でさらに微調整。歯科衛生士さんがMサイズの歯間ブラシを入れて確認してくれました。1か所Sサイズ出ないと通らないところがありました。サイズは3種類使っていますから、いままで通りでOKです。
左側が少し調整の余地があるかもしれないので、1週間使ってみて、来週チェックしてくれることになりました。
生活クラブで昨日届いた大根の変わった漬物、美味しく噛めました。
歯と歯茎の境界面がピタッとして隙間がないので気分がいい。
10年もってくれたら十分です。たぶん寿命の方が先に来ます。
スキルス胃癌で全適出したから、歯がきちんとしていないと食べ物が消化できません。
歯科医の主治医のH先生と担当の歯科衛生士さんに感謝。
<余談:歯磨きの仕方の重要性>
いくつになっても自分の歯でしっかり咀嚼するのが、健康を維持する秘訣でしょうね。ブラッシングの仕方を知らないと、早く歯がダメになります。私は間抜けで、最近ようやく歯磨きの仕方がわかってきました。
#5051で具体的に書いたので、気になる方はそちらをご覧ください。使っているブラシの写真も載せてあります。
*「#5051歯の手入れの仕方とその効果:歯茎の出血と口臭が消えた!」
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#5055 久々の低血糖症状 Sep. 10, 2023 [38. cancer]
昨夜11時ころ、キーボードを叩いていたら、突然指が震えて思うところに行かない。ああ、低血糖症状だと気がついて、ブルーベリー入りのアイスクリームと玉ねぎの入ったおせんべいを食べた。
10分もしたらおさまった。
座っているときだから何ともなかったが、これが歩いているときなら、突然膝がガクンと折れてうまくいけば膝が地面に当たってそのまま倒れ込む。厳冬期に、仕事がおわって、9時半に家へ着いたときに低血糖で倒れた。スーツのズボンに2箇所穴が開いてオシャカ。数分倒れたままになったが、そのままでは服が凍り付いて死んでしまうので、風除室についている照明を目指して手を使って泳ぐように家の中へ入上がり、仏壇に上がっていたオレンジの皮をむいて、丸ごと食べた。10分ほど横になっていたら、回復した。あれは危なかった。
車を降りると、座っていた状態から突然立ち上がるから、急激に血圧が下がる。それに低血糖症状が重なると、どこを歩いているのかわからないような状態になる。教室があるビルに中をふらふらと何とか歩き、鍵を開けて入り、すぐに携帯しているお菓子を食べるか飲み物を飲む。10分くらいするとおさまる。そんなことは何度もあった。
膝が崩れたのは2度だけだ。
胃癌の手術をしたあと数年すると、体内の貯蔵鉄が枯渇して鉄欠乏性貧血になるので、低血糖症状に注意しましょう。定期的に通院し主治医に一般検査をお願いして、貯蔵鉄のモニターをして、必要ならビタミンB12(葉酸)と鉄剤の静注をしてもらいましょう。誰もいないところで、低血糖症状で倒れたらそのままあの世行です。
ふだんから、果物やお菓子のような血糖を補充するもの、ブドウ糖の錠剤、あるいはザバスのようなプロティン飲料を用意しておきましょう。
<余談:このまま眠ろうかどうしようか>
厳冬期の夜の低血糖で倒れたときに、数分起き上がれずに、このままあと十分もすれば服が地面に凍り付いてしまうと思いつつ、このまま眠ってしまえば歯のトラブルともおさらばできるななんて考えました。案外死ぬのは楽だなってね。いやいやまだ少しやりたいことがあると、這いました。風除室の明かりを目指して空中遊泳しているような感じでしたね。
車から降りて、玄関のかぎを開けてから、車を車庫へ入れようとしたところで膝がガクンと折れたんです。鍵開ける前だったら危なかった。倒れたあとはとてもかぎを開けられる状態ではありません、扉を引くだけで精一杯でした。
*「#4933 低血糖症状とその周辺のことがら」
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10分もしたらおさまった。
座っているときだから何ともなかったが、これが歩いているときなら、突然膝がガクンと折れてうまくいけば膝が地面に当たってそのまま倒れ込む。厳冬期に、仕事がおわって、9時半に家へ着いたときに低血糖で倒れた。スーツのズボンに2箇所穴が開いてオシャカ。数分倒れたままになったが、そのままでは服が凍り付いて死んでしまうので、風除室についている照明を目指して手を使って泳ぐように家の中へ入上がり、仏壇に上がっていたオレンジの皮をむいて、丸ごと食べた。10分ほど横になっていたら、回復した。あれは危なかった。
車を降りると、座っていた状態から突然立ち上がるから、急激に血圧が下がる。それに低血糖症状が重なると、どこを歩いているのかわからないような状態になる。教室があるビルに中をふらふらと何とか歩き、鍵を開けて入り、すぐに携帯しているお菓子を食べるか飲み物を飲む。10分くらいするとおさまる。そんなことは何度もあった。
膝が崩れたのは2度だけだ。
胃癌の手術をしたあと数年すると、体内の貯蔵鉄が枯渇して鉄欠乏性貧血になるので、低血糖症状に注意しましょう。定期的に通院し主治医に一般検査をお願いして、貯蔵鉄のモニターをして、必要ならビタミンB12(葉酸)と鉄剤の静注をしてもらいましょう。誰もいないところで、低血糖症状で倒れたらそのままあの世行です。
ふだんから、果物やお菓子のような血糖を補充するもの、ブドウ糖の錠剤、あるいはザバスのようなプロティン飲料を用意しておきましょう。
<余談:このまま眠ろうかどうしようか>
厳冬期の夜の低血糖で倒れたときに、数分起き上がれずに、このままあと十分もすれば服が地面に凍り付いてしまうと思いつつ、このまま眠ってしまえば歯のトラブルともおさらばできるななんて考えました。案外死ぬのは楽だなってね。いやいやまだ少しやりたいことがあると、這いました。風除室の明かりを目指して空中遊泳しているような感じでしたね。
車から降りて、玄関のかぎを開けてから、車を車庫へ入れようとしたところで膝がガクンと折れたんです。鍵開ける前だったら危なかった。倒れたあとはとてもかぎを開けられる状態ではありません、扉を引くだけで精一杯でした。
*「#4933 低血糖症状とその周辺のことがら」
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#5040 歯科治療:二段階治療 Aug. 23, 2023 [38. cancer]
前回までは#5027と#5031に書いてありますが、上の前歯の治療中です。右上1癌と2番、左上1~3番までの5本。
2段階でやると主治医がおっしゃっていたので、今日はその2段階目です。上左3番と4番の治療でした。古い義歯を外して仮歯をつくってくれました。これで今日の食事は問題なしです。上左3番の歯茎の状態がまだよくありません。歯間ブラシMでマッサージを継続するように指示がありましたので、歯科医院で扱っている歯間ブラシでマッサージしてみることにしました。あたりがソフトなのでフィーリングがいいのです。市販のものにはたまに硬すぎるのがあります。やわらかめの方がフィーリングがいい。
*「DENT.EX歯科用」の歯間ブラシは歯科医院取り扱い専用商品のようです。
<余談:トウキビ>
治療が済んで家へ戻ったら、美味しいとうきびが届いていました。夏の暑い日をたくさん浴びた甘くて濃い味の青森県産のトウキビでした。
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2段階でやると主治医がおっしゃっていたので、今日はその2段階目です。上左3番と4番の治療でした。古い義歯を外して仮歯をつくってくれました。これで今日の食事は問題なしです。上左3番の歯茎の状態がまだよくありません。歯間ブラシMでマッサージを継続するように指示がありましたので、歯科医院で扱っている歯間ブラシでマッサージしてみることにしました。あたりがソフトなのでフィーリングがいいのです。市販のものにはたまに硬すぎるのがあります。やわらかめの方がフィーリングがいい。
*「DENT.EX歯科用」の歯間ブラシは歯科医院取り扱い専用商品のようです。
<余談:トウキビ>
治療が済んで家へ戻ったら、美味しいとうきびが届いていました。夏の暑い日をたくさん浴びた甘くて濃い味の青森県産のトウキビでした。
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