#5122 先読みスキル:脳の並列処理トレーニング Dec. 3, 2023 [5.1 脳の使い方]
20年間ほどやっていた中高生対象の日本語音読トレーニングは、参加者に先読み技術を習得させるためにしていた。
目で読み取って記憶し、記憶した文章を声に出しながら、目は次の部分を追って先読みし、意味のかたまりと音の区切りを理解する。
そういうことだから、先読みができているかどうかは初見のものを音読させるとすぐに判別がつく。先読みできる生徒は、行の折り返しのところもよどみなく読める。
そういうことだから、先読みができているかどうかは初見のものを音読させるとすぐに判別がつく。先読みできる生徒は、行の折り返しのところもよどみなく読める。
この時脳は二つの仕事を並列処理している。①脳に一時的にため込んだ文章を読みだして声に出している部分と②次に声に出すところを先読みするという風に。
慣れてくると眼でとらえているスパンが広くなる。これは前後の文脈が見えてくるからかもしれない。こうなると、2つの並列処理ではなくなってくる。③文脈読みという別の思考(処理系)が走っている。
④数字が出てくるとそれが慥(たし)かなのか計算したり、自分の持ち合わせのデータと突合していたりする。これらが同時に走っているのである。⑤違和感が生ずれば、そこで音読をストップするかどうかの判断が入るようになっている。このように5つの処理が同時に走っていることがわかる。
慣れてくると眼でとらえているスパンが広くなる。これは前後の文脈が見えてくるからかもしれない。こうなると、2つの並列処理ではなくなってくる。③文脈読みという別の思考(処理系)が走っている。
④数字が出てくるとそれが慥(たし)かなのか計算したり、自分の持ち合わせのデータと突合していたりする。これらが同時に走っているのである。⑤違和感が生ずれば、そこで音読をストップするかどうかの判断が入るようになっている。このように5つの処理が同時に走っていることがわかる。
これらは脳を意識的にコントロールしているのではなく、自動的に動いている、書いているのはそれを観察した結果のこと。
何階層か走っている処理系のどれかに集中すると他の処理系は消滅してしまうから、そのどれにも力を入れない(=集中しない)、つまり分散モードで脳を走らせている。 走っている意識のどれにも執着しないのが分散モードということ。たとえて言うと、集中モードが実数の世界だとすると、分散モードは複素平面の世界かもしれない。どこにも執着しない心の状態を「空」と呼ぶ。
何階層か走っている処理系のどれかに集中すると他の処理系は消滅してしまうから、そのどれにも力を入れない(=集中しない)、つまり分散モードで脳を走らせている。 走っている意識のどれにも執着しないのが分散モードということ。たとえて言うと、集中モードが実数の世界だとすると、分散モードは複素平面の世界かもしれない。どこにも執着しない心の状態を「空」と呼ぶ。
並列処理を眺めている別の意識が脳内に存在している、「アドミニストレーターのような役割の観察者としての自意識」とでも呼んでおく。思考が何階層か重なった結果、「観察者としてのメタな自意識」が現れてくる。しかし、ふだん判別がつくのはせいぜい5階層くらいだ。メタな自分を観察しているさらに上層のメタな自意識を意識することも可能になる。
数学者の岡潔先生は、自著の中で10階層くらい区別がつくと書いておられたが、晩年に書かれたものには「最近は15階層まで区別がつく」という風なことを記されていた。
思考や意識を建築物にたとえると、部屋に襖(ふすま)があり、その襖を開けるとそのまた奥に襖があって別室に続いているという具合に。意識の階層は無限なのかもしれない。
さて、先読み技術をしっかり習得できている高校生は何割いるのだろう?少なくないと思う。トレーニング次第で誰でもできるようになるからだ。その点では柔剣道空手や書道や珠算、ピアノ、琴などの楽器、要するにお稽古事と同じで、技は適切な方法で磨けばどんどん上がっていくものだから。
ところが、トレーニングでは獲得しにくいものがある。標準的な難易度の中学・高校数学の問題を、別のことを対話しながらでもできる生徒がいたがその存在比率は2%以下だった。古里に戻って、20年間で300人弱個別指導して4人いたが、気がつかなかった生徒もいるかもしれない。これができる生徒は数学は断然学年トップ、ある時点からトップ独占状態の生徒達だ。その中に難易度の高いシリウス英語中1問題集を3か月でクリアした者がいたので、教材を切り替えたことがある。この生徒は5年生から来たが、小学生の2年間は英語は理由があって教えなかった。中1が終わると転校していった。親の転勤が3月になって急に決まったからだ。旭川医大へ現役合格したO君と同様に、根室からでも北大医学部に現役合格できる能力レベルの生徒。
これはセンスの問題が絡んでいるようで、トレーニングで獲得するのは困難に感じる。これも20年間古里で300人弱の生徒たちを教えることで学んだことだ。
思考の力や学力を上げるには脳の使い方が案外大切なのだ。
現在AIと呼ばれ、話題にのぼっているものは、「文書生成エキスパートシステム」にすぎない。意識のこの複雑さを考えると、AIはとても創れそうにない。
人類は自分の脳を上手に使う方法も研究したほうがいい。人間の脳や意識はまったく未知の領域のままであり続けており、わかってきたことはほんの一部だ。
ずいぶん昔のこと、高校1年の最後の学期が終り、春休みに入った。公認会計士2次試験の勉強をそろそろ開始しようと、工業簿記1級の問題集を広げた。10日ぐらいで全部終了したが、毎日十数時間勉強したので、眠ろうとしても眠れない。頭が暴走して止まらない。昼間インプットしたことが脳の中で自動的に整理される。脳の暴走はエネルギーを大量に食うようで、体が疲れ切ってしまうまで眠れない。もう1冊、会計学の問題集をやるつもりでいたがストップした。
クールダウンしないと脳の暴走が続いてヘンになる(気がふれる)恐怖が湧いたからだ。
どうやら過度の集中状態を長時間続けると、危うい領域へ踏み込んでしまうことがそれで分かった。だんだんストレス耐性みたいなものが備わってくるようになり、大学生になると1か月間ぐらいならなんとかなるようになった。
この脳の暴走は、無意識の領域で起きてしまうことのように感じる。自分ではとっても制御できないからだ。顕在意識の過度の集中状態を長く続けないことで間接的にコントロールするしかない。
脳の暴走を初めて体験したのは小学生の低学年の頃のことだった。ビリヤードに夢中になって、就寝してからもカラーの映像が目をつぶると浮かんでくる。グリーンのテーブルに白い球と赤い球が2個ずつ浮かんで、球の配置から撞点の位置がわかる。そこを精確にキューで撞く。手にも感触がある。夢中で球を撞いているのである、次々に浮かんでくる映像が消せない、2~3時間ぐらい眠れなかった。その内に身体が疲れ切ってくると、ぐっすり寝落ちしていました。放っておいても大丈夫でした。体力が小さかったので、疲れ切るのも速かったようです。
この体験で、カラーイメージを脳で自在に操ることができるようになりました。数学の図形問題に使えましたね。立体の断面図も一体方向からスライスしていくことができましたから。
先生が黒板に書いたことを記憶するのにも使えました。モスグリーンの黒板に白いチョークですから、色彩の基調がビリヤードと一緒でした。これは便利だった。3か月間くらいはページをめくるように思い出せたからです。
仏教では無意識を末那識と阿頼耶識に分けている。
無意識のリソースの方が顕在意識よりも6桁は情報量が多いのではないか。起きているときに眼耳鼻舌身意を通じて取り込まれた情報が、寝ている間に無意識層で整理される。脳を分散モードにすると末那識の動きの一部をモニターできるのだろう。
だから、顕在意識を実数とすると分散モードは無意識の一部を扱うことになるので複素平面にたとえられる。サーチできる情報量がけた違いに大きくなるようだ。
分散モードでは情報間の論理的な結合が弱くなるから、異分野に相似パターンを見つけることが容易になる。結びつくはずのない異分野の知識が結びついてしまうのが、分散モードの特徴である。
たとえば、『資本論』とユークリッド『原論』やデカルト『方法序説』「科学の方法 四つの規則」のような類。『資本論』とブルバキ『数学原論』と言い換えてもいい。
----------------------------------------------------
ここからは脱線するので、読み飛ばしてくださって結構です。
無意識によってあらかじめ敷かれたレールの上を走っているような感覚がすることがあるので、事例を三つ挙げてみます。
1988年に英国製の染色体画像解析装置を3台導入した後、1年後くらいに帝人の臨床検査子会社と東北のCC社の仙台ラボが同じものを導入したことを知りました。経営状態が悪いので、その打開のために導入したはず。しかし、その分野はSRLが市場の80%を握っているので、これら両社は市場の20%部分をBMLとも分け合って持って行くしかない。20000円くらいの高価格検査だから、赤字解消ができるかもしれないと考えたのでしょうが、そんなに甘い市場ではありませんから、ほとんど受注できないと読んでいました。数年たったら、累積赤字が膨らんでSOSが出るので、買収するチャンスが来るかもしれないと思っていました。そのときは購買課で検査機器開発及び購入担当でした。そのあと学術開発本部へ異動して、1年半ほどで新設されたばかりの関係会社管理部へ移り、1993年にCC社への資本提携交渉を担当して、取締役経営企画室長として出向することになりました。予測通りの経営状態になっていました。
帝人の臨床検査子会社は1996年に、臨床治験の合弁会社を近藤社長が決定し、プロジェクトを立ち上げたが、11月に暗礁に乗り上げ、それを打開するために出向していたSRL東京ラボから急遽呼び戻されてます。四つの具体的な課題が提示されたので、経営の全権委任の了承を取り付けて、3年で達成することを約束しました四課題の中に帝人臨床検査ラボの子会社化の項目がちゃんとありました。
結局、帝人の臨床検査子会社吸収合併もわたしが担当しました。
頭の中で考えたことは、無意識層に刻み込まれ、周りの状況がその流れに沿って動いていき、時が来れば仕事がちゃんと回ってきて、担当していますから、不思議なんです。
偶然の掛け算のようなことが、無意識層が関係して生じているように感じますが、確証はありません。たまたま人生で繰り返しその手のことが生じているだけかもしれないからです。論理的に考えたら、ありえない確率だから、この部分はわたしにはわからない。
1989年に学術開発本部(開発部・学術情報部・精度保証部)へ異動したのはたまたまチョムスキーの"Knowledge of Language"を自席で仕事時間中に読んでいるときに、取締役本部長のIさんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を手に取ってみて、折り返し電話があり、異動の打診を受けたからです。マネジメント要員が不足していました。
沖縄米軍から女性兵士の出生前検査、トリプルマーカ―検査依頼があり、システム本部が不可能だという返事をして、学術営業部の担当者のSが困っていたところだった。わたしの向かいの席にいた在米歴25年のH女史がニューヨークから取り寄せた文献をわたしの机にポンと投げてよこして、「これシステム本部で不可能って言われたの、学術営業のSが困っている。ebisuさんならできるでしょ、やってあげて」、まだ異動して間もないのに、わたしが担当するのが当然であるかのように仕事をまわしてくれました。「システム部門がノーという理由がなにか、とりあえず文献読んでからやり方考えます」、そう返事しました。妊娠週令や人種、体重など検査依頼書の入力項目にはないものが並んでいました。なるほど不可能と返事するはずです。英語の医学文献読んで、データから線形回帰分析(2次の曲線回帰だったかな?)して計算式を算出し、プログラミング仕様書を書き、不可能を可能にする実務設計をしてます。検査受付システムで入力できない項目は沖縄営業所で入力して、三項目の検査データの結果ファイルをパソコンで結合処理し、結果報告書を出力して対応しました。1か月で出来上がって沖縄米軍へ説明に行きました。沖縄米軍司令官に感謝されました。法律で出生前診断検査が義務付けられていたから、違法な状態だったのです。1年間で2人異常値が出ました。トリプルマーカ―は母体血を使ったスクリーニング検査ですから、異常値が出たら羊水穿刺して染色体検査で確認がなされています。当時の米国の文献では、羊水穿刺は1/200のリスクがあるとされていました。200回に1度失敗があると。だから、羊水穿刺は少ないほどいい。スクリーニング検査は妊婦と胎児にとって安全ですから。
同じ時期にトリプルマーカの日本人基準値研究を慶応大学産婦人科のドクターがしたくて、文献収集と協力要請が学術営業のSにありました。製薬メーカー2社に学術研究を理由に検査試薬の無償提供を交渉し、検査と多変量解析はSRL負担でやる旨、研究部や検査部と話をつけ、産学協同プロジェクトがスタートしてます。製薬メーカへの検査試薬提供依頼は、価格交渉のチャンネルを利用したので、メーカー側にノーの返事はないのです。
3年くらいかかって6000人ほどの妊婦のデータが取れました。1億円くらい費用が掛かったと思います。大学側で1億円もの研究費予算を確保するのはたいへんですからね。SRLとしては確かなデータに基づくトリプルマーカ―検査の基準値が欲しかったのです。社会的な意義の大きい学術研究ですから、全体をデザインし、関係する部署や企業と調整して、プロジェクトマネジャーを担いました。検査試薬の価格交渉を3年担当したから可能でした。他の人では調整ができません。
白人を100とすると黒人が120ですから、日本人はその間に位置すると予測してましたが、外れました。130だったのです。学術的に意義の大きい研究になりました。それから20年間ほどトリプルマーカ検査MoM値の日本人基準値として使われています。現在はもっと精度の良い検査法に変わりました。多変量解析したのは研究部のFですが、彼はその2年ほど前に産婦人科学会で、慶応大学産婦人科のドクターの研究発表データの信頼性に問題があることを指摘して、トラブルになったことがありました。創業社長の藤田さんが謝罪に出向いておさめています。Fは「ebisuさんの依頼だから受けるんだよ」そう言ってました。応用生物統計のすぐれた技術者でしたから頑固なのです。この多変量解析が社会的な意義の大きいものであることは承知していました。この共同研究が終わるとFはSRLを辞めて独立起業しています。しばらく待ってくれたのです。ありがたかった。まるでこれらの仕事を担当するために学術開発本部へ異動したかのようなタイミングでした。半年移動がずれていたら、この仕事をSRLでは受けられなかった。トリプルマーカ―の日本人基準値制定も10年以上遅れたでしょうね。わたしは技術屋さんとは不思議とウマが合って仲良くなれるんです。技術屋さんにはあまりずるい人いませんので。
三つ目。1984年にSRLへ転職したときに、臨床検査や医学に関する講習会が毎月開催されました。さまざまな大学の先生たちが講師でした。覚えているのは東京医大の血液学の藤巻教授と、自治医大助教授(当時)櫻林郁之助先生です。講演終了後、臨床診断エキスパートシステムについてお話をする機会がありました。血液疾患の診断手順は複雑なのですが、診断手順をプログラム化できそうに見えました。専門医を育てるのがたいへんだとも仰っていました。診断手順をプログラム化できれば、CAIにも利用できます。櫻林郁之助助教授には臨床診断エキスパートシステムの開発には臨床検査項目コードの標準化が前提条件であることを話しました。そうしたら、彼は臨床病理学会に臨床検査項目コード検討委員会があり、自分が委員長をやっているので、そちらの仕事を手伝え、仕事がしやすいように藤田社長に総合企画室への異動をお願いするとも申し出でを受けました。SRLは特殊検査の会社ですが、事業提案は臨床病理学会長の河合先生から創業社長の藤田光一郎さんに提案があったもので、河合先生の一番弟子の櫻林郁之助先生からの申し入れなら藤田社長はノーとは言いにくいのです。異動はしたくないのでこの時は断りました。経理部所属で上場審査要件をクリアできる経営統合システム開発を抱えていたからです。
1986年に「臨床診断支援システム開発と事業化案」を書いて、創業社長である藤田光一郎さんの承認をもらいました。これはエキスパートシステムの開発で、10個のプロジェクトに分けてあり、臨床検査項目コードの標準化プロジェクトもその中にありました。この時の所属は総務部購買課です。
システム開発課長の栗原さんがそれを読み、BMLの呼びかけで、業界内で検査コードを統一のために大手六社で話し合いが始まったから、一緒に行こうと誘われました。SRLのシステム開発部長は大反対でした。本来なら業界ナンバーワンのSRLシステム開発部が提案すべきことでしたから、メンツがあったのかもしれませんね。BMLのシステム部長の呼びかけで、システム部門の集まりでした。BMLは川越に大型のラボを建設し、そこで使う臨床検査項目コードを、業界標準コードを作って導入しようというわけです。自社コードでは意味がないと感じていたのでしょう、なかなか鋭い感覚の持ち主でした。でも自社の利益を考えてのことで、視野が狭い。栗原さんと話して、業界標準コードを作っても、病院側で採用してくれないから、日本標準コード制定のための産学協同プロジェクトにしようと決めて、櫻林郁之助先生は臨床科学部3課だったかな、免疫電気泳動の学術顧問でしたから、臨床化学部長の川尻さんから連絡を取ってもらうことにしました。2回目の会合に栗原さんと2人で出席して、業界標準コードでは病院側で採用してもらえないので、社会的意義がない、臨床病理学会から公表となれば、全国の病院が採用する可能性が拓けると説明すると、六社はすぐに同意。3回目の会議には櫻林郁之助先生の出席を得て、産学協同プロジェクトがスタートしました。大手六社のシステム部門、学術部門からそれぞれ人を出してもらい、毎月一回の割合で、各社持ち回りで検討会議を開催することになりました。その後わたしは学術開発本部へ異動したので、1度だけ会議に参加しています。
4年の検討期間を経て臨床病理学会から臨床検査項目コードが公表されています。それ以来全国の病院やクリニックで使われている臨床検査項目コードはこのコードです。SRLのシステム部がいまでもコード管理事務局になっているはずです。2年に一度検査の保険点数が改定されると、SRLのコード管理事務局が保険点数を更新します。すると全国の病院システムがそのコードを取り込んで自動的に検査項目コードマスターが書き換えられます。それまでは保険点数の改定がある都度、全国の病院で新しい保険点数を入力していました。そういう作業が一斉に消滅しています。無駄な仕事ですからね。事実上の日本標準検査コードですから、汎用の病院システムパッケージを販売している会社は、このコードを使わざるを得なくなりました。学会から発表するとこういう効果があるのです。まるで結果が違ってきます。臨床病理学会は現在は臨床医学会と名称が変更になっているようです。
臨床診断エキスパートシステムは世界市場での展開を考えていたので、項目コードの世界標準を制定するつもりでした。日本人発の世界標準規格はハリケーンの藤田スケールぐらいなものです。だから、国際的な意義も大きい企画でした。日本標準臨床検査項目コードは公表当初から各国の参考になっています。どこの国も標準コードをもっていませんでしたから。
NTTデータ通信事業本部と「臨床診断エキスパートシステム開発と事業化案」で2度ミーティングしています。通信速度とコンピュータの処理能力がこのエキスパートシステムの使用を満足するのは30年後という結論に達し、断念しています。現実は、12年後には通信速度もコンピュータの処理能力も十分なものが整備されています。
自治医大の櫻林郁之助の講義を聞かなければ、話す機会もありませんでした。あの講演会はあの時の1年間だけでした。ピンポイントで櫻林先生とつながったのです。システム開発課長の栗原が「臨床診断支援システム開発と事業化案」を読まなければ栗原との接点もありません。BMLのシステム部長が大手六社を集めて業界標準コードの検討を言い出さなければ、大手六社との接点もありません。なにしろ、職務権限上はまったく関係のないことでしたから、こういうことが自由にできたというのも、SRLは不思議な会社でしたね。
どういうわけか、いつもそう流れにちゃんと乗っているのです。最短距離を引いたレールの上を走っているような感覚があるのです。理屈では担当する確率はゼロですが、かならず、わたしが噛まないといけない仕事が待っています。どの部署でもそうでした。
経理部⇒購買課⇒学術開発本部⇒関係会社管理部⇒CC社出向⇒本社経理部管理会計課・社長室・購買部兼務⇒SRL東京ラボ経理部⇒帝人との臨床治験合弁会社
SRLでは16年間でこれだけ種類の異なる部署への異動を繰り返した事例は他にはないと思います。スキルが異なっている部門が少なくありませんから。
無意識部分が影響して、こういうことが可能になるという感覚がしています。根拠はないし、意識の5階層のような論理的な説明もできません。
たとえば、『資本論』とユークリッド『原論』やデカルト『方法序説』「科学の方法 四つの規則」のような類。『資本論』とブルバキ『数学原論』と言い換えてもいい。
----------------------------------------------------
ここからは脱線するので、読み飛ばしてくださって結構です。
無意識によってあらかじめ敷かれたレールの上を走っているような感覚がすることがあるので、事例を三つ挙げてみます。
1988年に英国製の染色体画像解析装置を3台導入した後、1年後くらいに帝人の臨床検査子会社と東北のCC社の仙台ラボが同じものを導入したことを知りました。経営状態が悪いので、その打開のために導入したはず。しかし、その分野はSRLが市場の80%を握っているので、これら両社は市場の20%部分をBMLとも分け合って持って行くしかない。20000円くらいの高価格検査だから、赤字解消ができるかもしれないと考えたのでしょうが、そんなに甘い市場ではありませんから、ほとんど受注できないと読んでいました。数年たったら、累積赤字が膨らんでSOSが出るので、買収するチャンスが来るかもしれないと思っていました。そのときは購買課で検査機器開発及び購入担当でした。そのあと学術開発本部へ異動して、1年半ほどで新設されたばかりの関係会社管理部へ移り、1993年にCC社への資本提携交渉を担当して、取締役経営企画室長として出向することになりました。予測通りの経営状態になっていました。
帝人の臨床検査子会社は1996年に、臨床治験の合弁会社を近藤社長が決定し、プロジェクトを立ち上げたが、11月に暗礁に乗り上げ、それを打開するために出向していたSRL東京ラボから急遽呼び戻されてます。四つの具体的な課題が提示されたので、経営の全権委任の了承を取り付けて、3年で達成することを約束しました四課題の中に帝人臨床検査ラボの子会社化の項目がちゃんとありました。
結局、帝人の臨床検査子会社吸収合併もわたしが担当しました。
頭の中で考えたことは、無意識層に刻み込まれ、周りの状況がその流れに沿って動いていき、時が来れば仕事がちゃんと回ってきて、担当していますから、不思議なんです。
偶然の掛け算のようなことが、無意識層が関係して生じているように感じますが、確証はありません。たまたま人生で繰り返しその手のことが生じているだけかもしれないからです。論理的に考えたら、ありえない確率だから、この部分はわたしにはわからない。
1989年に学術開発本部(開発部・学術情報部・精度保証部)へ異動したのはたまたまチョムスキーの"Knowledge of Language"を自席で仕事時間中に読んでいるときに、取締役本部長のIさんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を手に取ってみて、折り返し電話があり、異動の打診を受けたからです。マネジメント要員が不足していました。
沖縄米軍から女性兵士の出生前検査、トリプルマーカ―検査依頼があり、システム本部が不可能だという返事をして、学術営業部の担当者のSが困っていたところだった。わたしの向かいの席にいた在米歴25年のH女史がニューヨークから取り寄せた文献をわたしの机にポンと投げてよこして、「これシステム本部で不可能って言われたの、学術営業のSが困っている。ebisuさんならできるでしょ、やってあげて」、まだ異動して間もないのに、わたしが担当するのが当然であるかのように仕事をまわしてくれました。「システム部門がノーという理由がなにか、とりあえず文献読んでからやり方考えます」、そう返事しました。妊娠週令や人種、体重など検査依頼書の入力項目にはないものが並んでいました。なるほど不可能と返事するはずです。英語の医学文献読んで、データから線形回帰分析(2次の曲線回帰だったかな?)して計算式を算出し、プログラミング仕様書を書き、不可能を可能にする実務設計をしてます。検査受付システムで入力できない項目は沖縄営業所で入力して、三項目の検査データの結果ファイルをパソコンで結合処理し、結果報告書を出力して対応しました。1か月で出来上がって沖縄米軍へ説明に行きました。沖縄米軍司令官に感謝されました。法律で出生前診断検査が義務付けられていたから、違法な状態だったのです。1年間で2人異常値が出ました。トリプルマーカ―は母体血を使ったスクリーニング検査ですから、異常値が出たら羊水穿刺して染色体検査で確認がなされています。当時の米国の文献では、羊水穿刺は1/200のリスクがあるとされていました。200回に1度失敗があると。だから、羊水穿刺は少ないほどいい。スクリーニング検査は妊婦と胎児にとって安全ですから。
同じ時期にトリプルマーカの日本人基準値研究を慶応大学産婦人科のドクターがしたくて、文献収集と協力要請が学術営業のSにありました。製薬メーカー2社に学術研究を理由に検査試薬の無償提供を交渉し、検査と多変量解析はSRL負担でやる旨、研究部や検査部と話をつけ、産学協同プロジェクトがスタートしてます。製薬メーカへの検査試薬提供依頼は、価格交渉のチャンネルを利用したので、メーカー側にノーの返事はないのです。
3年くらいかかって6000人ほどの妊婦のデータが取れました。1億円くらい費用が掛かったと思います。大学側で1億円もの研究費予算を確保するのはたいへんですからね。SRLとしては確かなデータに基づくトリプルマーカ―検査の基準値が欲しかったのです。社会的な意義の大きい学術研究ですから、全体をデザインし、関係する部署や企業と調整して、プロジェクトマネジャーを担いました。検査試薬の価格交渉を3年担当したから可能でした。他の人では調整ができません。
白人を100とすると黒人が120ですから、日本人はその間に位置すると予測してましたが、外れました。130だったのです。学術的に意義の大きい研究になりました。それから20年間ほどトリプルマーカ検査MoM値の日本人基準値として使われています。現在はもっと精度の良い検査法に変わりました。多変量解析したのは研究部のFですが、彼はその2年ほど前に産婦人科学会で、慶応大学産婦人科のドクターの研究発表データの信頼性に問題があることを指摘して、トラブルになったことがありました。創業社長の藤田さんが謝罪に出向いておさめています。Fは「ebisuさんの依頼だから受けるんだよ」そう言ってました。応用生物統計のすぐれた技術者でしたから頑固なのです。この多変量解析が社会的な意義の大きいものであることは承知していました。この共同研究が終わるとFはSRLを辞めて独立起業しています。しばらく待ってくれたのです。ありがたかった。まるでこれらの仕事を担当するために学術開発本部へ異動したかのようなタイミングでした。半年移動がずれていたら、この仕事をSRLでは受けられなかった。トリプルマーカ―の日本人基準値制定も10年以上遅れたでしょうね。わたしは技術屋さんとは不思議とウマが合って仲良くなれるんです。技術屋さんにはあまりずるい人いませんので。
三つ目。1984年にSRLへ転職したときに、臨床検査や医学に関する講習会が毎月開催されました。さまざまな大学の先生たちが講師でした。覚えているのは東京医大の血液学の藤巻教授と、自治医大助教授(当時)櫻林郁之助先生です。講演終了後、臨床診断エキスパートシステムについてお話をする機会がありました。血液疾患の診断手順は複雑なのですが、診断手順をプログラム化できそうに見えました。専門医を育てるのがたいへんだとも仰っていました。診断手順をプログラム化できれば、CAIにも利用できます。櫻林郁之助助教授には臨床診断エキスパートシステムの開発には臨床検査項目コードの標準化が前提条件であることを話しました。そうしたら、彼は臨床病理学会に臨床検査項目コード検討委員会があり、自分が委員長をやっているので、そちらの仕事を手伝え、仕事がしやすいように藤田社長に総合企画室への異動をお願いするとも申し出でを受けました。SRLは特殊検査の会社ですが、事業提案は臨床病理学会長の河合先生から創業社長の藤田光一郎さんに提案があったもので、河合先生の一番弟子の櫻林郁之助先生からの申し入れなら藤田社長はノーとは言いにくいのです。異動はしたくないのでこの時は断りました。経理部所属で上場審査要件をクリアできる経営統合システム開発を抱えていたからです。
1986年に「臨床診断支援システム開発と事業化案」を書いて、創業社長である藤田光一郎さんの承認をもらいました。これはエキスパートシステムの開発で、10個のプロジェクトに分けてあり、臨床検査項目コードの標準化プロジェクトもその中にありました。この時の所属は総務部購買課です。
システム開発課長の栗原さんがそれを読み、BMLの呼びかけで、業界内で検査コードを統一のために大手六社で話し合いが始まったから、一緒に行こうと誘われました。SRLのシステム開発部長は大反対でした。本来なら業界ナンバーワンのSRLシステム開発部が提案すべきことでしたから、メンツがあったのかもしれませんね。BMLのシステム部長の呼びかけで、システム部門の集まりでした。BMLは川越に大型のラボを建設し、そこで使う臨床検査項目コードを、業界標準コードを作って導入しようというわけです。自社コードでは意味がないと感じていたのでしょう、なかなか鋭い感覚の持ち主でした。でも自社の利益を考えてのことで、視野が狭い。栗原さんと話して、業界標準コードを作っても、病院側で採用してくれないから、日本標準コード制定のための産学協同プロジェクトにしようと決めて、櫻林郁之助先生は臨床科学部3課だったかな、免疫電気泳動の学術顧問でしたから、臨床化学部長の川尻さんから連絡を取ってもらうことにしました。2回目の会合に栗原さんと2人で出席して、業界標準コードでは病院側で採用してもらえないので、社会的意義がない、臨床病理学会から公表となれば、全国の病院が採用する可能性が拓けると説明すると、六社はすぐに同意。3回目の会議には櫻林郁之助先生の出席を得て、産学協同プロジェクトがスタートしました。大手六社のシステム部門、学術部門からそれぞれ人を出してもらい、毎月一回の割合で、各社持ち回りで検討会議を開催することになりました。その後わたしは学術開発本部へ異動したので、1度だけ会議に参加しています。
4年の検討期間を経て臨床病理学会から臨床検査項目コードが公表されています。それ以来全国の病院やクリニックで使われている臨床検査項目コードはこのコードです。SRLのシステム部がいまでもコード管理事務局になっているはずです。2年に一度検査の保険点数が改定されると、SRLのコード管理事務局が保険点数を更新します。すると全国の病院システムがそのコードを取り込んで自動的に検査項目コードマスターが書き換えられます。それまでは保険点数の改定がある都度、全国の病院で新しい保険点数を入力していました。そういう作業が一斉に消滅しています。無駄な仕事ですからね。事実上の日本標準検査コードですから、汎用の病院システムパッケージを販売している会社は、このコードを使わざるを得なくなりました。学会から発表するとこういう効果があるのです。まるで結果が違ってきます。臨床病理学会は現在は臨床医学会と名称が変更になっているようです。
臨床診断エキスパートシステムは世界市場での展開を考えていたので、項目コードの世界標準を制定するつもりでした。日本人発の世界標準規格はハリケーンの藤田スケールぐらいなものです。だから、国際的な意義も大きい企画でした。日本標準臨床検査項目コードは公表当初から各国の参考になっています。どこの国も標準コードをもっていませんでしたから。
NTTデータ通信事業本部と「臨床診断エキスパートシステム開発と事業化案」で2度ミーティングしています。通信速度とコンピュータの処理能力がこのエキスパートシステムの使用を満足するのは30年後という結論に達し、断念しています。現実は、12年後には通信速度もコンピュータの処理能力も十分なものが整備されています。
自治医大の櫻林郁之助の講義を聞かなければ、話す機会もありませんでした。あの講演会はあの時の1年間だけでした。ピンポイントで櫻林先生とつながったのです。システム開発課長の栗原が「臨床診断支援システム開発と事業化案」を読まなければ栗原との接点もありません。BMLのシステム部長が大手六社を集めて業界標準コードの検討を言い出さなければ、大手六社との接点もありません。なにしろ、職務権限上はまったく関係のないことでしたから、こういうことが自由にできたというのも、SRLは不思議な会社でしたね。
どういうわけか、いつもそう流れにちゃんと乗っているのです。最短距離を引いたレールの上を走っているような感覚があるのです。理屈では担当する確率はゼロですが、かならず、わたしが噛まないといけない仕事が待っています。どの部署でもそうでした。
経理部⇒購買課⇒学術開発本部⇒関係会社管理部⇒CC社出向⇒本社経理部管理会計課・社長室・購買部兼務⇒SRL東京ラボ経理部⇒帝人との臨床治験合弁会社
SRLでは16年間でこれだけ種類の異なる部署への異動を繰り返した事例は他にはないと思います。スキルが異なっている部門が少なくありませんから。
無意識部分が影響して、こういうことが可能になるという感覚がしています。根拠はないし、意識の5階層のような論理的な説明もできません。
にほんブログ村