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#5111 美しい37手詰め:竜王戦最終局 Nov. 12, 2023 [5.1 脳の使い方]

 藤井聡太8冠と伊藤匠七段の竜王戦最終局は藤井聡太8冠の勝利となりました。21歳同士が竜王と挑戦者で戦ったということも特筆すべきことです。

 飛角交換から、その角を使っての37手詰め、何と凄い棋譜を残したのでしょう。百年後に語り継がれる棋譜です。それをわたしたちは同時代で見ています。
 実戦で37手詰めを読み切る棋力もすさまじいですが、飛角交換でその角を使ってというところが「芸術的」です。チャンピオン戦のたびに進化しているようで、けた外れの棋士が現れたものです。
 詰み手順は37手は切れ目なく連続しています。一つ間違っても正解にたどり着けません。藤井聡太さんは正解コースがわかってしまうのでしょう。論理的な積み手順はそのあとで組み立てられているのではないでしょうか。飛車を切るときに、これが積み手順だと確信していたのでしょうね。そこから論理的に読み始める
 数学の難問を解くときにも、こういうやり方でやれば解けそうだと感覚が先に教えてくれます。それに従ってやっていくと、シンプルに正解できます。まるで正解手順を知っている別の誰かが体を操ってやっているかのように感じます。後から見ると、正解手順を最初から読み切って答案を書いているように見えちゃいますね。

 将棋の話はよくわからないので、ビリヤードの話をします。わたしはビリヤードを趣味にしていました、趣味と言ってももう30年間ほどやっていません。家がビリヤード場を経営していたので、18歳までそこが遊び場でした。小学校の頃は遊び場、中高のときは毎日数時間店番をしていましたので「門前の小僧習わぬ経を読む」の類で、すこし上手でした。高校卒業後、東京で代ゼミに通いながら、都内の有名ビリヤード店をいくつか回ってみました。1年間は代々木駅前のビリヤード店の常連でした。大学に入ってからもときどきビリヤードしてました。大学院へ進学してからは十数年間やっていません、研究と仕事で暇がなくなったからです。40歳前後の頃、仕事が暇な時期があり、スリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生のビリヤード場で「四つ球常連会」に入れていただき、数年通ったことがありました。何度か弊ブログにそのころのことを書いています。駿台予備校数学の荒木重蔵さんが四つ球常連会の会長でしたね。彼はディリスのサマーキャンプに参加するほどのビリヤード好きです。腕前はプロテストに合格できるくらいでした。理論派です。図面を用いた研究は彼に教えてもらいました。
 検索ボックスに「小林伸明」と入れたら、小林先生に言及した記事がいくつか出てきます。
 スリークッションはクッションシステムの計算とそれを実現できるスキルの掛け算で得点能力が決まります。思い描いた通りのコースを球が走って止まります。スピードコントロールも伎倆のうちです。
 ビリヤードの巧い下手は「キュー切れ」に如実に現れます。ドロー・ショットを見たら、その人の伎倆や伸びしろがわかります。ドロー・ショットとはバックスピンのかかる撞き方で、手玉の下を撞くほどバックスピンは大きくなりますが、そこには限界があります。タップとタップの削り方、そして滑り止めのチョークの品質が関係するだけでなく、キューの「切れ」の差が出ます。これは天性のものでしょうね。
 わたしは、昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生(札幌の白馬というビリヤード場とビリヤードテーブルの販売・調整するお店を経営しておられました、上品な白髪のおじいさんでした)、平成天皇のビリヤードコーチだった小林伸明先生、令和天皇のビリヤードコーチの町田正先生の三人の撞くところを自分の眼で見ていますが、三人ともキューの切れが抜群によかった。
 「切れ」以外はトレーニングでいくらでも上達できます。極東の町に西井さんというすばらしい「切れ」の人がいました。東京で修行していたら、間違いなく日本でトップクラスの伎倆でしたね。「バラ球の帝王」でした。私よりも10歳ほど年上です。キューを構えた写真が残っていましたが、あんなにバランスがよくて勢いのある構えの人は見たことがありません。西井さんも天才の一人だった。
 町田正先生のお父さんのビリヤード場が八王子にありますが、そこはいま息子の正さんが経営しています。そこに鉄のキューがありました。10㎏くらいあったような気がします。素振り用のキューでした。シルクハットというマッセの技があります。大台で台の端から端まで行って、L字に曲がる技です。打突力が強大でないとできない技です。いまでもおそらく世界中で彼しかできないでしょう。鉄のキューを使った素振りと、マッセ用の小さな台を手作りしていました。練習の仕方が半端ではありません。町田先生のお父さんは「巨人の星」のお父さんのような人です。町田正先生には一度だけ、ボークラインゲームの相手をしていただいたことがあります。目の前でゲームをして撞くところを直接見る幸せ、うっとりしてみてました。ゲームにはなりません、完敗です。町田正先生は全日本ボークラインチャンピオンでもあります。
 町田正先生のお父さんのビリヤード場へ行ったのは40歳になったころでした。もっていたキューがよかったのとタップが名品だったので、「削らせてほしい」といわれてOKしました。キューを台に載せて掌で転がしながら鑢を丁寧に当てて、半球状に仕上げてくれました。タップの削り方を教えてくれました。吉岡先生のタップの削り方とまったく違いました。
「わたしはプロのコーチだから、有料でないと教えない、だけどあなたにはタダで教えてあげる」
 そういってくれたのですが、仕事が忙しくていけませんでした。それでも基本メニューは伝授してもらいました(図面に書き落としてあります)。町田先生のお父さんの申し出は、わたしのキューの切れが少し良かったから教えたくなったのだと思います。
 常連会の大会で元全日本四つ球アマチュアチャンピオンの小柴さんと優勝争いをしたことがあります。大会は三つ球での勝負です。1回目を撞き切り、その裏を小柴さんもつき切りました。2回目は小柴さんが先につき、撞き切りました。戦意喪失でした。(笑) 準優勝。そのときに小林先生が準優勝の賞品にブルーダイアモンドという世界最高のチョークを1ダース出してくれたのです。先生が試合にしか使用しないものです。まだ9個手つかずで残っています。準優勝の賞品の方が値打ちものでした。
 撞き切りは、常連会に行っていたころ、高田馬場ビッグボックスで開催されたプロアマ混淆の大会でやっています。5人ずつのグループに分かれ、それぞれのグループにはプロが一人入ります。持ち点にはハンディがついています。これは三つ球でのゲームだったかな。初回でプロと当たったら、撞き切りが出ました。何も考えていません。撞点もかまえただけで、手球がここを突けと教えてくれます。力加減も普段は直径30センチほどのゾーンを想定してその範囲内に入ればいいのですが、理想の位置にピタッと来てしまいます。とっても芸術的なんです。こういう状態の時は「集中モード」ではなくて「分散モード」です。どこにも力が入っていません。リラックスしている状態で、必要な範囲には万全の注意が行き届いて対応できています。注意力の集中は、焦点の当たっているところはく見えていますが、その外側は逆に見えなくなるのです。「分散モード」ではそうした不都合が消えてしまいます。
 トップクラスのプロは、そういうことが普通にできるほどトレーニングしています。寝ても覚めてもビリヤードというぐらいトレーニングを積まないとプロでも届かない領域なのです。他に仕事をもっているアマチュアでは端から無理です。そういうレベルのプロは形が崩れてもある程度なら立て直せます。流れがとっても美しいのです。
 ビリヤードゲームには個性が出ます。勝ち負けにこだわった勝負が好きな人もいます。稀なのは美しい勝利にこだわる人
 日本人にはスリークッションが相性がいい。スヌーカーは相手を封じることが主眼のゲームですから日本人には合いません。将棋も美しいのです、日本人向きのゲームのひとつです。

 藤井聡太八冠の今回の37手詰めは百年後にも語り草になるほどの棋譜でしょうね。飛車を切って角と交換し、その角を使っての37手詰めは芸術の域です。実戦で37手先の詰み手筋が見極められ、一手も違うことなく正解手順で指しきれる、勝ち負けにこだわっているだけでは永遠に届きません。シンプルで美しい将棋が目標なのでしょう。ビリヤードで持ち点を撞き切るときと同じ感覚が働いているのではないでしょうか?

 小林先生の残した言葉を引用しておきます。
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ビリヤードが上手だから
人間の位が上だと思い上がっている者は
とんでもない間違い。人の生きてきた歴史の中で
ビリヤードは多々ある文化の中の一輪の花。
たとえ世界の選手権者になっても
それは小さなこと
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 新大久保の小林先生のビリヤード場の常連会に参加していた時には三度ほど忘年会あるいは新年会に小林先生が出席されて、2時間ほど楽しくお話が聞けました。どこかにそのときの写真が数十枚残っているはず。十人前後のとってもアットホームな忘年会でした。

<余談-1:昭和天皇のビリヤードコーチ吉岡先生>
 吉岡先生は毎年ラシャの張替えに極東の町まで来てくれていました。来るとその日は泊まって翌日張替え作業です。オヤジが手伝ってやっていました。面白そうなのでわたしはずっとそれを眺めてました。小学校の4年か5年生の時に、プロになりたいと吉岡先生に話したら、「勉強しないたほうがいい」と言われました。素質がないと婉曲におっしゃったのかとそのときは思いました。ところが、吉岡先生ですらプロでビリヤードだけでは飯が食えない時代でした。後に町田正先生のお父さんに「長男はプロでは飯が食えない時代だったので、プロにしなかった。筋は長男の方がよかった」、そうおっしゃたのを聞いて、吉岡先生の言葉の真意が理解できました。
 高校を卒業して4月に同じクラスの根室高校最後の総番のヒロシと一緒に千歳空港から飛行機で東京へ行くのに時間があったので、札幌駅で下車して、ビリヤード白馬によりました。吉岡先生、常連で一番上手な人を紹介してくれてゲームの相手をしました。500点の持ち点で、四つ球ではそれが持ち点の最高です。アマチュアのチャンピオンクラスの伎倆です。四つ球は「セリ」をマスターしたら卒業です。吉岡先生の短クッション折り返しのセリ、アメリカンセリは高速でした。いまの世界チャンピオンの3倍ほどの速度で、迷いなくリズミカルの撞きます。職人技です。
 翌年、一つ下の後輩と札幌駅前大通りをデートしていたら、「トシボー」と声がします。吉岡先生でした。ライオンズクラブで献血の呼びかけをしていました。孫を見る爺さんのような目で微笑みながら「献血していけ」と仰るので、「はい!」と返事して献血しました。そのときの献血手帳が東京のおじさんが日大駿河台病院で癌の手術をするときに役に立ちました。

<余談-2:平成天皇のビリヤードコーチ小林伸明先生>
 小林先生のお店に行き始めたころ、数回スリークッション台で遊んでみました。球の走りがいいのは、台が乾燥しているからで、掌を乗せると温かいのです。ヒータが入っている台は見たことがなかったので、訊いてみました。
「ヒーターが入っているようですが、こんな台は初めてです」
「ベルギー製の台です、国産ではありません」
「ラシャのテンションも違いますね、普通のラシャでは裂けてしまうほどきつく張ってありますね。ラシャの織が違う気がします、これは手では張れない、何か道具があるのですか?」
「ラシャを引っ張る道具があります。四つ球テーブルのラシャは綾織りですが、これは平織りです」
「ああ、そういうことでしたか。一度お手伝いしてみたい(笑)」
 この会話で、わたしもビリヤード場経営者の息子であることがバレバレでしたね。一度もそういったことはありませんが、この会話だけで十分でした。だから、少し特別扱いしてくれていたような気がします。ブルーダイアモンド・チョークは、メーカーが廃業して十数年過ぎていました。
 いま確認したら、売っています。1ダース30000円しています。ビリヤード愛好家にとっては朗報です。
 小林先生に教えを乞うときには図面を書いてもっていって質問していました。
 マッセの構えが吉岡先生とは違っていました。吉岡先生はこめかみにキューを当てますが、小林先生は首に当てます。その方が手球の撞点がよく見えるのです。初心者にはその方がいい。四つ球のマッセは小さいマッセがほとんどですからそれでいいのです。少し距離が開くと首では無理があります。上腕の振りの距離が短いので打つ瞬間に力を入れないといけませんが、そうすると速度コントロールがむずかしい。こめかみに当てたほうがシゴキの距離が長いので、強さを加減できます。それに吉岡先生はレストで手球の撞点が隠れていてもちゃんと見えてます。相手の伎倆によっても教え方が違います。初心者には小林先生の指導がいいと思います。小林先生はセミプロ用の教本は出版するつもりがないとおっしゃってました。一知半解の輩が出るので、煩わしいと言ってました。だからそのレベルの質問になると、図面を描いてもっていって質問して、答えを記入して保存しました。

<余談-3:令和天皇のビリヤードコーチ町田正先生>
 八王子でかつてお父さんのビリヤード場「チャンピオン」を経営しています。アーティステックビリヤード世界銀メダル保持者です。国内のビリヤードゲームではさまざまなゲームで60回ほどチャンピオンに輝いています。いまでも現役の選手です。将棋なら永世名人でしょう。
 お父さんが経営していたころに「チャンピオン」へ十回ほど通いました。あれからもう三十数年たちますが、一度行ってみたいと思っています。

 タップの削り方はこちらに書いてあります。

#4888 ビリヤード:タップの調整(画像付き) Dec. 1, 2022

#4244 ビリヤードのタップの調整の技と世界最高のチョーク、そして勉強法 May 8, 2020


#4890 ブルーダイヤモンド:世界最高品質のビリヤードチョーク Dec. 6, 2022

<余談:四つ球>
 ビリヤードには大テーブル(スリークッション用)と普通のテーブルの2種類があります。ゲームの種類もキャロムゲームとポケットゲーム(穴ぼこの開いた台)の2種類です。スリークッションやスヌーカーは大台です。
 元々は象牙の球を使っていましたので、四つ球は大きなボールで、それが傷がついたりすると削って小さくなります。小さくなったボールがポケットゲームに使われました。
 象牙の球はドローショットがむずかしいのです。キレがないと引けません。樹脂製のボールは軽いので、下を撞けばドローショットになります。象牙の球でドローショットの練習をしたことがある人はキレがいいのはあたりまえなのです。キレがいいと、撞いた瞬間の感触、手触りが違います。だから、樹脂製のボールだととってもコントロールしやすいのです。象牙のボールが樹脂製に変わりだしたのは昭和30年代半ばころからでしたね。記念に2個持っています。



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#4843 文頭副詞句について:思考のしかた Oct. 9, 2022 [5.1 脳の使い方]

<最終更新情報>10/11午前0時 デカルト『方法序説』科学方法「四つの規則」を追記

 文頭副詞句(節)を#4841#4842で採りあげました。面白そうなので、三つの情報ソースの上に私の思考が成り立っていることを説明しておきたいと思います。

 モクロ―君こと「元 後志のおじさん」は英語の達人ですが、彼がコメント欄に次のような定式化をしてくれたことがあります。
「Adv+S+V+…+Adv」
 文頭副詞句(節)の解説でした。彼の凄いところは、これが文の一般的な型であると主張しているところです。世間に流布しているのは、基本五文型で、文頭副詞句は副詞句を強調するために、通常の位置から移動して文頭に置かれている、つまり基本文型が変形されたものということ。元・後志のおじさんは考え方が真逆なのです。

 そこで思い出すのは大塚史学(西洋経済史の大塚久雄先生)と増田四郎先生(元一橋大学長)の学風の違いです。大塚史学が定式化が出発点で、それにそって史実を整理されているように見えるのに、増田先生は先入見を排して資料を丹念に読みこんで、そこから考えます。研究スタイルが実証的なのです。元・後志のおじさんのスタイルが増田先生に似ている、だから親近感がわいたのだろうと思います。院生たった3人の授業で1年間増田四郎先生の謦咳に接することができました、ラッキーだったとしか言いようがありません。
 学部のゼミの指導教官だった哲学の市倉宏祐教授は3年間、先生はサルトル実存主義とヘーゲルの国内トップレベルの研究者でした。晩年はパスカルの数学研究をしておられました。80年代にご自宅へお伺いしたときにはPROLOGというフランスのプログラミング言語でパソコンをいじっていらっしゃった。経済学を起点に数学へと興味を広げ、そしてシステム開発を仕事にしてきたわたしは、どこか恩師にスタイルが似ている気がしています。
 経済学史の大家である内田義彦先生はその著書『経済学の生誕』を使って講義してくれました。内田先生の書かれた本は岩波新書でも中身が濃いのです。経済学史家はここまで丹念に経済学書を読んでいるのかと驚かされます。新書版の本を書くときには3倍の量を書いて、それを1/3に削り込んでいると仰っていました。
 学部・大学院どちらも、それぞれの分野の大家である三人の先生の謦咳に接することができたのはとっても幸せでした。根室高校・商業科で学んでいた時には、公認会計士になるつもりで、二次試験用問題集で一生懸命に勉強していたのですが、大学へ入ってから、方向が変わりました。でも、経済学を深く学ぶほど、簿記の勉強をしっかりやったことが独自の視点を育てるのに役に立っていたことに気づかされます。株式会社は例外なく複式簿記で動いています。簿記理論を知らずに企業経営も経済も理解できるわけがありません。仕事は経営管理や経営改善、システム開発がメインでしたが、そこでも簿記や管理会計学そして原価計算の専門知識はとても役に立ったのです。人生、先のことなどわからないものです。その時その時を渾身の力でで駆け抜けたらいいだけですよ。後は天任せでいいのです。

 二つ目。大西泰斗先生のラジオ英会話を材料に英作文問題と解説集を12000題作成しています。A4判で1442頁あり、作成に2年間を費やしました。大西先生は、「説明ルール:説明は後ろに置く」と「指定ルール:指定は前に置く」の二つのルールで説明をしてくれます。文頭副詞句(節)は指定ルールの適用と理解できますので、そういう線に沿って高校生に説明を繰り返しています。英文のリズムが理解しやすいからです。

 三つ目。文頭副詞句(節)ではなく、「副詞相当語句advervials」という語彙を使うことがありますがこれは変形生成文法用語からの借りものです。生成文法の専門書と出遭ってかれこれ45年くらいになりますね。解説書ばかりでは飽き足らなくて、チョムスキー自身が書いた言語学に関する著作も読みました。文法工程指数の高い複文や句構造を基底文(simple sentence )に分解して意味をつかんでもらうことをしょっちゅうやっています。高校生に複雑な英文を解説するのに便利なツールだからです。
 これら三つの知識が溶けあって一つになっています。

 貪欲ですから利用できるものは何でも利用します。戦う相手の能力の一部をコピーしてしまうスライムのようなものです。生徒がスライムが主人公の漫画の本を貸してくれたことがあります。「先生、面白いから読んでみたら?」って、数冊もってきました。多かれ少なかれ、この漫画の主人公のスライムのようなことを誰もがしています。思考の多くは、対話や本やメディアを通じて脳に入力されている情報や、経験を通じて刻み込まれた記憶をベースになされているからです。

 このように大きく分けて、三つのソースを背景に、文頭副詞句(節)のある文章を読んでいます。最近は、いままで、ピンとこなかったことが大西先生の説明を適用すると、実に簡単であることが多いのです。
 モクロ―君の「Adv+S+V…+Adv」というのも、初めて見る定式化でしたから、数年前のことですが、斬新に私の目に映りました。「そういう事例は頻出しないだろうな」くらいがその時の率直な感想でしたが、PROMINENCE Ⅲを高校1年生の音読トレーニング授業に使ってみて、この教科書にはそういう文例の多いことに驚いているのです。VIVIDⅢにはこんなに頻出しません。会計情報システムに関する専門書にも医学専門誌にもネイチャーやサイエンスのような科学雑誌にも、医学専門書にも、言語学専門書にも文頭副詞句(節)が頻出するなんてことはありませんでした。だから、モクロ―君とは読んでいる分野があまり重なっていないとは感じてました。

 でも、こうした角度の異なる知識をインプットすることで、潜在意識の中でそれらが溶けあいます。「モクロ―君こと元後志のおじさん」の定式化も大西泰斗さんの説明ルールも、もう不可分のものになってしまっています。そういう溶けあった知識や経験をバックグラウンドにして、顕在脳が働きます。
 いままでぼんやりしていたことが焦点を結んだようにはっきり見えることが多くなります。全部が見えるわけではありませんよ、今まで見えなかった部分のうちのほんの一部分が見えるようになるということです。同じ脳の仕組みは誰にでもあります。

 こうして自分の思考様式を「内省」してみると、潜在意識に角度の異なる情報をインプットして、溶け合わせるということの大切さがわかります。それをベースにして潜在脳と顕在脳が思考しているのですから、そこが貧弱なら、思考もやせ細ったものにならざるを得ません。
 顕在意識をつかさどっている脳と潜在意識をつかさどっている脳という分類をしましたが、もちろん物理的にそれが独立しているわけではなくて、同じ脳が起きているときと眠ってしまったとき、あるいはその中間のまどろみの中では、どうもかなり違った働きをしているようだということなのです。それは交感神経系と副交感神経系働きとリンクしているようです。

 潜在意識の働きは眠っているときに最大になります。数学の問題が解けなくて、寝てしまいます。朝になったら解けているなんてことは、潜在意識の働きでしょう。眠っている間に、問題を溶かし込んで、いままでのデータベースとつながり、新たな知識ネットワークを創り上げて、解いているのです。起きている脳では思い込みで関連がつけられない事象同士が「ゆるく」なって、つながってしまいます。
 高校数学程度なら、一晩眠れば解決しますが、ライフワークにしている問題分野は何日も、何か月も、何年も、何十年も潜在意識にさまざまな分野の専門知識と経験を溶かし込まないと、解決のできないものがあります
 でもそうしていると、一見関係のなさそうな分野に相同性や相似性がはっきりと見えてきます
 赤字の会社を黒字にするときにも潜在意識の働きを利用してました。顕在意識レベルでは解決の道筋は見えてこないのです。もちろん必要な範囲の複数の専門知識や経験智があってのことです。潜在意識を使って大きなプロジェクトを動かしているときには、不安や心配はまったくありません。先が見えなくても心配いりません。必要な時間内にちゃんと道筋が見えてきます。顕在意識に比べて、潜在意識の働きはとてつもなく大きいのです。問題解決に駆使できる記憶の領域がケタ違いなのです。

 潜在意識の働きを、それを観察しているさらに高次の意識を創り上げることで、観察できるようになります。顕在意識も潜在意識もそれよりも高い次元で、観察できます。人間の意識は、そうした「考えている」という実体を自覚することでその上のメタ認識レベルの意識が産み出せるようにできています。だから、わたくしの意識に特有のことを述べているのではなく、かなり人間の意識一般の仕組みについて述べているのだろうと思っています。

 学問体系を考えるときに、マルクス『資本論』とデカルト『科学の方法 四つの規則』そしてユークリッド『原論』に体系としての相同性が見えてきました。これら二つの異分野の学問は、学の体系としては演繹的体系という共通の祖先をもっているということ。もっと端的に言うと、経済学の学としての体系が見えたということです。それは次の課題を生みだしました。マルクスを超える経済学、限界を向かえている株式会社形態での資本主義を超える公理は何かという問題、つまり、アダムスミス『国富論』『道徳感情論』やディビッド・リカード『経済学及び課税の原理』、そして近代経済学を越えられる新しい経済学の公理は何かという問題に置き換えられます。
 マルクスの経済学の公理には「工場労働」が措定されています。その淵源は奴隷労働なのです。したがって、マルクスにとっては労働は忌避すべきものとなります。そして同時に職人仕事は『資本論』の対象外となってしまいます。
 日本にもドイツにも職人文化があります。ドイツにはマイスター制度という制度まであります。職人仕事という価値観が日本経済の奥底を流れています。だから、工場労働ですら、日本では職人仕事化してしまいます。オフィスワークも新幹線の車内清掃作業も職人仕事という点から見ると同じことです。あたらしい経済学の芽をわたしはそこに見ています。
 11月中には故郷を離れて、東京へ戻りますが、ライフワークに整理をつけるつもりです。必要な情報と経験は20年以上も前に潜在脳で溶け合っています。酒造りと一緒ですね、発酵と数十年の熟成期間が必要でした。(笑)

<余談-1:チョムスキーとデカルト
 チョムスキーはデカルトの信奉者です。チョムスキーは普遍文法を考える際にデカルト『方法序説』の科学の方法四つの規則を適用しています。これはわたしと同じです。わたしはさらにユークリッド『原論』との相同性も見ています。わたしは、数学を教える際に、デカルトの科学の方法「四つの規則」を適用して教えています。
 チョムスキーとなんとなく相性がいいと思っていましたが、いま理由がわかりました。方法論で共通していたのです。デカルト『方法序説』という共通の祖先(=原型:思索のタイプ)をもっているようです。

*#3509より引用

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<デカルト 科学の四つの規則>まだ若かった頃(ラ・フェーレシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数を、少し熱心に学んだ。この三つの技術ないし学問は、わたしの計画にきっと何か力を与えてくれると思われたのだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。ます論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、道のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり、余計だったりするものが多くまじっていて、それらを選り分けるのは、まだ、下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を彫り出すのと同じくらい難しい。次に古代人の解析と現代人の代数は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことだけに用いられている。そのうえ解析はつねに図形の考に縛りつけられているので、知性を働かせると、想像力をひどく疲れさせてしまう。そして代数では、ある種の規則とある種の記号にやたらとらわれてきたので、精神を培う学問どころか、かえって、精神を混乱に陥れる、錯雑で不明瞭な術になってしまった。以上の理由でわたしは、この三つの学問(代数学・幾何学・論理学)の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければと考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという、堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、なにもわたしの判断の中に含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三に、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
 きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった
  デカルト『方法序説』 p.27(ワイド版岩波文庫180 *重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。
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(4)単純なものから複雑なものへ=順序の想定
 より単純なものから複雑なものへという順序を想定することは知識の整理にとって大切なことです。科学の方法四つの規則の第三がそうした方法(=上向法)を示唆しています。学問においてはもっとも大事なことなのですが、これはまた別の機会に書きます。
 「資本論と21世紀の経済学」というカテゴリーが弊ブログにありますが、経済学に関してはそこに書き溜めてあります。

 生徒から質問のある都度、こうした4つの観点から具体的に繰り返し説明しています。数学を通じて、普遍的な学問のやり方を教えているつもりです。
 数学は他のさまざまな学問に深く関わっています。成績上位生は数学の勉強を通じて学問全般に視野を広げる努力をしてください。


<余談-2:ビリヤードの三人の先生>
 ビリヤードは小学生の時から高校生まで、昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生の技を毎年目の前で見る機会がありました。東京へ行ってからは、平成天皇のビリヤードコーチだったスリークッション世界チャンピオンの小林先生に数年常連会の一員として、図面を描いていって何度か質問に答えていただきました。小林先生の後は皇族のビリヤードコーチは町田正先生に変わりました。その町田正先生のお父さんが八王子でビリヤード店を営んでいたので、SRL八王子ラボ勤務の時に、何度も通いました。プロ用のトレーニングメニューを惜しげもなく伝えてくれました。そこには素振り用の鉄のキューがありました。マッセ練習用の特注の小さなテーブルも。町田正さんのL字マッセは世界で彼しかできない技ですが、鉄のキュ―を使った素振りと、特注のマッセトレーニング用のテーブルがないと修得できない技です。町田正さんと3ゲームだけ、ボークライン・ゲームをしたことがあります。ボークラインの日本チャンピオンですから、散々な負け方をしましたが、目の前で彼の技をしっかり見ました。技を見て、何度も繰り返して自分のものにできなければそれは才能がないのです。坦々とトレーニングを積むうちにコツがわかってきます。何百回も何千回もやっているうちに自然にわかってきます。大工さんの徒弟修業と一緒です。親方の仕事を見て、何度も何度も試してみて、遂にはコピーできなければそれだけの人です。それはそれでいい。一心不乱に取り組む人だけがマスターできます。わたしにはとてもできませんでした。
 何が言いたかったのかというと、ビリヤードでも、日本のトップレベルの3人の先生に教えを乞う機会に恵まれたということ。幸運の持ち主です。(笑) この三人の先生に習う機会のあった人は他にはいないでしょう。吉岡先生も小林先生も町田正先生のお父さんも、皆さんとても親切にしてくれました。どういうわけかお会いしてすぐにそうなったのです。理由はキューの切れがよかったからではないかと思います。一流のプロはそういうところを見抜いてくれていた。これは天性のものです、自惚れかな?
 吉岡先生、19歳の時に彼女と札幌駅前の大通りを歩いていたら、「としぼー」と大きな声で呼ばれたので振り向くと、にこにこして、肩を叩いて「献血していけ」とおっしゃる。ライオンズクラブで献血の呼びかけをしていました。もちろん、否やはありませんからすぐに献血しました。そのときの献血手帳は東京の親戚のおじさんが神田駿河台の日大病院で癌の手術をするときに役に立ちました。

 すばらしい先生たちに出遭えるように天が采配を振るっていてくれていたのではないかと勘違いしそうです。生徒達にそういう先生であるのかと問われたら、そうありたいと答えるのみ。


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#4761 unlearnとは?:当たり前のことのようです June 4, 2022 [5.1 脳の使い方]

 6/3朝4時半ころからだっただろうか、NHKラジオで東大大学院経済学研究科教授の柳川範之氏によるunlearnについての解説が流れていた。
 unlearnとは学ばないことではなく、かいつまんで言うと、いままで学んできた思考の枠組みをいったん外して物事を観察・分析・総合してみることである。柳川さんの解説によれば「detox(解毒)」とも言い換えられる。
 unlearnの必要度を測るための六項目を挙げていた。
① 何か決まった口癖がある
② 最近ワクワクすることが減った
③ 周囲の人との対話が毎月同じような話題ばかり
④ 仕事は別分野の学びをしていない
⑤ どんなことにも、そんなことあたりまえと思いがち
⑥ すごい成果を上げた人は自分とは別世界の人だと思う

 何項目か思い当たる人は、たとえば、別メニューのランチを食べてみるとか、お店を変えてみるという風なことを繰り返してみる、つまり自分のいままでの行動パターンを変えてみる、発想を変えてみるとよいそうだ。
 根室の子どもたちの学力問題や根室の地元企業の経営改善も同じことがいえるだろう。

 辞書を見たらちゃんと載ってました。辞書はCALDです。

unlearn /ʌnˈːn/ /-ˈːn/ verb [ T ]
to make an effort to forget your usual way of doing something so that you can learn a new and sometimes better way
I've had to unlearn the way I played guitar since I started taking formal lessons
(いつもの何かをするときのありきたりの方法を忘れる努力をして、その結果新しい方法を知ることができたり、何かもっとよい方法を知ること。)

 当たり前のことですから、いままでの生き方にいくらでも見つかりそうです。unlearnという観点からサラリーマン人生を振り返ってみます。

 仕事では前任者のそれを引き継ぐと、1年以内に根底から実務を変えていました。システム開発がらみが多かった。そうでないのもありますが、前任者の仕事のスタイルをそのまま1年間やるということは一度もありませんでした。社内では誰もやったことのないプロジェクト仕事が多かったということも、参考にするモノがないのでunlearnスタイルにならざるを得なかった理由かもしれません。

 つねにlearningはしていましたよ。仕事に関係のあることも、ないことも、好奇心の赴くままでしたね。紳士服の製造卸の零細企業が社会人のスタートでした。英語版のメンズウェアとドイツのファッション雑誌がバックナンバーが揃って会社にあったので、担当は経理なのに、読みふけってました。40代半ばの社長はそれを見て、生地屋の営業が来るとわたしに反物を選ばせました。8㎝の正方形くらいの生地見本を指で触ってもんでみて肌触りを確かめます、小さな布からスーツになったときの全体像をイメージします。特に自分が着てみたいと思う生地は裁断師のUさんへ伝えます。いい縫製工場へ出してくれます。製造原価で購入できましたから、定価の4割でした。
 ヤング向けのスーツの企画を全部任せるのは社長は冒険だったでしょうね、営業担当は飛ぶように売れるので大喜びです。セールストークも大事ですが、いいものをもって行ったら他社を抑えて優先的に買ってもらえます。ドイツのファッション雑誌を見ていたら、2年遅れでドイツの流行に乗っていればいいことがわかりました。団塊世代が就職して紳士服市場が拡大したので、団塊世代に属しているわたしのセンスがたまたまぴったりだったのでしょう。自分が着たいと思う生地を選んで生産してもらいました。着道楽でした。3年間の間に裁断師の人から工場の品質向上の指導方法、型紙の制作に関すること、鋏の研ぎ方、中間プレスの重要性、下職の選び方などたくさん教えてもらいました。会社の業績がぐんと良くなったのでかわいがっていろんなことを教えてくれました。
 年配もので不良在庫が山のようにありましたが、ヤング向けのいい製品があると取引先の小売店は一緒に買ってくれますから営業の2人が大喜びです。モノがよければ見せただけで買ってくれます。お店もヤング向けの流行の商品は店を明るくするし、利益も大きくなります。捨てるしかなかった年配向けの不良在庫のスーツがお金に換わったのですから、社長も大喜び。そこそこ給料アップしてくれました。
 終戦後は作れば売れたのです、ところが40歳半ばになってそういう固定観念での企画は通用しなくなりました。人間40代半ばになるとunlearnができないのです。そういう時にたまたまいくつかの手違いで、結婚式を挙げるのに無職ではいけないので、2年くらいの腰掛のつもりである税理士事務所の紹介で就職しました。面白かった。3年勤めて大学院へ戻りました。

 渋谷の進学塾の専任講師をしながら、自前で大学院で勉強しました。修士論文を書いて卒業、どうしようかなと考えて、経理のスキルがあるので、新聞募集で応募、すぐに決まりました。森英恵の青山の本社で社長面接、ニュヨーク支店勤務かVividと婦人服の子会社を任せるか検討するので少し待ってもらいたいと言われて、その帰りにもう一つ応募していた産業用エレクトロニクスの会社の方へ断りの電話を入れたら、総務・経理担当役員が社長にあっていけというんです。社長は慶応大学大学院経済学研究科の出身なので、とにかく日本橋人形町の本社まできて会っていけと。電話を切って青山の森英恵の本社ビルから日本橋人形町へ向かい、すぐに総務経理担当役員に会いました。社長室へ行く前に社内を案内してくれました。技術部にマイクロ波計測器と制御用の高級パソコン(1978年当時200万円程度の価格)がごろごろしていました。眼がそちらへ行ってしまったのです。機械には弱いのです、目がないという意味ですよ。いじってみたいと思ってしまいました。社長の関周さんと社長室で20分ほどお話させてもらって、結局森英恵の方は辞退したのです。
 とりあえず経理部採用で取締役直属スタッフ、予算管理と資金管理を任されました。1週間後に社運をかけた6つのプロジェクトを社長が公表、その内の5つを任されました。びっくりです。経営分析・経営業績評価システムモデルを作るために、3週間ほど毎日電卓を朝から晩まで叩いていたら、入社1か月後に社長が米国出張の折に、HP67を購入して、朝出社するとわたしの机の上にあるんです。社長秘書に聞いたら「社長がebisuさんにって仰ってました」、プログラムのできるヒューレッドパッカード社製のキャリュキュレータでした当時の価格で11万円でした。さっそく400頁ある英文マニュアル2冊を読んで、経営分析・経営業績評価用モデル・システムを作り、毎月経営分析レポートを役員向けにだして、経営会議で説明、具体的な経営改善提案をしてました。やるのはやはり自分でした。(笑)
 2か月目にはHP97が机の上にありました。HPのプログラマブル・キャリキュレータを使いだしてから、それまで1日かかった計算が30分で終わりました。プログラミングが済んでいますから、データを入力して、プリントアウトし、入力データを一つずつチェックしてチェックマークを付けていけば、あとはファンクションキーを押せば、必要な25項目のデータが自動的に計算され、各指標ごとの偏差値と、偏差値の平均値が5つの指標群ごとにプリントされます。それをもとに手書きでレーダチャートを描いてました。2代目の計算機はプリンターのついた機種で22万円の高級機でした。朝机の上においてありました、社長も同じものを使っていましたが、新品に見えます。米国出張でまた買ってきてくれたのです。
 そのステップがあったので、今度は社内に導入されていた三菱電機のオフコンのプログラムをいじってみようと思いました。プロジェクトの一つ、電算化委員会の仕事もわたしにお任せでしたから、管理はわたしに任されていたので勝手にいじれました。3日間のプログラム講習で12ケタの数字で構成されたプログラム言語でした。最初の3ケタのブロックがコマンドで、あとの3つの3ケタのブロックはアドレスでした。ダイレクトアドレッシングの原始的な言語のCOOLをマスター。ほしい帳票を自分でプログラミングしてプリントアウト。プログラミングに夢中でした。この事務用言語では統計計算は無理でしたから、数値計算は相変わらずHP社の計算機を使っていました。システム開発関係の専門書は30冊ほどは読みました。learningは徹底的にやります。その上でunlearnです。外国為替の専門書も輸入業務に関する専門書も。会計情報システムに関する当時最新の本は翻訳がないので原書で読みました。管理会計に関する本は関周さんが800頁ほどの分厚い本を買ってきてくれました。朝、机の上にあるんです。要するに読めってこと。会計学や原価計算は高校時代から自分の専門分野なので内容は承知していますから、読むのは苦労はありません。好奇心でどんどん読みました。そして実務ですぐに使ってました。社長が買ってくるのはペーパーバックの本ではなくて、ハードカバーの高いほうでした。リターンコミッションで為替管理上日本へ持ち帰れないお金が米国にたまっていたので、使い道に困っていたのでしょうね。気前がよかった。でも、入社したばかりの社員の特別待遇はあまりよくありません。HP計算機のお陰で、仕事は3倍くらいできるようになりました。5つもプロジェクトを背負って、メンバーは役員がほとんど、部長が3名、課長が2名でした。実務部隊は当然私だけ。自分でやって、問題点を分析し、解決案を提案し、そしてそれを実行するのもわたしでした。独り芝居を5つ同時にやっていましたね。

 納期管理と為替管理用と円定価表のために別のオフコンを導入、今度はコンパイラー言語、RPG-2に似た言語で、progress-2と言ったかな。これもプログラムをマスター。外部設計と実務設計は自分でやり、オービックの担当SEの芹沢さんが内部設計担当、彼はオービックのトップレベルのSEでしたから、技術が盗めます、愉しい開発でした。円定価表は営業課長の遠藤さんとの共同作業。利益重点営業委員会だけわたしの担当ではなくて遠藤さんの担当でした。彼が営業は時間の半分を見積書作成に費やしている、それぞれが仕入先と納期に関するメールのやり取りをして営業効率が悪いと問題点をわたしの相談してきました。システム化するしかないので協力してほしいと。日本電気横浜工場と府中市の分倍河原工場で同じマイクロ波計測器を納入しているのに価格が違うとクレームがついていました。東京営業所と横浜営業所の担当者の間で相談がなくバラバラに見積書を作って出していたのです。クレームは当然のことでした。同じ定価表で仕事すればあとは値引き率だけです。大きな問題がありました。受注時に定価を決めても円安になったら1000万円のマイクロ波計測器や時間周波数標準機は仕入れ価格が1200万円になったりします。為替レートが動くからです。大赤字になります。それで、円定価レートと仕入レートと為替予約レートを連動することで、為替差損のでないシステムを創りました。常に為替差益が2%でます。当時の輸入商社では初の画期的なシステムでした。オービックの芹沢さん、自分のところのユーザーだけで20社ほど販売できそうだと言ってました。輸入商社をやめて2週間ほどしてから「オービックへ移って一緒に仕事しませんか」と電話をもらいました。オービックの本社は三井ビル化住友三角ビルで、NSビルとは300mくらいしか離れていませんでした。その受注時の円定価レートと、仕入時のレートと決済時のレートの連動システムを利用して、競合製品のない製品を中心に売上高粗利益率をアップして、平均値で27%から42%へもっていきました。営業は見積書を作る時間が1/10以下になったので、営業の生産性が1.5倍ほどになりました。150人の規模の会社の粗利益は6億円アップ。上場が夢でなくなりました。利益の三分割方式をオーナー社長に納得してもらったので、1/3は内部留保に、1/3は配当に、1/3は社員のボーナスに配分しました。賞与がアップして安定したので社員は「これで家のローンが組める」と喜んでいましたね。
 社長の関周さん、コンピュータシステム開発なんてしたことのない私によく任せてくれました。慶応大学経済学研究科修士課程卒業なので、理論経済学を専攻して簿記1級なんて人材はそうはいないので社運をかける大冒険してくれたのでしょう。感謝してます。6年間仕事しましたが、実績のない中途採用社員に、社運をかけたプロジェクトをこれほどたくさん任せてくれる社長は滅多にいませんから、恵まれてました。思う存分仕事してました。
 別々に開発した三つのシステムと経理システムを統合することになり、そちらもわたしの担当になりました。その統合システム開発の途中で社長の大学時代のご友人(IBM以外の米国コンピュータメーカのPOSシステムの営業担当)が関わってきたので、問題が生じました。以下月間かけて関係部門からヒアリングしたレポートを見せてもらいました。あまりお粗末なので調べたら、POSの営業だっただけでシステム開発経験がないのです。どちらがメインかわからないような体制では仕事がうまくいくはずがありません。船頭が2人の仕事は御免でした。一度目は電算化推進委員会のメンバーを集めて、全員一致で手を引いてもらうように社長へ申し入れをしました。しかし、また会社に来て社長と打ち合わせをしていました。面倒くさくなって自由にやりたかったので、職を辞しました。「わたしは手を引きますので、友人の方に任せておやりください」。皆さん送別会を盛大に開いてくれました。社長と総務課長だけが来ていませんでした。他の役員のみなさんはいらっしゃってました。6年間の仕事を認めてくれてましたから。お二人の部長さん、やめて2週間くらいしてから具体的な社名を出して課長職で就職を斡旋できると仰ってくれましたが、やめた翌日からSRLで仕事していたので、「ご心配かけましたが、決まってもう働いています」とお伝えしたら、「そうだろうな」と電話の向こうで笑っていました。
 東北大学の助教授が顧問になっていて、毎月営業担当者と技術部員向けに勉強会を開催していました。マイクロ波測定器の測定原理やミリ波の測定原理などの講習会でした。一度も欠席しないで営業担当者や技術部員と学びました。お陰でそちらに強い人脈ができました。毎月のように海外50社の産業用・軍事用エレクトロニクス・メーカーが新製品を発表していましたから、それぞれエンジニアが説明に来ます。そちらの説明会にも欠かさず出ていたので、「門前の小僧習わぬ経を読む」ようになっていました。ディテクターとコンピュータ処理部とインタフェイスでできているんです。わたしはデータ処理部や機器制御部のコンピュータを中心に理解すればよかった。ディテクトする周波数帯域が違うだけで、基本構成はみんな一緒なのです。この計測器の技術的知識の蓄積がSRLへ転職してから思わぬところで威力を発揮しました。ひょんなことから購買課へ異動することになって、当時世界最先端の臨床監査ラボだったSRL八王子ラボの機器を全部見ました。そして分類・整理して固定資産管理システムを投資まで含めた画期的なものに作り直しました。職権を利用してメーカーと検査機器の共同開発や新製品を市場へ出す前のテスト調整をSRLの検査部でやるような調整を勝手にやってました。誰もそんな指示は出せませんから、自由にやってました。栄研化学のLX3000だったかな、市場へ出す前に数か月間テストしました。契約書類を整えたいと申し入れがあったときに、「上場準備中なんだ」と営業担当者に告げると、顔色が変わって「どうして知っているんです?社外秘なんです」、それで一つだけ相談に乗ってあげました。そうしたら、お礼に開発中の大型検査機にの話が入ってきました。ビーズ凝集反応を利用した酵素標識した検査薬と大型検査機の開発情報でした。市場に出す前にSRLでテストをやる提案をしました。現場と調整をして半年間のテストが始まりました。すぐにトラブルに見舞われました。再現性に問題がありました。現場は使い物にならないと怒っています。栄研化学の側も対応が悪いようなので、介入しました。そのまま市場に出したらトラブル続出で普及しなかったかもしれません。半年間独占使用の条件を付けていたので、うまくいったらSRLの営業にも独占販売ですからメリットが大きかったのです。酵素標識のビーズコーティング検査試薬だったので、RI法に比べて3ケタほど精度がいいのです。朝立ち上げると再現性が悪くて、一時間ほど使い物にならない、間に入って技術的な調整指示ができました。輸入商社でさまざまな種類の世界最先端の産業用理化学機器を学んできたからできましたね。どこで学んだことが生きるかわかるわけがありません。その時その時を一生懸命にやったらいいだけです。いつでもunlearnです。虚心にモノを見る、そして考え、思いついたことを試してみる、そしてまたまっさらに戻って考える、それだけでいい。
 セキテクノトロンは2010年頃に業績不振で上場廃止になっています。3代目の東大卒の社長のときに他の会社へ吸収合併されたようです。初代はスタンフォード大学卒で、HP社のヒュ—レットやパッカードと友人でした。それでHP社の総代理店としてスタートしています。2代目は慶応大学大学院経済学研究科卒でした。
 社員持ち株会で株をもっていた社員がかわいそうです。経営者の責任って思いですね。

 関周さんに名ばかりの上司である部長(1年間で一度も仕事の指示をされたことがありませんでした。質量分析器などの分野の営業部長でシステム開発の知識ゼロでしたから誰も担当できる管理職がいなく兼務だったのです)経由で辞職届を出した後で、一月半の引継ぎ期間中に1日休みをいただいて、リクルート社の中途採用斡旋を利用しました。試験を受けて7段階で最高の評価、35歳の時に偏差値72でした。担当した方から、「3年後にまたおいで、これだけの実務経験を積むと頭が固くなって偏差値は下がるのが普通ですが、あなたの場合はさらにパワーアップしていると思うので、興味があります」、unlearnスタイルで仕事してきたことをしっかり見抜いていました。転職のつもりがなくても自分の実力の評価を兼ねてリクルートを再訪したらいいとススメてくれました。一番いい企業からの求人ファイルがオープンになりました。外資の半導体メーカー(フェアチャイルド・セミコンダクター・ジャパン)の経理マネジャーが一番給料が高かった。1984年で800万円でした。プレジデント社もファイルの中にあったのでどんな企業家興味津々で赤坂の本社へ伺いました。知的な女性社員が多かった。一番業績がよかったのはSRLでした。本社は新宿西口日生ビル、30階建ての超高層ビルの22階でした。オフィスは一番きれいでしたね。一度は超高層で仕事するのもいいな、そう思いました。そういう経緯で臨床検査最大手のSRLへは東証2部上場準備要員として雇われました。上場準備のために一番最後に採用になったのがわたしでした。1984年に350億円の予算編成と管理を任されました。2月1日に入社して、3月には経営統合システム開発を任されました。会計システムと支払いシステムそして固定資産管理システム開発、各システム間インターフェイス仕様書の作成がわたしの仕事でした。8か月で全部終了しています、ノートラブル、テストデータまで自作してます。富士通の当時最大規模の汎用大型機を使うことになっていました。システム開発予算も10倍ほどでしたね。売掛金管理システム、購買在庫管理システム、原価計算システムがそれぞれチームで別々に開発がスタートしていました。経理部のチームが一番遅れていました。全部で4つのシステムで統合システムになっていましたが、だれもこれら4つの分野に詳しい人はいません。ユーザー側の担当者はコンピュータシステム開発経験がありませんでした。プログラミングもできないのに外部設計書なんて書けるわけがありませんし、あたらしいコンピュータ処理を前提とした実務設計もできるはずがないのはあたりまえでした。3月にチーム全部の打ち合わせがあったときに、インタフェイス仕様が問題になりました。どのチームもできないと匙を投げています。やってほしいと各チームから要望が出たので引き受けました。一週間後にインターフェイス仕様書を書き上げて各チームにこれでやるように指示しました。あれから38年たちますが、いまもインターフェイス仕様だけは当時のままでしょうね。複数の分野の専門知識と経験がなければできないのです。
 固定資産システム開発が難易度が高かった。八王子市役所へ固定資産税の申告をするのに10cmほどもある固定資産台帳を申告書に手書きで写していました。1月と2月の2か月間アルバイトを3人雇ってやっていました。固定資産実地棚卸実務がいい加減で、記載事項がミスだらけでした。たとえば、孵卵器は腐乱機、インキュベーター、恒温槽、フランキーなどと表記されていましたので、担当を引き受けてすぐに本社と八王子ラボの固定資産を実地棚卸して現物を確認、記載ミスを訂正しました。そして分類コードを作りました。冷蔵庫なら4度C、-20度C、-45度C、-85度C,-150度Cに分類しました。そのおかげで―85度の冷凍庫がどの部署に何台あるかすぐにわかるようになりました。もう一つの問題は減価償却予算がでたらめで、毎年1億円以上の誤差が出ていて、担当証券会社から精度が悪いので上場審査で引っかかるというのです、経理担当役員の岩本さん困っていました。「ebisu、なんとかせいや」(笑) それで投資予算を固定資産管理システムに付け加えました。そのデータをもとに減価償却費予算をコンピュータで計算したのです。誤差は2000万円以下になりました。上場審査場の大きな問題の一つが解決しました。ああ、2か月4人かかっていた固定資産税の申告書は八王子市役所に電話して、そちらのフォーマットで出力するのでプリントアウトの提出に変えてもらいたいと交渉したら、OKの即答。初めてのケースだったかもしれません。こうして固定資産税申告書の手書き作業は消滅しました。八王子ラボの第二ラボ建物の1/3くらいは日野市なので、日野市役所にも電話で交渉したら、「それくらいなら、八王子市役所へ申告してくれて結構です」との返事。日野市には富士通ファナックや桜カラー、日野自動車などの有力企業の工場があるので、裕福だったのでしょうね。

 従来のやり方にとらわれない事例はシステム開発だけではありません、他にもあります。
 予算編成と管理も任されていたので、大きな費目を選んでコストカットを提案しました。一番大きい費目は材料費、検査試薬代でした。売上の25%程度を占めていました。それと複写費です。営業所やラボなど別々の契約になっていたので、機器はゼロックスに統一、ゼロックス本社と1億円を超えている複写費を3000万円カットできると提案。総務が自分でやると言ったのでお任せ。ゼロックス本社から役員が来て交渉におじてくれました。予定通りコストカット。試薬代は購買課長が不可能だというので、管理部門担当副社長の矢口さん(富士銀行から、ルく軍士官学校と海軍兵学校の両方に合格し海軍兵学校卒、戦後東大に入り直した人、受験勉強のエキスパートでした)が「ebisu、言い出しっぺのお前がやれ」との指示。価格交渉プロジェクトチームを作ってくれました。
 検査試薬の卸会社は10%のマージンしかないので、卸問屋と交渉するのは無理・無駄。購買課長は今までの経験にとらわれていました。世界中の大手製薬メーカと直接交渉の段取りをつけて、SRL本社に来てもらい、次々にこちらの要求20%カットを飲んでもらいました。向こうは営業担当役員が来ますから、こちらも管理部門担当の常務が対応します。わたしが横に控えて要求事項を説明します。ようするにいままで相手の言い値が購入していたので、高すぎたのです。交渉が終わると、味を占めた副社長はわたしを購買課へ異動させました。話が違う。(笑) お陰で3年間で60億円を超えるコストカットをしています。
(副社長には大きな貸しができました。そのあとでも一度東北の関係会社がらみで、貸しが増えました。助けてあげました。その会社から手を引くときに、わたしと交替で派遣した役員の報告を聞くときに、同席させました。彼が応接室を出ていった後で、谷口副社長は「いま聞いた報告はどこまで本当の話なんだ?」とわたしに聞くのです。谷口さんは知っていましたよ、だから私に同席させて牽制させていたのです。別チャンネルで聞いて知っている話を、そのままお伝えしました。そのあと新しく社長になった近藤さんと相談したでしょうね。完全に手を引きました。手を引くという方針は創業社長の藤田さんが決めたことです。近藤さんがそれを引き継いで資本提携を解消したということなのでしょう。交替で派遣した3人には赤字の会社を黒字にするようなスキルは何もありませんでしたから、創業社長の藤田さんの出向人事を見て手を引くつもりなことはすぐに読めました。赤字が増えるので資本提携解消へもっていけばいいだけのことです。東北の臨床検査会社を助けてあげたかった。社員が150人ほどいましたから。SRLをやめて東北の会社へ移籍して救う方法はありました。生産性を2倍にアップする基幹業務システムとラボシステムはSRL千葉ラボで実験済みでした。20億円台の臨床検査会社を数年で売上100億円を超える規模にはできたでしょう。売上高経常歴率も15%くらいにもっていける、そんな程度の経営力は当時ありました。株式上場して増資割り当てオプションで10-20億円くらいは儲けることができたでしょうね。でも興味がありませんでした。仕事が簡単すぎたからです。業界ナンバーワンのSRLでしかできない仕事がたくさんありました。欲が深かったのかもしれません。)
 ファルマシアがマルチアレルゲンの試薬で値引き交渉に頑強に抵抗しましたが、日本支社長に「2割カットを受け入れたら、売上は爆発的に伸びる、SRLの営業が拡販するので、値引きしてみたらいい、ダメなら来年の価格交渉で元の仕入価格に戻してあげます」といったらしぶしぶ受け入れました。SRL分だけで10倍以上になったので、市場の認知度が上がってしまいました。ファルマシア・ジャパンは売上を大きく伸ばして、日本支社長はご栄転でした。それ以降、ファルマシアはとっても協力的でした。傘下のLKB事業部が96チャンネルの液体シンチレーションカウンターを開発したときには、真っ先に連絡をくれたので、2台すぐに導入しました。紙フィルター方式の96チャンネルですから、時間当たりの処理量は192倍以上になりました。それまでバアアル(ガラス瓶)に試料をいれて一列にガチャガチャと読みこんでいたので、天井までバイアルが積んであり、検査担当者が地震がきたら崩れてきそうで怖いと言ってました。紙フィルター方式の液体シンチレーションカウンター導入で検査室はガラガラになりました。危険な瓶の山はゼロ。自動分注機とセットで運用したので、生産性が300倍ほどになったのではないでしょうか。
 購買システムにはいくつか不具合があったのでそれの手直しをすると同時に、機器担当となり、メーカーと検査機器の共同開発やSRL仕様での機器開発を要請しました。100本ラックがSRLの社内仕様で、同時に業界の標準仕様になっていました。フランス政府がPSS社のPCR自動検査機を大量導入しましたが社長の田島さんはアドバンテック東洋という企業の営業マンで、SRL御用達の分注機メーカーでした。すぐに独立してずいぶん大きな会社になりましたね。なかなかやり手でした。(笑)
 ファルマシア・LKB事業部の製品はデザインがいい、RIガンマカウンターをSRL仕様で造ってもらいました。そのまま日本市場で売れるから、カタログに載せることも勧めました。1台入れたら、それまでアロカ社(日本無線の子会社だったかな?)のRIガンマカウンターがいかにもダサい。数年たってから検査室を見たら、7台全部ファルマシア・LKB社製のガンマカウンターになっていました。ラボ見学希望者が多いので性能とともにデザインも大事なのです。ウィルス検査室の蛍光顕微鏡はオリンパスやニコン製品もありましたが、全部ツァイス社製品に変えました。電子天秤は各検査室で使っているので、異動しても同じ電子天秤ならマニュアルを読まずにすみます。世界ナンバーワンのメトラー社の製品に統一しました。メトラーに電話して、八王子ラボの電子天秤はメトラー社のモノを標準品にするという条件で、特別な価格をだしてもらいました。島津製作所の電子天秤と購入価格がほとんど一緒でしたね。
 染色体画像解析装置はニコン子会社のニレコ社と共同開発してましたが、1時間1検体しか処理できないので、根本的な問題アリと感じて、開発にストップをかけました。いくつかの副所長案件で暗礁に乗り上げた開発が、実地棚卸の時に見つけたからです。検査現場で聞くと「副所長がやった開発で使い物にならない」と言ってました。全部お咎めなしで廃棄処分をするので、申請書を書いてもってくるように伝えたので、現場はホッとした顔をしていました。平社員のわたしの権限はとても大きかった。経理担当役員で経理部長の岩本さんと管理担当役員の谷口専務はラボのことはわからないので、わたしの決定はそのまま彼らの決定になっていたのです。予算管理の責任者をしていたので、そういうことが自由にできました。
 購買課は担当者ごとにカタログを自分の机の中に保管していたので、誰かが休むと鍵がかかっていて型録を閲覧できません。大きな本棚を設置し、カタログを試薬、検査機器、消耗品、備品などに分類して、穴をあけて8㎝のファイルにとじ込みました。これで、誰が休んでも検査現場からの問い合わせに答えられます。
 購買の次は学術開発本部でした。担当取締役の突然のスカウトに応じました。システム化しているので手が空きますから、仕事時間の半部は2回の図書室で海外の科学雑誌と医学専門誌を読み漁れます。自席でチョムスキーの『knowledge of Language』を読んでいたら、学術開発本部担当役員の石神さんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を手にしてみました。彼が2階の席に戻ってすぐに電話がありました。「俺のところに異動して仕事しないか?」、お誘いでした。OKしました。
 開発部は製薬メーカーと検査試薬の共同開発してましたが、5人のメンバーはそれぞれ自分のやり方でてんでんばらばら。担当役員で移動してきた石神さんはマネジメントに困っていました。わたしも検査試薬の共同開発を二つ(DPC社Ⅳ型コラーゲンと塩野義製薬の膵癌マーカー)担当することになったので、PERTチャートを使って、共同開発手順を標準化しました。誰がどこまで進んでいるのか一目でわかるようになりました。
 学術営業から持ち込まれた沖縄米軍への出生前診断検査、トリプルマーカ―MoM値はシステム側から不可能だという回答があり、わたしの席の向かいに座っていた、米国在住25年の「お年産」が、「ebisuさんならできるでしょ」とニューヨーク州から取り寄せた学術論文をポンとわたしの机の上に置きました。「学術営業の佐藤さん、困っているから助けてあげて」、読んでみたらすぐにシステム部が不可能という理由がわかりました。これもいままでのやり方を前提としたら不可能な仕事でしたね。人種、妊娠週令、体重が検査値計算さんのための変数になっていました。それとデータを読みこんで曲線回帰式を算出しなければなりません。不可能だというはずです。報告依頼書の項目を増やさなくてはいけませんから、大改造になります。異動してきて1か月ほどでしたが、頼まれたので、HP43cを使って曲線回帰式を求めて、プログラミング仕様書を書きました。通常の処理では不可能なので、沖縄営業所にパソコンを置いて、患者の人種、妊娠週令、体重を入力し、検査結果を八王子ラボから送信してもらい、ファイルの結合処理をして検査結果報告書を出すという実務デザインを決めて、関係者に了解をもらい、システム部にはC言語の使えるプログラマーを一人回してもらうように依頼しました。3週間ほどで完成し、沖縄米軍へ説明に行きました。石神取締役と学術営業の佐藤君とシステム部の上野君、そして私。沖縄の司令官にとっても喜んでもらえました。女の兵士が妊娠したら出生前診断検査を受けることが法律で義務付けられていました。違法状態が解消できたのです。三沢基地の仕事がBMLからSRLに変更になりました。沖縄司令官の「配慮」でした。
 MoM値は検査データの日本標準をつくるために慶応大学病院産婦人科医から学術営業に協力要請が来ていました。ついででしたから、こちらも片づけました。多変量解析は研究部の古川君に担当してもらい、検査試薬はメーカー2社に「学術研究への協力」という名目で無償提供してもらいました。わたしがいつ購買部長になって戻るか知れないので製薬メーカは全面協力してくれます。もちろん社内協議のために「学術協力」で稟議書を書くように要求してます。検査コストはSRLもち、数年にわたって6000人の妊婦のデータをとったので検査費用は1億円ほどかかっています。データ解析は研究部古川君の担当、彼はしっかりしているのでいい共同研究になりました。白人を100とすると黒人は120でしたから、日本人はその間かと思いきや、多変量解析の結果は130でした。日本人の人種の由来が白人や黒人とは別系統の混血のような気がします。
 学術開発本部で仕事していた時はラボ見学対応の仕事もしています。わたしの担当は海外の製薬メーカからのラボ見学希望者への対応でした。部が10個くらい、それぞれ3課くらいあるので、種類が多い。検査項目は3000項目を超えていましたので、解説しながら検査室を回るのはなかなかできない仕事でした、学術開発本部内の学術情報部の3人の担当者の仕事でした。その3人から、購買から移動した私にできるわけがないとクレームを本部長に申し立てたのです。無理ありません。部長の川尻さんはにこにこしてみているだけ。業界6社の臨床検査項目コード検討委員会を業界内だけの者から、学会を交えた日本標準臨床検査項目コード検討委員会へと2回目の会合でひっくり返したのがわたし。1986年に「臨床診断支援システム事業化構想案」を200億円の予算で藤田社長からOKもらってフィジビリティスタディしていたので、その中の10個のプロジェクトの一つが、「臨床検査項目コードの標準化」でした。世界標準コードを制定するつもりでした。それがないと、「臨床診断支援システム」が成り立ちません。インフラの一つでした。川尻さんは当時臨床化学部部長でした。自治医大の櫻林教授(当時助教授)が臨床病理学会の項目コード検討委員会委員長で、臨床科学部の免疫電気泳動の学術顧問だったので、彼女を巻き込んだのです。その成果もあって、臨床化学部長から学術情報部長へ異動になっていました。大手臨床検査センターからそれぞれ学術部門とシステム部門の担当者を委員会に出すことになっていたので、SRL顧問の櫻林郁之助教授が創業社長の藤田へ川尻臨床化学部長の学術部門への異動をお願いしたのだと思います。この臨床病理学会(現在は、日本臨床医学会)の日本標準コードはSRLが事務局となって、2年ごとに保険点数の改定に合わせてインターネットで配布されています。全国の病院がこのコードで動いています。市立根室病院もわたしの掛かりつけ医である岡田優二先生の岡田医院のシステムも例外ではありません。

 学術開発本部長の石神さん、「一度ebisuを連れてラボ見学を見せる、そして次にebisuにやらせて、3人がチェックする」という提案をしました。分厚いマニュアル渡されて一緒に回りました。RI部の精度管理システムはヨウ素を標識に使っているので減衰しますから、コンピュータでデータ補正する必要があります。そこだけわたしには目新しかった。わたしはSRLでは管理系システムのNo.1SEでもありますから、解説を聞いて質問をRI部の担当者に二つさせてもらっただけで十分でした。翌日、三人を伴なってユーザーを連れて回りました。染色体画像解析装置の共同開発を断念させ、英国の染色体画像解析装置を導入したときの購買の機器担当ですから、日本電子の営業マンやエジンバラの画像解析装置の開発会社の技術者にもいくつか質問して、なぜ20分で5検体も処理できるのか理解していたので、説明はずっとマシでした。結石の前処理ロボットも、共同開発相手の技術屋さんと一緒に仕事していたので、粉状にした試料を金属のへこんだ穴から引きはがすブレードの形状についてまで詳しいのです。結石の標本箱がどこにあるのかも承知していましたし、なにより検査担当者とそれぞれ仕事を一緒にしていたので、顔見知りです。ほどんどの検査課をフリーパスで出入りできたのはわたしだけでした。リンパ球の表面マーカー検査機器も、担当者とはよく話していたので熟知してました。ラボ見学が終わって、ラボ見学担当の3人へ石神さんは「どうだった、問題あったか?」そう聞いていました。異論のあるはずがありません。彼らは勘違いしていただけなのです。大学病院検査室の見学者から、見学が終わって雑談を始めると、「ところebisuさんはどこの検査部にいらっしゃったのですか?」と質問を受けることがありました。「経営管理や予算管理、システム開発が本職で、検査部で仕事したいと思ったことはありますが、やらせてくれません」、そういうとたいがい絶句します。海外の見学者もそうです。臨床検査技師の資格のないものあるいは薬学関係で学位のないものが、ラボを説明して回るなんてことはとても無理ですから、学位がeconomicsだと説明するとやはり絶句します。逆に、管理部門のエキスパートだとわかると、海外メーカの人は設備一式売ってくれないかという交渉が始まったりします。自動化ラボでは世界一でしたからね。説明聞いて自分の目で見て納得するとそういう要求も出てくるんです。売るくらいなら、SRL・アメリカンを作って、進出します。市場規模が大きいので売上2000億円は固いでしょう。ちまちま日本で競争しているよりもそっちの方がよほど愉しい、そう考えていました。ひそかに人選もね。(笑)
 手が足りないときは国内のユーザのラボ見学対応を手伝ってあげました。忙しい時は同じ本部内の助っ人ができたのですから無理する必要ありません。ラボツアーは全部回り、詳細な説明をすると4時間かかりますが、相手の興味に合わせて回るコースを端折ります。2時間くらいに収めていました。
 経験に縛られると相手の実力を見誤ります。unlearnで虚心に対応するのがベストでしょう。
 そのあと関係会社管理部へ異動し、関係会社の経営分析と業績評価をしますが、これは輸入商社時代に創った経営モデルをEXCELに乗せ換えただけ。5分野、25項目の指標群と総合偏差値で業績評価のできる優れたシステムでした。1992年だったかな。
 この経営モデルを使って臨床検査会社の買収と資本提携も担当しました。三井物産から買収した千葉ラボが赤字なので、基幹業務システムとラボシステムを入れ替えて、生産性を2倍以上にアップし、一気に大幅な黒字に持っていくことを目的としてプロジェクトが立ち上がりました。SRL本社関係会社管理部でわたしの担当案件になりました。導入後、事前のシミュレーションを上回る生産性のアップで一気に黒字になりました。
 そのあと買収した金沢の臨床検査会社か出資交渉をまとめた東北の臨床検査会社のどちらかへ出向して立て直して来いと藤田社長の特命指示。千葉ラボの方式でやれば簡単でしたが、出向先の社長のプライドを折ることになるので別の方式がないか探しました。千葉ラボのシステムは東北の会社のシステムを導入していたのです。それが悪いとは言いづらかった。本人は自分が臨床検査会社で一番システムに詳しいと思いこんでいましたから。出資交渉の時に、パソコン十数台をつないで、基幹業務システムを開発中でした。ボードをひっくり返して裏を見ていいかと社長のTさんに聞いたら、けげんな顔をしながらOKしてくれたので、ひっくり返しました。「社長、これ販売目的で開発したものですね、マッピングではなくてプリント基板を使っています」、そう指摘したらぎょっとした顔してました。わたしのことを経営管理や経理畑の人間だと思い込んでいたのです。
 使用している沖電気製のパソコンもまずかった。罫線が引けないのです。パソコンは1992年にはまだ業務で使えるレベルではありませんでした。千葉ラボで使ったのはデータベースマシンのAS400と別のもう一台でした、ブルグのどこかで言及しています。
 社長室に戻り、やんわり開発は中止したほうがいいと告げました。瑕が深くなります。来年の売上についての予測値を話したら、自分の推計と同じだと言って、営業所ごとに線形回帰したデータがEXCELのシートに展開されて集計されているデータを見せてくれました。見ただけでどういう計算したのかは理解できるので説明の必要はありません。それにもぎょっとしてました。「どうやって推計したのですか?」と聞くので、「5年間の決算データとラボを見たらわかります、プロですから」と煙に巻いておきました。それからはわたしの意見をよく聞いてくれました。
 仙台のラボに染色体検査部門があり、八王子ラボへ3台導入したのと同じ機種が使われていました。実は日本電子輸入販売の営業マンから、八王子ラボへ納入した後、帝人の臨床検査子会社と東北の臨床検査会社に売れたという情報をつかんでいました。経営が苦しいので検査項目を広げるというのは販売不振のラーメン屋がカレーライスも売るようなもので、経営的にはアウトです。数年前にわたしにはわかっていたことでした。東北は創業社長の藤田さんの、帝人は近藤社長の特命案件でわたしが関わることになりました、1989年に買収しようと思っていましたから、めぐりあわせが不思議です。
 SRLは染色体検査市場の8割を握っていましたので、染色体画像解析検査でSRLは需要の多い染色体検査に体制が追い付いていませんでした。受注制限していました。一気に生産量を増やすために東北の臨床検査会社の仙台のラボの染色体課を組み込んでしまば可能です。それで生産性を調査しました。直接責任者からヒアリングしてます。売上高経常利益率が10%を超える案を出向先の社長に伝えて、SRL藤田社長にも案を送付してます。実行段階に入る寸前にSRL本社に呼び戻されて、社長と副社長へ確認したら、「聞いていない」というんです。理由は表情を見てすぐにわかりました。ちゃんとレポートを文書番号を付けて送付しているので、「報告してますよ」と主張できましたし、社長と副社長も反論されると思っていたようです。「事情はわかりました、わたしの勇み足ということですね」と念を押しました。お二人はビックリして顔を見合わせていました。それで、後任を4名送りましたが、藤田社長の腹は資本提携解消でした。メンバーの選択をみてわたしはすぐに藤田さんの意図がわかりました。シノン提携の解消に、浜松町の東芝ビル内のJAFCO本社へ藤田社長と一緒に出向きました。会談決裂するような話を本社のみんなの見えるテーブルでわたしにして、あとは雑談でした。浜松町の駅で降りて歩いている途中で、「ebisuさんの言うとおりにするかな」なんて言うんです。実際の交渉は、相手に圧力をかけるように長い間(ま)をとった話し方でした。JAFCO側は日本で東証1部に2社上場した商業社長の訪問ですから、緊張していました。打ち合わせが終わると、「お車はどちらへ回しましょう」といわれて、「電車で来ています」と伝えたら、「え、セキュリティ上まずいですよ」と一言。藤田さんそういう人なのです。
 資本提携した東北の臨床検査会社が10%を超える売上高経常利益率はまずかったのです。子会社化すると、SRLのグループ企業では売上高経常利益率がナンバーワンになります。子会社社長は本社役員のポストが慣例になっていたので、T社長をSRL本社役員にはしたくなかったのです。3年の約束で役員出向しましたが、15か月で呼び戻されました。本社経営管理部経営管理課長、社長室と購買部の兼務辞令が出ました。本社経営管理部はエリートコースです。ご褒美と申し訳ないというキモチだったのかな、異例の3部署兼務辞令でした。(笑)

 半年で、気に入らぬことがあったので経営管理課長の椅子を蹴っ飛ばしました。子会社への出向調整をするように上司の役員である経営管理部長へ要求したら、一番古い子会社の東京ラボ(練馬)へ出向調整してくれました。そこで、グループ全体のラボ移転を計画して、社長の箕輪さんと相談しているところへ、また本社から呼び戻しがありました。箕輪さん下を向いて「本社社長の近藤さんからの指示だから逆らえない、帝人との治験合弁会社を担当しろという指示があった」、それを聞いて翌日会社立ち上げのプロジェクトが暗礁に乗り上げているので、参加するために立川本社へ出向くと、エレベータに乗る近藤社長とばったりでくわしました。
「聞いていますか?」
「帝人との治験合弁会社を担当しろということでしょ、そのために来ました、プロジェクトのミーティングに参加するためです。指示事項があったら聞いておきます。」
「①日経新聞に公表した通りに1月から合弁会社をスタートさせること、②赤字なので黒字にすること、③当面は50:50の合弁会社だが、いずれ資本は引き取るので交渉すること。④帝人の臨床検査子会社の買収をしてもらいたい。」
「やり方は任せてもらいます、SRL側の経営の全権はわたしに委任してくれますか?」
「わかった、任せる」
 数分で話は終わりました。3年に少し残して課題は四つともやりました。これも未知の分野、unlearnです。

 前から引きがあった300床弱の特例許可老人病院の常務理事を1999年10月に引き受けました。病棟建て替えで困っていたからです。老健施設やグループホーム、訪問看護などを病院の傘下にもって、シームレスな医療と介護を実現したかったからです。一箇所でうまくいけばあとは全国展開するつもりでした。理事長と折り合いがうまくいきませんでしたね。11億円で病棟の建て替えをやりました、坪単価65万円。国からの補助金と同額でしたから持ち出しナシ。施工は新日鉄のゼネコン部隊。RC造ですから市立根室病院と一緒です。地盤が悪いので100本ほどパイルを下の岩盤まで打っています。担当は新日鉄の東大出の一級建築士でした。予算額を最初に言って建築仕様をつめたらその後の仕様の変更はなし、工事完了して補助金が入金されたらすぐに支払うという約束で、仕事を受けてもらいました、地盤が軟弱だったのでコスト割れしたかもしれません。でも母体が大きいのでそれくらいは、呑み込めます。実績になりますからその後の他の病院の建て替え仕事に利用したらいい。

 振り返ってみると、わたしのサラリーマン生活は、最初から最後までunlearnでした。


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#4648 思い込みを外すテクニック:中3数学の問題 Nov. 10, 2021 [5.1 脳の使い方]

 脳の使い方を具体例で説明したい。とくに数学の学習上とっても大切なことです。

 昨日(11/9)、授業の終わりごろに生徒から質問があった。条件がシンプルな問題だった。9時になったので時間切れ、解けなかったので次回に説明すると伝えた。条件が一つ足りない感じがした。あるいは条件の見落としがあるはず、それが見つからない。
 問題は∠ABEを求めよというものだ。

DSCN5642s.jpg

 問題の条件はとってもシンプル、次の三つつだけ
①四角形ABCDはひし形である
②AD=AE
③∠DAE=4544度

 生徒たちは今日学力テスト総合Cを受けている。生徒がやっていたのは過去問だと思っていたので、範囲に入っていない円と円周角の定理は使わない、ひし形と二等辺三角形と4544度の三つの条件で考えることにした。
ひし形は「対角線が直交する」「四辺の長さがみな同じ」、この二つだけがひし形の定義である。対角線を引いてみたが、しばらく考えたが、どうしても条件が足りぬ。時間切れとなった。

 食事をしながら、図を思い出して描いてみた。見落としているはずの条件が何か?頭の中の思い込みを消すことにした。食事しながら図を虚心に眺めてみたら、15分くらいして四角形ABCEが円に内接しているように見えた。点ABCEが同一円周上にあれば問題が解ける!

 △ADEは二等辺三角形だから∠D=∠AED=(180-44)/2=68度
 ひし形の内対角は等しいから∠ABC=68度
 よって、∠AED=∠B=68度
 四角形ABCEの外角がそれと隣り合う角の対角に等しくなっているので、四角形ABCEは円に内接しており、点ABCEは同一円周上にある。
 また、
 ∠CAE=112/2-44=12度
 弦CEの円周角だから
 ∠CAE=∠CBE=12度
 よって、∠ABE=68-12=56度

 これは、学力テストの過去問ではない。どこか私立高校の入試問題か、入試予想問題だろう。個別指導だから同じ中3の生徒でもそれぞれが学力に合わせて自分が選んだ問題集も使っているから、どんな質問が来るかわからない。だから面白い。
 「内接四角形の外角がそれと隣り合う内角の対角に等しい」「内接四角形の内対角の和は180度」という定理を知らなきゃできない問題である。これは高校数学Aの範囲で、最後のあたりに出てくる、根室高校1年生もまだやっていない章である。45年前には、中学数学の範囲に入っていたと思う。中3のシリウスにはこの定理も解説されているし、問題が載っている。
 弊塾に来てから3回続けて中3学年トップの生徒はまだ『シリウス中3数学』の160頁のあたりだから、内接四角形の問題は12月中旬になる。有名私立高校入試なら、標準問題である。2-3分で解かなければならない。
 つまり、私立難関校受験は数ⅠAまでやっておく必要があるということ。合格したら、授業速度が速いのと採り上げる問題の難易度が高いので、予習して独力で問題解いておかないとついていけません。

<リゲルさんのシンプルな解法>11/11朝追記
 ハンドルネーム・リゲルさんからとっても簡潔な解法のポスティングがありました、こちらの方がずっとスマートです。わたしは△ABEが二等辺三角形になっているのを見落としました。なお、角度はわたしが45度とミスタイプしてしまったので、44度に直して転載しています。
--------------------------------------------
∠DAE=44°
△ADEは二等辺三角形なので∠AED=1/2(180−44)=68
錯角を利用して∠AED=∠EAB
△ABEも二等辺三角形なので
x=1/2(180-68)=56
答え56°
--------------------------------------------
 図形の問題は条件を見落とすと、シンプルな解法には行きつけないリスクの高い分野です。この問題の場合には△ABEが二等辺三角形になるということに気がつかなければ、シンプルにはいきません。そういう場合でも代替手段で解くことが可能です。わたしがやった内接四角形の外角の定理を使う方法です。見た通りシンプルではありませんね。ふだんから複数の解法を比較してください。安易に答えを見てそれをなぞっていたら、いつまでたっても力はつきません。
 じつは、同じくらいシンプルな解き方がもう一つあります。面白いので「試行錯誤」してみてください。ヒントはひし形の隣り合う内角の和は180度ということ。
 「試行錯誤」がだいじです。試行錯誤しているときには脳が活発に動いています。答えを見てそれをなぞっているときは脳はほとんどお休み状態です。車ならアイドリングしているだけ。数学の問題は複数の正解手順があるのがあたりまえですから、できるだけシンプルで美しい解き方を追求しましょう。

<意識の集中と分散トレーニング>
 数学の問題が解けないときは、条件の見落としか、思い込みがあって、そこから焦点を外して、問題そのものを見るとか、ボンヤリ全体を眺める必要がある。意識の焦点を絞ること(=意識の集中)は簡単だが、それを外すことが意識的にできる中高生は1000人に1人いるかな。こういうことが自在にできれば、数学の全国偏差値は80を超える。

 座禅を組んで瞑想するときに、蝋燭の火を見つめるとそこに意識を集中できる。そこから今度は呼吸に意識を集中して、蝋燭の火に集中していた意識を消してしまう。呼吸はゆったりとした長息がいい。
 思い込みを消せなかったら、問題を暗記して、後で紙に書いて再現してみたらいい。何度か繰り返すうちに、しばりつけられていた意識がそこから離れられ、まったく別の視点から問題が見えてくる。テストの制限時間内にそれを意識的にやるには、トレーニングが必要だということですよ。いい頭は自分で創り上げることができます。
 やり方を教えてあげられる人がいたら、5%くらいの生徒は意識の分散をマスターできます。

<臨時休校>
 小中学校は臨時休校になりました。学力テスト総合Cは順延でしょうね。
 今朝の最大風速は28.1m/s、時速101kmである。雨量は7時に8.5mm/h、8時に11.0mm/hあった。強風で傘は使えない。今12時50分ですが、雨はとっくにやみました。光洋中学校のテニスコートは水たまりができてます。


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#4422 視点変換の技を磨こう:数学 Dec. 9, 2020 [5.1 脳の使い方]

 「5.1 脳の使い方」という新しいカテゴリーを追加した。脳の働きは呼吸や心の働きとつながっている。画像記憶や画像を動画のように再生するとか、音の記録と画像の記録の入出力、脳内に数字や文字を「書く」など、学習に利用してきたことを、自分の脳の働きを分析して書き溜めておこうと思う。たぶん、小学生や中学生、そして高校生の勉強に役にたつだろう。
 企業経営や病院経営でも経営分析やシミュレーション、経営改善政策立案などに同じ脳の使い方をしてきた。4業種8企業で試して実績の裏付けのある方法である。おいおい書いていこうと思う。今回は、数学の問題と関連させて書くつもりだ。よい問題提起をしてくれたK川君に感謝。

 高3のK川君が赤本の問題をやっていた。そういう時期になった。
 次のような問題で質問があった。

 サイコロを三回投げる。
 1回目をa、2回目をb、3回目をcとするとき、
   x+y+z=a…①
   x-y+z=b…②
   x+y-z=c...③
  x=p, y=q, z=r とする。
  (1)q=0のときの確率を求めよ。
  (2) xxxxxxx ()

 P(A)の確率は「事象A/全事象」で計算されるから、分子と分母に分けて考えよう。全事象は6^3である、問題は事象A(q=0のケース)がいくつになるかということ。
 ①と②からq=0のとき、a=bとなるので、1回目と2回目が同じ目が出る場合が事象Aのように見える。
 ところが、答えは1/6である。
 6/6^3だから、答えは1/36がではないか、なのに「6^2/6^3=1/6」と解答ページに書いてある。③の条件はこの問題には関係がないというのが質問した生徒の主張である。

 こういう時は思い込みがあると考えよう、そして視点を変える。③が関係ない、そして①と②からq=0を満たすのは(1, 1), (2, 2), (3, 3),(4, 4),(5, 5), (6, 6)の6通りというところまではいい。
 3回投げるから、3項になるということを忘れている。
 (1, 1, 1)
 (1, 1, 2)
 (1, 1, 3)
 (1, 1, 4)
 (1, 1, 5)
 (1, 1, 6)
 (2, 2, 1)
 .....
 (6,6, 5)
 (6,6, 6)
 それぞれについて、cが1~6の6通りあるから、全部で6^2=36通りある。
 したがって、6^2/6^3=1/6となる。

 ヘンだと思ったら、自分が思い込みをしていると考えよう視点をずらす、あるいは絞り込んでいる焦点を解除すればいいが、これは一種の技である。思い込みを消してもう一度問題文を読めばたいがいは気がつく。
 2項で考えてしまったところにすでに思い込みがあることはお分かりいただけただろう。サイコロは3回投げられるのだから、a,b,cの3項。aとbだけに焦点が絞り込まれてしまった。いったん焦点が絞り込まれたら、そこに釘付けになって周りが見えなくなる。焦点の前後にある対象物はぼやけて認識できないのはあたりまえ。被写界深度が浅くなっていると譬えたら、写真が好きな人ならわかりやすいはず。ああ、高校2年生の春に引き伸ばし機など写真機材一式をそろえて購入してくれたオヤジに感謝だな。ほしいと言った覚えはないし、自分が若いころ金がかかるので断念した趣味を息子にやらせて眺めてみようと思ったのかもしれぬ。一切説明なしだった。高卒の給料2か月分の機材だったから、毎日数時間、ビリヤード店の店番をしていることへの褒美でもあったのかもしれない。暗室へ数度入ってきて、自分で数枚引き伸ばしただけで、後はニコニコしてわたしの作業を眺めているだけだった。2階のリビングでフェロと言ったかな、表面が鏡面仕上げになる機材で写真の乾燥をしているのを肉をつまんでビールを飲みながら眺めているだけ、そしてさっとビリヤード場へ下りていく。ああやれ、こうやれなんて一切口出ししない、好いオヤジだった。

 焦点距離を自在に調節出来たら、焦点距離に応じて周りの見えるものが違ってくる、そういうことを脳内でやるのである。焦点距離を意識してイメージできるようになればしめたものだ。いま焦点を当てているのを外せたら周りが再び見えるようになる、思い込みを外せたら、正解へぐんと近づける。それを意識的にやれたら頭の働きが違ってくることは理解いただけたのではないか。

<余談:意識の集中と分散の方法&呼吸のコントロール>
 ヨガの瞑想は1mほど前を見て意識を呼吸に集中する。同じことをやればいいだけ。数呼吸すれば意識の分散、あるいは集中解除ができるようになる。意識を集中するよりも、それを解除して意識を全体にいきわたらせる方がむずかしい
 蝋燭を手前1mくらいのところに置いて炎を見つめ、呼吸に意識を置いてもいい。



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