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#5228 楽しい飲み会:CROへの事業シフト Mar. 5, 2024 [A6-1 帝人とSRLの治験合弁会社の経緯]

 臨床治験の合弁会社(帝人とSRLの合弁)の立ち上げから3年間一緒に仕事した仲間と、飲み会がありました。
 S.T、K.K、K.Y、Kさんとわたしで5人。某所で午後1時半から飲み始め、気がついたら8時になってお開きです。
 H野さんとN崎さんがすでに故人、一人は病気で、もうひとりも健康がすぐれず悩んでいたので、心が痛い。

 1996年11月に突然、親会社SRL近藤社長から、暗礁に乗り上げた合弁会社立ち上げプロジェクトを軌道に乗せろと指示アリ。特命案件である四課題(新聞公表通りの日にスタート新会社スタート、赤字事業の黒字化、合弁解消と資本引き取り交渉、帝人臨床検査子会社の吸収合併)を背負ってのスタートでした。自由にやらせてもらわないとクリアできないと判断したので、経営の全権委任を条件に3年間の期限付きで仕事を引き受けたのです。期限の2か月前に課題を全部クリアして、かねてからお誘いのあった企業へ転職してます。帝人本社のI川常務からは、経営のセンスを買われて帝人の臨床検査子会社を合弁会社の子会社にするから、兼務で両方の社長をやってもらいたいと提案がありましたが、親会社SRL社長の近藤さんは人事上の制約でそれは飲めないとの返事でした。
 SRLの完全子会社化して転籍の際には親会社を超えるような年収を保障してやろうとおもって仕事してましたが、後から来た人で思いがけない人がそれを実現してくれたことがわかりました。志を継いでくれる人は予想もしなかったところから現れてくれました。
  合弁会社立ち上げ(1997年1月)当初は臨床治験検査の受託企業でしたが、帝人臨床検査会社とSRLへ外注という形になるので、利幅が薄くて、黒字化ができないということが会社がスタートして2か月目ぐらいに経営分析した結果判明。それで頭を空っぽにして、どうすればいいのか数日考えてました。利幅の大きいデータ管理事業分野の実務内容をベテランのWからヒアリングして、某製薬メーカ向けのデータ管理システムがパッケージをつくる場合のプロトタイプになりうることを確認しました。黒字化するために汎用パッケージシステムを開発して第一段階は製薬メーカーに、第2段階は病院へ販売するすることに経営戦略の柱を決めて、最新のラックマウント・サーバーを購入し、システム担当の若手の技術者K.Kと応用生物統計の専門家のMaとベテランのデータ管理業務管理担当者であるMiへ相談すると、彼らが協同して仕事を担当してくれました。 

 治験の品質管理基準であるGCP基準の大幅変更があり2年目は製薬メーカーの治験がピタッと止まりましたが、数か月のことだと判断してました。会社の中はざわついてましたね、SRL100%子会社化することは話してませんでしたが、いずれ転籍になることは伝えてありましたので、みんな会社の行く末が心配だったのです。心配してもどうにもならぬことは、心配しないで好いのです。ただ目の前の仕事をしっかりやってくれたらいいだけ。経営の舵取りだけはわたしに任せとけ!(笑)
 製薬メーカーは一つの治験に数百億の資金を投下して新薬開発をしなければ、業績が悪化するので、いつまでもとめていられないと判断し、着々と仕事は進めました。1984年2月1日にSRLに転職して2年目、経営情報システム開発が終り予算管理を担当していた時に、検査試薬のコストカットを提唱して、製薬メーカ各社の役員や営業部長クラスとお付き合いがあったし、学術開発本部にいた1年半(1989年から1990年まで)は検査試薬の開発業務を製薬メーカー2社とやっていたので、製薬メーカー側の経営事情はよく知っていました。新基準で様子見して止まっていた治験は予想通り数か月で動き出しました。あのときはほんとうにホッとしました。

 わたしが1999年9月に辞めたあと、SRLからは治験にはまった関係のない人が数年間社長になっています。SRL近藤社長、人選に苦労したんでしょうね。ゴルフの大好きな人でした。元は営業部長で直前は購買部の部長をしていて接待ゴルフ三昧で噂の絶えない人でしたが、やはり同じことをやってしまった。変われないのです。出向していたある部長が定年間近になって「ふざけるな!」と激怒、社長のゴルフ人事の仕方やマネジメントの仕方を批判して退職したそうです。わたしのよく知っているA沼さんでした。直情タイプの人の好い人でした。幸いだったのは住友金属からCROに詳しい人が来たこと。SRL近藤社長の配慮だったのだと思います。SRL人事部にはわたしの知る限り、そういう人事のできる人はいませんでしたね。住金の臨床検査ラボには住金からの出向者で学力レベルの高い人が何人かいたのです。大手六社と臨床病理学会が産学共同プロジェクトで臨床検査項目コード検討会をスタートさせたときに、各社持ち回りで会議をしてますが、その折に名刺交換した住金ラボの次長さんは住友金属からの出向者で、じつに品のよい、頭の切れそうな人でしたので、強く印象に残っています。お公家さんタイプ、SRLには一人もいませんでしたねああいうタイプは、こちらな野武士でしたから。一人だけ一ツ橋大卒で能を趣味にして、人間国宝が居並んだ能楽堂の舞台で主演した人、「てらさん」がいました。日本生命からの出向役員で常務でした。検査試薬の価格交渉のときに、先方は役員が来てましたから、平社員のわたしだけではあまりにも失礼、釣り合わせるために、ご一緒していただきました。もちろん、「てらさん」にはご挨拶をしてもらうだけ、実際の交渉はわたしがしてます。能の呼吸で挨拶されてましたのが、印象に残っています。終了した後で「あれでよかったか?」、「いい呼吸でした」と褒めました、貫禄があって本当によかったのです。とってもユニークな人でした。相当お金持ちそして古い家柄ののお坊ちゃまだったと思います。トータル16億円を目標にした検査試薬のコストカットプロジェクトでした。3回やりました。初回は経理部予算管理の責任者として、2回目と3回目は購買課検査機器担当者なのですが、そもそもこのプロジェクトはわたしの発案だったので、それぞれメーカーごとに資料を積み上げて、個別にディスカウントの目標を決めて、購買課長と試薬担当者数名に割り振っていました。購買課長はさぞやりにくかったでしょう。毎週、新宿本社へ用事をつくって、あるクラブ通い、ツケは製薬メーカー持ち、その内に購買課内のある人が創業社長の藤田さんへ告発のお手紙を出して発覚しました。わたしはその時は学術開発本部へ異動して仕事してました。わたしも内部告発者ではないかと疑われましたので、「そういう事実は知ってはいましたが、わたしではありませんよ、その文書にわたしのサインがないでしょ?」、上司のI神学術開発本部担当取締役に文書のコピーを見せられましたから、そう告げました。彼に直接スカウトされたあとで、「仕事上のトラブルがあって、購買課長からスポイルされていた」ことは話してありましたので、「ひょっとして」そう思ったのでしょうね。「ebisuとは話をするな」なんて業務命令をやってました。男子社員は「すまない、課長にそういわれているんで...」、女子の古い社員は怒ってました。10年死んでいるつもりでした。検査機器の共同開発や機器購入が仕事だったので、そちらは何の支障もありません。購買管理スステムのメンテナンスや新機能追加も一人でやってますので、仕事に支障はないのです。課長は検査機器のことはほとんど知らないので業務指示も当初からありませんでしたから。前担当者の1.5倍くらいの仕事をしていても5時間ぐらいで終わりますから、暇を持て余して図書室でSCIENCEやNATUREそして20誌ほど定期購読していた英文の医学専門雑を読み放題でした。自席でチョムスキーの"Knowledge of languag"を読んでいたら、学術開発本部長が横を通りかかって、「何読んでいるんだ、ちょっと見せろ」と本を採り上げて確認し、すぐに社内電話がありました。「俺のところで仕事しないか?」と。二つ返事でOKすると、三日としないうちに異動辞令が出たのです。後任も決まっていないうちに異動しました。といってもすぐ近くの階段を上がれば学術開発本部です。通りに面していて眺めはよかった。購買課長が新宿のクラブで製薬メーカーのツケで毎週酒を飲んでいると内部告発があったときにI神さんはわたしの性格がまだわかっていませんでした。そんな小さなことでは動かないのです。内部告発者が誰かはすぐに見当がつきましたが誰にも言いません。ワープロの印字でしたから、すぐにだれがやったのかわかりました。1989年当時はワープロを使っているのは珍しい事でした。もちろん私は自分のものをもって高速タッチタイピングで仕事してました。あの当時はタッチタイピングができるだけで、新入社員に褒められましたね。
 あまりにひどいので見かねた末の善意の「内部告発者」であり「犯人」ではないのですから、犯人捜しはしないが好い。告発された彼は業界2位のBML社へ転職しました。給料は3割くらいは減ったでしょうね。SRLはダントツ業界ナンバーワンの給料の会社でしたから。通勤は遠くとても不便でした。いつ何があるかわからぬものです。好い加減なところでやめておけばよかったのに...。告発した人もしばらくして退社してます。嫌気がさしたのだと思います。絵を描くのが好きな人でした。日本人のメンタルかな、そのまま仕事してていいのに。購買課は年間100億円前後のものを買いますから、よほど自分を律することができる人でないと、数年癒着が始まります。だからどんなに長くても5年以上は担当させてはいけません。
 ある時ラボで違法な処理をしていたことがありました。内容は書けません。事実を知っている現場の担当者が創業社長の藤田光一郎さん宛に実名で内部告発、告発と同時に退職しています。藤田光一郎さん、その時に危機感を感じてラボに社長室を設置、毎週金曜日はラボで仕事してました。私の席の背中の壁が社長室のパーティションでした。そのときに担当部長のK地さんを呼びつけて大きな声で叱りました。演技でした。大きな声は一度だけ、それっきり一度も聞いたことがありません。穏やかで謙虚な人でした。毎週、開発部メンバーと本部長とわたしの7人だったかな1、5分ほどミーティングしてました。1989年12月から90年4月までの頃の話です。


 話が何度も脱線していますが、そういうわけで、住金からCRO業務に関心の強い人が異動してきて、当初の事業戦略や構想を受け継いでくれたようで、話を聴いていてありがたかった。必要な人材は不要な人材と抱き合わせで回ってくるものです。数年じっと待たなければいけないこともあるんです。
 SRLは基本は職能等級で人事をやっていました。社員のそれぞれがどんな実績を上げいるのかには関心があまりないのです。わからないといった方がいい。それまでの経験や必要なスキルの有無とはまったく関係なしに人事をやることが多かったのです。とくに営業系は戦略構想のできない役員や仕事のできない部長職がごろごろしていました。関係会社管理部が社内公募でスタートしたときに、SRLグループ企業の経営分析と他の臨床検査会社の経営分析と買収交渉を担当してました。営業本部に関係会社管理部があったので、1年間営業本部内の人材をじっくり観察できたのです。転職当初経理部の同僚社員が営業から出金伝票が回ってくると、「●●総業、〇〇興業などの領収証はトルコです」なんて怒っていました。女好きな営業部長、ゴルフ好きな営業部長、お酒の好きな人はお酒と、それぞれ自分の趣味に合わせて接待していました。経理部長は富士銀行からの転籍でしたから、何も言えません。だから、上場準備にかこつけて経理規定を整備して、それを盾にしてその手の交際費を禁止してしまいました。1985年ころです。それからはずいぶんよくなりました。しかしその時代に営業をやって実績を上げて営業部長になった人たちはかなり危うい。中身のない役員ほど威張ります。3人いた営業系役員は次々に入れ替わっていきました。役員が大きな仕事を任されて失敗したら、再任しなけりゃいいのですから、簡単です。営業に限らず、あとがないから、保守的になって何もしないのが多かった。営業戦略なんて頭の片隅にもありません。そんな話を営業の役員や部長クラスから一度も聞いたことがありませんでした。いまはさすがに違うでしょう。しかし、業界2位だったBMLに売上で負けています。SRLの6割ぐらいしかありませんでした。営業戦略の違いが出たと判断してよいでしょう。大型自動化ラボを1986年ごろに計画し、一般検査から特殊検査市場にターゲットを定めて、コツコツラボの品質レベルをアップしてきました。SRLは一般検査市場へ拡大すべきでしたが、一般検査を担当する子会社は八王子ラボで仕事していた人たちが出向してやるから、「重厚長大」で生産性がとても低かったのです。千葉ラボが唯一2倍の生産性を誇っていました(1992年に新システム稼働)が、それを数年後にSRL東京ラボに吸収合併してしまいました。SRL東京ラボの社長のM輪さんが千葉ラボ(社名はSMS)の社長を兼務していたからです。あれはもったいないことをしました。あのシステムを他の一般検査子会社へコピーするだけでよかった。低コストラボを武器にBMLの首都圏のユーザーの半分くらいはゲット出来ました。そういう経営戦略がまったく描けないのがSR営業部門の弱点でした。もちろん、現場で一緒に汗をかいたことのない、頭でっかちの総合企画室(後に社長室)のメンバーも一緒でした。ラボでどんなレベルの仕事がなされているのかも知らないのですから。具体的な経営戦略が描けるはずもありませんし、営業戦略がないことにすら気がつきませんでした。総合企画室担当役員の仕事のレベルが低すぎました。そして長かった。

 CRO事業に本格参入しても、住友金属出身者はSRLとのパイプ役にはならない、そういうところがメディサーチ(100%子会社化してからの会社名)で仕事していた彼等にはもどかしかったようです。その役割はわたしが担っていましたから。さまざまな部門を渡り歩いたので、八王子ラボと本社と営業部門と学術開発本部と子会社の東京ラボM輪社長、九州の子会社JML社長のK藤さん、そしてSRL近藤社長、副社長のY口さんに太いパイプがありました。仕事してたら自然にそれぞれの部門のトップクラスのスキルを持つ人たちとも良好な人間関係ができあがります。
(SRLは1990年代に住友金属の臨床検査子会社を買収していますので、その流れで住友金属出身者が少数います。わたしの上司だった学術開発部門担当役員のI神さんは、住金の臨床検査子会社のラボ所長だった人です。住金の臨床検査子会社がSRLに買収される数年前に見切りをつけてSRLへ転職した方。青山学院大学で有機化学を教えていたことのある人でした。この人を合弁解消後の社長にしたかった。適任でしたが、話をしに行く1週間前にお辞めになった。近藤社長へは根回しして了解もらってました。メディサーチの常務だったOさんががっかりしてました。治験の会社の社長にはできたら博士の学位を持っている人が望ましいのです。製薬メーカーは学位を持っている人が多いのです。わたしは経済学修士ですから分野違いです。(笑))

 K.Kはシステム部門の副本部長なって、仕事を思いっきりやれたようでした。
 K.Yは課題だった検体保管・管理システムをつくってくれました。マイナス80度での保管ですから、十数台ある冷凍庫の何段目の棚のどのラックに保管されているかがわからなければ、必要な検体を必要なときにスムースに取り出せません。必要な検体を取り出すときに、ラックや専用スピッツのバーコードが読めるかどうかが大きな課題でした。霜がついているのですが霜をとるのに温度を上げるわけにはいかないのです。こそげ落とせば、印刷してあるバーコードが読めなくな可能性があったので、印刷のインクと耐寒性と摩擦によるカスレの確認テストが必要でした。ちゃんとやってくれていました。いい仕事をしてくれました。心のつかえがとれました。K.Yは後に部長になって仕事の責任が重くなりました。そこへ相性の悪い上司がSRLから赴任してきて、ストレスで辞職してます。会社を辞めて派遣社員の仕事をしてから、仕事で習い覚えたデータベースソフトACCESSが使えるので、正社員にしてもらえたそうです。何が役に立つのかわかりません。まじめに仕事して、しっかりスキルを磨いた人はなんとかなります。好い顔していました。
 頼りになる仕事仲間に囲まれていたことを再認識して、幸せな気分です。 

 やめたあと、彼ら/彼女たちのことが気にはなっていました。その後の消息が分かってホッとしたのが八分、やはりそうなったかというのが二分でした。だから悲しいことも聞きました。よいことばかりではありません。

 四人ともいい仕事してくれました。いろいろあって3人は別の会社へ移って働き、その内の一人は独立起業して少し暇を持て余している様子。「ebisuさんいてくれたら俺たち会社辞めていないよな」と二人が顔を見合わせて笑ってました。申し訳なかった。でも、わたしは3年以上同じ部署にいたことがないのです。大きな問題が持ち上がるとが「ご指名」がかかります。学術開発本部にいたときも、I神本部長は平で異動したのにすぐに課長への昇格申請してくれて開発課長よりも上の扱い、次長待遇してくれました。開発課長のF波さん、人の好い人でした。
 学術開発本部へ異動したころに購買在庫管理システムと原価計算システムの更新時期が来ていたので、Y副社長がわたしを経理部へ戻すようにI神さんへ要求、しかしI神さんは突っぱねました。そういうところは辣腕で肝の据わった人でした。学術開発本部で開発部と学術情報部両方の部門のマネジメントができる人材は当時はわたししかいなかったからです。海外製薬メーカーからのラボ見学が時々あるので、対応できる人がいませんでした。沖縄米軍から出生前診断検査導入要望や慶応大学産婦人科医から出生前診断検査MoM値の日本人基準値をつくる産学共同研究も、プロジェクトマネジャーを担えるのはわたししかいなかったのです。
 望購買課でラボの検査機器の購入や共同開発の担当を2年半してましたが、前職の産業用エレクトロニクス輸入商社で欧米50社の先端理化学機器の勉強を6年間したからです。毎月のように世界最先端の企業が開発した新商品の説明会が開催されていました。理系の営業マンと技術部門の社員への説明ですが、全部出席して聴いてました。月に一度東北大学助教授が計測器の測定原理の勉強会の講師として来ていたので、それも欠かさず聴いてました。だから「門前の小僧習わぬ経を読む」の類で、自然に理化学機器のさまざまな情報を吸収してました。説明に来るのは大抵は開発担当エンジニアでしたから、英語で説明してくれるからとてもいい勉強会でしたね。ディテクターとコンピュータ処理部とインターフェイスに分けられます。ディテクトする周波数や前処理が異なるだけで、三つの部分の構成は一緒です。臨床検査機器は機械の制御とインターフェイスがとっても遅れていました。片方向のインターフェイスしかなかった。マイクロ波計測器では双方向のインターフェイス、GPIBが標準装備されていたので、ひどく遅れて見えました。機器の購入担当をやっていたので、ラボの全部署に出入りして、スキルの高い検査技師のみなさんや業者のエンジニアのみなさんと個人的なパイプがたくさんできてしまいました。新商品開発でいいアイデアがあれば、関連する機器の購入のための予算措置も請け合えました。数千万円なら予算外でも処理できました。検査試薬のコストカット交渉を製薬メーカーと3年やって、50億円ほど利益を出してますから、副社長と経理担当役員のI本さんは何でも大目に見てくれるのです。購買課へ行く前は全社予算の管理責任者だったからです。わたしが認めた案件は、検査管理部も経理担当役員もフリーパスです。彼等にはラボの仕事も検査機器についても知識はほとんどゼロでしたので、わたしはラボと本社の橋渡し役が期待されていたのです。ラボへ異動した当初は「本社の人間はラボのことをわかっていない」とよく聞きました。わたしは本社管理部門のど真ん中からラボへ異動してましたがその私に云うんです。特殊検査課のY課長が「本社から生意気な奴が来たと思っていた、ごめんなさいね、わたしより一つ歳上だったのね」と数か月後にごめんなさいしてました。(笑) その後はいいお友達でした。ラボ勤務の後は関係会社管理部で、子会社と関係会社の経営分析、依頼のあった他の臨床検査会社の経営分析と経営再建のサポート、買収交渉などを担当し1年半後に資本提携した東北のCC社に経営企画室長で役員出向してます。創業社長の藤田さんの特命案件でしたが、3年の約束のはずが、14か月目に経営改善案とまとめて出向会社の社長の了解をもらい、藤田さんに報告に行くと、中止の指示がありました。15か月で本社へ戻されました。黒字化案があまりにもドラステックで、SRL子会社の中でナンバーワンになる損益シミュレーションが報告書に添付してありました。都合が悪かったのです。ご褒美のつもりだったのか、それともSRL本社で溜まっている案件を片付けてもらいたかったのか、経理部管理会計課長のほかに兼務として社長室と購買部が辞令に書かれていました。3部署兼務なんて異常でした。購買部の仕事はシステムの更新でした。一週間で外部設計をして資料は担当者に渡しました。汎用大型機をやめてクライアントサーバーシステムにしてます。機器とシステム開発でせいぜい4000万円と見積もっていましたが、今回確認したら、1億円以上支払ったようです。経営情報系のシステムがわからないものが担当すると、すぐに開発費用は3倍になってしまいます。これはがっかりのひとつでした。システム部には経営情報系システムのエキスパートは一人も育っていませんでした。業務に関するさまざまな専門知識実務経験が必要な分野なのです。83~86年にかけて作った財務会計及び支払いシステム、固定資産および投資管理システム、購買在庫管理システム、原価計算システム、販売会計システム開発は外部のベンダーであるNCDさんが担当してくれてましたので、システム部は基幹業務系だけが守備範囲でした。それも84年当時国内最大級の富士通製の汎用大型機を導入して大トラブル、3か月間ほど手作業となり全社から応援部隊を出して乗り切りました。とても経営情報系統合システム開発ができるようなスキルがなかったのです。子会社の東京ラボには使えなかったDECのミニコン2台がそのまま放置されていました。1台3000万円でした。84年に転職して固定資産を全部チェックしたので知っていました。システム部とは名ばかり、優秀なSEが育っていませんでした。
 わたしが担当したのは、財務会計システムと買掛金支払いシステム、そして固定資産管理及び投資管理システムでした。購買在庫管理システムが動かないと買掛金支払いシステムの本稼働ができないので、購買在庫管理システムの外部設計も半分手伝ってあげてます。データに整合性がとれないと困りますから。開発を初めて8か月で本稼働してます。じつにスムースに。システム間インターフェイスは3日間ほどで仕様書と帳票設計をしてます。原価計算理論や購買業務を知らなければ、インターフェイス仕様書は書けないのですから。他にやれる人がいませんでした。

 合弁解消して社名変更したメディサーチに役員のまま残っていても、問題が持ち上がって別の仕事を担当することになったでしょう。そういう会社でしたから、彼等と一緒には仕事を続けられないと思ってました。どの部門でも部長職や役員がやれ、戦略立案とその実行ができる便利な人材でした。仕事が愉しいだけのアホウだったのですよ。

 K.Kは2008年に退職したと言ってました。他の企業のシステム部門でしばらく働き、兼業で不動産投資事業を起業、いまは2年前からそちら一本でやっている様子。
 まだ、あの会社で仕事している経営情報系システム屋のKさん、そのまま無事定年を迎えてほしいと願っています。

 ところで、心房細動の仲間が増えました。一日身体が揺れるほど細動が起きても死なないそうです。電気ショックで止めたと。アブレーション手術を2回やったつわものです。尿管結石の仲間もいました。腎臓に問題を抱えているそうです。胆嚢摘出の仲間もいましたが、彼は胃を提出していませんので、午前中調子が悪いなんてことはないそうです。そりゃそうだ。25年ぶりにあった人が3人、とっても懐かしかった。集まってくれてどうもありがとう。
 彼等は一回り以上若いので、身体に留意してそれぞれの仕事を続けてほしいと思います。

<捕捉:CROとは>

CROは「Contract Research Organization」の略称で、日本語では「開発業務受託機関」と訳される組織です。 医薬品の開発では、安全性や効能を確認する臨床試験の最終段階で人を対象とする治験が行われます。CROの主な業務は治験をサポートすることで、具体的には次のような業務があります。

  • 〇臨床試験の準備
  • 〇治験中のデータ収集
  • 〇治験薬投薬後の経過観察
  • 〇収集したデータの分析
  • 〇厚生労働省への承認申請書類の作成 など

 製薬会社から依頼を受けCROは数多くの業務を代行しますが、CROが担当する業務の範囲は、新薬開発の案件ごとに少しずつ異なります。



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