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#4480 胸いたく:田塚源太郎、ふるさと国後島への想い Feb. 7, 2021 [22-1 田塚源太郎遺稿集]

 遺稿集の最後に、ふるさと国後島への想いが凝縮された詩が載っている。今日2月7日は北方領土の日である。

  <胸いたく>
 
 浪飛沫(なみしぶき)かたちをなして
 凍りたるその岩肌に
 すがりつつゐたる群鴨(むらがも)
 朝開けてうごきはじめぬ
 時をりは翔ちて舞ひにき
 あるものは汐にひそみて
 かそかなる時をぞもたす
 なほゆきて岬にたてば
 すがすがと海のかがよふ
 かがよひて満たる汐の
 そのはての雪の島山
 爺々岳も泊の山も
 そのすがたととのふばかり
 ふもとなる村さへ今に
 目に顕(た)ちていざなふごとし
 ふるさとよ雪に島山
 胸いたく迫り来るがに
 対(むか)ひ佇(た)つものをいざなふ
 異国(とつぐに)に領占められし
 還へらざるわがふるさとと
 思ふさへ今にくやしも
 いくたびか冬は来向ふ
 還へざる島山見つつ
 ものなべて失ひつつも
 なお生きて島よ還へれと
 待ちがたく待ちがたくゐる
 人ありしと思ふにくやし
 思ふさえ今にくやしくも

 語彙の豊かさに圧倒され、還ることのない故郷への想いの大きさに、聴くこちらの胸もつぶれる。先生が詩を口ずさむ声が聞こえてきそうだ。

 2月7日は北方領土の日。
 オヤジも母もよく働いて育ててくれた。ビリヤードと居酒屋「酒悦」、オヤジが肉の職人でもあったので、後に焼き肉屋に変わった。ずいぶん流行った店だった。
 わたしは小学校低学年のころから根室高校卒業までずっとビリヤード店を手伝っていた。商人の子が家業を手伝うのはあたりまえ、昆布漁師の子が昆布干しを手伝うのとかわらない。昆布干しの手伝いは6-10月の4か月間ほどだが、ビリヤード店の店番は毎日2-3時間、土日は4-5時間くらい。混んでいなければビリヤードのトレーニングができる、たまにお客さんの相手をする。いろいろな職業の大人がお客様として来てくれるので、自然に人間観察の目が肥えてくる。ゲームには人柄が出るものなのだ。だからそっちの方(人間観察)もとっても楽しかった。
 田塚先生も常連のお客様のひとりだった。つばのある帽子をかぶってくるのは田塚先生のみ、おしゃれな人だった。オヤジのことを「五郎さん」と名前で呼ぶのは田塚先生だけ。戦時中はどちらも北支を転戦している。歯科医の先生というよりもオヤジからみれば気分としては「軍医殿」だったのだろう。落下傘部隊のオヤジと2歳年上の軍医殿は気が合っていたように感じた。先生と話しているときはオヤジはけっして言葉を崩さない、上官に接するような態度だった、敬意を払っていたのだと思う。

 母の生まれた択捉島蘂取村に眠る婆様の墓参りを一度してみたかった、それだけが心残りである。母とは違ってあそこを故郷の地とは思わぬが、墓参への想いは滓となってこころの底にわだかまっている。

<注釈>
 「時をりは翔ちて舞ひにき」、なんと読めばいいのかと白川静『字統を引いてみたが、「ショウ」「とぶ」「かける」があるだけ。「ときおりはとびたちてまいにき」と読んだが、「ときおりは (とび)たちてまいにき」と読むと五七で音数がよい。「たちて」としてしまうと「発ちて」となって鴨が羽を広げて飛び上がるさまがイメージできぬ。ここまで考えると「翔ちて舞ひにき」と書くのがベストだということがわかる。詩は絵でもあるのだ。

 絵の才能は長女が受け継いだ。詩歌の才能は妹の方が受け継いだだろうか。おとなしい性格の二女の恵子さんは小中高と同じクラスだったので気安い。いま気がついたが、小中高と同じクラスは彼女だけ。お姉さんは1年先輩で美術部長だった。清楚な深窓のご令嬢という感じの人。生徒会会計に指名されたのは1年生の終わりだったか2年の初めだったか定かではない。とにかく2年生の時に私は1年先輩の生徒会会計であるNさんからクラブ全部の予算折衝を任された。「おんちゃ、おまえがやれ」、任せてくれたのだ。副会長のFさん(室蘭税務署長で退職)と一緒に面白がって色々任せてくれた。クラブの部長と副部長を生徒会室に呼び、予算の査定と査定額がそうなった理由を言い渡すのだ。査定案も自分でつくる。限られた予算だから、どこかを増やせばその分を他のクラブから削らなければならない。公平にやるのがあたりまえだった。予算折衝で副部長の富山(同級生)と一緒に来たのが、口をきいた最初であった。生徒会会計をやったので、500億円の売上規模の会社でも予算編成や予算管理が簡単だった。エッセンシャルな部分は規模がどんなに大きくなろうとも同じなのだ。規模が大きくなればその会社の商品知識やいろいろな事業部門やラボ部門などについて相当突っ込んだ知識と会社のコンピュータシステムについての知識が必要になるだけ。
 もう10年ほども前になるが絵を習っている塾生が一人いて、展覧会をやるのでとお誘いがあったので、会場になっている市立図書館に出かけた。その折に2度目のお話をさせてもらった。青が基調の大判の油絵を2枚描いていたと思う。塾生の絵の先生だったのである。もちろん、それなりに年齢は感じたが、基本的な印象は50年前と変わらなかった。20歳ころに新宿紀伊国屋書店付近の歩道で見かけたことがある。絵の具がついたジーンズ姿だったのを覚えている。ああ、やっているなと思った。半袖の季節だった。同級生の妹の方なら気安く声を掛けられたが、お姉さんにはそのときは声をかけそびれた。


 「胸いたく迫り来るがに」の「がに」は「程度・状態」を表す接続助詞。意味は「胸がいたくなるほど迫って来る」。

 「異国(とつぐに)に領占められし」は「領」に「リョウ」という音と「くび・えり・おさめる・うける」の訓があるから、「とつぐににくびしめられし」が素直な読みだろう。このように読むとちゃんと五音のあとに七音になっている。


 「ものなべて失ひつつも なお生きて島よ還へれと 待ちがたく待ちがたくゐる 人ありしと思ふにくやし 思ふさえ今にくやしくも」
 若い衆をたくさん使っていた蟹漁の大きな網元だったが、その漁場も大きな家も船もすべて失い、それでもなお生きて島よ還れと想っているのは田塚先生というよりも、漁場を仕切っていたお母さんの方ではなかったか。「待ちがたく待ちがたく待ちがたくゐる人ありし」だ から、ご自分のことではない、母親のことだ。そういう母親を見て、故郷を取り戻してやれない息子は「思ふにくやし思ふさへいまにくやしくも」、お母さんが亡くなられた後になっても想いだすだにくやしいのだ。

 短歌というのは言葉に思いがギュッと凝縮されているんだなあ。  



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#4469 (3) 復員③ 『遺稿集 田塚源太郎』より Jan, 30, 2021 [22-1 田塚源太郎遺稿集]

 北支河南省からの復員の途次にしたためた歌。

うかららの兵より汚れ来るなり埠頭に陽溜りを避けて寄り添う
 
煙草売る女ふ頭を縫うごとしひそかに日本語に兵をねぎらふ

鍋釜を背負ふからと病兵と埠頭に共にいたはりてゐき


 「うかららの兵」とは、敗残・引揚の旅を共にする兵たちを指すのだろう。風呂にも入れない洗濯もできぬ引き上げの旅、陽射しが当たり暖かくなれば臭うのだ、だから、陽だまりを避けて寄り添う。

 目立たぬように中国人の女が日本兵に近寄り、煙草を売るふりをして、ひそかに日本兵たちにねぎらいの言葉を掛ける。その様子を「女埠頭を縫うごとし」と詠んだ。この女性がどのような経緯(いきさつ)があってのことかは不明である。そこにこの歌の余韻を感じる。あえて書かなかったのか、敗残の兵をいたわる中国人の女性がいたという事実だけを伝えたかったのか。

 三つめは軍医としてのまなざしで兵たちを見ている。重い鍋釜を代わりに背負って傷病兵をいたわり、いたわられる。軍医に敬意を払いねぎらいの言葉をかける兵がいることがわかる。

 田塚先生の残された歌を繰り返し口ずさむことで、引き上げ時の情景と心情のひとかけらが、じんわりと伝わってくる。

<余談:オヤジと戦時中のこぼれ話>
 小学生のときから高校卒業までビリヤード店の店番を手伝っていた。田塚先生は常連客のお一人であったが、戦争の話や引き上げ時のお話をされるのを一度も聞いた記憶がない。
 択捉島蘂取村の出身であるお袋の兄が満州の荒野で、突然侵攻してきたソ連軍と戦って死んでいる。
 オヤジも朝鮮と支那へ従軍している。その時に落下傘部隊へ応募して転属したから、引き揚げの経験はない。旭川の連隊で徴集されて、新兵として人並みの苦労はしている。仲のよかった船水という人がいた。いいところのお坊ちゃんで、外語大卒で戦争が終わったらサイパンで貿易業をしたいと言っていたそうだ。そのサイパンで死んでいる。よくお菓子を送ってきたので、オヤジに声をかけて便所へ行って二人で食べて、余ったものを古兵に。笑ってよく話してくれた。古兵は新兵をよく殴ったそうだ。理由もなしに理不尽に殴る話は、市倉宏祐先生の『特攻の記録 縁路面に座って』にも出てくる。
 オヤジはボクシングをやっていたから殴られ方を知っていた。身体を引くと余計に何度も殴られるから、歯を食いしばって拳が当たる瞬間に顔を突き出すんだそうだ。素手だから殴る方も痛い。いいとこの坊ちゃんは気弱で身体が逃げるから余計にひどく殴られてかわいそうだったと言っていた。
 ずいぶんと新兵いじめをした古兵がいたんだそうだ。イジメられた中には、「戦場へ行ったら、後ろ弾であいつをやってやる」とオヤジに言い切って戦場へ行った兵もいたそうだ。戦場の混乱のどさくさに紛れてなら仕返しできる。遺骨の代わりに石ころをつめて送った兵もいたそうだ。遺族はそれを受け取って、何があったのかわかっただろう。そういう理不尽さが現在の軍隊である自衛隊には受け継がれていないことを祈る。いや、しっかり受け継がれてしまっているのではないか。
 落下傘部隊の特殊訓練の話は面白いのがいくつかあるので、おいおい綴ってみたい。



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#4466(2)復員② 『遺稿集 田塚源太郎』より Jan. 24, 2021 [22-1 田塚源太郎遺稿集]

 軍医として四年間中国大陸を転戦、敗残の身となり祖国へ帰るときに詠まれた歌である。
 田塚先生は国後島の出身で、根室商業を昭和11年3月卒業、昭和16年3月に日本歯科医学専門学校を卒業され、翌年から北支河南省と河北省へ軍医として従軍している。昭和54年4月に逝去。
 花咲町1丁目で歯科医院を開いていたので、団塊世代の人たちは覚えているでしょう。

河中の荒き風音不気味にてのろくのろく黄河の鉄橋渡る 

黄河越え沙岸に月のしみるとも鄭州の灯の見ゆることなし 


この河を渡りし夜の戦(たたかひ)を想ひいづるともただに寒かりき

 鄭州は上海の北西850㎞ほど、北京の南西600㎞ほどのところに位置している。ここで無蓋車に乗って黄河を渡った。中流域だからそれほど川幅は広くはないだろうがどれほどだったろうか?河口域は数十㎞の川幅がある。根室には大きな川がないが、川筋は風が強いものだ。
 沙岸は地名かと思ったら、砂地の川岸のことをいうらしい。川岸を月の光が照らしている、だが、鄭州の灯が見えないということは、戦争で荒れていまだ夜の明かりがついていない状態のようだ。この景色を見て祖国はどういう状態なのだろうという思いが胸に去来したのだろうか?
 敗残の身となり、黄河を渡る、ただただ寒い。飢えを抱え着のみ着のままの姿の兵士たちが寒さにおののいている。

<用語解説:河北と河南そして北支>
 河北省と河南省はどもに華北地方であり、黄河中流域と言っていいだろう。上海は華南地方の大都市である。その二つの地方の間は華中と称せられている。中国3番目の大河(総延長1078km、流域面積174,000km^2、北海道の総面積83,424km^2の2倍である)である淮河(わいが)以北を華北、以南を華南と称した。淮河が華北と華南の境界線である。
 華北は米作ができないので小麦文化圏である。そこには北京や内モンゴル自治区が含まれている。
 「北支」とは日本がその支配地域に冠した名称で「北支那」、つまり華北地方を指す。

<支那と中国とどちらがまともな呼称か?>
 支那である。中国という呼称は戦後GHQの支配下にあった外務省が出した通達によって普及した呼称です。歴史的にもそんな呼称はありません。支那が正しい。
 Chinaはドイツ語では「ヒーナ」、オランダ語では「シーナ」、英語では「チャイナ」である。「中国=the Central Land」の表記をしている国はない。日本が例外だということがわかる。「中国」という呼称は中華思想そのものだ。世界の中つ国、つまり世界の中心という意味なのだ。
Chinaを中国と呼ぶ重大な過ち


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#4457 (1) 復員①:『遺稿集・田塚源太郎』より Jan. 15, 2021  [22-1 田塚源太郎遺稿集]


昭和21
この歳、五月、北支那河南省より復員
傷病患者の輸送指揮官のひとりとして
着のみ着のままの復員であった。
故郷の千島が占領されていることも根室が
空爆を受けて灰燼に帰してゐることも
全く識らずに所持品といふ所持品は
すべて病兵達に与へて‥‥‥‥私は
半ば栄養失調、そして、記憶が
断絶した様子状態で今にしても、どうもその当時の
記憶はさだかではない。

     <復員> 


 戦争(たたかひ)に勝ちたるものも敗れしものも
  共に汚く食をむさぼる 
   


 乗り得たる復員列車無蓋車に感慨もなく
  饅頭(まんとう)をむさぼりて喰らふ 
  


 夜来れば停車を襲ふ暴徒の群れに
  病みて装備なき歩哨を立たす


 敗戦で中国から引き上げる時の情景がありありと浮かぶ。日本の土を踏むまで敗戦から9か月がかかっている。
 敵であった者も味方も、垢にまみれ食べるものが乏しくて栄養失調の者も少なくない、傷病兵には必要な薬もない。屋根のついていない貨物車に乗って無事に日本へ帰りつけるかどうかもわからない。武装解除されて武器を持たない部隊が暴徒に襲われたらどうしようもない。
 軍医として四年間支那を転戦したあげく、輸送指揮官として傷病兵を武器もないまま歩哨に立たせなければならなかった苦渋がこの歌に滲んでいる。

 五七調にはなっているが短歌の形式ではない。最初の句は五七七七七の35語、第2句は五七五七五八の37文字、第3句は五七七八七の34文字となっている。三十一文字の短歌の形式ではない。歌のことはよくわからないが、おいおい学んでいくつもりだ。

(田塚先生とのかかわりは弊ブログ#4456に書いた。この遺稿集の印刷は根室商業の同期で親友だった北構保男氏の経営する根室印刷でなされている。遺稿集がそのまま埋もれるのを惜しんで、奥様と娘さん二人と遺稿の整理・編集をされたのだと思う。広く読んでもらいたいと切に願う。)

#4456 田塚源太郎先生と根室の大人たち Jan. 15, 2021 



 戦争の記録として、大学のゼミの指導教授だった市倉宏祐先生(哲学)の『特攻の記録 縁路面に座って』がある。編集者の伊吹克己教授の好意で全文掲載してある。哲学者が書き残した特攻の記録である。市倉先生は特攻兵として順番待ちをしているうちに土浦の基地で終戦を迎えている。
 西浜町会長の柏原栄先生(元花咲小学校・光洋中学校・根室高校教諭)は、土浦航空隊での実技試験を経て合格し、海軍飛行予科練習生として入隊する直前に終戦を迎えた。終戦があと1か月延びて土浦航空隊へ行っていたら、指導教官は市倉先生だったかもしれない。わたしは柏原先生に中2のときに「歴史」を教えてもらった。初めて本気で勉強する気になったから、柏原先生には学恩がある。高校生になってから経済学の専門書や哲学書を読み漁ることになったのは、柏原先生の歴史の授業が契機になったと自覚している。
 市倉先生は土浦航空隊で指導訓練した少年兵たちのことを、「選抜された優秀な少年兵ばかりだった、生きていたなら...」と悔やまれていた。
 お二人の先生、柏原先生と市倉先生、が接点をもちあと数か月戦争が長引いていたら、二人とも太平洋上に散華し、いまのわたしはおそらくない。

1. 特攻の記録 縁路面に座って(20)



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#4456 田塚源太郎先生と根室の大人たち Jan. 15, 2021 [22-1 田塚源太郎遺稿集]

 田塚源太郎先生は家業のビリヤード店の常連のお客様のひとりだった。小学1年生のころからビリヤード台にあがって球を撞いていたわたしを面白がって、遊んでくれたことがあった。冬は鍔のある帽子をかぶり、コートを着てお店へ入ってくるオシャレな人だった。身長は5尺8寸(175㎝)ほど、長身である。お店のお客さんで映画に出てくるようなハットをかぶってくる人は田塚先生ただお一人、他の人が真似しても似合わないだろう。都会的な雰囲気を感じさせる大人だった。豪傑で繊細な感受性のもち主、矛盾したものを内にもっていらしたように思う。


 考古学者で文学博士、㈱根室印刷の創業者であった北構保男先生とは根室商業の同期である。田塚先生は国後島から2か月遅れて6月に根室商業へ入学してきたという。それ以来、二人は親友である。北構先生は豪放碧落な性格で職業や社会的地位で人を分け隔てしない、庶民的なインテリであった。
 根室印刷は梅ヶ枝町にあった自宅兼店舗から15mほどのご近所さん、田塚先生のご自宅兼歯科医院も歩いて3分ほどの距離。落下傘部隊のオヤジは彼らよりも2歳年下で。オヤジから見たら「軍医殿」、中国の四年間の転戦に敬意を払っていたように思える。オヤジも落下傘部隊の前は朝鮮や中国へ通信兵として配属されたから、田塚先生とは話があっただろう。いくつかエピソードがあるが、その内に書くことになる。オヤジは「田塚先生」と読んでいたが、田塚先生はオヤジのことを「五郎さん」と名前で話しかけていた。オヤジを名前で呼んでいた人は田塚先生お一人だけ。
 田塚先生が歌人であったことは、遺稿集で知った。昭和55年ころビリヤード店に置いてあった遺稿集を見ていたのだが、それっきり手に取ることはなかったが、たまたま本棚にあるのを数日前に見つけ、読みふけり、そしてもったいないと思った。
 根室の他の人たちにも知ってもらいたい。市立図書館にあると思うが、限定500部しか刷られていない、貴重な歌集である。

 もう一人、歯科医の福井先生を挙げておかねばならない。福井先生は昭和の元年か2年ころのお生まれではないだろうか。ビリヤード店の常連客のお一人だった。物腰のやわらかい品のよい人だった。いま、息子さんが同じ場所で歯科医をされている。わたしの知っている福井先生は2代目だった。初代の先生は太鼓腹だったそうで、赤ん坊の時にお腹の上にのっけてよく遊んでくれたとお袋。だから3代のお付き合いになる。2代目の福井先生は根室新聞に連載小説を載せていた。時代小説だった。北構先生との雑談のときに福井先生の話が出たことがある、時代小説ばかりでなく現代小説も連載していたとおっしゃった。

 北構先生は昨年亡くなられた。福井先生は平成3年の秋に亡くなられた。田塚先生は昭和54年だから58歳で早世された。凄い人たちが周りにいたことはわたしの人生に少なからぬ影響を与えているかもしれぬ。


 前置きはこれくらいにして、次回から3つくらいずつ田塚先生が日々の暮らしの折々に詠んだ短歌を紹介したい。
  娘さんは一人はわたしと小学校・中学校・高校1年生まで同じクラスだった。お姉さんは1学年先輩、根室高校の美術部長だった。わたしが2年生の時に生徒会会計で予算折衝で話したことがある。もう十年ほど前になるが、美術を習っている塾生がいたので、展覧会を見に行ったときにお会いして話をしたのが2度目だった。


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弊ブログ#4321に、根室商業を卒業した年に東京東横デパート屋上で北構さんと田塚先生とたぶん高坂さんだろうと思うが三人で撮った写真が残っていたので掲載してある。こちらへコピーで来るので貼り付けておきます。真ん中が田塚先生です。右側が北構先生(文学博士考古学者)、左が高坂さん。田塚先生、どう見ても高校を卒業したばかりの人には見えないでしょう。冬にビリヤードの店番をしていると、こういういでたちで入ってきました。帽子とコートを帽子掛けとコート掛けにかける。それから球を撞いてました。独特の雰囲気のある人でしたね。


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