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#5120 公理を変えて資本論を書き直す② Nov. 28, 2023 [A2. マルクスと数学]

 マルクス『資本論』を演繹的な体系構成として眺めたら、投下労働量によって商品価値が決まるという規定が公理に当たります。命題として労働価値説を検討した結果、市場を前提とすると商品価値は投下労働量では決まらないことがわかります。どんなに労働が投下されてもニーズのない商品の価値はゼロだからです。たった一つの反例で労働価値説は公理としては偽であることがわかります。
 マルクスが『資本論第1巻』を書いた1867年とは時代が違います。いまではデジタル商品が巷にあふれています。これは再生産に労働を要しません。ネットで買い手がダウンロードするだけでいいのです。労働価値説が商品価値を説明する理論としてはとっくに意味をなさないことはお分かりいただけるでしょう。
 マルクスが『資本論第一巻』で対象にしている商品は、資本家的生産様式で生産された工場生産品に限定されています。職人が生産する商品や芸術家の作品は、マルクスの「商品」の中には入ってこないのです。ユニークネス(独自性)や希少性も商品価値の主要な決定要因の一つです。マルクスがどうしてこんな隘路に踏み込んでしまったのかは、A.スミスの『諸国民の富』にその原因を見出すことができます。分業ですよ。それに囚われました。ドイツはマイスター制度があるにもかかわらず、職人の作る商品をその対象から外さざるを得ませんでした。これらのことは別稿でもう少し詳細に採りあげたほうがよさそうです。そこでは伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮によって建築技術が伝承されてきたことも扱うことになるでしょう。
 ところで、労働価値説が公理として偽であるということは、剰余価値学説に基づいている「資本家の搾取」という説明も偽であるということです。ここで大問題が持ち上がるのです。
 賃金をアップしたかったら、労働運動の在り方が根本から見直されなければならないことになります。労働価値説ではない理論で「賃上げ」に取り組む必要があります。
 ロシアや中国の社会主義経済や共産主義経済がなぜ破綻したのか、中国が政治体制は共産主義独裁国家でありながら、経済体制としてはなぜ資本主義化してしまったのかも、おいおい理解できるでしょう。

 では何が商品の価値を決めているのか、それは単一のものではありません。生産性、品質、社員を含めた従業員のスキルの高さ、希少性、独自性、ニーズ、マネジメント、ビジネス倫理などさまざまなものが商品の価値の決定要因であることを、実例を通してくどいほど説明します。すでに2つ紹介しました。


<事例3SMS
もう一つ例を出します。SRLで関係会社管理部にいた(1992年から)1年半くらいの間の仕事を紹介します。生産性アップ事例です。
 三井物産から買い取った臨床検査子会社が千葉にありました。SMS(エスアールエル・メディカル・システムズ)という会社名だったと思いますが、ここでは千葉ラボと呼んでおきます。東北の臨床検査会社CC社の開発したラボシステムを導入していましたが、生産性が低いので、赤字解消のためにラボシステムを新規開発することに決めました。親会社側でわたしが担当しています。関係会社管理部にはシステム開発スキルと経営分析の専門技能がある人は他にはいませんでしたので、わたしにお鉢が回ってきました。SMSの社員の中に2人、SEではありませんが、仕事に熱心で優秀な人がいました。外部設計をしたりプログラミングはできませんが、RDBマシンのSQL文が書けましたから、彼らが使えるマシンを導入する必要がありました。現場の仕事をよく知っている社員で能力が高い人がいれば、マネジメント次第で赤字企業は簡単に黒字転換できます。彼らが二人がいたのでとてもやりやすかった。一人は、この仕事の後で取締役になっています。正当な人事評価でした。
 8㎝のファイルで10冊、自分の発信文書ファイルを昨年の引っ越しの際に捨てたので、確認ができませんので、記憶をたどって書きます。企業小説を何本か書くつもりで資料をとってありました。(笑)
 開発はIBMAS400とリレーショナル・データベースマシン(RDB)の2台で計画が練られていました。生産性アップによって赤字解消が狙いだったので、仕様を損益シミュレーションに反映して確認しました。生産性が2~3倍にアップできるような仕様のまとめ方をしてます。4月の健診時に業務量が激増しますが、処理能力が低いために受注抑制していました。半年ほど千葉に週2くらいの頻度で通い詰めて、開発支援し本稼働に立ち会いました。4月は前年度の2倍の業務量をこなしています。見事な赤字脱出でした。親会社での稟議案件だったので、損益シミュレーションを添付しています。SRLで新規システム導入でその結果についての損益シミュレーション付きの稟議書は初事例でした。実際にはそれを少し上回った実績が出ています。


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 関連があるので少し脱線します。
 この翌年1993年、旧システムを開発したCC社の経営分析を依頼されて、1億円の出資交渉をまとめて、SRL創業社長藤田さんの指示でCC社経営企画室担当取締役として出向することになります。東北で染色体画像解析装置を導入した唯一の企業でしたから、1989年には知っていました。業績の悪いお蕎麦屋さんが売上を増やすためにメニューを増やす。寿司をメニューに加えるのようなものです。染色体画像解析分野はSRLが市場の80%を握っていたので、売上をもっていけませんから、機器の減価償却費が出ないので経営状況は悪化します。はなから無理なのです。同じころに帝人の臨床検査子会社も染色体画像解析装置を導入してました。そのときに、時間が経てば累積赤字が膨らんで債務超過になるだろうから、そうなる前にこれら両社を買収しようと思いました。従業員が路頭に迷います。
 それから8年が経って、帝人との治験合弁会社の経営を担当することで、帝人臨床検査子会社を買収する仕事をわたしが担当することになるとは思っていませんでした。創業社長の藤田さん(医師)から近藤さん(医師)に社長が交替して、近藤さんの特命案件で、帝人との治験合弁会社の経営を任されることになりました。3年のお約束で四課題(3年で、①期限通りのスタート、②黒字化、③合弁解消と帝人持ち株の引き取り、④帝人臨床検査子会社の買収)クリアしてます。事業の柱を治験検査から利益率の高いデータ管理分野へシフトして、赤字解消しました。マネジメントが商品の価値にも企業の価値にも大きな影響をもつものだということがわかります。
 転籍する社員に、それ以前よりも高い年収を保障するためには、赤字解消だけではいけません。SRLを超える高収益企業にする必要がありました。みんな喜ぶだろうとそれが愉しみで仕事してました。
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仕事のやり方をかえ、コンピュータシステムを変えたら、生産性が大幅にアップして赤字会社は黒字になります。同時に商品の品質も向上して、商品価値が上がると同時に製品1単位の製造コストが下がります。
 経営構造を変革し財務安定性を増していけば、社員の給料やボーナスも大幅にアップできます。子会社が生産性を劇的にアップできたら、親会社と同等以上の給与を支給できます。親会社よりも優秀な人材採用が容易になります。世の中にそういう子会社がニョキニョキ出てきたら、楽しいじゃありませんか。

「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」
 自分たちの努力で給料やボーナスがアップすればうれしいものです。家も買えるし、自分のアイデアを仕事で実現し、喜んで働けるようになります。業務改善して、業績が向上し、ボーナスが増えることで仕事そのものが愉しくなります。世の中にそういう企業が増えたらいいなあ、そう思って仕事してました。 

 業績の悪い会社、赤字すれすれの企業は賃上げなんてできません。ボーナスも年間3か月ほどでしょう。それもかなり無理しています。わたしが在籍していた16年間、SRLのボーナスは年間8~9.5か月でした。
 労働組合は賃上げしたかったら品質向上や生産性アップ、クラフトマンシップ、そしてマネジメントに注目すべきです。モノの道理に従って当たり前のことを当たり前にやればいいだけなのです。

 あと2つ事例を付け加えます。

<余談:古典派経済学、ケインズ、新古典派経済学との比較>
 労働価値説に基づく経済学を「古典派経済学」と呼んでいます。労働価値説に基づかないそれ以降の経済学は古典派と対置して新古典派経済学と呼ばれており、その中にはさまざまな学説が含まれています。ケインズ経済学『雇用・利子および貨幣の一般理論』はそれらのどちらにも属していません。枠組みとしてはマクロ経済学に属します。
 経済学説の中に微分の考え方が入っているかどうかでも、 、ルクスにはそういう考えがありませんでした。微分の意味が理解できなかったからです。『数学手稿』を見ればそのことがわかります。

 ところでわたしは、ビジネス倫理を問題にしていますが、経済学者で最初に倫理や道徳を問題にしたのはA.スミス『道徳感情論』(1759年)でした。それ以降、現れていませんね。この本については院生の時に思い出があります。鈴木信雄さんがこの本を薦めてくれました。水田訳の本を購入しましたが、悪訳で日本語になっていません、数十ページ我慢して読みまれた人がいました。高校の国語の先生だったかな。鈴木さんは原書で読んでいたようです。わたしのマルクス研究がどこかで『道徳感情の理論』とつながってくることを予感していたのかもしれません。つながってしまっています。日本は江戸時代からビジネス倫理の先進国でした。いや、世界で唯一のビジネス倫理実戦の国と言い換えていいでしょう。

 わたしは、職人仕事を中心に経済学を考えてみていますが、それは日本人がやる仕事はすべからく職人仕事になってしまうからです。どうしてそうなるのかは、仕事に関する文化や伝統と深いかかわりがあります。何度か弊ブログで採りあげています。職人仕事に嘘やごまかしはいけません。その時その時持ち合わせている伎倆で渾身の力で仕事するのが理想です。
 職人仕事は品質と深い関係があります。ホワイトカラーの事務仕事ですら職人仕事になるのが日本の不思議なところですね。わたしは、予算編成や予算管理、経営分析、実務設計、システム開発、経営改革などの職人でした。管理部門の仕事は、大工の棟梁みたいなところがあるのをずっと意識していました。小学校の低学年の頃は、カンナを研いでそりや犬小屋を作るのが愉しみで、将来は大工になろうと思っていました。そういう手仕事に憧れがあったんですね。
 職人仕事には半人前の仕事、一人前の仕事、名工の仕事に大きく三分類できます。どこまで極めても限(キリ)がないのが職人仕事です。修行とセンスを必要としています。そういうところから経済学を眺め、新しい経済社会の創造をしてみたい。いろんな経済学があっていいのです。
 わたしは個別企業のマネジメントという視点から経済を眺めようと思います。そうした視点からは経済学と経営学は一体のものということができます。いままでの経済学とは違う視点を獲得したと言えるでしょう。
 より大切なことは、この視点から別な経済社会を具体的にデザインできるということでしょうね。大胆な試みになりそうですが、書いていくつもりです。

*#5113 公理を変えて『資本論』を演繹体系として書き直すことは可能か? Nov. 13,2023

**#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023





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#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023 [A2. マルクスと数学]


<一般論>
 背理法でマルクス『資本論』の土台をなす労働価値説が偽であることが判明しましたが、しかし、何が公理としてふさわしいのかについてはいまだ明らかではありません。

 買い手のニーズが商品の価格を決めるので、「売り手の商品生産能力と買い手のニーズが市場で商品の価値を決める」と仮定しましょう。
 このことは商品の価値は絶対的なものではない、相対的なものであるということを示唆しています。それで、矛盾なく経済学体系が記述できればいいわけです。公理ではないものを公理に措定したら、どこかで矛盾が生じますから。
 マルクスは公理を析出するまでを「下向」、公理を出発点として論理的な体系を抽象的なものからより具体的なものへと展開していくことを「上向」と呼んでいます。「単純なものからより複雑なものへ」と言い換えても差し支えありません。

 マルクスの上向への旅をより明示的なものにするために、経済学を演繹体系として記述するために次のような「関係概念」を導入します。「関係概念」とは一つの「場」です。 単純なものからより複雑なものへ、ということが見て取れるでしょう。

①公理の措定⊂②価値表現の関係(物々交換)⊂③交換関係(貨幣):④(貨幣の資本への転化)⊂⑤資本(生産、販売、マネジメント)の運動と単純な市場関係⊂⑥国内市場と国際市場関係 

 包含記号「⊂」を「⇒」に置き換えてもいいでしょう。矢印が上向への旅を示しています。単純なものからより複雑で具体的なものが展開されていきます。公理の措定が体系の出発点です。そこから「場」に応じた概念規定がなされていきます。
 マルクス『資本論』と大きく違うのは、投下労働価値説によらないので、①と②と③が違ってきます。④はそのままでいい。⑤と⑥がまるで異なっています。マルクスの見ていた勃興期の資本主義とは時代が違うから当然でしょう。そしてマルクスの時代には特殊数学であった複式簿記は、今や世界中の企業で財産状態の変動と経営活動の成果を記録するための技術でとして広く使われています。わたしたちはそういう武器を手にしています。

 ところで、資本は生産設備やコンピュータシステムなどのソフトウェアと人件費と原材料にその形態を変えます。
 組織という視点から企業を見ると、製造部門と販売部門とマネジメント部門(本社機能)をもたなければなりません。
 製造部門で生産性や品質や製造原価が決まります。販売部門は商品の販売戦略立案とその実行、そして売上債権管理がその主要な機能です。本社機能が担うのは、長期戦略目標設定や長期戦略、それらに基づく単年度の投資や損益予算編成です。

 保有財産の変動と経営活動の成果の記録は複式簿記によってなされます。
 全部門のコストが積み上げられて売上原価となります。利益があるかないかは市場価格次第です。利益は売上原価と市場価格の差によって決まります。当たり前ですね。
「売上-売上原価=税引き前利益」
(実際には、営業外損益と特別損益が加味されますが、議論を簡単にするために、ここでは無視します。)

 製造部門で決まるのは製造原価と生産性と品質です。
 自動車を考えてみると、耐用年数が10年の自動車と30年の自動車では品質が異なります。10年後の故障率が50%の自動車と0.5%の自動車でも品質が違います。これも市場で価格に差が出る要因です。品質の良し悪しによって商品価値に差が出るということです。

 生産性が標準の2倍なら、人件費も半分ですからその半分の資金投下で生産性を2倍にアップできたら、製品の製造原価の1台当たりコストは低下します。給与を1.5倍にしても利益は増えます。逆に生産性が標準の50%なら、製造コストが高すぎて損失が出ます。損失を出し続けたら企業は経営破綻ですから、それを防ぐために給与水準も下がります。給与水準が下がればいい人材は集まりにくいですから、その点からもジリ貧になります。高い生産性を誇る企業は、そこで働く人たちへの給料もたくさん出せます。給与を2倍にしたかったら、品質を挙げつつ生産性を2倍にする具体的なアイデアを出して、自分たちで実行したほうがいい。
 労働組合運動なんて剰余価値の搾取だなんてことを信じて、たかが数%の賃上げに窮々としているだけです。赤字すれすれの民間企業が賃上げできないのはモノの道理です。労働価値説に基づいた「搾取」、剰余価値理論が間違っているのですから。「搾取」なんてことをやっているのはブラック企業だけですよ

 生産性や品質も商品の価値を決める要因ですが、製造原価は製造部門のマネジメントや職人のスキルでも決定されます
 製品1単位当たりの製造原価も品質も職人のスキルも市場価格に影響します。つまり、投下労働量なんかでは市場価格は決らないということです。もっと複雑なシステムで相対的に決定されるのが商品の価値です
 マルクスやアダム・スミスの投下労働価値説はわかりやすいですが、現実離れしてます。現実は複雑です。
 だから、剰余価値の搾取という単純素朴な妄想型経済理論では現実の経済運営ができなかったのです。投下労働量が商品の価値を決めるなんて理屈にしたがったら、生産性の改善やマネジメントの巧拙なんて視点が出てくるはずもなく、生産性は低いまま、マネジメントも下手くそなまま、低賃金で経済がマヒしてしまいます。共産主義や社会主義は企業のマネジメントという視点を欠いた妄想でした
(中国はコマツが、同情心から無償で、モノの作り方の心構えや品質改善のやり方を手取り足取り中国企業に教えましたが、そのやり方が中国全土の製造業に普及しました。)

 経済の基礎は個別企業です。個別企業で再産される商品の価値は、企業のマネジメントとそこで働く職人たちのスキルや生産設備、コンピュータシステムなどに依存しています

「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」はマネジメント次第ということになります。この四方よしには他のビジネス倫理も絡んできます。
 ●浮利を追わない
 ●信用を第一とする
 どれもこれも、日本の老舗企業が数百年間守り続けてきたビジネス倫理です。新しい経済社会はこうしたビジネス倫理と高度なマネジメントの両輪がそろって実現できます。
 グローバリズムは終焉させましょう。地域単位で自律的な経済運営ができるようにします。ビジネス倫理と広範な産業が揃っている日本がお手本になります。鎖国をイメージしていいのです。鎖国は管理貿易です。植民地が消滅します。グローバリズムは富が偏在する主要な原因です。 


具体例を五つ挙げてみます。
<具体例-その1:紳士服製造卸の小企業>
 ある事情があって大学四年次に就職活動をしておらず、四月になってから、職を探し、日経新聞に載っていた税理士事務所を訪ねました。そうしたら、取引先の紳士服の製造卸の企業を紹介されたのです。企業規模は小さく、社員数は5人でした。スキルの高い裁断師は2回りほど年長、社長もほぼ同じで40代半ばでした。営業マンが2名、営業見習いが一人、そして経理担当として雇われた私の5名でした。別会社で衣料品小売り店の支店が一つありました。
 この会社ではMen’s Wearとドイツの紳士服のファッション誌を定期購読しており、バックナンバーが揃っていたので、暇つぶしに眺めていました。ドイツのファッションの方が性に合いました、ワンシーズン遅れで日本で流行ることがわかりました。
 生地選びから生産企画がスタートします。生地見本を見てどの生地で何を作るか決めていきますので、数社の生地問屋の営業がしょっちゅう出入りしています。夏に生地の厚い冬のシーズンの生地を見るのですが、ちょっとうざい。(笑) 5㎝くらいの正方形の生地見本を見て、次のシーズンに使う記事を選びます。社長のMさんがあるとき、「自分が着るならどれがいい?」とわたしに聞きます。自分が着たいと思う生地を10点ほど選んでみました。裁断師さんに、その中から2点自分で買いたいので若向Y6号で作ってほしいとお願いしました。できあがってきて、営業マンがスーツの見本を車に積んで、各地の紳士服小売店に回って予約を取ってきます。私が選んだ若向きのものが飛ぶように売れました。それで、次のシーズンからは、社長がわたしに若向きの反物の選択を全部任せてくれました。150mの巻物です。たくさん選んだ中で、モスグリーンのスリーピースがとっても気に入ってました。できあがってみたらとっても品(ひん)がよいのです。淡い色のブルーの綿の夏用のスーツもお気に入りでしたが、これ来ているときはラーメンやお蕎麦は食べられません。汁が跳ねたら染みになりますから。

 見本ができあがって、営業マンが車に積んで客先を回ります。すると売れ筋の若向きと一緒に、年配物のスーツや替え上着も一緒に仕入れてくれます。それで、数年間溜まっていた不良在庫数千万円分が全部吐けてしまいました。社長はその大部分を処分するつもりでしたから、喜んでました。
 私のセンスがよかったわけではありませんよ、団塊世代の大卒が就職期に突入した時代だったので、わたしのノーマルな感覚での生産企画がヒットしただけのことです。でも、世間の基準から見たら少し派手目の企画だったでしょう。

 さてここからが経済学の問題です買い手がつかない不良在庫は投下労働量の大小にかかわらず商品価値としてはゼロですところが、若向きの売れ筋のラインが充実している製造卸からは、一緒に年配向きの不良在庫も買ってくれます生産企画と製品の品質と販売の仕方が商品の価値を高くすることがわかります。商品の価値は製造原価では決まっていません。販売の仕方でも変わります。商品価値の決定に関与する変数は無限にあるということです。主要なものをピックアップして俎板(まないた)に載せるのが本稿の狙いです
 父親が就職する息子に背広を買ってやるついでに自分のものも購入するというシーンが浮かんできます。商品の価値は市場で買い手が決めていました市場と言ってもそれは売り手と買い手の相対で構成されています。それの総和が市場という概念です。市場一般が存在しているわけではないのです。それは抽象的な概念にすぎません。
 金や穀物(大豆、小麦、米、トウモロコシなど)や原油などはそれぞれ商品市場が存在します。品質によってそれぞれ格付けがなされます。通貨(外国為替取引所)や証券(東京証券取引所、NY証券取引所など)もそれぞれの市場があります。商品取引所で世界最古のものは堂島の米先物取引です、堂島米会所が取引所でした。これは、旱魃や水害に対するリスクヘッジのためのものでした。

 売れ筋のものは値引きしないで売れますから、会社全体の利益率も上がってしまいます。買い手が買いたくなるような商品を企画し、ほどほどの品質の縫製工場と長い取引をしていたら、品質が安定しますので、売上は増えます。
 裁断師のUさんが、新規取引の縫製工場からできあがってきた製品の品質をチェックしてました。まずいところがあると技術指導もしてました。裁断師さんから紳士服の仕立てに関してさまざまなことを教えてもらいました。イタリア製の型紙を、生地を重ねた上に置きます。できるだけ無駄のないように置いて、裁断します。これも生産性に影響します。中間プレスも重要です。これが甘いと来ているうちに型ずれします。生産企画も縫製工場への技術指導もマネジメントです。マネジメントが慥(たしか)かなら、商品価値がゼロだった不良在庫も、普通の価格で取引されるんです
(メモ:1970年代後半に紳士服の製造拠点が韓国へ移っていきました。人件費コストが安いからです。日本企業は縫製工場の品質改善のためにずいぶん技術指導をしましたが、てこずっていました。韓国では日本とは違って、職人は身分の低い人たちの仕事で、社会的評価も低いのです。だから心を込めて仕事するなんて発想がありません。仕上がりがよければいいというのか韓国の起業家や職人の考え方でした。だから、中間プレスなんていい加減、着てみたら違いが数か月でわかりました。縫製ビジネスは単なる金儲けの手段と考えているようにしか見えませんでした。いまでも、大手安売りマーカーは韓国や中国の縫製工場へ外注しています。「抜き襟」になる製品が溢れています。着づらいったらありゃしません。少し高くても日本の縫製工場でつくられたものを購入したいですね。イージーオーダー品は日本の縫製工場でしょう。)

 大学院進学のため11月末に辞職願を出して、引継ぎもあり1月末でやめました。
 10年あったら、事業規模50億円くらいの企業になっていたでしょう。

 一つ学んだことがあります。社長は入社した当時で四十代半ばでした。終戦後作れば作っただけ売れた時代を生き抜いてきた人です。それが四十代半ばになって、通用しなくなりました。どうすればいいのかわからないのです。そこへ生産企画のできる経理マンが飛び込んだのです。
 面白い話があります。芋を洗うサルがいるそうです。若いサルはすぐに真似て芋を海水で洗いますが、人間でいうと四十代半ばの年齢になると真似ができないそうです、つまり、四十代後半になると新しい文化が受容できないということ。個人差はありますが、この企業の社長がそうであったと思います。むずかしいものですね、成功体験が強いほどそれにこだわって抜けられないケースがあります。だから、わたしは転職するたびに業種を変えました。同じ轍を踏まぬように、転職の都度業種を変えるというルールはワクチンのようなものでした。常に変化の中に身を置くことで、固定観念に縛られないようにしてました。
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 少し脱線します...
<<転職の遍歴>>
 紳士服の製造卸(2年10か月)⇒産業用エレクトロニクスの輸入商社(5年5か月)⇒最大手の臨床検査企業SRL(15年8か月)⇒療養型病床の病院(1年6か月)⇒外食産業(上場準備作業:1年8か月)⇒古里へ戻り私塾を20年間営む⇒今は色がありません、無色透明(笑)

 一番長かったSRL(在籍期間1984年2月~1999年9月末)では「社内転職」を繰り返してました。
 経理部(予算編成・管理&経営統合システム開発担当)⇒総務部購買課(機器・設備購入担当&システム担当、検査試薬価格交渉担当)⇒学術開発本部(課長職:海外からの視察(ラボ見学)担当&開発部でメーカーとの検査試薬共同開発&慶応大学産婦人科との出生前診断検MoM値の日本標準値制定のための産学合同プロジェクトマネジャー担当)⇒関係会社管理部(子会社・関係会社の経営分析及び臨床検査会社買収と資本提携交渉担当)⇒CC社取締役経営企画室長出向⇒経理部管理会計課長・社長室兼務・購買部購買課兼務⇒SRL東京ラボ経理部長職で出向⇒帝人との治験合弁会社経営(近藤社長の特命案件担当)

 大きい企業は、「社内転職」という手があるので退屈しませんね。16年間で8部署、それぞれ1.5年から3年間くらいが多かったのです。一番短かったのが、2度目の本社経理部管理会計課長職でした。半年ぐらいだったかな。購買在庫管理システムが更新時期に来ていましたが、担当できる者がいないので、1週間くらいでクライアント・サーバーシステムで、サーバーを使ったコンパクトなシステム仕様書を書いて、購買課へ出向していたシステム担当へ渡しました。旧システムと同じく、富士通の汎用大型機を使うつもりで話が進んでいたので、全部ご破算になったでしょう。ハードウェアは2000~3000万円で済みますから。実務設計と外部設計が1週間でできるというのは1年間かけての開発に比べると、開発コストが1/3以下で済むということです。完璧な実務設計と外部設計書があれば、試行錯誤はないので、内部設計のやり直しやプログラミングの手直しが激減します。ものによっては1/10以下になります。実務設計と外部設計に3人の人間を1年間使ったら、スキルの高い人材を投入しますから3000万円くらいかかってしまいます。
(対比のために、例を挙げておきます。SRLの原価計算システムは3人が担当していて、2年かかっています、監査法人からの応援は300万円/月支払っていました。設計もプログラミングも外注でした。1.5億円はかかっています。
 2000年に外食産業の企業で上場準備要件を満たす原価計算システムの設計をしました。社内の関連システムを調べて、インターフェイスを明らかにして、実務設計をして外部設計書を書くのに1週間を要しています。それをNCDさんにわたしてプログラミングに1か月の仕事でしたから、600万円で請け負ってもらいました。スキルの差がコストの差になります。システムデザイン部分の生産性が10倍以上になり、仕様の変更ありませんので、プログラミン後の工数も減ります。外部設計書はプログラミング仕様書レベルで書きますので、開発期間が短縮されます。1か月後にプログラミングをし終わって納品してくれました。担当してくれたSEはSRLで経営統合システムのメンテナンスを10年ほど責任者として担当してくれていたU田さんでした。とっても腕の良いSEになっていました。うれしかった。)

 購買在庫管理システムの外部設計をしてから1年半くらい後で、立川本社でパーティがありましたが、システム部長のS田さん、わたしを見つけると、「あの時はたいへん失礼しました、ebisuさんのこと何も知らなかったものですから」と挨拶されました。システム部から購買部へ出向していた数名が、少し無礼な態度で接していたことを知ったのかな、わたしはちっとも気にしてませんでしたが。日本標準臨床検査項目コードの大手六社検討会議を臨床病理学会の検査項目コード委員長の自治医大櫻林郁之助教授を招聘して産学協同プロジェクトに転換したのはシステム開発部の栗原さんとわたしの二人の仕事でした。「臨床診断システムの開発と事業化案(1986年)」を書いて、創業社長の藤田さんに200億円の事業化予算を承認してもらいました。その中の10個のプロジェクトに、臨床検査項目コードの日本標準制定プロジェクトが含まれていました。臨床検査項目コードは世界標準コードにするつもりでした。4年の産学協同プロジェクトを経て1991年に4年間毎月持ち回りで開かれた産学協同プロジェクトの成果が日本臨床病理学会から発表されて、それ以来、日本中の病院やクリニックのシステムはこの標準臨床検査項目コードで動いています。臨床検査項目コードの管理事務局はいまでもSRLにあるでしょう。システム部門が学術部門と協力して担っているのでしょうね。1987年当時のシステム開発部長はSさんは大反対でした。システム開発課長の栗原さんに「部長が反対しているのに、一緒に日本標準臨床検査項目コード制定に動いて大丈夫なの?」と尋ねたことがありました。あいつはちっとも気にしてませんでした。人事評価よりも社会的に意義の大きい仕事を選ぶ人でした。日本標準コード制定に反対したシステム部長の後任が病理医のS田さんでしたから、おそらく誰かがそのあたりの事情を説明したのかもしれませんね。1989年には沖縄米軍からの依頼のあった出生前検査(トリプルマーカ検査)をシステム部が対応不可能だというので、学術開発本部で引き取り、上野君というC言語のプログラマーを半月借りて小さなシステムを作って問題を回避して、出生前診断検査を導入しています。そういうわけで、システム部のメンバーとはいくつか接点がありました。
 富士通のSEが旧システム通り、汎用大型機を使う提案書をすでに書き上げていたのだと思います。それを否定されたのですから、「素人が何を言う」というような態度でした。実務設計と外部設計書を専門家が見たら一目瞭然ですから、放っておきました。購買課長のOさんが適切に判断したはずです。彼が検査管理部時代にラボの機器開発で何度も一緒に仕事してますから、信頼関係が篤かったのです。
 システム部長のS田さんへわたしが購買課で機器担当をしていた時に病理部で仕事していました。S田さんは病理医でそのころの入社ですから、わたしが全社の予算管理をしていたことも、SEでもあって経営統合システム全体の開発をコントロールしていた事実も知りません。彼がSRLへ来る前、1984~1985年の2年間のことですから。社長の近藤さんも、そのあと1988年くらいの入社ですからご存じありません。だから、社長室も兼務していた時に1週間で購買在庫管理システムの外部設計書を書き上げて渡して、それに基づいて、新しい購買在庫管理システムができあがったなんて知る由もありません。通常は外部設計と実務設計に1年間はかかります。内部設計とプログラミングは「作業」に近い仕事です。
 わたしのバックグラウンドのほとんどを知らない社長の近藤さんが、暗礁に乗り上げた帝人との治験合弁会社立ち上げプロジェクトを担当させたのは理由がありました。打開できるのは社内でわたしだけだと、メンバーの一人が提案したのだそうです。その御当人のWさんから後で聞きました。それで、本社経理部から子会社へ出向していたわたしを1年半もしないうちにまた呼び戻したのです。そのときは迷惑でしたが、結局楽しい仕事になったのですから、感謝しています。
 子会社で首都圏のSRLグループのラボ再編という大きな仕事の真ん中ぐらいに来てましたので。広い土地の目当てがつきそうだったので、絵柄ができあがりそうなところで、SRLの近藤社長に了解をもらいに行くつもりでした。この計画がお釈迦になったおかげで、SRLのラボ移転は20年も遅れて2017年になりました。近藤さんと、もっとコミュニケーションを密にしておくべきでした。これはわたしが悪い。
 ですが、コミュニケーションを密にできない理由がありました。経理部管理会計課長と社長室、購買部を兼務したときに、人事上の我慢のならぬ問題が持ち上がって、この3つのポストを蹴っ飛ばしての出向でした。理由を近藤さんに告げると2人の責任問題になるので、話しませんでした。気がつかなければ後々大事になるけど、自分が火をつけるのは御免でした。職務上からは人事部長と社長の近藤さんが気がつかなけりゃいけないことでもありました。結局、その後3人辞めています。2人は優秀な経理マンでした。その内の一人はベンチャー企業へ転職して上場時には40歳くらいで取締役になっています。経理部には数人そういう人材がいました。

 ところで、経営統合システムは経理財務システム、買掛金支払いシステム、投資及び固定資産管理システム、購買在庫管理システム、原価計算システムから構成されています。システム間のインターフェイスはSRLに入社して2か月後の1984年3月末ころに、仕様書を書いて各開発チームに渡しています。前職で一人で輸入商社の経営統合システム開発をしていたので、各システムがどうなるかはわかっており、1週間で各システムとのインターフェイス仕様書を書きました。いまも、同じ仕様で何度も更新されたシステムが動いているのかもしれません。
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 ここでの結論...
 売上を拡大するのも、利益を大きくするのも、マネジメント次第です。不良在庫が宝の山に化けるのもマネジメント次第です。商品の価値と品質やマネジメントに密接な関係のあることはお分かりいただけるでしょう
 職人のスキルも大切です。日本ではあらゆる仕事が職人仕事になります。そういう伝統文化の上に企業活動が乗っかっています。


<具体例-その2:産業用エレクトロニクス輸入商社>
 8㎝のファイルで10冊ほどあった自分が作成した文書の資料は引っ越しの時に全部処分してしまったので、仮定で話を進めます。
 この会社の創業者はスタンフォード大学で学んだ人で、HP社の創業者であるヒューレットやパッカードと同期でした。戦時中真三井合同で人事関係の責任者でしたが、戦後の財閥解体で人員整理をして、それが終わると職を辞しました。たくさんの社員の首を切っておいて、自分が三井に残るつもりはなかったのです。人の不幸の上に自分の幸せを築くことを潔しとしない人だったのでしょう。創業者の魂というのは、その人と一緒に仕事した人達の中に脈々と生き続けているものです。だから、会社の沿革や創業者の思想やビジネス倫理を知るということは大切なことなのです。わたしは、わたしの採用に関わってくれた経理・総務担当取締役の中村さんから創業社長がどんな人だったか、お酒を飲みながら聞いています。
 三井合同の少なからぬ社員に解雇を言い渡し、職を辞した後に、ヒューレットとパッカードが日本総代理店をやらないかオファーがあり、HP社の日本総代理店として起業しています。横河電機がHP社と合弁会社(YHP)を作ることとなり、社員の大半を合弁企業へ移しました。そのあと徐々に総代理店の数を欧米50社まで増やしました。2代目社長は慶応大学大学院経済学研究科修了で、1978年には四十代半ばでした。やはり生物的な限界にぶつかっていました。創業者の子飼いの社員だった人たちが役員になっていましたが、多少のギクシャクはありました。2代目の関周さんはお父さんの子飼いの社員とのコミュニケーションに苦労したでしょうね。大学同期の友人思いの人柄の良い社長でした。

 為替相場が360円/ドルの固定から変動相場制になって、輸入総代理店のビジネスが新しい波に襲われた時期でもありました。他に採用が決まっていましたが、断るために訪れたのですが、社長室で30分ほど話し込んでいるうちに気が変わりました。同じ経済学の専門家同士ですから二代目の関周さんとはウマが合いました。関さんわたしの専攻が経済学で、マルクス『資本論』『経済学批判要綱』の研究者だとわかったうえで採用したのです。珠算と簿記一級のところが異色だと判断したようです。まったく別のスキルですから。
(採用後、すぐに社運を賭けたプロジェクトを6つを公表しました。そのうちの5つを一人で背負わせてくれました。ありがたかった。大博打です、関周さん、経営者としていい度胸していました。もっとも、失敗しても元の木阿弥なだけですから、それ以上悪くなるということはありません。他に任せられる社員や役員がいませんでした。その点でも、私自身がラッキーでした。)

 社員数150人、平均年収が450万円、資本金9000万円、売上高30億円、売上高総利益率27%の中小企業があるとします。この前提では売上総利益8.1億円、人件費6.75億円ですから、物件費を人件費の半額とすると3.375億円で、2.025億円の赤字です。
 生産性が30%アップしたとしたら、同じ社員数で売上高は39億円にアップします。売上高総利益率(SMR)が同じだとすると、売上総利益は10.53億円になります。売上高総利益が2.43億円アップするので、4千万円ほど利益が出ます。
 そこで、今度はSMR27から40%へアップしたとします。すると売上総利益は「39×0.415.6億円」となり、一人当たり人件費を550万円にアップしても8.25億円ですから、経常利益が4億円になります。売上高経常利益率は「4/3910.2%」、立派な高収益企業に化けました。

 この事例は、マネジメント、とくにコンピュータシステムの開発と導入が、企業収益や商品価値(商品価格)や社員の年収にいかに重大な影響があるかを述べるための材料です。 

 これは1980年代前半の産業用エレクトロニクスの専門輸入商社の例です。円安になると為替差損を被り、赤字へ転落、ボーナスは年間2か月分しか出ません。社員は住宅購入のためのローンを組むのも躊躇していました。増えた利益の1/3は社員へボーナスとして還元することを約束してもらいました。社員の士気を高めるためです。

 長期戦略策定のための長期経営計画委員会、資金投資委員会、為替変動から業績を切り離すための為替対策委員会、業績をモニターし分析するための収益見通し分析委員会、業務効率を上げ、精度を大幅に改善するための電算化推進委員会、それと利益重点営業委員会の6つの委員会を40代半ばのオーナー社長が提案し、実施に移しました。最初にあげた2つの委員会の委員長は社長です。あとはそれぞれ担当役員が割り振られました。
 この企業は欧米50社の総代理店で、世界最先端の産業用エレクトロニクスを輸入していたので、受注生産品が多く、納期が長いものでは1年あります。その間に為替相場が変動するので、為替対策は受注時の為替レートと仕入時の為替レート、決済時の為替レートが異なりますので、これらを連動させて、為替予約を実施することで差損の発生をゼロにしようと考えました。利益重点委員会は東京営業所長の遠藤さんの担当でした。彼が円定価表を導入したいと相談を持ち込んできました。コンピュータで円定価表を作成すれば簡単です。円定価表に使う為替レートと仕入レートそして決済レートを連動させ、為替予約を組み合わせることで為替変動から業績を切り離すことに成功しました。これで為替変動によるSMRの乱高下をなくし、つねに40%のSMRが稼げるようになりました。
 こんなこともありました、同じ取引先の場所の異なる2工場に提出する見積書の金額に差があり、クレームが入っていました。
 どういうことか説明します。たとえば、日本電気府中工場と横浜工場はそれぞれ東京営業所と横浜営業所の担当です。それまでは営業マンがドル仕入価格に自分が設定した為替レートを掛けて、輸入諸掛りを計算して、営業事務の女性が見積書作成をしていました。担当が違えば、使う為替レートも違いますし、乗せる利益も違いますから、見積金額に差が出てしまっていました。
 東京営業所長は大口取引先でのこのようなトラブルを解消するためにも円定価表作成システムが必要でした。それと営業マンが見積書作成のために事務所にいて、本来の営業活動である客先訪問に支障が出ていました。一人当たり売上高をアップするために、定価表を作成して見積書作成業務を簡略化し、営業所の女子事務員だけでできるようにしたかったのです。
 円定価表作成システムの稼働で営業マン一人当たりの売上が大幅にアップしました。そして商品群別に粗利益率を設定して、会社全体のSMRをコントロール可能になりました。それがSMR27%から40%へのアップです。3年計画で42%までもっていく予定でした。世界最先端の機器が多いので、競合品が少なく安売りする必要がない製品ラインが多かったから可能でした。

 為替対策も円定価レート、仕入レート、決済レートの連動システムを作ったので、為替予約で仕入れ価格の2%の為替利益が恒常的に出るようになりました。年間5000万円弱です。

 収益性、生産性、回転率、財務安定性、成長性の5群の経営指標をさらに5項目に分割して、経営モデルを創っていました。各指標には標準偏差を設定して、経営総合偏差値評価ができるようにしました。あれは中途入社の半年後くらいのことです。1978年ですから、国産のパソコンはまだ発売されていません。汎用大型機と汎用小型機、オフコンの時代でした。科学技術計算用のプログラマブル計算機HP97HP67(数値計算用小型コンピュータ)を使ってモデルを創りプログラミングして毎月計算していました。四半期ごとに経営分析レポートを収益見通し分析委員会で説明していました。
 この経営分析モデルは長期経営計画と単年度予算に連動していました。たとえば、総合偏差値を45から50へ、50から60へアップするとしたら、どの指標をどの程度改善すればいいのかシミュレーションが可能です。実際に予定損益計算書や予定貸借対照表、予定資金運用表を作成して、実績値と突合していました。こんなシステムを1980年頃から運用していた企業は国内にはほとんどないと思います。当時はパソコンがまだオモチャの段階で、業務で使える代物ではなかったのです。HP社のプログラマブルキャリュキュレータとオフコンと汎用小型機を使ってシステムを作っていました。
 ここで言いたいのは、個別企業の売上原価はマネジメントやコンピュータシステムの使い方、実務設計の仕方次第で大きく動くということ。品質管理や仕事のやり方の改善、コンピュータシステム導入などを含めてマネジメントと定義すると、製品1単位当たりのコストはマネジメントの巧拙で大きく格差が生ずるということです
 社員の年収もマネジメントがよければ、100万円アップはすぐにもできます。5年あれば、2倍の年収だって保証できます。同時にその企業の利益も増やせます。社員の年収を増やすことは企業の収益構造を改革するための必須の手段です
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<<内部留保と無借金経営の重要性>>
 内部留保が年間の売上金額相当分溜まれば、3年くらい売上が半減しても社員を解雇する必要はないし、経営破綻することもありません。高収益企業は内部留保も大きいのです。無借金経営に切り換えるというのが長期計画委員会の目標のひとつでした。強固な財務安定性の確立は社員のためにも不可欠なのです。
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 ところで、これら6つの委員会は産業用エレクトロニクス専門輸入商社である関商事に9月に中途入社して、1週間後に社長が社内へアナウンスしたプロジェクトです。メンバーは役員と部長。6つの委員会で課長は為替担当の業務課長Y田さん、輸入業務担当の業務次長O木さん、東京営業所長で営業課長の遠藤さんの3名だけでした。入社したばかりのわたしが5つの委員会の実務を一人で背負う事になっていました。入社当初は経理・総務担当取締役の中村さんの直属のスタッフで、ルーチンワークは予算編成と予算管理でした。それと5つのプロジェクトを担当していました。プロジェクトの担当はそのままで、1年後に管理部へ異動、売上債権管理に問題が生じていたので、経理課長からひき継いだ女子社員が困っているので、一緒に整理、消込をしてます。売上債権管理は営業部門と密に連絡を取り、それぞれの担当に消込をさせないといけないことがわかりました。経理課で売上債権管理業務は無理です。営業部門に近いところに債権管理部門を置かなければいけません。
 この部署では総代理店契約書を自由に閲覧できました。社長の関さんが目を通しておけとOK出してくれたからです。そしてさらに2年後に経営統合システム開発のために電算室という組織を作り初代電算室係長ということになりました。部長は営業2部長の兼務。コンピュータシステムには縁のない人でしたから、一度も話に来ませんでしたね。仕事の指示も一切なしでした。システム開発進捗状況の報告は「電算化推進委員会」へ直接していました。営業担当役員の加藤常務が委員長でした。仕事はしやすかった。加藤さん、早稲田の理系学部出身ですから、収益構造を変革する狙いをもったシステム開発の仕事の内容を理解してくれていました。

 仕事はそれまで作ったいくつかのシステムを統合して三菱電機のオフコン2台で動かしていた独立システムを、実務デザインをし直して、汎用小型機で経営統合システム開発を行うことでした。仕事は面白かった。
 半年ぐらいで、開発体制についてオーナー社長と意見が食い違い19841月末で辞職しています。重大な約束違反があることがある課長から知らされました。それが引き金になっただけで、「ああ、そろそろここを去らなければならないのだな」とそんな気にさせることがもう一つ起きたのです。どちらもオーナー社長との信頼関係を破壊する出来事でした。30代半ばで若かったから許せませんでした。「職を辞せ」と天の声がしました。
 高収益企業へと変貌したこの企業は会社名を「セキテクノトロン」と変えて、のちに株式上場を果たしています。そして
2010年ごろに業績不振で消滅しました。わたしが職を辞す前年に3代目社長になる周さんの息子が東大へ合格してました。卒業後、入社してきてのでしょうが、役員たちとのコミュニケーションがむずかしかったのかもしれませんね。理系ではありませんでしたから。世界最先端の理化学機器や軍需品を取り扱っていました。毎月海外のメーカー50社の中から、エンジニアが来て、新製品の説明会が開催されます。それを5年間聞き続けて、いくつかの群に分かれるエレクトロ製品の知識が蓄積出来ました。計測器類はディテクターとデータ処理部とインターフェイスからできています。これは、SRLへ転職してから、八王子ラボの機器購入を担当したときに蓄えた専門知識が丸々役に立ちました。無駄にならないものですね。取扱商品にはSRL八王子ラボにもある質量分析器や液体シンチレーションカウンターもありました。臨床検査に使われていた検査機器類は、関商事が取り扱っていた機器類に比べると、ずいぶん遅れていました。とくにインターフェイスが。GPIBが標準装備でした。

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<余談-1:関商事からSRLへ、経営統合システム開発、
SRLの強点と弱点>
 関商事で開発中だった経営統合システムは日本では最先端のものでした。でも、中小企業でしたから、使っていたのは三菱電機のオフコン2台、1台はCOOLというダイレクトアドレッシングの12ケタの数値を使うオフコン専用のプログラミング言語でした。もう1台はPROGRESSⅡというRPGに似たコンパイラー言語でした。あたらしいシステムは日本電気の汎用小型機をつかうことに決定してありました。担当SEは日本電気情報サービスのT島さん。社長の関周さんが「ナンバーワンSEの担当」を条件に日本電気の汎用小型機での開発を決定していました。その決定自体は歓迎でした。最先端の開発だったので、この仕事に未練はありました。

 1月末で引継ぎを終えて退職し2月1日からSRLで働き始めました。予算編成と予算管理をルーチンワークに任されて、4月には上場準備のための経営統合システム開発を担当してました。その年の12月には新システムが本稼働していました。開発期間は8か月。臨床検査業界初の東証2部上場要件を満たすシステム開発でした。富士通製の国内最大規模の大型汎用コンピュータを使っての開発でした。産業用エレクトロニクス輸入商社でやりかけたままにした、経営統合システム開発を退職して2か月後に、規模を10倍以上にして担当することになったのですから、不思議です。やりたいと思った仕事はやるようになっているようです。
 三菱電機のコンピュータを使っていた時はオービックのS澤さんという腕の良いSEが担当してくれていました。優秀なSEでした。10年くらい後で開発担当役員になっていました。
 わたしはシステム開発技術の基本を彼から学びました。もちろん専門書はシステム開発に携わる前後の3年間で50冊くらいは読んでます。プログラミングも3言語使ってみました。外部設計書を作るのにプログラミングの知識がないと不便なのです。外部設計書がそのままプログラム仕様書になるレベルで記述していました。実務設計が愉しかった。それまでの実務を解体して、合理的なものに組み直して、システム化してます。
 SRLへ転職してからは仕事を前任者から引き継ぐと、半年程度でまるっきり変えてました。システム化できるものは実務設計して仕様書を書いて仕事そのものをなくしてしまいます。だから、時間に余裕ができて、異分野の専門書を読む時間がありましたから仕事の幅がひろがりました。開発費はいくらでも捻出可能でした。直接利益に貢献する仕事を提案して実行していたので。数十億円の範囲なら、自分が稼いだ利益でカバーできました。企業規模が大きくなると、貢献利益も巨額になります。スケールメリットです。自分が権限を持った時のために、売上を3倍にする現実的で具体的な長期戦略も立案していました。こういうことは愉しいのです。チャンスが来ればすぐに実行に移せます。
 SRLの強みは八王子ラボにありました。ルーチン検査部門の新規検査開発力や自動化力は群を抜いていました。1980年代終わりには、世界一でした。しかし本社部門には問題が多かったのです。ラボのことを知っている管理担当役員は皆無でした。営業も戦略なしです、ラボの検査部門が維持している高品質にもたれかかっていただけ。何もしなくても、大病院から取引したいと電話がかかってくるので、それに応じていたらいいだけ。1980年代はそういう状態でした。高品質であるが故に、営業マンが育たない。
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<余談-2:日産自動車の経営>
「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」という視点から眺めると、日産のカルロスゴーンの経営は、受け継いできた財産の切り売りと従業員の大量解雇というまことに下劣な経営再建でした。日本の伝統的なビジネス倫理を踏み外していました。経営能力がなければこういうやり方になるのでしょう。


 商品の価値は市場で決定されますが、生産性や品質改善が商品の価値を左右する具体的な事例をさらに三つ付け加える予定です。
 これらの事例で示されたことは、投下労働価値説に基づく剰余価値理論はまったくの誤りで、「剰余価値の搾取」というのも成り立たぬ妄想であるということです。なぜマルクスがこんな簡単なことを間違えたのか、それは彼がインテリで、民間企業で仕事をしたことのない人間だったからです。頭の中でしか経済を知らない、そこが間違いのもとでした。
 失敗したもう一つの原因は体系構成にヘーゲル弁証法を用いたことでした。ヘーゲル弁証法は、ユークリッド『原論』に学ばぬ哲学者が考えた徒花(あだばな)でした。デカルト『方法序説』がその流れをくむ正統派でした。ヒルベルトやブルバキもその系譜の人たちです。こうして並べてみると全部数学者です



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#5113 公理を変えて『資本論』を演繹体系として書き直すことは可能か? Nov. 13,2023 [A2. マルクスと数学]

 高校2年生の時から数えると58年間『資本論』研究に断続的に費やしてきたことになります。大学に残って研究を続けてもマルクスを超えることはおそらくできない、民間企業で仕事してマルクスの労働観が正しいかどうかも確かめたかったのです。
 小学生になる前から、家業のビリヤード場が遊び場で、中高と6年間は毎日店番を数時間していたので、さまざまな職種の常連客とコミュニケーションに恵まれました。歯科医の先生3人、青年実業家、タクシー会社の社長、ヤクザの親分、大工さん、印刷会社の熟練工、お菓子の商店主、喫茶店のマスター、ラーメン屋さん、漁業関係者、公務員、銀行員、信金職員、魚屋さん、肉屋さん、高校の先生、男子一生の仕事と言っていた珠算塾の先生、家具職人、...、さまざまな職種の常連客がいました。
 そこからみてもどうもマルクスの労働観(労働は苦役である)は日本人の仕事観とは違っている感じがしていたのです。その違和感の正体を突き止めるために、業種の異なる民間企業5社を選んで仕事して、じっくり日本の企業をマネジメントの視点から観察しました。仕事が面白くてドツボにはまってしまい28年があっという間に過ぎましたが、そのうち3社は株式上場を果たしています。その経験を通していくつか分かったことがあります。
 マルクスに欠けていたのは労働とマネジメントの経験智でした。大英図書館と頭の中で考えていただけで、21世紀の今から見るとまるで専門家の「資本家的生産様式」の分析とは思えないような内容です。晩年にマルクスは『資本論第1巻』の体系構成方法の誤りに気がついてしまったのです。その結果、『資本論第1巻』を出版してから死ぬまでの17年間、続巻を出せずに沈黙したまま亡くなりました。
 マルクスには複式簿記の知識がありませんでした。資本主義経済の企業では複式簿記と株式会社制度は会計帳簿の記帳法と企業形態のスタンダードですが、複式簿記の専門知識がないことも致命的でした、理由は後で(稿を改め)詳しく書きますが、そのせいで生産過程で商品の価値が決まると思い込んでしまいました。商品の価値が決まるのは市場です、生産過程で決まるのは製造コストにすぎないのです。複式簿記の知識と原価計算論の知識や経験があれば間違えるはずのないことです。
 1867年という『資本論第一巻』初版出版年を考えると、経済学者に複式簿記理論の知識や実務経験のないことも、株式会社でマネジメントの仕事をした経験のないことも、学問の体系構成法に関する数学の知識のないことも、数学が不得意なマルクスには仕方のないことだったのでしょう。
 世界初の株式会社は17世紀「オランダ東インド会社(Dutch East India Company)です。

 日本初の株式会社は『資本論第一巻初版』が出版された2年後、1869年の丸善でした。英国だって株式会社形態はまだ黎明期でした。個人経営や共同出資経営が支配的な企業形態だったからこそ、「資本家対労働者」という2項対立構図があたりまえだったのです。所有と経営が分離するのは株式会社形態が普及してからのことで、1910年以降のことです。だから資本論の失敗の半分以上は、時代のせいであり、マルクスの責任ではないとわたしは思います。早すぎたのです。

 21世紀のわたしたちには、発展段階の異なる資本主義を見ています。そして努力次第でマルクスが手にできなかった複式簿記という武器を容易に手に入れられます。しかし、いまでも経済学者で複式簿記理論を熟知している人は殆どいないのが実態でしょう。だから、マルクスがどこで何を間違えたのかが理解できないでいます。とはいえ、ユークリッド『原論』とデカルト『方法序説』「科学の方法四つの規則」を読まなかったのはマルクスの責任に帰していい。流行だったヘーゲル弁証法かぶれも同じです。視野狭窄に陥っていました。

 ところで、わたしのテーマは二つに分かれています。資本主義経済の分析と新しい経済社会のデザインです。公理を変えて資本主義経済を演繹的に記述するのはマルクスと同じ程度の分量の原稿を書かなければならないと漠然と思っていました。もうそんなことをしている時間的余裕はないので、新しい経済社会のデザインについて研究方向を絞ろうとしていました。

 昨日から、脳を分散モードにして、A4のコピー用紙に資本主義経済の分析をメモしながら、公理を変えて演繹的に記述がどの程度の手間でできるのか整理していました。今朝になって、あらかた整理がついたので、これから作業に入るつもりです。
 どうやら『資本論』全3巻の分量の1/10以下で、コンパクトに記述できそうです。資本主義経済分析の演繹的な記述はあたらしい経済社会デザインにつながります。

 研究ノートとして書き溜めたら、整理して体系的な叙述をしてみたいと思います。研究ノートが書き終われば、そういう作業が必要かどうかがわかるでしょう。
 

#5088『資本論』の論理と背理法:労働価値説の破綻を証明 Oct. 17, 2023


<余談:株式会社制度に言及した最初の経済学者>

 A. Smithは『諸国民の富』(1776年)の中で、合資会社の間接有限責任社員に言及しているようです。現在の会社法の株式会社に近いものと言えそう。
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●リスクの大きい直接無限社員ではなく、過度のリスクを背負わず、資産を増やせる可能性のある合資会社の間接有限責任社員になりたい人が多い
●そのような投資家が多数いるため、最終的に多額の資本を調達できること
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 『諸国民の富』で該当箇所を探してみましたが、見つけられませんでした。

#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023



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#5088『資本論』の論理と背理法:労働価値説の破綻を証明 Oct. 17, 2023 [A2. マルクスと数学]

<最終更新情報>10/23朝6:40 ヒルベルト『幾何学基礎論』と平行線公準に言及 11/12追記

 数学の証明法のひとつである「背理法」を知らない人はほとんどいないでしょう。
  中3で無理数が出てくるので、中学校の数学の先生の中には√2が無理数であることを背理法で証明して見せる人が少なからずいるはずですし、もちろん高校の数学授業では背理法による証明は「定番」ですから、皆さん記憶の隅っこにいまでも残っているのではないでしょうか。今回は、背理法を使ってマルクス『資本論』の労働価値説が成り立たないことを証明してみようと思います。そんなことを試みた経済学者はいません。マルクス経済学が根底から崩れます。

 まず背理法のおさらいです。
 √2が有理数であると仮定して矛盾に導くことで、√2が有理数(分数)ではないことを証明するのが背理法です。
① √2は分数で表せるので、m,nを互いに素とし、「√2=m/n」とする。⇒√2は分数で表せるという假定
 両辺を2乗して、「2=m^2/n^2」⇒式変形操作
② さらに、両辺をn^2倍すると、「2(n^2)=m^2」⇒反例
③ ところで、mとnは互いに素(互いに素というのは最大公約数が1ということ)ですから、2という約数をもつことは最初の前提に矛盾します。
④ したがって√2は分数では表せない数、無理数だということが証明されました。

 もう少し一般的な言い方をすると、次のように定義されます。
「結論の否定を仮定して矛盾を導き、そのことによって結論が正しいとする証明法」(松坂和夫著『数学読本1』岩波書店 p.10)
 背理法とはある假定(命題)を措定して、その命題を矛盾に導くことで反例を一つ示して、最初の假定が成り立たないことを証明することなのです。

 わたしはこれから、労働価値説が成り立たぬというころを論証するために、労働価値説が成り立つという命題を假定をして、矛盾を導き、労働価値説が成り立つという命題の假定が偽であるということを証明したいと思います。

 わたしがここで何をやろうとしているのかをあらかじめ説明しておきます。
「資本論第1巻の商品分析の端緒に措定された抽象的人間労働(労働価値概念)を正しいと仮定して市場論で矛盾に導くことで、労働価値説が成り立つという命題が「偽」であることを証明します。」
 これが証明されたら、公理が崩れるのでマルクス経済学、なかんづく『資本論』が学問として成り立たないということになります。公理が偽ならそれに基づいて演繹的に記述された経済学体系は成り立たないのです。
 わたしは資本論が演繹的な体系をもっていると前提して議論を進めています。そういうことを述べているマルクス経済学者は皆無ですので、もし反論があれば聞きたいと思います。資本論体系がどのようなものであるかについて、確たる見通しもなしに資本論成立(1867年)後、さまざまな議論が157年間なされてきたのです。いまある『資本論第二巻』と『資本論第三巻』はマルクス死後にエンゲルスが編集して出版したものです。

 資本論第1巻は、資本家的生産様式の社会の富は商品として現れるので、それゆえ我々は商品の分析から始めると、体系の端緒を措定しています。そして商品を概念的に定義します。抽象的人間労働が商品の価値として現れ具体的有用労働が使用価値として現れるということです。これが『資本論第1巻』でなされる商品のの最初の概念規定ですから、公理的な演繹体系では公準や公理にあたります。公準や公理が否定されたら、その学問体系が根底から崩れます。
(少し横道に分け入ります。平行線公準に対する疑義が持たれていました。それを外して公理を整理したのは19世紀の数学者ヒルベルトです。『幾何学基礎論』(1899年)の中でユークリッドの公理を整理しています。公理が普遍的なものですから、球面幾何学では成り立たない平行線公準を公理群から外しました。たとえば、ユークリッド幾何学で平行線公準を否定すると、球面幾何学が定義できます。対象とする幾何学が別のものになるので、普遍的ならざるものとして平行線公準を公理群から外したのは当然のことでした。
 なお、ヒルベルトはユークリッド『原論』では区別されていた公準と公理という概念の使い方をやめて「公理」と書いています。わたしもヒルベルトの用語に倣いたいと思います)

 話を元に戻しましょう。
 マルクスは資本論冒頭で、次のように述べています。
「商品は、まず第一に、外的対象である、その諸属性によって人間の何らかの種類の欲望を満足させるものである。」(カール・マルクス著『資本論第1巻第1分冊』47ページ、青木書店、1968年第Ⅱ刷)
 体系の公理はこれでよかったのです。商品の価値を規定するのは人間の欲望=ニーズであると体系の公理を規定したらよかった。なぜ、そうできなかったのか?
「ある一つのものの有用性は、そのものを使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮いているのではない。この有用性は、商品体の所属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財なのである。... 使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。」(同書48ページ)
 このあとから、スミスやリカードの労働価値説とヘーゲル弁証法の二元論に引っ張られていくように見えます。

「使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかに関わりなく、富の素材的な内容を表している。われわれが考察しようとする社会的形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっているー交換価値の。交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、砂割り割合として現れる。それは、時とところによって絶えず変動する関係である。」(同書49ページ)
 この部分は価値形態論へのプロローグです。そして、抽象的人間労働による商品の価値概念規定が現れます。これで、スミスやリカードの労働価値説とつながるのです。生産過程はそれで説明が可能です。しかし市場関係では労働価値説が破綻します。投下労働量で市場価値は決らない、消費者のニーズで決まるというのが反例です。投下労働量の大きさによらす、消費者のニーズで市場価値が決まります。たった一つの反例で、労働価値説が崩壊します。リカードは比較生産費説で、国際的な商品価格と、国内市場に置ける生産性と商品の価値の関係を分析しています。マルクスの研究がこの分野に及ぶのは『資本論第一巻』を出版したあとでした。かわいそうなマルクスは、後で労働価値説が市場関係では展開できないことに気がついてしまいました。

 端緒に措定した商品の最初の概念規定であり、価値と使用価値に次いで、<価値表現の関係>が分析されますが、そこでは抽象的人間労働に還元することで使用価値の異なる商品が等価であるとされます。次に展開されるのは<交換関係>である交換過程です。交換過程では商品の価値は交換価値として現れ、客観的なものになります。このように商品の価値は次第に豊かでより具体的なもの・現実的なものになっていきます
 交換価値は貨幣へ転化し、生産過程では貨幣が資本へ転化します
(本源的な貨幣は金だとマルクスが言明しています。これは「真」です。紙幣はその発行の裏付けがなくなればただの紙切れ、あるいは価値が著しく低下するリスクがありますが、本源的な貨幣である金にそうしたリスクがありません。いつでもどこでも貨幣として通用します。)
 貨幣が資本へ転化すると、そこから<生産関係>で資本の生産過程論が開始されます。生産過程論で不払労働として剰余価値が定義されます搾取理論は不払労働にあるという説明です。労働価値説が偽であれば、剰余価値も不払労働による搾取も偽となります資本論の公準が「真」であればいいのですが、それが「偽」なら、資本論という経済学体系が根底から崩れます。必要なのは高校数学だけ、後で証明してみます

 マルクスは資本論第1巻を1866年に出版します。それから1883年3月14日に死ぬまでの17年間、資本論の続巻を出版しませんでした。膨大な遺稿を整理して資本論第2巻と3巻を出版したのはエンゲルスでした。
 なぜ、マルクスは資本論続巻の膨大な遺稿を残しただけで、資本論第2巻を出さなかったのかについては、疑問に思ったマルクス経済学者もその理由を論理的に突き止めたマルクス経済学者もいません。

 さて、背理法による証明です。資本論第3巻は<市場関係>論です。個別企業の市場競争が扱われます。「もっとも単純な市場関係」が分析されています。「剰余価値の利潤への転化」や「市場価格と市場価値、超過利潤」が扱われます。
 ところで、市場では需要のない(=使用価値のない)商品は価値がありません。これは自明です。需要と供給曲線の交わるところで市場価格が決まることは経済法則のひとつです需要がなければ投下労働量が大きくても市場価格はゼロです。いまでは再生産に労働力を要しない商品すら存在しています。デジタル商品です。消費者がネットからコピーするだけで再生産されます。
 デジタル商品の存在はともかく、マルクスだって需要と供給の経済法則に気がついたはずです。それが何を意味しているのかは明らか、投下労働量は市場価格には関係がないということです労働価値説は市場関係論で破綻するということ、そのことに気がついたので、マルクスは書き溜めた膨大な原稿を没にしました。資本論の続巻が出版できなくなったのです。体系構成に関わる破綻、労働価値説が「偽」であることがわかってしまったのだろうと想像します。
 『資本論第1巻フランス語版(1872年)』がマルクスの著作としては最後のものです。そこから数えると、11年間、研究生活を続けていながら、1冊も本を出していません。それどころか資本論第1巻をフランス語版では書き直しているのです。フランス語版はドイツ語版の翻訳書ではなかったのです、書き直しでした。11年間の沈黙は異常なことだとわたしは感じます。それが感じられないマルクス経済学者は感覚が鈍すぎます。

 おさらいしましょう。マルクスは『資本論第1巻』を商品分析から始めて、その概念規定をします。商品には価値があり、それは抽象的人間労働の現象形態であると、同時に商品には使用価値があり、それは具体的有用労働の現象形態であると、仮定したのです。
 その仮定が、市場関係論で破綻するということは、労働価値説が偽であるということを意味しています。
 資本論第1巻の仮定、商品の価値とは抽象的人間労働の現象形態だという概念規定(公準=要請)が「偽」だということが背理法で数学的に証明されたということを意味しています
。背理法で偽であると判定されたら、覆しようがありません。背理法という真偽の判定法が偽であるという証明をしなければなりません。それは無理というもの。背理法で労働価値概念が否定されたということは、√2が分数では表せないこと(=無理数)であることと同じくらい確かなことだということ。
 資本論という経済学体系が根底から崩れていく音がします。

 マルクスは『資本論第1巻』を出版した後に『資本論第2巻』と『資本論第3巻』の原稿を書き貯めましたが、市場関係論を書き始めてようやく論理的な矛盾、ヘーゲル弁証法の破綻に気がついたのだとわたしは推測します。
 エンゲルスと共同執筆で『共産党宣言』(1848年)を出版して、世界中をあおっておいて、いまさら『資本論』は誤りでしたとは言えなかったのでしょう。矛盾に気がついたからこそ、第2巻と第3巻が出せなかったのですから、死ぬまで悶々としていたと思います、自分の犯したミスに気がついてしまった不幸な人でした。いまさらミスとは言えない状況だったことは理解できます。

 マルクス経済学者は『資本論第1巻』とその前に書かれた『経済学批判要綱全6冊』をもっと読むべきです。『人新世の資本論』の著者の斎藤幸平氏のように翻訳されていない膨大な遺稿を読むのも結構ですが、まずは『資本論第1巻』と『経済学批判要綱』をしっかり読んでもらいたい。マルクスが残した唯一の経済学の体系的な記述である『資本論第1巻』もきちんと読めていないマルクス経済学者が多すぎます。
 視野を数学にまで広げないと、マルクスと同じところで躓くだけです。最初から正解がないところで思考しているだけ。実数の範囲では解けない複素数の問題を、実数の範囲内で考えているようなものです。問題の的を射る前に、的のある方を向いていないのですから、外してしまいます。

 皆さんが高校数学で習った背理法で、資本論体系がガラガラと崩れることが、こんな簡単な操作=背理法でできます。労働価値説は「偽」なのです。したがって、剰余価値学説も偽となります。生産過程論よりも、より具体的な市場論で展開すればすぐにわかることです。
 方法論をヘーゲルに依拠したことが間違いでした。紀元前3世紀にユークリッド『原論』が学の体系構成の方法を明らかにしました。公理論的な演繹体系です。背理法もその中で紹介されています。背理法はユークリッドの考案ではありません。紀元前4世紀の数学者エウドクソスの発見と言われています。
*『原論』第1巻47章に三平方の定理があり、第10巻30章に背理法が載っています。

 ところで、マスクスを信奉している経済学者もマルクス主義者にとってもがっかりさせられる事実なのですが、マルクスは数学音痴でした。『数学手稿』を読むと微分の無限小概念が理解できなかったことが明らかにされています。あれはマルクスの単なる数学・学習ノートでした、公刊するようなものではありません。『数学手稿』から推して、ユークリッドの『原論』もデカルトの『方法序説』も、読んでも理解できなかったでしょうね。苦手ですから、読もうとすらしなかったと推測します。数学嫌いの高校生を思い浮かべたら、遠からず当たっていますよ。(笑)
 マルクスって、できの良いところとできの悪いところ、生真面目なところと放縦なところが共存していて、かわいいんですよ。
 彼のところにはお手伝いさんがいましたが、その人が産んだ子供はマルクスの子供だったことがわかっています。男の子だったかな。マルクスは神様ではありませんね、平平凡凡で、とっても人間臭いところがあります。
 共産主義で世界中を嵐に巻き込んだアジテータ、そして論理的に破綻したことに気がついて晩年は絶望の淵に沈んではいます、が優秀な経済学者でもありました。その実像は性欲の点からもごく普通の人でもあったのです。周りの人たちはもちろん知っていたでしょうね。でも、内緒にしたようです。わたしにはとっても親近感のわく人物です。

 泉下のマルクスはいま喜んでいると思います。資本論第1巻を出版してから死ぬまでの17年間、悶々と苦しむだけで自分の口には出せなかったことが明らかにされたのですから。
 今よみがえったら、資本論の書き直しはしないでしょう。コンピュータと数学の素養がないので無理なことは彼にも理解できます。別の課題があります、新しい経済社会のデザインに興味が湧くでしょうね。それは企業のマネジメントに関する研究です。私有財産の否定で生産手段を共有化しても理想の社会はつくれません。ロジックが子供じみていた粗雑すぎます。心根の曲がったテクノクラートに支えられた独裁者が支配する恣意的な経済社会に化けてしまうだけです。共産主義や社会主義経済というのは異様な経済体制です。秘密警察と労働者同士が互いの政治傾向を秘密警察に通報することでした維持できない、異様な経済体制です。
 なぜマネジメントが鍵なのはは別稿に譲ります。個別企業で賃金格差を生んでいるのは強欲なマネジメントです。企業間での賃金格差を生じさせているのは経営者のマネジメントの巧拙が深くかかわっています。赤字の企業にはボーナスが出せないことはだれでもわかります。業績の思わしくない企業の平均賃金は、高収益の企業の従業員の平均賃金よりも低くなるのはモノの道理です。労働組合も社会主義国家もマネジメントを敵視してきました。阿呆な話です。マネジメントの重要性を主張したマルクス経済学者はわたしの外にはいないでしょう、だから別稿で改めて書きます。
 もう少し、マネジメントとビジネス倫理について言及して置きます。
 マルクスの関心はビジネス倫理とマネジメントの研究に向かうはず、つまり私と楽しく共同研究をするということ。面白いでしょ!
 そのビジネス倫理とは
●「信用が第一」
●「売り手よし・買い手よし・世間よしの三方よし」
●「浮利を追わない」
●「足るを知る」
 これらの当たり前のことを、現実の企業経営で遵守していこということが新しい経済社会の建設のカギですよ。労働という概念は消滅します。日本人が昔からしてきたのは労働ではなくて仕事なのです。だから、21世紀になっても、日本では職人仕事の世界がますます広がっています。あれは苦役ではないのです。自己実現の手段でもあります。仕事は自己表現の場でもあるのです。芸術活動とかわらない、どんな仕事も極められます。より高いところがあります、完成することがありません、無限ですから楽しい。
 わたしは、51歳まで、そういう方針(ビジネス倫理)で民間企業をいくつかわたり歩いて仕事していました。そのうち3社は上場企業になっています。ぎりぎりのところで、意に添わなければ辞表を書いて他の企業へ転職しました、何度も。だから、衝突するのは決って社長です。社長の特命の仕事が多かったからです。約束した仕事はどれも期限内に約束通りに実現しています。そのあと、自分の意にそわないような事態になったら、進退を明確にするだけ。わがままとも言えますね。(笑)

<余談-1:数学的帰納法>
 数学の証明法には古典的な証明法である背理法の外にもう一つ、新しくて有力なものがあります。それはドミノ倒しのような数学的帰納法です。現代数学の証明にはこれが頻繁に使われています。高校数学では、数Bの数列の分野で出てきます。
(古里にある根室高校普通科では、十数年前は数ⅡBは必修科目だったことがありますが、数年前から、数Bだけでなく数Ⅱも選択科目になってしまいました。生徒の学力レベルがこの十年間で、数Ⅱすら必修科目にできぬほどに激落ちしたということ。これから人材確保で困るのは地元企業です。2040年に生き残っている地元民間企業は半数程度になりそうです。地元の民間企業の採用も半分程度になれば、人口は現在の2.3万人から1.5万人前後へ減少するでしょう。地域の高校生の学力低下は、地元経済の活力を奪い、人口減少の主要な要因になります。だから、まず小中高生の学力低下を止めなければいけません。2002年11月から、2022年10月までの20年間、古里で小さな塾で子どもたちを教えてきましたが、塾に来ていた生徒たちの学力に劣化は感じませんでしたが、学力テストや全国模試での得点の分布をチェックしていると、中高生の学力低下は否定できない事実です。釧路根室管内の中学校では、根室市内の中学校は最底辺です。それでも、国立大学医学部へ現役合格できるレベルの素質をもった生徒は毎年数人います。小4から育てたら間に合いますが、そういう意識がないので、高校生になってから全国模試で実力を知ってからではアウトです。それほどむずかしくない北大へ現役合格だって数年に一度しか現れません。能力の高い子どもたちを育てそこなっています。じつにもったいないことです。育った地域で大半の子どもたちの学力レベルが決まります。)

<余談-2:公理的な演繹体系の俯瞰>
 学問(科学・学問:英語ではscience、ドイツ語ではdas Wissenshaft)の体系構成方法には公理に基づく演繹体系しかありません。ユークリッド『原論』がその端緒です。デカルトが17世紀に『方法序説』(1637年刊)で「科学の方法・四つの規則」で言及しています。デカルトは哲学者や物理学者であっただけではなく数学者でもありました。次に言及し、ユークリッド『原論』の公理群を整理したのはヒルベルト『幾何学基礎論』(1899年)でした。
 19世紀のヘーゲル弁証法は流行り病のようなものでした。哲学者たちがこぞってかぶれました。新型コロナのようなものです。二項対立でものごとが記述できるほど現実は単純ではありません。
 20世紀になってから、二コラ・ブルバキというペンネームを使って、フランスの若手数学者の集団が現代数学の体系化を試みました。1934年がスタートですから、90年にもなりますね。集合論を核にして現代数学を演繹体系として統一的に記述しようという試みです。数学の細分化の速度が大きすぎて、いまだに理想は実現されていませんし、今後も完成する見込みはないでしょう。でも、公理的な体系構成法以外に、学問(科学)の体系構成法は発見されていません。やるなら、公理的な体系構成しか選択肢がありません。
 数学以外の学問分野で、演繹的体系構成にチャレンジしたのは経済学でマルクスのみです。その点ではわたしはマルクスに敬意を払っています。たとえ失敗していても、失敗自体が大きな意味のあることでした。

<余談-3:文系と理系の区別は幻想>
 学問に文系と理系の区分は意味がありません。とくに両方にまたがる分野についてはそれが言えます。現在経済学は数学が得意な理系分野の学生たちが選択し、マルクス経済学は数学が比較的得意ではない文科系の学生たちが選択してきました。だから、マルクス経済学者の視野の中に公理的演繹体系構成法が入って来ませんでした。愚かな話だと思います。学問の体系構成法のお手本にはユークリッド『原論』しかないのに、それを読みもしないから、160年間誰もマルクス『資本論第1巻』の体系構成上の論理的な破綻に気がつきませんでした。マルクス自身は気がついて17年間沈黙を守りました。
 企業経営でも、文系理系の区別はありません。困難な問題はこれらの複合分野として現れていますから、両方の素養がなければ、複雑な問題を解決できないのです。もちろん、新しい経済社会の建設はその先にあります。どのように企業経営をデザインするのかということが、問題を解くカギです。

#5113 公理を変えて『資本論』を演繹体系として書き直すことは可能か? Nov. 13,2023



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 わたしが持っているのは中村幸四郎訳の第7版(1976年清水光文堂)です。初版は1969年。


幾何学基礎論 (1969年)

幾何学基礎論 (1969年)

  • 出版社/メーカー: 清水弘文堂書房
  • 発売日: 2023/10/23
  • メディア: -





幾何学基礎論 (ちくま学芸文庫)

幾何学基礎論 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 文庫


ブルバキ数学原論〈〔第2〕〉集合論 (1969年)

ブルバキ数学原論〈〔第2〕〉集合論 (1969年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -
 ブルバキ『数学原論』は30冊ほど出ています。『数学史』と『集合論1』だけ本棚にあります。『数学史』の方は文科系の大学生にも一読をススメます。東京図書株式会社のハードカバーは絶版のようですから、手に入る文庫本の方を紹介しておきましょう。
ブルバキ数学史〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ブルバキ数学史〈上〉 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/03/01
  • メディア: 文庫
ブルバキ数学史〈下〉 (ちくま学芸文庫)

ブルバキ数学史〈下〉 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/03/01
  • メディア: 文庫
 数学史はもう一冊読んでいました。おや、これも絶版ですね。1975年の初版1刷りが本棚にあります。数学史に関してはこの本が最高なのですが、読む人が少ないのか、絶版になってしまいました。日本人の知的レベルの低下を表しているようで、悲しいです。経済学者はもっと視野を広げてこういう分野の本も読んでほしい。
数学史 (1975年) (数学講座〈18〉)

数学史 (1975年) (数学講座〈18〉)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -




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#5075 Default Mode Network:ボーっとする Oct. 1, 2023 [A2. マルクスと数学]

 一昨日の朝のNHKラジオ番組でうとうとしながら、デフォルト・モード・ネットワークという言葉の説明を聴いていました。もちろん初耳です。
 2001年にワシントン大学のレイクル(Marcus.E.Raichle)らの共同研究成果らしい。
 脳は、ボーっとしているときに平常時の15~20倍のエネルギーを使うという。そのためにアイデアが働きやすくなり、記憶に関する部位や価値判断に関する記憶が活発に働く。ボーっとすると脳の血流に変化が起き、脳全体に均一に血液が流れるために、結果的に普段使われていない部位にもエネルギーが行き届きひらめきやすくなるのだそうな。
 
 何かに集中すると、脳の特定の部位が活発にエネルギーを消費します。意識を分散化すると、脳内にまんべんなく血流が生じます。能力を最大化するためには脳の血流量を増やせばいいのですが、そんな方法はあるのでしょうか?

 家業のビリヤード場で幼稚園の頃から遊んでいました。緑色のラシャが張られた台の上にあがって、キューで白いボールを突いて遊んでいました。白いボールが2個赤いボールが2個、オーソドックスなキャロムゲームの台でした。面白いので、夢中になって遊ぶ、そのうちに大人たちが面白がって相手してくれるようになりました。身長が足りないので、台の上に乗って撞きます。大人がやるとルール違反ですが、小さな子供のわたしだけの特別ルールでした。
 夜布団に入ってから、緑色のビリヤード台が頭に浮かび、キューとボールが目の前に展開します。すると脳内で勝手にビリヤードのトレーニングが始まってしまうのです。昼間に夢中でやるから、脳が興奮しています。脳が疲れきるまでイメージの中で行われるビリヤードトレーニングは続きました。自分では止められない、疲れきるまで続き、そして疲れ果ててぐっすりねてしまう。よく寝る子供でした。こうして、脳内でカラーのイメージ操作ができるようになったのです。夢も色がついています。子供は無心で遊んでいるといろんなモノやコトや脳の使い方までも、空気を吸うがごとくに吸収してしまいます。無心になれる遊びはとっても大切です。

 小5だったのか、小4だったのか定かではありませんが、120km離れた釧路に用事があってオヤジと行きました。駅近くのビリヤード店に私を置いて、戻ってくるまで遊ばしておいてくれと店主にオヤジが告げて、数時間次々に常連たちを相手にゲームを始めました。小学生なのに上手なので、腕に覚えのある大人たちが面白がって次々に交替で挑んできました。強すぎると言われ、2度持ち点アップに同意してます。それでも負けなし。持ち点をアップして撞き切りも2回やってます。十数回のゲームで店内はわいわいの騒ぎになりました。店番してお客の相手をするときにはお客様相手のお遊びモードですから、全力ではやりません。そういう癖がついていました。釧路へは遊びに行ったのだから、遠慮はいらないのです、ブレーキを外してゲームを楽しむ。そういう脳のモードに切り替えられるようになっていました。上手に撞こうとか、勝とうとかという意識はありません。無心に遊んでいるだけですが、こういう心や脳の状態を何というのかわかりません。
 高校の校則はビリヤード場への出入りを禁じていました。そう伝えるとオヤジは苦笑いしていました。高校卒業するまで、ほぼ毎日数時間、家業のお手伝いしてました。

 1990年代に新大久保の小林伸明先生(スリークッションゲームの世界チャンピオン、やはりビリヤード場経営者の息子)のお店の四つ球の常連会メンバーに入れてもらいました。月例会の試合で元四つ球アマチュア全日本チャンピオンの小柴さんと決勝戦で当たったことがありました。強敵ですから、全力で勝負しないと失礼です。脳のモードが切り替わりました。
 初回をわたしが持ち点を撞き切ったら、小柴さんも撞き切り返し、それで延長戦へ。今度は小柴さんが先行、2度目もつき切ったのです。連続して自分の持ち点を2度突き切った人は小柴さん以外に見たことがありません、さすがに元全日本チャンピオン、すばらしい職人技でした。私は2度目は撞き切れず負けて2位でした。そのときに、小林先生は2位の賞品にブルーダイアモンド社製のチョークを1ケース(12個入り)をプレゼントしてくれました。メーカーが十数年前に廃業して手に入らないものでした。小林先生は世界大会でしか使わないと言ってました。ある時練習で使っていたら、小林先生が飛んできて、「世界大会でしか使っていないチョークだから、使うのは月例会の時だけにしてください」と仰った。そんなに大事なものをあの月例会の時だけ賞品として提供してくれたのだと知りました。撞き切りのご褒美だったのでしょう。

 高田馬場のビックボックスでクリスマスの頃に大会が開かれていました。4人か5人のブロックに20組くらいに分かれ、それぞれのブロックにはプロが一人参加するものです。このときに、初回にプロとぶつかりました。モードが切り替わり、持ち点を撞き切ったのです。どこを撞いたらいいのかわかるので無心になればいいだけ。観客の声が遠くなり、体から余分な力が抜けます。どのように撞けばいいかなんてまったく考えていません、そう、ボーっとしている状態になります。ふだんはゾーニングして直径30cmくらいの円内に球が集まればいいのですが、あのモードのときは理想通りの位置にボールが来ます。撞点も力加減も完全な状態になります。何かが降りてくるという状態です。プロはトレーニングを積んで、どんなときでも職人技でカバーできるようなトレーニングをしています。アマチュアのわたしにはそれがありません。
 次のゲームでへタッピ―の大学生に当たったら、モードは自動解除されました。強い相手でないと切り換えられないのです。アドレナリンがでなくなったのでしょう。

 中2の時に歴史を担当してくれたのは元西浜町会長の柏原栄先生でした。終戦間際に予科練に合格、土浦へ配属が決まり待機中の終戦。土浦には大学時代のゼミの恩師である市倉宏祐教授(哲学)が特攻隊で待機組、予科練の少年兵にゼロ戦の操縦を指導していたことは何度も書きました。
 柏原先生の板書は独特で、字がきれいだが、粒は不ぞろい。だから、印象に残ります。お陰で授業へ集中しやすかった。授業中に全部記憶するつもりで集中して聴いていたので、授業が終わると、1~2分間はボーっとしています。そのあと、目をつぶって黒板に書かれた文字を脳裏に再現し、その黒板の文字と耳で聞いたことを結び付けていました。そんなやり方で3分ほどで復習できました。後は、北海道新聞の政治経済欄を読みふけるだけ。それだけで十分でした。記事に地名が載っていたら、知らないところはその都度地図帳で確認してました。地理と歴史と政治経済が新聞記事を通してつながっていました。小4から北海道新聞読み始めたので、小6では語彙が大人並みになっていました。最初の3か月ほどは国語辞書をよく引いていました。新聞の語彙はそんなに多くはないので、じきに辞書を引く回数が激減します。当時の新聞はルビが振られていましたので、漢和辞典を挽かなくてよかった、読みがわかっているので国語辞典だけでよかったのです。いまの子どもたちより楽でした。新書版レベルの本をスラスラ読む語彙力は小学生のうちに身についていました。中3の全国学力テスト社会科の問題で、授業では教えていない国連の国際機関名がいくつか出題されていましたが、新聞読んで、英語で各機関名を書けたからそこで2位と得点差がつきました。ラッキーでした。1学年550人10クラスでした。いま、母校は1学年100人いません。古里の現状をみると少子化の現実が身に染みてわかります。
 授業を受けるときに中身が濃くて興味が湧けば、脳のモードチェンジができることがわかり、他の科目へもこの技を利用しました。効果は抜群でした。成績がみるみるアップしました。でも、教科担当の先生の授業内容が濃くないとつまらないので集中できないのです。(笑)柏原先生の教え方がよかったのです。高校でも数人そういう先生がいらっしゃいました。
 「集中⇒ボーっとする⇒脳裏にカラーでイメージを再現」
 眠るときにやはりボーっとモードに切り替えて、黒板を脳裏に再現して復習。脳がリラックスしていないとスムーズにいきません。神経を集中するとノイズが大きくなりますから、眠りに入るときがいいのです。8-10時間睡眠をとっていました。睡眠時間が短いと、頭が回らないのがよくわかります。寝ている間に、昼間に集中してインプットした知識が整理されるのがわかりました。だから定期テストの前は早寝して8-10時間しっかり寝るようにしていました。翌朝、頭がすっきりしているのがわかるんです。

 高校生になって、2年の時から公認会計士2次試験講座の参考書で7科目(簿記・会計・原価計算・監査論・経営学・経済学・商法)の勉強をし始めました。簿記論と会計学は黒澤清先生と沼田善穂先生の対立する学説を比較しながら学びました。公認会計士試験の経済学は近代経済学でした。半年ぐらい勉強しているうちにマルクス『資本論』が気になって読み始めています。論理の組み立てがさっぱりわからないので、マルクスが方法論で依拠したヘーゲルの著作も読み始めました。数行理解するのに手を焼くことがしょっちゅうありました。文を丸ごと暗記して、暇ができると思い出して繰り返し考える、こうすると授業中でも経済学や哲学の勉強を独学でやれます。授業は雑談が多く、だいじなのは1/3くらいのみでしたから、ありがたかった、そこだけ聞いていればいい。得意科目は予習している(工業簿記は春休みの2週間弱で、問題集1冊を予習しました)ので、授業は既知の知識を確認するだけ。数学の問題も難問題は問題文を丸ごと暗記して、暇な時間があると思い出して解いていました。紙に書きだすとひらめくことが多かった。顕在意識へインプットしておくと、潜在意識が勝手に情報処理してくれます。朝起きたときには正解が頭に浮かんでいるなんてことになります。REM睡眠時に答えが思い浮かんで、慌てて起きてノートに書くなんてことが起きます。眠っている自分とそれを観察している自分があります。観察している自分が、眠っている自分を起こします。
 「授業に集中⇒休み時間にボーっとする⇒脳内にイメージ画像を再現⇒就寝時にもう一度イメージを再現」
 こういうことを毎日繰り返していました。ビリヤード店の店番しているときでも、暇な時で練習する気が起きないときはボーっとして、数分間授業の復習やら、インプットした概念の整理を繰り返していました。顕在意識で脳内でさまざまな相互に関連のある概念をいじくりまわしてひとつの構造に組み上げるのと、潜在意識でジャンルを超越して突合するのは脳の機能として明らかに違います。後者はDMNでの出来事ですが、前者がよくわかりません。30年後に脳科学者が解明してくれるかもしれませんね。画像イメージを脳内で自在にいじくりまわせるようになると、数学や哲学分野の学習にとっても便利です。それを言葉に置き換えて伝えるのはとっても困難です。音楽や絵画の美しさを言葉で表現するようなものですから。

 座禅とヨガが好きで、中学生のころから真似事でやっていました。大学生になってからそれぞれ本を何冊か読み独習していたのです。座禅をするときには意識を呼吸に集中し、雑念を放置します。雑念が次々にわいてくる状態をマインドワンダリングというんだそうです。次々にわいてくるイメージにとらわれず、ゆっくり長い呼吸にだけ意識を置く。すると息を吐いて、吐き切ると自然に吸気が起きる。そしてまた息を吐き切る、それだけです。マインドワンダリング状態が収束します。雑念が消えます、どこにも焦点を合わせない心の状態、意識の分散化が起きます。全方位に意識が向いていますから、意識の集中とまったく逆のベクトルの現象です慣れてくると、歩いているときにも意識を呼吸に置けばすんなりそういう意識の分散モードに切り替えられるようになっていました。こういう脳の使い方や呼吸のコントロールで意識を制御する方法の意味するところが、これから脳科学で「発見」されるのでしょうね。
 20代後半には、会議の時にも数呼吸で意識の分散化ができるようになっていました。先入見があると人の話を丸ごと受け入れられないから、意識の分散化が必要なのです。自分の思考を抑えてボーっとしている状態です。先入見をゼロにできるところが最大の効用かもしれません。数学の難問だって、思い込みがあると正解手順を見落とします。深くてゆっくりした呼吸に切り換えて、思い込みをいったん消します。意識の集中よりもずっと高度な技ですが、トレーニング次第でだれでも獲得できます

 意識の分散化ができない人は先入見に囚われて抜け出られません、檻のようなものです
(トラウマも同じです。トラウマは潜在意識に刻み込まれ脳の機能に深刻なダメージを与えます。顕在意識がそこへ引っ張られてしまうのです。) 
 大事なことですから、少し脱線させてください。

 1978年から6年間、産業用エレクトロニクスの専門輸入商社で経営分析と経営改革を担当していました。5つのプロジェクトを同時に担当していました。経営分析は思い込みや先入見を外すのがむずかしいのです。25ゲージ5つのディメンションのレーダチャートをつくり総合偏差値を計算して財務状態と経営成績を四半期ごとにモニターして経営分析報告書を提出して役員全員に説明していました。予算編成や予算管理、長期計画もこれらの経営分析システムと連動させていました。思い込みがあるとそういう風にデータが見えてしまいます。結果がすぐに追いかけてきますので、データを分析するときは先入見を外すのが鉄則でした。そして経営改革もこれらのシステムに連動しているので、具体案が効果がなければすぐに目標数値未達として現れます。かならず事前に損益シミュレーションをしていますから。そういう経験を6年間積んでさまざまな経営改革を担当させてもらったのは得難い経験でした。呼吸をコントロールすることで、先入見を外して、データ自身が語るところに耳を傾けるという習慣が身についたのです。

 経済学にはシューレ(学派)があります。マルクス経済学では宇野学派が最大です。当然宇野弘蔵先生の著作を皆さん熱心に読んでいます。そうすると、宇野弘蔵の視点を通して『資本論』を読んでしまうのです。これが先入見となります。『資本論』そのものを見ることができなくなりますので、アウトです。
 共産党のみなさんは赤旗をよく読んでいます。出版物も大月書店のものが多いのではないでしょうか。他のものはほどんど読まない。創価学会のみなさんも創価新聞をよく読み、出版物も創価学会からのものに偏って読むようになります。
 その結果何が起きるのか?対立する学派や対立する学説のものを読まない、異分野のものを読まなくなれば、ボーっとして脳がDMN状態になっても、知識の融合やひらめきが起きないということです。材料がありませんから当然でしょう
 ところで、労働組合の活動家で、渋沢栄一の本を読む人がFB友にいます、とっても珍しい。渋沢翁の本はマネジメントそのものですから。労働組合で渋沢翁やドラッカーの著作を読むなんて、なかなかすごい人です。

 マルクス『資本論』の体系構成がつかみたくて市倉宏祐先生(哲学=ヘーゲル、イポリット、ガタリ、パスカル研究)の学部を超えた一般教養ゼミの門をたたき、『資本論』と『経済学批判要綱』を3年間読んでいます。
 価値表現の関係という”場”と交換関係という”場”、生産関係という”場”へと論理がより具体的で現実的、そしてより複雑なものへと進んで行くのがわかりました。先に行くにしたがってより具体的で複雑な”場”になります。「単純なものからより複雑なものへ」という論理の展開順序が見えました。生産過程関係の次は市場関係という”場”が展開されますが、マルクスは”市場関係”を展開できませんでした。ヘーゲル弁証法は2項対立ですから、体系構成の方法で行き詰まったのです。市場関係論で展開される経済学の概念は2項ではないし、労働価値説も破綻します。そこにマルクスが気がついてしまったとわたしは推測しています。だから、『資本論第一巻』を出版した後、10年間本を公刊していません。沈黙したまま、たくさんの遺稿を残して『資本論第2巻』を出版することなく亡くなっています。
 学部生のときには、他人にわかるようなやり方で、自分が見つけたものを説明できませんでした。
 大学院で勉強しながら、渋谷の進学教室で専任講師をして、あるときユークリッド『原論』を購入して読み始めました。無理数の背理法による証明を2400年前にどうやってやったかを中3年生に説明したかったからです。それで読み始めたら、探していた方法がそこにありました。公理的演繹体系です。資本主義の分析は公理的演繹体系で構成すればいいことがわかったのです。おそらく、マルクス『資本論』研究者で、2400年前に書かれた数学書であるユークリッド『原論』を読んだ人はほとんどいないでしょう。だから気がつかないし理解できないのです。『人新世の『資本論』』の著者もその中の一人です。

 マルクス経済学とユークリッド『原論』というかけ離れた専門分野の間に、方法的な相同性があることに気がついたのは、デフォルト・モード・ネットワークのお陰です

 数学史に興味がわいて、そちらの分野の本もしばらくの間読み漁りました。デカルト『方法序説』でやはり「科学の体系構成」を論じていることもわかりました。「科学の四つの規則」として箇条書になっています。マルクスが参考にすべきはヘーゲル弁証法ではなくてユークリッドやデカルトでした。マルクスはひどい数学音痴でしたから、ユークリッド『原論』は読んでいないと思います。『資本論』や『経済学批判要綱6分冊』の中には言及がありません。たぶん彼の残した膨大な遺稿の中にも見つからないでしょう。彼の学術論文はギリシアの自然哲学に関するものだったのに、ギリシア数学の記念碑であるユークリッド『原論』を読んでいません。マルクスの遺稿『数学手稿』を見て、なるほどと思いました。彼は微分の無限小概念が理解できなかったのです。数学の勉強は微分で行き詰まっています。数学手稿は「数学の学習ノート」でした。そもそも『資本論』には指数計算も対数計算も出てきませんし、微積分の計算もありません。四則計算のみでしたので、違和感がありました。何か原因があるはずだと、『資本論』を読み終わって感じました。だから、『数学手稿』を読んで、その原因がわかり、納得でした。限界効用なんて考えが出てくるはずもありません。
 数学が苦手なマスクスには、ユークリッド『原論』もデカルトの『方法序説』も、マルクスには手の届かぬものでした。だから、体系構成の方法で破綻しました。

 こうした異分野の知識を融合させるとか、相同性を見つけるためには、脳のモードチェンジが必要です。DMNが必要なのです。もっとも、好奇心がなければ異質の分野の専門書など読むはずもありませんから、DMNが働いても知識の融合現象も、相同性の発見もありえないことはお分かりいただけたでしょう

 異分野の古典を丹念に読み込み、そして意識的にDMNに脳を切り替えることができれば、いままで誰も見たことのない世界が垣間見れます。

 資本主義を分析しても、新しい経済社会は見えてきません。それはデザインの問題だからです。新しい経済社会をデザインし、やってみる、そしてまずいところがあれば修正していく作業を積み重ねたらいいだけです。株式会社制度に問題があれば、まずい部分を規制したらいい。代替案があれば試したらいい。
 経済社会の単位は企業活動です。実務レベルで動かないといけません。だから、マルクスもレーニンも大失敗をしました。企業経営の能力も経済社会のデザイン能力も持ち合わせていませんでした。労働組合はいまだに経営を敵視していますが、どんな社会も企業経営で成り立っていますから、そこのところを抜きにして賃上げすらできません。賃上げしたかったらスキルを磨いて転職するのが手っ取り早いのです。転職が嫌なら、自分が仕事している会社の経営改革を担い、「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」にするしかないではありませんか?

 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」と「浮利を追わぬ」の二つの商道徳で企業運営をしてみたらいいだけですよ。そういう伝統的な経営思想あるいは商道徳を守っている企業が日本には老舗として数千社も残っています。職人仕事に強い関係のある企業群です。そういう伝統企業に何かプラスするものがあればなんとかなりそうです。


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