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#5120 債務超過寸前の日本銀行B/S Nov. 30, 2023 [8. 時事評論]

 昨日のNHK早朝のラジオ番組で、日銀の保有国債に10.3兆円の評価損が生じていることを報じていました。お昼のニュースでは取り上げないし、昨日今日の朝日新聞を見てもそんなニュースはどこにもありません。
 そもそも、満期保有債券の評価損は計上しなくてよいと日銀法で定められていますから、現実には評価損が計上されることはありません。しかし、国際会計基準では計上することになっています。何かの都合で市場性のある保有債券を売却しなければならなくなったときには、評価損は現実の損失になるのですから、当たり前の話なのです。

 11/20付の日本銀行のB/S(貸借対照表)が公表されていますので、そこから、データを拾ってみます。

総資産額 753.1兆円
総負債額 741.0兆円
純資産額  12.1超円

 純資産額から国債の評価損を差し引くと1.8兆円となります。ちなみに、日銀の資本金はたったの1億円です。
 長期金利(10年物国債金利)が1%になれば、日本銀行は実質債務超過です。

 為替相場が150円/ドル付近で推移していますが、日銀の無制限の国債によって、円の信認が崩れてれてしまっているということだと、寺島実郎氏が数か月前にテレビで述べてましたが、わたしもその判断に賛成です。国際金融筋は近い将来の日銀債務超過を織り込んで動いているのだと思います。

 日本経済は「茹でガエル状態」で、昨年の今ころの137円/ドルからじわじわ円安が進み、円安による輸入資材や食糧の高騰で、物価がじわじわ上がっています。第2次安倍政権のときから、黒田日銀総裁と日銀の独立性を破壊して「異次元の金融緩和」をし、さらに無制限の国債買い入れを続けてきた結果です。アベノミクスを支持し、支持して投票した国民が愚かだったということです。これも大掛かりな特殊詐欺のようなものですから、騙されないようにしなければいけませんね。

 為替相場は90~100円/ドルぐらいが適正だとわたしは見ています。
 OECDが公表している国別の平均年収ランキングでは日本は39,711ドルの24位で、42,747ドルの韓国は20位です。これは2021年のデータですから、円安が進んでいる現状を考えると、2023年はもっとひどいことになるでしょう。
 2021年の年間平均為替相場は109円/ドル、2023年はいまのところ139円/ドルです。100円/$で換算すると55,198$ですから13位です。円安というのは日本という国の経済的評価が下がるということなのです。円安誘導を喜んでいたらいつの間にか、平均収入が24位なんてことになってしまいました。安くておいしいと世界中から観光客が押し寄せて、オーバーツーリズム、日本国民は貧乏しているという姿になっています。観光産業がにぎわっても、ありがたくありません。
 円安は、日本が急速に高齢化して、生産年齢人口が加速的に減少していることも関係しています


 11/13に0.875%まで上昇した長期金利は昨日11/29は0.675%に落ち着いていますが、日銀が慌てて金利を操作した結果かもしれません。長いこと日銀が全額買入していたので国債の市場機能はほとんど停止していますが、日銀が何らかの原因で国債い買入ができなくなれば、長期金利は3%くらいに暴騰するでしょう。
 日銀が何らかの理由で国債引き受けができなくなれば、政府財政も破綻します。いまのペースの予算規模だと、毎年40~50兆円もの新規国債の増発が必要ですが、債券市場で販売するためには3%の金利は最低限かもしれませんね。10年続けたら、これから発行する分だけで年間12~15兆円もの利払い予算を組まないといけません。
 公務員給与を半分にせざるを得ないようなことが起きるのでしょう。政府のお財布にお金がなくなるのですからね。

 日銀の債務超過が生じたら、どこまで円安になるでしょうね。160~200円/$?わたしにもわかりませんよ、誰にもわからないでしょう。


<余談-1:言霊の国>
 日本人は将来起こる大きなリスクを具体的に評価して備えることが苦手です。言葉に出して具体的にリスクを議論すると、言霊の国ですから、なんとなく不吉に感じます。「おまえ、明日飛行機乗るのか、落ちるかもしれないよ」なんて言わないでしょ。言って、本当に飛行機が落ちたら、「あなたがあんなことを言ったからだ」と論理的には何の関係御有りませんが、叱られることは間違いないでしょう。
 だから、年金問題もわかっていても手が打てなかった。2024年のトラック輸送の一部ストップ問題、医師の働き方改革で、地域医療も都市部の医療も共倒れになりそうですが、いまごろ騒いでいます。国際医療福祉大学の高橋泰先生が今朝テレビで説明していました。1999年に特例許可老人病院の常務理事を引き受けたときに、顧問医がこの先生でした。ご挨拶した折にサイン入りの著書をいただいています。看護学校へ進学した生徒にあげました。

<余談-2:英作文問題制作>
 NHKラジオ英会話の英文と解説をベースに英作文問題を作っています。12月号の入力と問題追加が今日11/30完了しています。#1434、1673ページまで。おおよそ、16,000問題と解説になっています。結構楽しいのですよこれが。毎週2回、高校生に英作文問題と前回の問題の解説をemailで送っています。


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#5120 公理を変えて資本論を書き直す② Nov. 28, 2023 [A2. マルクスと数学]

 マルクス『資本論』を演繹的な体系構成として眺めたら、投下労働量によって商品価値が決まるという規定が公理に当たります。命題として労働価値説を検討した結果、市場を前提とすると商品価値は投下労働量では決まらないことがわかります。どんなに労働が投下されてもニーズのない商品の価値はゼロだからです。たった一つの反例で労働価値説は公理としては偽であることがわかります。
 マルクスが『資本論第1巻』を書いた1867年とは時代が違います。いまではデジタル商品が巷にあふれています。これは再生産に労働を要しません。ネットで買い手がダウンロードするだけでいいのです。労働価値説が商品価値を説明する理論としてはとっくに意味をなさないことはお分かりいただけるでしょう。
 マルクスが『資本論第一巻』で対象にしている商品は、資本家的生産様式で生産された工場生産品に限定されています。職人が生産する商品や芸術家の作品は、マルクスの「商品」の中には入ってこないのです。ユニークネス(独自性)や希少性も商品価値の主要な決定要因の一つです。マルクスがどうしてこんな隘路に踏み込んでしまったのかは、A.スミスの『諸国民の富』にその原因を見出すことができます。分業ですよ。それに囚われました。ドイツはマイスター制度があるにもかかわらず、職人の作る商品をその対象から外さざるを得ませんでした。これらのことは別稿でもう少し詳細に採りあげたほうがよさそうです。そこでは伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮によって建築技術が伝承されてきたことも扱うことになるでしょう。
 ところで、労働価値説が公理として偽であるということは、剰余価値学説に基づいている「資本家の搾取」という説明も偽であるということです。ここで大問題が持ち上がるのです。
 賃金をアップしたかったら、労働運動の在り方が根本から見直されなければならないことになります。労働価値説ではない理論で「賃上げ」に取り組む必要があります。
 ロシアや中国の社会主義経済や共産主義経済がなぜ破綻したのか、中国が政治体制は共産主義独裁国家でありながら、経済体制としてはなぜ資本主義化してしまったのかも、おいおい理解できるでしょう。

 では何が商品の価値を決めているのか、それは単一のものではありません。生産性、品質、社員を含めた従業員のスキルの高さ、希少性、独自性、ニーズ、マネジメント、ビジネス倫理などさまざまなものが商品の価値の決定要因であることを、実例を通してくどいほど説明します。すでに2つ紹介しました。


<事例3SMS
もう一つ例を出します。SRLで関係会社管理部にいた(1992年から)1年半くらいの間の仕事を紹介します。生産性アップ事例です。
 三井物産から買い取った臨床検査子会社が千葉にありました。SMS(エスアールエル・メディカル・システムズ)という会社名だったと思いますが、ここでは千葉ラボと呼んでおきます。東北の臨床検査会社CC社の開発したラボシステムを導入していましたが、生産性が低いので、赤字解消のためにラボシステムを新規開発することに決めました。親会社側でわたしが担当しています。関係会社管理部にはシステム開発スキルと経営分析の専門技能がある人は他にはいませんでしたので、わたしにお鉢が回ってきました。SMSの社員の中に2人、SEではありませんが、仕事に熱心で優秀な人がいました。外部設計をしたりプログラミングはできませんが、RDBマシンのSQL文が書けましたから、彼らが使えるマシンを導入する必要がありました。現場の仕事をよく知っている社員で能力が高い人がいれば、マネジメント次第で赤字企業は簡単に黒字転換できます。彼らが二人がいたのでとてもやりやすかった。一人は、この仕事の後で取締役になっています。正当な人事評価でした。
 8㎝のファイルで10冊、自分の発信文書ファイルを昨年の引っ越しの際に捨てたので、確認ができませんので、記憶をたどって書きます。企業小説を何本か書くつもりで資料をとってありました。(笑)
 開発はIBMAS400とリレーショナル・データベースマシン(RDB)の2台で計画が練られていました。生産性アップによって赤字解消が狙いだったので、仕様を損益シミュレーションに反映して確認しました。生産性が2~3倍にアップできるような仕様のまとめ方をしてます。4月の健診時に業務量が激増しますが、処理能力が低いために受注抑制していました。半年ほど千葉に週2くらいの頻度で通い詰めて、開発支援し本稼働に立ち会いました。4月は前年度の2倍の業務量をこなしています。見事な赤字脱出でした。親会社での稟議案件だったので、損益シミュレーションを添付しています。SRLで新規システム導入でその結果についての損益シミュレーション付きの稟議書は初事例でした。実際にはそれを少し上回った実績が出ています。


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 関連があるので少し脱線します。
 この翌年1993年、旧システムを開発したCC社の経営分析を依頼されて、1億円の出資交渉をまとめて、SRL創業社長藤田さんの指示でCC社経営企画室担当取締役として出向することになります。東北で染色体画像解析装置を導入した唯一の企業でしたから、1989年には知っていました。業績の悪いお蕎麦屋さんが売上を増やすためにメニューを増やす。寿司をメニューに加えるのようなものです。染色体画像解析分野はSRLが市場の80%を握っていたので、売上をもっていけませんから、機器の減価償却費が出ないので経営状況は悪化します。はなから無理なのです。同じころに帝人の臨床検査子会社も染色体画像解析装置を導入してました。そのときに、時間が経てば累積赤字が膨らんで債務超過になるだろうから、そうなる前にこれら両社を買収しようと思いました。従業員が路頭に迷います。
 それから8年が経って、帝人との治験合弁会社の経営を担当することで、帝人臨床検査子会社を買収する仕事をわたしが担当することになるとは思っていませんでした。創業社長の藤田さん(医師)から近藤さん(医師)に社長が交替して、近藤さんの特命案件で、帝人との治験合弁会社の経営を任されることになりました。3年のお約束で四課題(3年で、①期限通りのスタート、②黒字化、③合弁解消と帝人持ち株の引き取り、④帝人臨床検査子会社の買収)クリアしてます。事業の柱を治験検査から利益率の高いデータ管理分野へシフトして、赤字解消しました。マネジメントが商品の価値にも企業の価値にも大きな影響をもつものだということがわかります。
 転籍する社員に、それ以前よりも高い年収を保障するためには、赤字解消だけではいけません。SRLを超える高収益企業にする必要がありました。みんな喜ぶだろうとそれが愉しみで仕事してました。
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仕事のやり方をかえ、コンピュータシステムを変えたら、生産性が大幅にアップして赤字会社は黒字になります。同時に商品の品質も向上して、商品価値が上がると同時に製品1単位の製造コストが下がります。
 経営構造を変革し財務安定性を増していけば、社員の給料やボーナスも大幅にアップできます。子会社が生産性を劇的にアップできたら、親会社と同等以上の給与を支給できます。親会社よりも優秀な人材採用が容易になります。世の中にそういう子会社がニョキニョキ出てきたら、楽しいじゃありませんか。

「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」
 自分たちの努力で給料やボーナスがアップすればうれしいものです。家も買えるし、自分のアイデアを仕事で実現し、喜んで働けるようになります。業務改善して、業績が向上し、ボーナスが増えることで仕事そのものが愉しくなります。世の中にそういう企業が増えたらいいなあ、そう思って仕事してました。 

 業績の悪い会社、赤字すれすれの企業は賃上げなんてできません。ボーナスも年間3か月ほどでしょう。それもかなり無理しています。わたしが在籍していた16年間、SRLのボーナスは年間8~9.5か月でした。
 労働組合は賃上げしたかったら品質向上や生産性アップ、クラフトマンシップ、そしてマネジメントに注目すべきです。モノの道理に従って当たり前のことを当たり前にやればいいだけなのです。

 あと2つ事例を付け加えます。

<余談:古典派経済学、ケインズ、新古典派経済学との比較>
 労働価値説に基づく経済学を「古典派経済学」と呼んでいます。労働価値説に基づかないそれ以降の経済学は古典派と対置して新古典派経済学と呼ばれており、その中にはさまざまな学説が含まれています。ケインズ経済学『雇用・利子および貨幣の一般理論』はそれらのどちらにも属していません。枠組みとしてはマクロ経済学に属します。
 経済学説の中に微分の考え方が入っているかどうかでも、 、ルクスにはそういう考えがありませんでした。微分の意味が理解できなかったからです。『数学手稿』を見ればそのことがわかります。

 ところでわたしは、ビジネス倫理を問題にしていますが、経済学者で最初に倫理や道徳を問題にしたのはA.スミス『道徳感情論』(1759年)でした。それ以降、現れていませんね。この本については院生の時に思い出があります。鈴木信雄さんがこの本を薦めてくれました。水田訳の本を購入しましたが、悪訳で日本語になっていません、数十ページ我慢して読みまれた人がいました。高校の国語の先生だったかな。鈴木さんは原書で読んでいたようです。わたしのマルクス研究がどこかで『道徳感情の理論』とつながってくることを予感していたのかもしれません。つながってしまっています。日本は江戸時代からビジネス倫理の先進国でした。いや、世界で唯一のビジネス倫理実戦の国と言い換えていいでしょう。

 わたしは、職人仕事を中心に経済学を考えてみていますが、それは日本人がやる仕事はすべからく職人仕事になってしまうからです。どうしてそうなるのかは、仕事に関する文化や伝統と深いかかわりがあります。何度か弊ブログで採りあげています。職人仕事に嘘やごまかしはいけません。その時その時持ち合わせている伎倆で渾身の力で仕事するのが理想です。
 職人仕事は品質と深い関係があります。ホワイトカラーの事務仕事ですら職人仕事になるのが日本の不思議なところですね。わたしは、予算編成や予算管理、経営分析、実務設計、システム開発、経営改革などの職人でした。管理部門の仕事は、大工の棟梁みたいなところがあるのをずっと意識していました。小学校の低学年の頃は、カンナを研いでそりや犬小屋を作るのが愉しみで、将来は大工になろうと思っていました。そういう手仕事に憧れがあったんですね。
 職人仕事には半人前の仕事、一人前の仕事、名工の仕事に大きく三分類できます。どこまで極めても限(キリ)がないのが職人仕事です。修行とセンスを必要としています。そういうところから経済学を眺め、新しい経済社会の創造をしてみたい。いろんな経済学があっていいのです。
 わたしは個別企業のマネジメントという視点から経済を眺めようと思います。そうした視点からは経済学と経営学は一体のものということができます。いままでの経済学とは違う視点を獲得したと言えるでしょう。
 より大切なことは、この視点から別な経済社会を具体的にデザインできるということでしょうね。大胆な試みになりそうですが、書いていくつもりです。

*#5113 公理を変えて『資本論』を演繹体系として書き直すことは可能か? Nov. 13,2023

**#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023





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#5119 昨年の今日引っ越しの荷物を解いてました Nov. 26, 2023 [A8. つれづれなるままに…]

 古里の極東の町へ戻って20年間、空き家にしていた東京の家へ戻ってきました。古里へUターンして、また東京へ戻ってきたので、(Uターン)^2かな?
 家財道具の半分ほどは処分して引っ越してきましたが、段ボール箱が一杯、寝るところだけは場所を確保してありました。段ボール箱を全部開けて整理するのに3日間くらいかかったのかな。車がないので、数か月間は買い物に不便を感じましたね。バスのシルバーパスの購入手続きをすぐにして、だんだん慣れちゃいました。
 1か月前から、事前準備作業でへとへとになりながら、よく身体が持ったと思います。もうあんな引っ越しはとてもできません。市のごみ処理場に何度も車で運びました。値打ちのあるものはブログやFBで写真をアップして引き取り手を探して処分しました。トチノキの厚さ8㎝、長さ1.5m、幅1mの座卓の引き取り手が現れて、ほっとしました。あれは棄てたくなかった。新宿伊勢丹で購入したもので、もうこのサイズが売りに出ることはほとんどないでしょうと言われました。原木がないのだそうです。長方形の上も下も長さがほぼ一緒でした。大木でないと木の上の方が小さくなり、台形になってしまいます。

 スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、2006年に胃と胆嚢の全摘手術、浸潤していた横行結腸の一部切除をしているので、夏場の水の摂取が追い付くかどうか心配でしたが、暑い東京では水の吸収能が上がりました。胃がないので、コップにいっぱいの水を数分で飲むと下痢して痩せて体力が奪われます。30分から1時間かけてコップ1杯の水を飲むようにしていました。半分くらいなら一気飲みしても体調のいい時は大丈夫になりました。
 水分が足りなくなると危ないので、朝起きたときと寝るときに体重測定して、EXCELに記録してあります。7日間移動平均値を自動計算してあるので、体重の推移がよくわかります。寝る前の体重と朝起きたときの体重は、少ない時で200g、多い時は600g程さがあります。
 東京へ戻ってきてから1.5㎏ほど体重が減りましたが、下げ止まっているのでいいのでしょうね。

 車を処分したので、今日も歩いて女房殿の買い物にお付き合いしました。散歩にちょうどいい塩梅(あんばい)の距離です。
 ここ1か月ほど、外に出ないときは家の中で足踏みしています。膝を心臓の近くまで上げて足踏みしていたら、脚がよく上がるので歩くのが楽になりました。脚を80cmほど開いてこれをゆっくりやると、左右それぞれ交互に一本足立ちになってバランスがよくなり、歩いているときも体が左右にぶれなくなりました。思いがけない効果です。1分間計測してみました。ゆっくりめで42回でした。交互に片足立ちになります。分速30回だと、強度がグンと増し、有酸素運動並みの負荷になります。
 少し大股で歩く癖があるので歩幅は90~91㎝です。
 極東の町にいたときに比べたら、ずっと歩いていますね。その代わり自転車はほとんど乗らなくなりました。一番乗った年は1700㎞もサイクリングしていました。いつまでもそんな無茶ができるわけもありません、何事もほどほどでいいのでしょうね。35年大事に手入れして使用していたミヤタ製のカーボンファイバーフレームのロードバイクは棄ててきたので、ブリジストン製のマウンテンバイクだけです。この1年間で300㎞くらいしか乗っていませんね。ほとんど買い物用です。坂道だから負荷は大きい、だから登りはのろのろやっています。横を女子高校生が電動自転車で鼻歌唄いながら追い抜いていくことがあります。すいすい、あの速度にはかなわん、わたしアンダンテ(笑)

 今日は英作文の問題造りしていました。第1414回、A4判で1650ページです。いつのまにか15000題を越えて来週中に16000題に達しそうです。塵も積もれば山となるの格言通り。
 昨日も、英作文問題と解説のメール配信しました、週2回です。来年いっぱいは希望の元塾生たちへ配信するつもりです。一人で無理せずやれるボランティア活動。勉強してくれる生徒達に感謝!


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#5118 『こころ』初版復刻本の楽しみ方 Nov. 22, 2023 [44. 本を読む]

 漱石は漢字の当て字をよく使う、そしてそれが意味をよく了解して適切に使っているように見える。大和言葉に漢字を当てていることが時々ある。読み終わったらそれがどこにあったか思い出せない。(笑)
 現在のわたしたちとは指示詞や副詞や接続詞に漢字を当てている点も大きな違いだ。その違いを味わうのも一興である。
 夏目漱石の初版復刻本が中古市場で安く取引されている。漱石は本の装丁に興味が強かったらしく、一冊ずつそれぞれ趣を異にした装丁で本を出した。
 スマホで『こころ』を読んでみたが、旧仮名遣いは現代仮名遣いの改められているし、副詞や指示詞は平仮名に書き改められており、原文の味を著しく損なっていた。
 ぜひ、初版復刻版でお読みいただきたい。いまこのような装丁で本を出版したら、1冊10000円くらいになるかもしれない。全巻ではないが十冊くらいのセットで10000~20000円くらいで手に入るようだ。
 『こころ』は高校国語教科書にも掲載されている。ぜひ初めから終わりまで、通して読んでもらいたい。書き手の頭の中がのぞけます。漱石はどのように思索しているのかがよくわかります。これだけ深い思考を達意の文章で表現できる作家はなかなかいませんね。文豪の一人と言われる所以(ゆえん=理由、分け)がよくわかる作品です。

 ページの記載のないのは最後の第56章から抜き出しました。

① 妻(さい)の笑談(じょうだん)を聞いて初めてそれを思ひ出した時、...
② 能(よく)く解らない
③ 何方(どっち)が苦しいだろう
④ 己を盡(つく)した積(つもり)です
⑤ 却(かえ)って其方(そのほう)
⑥ 此(この)手紙、此世(このよ)、此(この)長い
⑦ 他(ひと)の参考に供するつもりです

⑧ Kが嘸(さぞ)喜ぶだろう 405
⑨ 斯(こ)うした 其前(そのまえ) 其墓(その墓) 406
⑩ わたしの果敢(はか)ない希望 407
⑪ 所(ところ)が愈々(いよいよ)夫として 407
⑫ 不図(ふと)自分の位置に気がつくのです。 411
⑬ 屹度(きっと)沈鬱な反動があるのです 411
⑭ 自分丈(自分だけ)に集注される 416
⑮ 彼は大学へ這入(はい)った以上 289
⑯ わたしは左右(そう)かと言って 289
⑰ これは固(もと)より 293
⑱ 彼は段々感傷的(センチメンタル)に 294

⑲ わたしの周囲(ぐるり)を取り捲いている ebook 507

 笑談で「じょうだん」とフリガナをつけているが、「冗談」の字では「笑いながら冗談」を言う景色は見えてこない。うまいつかいかたです。
 ②の「能く」は「良く」、「好く」の三つがあるが、漱石はここでは「能く」を選択しています。「能く解らない」というのは自分の能力の範囲では「能く解らない」と解していいのでしょう。他の字ではそういう含意が伝わらぬ。
 ④の「盡」は「尽」の旧字です。明治時代の本ですから、旧字の方が雰囲気出ますよね(笑)
 ⑮の「這入った」は這いつくばって(努力して)大学へ合格したことがよくわかります。「入った」では味も素っ気もありませんや。こういう漢字の使い方が巧(うま)いのです。ぜひ真似して遣(や)ってみてください。国語の先生が何というか、愉しみですね。「なかなかすてきだね」なんて言える先生は十人に一人もいるかな?
  ⑱の「感傷的」に「センチメンタル」というルビを振ってあるところも粋ですね。明治時代にこんなことしているのですから、ハイカラです。『虞美人草』では「洋杖」と書いて、「ステッキ」とルビが振られています。
 同じ本からもう一つ追加したくなりました。
 「額とも云はず、顔とも云はず、頸窩(ぼんのくぼ)の盡くるあたり迄、 3ページ
 「ぼんのくぼ」とは頭の後ろ側の下部、頭がい骨と頚椎の接点のあたりの窪んだところ、重要なツボのひとつで、眼精疲労に効きます。「首+窪み」で「頸窩」、納得がいきませんか?「けいか」とルビを振ったら、音だけ聞いても何のことは伝わりませんよね。漱石は大和言葉の「ぼんのくぼ」に通常当てられている「盆の窪」の漢字を当てずに、意味から考えて「漢字に翻訳」しているんです。名訳ですよね。


 『吾輩は猫である』だったか『坊ちゃん』だったか、「むつかしい」に「六つかしい」と当て字しているのがありました。あれにはたまげた。六つも選択肢があったら「むつかしい」のはあったりまえ。(笑)
 初版復刻本は書き手が選んだ漢字の意味を考えることで、シーンの理解に奥行きが出てくる場合が多いのです。こうしてみると最近の小説はのっぺらぼうの二次元のような作品が多いことに気がつきます。表現の手段として、漢字を選択して、ルビを振ることは展開されるシーンに奥行きを与えるものであることがわかります。そういう作品が出てきてほしい。
 もう一つ大事なことがあります。主人公の「先生」の思考が克明に書き込まれていますが、あれは漱石自身が頭の中で考えて創り出したものですから、漱石の思考の仕方を追体験できます。文豪は物事をどういう風に見てそれについてどのように考え、行動が必要ならどういう決断をするのか、人間関係をどのようにとらえて考えを突き詰めていくのか、そういうことも読み取れるわけです。優れた書き手が著したものはくめども尽きぬ泉のようなものです。時空を超えて書かれた本を通して漱石とまみえることができるのは、ありがたいこと。

 理由はどうでもいいから、ぜひ、初版復刻本でお楽しみいただきたい。
 これは少し高い。7984円だそうです。
 岩波書店初版復刻版『こころ』

 1982年にほるぷ社で出版した24冊物の『漱石文学館』夏目漱石初版復刻全集の方がずっとお安いですよ。わたしの所蔵品はこれです。リタイアしたら読むつもりで買いました、それから40年が経ち、ようやく全巻読むことができそうです。
 数日前にamazonで見たときには、数セットあった出品が一つもなくなっています。初版復刻本は安値で出るとすぐに売れてしまうようです。



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#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023 [A2. マルクスと数学]


<一般論>
 背理法でマルクス『資本論』の土台をなす労働価値説が偽であることが判明しましたが、しかし、何が公理としてふさわしいのかについてはいまだ明らかではありません。

 買い手のニーズが商品の価格を決めるので、「売り手の商品生産能力と買い手のニーズが市場で商品の価値を決める」と仮定しましょう。
 このことは商品の価値は絶対的なものではない、相対的なものであるということを示唆しています。それで、矛盾なく経済学体系が記述できればいいわけです。公理ではないものを公理に措定したら、どこかで矛盾が生じますから。
 マルクスは公理を析出するまでを「下向」、公理を出発点として論理的な体系を抽象的なものからより具体的なものへと展開していくことを「上向」と呼んでいます。「単純なものからより複雑なものへ」と言い換えても差し支えありません。

 マルクスの上向への旅をより明示的なものにするために、経済学を演繹体系として記述するために次のような「関係概念」を導入します。「関係概念」とは一つの「場」です。 単純なものからより複雑なものへ、ということが見て取れるでしょう。

①公理の措定⊂②価値表現の関係(物々交換)⊂③交換関係(貨幣):④(貨幣の資本への転化)⊂⑤資本(生産、販売、マネジメント)の運動と単純な市場関係⊂⑥国内市場と国際市場関係 

 包含記号「⊂」を「⇒」に置き換えてもいいでしょう。矢印が上向への旅を示しています。単純なものからより複雑で具体的なものが展開されていきます。公理の措定が体系の出発点です。そこから「場」に応じた概念規定がなされていきます。
 マルクス『資本論』と大きく違うのは、投下労働価値説によらないので、①と②と③が違ってきます。④はそのままでいい。⑤と⑥がまるで異なっています。マルクスの見ていた勃興期の資本主義とは時代が違うから当然でしょう。そしてマルクスの時代には特殊数学であった複式簿記は、今や世界中の企業で財産状態の変動と経営活動の成果を記録するための技術でとして広く使われています。わたしたちはそういう武器を手にしています。

 ところで、資本は生産設備やコンピュータシステムなどのソフトウェアと人件費と原材料にその形態を変えます。
 組織という視点から企業を見ると、製造部門と販売部門とマネジメント部門(本社機能)をもたなければなりません。
 製造部門で生産性や品質や製造原価が決まります。販売部門は商品の販売戦略立案とその実行、そして売上債権管理がその主要な機能です。本社機能が担うのは、長期戦略目標設定や長期戦略、それらに基づく単年度の投資や損益予算編成です。

 保有財産の変動と経営活動の成果の記録は複式簿記によってなされます。
 全部門のコストが積み上げられて売上原価となります。利益があるかないかは市場価格次第です。利益は売上原価と市場価格の差によって決まります。当たり前ですね。
「売上-売上原価=税引き前利益」
(実際には、営業外損益と特別損益が加味されますが、議論を簡単にするために、ここでは無視します。)

 製造部門で決まるのは製造原価と生産性と品質です。
 自動車を考えてみると、耐用年数が10年の自動車と30年の自動車では品質が異なります。10年後の故障率が50%の自動車と0.5%の自動車でも品質が違います。これも市場で価格に差が出る要因です。品質の良し悪しによって商品価値に差が出るということです。

 生産性が標準の2倍なら、人件費も半分ですからその半分の資金投下で生産性を2倍にアップできたら、製品の製造原価の1台当たりコストは低下します。給与を1.5倍にしても利益は増えます。逆に生産性が標準の50%なら、製造コストが高すぎて損失が出ます。損失を出し続けたら企業は経営破綻ですから、それを防ぐために給与水準も下がります。給与水準が下がればいい人材は集まりにくいですから、その点からもジリ貧になります。高い生産性を誇る企業は、そこで働く人たちへの給料もたくさん出せます。給与を2倍にしたかったら、品質を挙げつつ生産性を2倍にする具体的なアイデアを出して、自分たちで実行したほうがいい。
 労働組合運動なんて剰余価値の搾取だなんてことを信じて、たかが数%の賃上げに窮々としているだけです。赤字すれすれの民間企業が賃上げできないのはモノの道理です。労働価値説に基づいた「搾取」、剰余価値理論が間違っているのですから。「搾取」なんてことをやっているのはブラック企業だけですよ

 生産性や品質も商品の価値を決める要因ですが、製造原価は製造部門のマネジメントや職人のスキルでも決定されます
 製品1単位当たりの製造原価も品質も職人のスキルも市場価格に影響します。つまり、投下労働量なんかでは市場価格は決らないということです。もっと複雑なシステムで相対的に決定されるのが商品の価値です
 マルクスやアダム・スミスの投下労働価値説はわかりやすいですが、現実離れしてます。現実は複雑です。
 だから、剰余価値の搾取という単純素朴な妄想型経済理論では現実の経済運営ができなかったのです。投下労働量が商品の価値を決めるなんて理屈にしたがったら、生産性の改善やマネジメントの巧拙なんて視点が出てくるはずもなく、生産性は低いまま、マネジメントも下手くそなまま、低賃金で経済がマヒしてしまいます。共産主義や社会主義は企業のマネジメントという視点を欠いた妄想でした
(中国はコマツが、同情心から無償で、モノの作り方の心構えや品質改善のやり方を手取り足取り中国企業に教えましたが、そのやり方が中国全土の製造業に普及しました。)

 経済の基礎は個別企業です。個別企業で再産される商品の価値は、企業のマネジメントとそこで働く職人たちのスキルや生産設備、コンピュータシステムなどに依存しています

「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」はマネジメント次第ということになります。この四方よしには他のビジネス倫理も絡んできます。
 ●浮利を追わない
 ●信用を第一とする
 どれもこれも、日本の老舗企業が数百年間守り続けてきたビジネス倫理です。新しい経済社会はこうしたビジネス倫理と高度なマネジメントの両輪がそろって実現できます。
 グローバリズムは終焉させましょう。地域単位で自律的な経済運営ができるようにします。ビジネス倫理と広範な産業が揃っている日本がお手本になります。鎖国をイメージしていいのです。鎖国は管理貿易です。植民地が消滅します。グローバリズムは富が偏在する主要な原因です。 


具体例を五つ挙げてみます。
<具体例-その1:紳士服製造卸の小企業>
 ある事情があって大学四年次に就職活動をしておらず、四月になってから、職を探し、日経新聞に載っていた税理士事務所を訪ねました。そうしたら、取引先の紳士服の製造卸の企業を紹介されたのです。企業規模は小さく、社員数は5人でした。スキルの高い裁断師は2回りほど年長、社長もほぼ同じで40代半ばでした。営業マンが2名、営業見習いが一人、そして経理担当として雇われた私の5名でした。別会社で衣料品小売り店の支店が一つありました。
 この会社ではMen’s Wearとドイツの紳士服のファッション誌を定期購読しており、バックナンバーが揃っていたので、暇つぶしに眺めていました。ドイツのファッションの方が性に合いました、ワンシーズン遅れで日本で流行ることがわかりました。
 生地選びから生産企画がスタートします。生地見本を見てどの生地で何を作るか決めていきますので、数社の生地問屋の営業がしょっちゅう出入りしています。夏に生地の厚い冬のシーズンの生地を見るのですが、ちょっとうざい。(笑) 5㎝くらいの正方形の生地見本を見て、次のシーズンに使う記事を選びます。社長のMさんがあるとき、「自分が着るならどれがいい?」とわたしに聞きます。自分が着たいと思う生地を10点ほど選んでみました。裁断師さんに、その中から2点自分で買いたいので若向Y6号で作ってほしいとお願いしました。できあがってきて、営業マンがスーツの見本を車に積んで、各地の紳士服小売店に回って予約を取ってきます。私が選んだ若向きのものが飛ぶように売れました。それで、次のシーズンからは、社長がわたしに若向きの反物の選択を全部任せてくれました。150mの巻物です。たくさん選んだ中で、モスグリーンのスリーピースがとっても気に入ってました。できあがってみたらとっても品(ひん)がよいのです。淡い色のブルーの綿の夏用のスーツもお気に入りでしたが、これ来ているときはラーメンやお蕎麦は食べられません。汁が跳ねたら染みになりますから。

 見本ができあがって、営業マンが車に積んで客先を回ります。すると売れ筋の若向きと一緒に、年配物のスーツや替え上着も一緒に仕入れてくれます。それで、数年間溜まっていた不良在庫数千万円分が全部吐けてしまいました。社長はその大部分を処分するつもりでしたから、喜んでました。
 私のセンスがよかったわけではありませんよ、団塊世代の大卒が就職期に突入した時代だったので、わたしのノーマルな感覚での生産企画がヒットしただけのことです。でも、世間の基準から見たら少し派手目の企画だったでしょう。

 さてここからが経済学の問題です買い手がつかない不良在庫は投下労働量の大小にかかわらず商品価値としてはゼロですところが、若向きの売れ筋のラインが充実している製造卸からは、一緒に年配向きの不良在庫も買ってくれます生産企画と製品の品質と販売の仕方が商品の価値を高くすることがわかります。商品の価値は製造原価では決まっていません。販売の仕方でも変わります。商品価値の決定に関与する変数は無限にあるということです。主要なものをピックアップして俎板(まないた)に載せるのが本稿の狙いです
 父親が就職する息子に背広を買ってやるついでに自分のものも購入するというシーンが浮かんできます。商品の価値は市場で買い手が決めていました市場と言ってもそれは売り手と買い手の相対で構成されています。それの総和が市場という概念です。市場一般が存在しているわけではないのです。それは抽象的な概念にすぎません。
 金や穀物(大豆、小麦、米、トウモロコシなど)や原油などはそれぞれ商品市場が存在します。品質によってそれぞれ格付けがなされます。通貨(外国為替取引所)や証券(東京証券取引所、NY証券取引所など)もそれぞれの市場があります。商品取引所で世界最古のものは堂島の米先物取引です、堂島米会所が取引所でした。これは、旱魃や水害に対するリスクヘッジのためのものでした。

 売れ筋のものは値引きしないで売れますから、会社全体の利益率も上がってしまいます。買い手が買いたくなるような商品を企画し、ほどほどの品質の縫製工場と長い取引をしていたら、品質が安定しますので、売上は増えます。
 裁断師のUさんが、新規取引の縫製工場からできあがってきた製品の品質をチェックしてました。まずいところがあると技術指導もしてました。裁断師さんから紳士服の仕立てに関してさまざまなことを教えてもらいました。イタリア製の型紙を、生地を重ねた上に置きます。できるだけ無駄のないように置いて、裁断します。これも生産性に影響します。中間プレスも重要です。これが甘いと来ているうちに型ずれします。生産企画も縫製工場への技術指導もマネジメントです。マネジメントが慥(たしか)かなら、商品価値がゼロだった不良在庫も、普通の価格で取引されるんです
(メモ:1970年代後半に紳士服の製造拠点が韓国へ移っていきました。人件費コストが安いからです。日本企業は縫製工場の品質改善のためにずいぶん技術指導をしましたが、てこずっていました。韓国では日本とは違って、職人は身分の低い人たちの仕事で、社会的評価も低いのです。だから心を込めて仕事するなんて発想がありません。仕上がりがよければいいというのか韓国の起業家や職人の考え方でした。だから、中間プレスなんていい加減、着てみたら違いが数か月でわかりました。縫製ビジネスは単なる金儲けの手段と考えているようにしか見えませんでした。いまでも、大手安売りマーカーは韓国や中国の縫製工場へ外注しています。「抜き襟」になる製品が溢れています。着づらいったらありゃしません。少し高くても日本の縫製工場でつくられたものを購入したいですね。イージーオーダー品は日本の縫製工場でしょう。)

 大学院進学のため11月末に辞職願を出して、引継ぎもあり1月末でやめました。
 10年あったら、事業規模50億円くらいの企業になっていたでしょう。

 一つ学んだことがあります。社長は入社した当時で四十代半ばでした。終戦後作れば作っただけ売れた時代を生き抜いてきた人です。それが四十代半ばになって、通用しなくなりました。どうすればいいのかわからないのです。そこへ生産企画のできる経理マンが飛び込んだのです。
 面白い話があります。芋を洗うサルがいるそうです。若いサルはすぐに真似て芋を海水で洗いますが、人間でいうと四十代半ばの年齢になると真似ができないそうです、つまり、四十代後半になると新しい文化が受容できないということ。個人差はありますが、この企業の社長がそうであったと思います。むずかしいものですね、成功体験が強いほどそれにこだわって抜けられないケースがあります。だから、わたしは転職するたびに業種を変えました。同じ轍を踏まぬように、転職の都度業種を変えるというルールはワクチンのようなものでした。常に変化の中に身を置くことで、固定観念に縛られないようにしてました。
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 少し脱線します...
<<転職の遍歴>>
 紳士服の製造卸(2年10か月)⇒産業用エレクトロニクスの輸入商社(5年5か月)⇒最大手の臨床検査企業SRL(15年8か月)⇒療養型病床の病院(1年6か月)⇒外食産業(上場準備作業:1年8か月)⇒古里へ戻り私塾を20年間営む⇒今は色がありません、無色透明(笑)

 一番長かったSRL(在籍期間1984年2月~1999年9月末)では「社内転職」を繰り返してました。
 経理部(予算編成・管理&経営統合システム開発担当)⇒総務部購買課(機器・設備購入担当&システム担当、検査試薬価格交渉担当)⇒学術開発本部(課長職:海外からの視察(ラボ見学)担当&開発部でメーカーとの検査試薬共同開発&慶応大学産婦人科との出生前診断検MoM値の日本標準値制定のための産学合同プロジェクトマネジャー担当)⇒関係会社管理部(子会社・関係会社の経営分析及び臨床検査会社買収と資本提携交渉担当)⇒CC社取締役経営企画室長出向⇒経理部管理会計課長・社長室兼務・購買部購買課兼務⇒SRL東京ラボ経理部長職で出向⇒帝人との治験合弁会社経営(近藤社長の特命案件担当)

 大きい企業は、「社内転職」という手があるので退屈しませんね。16年間で8部署、それぞれ1.5年から3年間くらいが多かったのです。一番短かったのが、2度目の本社経理部管理会計課長職でした。半年ぐらいだったかな。購買在庫管理システムが更新時期に来ていましたが、担当できる者がいないので、1週間くらいでクライアント・サーバーシステムで、サーバーを使ったコンパクトなシステム仕様書を書いて、購買課へ出向していたシステム担当へ渡しました。旧システムと同じく、富士通の汎用大型機を使うつもりで話が進んでいたので、全部ご破算になったでしょう。ハードウェアは2000~3000万円で済みますから。実務設計と外部設計が1週間でできるというのは1年間かけての開発に比べると、開発コストが1/3以下で済むということです。完璧な実務設計と外部設計書があれば、試行錯誤はないので、内部設計のやり直しやプログラミングの手直しが激減します。ものによっては1/10以下になります。実務設計と外部設計に3人の人間を1年間使ったら、スキルの高い人材を投入しますから3000万円くらいかかってしまいます。
(対比のために、例を挙げておきます。SRLの原価計算システムは3人が担当していて、2年かかっています、監査法人からの応援は300万円/月支払っていました。設計もプログラミングも外注でした。1.5億円はかかっています。
 2000年に外食産業の企業で上場準備要件を満たす原価計算システムの設計をしました。社内の関連システムを調べて、インターフェイスを明らかにして、実務設計をして外部設計書を書くのに1週間を要しています。それをNCDさんにわたしてプログラミングに1か月の仕事でしたから、600万円で請け負ってもらいました。スキルの差がコストの差になります。システムデザイン部分の生産性が10倍以上になり、仕様の変更ありませんので、プログラミン後の工数も減ります。外部設計書はプログラミング仕様書レベルで書きますので、開発期間が短縮されます。1か月後にプログラミングをし終わって納品してくれました。担当してくれたSEはSRLで経営統合システムのメンテナンスを10年ほど責任者として担当してくれていたU田さんでした。とっても腕の良いSEになっていました。うれしかった。)

 購買在庫管理システムの外部設計をしてから1年半くらい後で、立川本社でパーティがありましたが、システム部長のS田さん、わたしを見つけると、「あの時はたいへん失礼しました、ebisuさんのこと何も知らなかったものですから」と挨拶されました。システム部から購買部へ出向していた数名が、少し無礼な態度で接していたことを知ったのかな、わたしはちっとも気にしてませんでしたが。日本標準臨床検査項目コードの大手六社検討会議を臨床病理学会の検査項目コード委員長の自治医大櫻林郁之助教授を招聘して産学協同プロジェクトに転換したのはシステム開発部の栗原さんとわたしの二人の仕事でした。「臨床診断システムの開発と事業化案(1986年)」を書いて、創業社長の藤田さんに200億円の事業化予算を承認してもらいました。その中の10個のプロジェクトに、臨床検査項目コードの日本標準制定プロジェクトが含まれていました。臨床検査項目コードは世界標準コードにするつもりでした。4年の産学協同プロジェクトを経て1991年に4年間毎月持ち回りで開かれた産学協同プロジェクトの成果が日本臨床病理学会から発表されて、それ以来、日本中の病院やクリニックのシステムはこの標準臨床検査項目コードで動いています。臨床検査項目コードの管理事務局はいまでもSRLにあるでしょう。システム部門が学術部門と協力して担っているのでしょうね。1987年当時のシステム開発部長はSさんは大反対でした。システム開発課長の栗原さんに「部長が反対しているのに、一緒に日本標準臨床検査項目コード制定に動いて大丈夫なの?」と尋ねたことがありました。あいつはちっとも気にしてませんでした。人事評価よりも社会的に意義の大きい仕事を選ぶ人でした。日本標準コード制定に反対したシステム部長の後任が病理医のS田さんでしたから、おそらく誰かがそのあたりの事情を説明したのかもしれませんね。1989年には沖縄米軍からの依頼のあった出生前検査(トリプルマーカ検査)をシステム部が対応不可能だというので、学術開発本部で引き取り、上野君というC言語のプログラマーを半月借りて小さなシステムを作って問題を回避して、出生前診断検査を導入しています。そういうわけで、システム部のメンバーとはいくつか接点がありました。
 富士通のSEが旧システム通り、汎用大型機を使う提案書をすでに書き上げていたのだと思います。それを否定されたのですから、「素人が何を言う」というような態度でした。実務設計と外部設計書を専門家が見たら一目瞭然ですから、放っておきました。購買課長のOさんが適切に判断したはずです。彼が検査管理部時代にラボの機器開発で何度も一緒に仕事してますから、信頼関係が篤かったのです。
 システム部長のS田さんへわたしが購買課で機器担当をしていた時に病理部で仕事していました。S田さんは病理医でそのころの入社ですから、わたしが全社の予算管理をしていたことも、SEでもあって経営統合システム全体の開発をコントロールしていた事実も知りません。彼がSRLへ来る前、1984~1985年の2年間のことですから。社長の近藤さんも、そのあと1988年くらいの入社ですからご存じありません。だから、社長室も兼務していた時に1週間で購買在庫管理システムの外部設計書を書き上げて渡して、それに基づいて、新しい購買在庫管理システムができあがったなんて知る由もありません。通常は外部設計と実務設計に1年間はかかります。内部設計とプログラミングは「作業」に近い仕事です。
 わたしのバックグラウンドのほとんどを知らない社長の近藤さんが、暗礁に乗り上げた帝人との治験合弁会社立ち上げプロジェクトを担当させたのは理由がありました。打開できるのは社内でわたしだけだと、メンバーの一人が提案したのだそうです。その御当人のWさんから後で聞きました。それで、本社経理部から子会社へ出向していたわたしを1年半もしないうちにまた呼び戻したのです。そのときは迷惑でしたが、結局楽しい仕事になったのですから、感謝しています。
 子会社で首都圏のSRLグループのラボ再編という大きな仕事の真ん中ぐらいに来てましたので。広い土地の目当てがつきそうだったので、絵柄ができあがりそうなところで、SRLの近藤社長に了解をもらいに行くつもりでした。この計画がお釈迦になったおかげで、SRLのラボ移転は20年も遅れて2017年になりました。近藤さんと、もっとコミュニケーションを密にしておくべきでした。これはわたしが悪い。
 ですが、コミュニケーションを密にできない理由がありました。経理部管理会計課長と社長室、購買部を兼務したときに、人事上の我慢のならぬ問題が持ち上がって、この3つのポストを蹴っ飛ばしての出向でした。理由を近藤さんに告げると2人の責任問題になるので、話しませんでした。気がつかなければ後々大事になるけど、自分が火をつけるのは御免でした。職務上からは人事部長と社長の近藤さんが気がつかなけりゃいけないことでもありました。結局、その後3人辞めています。2人は優秀な経理マンでした。その内の一人はベンチャー企業へ転職して上場時には40歳くらいで取締役になっています。経理部には数人そういう人材がいました。

 ところで、経営統合システムは経理財務システム、買掛金支払いシステム、投資及び固定資産管理システム、購買在庫管理システム、原価計算システムから構成されています。システム間のインターフェイスはSRLに入社して2か月後の1984年3月末ころに、仕様書を書いて各開発チームに渡しています。前職で一人で輸入商社の経営統合システム開発をしていたので、各システムがどうなるかはわかっており、1週間で各システムとのインターフェイス仕様書を書きました。いまも、同じ仕様で何度も更新されたシステムが動いているのかもしれません。
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 ここでの結論...
 売上を拡大するのも、利益を大きくするのも、マネジメント次第です。不良在庫が宝の山に化けるのもマネジメント次第です。商品の価値と品質やマネジメントに密接な関係のあることはお分かりいただけるでしょう
 職人のスキルも大切です。日本ではあらゆる仕事が職人仕事になります。そういう伝統文化の上に企業活動が乗っかっています。


<具体例-その2:産業用エレクトロニクス輸入商社>
 8㎝のファイルで10冊ほどあった自分が作成した文書の資料は引っ越しの時に全部処分してしまったので、仮定で話を進めます。
 この会社の創業者はスタンフォード大学で学んだ人で、HP社の創業者であるヒューレットやパッカードと同期でした。戦時中真三井合同で人事関係の責任者でしたが、戦後の財閥解体で人員整理をして、それが終わると職を辞しました。たくさんの社員の首を切っておいて、自分が三井に残るつもりはなかったのです。人の不幸の上に自分の幸せを築くことを潔しとしない人だったのでしょう。創業者の魂というのは、その人と一緒に仕事した人達の中に脈々と生き続けているものです。だから、会社の沿革や創業者の思想やビジネス倫理を知るということは大切なことなのです。わたしは、わたしの採用に関わってくれた経理・総務担当取締役の中村さんから創業社長がどんな人だったか、お酒を飲みながら聞いています。
 三井合同の少なからぬ社員に解雇を言い渡し、職を辞した後に、ヒューレットとパッカードが日本総代理店をやらないかオファーがあり、HP社の日本総代理店として起業しています。横河電機がHP社と合弁会社(YHP)を作ることとなり、社員の大半を合弁企業へ移しました。そのあと徐々に総代理店の数を欧米50社まで増やしました。2代目社長は慶応大学大学院経済学研究科修了で、1978年には四十代半ばでした。やはり生物的な限界にぶつかっていました。創業者の子飼いの社員だった人たちが役員になっていましたが、多少のギクシャクはありました。2代目の関周さんはお父さんの子飼いの社員とのコミュニケーションに苦労したでしょうね。大学同期の友人思いの人柄の良い社長でした。

 為替相場が360円/ドルの固定から変動相場制になって、輸入総代理店のビジネスが新しい波に襲われた時期でもありました。他に採用が決まっていましたが、断るために訪れたのですが、社長室で30分ほど話し込んでいるうちに気が変わりました。同じ経済学の専門家同士ですから二代目の関周さんとはウマが合いました。関さんわたしの専攻が経済学で、マルクス『資本論』『経済学批判要綱』の研究者だとわかったうえで採用したのです。珠算と簿記一級のところが異色だと判断したようです。まったく別のスキルですから。
(採用後、すぐに社運を賭けたプロジェクトを6つを公表しました。そのうちの5つを一人で背負わせてくれました。ありがたかった。大博打です、関周さん、経営者としていい度胸していました。もっとも、失敗しても元の木阿弥なだけですから、それ以上悪くなるということはありません。他に任せられる社員や役員がいませんでした。その点でも、私自身がラッキーでした。)

 社員数150人、平均年収が450万円、資本金9000万円、売上高30億円、売上高総利益率27%の中小企業があるとします。この前提では売上総利益8.1億円、人件費6.75億円ですから、物件費を人件費の半額とすると3.375億円で、2.025億円の赤字です。
 生産性が30%アップしたとしたら、同じ社員数で売上高は39億円にアップします。売上高総利益率(SMR)が同じだとすると、売上総利益は10.53億円になります。売上高総利益が2.43億円アップするので、4千万円ほど利益が出ます。
 そこで、今度はSMR27から40%へアップしたとします。すると売上総利益は「39×0.415.6億円」となり、一人当たり人件費を550万円にアップしても8.25億円ですから、経常利益が4億円になります。売上高経常利益率は「4/3910.2%」、立派な高収益企業に化けました。

 この事例は、マネジメント、とくにコンピュータシステムの開発と導入が、企業収益や商品価値(商品価格)や社員の年収にいかに重大な影響があるかを述べるための材料です。 

 これは1980年代前半の産業用エレクトロニクスの専門輸入商社の例です。円安になると為替差損を被り、赤字へ転落、ボーナスは年間2か月分しか出ません。社員は住宅購入のためのローンを組むのも躊躇していました。増えた利益の1/3は社員へボーナスとして還元することを約束してもらいました。社員の士気を高めるためです。

 長期戦略策定のための長期経営計画委員会、資金投資委員会、為替変動から業績を切り離すための為替対策委員会、業績をモニターし分析するための収益見通し分析委員会、業務効率を上げ、精度を大幅に改善するための電算化推進委員会、それと利益重点営業委員会の6つの委員会を40代半ばのオーナー社長が提案し、実施に移しました。最初にあげた2つの委員会の委員長は社長です。あとはそれぞれ担当役員が割り振られました。
 この企業は欧米50社の総代理店で、世界最先端の産業用エレクトロニクスを輸入していたので、受注生産品が多く、納期が長いものでは1年あります。その間に為替相場が変動するので、為替対策は受注時の為替レートと仕入時の為替レート、決済時の為替レートが異なりますので、これらを連動させて、為替予約を実施することで差損の発生をゼロにしようと考えました。利益重点委員会は東京営業所長の遠藤さんの担当でした。彼が円定価表を導入したいと相談を持ち込んできました。コンピュータで円定価表を作成すれば簡単です。円定価表に使う為替レートと仕入レートそして決済レートを連動させ、為替予約を組み合わせることで為替変動から業績を切り離すことに成功しました。これで為替変動によるSMRの乱高下をなくし、つねに40%のSMRが稼げるようになりました。
 こんなこともありました、同じ取引先の場所の異なる2工場に提出する見積書の金額に差があり、クレームが入っていました。
 どういうことか説明します。たとえば、日本電気府中工場と横浜工場はそれぞれ東京営業所と横浜営業所の担当です。それまでは営業マンがドル仕入価格に自分が設定した為替レートを掛けて、輸入諸掛りを計算して、営業事務の女性が見積書作成をしていました。担当が違えば、使う為替レートも違いますし、乗せる利益も違いますから、見積金額に差が出てしまっていました。
 東京営業所長は大口取引先でのこのようなトラブルを解消するためにも円定価表作成システムが必要でした。それと営業マンが見積書作成のために事務所にいて、本来の営業活動である客先訪問に支障が出ていました。一人当たり売上高をアップするために、定価表を作成して見積書作成業務を簡略化し、営業所の女子事務員だけでできるようにしたかったのです。
 円定価表作成システムの稼働で営業マン一人当たりの売上が大幅にアップしました。そして商品群別に粗利益率を設定して、会社全体のSMRをコントロール可能になりました。それがSMR27%から40%へのアップです。3年計画で42%までもっていく予定でした。世界最先端の機器が多いので、競合品が少なく安売りする必要がない製品ラインが多かったから可能でした。

 為替対策も円定価レート、仕入レート、決済レートの連動システムを作ったので、為替予約で仕入れ価格の2%の為替利益が恒常的に出るようになりました。年間5000万円弱です。

 収益性、生産性、回転率、財務安定性、成長性の5群の経営指標をさらに5項目に分割して、経営モデルを創っていました。各指標には標準偏差を設定して、経営総合偏差値評価ができるようにしました。あれは中途入社の半年後くらいのことです。1978年ですから、国産のパソコンはまだ発売されていません。汎用大型機と汎用小型機、オフコンの時代でした。科学技術計算用のプログラマブル計算機HP97HP67(数値計算用小型コンピュータ)を使ってモデルを創りプログラミングして毎月計算していました。四半期ごとに経営分析レポートを収益見通し分析委員会で説明していました。
 この経営分析モデルは長期経営計画と単年度予算に連動していました。たとえば、総合偏差値を45から50へ、50から60へアップするとしたら、どの指標をどの程度改善すればいいのかシミュレーションが可能です。実際に予定損益計算書や予定貸借対照表、予定資金運用表を作成して、実績値と突合していました。こんなシステムを1980年頃から運用していた企業は国内にはほとんどないと思います。当時はパソコンがまだオモチャの段階で、業務で使える代物ではなかったのです。HP社のプログラマブルキャリュキュレータとオフコンと汎用小型機を使ってシステムを作っていました。
 ここで言いたいのは、個別企業の売上原価はマネジメントやコンピュータシステムの使い方、実務設計の仕方次第で大きく動くということ。品質管理や仕事のやり方の改善、コンピュータシステム導入などを含めてマネジメントと定義すると、製品1単位当たりのコストはマネジメントの巧拙で大きく格差が生ずるということです
 社員の年収もマネジメントがよければ、100万円アップはすぐにもできます。5年あれば、2倍の年収だって保証できます。同時にその企業の利益も増やせます。社員の年収を増やすことは企業の収益構造を改革するための必須の手段です
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<<内部留保と無借金経営の重要性>>
 内部留保が年間の売上金額相当分溜まれば、3年くらい売上が半減しても社員を解雇する必要はないし、経営破綻することもありません。高収益企業は内部留保も大きいのです。無借金経営に切り換えるというのが長期計画委員会の目標のひとつでした。強固な財務安定性の確立は社員のためにも不可欠なのです。
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 ところで、これら6つの委員会は産業用エレクトロニクス専門輸入商社である関商事に9月に中途入社して、1週間後に社長が社内へアナウンスしたプロジェクトです。メンバーは役員と部長。6つの委員会で課長は為替担当の業務課長Y田さん、輸入業務担当の業務次長O木さん、東京営業所長で営業課長の遠藤さんの3名だけでした。入社したばかりのわたしが5つの委員会の実務を一人で背負う事になっていました。入社当初は経理・総務担当取締役の中村さんの直属のスタッフで、ルーチンワークは予算編成と予算管理でした。それと5つのプロジェクトを担当していました。プロジェクトの担当はそのままで、1年後に管理部へ異動、売上債権管理に問題が生じていたので、経理課長からひき継いだ女子社員が困っているので、一緒に整理、消込をしてます。売上債権管理は営業部門と密に連絡を取り、それぞれの担当に消込をさせないといけないことがわかりました。経理課で売上債権管理業務は無理です。営業部門に近いところに債権管理部門を置かなければいけません。
 この部署では総代理店契約書を自由に閲覧できました。社長の関さんが目を通しておけとOK出してくれたからです。そしてさらに2年後に経営統合システム開発のために電算室という組織を作り初代電算室係長ということになりました。部長は営業2部長の兼務。コンピュータシステムには縁のない人でしたから、一度も話に来ませんでしたね。仕事の指示も一切なしでした。システム開発進捗状況の報告は「電算化推進委員会」へ直接していました。営業担当役員の加藤常務が委員長でした。仕事はしやすかった。加藤さん、早稲田の理系学部出身ですから、収益構造を変革する狙いをもったシステム開発の仕事の内容を理解してくれていました。

 仕事はそれまで作ったいくつかのシステムを統合して三菱電機のオフコン2台で動かしていた独立システムを、実務デザインをし直して、汎用小型機で経営統合システム開発を行うことでした。仕事は面白かった。
 半年ぐらいで、開発体制についてオーナー社長と意見が食い違い19841月末で辞職しています。重大な約束違反があることがある課長から知らされました。それが引き金になっただけで、「ああ、そろそろここを去らなければならないのだな」とそんな気にさせることがもう一つ起きたのです。どちらもオーナー社長との信頼関係を破壊する出来事でした。30代半ばで若かったから許せませんでした。「職を辞せ」と天の声がしました。
 高収益企業へと変貌したこの企業は会社名を「セキテクノトロン」と変えて、のちに株式上場を果たしています。そして
2010年ごろに業績不振で消滅しました。わたしが職を辞す前年に3代目社長になる周さんの息子が東大へ合格してました。卒業後、入社してきてのでしょうが、役員たちとのコミュニケーションがむずかしかったのかもしれませんね。理系ではありませんでしたから。世界最先端の理化学機器や軍需品を取り扱っていました。毎月海外のメーカー50社の中から、エンジニアが来て、新製品の説明会が開催されます。それを5年間聞き続けて、いくつかの群に分かれるエレクトロ製品の知識が蓄積出来ました。計測器類はディテクターとデータ処理部とインターフェイスからできています。これは、SRLへ転職してから、八王子ラボの機器購入を担当したときに蓄えた専門知識が丸々役に立ちました。無駄にならないものですね。取扱商品にはSRL八王子ラボにもある質量分析器や液体シンチレーションカウンターもありました。臨床検査に使われていた検査機器類は、関商事が取り扱っていた機器類に比べると、ずいぶん遅れていました。とくにインターフェイスが。GPIBが標準装備でした。

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<余談-1:関商事からSRLへ、経営統合システム開発、
SRLの強点と弱点>
 関商事で開発中だった経営統合システムは日本では最先端のものでした。でも、中小企業でしたから、使っていたのは三菱電機のオフコン2台、1台はCOOLというダイレクトアドレッシングの12ケタの数値を使うオフコン専用のプログラミング言語でした。もう1台はPROGRESSⅡというRPGに似たコンパイラー言語でした。あたらしいシステムは日本電気の汎用小型機をつかうことに決定してありました。担当SEは日本電気情報サービスのT島さん。社長の関周さんが「ナンバーワンSEの担当」を条件に日本電気の汎用小型機での開発を決定していました。その決定自体は歓迎でした。最先端の開発だったので、この仕事に未練はありました。

 1月末で引継ぎを終えて退職し2月1日からSRLで働き始めました。予算編成と予算管理をルーチンワークに任されて、4月には上場準備のための経営統合システム開発を担当してました。その年の12月には新システムが本稼働していました。開発期間は8か月。臨床検査業界初の東証2部上場要件を満たすシステム開発でした。富士通製の国内最大規模の大型汎用コンピュータを使っての開発でした。産業用エレクトロニクス輸入商社でやりかけたままにした、経営統合システム開発を退職して2か月後に、規模を10倍以上にして担当することになったのですから、不思議です。やりたいと思った仕事はやるようになっているようです。
 三菱電機のコンピュータを使っていた時はオービックのS澤さんという腕の良いSEが担当してくれていました。優秀なSEでした。10年くらい後で開発担当役員になっていました。
 わたしはシステム開発技術の基本を彼から学びました。もちろん専門書はシステム開発に携わる前後の3年間で50冊くらいは読んでます。プログラミングも3言語使ってみました。外部設計書を作るのにプログラミングの知識がないと不便なのです。外部設計書がそのままプログラム仕様書になるレベルで記述していました。実務設計が愉しかった。それまでの実務を解体して、合理的なものに組み直して、システム化してます。
 SRLへ転職してからは仕事を前任者から引き継ぐと、半年程度でまるっきり変えてました。システム化できるものは実務設計して仕様書を書いて仕事そのものをなくしてしまいます。だから、時間に余裕ができて、異分野の専門書を読む時間がありましたから仕事の幅がひろがりました。開発費はいくらでも捻出可能でした。直接利益に貢献する仕事を提案して実行していたので。数十億円の範囲なら、自分が稼いだ利益でカバーできました。企業規模が大きくなると、貢献利益も巨額になります。スケールメリットです。自分が権限を持った時のために、売上を3倍にする現実的で具体的な長期戦略も立案していました。こういうことは愉しいのです。チャンスが来ればすぐに実行に移せます。
 SRLの強みは八王子ラボにありました。ルーチン検査部門の新規検査開発力や自動化力は群を抜いていました。1980年代終わりには、世界一でした。しかし本社部門には問題が多かったのです。ラボのことを知っている管理担当役員は皆無でした。営業も戦略なしです、ラボの検査部門が維持している高品質にもたれかかっていただけ。何もしなくても、大病院から取引したいと電話がかかってくるので、それに応じていたらいいだけ。1980年代はそういう状態でした。高品質であるが故に、営業マンが育たない。
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<余談-2:日産自動車の経営>
「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」という視点から眺めると、日産のカルロスゴーンの経営は、受け継いできた財産の切り売りと従業員の大量解雇というまことに下劣な経営再建でした。日本の伝統的なビジネス倫理を踏み外していました。経営能力がなければこういうやり方になるのでしょう。


 商品の価値は市場で決定されますが、生産性や品質改善が商品の価値を左右する具体的な事例をさらに三つ付け加える予定です。
 これらの事例で示されたことは、投下労働価値説に基づく剰余価値理論はまったくの誤りで、「剰余価値の搾取」というのも成り立たぬ妄想であるということです。なぜマルクスがこんな簡単なことを間違えたのか、それは彼がインテリで、民間企業で仕事をしたことのない人間だったからです。頭の中でしか経済を知らない、そこが間違いのもとでした。
 失敗したもう一つの原因は体系構成にヘーゲル弁証法を用いたことでした。ヘーゲル弁証法は、ユークリッド『原論』に学ばぬ哲学者が考えた徒花(あだばな)でした。デカルト『方法序説』がその流れをくむ正統派でした。ヒルベルトやブルバキもその系譜の人たちです。こうして並べてみると全部数学者です



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