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#4123 根室の中3の数学・学力の現状とその波紋 Nov. 14, 2019 [71.データに基づく教育論議]

 #4122「学力テスト総合B学校別比較データ:釧路管内8校と根室管内6校」で根室の中3の学力がどの程度か触れた。北海道14支庁管内で根室管内が最低で、さらにその根室管内で根室市の中学校が最底辺に位置していることがわかった。釧路根室管内では別海中央中を除く根室管内の中学校が最底辺を構成しているから、中標津町・羅臼町・標津町・根室市は共通の問題を抱えていそうである。別海町を含めた1市4町の首長は根室管内で「学力アップ合同チーム」をスタートさせるべきだと書いた。教育が劣化すれば、根室管内はそれぞれが急激に衰退の道をたどることは火を見るよりも明らかだろう。
 根室の2中学校の学力テスト総合Bの数学の得点分布データの下のほうを紹介する。

        <階層別数学得点分布表>
  10点以下 15点以下 U10% U15% 人数
柏陵 33 41 78.6% 97.6% 42
啓雲 19 26 29.2% 40.0% 65
合計 52 67 48.6% 62.6% 107
根室 104 133 48.6% 62.6% 213

 根室市の中3の人数データは次のサイトから平成30年度の中2の人数が令和元年の中3の人数に該当するので、そこから拾った。
*http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/ksk/chosa/gakkou-i/2018gakkou-i.htm

 柏陵は73人、啓雲は51人となっているから、学力テスト総合Bの数学の未受験者が柏陵8人、啓雲9人いたことになる。2人くらいなら転校ということも考えられるが、これは未受験、あるいは不登校と考えたほうがいいのだろう。特別学級の生徒は受験していないのかもしれない。そんなに多いのか?
 「U10%」というのは「10点以下の得点層」を百分率で表示している。「U15%」も同様である。

 2校合計で52人(48.6%)が10点以下、67人(62.6%)が15点以下である。生徒の3人に2人が百点満点換算値で25点以下というのが根室の中学生の現状の学力である。
 学力テストは「標準問題」であり、実際に根室高校が実施しているのは「学校裁量問題」で難易度が少し高い。学校裁量問題でも東京都立高校の問題よりも難易度は低い。
 さて、15点以下の生徒は裁量問題入試で何点獲れるだろう?
 
今年3月の入試問題を例にとると、「大問1」の「問1」が簡単な因数分解問題、「問2」は作図問題、それ以降は文章題であるから、得点可能なのは「大問1」の「問1」、配点は3点である。標準問題は計算問題と作図問題であり、21点配点されている。学力テストは標準問題であり、15点以下の生徒はほとんどが「大問1」で得点しており、「大問2」以降の文章題は手を付けていない。
 学校裁量問題には標準問題の「大問1」がないから、そのまま入試を迎えたら、133人が3点以下になるということ。それぞれの大問の「問1」は簡単な問題だから、そこを集中的にやれば10点くらいは133人のうちの3人に1人はとれるようになると仮定しよう。すると、入試本番で裁量問題で3点以下は89人ということになる。根室高校以外への進学者数を20人、商業科と事務情報科に45人とする、そのうちの10人くらいは数学ができるから、普通科受験者120のうちの54人(45%)が学校裁量問題数学で3点以下ということ。この学力層には数Ⅱ履修は無理だと言わざるを得ない数ⅠAですら標準的な難易度の教科書で教えることはとても無理こういう学力レベルの生徒が、数学が苦手のまま3年間放置され続けているのである
 数学が得意だと言える45点以上は2校で1人、50点以上はゼロである。30点以上は11人(6+5)のみ、10.2%しかいない。「成績上位層の枯渇化現象」とはこういうことを言う。

 根室高校は昨年度から数Ⅱを選択科目にした。今年は選択者を昨年より絞り込んでいる様子。つい一月前に生徒と面談して学力の低い生徒に数Ⅱを選択しないように先生たちが強く勧めた背景にはこういう中学生の学力低下がある
 1年生の数学は学力別に5段階編成である。最上位がガンマクラスで「ガンマ1」と「ガンマ2」、特設コースのクラスA組の35人が該当している。その下に「ベータ1」、「ベータ2」、「アルファ1」、「アルファ2」という6クラスの学力別クラス編成になっている。アルファ・クラスは学力から判断して数Ⅱの履修は無理だ
 高校統廃合が学力データを無視して普通科選択制にしたので、試行錯誤が3年間続いた。そして現実的なところへ落ち着こうとしている。だが、この方式での統廃合は以前の2校体制に比べて、生徒の学力の劣化を加速している
 
 根室高校普通科で数Ⅱが選択科目になったことはない。高校普通科卒業して数Ⅱを学んでいないなんて、採用する企業側から見たら詐欺同然である。根室高校普通科は根室ではブランドだったが、そうではなくなったということ。15年前の根室高校普通科の学力の生徒は普通科120人中30人ほどしかいない。そう、特設コースの35人の中にもこぼれる学力の者がいるということ。15年前の根室高校普通科卒の学力と同等の生徒を採用したい企業は特設コースに在籍した生徒から選ぶということになるだろう。

 数学の学力低下は日本語語彙力の低下も伴っている小学校低学年で国語が週に9時間配当されているのに、音読授業を一切していないから、語彙力が増えないだけでなく、本をスラスラ読めない。スマホやゲームで本を読まなくなっているから、本を読みこなすスキルが育たない。中学生になって授業で「形容詞は名詞をしゅうしょくする」と国語や英語の先生が授業中に説明したとしよう。生徒の何割かは「就職」の字を思い浮かべて意味がさっぱり分からないということになる。「修飾」という漢字が脳内に即座に思い浮かばなければ意味がつかめない。その前後の説明も文脈上意味不明となる。語彙力が乏しいと中学校の授業も高校の授業も理解できない。

 語彙力が貧弱なことによる読解力の著しい低下と数学の文章題の読解ができないことはどこかでつながっている。「読み・書き・そろばん」の読みの段階に瑕(キズ)があれば、「書き」もアウトだ。
 語彙力は3歳くらいで爆発的に伸びた後、小学生低学年でも高学年でもトレーニングの場さえ与えてやればいくらでも豊かになる。ここいら辺りで決定的な語彙力格差がついてしまう。豊かな語彙をもって中学生になった生徒は、放っておいても文章読解スキルが高いので、興味をもった分野の本はすらすら読めるし、数学の文章題だって容易にその意味するところが読み取れる
 小中でそういう機会のなかった生徒は、語彙が増える旬の時期を逃すことになり、脳は言葉で考えるから、脳の健全な発達が阻害されることになる。
 小中高で語彙力を増やさなかった生徒たちは、社会人になって本をたくさん読むようになるなんてことは、奇跡に近い。仕事に必要な専門書も、資格取得に必要な専門書も読んでも意味が分からぬということになる
 語彙は旬の時期に増やすのがいい語彙力の豊かな者はその豊かな袋から言葉を取り出して、より深く考えることができる

 小学生低学年でルビ付きのテクストの音読トレーニングをすべきだ。江戸時代の寺子屋では論語の素読を5歳から始めた。先生が一文ずつ読むと生徒が真似て続けて一斉に読む。斉藤孝の音読派シリーズがテクストとしていい。ぜひ、小学校で採り上げて、国語の時間に音読トレーニングしてもらいたい。
 市教委はこのシリーズ6冊を、根室市内の小学生の子どもたちへ配布してもらいたい。中学生へも配布してもれえたら、なおありがたい。

 ニムオロ塾では希望者にだけ週1回音読トレーニングをしている。

*#4122 学力テスト総合B学校別比較データ:釧路管内8校と根室管内6校
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2019-11-13



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#4122 学力テスト総合B学校別比較データ:釧路管内8校と根室管内6校  Nov. 13, 2019 [71.データに基づく教育論議]

 根室管内の教育関係者のみなさん、このような学力テストの比較データを公表しているところはありませんので、しっかりご覧ください。
 10月に実施された学力テスト総合Bのデータを、釧路管内と根室管内に分けて公開します。学力テスト総合Bは18校でしたが、今回入手できたのは14校です。釧路管内の上位四校(阿寒中・白糠中・遠矢中・鳥取中)が抜けているので、平均点が影響を受けています(=低くなっている)。
 残念なことに釧路根室管内で、根室の柏陵中が下から3番目、啓雲中がビリです。総合Aでは柏陵中が18校中ビリ、啓雲中が下から2番目でした。中標津中が前回よりも10.7点下がったためです。
 なお、根室市立光洋中学校はデータが入手できませんでした。

<釧路管内> 合計 国語 社会 数学 理科 英語 前回
幣舞中 148.8 34.4 32.9 23.7 31.1 26.7 153.8
景雲中 137.0 31.6 29.6 19.3 30.5 26.0  
美原中 134.4 32.2 31.3 18.4 29.6 22.9 134.2
大楽毛中 132.4 33.0 28.3 19.5 27.7 23.9 136.7
鳥取西中 129.6 33.5 25.9 19.5 26.7 24.0 135.1
富原中 127.9 32.6 27.4 15.5 24.9 27.5  
青陵中 125.6 31.6 27.5 16.6 26.6 23.3  
共栄中 123.9 31.8 26.6 17.7 24.1 23.7 124.8
平均値 132.5 32.6 28.7 18.8 27.7 24.8  


<根室管内> 合計 国語 社会 数学 理科 英語 前回
別海中央 127.2 30.9 34.3 17.2 23.1 21.7 142.6
広陵中 118.9 29.8 26.9 16.4 24.4 21.4 120.8
標津中 112.6 28.8 28.5 13.5 21.7 20.1 118.5
柏陵中 109.0 31.1 24.9 13.3 18.9 20.8 108.8
中標津中 107.1 32.2 23.5 14.5 20.4 16.5 117.8
啓雲中 106.6 27.9 24.4 14.4 20.9 19.0 111.5
平均値 113.6 30.1 27.1 14.9 21.6 19.9  


 五科目合計平均点を比べると、差は18.9点(釧路管内-根室管内)である。とくに数学(18.8-14.9=3.9)と英語(24.8-19.9=4.9)と理科(27.7-21.6=6.1)の点差が大きい。数学の根室管内の平均点が14.9点、百点満点に換算すると25点だということ。この平均点は異常値に見える、どういう教育の結果なのか小学校にさかのぼってしっかり分析すべきだ。

 これら3科目が釧路と根室でなぜこんなに点差が開いているのか、根室管内のそれぞれの教育委員会はしっかり分析する必要があるだろう。数値分析なしに、有効な学力向上を目的として教育政策は立案できないし、政策の効果の検証もできぬ。

 全国学力調査結果では、根室管内の中学生が全道最低であった。総合Aデータのある学校だけの五科目合計点の増減をみると、釧路管内は総合Aに比べて3.1点ダウン、根室管内は6.4点ダウンしている。
 根室の市街化地域の2校が下位グループである。中標津中学が柏陵中と啓雲中の間に割り込んできた。標津中と柏陵中と中標津中と啓雲中は団子状態で、釧路・根室管内の最下位グループを形成している。120点で切ってみると、別海中央中を除いた根室管内5校のみ。データを収集できた釧路管内の公立中学校で120点を切ったところはない。

 何がどのように問題なのかは、以下の二つの弊ブログ記事の詳述したので、そちらをご覧いただきたい。教育は、地域経済の未来を左右する。子どもたちの学力の低下は、時間をおいて地域経済の衰退を招く。大半の子どもたちは根室高校を卒業してから、都会へ進学しそこで職を得て戻ってこないのだが、1割程度の学力上位の子どもたちを除いて、就職でとっても苦労することになる。多くが非正規雇用で都会の底辺で生きていくしかなくなる。かわいそうではないか。
 学力低下を放置してきた市教委、歴代根室市教育長、根室市長は、これまでの教育政策のどこが間違っていたのか、この10年間市街化地域の中学校3校で実施されてきた全道標準学力テストデータを分析して、有効な教育政策を作成すべきではないのかね。市街化地域の3校には過去10年分のデータならたぶんあるよ。貴重なデータを先生たちが捨てるわけがない。データに基づかぬいい加減な教育政策はもう卒業してください。

 学力が北海道で一番低いというのは根室管内共通の問題だから、点数が一番高かった別海町も含めて、1市4町の首長は「1市4町学力向上チーム」を組織して、毎月データ分析と具体策の検討をして、検討過程をそれぞれの自治体のホームページ上で公表したら如何?
 教育関係機関だけで閉鎖的にやっても効果のないことはこの十年間の子どもたちの学力低下を見たらわかる。オープンな議論が必要です。

 根室管内の中3の数学の平均点が異常値だと書いたが、具体的に何が起きているのか根室の事例を次回紹介する。中学生の数学能力の劣化は根室高校の数学授業編成にまで影響を及ぼしている。日本語語彙力低下と車の両輪をなしているから知能の発達にすら影響があるのではないかとわたしは疑っている。脳には著しく発達する旬の時期があるが、それを逃している生徒が多いように見える。一生、未発達なまま暮らすことになればその暮らしぶりは想像がつく。
 この地の学校教育が脳の健全な発達を阻害していると仮定すると、残念ながらこの地の学校教育(を含めた教育体制全体、それゆえ、家庭教育や私塾も含めて)に脳の発達に対する阻害罪が成立しそうである。もちろんそういう法律はないから、関係者は一人も罰せられることはなく、子どもたちの三人に一人は深刻なダメージを受けたまま、根室の外でそして社会の底辺で暮らすことになる。かわいそうではないか。
 
*#4099 学力テスト総合A18校科目別データ Oct. 11, 2019
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2019-10-11


 #4113 学力崩壊の実態:学力テスト総合B途中集計 Oct. 25, 2019
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2019-10-25


 #4119 全国学力調査の現実:根室は14支庁管内最低 Nov. 9, 2019
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2019-11-07-1




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#4121 社会人になってからの仕事のルーツは高校時代にあり Nov. 11, 2019 [90.根高 総番制度]

1964⇒1966
<序論>
 昭和23年と24年早生まれの団塊世代が根室高校へ入学時、男子は丸刈りという校則があった。わたしは一度も丸刈りにしたことはなかったが、しかたなく中3の冬休みに丸坊主頭にした。冬休みが開けると、坊主頭の同級生が増えていた。当時は一学年普通科4クラス200人、商業科3クラス150人、合計350人だった。根室高校はもともと商業高校で、戦後しばらくの間は釧路湖陵よりもレベルが高かったと「釧路の教育を考える会」の角田会長から聞いた。会長の角田さんは北大卒で元釧路市教育長、生粋の釧路っ子である。
 北国賛歌を飯田三郎氏と一緒に作詞した田塚源太郎氏は国後島の大漁師の息子で根室商業、職業は歯科医だったから、根室商業から大学歯学部へ進学。根室印刷の会長である考古学者の北構保男先生は国学院大学文学博士、大正6年生まれで、お二人は根室商業同期生。年齢は下だったはずですが、歯科医の福井先生(先代)がご近所でした。昭和30年代のことですが、根室新聞に福井先生が書かれた時代小説と現代小説が数年間連載されてました。歯科医をやられている息子さんは目元がそっくりです。平成3年だった、たまたま帰省してビリヤード店の店番をしながら、ゲームしていた時に、来店されて、「トシボー」と声をかけてくれました。その時には癌の末期でお痩せになって顔の色が茶色になっていました。肝臓がやられているなとすぐにわかりました、それから数か月でお亡くなりになっています。品のよい、いい先生でした。田塚先生も福井先生もビリヤード店の常連客でしたから、小学校へ上がる前から可愛がってもらいました。背が届かないので「ちょっと失礼します」といって台の上に上がって撞きます。ほんとうはルール違反ですが、子どもだったから面白がって相手してくれました。北構先生は1軒おいて道路を渡ったところが根室印刷でしたから、オヤジと出遭うと道路上で大きな声で立ち話をする人です。気取らない、ざっくばらんなインテリ、そういう大人が身近にいたことはとっても幸せなことでした。

昭和天皇のビリヤードコーチだった札幌の吉岡先生も毎年ラシャの交換作業をしに根室へ来ていました。来ると、旅館に泊まらずに家に泊まってくれてました。とっても品のよい白髪のお爺さんでした。使う言葉が違うんです。札幌でデートしているときに突然「トシボー」と呼ばれて誰だろうとみると、吉岡先生。ライオンズクラブで献血運動をしていました。ああ、彼女とデートだなとニコニコしながら、「献血していきなさい」「はい」、びっくりでした。彼女にまってもらって献血しました。献血手帳をもらって、それから西新宿駅前で数回献血しました。それが所沢のおじさんが日大駿河台病院で手術するときに役に立ちました。平成天皇のビリヤードコーチスリークッション世界チャンピオン小林先生、新大久保駅前でビリヤード店をやっていました。小林先生にも習っています。毎年常連会の忘年会で小林先生と一緒にお酒を飲んでビリヤード談義してました。小林先生が試合でしか使わないチョークを一箱いただいたことがあります。ダイヤモンドが混ざっているかのようにキラキラしています。橋ギリギリの撞点でもミスショットがありません。一度練習で使っていたら、先生慌てて、「ebisuさん、それわたしは大会でしか使っていない…」、それ以来常連会の大会と高田馬場ビックボックスで行われるアマとプロ混在の大会でだけ使いました。小林先生、メーカーがつぶれてしまって手持ちの貴重な在庫を一箱常連会の年に一度の大会にわたしにくれるために供出してくれたのです。わたしがドローショットのときに、厳しい撞点を打ち抜くのをちゃんと見てくれていたんです。12個のうち8個くらい残っているはず。東京の家を探せばどこかにしまってあります。世界最高品質、プロ垂涎のチョークですが、もう使う機会がありません。世界大会に出場できる腕前の人にあげたい。令和天皇のビリヤードコーチ町田正さん、アーティステックビリヤード世界2位、ボークラインゲームを3ゲームだけお願いしたことがあります。ボークラインゲームの全日本チャンピオンですから、もちろん、情けないほど相手になりませんよ。(笑)かれのお父さんが八王子でビリヤード店をしていましたが、そちらで教えていただきました。半円形にタップを削る技術はお父さんに教えてもらいました。お父さんはプロのコーチですが、「ebisuさん、あなたはコーチ料要らないから毎日来なさい」と言われました。筋がいいと褒められたのです。仕事が忙しくてたまにしかいけませんでした。町田先生と小林先生に教えていただいたことは、ノート50ページほどにまとめてあります。セミプロの技術書ですからこういうレベルの解説書は市販のものはありません。誤解を生じるから書かないと小林先生はおっしゃってました。一知半解でああだこうだという人が必ず出てくるのだそうです。八王子の町田先生のところには鉄製のキューがありました。町田正さんはそのキューで毎日素振りしていたんです。わたしがみた中では一番キュー切れがよかった。シルクハットというテーブルの端から端まで使うダイナミックなL字マッセはそういう道具で練習した成果でしょう。ショットに「切れ」がないとできない技です。ショットの「切れ」は天性のもの、そしてそれを磨きに磨いて初めて世界に通用する。「切れ」の好い者は上手になります。根室では西井さんという人が最高でした。全日本のアマチュアチャンピオンにはなれたと思います。全日本チャンピオンの小柴さんが常連会で一緒でした。何度か試合してますが、彼のキュー切れも素晴らしいものがありましたが、西井さんの方が上です。昔の写真を見てそうわかります。構えがいいのです。構えを見ただけで腕のほどはわかります。西井さんはebisuよりも一回りほど年長でした。家庭が裕福でしたから高校時代からビリヤードをやってました。
 3代の天皇のビリヤードコーチ、吉岡先生・小林先生・町田正先生に教えてもらったのは日本で私だけです。根室から東京へ出て行ったときに、東京の有名なビリヤード店を回ってみようと思っていましたがこんな形になるとは夢にも思いませんでした。小林先生には三つ玉の常連会で特に親しくしていただきました。根室っ子には一度は東京に出てみろと言いたい。世界は広い!)


 わたしが根室高校を受験した年は、団塊世代の入試は普通科がほぼ定員通り、商業科は2倍を超えていた。市内全部の中3が1000人ほどいたから、根室高校への進学率はざっと1/3。当時は私立の根室明照高校があった。校舎は大徳寺境内に併設されていた。中学を卒業して就職する生徒も少なくなかった。

1.<生徒会・会計は財務大臣>
 入学する前から、丸刈り坊主頭の校則があったから、高校へ入学したら、変えてやろうと思っていた。思っていただけで、具体的な算段があったわけではない。
 高校1年の終わりごろに、生徒会会計に指名された。指名されて初めて生徒会会計を云う仕事があることを知った。その当時の生徒会会計は、選挙ではなくて指名制で、各部の部長との予算折衝と予算編成、帳簿の記入と決算業務が会計に任されていたから、簿記がよくできる生徒が指名されたようだ。権限は絶大だった。1年先輩の仲野さんがわたしを指名してくれた。それまで仲野さんとは話をした記憶がない。どうしてわたしを指名してくれたのか理由がわからない。妹さんとは小学生のときに同級生だった。会計の仕事は国でいうと財務大臣のようなもの。仲野さんは、わたしが2年生の時に各クラブ部長との予算折衝を一人でやらせてくれた。任せたからには口を出さなかった、好い先輩に巡り合っている。大学も一緒だった。副会長の古御堂さんと二人で「おんちゃ」とわたしのことを親しみを込めて呼んでいた。優秀な先輩二人ががっちりバックアップしてくれたから、思う存分仕事ができた。どこかかわいげのある後輩だったのかも?

 生徒会・会計の経験が社会人になってから仕事で生きた。28歳で中途採用してもらった産業用エレクトロニクスの輸入専門商社では9月に入社1週間後にプロジェクトを5つ任され、すぐに予算編成と予算管理、資金管理などの仕事を担当させてもらった。35歳(1984年)に転職した従業員規模が3000人のSRLでも、2か月後には統合システム開発を任されただけでなく、予算編成と予算管理を任された。当時の予算規模は300億円。根室高校生徒会会計の経験が生きた。やり方は一緒である。ソニーの経営に関与してみたかった。
(ソニーがはじめて中途採用の全国募集をしたことがあった。事務部門は150人の応募、3次面接の2人まで残った。10時からの面接なのに、理由も言わずお昼過ぎまで待たされた、「お腹すいちゃった」といったらびっくりされた。ソニーはこんな会社になったのかと、こっちが驚いた。採ってはもらえなかった、二人まで絞り込んだのに規格外のわたしを採れないなら、ソニーの未来は危ういとその時に思った。
 高校1年のとき(1964年)に3万円くらいの、オープンリールのソニーのテープレコーダーを使ったのが最初だった。新製品が出る都度、買い求めて使った、ソニーのつくるものに愛着があったのだが、中途採用の全国募集をしたころには何かが変わり始めたと感じていた。「ICZ-R260TV」が昨年買ったソニー製品である。同じ製品でも5割高くていいから、日本の工場で生産した堅牢な製品も並行して販売してもらいたい。製品番号の末尾に「J」マークをつけたらどうか。モノづくりのソニー、もうそういう会社ではないのかもしれない)

2.<丸刈り坊主頭の校則改正の動機と経緯>
 2年生になって秋に修学旅行が予定されていたから、その3か月前までに校則改正をしようと、会長の関さんと副会長の古御堂さん(後に室蘭税務所長)、端谷さん(後にヤクルト釧路支店長?)へ持ちかけたら、かれらはもう修学旅行がすんでしまっているので、「ebisu、おまえがやれ」ということになった。社会人になって会社に勤務してからもそういうことがよく起きた。何か改革を提案すると、「おまえがやってみろ」とその仕事に必要な権限を委譲してくれることがよくあった。そういうことは高校生徒会から始まっていた。わたしの場合は、根室高校生徒会活動が人間形成や、仕事のやり方を学び、経験するのに役に立った。
 校長や生徒会顧問は校則改正をしたくない、生徒会顧問は3人いたような気がする。彼らが弱いのは保護者である。保護者が校則改正を望むなら、学校側としては仕方がない、面子(めんつ)の問題がなくなる。そこで生徒と保護者にアンケートをとることにした。髪の毛は体の一部で、それを規制するというのは基本的人権に抵触するのではないかという一文を入れたアンケート原案を作り、生徒会役員みんなでチェックして、ガリを切って輪転機で印刷し、全校生徒に配布した。狙い通りの結果が出た。アンケートは質問の仕方や答えの選択肢の書き方次第で、ある程度誘導できる。
 結果を集計して、全校集会を開き、満場一致で、修学旅行3か月前に校則改正をした。スケジュール通りに事を運んだ。修学旅行は、東京・京都・大阪・奈良、11泊12日、スケジュール通り、3か月でなんとか髪が伸びて都会を歩き回れた。いま、根高の修学旅行は大阪・京都・広島で4泊5日だそうだ。先週2年生が修学旅行、土曜日に戻ってきた。今日は休みだろう。

3.<生徒会・会長選挙の経緯と生徒会運営>
 2年生の時に生徒会回線の選挙があった。副会長の古御堂さん(商業科)と端谷さん(普通科)から、二人が応援演説するから、会長選挙に立候補しろと話があった。そのつもりで生徒会顧問へ立候補を伝えたら、生徒会会計だから駄目だという。会計業務は後輩に任せることができるし、わたしも任されてやり通した。両方やることだって別段の無理はなかった。なぜだと問うと、口ごもる、どうやら校長が反対しているようす。総番長のヒロシとは息があっていたし共産党のグループとも友人関係でつながっていた。丸刈り坊主頭の校則改正をやったことも警戒を生んだ。民青の矢臼別キャンプにも1年生の夏休みに参加していた。先ごろ市議を引退した共産党の下〇さんだったかな、当時は専従だったからよく知っていた。社会主義は1960年代は流行りだったから、上級生たちのよく見知った顔が出入りしていた。そのなかに上級生の総番グループが混ざっていたのは意外だった。わたしは同級生のA野と一緒に出入りしていた。卒業してからあいつはいつのころからかずっと共産党員である。頑固なところがあるが根はまっすぐだから、組織内では縁の下の力持ち、下〇さんとはまるで性格が違っている。根室高校にはこのころ時事問題研究会があり、中央大学で学生運動をしたことのある谷口先生が顧問だった。セクトは革マル派だったはず。普通科の十人くらいが影響を受けていた。そのうちの一人が幼稚園の幼馴染のF岡だった。東大安田講堂で立てこもって逮捕されたと噂に聞いた。もう一人有力メンバーにT部がいた。生徒会副会長だったかな、女傑だった。上智大学へ進学した。根室高校には3派存在したことになる。もう一つの勢力は総番グループである。
 
生徒会長立候補の件では生徒会顧問の先生が間に挟まって困っている様子だったので退いた。強引に立候補してもよかったが、顧問の先生が理由が言えずに困った顔をしたので、立候補はとりやめた。古御堂さんと端谷さんには「会計やっているので会長立候補はダメと言われた」とだけ話した。代わりに、友人のH瀬に副会長に立候補させるので、応援演説をお願いした。話をした生徒会顧問の先生はどなただったか覚えていない。同じクラスのK尻や旧知の普通科のT岡が中央執行委員に立候補してくれたから、生徒会はわたしの意思で動かせた。ポストにこだわる必要がなかった。幸いに生徒会長には中学生の時に隣のクラスだったオサムが立候補した。中3のときに一人で褌を占めて、鉄砲や蹲踞してすり足の稽古するようなストイックなやつだった。夏に一度黙々と鉄砲に励むオサムに声をかけたことがあった。身長180㎝、ガタイよくてたった一人の相撲部員、面白い奴だと認めていた。かれはしばしば生徒会顧問と生徒会役員たちの板挟みになった。もめごとは嫌いな質(たち)なのである。人っ子がよくて辛抱強い。あいつが買ってもらったばかりの16段変速のロードバイクを乗ってきて、生徒会室の窓の下に置いていた。あの時代に速度計までついたロードバイクは誰も持っていなかった、ずいぶん高かっただろう。オサムににちょっと貸せと言って、根室高校から現在セブンイレブンのある角まで走ってみた。オサムは180㎝ほどあったが、サドルはそのままで大丈夫だった。買ってもらったばかりのあんな高級車だれにも貸さないよ、だけどそこがあいつの性格のいいところ。すぐに鍵を渡して貸してくれた。前をダンプカーが走っていたので、追いつけるか目一杯漕いだら時速70㎞にアナログメータが近づいたとたんに、赤い光が目に入った。ダンプが右折するのでブレーキランプがついたのだと気がつき、間に合わないので身体を右側に倒してカルクブレーキを掛けながらセンターラインを越えて曲がった。あの速度でよく曲がりきれたものだ。いまならとてもできぬ。オサムが買ってもらったばかりのロードバイクを危うくオシャカにするところだった。対向車線を車が走ってきたら即死だっただろう。赤い光が目に入った瞬間、命が爆発するように燃え上がった。危ない遊びほどぞくぞくする。あの瞬間に脳内麻薬のドーパミンがどっと出たのだろう、痺(しび)れるような最高の瞬間だった、いきなりレッドゾーン突入。緩い下りになっているが、いまあそこをいくら速く走ろうとしても時速50㎞がせいぜいだ。交差点に近くなったらしっかり速度を落とす。危ないから。すっかりビビりになった。(笑)

4.<生徒管理強化での衝突:名札問題の経緯>
 3年になって、名札問題がもちあがる。校長あるいは生徒会顧問の一人だったK林先生の発案で、生徒全員に名札をつけさせるというのだ。大義名分は「生徒数が多いので、顔と名前が一致しない」ということだった。1学年350名だから全員で1050名、顔と名前が一致するのはわずかだっただろう。先生も百人近い人数だったのではないか。習ったことのない先生が半数以上いた。だから、生徒会顧問に「生徒のほうも先生の顔と名前が一致しない、先生たちも当然名札付けるんでしょうね」と念を押した。数人の先生たちにもそう伝えた。先生たちにも管理されるのを嫌う人が多い。職員会議でもめて、校長と生徒会顧問が発案した名札は流れた。
 前年には丸刈り坊主頭の校則を廃止したばかりで、大きな流れに逆行するものだった。カチンときていたのである。端(はな)から新任の校長と発案者である生徒会顧問と戦争するつもりでいた。獲得目標を明確にして、戦略と戦術を練り、やるときはとことんやる。
 万が一職員会議で可決されたら、名札を付けることは生徒の服装を規制するものだから、校則追加制定に該当し、校則の追加は生徒集会での賛否を問うのが定められた手続きだった。それを盾に生徒集会を開いて真正面から廃案にするつもりだった。味方になってくれる先生が数人いたので、職員会議の段階で廃案にできた。もめごとはわたしも小さい方がいい。

5.<酷暑のマラソン大会と熱中症による女子死亡>
 酷暑28度の体育最終日、生徒全員参加のマラソンでゴールしてから、熱中症で十人以上が倒れた。男子20㎞、女子10㎞だった。コースは日影がほとんどない、数年に一度の気温、カンカン照りだった。当時は水を飲んではいけないというのが常識だったから、水をまったく飲まずに走り通した真面目な生徒が、ゴールしてから熱中症で意識不明となった。10名ほどが倒れた、救急車で運ばれたがそのうちの一人が亡くなってしまった。責任を取らされる形で、物腰の穏やかな校長が更迭されて、体育会系の太ったN村校長が赴任してきて、生徒管理を強めようとした。やるべきことは生徒管理の強化ではなく、判断ミスが起きないように体制を整備することと、マラソンでは水分補給をしっかりやるように指導することだったはず。それを、体育祭最終日のマラソン大会廃止にすり替えた。これでは教育的配慮などありはしない
 1964年、わたしたちが高校1年生の秋に東京オリンピックが行われ、アベベが優勝し、円谷幸吉が銅メダル、マラソン熱で国中がわいていた。その翌年のことだった。あれが根高最後のマラソンとなってしまった。経緯を知っている先生は根室高校にいない、このブログを読み事情が分かっただろう、スポーツ大会最終日のマラソンを復活したらどうか?

6.<反抗期と友人H:こどもだったな(笑)>
 高校生での日商珠算1級は根室高校から初めて東大に現役合格を果たした横田さんが受験勉強真っ盛りの高3のとき、そして私が2年生で始めて、根室高校では二人目の合格者だった。横田さんはわたしよりも10個くらい先輩、横田市長の長男だった。道庁へ就職して、上川支庁長で退職している。根室高校長が、「東大を受験しようなんて身の程知らずがいる」なんて生徒集会で発言したという、笑える。きっと自分を基準に考えたのだろう。
 1級合格には生徒集会で校長から直々に合格証書が渡されるが、名前を呼ばれても、出て行かなかった。ちょっとざわついた。N村校長から受け取るのは嫌だったから前に出て行かなかった。あとで、担任から教室で受け取った。担任は何も言わなかったが、校長から何か言われたはずだ。
 珠算の全道大会は日商珠算能力検定試験1級の問題を半分の時間でやるので、それに比べるとどうってことのないスキルで、全道大会ではそれが最低レベル、しかし鍛錬を要するのは事実だ。珠算部ではないのに毎年珠算部顧問=担任の冨岡先生に頼まれて大会へ参加していた。いやT岡先生がわたしに直接頼んだことはないし、珠算部長のNさんからも頼まれたことはなかった。先輩の仲野さんがわたしに、「来週、全道大会行くからな」と告げると、わたしに拒否権はない、「はい!」と返事をする。1週間だけ練習に参加して、当然の顔で札幌会場へみんなと行っていた。それが愉しいのである。男は仲野先輩とわたしだけ、美人も複数いた。(笑)年に一度の懇親会のようなもの。大会出場はおまけだった。珠算部長は柏陵中学校出身のNさんだった。わたしはどういうわけか、光洋中学校の珠算部長だった。毎週、一日だけ後輩たちの指導をしていた。「計算実務」の「応用計算」種目はわたしだけ参加、複利計算や年金現価の計算や開平(平方根を求める)、開立(立方根を求める)、定率法減価償却など、50パタンぐらいも暗記してしまえば、簡単である。ただ、1問30秒で10ケタほど計算しなかればならないので、とっても忙しい。たとえば次のような問題が出題される。開平九九や開立九九なんていうのがあった。高橋先生から教えてもらったような気がする。よくあんな計算知っていたなといま思う、勉強家だった。根室高校の先生でそういう指導のできる先生はいなかった。後に、全道大会の作問委員をやられていた。
 ところで全道大会の応用計算では次のような形式の問題が出される。出題レベルは計算実務検定1級の問題、制限時間は半分。
「100万円を年率5%の複利で預けると、10年後にはいくらになるか。円未満は四捨五入すること」
 数学的には簡単である。式は[1,000,000×(1+0.05)^10]、これを30秒で計算すればいい。当時は8桁の電卓が4万円もした時代である。高卒の初任給2か月分では買えなかった、算盤が計算道具として重要だったのである。女子はこういう計算が苦手だった。計算式を数学的に理解してしまえば、あとは簡単、単なるパターン計算になる。大学受験数学も同じで、そのパターンがおよそ10倍の500パターンある。頭のいい生徒はこれを200以下に集約できる。なるべく脳のメモリーを余計なことに使わないほうがいいのである。肝心な時につかえるエリアが狭くなってしまうからだ。

 年が明けて、2年生の2月に日経協の簿記1級に二人合格した。生徒集会で合格証をもらうのは点数の高い方だから、わたしの名前が呼ばれた。この時は担任の顔を2度も潰してはいけないので、前に出てすなおに受け取った。 もう一人の合格者は後に21歳で税理士試験に合格することになるH瀬である。歯舞中学出身のあいつはよくできた。生徒会副会長にわたしが引っぱりだした男だ、ふさわしいのはあいつしかいなかった。ほんとうは会長職を頼みたかったが、会長立候補の話をもって行っても返事はノーだっただろう。名前が知られていなかった。資格を取ってからほどなく有楽町で税理士事務所を開いている、見込んだ通りの男だった。高校時代は簿記では定期試験でも検定試験でも結果を見ると一度もトップを譲ったことがない。あいつは昆布漁師の息子で、昆布干しの作業の手伝いがあったし、わたしは家業のビリヤード店の店番を毎日していた。どちらも家業を大事にしていた。好い奴と1年生の時に同じクラスになった。2年からは別々のクラスだった。1年の時に同じクラスでなかったら、あいつの気心を知らないから、2年の生徒会選挙に引っ張り出さなかっただろう。先輩の副会長2人に応援演説をしてもらうのだから、それなりの人選の責任がわたしにはあった。

7.<産学共同事業:市民珠算大会>
 珠算に関していうと、わたしが卒業した年に、小学6か中1の生徒が二人全珠連検定試験五段に合格した。駒沢さんと多田さんという名前を記憶している。五段は日商珠算検定を半分の時間で合格するよりもレベルがずっと高い。高橋珠算塾の生徒である。そのご、高橋珠算塾では十段位もでたと聞く。高橋尚美先生の「男子一生の仕事」という情熱の賜物だろう。元々釧路の方だ。20歳くらいで根室で本町大岩米穀店の隣の2階で珠算塾を開いた。根室発の珠算塾だった。小学生の四人に一人は通っていた。花咲街道を挟んで根室信金本店の向かい側。家が近かったので、高橋先生とはビリヤードもよくやった。そちらはわたしが先生だった。(笑) 根室に知人友人を創るには、ビリヤードはなかなかいい手段だったかもしれない。そういう目的でマージャンもよくやっておられ、付き合いの広い人だった。
 わたしは高校2年の時に、中大文学部へ進学した澤山先輩のあと、半年ほどピンチヒッターで汐見町の教室を任された。金曜日だけ曙町の本塾で教える高橋先生と交代して本塾のほうで教えた。高橋先生は「男子一生の仕事」と言い切るほど、熱が入っていたから、指導していると、次第に声が大きくなってしまう。塾生たちはビビッて手が思うように動かない。わたしがいく金曜日はほっとしていた。あの当時高卒の給料が1.5-1.8万円ほどだったが、夕方3時間ほどで8000円いただいていた。ビリヤードの店番もあったので、毎月高卒のサラリーマンの給料くらいお小遣いがあった。高度経済成長のいい時代だった。
 珠算部顧問と高橋先生の仲が悪いという噂があった。珠算部顧問の冨岡先生が「卒業生に塾を開かせて潰してやる」なんて噂がまことしやかにささやかれていた。ところが、担任の冨岡先生から高橋先生の悪口は一度も聞いたことがなかったし、高橋先生も冨岡先生の悪口を言われたことがない。冨岡先生は珠算部顧問で、計算実務を教えていたが、算盤の扱いは素人、苦手だったと思う。計算実もの授業では教壇の前に大きな算盤を載せて、計算の実演をしなければならないのだが、算盤の後ろ側から珠を操作するのは厄介で、時々計算が合わない。わたしは数秒で計算を済ませてしまっているから、冨岡先生の珠の動きを見ている。どこで間違えたかわかってしまう。計算結果が合わないといらいらしている。そんなときに視線が合ったことがあった。カッとなって冨岡先生、チョークをわたしに投げつけたことがあった。大人げないのでよけもせずに胸のところへ当たって落ちた。計算実務の授業が苦痛だったのだろう。わたしが計算実務1級の問題を半分の時間でやることはご存じだったから、バカにしていると思ったのだ。わたしは代わりにやってあげてもいいと思っていつも見ていたのだが、珠算部顧問のメンツもある。いい思い出だ。
(簿記の白方先生は出張で工業簿記の授業ができないときには、わたしに問題プリントを人数分預けて出張していた、「出張でいないから次の時間これみんなにやらせておいて」、クラスのみんなもそれで誰も文句言わない。授業の説明を一番後ろの席で聞いていて、ややこしいところの説明が終わると、わたしのほうを見る、頷くと次に進む、首を横に振るともう一度説明をした。わたしは、2年生になる前に、工業簿記1級の問題集を1週間でやり終えていたから、工業簿記の授業は復習だった。何も言わなくても白方先生はわたしがそれくらいの勉強をしていることをご存じだった。だから、2年生の時に神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。そのときには公認会計士二次試験の受験勉強を始めており、金融機関へ就職するつもりだったから大学進学に興味がなかった。)
 高橋先生は日商珠算検定1級の満点合格になんども挑戦するほどの名手。根室明照高校で珠算を教えていたことがあったらしい。根室高校と根室明照高校、それぞれで珠算の指導に当たっていたから、対抗心はあっただろう。両方の先生のそばにいたのにはわたしだけ、仲が悪いわけではなかった、たんに、疎遠だっただけ。話したことすらなかったはず。
 高橋先生から、あるとき珠算の市民大会を根室高校で開催したいと相談を受けた。わたしが根回しするのがよさそうだから、根室高校側はわたしから珠算部顧問の冨岡先生に話して柔道・剣道道場を会場とすることや準備の段取りを決めた。珠算部員でもないのに、毎年、全道大会に出て貸しがあったから、冨岡先生すぐに動いてまとめてくれた。根室商工会議所主催で、根室高校珠算部顧問と高橋珠算塾が手を組んだ仕事になった。商工会議所の巻き込みは珠算塾側の高橋先生と板野先生が担当したのだろう。こうして根室初の産学共同事業が実現した
 第一回目はわたしが選手宣誓をやった。高橋先生が「選手宣誓」の原稿をもってきて、やれと指示。わたしは「ノー」とは言えないから、選手としては暗算部門だけ出場、あとは主催者側に回った。だから、初回の暗算部門の優勝者はebisuである。読み上げ算は6-10桁を高速で読み上げなければならず、やったことのない根室高校の先生たちには無理だったので、別の珠算塾の板野国雄先生と高橋珠算塾の高橋尚美先生、そして根室高校珠算部幽霊部員のわたしの3人でやった。珠算部長のN村さんは、高橋珠算塾にはいなかったから、板野先生の所へ通ったのだろう。もうひとつ安達さんのやっている珠算塾があった。妹のみどりさんが、根高珠算部で1年後輩だった。運指の綺麗な人が安達さんと同じ学年の後輩にいたが、名前が思い出せない、板倉さんといったかな。
 商工会議所主催の市民珠算大会はわたしが根室に戻ってきてから何度か開かれていた。珠算人口が激減したのでおそらくもうやってないだろう。今年、釧路高専へ進学したM君が澤山先輩の珠算塾で小6のときに3段合格したと言っていた。野球部だったから、中学校では無理、ボールを投げると指が震えて、運指に差し支える。どちらかをえらばなければならないが、大好きな野球を選んだ。かれは野球が好きで、武修館から優れたコーチが来ていた別海高校へ進学するつもりだった。めずらしく文武両道だったから釧路高専への進学を勧めた。大学へ進学への道が残る。豊橋と長岡にある技術科学大学は国立だが、全国の国立高専から優秀な学生を3年次編入で受け入れている。釧路高専で上位1/3の成績なら、進学できる。さらにそのうちの上位1/3なら、大学院へも進学できる。あとは自分の努力次第と言って送り出した。還暦高専生の高木さんが同期生である。高木さんは元釧路市学校教育部長である。ユニークな人だ。かれこれ8年間ほどお付き合いがある。
 根室の珠算人口が激減した。その一方で四則計算(加減乗除算)が満足にできない中1が増えた。分数や小数の計算ができない中1の生徒が3割はいる。小学生低学年で2年間ぐらい習わせたら、四則計算のできない生徒はほとんどいなくなる。毎日15分、1年間やらせるだけでもずいぶん効果がある。根室には五段以上の高段位を取得している女性が十数人残っているはず。もったいない、そういう人たちを講師にして小学校で教えたらいい。梅ヶ枝町2丁目の生徒S君のお母さんが五段位だった。S君は数年前に根室鉱区を卒業している。他の地域では五段位取得者はなかなかいないよ。根室には表に出てこないがこうした人材がいる、人財といった方がいい。根室市の宝だ。根室市教委はそういう人を掘り起こして使ったらいい。

 いま、全国の病院で使われている臨床検査項目コードは日本臨床検査医学会が公表して臨床検査最大手のSRL内にある事務局からインターネットで配信されているが、これは大手臨床検査会社と日本臨床病理学会(当時)臨床検査項目コード検討委員会が5年ほどかけて産学協同の作業部会での検討をへて制定されたものだ。事実上の日本標準臨床検査項目コードである。これは、1985年の「臨床診断支援システム開発事業」構想がベースになっている。臨床検査項目コードを統一することで診断支援システムが稼働可能になる。入社した翌年この構想を書いて、創業社長の藤田さんから予算200億円の承認をもらった。臨床病理学会臨床検査項目コード検討委員会委員長の櫻林郁之助教授を引っ張り出して、大手六社との共同プロジェクトに参加してもらった。櫻林先生には入社後案歳ぐらいで項目コード検討委員会を手伝ってほしいと個人的に頼まれていた。創業社長の藤田さんにに言って手伝いができるように総合企画部への異動を働きかけるのでいいかと相談があった。SRLはもともと臨床病理学会長の河合教授の発案で、藤田さんが始めた事業である。だから、その一番弟子でSRL顧問の櫻林先生の依頼なら、藤田社長は二つ返事でわたしの異動を人事部へ命令しただろう。その時は統合システム開発と予算編成を抱えていたので、お断りした。だが、どこかでお手伝いするつもりだった。「臨床診断支援システム開発・事業化案」がきっかけになって大手六社を巻き込んで実現した。大義名分がなければ、こういう大きな仕事はできないものだ。

 慶応大学産婦人科ドクターたちとの出生前診断トリプルマーカ―MoM値も産学共同プロジェクトだった。これもわたしがコーディネータ。3年かけて妊婦の血液を6000検体ほど集めて、日本標準値が制定できた。最近、第2世代のもっと精度のいい検査にかわった。20年間ほど日本標準の基準値だった。
 こういう産学協同プロジェクトをコーディネートするのは、こうして書いてみると根室高校時代の市民珠算大会へ遡ることができる。高校時代はいろんなことを経験しておいた方がいい

 
 ところで、高橋珠算塾の汐見町の教室を任されていた時に、高橋先生は全珠連の全道の集まりにわたしを連れて行ってくれた。釧路までは砂利道だった、会場は帯広。十勝川温泉一泊のおまけがついていた。当時は混浴で、若くて美人でプリンプリンの巨乳の人が入浴してきた、目が点になり鼻血がでそうだった。あれは天からのご褒美だったのだろうか。(笑)
 


8.<根高ラグビー部創設の経緯>
 高校2年生の時に、明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任してきた。チャンスだと、友人数名にラグビー部立ち上げを相談した。村田先生に部員は集めるから、1年間ラグビー同好会顧問をお願いしたいと申し出ると快く引き受けてくれた。規定で1年間は同好会、様子を見て部へ昇格というのが手順だった。部へ昇格すると部予算が割り当てられる、そこは生徒会計形の一存で決められた。同好会の1年間は予備費から支出したのか記憶にない。明大のメニューでトレーニングしてくれたから、すぐに根室管内の強豪であった中標津高校に勝てるレベルになった。数年前に部員が居なくて廃部になったようだ。
 大学でなにか部活をやった先生が赴任してくるようなチャンスがあったら、種目はなんでもいいから、その先生を担いで同好会、そしてクラブを立ち上げたらいい。指導がよければ道内ならすぐに強豪校になれる。

9.<総番制度廃止の経緯:ヒロシ>
 もうひとつ、だいじなことがあった。総番制度である。2年生ときに3年生の総番グループと衝突があった。3年生の総番長グループの数人が民青に所属していたはず。総番グループが変質しつつあった。北海道新聞には「13対7の決闘」というようなタイトルが躍っていた。2年生13人3年生7人、全員停学処分である。3年生でケガをしたものが病院へ行って警察の知るところとなった。羅臼出身のニックネーム「やすべ」も退学処分。定期テスト前だったが、退屈だろうと思って、毎日行って花札をして12時ころまで遊んだ。ノートは見せたかな?いや、ほしがらなかったのではなかったかな。あいつのオヤジは根室管内で当時一番税金を納めていたが、下宿生活していたあいつは質素に暮らしていた。オヤジにねだればいくらでもお金は送ってくれただろう。やすべは本当は気弱なボンボンだった。高校卒業して札幌の水産関係の会社に就職、その夏に根室へやってきて、二人だけで酒を飲んだ。それ以来会っていない。2-3年前に癌を患い東京の病院で亡くなったと聞いた。会って昔話をしておきたかった。やすべとは3年間同じクラスだった。1年の時に同じクラスで仲の良かったオンネットの天野がいた。かれも総番グループの一人だった。美容師になって札幌で数か所店を開いて優雅にやっていたようだが、店舗を増やしすぎて一度倒産したと聞いた。高校卒業以来一度もあっていない。書くときりがないからこれくらいにしておく。
 2年生の新学期からクラス編成がかわる。商業科はEFGの三クラスだが、一番端のGクラスに問題児が集められる。だからとっても面白いクラスになる。総番長のヒロシとも同じクラスになった、息があった。それ以来、お互いに名前で呼び合う。「ヒロシ」「トシ」である。二人だけで話す機会がよくあった。
 かれに総番長に代々伝わて来た仁義の切り方を知ってるかと訊いたことがある、伝わってなかった。根室高校の総番制度は根室商業時代にできたもので、それが数十年にわたって代々伝わっていた。総番長は商業科という不文律があった。2学年上のY山さんは普通科だったが、プロレスラーのようなガタイ、不文律が不満だった。ヒロシと一緒に明治牧場を横断していた時に絡まれたことがあった。わたしたちが3年のときだから、卒業して2年たっていた。何か用事があって高校へ向かう途中だったようだ。
 5年先輩の総番長は親戚のお兄さん、野球部のキャプテンでもあった。お祭りのときだけ、なんだか怖い顔をして、後ろに眼付きの鋭い不良を十数人従えて、足駄をはいて街中を闊歩していた。高校1年生の時に、代々伝わっている仁義を切って見せてくれた。ヤクザともめごとがあれば、根室高校を代表して仲裁交渉するのは総番の役目、だから相手の流儀であいさつしなければならない。「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうさんにござんす。手前生国発しまするところ…」と立て板に水のごとく言いよどんではならない。文句を間違えたら殺されてもしかたがない、そういっていた。小さく折りたたんだ紙に台詞が書いてあり完全に暗記して、実演して見せてくれた。よほど練習したのだろう。腰を落として構えて右手を出し、映画のシーンを見るような見事なものだった。わたしは「まこちゃん」と呼んでいた。その仁義の台詞が総番のヒロシに伝わっていない。先輩の3年生たちも十人くらい知っていたが、伝わっている気配がなかった。総番制度はすでに中身が変質していた。仁義の台詞を小さく折りたたんで後生大事に持っていたところから推測するに、まこちゃんが伝えなかったのかもしれない。時代の変化を敏感に感じていたのだろう。ヒロシには仁義が伝わっていないようではもういいだろう、総番制度は廃止、グループは解散くらいのことは話していた。2年生に総番を継げるような人材のいないことも二人で話していた。
 根高総番長には権力と責任が伴っており、いざというときには命懸けの覚悟が必要だったが、残念ながら、わたしたちのころはただのワル集団になりかかっていた。そこへ共産党という色の違ったものが1年生先輩たちを染めつつあった。解体する必要は感じていたし、ヒロシとそういう話をしたこともたしかにあった。土曜日に二人だけで高校から歩いて帰ることがあった。
 わたしの記憶はそのあたりまでだが、同級生のA野の説明だと総番長とA野とわたしの三人で廃止を決めたのだそうだ。総番長のヒロシは矢面に立たされたはずだが、あいつは独りで収めてしまった、そういうやつだ、大物。ヒロシは勉強が好きではなかったが、それでも2倍の競争率を潜り抜けたのだから、そこそこ勉強はできた。副番3人のうち2人は大学へ進学している。勉強が好きになれなくても、統率力のあるやつは社会人になったときにそれが武器になる。ヒロシは50代である水産会社の役員になっている。わたしと同じ大学へ進学した副番長の一人であるTはあるテレビ会社の取締役東京支社長だった。総番グループには面白い人材がいたと言っていいだろう。同じクラスでヒロシを支えていたバスケット部のムサシは、しょっちゃんと同じ拓大へ進学した。こいつもいい奴、花咲港のボンボンだった。冨岡先生があるとき「おまえは花咲港駅から自分の地所だけをあるいて帰れる」と言ったことがあった。苦労知らずの人っ子のいい奴だった。でも、奥さんが早く亡くなって苦労した。底抜けに人のいい奴らが周りにたくさんいた。
 下級生に総番にふさわしい人物がいなかったことも原因の一つだった。ただのワル集団なら伝統の総番制度とは似て非なるモノ。あれでよかった。ヤクザ屋さんともめごとを起こすようなはねっかえりも絶えて久しく、全体に小粒になってしまっていた。ヒロシは男気のあるやつ、酒を飲むとときどきはしゃぐ。(笑)

 根室高校生は50年間でずいぶん幼児化してしまった。この数年間、高校生は毎週出されるプリントのたくさんの宿題にあえいでいる。これではまるで小学生ではないか。高校生を見ていると、自主性・自発性が根こそぎになったような感がしている。一部に、自主性が強く自立した生徒を見かけるが、稀だね


10.<根室明照高校生徒会との交流>
 根室高校と私立の明照高校は生徒会も部活も一切交流がなかった。根室明照高校生徒会長の北川さんと話をして、交流をしようということになった。当時もわたしは生徒会会計だったが、両校の調整役ぐらいはできた。決めてきて、生徒会メンバーに話せば、ノーを言う人はいない。そういう経緯で、根室高校生徒会室で一度だけ両校の生徒会メンバーが接触した。とくに何かを決めるわけでもなく、顔合わせくらいなことだった気がする。北川さんは1期だけ根室市議をやったが、前回の選挙では立候補しなかった。
 部活の交流は女子バレーの練習試合を組んだ。明照高校のほうが運動神経のよい女子がたくさんいたはずだから、根室高校が負けると予想していた。ところが結果は明照高校の惨敗だった。わけがわからないので、明照高校バレー部にいた妹に、理由を訊いてみた。「お兄ちゃん、トスを上げると天井が高くて眩暈(めまい)がした」と言った。明照高校の体育館は、教室を二つぶち抜いただけで天井が低くてトス上げ練習できないことを後で知った。運動能力の高い生徒たちが気の毒な環境で部活動をしていた。何とかしてやりたかったが、なんともできなかった。
 後に、根室明照高校が財政的に行き詰って、道立根室西高校になったのはまことに喜ばしいことだった。道立高校だから、根室高校と同じレベルの体育館が整備できる、それでハンディがなくなっただろう。当時の明照高校女子バレー部の部長はいまは親友の奥さん。当時は全く面識がなかった。それでも知っているメンバーが何人かいた。高校が違えば、中学時代に一緒に遊んでも、遊ぶ機会がなくなるのがふつうだった。
 同じ根室の高校だから、年に一度は雑談でいいから集まって話をしようということになったが、3年生のときだったから、交流がその後続いたかどうか承知していない。こういうことは継続することがむずかしい。人が入れ替われば、続かなくなる。どうしたらいいのかわからなかった。

11.<記憶に残る根高の先生たち>
 担任の冨岡良夫先生はまず筆頭に挙げるのが礼儀というものだろう。お兄さんが仕事で中国勤務になったので、高齢の両親の面倒を見なければならなくなり、根室高校を50歳くらいで退職して東京都大田区のご自宅へ引っ越された。そのあと、道路工事の仕事やスーパーマーケットの駐輪場の係をやって、みこまれて、自転車売り場の担当になった。東京で同期会がある都度冨岡先生は出席してくれた。あるとき、手をついて、「申し訳なかった、もっとちゃんと授業するべきだった」と謝られた。自転車売り場の主任になってはじめて仕事というものが分かったとおっしゃった。安物の1.2万円くらいの自転車は勧めない、「3年乗り回して、あるときパイプが腐食して坂を下る途中でぽっきり折れたら、どうします?、お値段相応にできているんです」、そう言いながら、3万円以上の頑丈な国産自転車を勧めるのだそうだ。自分のこどもや孫が、安物の自転車に乗って数年後に大けがしたらと思うと、いい加減な販売はできないとおっしゃっていた。頭が下がった。冨岡先生は三年生の進路相談のときに、釧路日銀支店を受けるように奨めてくれた。学校推薦はできるし、生徒会もやっているので、日銀を受けてみろと言われた。都市銀行に就職して、公認会計士の資格を取るつもりだった。「おまえが都市銀行を受けたら、受けたい同級生が落ちることになる」そう言われて、就職しそこなった。だから、わたしの大学進学は「瓢箪から駒」のようなもの、進学するつもりがまったくなかった、時間切れ、成り行きでそうなっただけ。高卒で日銀就職は嫌だった。冨岡先生のニックネームは「どん太」である。癌があちこちに転移して、その都度手術されていたが、数年前になくなった。
 白方功先生は北見北斗出身で千葉商科大学出だった。簿記の教え方が優れていた。問題集は日商用のレベルの高いものを使って1年分予習してしまっていても、聴くべき内容があった。兵庫県立神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。受験科目を見て無理と思った。わたしたちが卒業してから、母校の北見北斗に戻って、しばらくしてから学校をやめてビジネスを始めたと噂に聞いた。ワインバーで飲んでいた時に製薬卸の営業の人と隣り合わせたことがある。北見北斗の出身だというので、白方先生知っているかと問うと、習ったという。北見北斗がテレビの取材を受けたときに、東京で放映された番組を見た。そのまんまだった。「バッキーしらかた」のニックネームで呼ばれていた。ずいぶん早く亡くなったようだ。
 英語の沢井先生が懐かしい。1年の時に英語を習った。文型中心に授業をしてくれた。すっと頭に入ってきた。定期テストで50問ほど文型問題を出題された。1問だけ間違った、50点以上は二人だけだった。他の生徒たちには、先生の説明が呑み込みにくかったのだろう。低音のいい声で教科書を音読してくれた。卒業して数年後に釧路高専の教授となったときいた。中学生のときに2年半英語を教えてくれたE藤先生は文法的な説明を一切しない人だったから、自分で勉強する癖がついた。中3年の後半になって、一人だけAクラスに編入してもらえた。それまでBクラスだったのである。成績が悪いはずもないのになぜ2年生の時にBクラスにされたのか理由がわからなかった。E藤先生は教科書を3回読み、和訳されたらあとは雑談だけ。変わった教え方だが、2年半はそれがスタンダードだと思っていた。先生によって教え方はまるで違うし、発音もだ。高校2年と3年の時に担当してくれたH先生は、togatherとテゲェアザーと変わった発音だった。1年生の時に発音記号をマスターしていたから、ちょっと気になった。NHK英語講座をソニーのオープンリールテープレコーダに録音して、巻き戻し・再生のために大きなレバーをガチャガチャさせて英語の勉強をしていた。あのレバーは案外丈夫だった。当時はカセットテープレコーダがまだなかった、東京オリンピックの年、1964年のことである。沢井先生は北大出身。中高と4人の英語の先生に習ったが、沢井先生が最高だった。
 35年ぶりに根室へ戻ってきて、数年たったころ、本町の海岸から双眼鏡で国後島を見ていたら、「ちょっと双眼鏡貸してくれない?」と頼まれ、振り向くと山田先生だった。生徒会顧問をしていたうちの一人だ。習ったことがないが、知っていた。「山田先生ですよね、昭和42年卒で生徒会・会計をやっていたebisuです」というと、家へ来ないかと誘われて、そのままご自宅へ。先生は郷土史研究会顧問を長くされており、それまで研究会がつくった郷土史関係資料をたくさん見せていただいた。山田先生のあの資料は誰かが引き継いだのだろうか?貴重な資料がたくさんあった。根室出身の方ではなかったが、お会いしたときに「根室の土になる」とおっしゃっていた。その言葉に胸が熱くなった。
 ラグビーの村田先生はすでに書いた。あと、高校時代には習っていなかったが、中学生の時に日本史を習った柏原栄先生がいる。いまも根室に住んでおり、水晶島出身で北方領土返還運動に携わっている。北方領土返還運動の担い手の一人である岩田先生(一昨年逝去)とは花咲小学校で同僚だったはず。いまも西浜町会長である。黒板に不揃いの大きさで字を書く先生だった。字は一つ一つ丁寧だった。高校のときは倫理社会の先生が用事でいなかったときに、普通科でやった政治経済のテスト問題をもってきてやらせたことがあった。文系と理系のふたつに最後の問題だけ分かれていたが、ちゃんと両方書いた。政治経済は習っていないのだが、北海道新聞の社説と政治経済欄を小4から読み続けていたので、全問正解できただろう。ちゃんと勉強してるよと、メッセージを送ったつもりだった。門閥について柏原先生から質問を受けたことがあったから、2度授業があったのかもしれない。倫理社会の谷口先生が説明した通りに応えたが、間違いであった。辞書に書いてあることと違う説明をした。わざとではなかったが、「谷口先生の説明ではそうでした」と伝えた。柏原先生は光洋中学校教諭時代は歴史を教えてたから、門閥というような歴史に関係する用語の定義には厳格だった。谷口先生は時事問題研究会で幼稚園の幼馴染を煽っていたので、反抗心がメラメラしていたのかもしれない。共産主義を云々するなら、谷口先生には資本論くらい読んでからにしろと思っていた。生一本な幼馴染のFは安田講堂に立てこもって逮捕されることになる。門閥については谷口先生が、「俺そんな説明したか?柏原先生に叱られた」とぼやいていた。谷口先生は中央大学法学部出身、司法試験合格者が一番多い大学だった。当時は東大法学部の次にランクされる難関。校舎が八王子へ移転してからレベルが下がった。SRLの同僚だった加藤が中大法学部だった。大学紛争で東大安田講堂がロックアウト、そのあおりで入試は中止、それで中大法学部へ進学した、家が裕福でなかったから1年間浪人できなかったとは加藤の述懐。奥さんは東大理Ⅲの才女だった。2つ年下の加藤は平成5年11月に43歳で胸部ガンで亡くなった。弊ブログのどこかで書いている。惜しい奴だった。
 写真展で柏原先生の桜の写真を見たことがあり、懐かしくて電話した。東京都内では診たことのない場所だったので、訊いてみたら大阪造幣局の桜だった。名前を覚えておられた。姉のことも母親のこともしっかり記憶されていた。すごい記憶力だ。どなたかのお葬式で2度ほどお見かけしたし、2年前の同期会にも出席してくれた、あいかわらずおしゃれ。いつまでもお元気でいてもらいたい。
 柏原先生の歴史の授業をきっかけに成績が急激にアップしたので、恩人である。頭の中でビリヤード・ゲームを無限居続けられるが、柏原先生の特徴のある板書は、緑色のラシャの上を走る白い球と一緒であることに気がついた。授業の後で脳内に繰り返し再現できた。それを歴史、数学、理科、英語などの好きな科目に応用したら、特に勉強時間が増えたわけでもないのに突然に成績がアップしたのである。それからは勉強がとっても簡単、楽ちん、愉しいものになった。数分間、脳内に展開するだけで人の数時間分の効果があった。

 野沢先生はバスケット部の顧問で、根室出身の先生だった。教えてもらった科目は「商事」、2年生の授業だったが、古い黄ばんだノートをもってきて、おもむろにそれを板書する。お酒が好きな名物先生だった。とっても人気があり、生徒たちはみんな「しょっちゃん」と親しみをこめて呼んでいた。しょっちゃんはわたしが大学を卒業して根室高校に戻ってくることを期待していた。もどってきたら、しょっちゃんの2代目だ。産業用エレクトロニクスの輸入商社へ中途入社したときに、道立高校の採用試験も受けていた。翌年、5月に留萌高校赴任の打診が来た。来週赴任してもらえないかという。入社早々社運を賭けるプロジェクトを社長から5つ任されていたから、放り出すわけにはいかなかったので、お断りした。高校の先生になってもどってきていたら、しょっちゃんと愉しく酒が飲めただろう。それはそれで楽しい人生選択。(笑)
 合掌。

 根室高校の「時代(1964-1966)の当事者」としていくつか証言を書いた。誰かが書き残しておかなければ消えてしまう。消えていいのだが…


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#4120 標津の叔父貴:8年ぶりの再会 Nov. 9, 2019 [21. 北方領土]

 標津の叔父貴のところまで、車を運転していってきた。先月、T叔父貴の嫁さんが亡くなったのを昨日知ったからだ。初めて叔父貴の家を訪れた。

 8年前に根室まで来てくれた。癌に効くからと「猿の腰掛」を砕いたものを袋に入れて持ってきてくれた。T叔父貴は巳年(1929年)生まれで90歳になる。うちのオヤジが1921年酉年生まれだから、8歳年下になる。1924年生まれのお袋の実弟、5歳下。1923年9月1日の関東大震災が起きている。

 叔父貴は終戦の年に16歳、択捉島にいた。3年間ロスケ軍政下で生活して日本に戻ってきた。ピストルで脅されたりしたが、実際に発砲することはなかったという。日本人の青年男子は漁労に従事していた。択捉島での漁は、戦後のソ連の食糧増産のために重要だったらしく、かなりきつかったようだ。

 日本へ戻ってきてから、団塊世代のわたしが幼稚園児のころ数か月間あるいは1年間くらい、根室に来て一緒に暮らしたことがあるので、T叔父貴はわたしには親戚というよりも家族の感情が強い。昭和23年にソ連から引き揚げてきたときには19歳、両親はすでになくなっていたから、苦労したのだろうと思う。
 択捉島蘂取村の前浜の漁場の権利は叔父貴名義になっている。長女であるおふくろは、結婚しなかった妹の老後と死後を心配して、弟にその管理を委ねた。叔父と同じ漢字の名前の叔母は叔父貴が供養している。義務と権利は一体というのが母の考え。
 満州で戦死した兄が生きていれば、長兄が相続しただろう。戦前の択捉島は根室の漁師の3倍の漁がある「宝島」である。北方領土が戦後50年くらいで戻ってきてたら、T叔父貴の暮らしはまったく違ったものだっただろう。

 家に上がって、挨拶をし、線香をあげて、それから8年ぶりの再会を喜んだ。とっくに車の運転をしなくなったので、根室に出てくることもない。根室の自衛隊に勤務している息子がいる。息子に会うのは2度目である。11時から三七日の法要をやっていたのだが、胃と胆嚢の全摘・リンパ節切除・大腸一部切除しているので、わたしは午前中は体調が悪く車での移動は11時すぎないと無理、道の駅「おだいとう」で珈琲を飲みサンドイッチを食べて、午後1時過ぎに標津についた。ちょうど法事で集まっていた人たちの最後の一人が帰るところで、見送りに表に出てきていた。

 戦時中は秘密部隊の落下傘部隊員だったオヤジが60歳ころに標津までサイクリングで行ったついでに叔父貴の家を訪れた話や、標津が本店の蕎麦屋福住でそばを食べて、「うまいそばだ」と褒めた話、根室のヤクザの親分だったT嶋さんとオヤジの話など、たわいもないことを小一時間ほど話した。自分の目で見たT嶋さんとオヤジの話を叔父貴が教えてくれた。昭和28年ころのことだろう。
 親分のT嶋さんは、幹部5人にしかオヤジのやっているビリヤード店への出入りを許可しなかった。親分のしつけがきびしいのか皆さん言葉使いはよろしいしとっても行儀がよかった。あるとき幹部でない組員が親分へ連絡事項があって店に来たことがある。「ここは、〇〇さんの店、お前たちは出入りはならぬ」とぴしゃっと云い渡した。店番していて自分の耳で聞いておやっとおもった、堅気のオヤジをまるで兄貴分扱いするようなT嶋さんの態度がふだんから不思議だった。お袋に話しかけるときに「姉さん」というのも。
 理由はずっと後で、オヤジの通夜の席で旭川のN叔父から聞いて知った。戦後まもなく、富良野で映画館でヤクザ屋さん5人ばかりに因縁つけられ、「顔を貸せ」と囲まれてトイレに連れ込まれたことがあり、数分後にそこへN叔父がいくと5人とも倒れていたそうだ。落下傘部隊員は正規兵3人を相手にして互角に戦えるほど厳しい訓練を経ている。オヤジは終戦数か月前の「加藤隼戦闘隊」という戦時宣伝映画の降下訓練シーンの撮影で、最終降下役、すぐ前の隊員が降下気迫を失いためらったので、押し出しながら飛び出したら、主導索に腕をひっかけて右腕複雑骨折、終戦まで別府温泉や青森の温泉で療養。その後遺症で戦後数年間は右腕がほとんど上がらなかったのである。昭和22年にお袋とお見合いしたときに、上がらない腕で箸をもって、顔を箸に近づけて食事していたオヤジを見て、傷ついた兵隊さんの妻になろうと思ったのだそうだ。満州で戦死した兄のことが頭をかすめたのだろう。オヤジは軍隊に入る前に町内対抗の自転車選手だっただけでなくボクシングもやっていたから、左腕一本、ジャブで片付けたのだろうか、おそるべし、落下傘部隊生き残り。それ以降、富良野のヤクザは道路ですれ違うとオヤジをよけて歩いていたと、N叔父が大笑いしながら話してくれた。オヤジは兵隊時代のことを面白おかしく聞かせるのが得意だったが、N叔父から聞いたような話は聞いたことがなかった。旭川のN叔父は、「同じことだろうよ」とほほ笑んだ。Nさん、技術が優秀なので運輸大臣賞をくれるというのに、断るような頑固な畳職人だった。
 それで、オヤジが決して続きを言わなかった話の合点がいった。戦後の食糧難で富良野で野菜や穀物コメの買い付けをして根室へ運んで売っていたことがある。そのときに、T嶋さんは鼻っ柱の強い若頭だった。緑町に松乃湯という銭湯があって、そこで目と目が合って、「表へ出ろ」、応じて外へ出た。話はそこまで、あとは決して語らなかった。二人には愉しい思い出だったのかもしれない。T嶋さん素直なのである、以来、オヤジは兄貴分扱いだったというわけ、オヤジはなんとなく迷惑そうだった。でもチンピラが店に出入りしないのはありがたかった。(笑)

 小学生低学年のころから、空きになると石炭ストーブの焚き付けにざっぱを鉈(なた)で叩き折ってたくさん積んでおくが、わたしはそれを素手でやっていた。手刀や拳骨で叩き折るのである。生渇きの木が混じっているので、撓(しな)って折れないことがある、そういう生木を繰り返し叩くと次第に折れるタイミングがわかってくる。気を入れて本気で高速で叩けば百発百中だということがわかり、そういう叩き方を身体が覚えてしまった。何千本も手刀や拳で叩くから、手刀は次第に固くなり、拳の骨密度も大きくなりパンチが重くなる。重い鉞(まさかり)を全力でふっていたからか、両腕がよく発達して人より10㎝ほど長い。(笑) 空手をやっている人は拳にタコができるが、小学生低学年から繰り返していると、拳ダコができない。だが、破壊力は拳ダコのある者よりもおそらく大きい。当時は廃材もふんだんにあり、五寸角の角材も混じっていた、いま五寸角の柱を使っている家はほとんどないだろう。長柄の大きな鉞でも一発では折れてくれない。振り上げて体を後ろにしならせて背後の土に鉞の鉄部がついたら、ゆっくり振り上げて、振り下ろす瞬間にギュッと握りしめながら、渾身の力で叩く。十数回繰り返すと叩き折れる。四寸角の柱ならもっと楽だ、三寸角の角材なら、2-3発で叩き折れる、まれに一撃で折れることがあった。五寸角についた鉞の刃のあとをみると、どれくらい正確に狙い通りにあたったかが確認できる。渾身の力で一か所を狙って打ち下ろして、1㎝の幅に収めるのは、よほど腰が安定して、振り下ろし方が一つの型にまでならないとできない。住宅用柱に使われているのは現在では三寸角である。正確に振り下ろして、当たる瞬間に握りしめて渾身の力で叩きつける。ぼきっと折れるとスカッとする。
 家の裏庭でそんなことを繰り返して遊んでいると、オヤジはそばを通り過ぎても何も言わない。毎年廃材の角材や焚き付け用のザッパをたくさん預けて、好きにさせてくれた。中学3年生になると、オヤジに頼んで砂とセメントを買ってもらい、混ぜてコンクリートを練って、鉄パイプの両側に太い針金を巻き付けてコンクリートで固めた。40-50㎏くらいのお手製のバーベルの出来上がりである。左官職人がモルタルの壁を塗るときにやっているのを見ていたから、やってみたくなったのだ。真似してやってみたつもりでも、数か月で壊れた。(笑)
 ビリヤード店にはベンチがある、それの片側を箱の上に載せて傾斜をつくり、高い方にベルトを撒いて両足をひっかけて、腹筋する。20セット5回を日に何度か繰り返したら、次第に腰が痛くなり、逆療法とばかりにさらに回数を増やすと、二階の居間へ階段を這って上がることになってしまい、腰が痛くて、病院へ行った。医者が腰を触って、「なにをやったんだ?」と訊く。説明すると、やりすぎで炎症を起こしているから、しばらく休めと叱られた。中学生や高校生のときにはずいぶん無茶をした。30度ほど傾斜をつけてシットアップすると20回が60回くらいの負荷になる。朝早く起きて5セット繰り返す、気が向くと時間をおいてまた繰り返していた。
 鉞で背筋が、シットアップで腹筋が、ザッパ割で手刀と拳が鍛えられた。見かけとは裏腹に血の気が多かった。お袋が亡くなる数年前に「お前が高校生のときに、T嶋が「息子に何かあったら言ってくれ」そう言ったことがあった」と教えてくれた。T嶋さんはわたしに一度もビリヤードをやろうと言ったことがないし、一度もゲームしていない。常連客でゲームをしなかったのはT嶋さん一人しか記憶にない。表面(おもてづら)とは違って、わたしに血の気が多いことを見抜いていたのかもしれぬ。
 高校卒業してまもなく東京・新宿で、ヒロシとムサシの三人でパンチボールを叩いた。腰のひねりを加えて一撃すると180㎏の数字が出た。踏み込まずに腰のひねりだけで叩いた。腕に覚えのある二人は150-160㎏、かなりのパンチ力だった。
 180㎏はプロのボクサーの強打者並み、そして拳は空手家と同等の破壊力なら凶器そのもの。踏み込んで叩いたら、3割くらいは衝撃力が増すだろう。中指のところが他より突き出ているから、その1㎝くらいのところへ破壊力が集中する。顔面ならどこを叩いても骨が砕ける。歯を折るだけではすまない。側頭部にまともに当たれば頭がい骨骨折、脳挫傷で即死だろう。一番硬い額を叩いても同じことだ。加減した叩き方はできないから、素手で人を叩いたことはない。殺人罪で一生を棒にふるようなことはできぬ。
 中三の冬に仲の良かった友人のK池と何かのはずみで喧嘩になったことがある。どちらからともなく外に出ろと雪が50㎝ほど積もった校庭へ、そして取っ組み合いの喧嘩をした。身長は互角、肉付きのよい奴だったから重くて投げ飛ばすのがたいへん、大けがさせたくないから素手ではなぐらない。10分もお互いに雪の中に投げ飛ばし合っていたら息が上がってへとへと、勝負がつかない。雪の中へ何度投げたり投げられたりしても、ダメージはない。そのうちに廊下の窓を開けて3クラスの数十人がワイワイ言いながらみているのでばかばかしくなり、二人とも雪の中で大の字になり大笑いして仲直り、愉しい喧嘩だった。K池、中学校を卒業してから一度もあっていない、転勤族の子どもで性格のよい奴だった、どうしてるかな。先生たちは生徒同士の喧嘩に干渉しない。光洋中学は1学年10クラス550人。


 話を元に戻そう、標津の叔父貴の息子に年齢を聞いたら、ちょうど一回り下、同じ丑年生まれだった。中学生の時に一度だけ標津を訪れたことがある。そのころ、T田さんが標津駅前で親戚が床屋を営んでいた。少し離れたところに母の叔母の家があり、漁師をやっていた。羽振りがよかった。家には馬が一頭いた。標津町には親戚が数軒ある。そのときに、叔父貴の家までは行かなかった。少し離れていて不便だったからだ。今日、初めて訪れた。

 叔父貴は帰路の運転を心配して、早く帰れとせかす。夕方になると鹿がでるから車の運転が危ないと心配するのである。来る途中に3度草叢(くさむら)にいる鹿を見た。根室市内も鹿が多いので、衝突事故がたまに起きている。時速80㎞なら車は全損だし、ケガもする。70㎞でも突然林の中から飛び出してくる鹿はよけきれないので危ない。だからと言って、よけきれる時速40キロで走る車はいない。軽トラを運転しているお年寄りが時速100㎞超で追い抜いて行った。ずっと飛ばして、見る間に小さくなっていく。道路わきに林のあるところはいつ鹿が飛び出してくるかわからないから要注意だ。角が半分獲れた雄が一頭いた。

 叔父貴はまだ元気なようす、百歳まで生きてくれたらありがたい。母方のほうは叔父と叔母とそれぞれ一人ずつしか残っていない。83歳の叔母は叔母というよりも歳の離れた姉という感情が強い。中高生のころは呼び名も「〇〇お姉さん」と呼んでいた。
 母の兄は満州でソ連軍と戦って戦死、長女だった母は平成23年に亡くなった。叔母たち3人はお袋よりも先に逝った。オヤジのほうの兄弟姉妹も全員亡くなっている。昨年は釧路の従兄が一人逝った。

 帰路、道の駅「おだいとう」に寄ってソフトクリームを食べた。人の数よりも牛の数が多い別海町だから、そこの牛乳を原料に造られているソフトクリームはとってもおいしい。¥350、お値段以上の味、コーンも特別なものを使っている。おススメの一品です。

 叔父貴に久しぶりに会って、昔話をちょっとしたのでこころがうきうきしている。

<余談:理不尽>
 8年前にT叔父にあったときに、「墓参りに行きたい」と言っていた。1週間おいて続けて亡くなった父親と母親の墓があるが、一度も墓参に行っていない。年が明けてから千島歯舞居住者連盟の事務局のある千島会館へ電話して、電話口に出た方に訊いてみたら、今年の分はもう締め切ったとつれない返事。「叔父は島民1世で引揚者、なんとかなりませんか?」と畳みかけても、「無理です」、様々な全国組織に割り当てられていて、根室への割り当てはあまりないのだそうだ。
 T叔父は島民1世で、かつ引揚者でもある。20回30回といっている人も少なくない。高齢であることから、体力がもたないのでとっくにあきらめている。あきらめも癒しの一つだろう。
 わたしもスキルス胃癌になる前は、墓参りをしてみたい気があったが、いまはない、とても体力がもたぬ。病気を患い体力が失われて行けないのだから、私自身が墓参できぬことに理不尽さは感じない。
 母は生前、(択捉)島には複雑な思いがあると言っていた。墓参には一度も行っていない。前浜で川に遡上してくる鮭で竹竿が立つと魚の密度の濃さを表現していた。魚群が密で川に立てた竹竿が倒れないのだそうだ。長兄が川に入って鮭を両手で掬って川岸へ何匹も跳ね上げる、そして腹を裂いて筋子をとる。「樽に一杯とっても食べきれないから、その辺にしたら?」と声がかかる。戦前の話だから冷蔵庫はなかった。そういう話をするときに、母には情景が見えているようだった。辛く悲しかったことばかりではない、いいときもあった、懐かしい思いはあったのだろう。
 漁が豊富なだけに、漁業権をめぐって、島には島の事情があった。一回りしか離れていない末っ子の叔母からそんな話を数年前に聞いた。財産が人を不幸のどん底に叩き落すことがある。しかしそれで生まれてくる命もあるのだから、禍福はあざなえる縄の如し。運命は受容するしかないのである。恨みつらみは人を不幸にするだけ、そこを乗り越えたら幸福が待っている。
 オヤジは「戦友たちはみんな戦死した、俺は幸せだ、戦友たちは結婚もせず、子どもも残さず、靖国で会おうといって出撃して戻らなかった」。大腸癌の手術をした後に、東京へ来て、靖国神社へお袋と一緒にいった。お袋は満州でソ連軍と戦って戦死した兄を弔うつもりだっただろう。そのときに、オヤジは万里の長城へ行ってみたいと言った。戦時中朝鮮や中国にいたことがあったからだろう。医者には無理だととめられていた。翌年再発して手術したが、「開け閉じ」。5か月後に全身転移で亡くなった。死んでもいいから万里の長城への旅行、行かしてやりたかった。
 大学のゼミの指導教官である市倉宏祐教授(哲学)は元特攻隊の生き残りである。オヤジと同じ1921年生まれだ。市倉先生が遺した『特攻の記録 縁路面に座って』は弊ブログに同名のカテゴリーがあって、そこに全文を貼り付けてある。遺稿の編集委員伊吹克己専修大学教授の好意で電子ファイルの原稿を送ってもらった。クリックすれば読めるので、哲学者による唯一の特攻の記録をたくさんの人に読んでもらいたい。


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#4119 全国学力調査の現実:根室は14支庁管内最低 Nov. 9, 2019 [71.データに基づく教育論議]

 全国学力調査の結果が出ました。
 釧路のMさんがさきほどFB上にこういう学力不等式を書いてくれました。
  別海町>中標津町・標津町>根室市≒羅臼町
 この事実を根室の方に知って欲しいものです…。

  全道の公立中学校で実施されているふだんの学力テストの結果も同じです。弊ブログ#4099にアップしてある釧路根室管内18校・学力テスト総合A比較データをご覧ください。釧路根室管内の公立中学校別の学力比較ができる貴重なデータです。根室市教委も学校の先生たちも見たことがないとってもとっても貴重なデータです。

 根室は小学生の算数と中学生国語と数学が全道14支庁管内で最下位です。小学生国語と中学生英語はビリから2番目、全科目が全道平均を大幅に下回っています。これほど学力が低いと根室の小中学校で教えている先生たちの士気にも影響しています。どうせ効果がほとんどないだろうから本業の授業スキルの向上はあきらめて、部活指導に熱心になるという風に。根室市の市街化地域の小学校と中学校で学力崩壊現象が起きていると判断すべきです。小中学校の学力崩壊はすでに根室高校へも及んでいます。地域全体の子どもたちの学力崩壊現象が起きています。
 北海道14支庁管内で最低の学力であることが全国学力調査結果でも明らか、こんなにひどいのに、根室市長も教育長も市教委も保護者も生徒たちもさっぱり危機感がない。教えている学校の先生にはきっと危機感がおありでしょう。

 釧路・根室管内では根室管内のほうがずっと学力が低いのです。その根室管内でも根室の市街化地域の2校がとくに酷い。中標津中や広陵中のほうが根室市内の市街化地域の2校よりもいい。別海中央中は根室管内ではトップレベルです。根室管内の平均点を下げているのは根室の市街化地域の中学校です

 中3対象の学力テスト総合Aの結果が「#4099 学力テスト総合A18校科目別データ Oct. 11, 2019」に載っているので、論より証拠、ご覧ください。
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2019-10-11


<釧路新聞記事>

画像に含まれている可能性があるもの:テキスト



 小6では根室管内の生徒の平均正答率は全道平均と比べると、国語-0.9、算数-4.1ですが、中学3年生になるとその差は国語-7.6、数学-8.5、英語-7.8とびっくりするほど大きくなっています。根室管内の子どもたちは中学3年間で著しい学力低下をきたしているということ高校統廃合の影響が大きいと思いますよ、単位制の普通科が、その地域の中学生の著しい学力低下を伴うことが証明されたのですから、北海道教育委員会は高校統廃合のしかたを考え直す必要があるでしょう。第2の根室を作らないでいただきたい。
 9月の学力テスト総合Aの18校比較データが弊ブログ#4099にありますが、それを見ると根室管内では根室市の中学生が一番学力が低い根室管内の平均正答率を下げているのは根室市部の中学生ということになります

 子どもたちの基礎学力は根室の町の未来に直結しています。釧路管内に比べて根室管内の子どもたちの学力が低く、さらにその学力の低い根室管内で根室の市街化地域の中学校が最低レベルのままでは、町の未来が明るくなろうはずがありません。
 根室市議のみなさんは子どもたちがとっくに学齢期を過ぎているでしょうが、教育に関心をもって発言してください。
 PTAのみなさんも発言してください。子どもたちの学力は下がり続けています、このままではいけない。

 根室の子どもたちは高校生にならないと全国模試での自分の偏差値を知りえない。中学生は根室市内での順位すら知りえないのである。市街化地域の3校も、40-70人程度の学内順位を得点通知票で知ることができるだけだ。郡部は一学年数人から十数人である。郡部校で学年順位は学力情報としては意味をなさぬ。権限をもつ大人が決断すれば、来月からでも簡単に改善できる。なぜやらぬ。

<教育環境の整備はできる>
 根室市教委が普段の学力テストデータをモニターして、市街化地域の3中学校の平均点と受験者数、市内全校の平均点と受験者数、100-0点まで1点刻みで根室市内の順位をホームページ上で公表してもらいたい。
 箇条書に列挙したほうがよさそうだ。
①市内全部学校を合わせた受験者数と平均点と標準偏差(科目別と五科目合計点)
②市街化地位の3校の受験者数と平均点と標準偏差(科目別と五科目合計点)
③百点から0点まで1点刻みでの市内の順位表と点数ごとの偏差値(科目別と五科目合計点)
 仕事は簡単です。各学校から個人名を除いたEXCELファイルでデータをもらって、加工すればいいだけ。手順は同じですから計算はEXCELないで自動化できます。それも面倒なら、市役所のシステム部門の担当者にプログラミングしてもらえばいいだけ。

 学内トップでも、市内では5番かもしれない。学内トップは各学校で競争相手がいないケースがある。郡部校は十数人では学内順位は人数が少なすぎて学力の判断材料にはなりえない。根室市内の平均点や順位がデータが毎回公表してあれば、市内でどれくらいの順位だと、全国レベルで偏差値60(上位16%)にあたるのか、偏差値50(平均点)にあたるのかが保護者や生徒たちにわかるようになってくる。根室市内に存在する学力判断データの地域格差を解消できる
 半分以上の生徒が全国レベルで偏差値40(成績下位16%)だとわかれば、まっとうな危機感がもてるだろう。全国レベルで偏差値40以下には非正規雇用で低賃金の単純労働しか就職先がありません。上場企業に就職できる可能性があるのは偏差値55以上(全国レベルで成績上位1/3、根室では10%程度)でしょうね。地方公務員試験なら、偏差値50超なら道庁あるいはコネがなくても根室市役所の就職試験に十分パスできる学力です。
 根室市教委がふだんの学力テストデータを収集して、整理、公開することは、この地域の低下し続ける子どもたちの学力を上げる方向に働く
 とくに、成績上位層にはどこまでやれば希望の大学に学力が届くのか、中学生のうちに判断できる強力な材料になる。教育に関心の高い教育行政が存在することが、根室へ赴任してくる人たちが安心して子どもを連れて赴任できるか否かの重要な判断材料となる
 そうした具体的な教育政策を提言して実行させることは、根室市議会文教厚生常任委員会のメンバーの仕事である。もちろん、根室市長に教育への関心があるなら、市教委と教育長へ指示したらいい。
 全国の市町村にある教育委員会でこんな仕事をしたところはないよ。全国に先駆けてやったらいい。教育改革の激震は根室から興そう。日は極東の町から昇る


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