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#1784 小さな塾だからできること:4段階の指導 Dec. 28, 2011 [57. 塾長の教育論]

【第1段階と第2段階の授業】
 12月に中3の生徒が入塾したとしよう。
 1年生のところがまるで分かっていない、あるいは小学校の分数計算や小数の乗除算の位取りが理解できていない、減算の繰り下げが理解できていないとこういうことがあると、
「学校が終わったらまっすぐ塾においで、わからないところ個別補習をしてあげる、わかるまで毎日来ていいよ」
 自分の判断でこう言える
(他人を雇っても、勤務時間内のことだから、「ご苦労だが、わかるまで面倒見てやれ」と指示はするだろう。もちろん雇うときにそういう話はしておく、それが仕事だから。)

 生徒が理解していないところを発見して「手当て」をするのは第2段階の授業で、区別のために通常の集団授業を便宜上第1段階と名づけておく。

【ちっぽけな塾だからできること】
 自分ひとりでやっているから持ち出しは自分の労力のみであるが、人を雇っていたらこうはいかぬ。人件費がでるから、授業料をいただかなくては経営が成り立たぬ。しかし、授業料の増額負担に耐えられない家庭も多い。長期にわたって衰退しつつある町だから、公務員を除いて民間会社に勤務する親を持つこどもたちの状況は厳しい場合が多々ある。だからこそ、こういうちっぽけな私塾の存在理由も大なるものがあると感じる。
 ニムオロ塾のいいところは塾長一人で教えているちっぽけな私塾だから、授業料を加算せず補習扱いで教えられること。
 規模を拡大したらこういうことができなくなるから、わたしにはそういうつもりはない。経営が続けられなければどんなにいい塾でも存続できぬ。ちっぽけな良質の塾をというのがebisuのポリシーである。
 世の中にはいろんなタイプ、いろいろなポリシーの塾があったほうがいい。私のところがそうであるように、他の塾も違ったところでそれぞれにその良さがあるものだ。

【第2段階の授業:個別補習】
 さて、入塾して生徒が1ヶ月我慢し切れればほとんど解決できるが、週のうち半分は早い時間帯には小学生がいるから、プライドの高い生徒はむずかしい。過去には入塾直前の学力テストで数学零点を取り、毎日「放課後補習」に来て1ヵ月後の期末テストで88点とった強者もいる。似たような例は3人あった。
 しかし、恥ずかしいから小学生と同じ時間帯での個別補習を嫌がるケースがある。こういうときは黒板を使わないで質問ありのサイン(掌をebisuに向ける)がでたら生徒の机の上でノートや紙に書いて教えている。
 通常授業でも分数や小数の計算を黒板で説明すると嫌がる場合がある。となりに塾生がいれば何を質問して何を説明しているかは分かってしまう。それでも1ヶ月だけはじっと我慢してもらわないと、急速に点数を上げることはできないから、しゃにむに教えてしまうことはある。生徒がそれに耐えられるかどうかは賭けだ。遠慮していたら時間切れとなるから、そういう時はいざ勝負、賭けにでる。ダメモトと割り切る。夏頃来てくれればこういう強引なことはしなくてすむ。

 英語も同じで、個別補習の良いところはその生徒の知識で穴のあいているところを集中的に攻めて、穴埋めをしてしまえることだ。これさえできればあとは通常の授業についてこられる。塾の授業だけではない、学校の授業も理解できるから落ち着いて聴いていられる。理解できる授業を聴くのは楽しいものだ。
 「先生!このごろ学校の授業がわかるんだ」
 嬉しそうな顔で言う。

【第3、第4段階の授業もライブでしかできぬ】
 ニムオロ塾はライブ授業にこだわっているが、じつはライブ授業でしか「伝授」できないものがある。ZPPERさんのブログ"情熱空間"のコメント欄に一度書いた。
 個別補習や通常の授業の次の段階は「できるだけ教えないこと」である。生徒自身に考えさせるためにできるだけ教える範囲を絞り込むこれが成績上位層の生徒への第3段階の授業形態。
 第一段階の授業や第2段階の授業はともすれば指示待ち人間を造りかねないから、それを超える授業が必要だ。生徒たちはいずれ社会人となり仕事をするのだから、自分で課題を発見して自らやらなければならぬ。だから、問題を選び必要最小限のヒントのみを与えてトコトン考え抜くトレーニングを課す。ポイントは「わからない状態を頭の中に持ち続ける」こと。20分、1時間、1日、3日と延ばしてみる。生徒の段階に応じて匙加減をしなければならぬ。
 トップレベルの生徒にはさらにその上がある。たんに受験問題が解けるだけではない、社会人あるいは学者となってからどんな問題にも対処できるような第4段階のトレーニングがある。この領域は「面授」しかない。つまり、ライブ授業だ。やってみせなければ生徒は理解できない。内容はそのうち回をあらためて書くことになる。

【名人お二人の論】
 私はビリヤードが趣味でセミプロクラスの腕をもっている。スリークッションゲームの世界チャンピオン小林先生にあるときセミプロクラス対象の本を書いてくれませんかとお願いしたことがあるが、先生は次のようなことを語った。
 誤解を生むからできない。自分の腕を過信しているものが読み、わかりもしないで「あれは違う」という、個別に質問に答えるとか自分のやるのをみて覚えてもらうしかない。
 つまり、技術水準があるレベルを超えたら、「面授」しかないというのだ。師を介さずに物(本)では伝えることができない何かがあると理解した。初級向けのレッスンと上級者向けのレッスンが違うのは当然だが、どこが違うのかがその当時はわからなかった。小林先生の言を聴いてようやくわかったのである。"恩師"とは師と弟子との関係を見事に表す言葉である。

 法隆寺の宮大工の西岡常一師もその著『木のいのち 木のこころ』(草思社1994年刊)のなかで、
   「言うて聞かせて、やって見せないかん」p.96
 こう言っている。徒弟制度の中で修業させなくては一流の仕事は身につかないもの。
 領域が違っても名人の言うことは同じだ。私の第4段階の授業も偶然(必然的に?)同じになっていた。

【まとめ】
 おさらいをすると、第1段階の授業はライブでもパソコンでも可能である。集団指導には集団指導のスキルがあり、それ自体奥が深い。しかし、第1段階の授業はある程度コンピュータプログラムに置き換えることもできる。私は第1段階の授業にあまり興味がない。
 第2段階は「生徒一人一人が理解できていない部分を発見する」という工程があるので、機械化できないし、個別授業となるのでライブ授業でしかやれぬ領域である。集団授業とはまるでスキルが異なる。ここは面白い。
 生徒に応じて匙加減が必要な第3段階も"個別指導&ライブ授業"の領域。そして第4段階は「面授」しかありえない。
 どういうレベルの授業を提供するかは生徒を見て決めている。どうか生徒の学力成長段階にあった授業形態というのがあることをご理解いただきたい。生徒は成長するから、授業のレベルもずっと同じで良いわけがない。
 こういう指導方針を続けられるのも、ちっぽけな私塾で一人で少人数を教えるからで、規模を広げたらこうはいかぬ。


*塾の大小に係わらず、状況がどうあろうとも、やる人間はやる
 ブログ"情熱空間"より
 「義憤(見殺しにされる子ども達)」
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/5021824.html


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