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#4949 明智光秀は近視で信長の表情が読み取れなかった Mar. 24, 2023 [22. 人物シリーズ]

 NHK朝のラジオ番組(健康ライフ)で日大医学部教授の早川智氏が、標記の説を解説していました。光秀は近視だったために信長の表情が読み取れず、不興を買うことが度々あったと。明智光秀は聡明な人で、よく本を読んでいましたから、そういうことはあったかなと思わせる合理的な仮説です。肖像画には目が細く描かれています。秀吉は遠視の人でした。信長の表情の変化をよく観察した対応できたのでしょう。

 光秀の「敵は本能寺にあり」と叫んで、軍団を本能寺へ向かわせ、信長を打ち取った背景にはこんな近視という事実があったのだとしたら、光秀は信長とのコミュニケーションに深刻に悩み続けていたのでしょう。我慢して我慢して、その果てに、もうやっていられぬと決断したこころの苦渋がわかります。表情が見えないのですからどうしようもありません。

 早川智氏は他に、石田三成、織田信長、徳川家康などの病気についても解説しています。こちらのサイトにリストがありますので、ご覧ください。
*「健康ライフ聞き逃し番組を探す」


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#4417 折り紙建築士:下元英徳さん(釧路) Dec. 3, 2020 [22. 人物シリーズ]

 NHK番組「昼ナマ」(12/3午前11:30~)に下元さんが出演していた。「折り紙建築士」の異名のある彼は、釧路では名前が知れている。とっても気さくな人だ。二次会のスナックで、カッターを出して「5分もかからないから」と目の前で実演して見せてくれたことがある。紙に線を入れて、カッターの背と刃を使って部分的に傷をつけ、切れ目を入れる。そして折って立ち上げると立体的な建物が立ち上がってくる、まるでマジック。あのとき作ったのははムーの建物だった。
 地元釧路高専の出身の1級建築士、才能豊かな人です。建築会社に勤務しているので、家を建てる時は彼に頼んだらいかが?建築会社にお勤め、夢を語り合えるハッピーな釧路の飲み仲間の一人です。
(釧路市役所学校教育部長だったTさんは、夢を語っていたら、本当に実行に移しちゃった「還暦高専生」、ニムオロ塾出身のM君と現在進行形で釧路高専の同期です。つい最近、英検準1級合格したと喜んでました。(笑))
 下元さん、素敵な人ですよ。彼の作品がどこかで展示しているのを見たら、細部まで観察してみてください。

 FBにあった画像のURLを2つだけ貼り付けておきます。信金で展示会をやったこともあるようです。時々、小学校でボランティア、子どもたちに立体折り紙の作り方を教えています。

96721757_2936206233143019_3980396727235510272_n.jpg (960×720) (fbcdn.net)

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#4372 神田たけ志50周年劇画展 Sep. 17, 2020 [22. 人物シリーズ]

 標記劇画展が今日から、22日まで開催されている。「根室市未来のアーティスト応援事業」として根室市教委がバックアップしている。
 場所:根室市文化会館多目的ホール
 日時:9/17~22 9時から18時まで

 10時半ころ会場に着くと、タケシは新聞社の取材に応じていた。
 会場を見渡してみる。展示されている劇画はおおよそ600枚あった。ぜひたくさんの根室市民の皆様に、劇画一筋、精緻な職人仕事をじっくりご覧いただきたい。根室にいると実物を見る機会がなかなかないから、こういう機会はありがたい。
 『ゴルゴ13』のさいとうたかおは84歳、彼のところへ弟子入りしたくて、1966年、高3の9月に根室を出て行った。よく思い切ったものだ。わたしは、タケシが一番弟子だと思っていたが、先ほど話をしていたら、7番目だったそうだ。すでに数年前からさいとうたかおの元へ弟子入りしていた若者が何人もいたということ。世の中には、師と認めたら、人生を賭ける若者がいつもいる。そういう中から、また次の巨匠が生まれるのだろう。


①これは『御用牙』の一枚だ。タケシが20代のころの作品。テレビドラマにもなった。
 ところで、この刀の繊細なソリ(曲線)はどうやって引くのだろう?雲形定規のようなものを利用するのだろうか?実際の刀はこんなに細くはないが、絵にしたときにはこういうように細く描いた方が、それらしく見える。

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②120㎝くらいのサイズだから、書くのたいへんだっただろうと思ったら、画像を何枚もパソコンに取り込んでデジタル処理して作成したという。

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②首に巻いた布切れが強い風にあおられている。雪のある時期にこんな強風下では、耳は痛くてちぎれそうになり、身体が芯まで冷えて凍えていく感じがよくわかる。

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③絵が撮ってもきれいだったので、…

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こういうレベルの原画が約600枚展示されています。会場はまだ200枚のスペースが開いていました。

 「もっともって来ればよかった
 タケシのつぶやきです。(笑)


<余談:3年G組は台風の目>
 タケシもわたしもGクラス。団塊世代のわたしたちは「丸刈り」という校則に従って、倍率2倍の入試を経てバンカラな風土の漂う根室高校へ入学した。校則があるので中3の冬休みに人生初めての丸刈り坊主頭にしたが、反骨精神は心の中でぶすぶすと音を立てながら燻(くすぶ)っていた。2年生になって修学旅行は長髪で東京へ行こうと、生徒会の副会長と会計の先輩に相談したら、「言い出しっぺのお前がやれ!」と言われて、校則改正の戦略を立て、すぐに実行した。まず保護者にアンケートをとった。趣旨は髪型は人権の一部で、丸刈り強制の校則は時代に合わないというシナリオのアンケート用紙をデザインした。学校側は保護者=PTAの意向に弱いと踏んだのだ。図星で、その結果を集計して生徒総会へ持ち込み、賛成多数で丸刈り条項は廃止となった。根室商業時代から続いていた丸刈り条項はこうしてなくなった。修学旅行3か月前だった。髪を伸ばしてドライヤー持参で修学旅行へ行った。当初スケジュール通りの仕事だった。(笑)
 もう一つ、根室商業時代から続いた伝統があった。総番制度である。同じクラスのヒロシが総番だった。ヒロシに訊いたら、代々の総番長に伝わっていた「仁義」の台詞を知らなかった。5代前の総番長は親戚のお兄さんで「まこちゃん」と呼んでいた。彼は仁義の台詞を丸暗記しており、高校1年生の時に、目の前でやって見せてくれた。「お控えなすって...」というヤクザの挨拶である。小さく折りたたんだ紙に小さい字で台詞がびっしり書かれていたあの紙をもらったはずだが、机の中にしまったまま、机とともになくした。なぜ、そんなものが伝わっていたかというと、根室商業時代には元気のいい生徒が多かったのでヤクザ屋さんともめごとがあったらしい。そういうときに学校を代表して話をつけるのは総番長の役目だった。「台詞を間違えたら、殺されたって文句は言えない」とその元総番長は言った。だから総番長には大きな権限ととっても重い責任があった。マコちゃんは野球部のキャプテンだった。彼が高校生で総番長の時に、金刀比羅神社の例大祭で見かけたことがあった。眼付きの鋭い十数人を従えて、怖い顔をして先頭を歩いてきた。声をかけられなかった。あれは祭りの日の伝統の儀式だったのだろう。総番グループを従えて、一回りする。祭りの前日には、夜店の場所割りに地元のヤクザの親分が子分数人を連れて見回っていた。ルール違反があると叩き壊していた。当時祭りが整然と行われたのは彼らの「仕切り」があったからだ。いまでは平穏に場所割りがなされている。見回り役は警察だ。
 わたしたちのときには総番制度だけが残って、総番長の権限と責任が曖昧になっていた。このままではだだのワル集団に成り下がってしまう。A野とヒロシと相談して、根室商業時代から続いた総番制度を廃止することに決めた。三人で決めただけで、実際にそれをやり切ったのはヒロシである。偉い奴だ。あいつは人望が厚い、あいつの周りには実にいろんな種類の人が集まってくる。東京の大学へ一緒に行こうと誘ったのはヒロシだった。総番長が級友に「一緒に東京の大学へ行こう」なんてぬけぬけと言ったのだ、そしてわたしはそれを当然のように聞き、オヤジに相談してヒロシと一緒に千歳空港からスカイメイトの割引を利用して東京へ向かった。高校3年生の12月までは大学進学はおろか、大学院まで行こうとは思っていなかった。あいつが同じクラスにいなければ、わたしは大学にも大学院へも進学していない、わたしにとっては恩人である。とにかく気が合った。どこか似たところがあったのかもしれぬ。
 3Gは面白い面子の揃ったクラスだった、そしてA組からG組までの中で台風の目のような存在のクラスだった。3年生の9月に学校を退学して『ゴルゴ13』の「さいとうたかお」へ弟子入りをしたタケシもその中の一人である。思いっきりの好い奴だ。3年生の9月に劇画を描きたくて中退する奴は滅多にいないだろう。その思いっきりのよさが、彼を劇画のプロにした。あいつは夏休みにバイトして東京行のお金をためて、ある夏の夜わたしの家まで相談にきた、学校をやめてプロになると。相談といいながら相談ではなく、決意表明だった。(笑)
 





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#4267 北構保男さんの思い出 June 10, 2020 [22. 人物シリーズ]

 根室の文学博士(考古学)北構保男氏が6/5に亡くなった、103歳。札幌の老人ホームで2年ほど暮らしていたと新聞に載っていた。奥様がなくなられてからもう10年くらいにはなるのでは。根室印刷株式会社創業者でもあったが、体調の関係から会社の方へ顔をお出しにならなくなってから、もう5、6年になるだろうか。会社の方はとうに娘婿の山田氏に任せておられた。
 山田社長が、林子平「三国通覧輿地路程全図(1785年)」を2011年版のカレンダーで見事な復刻印刷をされたときに、「山田がね…やってくれた」とうれしそうなお顔でわたしに「一部あげるよ」と下さった。あの印刷は高度な技術を要するのだろう。東側が上になった、地図である。日本列島が北方領土から沖縄・台湾まで中国とロシアの太平洋進出を阻んで存在することが一目瞭然の地図。そういう地政学的位置に日本列島がある、だから、林子平は『海国兵談』を書いたのだろう。海の防衛という観点から政治家や自衛官そして社会科教師が読むべき本の一つである。別の古地図(改正蝦夷全図(1875年))のカレンダーも同じ年に復刻印刷をしている。塾生に視点を変えて日本列島を見てもらいたくて、林子平の「三国通覧輿地路程全図」はニムオロ塾の壁に貼ってある。「ロシアや中国からみたら太平洋へ出るのに日本が邪魔だね」、北方領土問題を考えるときにこの地図を見ると、一度太平洋への出口を確保したロシアが手放すはずがないと思うのはモノの道理だ。戦争で奪われたものは戦争で奪い返すしかない。それが国際政治の現実であるから、軍事力の背景のない外交交渉は無力、幻想にすぎぬ。経済的な側面からの交渉で領土返還が可能だとしたら、ロシアが経済的に崩壊したときのみ。それがあるかないかは誰にもわからぬ。
*https://ja.wikipedia.org/wiki/林子平
(奥様は根室に2つあった酒造「色媛」の長女と先生からお聞きした。穏やかで品の好い話し方をする方でした。ヒシサンホーマが造り酒屋「色媛」のあった場所、現在の成央小学校のあたりから湧き水を引いて酒の仕込み水に利用していた。角にはその湧き水の水道栓があって、花咲街道沿いの商店は水道栓の鍵を各家で持っていて、飲み水に使わせてもらっていた。花屋のケイコの家の木村さんも、床屋のマーちゃん家の酒井さんも、根室信金向かいのヤッコのお菓子屋さんの「ミドリ」も、洋裁店のユッコん家も、隣の根室の老舗奥田時計店も、ビリヤード店と居酒屋(後に焼き肉屋)をしていたわが家も飲み水は色媛の水道栓からふんだんに出る水を汲んできていただいていた。小学校2年生のときだったか町営水道が敷設され、鉄管と塩素の味がする水道水のまずさに閉口した。裏に住んでいたお茶の大好きなおばあさんはそ「色媛の水」でお茶を飲むのが楽しみだった。好い水で入れたお茶はまるで味が違う。もちろん、ご飯も味噌汁もラーメンも同じだ。そんな話を先生と愉しんだ。)

 2002年11月ころ古里根室に戻って来て、新聞の折り込み広告をお願いに根室印刷へ行ったら、奥の机におられた。以来何度か、会社とご自宅でお話を聞く機会があった。

 学生時代は京王井の頭線沿線にお住まいだったようだ。京王線明治大学前から渋谷まで京王井の頭線を利用することがあったが、京王井の頭線にはあまりなじみがない。昔は沿線はずっと閑静な住宅街だっただろう。国学院大学大学院を卒業されて、根室へ戻られ、先生は最初は新聞社をやるつもりだったという。1942年に道内11紙が統合されて北海道新聞が発足していたので、あきらめたのではないだろうか、それで印刷会社を興した。
 先生は、北国賛歌の作詞者である歯科医の田塚源太郎先生や高坂さんと根室商業の同期である。「長生きも考えものだ、友達はみんな逝ってしまった、もう昔話ができるのはebisu君、あなたくらいなものだよ、たまには家まで話に来い」と笑っておられた。50年近く前の話や先生の旧友の話ができるのは他にはいなかったご様子。田塚先生と高坂さんはビリヤードの常連だったし、田塚先生の二女が小学校、中学校で同級生、高校も1年生とときは同じクラス、男のお子さんがいなかったので、かわいがってくれた。小学校低学年の時に面白がってよくビリヤードの相手をして遊んでくれた。わたしはそれまで田塚先生の出身がどこかを知らなかったが、「かれは国後島の大漁師の家の息子だ」とおっしゃっていた。根室商業から三人そろって東京の大学へ行き、つるんで遊んだそうだ。
 昔は「根室商業⇒歯学部進学」もあり、道東の名門校だった。北構さん同様に田塚先生も175㎝ほどの長身だった。線路に立ちはだかり、手を振って列車を止めて乗せてもらったなんてことも。根室商業の生徒ならと、大人たちが大目に見てくれた時代だった。田塚先生の「武勇伝」である。この話は他の人から聞いた。

 国学院大学大学院へ通っていた時に、北構先生は文部省の依頼でベトナムの王族の一人に日本語を教えていたことがある。文科省からお金が給付されたという。ベトナムは当時フランスの植民地だったから、日本語を教える傍ら、フランス語の勉強になった。あるとき「殿下が日本へ来るので会わせたい」と話があったが、戦局の悪化で実現しなかった。当時の日本政府はベトナムをフランスから独立させるために、王族を日本へ呼び寄せ、支援していた。敗戦後少なからぬ日本人将校や兵士がベトナムに残留し、ベトナム独立に命をささげている。共産主義の北ベトナムのベトコンの精鋭は「生粋の日本帝国陸軍製」であった。ベトコンは生まれ落ちたその時から正規軍として日本帝国陸軍の軍事訓練を受けて育ったのである、だから比類なく強い。フランスが撤退した後、米国の傀儡政権ができたが、それも倒してしまった。統一独立を果たした後で、あの小国が今度は中国軍の侵略に抗して戦っている。米国との独立戦争に勝利した後、同盟軍であったはずの中国が領土拡張の好機とばかり背後を襲ったのである。ロシアと中国の領土拡張は彼の民族の遺伝子に刻まれているようなものだから、油断をしてはならない。現地に残留してベトナム名を名乗った元日本人将校と兵士たちは、故国に戻ることなくベトナム人として彼の地に眠っている。
 いま根室で働いているベトナムの方たちは100名を超えているのではないか。不思議な縁を感じる。ベトナムから働きに来ている人たちを大事にしてもらいたい。

 逝去を伝える6/9付北海道新聞記事によれば、通算18年間根室町議と市議を務めたというから、昭和21年ころに根室町議になっている。先生は大正6年のお生まれだから、27歳の町議。ずいぶんお若い、そして青年実業家で市井の考古学者であった。いまそういう若者がいたら根室はとっても面白い町だろう。

 1964年東京オリンピック開幕のさなかの市長選挙だった。お兄さんだったか当時根室信金理事長ではなかったかと思うが、信金の幹部数名を連れて、お店へ「応援よろしく」と挨拶に見えられた。オヤジはずっと北構さんに票を入れていたのでいまさら頼まれるでもなかった。人柄を買っていた。根室印刷とは道路と家一軒を挟んでいるだけ、ご近所さんだった。大きな声がするなと思うと、北構さんとオヤジが根室印刷と家の間の角で話している。声が大きいのだ。元落下傘部隊員だったオヤジは終戦後、小樽で下駄の卸問屋をしていた知り合いの後押しで梅ヶ枝町三丁目で下駄屋を開業した。それ以来の近所づきあい。
 北構さんは助役だった横田俊夫氏と選挙戦になり、落選した。インテリでものごとの白黒をはっきり言うので地元有力者たちから煙たがられた。あのときに北構さんを根室市長にしていたら、根室の町は大きく変わっただろう。先生は「あれであきらめた、政治から手を引き、会社経営と考古学研究に専念することに決めた。根室の町は何をどうやっても変わらないよ」と根室印刷の応接テーブルで大きな声で話してくれた。そのときの話が耳に残っているので、スキルス胃癌の手術後の2006年11月から古里を変えるためにはどうしたらいいかを考えながらブログを書き始めたのかもしれぬ。4267回目に先生の思い出を書くことになろうとは、そのときは思いもよらぬこと。小石を一つ投げ込んで、波の伝わり方を見たかっただけ。14年間で小さい変化はあったが、町の体質はあいかわらずだ。次の世代を育てることで30年先の根室を変えることになるのだろう。小さな私塾から巣立った者たち数名が協力して30年後の町を変える力の一つになる、根室を変えるのは根室人だ、そうありたい。

 ご自宅へお伺いしたときに、60歳を過ぎてから博士論文を書いて、母校から文学博士の学位いただいたことを話された。発掘作業とそれを論文にまとめているうちに、一冊の本に実を結んだのだろう。オホーツク海沿岸の文化史をまとめた論文が本になっていた。考古学に興味のある根室の若い人たちに読んでもらいたい。市立図書館にあるだろう。博士学位を取得されたと聞いてから、名字に「先生」をつけて話しかけていた。根室で考古学研究を続け、60歳を過ぎてから本を一冊まとめられたことへの敬意である。

 緑町3丁目の角にポンポン屋という釣具や模型などを商っていたお店があったがそこを先生は買われた。考古学の資料が溢れていたから、その整理のための場所だった。洋裁店のユリヤ横山も廃業して売りに出たので買われた。お付き合いがあったからだろう。そこも発掘した考古学の資料を保存するために使われた。自宅には本が3万冊以上ある、考古学仲間から献呈された本が多いと聞いた。発掘した資料をどうするかしばらく考えておられた。数年間に、根室市に寄贈された。何しろ数が多いので、そのご整理が進んでいる。大切に保管して、研究者に公開してもらいたい。

 1972年に結婚式を根室ですることに決め、北構さんに媒酌人を頼んでもらいたいとオヤジに伝えたら、先生は快く承諾してくれた。お仲人さんでもあった。

 子どものころからたくさんの根室の大人が育ててくれた。その中で最後のお一人と言ってよい北構先生が亡くなった。ちょっとばかり寂しい気がしている。
 古里に戻って来てからお世話になりました。ご冥福をお祈り申し上げます。...m(_ _)m

*#3953 北構コレクションの常設展示:オホーツク文化 Mar. 15, 2019
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2019-03-15
 
 #2781 北方領土の地政学的な位置 Aug. 19, 2014
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2014-08-19


 
#2260 東西の古地図に見る日本・北海道・千島:展示会 Apr. 10, 2013
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2013-04-10


 #2264 なぜ松前藩だけが地図をつくれなかったのか? Apr. 16, 2013
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2013-04-15


 <ニムオロ塾の教室の壁に貼ってある復刻古地図(根室印刷株式会社製)>
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海国兵談 (岩波文庫)

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 本欄の右側に弊ブログ内の記事の検索ボックスがありますので、「北構保男」で検索していただいたら、10個ぐらい記事が出てきます。

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#3900 佐藤章夫、早世した才能:日本の臨床栄養医学の草分け Jan. 19, 2019 [22. 人物シリーズ]

 理由もないのに、なんとなく亡くなっているのではないかという気がしていた。こういう感覚はたまに訪れるのだが、微弱な電波のようなものだから真偽がはっきりしない。あいつはわたしよりも9つ年下だからまだ若い、気のせいだと思って感覚が発する嫌なシグナルを無視していた。
 19日真夜中に突然に、亡くなっているとはっきり直感が告げていたので確信に変わった。考え事をしていて、ある言葉をきっかけに、突然大きな警報音が鳴り響いたとでもたとえたらいいのだろうか、慌てて「ネットで検索したら平成29年7月19日に逝去、1年と半年を経て事実を知った。ずっともやもやしていた感覚に合点がいった。いままで気がつかずにすまなかった。

 栄養医学研究所長 佐藤章夫、59歳。

 部署が違ったので、彼の要請を受けて立ち上げた二つのプロジェクトで一緒に仕事し、その縁で栄養医学研究所立ち上げのときに相談がありほんのすこしだけお手伝いした経緯をつづり挽歌としたい。

 アキオが40歳前後のころに1年間ほど短期米国留学して臨床栄養学の博士の資格を取ったのはミレニアムの直前だった。米国の学位をとって栄養療法を事業の柱とする企業を立ち上げ、日本に臨床栄養学を広めてこの分野の事業の草分けとなった。勉強熱心な男で、爪や頭髪を検体とするミネラル検査や栄養学に基づく治療を医師と連携してやっていた。自社で調合したさまざまなミネラル製品も扱っている。栄養医学の根拠をもった処方なので、安心して利用したらいい。ミネラル不足からくる疾患は多い。たとえば亜鉛不足でおきる味覚障害とか、特定のミネラル不足が引き起こす情緒不安定、糖尿病や口内カンジタ菌による口内環境悪化など。学術的な情報が満載のブログを書いていた。
*うつ病の栄養療法処方箋
http://www.nutmed.sakura.ne.jp/?fbclid=IwAR30owEeOWl3ytjIb6AabttGzWYkNTk4RD4KEnMjBU7TSGSUEO2-YZdbS9I

** さまざまな臨床症状から栄養療法への案内板
http://www.nutmed.sakura.ne.jp/?fbclid=IwAR30owEeOWl3ytjIb6AabttGzWYkNTk4RD4KEnMjBU7TSGSUEO2-YZdbS9I

 彼の存在を知ったのは86年だったが、営業職のアキオとは仕事で接点がなかった。あいつがSRLの学術営業部にいた1988年ころに仕事で接点ができた。米軍と慶応大学医学部から出生前診断検査のトリプルマーカMoM値の検査依頼を彼が受けたのだが、もちろん日本で実施している検査機関はなかったから、学術開発本部スタッフの東さんが佐藤君から依頼で米国から文献を取り寄せた。厄介なことに。通常の患者情報以外に妊婦の体重、妊娠週令、人種を入力しないと基準値(MoM値)の計算ができない。システム部へ相談したら「できない」とあっさり断られ、困っていた。
 東さんは米国滞在歴30年ほど、米国での実務経験のある臨床検査技師だった。彼女はわたしの向かいの机に座っており、購買課から異動してきたばかりのわたしに、「システム部がダメと言っているの、ebisuさんならなんとかできるでしょ、大事な仕事だから学術営業の佐藤君を助けてあげて」「資料はこれよ、見て頂戴」と英文の学術文献資料のコピーを渡された。「お姉さん」からの依頼だから否やはなし。ざっと見ただけで担当部門が「できない」と断った理由がわかった。余計な情報(体重・妊娠週齢・人種)を入力しなければならないが、そのために基幹業務システムの改造なんてやれるわけがないのである。入り口部分だから大掛かりな改造になる。「ebisuさんならやれるでしょ」、ご期待に応えることになった。社内で誰もできない仕事がもちあがったときの切り札だった。分野を問わない。わたしは営業所のパソコンで処理するように実務デザインした。売上を確保したい沖縄営業所にこれら3項目の入力を営業所のパソコンでさせる。基幹業務システムの監査結果データを営業所のパソコンでデータを受け取り、ファイルの結合処理をして、営業所のパソコンでMoM値を計算するようにデザインした。基幹システムの入力部を将来見直すことがあれば、そのときに3項目の追加情報を任意に入力できるようにすればいい、時間稼ぎの案であるが、これなら、システム部門はノーと言わない。検査報告書もラボ側で出すなら沖縄営業所で入力したデータを八王子ラボへ送信してラボ側でファイルを結合処理すればいいのである。何をどのようにやろうともシステム部門の協力は必要だ、パソコンでのプログラミングなので、C言語の扱えるプログラマーを1か月使えるようにシステム部へ依頼を出して人の応援をもらった。システム部門は当時は汎用大型機を使っていたので、C言語の扱えるプログラマーは数人しかいなかった。システム部のU野君が適任というので、HP-43cでカーブフィッティングして求めた計算式でプログラム仕様書を書いて彼にプログラミングしてもらった。こういう予算や人の手配はいくらでも調整できる。もともと本社で予算編成と統括管理をしていたから、予備費から予算振替は紙を一枚書くだけでフリーパス、そしてラボと本社の融和になくてはならぬ調整役だった。U野君にはご褒美に3日間の沖縄出張に同行できるように手配した。

 ニュヨーク州から取り寄せた文献には二次曲線回帰したグラフとデータが載っていた。1980年代終わりころのパソコンでは統計処理なんてできないので、日ごろ使っていた科学技術用計算機HP-41cxの曲線回帰ソフトを使って、線形回帰分析をして式を求めた。計算式がないとプログラム仕様書が書けないから、この仕事を受けるには科学技術計算用のコンピュータで線形回帰ソフトを使えることが不可欠の条件だった。社内では研究部に同じコンピュータ使っているのが一人いたらしく、あるとき特殊検査部のY課長が「この計算機を使っている人はちょっと変わっている人、八王子ラボでは研究部に一人だけいる」と教えてくれた。誰だか知らぬがその人と同列のヘンジンにカウントされた。(笑)
 検査はRI部ともう一つの検査部門でやるように調整し、多変量解析は応用生物統計の専門家である研究部の古川君へ直接依頼、製薬メーカの2社の担当者を呼び、数千人分になるので検査試薬の無償提供をお願いした。数年にわたる共同研究になるから1億円近く金がかかるので大学側の負担はきついだろうから、検査料金と多変量解析はタダでやるように社内と社外の調整してやるよとアキオへ伝えたら、大喜びだった。
 関係する製薬メーカ2社に稟議書を起案して予算処置をしてもらわなければならないから、研究成果を販促に使わせることを条件に数千万円分の試薬提供を飲ませたのである。SRL社内の予算措置もした。就社した年と翌年の2年間全社予算編成と管理の統括業務をしていたから、電話一本で根回しして、稟議書を起草して上司の学術開発本部長I神さんの印鑑をもらうだけでいい。数日でこんな離れ業をやれるのは社内には他に誰もいない。

(それまで購買課で機器購入担当と製薬メーカ各社から仕入れる試薬の価格交渉数十億円分を担当していたから、製薬メーカの営業は顔なじみ、価格交渉には製薬メーカの担当役員が必ず同行していたから、そこまで顔が利いた。ようするにすぐに言うことを聞いてくれた。どこでどう出世して化けるかわからなければ取引先のみなさんは言うことを真剣に聞いてくれる。
 異動のしかたが前例になかったからだろう。入社早々上場準備のための統合システム開発を8か月で完成し同時に予算編成と予算の統括管理をして、八王子ラボの購買課へ検査試薬のコストダウンの提案をしたら言い出しっぺだから、おまえがやってみろと価格交渉を任され2か月間の社内出向、終わると同時に異動辞令が出た。わたしを購買部門で使うのかとあきれたが仕事は楽しい。職権を利用して八王子ラボの検査機器全部を固定資産台帳を使って実地棚卸しながら一つ一つ調べた。2か月間かけた検査試薬のコストカットは役員数名にも協力してもらって目標値20%の材料費カットは実現した。以後3年ほど繰り返した。購買在庫管理システムの後始末と危険物の管理用のコードなど組み込んだ追加開発もやった。メーカとの検査機器の共同開発を何件か担当した。産業用エレクトロの輸入商社で仕事したときに、さまざまな理化学機器や計測器が取扱製品だったから、欧米50社の尖端商品の技術営業向けセミナーを5年間聞き続けていたからできた。染色体画像解析装置の開発はニコンの子会社とやっていたがうまくいかず、後始末。エジンバラの企業が開発した染色体画像解析装置を3台一気に導入した。これは検査管理部の緒方君と石原染色体課長との仕事。ファルマシアLKBが開発したフィルター方式の液体シンチレーションカウンターを国内初導入。これは「画期的だった。バイアルを山と積んで、それに検体をいれてガチャガチャ動かしていた。地震があったら怖いと検査担当者が怖がっていたが、紙フィルター方式のシンチレーションカウンターでは50検体くらいを25㎝×15㎝くらいの紙フィルターですむ。検査室はガラガラになった。購買課の次は学術開発本部の石神取締役に引っ張られて本部スタッフに異動。開発部の仕事である製薬メーカとの試薬の共同開発手順の標準化はPERTチャートを応用して作成した。学術情報部の仕事だった海外取引先からのラボ見学対応も担当した、ラボ内の業務部の分注システムやRI検査部のデータ管理システム、各検査部でやっている検査項目や検査方法などの案内しながら説明するのである。そういう一見滅茶苦茶な異動は後にも先にもなかった。そのあともまったくイレギュラーな異動をし続けた。学術開発本部から関係会社管理部で子会社・関係会社の管理、赤字子会社の黒字化、生産性を3倍に挙げるための新システム導入などの仕事を担当させてもらった。そういうことをしながら依頼のあった臨床検査会社の財務分析をし、業務改善提案書を作って、2社の買収と資本参加交渉をまとめ、郡山の検査センターへ役員出向、1年半で本社へ戻り経営管理部門で、社長室と購買部の兼務。つまらないので一番古い子会社へ無理やり異動しラボ新築計画を進めているところで、親会社社長の近藤さんから帝人との治験合弁会社を担当しろという指示、2年たたないうちに臨床治験合弁会社の経営を担当した。仕事はとっても面白かった。)

 稟議書もわたしが書いたし、手配もわたしが全部済ませたので、行きがかり上沖縄米軍のための出生前検査導入はわたしがプロジェクトマネジャーをすることになった。
 1か月くらいでシステムができ、検査受託体制が整ったと説明に沖縄米軍へ学術開発本部のI神取締役とプログラミングを担当したシステム部のU野君、そして学術営業部の佐藤君、4人で沖縄米軍を訪問した。沖縄の司令官大喜びだった。女性兵士の出世以前検査は米国の法律で義務付けられていたので困り果てていた。
 出張したのは6月、梅雨時期の3日間、一日だけ海水浴に行った。曇天でよく雨が降っていたが、海岸に着くと晴れ間が出て、1時間ほど泳ぎ、シャワーで海水を落としていたら、雨音がするのでみたらまた雨。沖縄の梅雨はほんとうに雨がよくふる。

 夜お酒を飲みに出かけた。つまみに豚の耳がでた。生の耳をスライスしたもので、わたしは食べられないが、アキオは平気で食べていた。「ebisuさんおいしいよ、食べたら?」と笑顔で勧めてくれたが、勘弁、とても食べられない。わたしをからかって面白がっていたな。すぐになついて弟みたいなやつだった。

 沖縄米軍の成果を踏まえて、慶応大学医学部へ日本標準MoM値の共同研究プロジェクト案をもって説明に行った。信濃町の慶応大学病院では3時間ほど待たされたのではかなったか。診療がすむまでは打ち合わせができないのは当たり前、営業はなかなか辛抱がいるなと、その時に思った。
 初秋ではなかったかな、病院へ行く前に信濃町駅前にあるカレー屋さんで昼飯を食べた。4坪くらいしかないような狭い店だったが味はとびっきり、香辛料を自前で調合していた。夏の2か月間はインドや東南アジアを回っていろいろな香辛料を試すので、店が長期間休みになると聞いた。佐藤君が「ebisuさん、おいしいカレー屋さんを知っているから、病院へ行く前に案内します」と彼がニコニコしながら言ったのをいまでも覚えている。確かにうまかった。沖縄出張で一緒に飯を食べただけなのに、あいつはわたしがカレー好きなことを知っていた。
 このプロジェクトは大成功、数年かけて6000人ほどの妊婦の検査をして日本標準値が定められた。黒人のMoM値が白人よりも2割程度高いのは文献を見て知っていたから、日本人はその間くらいだろうと見当をつけていたのだが、大外れだった。白人より3割も高かったのである。基準値を低い方から並べると「白人⇒黒人⇒日本人」ということがわかり、学術的な価値の高いプロジェクトとなった。
 新し検査法が2年ほど前に登場するまで、この産学協同プロジェクトが定めた基準値が二十数年間デファクトスタンダードであった。
 やはりアキオとタッグを組んでやった成果である。研究部の古川君の協力も重要なカギだった。応用生物統計の専門家は日本では少ないのである。その少ない中でもかなり優秀だった。古川は一度産婦人科学会で有るドクターが使った検査データに疑義を主張し、そのドクターが激怒。創業社長の藤田さんが謝罪に出向いたことがあった。あいにくと慶応大学病院産婦人科のドクターだった。「ebisuさんの頼みだからやるんだからね、他の人からなら受けてないよ」と笑いながら引き受けてくれた。そのプロジェクトが終わるとまもなくかれは応用生物統計の会社を立ち上げ、独立した。プロジェクトに優秀な人間を集めるのはふだんの人脈がものをいう。コミュニケーション能力は相手の専門分野の最低限の知識はもつこと、そして職人としての腕に敬意を払うことで醸成される。
 慶応大学病院との共同プロジェクトもSRL側のプロジェクト・マネジャーはやはり行きがかりというか、ebisuが担当することになった。ほかに担当できる社員がいないような仕事は必ず回ってくるようになっていたのは、前の産業用エレクトロニクスの輸入商社でも、SRLに転職した直後からも、一貫して変わらなかった。お陰様で、やりがいのある美味しい仕事がたくさんできました。(笑)

 わたしが15年間勤務したSRLをやめて、誘いのあった首都圏の300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事へと転職し、病院の建て替え仕様や県庁や横浜市役所担当部署と交渉していたころに、佐藤君も数年間独立の準備をしてSRLをやめた。臨床栄養学の学位(博士)を米国でとったので、そちらの新規事業をするということだった。
 立ち上げに協力してもらいたいと要請があったので、少しお手伝いした。要点を伝えただけで、かれは会社の登記も定款作成も自前でやった、栄養医学研究所はそうして立ち上がった。
 最初の数年間だけ監査役を引き受けたが、ふるさと根室へ戻ったのを契機に監査役辞任を認めてもらった。事業が軌道に乗って利益がたくさん出せるようになったらいっしょにやりたいという申し出が当初あったが、会社立ち上げまでがわたしの協力できる範囲である、そういう気は毛頭なかった。いままで会社を立ち上げるのでと3人の同僚に、共同経営者になることを頼まれたことがあるが、3度ともお断りした。
  一つ目は軍事用と産業用エレクトロニクスの輸入専門商社時代に東京営業所長のE藤さんがある米国メーカから日本法人設立の相談を受けているので、一緒にやらないかと誘われた。E藤さんは営業活動で抜群の成果を上げただけでなく、営業実務を根本的に変えて営業効率を上げる方法を普段から考え抜いていた、そういう意味で切れ者だった、わたしが人生の中でであった営業マンではダントツにナンバーワンである。
 二つ目は、SRL時代に同時期に入社したK藤が会社を辞めて健康関連事業を立ち上げたが、1年もすると経営コンサルタントの仕事が舞い込むようになり、SOSで900万円の仕事を一度だけ手伝った。あ、無報酬ですよ。あの程度の仕事なら年間20件は消化できただろう。取締役就任を依頼され、SRLに非常勤取締役だから仕事に支障は出ないがと届けたら、人事部長から「認められない」とシャッタアウト。業界ナンバーワンのSRLの看板を背負ってやる仕事はスケールが大きくて魅力があった。その後K藤からSRLを辞めて副社長に就任してほしいと要請があったが、断ると、次には社長に就任してほしいと打診あり。べつに職位に不満で受けないわけではなかったので誤解のないように説明を尽くした。友人だから頼まれてお手伝いできる範囲で応援しただけ。でも経営コンサルタント事業は専門外で荷が重かったようだ。奥さんは東大理Ⅲ、海外の化粧品メーカで開発部長をしていた。当時41歳くらいだっただろう。K藤はSRLへ同時期に入社して、八王子ラボでの研修で一緒になった、それ以来の付き合いだった。誘われて二人だけで新宿界隈でよく飲んだ。
 佐藤君からの誘いが三つ目だった。その時は社会的に意義のある仕事だと思ったが、自分の関与の必要のない仕事だと感じた。佐藤君は佐藤君自身の信ずる道をまっすぐに歩めばいいと思った。誘われても、感覚の命ずるままに動く、大事なことに損得勘定は入れない、欲得が絡むと判断を誤るからだ。わたしにはわたしの人生がある。

 FBのブログにアップされている平成27年3月頃の佐藤君の写真がずいぶん窶(やつ)れているので驚いた。まるで癌で退院した直後のわたしのような感じだった。体力が失われて、さぞかしたいへんだっただろうと想像する。あの写真の姿と手術後の自分を折り重ねてしまう。わたしと話すときはよく笑ったから、親しみがわいてなんとなく弟のような気がしていた、めんこかった。
 君はいい仕事した、認めるよ。でもね早すぎるよ、早すぎた。
 いまはただ冥福を祈ります。

*FBの佐藤君のブログ
https://twitter.com/nutmed_1

**日本栄養医学食養学会「理事長(佐藤章夫)逝去のお知らせ」
http://janmf.com/osirase0727/

<余談>
 佐藤君は1990年ころSRL学術営業部に所属していたのだが、その部門の上司は窪田規一さん、東証1部上場した注目のベンチャー企業、ペプチドリームの現社長である。SRLにはユニークな人材がいた。(笑)
 創業社長の藤田さんは富士レビオとSRLの2社を現役社長で東証一部上場させた稀有な人、その跡を継いだ近藤さんも医師で切れ者。SRLの一部の社員の中にはそういう「遺伝子のようなもの」が流れていたのかもしれない。過去形で書かなければならないのが残念である。

*ペプチドリーム
https://www.peptidream.com/



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#3883 折り紙建築士の技:by下元英徳1級建築士&インテリアコーディネータ Dec. 18, 2018 [22. 人物シリーズ]

 釧路の教育を考える会の忘年会が12/15にあった。末広町で一次会をやったあと、いつものスナックでの2次会の席でのこと。
 酔っ払いの話だからとりとめがない。今の子どもは作文が下手だという話になった。作文が苦手なのはいまの子どもたちに限らぬが、昔の人は筆を使って上手な字で手紙を書けたということはたしかだ。手紙には型があった。たとえば、拝啓ではじまり敬具で終わる、「拝啓」の後には時候の挨拶が来る、そして用件である。型が決まっていたから、その通りに書けばいいだけ、だから気軽に書けたし、だれが書いても型通りのちゃんとした手紙になった。
 そういう手紙の書けた昔の人に、「型は無視していいから、好きに書いていいよ、自由に書いていいよ」と言ったら面喰うだろう。自由に書くというのは型通りに書くよりずっとハードルが高いのである。
 そこで向かい側に座っていたYさんだったかAさんだったか、「下元さん、建築折り紙にも基本の方というものがあるの?」と質問した。人の好い下元さん、カバンの中から小さな方眼紙を出して二つにおって手順の説明を始めた。ようするに、切ることと折ることの組み合わせで立体風景がができる。

①方眼紙に赤い線がいれてあるが、その線をカッターで切る、そして折り曲げるだけで椅子ができる。
あら、赤が薄くて見えにくい。
SSCN2430.JPG

②横から見た。ちゃんと椅子になってるでしょう。二つ切込みを入れて、二つ折りにしたところを正反対に折っただけ。建物が手前から三つ並んでいたら、これを3回繰り返せばいい。そんなに簡単ではないけどね。(笑)
SSCN2431.JPG

 下元さん、これに続いて、スカイツリーを実演してくれた。おなじ方眼紙の真ん中にスカイツリーの絵をボールペンでスラスラ描いていく、さすが一級建築士だ、建物の絵は手際がいい。2分ほどかかってスカイツリーの絵をかき終わると、カッターで数か所切り込みを入れた。そして同じように正反対のオリセンをつけていくとスカイツリーがテーブルの上に立っていた。3分かかっていない。

 ジャンヌダルクのニックネームのある女性市議のKさんが「ムーを作って」とお願いする。おいおい、それは無茶だろうと思ったら、下元さんムーの建物の絵を方眼紙に描き始めた。5分ほどかけて絵が完成すると、また折り始めた。後ろにある全日空ホテルもムーの奥にちゃんと建っていた。できあがった作品はK市議がもち帰ったので、下元さんの名刺の裏に同じ絵がカラーで印刷されているので、そちらを紹介する。これが方眼紙にボールペンで描かれ、立体折り紙建築になったと想像してもらいたい。
③釧路折り紙建築士・下元名人の名刺の裏面
SSCN2432.JPG

 これ、小学校や中学校そして高校でやったら楽しいだろうな。生徒の10%くらいは感覚がよくてやり方をコピーできるだろう。こういう手仕事を自分の目で見て、真似てやってみる、そういう授業がなかなかない。
 根室市教委さん、興味があったら連絡ください。下元さんに橋渡しします。ebisuを経由したくなければ直接交渉してみてください。釧路では有名人ですからすぐに連絡先はわかるでしょう。
 根室の子どもたちのために、一肌脱いだら如何?

<余談>
 下元さんは地元の釧路高専建築科出身の一級建築士です。そして地元で「釧路折り紙建築士」を名乗って活動しています。もちろん本業の方もしっかりおやりになっている。
 根室の中学生のみなさん、釧路高専へ進学しよう。ことしは一人推薦で釧路高専進学が決まった生徒がいます。
 AI関係も毎年1万人が卒業する高専出身者に支えられています。次の記事をお読みください。
「高専生は日本の宝」 AI時代を引っ張る強みあり
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37752760U8A111C1000000/?n_cid=DSPRM1489

 釧路市議の月田さんが下元さんに関する記事を2本ブログにアップしています。

http://blog.livedoor.jp/gekko946/archives/51655510.html
http://blog.livedoor.jp/gekko946/archives/51662204.html





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#3735 瀬川あやかさんの人生:看護師&歌手そして道産子 May 5, 2018 [22. 人物シリーズ]

 釧路出身で東大文Ⅲ⇒ニュヨーク州立大大学院(在学中)の阿部幸大さんが書いた教育の地域格差は、首都圏に住んでいる人には最良の教育環境だということに無自覚なように、僻地に住むわたしたちも劣悪な教育環境下にあることに無自覚であることを思い知らされるものでした。だから、読んでいて少なからず痛みを感じました。

 今日紹介したいのは瀬川あやかさんのインタビュー記事です。ハンドルネームJEEPさんが弊ブログ#3734投稿欄で教えてくれました。
 いまも病院へ勤務しながら歌手生活を続けています、じつにさわやか、心温まる人生です。瀬川あやかさんのさわやかさが風となってあなたの心の中を通り過ぎていくでしょう。

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阿部幸大さんの記事を読んで、富良野市出身の歌手(歌手と看護師の二刀流で有名)、瀬川あやかさんが何故旭川市内の高校(旭川西高校)に進学し、東京都内の大学(首都大学東京健康福祉学部看護学科)に進学したのかの経緯のインタビュー記事をご紹介します

https://natalie.mu/music/pp/segawaayaka/page/2
by JEEP (2018-05-04 21:27) 
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JEEPさん

歌手&看護師の瀬川あやかさんの情報ありがとうございます。
素晴らしい人生ですね。

富良野から旭川西高校まで往復4時間かけて通学したのは、根性の塊みたいな方ですが、写真にはそうした気負いは感じられません。素直さがそのまま出ています。首都大学東京の看護学科に進学、これもすごい!

彼女が何かをやり始めるときに、それは認知症で寝たきりのお年寄りのため(ソーラン節を歌ってあげたら起き上がって歩き出した)だったり、注射や点滴をするときに患者さんとの話題作りのための野菜コーディネータの資格だったりと、「自分が好きなことや興味が持てること&他人のため」というキーワードがあるようです。それが彼女の人生を豊かにしています。


心温まるインタビュー記事をありがとう。
by ebisu (2018-05-05 08:27) 
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<余談:「利他に生きる」>
「利他に生きる」は京セラ創業者稲盛和夫氏の言葉ですが、瀬川あやかさんもこころのありようは一緒。稲盛氏は回転寿司「花まる」の経営者である清水さんの師匠です。清水さんは稲盛さんの塾の門をたたきました根室にはめずらしい学ぶ姿勢をもった経営者です
 産業用エレクトロニクス輸入商社のセキテクノトロン(関商事)に勤務(1978-1984)していたときに、遠藤さんという東京営業所長がいました。かれが最初に就職したのが黎明期の京セラでした。そこで稲盛氏の薫陶を受けました。数百万円の受注をしながら、取引先企業のニーズを読み取り、大きな受注のできる人でした。そういう営業活動をしながら営業事務の合理化と、システム的に粗利益率をどうしたらアップできるかを常に考えている人でもありました。あるとき毎年5億円、十年間に渡って50億円の受注をしてきたことがあります。彼と一緒に仕事をして、会社の粗利益率を15%アップしました。そのために3つのコンピュータシステムを開発して統合したのです。受注・納期管理・受注残&仕入管理システム、為替管理システム、円定価システムの三つのシステムです。1980年ころ次々に開発しました。わたしが出会った営業では遠藤さんがベストワンです。席テクトロニクスの営業職は国立高専卒の一人を除いて理系大卒でした。時代の先端を行く欧米50社の日本総代理店をしていたので、製品の機能や性能を説明するのに理系大卒の学力・専門知識が必要だったからです。あの会社では毎月東北大学から助教授の方が社内勉強会の講師として来社されていました。そして毎月輸入先のメーカーから新製品の説明にエンジニアが来て、英語で製品説明会を開いていました。わたしは門前の小僧で、社内勉強会と海外メーカエンジニアによる新製品説明会にすべて出席していました。楽しい5年半でした、文科系出身者であるわたしにとって、時代の最先端を行く産業用エレクトロニクス製品の数々から得るものが大きかった。時間周波数標準機ではHP社とスイスのオシロクォーツ社の製品が世界市場を二分していました。オシロクォーツは輸入先メーカの一つでした。マイクロ波計測器が多かった。電子戦シミュレータもありました。質量分析器や液体シンチレーションカウンターも取扱製品でした。これらの専門知識が国内最大の臨床検査センターで機器購入・メーカとの共同開発・管理をしたときに絶大な威力を発揮しました。学ぶべきチャンスが訪れたら、一心不乱に学んでおくべきです

 京セラ創業者の稲盛さんは人材を育てる名人のようです



*#3734 教育の地域格差の盲点:釧路市出身の阿部幸大さん May 2, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-05-02

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#3734 教育の地域格差の盲点:釧路市出身の阿部幸大さん May 2, 2018 [22. 人物シリーズ]

<最終更新:5/3夜10時半>

  釧路出身で東大を卒業して留学中(ニュヨーク州立大博士課程)の阿部幸大さん(1987年生まれ)という方の教育の地域格差に関する鋭い問題提起が大きな反響を呼んでいます。
  ハンドルネームamandaさんが弊ブログ投稿欄で教えてくれた情報です。
*#3713 都立進学校「自校作成問題」長文ワード数 Mar. 15, 2018 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-03-15

 続編を見つけましたので両方のURLを貼り付けます。
 東大へ行ったところがわたしとは違いますが、プライベートなことを含め、続編を読んだら類似点がいくつも見つかりました。1949年生まれのわたしとは38歳も違うのに、釧路や根室の教育環境が変わっていないことに驚いています。
 距離は120㎞、
釧路と根室ですから教育環境で類似点がいくつもあるのは当然のことですが、38年の時の流れがそこには横たわっているのに、どうして変わっていないのか驚きです。


*「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180425-00055353-gendaibiz-bus_all&p=1

 大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55505


<余談:FB上でのやりとりから>
 3月に10年ほど住んだ道東のある町から東京へ戻られた写真家のSさんとのFB上での対話です。
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プロの写真家Sさん
まさしく想像力の欠如、何か提案しても意味不明にニヤニヤするだけ。要するにこっちが言ってることを理解できないのです。
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ebisu
阿部幸大さんは想像力が発揮できるのは、周りにある程度の教育環境が整っている場合だけと主張しています。釧路には単科大学しかありません。その地で生まれ育てば総合大学を想像することすら困難です。身近にないし、そういう大学生もいません。
ここからはわたしの意見ですが、釧路には各分野でトップレベルの先生もいませんから、そういうレベルがどういうものであるか釧路の大学で学んでも想像すらできないということです。道内の大学はどこも事情は似たり寄ったりでしょう。


わたしは東京の私立大学(専修大学商学部会計学科)と大学院(東京経済大学)で学びましたが、学部のゼミの指導教授は日本でトップレベルの哲学者市倉宏佑先生でした。市倉先生のゼミで3年間学びました。経済学史では日本でトップレベルの内田義彦先生の講義がありました。大学院では西洋経済史でナンバーワンの増田四郎先生(元一橋大学長)の特別講義を院生3人で1年間聴講しました。特別講義とは名ばかりで、リストの『経済学の国民的体系』をテクストにゼミ形式の授業でした。道内の大学ではどの一つをとっても望むべくもありません。
北海道の大学に通う学生にこういう贅沢な授業はおそらく想像すらできないでしょう。いませんから。
大数学者の岡潔先生が北大にいたことがありますが、気候が合わなかったのか半年ぐらいで職を辞して奈良女子大へお移りになった。その半年の間に岡潔先生の謦咳に接することのできた北大生はどういう思いを抱いたでしょう。道内では滅多にないことなのです。
これも大きな教育の地域格差です。
例えば、東京全体では137校の四年制大学、人口58万人の東京八王子市には24校の大学があります。八王子市だけでも北海道全体(37大学)に近い。八王子市の子どもたちはそういう環境の中で、日々大学や大学生をみて生活しています。隣接する多摩市にはワンフロア、4000坪の巨大書店があります。雑誌、参考書や様々な分野の専門書が40万冊ほどもおいてありますから、片っ端から手に取ってみることができます。その中から最良と思うものを自分で手に取って選べます。本屋だけみても、教育の地域格差の大きさが理解できます。3月にその本屋へ行ったときに、英語の薄い短編小説が並んだ棚の前で、中学3年生くらいの女の子が、両親と一緒に次々に本を取り出しては中を確認していました。1000語レベルで書き直したものです。80㎝くらい占めていました。根室の本屋(コーチャンフォー)はもちろん、釧路の本店でも英語の中学生が読めるような英語の短編小説が数十種類も並んでいる棚はありません。
釧路や根室の子どもたちは、コーチャンフォーが大きな本屋だと思っています。それは多摩市の巨大書店を見たことがないからです。100mを超すフロアに20mほどの書架が整然と並んだ様子は想像すらできない。
でも、そういうハンディに負けないでもらいたい。

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プロの写真家Sさん
私の出身校、東京のごく普通の都立高校などでも東大出の教師がいて脳みその構造の違いを体験できるし私の写真学校にも東大出の講師がいて頭の切れ味が普通の人間と違うのを間近で体験できました。十勝では頭の切れる人間にはついに一度も出会いませんでしたし東大出の人間のすごさを話してもとんちんかんな反応が返ってくるありさま、まさに阿部幸大さんの書いている通りです。昔高校の学校案内のパンフレットの撮影をしていた時期がありますが、専門分野なら高校教師より私の方がうまく授業できそうだと感じました、高校教師などたいした社会経験もなく大学出てそのまま教師になっているわけですからほとんど何の知識も無く教科書に書いてあることをしゃべっているだけ、私の方がよほど役に立つことを教えられると思いましたね。550万人の北海道に大学が何校あるんでしょうね、人口1/10の八王子市より少なそうです、レベルも遥かに低く教師のレベルも低い。これで日本を知ることはほぼ不可能、自分たちの無知にも気付けない。ebisuさんのおっしゃるように地方創生だの活性化対策過疎化対策などやる必要はない、やっても金の無駄、なるようにしかならないと私も最近思います。
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ebisu
検索してみたら北海道には39大学あります。
国立7大学、公立5大学、私立27大学です。八王子市よりは数が多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道の大学一覧
管理する

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ebisu
東京都八王子市の面積は186.38平方キロメートル、北海道のそれは83,424平方キロメートル、じつに447倍もあります。八王子市は北海道に比べると単位面積当たり275倍も大学があるということ。
何平方キロに大学1校があるかで比較してみます。
186km^2/24校=8km^2/校 ⇒ 八王子市
83,424km^2/39校=2139km^2/校 ⇒ 北海道

釧路市の面積は1362km^2ですから、八王子市と同じ密度なら市内に176大学あることになります
同様に根室市は506km^2ですから、65大学です
東京都八王子市の子どもたちはそういう環境の中で育ち、学力の大切さを身近に知ることができるのです。
数字で表してみると教育環境の地域格差に驚かざるをえません
こうした教育環境のすさまじいとしかいいようのない地域格差は、そこで育つ子供たちの勉学への意識に大きく影響しています。そして親たちや教育行政の教育に対する意識も多大な影響を受けていますが、自覚がありません。
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プロの写真家Sさん
受けました^^;、まさにそこを言いたかった朝八王子駅に降り立つと大学生と思われる若者がわんさか降りて来る、駅前ロータリーには大学直行の路線バスみたいのさえある、当たり前に競争意識が育ち勉学が大事だと思う都会の人たいしていい加減に生きていても誰も苦言を呈さない田舎、これで物事の本質を悟る人間など出るわけもなし!
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釧路の革新的事業家Mさんのご意見
問題点はわかりますが結局解決策は自助努力しかないんでしょうね。彼がこの一連の書き込みをプロパガンダと言っているので、政治的組織の人間で何か行動しょうと謀略を練っているのかと思ってました。
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ebisu
Mさんとは意見が合いそうだ。結局自助努力しかない、わたしもそう思います。
話は教育問題からちょっと飛びます。今朝(5/3)の道新に「阿寒特産品開発プロジェクト」の記事が載っています、市民団体が行者ニンニクドレッシングを開発しました。素晴らしいですね。まさに自助努力、いいお手本です。20人ほどで夜集まって製品を手造りし、瓶詰めして販売にまでこぎつける。こういう開発が続けばいいものが出てきます。それを事業化にまで持っていけたら地域の雇用が増えます。カジノは釧路市民を幸せにはしません。
根室の欠点は何をやるにも補助金頼み、自助努力はしないし、リスクテイクもなし。そこのところに気がつく根室っ子が増えてもらいたい。とくに地元経済界、地元企業経営者たちに。町づくりは足元から、まず自分の企業の経営改革からと心得てもらいたい。いくらでもいい企業は創れます。
森川さんはドローンや趣味のカヌーを撮影ビジネスという新規事業にうまく統合しました。どう化けるか楽しみです。
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ebisu

53年前のことを思い出しました。
高校2年生になる直前の春休みに日本商工会議所簿記検定1級を受験するために問題集と参考書を買いに、20坪ほどの売場の地元の本屋さんへ行きました。古そうな本が一つだけありました。試験は商業簿記と会計学と工業簿記と原価計算の4科目に分かれていましたから、とても足りない。でもゼロよりはましと思って、やりました。半年ぐらいしたところで、中央経済社から「公認会計士二次試験講座」が刊行され始め、北海道新聞に宣伝広告が載りました。母親に買ってもらえるかと訊いたらOK、すぐに注文しました、けっこう値段が高かったのです。全巻揃えると、当時の高卒の給料の半分くらいでした。
中学生になってから、あるとき「本屋に行くよ」と母親、同じ町内の小さな本屋で本を手に取って眺めていると、「ほしい本があったら言いなさい買ってあげる」そう言いました、うれしかった。だから、道新に公認会計士二次試験講座の宣伝が載ったときにも頼みやすかったのです。もちろん、根室高校の先生にももっている人はいませんでした。
当時は7科目ですから、毎月送られてくるのが楽しみだった。バインダーになっていて、毎月送られてくるものを閉じこんでいくと7巻の参考書になりました。
ほしいと念じていれば思いもかけないきっかけや方法で手に入るものです。自分にできる限りの努力をした後はいつでも楽観していていい。天が何とかしてくれます。(笑)
「信じる者は救われる」

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東大工学部及び同大学院卒業のKさんとの投稿欄での対話
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koderaさん

 珍しく読むのが面倒な、管理人様の記事。だって馬鹿はどこにもいます。東大はマンモス大学です。大学の付属研究機関の数が半端でない。ケンブリッジもオックスフォードもカルテックも同じ。留学生や留学研究者の数が違う。

 東大の日本人も半分以上使えない。京大も阪大も。先生などになる人はまずアカン。使えるのはマレーシアやシンガポールの人。中国系アジア人と西洋の混血なら100%。
 オックスフォードの留学生は凄い、東大生などヘノカッパ。他の大学生でも同じ。
 だから私は偏差値50以下の孫に、シンガポールに留学させたい。そして数年丁稚奉公させたい。そのためにバドと英会話を勧めています。それだけで大丈夫。後はニコニコしていたら。
 政府も日本は混血で生きようとしているのでしょう。招き入れ、インバウンドで。それも良し。でも、無理ですよ。東大も京大も劣化。政治家や高級官僚の不祥事通りです。日本全体が劣化した。
 アウトバウンド、物ではなく、昔のように人でしょう。その結果はどうなるか分かりませんが、ebisu先生の言う通り、日本人の本質が生きるかも。
by tsuguo-kodera (2018-05-03 08:51)
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ブログの字数制限10万字をオーバーしたので、ebisuのコメントをふたつ削除しましたが、投稿欄で見られます。
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koderaさん


 コメントバックにまたコメントしたら、サーバーに障害発生し、コメントが消えてしまいました。要点だけ箇条書きします。

・昔のハワイ、ブラジルへの移民が今は東南アジアと考えたい。日本人なら成功する。

・家のクラブ員だった、今は40近い人は、数十億円の資産家になり、ボランティアを考えている。シンガポールで褒めを埋める。

・従弟は落第生。2浪でも地方の医学部に合格できなかった。英語と野球と柔道だけが得意でした。奥さまのお父様はハワイ、ロスへ移った日本からの移民。収容所で苦労したそうです。

・従弟はMITへ入学。入学は簡単で。苦労して卒業。大学院はUCLA。今はバフェットの主治医。大学を背負って立っている。

・北海道の若者は東京へ行くと考えず、シンガポールやマレーシアに行かせた方が良いでしょう。

by tsuguo-kodera (2018-05-03 12:47) 
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ebisu

せっかくの貴兄の投稿が一本何かの手違い(ソネットサーバーの障害)で消滅しましたか、もったいない。

東京ではなくて、シンガポールやマレーシアを目指せとは奇想天外なように聞こえますが、周りの人たちの人生経験からの結論のようで、データの裏付けがあるお話。

そういえば、40年前に使い始めたヒューレット・パッカード社製のプログラマブル科学技術用計算機は3代目まではシンガポール製でした。3代目は今でも使っています、故障知らずです。4代目の中国製品は3年ほどで壊れました。
シンガポールはモノづくりに、かつての日本人が持っていたスピリッツが残っているのかもしれません。いまは中国と東南アジアが経済発展を続ける時代です。30年したら、アフリカを目指せなんてことになりますでしょうか。

話の要点は大学受験が最終ではないということでしたね。そこで躓いたら、とりあえず合格できたところで別の道を歩め。研鑽と努力を積んでいるうちになるようになる。
結果は天のみぞ知る。
いいですね。
by ebisu (2018-05-03 15:08)
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*
「田舎から東大」記事を読んだ社会学者が語る「学歴分断」の現実http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55745

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#3719 "十年ぶり” Apr. 11, 2018 [22. 人物シリーズ]

 4/7(土)に中標津空港までいって、戻ってきたら、郵便局の不在票が入っていた。JCBカードが書留で送られてきたことがわかり、月曜日にもってきてもらうように電話をかけ、所定の自動応答操作をした。
 月曜日になって配達された。書留に張られた担当者名を見てびっくり、「〇〇ショウタ」とあった。あらためて顔を見たら中3の時に塾へ来ていた「ショウタ」だった。
「え!ショウタか、なつかしい、いくつになった?」
 ニコニコしながら、
「25歳になりました、お久しぶりです、この地区はわたしの担当です」
 元気に働いている、うれしかった。

 お姉さんがやはり中3の時に通っていた。体力があり、視力が2.0、学力に大きな伸びしろが感じられたので、高校3年間勉強して防衛大へ進学し戦闘機のパイロットにならないかと薦めてみたが、高校で女子バレーをやりたいときっぱり。あの時期は折悪しく部員が3名しかいず、試合にでられなかった。しかし、女子バレー部を存続させた、後輩へつなぐことが彼女の役割だったのだろう。昨年と一昨年は根高女子バレー部は全道大会へ出場を果たしている。自分たちの努力と何人もの先輩たちの辛抱のお陰でいまがあることを忘れてはならない。
 パイロット志願者は学力があることはもちろんであるが、裸眼視力や身体検査に合格できる者がすくない、血液検査データで基準値オーバーで失格となるケースが多いのだそうだ。中3で視力が2.0というのもとっても稀(まれ)だった、戦闘機のパイロットは裸眼視力がよいことも昔は応募条件の一つだった。現在は裸眼視力は採用要件にはない、眼鏡使用で1.0に矯正できればOKである。目視で何かをするということがなくなったからだろう、手元の計器類がちゃんと見えれば問題ないということ。20年もしたらドローンの性能が飛躍的に向上するだろうから搭乗するパイロットすら必要なくなりそうだ。地下施設からドローンを操作して、ゲーム感覚でひたすら殺人を行い、家に帰って家族とにこやかに食卓を囲む時代が来る。ディスプレイを見て操作しているだけだから、戦争殺人行為に罪の意識が薄くなっていく。そういう観点から世の中を見ると、幼いころから殺人ゲームに慣れさせて、大量の兵士を養成しているようなもの。
*航空自衛隊パイロットに必要とされる視力
http://my-dreamwork.com/category4/entry25.html

 大学のゼミの指導教授だった市倉宏祐先生(哲学)は戦時中はゼロ戦の指導教官だったし、オヤジが落下傘部隊だったから、根室から一人戦闘機パイロットの道を歩んだほしかったのかもしれぬ。ショウタのお姉さんの選択は正しかったのだろう。
(1970年代にジェット戦闘機の女性指導教官が3名いた)

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#3280 ショッチャンのお通夜  May 4, 2016 [22. 人物シリーズ]

 ノザワのショッチャンの愛称で生徒から慕われていた先生の訃報に接した。今日がお通夜である。
 わたしは商業科目で1年間だけショッチャンの授業を受けたことがある。高2のときだから、1965年、東京オリンピックの翌年である。教師になってまもなく作成したのではないかと思えるような黄ばんだ古いノートを参照して堂々と板書していた。その姿がなんとなく憎めなかったのは、授業の手を抜いているようには見えなかったからだろう。マーケティングが授業内容に含まれていたように記憶するが、科目名は「商事」だったかな。
 お酒が好きで、顔色が土気色、肝臓を壊しているのか日焼けしているのか高校生のわたしには判断がつかなかった。でも、似たような顔色の大人はたいがい肝臓を壊して早く死んでいたので、ショッチャンも長生きできないのではないかと心配した。数年前にお祭りを見物しているショッチャンをみて、そんな心配が杞憂だったことを思い知らされた。どこかで節制されたのだろう。
 人に意地悪をしない、生徒に分け隔てのない器の大きな人だった。
 あるとき、こんなことを若い先生二人に言ったと人づてに聞いた。
 「ebisuが先生になって戻ってきたら、おまえたち、いまみたいにぼやぼやしていられないぞ!」

 大学へ行くつもりはまったくなく、ひたすら公認会計士の受験勉強をしていた早熟で生意気な高校生だったが、数人の先生が目をかけてくれた。もちろんわたしを徹底的に嫌らった先生もお一人いらっしゃった。1年生のときの担任である。現代国語と古典の担当だったが、小説や論説文の理解がこの先生とはまったく違った。60歳に手の届こうとする先生と15歳のわたしの感受性が同じはずはないから、違って当然で、現代国語の答案はすべて自分の解釈を押し通した。黒板に先生が書いたとおりでないとマルをつけない、別の解釈を許さない先生だった。反抗は答案の上だけのことで、ふだんは従順に見えただろう。逆鱗に触れたのかクラスでNo.1の得点の「古典」も20段階評価で50点がついた。ここまで来るとあきれてしまった、器が小さなと思ったので文句も言わなかった、軽蔑したのである。以心伝心、ちゃんと伝わっていた。しっぺ返しがあった、1年次の終わりのクラス替えでその先生はわたしを追い出したのである。先生と生徒のはずだったが、同じレベルで感情的になるのはいただけない。新しく担任となったT岡良夫先生(東京都大田区にお住まい)は、首をかしげて「ebisu、お前何をしたんだ、よほど嫌われたようだ、おまえはほんとうは元のクラスから動かないはずだった、そういうルールがある」、わたしは笑って「たしかに嫌われたようです、拾ってくれてありがとうT岡先生」と応じ、余計なことだから嫌われた理由は言わなかった。2年になって現代国語は空手の有段者の新谷先生に変わった。この先生に変わってから現代国語の点数が上がった。人には馬の合う合わぬがあって当然、よいトレーニングになった。
 当時の根室高校で日商珠算能力検定1級合格者はわたしだけだったので、珠算部員ではないのに、道内の高校珠算競技会参加メンバーでもあった。競技会のときだけの「助っ人」だったから、珠算部顧問のT岡先生は喜んでわたしを拾ってくれた。
 ところで、わたしの前に日商1級に合格したのは、根室高校から東大現役合格した横田先輩のみ。当時の根室高校校長が「東大を受験しようという身の程知らずがいる」と公言して、横田先輩が現役合格したので大恥をかいたという逸話が残っている。横田さんは中標津からの転校生だったから、余計に嫌われたのだろう。よそ者を嫌う風が根室にはあったが、いまではそれが裏返しになっている。高校普通科で日商珠算能力検定1級に1年間のトレーニングで合格するような集中力の高い生徒は滅多にいるものではない。東大を卒業してから道庁に勤務し、上川支庁長で退職したと曙町の珠算塾の高橋先生(故人)から聞いている。
 T岡先生に拾っていただいたのは珠算のお陰、「芸は身を助ける」のである。高橋尚美先生にも感謝の言葉を書いておかねばならない。
 担任のT岡先生と珠算塾の高橋先生の間には長年の確執があった、事情は書かないでおく。とにかくわたしが間に入ることで、その確執が終わる時期がきた。喉に刺さったとげが抜けたことで、商工会議所主催の根室市珠算大会がはじめて開催された、開催場所は根室高校柔剣道場。選手宣誓をやれと、高橋先生から大会前日に原稿を渡された。第一回大会では暗算競技だけ選手として出場して優勝させてもらった。主催者側でもあるから、それ以上欲張るわけにはいかなかった。読上算競技では数人の珠算塾の先生たちと交替で受け持った。決勝戦に近づくにしたがって読み手はたいへんである。10億の単位の数字を高速で読み上げる、読み間違えることが許されない。慣れているつもりでもむずかしいのである。高校の先生では10桁の読上算をこなせる人はいなかった。高校生で主催者メンバーだったのはわたしだけ、特別扱いだった。根室商工会議所側が両方への参加をよく納得したと思う。高橋先生の影響力が大きかった。高橋先生は高校生のわたしを、帯広であった全珠連の集まりにも同行してくれた。当時は釧路根室間は砂利道だった、行きか帰りに十勝川温泉に一泊、高校生での参加はわたしだけだった。高橋先生は何度も商工会議所珠算能力検定1級の満点合格に挑戦していたが、残念ながら、五科目(乗算20題、除算20題、見取算10題、伝票算10題、暗算10題)の満点合格は果たせなかった。いつもどれかの科目に一つだけミスがあった。満点合格は半分の時間でやれても、なお及ばない領域である。当時は全珠連の段位認定試験はまだ権威がなく、受験する生徒はいなかった。日商珠算能力検定1級満点合格が最高峰だったのである。どの科目でも、高橋先生のように努力と精進を惜しまなければ、すばらしい授業になるにちがいない。
 恩義のある先生がもう一人いらっしゃる。北見北斗高校出身の白方功先生(故人)、簿記と工業簿記の担当だった。2年生のときに神戸商科大学への進学を熱心に薦めてくれた。1年生の終わりの春休みの10日間ほどを工業簿記の予習に充て、問題集1冊を全部やりきった。普通科なら数Ⅱ・Bの問題集を一冊、1年生の春休みの10日間で独力でやりきる程度の勉強である。授業が始まったときにはレベルを上げて、商工会議所簿記能力検定1級の参考書と問題集(論述問題が半分出題されるので、大学受験難関校2次試験よりも難易度が高い)、そして公認会計士2次試験講座の原価計算論の参考書で勉強していたから、選択科目の工業簿記の成績は群を抜いていた。簿記と工業簿記で常に2番目の成績だったH勢は21歳で税理士試験に合格して、東京有楽町で税理士事務所を構えている、優秀な同期である。白方先生は出張のあるときに、人数分のプリントを用意して、「これをやらせておいてくれ」と授業の管理を生徒のわたしに委ねたことがあった。まるで助教扱いだった。
 何を使ってどういう勉強をしているか話したことはなかったが、テストの答案を見ているから訊く必要がなかったのだろう。スマートな授業をする先生だった。要所要所で確認のためにこちらに視線を送ってくる、うなずくと先に進める、首を横に振ると説明の仕方を変えてもう一度やってくれた。阿吽の呼吸だった、滅多に首を横に振ったことはなかった。「バッキーシラカタ」という愛称で呼ばれていた。ちょっと出っ歯で笑っていることの多い先生だった。子どものように笑うのである、あれは真似ができない。
 3年生になったときに担任のT岡先生から進路相談があり、「お前が都市銀行の就職試験を受けると、行きたい生徒が行けなくなる、就職するなら釧路の日銀支店を受験しろ、学校推薦するから、成績も生徒会活動も充分要件を満たしている」、と言われた。それまで日銀へ就職した生徒は一人もいなかったが、可能性があると判断したのだろう。あるいは、大学進学をもう一度考えろということだったのかもしれない。高卒で日銀の就職試験を受けるつもりはなかったが、同期の一人が銀行へ就職できなくなるという一言が引っかかって、就職活動の時期を見送ってしまった。幣舞橋のところにある元・日銀釧路支店の建物の前を通ると人生にあった分岐点を思い出す。
 その年の8月に同じクラスのK田が「ebisu話がある」と夜8時過ぎに相談に来た。改まった風で、「学校を中退して『ゴルゴ13』の斉藤タカオのところへ弟子入りしようと思う」と言った。決意は固かった。型どおり、「卒業してからではいけないのか」と訊いたら、それでは一番弟子になれないと言った。半年早く決断したので、あいつは目論見どおり斉藤タカオの一番弟子になった。高3の9月に学校を辞めて斉藤タカオのところへ押しかけ弟子にしてもらった、思いっきりのよい奴だ。彼が独立したときにわたしはまだ大学生だったが、所得税申告をたのまれて、領収書を整理して帳簿をつけて決算書を作り、所得税申告書を書いて2回税務署へ提出してあげた。3日ほどの作業だったと思うが、昼飯をうまいもの食わせろというのが条件だった。そのころはまだ公認会計士になるか理論経済で大学院へ進学するか迷っていた頃だったので、法人税法も所得税法も専門書を読んでいた。数年してずいぶん儲かるようになってから、何度か新宿歌舞伎町の店をあいつのおごりで飲み歩いた。
 根室高校のわたしのクラス、Ⅲ-Gは型にはまりきらない個性の強い者が集まっていた。根室商業時代から続いていた総番制度があったが、最後の総番長がうちのクラスだった。わたしたちの代で総番制度を廃止した。総番長のKや副番長Mとは気があった。東京に行ってからもよくつるんだ。女傑の美術部長T山は渋谷にビルを一つ持っている。アンダーグラウンド劇場の世界では昔は名前の売れた人物だった。11PMという大橋巨泉の番組に2回ほど出ていた。漁師の娘で、お汁粉をどんぶりで食べる、こんなことを書いたらカツヨに叱られそうだ。一クラスに集めてまとめて管理しようというのが学校側の思惑だっただろうが、一箇所に集めたら、核分裂反応が起きることを考えなかったようだ。お陰で楽しいことがたくさん起きた。
 進路についてはしばらく思い悩んだのだが、斉藤タカオのところへ飛び込んだK田を見て吹っ切れた。どうなるかわからない未来に漕ぎ出すのも悪くない、高3の12月に両親に相談して不本意ながら大学進学を決めたが迷いはもうなかった。
 中学校の担任の山本幸子先生(故人)が母を2度も学校へ呼び、「この子は大学へ進学する子だから、商業科ではなく普通科に進学させなさい」と粘り強く説得してくれたことがあった。山本先生は両親が普通科進学に反対していると勘違いしていた。商業科へ進学して独学で公認会計士になる決意をしていたのはわたし自身の意志である。銀行に勤務して時々店番をしながら受験するつもりだった。母は2度目に呼ばれたときに、「息子が公認会計士になるので商業科へ進学するといって聞きません、息子の意志です」とY本先生に説明した。そういう経緯があったので、いまさら大学進学するというのは、なんだか引っ込みのつかない妙な気持ちがしたのである。
 人生なにがあるかわからないもので、高校の担任T岡先生の一言「おまえが都市銀行へ就職すれば同期の一人が途を断たれる」、それが人生の分岐点となった、天命かなと感じた。きっかけを与えてくれた担任のT岡先生に感謝している。決断をするまで、いろいろな人が形を変えて後押ししてくれたのである。
 大学院のときにたった一人の同期、S田に誘われて教職課程を履修したので、道立高校の採用試験を一度だけ受けたことがある。5月になってから、突然連絡が来て、来週から留萌の高校へ赴任できるかと打診があった。大きなシステム開発案件を任されていたので、丁重にお断りした。社長が信頼して任せてくれた仕事を放り投げるわけにはいかない、代替できる要員が社内にはいない、縁がなかったのである。ひょっとしたら、根室高校でショッチャンと一緒に教えていたかもしれないと想像するとじつに楽しい。

 昔の根室高校には「購買部」というのがあった。先生たちが1年生から3人を選び、購買部員を決めた。どういう基準で選んでいたのかまったくわからない。美人が多かったことは事実だろう。
 購買部の女の子は男子生徒に人気があった。何をするかというと、お昼の時間にパンと飲み物を販売するのである。昼休み時間が短くなるから、たいへんだっただろう。販売するものに利ざやが載っているから、購買部にはお金がたまる。それを他校訪問と称して道内のほかの高校を訪れることで使うのである。日ごろの労苦に報いる「ご褒美」だったのだろう。それでもお金はずいぶんと残った。余剰金は部活の予算に繰り入れたか、どこかに寄付したか、同窓会へまわしたか生徒会会計を2年間やったわたしにも記憶がない。使途を聞いてはいたのだが、興味がなかった。
(当時の生徒会会計は部活の予算編成を単独で任されていた。各部の部長と副部長を生徒会室に呼んで、予算の折衝と査定をするのである。先輩から任されて特別に2年間予算折衝をやった。帳簿も手書きでつけた。決算書をつくるところまでが生徒会会計の役割だった。最初の年、先輩たちを相手の予算折衝は実績に基づいて、査定額を説明し、公平にやらせてもらった。どなたも文句は言わなかった。それまで歴代の生徒会会計がしっかり予算折衝をやってきたからだろう、権限が大きいと感じた。生徒会会計は会計をやっている先輩が指名した。わたしも慣例にしたがって、先輩に「○○にしようと思いますがよろしいでしょうか」とお伺いを立てて了解をもらってからある後輩を指名した。)
 わたしが卒業した年から、自己推薦ありで購買部員が決められるようになったらしい。購買部員になりたい女子生徒が少なくなかったのだろう。とっくに購買部はなくなっている。
 女房殿は1学年下の購買部員で、昼休みには一緒に働いているから三人は仲がよかった。三人揃って根室にいて、すっかりオバさんになっている。数日前にホクレンショップで買い物をしているT田さんに気がついて女房殿が声をかけた。「こんにちは」とわたしも挨拶したが、笑顔に昔の面影がある。品よくふけました。(笑) もう一人は金刀比羅神社のお祭りのときには必ず見かけます、裏方を取り仕切っているから当然です。目で挨拶するだけ、声はかけません、毎年忙しそうに石段の下でジープに乗ったご亭主とお神輿を見送っています。

 同じクラスに購買部員が三人いました。1年の時には別々のクラスだった三人が2年になって同じクラスになりました。二人は勉強熱心で成績も特別に優秀だった。卒業時の就職先は富士銀行と道銀だったかな、いまでは考えられない就職先。富士銀行は現在のみずほ銀行です。A部さん、M保さん、N山さん。
 ショッチャンは購買部の担当だった、バスケット部もショッチャンだったはず。
 そんな経緯で、女房殿がお通夜に参列することになりました。

 さようなら、ショッチャン、そしてありがとうございました。


<余談>
 1972年の11月に結婚式は根室で挙げたくて、友人たちにセッティングしてもらったが、購買部の顧問だったショッチャンも出席してくれた。あのときの祝辞の最初の一言はいまでも覚えている、大げさにほめてくれたが、まったく嫌味がなくてうれしかった。他の人に同じ言葉を戴いたら恥ずかしかっただろう。あれから44年、女房共々ほんとうにお世話になりました。
  ...合掌


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