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#3930 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.228~233 Feb. 14, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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#3901 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』:市倉宏祐先生 Jan. 22, 2019

#3902 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(1) :目次 Jan. 23, 2019
#3903 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(2) : Jan. 23, 2019
#3904 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(3):「2.誓子と特攻隊」 Jan. 23, 2019
#3905 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.10~12 Jan. 24, 2019
#3906 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』P.14~16 Jan. 24, 2019
#3907 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.17~19「特攻の死の意味」 Jan. 24, 2019
#3908 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.19~27 Jan. 26, 2019

#3915 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.53~66 Feb. 1, 2019

#3930 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.228~233 Feb. 14, 2019




 これが最終回になります。

 先の大戦に関係があるので、弊ブログ「#3929 VENONA文書と北方領土:四島一括返還の戦略 Feb. 13, 2019もお読みください。米国の公文書が公開されて、大東亜戦争に関する驚愕の事実が明らかになっています。ソ連と中国共産党が米国政府内部にスパイを多数送り込んでルーズベルト大統領を操って日米開戦に追い込みました。ソ連と中国共産党の領土拡張のための長期戦略には舌を巻きます。真の敵はソ連と中国共産党だったのです。日本は孤立していました。米国の保守主義者たちと共同戦線を構築できる人材があれば結果は大きく違っていました。この状況は今も変わっていません。だから危うい。
 特攻隊攻撃をせざるを得なくなるような局面に追い込まれぬために、日本には長期的な国家戦略構想を立案し、それを着実に実行する人材と仕組みが必要です。
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-1
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   特攻隊についての参考文献

  生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』ビジネス社 一九七七年
  「一旒会特別会報」刊行委員会発行編集『一旒会の仲間たち』  一九九〇年
 岩井忠正・岩井忠熊『特攻自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言』新日本出版社 二〇〇二年
 生出寿『一筆啓上瀬島中佐殿 無反省の特攻美化慰霊祭』徳間文庫 一九九八年
 奥宮正武『海軍特別攻撃隊ー特攻と日本人』朝日ソノラマ 一九八〇年
 小沢郁郎『つらい真実虚構の特攻隊神話』同成社 一九八三年
 押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈陸軍編〉』光人社 二〇〇五年
 折原昇編『われ特攻に死す予科練の遺稿』経済往来社 初版一九七三年 第四版一九七七年
 海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜かえらざる青春の手記』毎日新聞社 一九六六年
 海軍飛行予備学生第十四期会編『別冊あゝ同期の桜かえらざる青春の手記』(非売品)一九六六年
 角田和男『修羅の翼零戦特攻隊員の真情』光人社 二〇〇二年
 工藤雪枝『特攻へのレクイエム』中央公論新社 二〇〇一年
 神津直次『人間魚雷回天水中特攻作戦光基地の青春』図書出版社 一九八九年
 城山三郎『指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとく』新潮社 二〇〇一年
 高木俊朗『特攻基地知覧』角川文庫 一九七三年
 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』上下文藝春秋 一九八三年
 土居良三編『学徒特攻その生と死 海軍第十四期飛行予備学生の手記』国書刊行会 二〇〇四年
 『特攻最後の証言』製作委員会『特攻最後の証言』アスペクト 二〇〇六年

  永沢道雄『学徒出陣の記録海軍飛行予備学生青春の軌跡』光人社 二〇〇一年
 永末千里『白菊特攻隊還らざる若鷲たちへの鎮魂譜』光人社 一九九七年
 日本戦没学生記念会『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記 第1集』光文社 一九五九年
 日本戦没学生記念会『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記 第2集』光文社 一九六三年
 野平健一『脱走した海軍士官の孤独な五十年』野平健一〔制作新潮社〕 二〇〇三年
 白鴎遺族会編『雲ながるる果てに 戦歿海軍飛行予備学生の手記』河出書房新社 一九六七年
 浜野春保『万雷特別攻撃隊』図書出版社 一九七九年
 林尹夫『わがいのち月明に燃ゆ』ちくま文庫   一九九三年
 原勝洋『真相・カミカゼ特攻   必死必中の300日』ベストセラーズ 二〇〇四年
 深堀道義『特攻の真実命令と献身と遺族の心』原書房 二〇〇一年
 別冊歴史読本『海軍航空隊とカミカゼ』新人物往来社 二〇〇〇年
 別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』』新人物往来社  一九九八年
 保阪正康『「特攻」と日本人』講談社現代新書   二〇〇五年
 三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊   歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』作品社 二〇〇九年
 三苫浩輔『至情  「身はたとへ」と征った特攻隊員』元就出版社 二〇〇五年
 三村文男『米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す』テーミス 二〇〇二年
 三村文男『神なき神風 特攻五十年目の鎮魂』テーミス 二〇〇三年
 森史朗『特攻とは何か』文春新書 二〇〇六年
 森岡清美『若き特攻隊員と太平洋戦争   その手記と群像』吉川弘文館 一九九五年
 森本忠夫『特攻 外道の統率と人間の条件』光人社NF文庫 一九九八年
 横田寛『あゝ回天特攻隊 かえらざる青春の記録』光人社NF文庫 一九九四年

 横山長秋『海軍中攻決死隊九六陸攻操縦者の死闘』光人社NF文庫 二〇一一年
 和田稔『わだつみのこえ消えることなく 回天特攻隊員の手記』角川文庫 一九七二年

◇特に、海軍第十四期会の会報については次の通り。
 
 「 14 期会報」第一号〜第三号
  「関東十四期」創刊号〜第六号
  「海軍十四期」第七号〜第一六号
  「同期の桜会報」第一号〜第一四号
  「九州十四期」昭和五十九年八月十日号、昭和六〇年八月十五日号
   以上は『海軍第十四期会報縮刷版』に併録
  「海軍十四期」第一七号〜第一九号、および特集号
 「九州十四期会報」平成二年十一月十五日号
   以上は『学徒出陣 50 周年記念特集号』に併録
  「海軍十四期」第三三号〜第三八号    以上は『海軍第十四期会報集刷版』に収録



  あとがき
 
 故市倉宏祐先生が専修大学を七十歳で定年退職されたのは、平成四年三月末日のことである。それ 以後、先生ご自身に関して話題になり問題になったのは、定年後の仕事として何をするかということ であった。専修大学文学部の紀要「人文論集」にまとめられた業績目録に示されているように、若い 頃に手がけていたパスカルの研究をその頃また進めており、それをまとめたいとよく言っておられた。 また、書きためていたサルトル関係のものをまとめておきたいとも語っていた。長くフランス哲学の 研究を続けて来られた先生ならば、当然のことだろうとわれわれは考えていた。  
 ところが先生はあるとき、思いがけないことを言い出した。若いときの海軍時代のことを書きとめ ておきたいというのである。市倉先生は昭和十八年に学徒出陣で兵隊にとられて、海軍に入る道を選 ぶ。それは零戦に乗って特攻隊を志願するということにつながっていた。その話をまとめたいと言う。 これは急のことであったので、私をはじめ、周りにいた者たちはとまどってしまった。 
 先生は、海軍時代というか特攻隊にいた時代のことを、授業の折などによく学生たちに話してい た。飛行場の縁路面に腰掛けていろいろなことを同期生たちと語り合ったこと、当時遭遇した事故の 話、零戦パイロットとしての訓練の様子、あるいは「先輩」と称する人によく殴られていたというこ と、などである。個人的には、地方で開催される学会の年次大会に同行した際、特攻隊時代に親しく なった方のご自宅まで一緒にうかがったことを思い出す。 
 なかでも、殴られた話はつきなかった。「先輩」と称する士官たちは、理由もなしに一方的に殴っ てきた。殴られた方はたまったものではない。なぜそうなのか、これを書きたいと先生は言っていた。 
 これは理論的な話だ、とも強調していた。こうして本の内容がほぼ確定し、執筆が始まった。 
 しかし、これがまた方針転換される。市倉先生は学徒出陣で海軍に入り、土浦の航空隊で特攻の出 撃を待っている間に終戦となった。したがって多くの戦友が、鹿屋をはじめとする特攻基地から帰ら ぬ人となっている。その思いを書きとめておきたいと言い出した。とりわけ海軍第十四期生のことで ある。学徒出陣組がこれであった。なぜこのことに気がつかなかったのか、と先生は何度も話していた。 
 それまでは特攻隊の構造や理論についてまとめるということで、特攻隊時代の思いを書くという話 は先生の口からはついぞ出たことはなかった。これには「十四期会」の解散という事態も大きく影響 している。会員たちが高齢を迎えて、会を維持することができなくなったのである。執筆を続けるう ちに、理論的な話よりも「十四期会」の「会報」に載った多くの仲間たちのことを今のうちに書いて おきたいという思いが、先生のなかで強くなっていったに違いない。折に触れ先生から特攻隊時代の 話を聞いていたわれわれには、十分理解できることだった。 
 こうしてA4版のプリントアウト用紙四〇〇枚に及ぶ第一稿が完成された。しかし、それではいか にも長すぎた。当然引用も多く、整理する必要が生じた。また、先生の希望もあり、経歴紹介をかね たインタビューを巻末に掲載することになった。しかし、作業に手間取っているうちに、先生は平成 二十四年七月十九日に九十歳で鬼籍に入られてしまった。 
 市倉先生の謦咳に接したものは、最後のご遺志であるこの本の出版を願っていたが、さまざまの問 題があって、原稿はほとんど死にかけていたと言っていい。だが、ここで研友学園において先生に教 わった方々のご協力が得られることになった。 
 研友学園は、明治二十五年石巻市に生まれ、無教会派のキリスト教信徒であった菅野純一郎氏が私財を投じて創設した私塾である。理想の実現には何よりも人格形成が必要だとする氏は、「友を研く」 ことの大切さを説き、学園は「卒業のない夜学」、「有名にはならない」という校是のもとに、昭和 三十九年から五十五年まで続けられた。市倉先生は設立当初からこの学園に招かれ、月二回、一回三 時間というペースで、キルケゴール、ニーチェ、サルトルなどの講義を行ったと聞いている。 
 こうした研友学園関係者の協力を得て、出版の話がにわかに現実味を帯びてきた。そこでわれわれ 専修大学で教わったゼミ卒業生を中心とする有志が、積極的に残された遺稿の整理(原稿量の調整や 注の整備など)を強力に推し進めることになり、遅ればせながらここに出版の運びとなった。「『特攻 の記録   縁路面に座って』編集委員会」は、こうした経緯のなかで生まれてきたものである。
 後は君たちに頼む、と先生に言われてからずいぶん時間がたってしまった。この本は、結果として 理論的な話はあまり出てこない。また、この本がどれだけ第二次大戦時における日本の特攻隊に関す る議論に資するのかは、いまの時点でははっきりしない。しかし、これをまとめていく過程で、先生 の奥様をはじめとする多くの方々のご協力がなければ、この本は出版されることはなかった。これも また先生のおかげであると思う。そのことを記して本書の「あとがき」としたい。
 
平成三十年夏
   『特攻の記録 縁路面に座って』
 編集委員会 伊吹克己・伊吹裕美・上田美奈子・榎本雅一 小林正敏・鹿野青介・土佐巌人・山野井克巳 (五十音順)


著者略歴
 
 大正十年(一九二一年)横浜市中区生まれ。昭和十四年(一 九三九年)第三高等学校文科丙類入学、昭和十七年(一九 四二年)東京帝国大学文学部倫理学科入学。昭和十八年(一 九四三年)十二月学徒出陣で横須賀第二海兵団(のち武山 海兵団と改称)に入団、昭和十九年(一九四四年)土浦海 軍航空隊入学。その後神ノ池、谷田部海軍航空隊に転勤し、 神風特別攻撃隊昭和隊の待機要員だった昭和二十年(一九 四五年)に終戦を迎える。同年十二月に復学、昭和二十六 年(一九五一年)東京大学大学院を卒業。卒業後同大文学 部倫理学科助手。昭和二十四年(一九四九年)より専修大 学に兼任講師として赴任、昭和三十一年(一九五六年)同 大法学部の専任講師。昭和四十一年(一九六六年)専修大 学文学部創立にともない文学部へ移籍。またこの間、昭和 三十九年(一九六四年)から昭和五十五年(一九八〇年) まで研友学園にて講師として講義を行う。専修大学では図 書館長等を務め、平成四年(一九九二年)同大を定年退職。 平成二十四年(二〇一二年)七月十九日没。専門はフラン ス哲学。著書に『現代フランス思想への誘い   アンチ・オ イディプスのかなたへ』岩波書店(一九八六年)、『ハイデ ガーとサルトルと詩人たち』日本放送出版協会NHKブッ クス(一九九七年)など。翻訳書にジャン・イポリット『ヘー ゲル精神現象学の生成と構造』上下、岩波書店(一九七二 年、一九七三年)、G・ドゥルーズ、F・ガタリ『アンチ・ オイディプス   資本主義と分裂症』河出書房新社(一九八 六年)があり、他に論文多数。

 特攻の記録 縁路面に座って
 二〇一八年八月五日発行
 著者 市倉宏祐

 発行者 株式会社共立アイコム    

 静岡県藤枝市高柳一丁目一七︱二三

 編集者
  『特攻の記録 縁路面に座って』編集委員会代表 伊吹克己    
   神奈川県川崎市多摩区東三田2-1-1    
   専修大学
 
Printed in Japan
〈非売品〉落丁・乱丁本はお取替えいたします。
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#3924 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.177~203 Feb. 6, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅴ.市倉宏佑一人語り 
 (インタビューにもとづく)

 はじめに
 海軍予備学生になった経緯
 海軍予備学生の第十三期
 海軍予備学生の生活
 入隊試験
 飛行機の実地訓練
 戦闘機の訓練
 一九四五年の二月、特攻志願
 終戦から復学まで
 おわりに
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はじめに
 
  私は大正十年八月二十七日に横浜に生まれました。吉田小学校に入学。一クラス五〇人でした。中学は第一中学校。 

 そして、昭和十七年に京都の三高を卒業しました。修学旅行で京都に行ったら、とても感動してしまって、そこで学びたいと思いました。また、当時京都帝国大学の教授であった和辻哲郎先生を尊敬し、私淑していたからです。ぜひその下で学びたいと考えていました。 

 昭和十七年に三高を卒業したといっても、正確にいえば、十七年の九月の卒業です。八月で授業は終わっているので、四、五、六と三ヶ月授業を受けただけで、三年目はやってない。七月は試験、八月は夏休み、十月東京大入学。戦争のために、そういうことになってしまいました。 
 私より一年先に入学した連中は十二月に卒業しています。もちろん、本来なら年を越して三月に卒業ということになっていなければなりません。私は東京大の三年になったら、すぐに卒業になりました。三年生になり、二ヶ月くらいしたら卒業ということで、その年はほとんど勉強はしていません。 
 十七年の十月に入学して、翌年、学徒動員です。大学そのものは十月より前、四月に当然始まっていました。十月に入学して、それでその年度の一年生です。そして、三年生になり、二ヶ月位したら、学徒動員のために卒業になります。

 話を十月の入学時に戻すと、四月に始まっていたその年度の講義で、二一単位を取ると卒業というところを、一七単位を取得しました。しかし、勉強したという感じはしません。京都から東京に来て、つまらなかったのです。私と仲のいい友人が三高から京都大の方に行きました。そのせいもあります。ただ、その彼も一年後に東大に来たので、それからはけっこう楽しくやっていました。そうしたら徴兵令延期廃止になったわけです。そうしたら、もう有無を言わさないね。私より一年上の学年は九月に卒業ということでした。 
 そして二年になったらすぐ、徴兵で。十二月にはもう横須賀に入っていた。だから大学の一年生のとき、まるまる一年と、あと二年生の二ヶ月だけで、なんにも勉強してない。本当になんにもしてなかったんじゃないかな。 
 登校していたんだけど。授業は出ていたんだけど、身を入れて聞いたという記憶はありません。 


 昔の授業は全部ノートをとることになっていました。試験は全部ノートによるわけです。ノートがないと試験は受けられない。それだから、学校に行ったらノートはとってくるというのが、原則です。自分が風邪だろうと、誰かを見つけてきて、その学生のノートを写す。それが大学生活でした。ノートっていうのは、せいぜい一年間で講義して五〇枚ぐらいかな。たいしたもんじゃないですよ。「毎年毎年講義を新しくやるわけで、たいへんでしょう」って言ったら、「いやー、五、六〇枚だから大したことない」って金子武蔵先生も言ってました。 
 普通の先生は全部そうやって、一字一字、読んで書かせる。しかし、和辻先生は喋ってました。だからもっと分かりよかった。
 
 しかし、和辻先生の授業は眼目をぜんぜんとらえられなくて、ノートはいつも真っ白。ところが先生は、本を書いていました。大きな『日本倫理思想史』という本です。それを読めばいいわけで、その方がノートをとるよりずっと楽でした。『倫理学』も大きかったけれども、そっちの方は読んでいました。学校へ行かなくても内容を知っていました。


 海軍予備学生になった経緯
 
 海軍に行くか陸軍に行くか、という選択肢がありました。陸軍については、三高でも、一人が配属将校をぶん殴って首になったし、中学校のときも二〇人くらい、配属将校の授業のときにガラス戸に光を当てたとかいうんで、首になったりして、非常に不愉快な思いを持っていたので、私は海軍を選びました。
 
 三高の事件についていうと、そのときに首になった男というのは、真冬の京都は寒いんですが、配属将校が話しているときに、誰かが横向いてたかなにかしたら、「どうした」って配属将校が言ったんです。「寒かった」って言ったら、「寒いなら裸になれ」って言って裸にされて、そして、立たされたんです。三〇分ほど経ったかな。一年生の男だったね、その男が出て行ってね。「こんなくだらない学校は、俺は辞める。お前のような奴は先生でもない」と。「ぶん殴ってやるから覚悟しろ」と言って、自分の持っている銃で、教練のときに殴りかかりました。さすがにひどく殴るというのではなかったですが。 
 そんなようなことがあって、その人は結局退学になりました。京都は第二師団でしたが、みんなが師団長のところに行って、あんなのは、「あの配属将校が悪いんだ」と。「真冬に三〇分も一時間も立たせるのは良くない」と言いにいったけれども、それでも、「現役の将校をぶん殴ったってことは、やっぱり陸軍が黙ってはいられない」と言う。 
 ところが、本当はそうなるともっと重い罪になるんだけどね、一方で、白昼堂々と陸軍大佐がぶん殴られたというと権威に関わるっていうんでね、おさえようっていう空気があった。それでその男は単なる退学ですんだ。彼は東北大に変わりました。 
 殴ったその男も気が荒い男でした。今でも覚えていますが、彼が東北大を卒業して、東北育英高校という、野球の強い学校に職を得た。そこに私より一期上の奴が、警察署長で赴任していたのですが、すると、いま育英高校の先生が生徒をぶん殴って捕まっている、という報告があった。行ったらそいつ(将校を殴った男)が捕まっていた。署長はすぐ彼を帰したという話があります。


 海軍予備学生の第十三期
 
 予備学生というのは、一言でいうと、学校へ行っているのと同じです。たいへんな訓練だと思っていたら、私ら自身から見ても、大したものじゃないってのがすぐに分かった。 
 海軍は本文にもあるように、人をすぐにぶん殴る。ところが、私らの担当になった教育主任は尾崎紅葉の孫で海軍中佐。ここで学生たちを殴ると、殴った下士官も二ヵ月後には予備学生になる。そうなると位が上になるからぶん殴るに違いないという。そんなことしたら海軍が困るから、絶対殴らないという方針だった。それで私らは助かりました。
 
 訓練は楽なもんです。本当に苦しい訓練というのは受けたことがない。学校ですから、訓練されるほど時間もなかった。海兵団も学校だったけど、海軍のことを色々教えてくれて。歩いてはいけないとか、階段は必ず二段跳びに駆け上がれとか、そんなようなことを教えてくれました。それから土浦のほう、航空隊に行ったときも、もう本当に学校です。訓練なんてたいしたもんじゃなかった。色んなことを、試験をやって成績をつけてね。海軍は成績が好きなんです。成績をつけて。それで四ヶ月。
そのときもたまたま私の分隊長が良くて、ぶん殴らなかった。拓殖大学の人でした。私は班長でしたが、その人に非常に可愛がられていました。色んなことでしくじったり、失敗したりもしましたが、ほとんど見逃してくれていました。 
 だから何の気がかりもなく、最大の関心事は、偵察学生に行くか、操縦学生に行くか、ということでした。飛行機の基礎訓練を四ヶ月やりました。基礎訓練というのは、飛行機のことを色々教えてくれるだけです。乗りはしません。飛行機はどうやって動くのかということを、一から教えられました。
エンジンの説明をされたときも、何を説明しているのか最初はぜんぜん分からなかった。もちろんエンジンの掛け方も知らなかった。
 
 偵察学生ってのは、一年間偵察学校へ行って訓練を受ける。偵察というのはたいへんなんです。たとえば航法というのがあります。海の上に出て、自分が今どこにいるかってことを確定することです。
そして、こっちへ行ったら艦隊がいるとか、こっちに行くと陸地があるとか、そんなことは本当に正確には分かりません。飛行機は、風に流されてどんどんどんどん飛んでいくものです。だから今、風が何メートル吹いているか、どっちに向かうか、それをいつも頭にいれて、そして、自分の地図に書き込んでいくんです。だから、自分の地図を持っています。大きな地図です。太平洋の地図だから、海図なんてものではなくて、普通の地図です。 
 地図のことは、ほとんどチャートって言っていました。地図という言い方はしなかったように思う。


 海軍予備学生の生活
 
 海軍では本当にひどい目にはあわなかった。前にも触れたように、拓大出の分隊長がとても良かった。他はひどいのがいました。年中ぶん殴っているような奴がいました。二、三期上の予備学生が分隊長になっています。九州の奴は年中ぶん殴られていました。メシを食べさせないという罰則などを課していた。うちの隊長は何にもしなかった。 
 偵察についていうと、夜間飛行っていって、本当の夜にはやらないのですが、自分の乗るところに幕をかけて、「どっちへ行く」って、後ろから色々言うんです。それで行く。「どこどこの目的地は」って言う。私はぜんぜんできなかった。気持ち悪くなった。本当に気持ち悪くなる。練習機が地上にもあるわけです。私はわりと真面目だから、その練習機でもやったんだけど、それでも「ブーッ!墜落」って止まってしまう。それでもういやになった。結局、私は戦闘機はうまくないんですよ。上手な人は本当にうまいんだけど。でも私は落ちないように、確実にやっていた。
 
 まあそれでも、無事に、ともかく中練という、中間練習機は終わりました。しかし、戦闘機が一番多く、半数以上が戦闘機なので、けっきょく私は、その後は、そっちの方に入った。私は水上機を志願しました。分隊長が水上機の出身だから、「分隊長もそうなら俺もそうしよう」と思ったからです。
それを志願していたんですが、八〇人もとっているのです。それで、三人呼ばれて、「この中でジャンケンして、一人だけ駄目だけど、二人が水上機に」ということになった。ジャンケンしたら私が負けて、そのことが強く印象に残っています。なんであんなことをするのか、八〇人もとるのに、と思いました。 
 一緒に行ってジャンケンで勝った奴が学生長になりました。学生長なんかにならないほうがいいんです。なっているとね、いいところを見せようと思って特攻隊を真っ先に志願したりします。私なども、気が小さいから、これは真っ先に志願しなきゃいけないな、なんて思います。しかし学生長になったその男は、一橋大学を出て、読売新聞の記者になる男です。彼は心臓が強かった。最後まで特攻隊志願をしませんでした。そういう人もいるんです。
 
 横須賀に入って、横須賀から土浦に行くというのはどういう関係かというと、横須賀ってのは海軍、水兵を訓練するところです。だから、水兵の訓練道具しかない。土浦っていうのは飛行機乗りを訓練するところ。全国から集まってきました。三千人か四千人集まっていました。



 入隊試験
 
 横須賀の第二海兵団に入ってみると、いつも試験をしていました。つまらない試験です。数学の試験とか、電気の試験とか、通信とか。中学校くらいの程度のものです。私は一応、優等生だったから、その試験に出るくらいのことは覚えていました。それでもね、落ちた者が何人かいます。うちの隊は、東大と東北大の隊だったから、落ちた奴は五、六人しかいなかった。中には二〇〇人いて四〇人くらい落ちた隊もいました。土浦に行っても、ほとんど学校へ行ってるみたいなものです。つらいのは、二月の朝六時に裸でもって体操する。これが一番つらかった。それ以外につらいものはなかった。他の隊はみんな裸になって駆け足をさせられていました。うちの隊は、体操していて良かった。隊長は東京大の英文科を出た人です。彼は駆けるのが得意じゃなかったんですね、こっちは寒くて寒くて震えていました。あれだけは一番つらかった。 
 ほとんどあとは試験ですからね、つらいことはなかった。 
 その試験に落ちるとどっかに行っちゃう(笑)。 
 本文にも書いといたけど、軍隊を脱走した人がどこかに行ってしまって分からないように、どこに行ったのか分かりません。消えたらもうそれっきり。どこへ行って何をしているか、全く分からない。
すっと消えちゃう。だから、消えた人たちは何をしていたのか、本当のことは分かりません。後にたまたま状況が知れた人もいるようですが。
 
 土浦でも、授業がいっぱいありました。数学の授業とか、三角測量の授業とか。それは距離を出すためのものです。そういう実践的なものが多かった。一番苦手だったのが、夜間飛行。ぜんぜんできなかった。



 飛行機の実地訓練
 
私は怖がりだから、飛行機なんかちっとも希望していなくて、魚雷艇を希望していました。二〇人くらい乗る艇です。勉強していけば、そこの隊長になれます。二〇人一緒に死ぬんだし、いいやとも思っていました。飛行機、戦闘機は一人です。何をするのも自分一人でしなきゃならないし、それがうまくない。うまくないから、使い物にならないんじゃないかと思うけれども、全く下手というわけでもない。私はまだ並みの学生です。本当に下手な奴がいます。飛行機なんかでも、運動神経の鈍い人が。
 だから、土浦も本当につらい思いはなかったです。分隊長が長話するのが苦しかったってことくらいです。あとは本当に楽なもの。だから、「鉄の訓練」だと、そんなことを言われているけど、ちっとも苦しくなかった、少なくとも私は。まあこんなもんだと向こうも思っていたような気もしますが。 
 とはいえ、殴る分隊長、こういう人に当たった連中は苦労したでしょう。私たちは、なんでも競争なんです。すると、たとえば通信をやると、通信の点が一番悪かったからメシを食わさないとか、そういうことが起こる。なんでも競争で、負けると、練習場を一回まわってこいということになる。そういうことを好きな人がいるのですね。 
 私の場合、駄目だったのは、目、です。モールス信号による通信というのがあります。トツートツーという、あれです。あれは、私はわりとすぐできるようになりました。これは、百字数、毎週やりますが、一字間違えるとマイナス七なのだけど、下手な奴はマイナス二〇〇とか三〇〇とか取ることになる。私はほとんど百点取っていました。これを目でやるのがあります。つまり、光で。光でパッパパッパパッて出るのです。これがぜんぜん分からない。光にあわせてずいぶん考えてね、パパッパパッて音にしてやってみるけれども、もうぜんぜん駄目でした。 
 これも競争でした。うちの隊に、一度にマイナス二〇〇とか三〇〇をとる人がいて、彼がいるためにいつでもうちの隊がビリになっていました。文句を言われてました。分隊長は意地悪なことをしませんでしたが、本人を見ていると、気の毒でした。朝おきたときから、寝るときまで、寝しなの時間まで、トツートツーなんとかってやっていました。音感がないんですね、多分。
音 感がない人というのは、普通クビです。ところが分隊長がね、その男を気に入っていて、それで彼を残して、とうとうその男、土浦の教官になった。戦後その男に会ったら、学術雑誌の編集をやっているんだって言ってました。 
 それでともかく私の場合は、偵察は恐らく駄目だろうっていうので、戦闘機。すでに言ったことですが、私は戦闘機を実は怖がっていました。こんなことできるのかなっていう気持ちでした。



 戦闘機の訓練
 
 六月から戦闘機の一日訓練が始まりました。 
 一日三十分です。だいたい七機ぐらい飛行機があって、一機あたり、七人ぐらいがくっついています。だから一日に七人しか乗れません。午前午後と訓練しますが、午前中に、せいぜい五、六人がいいとこです。三時間ありますが、一人あたりでは三十分くらいしかとれません。三十分では猛訓練とは言えません。
 
 九月にいわゆる「赤とんぼ」による訓練が始まったんですが、私は編隊が下手で、いつも側に寄るって言われてました。側に寄る場合、翼(よく)と翼(よく)の間を一メートルにしなければならない。空中では、ぶつけたほうが死にます。地上ではぶつけたほうが生き残る。私と一緒に乗っていた教官は、水兵でしたが、怖がっていました、私と乗るのを。ちょっと寄ると、操縦桿を放せって言うんで189 ︱ 市倉宏祐一人語りす。だから私は一ヶ月くらい操縦桿を放していました。そうしたらぜんぜん駄目になっちゃって。飛行機は、一メートルでこうずーっと行くんですけど、絶対離れないで翼をちょっと下ろして。
 
 そして一ヵ月後に教官が変わりました。ぜんぜんできない。その教官が、逆にものすごく豪胆な人でね。自分は空を見ていてね、全部、こっちに任してやる。任されると一生懸命になってね。けっこう、一ヶ月くらいたって、「市倉、病気で休んで、ずいぶん下手だったけど上手くなったな」って、言っていました。病気でもなんでもなかったんですが。それで、ともかく人並みになって卒業したのです。
 
 その訓練を卒業すると今度はすぐに戦闘機隊に配属されました。十月です。 
 場所は茨城県の神ノ池っていう、銚子の先の、何にもない原っぱです。神之池という池がある 注71 。そこの戦闘機隊に入った。そこへ行ったら、海兵の連中がいました。そこは、出来たばかりの飛行場で格納庫がない。だから、ゼロ戦が雨ざらしになっている。雨ざらしになっているものだから、年中故障を起こす。故障をすると、それを直している時間は、訓練できない。それで、前の海兵の連中が、訓練時間が足りないって言って一ヶ月、余計にすることになった。お前たちは︱私らね︱、後から来た奴らは一ヶ月待っておけ、飛行機がないから待っておけ、そう言われて一ヶ月遅れるんです。それで、海兵は一ヶ月遅れて、卒業するのですが、私らは、一ヶ月遅れて始まる。戦闘機訓練が始まるんですが、そうしたら二ヶ月目に、燃料が無くなったから、これから二ヶ月以内に卒業課程のものは訓練続行、三ヶ月かかるものは訓練停止ということになった。私はちょうど三ヶ月かかることになった。海兵のおかげで休んだために。それで私らは訓練停止になって。それからずーっと八月まで訓練停止です。敗戦まで。


 一九四五年の二月、特攻志願
 
 ともかく、飛行機があるけれども、燃料がないので何もしていません。そしたら、翌年の二月、集合がかかった。特攻隊の募集でした。それは新聞に書いたとおりですけど。あれをうまく逃れたのが、生き延びた理由だね、後から考えてみると。
 
 訓練停止になって、何をしていたかというと、飛行機のエプロンと呼ばれるところがあります。格納庫の前にコンクリートがしきつめてあって、そこへ出てみんな飛行機を直すんです。そのエプロンが敵の飛行機から見えると目標になるのです、真っ白いから。それをぶち壊す作業をしました。これは苦しかった。大きなハンマーでもって壊すのですが、ハンマーでたたくと、もう本当に頭の芯までジーンとしました。 
 そして、芝生を植え替える作業。 
 それから、飛行場のところに、敵の飛行機が来るだろうからって言って、防空壕を作れと言われました。防空壕っていうのは、大きなヒューム管です。それを、一〇人ぐらいで押してくんですよ。腕立て伏せを何十回とやっているのと同じです。これは、ものすごく苦しい。そういう仕事をやっていましたね。
 
 そうこうしているうちに、特攻隊の志願ということになった。昭和二十年の一月のはじめです。 
 これは、新聞にも書いたけど、「熱望」と「望」、「否」という具合になっていた。どれかを書いて提出しろ、というわけです。言われたときには、突然部屋が真っ暗になったように感じました。そう感じたのです。これは本当に考えた。あのときは本当に考えた。「熱望」と「望」のいずれかを書くとしか考えなかった。何故かと言われても、国のために志願するという積極的な動機はありません。けれども、なんていうことなしにね、そんなに愛国の士でもないし、だけどもまあ、国のために死んでいいと思っていました。それでも自ら進んで志願するほどのものじゃなかったけど。一方では自分だけ生き残ったらもう、えらいみっともないという気があって。いや、やっぱりこれは行かなきゃいけないかなという気持ちもありました。 
 そしてともかく、「熱望」と、最後は書きました。
 
 優等生の習いで、子どもの時から、いい格好しようとしているんだね。いい格好してみたいという気持ちが、やっぱりああいうものを書かせるんですね。堂々たる人はみんな、「望」と書いている。「熱望」って書いた人はたいへん少なかったということを、その頃知り合った人が、後から言っていました。だからいい塩梅に助かったんでしょうけれど。待っている期間はつらかったね、本当に。 
 後から知ったことを言い添えておくと、ほとんどの人が「望」と書いたわけですが、「否」と書いた人も少数いたようです。でも、そういう人は何も言いません。「他の業務を望む」と書いた人もいたとも聞きました。逆に、「大熱望」とか「熱熱望」と書いていたり、さらにはぜひ特攻に行かせてくれとわざわざ直訴に行った人もいたようです。二〇〇名ほどの私のクラスで、「熱望」と書いた人は三〇名ほど、そのうちの二七、八名は実際に特攻で死んでいます。 
 くり返しますが、私が「熱望」と書いたのは、国を救うとか、敵をやっつけるとか、そういう意識はあまりなく、小学校以来の優等生という呪縛から遁れられず、そのために、それを維持するために「熱望」と書いたと思っています。それは、何故この本を書いたのか、という理由にも通じますが、そもそも動員前に大学にいて勉強をしていたとき、戦争のことなど考えたこともありませんでした。在学中に徴兵検査で身体検査も受けましたが、それでも何も考えていませんでした。私だけがそうだということではないと思います。本文でも書きましたが、海軍にもそういう閉鎖的なムラ社会的なところがありましたし、結局、日本の社会というのがそういう具合になっているのだと考えています。もちろん、私が勉強していた東大もそうでした。 
 特攻は殺人です。特攻機はもはや武器ではありません。戦争は勝つために知恵を絞る、死力を尽くして行うものだと思いますが、そういうことが少しも考えられていませんでした。当時の、私が所属した海軍では。効果の全く考えられていない戦術に組み込まれたことが、とても悔しいことだと思っています。こういうことができたというのが残念なことです。
 
 話を戻しますと、志願書を提出したあと、特攻に出なさいという連絡がいつ来るのかというと、上官から次から次にという感じで「今度何名来い!」と言われる。それで連れていかれる。一ヶ月ごとくらいに、「今度は誰々、誰々、来い」って二〇人くらい連れてかれてしまう。それでまた一ヶ月経つと、「誰々、誰々、来い」と命令が来る。最初のうちは桜の木の枝を持たされるなど儀式めいたこともありましたが、だんだんそれもなくなっていくのが寂しかった。夕方頃に上官が私たちのいる部屋にやってきて、名前を呼ぶだけ。四月頃からは、「熱望」や「望」と書いた志願書に関係なく名前を呼ばれていました。 
 はじめは、戦闘機隊だとかなんとか言われ、二〇人ぐらい行ったと思ったらすぐ特攻隊に変わったとか言われていました。それから今度、「爆弾」に乗るのですね。飛行機の下に爆弾が付いていて、そこに乗るわけです。それが「桜花」という特攻機です。それに二〇人ぐらい行きましたね。
 
 私らは、最後に三〇人ぐらい残りました。朝鮮北部の元山航空隊に飛行機があるというので、あそこへ行って特攻訓練をやるというような話でした。八月半ば過ぎにそうなるということでした。待っている間、私は本当に何もしてないのです。遊んでいました。そのうちにこんなことをしているのが馬鹿馬鹿しくなってくるんだな。監督官がいないんですから。だから、私は農場に行って、練習生と一緒に芋を作っていました。それが一番楽しかったね。四十歳ぐらいの、下士官のおじさんがついていてくれて。その人は非常に温厚な人だった。お寺にいたんですけど、そこがとても良かったと思いましたね。一ヶ月くらいいたかなあ。戦後、訪ねてみましたが。

 終戦から復学まで
 
 玉音放送は聞いていません。 
 私らはね、隊にいないわけです。農場にいるわけだ。飛行機がなくて練習もできないので、名前が呼ばれて特攻が決まった連中は北海道の千歳にいって、特攻のための訓練をするということでした。私は谷田部航空隊から農耕隊の隊長として芋を作っていました。昼休みは二時間昼寝です。昼は、私は「二時間昼寝」って言って寺へ戻ってきて、寝ていました。そうすると、八月十五日は玉音放送が終わっていたんです。寺の坊主が出てきてね、「市倉さん、戦争は終わりましたよ」って言われた。さすがに私はどうしていいか分からなかったね。どうしたらいいのだろうって思った。他の隊はみんな集まってその放送を聞いているわけだ。農場で芋を作っていた私らはみんな昼寝。隊とは二里ぐらい離れています。それでもすぐ自転車に乗って、農場に行き、「総員集まれ」って号令をかけた。「いま戦争は負けた」と言いました。練習生はみんな泣きました。涙をこぼしていました。本当に、純真です。 
 私はどうしていいか分からなかった。どうしたらいいのだろうって思った。 
 そのうちに厚木航空隊とか、何かやろうという連中が次から次へと来るのです。そして、「今こそ決起せよ」って言う。決起しろ、と言われても、彼らは戦闘機隊で決起して戦うということらしいけれども、そんなのはおかしいじゃないかと、あのとき思いました。 
 それから、士官が全部集まって会議が始まりました。「我々はこれからどうするか」というのが議題です。こういうときはやっぱり堂々たる態度の人がいる。「天皇は負けたというけど、天皇は絶対だから敗北は無い、だから我々は行かなきゃいけない」というようなことを海兵の連中が言ったとき、予備学生が、「いや、天皇が絶対なのは日本の国内だけだ。戦争は外国とやっている。外国と日本との間には絶対はない」と言う。「だから天皇は絶対でなくて負けるのは当たり前なのだ」と反論した。海兵の人は一言も反論できませんでした。そのような、落ち着いて議論で打ち負かすことのできる人が、こういうときでもいるんですね。
 
 特攻志願のときも同じようなことがあって、志願書を提出して帰ってきたら、今でもよく覚えていますが、同室にいい加減な男がいて、その男に「何て書いた?」と聞くと、「望」だって答えた。すると、一人、「熱望」と書いたという男が、「しまった…!」って言ってね、ベッドの周りを回り出しました。三十回くらい回って、「自分がそう書けば良かった。「望」を書きたかった」って言いながら。そんな具合に、本当に自分の気持ちで動ける、堂々たる人もいるのですね。もう一人の同僚は︱「望」って書いた男ですが、インチキな奴でした。年がら年中サボっているような人でしたが、堂々と「望だ」って言っていました。だからやっぱり、人間は分からないもんですね。
  「否」と書いた人について言えば、その人は、自分が「否」と書いたなんて絶対言わない。だけど、 たまたま彼と私が会ったときに尋ねたら、「否」と書いたと答えました。「自分は母親が年取っているから、嫌だ」という理由も言っていました。私は感動しました。私の母親も年取っていましたけれど、書けませんでしたから。だから、そういう人がいるんだな、大したものだなって思いました。だから、人間的な迫力というのかな、そういったものがあるんじゃないかな。
 
 要するに、重大な状況にあっても堂々たる議論ができる人がいるわけです。「みんな決起するんだから、お前もそれに志願すると書け」って言われたときに、「自分は天皇陛下の命令でここに来た。その天皇陛下がやめるって言っているんだから、私はやめます」と言って、サッと帰っちゃうとか、そういう人がいるんです。立派な人です。私なんかは、「どうしよう、どうしよう」とか言っているだけでしたから。 
 それから、自決のことでいうと、副長だった人が、「我々の自決の問題をどうする」とみんなに聞く。その人は普段予備学生なんて相手にしてないんですよ。みんなが集まってきたときに、予備学生相手に自決のときだけ「どうするか」なんて聞いてくるような人がいましたねえ。
 
 とにかく、八月十五日のあとは、連日、そういった会議ですよ。そういう連中が集まって。最初の日に自決の問題が出たんですが、私は「こんなことで付き合っているのは俺の使命じゃない」と思った。「自分は練習生を農場に置いていて不安だから帰ります」と言って、そこから抜け出して、練習生のところに戻った。そしたら、兵隊が酒に酔っ払って帰ってくるところに出くわしました。私が遅く帰ってきているってことも知らないで、酔っ払っていた農業指導とかいう上等兵が二人いたんです。三十歳ぐらいの人です。私は知らなかったけれども、その二人は毎晩酒を飲んでいたんですね。私が人をぶん殴ったのは、そのときが初めてです。二人がほろ酔い加減で出てきて、「何やっているんだ」って言った。こういう場合は、本当はいつも農場まで駆け足なんですよ。農場まで二里もあるのに、こんな連中と駆けられもしないし、どうしようかな、と思った。結局ね、これはぶん殴るしかないと思って。ともかく二人を、一発ずつぶん殴った。初めてのことでした。終戦の日です。そういうことがありました。あの二人がどうなったか分からないけども。
 
 そのお寺に、戦後、行ってみたことがあります。茨城大学に講義に行ったときです。坊さんも、奥さんも、息子さんも、みんな死んじゃっていました。新しい養子さんが入って代が変わっていた。世の中ってのはやっぱり浮き沈みが激しいもんだって思いました。私はお線香だけあげて、帰ってきました。「戦争中はご苦労されたそうですね」と向こうの人に言われました。 
 なんか世の中ってのはそんなもんですね。
 
 八月十六日はともかくそこにいました。十七日はもう、ここにいたら自決の何やらに巻き込まれる、こんなところにいてもしょうがないと思って、それで帰っちゃった。帰ったっきり、本隊にはもう行かなかった。 
 そしたら、その翌日、鹿島灘に敵の軍艦が三〇隻出たとかいって、特攻機の出動騒ぎがあって、飛行機が三〇機用意され、プロペラまでかけていたことがあったらしいんですね。私は知らなかった。そうしたらその翌日、それが要するに誤報だと分かった。その翌日です、全員引き上げで、練習生も全部土浦に帰ることになった。私らも一緒に帰る。それで帰ってきましたね。 
 八月二十二日に私は横浜の家に帰りました。階級章を見せると、車に乗せてくれましたし、列車にも優先的に乗れたので一日で帰ることができました。その後、すぐ親の出身地である岐阜県の加子母(かしも)村に行きました 注72
 
 加子母村ってのはね、岐阜県の山の中で、天皇の御料林があるところです 11 注 。そこが私のふるさとなんです。日本で一番広い村じゃないかな、ほとんど林だけど。戦争前にそこに行って厄介になったものだから、そこに三ヶ月いました。何にもしないで。私はね、本文にも書きましたが、そのときはなんか馬鹿馬鹿しいって感じが非常に強くて。一生懸命やって、みんな死んだりして、だけど終わったらそれっきり、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるかと思いました。そういう気持ちが非常に強かった。それで、だから「もう大学なんか辞めよう」と思った。そしてこの村へ戻って、村の小学校の先生でもやって、一生過ごそうと思った。三ヶ月ぐらいいました。来年の四月から先生にしてくれないかって言って、頼みました。そしたら、母屋の当主というのがいるのですが、何でも威張っているその人に呼ばれてね。「そんなことで若いのにどうする」とか言われたし、三高の友達が手紙をよこして、「何を言ってるんだ、もうみんな今帰ってきて一生懸命勉強している」。特にそいつは経済学部で、経済学部はマルクスが帰ってくるわけですよね、だから非常に張り切っている。そんなもんだから、
もうみんな張り切って勉強している。「お前みたいに寝言を言ってる奴はいないから、すぐ帰って来い」というような内容です。それで私は一月頃だったかな、東大に帰って和辻先生にご挨拶したら、「無事に帰ってきたか」なんて言われて。
 
 前に言ったように、特攻の志願があったとき、ずいぶん真剣になって考えていました。一ヶ月くらい呼び出しが来ない。来ると、呼び出された連中が行ってしまう。また一ヶ月くらい来ない。そうすると、だんだんね、気がのんびりとしてくるんですね。だんだん平気になってくる。「そのうち当たれば行くだけだ」というような、いい加減な気持ちになってくる。何て言うのか、日常的にも、特攻がどうなるなんてことも考えなくなってくる。「いや、この芋はこっちに植えよう」とか、そういうようなことの方に気が向いてくる。だから、特攻で本当に真剣になって、「行ったらどうなるかな」っていって考えていたのは、一ヶ月か二ヶ月です。まあ本当は一ヶ月くらいだろうね。
 
 それから、喋らない。特攻に当たった者もぜんぜん喋らない。どういうつもりで行くとか、そういうことをこっちも聞かない。聞けないし、喋れないのだろうと思うけれども、なんかあれは寂しい気持ちでしたね。当たると一ヶ月、特攻の訓練をして、九州の最先端にある鹿屋航空基地に行って、そして向こうが出てくるのを待ってるんですよ。
 
 しかし、私らゼロ戦なんだけど、だんだんゼロ戦が無くなってきてね。「赤とんぼ」とかの練習機とかね、それから下駄履きの水上機とかね、そういうのが行くんです。すると、そんなものはすぐ落とされてしまう。だからゼロ戦はなかなか貴重な爆弾になってくるわけです。それでね、六、七人かな、最後まで特攻に行かなかった人もいます。 
 そういった人は、四月に行って、続々と出ていく中で、八月まで居残って行かなかった。そんな人がいるんですよ、六人くらい。運ですね。どう見たってね、特攻なんて有効な攻撃だとは思わないし、どんどん飛行機は無くなる、搭乗員は無くなる、大した効果はあがらない。
  「何故こんなことを続けるのか」って、今でこそ思いますが、そのときはぜんぜん思わなかった。ただ、 「死ねばいいんだ」っていうようなつもりだけ。参謀はどうだったんでしょうかね。
 
 昭和二十一年の一月に復学ですが、そのときも復学するつもりは無かったけども、ともかく東京にふらりと出ていって、研究室に寄ったら、先生が「帰ってきたか」って言って復学せざるを得なくなって(笑)。大学では、勉強しなかった。
 
 二年の二ヶ月目に学徒動員で、そして一年八ヶ月戦争に行っていたんです。何年生で復学になったか分からない。大学にあと二年間くらいいましたよ。
 
 大学院というのも、今と違ってね、「大学院に入ります」って言って、届けを出せばそれで入ったことになる。そして、授業も何にもない。一年にいっぺん、三〇ページ、レポートを出す。そして、何年目かに博士論文を出すという。それが、博士の課程。それは、オックスフォード、ケンブリッジの課程です。それが戦後アメリカの制度が入ってきて、授業までやったりするようになった。
 
 東大も、だからそんな形式で、何の義務も何にもないんです。月謝は三〇〇円。高いです。私が戦争から帰ってきたとき、月謝が一〇円だったから。だから、もう本当に高かった。


 十三期と十四期
 
 学徒動員があって、私らは十四期ということになります。この十四期は、二ヶ月間、二等兵をやっています。私らが予備学生になるには、二ヶ月たって、十三期の四ヶ月後に我々は土浦に入るんですね。十三期の連中とはあまり会っていません。十三期が出てすぐ十四期だから、まだ教官にもなってないしね。だからあんまり会ってない。十四期の私らが一番会っているのが海兵で、たまたまなんか青島にいて、海兵にものすごくぶん殴られた十三期が、たまたまその次に来た十四期をものすごくぶん殴ったっていうのだけが、十三期が勲功を果たした事件じゃないかと思う。 
 ろくでもない連中だと思いました。私も、ぶん殴られたことがあります。私は霞ヶ浦航空隊でね、歩いていたらね、ある大学の教授の息子だったけど。なんか心安く話しかけてくるから、こっちもいい気になって応じていました。私らは防空壕を調べに行っていたんです。で、一緒についていくと、最後は彼の寝室みたいなところに連れ込まれて。裸でふんどし一丁みたいな奴が出てきました。次から次に出てきて、我々二人をぶん殴っていった。これが十三期かっていう気持ちでした。なんで殴られたか分かんない。私は本当に怒った。私は軍刀を持っていましたから、よっぽどこいつら脅かしてやろうかと思ったくらい。ひどい連中でした。あの人たちは。 
 十三期に入った人は、高等専門学校を卒業した人と、大学を卒業した人です。高等専門学校を卒業した人っていうのは︱もう俺らは高等専門学校を卒業しているわけだからね、私らより年下です。師範学校の人とかね、新しく高等専門学校になった人とか、そういう人たちがいました。それから、日大が五〇〇人かな、早稲田大が五〇〇人というのが十三期だって言われています。本当かどうかは分からない。十四期は、東大が五〇〇人、早稲田大が五〇〇人って言われています。ただ十三期はみんな元気が良かった。それで、「自分たちは志願で来た」と自慢して、「お前らは徴兵で来やがって、なんだ」って言ってぶん殴るんです。
 
 確かに十三期は志願です、一応。卒業生を対象に、海軍が募集して、志願があって、全部身元を調べています。十四期は全部一律に、兵隊として採ったわけでね。だから、教練が丙の奴は落とすとか、そういうようなことをしていたようです。
 
 十三期から急に人が多くなる。十三期、十四期はめちゃくちゃに多い。一万人です。だから、十四期もそうだけど、玉石混交でした。 
 飛行予備学生というのは、昔はなかなか採りませんでした。色々詳しく身元調査かなんかをして、本当に少ない人数しか採らなかったんです。それをここでごっそり採るようになって。何て言うかな、予備学生って制度は私たちにとっては楽だったけども、それが、飛行学生、海兵の学生には気に喰わなかったようです。急に、すぐ来て少尉待遇になるわけですから。だから、つまらないことだと思うけど、海軍兵学校が特別優れた学校だって思っているんだね。それがともかく、根にあったわけです。
 
 私は志願して十三期に入ろうという気は毛頭なかった。それはもう、十三期の駆け足っていうのは威勢がいい。十四期は…。そのくらい違うんです。  
 私は、わりと何でも一生懸命やる方です。でも、先頭に立って何とかっていうようなことは、あんまりしない。たまたま土浦では班長になっていたもんだから、そういうことはありましたが。



 おわりに
 
 私自身が本当に考えて、これは書かなければいけないかと思ったのが、この本です。これまで特攻のことについては話したことがない。たまたま機会があって書いてみた。これでいいのかどうか分からないけども。 
 指揮官が自分たちだけ行かないのはけしからんじゃないか、ってことを書いた。まだ陸軍は、指揮官が先頭で行くんです。ところが海軍は、ちょっと転任してくるとすぐに人を集めて特攻隊です。ひどい扱いです。爆弾同様です。海軍というのは、そういうところでした。もちろん立派な人はいた。たとえば駆逐艦なんかに乗った人は、一糸乱れず敵の空爆を逃れて、生きて帰ってきたって人がいたりします。それから下士官が、本当に優秀でした。機械みたいに動いて。で、士官というのは本当に駄目でした。だから、なんていうのかね、海軍は負けるべくして……。

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注 71  茨城県鹿嶋市と神栖市にまたがって存在していた神ノ池海軍航空隊のことと思われる。神之池 という池が現存する。
注 72  二〇〇五年編入合併し、現在は中津川市加子母となっている。
注 73  昭和二十一年四月一日、御料林は国有林に一元化された(アジア歴史資料センターHP参照)。     加子母の地域面積の約九三%を占める山林では、伊勢神宮の式年遷宮御用材をはじめ、法隆寺 金堂、姫路城、銀閣寺などの修復用材、名古屋城本丸御殿の復元などに使われる「東濃ひのき」 が育てられている(加子母森林組合HP参照)。
=====================

<ebisuコメント>
 この本を書いた動機は、先生自身が「終わりに」のところで明快に述べておられるので、付け加えるべきことはない。
 あとは編集委員会のみなさんによるあとがきを紹介するだけである。
 アップし終えて、たまたまいま生徒たちと読んでいる本について蛇足と思いつつしたためる。市倉先生が育った加子母村は伊勢神宮の式年遷宮や法隆寺金堂の修復に使われる用材を産出できるほど優良な山林が93%を占めているという。いま、法隆寺宮大工最後の棟梁西岡常一氏とその弟子小川三夫の本『木のいのち 木のこころ』(新潮文庫)を音読トレーニング授業で生徒と一緒に読んでいる。宮岡棟梁が法隆寺修復に使った木材のなかに市倉先生の生まれ故郷の良質の檜材が使われている。西岡棟梁が加子母村の山林を実際に見て、どの部分に使うか一つ一つ吟味したはず。
 旧制三高時代に和辻哲郎に私淑した経緯には、その思想に興味が湧いただけでなく、『古寺巡礼』にも先生は深い感銘を受けたのではないだろうか。
 先生が学徒出陣するときの「出征旗」には東大総長の署名とともに和辻哲郎の署名も見える。繰り上げ卒業での東大からの学徒出陣だった、和辻哲郎は指導教授だったのだろうか。
 学部のゼミの合宿のおりに、「数年専修大学で教えていてもらいたい、いずれ東大へ戻すから、そういう約束だった」と笑って話されたことがあった。どういう手違いか、母校の東大へ戻れなくなったようだ。そのお陰でわたしたちは、市倉先生の薫陶を受けることができたのである、まことに運がよかった。(笑)
 




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#3923 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.168~176 Feb. 6, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]


本欄の左にあるカテゴリー・リストにある「0. 特攻の記録 縁路面に座って」を左クリックすれば、このシリーズ記事が並んで表示されます。
(アンダーラインはebisuが引きました)

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Ⅳ-25 .驕り
Ⅳ-26 .自己矛盾、自己崩壊
Ⅳ-27 .海兵温存
Ⅳ-28 .海軍の栄光と敗北
Ⅳ-29 .これでは、本当の意味で戦争は戦えないのではないか。NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」
Ⅳ-30.問われなかった〈問い〉。特攻の意味
Ⅳ-31 .誓子、命令者、芭蕉
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Ⅳ-25 .驕り
 
  明治の近代国家は、天皇崇明治の崇敬を利用するあまり、人間の天皇をほんものの神として扱い、出発原点そのものに虚偽を導入することになったが、本当のものでない権威に頼り、その奢りの中に崩壊したわけなのだ。無理があったわけである。偽の権威の自己崩壊はおのずからなる運命であった

Ⅳ-26 .自己矛盾、自己崩壊
 
 これはまた、この国家が思い上がって、当然の自己崩壊に陥ったことである。思い上がれば、権威ぶって他者を見下す。が、この見下しは、他人が存在して初めて有効なものである。つまり、他人に依存して成立している。となれば、他者を無視する思い上がりは、自己矛盾を起こして崩壊するよりほかはない。
 現実の中にあって、現実を見極めないことも同じ事態を導くであろう軍令部は、現実の日々の敗戦の意味を実質的には自覚していなかったのではないか。だから、特攻で勝てると思っていたのであろうか。しかし、その場しのぎに特攻を強行していたような気がしてならない。現実を見極める自覚なしということだけでは、事は片付けるべきことではないような気がする。

Ⅳ-27 .海兵温存
 
 海軍は最後まで海兵出身者の部落社会にとどまり、余所者を排除する〈ムラ社会特有の仲間意識〉を克服できなかった。 
 こんな話が思い合わされる。先にすでに触れたことであるが、予備学生の目から見ると、特攻初戦の頃は海兵の搭乗員も少しは出ていたが、沖縄戦頃からは、特別攻撃隊員はほとんど予備学生と予科練である。時に一、二機海兵士官機が入っているが、時々でしかない。海軍当局は海兵を特攻にあまり起用していない。 
 先に土田祐治が、海兵温存の千歳空の司令の言葉に異論を提起したことは触れた(Ⅲ︱7.参照)。そのときの司令の言葉が一切を説明しているような気がする。司令は、海兵は温存して最後の戦いに出すのだということであった(当時、土田が敗戦後のことに触れたとすれば、大した見識である)。 
 が、「最後まで温存」というのは、裏からいえば、それまでは勝てないということであるともいえる(といって、海兵海軍は日本の敗戦などということを考えにも入れているとは全く思えない)。となれば、特攻が海兵以外の要員となるのは当然である。が、じっさいには、こうした点の自覚もなかったのかもしれない。 
 海兵温存の意図は、宇垣纒の『戦藻録』にも気配が見えると須崎勝彌も洩らしている 注67 。この意図は、恐らく海軍全体(つまり、海兵全体)の暗黙の了解であったのであろう。もちろん、全員の共通した暗黙の協力なくして、戦争の勝利など存在しえない。にもかかわらず、〈特攻作戦〉にしても、ムラ社会軍令部の一部の人間がその意味を十分に考えもせず、思いつきに発案し目先の戦果に気をとられて、非人間的な作戦を強行することになったわけなのであろう。特攻作戦の強行は、海兵海軍の組織の中核をなすものが〈ムラ社会特有の仲間意識〉であったことと、無縁ではあるまい

Ⅳ-28 .海軍の栄光と敗北
 
 いずれにしろ、海軍においては、本来の貴族が次第に力を失い、貴族主義者  注68 に追いこされ追い抜かれて崩壊していったといってもいい。貴族が、貴族らしくなく生き残って、ついに自己崩壊に陥ったということであろうか。 
 精兵の面からいえば、残念にも精兵そのものが、素直に特攻を受け容れて、精兵自身の不幸なる自滅に繋がっていったというべきであろうか。 
 海軍の編み出した特攻戦術は近代日本の〈栄光と頽廃〉を象徴している。〈祖国に殉ずる何千もの若者の純情〉と〈平然と死地へ送った軍令部の頽廃〉とは裏腹の関係にあり、帝国海軍のおのずからこれでは、本当の意味で戦争は戦えないのではないか。NHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」なる自己崩壊を垣間見さしている感がある。 
 何ということなしに、陸軍の大平、穴沢両少尉のことが思い出されてならない 注69 。両少尉は、同じく功なき作戦に出撃し、限りなく女性に思いを残して特攻死したが、自己崩壊でしかない空しい瞬間を一瞬おしとどめて、むしろ自己執着の静かな光の中に佇んでいるかに見える。


Ⅳ-29 .これでは、本当の意味で戦争は戦えないのではないか。NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」
 
 たまたま、平成二十一年八月九日から十一日まで三回に亘って、「昭和五十五年から始まった海軍反省会 注70 」という内容で、NHKが海軍内部の談話記録によって三つほどの主題に即して作成した番組を見た。どれだけ真相に近いか定かではないが、前述の〈ムラの論理〉に関係のある点も少なからずあったので少し触れておく。 
 九日放送の主題は、軍令部が海軍部内の覇権をどのように確立していったのか。国際関係、国内問題、また陸軍との関係のことなどは二の次三の次にして、軍令部の眼は一方的に海軍部内の軍令部の地位を確立することにおかれていた状況が取りあげられていた。海兵ムラの中心組織が巧みに方針を管理して、事態を成功に導いた状況が取りあげられた。 
 十日放送の主題は、「やましき沈黙」として特攻作戦の採用がいかにして行われたかであったが、質問があっても当該関係者が言葉を濁して語らなかった事態が多く報告された軍令部の中で誰が特攻を推進したか。問題を提起する人はいても、その掌にいた人間は皆、誰もはっきり語らないか、口を閉ざす。まさにムラのみんなが負うべきと考えているのであろうか。NHKはこれを「やましき沈黙」と呼んでいた。推進したのは誰だか、一向に分からない。まさにムラの論理というほかはない。 
 十一日放送の主題は、東京裁判における二人のA級海軍戦犯を死刑にしない措置を成功させる作業であった。陸軍のA級戦犯は六人が死刑にされた。海軍戦犯二人の場合は、海軍潜水艦が撃沈した船舶の乗員たちを助けなかった、あるいは射殺したことが、軍令部の命令であったことが判明すれば、二人とも罪に関わりがあり、死刑とされるところであった。 
 軍令部のメンバーは多く第二復員省に集中残留就職し、沈没後の商船員の殺戮を軍令部が命令した資料を提出せず、軍令部はそんな命令を出していないと証言し通した。軍令部命令なら、確実にA級戦犯容疑者は死刑になるはずであった。が、これが否定されたため、二人の容疑者は死刑にならず懲役刑で、平和条約締結後に釈放された。 
 ところが、そのため中間指揮官(潜水艦艦長、あるいは艦員たち)が戦犯に問われることになった。中には中間指揮官たる艦長が、BC級戦犯法廷で、覚悟の上で、みずからが下してもいない命令をあえて認めて処刑された場合もあったようである。このため、他の艦員たちは無罪になったとのことである。艦長が認めない場合はどうなったかは、放送されなかった。 
 何かしら日本古来の武士道にはそぐわないように思われるが、裁判はこうした形で行われたとのことである。これと関係あるや否やは不明であるが、我々も海軍にいた間に武士道の精神が語られたことは全くなかったような気がする
 ところが、陸軍には次のような話が残っている。先にも触れたが、戦時中、撃墜されたB 29 の搭乗員が、落下傘にて降下中、日本の三機の戦闘機に見つかったが、戦闘機は次々に去ってゆき、最後の戦闘機の搭乗員は、操縦席から彼に挙手の敬礼をして去っていったという。この陸軍の搭乗者は日ごろから「降下中の敵兵を攻撃してはならない。日本には武士道があり、西洋には騎士道がある」と教育されていたという(横尾良男「海軍十四期」第三四号一二頁)。
 

Ⅳ-
30.問われなかった〈問い〉。特攻の意味
  

 多くのこの搭乗員たちの心には、「特攻の意味」という、大事な〈問い〉が全く欠けていたような気がする
  「この特攻で本当に戦争に勝つことができるのか
  「この特攻で、どれだけの戦果が挙がり、それがどれだけの損害を米軍に与え、彼我の戦力のバラ ンスを崩すことができるのか」 
 これらの問いは、少なくとも、私個人には一度も到来したことがない。自分の生死が問題でありながら、この特攻の成果がどんなものかの観点は全く欠けていた。「特攻によって必ず日本は救われる」。
我ながら、愚かにもというか、不用意にもというか、参謀の言葉をそのまま信じきっていたというほかはない。当時の我々はそれほど無知であったわけなのだ。 
 もっとも、この点は、我々だけでなく、参謀もじつは我々と同様、同じ疑問に気づかなかったのかもしれない。つまり、彼らも我々並みの見識しかもたなかったのかもしれない。 
 が、もともと本来からいえば、相反は一体であり、迷悟もまた絶えず然りである。そして、このことがまた迷悟を超えることにも通じていた。迷悟のいずれかに平然と従うことが、当時の日本の逃れられない悲しい運命であったのかもしれない



Ⅳ-31 .誓子、命令者、芭蕉
 
 若くして南海の海に消えた友人たちへ、長く生き残してもらったものの感慨を少しでも伝えておきたい。 
 誓子の句は出撃者の思いを何一つ考えていない。それでいて、この句は哀れな若者を叙述して余す所がない。〈悼む〉といってもいい。が、〈悼む〉とは何か。人の死を悲しみ、惜しむことであろう。しかし、誓子はもともと、征く人のことも考えていない。自分は何もしていない、何も考えていない。彼には、〈悲しむ〉心が動いていない。〈惜しむ〉心情も欠けている。それでいて、〈悼む〉という情感を捉えたということであろうか。やはり名句なのであろう。 
 特攻命令者は特別攻撃の〈いさおし〉しか考えていない。死んでいってくれたものに対する評価はあるであろう。が、心情を込めた〈悲しむ〉〈惜しむ〉は欠けている。つまり、〈人間の情感〉が。大西滝治郎がみずから「外道」と居直った精神をそっくり受け継いでいる。大西の心情を忠実に継いだということであろうか。  
 ただ、誓子には〈悲しむ〉〈惜しむ〉はないが、〈労り〉がある。が、特攻者の奥の心情が捉えられていない。芭蕉の鑑真に対する尊敬と感謝の気持ちが認められないやはり、歴史の観点から特攻の事実の意味を見極める深さが感じられない。やはり、「若葉して御目の雫拭はばや」といった気持ちの深さが。 
 死を前提とした特攻戦術など、まともな世界のどの戦争にも存在しなかった。太平洋戦争における日本の特攻作戦はどこか狂っていた。この反論に、「ほかに何が出来たのか」などと再反論していた当時の中堅海兵将校がいた(参照奥宮正武『海軍特別攻撃隊』)。 
 しかし、自分が死を賭して、天皇あるいは軍令部に上訴し、現状から降伏のやむなきを主張するなど、特攻員のように死を決すれば、方法が全くなかったなどとは言いきれなかったのではないか。自分が生き残ろうとすれば、別であろうが。
 今後こうした作戦が問題になったときには、なによりも発想発案し、賛成主張した人物が真っ先に一番機に搭乗することにしておくことが望ましい。自分は後方にいて、部下だけを死地に送る人物が我が国の歴史に二度と現れないように自戒して欲しい。 
 陸軍士官学校のことは知らないが、海軍兵学校では、「そんなヤワな教育はしていない」と称して、自分が先に死ぬことを斥ける言辞が行われていたようである(岡村基春、大西滝治郎)が、初めはそうでなかったのであろう。が、後の方では上位のものが生き残る論理に使われている。 
 日本に軍隊がこれからも存続するのであれば、そうした論理が防衛大学校のような軍の学校では用いられないように注意すべきではなかろうか。 
 特攻死した戦死者を記念することは大切なことであるが、逆にその施設に特攻隊を推進し強行した方の人々のことが何も伝えられていないことは残念である海兵教育の欠陥(恐らく古今の古典を読む教育など行われなかったのであろう)から、教養のない人はいたかも知れないが、悪意があってのことではあるまい。 
 どんな人物がどんな考えで、しかもどれほど多数の上級士官が、この攻撃を支持し継続強行してきたかを、出来るだけ分かる範囲で日本の歴史に残しておくことは、大切なことのように思う。 
 特攻命令を出した上官たちも自分たちも、最後には必ず往くといっていたが、何人ぐらいの人が往ったのであろうか、つまびらかにしない。私のいた隊では誰もいなかったような気がする。どれだけの人が往ったのか。 
 多くの上級者が「あれは志願だったのだ」と言い逃れている。誰もが凡人である。すすんで死地につくひとは決して多くはあるまい。生き延びた人たちを責める気持ちは毛頭ない。ただ、そうした人たちが活躍していたことだけは歴史に伝えておくことが望ましいような気がする。


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注 67  出典不明。
注 68  原文では「貴族」。Ⅳ︱ 19 .で、本来の貴族と海軍の貴族主義についての解説があり、それに従 うとここは「貴族主義者」とした方が自然だと考えられるため、編集委員会で訂正した。


注 69  詳細は森岡清美『若き特攻隊員と太平洋戦争』八〜四八頁参照。
注 70   「反省会に参加した元海軍士官は、確認できただけで四十二人。会は昭和五十五年から平 成三年まで月に一度行われ、百三十回以上続いた」(『日本海軍400時間の証言』新潮文庫、 二〇一四年、六〇頁)。 
====================

<用語解説…ebisu>
海兵:海軍兵学校のこと。海軍にはもともと3校あり、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校だったが、舞鶴にある海軍機関学校が海軍兵学校に統合され、海軍機関学校は横須賀・大楠のみとなった。それぞれ、「海兵」「海機」と略称を用いている。海機は整備や設計などを担当するエンジニアの育成機関である。


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#3922 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.138~167 Feb. 5, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

本欄の左にあるカテゴリー・リストにある「0. 特攻の記録 縁路面に座って」を左クリックすれば、このシリーズ記事が並んで表示されます。
(アンダーラインはebisuが引きました)

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Ⅳ-1.離脱
Ⅳ-2.脱走
Ⅳ-3.帰還とその後
Ⅳ-4.脱走者と特攻搭乗員
Ⅳ-5.特攻搭乗員の心情 非現実世界と現実世界
Ⅳ-6.両世界非現実化
Ⅳ-7.搭乗員たちに国を救える実感ありや、納得ありや
Ⅳ-8.搭乗員たちの気持ちはさまざまで一義的でない
Ⅳ-9.恬淡の様相
Ⅳ-10 .予備学生と予科練
Ⅳ-11 .残している思い
Ⅳ-12 .一様に納得しているのではない。心残り
Ⅳ-13 .特攻が守ったもの
Ⅳ-14 .予備学生は自分の人生の姿勢を顧みる
Ⅳ-15 .前線が近くなると、姿勢が変化してくる
Ⅳ-16 .遺族たち
Ⅳ-17 .芭 蕉   
Ⅳ-
18 .人間の一つの願い
Ⅳ-19 .何故こんなひどい作戦が実行されたか。海軍の貴族主義
Ⅳ-20 .殴ること
Ⅳ-21 .海軍貴族主義の原点
Ⅳ-22 .上級士官の自覚の問題
Ⅳ-23 .敗戦を補う特攻
Ⅳ-24 .海軍近代化
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Ⅳ-1.離脱
 
 ここで航空隊、あるいは飛行搭乗員を離脱した人たちに触れておこう。予備学生を罷免になったとか、あるいは航空隊を脱走したとかいう話そのものは、会報にも幾つか関連した文章が載っているが、これに触れている人が誰一人細かい事情を知らないようである。また、確かにその罷免された人その人にあって事情を聞いたという文章を見たことがない。 
 野平健一[京都大。大井空。海軍省]は、「二人の友」(『あゝ同期の桜』二〇四頁11 注 )の中で、虐め
られひどい目にあって、ついに一人は脱走し、もう一人は罷免された二人の予備学生のことに触れている。彼は週刊誌の編集長をしていた経験があり、機会ある時にはいくどかこうした人たちの消息を気にかけていたようである。 
 ところが、たまたまの機会にこの脱走した人の消息を得て、小冊子『脱走した海軍士官の孤独な五十年』を出して、そこで一人の脱走して罷免された学生について、細かい事情や、本人の文章を載せている。ここではその脱走した当人がそのことを隠していないし、また本人の文章が載っているので、この内容を紹介しておこう。

Ⅳ-2.脱走
 
 土浦の基礎教程のときに、日頃ひどく分隊士に虐められていた学生がいたが、その学生が脱走して罷免されたということがあった。二人と同じ分隊にいた野平は折に触れてこの二人のことを語ったりしていたが、たまたま五十年後に、高校の運動部の同窓会の折りにその脱走した学生のことを知っていたものがおり、その伝手で本人にも会い、彼の文章をもらったとのことであった。 
 ここでは、本人の文章にほぼそっくりそのまま即して、簡単な経過に触れておく。さすが五十年も経っているので淡々たる文章であった。
 
 彼は海軍が好きだった。神戸に育ったこともあって、艦船勤務を希望していた。ところが、予備学生試験に合格したものの、彼の最も嫌いだった飛行科学生を命ぜられた。 
 入隊した土浦空での訓練は、さほど辛くはなかったが、その前途を考えると、暗澹たる思いで確実な死が待ち受けているようで鬱々とした日が続いた。叱責されたり殴られているうちに、次第に失望して脱走の決心が固まっていった。 
 昭和十九年二月十九日、ついに夜間を利用して一種軍装に雨衣を纏って北練兵場鉄条網を越えて土浦駅から駒込に出て、本郷の東京帝大YMCAの寮に行き、空室を見つけて潜伏した。 
ところがそこで、海軍の依託学生をしていた北沢君という知人に見つかり、今なら逃亡罪にならないから自首しろといってくれた。そのまま彼の薦めに従った。 
 翌朝、山田分隊士と父親が迎えに来た。山田分隊士は短剣と軍帽を持ってきてくれた。そして上野駅から土浦に帰隊したのであった。 
 土浦で受けた処分は、しばらく立たされた後、謹慎二十日で兵舎の片隅にある営倉のような所に入れられた。それから二、三日して山田分隊士と一緒に武山海兵団に戻った。学生を罷免になったのである。 
 離隊に際しては土浦空の司令に呼ばれ、個人主義をやめられないかと問われたが、彼は沈黙していた。山田分隊士と武山に向かう汽車の中で、ドイツ人らしいのがドイツ語で喋っていたので、ちょっと話しかけたら、吃驚して黙ってしまった。 
 逗子に着き、バスで武山に向かった。武山では年とった特務士官らしいのが、親切にしてくれた。武山の志願兵部隊に入れられた。時あたかも、一般兵科の予備学生の基礎教程の最中で、今更のように涙が流れた。ああ自分も一般兵科だったら、と残念であった。 
 そのうち志願兵たちは彼を特異な目で見始めた。下士官の中には顔見知りもいて、せっかく予備学生になったのにと、同情の目で見るものもあったようである。中でも分隊士は、海軍にいる間は友達になろうといってくれた。今にして思えば有り難いことであった。兵隊から上がった特務士官であった。

Ⅳ-3.帰還とその後 注59

◇横須賀海兵団 
 志願兵分隊を卒業して横須賀海兵団へ行き約一年を過した。この間いろいろなことがあったが、今にして思えば部署訓練や配置教育に明け暮れたように思う。そのうち学生や生徒を罷免になっ帰還とその後罷免になった者が加わり、賑やかな補充分隊になった。この間、はじめてバッターという残酷な刑罰を何回かうけた。こうしているうち防空壕堀りに駆り出された。私は腕力がないのでスコップで鶴嘴の堀り屑を片付ける役割に回って気楽な毎日を送った。ここには地下與蔵という下士官や飯沼兵曹という親切な人々がいた。昭和二十年になって突然厚木航空隊の防空砲台の機銃員を命ぜられた。 
 かくして同期生の士官の下で働くようになった。主に二十五ミリ、十二・七ミリ高角砲の準備だった。生徒を罷免になった小山君や飛行学生を罷免になった荒井君が一緒だった。民宿は夫が出征している農婦の家だった。
 ◇驚いた事件 
 ある日私が休業していると、突然農婦が入ってきて私を挑発した。孤閨に苦しんでいて、露骨にも性器を出して私を誘うのだ。童貞の私は驚くばかりで何事もなしえなかった。

 ◇終戦 
 農家の庭先で天皇の無条件降伏の放送を聞き、暫くして復員した。兵長であった。中野新井薬師の家は空襲で焼けていたので、原宿の伯母の家にしばらく厄介になり、両親の疎開先である岩手の禅寺へ帰った。二十一年三月東大に復学し、二十二年三月卒業した。四月帝国生命入社、保険金課配属後、調査課等を経て有価証券部付で定年。 
 結婚は二十八年。最近になってから脱走事件を話した。 
 海軍時代の友は畏れというよりなつかしい。『あゝ同期の桜』は読んだ。友の冥福を祈るばかりである。旧友には会わない。 
 精道小学校(神戸)の同窓会では脱走した話をした。八高会は出席したが脱走事件には触れなかった。しかし一部の者は知っているようだ。 
 山田中尉の『ガダルカナル敗戦記』は読んだ。 
 定年後は昔の仲間はなつかしい。 
 子供たちには、脱走事件を、祖父が話したようだ。 
 海軍のことは腹立たしいこともあるし、懐かしいこともある。 
 娘はKLMのスチュワーデスになり、英人と結婚して一児をもうけ今は英国にいる。 
 今にして思えば分隊長も分隊士も悪い人間ではなかった。ことに南方で戦死された塩沢分隊長は、私の離隊の際には門まで送ってこられた。 
 戦後私は一度土浦を訪ねたことがあったが、感無量であった。 
 山田分隊士とは戦後会っていないが、皮肉屋であったという印象が強い。脱走のあと、迎えの車のなかで天測航法の話をしたくらいと、謹慎二十日を命ぜられた時、森司令の文章を読み上げたくらいである。 
 塩沢分隊長の取調べは微細に亘るもので、本人はくたびれて欠伸をする始末であった。後で私が土浦を去るとき「お世話になりました」というと涙を浮かべていた。 
 森司令の文章はよく憶えていないが、ノイローゼに罹ったにしても、予備士官たる前途を疑い、思想極めて懐疑的で甚だ怪しからん、というようなものであった。以上
(野平健一『脱走した海軍士官の孤独な五十年』二〇〜二四頁)
 
 淡々であるが、やはり単に淡々であるとはいいきれない気がする。命が惜しいと逃げてきた負い目は、そして今生きている以上、その負い目は付いて回っているに違いない。簡単には克服できるものではあるまい。 
 脱走した兵の文章は、生きているが、死んでいるという感じがする。心の要求がないような気がする。みんなの中で、ただ生きる。あまり情感を表に出さない。人前に出たくない気持ちから、自然とそうなったのであろうか。

Ⅳ-4.脱走者と特攻搭乗員
 
 脱走者と搭乗員とはたいへん図式的に対比していってしまうと、こんなふうにいえるかもしれない。
脱走者
 思い残すことなく静かに生きる
 実界にはもはや話しかけない
 軍隊の仕打ちには懐かしき思い出
 実界を生きて幽界化
 逃げてきたので、悪口いわぬ
 生者が全力死んでいる
 命が惜しいと、逃げてきた負い目

特攻者
 思いを胸に残し一人して死海に眠る
 実界から消えても、叫び続けている 
 自ら親切を実行して、自分は消える 
 幽界に生きて、実界に叫ぶ 
 皆のために出撃した、今も語り続ける  
 死者が全力生きている 
 命を投げだしてきた、悔しき諦感
 
特攻死した搭乗員たちにおいては、自分と家族との命の繋がりが、彼らの心情の一切をなしている。

Ⅳ-5.特攻搭乗員の心情 非現実世界と現実世界
 
 搭乗員の心にあるのは、確かに一方では、天皇であり、皇国であり、靖国である。これは文字通り確かに命の真実である。が、何かしら彼らの心を沸き立たせているものが感じられない。実感がないといってもいい。この意味では、彼らはむしろ本当には生きていない。あるいは、非現実の世界に生きているといった方がいいかもしれない。 
 彼らの心の中に生きている本当の一つの拠り所といったら、搭乗員たちの誰もがみんながそうであるが、家郷のものたちに安堵を与えたい気持ちであろう。これはまさしく現実の生きている情感である。この心中の故里、家、父、母、兄弟姉妹はまさしく彼らが生きている世界である。 
 この心情はまさしく心中に大きな場所を占めている。が、この実感がやはり切実に生きているとはいいきれない。彼らは、現実の故郷とは生活において関わることは出来ない。現実に生きた行為を交換するわけではない。心を支えている激しい心境が、いずこの果てまでも指向し続けて、虚空にこだましているだけなのだ。彼らが生きているこの大地も、やはり心中の非現実でしかないといえるかもしれない。


Ⅳ-6.両世界非現実化
 
 現実に生きているということは、じっさいには隣人と具体的な仕方で関わっていることであろう。ところが、生々しい形では、搭乗員たちの言葉は友人たちと交わされていない。 
 出撃する仲間は「あすゆくよ」としか友に語る言葉がなかった。応える仲間も「そうか」。ほかに言葉がでてこない。先にも触れたように、こうした二、三の言葉が交わされるだけで、彼らは身辺整理に取りかかるのである。 
 あす出撃する仲間たちと語りあう言葉は、見当たらない。語る言葉がないといってもいい。空母を断固撃沈するとか、いや、戦艦だなど、今更いうべき言葉にはそぐわない。そんな話をしていると、何かしら嘘っぽくさえなる。 
 横の関係(あるいは、人間同士の会話世界)が恬淡であったような気がする。友人たちとの関わり(現実の人間界)が非現実化しているといってもいいかもしれない。が、もちろん消滅しているのではない。後にも触れるが、恬淡でありながら、じつは無言のうちに現実を超えた奥深い契りを交わしている。 
 彼らにとっては、天上も、大地も、人間界も、いずれもが現実を超えてしまっている。彼らはいわば幽界奈落に生きているといってもいい。特攻搭乗員たちの心情は、生と死の狭間にあって、こうした非現実と紙一重の現実を生きている。

Ⅳ-7.搭乗員たちに国を救える実感ありや、納得ありや
 
 天上も、大地も、そして人間界も、いずれもが非現実化した中にあって、搭乗員たちは、本当に現実に国家を救えると思って死んでいったのであろうか。あるいは、特攻が勝利への効果があると思って、といってもいい。
 搭乗員にとっては、自分は死んでも、国が生き残る保証はどこにもない。せめて国に殉じたという純情が残るだけかもしれない。もちろんこの心情は個人の中だけのものではない。祖父母、両親、兄弟姉妹は口惜しい安堵の内に息子をひたすら誇りに思うかもしれない。 
 昭和二十年の四月を過ぎる頃から、援護の戦闘機も、戦果確認の偵察機も、ほとんど随行していない。中には通信機さえはずして出撃する特攻機が登場している。仕方がなかったからなのかもしれない。が、忠烈な兵士が次々と消えて、飛行機も次第になくなってゆく。戦況を冷静に判断することがじっさいに行われていたのであろうか。 
 搭乗員たちは、一方では信じ、一方では不安が消えない。国は勝ち残れるのか。何かしら不安な割り切れない感がある。が、納得するほかはない。特攻隊員を補充してゆく訓練部隊には、海兵士官たちが予備学生を叱咤する声が響いていたが、彼らの信じている作戦用兵は、大丈夫なのか。そうした反省は聞いたことがない。

Ⅳ-8.搭乗員たちの気持ちはさまざまで一義的でない
 
 搭乗員たちの思いは複雑である。彼らは誰もが祖国を思っている。しかし、その各自の気持ちは必ずしも同じではない。それぞれであるというほかはない。日本の存続を護ることに、あるいは家郷の面目に思いをかけたひとがいるかと思えば、日本の国土に、また民族に、また故郷の山河に心の拠り所を求めている。
 祖国の運命のことしか書いてない人がいるかと思えば、みんなが故里の父母兄弟に心を寄せている。が、この思いも決して同じではない。もちろん自分の生涯をふり返って、生き方を問題にしているものも多い。が、その観点や気持ちの持ち方はまたそれぞれに違っている。自分の生涯に納得しようとしているひとなども、各人各様で一様でもなければ、一義的でもない。

Ⅳ-9.恬淡の様相
 
 誰についてもいえることであるが、予備学生搭乗員たちは確かに何のこだわりもなく出撃しているかのように見える。一見、恬淡という言葉がふさわしい。が、我々はその心情の奥まで、踏み込んでゆくことはできない。この恬淡が何を感じさせる恬淡か、どういう背景を持っているのか、などといったことに触れられていることはない。が、恬淡は必ずしも決して簡単な感情ではない。 
 その恬淡の奥底には、多くの場合二つの要素〈守るべき祖国の観念〉と〈懐かしく暖かい故郷の実質〉との関係が踏まえられている。〈教育で教えこまれた八紘一宇の日本帝国〉と〈家郷に基盤をおく親しい国土〉との関係が。


Ⅳ-10 .予備学生と予科練
 
 もう少し年若い予科練でいうと、この両者の関係がむしろ分裂したまま存在し、その並立した繋がりがそのまま表面に出て両立している感がある。その繋がりが具体的に触れられていることは少ないような気がする。 
 もちろん、じっさいのその関係は複雑多岐で、一概にはこうだとはいいきれない。はっきりと口には出しえないといってもいい。その一方をこうだといいきってしまうと(あるいは、それだけが真実だと思ってしまうと)、何かが嘘になってしまう感じがするといってもいい。


Ⅳ-11 .残している思い
 
 しかし、誰もがそれぞれに異なる大切なものに心を託している。が、一途の思いは間違いなく共通している。彼らは、まだ自分を生き残しているのである。みんなが思いを残している。このことが残された我々の悲しみと哀れを呼び起こすのだ。 
 生きながら死ぬのである。しかも自分のためにではない。そこに何か大きなものが残っている。死に面前していない参謀や司令官には、この大きなものが全く感じられない。彼らの言葉には心を打つものがない。自分をちゃんと生きているからである。自分を生き残していないからである。 
 大西滝治郎は自決した。しかし、彼の遺書を読むと、誰か人のために死んでいるのではない。また自分が殺した搭乗員たちに、衷心から謝っているのでもない。自分の作戦が何らかの成果を上げえなかったことを謝っているに過ぎない。自分がもはや行く道がなくて、死んでいるに過ぎない。自分のために死んでいるのであって、人のために身を捧げているのではない。 
 こうした人間にして初めて特攻などというものを命令できたのであろう。


Ⅳ-12 .一様に納得しているのではない。心残り
 
 特攻について、搭乗員みんなが一様に納得しているのではない。中には、海軍の決まり通りに受け容れている人がいる。個人の情感が彼のモラルに隠されて、驚くほどの素直な性格を垣間見せている。また中には、はっきりとあまり征きたくないという気持ちを表明しているひともいる。 
 あえて納得している人も決して一様に死にたがって死に急いでいるのではない。各人が各様に問題を抱きながら、自分なりに決断し決心している。納得はしながらも、なお何かしらの心残りを伺わせている。むしろ口にはいい尽くせない大きな情感を家族に残している感がある。逆にいえば、あまり積極的でない気持ちを持っていながらも、といって征くことに全く拒否を示しているのではない、ということであろうか。 
 各人の納得の違いは何を意味しているのか。相反し矛盾する情感が渦巻いているのだ。心の奥底の言いしれぬ誇りと、言いしれぬ悔しさとが、といってもいい。人間性のかけがえの無さがうかがえるといってもいい。
  「使命感と不安」とが、「情熱と憤り」とが交錯している。何故こうした事態が生じているのか。後 に触れるが、この問いに対する答えは、「特攻が命令ではなくて、志願ということにされている」ところに淵源しているように思われる。搭乗員がそれぞれに特攻の決断に自分が関わっていると感じているのだ。葛藤をすべて自分で背負っているといってもいい。 
 何よりも特攻機で出撃した予備学生たちの生の声を聞くことにしたい。出来るだけ多様な彼らの声にそのまま接することが大切のような気がする。当時の青年学徒の「怒り」「哀しみ」「誇り」のありのままの姿をうかがえれば、幸いである。

Ⅳ-13 .特攻が守ったもの
 
 特攻者が守ったものは何であったのか。残された遺族ではなかったのか。そして、それがまた日本国ではなかったのか。それらは、司令や参謀たちが叫んでいた皇国でもなければ、天皇でもない。彼153 ︱ 14.予備学生は自分の人生の姿勢を顧みるら自身が特攻搭乗員たちの苦悶と無縁のところにいたために、彼らが叱咤した叫びは、ただ言葉だけのものとなってしまっていたような気がする。 
 搭乗員たちの心には響いていない。司令参謀たちが次々に発令する特攻命令には、必死の運命にある搭乗員たちを悼む心情が感じられない。彼らは特攻の虚しさを実感していたのであろうか。戦果を確認すべき電信器さえはずした特攻機が登場している。次第に特攻が通常の攻撃であるようになり、特攻が特攻でない気配さえでてくる。 
 かつては、特攻はまともに戦うことなく突入してゆくことが「非運」であった。今にして思えば、勝算がないのに出陣させられていった搭乗員たちが哀れである。それだけに、その中で黙々と死地に付いた搭乗員たちの偉大さを思わずにはいられない。 
 町田道教[大正九年十一月十一日生まれ。長崎県。九州大農学部農学科。南西諸島。神風特別攻撃隊第五筑波隊]はこう望んでいた。「苦労して育ててくれた母に何一つ報いることなく出撃する自分を嘆きながら」「搭乗員たちはただ敵の撃滅を信ずる」外はなかったのである。非運の中の壮烈とでもいうほかはない 注60

Ⅳ-14 .予備学生は自分の人生の姿勢を顧みる
 
 予備学生は、何よりも特攻搭乗員であることで、自分の生き方に納得してゆこうとしている。若い海兵の士官は多く自分を顧みていない感じがする。本人たちは国のためと思っているのであろうが、外から見ているとむしろ我々を怒鳴り殴ることで、自分の人生を築いているように見える。つまり、自分のステイタスを。もっとも彼らからすれば、それが彼らのいう国のためであったのかもしれない。が、彼らから米軍の訓練や作戦の話を聞いたことはない。 
 予備学生の場合には、この仕方が逆になっている。他人を責め裁くことではなくて、思いはむしろ常に自分の人生の生き方に戻っている。自分のありようを顧み、自分の生き方に決着をつけ納得してゆこうとしている。が、それでいて、敵軍の情報をほとんど何も知らないのである

Ⅳ-15 .前線が近くなると、姿勢が変化してくる
 
 出撃が近くなり、前線に出る同期生を見送るたびに、今までおしゃべりで何やかやとざわついていた人々すべてが、いつの間にか淡々と愚痴一つ洩らすことなく動いていた感がある。もちろん、搭乗員たちも端的に恬淡を強調している人々ばかりではない。彼らはさまざまな形で特攻に対処している。 
 淡々たる態度の背後にあるものをさまざまに語っている人々がいる。黙って任務を引き受けて、特攻第一号として出撃した関行男大尉にしてからが、特攻が決まってから何日か後に特派員に取材されたとき、じっさいに俺が征くのは、馬鹿な話だ。優れた搭乗員が、一回きりの自爆出撃とは。何回でも出撃し戦果を期待できるのに。効果の点からも無駄の話だ。こんな内容を語ったという 注61 。 
 これを聞いた特派員はすぐ記事にした。しかし、検閲で禁止。関は黙って淡々と出撃したことになる。これは戦後初めて伝えられた話である。
 いっぽう、必死の作戦たる特攻で出撃し、たまたま生き残って帰隊した搭乗員が書いている文章を一つ二つあげておく。 
 搭乗員たちは互いに多くを語りあっていなくても、彼らは仲間たちとのつき合いの中に生活を築いている。そこに誇りがあり、面目がある。相互信頼の中で友情を培っている。これが生きていることの暗黙の了解なのである。 
 当然、周囲を配慮し何よりも面目を重んずる人がいる。また当然、自分の気持をひたすら優先する人がいる。それぞれの人の生き方はおのずと異なったものになってくる。特攻の志願の受けとめ方もそうである。 
 千宗室 注62 [同志社大。偵察。徳島空。松山空]と西村晃(水戸黄門などで知られる俳優)[日本大。偵察。
徳島空]の二人は、特攻には一緒に征こうと約束をしていた。西村が先に決まった。俺は当たった。お前も必ず行け。そういわれて、千は何度も志願を申し出ている 注63 。 
 佐藤孝一[専修大。操縦。谷田部空。戦闘機。鹿屋空。三〇六]は敗戦で、特攻出撃の機会を逸して前線基地鹿屋から生き残って故郷に還ってきた。ところが、帰郷してから、「お前だけ生き残っているのか」。特攻死した戦友が毎夜夢に出てきて自決を迫る。彼は村の檀家寺の坊さんに頼んで、特攻友人たちの供養をしてもらう。戦友の毎夜の出撃は止まったということである 注64 。 
 もとはといえば、特攻出撃などというものは、命令者の頼みと搭乗員たちの応諾との間に成立した、暗黙の人間関係の中に閉じこめられて成立していったものなのだ。 
 逆にいえば、人間関係のない特攻は文字通り外道であるほかはない。大西滝治郎は、そうした中で比島の特攻戦線を生きてきたのだ。比島における彼には、本当の人間らしい言葉は見られない。死途につく搭乗員ではなくて、ただ戦果に目が向いているだけである。 
 大西滝治郎は、特攻をみずから「統帥の外道」と呼んでいる。しかし、外道ならもはや人間ではない。が、彼はみずから外道といいながら、あえて人間に、いや将軍にまでとどまり、司令官として特攻を出撃させている。居直りのほかはない。人間の言葉が亡くなるのは当然である。 
 こうしてまた、軍令部と特攻隊員との関係もがまた非人間的となる。陸軍特攻基地知覧では、飛行機の不調で帰還した搭乗員を怒鳴りちらした参謀がいたことは、有名な話である(高木俊朗『特攻基地知覧』)。同様な人物は海軍にもいたようである。先に触れたが、帰ってきた回天搭乗員を叱咤した、本隊に残っていた隊長たちの言葉を思い起こして欲しい。

Ⅳ-16 .遺族たち
 
 残された親族たちは、悲しみと誇りを抱き、搭乗員と共に生きている。特攻死した子息の生涯をしたためた書物を出した九十六歳の母。妹夫妻が同期生の会合である十四期会に入会し、生き残った学生たちと行を共にして、特攻に散った兄を偲ぶ。一日一日を珠玉のように生きたわが子を、いつまでも愛おしみ、心を通わせる母。亡くなった子を想い、生き残った学生たちをわが子のように見守る母たち。が、一方では、友人のわが子の拝礼を断る母もいる。 
 亡くなった搭乗員たちとは違って、残された母たちには、人間界の横の繋がりが生きている。しかも、現実を生きるのみならず、天上や大地の〈はるか彼方〉をも現実として生きている。遺族たちは歴史を生きているのである。
 高低のはるかの拡がりである天上や大地は、もはや非現実ではない。横と同じ現実であり、歴史が今、現在なのである。遺族たちにとっては、死せる子たちが現実のように生きている。これまでを、またこれからを今に生きている感じがする。日々に搭乗員たちの歴史的意味を噛みしめている。搭乗員たちは歴史の外の奈落をすみかとしているが、遺族たちは奈落をも現実の人生として生きているといってもいい。
 ここでは、何もかもが一緒なのである。生も死も、現在も過去も。これは逆奈落とでもいったらいいかもしれない。奈落では、一切が生の世界に関わりがあるにもかかわらず、一切が死んでいる。逆奈落では、一切が死んでいるにもかかわらず、一切が生きている。非現実さえ現実である。
 このことは、歴史的な観点から見た特攻の意味に関わりがあるかもしれない。歴史の事実としての特攻の意味は、左右の単なるイデオロギーによっては解明されない。またその自己犠牲の精神を強調したり、その残忍な戦術を批判するだけでは、特攻の本当の意味は分からない。むしろ、征った人たちと残された人たちの現実感覚を基礎としてのみ、論じられるべきではあるまいか


Ⅳ-17 .芭 蕉
 
この感覚を象徴しているかに思われる芭蕉の句がある。唐招提寺で鑑真を詠った彼の心境が思い出されてならない。唐招提寺を訪れたとき、芭蕉は簡単な詞書きをつけて鑑真和尚のことに触れている。
 
 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち潮風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、   
   若葉して御目の雫拭はばや  注65
 
 もともと、俳句の常として感情を表に出したりしないのが普通である。まして芭蕉は、人間のことを詠うことはたいへん少ない(奥の細道でも、同行している曽良のことに触れた箇所はあまりない)。にもかかわらず、彼のこの詞書き、またこの句は、彼がこの鑑真の人柄にいかに深く思いをいたしているかを示している。 
 芭蕉は「御目の雫拭はばや」という。じじつ、鑑真の像は涙を湛えているようにさえ見える。が、よくみると決して泣いてはいない。あれだけの苦労をして日本にやってきたのである。彼自身は誠に本望であったであろう。むしろ彼は、傷めた眼をかばいながら、彼が来た後の日本の姿に静かに感慨を寄せているように思われる。 
 といって、芭蕉は単に鑑真の偉業に感嘆したのではあるまい。「若葉して」という言葉には、限りない芭蕉の思いが結晶している。「清々しい若葉の頃」に寺を訪ねて、鑑真の盲いた静かな「まなこ」に真向かいに相対して、彼の不撓の志に思わず、若葉の命を瞼にあてがいたかったのではないか。 
 芭蕉は単に悼み、悲しみ、嘆いているだけではない。感謝し、いたわり、親しみ、思いやり、悔しい思いを偲んでいるのである。志を失うことなく、苦悩をものともしない人間の姿に心を寄せている。一つの歴史の見方を示しているような気がしてならない。人間はさまざまの状況を乗り越えて自分の道を生きている。こうした営みが重ねられて歴史が創られてゆくのであろう。 
 逆に、特攻を発案発動したものたちは、自分の思い込みに執着し、あるいはいたずらに「いさおし」を求めて、人為的に多くの人間たちを死地に付かせたのである。人間を殺すことを、命令によって実現しようとしたところに、許すべからざる悲惨を冒して恥じることがなかったというほかはない。 
 特攻死して彼方に去った搭乗員たちのことを思うとき、何かしら鑑真に相対した芭蕉の気持ちが思い出されてならない。 
 さまざまの思いを噛みしめながら、なお特攻死を恬然として生きているであろうと信じて疑わない。あるいは、静かに此方を見つめている彼らの面影が、限りなく悲しいような気がするときがある。彼らはある意味では、苦闘の中でいさおしを守り通した鑑真なのだ。鑑真の眼に若葉を添えた芭蕉の心遣いが奥床しい。 
 特攻にはさまざまな感慨があるが、芭蕉の鑑真に対する思いは、特攻に死した人たちを悼み偲ぶ気持ちをひたすら守っているような気がしてならない。一つの歴史解釈の立場ともいえるような気がしてならない。

Ⅳ-18 .人間の一つの願い
 
 誓子の句は特攻を詠ったものとしては、必ずしも特攻を捉えきってはいなかった。しかし、特攻の悲しい一面を捉えたすぐれた句であることは否定できない。彼は主題として特攻者の悲哀を詠ったのではないことは、先に触れた。にもかかわらず、すぐれた感興をもたらすのは何故なのか。 
 いずれにしろ、最後の人間の営みが哀切に終わることを見通したからではないのか。彼は病を養っていた。恐らく限りない闘病の努力と、その繰り返しであったことであろう。そこに人間の哀れさをみる。それが、誓子が語る「帰るところ」の無さなのである。 
 特攻で征った人間のみが、悲しいのではない。本当に生きようとする人間が(常に)そういう状況のおかれているのが悲しいのだ。 
 特攻の搭乗員たちも両極をになっていた。いずれかの極において、恬淡に到達することを求めていた。その極は幻に終わることがあったかもしれない。幻であっても、それが安定したものであったならば、それで良いと思った人もいるかもしれない。宗教の問題はここに関わってくることであろう。 
 あるいは、幻そのものが、真実であるともいえるかもしれない。いずれが真実であるのか。誓子の句に即していえば、帰る所があろうとなかろうと、それはもはや、人間を越えた問題なのであろう。 
 信長の能舞に憧れるのも、一人の防人として死ぬのも、海軍の馬鹿野郎と叫んで突っ込むのも、大学に残って勉強したかったのも、母を残してゆかざるをえない悲しみを抱き続けてゆくのも、すべて一つの願いなのだ。そうした願いを持ち続けるのが、搭乗員たちであったのだ。
彼 らはその願いの間で、絶えず自分がいずれかに一致することを求め続けたのだ。そのいずれかが真実であったのか、それは分からない。しかし、自分が求めたものと一体であり続けることが、彼らの一つの願いであったということなのである。 
 相反なるものは、必ず絶えず一体不可分なのだ。逆にいえば、自己一致が常に存在しえないことが、じつは自己一致であることなのだ、といってもいい。人間の苦難。特攻の哀切。すべてこのことに関係しているような気がする。この現実を生きるのは苦悶であるほかはない。 
 搭乗員にとっては、苦悶は宿命である。彼らは誰もが何らかの形でこの事態を納得する努力を重ねている。が、納得は成立するのであろうか。 
 彼らにとって、苦悶が宿命となっているのは、特攻を志願したと思っているからである。形は確かに志願であるが、志願の命令であったことは先に見た。命令を志願と思い、志願と受けとめ納得しているから、特攻を自分が決心したものと思いこんでいる。そこに国家と自分との二極が葛藤することになったのだ。

Ⅳ-19 .何故こんなひどい作戦が実行されたか。海軍の貴族主義
 
 海軍では、士官は貴族主義といわれた。しかしもともと、貴族とは、そうでないものに対して何か優れているところがあるものたちのことであろう。家柄、生まれ、育ち、人格、識見、品格、品性などといったものが、事なきときには秩序品格を守り、戦いのときには先陣にあって部族の核をなすものである。 
 海兵士官の中にも何かこれに相当するものがあったようなひとも確かにいた。しかし、一般に彼らのエートスということになると、はっきり取りあげて注目すべきことは心当たりがない。 
 貴族主義に関してであろうか、士官の態度、威儀などについては、いくどか話は聞いた。一流のレストラン、一流のホテルに入れ、ともよく言われていた。それなりの食事作法が語られたこともある。下賤の話では、女性の場所も決まっていた。下士官兵と会食を共にしないようにということも、よくいわれた。 
 いずれもが外形からしてすぐ分かることであり、士官をはっきり差別化することに繋がっている。こうしたことは、海軍上級士官としては、それなりに意味のあることであろうが、貴族本来の本質に関したことではあるまい。

Ⅳ-20 .殴ること
 
 すでにいくどか触れたことであるが、我々が海軍に入って何よりも印象深く感じびっくりしたことは、上位の若い士官が何のはっきりした理由もなく、下級士官の我々を絶えず殴ることであった。 
 もっとも、「はっきりした理由なく」というのは、「我々の方から」いうからであり、「彼らの方からすれば」当然すぎるほどの理由であったのかもしれない。
  「弛んでいる」「気合いが入っていない」「愛国心が足りない」…しかも、その正確な意味ははっきりしていない。どこで愛国心を計るのか。 
 愛国心の基準は何なのか。特攻機には、全体では海兵海機士官(純粋特攻機搭乗員に限れば一三九名)より約五倍弱(六七四名。沖縄戦に限れば、ほぼ十倍)位の人数が、予備士官のほうが、余計に出陣している(予科練特攻戦死者は一四一八名。参照折原昇編『われ特攻に死す』四一五〜四一六頁)。 
 殴るときには、たいていの場合きまって、十数人を超えるほどの人数が出てきて、我々全員を対象にぶん殴るのであった(総員修正といわれていた)。殴られることについては多くの人たちが言及しているが、ここでは林尹夫の文章に触れておく。
 
 林尹夫[大正十一年三月三十日生。長野県。京都大文学部西洋史学。土浦空。大井空。八〇一空。九州南方海面にて哨戒中戦死] 
 何よりも、林は「とにかく殴られることに平気になること」(『あゝ同期の桜』八六頁 注66 および林尹夫
『わがいのち月明に燃ゆ』二五八頁)といっている。
  「弛んでいる」ことに対して、殴って気合いを入れるとは、我々を軍隊組織の中にすすんで没入す ることを求めてのことであろう。軍律を守るためには、これは必要なことかもしれない。何よりも、背後に強度の精神主義が伺われる。 
 さらに、林はこういっている。「軍隊に来たからには、(…)肉体的に頑丈になることを望むが」、自発的な自分らしさを喪失して、精神主義の「空虚なる神話」に取り込まれることには、「ただ嫌悪をそそられる」。いわば「精神的に気狂いになることなどは御免こうむりたい」 。「しかし、果たしてかかる個人性の抑圧は、軍隊強化の本質」であるのであろうか
  「例えばアメリカを考えよう。それは強力な機械と、膨大な量を頼んで、今着々と効果を収めつつ ある。そして戦力とは、武力そのものでな」い。「むしろ優秀なる熟練工に近いものでなければならない」。たんに厳格なる規律をもつ精神のみでは、強い軍隊にはなれない。技術武器を離れた精神強調は無力である
  「もっと技術的訓練を強化し、科学戦に働らける軍人を作らねばだめだ。帝国海軍には、それをお こなうだけの余裕がない」。「ヒューマニズムの美しき徳目は、俺の心から失われてゆく。外面的に一
応の形を整わしても、俺の心の中では向上への意志が消失してゆく」。今の仕方だけでは、外面外形だけの軍人が出てくるだけだ。 
 となると、内容のないこうした精神強調は、裏からいえば慣習的に上官の権威を不動のものとすることに繋がることになるのではないか。殴るとは、自分の立場が正しいことを前提としている。逆にいえば、この操作は、その正しさを守る権威が、自分にあることを保証する操作でもあることになる。 
 となると、この操作はひとつ間違うと、偽りの権威を確立するより所ともなる。真に権威を保証するものといえば、一般には品格とか教養とかいったことが上げられるかもしれない。そういえば、海軍では精神訓話で教養の話は聞いたことがない。 
 十九世紀のドイツの哲学者ヘーゲルの『精神現象学』によれば、「教養」とは自己疎外を前提とする。平たく云えば、我執を克服して自己をコントロールが出来るということであろう。常に他者を配慮することが出来るといいかえてもいいかもしれない。じじつ、やたらに部下を殴ることは、その人間性海軍貴族主義の原点を軽視忘却する以外の何ものでもない。
 根本的な観点からいえば、戦争は、ほんらい敵軍(つまり、他者)との関係の中で行われる。海軍には、この他者との関係をどう考えるかという教育が欠けているような気がする。他者との関係を考える立場に立てば、ただ殴るという操作で他者との間の問題が解決するとは思われない。
 兵器や装備の問題を別にしても、人間関係をどう理解するかの問題を排除してしまえば、本来の意味で作戦をどう立てるかの見地が欠落してしまうに違いない。日本海軍が米海空軍に敗れた根本のところはここにあったのではなかろうか。下位の部下にぶん殴る印象しか与えなかったことは、教養の見地を欠き、自己疎外の自戒がないことで示しているような気がしてならない。 
 いずれにしろ、共にアメリカに当たろうなどという気風は全くなかった様に思う。何故なのであろうか。


Ⅳ-21 .海軍貴族主義の原点
 
 この原点は、海兵出身の海軍士官の閉鎖組織である。下士官から士官になる道は開かれているが、永い研鑽の後に〈特務士官〉の名が与えられていた。進級などは海兵士官とははっきり差別のあるものであった。予備士官の制度も初めのうちは、ほとんど進級など存在しなかった。 
 戦時中に多くの予備士官を採用せざるをえなかったところから、十三期以降になって進級制度なども整備された。ルーズベルトにもらった襟章などの文言があったように、海兵出身だけがほんものの士官で、ほかの促成士官はスペアと呼ばれていた。 
 海兵士官の閉鎖組織は、近世以来の日本の農村のムラ社会の仕組みに酷似している。〈海兵出身士官〉と〈それ以外の士官〉との関係は、ムラの〈土地付き仲間〉と〈外から流入してきた余所者〉との関係に似ている。〈仲間でない余所者〉ははじき出す。仲間は自分たちだけ。極言すれば、余所者は人間以外。必要なときに使うだけ。批判は身内の中だけ。外からの介入批判は許さない。 
 もちろん海兵士官の中には、立派な人もいるが、ムラ気質が全体組織のエートスになってしまっている。そむけば仲間はずれ。水上機隊の場合が、最も典型的であろう。余所者は、もの扱いで人間扱いしない。 
 水上機隊からも特攻隊も出ているが、隊員はすべて予備学生と予科練である。二枚翼で、破布張り、速力遅い。米機に途中で落とされる確率は極めて高い。お前たちもいよいよ飛行機に乗れるぞ。特攻隊の編成を喜んでいたかに見えるこの隊の分隊長が、いざ編成となると、必ず他の隊に転勤している。予備学生と予科練とは、特攻用搭乗員ということであろうか。これは彼らを人間扱いしていないことかもしれない。いや、爆弾扱いしているといってもいいかもしれない。

Ⅳ-22 .上級士官の自覚の問題
 
 上級士官も自分らが〈特攻をさえ強行する権威〉が、じつは〈殴ること〉の効果にすぎないということに気づいてはいないであろう。特攻を自戒し、殴ることを反省する気配など最後まで全く感じら海軍近代化れなかった。下級精兵も、士官による修正を見習ってであろうか、殴ることを発展させて、下士官兵たちを恐れさせていた「ひどいバッター制裁」が案出されている。

Ⅳ-23 .敗戦を補う特攻
 
 上級士官たちは、日本軍の決定的な敗戦を認めない。認めると、自分らの権威が崩壊すると思っていたに違いない。ひたすら特攻に望みを掛ける空しさに固執する。下級精兵も、精兵であるだけに、十分の検討、勘案、反論もなしに(あるいは、命令通りにといってもいいかもしれない)、特攻作戦をただ空しく受け容れ参加している。精兵であればあるほどに、彼らが次々と死んでゆく。 
 予備学生に教育があるだけに、それぞれに己の面目対面に忠実に特攻志願に対応している。権威がゆきわたって、外から見ると、特攻が素直にスムースに受け容れられているかのごとくに事態は推移していたかに見える。しかし、実情として戦況はますます逼迫して、航空機、搭乗員は次々に減少し、軍隊そのものが意味を消滅して行く状況が生起しつつあったのである。特攻につかう航空機さえ払底していっていたのだ。海軍軍令部の作戦権威は次第に消滅して行く事態にあった。

Ⅳ-24 .海軍近代化
 
 近代日本海軍の壊滅は、貴族主義の自己崩壊である。この貴族主義は、ある意味では海軍の近代化Ⅳ ︱ 168
の試みであったのかもしれない。近代へ追いつくことは、軍隊組織の人間化を目指したものであったに違いない。 
 が、それでいてその組織の核心たる貴族性の何たるかを自覚することができなかった。貴族を求めて、その貴族そのものを見失い消滅させてしまったのである。人間を目指し、逆に人間を放棄することになったことに気づかなかったともいえるかもしれない。

 
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注 59  原文ではタイトルが欠落していたため、編集委員会で補足した。なお、この節はほとんどが引 用となっているが、内容の特殊性を鑑みてそのまま掲載する。
注 60  出典不明だが『あゝ同期の桜』二〇〇三年版二〇一頁に類似エピソードあり。
注 61  この関行男大尉の談話の出典は不明。Ⅱ︱2.にも同じ談話が登場している。
注 62  裏千家十五代家元。二〇〇二年長男に家元を譲り、千玄室と改名。現在は大宗匠(読売新聞 二〇一〇年八月十三日記事のアーカイブを参照)。
注 63  出典不明ながら、千宗室『お茶をどうぞ︱私の履歴書︱』日本経済新聞社、一九八七年、八一 〜八二頁に類似のエピソードが記載されている。
注 64  出典不明。Ⅱ︱ 31 .に同様のエピソードが紹介されている。
注 65  表記は、詞書ともに『新編芭蕉大成』三省堂、一九九九年、三三三〜三三四頁による。
注 66  二〇〇三年版では九四頁。
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#3921 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.125~137 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅲ-15 .落下中の米兵に敬礼
Ⅲ-16 .ある海機卒業者の修正
Ⅲ-17 .殴りの意味
Ⅲ-18 .日本を救う。空虚大言
Ⅲ-19.米軍の指摘する、日本海軍の欠陥

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Ⅲ-15 .落下中の米兵に敬礼
 
 昭和二十年一月二十七日には、B 29 、五、六機編隊による東京空襲が行われた。最後尾の一機が編隊から遅れ、その周辺を豆粒ほどの戦闘機数機が追尾攻撃。やがて、基地外辺に墜落。上空に目を移すと、五、六個の落   下傘が開き、次々着地。搭乗員は掴まえられる。 
 あとで分かったのだが、同機は投弾直後に双発戦闘機(陸軍の屠龍らしい)による左上方からの銃撃で、風防を破壊され、搭乗員は零下五〇度の超低温に曝された。よく凍死しなかったものの、そのためかひどく震えていたようにみえた。一名は死亡せしも、五名ほどは捕虜の後、戦後無事本国帰還。 
 その中の一人、レイモンド・F・ハローラン中尉[一九二二年生まれ]が、自分の降下した地点を確認したいと、平成十一年、十二年に来日。しかし、正確には確認はされなかった。
 
 ハローラン氏が落下傘降下中に日本の戦闘機三機が二周、さらに一機が接近旋回しながら挙手の敬礼をして飛び去った。銃撃を覚悟したが予想外の対応に感銘を受けた。
(横尾良男[東北大。土浦空。操縦。第二美保空。K七二二]「海軍十四期」第三四号一二頁)
 
 戦後この戦闘機の搭乗員が、千葉県に住んでいた海法秀一氏であることを捜しあて、鹿島を訪問する前日、ハローラン氏はこの操縦者を訪ね、謝意を表したのであった。海法氏は当時陸軍伍長。日頃隊長から、「降下中の敵兵を攻撃してはならない。日本には武士道があり、西洋には騎士道がある」と教育されていた。 
 陸軍の飛行隊には、真に品位ある軍律を理解している指揮官が存在していたことは素晴らしいことである。米軍の搭乗員さえ感動させていることが嬉しい。敵であれ、部下であれ、民間人であれ、婦女子であれ、いずれの他者に対しても無意識のうちに襟度ある態度を示しうる気風を具えてこそ、品格ある軍律を保持する軍隊といえるのではないか。 
 先に触れたが、殴る海兵を押しとどめて、自分が殴り倒された久住中尉などは、こうした軍律の意味を自覚していたのであろう。部下を殴ることに軍律の厳しさを誇ることしかできなかった先述の先任士官は、軍律の本当の意味を知らなかったのであろうか。殴ることも軍律を維持する一つの仕方かも知れない。が、品位のある軍律を築くという自覚が全くなかったというほかはない。
 
 軍律維持については、アンケートに答えた文章に、こんな話が載っている。
 
 川邊進夫[出水空。筑波空。谷田部空]


  「十三期、七三期、十四期総員集合」。何事ならんと駆けつけると、既に中野司令、横山飛行長 が来ている。(…) 
 司令はまず、軍隊で最も大切な心構えは何かと問われる。吉村が、死を顧みない敢闘精神ですとか答えると、司令は「違う」と云う。ほかに答えようがないから皆黙ってしまった。すると司令は意外や、軍隊で一番大切なのは和であると説かれたあと、「後任者が先任者を殴るとは何事か」と、烈火の雷を落とされた。
(「海軍十四期」第一五号五頁)
 
 後任者とは海兵七十三期、先任者とは十三期予備士官のことであった。予備士官でも、下位の海兵を殴る(修正する)ことは時にあったようであるが、このときには常に何ほどか、上位海兵士官の反撥制裁を招いて逆に修正されていたことは会報の手記にも多く載っている。が、海兵出も予備の上位士官を殴ることは禁じられていたらしい。七十三期の海兵はどう思っていたのか、この隊では予備士官でも上位のものを殴ることには、さすがに問題であると感じていたらしいことが伺われる。



Ⅲ-16 .ある海機卒業者の修正
 
 中庭をへだてた向こうの棟から、ただならぬ気配が伝わってきた。灯火管制の暗幕におおわれた宿舎から、一歩外に出れば真の闇だった。その闇に踏みだした私の耳に聞こえてくる、怒号と鈍い打撃音。続いてのズシンという、なにかが倒れる重苦しい響きは、そこで激しい修正(制裁)がおこなわれていることを示している。 
 光に到着してから、まだほんの二日か三日しかたたぬころのことであった。あの音のする部屋は、私たちより少しはやく、九月初旬に回天隊員となり、今や連日出撃訓練に明け暮れている、水雷学校出身の同期の者たちの部屋にまちがいない。 
 明日の日にも魚雷と化して死んでゆく男たちが、なんであんなに残酷なリンチにあって苦しまねばならないのか。ただでさえ暗い私の心は、さらに深く闇に沈んでいった。 
 それは四期士官講習員に対して、R(海機出身。のち出撃戦死)が加えている修正(制裁)だった。
 
 藤沢(八期)は、
  「あの男のしごきは連日連夜猛烈を極め、われわれはそれを毎日目撃し戦慄していた」と言い、 
 小野尊飛曹(大津島水上偵察機パイロット)は、
  「あの男、正気じゃなかった」とまで極言している。 
 だが翌朝に会った彼ら四期士官講習員の顔はさわやかだった。その深く澄んだ瞳には、昨夜の嵐の影さえ宿していなかった。特攻隊員になることは、あの瞳になることなのか。そこにはもう、生きながら人間のすべての業を解脱している姿があった。 
 これはえらいことになった。あそこまで悟りきらねば、ここの隊員はつとまらないとしたら、俺はいつになったらそうなれるのだろうか。実際の話、私はいつまでたっても彼らのようになれなかった。 
 全員が出撃して戦死してしまった、あの部屋の人たちに、四十年たった今でも私は畏敬の念を抱いている。
(『人間魚雷回天』五九〜六〇頁  注54
 
 自分は殴ったことがないと語る当時の海兵出身者は、当時の殴る海機人たちの心理を好意的に解説している文章をみたが、何よりも殴るということの人間的な意味を何一つ理解していないことに驚いた(『特攻最後の証言』五三〜五四頁 注55 )。 
 海兵の教育の歪みとでも言うべきなのか、何とも残念な思いをしたことであった。 
 あまり触れられていないので、最後に〈伏竜〉という海軍の特攻兵器について触れておこう(都木濃「伏竜隊始末記」『一旒会の仲間たち』三二六〜三二八頁)。 
 昭和二十年五月。海防艦、第八昭南丸航海士。浦賀入港休日に、当直将校として軍艦旗降下時刻に遅れる。防備隊副長に呼ばれて大目玉。直後、久里浜防備隊付けとなり、伏竜の訓練を受けることになる。 
 訓練の教育担当下士官は、たいへん慎重丁寧。ゴム製防毒衣。上下別、首にゴムパッキン、鉄の首輪。鉛の草鞋。腹帯に鉛の鎖。六〇キロの重みで、浮力抑える。背中に「炭酸ガスを吸収する清浄缶」と「酸素ボンベ」をつける。 
 呼吸の練習がたいへん。しかも危険である。服の中に保つ酸素の量の調整がたいへんで、これには熟練を要す。これに気をつけないと、水中でひっくり返り、自分ではもとの姿勢に戻れない。歩行さえ自由でない。しかるに、武器は三メートル半の竹竿の先に機雷をつけたもので、これで敵艦船を攻撃する。 
 水深一五メートルまでで二時間もつといわれていたが、本人は最長で三十分位しか経験しなかった。これで、敵の艦船の前に展開して、敵艦を攻撃するといっても、果たしてどれほど有効だろうか。 
 しかも、自分自身で自由に着脱できぬ衣服装備である。事故で死んだ予科練も多かったようである。最も粗末な特攻兵器というほかない。 
 それにしても、彼自身はこの特攻を志望した覚えはないらしい。何か失敗をしたら、特攻に廻すという仕組みなどあったのであろうか。何とも兵士をもの扱いしている構造とでも言うほかはない。もともとは志望者をのみ特攻に廻すということではなかったのか。勝手な指揮官がいたということであろうか。


Ⅲ-17 .殴りの意味
 
 時が経つにつれて、海軍生活になれてくると、十四期の予備学生が次第に殴ることに登場してくることになる。十四期が同期生修正を行う頃から、殴る操作は次第に拡がって、十三期はもとより、十四期のものまで平気で海兵並みの修正をすることになる。『人間魚雷回天』を書いた神津自身も次第にそうした殴りに参加している。 
 何も海軍と限らなくても、日常生活ではいかんともし難い事情や手違いがあって、決まり通りに事が運ばないことはよくあることである。ところで、何かつごう通りにゆかないことは、海軍ではすべて殴ることで解決してゆくといってもいい。殴ることが一つの解決法だといってもいいかもしれない。 
 殴るときには、殴られる方からいうと、よく理由もなしに殴られた。しかし、殴る奴にはきっと理由があるのだ。それはつまらん理由であるであろう。しかし、殴っているうちに、相手がだんだん悪く思えてくる。自分が正当になるのである。 
 それに、つまらない理由であるから、その理由は一層有力ともいえる。本当に理由が見つからないことが、「それのみ」が理由となる。いや、何でもが理由になるといってもいい。つまり、いついかなるときにも、殴ることそのことが正当化されるのである。殴って失敗したなどという話は聞いたことがなかったように思う。 
 そして、理由がないからいつでも殴れる。殴っているうちに理由が出て来たりする。あるいは、殴ることが意味を造り出す。そして、自分が偉くなる。相手はますます駄目な奴となる。最後には〈もの〉扱いさえする様になる。 
 殴られる方は、理由がないから理不尽を感ずる。ところが、これは自分が悪いのでなく、身分が下なることを感じてくる。身分化の階層ができてくる。これは他者を一様に〈もの〉と化することに通ずる。予備学生、予科練を大量に特攻に動員するのに繋がるわけである。 
 逆にいえば、海兵の仲間のみ人間である。ただし序列付き人間であるが。大佐、中佐、少佐。根源的な根拠から基礎付けられた原理ではない。自分らの仲間の原理が絶対なのだ。天皇絶対の主張に則っているのである。先に敗戦のときに主張されたことに触れたが、世界の中で天皇が相対なることを知らない。海軍の権力世界の構造はこうしたものである。



Ⅲ-18 .日本を救う。空虚大言
 
 特攻は「日本を救うため」が名目。その具体的内容が分かっていない。本当に、特攻で日本が救えるのか。
  「日本のため」「日本を救うため」が題目だけだから、かえって応用力自在ともいえる。特攻作戦の 犠牲戦果の細かいデータが分かってないから、かえってその作戦の破綻が見えない。一命を投じた搭乗員の行為のみが 注目されがちになるから、それだけ悲壮な崇高な気分のみに目がいってしまうことになる。 
 突き放していえば、特攻員自身もこの空念仏に踊らされ、この作戦が戦況にどれだけの貢献をしているか(冷静な事実)を見過ごしてしまう。またその正確な情報を手にする術もない。その場所にもおかれていない。ただ、軍令部上官の言葉だけを信じて、それが日本の現実と思うほかはない。 
 事態は恐らく、実戦部隊の中間士官も同様な事態におかれていたのではないかと推測される。 
 じっさいには、特攻がいかなる成果を生み、いかにして日本を救えることになるのか。本当に正確に考えた参謀がいたのであろうか。制空権、制海権なき状況で、日本に何ができるのか。ナチスも英爆撃機の大きな被害に対応するため、戦闘機を体当たりさせる特攻戦法を一時採用したが、戦果が挙がらぬとして、一ヶ月ぐらいでとりやめている(三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊』作品社)。 
 大西が特攻を続行したのは、何か戦果を挙げたいと思いすぎていただけのことではないのか。むしろ、今までの敗戦に何か一矢を投げ込むことにはなる。もちろん日本の敗戦を救う作戦があったわけなのではない。 
 司令官たちは知っているはずである。もっともそれでいても、全く成算もなく世界最大の戦艦大和をほとんど孤立無援の中で沖縄へ特攻に出している。 
 むしろ、戦場の勝敗が明白に推測できる事態でありながら、破天荒の勝利を夢想して、現実離れした目的(あるいは、抽象的な目的といってもいい)に固執して多くの将兵を死地に付かせる。まさしく「外道の統帥」である。 
 特攻は現実分析なき作戦なのだ。だから、大西滝治郎の主張した特攻の目的は頻々と変わっている。始めは、空母の甲板を破り、レイテ海戦に資するため。次には、簡単に負けないため。さらには、特攻による米国人の恐怖心を利用して、平和条件を有利にするためなどなど(これは政治家のやることで司令官のすることでない)。こう次々に目的が変わることは、じつは本当の目的がないということを示しているのではないか。 
 にもかかわらず、彼自身は平和降伏には最後まで反対して、米内海相に怒られている。彼は恐らく最後まで特攻に固執したことであろう。しかし、大西は特攻をみずから正面から発言した。後に触れるが、誰が本当の特攻発案者なのか、正確には分かっていない。背後に軍令部があることはおおかたの見解であろう。 
マ ルダイ(桜花)の発案についても、大田正一少尉が有名であるが、じつは背後に源田実がいたのではないかといわれている。こんな話が残っている。

 大田正一
 
 桜花の発案者とされる大田正一に触れておかなくてはならない。大田の案は源田実の引き回しで実現されたといわれている。が、桜花にまつわる源田の存在は影のままにとどまり、解明されていない。 
 ある論者は、特攻は陸軍では上から、海軍では下から発案されたという。確かに回天は黒木中尉と仁科少尉とが発案した。初めの頃に、二人とも事故で殉職している 注56 。 
 しかし、大田はどうか。発案者が最後まで桜花に搭乗していない。何故か 注 。むしろ大田は人寄せパンダであったのではないか。大田が重要な意味をもっているのは、桜花が軍令部の特攻踏み切りに大きな役割を果たしている点である。 
 特攻兵器の発案としては回天の方が先であったが、脱出装置に難があるとしてなかなか兵器として認められなかった。ところが、脱出装置なしの特攻兵器決定には、桜花が先鞭をつけた。桜花が先に兵器として認められたことが、回天の兵器認可を可能にしたともいえる。 
 回天で出撃すれば、いずれは死ぬ。脱出装置があってもなくても同じといった議論さえ出ていた(武山学生隊第一隊長津村敏行の考え。「脱出口があってもなくても、決して助からないのではないか」)。 
 大田は桜花の採用と共に、たいへん重要な人物とされている。桜花は通称〇大(マルダイ)といわれている。 彼は敗戦時には神雷部隊にいたが、ひとりゼロ戦に搭乗、鹿島灘沖から太平洋に消えたといわれていた。ところが、漁船の側に着水。生存した。寸借事件など起こして後、消息を絶ち、名前を換え、結婚して生き延びている。すでに触れたが、この彼の生存の背後には源田の影ありとする説がある(『一筆啓上瀬島中佐殿』一三〇頁)。
 御田重宝(桜花は軍令部の発案とするジャーナリスト)は、「特攻隊はいかにして生まれたのか特攻兵器開発の真実と「大田正一少尉」の病死」で、次のように述べている。
  「昭和五十八年二月三日の中日新聞は、『生きている?桜花〝生みの親〟・特攻の本命誕生のナゾ聞きたい』と、ほとんど一ページをさいた特集記事を載せた。愛知県出身の大田少尉の故郷の関係者から消息を聞き出したいという目的があったが、『読者からの感想はありましたが、大田少尉の関係者からの反応はゼロでした』と執筆した記者が私に語ってくれた」。 
 ところが、平成六年十一月にT・O氏より御田に連絡がくる。御田が桜花の発案を大田でなく、軍令部としていたことから、真実を語りたいとの申し出があった。氏は大田正一の子どもと名乗る。大田は山口県生まれで大正元年八月二十三日誕生とのこと。取材の約束を取り付けるも、同年十二月に、本人がガンのため死亡。真実は不明のままに残ってしまった(別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』二八〜三一頁)。 
 特攻作戦は軍令部の発案としても、冷静な軍事の現状の分析も無く、いずれにしてもただ緊急事態を叫び、いたずらに若い搭乗員たちに悲壮な勇気を求めたのにとどまったのは残念である。通常の軍令部であれば、本当に日本を救うためなら、通常作戦でやるべき。これができなければ、降伏すべきである。この検討さえなかったとするなら、まことに思慮のない話である。



Ⅲ-19.米軍の指摘する、日本海軍の欠陥
 
 戦後知ったことであるが、米側の日本軍戦力の分析は〝下士官兵は強いが、職業軍人の幹部将校は柔軟性に欠く〟とのことであるが、米軍は日本軍の内情を分析するだけでなく、自軍の欠点も知っており、民間人をどんどん登用してその柔軟な頭脳を活用し参謀としてすら活用した由である。
(田村靖「わが戦中日誌」『一旒会の仲間たち』三〇六頁)
 
 大学生の搭乗員は勿論多く活躍している。父ブッシュ元大統領も搭乗員であったといわれている。 
 日本人の〈島国根性、ムラ意識、派閥意識〉は歴史的、伝統的のものであるのかもしれない。海軍がこの根性を中核のものとしたことは何とも残念である。


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注 54  文庫版では八四〜八五頁。
注 55   『特攻 最後の証言』制作委員会『特攻最後の証言』文春文庫、二〇一三年では七六〜七七
頁参照。

注 56  黒木博司大尉は昭和十九年九月七日に回天訓練中の事故で殉職したが、黒木と共に殉職したの は樋口孝大尉。仁科関夫中尉は回天特別攻撃隊菊水隊員として昭和十九年十一月二十日に戦死し ている(回天刊行会編集発行『回天』一九七六年、一四七頁、一五四頁)。

注 57  大田は桜花に乗ろうと操縦の手ほどきを受けたものの、適性なしと判定されたという説がある (内藤初穂『桜花』中公文庫、一九九九年、二九三頁)。
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桜花https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)
海機:海軍機関学校。海軍には海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校の三校があった。海軍機関学校は機関術、整備技術のほかに火薬の調合や設計やメカニズムの研究など、さまざまな科学技術研究をしていた。機関科将校育成機関である。舞鶴と横須賀にあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍機関学校



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#3920 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.102~125 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅲ-
1.海兵の予備士官軽蔑

Ⅲ-2.海兵による差別、修正、種々相
Ⅲ-3.宇佐空
Ⅲ-4.ぶん殴られ続ける
Ⅲ-5.罷免
Ⅲ-6.「あの十三期の馬鹿が」
Ⅲ-7.名古屋空の十三期
Ⅲ-8.百里原空における終戦時の混乱
Ⅲ-9.伏竜連判状
Ⅲ-10 .予科練から見た海兵海機
Ⅲ-11 .この殴るの効果
Ⅲ-12 .海兵候補生の着任。予備学生との違い
Ⅲ-13 .「ルーズベルトに貰った桜」
Ⅲ-14 .「軍紀厳正なること大和、武蔵以上」
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Ⅲ-1.海兵の予備士官軽蔑
 
 折々に触れてきたが、我々の二年間の海軍生活で、何よりも印象深かったことは、多くの若い海兵出身士官が我々に対していい知れない「優越感」を持っていたことであった(この優越感は裏からいえば、軽蔑感とも嫉視感ともいえるかもしれない)。この優越軽蔑嫉視感は彼らのたびたびの指導修正と一体をなしており、いつも理由も分からないまま繰り返され、我々全員がぶん殴られてきた。「気合いが入っていない」「弛んでいる」「愛国心が足りない」というのが、決まり文句であった。 
 徴兵で海軍を選んだ学生たちは、多くは海軍贔屓であったように思う。やる気もあり、積極的に海軍にコミットする気持ちをもっていたように思う。それだけにびっくりした。多くの予備学生はこの海軍の印象に、不可解な疑問と嫌悪感を持ったような気がする。この彼らの態度が何を意味し、何を結果してゆくのかは、いずれ述べることにして、いくつかの予備学生たちの文章を引いておこう。
 
 吉岡陽之介[九州大。相浦。要務。土浦空。百里原空。二五二空]

  (…)少尉候補生が 90 人くらいいたが、これが好餌が来たとばかりに我々 14 期 60 人をぶんなぐる。 帝国海軍伝統の制裁を見よと、毎晩のように何かと理由をつけては修正するわけだ。これをみてまた 13 期の艦爆搭乗員が予備学生の面汚しだといってなぐる。実によくなぐられたね。
(「九州十四期」昭和五十九年八月十日号三頁)

 
 松林重雄[東京商大。操縦。博多空。七二二空]「追悼の詞」

  (…)収容所で地獄をみたと言った君。それと比べものに成らぬかも知れぬが、八ヶ月間、特 攻隊員として毎日毎夜を過ごして地獄を見た私。我々同世代の者はそれぞれ地獄を見て来ました。人間は極限状態に追い詰められると、余り美しいものでは無いと意見が一致しました。
  (…)
 学徒出陣で入隊し教育中、海兵出の本チャンから「一年やそこらで海軍士官に成れると思ったら、大間違い」と殴られ続け、実戦部隊では「三十歳まで生きられると思うな」と引導を渡されたが、偶然が重なり遂いに終戦となり、先に突っ込んだ学友戦友に申し訳ないが生き残ってしまった。
(『学徒出陣 50 周年記念特集号』一六六頁)


Ⅲ-2.海兵による差別、修正、種々相

 久住中尉
 
人 柄や教養のなせるところであるのであろう。海兵出でもやたらに殴らないりっぱなひともいたのである。いや殴らないだけではない。ここに久住宏中尉[海兵七十二期]のことに触れておきたい(神津直次『人間魚雷回天』一七四頁 注43 )。
 
 予備学生を殴るどころか、殴ろうとした海兵[七十一期]の前に立ちはだかり、「待ってくれ」と制止したため、逆に彼自身がめちゃめちゃに殴られ殴り倒されている。この話は下士官搭乗員たちの語り草になっている。   
 もっとも、久住は海兵入学以前にすでに立派な生徒で、中学の同級生は「川越中学から転校してきたのであるが、冗談一ついわない長身で色白の温和しい生徒であった」といっている。東京九中へ転校。「温和で粘り強い性格。誰からも親しまれた」ともいわれている。 
 ちなみに、彼が出撃直前に書いた遺書を紹介しておこう。
 
 私の事が表に出る如き事あらば、努めて固辞して決して世人の目に触れしめず、騒がるる事無きよう。……願わくば君が代守る無名の防人として、南溟の海深く安らかに眠り度く存じ居り候。 
 命よりなお断ち難きますらおの 名をも水泡(みなわ)と今は捨てゆく
(同書一七五頁 注44
 
 予備学生を殴り続けていた人たちの中にも、こういう人がいたのである。にもかかわらず、あんなにまであくまで予備学生たちを「殴り」続けたことには、何か特別の訳があったのか。それとも、本人たちは、殴ることでよほど気分が良かったのかもしれない。あるいは、これは本人たちが海軍で受けた教育の問題かも知れない。

 藤井中尉??注45
 
 宇佐空第一陣特攻一番機。十四期要務学生指導官。優しい兄貴の風格があった。自分が修正をやらず、何かの不都合で、修正が行われるときには、学生相互の間の修正に委ねていた。
 
当時、宇佐空には、海兵出の七十四期候補生約一〇〇名(特別宿舎)、十三期予備学生が約二〇〇名(一般宿舎)、それに十四期の要務学生が在隊していた。 

 一足先に任官した十三期の一少尉が、欠礼した七十四期の一候補生をなぐったのである。その夜更け、私達は隣の十三期デッキに生じた、けたたましい怒声と、荒々しい靴音に眠りを覚された、僅か数名の次室士官が十三期全員を叩き起し、なぐりまくっていたのである。(…)怨念をこめ、言葉にならない叫びを上げ乍ら傍若無人に荒れ狂っていたのだこの時の持って行場のない怒りは十三期共々、私達の心に焼きついている。 
 翌朝、私達を集めて、藤井中尉の訓辞があった。顔面紅潮、感情を露わにして藤井中尉は激しい口調で私達に訴えた。(…)
  「いざとなったら吉良上野介だ。それまで我慢するんだ。口惜しいだろうが、辛棒するんだ。」切々 として、星一つ違うと地獄になる軍律の厳しさを、戦いの苦しさを、涙さえ浮かべ乍ら訴えたのである 注46
(竹田延「藤井中尉を偲ぶ」「九州十四期」第一号一頁)

 宇佐空から最初に特攻出撃したのは予備士官たちであった。この藤井中尉は、この宇佐空特攻隊の一番機搭乗員として出撃している。
 
 水上機の鹿島空でも、同様なことが起こっている。
 
 須永重信[東京農大。鹿島空。神町空。三一二空。秋水]
  (…)飛行生徒(兵学校最上級生)が短期間学生舎に来たとき、階段を一段ずつ上るのを見て〔予 備学生の一人が〕「待て」を掛け、一発修正をした〔隊内では、階段は必ず二段飛びで駆け上がるよう決められていた〕。夕食後にガンルームの兵学校出に総員百名が修正を受け、以後手出しを禁止されたが、生徒が舎内で放歌高吟するので我々もやる。分隊長(中尉・兵学校出・通称「ニヤ」)に、学生舎前で総員修正。「同じ事をして」の質問には、無言で解散となった。
(「海軍十四期」第三五号八頁)
 
 ところが、一方海兵生徒が卒業して少尉候補生になると、候補生は予備学生より序列が高くなる。筑波航空隊には、予備学生と一緒に少尉候補生の飛行学生がいて、予備学生の方は、あたるを幸い、殴られっぱなしの憂き目にあったとの話が伝えられている。


Ⅲ-3.宇佐空
 
 宇佐空の最初の特攻隊が出たのは、昭和二十年四月六日であるが、搭乗隊員はすべて予備学生と予科練であった。この事態に、司令に痛憤を晴らした男がいる。艦攻搭乗員の山田寛[出水空。宇佐空]は士官室に怒鳴り込んでいる。
  「予備士官、予備士官と莫迦にしやがって、見ろ!出て行く者、出て行く者、予備士官ばっかりじゃないか!」
 司令は黙っていたという(須崎勝彌「宇佐空、その死と生と」『学徒特攻その生と死』二七八頁)。  
 次の出撃には、海兵出の士官が出撃したということである ?注47
 
 この話はほかの人も書いている。
  「コラッ、アナポリ出て来い。特攻に出て行くのは予備学と予科練ばかりだ。本ちゃんは何うした んだ。文句あるなら出て来い」(美座時和「宇佐空を弔う」「海軍十四期」第一五号三頁)。
  (…)宇佐を出て行く仲間を指揮して、派手に段平を頭上に振りかざした七十三期の小鬼共が 旬日を経ぬ裡にケロリとして戻って来るに及んでは、アナポリ偏重の根胆が目立ち、気がつけば出て行くのは予備学と予科練ばかりであった。
  (…)
大体我々は本チャンが手不足なので手伝いに行ったのだ。御苦労さんと挨拶を受けてこそ当然なのに、先着順で、位階のみで威張られてはタマッたものではない。
(美座時和「友よ 聞いてくれ」「同期の桜会報」第七号七頁)  

Ⅲ-4.ぶん殴られ続ける
  
 西田信康[土浦空。偵察。大井空。松島空。神町空]「2? 70 の後遺症」

  (…)土空に入隊した頃(…)、分隊長吉川大尉の訓示が常に「貴様らの年貢は一年以内に納め させてやる」。即ち一年以内に殺してやるから覚悟せよ、と云うのであった。(…)大井空に移り、約一年間、朝から晩まで土空とはまた違った猛訓練が始まった。午前が飛行作業なら午後は座学、翌日は逆と、連日一分の暇も与えられず鍛えられた。鉄拳制裁を受けぬ日はなかったと云っていいほどだった。理由は簡単、「本日の飛行作業を 見ていると、やる気がない。弛んでおる。これで米英に勝てると思っとるのか」である。 
 不思議なもので、数ヶ月経つと修正も苦にならず、言い訳も一切言わなくなり、我ながら軍人とはこんなものだな、と悟るようになって来た。大井三分隊長飛田大尉の教育方針は「笑って死ねる人間となれ」であった。
(「海軍十四期」第一九号一四?一五頁)

 この搭乗員は、ある意味で「ぶん殴り」の意味を理解し、海軍の事情に理解を示している。海軍の教育が何らかの形で効果を残しているということなのかもしれない。 
 しかし、ひたすら、死を認めることは、具体的にはもはや上官の言葉に文句を言わないことである。無意識の内に、上官の地位は確保される。しかも、上官は気分がいい。下位のものは上位が特別に偉いことを無意識の内に納得することになる。そのことが当然のことで、それが何でもなくなる。後に触れる海軍士官の貴族主義は、ここで確保されることになるのかもしれない。 
 筆者はそんな気がしているが、もっともこのことについては海兵士官自身の証言は見あたらない。何故か。海兵のひとは書かない。本当に文章が残っていない。何か書くと、その言質を取られてすぐ責任を問われるからかも知れないからだ、と指摘する人もいる(次の要務学生の基礎教程の話参照)。
 海兵時代から、余計なことを書かないよう鍛えられているに違いない、というのである。真偽は不明である。


Ⅲ-5.罷免
 
 鹿児島要務の予備学生が、どんなことでも、何でも所感を書いてよいといわれて、海軍の批判めいたことにも触れたものがいたようである。が、このために、予備学生を罷免されたものが、だいぶいたという話が伝えられている。罷免されたものはその後我々の面前から姿を消してしまったので、以上の話の信憑性は確認されてはいない。この話からの類推であろうか。
 我々の基礎教育課程でも、抜き打ちに「日記を提出せよ」とのことで、不適切なことが書かれていて、そのため罷免された学生が何ほどかいたという話は聞いた。しかし、じっさいにその学生が誰々であったかなどは一切不明であった。十四期会報にも罷免された学生の消息を悼む文章は二、三見かけるが、じっさいにその人たちに触れた人はいなかったようである。罷免された方のほうが避けていたのかもしれない。 
 容易に推測できるように、理由もなしに殴られる人間は理不尽な不快感をもつ。しかし、他方、もちろん人柄教養にもよることであろうが、殴るひとの方は気分がよくなるらしい。こうして、海軍ではますます殴る人たちを増殖して行くことになる。 
 この過程は、恐らく海兵の校風がそうだったのであり、そのことを多くの十三期の連中の言動が示している。彼らが、海兵の殴るやり方を盛んに真似て、十四期を叱咤していたことは、我々がいくどか経験していることである。こうした海兵、十三期の言動については、多くの十四期の文章が会報に載っている通りである。


Ⅲ-6.「あの十三期の馬鹿が」
 
十三期は、十四期がくると、下のものが来たので、気分が楽に、そしていい気分になったのであろう。
 
 青島〔空〕は悪かった。毎晩やったね。 14 期の兵舎と 20 mくらい離れて 13 期の兵舎があった。夜、14 期がよその兵舎や教室で温習をやってかけ足で帰ってくると、暗闇の中に 13 期が毎晩待ってい て「待て!」とやる。理由はわからないが、毎晩なぐられた。 
 我々の要務の分隊士は何も言えない。特務士官の分隊長も言わないので、なんとなくそういう恰好ができてしまった。 13 期は海兵出の分隊長や分隊士にコテンコテンになぐられていたので、 そのとばっちりがこちらに来たわけだ。(…)我々は 13 期に対しては、あの馬鹿どもがという気 持だった。
緒方彰[東京大。相浦。要務。鹿児島空。青島空]「九州十四期」昭和五十九年八月十日号三頁)
 
 気分がいいからなのか、意趣晴らしなのか、海兵の真似をしてぶん殴る。「あの十三期の馬鹿どもが」という言葉が定着していった。
 
 藤倉肇[日本大。要務。青島空。横須賀空]も「緑のアカシヤ赤い屋根」で、同じ「十三期偵察学生の夜ごとの修正」について書いている。これがなければ、「青島航空隊は十四期の中の最高の修練の場であっただろう」(「関東十四期」第四号九頁)。 
 平気で下位のものたちを殴りつける海兵、十三期の心情については、未だに理解しがたいことが多い。いわれなき優越感とでもいうほかはない。あるいは、馬鹿な話であるが、海軍上層部が奨励していたのかもしれない。異様な社会であった。が、こんな内部不信を抱えた航空隊が一致して戦争を戦えるはずはない。どこか狂ったところのある社会であった。


Ⅲ-7.名古屋空の十三期
 
 挙母(ころも)の艦爆名古屋海軍航空隊のことである。

  (…)名古屋空の敷居を跨ぐや、居住区も学生舎も不案内で、何処に落ち着くかもわからない でいる内に、少尉の襟章をつけた一種軍装の上着に、飛行服のズボンと飛行靴の五、六名の十三期らしい少尉に「待て!」をかけられた。整列した十四期三十八名は有無を言わさず片手間隔に開いて、目から火の出るような修正を隊門へ入ったトタンにくらったことは忘れることが出来ない。「何をモタモタして居る。十三期は海軍予備学生を志願して入隊したのに、貴様等十四期はオメオメといつまでも大学にしがみついて、徴兵でくるとは何事だ。海兵団の二等水兵の匂いのする奴等には海軍飛行専修予備学生の面目を教えてやる」とまた修正。
  (…)
 一人でも尾輪切損すると全員飛行場滑走路一周、(…)ライフジャケットに傘帯を着けての一周である。そのうち十三期分隊士の一人が「貴様達のはいている飛行靴は陛下から賜った飛行靴である。罰直に使用するのはもってのほかである」と、(…)脱靴させられ、十三期分隊士は自転車で見張誘導、四列縦隊の左側先頭を走る。
  (…)分隊士の自転車は右へ右へとにじり寄って来る。(…)小生達は、だんだん右へ寄って来 られるから滑走路面から外れコークスのガラを敷いた地面上になる。飛行場清掃勤労奉仕隊員達は自然発生した葭を鎌で刈ってくれるのは有難いが、当然右から左へ鎌を使えば竹槍の穂先のようになる。その上を脱靴で走るのだから文字通り針地獄であった。
(嶋本徳衛「海軍の徒然」『学徒出陣 50 周年記念特集号』一二二頁)
 
 土田祐治[立教大。谷田部空から千歳空へ転勤。霞ヶ浦航空隊分遣隊]

  (…)吉江中尉(海兵出)と千歳のレスに飲みに行き、大いに意気をあげた翌日、彼が「オイ土田よ、 お前と飲んだという事で士官室の奴等に修正を受けた。口惜しいよ!」と涙を流して話しておりました。

  「士官は下士官、兵の集まりの中で、一緒に酒を呑まぬ」ということはいわれていたが、これと同 じことかもしれない。
 
 何もそこ迄差別する必要がないじゃないかと、いささか憤りを感じておりました。 
 その矢先、豊福大尉(海兵出、綽名がトンプク)が我々に集合を命じて叱咤している中で、「お前等、予備士官は愛国心に欠けている」とほざいたのです。 
 前の吉江中尉の事もあるので我慢がならず、一寸、脅かしました。(次に掲げるのは、その時の様子を見事に描写してくれた青木俊二郎(一期生徒)の寄書からです)

  〝オイ  トンプク ワシャネ予備士官ニ愛国心ガタリナイトイワレタノガ口惜シイカラ前言取消ヲシテ呉レ、シネエー ヨオシ ブチコロスゾ〟 
 あの威勢のよいたんかもやがて聞かれなくなります。意気の人土田さんを見習い私も強く頑張ります?
                         青木
 
 この事が契機となり、彼等の我々に対する見方、扱い方が一変しました。 
 その後、七月半ば頃、決号作戦について、千歳基地にたむろする各部隊の全員集合があり、決号作戦の出撃要項を橋本司令から説明がありました。 
 その言葉の中で「予備学生並びに予科練出身の搭乗員は、敵船団が我が国二百海里沖迄接近した時には、まず一番に飛び出してこれを撃沈する事。我々、海兵出の士官は爾後の大日本帝国の再建に挺身する」とおこがましい訓辞をしました。 
 どう考えても、職業軍人より我々が先に死ぬ事はないとの私なりに哲学で、ようし!ここで立たねば今迄、何かと迷惑を掛けた同期生に相済まぬと決意し、司令以下海兵出士官の集合を申し入れました。 
 私はこの時、手塚少尉が日本刀を持っていたのを知り、それを借用して乗り込むつもりでしたが、同期の諸兄から「そのような無謀な事は止めろ。その上、日本刀を携えて行くなんてとんでもない」と必死に止められました。
 その時、森山少尉が「日本刀を持たずに行くなら、俺が後見人として一緒に行くがどうだ」と申し出たので、二人で士官室に入りました。森山少尉は正義感が強く、鋭い洞察力を持った男でした。 
 なる程、司令以下士官達が、ガン首を揃えておりましたが、憶する事なく「今回の訓辞の中にある予備士官云々の前言を撤回していただきます。我々予備学生は軍事の練度には劣るとも、少なくとも貴方がたよりは政治、経済、法律については優れていると思います。貴方がたは権力と権威で軍を率いておりますが、権力、権威の座にある者は率いられておる者を守る義務がある筈です。この作戦には、職業軍人である貴方がたが先に行って下さい。吾々は微力ながらも、大日本帝国の再建に、邁進します」と一席ぶちあげました。 
 必死の形相の若武者に脅えしか、将又(はたまた 注18)、己の非を悟りしか、サアスガー、司令ですね、
「よし!貴様の言う通りだ、前言は撤回する」と、快諾して呉れました。然し、それから旬日を経ずして、終戦を迎えたのであります。
(『学徒出陣 50 周年記念特集号』一二八頁)
 
 しかし、この基地にいた手塚久四少尉の記事によると、千歳基地の特攻隊に初めて展開命令が下ったのは、八月十三日の観音寺空(香川県)への進発命令であったが、この隊員はすべて予備士官と予科練習生であった。「海兵が全く指名されていない」(「零戦、谷田部から千歳へ」『学徒特攻その生と死』四〇〇頁)。
 
 橋本司令の老獪というべきか、土田少尉のお人好しというべきか。これが老獪な海兵出司令の無言の決意なのかもしれない。いや、海兵の神髄なのかもしれない。
 
 海兵のぶん殴りに文句を言ったことでは、こんな話がある。
 
 椎名泉[東北大。偵察。大井空]「大井空白菊特攻出撃せず」
 
 ガンルームに入って二、三日目の夜、われわれは十三期の「挨拶」を受けることとなった。(…)
「(…)オレたちは元山の戦闘機乗りだ。貴様らのような徴兵とは違うぞ」
  (…) 
 四月の終わりごろ(…)どこの戦地からか引き揚げてきた海兵七十三期の中尉四名ほどが白菊特攻隊に入ってきたのだ。(…)初めて訓練に参加した直後に、エプロンにわれわれ十四期だけを並ばせて修正を加えたのである。曰く、「貴様ら予備士官の態度はなっとらん」うんぬんと。(…)
大井上〔十四期。学生長〕は肩を突き上げて、「よし、オレが行ってくる」と海兵出の連中のところへ行った。大井上はこう言ったという。「われわれは現在は学生ではない。すでに士官として特攻に参加している。しかし同じ特攻に参加している下士官兵の前で殴られる覚えはない。これは重大な侮辱である。なにか訓練上、非があるのであれば個別的に話してもらいたい」と。これを聞いて海兵出の連中は謝ったとのことだった。その後、訓練を続けるにつれて彼らは借りてきた猫のようにおとなしくなり、われわれにオベンチャラなどを言うようになったのは、お笑いであった。
(「海軍十四期」第一三号六頁)
 
 先の土田といい、今度の大井上といい、そのいい方の肌合いは異なるが、文句を言えばそれが通ることもあるということかもしれない。もっとも、文句などとんでもないといって、どんなことをするかも知れない連中のいることも確かであるかもしれない。


Ⅲ-8.百里原空における終戦時の混乱
 
 須崎勝彌[東北大。相浦。土浦空。操縦。出水空五。宇佐空。百里原空]「宇佐空、その死と生と」

  (…)我々は百里原空で終戦を迎えた。たちまち隊内に起こった二つの混乱、一つは物欲の鬼 と化した一部下士官による主計科倉庫の襲撃、一つは厚木航空隊に呼応して決起しようとする兵学校出の士官たち。その論旨は、
  「天皇は絶対なり。故に絶対なる天皇の下に統率される帝国海軍航空隊に降伏はない。これよ り丸ビルへ向かって特攻訓練を開始する。われに続け!」 
 その論理的欠陥を明快に衝いた男がいる。艦攻の田辺博通だ。
  「天皇の絶対とは国内的での謂いである。戦争という国際的な次元に立つとき、国内的に絶対 なる天皇も、国際的に相対と言わざるを得ない。従って国内的にしか絶対にすぎない天皇の下に統率される帝国海軍航空隊には降伏があり得るのだ」 
 田辺のことばは、(…)わが世代の知性と勇気を奏でたことに私は感動した。
(『学徒特攻その生と死』二七九頁)


Ⅲ-9.伏竜連判状
 
 敗戦から二、三日後のことが書かれている。
 
 都木濃[同志社大。航海学校。呉練習艦隊。七一嵐部隊]「伏竜隊始末記」
 
 それから(終戦の日から11 注 )二、三日して士官全員集合(三〇名ぐらい)の伝達があり、先任士官から第七一嵐部隊は敵が上陸して来ても玉砕するまで戦うから連判状に賛同の署名をしろという訓示があり一人ずつ先任士官の前に行くことになった。他の者はどうしたか忘れたが、私は詔勅が下った以上これは陛下に対する反逆行為であると思い「私は学生の身を陛下のご命令で軍隊に入った予備士官である。終戦の御詔勅が下ったうえは今後はこの焦土となった祖国の復興に尽くすのが私の本分と思います。したがって署名はお断り致します」と言って署名を拒否した。ちょうど厚木航空隊が一億玉砕を叫んでビラを撒いていた時機であったと思う。 
 その後一日か二日して伏竜は解散と決まり下士官兵を早く帰郷させるべく全力を尽くしたのであった。
(『一旒会の仲間たち』三二九頁)


Ⅲ-10 .予科練から見た海兵海機
 
 武田五郎も「修正」と称する「鉄拳の嵐」について、こう書いている。
  「こんなことでもしなければ軍紀風紀が維持できないという発想がなんとも哀れである」
  「一度に二〇発、三〇発殴られるのは、日常茶飯事で、正気の沙汰とはいえない状態であった」
  「いかに志願した身とはいえ、私たち搭乗員の心は荒れすさび、無念の思いを胸に出撃して行った 仲間も多いことと思う」(『一旒会の仲間たち』二七四頁)。
 
 横田寛は、海兵のハンモックナンバーについてこういっている。
  「兵学校卒業時のハンモックナンバー意識が、明治いらいの海軍の悪習のひとつであったことは疑 いもない。われわれ下士官が士官に意見具申などできなかったが、上とて同じなのである。よい意見と思っていても、下部からあがってきたものは、参謀肩章のメンツがじゃまをして、これをすなおにうけ入れることができなかったのだ」(横田寛『あゝ回天特攻隊』二七八頁)。 
 回天の使用については、軍令部の意見は海上攻撃不可とし、泊地攻撃をよしとするものであった。泊地攻撃は、敵の警戒厳重で、不可能であったことが、なかなか承認されなかったようである。 
 伊号三六潜水艦菅昌徹昭艦長は「あくまで手持ち魚雷を主眼として止むを得ないときにしか、回天戦はやらなかった」(同書二七九頁)。 
 菅昌艦長「君たち二人の艇が故障で、発進できないとわかったとき、皆を死なせたくなかったから、ホッとした。艦長の責務とあればいたしかたないが、回天の発進命令を出すほど辛いことはなかった」
(『一旒会の仲間たち』二六五頁)。 
 歴戦の武人として偽らざる心境であろう。回天搭乗員に涙していた艦長もいたのである。何でもかんでも特攻ではない。沖縄戦ではこうした作戦采配さえなかったわけなのだ。みんな特攻である。


Ⅲ-11 .この殴るの効果
?
 殴ることで、自分が上位であることを確認する手法が有効であるとすれば、何も努力せずに誰もが一流になれる。貴族になれる。この仕方は便利で安直である。その上教養に関心が失われると、情けない状態になる。 
 海兵海機のみならず、十三期がすぐに、また十四期の愚かな奴がすぐ真似る。十三期は格好の殴られ役(十四期)がいた。だから、十四期のほうからは「あの十三期の馬鹿」といった言葉さえ出てきた。十四期は直接には殴られ役に恵まれなかったので、馬鹿になる機会が少なかったのは、たまたまこの殴るの効果の幸いであった。
 
このやり方は人間の弱点に乗じている。拡がりやすい。口惜しいことの意趣返しで使われたりしている。海兵、予備学生間の騒動には、幾つか例がある。 
 この一つの例を田村靖[東京大。潜水学校。下田海竜]が書いている。
 
 当時、海兵出の少尉候補生連中と宿舎が隣り合わせとなり、少尉であるわれわれに敬礼しないとかで、修正事件を起こし、海兵出の中尉から〝海兵出はわれわれが鍛えるから貴様らはよけいなことをするな〟と叱られたことがあるが、この事件が小生の海軍時代の唯一最大不愉快な出来事であった。
(「わが戦中日誌」『一旒会の仲間たち』三〇六頁)
 
 この種の事件は予備学生がたびたび遭遇する事態であるが、海兵海軍組織が、いわゆる日本の〈ムラ社会特有の仲間意識〉を核として成立していることを暗黙のうちに示している。
 
 以後、海兵出の中尉クラスは事あるごとに、予備士官であるわれわれに辛く当たったようであるが、こういう点が、若い海兵出身者のわれわれ促成士官出身を見下す小生意気なところで、大尉以上、特に実戦経験者にはまったくそのようなことはなかった。その後いろいろと聞くと、同じ予備学生仲間でも、若手の海兵出身とのトラブルはかなりあったようである。

(同書三〇六頁)


Ⅲ-12 .海兵候補生の着任。予備学生との違い
 
 武田五郎が光基地の予備学生に対して、昭和十九年の十二月に少尉任官の公式の通知がなかったことに疑問を持ち、これについてくどくど触れている(『一旒会の仲間たち』二六九頁)。 
 はじめにこの文章を読んだとき、何故こんなことをくどくど書くのか、疑問に思った。確かに昭和十九年十二月二十五日に我々は少尉になっているはずである。にもかかわらず、この隊の十四期予備学生がこの日に襟章をつけかえていたことを海兵出の士官が見つけて、正式の通知もないのに何をするか、と怒鳴りつけたことに関係しているのだ。 
 武田はいう。「まさか通知がきているのに、いやがらせで黙殺されたとは考えたくない。海軍省人事部が通知を忘れたのであろうか。(…)なんとも無礼というか、非礼の仕打ちであった。こんなことなら、なぜあれほど仰々しい手続きをして特攻隊を志願させたのか。日本海軍とはこんなものであったかと、むなしい思いであった」(『人間魚雷回天』四七?四八頁11 注 )。


Ⅲ-13 .「ルーズベルトに貰った桜」
 
 光基地には、こういって我々を叱咤する海軍大尉がいた。

「わが輩は海兵四年、候補生半年、少尉一年、中尉一年半、ようやく大尉になったんじゃ!  
それを一年で少尉になりおって。貴様たちの襟の桜はルーズベルト(当時の米国大統領)に貰ったものじゃ。ルーズベルトにお礼を言え。今からチューシャ(注射)をしてやる。カカレ!」
  「てやんでえ。ほしくて貰った桜じゃねえや。くれるというから貰っただけだい。それを目の カタキにしやがって」 
 そんなことを考えているひまに足を開いて歯を喰いしばらなくては、海兵出の少尉さんたちが十人以上もかかってきやがる。今日は一人六十発はやられるな。 
 同工異曲がもう一つ。
  「貴様たちは、なにしに海軍にやってきた」
  「手が足りないから助けにきてくれと言ったのはどっちだ。助っ人はいらねえなら家へ帰しゃ あいいだろう」 
 それでも五十発。 
 武田五郎(八期)いわく「われわれはまさに招かれざる海軍少尉だった」
(同書五六?五七頁1注 注)
 
 
 戦況芳しからず、急遽徴兵された我々であるが、こういった発言は思いもよらなかった。「手の足りない所をやってきてくれたか、いろいろ教えるから、一緒に頑張ってアメリカと戦おう」。我々が海軍にいたあいだ、こんな言葉は一言もなかったような気がする。海軍組織には、何かが抜け落ちている。共に戦う同志の意識は全く存在しなかったのではないか。団結のない所には勝利は存在しないことを知るべきなのだ。 
 何年やって少尉になったとか、中尉になったとかが重要なのではない。どれだけの軍人としての戦闘技術、あるいは上官としての統率の人格を身につけ得たかが問題なのだ。重要でないものに自分の実力の規格を求めている。どこか見解が狂っている。人柄の問題か、それとも見識や教養の問題なのか。士官教育の最も大切な問題点が欠落しているのではないか。 
 事態の本質を見ることができない状況にある。誇るべき、努力するべきは、地位ではない。実力なのだ。こんな簡単なことが分からない。海兵教育、校風、訓練の恐るべき貧困さを感じざるをえない。 
 初戦の真珠湾奇襲こそ大勝利を収めたが、爾後のまっとうな海戦はほとんど連戦連敗で、ついに沖縄に敵を迎える事態になったのは誠に残念であるが、この連敗の原因の自覚がなかったような気がする。特攻など「まともな作戦」でないことは先に触れた。戦果もはっきりしていない。にもかかわらず、昭和二十年の海軍の作戦はほとんど特攻しか考えていない。 
 敵を知り、己を知って初めて百戦危うからずである。自分の下位のものたちの真実の尊敬協力を得られなくて、何で勝利しえようか。いたずらに下位の同僚を殴ること以外に我々に何を教えてくれたというのか。海軍における教育の貧困に、早く気づく人がいなかったことが残念である。


Ⅲ-14 .「軍紀厳正なること大和、武蔵以上」
 
 回天隊の先任大尉は、当隊の軍紀厳正なること、大和武蔵以上と誇っていた。

  「当隊は軍紀厳正なること大和、武蔵以上!」 
 これも四十発の修正の前口上である。別に、われわれが軍紀違反をしたわけではない。上官サマの虫の居どころの問題だ。 
 きっと大和でも武蔵でも、さんざん新兵いじめをしたんだろう。だから武蔵はあっさり沈み、大和は使いみちもなく呉軍港で寝てるんだ。味方を殴るひまがあったら、ちったあ敵をやっつける工夫でもしたらどうだい。 
 こんなこと本当に口にだしたら、戦死する前に殴り殺されていただろう。
(同書五七?五八頁 11 注)
 
制裁を受けていた私たちの心の中は、「第一に『帝国海軍』なるものを骨の髄から嫌いになった」「海兵海機出身者を心の底から憎むようになった」と神津は書いている(同書五九頁 注53 )。

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注 43   『人間魚雷回天』朝日ソノラマ文庫、一九九五年版では二三二?二三三頁。
注 44   文庫版では二三四頁。
注 45  戦死時は大尉。
注 46   句点の抜け、誤字は原文ママ。
注 47   須崎の手記には、次の出撃に海兵出身の士官が出撃したかどうかは書かれていない。『学徒特 攻その生と死』二七八頁参照。
注 48   引用文中のルビは編集委員会で補足。
注 49   引用文中の( )は編集委員会で補足。
注 50   文庫版では六九~七〇頁。
注 51   文庫版では八一頁。 注 52   文庫版では八一~八二頁。
注 53   版では八三頁。
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#3919 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.86~99 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-24 .特攻における諦めと勇気
Ⅱ-25 .特攻も通常化
Ⅱ-26 .搭乗員と参謀の関係
Ⅱ-27.特攻志願説
Ⅱ-28 .特攻命令
Ⅱ-29 .特攻発令者の心情
Ⅱ-30 .特攻世界と参謀
Ⅱ-31 .特攻隊員の心情
Ⅱ-32 .特攻とは
Ⅱ-33 .特攻員と気持ち
Ⅱ-34 .特攻の心得はこう教えられていた
Ⅱ-35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる
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Ⅱ-24 .特攻における諦めと勇気
 
 特攻出撃は軍の命令ではない。搭乗員の志願であったのだ。海軍は一貫してこう主張している。陸軍も同様である。かつての上官たちがこぞってこういっている。 
 搭乗員も、そうだと言っているものもいる。書いているものもいる。しかし、否と書きようもない雰囲気の中、これが自発的志願かと疑問をもらしているものもいる。 
  しかし、沖縄戦のはじめ頃までは、先に触れてきたように、確かに志願の手続きがとられていた。正式の志願方式に「否」と書いて何か報復を受けた話は聞かない。海兵が一人も特攻に出なかったと水上機隊でさえ何もなかった。先にちょっと触れたが、十四期会報で、自分自身「別の途を志望」と書いているものが、一人いる。この同じ水上機隊で、はっきり「否」と書いたものがもう一人いたとのことであるが、二人とも制裁はなかった由。 
 公式の志願募集ではなかったが、どこへ行きたいかの希望を書かせた徳島空で、特攻の希望が少ないといわれて、全員がその晩からひどい仕打ちをうけた話は先に触れた。ただ、これは正式の隊の命令ではなかったが、そういう空気が無言のうちにあったことは否定できないであろう。


Ⅱ-25 .特攻も通常化
 
 航海学校の回天志望の時であったか、志望を変えて、そのため監禁された学生がいたこと(参照087 ︱ 25.特攻も通常化『一旒会の仲間たち』二一三頁)、何か日常業務の失敗で伏竜(水中特攻兵器)に廻されたもの(同書三二六頁)などが、同僚の追想に書かれている。 
 その他、陸軍などでは、機体故障などで帰隊、あるいは不時着したものが説教されたり、参謀の勅諭書き写し命令を受けて〈振武寮〉に缶詰にされた話、海軍の水上機隊で、帰隊するとすぐまた出撃させられたりした話は、先に触れた。が、一方では逆に、帰還してきても、すぐ当然かのごとく平然と次の特攻に従事したと書いているものもいる。個々人はさまざまである。 
 概して搭乗員は、〈不動の確信〉とか〈常時の諦観〉などとは無縁である。彼らの心情は決して一義的でない。それに、貧しい自分の経験から言えば、気持ちは絶えず動いている。不動の安定などというものとは無縁である。 
 もともと、特攻などというものは戦いの作戦などといえるものではない。世界の戦史のどこにもない。大西滝治郎もみずから「統師の外道」といっている。が、外道とはもともと人間の道を外れたもののことであろう。何故、彼は海軍の中に、いや人間界の中にとどまっていたのか。海軍の非人間性の隠れない証拠であるというほかはない。
が、特攻搭乗員が、特にこの性格と離れがたいのは、何より自分から生きて死ぬことを決めていると思っているからであろう。彼らの世界では、生と死とが全く同次元で同居しているのだ。 
 絶えず緊張動揺しているといってもいい。これはニヒルを生きる人間の当然の在り方であろう。正面から見れば、悲劇苦悶と安心面目とが一体をなしている。時によって、そのある一面が強く出るといってもいい。 
 しかし、この事態は、別の角度から見れば、彼らが安心立命を求めて絶えず精進努力を続けている状況であるといってもいいかもしれない。苦闘の人も安心の人も、それぞれの一瞬を生きるほかはないのである。搭乗員たちが外からは一見無心のようにみえるのは、このせいかもしれない。

Ⅱ-26 .搭乗員と参謀の関係
 
 もともと搭乗員の心情のこうした状況は、じつは参謀の幻想の反映であるというほかはない。よく考えれば誰でもが気づくように、特攻は明らかに成算なき自滅作戦の強行である。これに日本軍の勝利を読みとるのは幻想以外の何ものでもない。 
 最初に特攻を出動させた大西滝治郎は、初めは特攻の目的は、レイテ海戦に臨む米海軍の航空母艦の甲板を破壊し、敵航空機の活躍を阻止して海戦を有利に導くためだと言っている。ところが、これに失敗すると、 次に、航空機による全力特攻で、「これで何とかなる」態勢にもってゆく。さらには、一億総特攻の徹底抗戦を通じて、勝てなくても負けない体制を確立する。米国も我々に畏敬をもつことになるだろう、云々。 
 次々と目的が変わっていっていることは、本当の目的がないということである。つまり、特攻そのことを続行することが目的であったということである。 
 ある隊の話であろうが、特攻作戦の目的は、練習機特攻で戦況を一ヵ月間もちつなぐこと、その間にわが国の航空機工場の地下工場化が完了し、新鋭機の生産が可能になるという説明であったという
(石田修「されど特攻隊」「海軍十四期」第一八号七頁)。こんな話も語られていたようである。


Ⅱ-27.特攻志願説
 
 もともと、特攻という命令の主題目は国家の存亡に関する。志願は搭乗員をこの存亡に動員するための仕掛けである。この装置は、特攻に兵士を動員するために、参謀たち考え出した方策であったのだ。命令への動員が兵士自身の志願によるということになっているからである。 
 もっとも、参謀たちはこの欺瞞に自分たち自身は気づいていないのであろう。だから、戦後になってすら、軍の指導者たちは、特攻は志願であったと絶えず繰り返し主張している。 
 特攻が志願とされたということは、じつはそれが〈志願を求めた命令〉であることを表面的には隠してしまうことであったのだ。志願だから、命令ではないといい続けられている。しかし、志願といっても、特攻命令(つまり、〈志願するかしないかを表明する紙片〉の提出)が〈命令〉されていることを見落としてはならない。誰も何にも言わなかったら、何千人もの搭乗員が果たして特攻に名乗り出てきたであろうか。志願という言葉には何か〈欺瞞〉があるような気がする。 
 多くの搭乗員たちの苦闘は、この仕組みに深く関係している。死ぬことを決めたのは、搭乗員自身の決断であることになっているからである。生きることが、みずから死を受け容れているところに、彼らの心情の苦悶が去来しているのだ。


Ⅱ-28 .特攻命令
 
 特攻による突入は命令なのだ。「命中させても帰ってくるな」。しかし、特攻が志願とすると、この死は自分が決めたことになる。志願形式は命令による、生死の交錯をうまく隠している。国家の存亡に馳せ参ずるものとして、搭乗員の名誉、面目、勇気を約束し、自分だけが参加しない恥辱、同僚に遅れをとる卑怯を排除するのだ。 
 参謀、隊長、司令官たちは自分の死は考えもせず、成果も考えずに、兵士の死も計算に入れず、戦果を計ることも忘れて、次々と特攻を出撃させている。彼らは特別攻撃を通常化する命令者になりきってしまっている。


Ⅱ-29 .特攻発令者の心情
 
 もっとも部下の特攻搭乗員を指名する自分の責任を全く考えなかった人間ばかりではない。神雷部隊(桜花隊)の分隊長であった林富士夫中尉は、部下たちばかりを特攻メンバーに提出することに疑問を持った。「なぜ指揮官先頭で行かせないのか11 注 」。出撃者名簿の筆頭に自分の姓名を書き、司令の岡村基春大佐に提出した。岡村は即座に林の姓名を消し、「そんなことに堪えられぬようなヤワな男は兵学校で養った覚えはない」と一言のもとにはねつけている。「君は最後だ。そのときはわしもゆく」(『一筆啓上瀬島中佐殿』一〇六頁、一一六頁)。 
 同様な言葉は大西が比島から台湾に撤退するときにも使われている。比島の航空作戦の続行が不可能になったとき、多くの特攻搭乗員を出撃させた航空艦隊の長官であった大西は残留部隊を残して台湾に撤退してゆく。このとき残留部隊には陸戦に活路を求めよと指示を出している。 
 この大西の指示に対して、「直言」「剛毅」な人物で、残留する佐多司令は、大西の台湾退避に違和感をおぼえて「総指揮官たる者が、このような行動をとられることは指揮統率上誠に残念です」。大西は真っ赤になって唇をふるわせ、「何を! 生意気いうな」と佐多に平手打ちを喰わせた、という話が伝わっている(森史朗『特攻とは何か』二九七頁)。 
 もっとも、じつはもっと低い声で、「そんなことで戦(いくさ)ができるか!」と、右の拳が司令の頬に飛んだだけのことだ、と大西に好意的に書いている文章もある。この文章は大西と共に台湾に戻ってきて、戦後までも生き延びた大西の副官によるものである(同書二九九頁)。いずれが真実であるか不明である。 
比島残留部隊総勢約一万五千四百名の内、山岳地帯で生き残ったのは四五〇余名でしかなかった(同書二九七頁)。 
 大西は戦後自殺したが、その遺書には隊員を多く殺したことについて、わびる言葉はない。むしろ「よくやった」などという指揮官の言葉を書き残している。大西が何故自殺したか、よく分からない。ただ特攻搭乗員を悼む愛惜の念はない。敗戦直後は、米軍は特攻隊員を処刑するという噂が流れて、生き残った搭乗員の中には、米軍に捕まるといけないというので、すぐには故郷に戻らないでいたものも何人かいた。しばらく隠れて様子を見ていたのである。大西滝治郎が自決したのは、こうした状況の中である。敗戦の日の晩のことである。 
 神雷部隊の司令であった岡村大佐は、「最後のそのときはわしもゆく」といつも語っていたが、敗戦のときにもそのまま生き残っている。ただ、昭和二十三年七月に千葉県で鉄道自殺している。遺書はなく、「自殺の原因は、神雷戦没者たちに詫びるためではなかった」ようである。蘭印方面で昭和十八年頃に起こった「捕虜虐待事件の関係者として、連合軍の追及を苦にしてのことだった」といわれている(『一筆啓上瀬島中佐殿』一三〇頁)。


Ⅱ-30 .特攻世界と参謀
 
 搭乗員の文章を見て、気づかれることの一つは、概して家郷や親族に比して、友人、知人に関する文章が少ないことであろう。つまり、横の関係に触れているところが少ない。横の関係とは一般の世間との関係であろう。あるいは、生きている人間世界のことといってもいい。横が少ないとは、現実の人々が生きている世間にあまり関わっていないことといってもいい。つまり、彼らは、幽鬼奈落の世界に近いところにいたのである。 
 もっといえば、彼らは国のために死ななければならなかった。にもかかわらず、必ずしも本人がその現実の国に直接的に結びついていない。人間界を離れてしまっている。しかし、この事態は、参謀がじつは「横の関係」を直視し得ず、現実の生きている日米関係を離脱してしまっていたことの反映ともいえるかもしれない。搭乗員はこの参謀世界に組み込まれてしまっていたのだ。現実の世界からの超越(つまり、死の世界への参入)を命令されていたのだ。 
 参謀軍令部は、現実における〈日米戦力〉から逃避して、自分らの作戦手柄の幻想しか考えていない。参謀が盛んに日本の運命を叫びながら、じつは真の日本の敗戦状況を見ていない。考えていない。 
 搭乗員たちはこの参謀たちの世界の映しを生きているに過ぎない。つまり、参謀の話で動いているため、搭乗員たちは、現実の生きている国の実情を考えていない。当然かもしれぬ。搭乗員たちはほとんど特攻作戦の正確な成果を知らされていない。彼らは、死に神、幽鬼の世界に組み込まれてしまっている。 
が、特攻仲間は人間であって人間でない。出撃する仲間を前にして、「明日往く」「そうか」以外に言葉はない。言葉は空虚、口を出ると、もはや本当のことでなくなる。気持ちがいいつくせない。無理にいうと、現実に沿わないといってもいい。 
 雷撃隊員と特攻隊員とが同時に出撃していったことがある。両者の態度、言葉は全く違っている。雷撃隊員は日常の言葉を使っている。特攻隊員はひたすら沈黙。ただ歴史の実態は逆の結果になっている。雷撃隊員は全滅。一人も帰ってこなかった。ところが、特攻隊員は何人かが不時着、生存して帰還している。これが歴史の現実である。 
 特攻隊員の行き先は、無の奈落である。だから、当然現実ならぬ天上、地の底が現実的意味を持ってくる。あるいは、その非現実が彼らの真の現実となるといってもいい。奈落を生きる特攻搭乗員は、すでに死の世界に組み込まれているのだ。


Ⅱ-31 .特攻隊員の心情
 
 しかし、何かに心情が一定して決まっているのではない。生死との間で絶えざる迷いと悟りの戦いがあり、心情の苦闘があるといってもいい。この苦闘が一方から言えば、不断の絶えざる精進であったことは先に触れた。 
 といって全く孤独に生きているのではない。お互いに仲間に支えられて、その中で生きているのだ昭和二十年の四月にはすでに鹿屋の出撃基地に待機していて、たまたま敗戦まで四ヶ月近くも出撃する機会がなかった搭乗員がいる。 
 敗戦で八月に家に帰ってきてから、先に出撃散華した同僚たちが毎晩夢に出てくる。お前だけ生きて帰るとは怪しからん。腹を切ってこちらの国にやってこい。とうとう、村の菩提寺の和尚さんに頼んで戦死した同僚特攻員たちの供養をしてもらったところ、それからは彼らが夢に出てこなくなって、ゆっくり眠れるようになったといったことを書いている仲間がいる  注41 。 
 奈落の国も孤独ではない。むしろ固い絆で結ばれているのかもしれない。特攻仲間世界は独自の世界なのである。


Ⅱ-32 .特攻とは
 
 ただ、特攻は生を生きられず、死を生きるほかはない。個体が死に、全体が生きるということである。悲しみが偉大に通ずるということであろうか。個の死を悲しみ、全体が生きると思うと解するひともあるかもしれない。他人に役立つことで、他人が自分を評価し、大きな名誉が残るというひともいるかもしれない。 
 また別の観点からいえば、不確実な勝利(観念の世界)を信じて、部下の消滅という現実を正当化する参謀の立場もあるかもしれない。死を絶対化する道徳教育(自己満足)に陥っていたにもかかわらず、外的成果(救国)を叫ばざるをえなかった矛盾に気づいた軍令部参謀はどれほどいたのであろうか。 
 参謀の不誠実な歴史観が、時代の不可避の真の現実となってしまい、ほとんど正確な戦果が発表されない状況の中で、搭乗員は薄々この事態を自覚していたかもしれない。が、彼らは特攻作戦そのものを拒否していない。恐らく隊を脱走したものはいなかったのではないか。 
 しかし、特攻戦術指導者中島正中佐は、人間を爆弾とする立場に立つ。爆弾命中の成否のみを問題にしている。隊員の苦悶、悲しみは全く理解していない。この指導者はこういっている。「彼等は自分が、何か特別のことをするのだ、というような意識さえ現わさなかった。或いは、〝死〟ということよりも、如何(どう)して〝命中するか〟に心を奪われていたのかも知れぬ」(保阪正康『「特攻」と日本人』八十六頁)。 
 特攻の意味は何だったのか。死んだからとて戦争は勝ちになるのか 注42 。この疑問を指揮者も隊員も考
えてない。ただ死ねばいいことになってしまっている。ここに特攻隊員の悲しみがあり、またそこに彼らの偉大さがあったともいえるかもしれない。 
 特攻者の気持ちはいかに。爆弾の成否より、父母家族の将来。人間に帰って死ぬということであろうか。

Ⅱ-33 .特攻員と気持ち
 
 特攻から帰還したもの、特攻不時着の経過はよく書かれているが、搭乗員自身の特攻そのものに対する気持ちはあまり書かれていない。書ききれないほど複雑で、また書いても詮無いことと思っているのではないか。それほど多様で複雑であったに違いない。自分の苦しさ、生き残った思い、自分の意味づけ、自分の納得など、語っても仕方ないし、語りきれない。 
 何故志願したのか、なども正確には答えきれない。命を賭してあえて志願した理由は、二極の動揺の中にあって、もはや言葉や説明を超えている。他人はもちろん、本人さえ正確には意味づけ出来るものではない。彼らはただ、非運を負って飛行機に搭乗し、痛ましくも太平洋に消えていったのだ。
この男たちの命は、理屈や納得や言葉を超えた執念と悲哀を伝えている。語りきれない、あるいは語り切れるといったら嘘になるといってもいい。 
 誰もが立派であることを見せたいところがある。練習生だと本当に一生懸命教えられた通りに言葉を続ける。が、悲しみが内にこだましている。予備学生だと、何としても自分なりの納得を示そうとしている。その代わり悩みや疑問も多い。その一部は彼らの文章ににじみ出ている。 
 特攻の意味とは何なのか。死んだからといって必ず勝ちになるのか。この疑問を指揮者も隊員も考特攻の心得はこう教えられていたえていない。ただ、死ねばいいになって終わっている。ここに特攻隊の本当の悲しみ。そして悲しみの中の偉大さがある。


Ⅱ-34 .特攻の心得はこう教えられていた
  「と号空中勤務必携」(陸軍が昭和二十年五月に作製した特別攻撃隊員用の「教本」)
 
 衝突直前  
  ◎速度ハ最大限ダ    
   飛行機ハ浮ク ダガ    
   浮カレテハ駄目ダ  
  ◎力一パイ、押エロ押エロ    
   人生二十五年、最後ノ力ダ    
   神力ヲ出セ 
 衝突ノ瞬間   (…)  
  ◎目ナド「ツム」ッテ    
   目標ニ逃ゲラレテハナラヌ  
  ◎眼ハ開ケタママダ
(押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈陸軍編〉』九九頁)
 
 他の部隊でも、目を閉じては成らぬことは強調された。目を閉じれば、操縦桿を押す力が一瞬ゆるむ。速度は減じ、飛行機は浮く。飛行機は目標をオーバーしてその上を通り過ぎてしまうことになる。それを防ぐために、降下突入にはとくに着意しなければならぬ。眼を開けたまま突入してゆくためには恐怖心を克服する強烈な精神力が必要であった。

Ⅱ-35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる
 
 橋本義雄[早稲田大。操縦。出水空。筑波空]は筑波空の特攻隊員として訓練を受け、最後はS三〇六(特攻部隊)に所属して待機。が、敗戦まで出撃の機会なく、生存。 
 特攻訓練中に、零戦は特攻機に向いていないという考え(急降下と共に降下角度が段々深くなる)、また直接突入の特攻方法に疑念(飛行機と共に突入する爆弾の威力は、落下に従って加速する投下爆弾の威力に及ばない)を抱き続けていたところから、戦後には忌憚のない海軍への行動批判を述べている(「零戦特攻の戦法」『学徒特攻その生と死』二八〇〜二九一頁)。 
 出撃した特攻機は、いくつか「敵大部隊見ユ」「敵戦闘機見ユ」などの電文を残している。が、必死の搭乗員をどんどん投入しながら、当局はこれらの特攻機の戦果について発表したことがない。どれだけの効果があったのか(二八九頁)。 
 敵に恐怖感を与えたとはよく言われた。が、参謀に関わる問題はこんなことではあるまい。 
 つまり、それですむ問題ではあるまい。搭乗員に死を要求しながら、この戦法が戦況をどれだけ変え、どれだけ我が軍に有利をもたらしたか、特別の作戦であるだけに当然その戦果は明言公表すべきであったはずである。 
 にもかかわらず、当局は、まるでよそ事のように「特別攻撃隊は皇国必勝の大道を邁進し、一億特攻を実践する国民の鑑みである」と空虚な言葉を嘯くだけであった(二八九頁)。
 
 当時から無謀な作戦を事もなげに立案し、尊い生命と貴重な虎の子戦闘機をむざむざと失わせた連合艦隊司令長官をはじめとして幾多の将星、縄付き参謀共は何時の間にか霞ヶ関の役人よろしく栄達、立身のみに走り国家の大計に汚点をつけたその責任は何時までも拭い去ることは出来ない。
(同書二九一頁)

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注 39   『続・あゝ同期の桜』では二〇〇、二〇二頁。
注 40   『一筆啓上 瀬島中佐殿』一一六頁に出てくるエピソード(林富士夫ではなく、新庄という人物 の発言と思われる)。
注 41   出典不明。Ⅳ︱ 15 .にも同様のエピソードが紹介されている。
注 42   同様の文章が次節にもあるが、原文ママとする。なお、保阪正康『「特攻」と日本人』を確認したが、 引用箇所は特定できなかった。 
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和辻哲郎の視圏―古寺巡礼・倫理学・桂離宮

和辻哲郎の視圏―古寺巡礼・倫理学・桂離宮

  • 作者: 市倉 宏祐
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  • メディア: 単行本




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#3917 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.67~85 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-
17.特攻の死の感慨
Ⅱ-18 .特攻志願実情、実態 :
        ◇「自分と出会う」市倉宏祐◇

Ⅱ-19 .同僚たち
Ⅱ-20 .〈望〉と〈熱望〉
Ⅱ-21 .第一次の隊員たち
Ⅱ-22 .特攻志願理由
Ⅱ-23 .酒巻一夫の日記

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 Ⅱ-17.特攻の死の感慨
 
 特攻隊員でありながら、自分は切迫した気持ちはなかった、といっているものもいる。 
 すでに触れたが、個人的に分隊長から呼ばれて、大井空の大八洲隊に編入された斎藤登茂雄は、こうして「薄暮飛行から夜間飛行へと錬度を上げながら出撃命令を待っていたが」、五月十一日に大井空特攻隊は解散された。
 
 命拾いしたと思ったのも束の間、同年六月大井空の特攻隊は再び編成され、鈴鹿空で偵察訓練を受けていた私は呼び戻されて第二中隊(…)となった。専ら夜間飛行の訓練が続いたが、八月始め、第二中隊は松山の拝志基地に転出し、待機中終戦となり、(…)またも死を免れたのである。 
 前後二回の特攻隊生活は「いずれ出撃して死ぬのだ」と覚悟した日々であったはずだが、それほど切迫した気持ちになった記憶がない。生来鈍感で死というものを切実に考えなかったのか、特攻死を受忍し諦めていたのか、或いはまだ出撃命令を受けていないので、死に直面した心境に達しなかったのであろうか。 
 この点、敬服するのは同期の河晴彦君で、三月に特攻隊に入ってから六月二十二日に戦死するまで、常に死をみつめ考えていたようで、五月十八日の母堂への手紙には「一日一日を宝玉の様にいとおしみ、惜しみなくくらしています」と書いている。
(「浜までは蓑を着る」「海軍十四期」第一九号一〇頁)
 死に鈍感なのか。あまり考えもしない性分なのか。それとも、諦めているのか。日々に追われているのか。自分自身がはっきり分からないのかもしれない。痛烈な経験というものには、こうした面があるような気もする。
 
 しかし、回天志願では、はじめ決心が付かなかったひとがいる。何人かが自分でそう書いている。もちろん逆に、自分ではっきり決めたひともいる。
 
 大石法夫[航海学校。二分隊四区隊]
 
 何人応募したか今も知らぬが、ともかく小生は翌朝分隊長室を訪うた。同班の某学生は一人息子とかで慰留され、部屋で泣いていたが、小生の場合は言葉も少なくすぐ許可してくれた。
  「貴様は兄も二人いるし、もっとも適任である」。そんな言葉をもらった。
  (…)もう来年は桜の花を見ることはない。死ぬのなら平然と死にたい。見苦しい死に方はし たくない。…)人の子と生まれて親の愛情は手厚くいただいた。就職したら給料をもらったら、まず第一に親にお礼の気持をさせてもらおう。(…)それははかない夢となります。
  (…)回天の中で一応操作を終えますと、望郷の念が起こります。競争ばかりしたなあ。(…) 人間に生まれた甲斐があったという平和な日があっただろうか。ないとなったら自分の人生は何であったのか。靖国神社へ祭られたとしても何の意味があるのか。もしあえて意味を尋ねるなら、両親に二四年間、人一倍愛情を注いで養育をしていただいたことが、ただ一つの誇りであった。
(『一旒会の仲間たち』二〇一〜二〇三頁)
 
 この人の文面からは、彼が何故志願したのかが全く分からない。あるいは、自分でもその理由がはっきり分節化しえていなかったのかもしれない。人間の気持ちには、こうしたものが多々あるのではないか。一つの例として引かせてもらった次第である。
 
 初の募集には決心が付かず見送り、二回目のときに応募したひともいる。
 
 田英夫[東京大経済学部。四期兵科予備学生。航海学校。震洋](同書一二八〜一二九頁)は、最初の募集の日の晩は決心が付かず、眠れず、志願した仲間がぐうぐう眠ってゆくのを一晩中気にしていた自分を書いている。彼も二回目は志願しているが、何故最初は見送り、二回目には決断したかは、書いていない。誰も拒否はしたくない。しかし、いま死ぬのはちょっと抵抗がある。どうしようかといった苦悶ではなかろうか。細かい気持ちのひだなどは表現しきれない。あるいは、こうしたことなども、自分でははっきり表現できない、あるいは自分自身でも分からない点があるに違いない。


Ⅱ-18 .特攻志願実情、実態
 
 特攻志願、あるいは特攻体験については、自分が何と書き、どう感じていたかを、多くの人がごく親しい少数の人にしか喋っていないのが実情のようである。何故かほとんどの人があまり話さない。会報に書かれたものの中でもこのこと自体に触れた文章はたいへん少ない。 
 これが何故なのかも一つの問題であるが、詳しくは本来書けない性質のものなのかもしれない。具体的に署名入りで、何と書いたか、どう感じていたかをはっきり述べている人は、たくさんの会報記事の中で、わずか二、三人でしかない。ここでは、戦後何十年かの後のコンパのときにあれこれ聞いた話で補うことにする。
 
 沢田泰男[大正十一年六月二十九日生まれ。東京大法学部。昭和二十年五月八日横須賀上空戦死] 

 昭和二十年四月十二日(日記)
  (…)特攻隊員に命名されて、体当りするまでの気持なんていうものは、とても筆などにては 真を写し切れるものではない。この心境は、かかる経験を有するもののみが味わいうるものとして、書くことはやめよう。 
 さらば、父母、弟妹よ、師よ。御健康をお祈りします。
(『あゝ同期の桜』一四六頁  注36
 
 戦後五十年以上も経った頃になって、頼まれてたまたま新聞に自分が書いた文章を掲げておく。ひとそれぞれに思いがあって決してこれが一般的であるなどとは思わないでほしい。もっと勇壮な方もいるであろうし、もっと慎重に多くの面からこの作戦を考えた方もいるであろう。ただ一人の例として考えていただいたらいいと思う。

◇「自分と出会う」市倉宏祐◇
            朝日新聞記事(平成十年三月十日)
 
 昭和二十年の早春、沖縄を守るための神風特別攻撃隊が発令された。この時のことが思いだされてならない。私は谷田部海軍航空隊でゼロ戦の訓練を受けていた。志願を求める司令の話があり、その場で熱望、望、否、の何(いず)れかを記入する用紙が配られた。 
考える時間は十分ぐらいであったかと思う。これまでの生涯がすべて尽くされたほど、大変長く感じられた。最後に〈熱望〉と書いた。決断は一瞬である。その場で血書して志願した者も(四月に沖縄に突入)、また否と書いた者もいた。 
 最初の攻撃隊の発表があるまで、何日かあった。志願の決断のときよりも、この間の方がはるかに重厚な思いをした。道は二つ。選ばれるか、残るかである。一は死であり、他は生である。誰しも従容として死地につきたい。死の覚悟といった言葉は、いくども聞いてきた。ところが、今は全く違う。自分とは何か。いや、何であったのか。この自分が消滅するのである。 
 生きていたい気持ちは否定すべくもない。しかし、自分の死によって国の危機が救われるかもしれない。特攻作戦は回天の戦術でありえたのか。あらゆる面から検討されるべきである。が、いま問題なのは、自分がこの作戦に身を投ずることである。 
 ときに、死にたくない気持ちが強くなる。悪い時代に生まれた。何年か後に生まれてきたら、こんな思いはしなかったであろう。 
 ときに、気持ちが落ち着いてくる。いや、その時代に生まれた者が、その役目を果たせばそれでいいのだ。自分は日本人の生命の流れの一齣(ひとこま)を生きる。隊の外を通る若いお母さんや幼い子供たちを見ていると、何とも心が安らかになる。私が死ねば、彼らは生き残れるかもしれない。誰かれもが、自分の兄弟姉妹のように思われる。一体となって生きている実感が湧いてくる。 
 しかし、飛行場の縁路面注 37に座って、地平線に沈む大きな夕日を見ていると、生きていたい気持ちが悠然と起こってくる。この気持ちは、生きていたいという以外には、余り内容がない。もはや生命の流れとも、一体となる実感とも無縁である。閉じられた私だけの暗い世界である。それだけにまた計り知れない魅力がある。 
 一は生命の流れを守る私であり、他はそれに支えられた自分だけの私である。一は流れに一体化する安らぎであり、他は自分に囚われる執着である。二つの私は通常は絡み合っていて見分け難い。それが突然明確な姿で別々に現れる。熱望の決断は、この二つの私を統合したたまゆらの一瞬であったのだ。分離すれば、一方は絶えず他方に反転して、夫々(それぞれ)の境地を護りえない。安らぎも執着も、何れも迷いであって、悟りではない。むしろ両者の交錯が自分の生きている命運なのだ。
 交錯を直視していると、そのリズムがゆっくりしたものになってくる。 
 攻撃隊は八次まで突入したが、沖縄が陥落して、特攻配備は本土防衛に移行する。幸か不幸か、私は終戦まで攻撃隊員に選ばれることがなかった。今もなお生きることに恵まれている。
 彼らが征かなければ、私たちが征っていたであろう。どんな思いで彼らが出撃していったかは、私たちの思量を超えている。ただ、代わりに生き延びることを譲ってくれたことだけは確かである。己は生命の流れの底に身を沈めて、私たちをその流れの上に残してくれたのである。我々に代わって、身を捧げた人たちの魂の鎮(しず)もりが響いてくる。
 
 当時の状況に少し触れておく。
 
 次に特攻隊の編成があるまで、隊内に残っていた我々はいろいろな経験をした。使われてないエプロン(格納庫の前のコンクリート広場)が敵機の目標になるというので、これを壊す作業。鉄のハンマーでコンクリートを割る作業であるが、これは一撃ごとに頭がカチンとする。簡易防空壕を造るために大きなヒューム管を六、七人で飛行場の隅に運んで行く作業。見た目には楽なように思われたが、やってみると腕立て伏せを何百回もすることになるわけである。 
 敵が上陸してきたときには、陸戦もできなくてはということで、何人かで館山の砲術学校へ一ヶ月講習を受けに行ったりした。航空隊ではもっぱら飛行機の訓練をしているだけであるので、日米間の戦争の実状はほとんど知らなかった。 
 ところが、館山に行って驚いた。日本のどんな大砲をもっていっても、アメリカのM4戦車では跳ね返ってくるというのである。兵隊が穴に隠れていて、特別の形をした爆薬を竹竿の先につけてぶつけるか、軍艦の砲弾にロケットをつけてベニヤ板の台座の上を滑らしてうまく当てるか、するほかはないという。 
 その実物をじっさいにやって見せてくれるのである。戦争がそんな状態になっているのを知って、そのとき初めてこの戦争はもう危ないかもしれないという気がしたのであった。 
 航空隊に戻ってくると、空襲の度に教官たちが邀撃にでるわけである。戦闘配備になると、我々は戦闘指揮所の周りに詰めて、飛行機を動かしたり、燃料を入れたり、機体を磨いたりする。機体が磨かれていないと速力が五ノット違うといわれていた。空戦でそれだけ違えば勝敗に関わるわけである。 
 発進の命令が出ると、一五、六機のゼロ戦が風向きを度外視して全機が一度に離陸してゆく。たいへん勇ましい光景である。 
 ところが、これに引き替えて、帰ってくるときが寂しい。一機一機と帰ってくる。主翼に敵の機関銃の弾で穴がいくつもあいているのに、そのまま燃料を詰めてすぐに離陸して行くのである。 
 しかし、まだ帰ってくるのであれば、うれしいのであるが、暗くなっても、半分ぐらいしか帰ってこない。帰ってこない飛行機を待っているのは寂しいものである。 
 空戦が終わって、二、三日は、これこれの標のついた飛行靴があったとか、〈ヤ〉(谷田部空の飛行機についている記号)の何番の記号のついた翼の破片があったとか、あちこちの村や町から連絡が入る。結局何の連絡もなく、どこでなくなったか分からない飛行機もいくつか出てくるのである。 
 若い紅顔の飛行兵曹が「帰ってきてから食べますよ」「とっておいて下さい」と握り飯を半分残して出撃して行ったが、暗くなった戦闘指揮所のテーブルの上に、一つぽつんと半分食べかけた握り飯がいつまでも残っていたことは今でも忘れられない。 
 高等学校の寄宿寮の部屋で一緒だった友人が気象兵で鉾田(茨城県)の観測所にいた。航空隊に所属している気象隊で、彼のほかはほとんど若い女の子ばかり。外国の電波が入る。娘さんたちが楼上楼下を駆けめぐっている。一晩ゆっくりしゃべりながら、軍隊にはいろいろの持ち場があることを今更ながら思い知ったことであった。 
 あまりにも搭乗員の消耗が激しかったからであろうか、敵の本土上陸作戦に備えて兵力温存するため、米機の空襲に対して教官たちが邀撃に出動しなくなっていった。そのうちに隊そのものが敵の艦載機の攻撃を受けることになり、若い水兵がグラマンのロケット砲にやられて体が破裂した姿などは悲惨なものであった。 
 沖縄の敗北と共に、我々の中から神雷部隊(〈桜花〉という人間爆弾の部隊)の搭乗員に転出するもの、本土防衛の特攻隊の訓練に北海道に転勤するものなどの動きがあり、私なども朝鮮の元山にゆくことになっていた。それが八月に終戦になったわけである。 
 八月の十五日には、厚木から戦闘機が飛来して決起を促したり、副長だか、飛行長だとかが、我々の自決の問題はどうするのかといった士官の会議があったりしたが、結局飛行機が勝手に飛び出さないように、八月の二十二日には搭乗員は全員即刻帰郷になった。


Ⅱ-19 .同僚たち
 
 特攻志願については、さまざまな思いをした。谷田部空の特攻隊(神風昭和隊)に選ばれたひとの中には、本当に心底希望して、喜びすすんで隊員になった人たちがいることも、紛れもない事実である。こんな人たちがいた。


 血書 
 笹本洵平[台北帝大]は悠々としていて、細々とした器用なところない大きいひとであったが、この人が特攻志願に当たって即座に指を切って血書で願書を提出したことを聞いてびっくりした。私なども何とか行かなければならないかなという気持ちはあったが、血書して往くなどという気持ちは理解し難いものであった。
 
 分隊長に特攻を直訴した佐藤、松村両君の気持ちについても同じ思いをした。 
 一人は先に谷田部空から鹿屋まで進出する文章を紹介した佐藤光男、今一人は松村米蔵[日本大]で、二人とも土浦航空隊では私と同じ班にいた同僚である。谷田部空で、昭和二十年の二月に特攻志願が求められた日の夕方に、たまたま本部の方から二人が帰ってくるのに遭遇した。二人とも今、分隊長にわざわざ特攻隊に入れて欲しいと申し出てきたとのことであった。 
 驚いた。松村には奥さんがいて、赤ちゃんもいたはずである。どうしてそこまでやるのか、分からなかった。しかし、そういう人がいたことは事実なのである。佐藤とたいへん仲が良かったので、二人して志願する気になったのであろうか。二人とも、特に愛国の言辞をこととしていた人たちではなかった。今でも分からない。残念な人たちである。松村は昭和二十年四月十四日に第一昭和隊で、佐藤は四月十六日に第三昭和隊として出撃している。 
 戦後になって、私の同僚の一人が追悼会のおりに、松村の奥さまに聞いた話であるが、彼女が「あのとき一万円出していたら、主人は特攻をはずしてもらったかもしれないのですってね」といっていたことが忘れられない。ありもしないことを吹き込む人たちがいるわけなのだ。 
 彼らの本当の気持ちはどういう気持ちであったのか、今私たちにもやっぱり分からない。個人個人によってそれなりの心構えがあったと思うほかはない。奥さんは、その後、神主として息子さんを育てて、めでたく立派に神社を嗣いでいるとのことである。



Ⅱ-20 .〈望〉と〈熱望〉
 
 また、こんな人もいた。特攻志望の書類を提出したすぐ後のことであったかと思う。学生舎に帰って、ベッドを整理していると、そこに一人の同僚が帰ってきた。「何と書いたか」。「熱望」と答えると、彼も「俺もだ」。あまり元気がない。 
 そこへもう一人が戻ってきた。「俺は望と書いたよ」。「俺は熱望だよ」。
  「しまった」といったかと思うと、その同僚は、アッという間に自分のベッドの周りを全速力で、 早周りし始めた。少なくとも三十回以上も。 
 何を言っても、ただ一層早く回るばかり。見ている私自身も、「そうか、我ながらつまらないメンツに囚われて熱望と書いたかな」と思った。しかし、黙っているほかはなかった。志願には、やはりメンツを気にする部分があって、直接の自分の気持ちに忠実に「望」と書いた一人に敬意を払うほかはなかった。 
 といって、私自身はやはりもう一人のように、自在に廻りきれないものがあって、己れ自身の確信の無さを思い知らされて、「これが自分なのだ」と、自分自身に納得するほかなかったことを覚えている。 
 このことは、何故自分が「熱望」と書いて、「望」と書かなかったこととも関係しているかもしれない。熱望、望、否。後年のコンパのときの話では、「望」と書いた人たちがたいへん多かったようであった。何故あのとき、自分は熱望にしたのか。はっきりした理由は自分でも分からない。 
 よく戦況を知っていたわけなのではない。とくに特攻のみが日本を救う途だと熱望していたわけでもない。我々は真の戦局は知らぬ。参謀は当面の戦果を求めているだけだったのかもしれない。が、一方では微かではあるが、日本を救えるなら死んでも仕方がないという気持ちがあったことも事実である。 
 戦況とは別に、何か自分個人の生き方やそのことへの意地のようなものが働いていたように思う。もとより、国を救うべき時だとは思っていた。が、特攻が唯一の作戦であると確信していたわけではない。が、にもかかわらず熱望とした背後には、何か「望」では自分自身に対して潔くないような気がして、自分の意地みたいなもので「熱望」と書いたような気がする。対面とか、面目とか、あるいは、自分だけ助かることなどにはなりたくないといったような勝手な気持ちがあったようである。 
 何となく、「望」と「熱望」との相違が感じられているわけである。何かしらこだわりがあることが考えられる。「望」と書くと潔くない気がしていたが、本人は決して断固特攻を願っていたわけでもない。「望」より「熱望」のほうが思い切りがいいとか(若かったせいでもあろう)、今からいえば、つまらないことにこだわっていたといえるかもしれない。 
 しかもそのときは、みんなが「熱望」と書いたと思っていた。戦後のコンパで、あの時何と書いたかといったことが話されて、多くの人が「望」と書いたことを聞かされて、我ながら自分が堂々たる確信を持っていなかったことを情けなく思ったことであった。 
 また、「否」と書いた人もいた。
  「否」と書いた人は、二、三の分隊では一〇〇人にうち一人はいたとのことが、会報には載っている。 しかし、誰がどんな気持ちで否と書いたかなどという記事は全くない。自分が何と書いたかは、誰も聞かなかったし、特に親しい仲間にしか話さなかったように思う。たまたま、否と書いたとみずから語ってくれたひとがいた。年をとった母がいるからといっていた。私はこれを聞いて全く感動したことを憶えている。 
 末子の私にとっても母親は最も大切な存在であったからである。多くの人が特攻を志望したが、彼は自分の心情を貫いたのである。私にも年老いた母がいた。が、自分には書けなかったことが、我ながら情けなかったのかもしれない。 
 もっとも、戦後三十年もたった頃であったであろうか、たまたま彼の話になったとき、その頃の彼は戦闘機で縦横に空中戦がしたかったから、特攻を志願しなかったといっているという話を聞いた。何か割り切れない感じがしたが、何も変える必要はないのに、こう変えざるをえないものが、やはり何かあったわけなのであろうか。いずれが真実なのか、それとも両方とも真実であったのかもしれない。あるいは、特攻志願の本来の姿などというものは分からないものなのかもしれない。



Ⅱ-21 .第一次の隊員たち
 
 どういう理由で、初めの三〇人ほどの人々が選ばれたかは分からない。第一陣で鹿屋に出撃しながら、敗戦まで出撃の機会がなく、何人かが運良く帰ってきた。この中の一人の人の話では、「熱望」だけではなく、何かもう二、三句つけ加えた人が多く選ばれていたようだといっていた。 
 一方、同じく運良く帰ってきたもう一人は、「熱望」と書いたものは、みんな選ばれて特攻隊員になったと考えていたという。たまたま、小生が「熱望」と書いたという新聞記事を見て、「熱望」でも行かなかった奴がいたんだと天を仰いでいた。じじつ、「熱望」と書きながら、寝台を駆けめぐった同僚も運良く行かなかった。



Ⅱ-22 .特攻志願理由
 
 特攻志願提出のときに、何と書いたかを書き残している人はけっこう何人かいるが、その間の感情の動きを細かく書いている人はほとんどいない。いくつか挙げておこう。
 
 航海学校で、震洋特攻募集のときのこと。

  (…)決定的に命を捨ててしまうには、まだ娑婆っ気たっぷりだったが、格好よく死にたい。 どうせ負戦だから、木っ端微塵になりたい。ほんとに、そう思いこんで、単純に、どんな特攻隊かも詳しく知らないまま志願した。いきなり不採用になった。 
 けったくそ悪く翌日の練兵に出ず、 Only strike したのが功を奏したのか区隊長はじめ偉いサンが、「そんなに行きたいか?」と、いうことで、採用された。
高木渉[大阪商大]『一旒会の仲間たち』一七四頁)


 鹿島水上機の特攻志願

  「A︱すぐ」「B︱次」「C︱他の道」「D︱いや」を記名で理由を付けずに出せ。銀河の事故や 特攻機が標的直前でスティックを引くのが多い事を聞いていたので、敢えて理由をつけて「C」と書いた。部屋に戻って某も「D」を選んだと聞いて、共に後難を恐れたがそれは無かった。
(須永重信「私の一年八ヵ月」「海軍十四期」第三五号八頁)
 
 もともと、CやDをみずから提出したことを会報に書いているひとは、この人一人だけである。本人は特攻隊には編成されなかった。



Ⅱ-23 .酒巻一夫の日記
 
 偵察課程の方で面識はないが、酒巻一夫[昭和二十年四月十二日串良より特攻出撃]は、入隊以来の日記が残っており、まことにひとときの迷いもなく、いつも文字通り立派な軍人たらんとする文章を残されていて、こんな方がおられたのかと、今更感慨深いものがある(参照   『学徒出陣 50 周年記 念特集号』四五〜五〇頁、「関東十四期」第五号三頁、「九州十四期」平成二年十一月十五日号六頁)。 
 彼は昭和二十年の三月十七日大井空の偵察課程を卒業して、艦爆艦攻の百里原空に着任。着任と同時に全員特攻要員と申し渡され、三月二十二日には早くも特攻隊員に指名され、四月十二日には串良基地から出撃している。 
 彼は「いつもニコニコして自信と落着きが感じられ」る人柄であったが(萩原浩太郎「百里原空の三人の友」『別冊あヽ同期の桜』二一八頁  注38 )、彼自身はみずから「躍る思い」といい、「自信なしとはいえ、殉皇の至誠を捧ぐるの機に恵まれ、感奮邁往せむ」と日記に記している(『学徒出陣 50 周年記念特集号』四八頁)。 
 特攻指名から「百里原空進発までの十日間激しい特攻訓練の明け暮れであったが、同期生には露ほども胸の苦衷を垣間見せなかった」(江名武彦「弧雲愁傷・九七艦攻隊散華」土居良三編『学徒特攻その生と死』二九八頁)。
  「凛とした風姿で偵察席に仁王立ち、帽振る私共に挙手の礼で応じて離陸して往った」(同書二九九 頁)。
 
 水上機特攻の岩永敬邦[東京大。操縦。北浦空。詫間空]はこう書いている。

  〔特攻志願の紙片は〕半紙を八つ切りにした紙を二つ折にして、熱望、希望、希望せず、何れ でもよいから、記入して出せと申し渡される。名状しがたい硬さが部屋を占める。勿論それは熱望という二字で埋められねばならない仕掛けになっているものなのだ。一枚一枚を開いていくうちに、行間に、蔽えぬ動揺を伝えるものも見える。
  (…)
 四月十一日朝、魁、水心隊搭乗員整列の令達が流れる。(…) 
 今日の特別攻撃隊員の名が呼びはじめられた。
  「今度は俺だ」読み上げられて行く人毎に、一語々々が、己れの名前に近よってくる。それは 既に所与としての距離であり、時間であり、刹那である。ガキッと己れの名前が己れの肉体を噛み込んだ、暗黒い光がさっと眼を蔽って去った。生命の時間と方向が、今度は本当に刹那に決定されてしまった。二十三歳の生命はその瞬間に生命を絶った。絶たれて尚定められた時間の間、己れの意志と力によってその道を歩かねばならぬ。
(『別冊あヽ同期の桜』一六九頁、一七一頁 注39
 
 前田夘一郎は、航海学校で第三分隊にいたときの人間魚雷〈回天〉志願の体験をこう書いている。

  (…)今日若い人たちから「なぜ志願したか?」と質問されるが、当時は志願することについ ては説明は不要であって「志願しない」ことについて説明を要した。しかし戦後から現在に至る間は逆となって「志願する」理由が問題であった。本当はこのことが重要であったと今でも私は考える。私は海軍入隊時飛行科を志願したくない理由を試験官に答えたが説明とはならなかった。しかし試験官は飛行科を第三志望としていることと、私が長男であることと、私が繰り返し志願したくないことを察してあえて飛行科に採用の判定をしてくれなかったことに今もって恩義を感ずるとともに恥ずかしいことをしたと内心恥じていた。
  (…)私は志望すべきや否やについて話し合う環境もなく時間もなかった。(…)前線の弾丸雨 飛の下の死生観もなく死を畏れていたことはもちろんであって、形而上の一般論で結論など出るはずがないまま、灯火管制下の薄暗い中での自習が終わったところで、本部二階の教官室に赴いた。
  (…)分隊長は「このたびのことに関して学生の総員志願のことを期待したが、必ずしもそようなことにならなかった。しかし選ばれた諸官は分隊長の期待に添うごとく任務を完遂すべし」と訓示があった。
(「わが海軍航海学校の憶い出」『一旒会の仲間たち』三四五〜三四九頁


 山鹿少尉
 
 一方では、特攻を逃れる機会をみずから断った予備士官もいた。 
 山鹿悦三少尉[三高。東京大。偵察。神風特別攻撃隊八幡振武隊。南西諸島]がこの士官である。 
 これは石田修[東京大。操縦。徳島空。宇佐空]が、この山鹿悦三について語っているものである。

  (…)私は宇佐空着任後、司令、飛行長に呼び出され、飛行長付を命ぜられた。その時、「君と は、最後に、我々が同乗して出撃するから、それまでは作戦関係の事務を分担するように」と命ぜられた。 
 その後、飛行長付の業務が多忙のため、増員する必要が生じ、私に、同期生中から候補者二名を選ぶよう命ぜられた。そこで、任官序列に従い先ずK・H君(元徳島空第三分隊学生長)を指名 
し、決定した。次に山鹿君を指名したが、彼は「特攻出撃のため、ここまで来たのだから断る」と峻拒し、その後、特攻出撃した。まことに痛惜の至りである。
(「されど特攻隊」「海軍十四期」第一八号七頁)

===============
注 36  二〇〇三年版では一六四頁。
注 37  朝日新聞に掲載された文面には「縁路」とあったが、著者の原稿を確認したところ「縁路面」 となっていたため修正した。著者は常々、縁路面に座って眺めた風景やその時々の心象などにつ いて話していた。
注 38   『続・あゝ同期の桜』では二六〇頁。

注 39   『続・あゝ同期の桜』では二〇〇、二〇二頁。 
===============

邀撃:[ようげき]名〙 (「邀」は待ち受けるの意) 来襲して来る敵を待ち受けて攻撃すること。むかえうつこと。



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#3915 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.53~66 Feb. 1, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-
10.四方中尉の人間宣言

Ⅱ-11 .三座水上偵察機特攻隊の出撃と米駆逐艦モリソンの沈没
Ⅱ-12 .特攻志願の仕組み
Ⅱ-13 .〈特攻隊に予備学生を使う〉
Ⅱ-14.航空隊における特攻隊員の募集
Ⅱ-15 .航空隊における正式の特攻隊募集
Ⅱ-16 .署名について

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 Ⅱ-10.四方中尉の人間宣言
 
 十四期生の会報には書かれていないが、水上機特攻についてこういう話が残っている(岩永敬邦「水上機特攻その六ヵ月」『別冊あヽ同期の桜』一七五〜一七六頁  注25 )。
 
 生きて帰った特攻隊員は恥を忍ばなければならない。確かに生きているのだが、その思考も行動も、すべて死の枠の中にはめこまれてしまっている。国家も愛も、それは生きる次元からの発想でしかない。だとすればその思考から国家や愛情の論理が消えても当然であろう。
 
 兵隊の組織も人間の作った社会でしかない。天皇の観念で括られている兵隊組織の中に、〈事実としては死んでいるが、実際には生きている個体〉(死に損ない特攻員)が出てくることで、次第に兵隊組織の中に〈人間〉が入ってくる。つまり、異質なものが入ってくる感じである。人間性を捨象した肩章秩序の中に、人間が自覚され始めて、胡座をかき始める。死に損ないの吹きだまり集団が出現する。 
 遺書を書き、辞世の句を残すのは、まだ死に損なわない人々である。吹きだまりはアナポリ(海兵出身者)から睨まれる。嫌われる。しかし、もう人間として上から事態を見つめる知恵が出る。目立たず、静かに人知れず発進する。まさに知らないうちに、生死を超えている。四方巌夫中尉[京都師範。十三期予備学生。神風特別攻撃隊第二魁隊]がこれである。 
 四方中尉は見事にアナポリに人間宣言をたたきつけて死んだ最初の一人であった。
 
 彼は午前の攻撃に出て帰って来た。帰るなり又飛び立たされて天候不良で引返した。横たわる暇もなく夜の攻撃に加えられた。それは死の強制と受取られる程のものであった。一方に一度も出撃しない一群もあったからである。 
 彼は夜、出撃前に従兵にビール箱を持たせた。アナポリの部屋にビールビンを投げつけて叫んだ。
  「アナポリ、出てこい。前線に行って見ろ、戦争しているのは予備士官予科練だけだぞ」
 その夜、彼は突入寸前まで電鍵をはなさず敵状を報告し、降下に移って「長符」を送信し乍ら、発信音と共に消えた。嘉手納の監視哨は見事な敵巡の轟沈を報告している。


Ⅱ-11 .三座水上偵察機特攻隊の出撃と米駆逐艦モリソンの沈没
 
 水上機による特攻搭乗員は、すべて予備士官と予科練出身者のみであった。海兵出身士官は一人もいなかった。 注26
 しかし、水上機特攻の壮絶な力戦奮闘には米軍側の記録が残っている。 
 駆逐艦モリソンは昭和二十年五月四日沖縄本島の残波岬の北方五〇浬近くを朝七時過ぎ哨戒中、〇七一五〜〇八二五の間、九九艦爆四機、ゼロ戦三機の特別攻撃を受ける。艦爆全機とゼロ戦一機は海面に散華したが、最後に突入したゼロ戦二機の内の一機は第二煙突を掠め、第一煙突基部に突入、第一缶室を破壊、他の一機は五インチ第三砲塔を掠め甲板に突入。右舷後部機関室外板を海中に吹き飛ばした。ここまでが経緯一から二までのまとめで、三以降を以下に引用する。
 
 三、以上の攻撃だけでは沈没に到らなかったと思われる同艦に止めを刺したのは三機の Wood-and-Canvas twin-float bilplane of ancient Vintage であった 注27 。 
 四、七機の「骨董品然とした木製帆布張り双艀舟の複葉機」が低空低速で接近して来るのを観守る裡に、その一機は二十粍対空機銃の命中弾を再度蒙り乍ら突撃を続けた。艦尾二十粍対空機銃座に帆布の切れ端をばらばら降らせながら、四十粍対空機関砲座、及び、五吋第三主砲に突入、爆薬は上部操舵室、及び五吋第三主砲を吹飛ばした。 
 五、他の一機は、艦尾から接近中、直掩戦斗機、F4U・コルセアー機の追尾を受け、同艦のウエーキ(航跡)に着水した。しかし操縦員は、尚もひるまず航跡を追い、離水滑走に移り、離水するや否や直ちに五吋第四主砲塔に突入し、大誘爆を生ぜしめた。 
 六、以上二機の九四水偵(九四式三座水上偵察機)突入成功による大爆発のため「モリソン」は急速に浸水し始め、止むを得ず艦長ハンセン中佐は「総員退去」を下命した。 
 七、「総員退去」命令と同時に艦首を向天、直立のまま沈没した。突入と沈没の間十分。 
 八、被害は少からず、三三一名乗組中、一五三名戦死、又は行方不明。一〇八名負傷。内六名は爾後死亡。
 
 以上の文章は「モリソン」戦斗報告( History of U.S. Naval Operations in World War II. Volume XIV”
 林孝之[航空自衛隊百里原管制隊]訳)一九四五年五月十一日の分による(中野宗直[東京大。 操縦。詫間空]「 14 期会報」第一号四頁)。



Ⅱ-12 .特攻志願の仕組み
 
 特攻作戦が問題にされたとき、特攻出撃が命令であれば、究極的にはそれは天皇の命令ということになる。これでは天皇を傷つける恐れがある。特攻を命令で行うのはどうか、の議論がでてきて、結局特攻出撃は搭乗員の志願志望によるという形がとられたといわれている。 
 軍当局は、特攻というと必ずこの見解に立っている。参謀、隊長、司令官などの見解は必ず忠烈なる兵士が、みずから志願して国の危機に身を挺したという形で書かれている。 
 また種々に出されている特攻についての書物でも、大抵のものはそう書かれている。いや、特攻について触れた執筆者だけでなく、軍の当局者はすべて本当にそう思っているらしい。


Ⅱ-13 .〈特攻隊に予備学生を使う〉
 
航海学校でのことであるが、教育中の予備学生を特攻隊員に使うという、軍紀文書が残っている。昭和十九年八月二十日起案、八月三十日発布「特殊兵器要員に充当すべき海軍予備学生の選抜並に教育に関する件申進」という文書で、こう書かれている。「⑥兵器(回天)及び甲標的(特殊潜航艇蛟竜)艇長適任者各五十名を選抜のこと」。志望者は直接に学生隊長に申し出ること  注28 。 
この文書には、選抜要領に「志願者より選抜のこと」と明記されている(武田五郎「ああ回天」『一旒会の仲間たち』258〜259頁)。 
これは航海学校の場合であるが、恐らく航空隊の特攻隊員募集にもこうした文書がでたのであろう。ただし、航空隊では多く望否の紙片を提出する形態がとられている。確かに特攻の編成に志願の形がとられたことは確認されている。十四期の予備学生の文章によると、志願はさまざまな形で行われている。



Ⅱ-14.航空隊における特攻隊員の募集
 
募集の仕方についても、いろいろの仕方があることが語られている。徳島空では予備学生の卒業が近くなった頃、正式の特攻調査志願以前に本人の希望機種の調査が行われたことを何人かの予備学生が触れている。


徳島空特攻願書事件
 
 水本均[京都大。徳島空。大津空]「機種選定
 
 昭和二十年一月、私は徳島にいた。ある夜、海兵出身のY分隊長が、搭乗志望機種の提出を求めた。それに先立ち彼は、黒板にいちいち機種を書きつらね、それぞれ丁寧に説明を加えて行き、最後に〝特攻機〟と書いて、
  「特攻機に乗りたい者は志望するように」 
と、簡単につけ加えた。そして、
  「何であれ、遠慮はいらない。自分で最も最適と思う機種を選べ。飛行に適性なしと悟った者は、 地上勤務でもよろしい」 
と説明を終えた。私たちは、艦攻、艦爆、水偵など、それぞれ志望する機種を書いて提出した。 
 私たちの受難は、その夜から始った。就床間もなく、Y分隊長の怒声による総員起しがかかった。 
「貴様らの根性に俺は泣いた。特攻機を志望しない者が意外に多い。なかんずく、陸上勤務志望とは何か。精神がたるんどる。叩き直してやる」 
 かくて全員修正された後、飛行場一周かけ足。へとへとになってやっと寝る。その翌夜は、海兵出身士官による総員起し、修正。その翌夜は先輩予備士官。さらにその翌夜は十三期による総員起し、修正である。彼等に言わせると、
  「十四期は徴兵上りで、兵隊根性が抜け切れていない。勇気がない。そのうえ理屈が多い。そ んなことでは、一人前の海軍士官になれない。特攻機を志望しなかった者は、徳島から卒業させない。いつまでも予備学生にとどめる」 
ということであった。毎晩、起され、なぐられ、そのうえ楽しい外出も禁止である。 
 当時私たちは、関大尉の零戦による敷島特別攻撃隊の体当り戦法の話は聞いていた。しかしこれは、あくまでも零式戦闘機という機種の飛行機による特攻であり、その機種は戦闘機である、練習機の〝白菊〟ですら、やがては特攻に参加して、特攻機と呼ばれたが、〝白菊〟の機種はあくまでも練習機である。私たちは機種の選定に当り、自分の技倆と好みに応じて、艦攻、あるいは、艦爆などと、選んだにすぎない。そうして志望して搭乗した機が特攻にかり出されるか否かは、その次の問題である。Y分隊長の質問が「特攻隊を志望するか否か」であれば、あるいはY分隊長の満足できる結果が出たかも知れない。なぜなら、私たちの前に残されていた道はただ一つ、特攻隊員になることだけであり、この道を拒否することは、不可能だったからである。
(『あゝ同期の桜』209頁  注29)

 この事件はほかの人も書いているが、ここでは別の筆者による徳島空特攻願書事件をもう一つ掲げておこう。 
徳島空、天草空の相良輝雄の「若き日のいのち」はこう書いている。

  「神風」で想い起こされるエピソードは、天草空配属前に徳島空で偵察訓練を受けていたころ のことである。或る晩の温習時間に突然入って来た分隊長は黒板に十種ほどの海軍用機を掲げ、搭乗希望の機種名を配られた紙片に記載するようにとの事であった。私の注目を引いたのは、中に「神風特攻隊」が含まれていたことだった。自ら志願する意志もなく偵察機を希望した。紙片が集められ就寝して三十分も経たない中に「総員起こし!」「兵舎前整列」の号令であわてふためいて一同並んだところ、分隊士数名による全員の横ビンタが飛び、それから例によって分隊長の長口の説教。曰く「キサマ達はヒキョウモノ!」「国のために死ぬのがそれ程恐くて惜しいのか!」「二五〇名中に神風志願が僅か一割とは何たる事か ?! 」「不忠者、恥知らず!これでキサ
マ達の根性のクサレが判った。ヨーシ之から精神を叩き直してやるッ」「上陸も禁止、休暇も取消しだ。飛行場駆け足一周!」と云うわけで、翌日から日本海軍の伝統的シゴキが始まったのである。数週間後、配属先の天草空では計らずも希望通り水上偵察機に搭乗していた私であったが、その悦びも束の間、司令に呼び出されて名誉ある「神風」編入命令を受けた時は暫し茫然とした。
(「海軍十四期」第十九号22頁)

 水本均は、機種選定について、特攻機を他の機種と並列させて選定させるのは、論理的にいえば、もともとナンセンスであったと指摘している。 
 水本は分隊長の論理の不整合を指摘しているが、さらにコメントすれば、いかなる機種でもいいと前置きしているのに、こうしたことをするのは人間の信義に反するような気がする。分隊長命令にやみくもに従った他の士官たちの行動にも何か肌寒いものを感ずる。 
もっとも、我々がそのときの士官たちの立場におかれたら、果たして分隊長の言辞に批判を投じえたであろうか。我ながら情けない行動しかとれなかったのではないか。またそんなことをしたら半殺しでは済まなかったかもしれない。 
 我々自身もいつしか〈海軍ムラ社会〉の組織軍律の中に組み込まれて、本来の人間の魂と勇気とを失ってしまっていたわけなのだ。日本海軍がアメリカの海軍に敗れるほかはなかった根本の原因は、こうしたところにあったのかもしれない。 
 ただ、観点を換えて考え直してみると、特攻を望か、否かを記名する場合でなく、ただ言葉でそのことを聞いた場合でも、望は一〇%もいたわけである。これは何を意味するのか。解釈は分かれるかもしれない。あるひとは、特攻望か、否かと、聞かれれば、全員望だったはずだといっている。 
 そうかもしれない。こうした状況の中で、特攻志望の実態を一概に決めることはできないような気がする。特攻望否の割合には、さまざまの原因、種々の綾あり、一概に規定出来ぬところがあるからである。逆に、海兵士官の方からいうと、彼らが予備学生をぶん殴ったということは、学生全員がまさに特攻志望であることを望んでいたのであろうか(愛国心の証として)。あるいは、予備学生は特攻要員でしかないということであろうか。 
 しかし、私自身の気持ちから云えば、一〇%(二五人)もすすんで特攻を受け容れる人がいるということが、学生の国に殉ずるモラルの高さを示しているような気がしてならない。



Ⅱ-15 .航空隊における正式の特攻隊募集
 
 募集の仕方については、いろいろの仕方があることが語られている。 
 名古屋空草薙隊(艦爆隊)。特攻志願者は氏名に丸印つけて提出せよ。「いよいよ来たるべきものが来たという決意を新たにしたのであった。当時の状況からして、当然全員志願したことと思われる」(泉義一[明治大。操縦。出水空。神町空]「名古屋空草薙隊」『別冊あヽ同期の桜』200頁  注30 )。 
 松島空でも、四月に特攻隊(九六陸攻)の募集があり、志願するものは「一歩前へ」で、志願が求められた
1注 注 (花田良治[山口高商。操縦。出水空。松島空]「九州十四期」昭和六〇年八月十五日号5頁)。 
 宇佐空については、美座時和[拓殖大。操縦。出水空。百里原空。宇佐空]が、特攻が始まったときのことを語っている。
  「夕食後、指揮所前へ整列した我々に特攻を熱望する者は一歩前進の令が下るやいなや一斉に、ダッ と全員の足並みが揃って出た時の感銘は確かに今でも嘘ではない」(「同期の桜会報」第七号七頁)。筆者は、皆がそろって、さっと出たことに誇りを持っている。 
徳島空であったか、同じ仕方で、一名除いて全員ということが伝えられている。こうした事態には、よく「一名を除いて」という表現が使われているが、その一名がどんな人物であるかには触れていない。 
 多くの隊で用いられた仕方としては、小さい紙片を渡され、熱望、望、否のいずれかを書いて提出せよ、といったものが一般的であった。 
 水上機の鹿島空では、「A‐すぐ」「B‐次」「C‐他の途」「D‐否」の四項目の一つを選ぶのが、志願書類の内容であった。 
 外の仕方では、「申し出」の形をとったところもあった。三日以内に分隊長に申し出る。家族や同僚に相談しないこと。この仕方では、個人の決断が尊重されているといえるかもしれない。 
 航海学校の予備学生から回天搭乗員を募ったときには、この形がとられている。また博多空で神雷桜花隊員募集のときにも、同様な形で特攻隊が編成されている。 
 山本芳知[早稲田大。操縦。博多空。戦七二二]によると、十九年暮れに任官してすぐに、戦闘機要員に対して、分隊長より一五名の神雷搭乗員募集が行われている  注 32
  「当時の情勢下、われわれとしては、好むと好まざるとにかかわらず応募せざるを得ない。自分も 直ちに分隊長に申し出る」。十三期第一陣。十四期第二陣。博多空、美保空、各一五名。海兵ゼロ(『別冊あゝ同期の桜』201〜202頁  注33 )。 
 大津空。昭和二十年に、偵察課程卒業者が徳島空から三月十四日に、大井空から四月十二日に着任すると、着任の日から自動的に特攻分隊編入(同書187頁  注34 )。
 北浦空。昭和二十年二月二十日に応募紙片が配られ、一〇〇人中一名を除き、九九名が署名し志願したといわれている。 
 大井空から三月十六日、十四期偵察来る。三月下旬から移動。詫間空へ。四月十二日には、大津空特攻隊の第一陣が詫間空に進出。ところが、総員見送りの後早速私物を遺品として郷里に発送しようとしていた矢先、四月十五日全員が大津空に引き返してきた。詫間空が第十航艦所属の水偵特攻隊の集結により手狭となり、とりあえず原隊に引き返して待機となったのである。ついに敗戦まで出撃の機をえていない。 
 詫間空。昭和十九年五月二十五日に、土浦基礎教程を卒業するとすぐに三座水偵の操縦学生として詫間空に着任。昭和十九年十二月に少尉任官にあたり、森司令の祝いの弁。「君等は水兵から七階級特進した。異例の事でありお目出たい云々」。この挨拶に何か異様な感じをうけた。水上機隊の特別の雰囲気であろうか。
 
特に特攻志望の志願はなかったが、昭和二十年二月八日「特攻隊についての感想」を提出させられる。その後すぐに十一日には特攻隊が編成。十四期三三名のうち、一五名が訓練に入っている(中野宗直『別冊あヽ同期の桜』179〜180頁  注35 )。 
 水上機隊は、特攻隊搭乗員には、開戦以来敗戦まで、海兵出身の士官は一人もいない。特攻隊員はすべて予備学生と予科練のみである。このことは多くの人が感じているが、一体何を意味しているのか。本当のことは分からない。 
 特攻志願の初めの頃は、各部隊が何らかの仕方で志願の形式を守ったようであるが、次第に特攻が当然の風潮が主流を占め、随時に特攻隊の編成が行われ、それぞれそれなりの仕方で隊員が決定されたようである。 
 特異な仕方であるが、松山空では、個人面談が行われている。
 
 斎藤登茂雄[東京大。土浦空。大井空。松山空。大井空]「神風特別攻撃隊大八洲隊始末記」
 
 二十年三月に入ったころと思うが、私は二分隊長三堀大尉に呼ばれた。「ここで特攻隊を編成するが志願するか」とのじきじきの問いである。今から考えると不思議であるが、ほとんど抵抗もためらいもなく、「志願します」と即答した。やはり未熟ながら、海軍に入って一年有余の教育で、無批判に体制順応、滅私奉公の心構えが出来ていたようだ。分隊長は、「せっかく最高学府まで出たのになあ」と一応の思いやりは示したが、どういう基準で選んだのか分からないが、指名で呼び出した者が同意したのだから、遠慮なく特攻隊に編入したことと思う。
(「海軍十四期」第一三号六頁)


Ⅱ-16 .署名について
 
 渡辺真一郎[土浦空。操縦。谷田部空。美幌空]「特攻所感」(「海軍十四期」第一六号6頁)特攻隊で自らすすんで生命を捧げた戦友の行為は尊いものであるが、これを命令したものが安穏と生きのびたことには憤りを感ずる。 
 命令者に対する怒りは当然であるが、この文章はただ特攻そのものの非人倫性には触れていない。こんな風に書いている。
 
 私は、特攻隊志願をさせられた時の雲ひとつな青い空とあきらめの気持を憶い出す。その後特攻隊解除になった時、本当にホッとしたものである。これは最近読んだ『海軍中攻決死隊』(光文社刊)の中で歴戦の搭乗員横山長秋氏も同じことを書いている。
 
 じっさいは、こちらが署名するのであるが、人によっては、署名する本人は「させられた」といった感じをもつひともいたわけなのだ。つまり、自分としては「させられた」のであって、「した」のではないということであろう。もちろん、「躍る思い」のひともいる。が、全員が必ずしもそうだとはいえないことであるわけなのだ。 
 といって、志願命令を無視して、全く自分の意志で行動する気持ちをもったひとの文章は見当たらない。恐らくいないのであろう。ここに、特攻志願の一つの仕組みがあったともいえるわけである。特攻志願は決して一通り一様な気持ちではないことを理解しておかないと、本当の搭乗員の気持ちを十分に理解することは出来ない。


===============
注 25   『続・あゝ同期の桜』では二〇七〜二〇八頁。
注 26  押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈海軍編〉』光人社、二〇〇五年、二三七〜二四〇頁の海軍神風 特別攻撃隊出撃一覧表「水上機の神風特別攻撃隊」で確認したところ、確かに一人もいなかった。
注 27  引用原典のタイプミス。正しくは「 biplane 」。
注 28  この軍紀文書とは「海人三機密第三号の六二」という文書である。原本を参照することはでき なかったが、神津直次『人間魚雷回天』に全文が掲載されている(単行本版二六三〜二六六頁)。 武田五郎「ああ回天」に一部掲載されているものと比較すると、全く同じではなかったので、『人 間魚雷回天』掲載の「海人三機密第三号の六二」の該当箇所を掲載しておく。
     「⑥兵器搭乗員及甲標的艇長適任者各五〇名を選抜し(…)」(二六三頁)  
    「一、選抜要領       (イ)本要員は志願者より選抜す」(二六四頁)  
   なお、当該文書には「志望者は直接に学生隊長に申し出ること」という記述は見られない。
注 29   二〇〇三年版では二三八〜二三九頁。
注 30  『続・あゝ同期の桜』では二三七〜二三八頁。
注 31   原典には「一歩前へ」という記述は見られない。
注 32   原文ママ。「神雷」とは桜花特攻を行う部隊名であるため、ここでは「桜花搭乗員」のことを 指すと考えられる。
注 33   『続・あゝ同期の桜』では二三九〜二四〇頁。
注 34   『続・あゝ同期の桜』では二二二頁。
注 35   『続・あゝ同期の桜』では二一二〜二一三頁。
===============

<ebisuコメント>
Ⅱ-10にでてくる「アナポリ」という用語は米軍の海軍兵学校の所在地「アナポリス」を指し、日本の海軍兵学校出身の兵士たちを揶揄している。前線で特攻兵として戦っているのは学徒動員された予科練の者たちだけであり、職業軍人であるはずの海軍兵学校出身者は特攻を命令するだけで自らはやらない。大和魂を失っているから、「アナポリ」つまり米国海軍兵学校出身者と変わらぬということ。
 市倉先生は昭和19年4月1日に第14期
海軍飛行予科練習生として学徒動員された。予科練の1年間の訓練期間が終わると、「予備士官」となり、さらに1年後に少尉任官で正式の将校となる。海軍兵学校は職業軍人のエリートコース、ここを卒業して少尉任官まで4-5年かかるのが普通だったから、やっかみもあって予科練や予備士官を苛め抜いたのだろう。男の嫉妬は手がつけられぬもの、人間性を根こそぎ奪ってしまう。
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四方中尉は見事にアナポリに人間宣言をたたきつけて死んだ最初の一人であった。
 
 彼は午前の攻撃に出て帰って来た。帰るなり又飛び立たされて天候不良で引返した。横たわる暇もなく夜の攻撃に加えられた。それは死の強制と受取られる程のものであった。一方に一度も出撃しない一群もあったからである。 
 彼は夜、出撃前に従兵にビール箱を持たせた。アナポリの部屋にビールビンを投げつけて叫んだ。
  「アナポリ、出てこい。前線に行って見ろ、戦争しているのは予備士官と予科練だけだぞ」
 その夜、彼は突入寸前まで電鍵をはなさず敵状を報告し、降下に移って「長符」を送信し乍ら、発信音と共に消えた。嘉手納の監視哨は見事な敵巡の轟沈を報告している。
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*https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍飛行予科練習生
*電鍵デンケン モールス信号を送信するための装置である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%8D%B5



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#3914 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.43~53 Jan. 31, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

  本欄の左にあるカテゴリー・リストにある「0. 特攻の記録 縁路面に座って」を左クリックすれば、このシリーズ記事が並んで表示されます。
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Ⅱ-
4.行きたくない。死にたくない

Ⅱ-5.特攻隊員のニヒルと真実
Ⅱ-6.参謀軍令部の空しさ

Ⅱ-7.北浦空特攻志願
Ⅱ-8.指揮官みずから特攻へ
Ⅱ-9.生きて帰ったもの

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Ⅱ-4.行きたくない。死にたくない
 
 こういった話も語られている。
 
 油谷孝[立教大。偵察。大井空。松島空]『日和山有情
  『日和山有情︱石巻つつじ園の七十年』は、石巻の料亭「つつじ園」女将であった小松梅子氏が、 満八十歳のときに出版した自叙伝であり、油谷の文章はこの書物を紹介したものである。この料亭は、戦時中は松島海軍航空隊の予備学生たちのクラブになっていた。油谷はこの書物の一部を引いている。
 
 〇特攻さん 
 松島航空隊から特攻隊が出るようになったのは、昭和二十年春のことだった。
  「行きたくない。俺は死にたくない」志願しておきながら、私のところへ来てそういって泣く学生さんもいた。
  「何をいうの。みんな行くんだから、男だったら涙を見せないで行きなさい」 
 私は声を励まして叱った。慰めてあげたところで行かねばならないのだ。へたに同情してはかえってかわいそうだ。 
 泣きたいのは私だって同じだった。つつじ園を通じてせっかく学生さんたちと親子のような気持ちでつながりが持てたのに、いまここで特攻に行かれるのはつらい。出撃すればもう会えないのだ。ふつうの出撃ならば「どうかご無事で」と帰りを待つことができる。特攻さんにはそれがないのだ。 
 竹島栄吉中尉と向坊寿少尉が鹿島神社にお参りに来たのは四月十二日のことだった。つつじ園とは目と鼻の先だ。つつじ園で何次会目かの壮行会が行われた。
  「ママ、行ってきます」 
 その言葉に、
  「何食べたいの?」 
 私はそう聞くほかなかった。いいたいことがあんまり多いときには、案外、言葉というものは出てこないものだと思った。
  「アンコのたっぷりついたおはぎをたらふく食べてみたいな」 
 向坊さんがいった。
  「じゃあ、これから早速つくって、あす出撃する前まで基地に届けるからね」

  「ありがとう」 
 みんなが帰ると、つつじ園は総がかりでおはぎをつくりにかかった。夜を徹してつくった。つくり終えたのは明け方近くだった。 
 私は出来上がったおはぎを折箱に五つずつ詰め、桜の模様の入った掛け紙に包んで岡持ちに入れ、トシちゃんと二人で矢本基地に向かった。 
 朝早い電車で矢本へ行き、基地へ歩いた。衛門を入っておはぎを渡すと、私たちは指揮所へ通された。料理屋のおかみが指揮所へ通されるなどということは極めて異例だ。わが子と思う特攻さんの出撃を親に代わってここから見送ってやってくれ、ということだと私は解釈した。 
 午前九時、第二次特攻隊三十人が両側に整列する飛行士の間を敬礼しながら出てきた。先頭に竹島中尉、続いて向坊少尉、見知った顔が続々と続いた。 
 私はいつか「死にたくない」といって泣いた特攻さんを思い出した。泣いてはいけないと自分にいいきかせた。 
 第二次特攻隊は、三十人のうち十人が生還してきた。敵機の機銃掃射で飛行機をやられたため、出水基地から出撃できずに返ってきたのだ。雷撃に変更になったり、照明弾を落とす役目にまわって助かった人もいた。竹島さんも向坊さんも助かった人の一人だった。 
 松島航空隊からは第一次から第五次まで、偵察・操縦あわせて百二十五人の特攻さんが出撃した。そのうち何かの事情で生還したのは三十人ほどだった。三十人助かったというよりも、百人も死んだことのほうが胸にこたえた(「海軍十四期」第17号8頁)



Ⅱ-5.特攻隊員のニヒルと真実
 
8 特攻隊員はいずれもが同じく、非現実的世界から現実を祝福しているのではないか。 
これ以外に生き方がないのである。悲しい。だから、また誇りを感じていたに違いない。あえてニヒルに生きるとでもいったらいいのであろうか。彼らの真実の悲しみと、真実の偉大さが真摯に絡まり合っているとでもいうべきなのかもしれない。
  「帰る所なし」と詠った誓子の句は特攻搭乗員の心の一端に触れたすぐれた句であるが、搭乗員の 相反した心情の葛藤に触れていないところに、物足りないものがあるような気がする。この心情の奥の深さに関わらない点に。



Ⅱ-6.参謀軍令部の空しさ
 
 次々と心なき無残な特攻戦術を続行した参謀軍令部には、この作戦に涙したものがいたのであろうか。あるいは、無意味(ニヒル)を感じていたものが。が、何もなしえなかったのが彼らの実態であろう。 
しかし、彼らは不確かな非現実的の戦果より、むしろ現実の必死に関心していたかに見えるのが口惜しい。彼らは故障や事故で帰ってくる搭乗員たちをひどく嫌っていた。搭乗員たちとは違って、彼らは特攻の空しさと偉大さに無縁であったのだというほかはない。彼らは現実にはみずからニヒルに生きながら、じっさいにはそのニヒルを全く自覚しなかったとでもいったらいいかもしれない。


Ⅱ-7.北浦空特攻志願
 
船越国光[中央大。操縦。土浦空。北浦空。詫間空]「私の神風特別攻撃隊魁隊」
 
 水偵の北浦空が米艦載機の攻撃を受けたのは、二十年二月十六日であった。当日は朝からロケット弾や機銃掃射をうけて、数名の死傷者を出した。(…)対岸から格納庫や指揮所が轟音と硝煙につゝまれた凄惨な状況を見て、苛烈な戦局の前途を思った。(…)数日後、(…)分隊長の佐波大尉(海兵)は一同をねめ廻しながら曰く「ただ今から特攻隊を募集する!各自希望の気持の程度を書いて提出せよ」と小さな紙片を渡された。(…)悉くに予備士官とうとまれ軽視されるのが腹にすえかねていたので、この期に及んでまでも我々学生の忠誠心を探るかの言はまことに不快であった。戦後三十五年経った今日でも、あの日の屈辱的な言葉は忘れられない。 
 選考の経緯は今となっては知る術もないが二十八日講堂に全員整列、第一次特攻訓練員(二十五名)が抽出任命され、翌日から特訓がはじまった。学生一〇〇名中九十九名が志願した。一次にもれた私達大半は(…)無聊をかこっていた。一ヶ月経った三月三十一日夜半、私や鳥井等数名が従兵に起され、飛行長宇賀神少佐(青山学院)室に呼ばれた。伺候すると佐波大尉が侍立していていきなり「貴様らよろこべ!明日から飛行機に乗せる!」不思議にこの言葉は今日まで忘れていない。(…)話しを聞けば、一次隊員中に月余の特訓にも練度が上らず、精神面にも問題のある者があるので、貴様達を彼等と交替させる(…)とのことである。
  (…)後発の私達は(…)あわただしく先陣を見送ることになった。(…) 
 士官らしい処遇もなく、肉親や愛しい人との語らいの機会も与えられず、心技未熟、死生の悟諦なきまゝの必死行であったから、明日は我が身と思っても満されぬ空しさ、悲しさと憤懣に身が震え、帽を振りながら不覚の涙と慟哭は抑えることが出来なかった。 
 日頃大言壮語していた職業軍人が、いざという時には隊の指揮官でありながら平然として他に転出し、航法もロクにできない予備学生や予科練のみを、何故にやみくもに必死行に追いやったのか。運命とはいえ勝算皆無と知りながら黙々として出撃していった同期の心情を思うと、ただ余りにも不運の他なく憐憫の涙を禁じ得ない。
(「海軍十四期」第八号8頁) 
 
 こういう職業軍人は、軍紀を創ったかもしれない。が、特攻を平気でやり、自分は生きていられる人間を形成しうる素地を創ったともいえる。良い、悪いは歴史の判断に委ねられるべきであろう。 
 海兵と予備学生との関係あるいは対立について、書いている学生もいる。
 
杉村裕[東京大。操縦。谷田部空。戦闘機]は、昭和二十年五月谷田部制空隊、六月特攻隊、七月一日千歳空と転勤し、七月十日特攻訓練中事故死。


昭和二十年二月二十三日(谷田部空にて日記) 
 国分大尉より航空隊の生活のあり方、編隊長と列機との間柄についてお話あり一寸感激す。現在の俺達︱少くとも俺には︱左右にも上下にも意志の疎通が欠けているのは確かだ。(…) 
 梅本大尉より汝等は心構えにおいても、知識においても士官たる海軍搭乗員たる資格なしと叱らる。無念なり。又想う。現在の如く海軍が、兵学校出と予備士官などの差別対立を意識して形成している情況では、日本国の運命危ういかなと感ずる。
(『別冊あゝ同期の桜』53頁 注22)
 
 航海学校では特攻志願を変更した学生がひどい待遇を受けた話が伝わっている。 
 二分隊S学生は初回の昭和十九年十月、暮れの十二月、二度特殊兵器を志望しながら、家庭の事情を理由に、再度取り消しを申し出た。平瀬区隊長に、叩き斬ってやると追い回され、別室に隔離され、番兵までついたとのことである(『一旒会の仲間たち』213頁)。 
 もともと志願だから、意見を替えても良いはずである。本来からいえば、隊員が行かなければ、率先垂範、平瀬区隊長が行けばいいのである。何かしら、本来の軍事作戦とは違った趣きがあるような気がする。教育課程の予備学生を使うという基本方針が前提になっているかに思われる。 
 もっとも観点を換えていえば、一度決心したものをたびたび替えることが良いか、悪いかは別の問題である。人間の人格の問題であって、制裁の対象にはならぬのではないか。が、こんなことは戦後だからいえることで、 当時日本の軍隊では、こうしたことが普通とされていたところに、問題があるのであろう。 
 志望を変えたものへのこうした仕打ちは、〈不時着、あるいは、帰還したものへの仕打ち〉に通じているかもしれない。


Ⅱ-8.指揮官みずから特攻へ
 
 これは海軍の話ではなくて、陸軍の将校の話であるが、部下のみを特攻に送るのをいさぎよしとせず、みずから特攻に志願した陸軍の教官がいる。 
 昭和二十年五月二十八日、第四五振武隊隊長として沖縄洋上に散華した藤井一中尉は、陸軍士官学校の出身ではない。下士官から将校になる少尉候補生二十一期出身。熊谷陸軍飛行学校で少年飛行兵の教官をしていたが、「お前たちだけを死なせはしない」と、みずから特攻志願。 
 妻と二人の幼い子も自決。藤井中尉の死の五ヶ月前に、入水。
  「私達がいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝っ て待っています」。 
 妻子の入水から五ヶ月後に、中尉は知覧出撃。そのときに、すでに亡くなっている二人の我が子にあてた遺書を残している。
 冷たい十二月の風の吹き荒ぶ日、荒川の河原の露と消えし命。母と共に殉国の血に燃ゆる父の意志に添って一足先に父に殉じた哀れにも悲しい然(しか)も笑っている如く喜んで母と共に消え去った幼い命がいてほしい。 
 父も近く御前達の後を追って行ける事だろう。厭がらずに今度は父の膝の懐でだっこして寝んねしようね。それまで泣かずに待っていて下さい。千恵子ちゃんが泣いたらよく御守しなさい。では暫く左様なら。 
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立てゝ御土産にして参ります。 
では一子ちゃんも千恵子ちゃんも、それまで待ってゝ頂戴。
(工藤雪枝『特攻へのレクイエム』中央公論新社、80〜81頁  注23



Ⅱ-9.生きて帰ったもの
 
 武田五郎が、予科練出身の回天隊員である横田寛が書いた『人間魚雷生還す』の中に、回天搭乗員として出撃し、生還した隊員に対して、次のように叱りつけた上官がいたことが書いてある、と紹介している。しかも公開の席上でである。
  「いつの出撃でも一本か二本(一人や二人ではない)、オメオメと帰ってくる。鉢巻を締め、日本刀をかざし、全員に送られて得意になって行くだけが能じゃない。出ていく以上、戦果をあげなけりゃ、なんにもならん。スクリューが回らなかったら、手でまわして突っ込め」
(「ああ回天」『一旒会の仲間たち』272頁)
 
 伊号三六潜水艦から出撃した回天搭乗員の久家稔[大阪商大]は、二回の出撃とも回天の故障で発進できず、三回目の出撃のときに発進の前にこう書き残している。 
 艇(回天)の故障でまた三人が帰ります。(…)二度目三度目の帰還です。生きて帰ったからといって、冷めたい目で見ないでください。(…)この三人だけはすぐ出撃させてください。最後にはちゃんとした魚雷にのってぶつかるために、涙をのんで帰るのですから、どうかあたゝかく迎えてください。お願いします。先にゆく私に、このことだけがただひとつ心配ごとなのです。(同書272頁)
 
 陸軍特攻隊では、帰ってきた搭乗員に、参謀がひどい仕打ちをしたことが伝えられている。叱りつけるはもとより、一箇所に集めて勅諭の筆写などを行わせた(参照高木俊朗『特攻基地知覧』〈帰ってきた特攻隊員を怒鳴る参謀〉)。 
 海軍では、こうした話は聞かないが、後に触れる四方中尉の話もあるし、八幡神忠隊で散華した大石政則が、その前にエンジン不調で出撃途中から引き返してきたことを、たいへん気にしていた。

 ただ、海軍の特攻にも、あまり芳しくない話が伝わっている。昭和二十年七月三十日に、中練宮古島の岡本晴年中佐は、もともと中練を使用する特攻には反対であった。にもかかわらず、特攻で出撃しながら、故障で帰ってきたもの、あるいは不時着したものを、卑怯者、臆病者呼ばわりし、そのものたちの中から中練五機の特攻隊を組織し出動させている。 
 しかも、彼はこの五機を特攻機として申請していない。自分が単なる殺人者であることを自覚していないことになりはしないか。ひどい指揮官もいたわけなのだ(参照森本忠夫『特攻』322〜324頁。角田和男『修羅の翼』399〜401頁  注24 )。

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注 22   『続・あゝ同期の桜』では60〜62頁。
注 23   中公文庫、2004年版では100頁。
注 24   この文章の出典として、森本忠夫『特攻』と角田和男『修羅の翼』が挙げられている。

  まず森本忠夫『特攻』を見てみると、単行本版(文藝春秋、一九九二年)268頁に次のよう な記述がある。  一部の中練特攻を出撃させていたものの、宮古島基地の岡本晴年中佐は、その後、上部 からの命令を巡って、言を左右にし、彼の在任中、特攻を出さなかったと言うのであった。 『龍虎隊』の『中練』特攻で散華していたのは上述の七人だけであった。彼らが、凛然と して敵艦に向かって体当たりを敢行し、沖縄の空に散って逝ったのは、しかしながら、司 令に「卑怯者」「臆病者」呼ばわりされたからでもあった。岡本晴年中佐の場合、一方で、 特攻隊員達を叱咤しながら、他方で、『中練』特攻に抵抗していたのは、当時の戦況の中で、 板挟みになっていた同中佐が、一時的にせよ、ある種の錯乱状態に陥っていたからであろ う。だが、それにしても、くやし泣きの中でただ死に場所のみを求めていた彼ら特攻隊員 の死は余りにも悲痛であった。(角田和男『修羅の翼』324〜326頁)
 
この記述を読むと、特攻帰還者を卑怯者・臆病者呼ばわりした「司令」というのは「岡本晴年 中佐」であろうと、多くの人は思うだろう。「一方で、特攻隊員達を叱咤しながら、他方で、『中練』特攻に抵抗していたのは、当時の戦況の中で、板挟みになっていた同中佐が、一時的にせよ、 ある種の錯乱状態に陥っていたから」と、岡本中佐の当時の心理状態まで丁寧に解説されている からだ。 
  では、森本が参考にした角田の著作では、この部分はどのように書かれているのか。 
単行本版の四〇〇頁に、「その(=中練特攻隊の)第一陣が宜蘭に着いた時の司令の訓示はひ どかった。訓示というよりも、ほとんど叱責に近かった。正に、臆病者、卑怯者扱いの訓示であ る」とあるが、この「司令」とは誰なのかが問題となってくる。 
 角田は予科練五期生から零戦搭乗員として活躍し、海軍中尉までになった叩き上げの軍人らし く、上官の個人名をあえて記述しない傾向があるが、これ以前の記述を読んでみると、「〔昭和 二十年〕二月五日、新しく第二〇五海軍航空隊が編成された」とあり、角田も二月五日付でこの 二〇五空に付属していた戦闘三一七飛行隊に編入されていることがわかる(384〜385頁)。 さらに、399頁に「中練特攻龍虎隊は、元は二〇五空の零戦搭乗員だったが、たびたびの故障 や不時着で破損機が多く、内地よりの機材の補充も乏しく、やむを得ず訓練中止となって高雄空 に保存されていた九三式中間練習機をもって体当たりをすることにしたもので…」とあり、これ らの記述から、この「司令」とは二〇五空の司令であると類推できる。そして、この二〇五空の 司令だった人物は、玉井浅一中佐である(秦郁彦編『日本陸海軍総合事典[第2版]』東京大学 出版会、二〇〇五年、二二八頁)。玉井は、二〇五空司令に着任する前は二〇一空副長で、山本 栄司令の負傷以降は司令代行として、大西瀧治郎のフィリピンでの最初の神風特攻隊の編成に立 ち会った人物である。390頁にも「玉井司令」という文言が登場するので、この「ひどい訓示 をした司令」は、岡本晴年ではなく、玉井浅一であるというのは間違いないだろう。角田の著作の中で、岡本晴年は「中練特攻龍虎隊」の節の末尾に、次のように登場する。
  「戦後三十年近く経って、宮古島基地指揮官の岡本晴年中佐は特攻作戦にはあまり積極的でな く、言を左右にして中佐の在任中は中練特攻は出されなかったと聞いた。したがって、龍虎隊の 生存者も多いらしく、戦記に残る戦死者の数は少ない」(401頁)。 
 つまり、玉井浅一と思われる「司令」が懲罰的な中練特攻隊を編成したにもかかわらず、実際 の戦死者が少ないのは、岡本中佐が特攻に積極的でなかったからであると、角田は述べているの である。岡本晴年という人物は、角田の著作では一貫して特攻に積極的でなかった様子がうかが えるのだが、森本の著作では、別個の人物である「司令」と「岡本中佐」を同一人物と捉えたため、 岡本を「板挟みになって」「錯乱状態に陥っ」ていた人物として描かざるを得なくなったようである。  岡本の経歴は玉井ほどは知られていないが、終戦直後の八月十八日には茨城県の神ノ池飛行場 で、桜花発案者の大田正一が、自殺を図るために零戦練習機に乗って東北方の洋上に消えていく のを、「飛行長の岡本晴年少佐」が見張塔から双眼鏡で確認している(秦郁彦『昭和史の謎を追 う(上)』文藝春秋、一九九三年、339〜340頁)。つまり、岡本晴年少佐は宮古島基地指揮 官から神ノ池飛行場の飛行長に転任し、終戦を迎え、いわゆる「ポツダム中佐」として軍歴を終 えたと思われるので、宮古島基地指揮官当時の階級は当然少佐だが、角田が「宮古島基地指揮官 の岡本晴年中佐」と記したのは、岡本の最終階級を書いたまでのことと思われる。

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市倉先生の翻訳された本です。ゼミで指導していただいたときに、この本を翻訳されていました。
ヘーゲル精神現象学の生成と構造〈上巻〉

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