#5098 職人の仕事「千年の和釘に挑む」:NHKBS番組 Nov. 1, 2023 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
白鷹(しらたか)さんという鍛冶職人が、薬師寺の五重塔の建設に使う3000本の和釘を鍛造するところを見た。先端から一寸ばかりのところのわずかばかりのふくらみが釘の命を左右するという。出荷の3日前に、完成して段ボール箱に入れてあった釘を取り出し、もう一度火入れしてふくらみを調整するために打ち直しをしていた。
当日、くぎを打ち込むのを見に薬師寺の工事現場へ出向いて、一本一本釘が金槌で撃ち込まれるのを確認していた。
「千年もつかどうかは誰にもわ からない、だが、満足している。こういう仕事をした職人がいたと思ってくれる人がいたら幸いだ」
そんなようなことを言っていた。
白鷹さんには法隆寺宮大工最後の棟梁西岡岡常一さんとの出会いがあった。尊敬する西岡棟梁の写真が額に入って鴨居に掲げられていた。
「人間怠惰になる。西岡棟梁が上から見ていると思うと怠惰な心が引き締まる」
材料に米国産の硬い木材も使われるので、それに合うのはカタイ釘がいいのか、それとも今まで通りのものがいいのか、ふくらみはそのままでいいのか、やってみなけりゃわからないので、太さを変えて3種類作り、宮大工に節のある木材に打ち込んでもらって確認していた。カタイ釘は節を貫き、節を割ってしまう。節を割ると木材も割れてしまう。従来のやわらかい和釘を打ち込むと節を回り込むようにぐにゃりと90度くらいも曲がって回り込んでいた。これなら割れないし、釘がしっかり利いている。
江戸時代に使われた和釘をたくさん調べているうちに、ずいぶんできの良いものが見つかった。「姿かたちがいい」、大量生産が始まって仕事が粗くなった時期に、これだけ質の良い釘を作った鍛冶職人がいたのだと、その出来栄えに感心していた。
西岡さんから職人の心構えを書いた長文の手紙をいただいて、大切に保管していた。その中に「名利を求めず、ただただ精進すべし」と書いた文が載っていた。これが職人の心意気だろう。
薬師寺の五重塔は小川三夫さんが西岡常一棟梁に任された仕事ではなかったか。小川三夫さんの書いた本の中に出てきた。記憶が少し曖昧です。
<余談:新しい経済社会の創造>
職人仕事とマネジメントが鍵です。マルクスは『資本論第1巻』を出した後、続巻の草稿を書き貯めましたが、市場論で行き詰まりました。体系の前提条件であった労働価値説が誤謬だったことに気がついたからです。彼は続巻の出版をあきらめました。1866年に『資本論第1巻』を出版して亡くなる1883年までの17年間沈黙してます。研究方向は新しい経済社会のデザインの方へ傾いていったようです。
ところで、資本主義経済社会の分析と新しい経済社会のデザインはまったく別の仕事です。
市場関係論というフィールドで考えると、マネジメントの巧拙が製品の品質とコストを決めています。ニーズの大きい商品ほど市場では高く売れます。マネジメントが下手で生産性が悪く、品質が芳しくない製品は安値でなければ売れません。雇っている社員や非正規雇用の人々にたくさんの給与を支払うためには、生産性が高く、高品質の製品を低い生産費で生産できれば有利です。そこにマネジメント・スキルと職人仕事の重要性があります。
ビジネスには「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」や「浮利を追わない」「足るを知る」などの倫理が必要です。新し経済社会はそのビジョンを創り、実現のための具体的な長期戦略を策定し、実行することで手に入れられます。
たとえば、自然条件の制限のない工業製品は、それぞれの国で作られ消費されたらいい。自然条件の制限のあるものを貿易で贖えばいい。日本のようなほとんどの工業製品を自国で生産可能な国は、生産システムや職人の技術を発展途上国へ移転したらいい。コマツが中国企業に対して製造技術や職人魂を無償で指導したように。
人類は欲望を制御して、拡大再生産をやめて持続可能な生産システムを手に入れるべきです。大きな社会実験になるので、やってみて不都合が出たら、修正していけばいい。
どんな経済社会がいいのか、具体的なビジョンを議論できるといいですね。ビジョンができれば、次はそれを実現する長期戦略立案です。そして実行。
*「#5088資本論の論理と背理法:労働価値説の破綻を証明」
*和釘解説及び画像
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#4341 経済学との出遭いと戦い:経済学の公理 Aug. 15, 2020 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
A.スミス、D.リカード、K.マルクスの経済学には労働=苦役という公理が横たわっています。工場労働者の労働の淵源は奴隷労働です。自由民は労働しません。労働からの解放が究極の善、目標でもあります。それが西欧の経済学に共通しています。労働からの解放が至上命題となります。自己を再設計可能なAIと機械がAIのコントロール下に置かれることで、そう遠くない未来に、人間が「労働から解放」されるのかもしれません。そういう未来を描いた小説、野崎まど著『タイタン』が4月に発売されています。
こうした労働観と対極にあるのが日本人が育んできた仕事観です。職人仕事に端的に現れています。仕事は神聖なもの、だから、刀鍛冶は正月に禊をしてから初仕事をして、一振り目の刀を神に捧げます。仕事は神聖なものであり、自分が修行して育んできた技術の粋を表現する場でもあります。だから、仕事が生きがいなのです、職人仕事観からは「労働からの解放」という結論は出てきません。工場で仕事する工員も日々仕事の改善をするのも、職人が仕事の手を抜かないのもそういうことなのでしょう。わたしは本社管理部門の仕事や社長の特命プロジェクト仕事が多かった。4分野ほどの専門知識と経験を生かしてやる仕事は「労働」ではありませんでした。職人仕事そのもの。だから、日本の企業には工場も本社部門も職人仕事をやっているのです。
職人仕事観を公理に措定すると、まったく別の経済学と経済社会が立ち上がります。そういう可能性と理論的な背景を明らかにすることが、わたしのライフテーマでした。根室高校2年生の時にマルクス『資本論』を読んだときに、巨大な森に迷い込んだ感触とこの巨大な森から抜け出したら何が見えてくるのかというのが、学問を志す出発点でした。大方のところはすでに弊ブログ書いてあります。
経済学で公理を問題にした経済学者はいまのところわたし一人です。マルクス『資本論』は超えることができました。マルクス自身も『資本論初版』(1867年)を書いたときに自分の方法論の限界に気が付いたと思っています。ヘーゲル弁証法をベースに『経済学批判』⇒『経済学批判要綱』⇒『資本論初版』と書き進んできたマルクスは、その限界にようやく気が付いたのです。正・反・合の図式ではやれないところまで来てしまいました。(国内)市場関係や国と国際市場関係まで拡張したら、経済学的基本概念の展開が困難であることには気が付いたと思います。フランス語版(1872-1875)はまったく別な書物であると、自身が書いています。その方法的な意味を理解した経済学者はいません。『資本論初版』の方法的限界が見えてきたので、そうせざるをえなかったのでしょう。
マルクスはヘーゲルではなくて、経済学体系の方法論を探るためにはユークリッド『原論』を読むべきでした。ですが、マルクスは数学が不得手でした。『数学手稿』をみると、微分概念が理解できなかったことがわかります。『資本論』を読んでも『経済学批判要綱』を読んでも微分・積分は出てきません、四則演算に終始しています。そのこと自体も「マルクスの経済学」の限界になっています。方法論の誤りだけでなく、数学的なツールが使いこなせませんでした。『資本論』や『経済学批判要綱』を通して読んでずっと感じていた違和感はそこにもありました。マルクスは経済学的諸概念の分析と定義の研究を、『経済学批判』⇒『経済学批判要綱』⇒『資本論初版』と一貫して行ってきたので、そういう思考の仕方が鋳型になってしまっていたように思えます。無限小概念が理解できなかったから、彼にとっては微分という操作がわけがわからないものになりました。
『数学手稿』は、苦手だった数学の学習ノートのようなもので、出版すべきものではありませんでしたが、彼を神のごとくあがめる信者たちが出版してしまいました。泉下のマルクスは苦笑いしているでしょう。
紀元前に成立した学の体系としては唯一、ユークリッド『原論』がありますが、数学が苦手ですからマルクスは手に取ることすらなかったのでしょう。元々はギリシア自然哲学の専門家でした。イェーナ大学に提出した博士論文のタイトルは『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』です。ギリシア哲学が専門だったのに、なぜかユークリッド『原論』を読まなかった、それが経済学者として致命傷でした。流行りのヘーゲル弁証法に飛びついてしまった。まことにイージーでした。二項対立図式ではちょっと複雑な関係、三項以上の世界が記述できません。たとえば市場関係や国家が導入された国際市場関係、そして最終形態の世界市場関係が記述できるわけもないのです。それなのにマルクスは歴史にヘーゲル弁証法を当てはめ「唯物史観」を、古典派経済学から経済が基礎概念相互の関係の分析と経済学の体系構成に利用し『資本論』を創り上げました。
現代数学の体系化の試みの成果として、ブルバキの『数学原論』シリーズ(38巻)があります。現代数学は高度に専門化・分化して、統一的な観点から演繹的体系を構成するのは個人の仕事でも集団の共同作業・研究でも著しく困難なのです。
それでも、公理を変えることで、まったく異質な経済社会の展望と建設は可能です。
*斉藤毅「ブルバキと「数学原論」」
#3938 新しい経済社会のデザインについて Feb. 26, 2019 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
わたしは質的差異を認めない工場労働を前提にする資本家的生産様式に対して職人中心の生産様式とそういう生産様式が支配的な経済社会を「職人仕事観に基づく経済社会」と定義しておきたい。
koderaさんがブログでわたしの経済論をとりあげてくれるというので、思いつくところを投稿した。それに加筆・修正して紹介したい。
*「創造性の開発 新規商品を企画しよう」
https://blog.goo.ne.jp/tsuguo-kodera/e/e57dd7b18e66eff2670c63c3f4a64d22
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2019-02-12
<思いつくまま…>
弊ブログと職人経済論をとりあげていただき、ありがとうございます。思いつくまま書き綴ります。
第一番目は経済学の公理選択ということです。公理が異なれば別の論理体系が構築されるということは数理論理学者には自明のことですが、経済学者で数理論理学に興味をもつ人は皆無のようです。
経済学の第一公理は労働観です。マルクスは工場労働を公理に措定しました。わたしは職人仕事を第一公理に措定します。
マルクス自身は経済学体系の叙述に当たって公理ということを意識していません。ヘーゲル弁証法で経済学体系が叙述できると考えていました。『資本論』を書いている途中でヘーゲル弁証法の破綻に気がついたと思います。破綻を自覚して晩年は沈黙を守って死んでいきました。ユークリッド『原論』を丹念に読んでいたら、ヘーゲル弁証法を使わなかったとわたしは考えています。
彼は数学が苦手でした。微分の意味さえ理解できませんでした、それが彼の経済学に大きな制限になったことを理解している経済学者を見たことがありません。わたしがマルクスの数学能力に違和感をもったのは『資本論第1巻』を読んだ高校生のときではなくて、全巻を通読した大学2年のころだったと思います。「なぜ四則演算しか出てこないのだろう」と思ったのは高校生の時に公認会計士二次試験の受験勉強をしていて近代経済学をかじって比較していたからでしょう。
マルクスは『数学手稿』というノートを残していますが、これは出版するつもりだったのではなく、自分の勉強ノートでした。微分の意味が分からなかったというのはこの本を読んでもらえば分かります。マルクスは数学に強い好奇心があったようですが、センスはなかった。微分積分を利用しようにも微分の概念が理解できなかった、あの『数学手稿』は苦闘の跡を記したものです。微分積分学の確率は17世紀ですが、厳密になるのは19世紀で、数学者ではないマルクスは好奇心を抱いて勉強はしたようですが、微分の概念を理解できませんでした。
あとの人たちがマルクスの遺稿をなんでもかでも出版してしまった。単なる学習ノートは選別して外すべきでした。遺稿を整理した人たちもまた数学の素養がなかった。泉下のマルクスは余計なことをしてくれたときっと思っています。
まとめると、演繹的体系=経済モデルの構築に数学(ユークリッド『原論』)が利用できなかっただけでなく、微分積分学を利用できなかった。だから、方法論としてヘーゲル弁証法を使わざるをえなかった。
『資本論』の後半部分に差し掛かって、いつまでたっても四則演算の羅列に辟易すると同時に、何かがおかしいと感じたのです。
二番目はマルクスやレーニンは大学に職を得られなかったインテリでした。工場労働の経験も職人仕事の経験もありません。だから、共産主義社会の設計には大失敗しています。
新しい経済社会のデザインにはインテリであることと同時に工場労働者や職人仕事の経験そして企業経営の経験があった方が断然有利なのです。マルクスもレーニンも毛沢東(地主の息子で師範学校卒)もインテリ、そして工場労働の経験も職人仕事の経験も企業経営の経験もなかった、だから、デザインできるわけもありません。理念のないでたらめなデザインの経済や企業運営とバランスをとるかのように労働者は労働強度を下げました、人間の性(さが)です。肉体労働したことのない人には思いもつかぬことでした。
三番目。日本には創業200年を超える記号が1200社あるそうですが、これは世界中にある200年を超える企業の45-50%に相当します。お隣の人口13億人を有する中国はわずか7社だそうです。中国の授業の強い影響下にあった韓国はゼロではないかと思います。宗教と関係が深い。
なぜ日本に創業200年超の企業が圧倒的に多いのかは直接的には経営哲学や商売道徳の高さにその理由を求めることができます。決して手を抜かぬ、正直が身上の職人仕事がベースにあったからこそ次のような倫理が育まれ、広く普及しました。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」
何より信用を大事にして暴利をむさぼりません。
どういうことか例を挙げて説明しておきます。
関東大震災の直前に東京木場でたまたまかなりの量の材木を買い付けた材木商が何人もいたでしょうね。地震後の復興需要で材木価格は暴騰し、大儲けしました。財産を増やす千載一遇のチャンスととらえたのでしょう。地震で家を失い、再建のために高い材木を買わざるを得なかった人たちがたくさん出ました。企業家としては経済合理性に則った判断でして何ら非難されるいわれのない行動です。しかし、これは浮利を追った典型例といえるでしょう。
根室は空襲で一昼夜の間に500人が亡くなったと言われています。米軍機は市街地を包み込むように周囲の焼夷弾を落とし、それから中心部に落としていきました。機銃で市民を狙い撃ちにしました。火の輪の中の住民は袋のネズミです、だから被害が大きかった。生き残った人たちは火が回る前に何ももたずに郊外へ逃げた人たちです。「パンツの替もなかった、死んで焼け焦げた遺体を弥生町の海岸までリヤカーで何回も運んで海へ流すのを手伝った」そうおふくろが言っていました。弥生町の浜で小学生のころに遊んでいると、白い骨がいくつもみつかりました。そのときは不思議に思っていましたが人骨の破片だったのです。小さな浜に数百人の遺体を流せば、骨の破片は十数年間は浜辺の砂に交じってでてきます。
空襲の混乱がおさまり、郊外へ逃げた人たちが戻って来ます。造り酒屋である「北の勝」碓氷勝三郎商店の米蔵は焼け残りました。酒造り用に配給されていた貴重な酒造米を炊き出しに使いました。そのおにぎりで飢えをしのいだ人がたくさんいたのではないでしょうか。空襲の年の1945年は「北の勝」の生産量が減少したでしょうね。「北の勝」の経営者は空襲という大災害にあたって私的な利益よりも公益を優先しました。「北の勝」はいまも根室市民に愛され続けているのはそういう精神が受け継がれているからというのはロマンチックにすぎますか?
「浮利を追わない」これも商売の普遍的な倫理です。金のためなら何でもするというのでは長続きしません。碓氷商店は商売を広げるつもりがありません。地元の人々に愛されるメーカで十分なのです。「足るを知る」といってよいでしょう。もうずいぶん前のことですが、あるとき東京の三越デパートから、北海道物産展を開催するので出品依頼がありました。断ったそうです、社長じゃありませんよ、当時は番頭さんでもない、社員です。「すみませんがうちは直売していませんので卸問屋を通じて買ってください」とお願いしたそうです。小さな会社、個人商店(株式会社ではありません)ですが、社員は「うちの社長ならこう考えて、こういう返事の仕方をする」と確信をもって仕事しています。もちろん、三越の依頼を断った後で、社長の碓氷さんに報告はしたでしょう。社長が電話口に出てもたぶん同じことを言います。造り酒屋が直売を増やせば卸問屋の売上が減ります。直売のほうが利益は大きい、でもやらないのです。1月に発売する幻の酒「搾りたて」はネットでは1万円もしていますが、根室の小売店では2400円くらいです。売れることが分かっていても量は増やさない、値段も上げないのです。老舗とはそういうところが少なくないのではないでしょうか。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」を是とすれば、お酒の消費者である根室住民が米軍機による空襲、住民のジェノサイドという史上最大の困難にあるのだから、私財をなげうつのは当然のことだという、レベルが一段高い倫理観で判断したということでしょう。
経済成長がなければ経済の活性化はないと頑なに思い込んでいる政治家のみなさんはいま一度考え直してもいいのではありませんか?
四番目です。日本には400万の企業があるそうです。その中で創業200年を超える企業はたったの1200社、でも世界のおおよそ半分弱の創業200年を超える企業が日本にあります。おどろきです。
わたしが職人経済社会を提唱しているのは絵空事ではありません。現実に職人仕事をベースにして、「浮利を追わない」「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」の経営をしている日本企業はたくさんあります。
根室の老舗である碓氷商店は創業140年です。あと60年後には創業200年超の企業の仲間入りをするでしょうね。そのころには3000社を超える企業が創業200年超企業の仲間入りを果たしているかもしれません。
わたしが提唱する職人経済社会は現実にモデルがたくさんあるのですよ。だからわたしはのんびり構えていられます。みなさんが、気がついてくれるだけでいいのですから。
マルクスやレーニンや毛沢東のようなインテリには無理でしたが、日本には創業200年を超えて現実に運営されているお手本がたくさんあります。あらためてゼロからデザインする必要がないのです。200年超の企業をベースにデザインすればいい。ハードルはマルクスの時代よりもずっと低くなっています。
五番目です。職人仕事は世界中にあります。ドイツのマイスター制度が有名ですね。マイスターの社会的地位は大学教授と同等です。パン職人だって肉職人だって皮革職人だってそれぞれの国にいます。だから、職人仕事中心の経済社会は世界のすべての国々に普遍性をもつのです。
日本では職人仕事はあらゆる分野に細分化されて広がっています。それはこの国の文化そのもの、精神史の一部にもなっています。わたしは経営管理分野を中心に様々な部門で仕事してきましたが、どれも職人仕事だなという実感があります。システム開発も製薬メーカと検査試薬の共同開発をしている開発部の仕事とも、検査機器の購買の仕事も、検査機器の共同開発の仕事も、財務経理の仕事も、会社買収の仕事も、赤字子会社立て直しの仕事も、すべからく職人仕事でした。
六番目。経営哲学とか商売倫理と生産技術をセットで発展途上国へ移転すればいい。そうすれば、発展途上国は自立でき、グローバリズムはその根底から崩れ去り消滅します。自立型の経済が拡大していくので、貿易が縮小します。生産においては国際資本なんて必要がなくなります。地産地消があたりまえの社会です。
七番目。資本規模が大きい企業や国際資本へは法人税を累進課税とすればいい。
超巨大企業であるGAFA(Google, Amazon, Facebook, Apple)のなかには、租税回避をして法人税を支払っていない企業があると聞きます。合法的に実質脱税行為をするなら、利益ではなくて資本規模で売上に累進税率で課税すべきです。
八番目。たとえば、職人仕事のチャンピオンの一つである宮大工の仕事は機械では置き換えられないのです。機械は使いますよ、でも木の使い方が違うのです。木の癖、生育した場所、方角や日射などを考慮して適材適所に使います。そんなことは機械にはできません。法隆寺のように千年たっても形が崩れない建物は木の癖を見抜いて生かして使っているからです。法隆寺宮大工棟梁西岡常一とその弟子小川三夫『木のいのち木のこころ』に詳しい。
こういう仕事を残すこと、そしてそういう質の高い仕事に大枚をはたくスポンサーのいること、いい社会じゃありませんか?
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#2892 スタグフレーション突入とアベノミクス Dec. 1, 2014 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
FBの掲示板をみたら「すでにスタグフレーションだろう?どうして野党はそこを突かないのか?」という書き込みがあり、それもそうだなとテレビの党首討論をみていました。
11月27日NHKビジネス展望で嘉悦大学大学院(ビジネス創造研究科長)黒瀬直宏教授が「中小企業でGDP回復」と題して日本経済の成長戦略についてコメントしていたので、その内容を紹介します。
GDP統計は3ヶ月ごとに、前四半期に対してプラスかマイナスで公表されている。4-6月期がマイナス7.3%だったので7-9月期のマイナスを予想したシンクタンクはなかったが、実績はマイナス1.6%だった。日本経済の落ち込みはとまらない。予想外のことで政府は大慌てで消費税増税を見送り解散総選挙を決めた。来年夏になって景気がますます悪くなってからでは与党の議席が大幅に減少することを心配したのだろう。総理大臣殿は国民のことよりも自分の政権維持が大事だと受け取った国民がすくなくない。自分のことは脇において考え、決断し行動してもらいたいが、無理なようだ。
一時は110-120ドルだった原油価格が70ドル台に落ち込んでいるにも関わらず、貿易収支は今年度もマイナスの記録を更新しそうだ。来年度は経常収支もマイナスになるだろう。
黒瀬教授はアベノミクスを「輸出大企業と富裕層のみの空(カラ)景気」と切り捨てている。
輸出産業はGDPの12%を占めており、円安によってその中の一部の大手企業の景気がよいことは事実。そして株を保有している企業や個人の景気のよいことも事実だが、それはごく一部の話で、国民の大部分は名目賃金が少し上がっても消費税アップと物価上昇に追いつかず、生活防衛のために倹約し始めている。
中小企業家同友会の業況判断調査では、4-6月期はマイナス1%、7-9月期はマイナス5%で4ポイント悪化。この数字は「好転-悪化」で算出されている。つまり、企業業績が7-9月期になって悪化したと判断している経営者が増えているということ。一部の輸出産業とは違ってもともと地方の中小企業の業績は厳しいが、それがさらに悪化しているのが地方の中小企業の経営実態である。
黒瀬教授は売上、付加価値(粗利益)、仕入(コスト)に分解して次のように日本経済の現況を解説している。
付加価値=売上-仕入
売上は横ばい、6ヶ月連続で前年を下回っている。9月は実質賃金が前年比2.9%減少、15ヶ月連続でマイナス。消費が低迷するのは実質賃金がこんなに下がっているからだ。
従業員一人当たりの付加価値低減の第一の原因は円安による物価高である。第二の原因は円安によって仕入コスト・アップ、そして第三の要因は物価高による名目賃金の上昇、これらがトリプルパンチとなって中小企業業績を悪化させている。
大企業の好業績が中小企業に及んでいないのは、大企業が生産拠点を海外に移してしまったからである。円安の恩恵を受けているのはGDPの12%を占める輸出産業の一部だけ。
たとえば、トヨタグループ16社の70%で13年度の売上が2007年度の売上に達していない。トヨタは10-3月期の取引については部品単価の切り下げを求めないことに決めた。
トヨタ本社だけが史上最高額の利益を更新して、子会社、関連会社そして取引先企業が青息吐息では社会的な批判をまぬがれないから、手を打ったということだ。それにしても、取引先に毎年単価切り下げを求め続けてきた「トヨタ看板方式」が結果として、初期の取引先の競争力と売上増大には寄与したが、2008年度以降は取引先の業績を圧迫するのみで、このまま取引先が倒れていけば高品質で低単価の部品供給先を失い、長期的にみればトヨタ本体が傾くことに気がついたのだろう。
トヨタ一社を見ても大手輸出企業の好業績が関連会社や取引先にはまったく及んでいないことがわかる。一時期はアベノミクスでトリクルダウンが声高に叫ばれ、円安によって輸出産業の業績がよくなれば、他の産業も連鎖的によくなると喧伝されたが、実際は好業績がトヨタの取引先にすら及んでいないことがはっきりしたのである。
小泉改革のときもそうだったが、安倍総理も経済実態を知らない経済学者をブレーンにして見当はずれの経済政策(アベノミクス)をごり押ししてきた。このまま続けたらどういうことになる?
黒瀬教授は、国内完結型の生産体制が崩壊してしまったという実体経済の変化に原因があるので、金融政策等で経済がよくなる筈がない。貨幣供給量を増やしても修復はできず、かえって景気低調を拡大するだけであると述べている。
他方で、景気をよくするためには大企業が牽引した産業の空洞化を埋めるべく、中小企業中心とする産業をもう一つの柱とするような構造改革をしなければならないと主張している。
反大量生産&高付加価値分野で各産業で着実に業績を拡大している中小企業が日本には数多くあり、優良な中小企業群を増やすことは可能であり、そうした政策を通じてGDPを回復すればよいと述べている。
ここからはebisuの意見である。
2012年には80円/ドルだった為替レートは118円/$、ほぼ50%の円安水準になっている。アベノミクス三本の矢の一つ、日銀の異次元金融緩和が作り出した円安である。円安が国民生活にいいはずがない。輸入品価格がわずか2年間で50%も暴騰し、巨額の貿易赤字が生じており、経常収支も来年には赤字になる。日本は縄文以来12000年の歴史の中で少子高齢化によるはじめての人口縮小時代を迎えている。こういう時代環境の中で過去の経済成長を追い求めることこそ愚かである。粛々と経済縮小に先手を打てばいい。生産年齢人口もすでに200万人減少している。
中小企業中心の高付加価値産業構造をつくるためには生産拠点を日本に取り戻さなければならない。そのためには鎖国(強い管理貿易)が一番よい。国内で消費するものは国内の中小企業でつくればいい。安心安全な長持ちする製品を多品種・少量生産するシステムを創りあげたらいい。非正規雇用ではなく、すぐれた生産技術や職人技能をベースにして安定した正規雇用の職を数百万人単位で増やすことができる。
グローバリズムは経済格差拡大、所得格差拡大と同義である。もちろんTPPもいらぬ。
日本は自立型産業クラスター構造をシステムとして輸出すればいい。そうすれば、生産拠点が一つの国に集中しないことになり、各国が国内に安定した雇用を確保し、自国で消費するものを国内生産、自国で生産できないものだけ輸入することになる。貿易は縮小していいのである。
百年もたてば世界中が自国で消費するものの大半を国内生産している社会が実現できる。失業の少ない安定した社会だ。
西洋型の労働観(=苦役)ではなく、職人仕事をベースとする新しい経済システムを実現することで日本人は21世紀の世界に大きな貢献をすることができる。仕事は神聖なものであり楽しいものだ、そういう仕事観の世の中をつくりたい。正直で誠実に、そして渾身の力でいい仕事をする。ebisuの提唱する職人主義経済学が世界中を蔽ってほしい。
アベノミクスで被害を受けている国民生活を尻目に、円安と株高のお陰で好業績をあげている業界から自民党への政治献金が増えている。もちつもたれつの政党と業界。
*「アベノミクス利益、自民へ“還流”」・・・ブログ「オータムリーフの部屋」
http://blog.goo.ne.jp/autumnleaf100/e/9838b27a2920a079c231df6a00bef116
*#2879 アベノミクスはバンザイノミクス: ゴールドマンサックスの見解 Nov. 23, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-11-23-2
#2878 選択肢のない北海道7区:衆議院議員解散総選挙 Nov. 23, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-11-23-1
#2850 'Promoting women at work'1-2 :女性大臣二人辞任 Oct. 22, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-10-22
#2849 'Promoting women at work' :2女性大臣辞任 Oct. 22, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-10-21
#2838 円安評価をめぐる経済界と日銀のズレ:山口義行教授 Oct. 14, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-10-13-1
#2775 内閣府「国民経済計算4-6月期」データ解説 Aug. 13, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-08-13
#2774 'Bad inflation' shadows Japan (悪性インフレの陰りあり) Aug. 13, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-08-12
#2770 「経済成長の天井」:日本総研山田久調査部長の論 Aug. 11, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-08-11
#2766 疑問符がついた景気回復の先行き Aug. 9, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-08-09
#2759 有効求人倍率1.1倍、19ヶ月連続上昇 Aug. 5, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-08-05
#2753 上海福喜食品対米国産牛肉:どっちもどっち? july 30, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-07-30
#2742 藤原直哉(前編):物価と景気動向⇒二番底が来る July 21, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-07-20-1
#2731 10年間で33%農業人口が減少している日本の農業 July 11, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-07-11
#2729 年金基金の運用資産が130兆円から210兆円に増える:危うい株式投資 July 9, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-07-08
*#2719 'Bad inflation' shadows Japan (悪性インフレの暗い影が日本を覆う) June 28, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-06-28-2
*#2715 GPIFの株購入と銀行保有リスク資産に関わるBIS規制変更 June 25, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-06-25
#2702 残業代をゼロにする"ホワイトカラーエグゼンプション"③:公務員は別扱い June 10, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-06-10
#2701 残業代をゼロにする"ホワイトカラーエグゼンプション"② June 9, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-06-08
#2699 残業代をゼロにする"ホワイトカラーエグゼンプション"① June 6, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-06-06
*#2693 鎖国をして国内雇用を確保しよう May 31, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-05-31
#2669 成長戦略:規制緩和を考える May 7, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-05-05
・・・
#2245 円安はそんなにいいことか? Mar. 17, 2013
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-03-17
#2185 各論(3):'Abenomics' Jan. 24, 2013
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-01-24
#2170 各論(2):貿易収支赤字転落⇒? Jan. 3, 2013
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-01-04
#2169 各論(1):国債暴落の可能性とその影響 Jan.2, 2012
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-01-02
2168 歴史認識を欠いた安倍新政権の歴史的役割(2):蔵相高橋是清暗殺 Dec. 31, 2012
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-12-31-1
#2164 歴史認識を欠いた安倍新政権の歴史的役割は何?
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-12-28
#2158 自民党圧勝294されど第2の危機:民主党惨敗 Dec.17, 2012
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-12-18
#2144 成長路線と金融緩和の罠 : 衆院選挙でナイトメアがはじまる
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-11-30
#1828 ゼロ金利の罠: Fed targets and transparency Feb. 3, 2012
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-02-03
#829 国家財政破綻の瀬戸際 Dec.12, 2009
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-12-12
#346 これから10年間の日本経済のシナリオ
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-10-10
#2693 鎖国をして国内雇用を確保しよう May 31, 2014 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
昨日は、北海道のオホーツク海沿岸が全国最高気温33.7度を記録した。南からの暖かい風が四国山地や日本アルプスを超えてフェーン現象を起こし、さらに奥羽山脈でも同様の現象を起こして気温を上げ、最後に大雪山系の山々を超えて気温を上げたようなのである。こんなことは今まで聞いたことがない。根室も夜9時半の気温が10.5度あった。
さて、本題に入ろう。鎖国とは貿易をしないことではない、強い管理貿易であった。わたしたちは二度目の鎖国をすべきときに来ている。中学生や高校生にもわかるように理由を述べたい。
【facts】
貿易収支は赤字に転じた。これは一時的なものではなく構造的な転換である。すでに人口は縮小に向かっている。2013年10月1日の総人口は前年比253,000人減少して127,298,000人となった。一人当たり所得や国内生産額がが同じだとすると、人口縮小はそのまま経済規模の縮小となる。
人口縮小の内容を見るともっとすごいことが起きていることに気がつく。生産年齢人口(16歳から64歳)の急激な縮小が始まっており、昨年は1,165,000人減少して79,010,000人となった。8000万人を割ったのは32年ぶりだという。つまり、32年前の生産年齢人口にまで後退したということ。これからしばらく毎年100万人前後の生産年齢人口縮小がある。だから日本の経済規模は縮小せざるを得ないのである。
他方で、老人人口は25.1%となり、10年後には30%を超えることも考慮に入れなければならない。
(社会保障・人口問題研究所の人口推計値によれば、2024年の総人口は1億2140万人、老人人口は3653万人(30.1%)である)
【目先しか見えない政府何をしつつあるのか】
考えてほしい。貿易収支が構造的に赤字基調に変わった、人口は縮小に向かい、生産年齢人口の減少は総人口減少の4倍だった、そういう背景の中でTPP交渉を日本政府がやっているのである。こんな愚かな経済政策はない。
何をどのように言訳しようとも、TPPの本質はブロック内で関税率をゼロにするというものだ。年数をかけてほとんどの関税がゼロに向かう。
どういうことになるかというと、輸出が減少して輸入が急拡大し、貿易収支赤字が加速的に増加することになる。経常収支もまもなく赤字となり、こういう経済構造の繁華を反映して長期的に円安が進む。物価はだまっていても20年もしたら円安の影響で2倍以上になるだろう。その一方で非正規雇用が増え、一人当たり所得額は増えない。当然の帰結として生活保護世帯が拡大していく。
国内産業は取り返しのつかぬダメージを受け、働く場所が減るので雇用は縮小する。
一番問題なことは、日本人が日本列島で生み育てた農業や漁業の技術伝承が途絶えることであり、それは日本文化に断絶を生み出すことになる。生産ができなくなればそれにまつわるさまざまな技術伝承ができなくなるだけでなく、食文化を通じた日本人としてのアイデンティティも失われる。
大局的に見たら、急速に進む高齢化、生産年齢の急激な縮小を前提にした政策選択こそがとるべき道なのであるが、愚かな政府は人気取りに邁進してものごと本来の道筋が見えなくなって、まったく逆のことを一生懸命にやっている。たぶん自分たちがなにをやっているのかすらわからないのだろう。
リカードの比較生産費説に基くグローバリズムが絶対の価値だと思い込み、そうした米国と国内経済団体の圧力に迎合している。亡国の政策選択がTPPの正体である。
【私たちはどんな経済社会に住みたいのか?】
日本がとるべき道は、強い管理貿易(鎖国)による国内の雇用維持なのである。50年後の人口は5000万人でいい。経済成長は要らぬ、経済縮小を前提に豊かな未来を描きたい。
すぐれた農業技術や漁業の技術、そしてあらゆる業種に広がっている職人技術を次世代に伝えよう。5000万人に人口が縮小すれば食糧の100%自給は可能になる。週に4日企業に勤務し、3日は家庭菜園で野菜作りや船に乗って海釣りもいいし、川へ行って釣りをしてもいい。企業で働きながら数頭の家畜を飼い酪農をするのもいいだろう。小規模で経済効率が悪くていい、強い管理貿易をすればそうした生活が可能になる。
こうした観点からは国土を汚染することは国民の未来に対する最大の犯罪であるから、原発は廃棄だ。
長期的に円安になれば物価はとめどなく上がることになる。どうせ上がるなら、輸入品よりも安心・安全・高品質な国産製品を使おう。そして職人仕事を基本にした、技術を次の世代に伝えよう、小欲知足の経済社会を創ろう。
コンピュータが安く・高機能になったいまだから、いろんな物が自動コントロール可能で、小規模生産が効率的にできる可能性が広がっている。日本の伝統技術を生かしながら、それとコンピュータを組み合わせることでいままで不可能だった経済社会を実現できる。地球環境にダメージの大きい大量生産・大量消費社会とはおさらばしたい。
団塊世代の一人として、自分の子どもや孫はひ孫が、汚染のない日本の国土で日本が育んださまざまな技術を伝承しながら、日本文化を永遠に伝えていってもらいたい。
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【資料】
*5月9日JT紙社説
http://www.japantimes.co.jp/opinion/2014/05/08/editorials/the-changing-face-of-society/
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The changing face of society
Coping with problems arising from a low birthrate and a rapid graying of the population is an issue that the government and private sectors must tackle with a greater sense of urgency.
------------------------------------------*5月21日JT紙社説
http://www.japantimes.co.jp/opinion/2014/05/20/editorials/shrinking-current-account-surplus/
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Shrinking current account surplus
Japan’s current account surplus for fiscal 2013 that ended in March fell by more than ¥3 trillion from the previous year to ¥789.9 billion — the lowest since comparable data became available in 1985. It marks a steep fall from the peak of ¥24.3 trillion just six years ago.
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#2660 庶民の物価感覚 : 消費は落ち込む Apr. 27, 2014 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
二つに分割されたゴールデンウィーク前半四連休の二日目である、季節はずれに暑い。クリスマスのころつくった80kgほどの氷のオブジェがこの数日の高温で完全に消えた。一昨日は最高気温が23度だった、今日は21度の予報。夜には一桁に下がる。昨日は半袖の生徒が二人いた、なにやら真夏の装いの根室だ。
<批判精神を育み鍛えよう>
未来を担う中高生や大学生に、物価をきっかけに国の財政や貿易赤字や消費税について、自分の頭で考え、批判的思考を育んでもらいたい。日本は批判的思考と批判的発言が弱くなると国としての危機が訪れるようにみえる。危機感をもって批判精神を鍛えよう。
中高生諸君、若いうちにたくさん本を読んでいろいろな考え方のあることを学べ。そしてふるさとを愛すパトリオット*となれ。
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*パトリオットとパトリオティズムについて
#1030 nationalism とpatriotism :遠藤利國訳・幸徳秋水『帝国主義』May 17, 2010
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2010-05-17
#1029 『現代語訳 帝国主義』幸徳秋水著・遠藤利國訳 May 16, 2010
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2010-05-16
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<消費税引き上げのさまざまな理由>
5%だった消費税が4月から8%に引き上げられた。民主党が決め自公が実施という珍しく意見が一致した財政政策だった。
TTPで輸入関税が引き下げられ減収になるので、それを補うという意味もあったのだろうが、マスコミはとりあげない。体制批判の論調が少なくなり、異論を唱えるものがいなくなればそれは「戦前」である。特定秘密保護法案は治安維持法が姿を変えて現れたようなものだ。マスコミがだんだんと体制翼賛的に変わりつつあると感じている。これも君たちの時代に大きな問題(=足枷)となるから、申し訳なく思う。
消費税は増大する医療や福祉関連に限定して使われるはずだった。そうなれば新規国債発行も減らせるのだが、新規国債発行額はなぜか増える一方である。40~50兆円前後の新規国債発行が続き、日銀がすでに250兆円(GDP比50%)ほども国債の買いだめをしており、4月には市場で10年物国債の買い手がつかないという「異常事態」まで起きている。貿易収支は13兆円に赤字が拡大した。日本は構造的に双子の赤字(=貿易赤字と財政赤字)の国に変わってしまった。これからは蓄積した資金が流出する一方である。人口減少時代にはいって聖戦年齢人口が急激に縮小しているのに政府は在りもしない経済成長路線を声高に叫び、お金をジャブジャブばら撒いている。まるでキチガイ沙汰。年収400万円しかないのに毎年1000万円も使う家計にたとえてみたら誰にもわかる理屈だ。日銀が国債を買い続けてお金を融通しているだけで、早晩財政破綻するに決まっている。中学生にだったわかる理屈だろう。
*#2657 十年物国債買い手つかず(2):幸田真音さんの論 Apr. 24, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-24
さて、物価は消費税値上げ分の3%だけ上がったのか?
女房が一月ほど東京へ行っている間に何度か食料品を買いに行ってみて驚いた。値段が高くなっている。
以前は内税だったのでお店の値段を簡単に比べることができたのだが、現在は内税・外税のどちらでもいいから、比較がしづらくなった。店によって表示方式が異なる。
<物価上昇:値上げの具体例>
国産小麦粉を使っていた地元のパン屋さんは小麦粉が値上がりしたので、輸入小麦を使い始めた。3月にパンを買ったついでに話しをしてみた。
「消費税が3%値上げだと計算が面倒ですね」
「原材料が上がっているので、3%ではなく切りのよい値上げを予定しています」
干しぶどうとクルミ入りのパンは300円から330円に値上げされた。
昨年4月26日の為替相場は81.63/$に対して今年4月25日は102.19/$で25.2%も円安になっている。小麦粉のドル相場が同じだとすると輸入小麦粉は25%も値上がりしていることになる。とうぜん国産小麦粉も釣られて値上がりすることになる。だからパン屋さんが原材料のコスト・アップに悲鳴を上げて4月から実施した値上げは正当な理由があるので「便乗値上げ」とは言い難い。
女房殿に訊いて見たら、味噌とヨーグルトを具体例挙げて説明してくれた。味噌の原材料は大豆である。ほとんどが輸入だから円安により原材料のコストアップが25%くらいあることになるのだろう。
420円⇒以前の内税の値段
462円⇒現在の内税の値段
462/420=1.156 ⇒10%の値上げ
表示価格は428円(外税)になっているので、8円の値上げかとカン違いしそうだ。同じ内税で比べると42円値上がりしている。
ビヒダスヨーグルトは、
168円⇒以前の内税の値段
170円⇒現在の外税の値段(内税で計算すると183円)
183/168=1.089 ⇒8.9%の値上げ
これも飼料原料の値上がりを反映しているのだろう。
円安はガソリン(レギュラーガソリン167円/㍑)にも、食料品にも広く影響してコストアップ要因になっている。申告書を作成するために集計した昨年のデータをみたら、5月4日に入れたハイオク・ガソリンは159円/㍑だったからレギュラー・ガソリンは149円ぐらいだったろう。昨年4月と6月のハイオク・ガソリンは169円/㍑になっているから、それをベースにすると10円(5%)上がったのだろう。
<インフレになれば景気はよくなるという嘘>
前にも書いたように円安は庶民にとってはちっともいいことではないのである。円が高くて輸入物資が安く入ってきた方が庶民の生活にはいいのだが、政府の宣伝文句「インフレになれば景気がよくなる」なんて嘘に簡単にだまされる。ほとんどの人の所得が上がらぬままインフレとなり、消費が減退してこれから景気が悪くなる。
景気がいいのは一部の輸出産業の親会社のみ、業界全体の傾向でもなければ日本経済全体の話でもない。製造業に比率はとっくに第三次産業よりも低くなってしまっている。海外へ生産拠点を移したからだ。
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<参考値>
2009年産業分野別GDP内訳
第一次産業 6.7兆円(1.6%) 315万人( 5.4%)
第二次産業 114.3兆円(27.0%) 1547万人(26.3%)
第三次産業 302.2兆円(71.4%) 4015万人(68.3%)
*内閣府の「国民経済計算」ファイルが開けないので2012年度のデータを引用できない。内閣府はホームページの管理ぐらいしっかりやってもらいたい。仕方がないので別のサイトから古いデータを引っ張った。第二次産業は20年間で47.6兆円減少し、第三次産業は48.7兆円増えた。生産拠点の海外移転は日本の産業構造に大きな変化を起こしたことがわかる。
http://www.meti.go.jp/committee/sankoushin/shinsangyou/001_04_00.pdf
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<中小企業は「コストアップ+売上減少」のダブルパンチ>
4月から消費税が3%値上げされたが、それを契機に円安によるコストアップ分を上乗せしていろんな物が10%以上値上げされていく。
高齢者が増えているが、今年は年金が減額だから、高齢者の消費は物価値上がり分だけ減るのだろう。給料がアップしているのは一部の輸出産業の正社員だが、下請けからの仕入価格を上げてくれるわけではないから、下請け企業の利益は増えず給料を上げるどころではない。下請けも原材料価格がアップして利益が減少している。中小企業はどこも原材料のコストアップにあえいでいる。働く者の40%を占めている非正規雇用の給与の改善の兆しはまったく見えない。
これらのことから、物価が上がった分だけ消費が落ち込むことは当たり前だ。消費が落ち込めば景気は悪くなる。企業収益の悪化が9月を過ぎたころから誰の目にも明らかになるだろう。企業経営者は売上が落ち込むから、気を引き締めて経営に当たり、会社を潰さないように努力してもらいたい。
<国内に雇用を確保することはできる>
国内に雇用を確保するためには製造業を重視すべきだ。国内で生産可能なものは国内で生産して、値段が高くても国産品を優先して消費する。たとえば、ユニクロのような海外生産⇒輸入で低価格を実現している製品には輸入価格の2倍の関税をかけたらいい。そうすれば内需対象に衣料関連産業を育成し雇用を確保できる。いい品物を大事に長く使う習慣を培えばいい。
製造業が国の礎だ。製造業があればさまざまな職種の職人が育ち、いい品物を大事に使う文化を取り戻すことができる。仕事の腕を磨き、ひたすらいい物をつくりそれを消費する品のよい文化を育てよう。物の良し悪しを見分ける消費者の目も大事だ。
こうしてみるとTPPによる関税撤廃なんて亡国の所業である。日本の物づくり文化を壊すだけでなく、輸出によって他国の製造業の芽も摘んでしまう。
<強い管理貿易こそがいま採るべき新しい道>
世界中の国々は、自国でつくりうるものはコストが多少高くても自国でつくり、自国でつくりえないものや法外に高コストとなる物だけを輸入する。そうすれば世界中の国々が国内に安定した雇用を創出可能になり、したがって経済が安定する。
職人文化を大切にした安定した小欲知足の経済を世界中の国々が営める。
*#2631 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(1) Mar. 31, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-03-30-1
#2634 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(2) Apr.7, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-06
#2643 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(3) Apr. 13, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-13
#2561 物価上昇なんて経済政策はありえない話だ:経済アナリスト藤原直哉 Jan. 10, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-01-10
#2245 円安はそんなにいいことか? Mar. 17, 2013
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-03-17
#2643 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(3) Apr. 13, 2014 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
【抽象的人間労働と職人仕事の違い】
マルクス『資本論』の経済学に端緒が抽象的人間労働概念にあり、それは担い手として工場労働者を想定している。マルクスが労働は苦役だというとき、その淵源は古代都市国家の奴隷の労働にまで遡ることができるのではないかとわたしは考えている。古代都市に住む特権市民は労働から解放されており、労働の担い手は奴隷であった。特権市民の側から見たら労働は苦役とイコールの関係だっただろう。
働くという行為には二種類あり、それは西欧経済学の概念である「労働」と「職人仕事」という性質の異なる行為にわけられる。マルクスはその片方である労働=苦役を経済学の端緒として経済学的諸概念を交換関係⇒生産関係⇒市場関係⇒・・・⇒世界市場、という概念的関係を媒介にした華麗な演繹的体系を造り上げた。ユークリッドの『原論』と同じ演繹的構造をもっている。関係概念を媒介にして演繹体系を拡張していくところがマルクスの方法のユニークなところである。
<マルクスはユークリッド『原論』を読んだか?>
わたしが見たマルクス関係の文献では『原論』を読んだという記述はない。英国の私立学校ではいまでも中学生の数学にユークリッド『原論』のうちの幾何学の論証問題をテクストに使っていると数学関係の本で読んだ。藤原正彦さんの本だったか他の人のものだったか定かでない。同じヨーロッパ文化圏でマルクスがユークリッドの幾何学を学んだ可能性はほぼ間違いのないことだと推定している。マルクスは数学がそれほど得意ではなかったようだ。『数学手稿』という著作があったと思うが、手元にはない。1973年に出版されて本屋で手にしてみたことがあった気がするが、参考にならない程度の物と判断したのような気がするが記憶は定かでない。体系構成に関しての記述はなかったのだろうと思う。たんなる数学のメモ的なものだったかもしれない。いずれにしろ、マルクスの『経済学批判』・『経済学批判要綱』・『資本論』の各版・には微積分は一つも出てこないし、それらの著作の中で示される計算式はすべて有理数の四則演算の域を出ないものである。
参考にならないにしても気になるので『数学手稿』にもう一度眼を通しておきたい。
<問題提起:経済学の端緒を「抽象的人間労働」から「職人仕事」に入れ換えたらどうなる?>
話しを元に戻そう。マルクスが工場労働を背景にもつ質的差異のない抽象的人間労働で一つの経済学体系を記述したが、それではもう一つの職人仕事を端緒にした経済学はどのようなものだろうかという興味が湧くのは自然なことだ。
わたしにもよくわからないところがあるので、マルクスの経済学的諸概念と比較することで、その特徴を析出してみたい。そのうえでどう扱うか考えようと思う。
<laborとwork>
マルクスの経済学はその先行者であるスミスやリカードと同様に労働価値説に基いている。英語標記では"labor theory"である。
CALDで両方の用語の意味を確認しておきたい。
labor:1 practical work, especially that which involves physical efforts
2 workers, especially people who do practical work with their hands
labourer: a person who does unsikilled physical work
work: an activity, such as a job, which a person uses physical or mental effort to do, usually for money
worker: someone who works in a particular job or in a patarticular way
まとめると、スキルのいらない肉体労働がlaborで、精神的なもの(頭脳労働)を含むのがworkである。
<事務仕事ですら職人仕事になるのが日本>
職人仕事はスキルのいる手仕事が基本だが、わたしは自分のやってきた事務仕事(経営企画・管理、統合システム開発、製薬メーカとの検査試薬共同開発、企業買収及び資本参加に関する分析・調査・交渉業務、役員としての担当業務のマネジメントなど)も職人仕事に思える。どうしてそういう感覚があるのかというと、それぞれ10~50冊程度の本を読み、仕事でそれらの知識を使って仕事に必要な技術を磨かないと実務が不可能だからだ。
<工場労働はベテランの仕事はスキルが高いだけでなくその質も単純労働とは異なる>
工場労働者ですらその中には職種ごとに職人が存在しているのが日本の企業の特徴である。ベテランのスキルは半端ではない。
根室の水産加工場だって勤務歴20~40年のオバちゃんたちの熟練技術が加工品の品質を支えている。経験10年以下の人たちだけで同じ作業をやらせたら、品質はがた落ちになるだろう。短い時間ですばやくきれいに仕上げるのである。同じことを経験の浅い者にやらせてもきれいにいかない。品質が落ちてしまう。
労務管理や人事制度に問題があることを棚に上げて苦し紛れに中国人やベトナム人を雇い入れる企業があるが、彼女達はすぐに帰ってしまい、根室の水産加工場の技術を次の世代につなぐ者ではない。50年前にも同じことが根室に起きていた。青森県や道内の僻地から中卒の女工さんが根室の水産加工場にたくさん集まっていた。日本合同缶詰の場合は4工場で800人ほど集まっていた。ところが土間に二段ベッドを組んで寝かせるような昔(戦前・戦中・戦後まもなく)のマンマの処遇で、一向に施設を改善しない。蟹のシーズンに入れば原料が高いから残業に次ぐ残業。そのうちに青森からも道内からも人は集まらなくなった。根室は青森と道内の中卒の活気ある働き手たちから見放されたのである。オリンピックの3年程前にはそうした傾向がはっきり出てしまっていた。高度成長期に入り世の中は変わったが根室は閉鎖的でそうした世の中の変化から置き去りにされていった。女工さんたちの寝泊する施設が他の地域では立派になっていったが根室はそうではなかったからだろう。歩調をあわせるように熟練技術をもった男工さんたちが辞めて道内へ散っていった。若い女性たちが減れば男たちもいなくなる(笑)。こうして人材を失った道内ナンバーワンであった根室の缶詰工場はつぶれていった。根室には日本合同缶詰という4工場もった道内屈指の缶詰工場があったのだ。本社は閉鎖的、本社スタッフに経営改善意識などまるでなし、いまの市立根室病院をみるとその相似性にゾッとする。本社スタッフに人材のいないところまでそっくり。
中国人やベトナム人を入れることでは問題が解決できるどころか、問題をさらに大きくするだけだということは過去の事例が教えてくれている。根室の経営者達も市役所も過去から学べばいい。
やるべきことはオープンな経営に切り替え、退職金制度も含めて人事制度をしっかりすることだ。従業員への決算公表と部門別予算制度の導入、経理規程や人事諸規程の制定と公表、そして厳格な実施、そうすれば地元の高卒の生徒たちも水産加工場で働く者たちが増えるだろう。いまある生活に安心と未来に夢と希望を抱くことができるだろう。
<仕事の質とスキル強度概念>
水産加工場の作業に限っては、質的な差異を労働強度のような「スキル強度」概念を導入すれば、単純労働に還元できる。単純労働に還元できる種類のベテラン仕事と、還元できない質的差異の大きい仕事に分けるべきなのだろう、これは面白そうだ。
日本にはあらゆる業種・あらゆる職種にスキルの高い職人が存在していると言ってよいのだろう。
<質的に差異のある通約不可能な職人仕事>
職人仕事には、修行途中の見習い、半人前、一人前、一流の職人、名人などの段階があり、見習いの仕事をいくら足し合わせたところで名人の仕事にはなりえない。それに対して抽象的人間労働は人間労働の質的均一性を前提にしているから、労働の質の差異を認めない。どんな熟練の人間の労働も初心者の労働も質自体は同じものとみなすのである。感覚的におかしいといままでマルクス経済学者の誰も思わなかったこと自体が不思議だ。
見習いや一人前の職人、そして名人の間に仕事の質を認める「職人仕事」と「労働」はまったく違うことがわかるだろう。
<日本語の語感には深い意味が隠されている>
日本人は「仕事をする」とはいうが「労働する」とは言わない。朝、家を出るときに「仕事にいってくるよ」とか「会社にいってくるよ」とは言っても「労働してくるよ」とは言わないのである。言葉は事態をよく著しており、日本人は「労働している」のではなく「仕事している」。
だが、労働に質的差異を認めてしまったら、相互の仕事が通約不可能になる。量では比較のできないものとなるのである。
<物の価値はだれが決めるのか?>
ピカソが描いた絵とヘタソ(わたしが描いた)の抽象画では値段が違うのは当たり前だ。では価格はどうして決まるのだろう?それは買う側が決める。名人の作製した品物の価値は労働時間には依存せずに買い手の認知する価値で決まる。買い手がいくら出すかで値段が決まるから、需要と供給で決まるのでもない。もちろん需要がなければ商品とならぬことは当然のことだが、それでもその価値がゼロにはならない、需要のあるなしにかかわらずいい物はいいのである。物の価値を決めるのは物の価値がわかった好事家の人間である。茶器の値打ちは千利休が決めるようなものだ。ここでは商品でないものにすら価値がつく。千利休の愛蔵品はそれだけで高い価値をもつのである。最高の目利きが愛蔵した品はそれなりの価値をその道の好事家の誰もが認めるのである。
<いい物を禁止したら、腕のよい職人がいなくなる:小説にみる天保の改革>
西條奈加『涅槃の雪』に天保の改革で奢侈品のご禁制が出て、高価な材料を抱えた老舗が品物が売れなくなってお金が回らずつぶれ、娘が女郎に売られる話が載っていた。飛びっきり腕のよい職人達も品物がご禁制になると売れないから用無しとなりお払い箱。一流の職人がいて品物を作っても買う人がいなくなれば物の値打ちは変わらずとも、お金に換算した値打ちがなくなる。かくして巷から最高級品が消えて、腕の悪い粗製乱造の雛人形が市場にあふれ出す。こういう状態になれば、「腕の悪い標準的な半端職人」の仕事が基準となって物の価値を労働時間で計測できる。職人仕事が職人仕事ではなくなり、限りなく単純労働に近い存在となりはてる。一流の職人仕事への社会の尊敬はあっても、単純労働に近い半端職人の仕事はもはや労働そのものだから、やっている本人も自分の仕事に満足がえられず、社会の尊敬もなくなる。悲しいことに労働には誇りや歓びや自己満足や深い充足感がない。
<物の値打ちと職人仕事の関係>
物の値打ちがどこで決まっているのかという話はややこしい。最高級品の値打ちはそれを作製する労働時間の長さでは決まらない。それを作った職人の腕のよさに依存している。だから職人は腕を磨く、いい物であればあるほど、作ったものの値打ちは上がる。日本の特異なところは、支配階級の武士階級だけでなく、裕福な町人にも好事家が多いことである。庶民も一点豪華主義でいい物を愛用するという風俗が根付いている。
腕のよい職人とその仕事を理解できるお金をもった好事家の存在がよい品物を大事に長く使うという習慣を育む。このような物の値段の決め方、経済のあり方は大量生産・大量消費の対極にある。手仕事で作った高級品は大事に扱うし、壊れたら手仕事で直せるから、何倍か長く使える。いい物を少しだけ、小欲知足の経済である。欲望が無限に増殖する経済と対極をなす。
このような経済社会の担い手は、物の値打ちのわかる好事家と、いい仕事をする職人である。産業の全分野に渡ってあらゆる職種の職人が存在すること、つまり文化程度の高い社会といえるだろう。
<この項のまとめ>
マルクスにあっては労働時間と労働強度が問題になるだけで労働の質が問題となることはなかった。それは抽象的人間労働が質の均一性を前提としていたからである。『資本論』は質の均一な単純労働しか想定していないが、職人仕事の世界では仕事の質は職人の腕に依存しており、品物の質はさまざまである。
腕のよい職人の作った品物の値打ちは、その善し悪しがわかる好事家が決める。日本の得意な点は、支配階級だけでなく好事家がいろんな階級、そして庶民にまで広汎に好事家が存在していたことだろう。それぞれが自分の懐と相談しながら、最良の物を買い求め大事に扱ったのである。
柳宗悦や蜀山人などもそういう高度な目利きに数えられる。
―余談(1)―
BS放送で雪山に棲むユキヒョウの特集をやっていた。アルタイ系の住民が遊牧をして冬の間は山合いの谷地でヤギを飼っているが、ユキヒョウが家畜を襲っても駆除しない。ユキヒョウが病気などで弱った家畜を選んで連れ去ってくれるから、災厄を取り除いてくれるのだと古い言い伝えがあり、それを代々ずっと守り続けている。放牧民は家畜を襲ったユキヒョウに感謝さえしているのである。ユキヒョウに悪さをすると家族に不幸がおきると古い言い伝えを未だに信じて守っている。そうした言い伝えは迷信であると同時に真実でもあるのだろう。ユキヒョウを駆除してしまったら、あるいは家畜に病気が蔓延して全滅するかもしれない。おそらく遊牧民の先祖が何度かそういう経験をしたのだろう。迷信のなかにはこのように自然の生態系と調和していくための装置のような役割を果たしているものが含まれているのだろうと思う。
アルタイ系のこの遊牧民は人間の欲望をコントロールしてみごとな小欲知足の世界で暮らしているようにわたしにはみえた。
日本には鎮守の森の樹を切ってはいけないという言い伝えがあるようだが、古い言い伝えや迷信のほとんどが昭和期に失われてしまった。いままた、太平洋岸をコンクリートの防波堤で塞ぐような愚かなことをはじめてしまっている。このままでは日本が滅茶苦茶になりそうだ。何も造らずに津波が来る前に逃げるのが最善策とすれば、宮脇翁の森林の防波堤が次善の策だろう。
―余談(2) 截金師―
截金(きりかね)師という職人がある。いま(4/14朝9時20分)テレビでやっている。金箔を重ねて肺の中に埋めた炭火で炙り密着させ、それを静電気が起きない鹿革の上で竹べらを用いて0.3mmに裁断して曼荼羅図などに貼り付けて文様を作っていく。下絵なしでやる。下絵を描く時の緊張感よりもいきなりやるほうが緊張感が優っておりいい仕事になるというのだ。仕事場の机の下には寝袋が置いてあり、仕事場の机のところで寝てしまう。朝日が上がるころ絵を見ると光に金箔がきらめいて仕事の粗さが目に付き、もっともっとと思うのだそうである。1969年生まれ、仕事一筋、修業時代に若い頃の写真が紹介されていたがとってもチャーミングな美人である。もちろん45歳のいまでもきれいだ。しかしこれほど自分の仕事に没頭してしまったら、時間が惜しくて結婚などする気がしないだろう。截金師になろうとしたときに父親がかたくなに反対したそうだ。父親は娘の性格をよく見抜いていた。
作品の金剛界曼荼羅図、胎蔵界曼荼羅図が紹介されている。一つに2年以上かかる根気のいる作業を毎日続けている。左手に持った筆の先に0.3mmの截金(きりかね)をぶら下げ、右手に糊をつけた筆の尖端に截金を載せながら文様を描きながら正確のその上に極細の金箔を貼り付けていく。すごい技だ。息を止めてはいけない、心拍数が上がり指先に出る、ゆっくり息をしながら平常心で作業すると言っていた。
金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅は弘法大師空海の真言密教のものだ。同じ作業をした職人が1200年前にも存在し、いまにその技が伝えられているところもすごい。
*#2631 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(1) Mar. 31, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-03-30-1
#2634 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(2) Apr.7, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-06
#2643 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(3) Apr. 13, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-13
#2634 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(2) Apr. 7, 2014 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
マルクスは工場労働を背景にもつ抽象的人間労働を経済学体系の端緒にして経済学を築いたが、わたしは職人仕事を中心にすえた経済学を描いてみたい。
マルクス「賃労働」の基本には「労働=苦役」という考えが根本にあり、その淵源はギリシア古代都市国家の奴隷労働に遡ることができるだろう。奴隷や農奴や工場労働者は生産手段をもたず、生産物に対する所有権もない。それらのものから疎外されている。
日本人の仕事観はこれとは著しく異なり、「労働=苦役」という図式はなく、「仕事=神への捧げ物をつくること」という図式が古来から久しく受け継がれてきた。
どれくらい昔からと問われても定かではないが、神へ捧げ物をする習慣は出雲神社や伊勢神宮創建時から伝わるものだからそれらよりも古く、古墳時代と弥生期を飛び越えて縄文期にまで遡るのだろう。
日本人は縄文期には森や海の近くに住み狩猟や漁労をして生活していた。だから、自然との調和のなかで暮らす期間が長く、鎮守の森に代表されるように森を大切にしてきた。森を大切にする心は里山や農耕地も大切にする心へとつながっている。美しい棚田の風景や、森を大切にすることで沿岸の魚介類の棲息域を良好な状態に保ってきたのである。人間の生活や命が生きとし生けるものや自然とつながっているという実感が日本人にはある。アイヌの文化にはそういうものが色濃く残っている。メソポタミア文明が森の破壊からはじまるのとは好対照である。
【仕事は清々(すがすが)しいもの】
話しがやや脱線したが、神への捧げ物をつくるところから日本人の仕事観が出発していることは特筆しておくべきだろう。それが典型的に現れているのは正月の刀鍛冶の仕事である。禊をして衣類を全部取り替えてから仕事を始め、作られたものはいったん神へ捧げられる。漁師が大漁の御礼に一番いい魚を神に捧げるのも同じことだ。歌舞伎も文楽も楽屋裏には必ず神棚が設けられている。この国では仕事はすべからく神へつながる。
だから、仕事の手を抜くことは許されない。誰かが許さないのではなく、仕事をする人自身が己の手抜きを許さないのである。だから日本人の仕事には本来は「監視」の必要がない。誰も見ていなくても神様が見ている、それゆえ手を抜かないのが職人仕事である。なにしろ日本には八百万の神々というほどたくさんの神様がいらっしゃるから、誰もみていないどころか八百万もの神々が見ておられるから、人は己に正直に誠実に渾身の力で仕事をしなければならない、ゴマカシは利かないのである。正しいやり方で手を抜かず、渾身の力で仕事するのが正しい職人の在り方である。正しいことを正しいやり方でゴマカシなしにやる、だから日本人の仕事は清々(すがすが)しい。
奴隷の労働や工場労働が苦役であるのとは大違いで、日々仕事の技術を磨き最高の物を創るという喜びがそこにはある。
【人間よし、他の生物よし、地球環境よしの三方よしの経済学】
経済学の端緒にこのような「職人仕事」を措定したらどういう経済学が展望できるのだろう。経済は人間中心主義から他の生物や環境との調和を利益に優先して考える万物調和主義へと切り替わる。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は「人間よし、他の生物よし、地球環境よしの三方よし」と読みかえることができるだろう。
【日本の伝統的な価値観と職人中心の経済学の特徴】
気のつく限りで職人仕事を中心に据えた経済学の特徴を箇条書きにしてみたい。
(1) 「人間よし」は特定の人間にとってよければいいということではないから、給与格差の大きい非正規雇用は弱者をいじめる卑怯な経営だから認めるわけにはいかぬ。正規雇用にするか給与格差を解消すべきだということになる。
(2) 仕事は渾身の力でやり、日々技術を磨く。資本主義や共産主義では労働者が時間で自己の労働能力を切り売りするから一生懸命にやり質が高まれば高まるほど労働者は損をした気分になるが、職人はいい仕事をして仕事自体に満足と歓びを感じる。
(3) 国内に雇用を増やす:貿易は最小限にとどめる。国内で生産できるものは生産し、国内で消費する。安全で品質レベルの高い商品を輸出し、自国内で生産できないものだけを輸入する。つまり、高くても安心・安全で品質の高い国産の作物や家畜や魚介類あるいは製品を優先して使うということ。世界中の国がそうすればいい。すべての国あるいは複数の国が集まった地域がその国や地域に必要な物の生産拠点となる。
⇒自立した経済が主、貿易は従
(4) 教育の重視:知的エリートの育成と職人仕事のエリート養成をおこなうために教育を重視する。それぞれに応じた教育の制度化を行う。
⇒安心で安全そして品質の高い製品をつくるために生産技術を重視した教育を行う。それは学校教育のみならず、あらゆる作物や製品の開発・生産・技術の普及および伝承までを網羅する。
(5) 社会的不正義の上に利益が築かれてはならない。
(6) 経済的取引で卑怯なことはしない。
(7) 浮利は追わない。
【職人仕事や職人仕事中心の経済社会とはどういうものか】
日本の伝統的な仕事観や商売の倫理に基く経済社会とはとんなものだろう?名人クラスの職人ははどこかで宗教的な悟りと同様の境地に至るケースが多いのはなぜだろう、理由があるはずだ。ランダムに論点をリストしてみたい。
① 宮大工の仕事に学ぶ
『木のいのち 木のこころ』西岡常一
『木のいのち 木のこころ』小川三夫
『木の教え』塩野米松
②柳宗悦に学ぶ
⇒全集を抜き読みする必要がある、写真集も眺めなくてはならない。
③物の値打ちがわかる数寄者の存在
④最高レベルの職人が作った高価な品物を買う消費者の存在。
⑤一流の職人への社会の敬意の存在
⇒日本ではあらゆる仕事が職人仕事に変わる、まるで日本の伝統的な文化や価値観が触媒の役割を果たしているかのように見えて仕方がない。
⑥職人の種類⇒例えば文楽にかかわる職人層
⑦天皇が一流の職人たちに官位を与えた
⇒『用命天皇職人鑑』近松門左衛門
⑧日常生活の中でよいものを大事に使う文化の存在
⑨リストラをして利益を増やすのは間違いのもと。他人の不幸の上に企業の繁栄があってはならぬ。
⑩小欲知足:社会階層の上位に属する者たちが強欲であってはならぬ。経済格差は小さいほうがよい、智慧のあるものは智慧で、高いレベルの技術を有するものはその技術で社会に貢献せよ。
⇒日本企業の初任給と役員の給与の比率は1対15以下にする
⑪50歳をすぎたら地域社会への恩返しをする季節としたい、そういう人生区分があってよい。ふるさとに、地域社会に育ててもらった恩を返す季節をもつのがあたりまえの経済社会。
⑫蓄えるのが先で使うのは後:平時に借金は増やさない、将来の危機に備えてまず貯蓄ありき。危機が訪れたときに取り崩して使うべし。
⇒日本人はずっとそうしてきた。村で非常用備蓄をしていた具体的事例を発掘する。領主が命じたのではなく、村が独自に備蓄している例があるところが日本の村落共同体のすごいところ。
重複している部分があるが、①から⑫までを調べて整理するのはなかなか手のかかる、しかし楽しい作業になるだろう。
職人仕事を経済学体系の端緒に措定する経済学はおおよそこのような特徴をもつことになる。地球環境を破壊せず、拡大再生産や経済成長を目的にしない経済のあり方がそこにを示されるのではないだろうか。弱肉強食のジャングルのような資本主義とも共産主義とも異なる仕事観に基く経済社会を具体的に展望してみたい。
ebisuといっしょに日本的価値観に基く経済学を創ろうという人が出てきてくれたらうれしい。
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ー余談―
今日はお世話になっている床屋さんのお父さんのお通夜に行ってきた。2月には仕事もしていて元気だった。癌を乗り越えた同士でもあったし、昭和34年までebisuの家の前にある床屋さんで若い頃働いていて小学校に入るかはいらぬ頃の幼いebisuを知っている人でもあった。
昭和30年代は根室のほとんどの家が貧乏だったけど一生懸命に勉強して働けばなんとかなる時代だった。あの頃の話しをできる人たちがほとんどいなくなってしまった。その声や表情の断片がいまは記憶の中にあるだけ。
「死ぬときは東京で死んでほしい、死ぬ前に東京へ帰って来て。冷たくなったお父さんと対面するのは嫌だから」そう一人娘に言われましたと話したら、おだやかに笑っておられたのは1月だったか2月だったか。あんなに元気だったのに、懐かしい人がまた一人逝ってしまった。ご冥福を祈ります。
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*#2631 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(1) Mar. 31, 2014
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#2634 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(2) Apr.7, 2014
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#2643 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(3) Apr. 13, 2014
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#2631 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(1) Mar. 31, 2014 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]
漠然とライフワークだと考えていたテーマがある。マルクス『資本論』を超える経済学を創るという夢である。
資本論の体系構成がはっきり見えだしたのは学部の学生のときだった。経済学の体系構成に関する研究をテーマに選んで大学院へ進み、研究を続ける傍ら、マルクスが設定した公理・公準を入れ替えたらどういうことになるのかという疑問がわいたが、意味のある適切な公理・公準が見つからず、思考は堂々巡りを続けた。
他人の後を追うだけの研究なんてつまらない、美しい諸概念の体系を目の前にして、それを乗り越えられない能力の限界を思い知らされ、糸口が見えない状態が続いていた。研究に集中すれば糸口が見つかるというような性質の問題でないことは乗り上げた暗礁を眺めただけで明らかだった。研究生活を続けることに意味がなくなってしまった。自分の内部で何かが熟成してくるのを待つしかないのである。民間企業に就職して経営企画、経営管理管理、予算編成及び統括管理、株式上場プロジェクト、実務デザインとシステム開発、企業買収、赤字子会社建て直し、合弁会社経営などさまざまな仕事に没頭しつつ、マルクスの労働概念に抱いた違和感の正体を探り続けることになった。
マルクスを超える経済学を創造するためには回り道が必要だった、回り道をしても届くかどうかはまったくわからないが、残って研究生活を続けても乗り越えられないことだけははっきり自覚できた。若き学徒にとっては酷い話だが、こういうときは頭で考えないようにしていた。全一な判断は論理的な思考ではなしえず重要な局面では直感でやるしかないが、それは目隠しをしたまま崖があるかもしれない道を突っ走るようなものだからそら恐ろしいことだった。
日本人の「仕事観」とマルクスの「労働観」には天と地ほどの差があることを業種の違う企業へ転職を繰り返して身体で理解した。マルクスを乗り越える準備が完了したのを感じたのはようやく50歳前後の頃のことである。
何年かあとに塾の仕事を辞めてから、人生の終わりに差し掛かったところで残る時間のすべてを投入して書き始めるつもりだったが、一週間の春休みをとり、考えが変わった。学術論文を書くためには年単位のまとまった時間が必要だが、それがなくても大まかなデッサンを書きあげて公表しておくことには意味がある。
本論は別に専用ブログをつくりそこで展開すればよしとして、全体の見通しを述べておくことはいまでもできるしムダではない。いくつかの課題も具体的に明らかになるはずで、学術的な論証はあとまわしでよい。十数年かかるだろうから、わたしにはそういう時間と体力をそろえるのはすでに無理がありそうで、若い人たちのために大事なところだけピックアップしておけばいいと気がついたしだい。
いままでの西欧の経済学説とは根底から大きく異なることだけはハッキリしているから、どこがどのようにことなるのか、そこから話しをはじめてみたい。
マルクス『資本論』はウィリアム・ペティ、アダム・スミス、リカードなどによって析出・洗練されてきた経済学的諸基概念の関係を分析してそれらを一つの体系の中に統合するものであった。
マルクスにあっては、「抽象的人間労働」と「具体的有用労働」がもっとも根本的な経済学的基礎概念である。それが「単純な流通関係」に置かれると、交換価値と使用価値をもつことになる。「商品の一般的な交換関係」に措定されると貨幣が出てくる。継いで「生産関係」へと移行し、「市場関係」へと順次概念的関係が拡張されていくという構造になっている。概念的関係は、「単純な国際市場関係」から「世界市場関係」へと至り、国々との関係で資本や賃労働が定義されるような構成になっているのである。
こんなことをいう経済学者は日本に一人もいないし、世界中を探してもいない。マルクスは経済学でユークリッドが平面幾何学で示したような公理・公準に基く演繹的体系化を経済学的諸概念を使って試みたのである。そしてそれは経済学諸概念の美しい演繹的な体系になっている。
高校2年生ときに中央経済社から出版され始めた公認会計士二次試験講座の経済学に眼を通し、近代経済学の本を読んだ後で『資本論』を読んだのだが、その全体構造がまるでつかめず、大きな森に迷い込んだ感覚があった。そしていつかこの森を征服してやろうとひそかに決意したのである。学部横断的にゼミ生を募集した市倉宏祐先生(哲学)の一般教養ゼミで『資本論』を読み、継いで『経済学批判要綱』を読むことで、基本概念の体系化の跡を追いかけ、高2のときの迷い込んだ森の全体図が理解できた。
しかしマルクスの経済学体系構成全体がどのようなものであるかをおおよそつかまえることはできたが、適切に説明する術をもたなかった。既存の学説とはまるで異なる結論だったのである。共産党ともアカデミズムの世界で最大学派であった宇野経済学ともまったく異なる地平に立っていた。
経済学の体系構成について学術論文を書くだけで一冊の本となるだろうが、わたくしのやるべきことはこうしたことに関する学術論文を書くことではない。
『ユークリッド原論』を参考に『経済学批判要綱』と『資本論』の各版を比較対照しながら若き学徒が追跡すればいい、資本論は経済学諸概念の演繹的な体系なのである。私がやるべきことは資本論とはまったく別の経済学諸概念の演繹体系全体のデッサンだ。日本的職人仕事観からどのような経済学体系が創造できるのか見てみたいとは思わないだろうか、知的好奇心と冒険心をくすぐる壮大なテーマである。
肝心要の最初のところ、「学の端緒」をブレイクダウンしてみよう。マルクスのいう「抽象的人間労働」とは、「生産関係」のところでさらに具体的なレベルで明らかになるのだが、工場生産を前提とした労働である。抽象的人間労働という概念にも工場労働の匂いが残っている。たとえていえば、蒸留酒を作る際に、元の醸造酒のフレーバが残るようなものだと考えてくれたらいい。
そこには資本家と工場労働者が居て原材料と生産手段がある。資本と賃労働と原材料と生産手段と言い換えてもいい。労働者は生産手段をもたないし、生産物は労働者のものではない。
マルクスが「労働疎外」という用語を使っているか「疎外された労働」という用語を使っているかは、細かいことはとっくに忘れているから、必要があれば『~要綱』『経済学批判』『資本論』などを調べて別項で検討することになるのだろうが、ここでは簡単に、労働者が賃労働の対価として賃金を受け取ることで、生産手段や生産物から切り離されている状態をさして「疎外された労働」を定義しておきたい。西欧の「労働」は全一なものにはなりえないのである。「全一な労働」に対して「疎外された労働」を対置して考えればいい。
工場労働者は時間で自らの労働能力を商品として売ることで商品生産に参加する。こういうタイプの労働者と、パン職人や肉屋、靴職人、カバン職人、衣服の製造にかかわるさまざまな種類の職人など、自ら自前の道具をもった一群の職人が西欧にも存在してきたのだが、マルクス経済学の射程内にはこれらの職人仕事は入らない、歓びや自己実現のないあわれむべき「労働」経済学なのだ。
西欧には労働は奴隷のすることだという考えがギリシアの古代都市国家から連綿と受け継がれており、アダム・スミスもリカードもマルクスもそういう「特殊西欧的な常識」の中で自らの経済学を考えており、それは経済学体系に影響している。
マルクスは労働を苦役ととらえるから、賃労働からの労働者階級の解放が政治的イデオロギーとして出てくることになった、彼の経済学的な分析と体系構築と人間解放の共産主義という幻想の政治的イデオロギーはこうして必然的に三位一体のものとなっている。
「平行線は交わらない」というのはユークリッド幾何学の公理・公準のひとつである。ところがこれは平面幾何学を前提にしているときにのみいいうることで、球面幾何学上では「平行線は二点で交わる」ことになる。地球儀を思い浮かべ、赤道に垂直に平行線を二本引くとそれは北極と南極で交わることになる。
私が言いたいことの要点は、公理公準が異なれば学の体系も別物になるということだ。ここまでは商学部会計学科に所属し市倉ゼミで学んでいた時代の結論だった。では、公理公準を任意に取り替えて経済学体系を語ることに意味があるのかというのが、学部で学んでいたときとその後に大学院で研究していたときの疑問であった。意味のある学の端緒を自分の頭で探したが見つからなかった。いくつか業種の異なる分野で仕事を体験して、身体を通して理解するしか術がなかったのである。
わたしはずいぶん回り道地をしたようだが、最短距離を走ったのだと十数年前に気がついた。だから、ケリをつけるべく人生最後の数年間をこのライフワークに費やすつもりでいるのである。
疎外された労働というマルクスの言辞や用語に漠然とした違和感があったが、彼の著作を読むだけではその正体がわからなかった。道元の『正法眼蔵』同様に、身体を使って(修行あるいは)仕事をすることでしか答えが見出せない気がしていたが、マルクスが捨象した職人仕事にその鍵があることに、業種の異なる何社かで仕事をした挙句にようやく気がついた。不器用でずいぶんと鈍だと反省はしているが、お陰でA・スミスもリカードもマルクスも西欧経済学とその亜流も全部まとめてひっくり返せるから、結果から見ると無駄はなく最短距離を歩いた気がしている。リカードの比較生産費説ともグローバリズムともおさらばできる。地球環境への影響を小さくして雇用も確保し失業問題を解消可能だ、それが職人仕事を中心においた経済学である。
賃労働や奴隷の労働と職人仕事がどれほど異なっているかはなんどもカテゴリー「経済学ノート」でとりあげたが、もう一度整理・展開してみたい。日本ではあらゆる仕事が職人仕事になってしまう、そういう不思議な文化的な土壌がある。これは世界中で日本だけの文化的な特質だろう。日本人はこうした文化に基く新しい経済学を創造して見せることができる。
―余談―
学術論文にするには、たったこれだけの文章で十数か所は注をつけなければならぬ。スミス以前の経済学についてはスミスがしっかり盗んでおきながら言及を避けているウイリアム・ぺティーの経済学があることを馬場宏二先生の著作『経済学古典探索』(御茶ノ水書房 2008年刊)で知った。マルクスもプルードンの系列の弁証法をいただいておきながら意図的に言及を避けているのとよく似ているから、苦笑せざるをえない。スミスにとってはそれほどペティが重要だったという証左である。
*#2631 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(1) Mar. 31, 2014
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#2634 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(2) Apr.7, 2014
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