#3444 人はどうやって言葉を習得するのか(1):2.5-3歳 Oct. 30, 2016 [50. 幼児期の言葉の習得]
2歳半から3歳までに、こどもは言葉をどのように習得していくのだろう。
周りにいる人やある物には名前がついている。
おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃん、・・・
スプーン、はし、ちゃわん、フォーク、お皿、バナナ、りんご、かき、ヨーグルト、・・・
やってほしいことと嫌なことに関する言葉を覚える。
食べたい、食べる、見たい、見る、飲みたい、飲む、・・・
ついで、否定語を習得する。同時進行と言ったほうがよいかもしれない。セットで言えるようになる。
食べたくない、食べない、見たくない、見ない、飲みたくない、飲まない、・・・
2歳半から気がついたことは、形容詞や形容動詞が使えるようになったことだ。
すてきな棒だね、大きい棒、小さい棒、おばあちゃんは大きいうさぴょん、わたしは小さいうさぴょん、・・・
艶のある小枝を拾って「すてきなぼうだね」と言った。秋だから、散歩すると道端に小枝が落ちている、かがんで一つ一つそれを右手で拾っては左手に集めて握っている。世の中の棒を「すてきなぼう」とすてきでない棒に2分しているようだ。
「大きい棒」と「小さい棒」と区別がつくのは物の大小関係の判断が働いている。自分が見たり触ったりしているものの大小を判断している。「大小」という抽象的な概念が育っていくのが目に見えるようだ。
1.3mほど細い枝が落ちていたので、それを振って蜘蛛の巣を払ったら、それが欲しいというのであげると、真似をして蜘蛛の巣を払う。大人の真似をしても片手では無理なので両手で振る。
伐採した丸太が朽ちかけて転がっていたので、それを小枝で叩くと、自分が手にもっている枝で歌を歌いながら真似をして叩く。全身運動だ、キャッキャッと歓んでいる。
毎日、すぐ近くにある樹木の多い公園へ散歩へ出かけた。この公園には遊具がひとつもない、だからこどもはいくつど遊びを「発明」する。
最初の日は、3mmぐらいのオレンジ色や黒っぽい木の実が気になって拾っていた。見つけるたびにかがみこみ拾う。クヌギの木があるからどんぐりも落ちている。両手にものを持っていると転んだときに危ないから、掌(てのひら)を広げて、「あずかってあげる」と言って受け取る。あっさりわたして、拾い集めに夢中だ。掌にびっしりになったので、「どこかに隠しておこう」と告げて、大きな木の根方の隙間に詰めて、見えないように葉っぱで隠すと、歓んで葉っぱを拾って乗せていた。あとで、違う木のところを探していた。十数本ほど似たような大きさの木が並んでいるので見分けがつかないようだ。端から2番目の木だよと指差すと、ちょこちょこ走り出す。見つけてまた歓んでいた。うれしいときには必ずアイ・コンタクトして、うれしそうな顔をする。一人で遊ぶよりも、だれか相手がいたほうが楽しいのである。人見知りは激しい。とくに男の大人がダメ。話しかけられても横を向いてしまう。自分の視野に入らなければ、いないのと同じと思っているようだ。
二日目には側壁の雨水抜きのパイプの開口部に小枝を突っ込んで、遊び始めた。
「なにしてんの?」
「おそうじしてんの」
うれしそうな顔で、パイプに詰まっているごみを小枝でかき出している。端から上下2段の手の届く範囲を次々に「おそうじ」して歓ぶのである。
池の周りにはコンクリートの棒に穴をあけて紐を通した防護柵があった。その穴に細い小枝を通して遊んでいる。小枝を突っ込んでいるうちにこちら側からは抜けなくなった。どうするのか見ていたら、反対側に手を回して引き抜いた。
「じょうずだね」
「うん」
と目線を合わせてにっこり、いい笑顔だ。幼児とのコミュニケーションはアイ・コンタクトが大事な役割を果しているようだ。
散歩している途中で柿がなっていたので、指で触ってみせた。
「柿だね」
「とどかない! ○○ちゃんもさわりたい」
よいしょと、抱え挙げて触らせた。
公園管理の作業をしている人たちが5-6人来ていた。その中の一人が、
「とってもかまわないけど、それ渋柿だから食べさせないほうがいいよ」
と親切に教えてくれる。ごみを片付け、枝打ちや伐採をしていた。切り倒すときに、かなり大きな音がしていた、バリバリドッスン。
ゴンズイという面白い名前の木があった。なんの役にも立たない木だからゴンズイという俗名がついたと由来の説明に書いてあった。ゴンズイはナマズの仲間の海水魚で、毒をもった棘があり、食用にはできないと思われているから、役に立たないものの代名詞として使われる。この木の実は硬くて赤い外殻の中に直径3mmほどの黒い実がついており、それが遊歩道に落ちている。
「とって」
「もうひとつ」
「みっつとって」
どうも「ひとつ」と「3個」というのが頻度が多い。「ひとつ」でなければたいがい「みっつ」「さんこ」と言う。
ばあさんが手づくりのトンカツを1.5cm角に刻んで食べさせたときに、
「このトンカツ、カリカリしておいしいね」
顔を上げて、視線を絡ませながらうれしそうにそう言うのである。副詞句(カリカリして)を使いはじめるのは2歳以降のようだ。ただ「おいしい」だけでは伝わらない。「カリカリ」「サクサク」「パリパリ」「あったかくて」「冷たくて」「甘くて」など、どのようにおいしいのか語彙が多いほど表現は豊かになる。語彙を3つ覚えたら、世の中の食べ物を4分類して整理・表現できるということだ。苦味がわかってきたようだが、これは許容範囲が狭い、でも、幼児にもおいしい部類に属する苦味があるというのは発見だ。苦い味がするものはほとんど吐き出す。グレープフルーツは”苦い味がする”といって吐き出す。「清美オレンジ」や「タンカン」など苦みのないオレンジは大好きだ。種類の違うオレンジを交互に食べさせると面白い。甘くて味の濃い方ががいいと、そちらばかり食べる。
子どもは自分の身の回りの言葉を真似て使い始めるのだろうが、「アッカンベー」はどこで覚えたのか母親も知らない。そういうことがよくあるようだ。
使役の助動詞、受身の助動詞はまだ使い分けられない、いつころから使えるようになるのだろう。助詞が最後になるのかな。
こどもが自分の身の回りで飛び交う語彙群を吸収するものだと仮定すると、周りの大人たちが使う語彙群が問題である。少なからぬ影響があるだろう。幼児期よりも、その後のほうが影響が大きい。大人は子どもの前で使う言葉をよくよく吟味すべきと言うことになる。子どもの前では、乱暴な言葉を使わず、上品な言葉遣いを心がけたい。
<まとめ>
「大きい」「小さい」という対立する語彙を覚えたら、世の中のものを三分類して捉えることになる。「大きいもの」「小さいもの」「どちらでもないもの」ということだ。「あまい」「しょっぱい」「辛い」「苦い」という語彙を覚えたら、食べ物や飲み物を4分類、否定語を交えると8分類して捉えることになる。人は言葉で考えるものだが、幼児も例外ではない。わずかの語彙を使えるようになることで、その子が認識する世界は急激に膨らんでいく。幼児における語彙の発達は、どうやら脳の発達と密接に関連しているようだ。
<わたしの視点>
現在2歳9ヶ月だが、こどもの言葉の発達がどのような経緯をたどるのか、観察が楽しい。こどもの言葉の発達は、個人差が大きいから、どれくらいが標準なのかさっぱりわからない。遅い速いはあまり気にする必要はないだろう、一人ひとりそれぞれのペースがある。
塾で中学生を教えていると、本を読まない生徒の語彙が貧弱で、数学の問題文を理解することすらできない例にぶつかることがある。本を読まないのでそういうことになったと思っていたが、どうやら読書習慣の前の段階があるようだ。幼児期の言葉の習得のどこに問題があると中学生になってどういう障害が起きるのか考えてみたい。語彙が多いほどニュアンスの違いを理解し、言い分けられる。それは「聴く・話す」のベースを造り、そのベースをどれほど充実させるかで「読み・書き」スキルの育成に大きな差を生み出しそうである。幼児とのコミュニケーションはいろんなことを教えてくれそうで興味が尽きない。
<2023年9月追記>
読書が大好きになった。小4になると、図書館で本を同時に30冊も借りてきて片っ端から読んでいる。総ルビの児童書だから200ページの本だと1冊読むのに1時間20分ほど。4年生になってから、もう100冊ほど読み終わっている。語彙が飛躍的に増えつつあるので、自分の感情や思いを伝えるのが上手だ。いま、斉藤孝『声に出して読みたい日本語①』を一緒に音読しています。杜甫の詩「春望」を読んだところですから103ページです。この本はさまざまなジャンルから名文をセレクトしてあるので、とてもありがたい。どのジャンルに興味がいくのかサーチしながら音読指導ができます。5年生になったら、大人の本への橋渡しをしてみたい。生徒達に使って実績のある斉藤孝『読書力』や藤原正彦『国家の品格』あたりから始めようと思う。何が起きるのか楽しみです。
<余談:逆上がり>
敷地内に空き地があり、以前は小グラウンドとして使っていたが、子どもが減ったのでだれも遊ばない。高さの異なる鉄棒が3つある。鉄棒にぶら下がるのが好きなので、逆上がりをやって見せようとしたら、足が上がった後、反対側に行かない。スキルス胃癌の手術を10年前にしてから、体重が8kgほど減ったままだが、そのほとんどが筋肉だったようで、腕の力がなく逆上がりができない。懸垂も1回もできない。50歳を過ぎても8回ほどはできたのだが・・・女房殿が笑っていた。
翌日少し腕を曲げ気味にして、思いっきりよくやってみたら、ちゃんとできた。
「あらあら、無理したわね」
<余談>
8畳の和室にカラフルなビー玉をぶちまけたあとに近づいてきて、
「おじいちゃん、一緒にあそぼ」
そう言いながら和室へ歩き出す。やにわに振り向き、
「おじいちゃん、うれしいでしょ」
と、アイ・コンタクトしながらにっこりする。そんな言葉が出ることは予想外だったから、言葉が出てこなかった。
こちらの心のうちを見透かしている、3月末に会ったときに比べるとびっくりするほどおしゃまなことを言う。たしかにわたしは「うれしい」のである。まだ小っちゃいのに小学生のようなセリフに苦笑いしながら、リビングから和室へ移動して一緒に遊んだ。
人の心が読めるようになった、爺さんをおちょくれるのである、手玉にとられて歓んでしまった。
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『読書力』と『国家の品格』は中学生の英語と数学の授業に20分早く来てもらい、音読トレーニングしていました。16年間やって、生徒達を観察させてもらいました。弊ブログの中に観察記録を取り上げたものがあちこちに出てきます。