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#4121 社会人になってからの仕事のルーツは高校時代にあり Nov. 11, 2019 [90.根高 総番制度]

1964⇒1966
<序論>
 昭和23年と24年早生まれの団塊世代が根室高校へ入学時、男子は丸刈りという校則があった。わたしは一度も丸刈りにしたことはなかったが、しかたなく中3の冬休みに丸坊主頭にした。冬休みが開けると、坊主頭の同級生が増えていた。当時は一学年普通科4クラス200人、商業科3クラス150人、合計350人だった。根室高校はもともと商業高校で、戦後しばらくの間は釧路湖陵よりもレベルが高かったと「釧路の教育を考える会」の角田会長から聞いた。会長の角田さんは北大卒で元釧路市教育長、生粋の釧路っ子である。
 北国賛歌を飯田三郎氏と一緒に作詞した田塚源太郎氏は国後島の大漁師の息子で根室商業、職業は歯科医だったから、根室商業から大学歯学部へ進学。根室印刷の会長である考古学者の北構保男先生は国学院大学文学博士、大正6年生まれで、お二人は根室商業同期生。年齢は下だったはずですが、歯科医の福井先生(先代)がご近所でした。昭和30年代のことですが、根室新聞に福井先生が書かれた時代小説と現代小説が数年間連載されてました。歯科医をやられている息子さんは目元がそっくりです。平成3年だった、たまたま帰省してビリヤード店の店番をしながら、ゲームしていた時に、来店されて、「トシボー」と声をかけてくれました。その時には癌の末期でお痩せになって顔の色が茶色になっていました。肝臓がやられているなとすぐにわかりました、それから数か月でお亡くなりになっています。品のよい、いい先生でした。田塚先生も福井先生もビリヤード店の常連客でしたから、小学校へ上がる前から可愛がってもらいました。背が届かないので「ちょっと失礼します」といって台の上に上がって撞きます。ほんとうはルール違反ですが、子どもだったから面白がって相手してくれました。北構先生は1軒おいて道路を渡ったところが根室印刷でしたから、オヤジと出遭うと道路上で大きな声で立ち話をする人です。気取らない、ざっくばらんなインテリ、そういう大人が身近にいたことはとっても幸せなことでした。

昭和天皇のビリヤードコーチだった札幌の吉岡先生も毎年ラシャの交換作業をしに根室へ来ていました。来ると、旅館に泊まらずに家に泊まってくれてました。とっても品のよい白髪のお爺さんでした。使う言葉が違うんです。札幌でデートしているときに突然「トシボー」と呼ばれて誰だろうとみると、吉岡先生。ライオンズクラブで献血運動をしていました。ああ、彼女とデートだなとニコニコしながら、「献血していきなさい」「はい」、びっくりでした。彼女にまってもらって献血しました。献血手帳をもらって、それから西新宿駅前で数回献血しました。それが所沢のおじさんが日大駿河台病院で手術するときに役に立ちました。平成天皇のビリヤードコーチスリークッション世界チャンピオン小林先生、新大久保駅前でビリヤード店をやっていました。小林先生にも習っています。毎年常連会の忘年会で小林先生と一緒にお酒を飲んでビリヤード談義してました。小林先生が試合でしか使わないチョークを一箱いただいたことがあります。ダイヤモンドが混ざっているかのようにキラキラしています。橋ギリギリの撞点でもミスショットがありません。一度練習で使っていたら、先生慌てて、「ebisuさん、それわたしは大会でしか使っていない…」、それ以来常連会の大会と高田馬場ビックボックスで行われるアマとプロ混在の大会でだけ使いました。小林先生、メーカーがつぶれてしまって手持ちの貴重な在庫を一箱常連会の年に一度の大会にわたしにくれるために供出してくれたのです。わたしがドローショットのときに、厳しい撞点を打ち抜くのをちゃんと見てくれていたんです。12個のうち8個くらい残っているはず。東京の家を探せばどこかにしまってあります。世界最高品質、プロ垂涎のチョークですが、もう使う機会がありません。世界大会に出場できる腕前の人にあげたい。令和天皇のビリヤードコーチ町田正さん、アーティステックビリヤード世界2位、ボークラインゲームを3ゲームだけお願いしたことがあります。ボークラインゲームの全日本チャンピオンですから、もちろん、情けないほど相手になりませんよ。(笑)かれのお父さんが八王子でビリヤード店をしていましたが、そちらで教えていただきました。半円形にタップを削る技術はお父さんに教えてもらいました。お父さんはプロのコーチですが、「ebisuさん、あなたはコーチ料要らないから毎日来なさい」と言われました。筋がいいと褒められたのです。仕事が忙しくてたまにしかいけませんでした。町田先生と小林先生に教えていただいたことは、ノート50ページほどにまとめてあります。セミプロの技術書ですからこういうレベルの解説書は市販のものはありません。誤解を生じるから書かないと小林先生はおっしゃってました。一知半解でああだこうだという人が必ず出てくるのだそうです。八王子の町田先生のところには鉄製のキューがありました。町田正さんはそのキューで毎日素振りしていたんです。わたしがみた中では一番キュー切れがよかった。シルクハットというテーブルの端から端まで使うダイナミックなL字マッセはそういう道具で練習した成果でしょう。ショットに「切れ」がないとできない技です。ショットの「切れ」は天性のもの、そしてそれを磨きに磨いて初めて世界に通用する。「切れ」の好い者は上手になります。根室では西井さんという人が最高でした。全日本のアマチュアチャンピオンにはなれたと思います。全日本チャンピオンの小柴さんが常連会で一緒でした。何度か試合してますが、彼のキュー切れも素晴らしいものがありましたが、西井さんの方が上です。昔の写真を見てそうわかります。構えがいいのです。構えを見ただけで腕のほどはわかります。西井さんはebisuよりも一回りほど年長でした。家庭が裕福でしたから高校時代からビリヤードをやってました。
 3代の天皇のビリヤードコーチ、吉岡先生・小林先生・町田正先生に教えてもらったのは日本で私だけです。根室から東京へ出て行ったときに、東京の有名なビリヤード店を回ってみようと思っていましたがこんな形になるとは夢にも思いませんでした。小林先生には三つ玉の常連会で特に親しくしていただきました。根室っ子には一度は東京に出てみろと言いたい。世界は広い!)


 わたしが根室高校を受験した年は、団塊世代の入試は普通科がほぼ定員通り、商業科は2倍を超えていた。市内全部の中3が1000人ほどいたから、根室高校への進学率はざっと1/3。当時は私立の根室明照高校があった。校舎は大徳寺境内に併設されていた。中学を卒業して就職する生徒も少なくなかった。

1.<生徒会・会計は財務大臣>
 入学する前から、丸刈り坊主頭の校則があったから、高校へ入学したら、変えてやろうと思っていた。思っていただけで、具体的な算段があったわけではない。
 高校1年の終わりごろに、生徒会会計に指名された。指名されて初めて生徒会会計を云う仕事があることを知った。その当時の生徒会会計は、選挙ではなくて指名制で、各部の部長との予算折衝と予算編成、帳簿の記入と決算業務が会計に任されていたから、簿記がよくできる生徒が指名されたようだ。権限は絶大だった。1年先輩の仲野さんがわたしを指名してくれた。それまで仲野さんとは話をした記憶がない。どうしてわたしを指名してくれたのか理由がわからない。妹さんとは小学生のときに同級生だった。会計の仕事は国でいうと財務大臣のようなもの。仲野さんは、わたしが2年生の時に各クラブ部長との予算折衝を一人でやらせてくれた。任せたからには口を出さなかった、好い先輩に巡り合っている。大学も一緒だった。副会長の古御堂さんと二人で「おんちゃ」とわたしのことを親しみを込めて呼んでいた。優秀な先輩二人ががっちりバックアップしてくれたから、思う存分仕事ができた。どこかかわいげのある後輩だったのかも?

 生徒会・会計の経験が社会人になってから仕事で生きた。28歳で中途採用してもらった産業用エレクトロニクスの輸入専門商社では9月に入社1週間後にプロジェクトを5つ任され、すぐに予算編成と予算管理、資金管理などの仕事を担当させてもらった。35歳(1984年)に転職した従業員規模が3000人のSRLでも、2か月後には統合システム開発を任されただけでなく、予算編成と予算管理を任された。当時の予算規模は300億円。根室高校生徒会会計の経験が生きた。やり方は一緒である。ソニーの経営に関与してみたかった。
(ソニーがはじめて中途採用の全国募集をしたことがあった。事務部門は150人の応募、3次面接の2人まで残った。10時からの面接なのに、理由も言わずお昼過ぎまで待たされた、「お腹すいちゃった」といったらびっくりされた。ソニーはこんな会社になったのかと、こっちが驚いた。採ってはもらえなかった、二人まで絞り込んだのに規格外のわたしを採れないなら、ソニーの未来は危ういとその時に思った。
 高校1年のとき(1964年)に3万円くらいの、オープンリールのソニーのテープレコーダーを使ったのが最初だった。新製品が出る都度、買い求めて使った、ソニーのつくるものに愛着があったのだが、中途採用の全国募集をしたころには何かが変わり始めたと感じていた。「ICZ-R260TV」が昨年買ったソニー製品である。同じ製品でも5割高くていいから、日本の工場で生産した堅牢な製品も並行して販売してもらいたい。製品番号の末尾に「J」マークをつけたらどうか。モノづくりのソニー、もうそういう会社ではないのかもしれない)

2.<丸刈り坊主頭の校則改正の動機と経緯>
 2年生になって秋に修学旅行が予定されていたから、その3か月前までに校則改正をしようと、会長の関さんと副会長の古御堂さん(後に室蘭税務所長)、端谷さん(後にヤクルト釧路支店長?)へ持ちかけたら、かれらはもう修学旅行がすんでしまっているので、「ebisu、おまえがやれ」ということになった。社会人になって会社に勤務してからもそういうことがよく起きた。何か改革を提案すると、「おまえがやってみろ」とその仕事に必要な権限を委譲してくれることがよくあった。そういうことは高校生徒会から始まっていた。わたしの場合は、根室高校生徒会活動が人間形成や、仕事のやり方を学び、経験するのに役に立った。
 校長や生徒会顧問は校則改正をしたくない、生徒会顧問は3人いたような気がする。彼らが弱いのは保護者である。保護者が校則改正を望むなら、学校側としては仕方がない、面子(めんつ)の問題がなくなる。そこで生徒と保護者にアンケートをとることにした。髪の毛は体の一部で、それを規制するというのは基本的人権に抵触するのではないかという一文を入れたアンケート原案を作り、生徒会役員みんなでチェックして、ガリを切って輪転機で印刷し、全校生徒に配布した。狙い通りの結果が出た。アンケートは質問の仕方や答えの選択肢の書き方次第で、ある程度誘導できる。
 結果を集計して、全校集会を開き、満場一致で、修学旅行3か月前に校則改正をした。スケジュール通りに事を運んだ。修学旅行は、東京・京都・大阪・奈良、11泊12日、スケジュール通り、3か月でなんとか髪が伸びて都会を歩き回れた。いま、根高の修学旅行は大阪・京都・広島で4泊5日だそうだ。先週2年生が修学旅行、土曜日に戻ってきた。今日は休みだろう。

3.<生徒会・会長選挙の経緯と生徒会運営>
 2年生の時に生徒会回線の選挙があった。副会長の古御堂さん(商業科)と端谷さん(普通科)から、二人が応援演説するから、会長選挙に立候補しろと話があった。そのつもりで生徒会顧問へ立候補を伝えたら、生徒会会計だから駄目だという。会計業務は後輩に任せることができるし、わたしも任されてやり通した。両方やることだって別段の無理はなかった。なぜだと問うと、口ごもる、どうやら校長が反対しているようす。総番長のヒロシとは息があっていたし共産党のグループとも友人関係でつながっていた。丸刈り坊主頭の校則改正をやったことも警戒を生んだ。民青の矢臼別キャンプにも1年生の夏休みに参加していた。先ごろ市議を引退した共産党の下〇さんだったかな、当時は専従だったからよく知っていた。社会主義は1960年代は流行りだったから、上級生たちのよく見知った顔が出入りしていた。そのなかに上級生の総番グループが混ざっていたのは意外だった。わたしは同級生のA野と一緒に出入りしていた。卒業してからあいつはいつのころからかずっと共産党員である。頑固なところがあるが根はまっすぐだから、組織内では縁の下の力持ち、下〇さんとはまるで性格が違っている。根室高校にはこのころ時事問題研究会があり、中央大学で学生運動をしたことのある谷口先生が顧問だった。セクトは革マル派だったはず。普通科の十人くらいが影響を受けていた。そのうちの一人が幼稚園の幼馴染のF岡だった。東大安田講堂で立てこもって逮捕されたと噂に聞いた。もう一人有力メンバーにT部がいた。生徒会副会長だったかな、女傑だった。上智大学へ進学した。根室高校には3派存在したことになる。もう一つの勢力は総番グループである。
 
生徒会長立候補の件では生徒会顧問の先生が間に挟まって困っている様子だったので退いた。強引に立候補してもよかったが、顧問の先生が理由が言えずに困った顔をしたので、立候補はとりやめた。古御堂さんと端谷さんには「会計やっているので会長立候補はダメと言われた」とだけ話した。代わりに、友人のH瀬に副会長に立候補させるので、応援演説をお願いした。話をした生徒会顧問の先生はどなただったか覚えていない。同じクラスのK尻や旧知の普通科のT岡が中央執行委員に立候補してくれたから、生徒会はわたしの意思で動かせた。ポストにこだわる必要がなかった。幸いに生徒会長には中学生の時に隣のクラスだったオサムが立候補した。中3のときに一人で褌を占めて、鉄砲や蹲踞してすり足の稽古するようなストイックなやつだった。夏に一度黙々と鉄砲に励むオサムに声をかけたことがあった。身長180㎝、ガタイよくてたった一人の相撲部員、面白い奴だと認めていた。かれはしばしば生徒会顧問と生徒会役員たちの板挟みになった。もめごとは嫌いな質(たち)なのである。人っ子がよくて辛抱強い。あいつが買ってもらったばかりの16段変速のロードバイクを乗ってきて、生徒会室の窓の下に置いていた。あの時代に速度計までついたロードバイクは誰も持っていなかった、ずいぶん高かっただろう。オサムににちょっと貸せと言って、根室高校から現在セブンイレブンのある角まで走ってみた。オサムは180㎝ほどあったが、サドルはそのままで大丈夫だった。買ってもらったばかりのあんな高級車だれにも貸さないよ、だけどそこがあいつの性格のいいところ。すぐに鍵を渡して貸してくれた。前をダンプカーが走っていたので、追いつけるか目一杯漕いだら時速70㎞にアナログメータが近づいたとたんに、赤い光が目に入った。ダンプが右折するのでブレーキランプがついたのだと気がつき、間に合わないので身体を右側に倒してカルクブレーキを掛けながらセンターラインを越えて曲がった。あの速度でよく曲がりきれたものだ。いまならとてもできぬ。オサムが買ってもらったばかりのロードバイクを危うくオシャカにするところだった。対向車線を車が走ってきたら即死だっただろう。赤い光が目に入った瞬間、命が爆発するように燃え上がった。危ない遊びほどぞくぞくする。あの瞬間に脳内麻薬のドーパミンがどっと出たのだろう、痺(しび)れるような最高の瞬間だった、いきなりレッドゾーン突入。緩い下りになっているが、いまあそこをいくら速く走ろうとしても時速50㎞がせいぜいだ。交差点に近くなったらしっかり速度を落とす。危ないから。すっかりビビりになった。(笑)

4.<生徒管理強化での衝突:名札問題の経緯>
 3年になって、名札問題がもちあがる。校長あるいは生徒会顧問の一人だったK林先生の発案で、生徒全員に名札をつけさせるというのだ。大義名分は「生徒数が多いので、顔と名前が一致しない」ということだった。1学年350名だから全員で1050名、顔と名前が一致するのはわずかだっただろう。先生も百人近い人数だったのではないか。習ったことのない先生が半数以上いた。だから、生徒会顧問に「生徒のほうも先生の顔と名前が一致しない、先生たちも当然名札付けるんでしょうね」と念を押した。数人の先生たちにもそう伝えた。先生たちにも管理されるのを嫌う人が多い。職員会議でもめて、校長と生徒会顧問が発案した名札は流れた。
 前年には丸刈り坊主頭の校則を廃止したばかりで、大きな流れに逆行するものだった。カチンときていたのである。端(はな)から新任の校長と発案者である生徒会顧問と戦争するつもりでいた。獲得目標を明確にして、戦略と戦術を練り、やるときはとことんやる。
 万が一職員会議で可決されたら、名札を付けることは生徒の服装を規制するものだから、校則追加制定に該当し、校則の追加は生徒集会での賛否を問うのが定められた手続きだった。それを盾に生徒集会を開いて真正面から廃案にするつもりだった。味方になってくれる先生が数人いたので、職員会議の段階で廃案にできた。もめごとはわたしも小さい方がいい。

5.<酷暑のマラソン大会と熱中症による女子死亡>
 酷暑28度の体育最終日、生徒全員参加のマラソンでゴールしてから、熱中症で十人以上が倒れた。男子20㎞、女子10㎞だった。コースは日影がほとんどない、数年に一度の気温、カンカン照りだった。当時は水を飲んではいけないというのが常識だったから、水をまったく飲まずに走り通した真面目な生徒が、ゴールしてから熱中症で意識不明となった。10名ほどが倒れた、救急車で運ばれたがそのうちの一人が亡くなってしまった。責任を取らされる形で、物腰の穏やかな校長が更迭されて、体育会系の太ったN村校長が赴任してきて、生徒管理を強めようとした。やるべきことは生徒管理の強化ではなく、判断ミスが起きないように体制を整備することと、マラソンでは水分補給をしっかりやるように指導することだったはず。それを、体育祭最終日のマラソン大会廃止にすり替えた。これでは教育的配慮などありはしない
 1964年、わたしたちが高校1年生の秋に東京オリンピックが行われ、アベベが優勝し、円谷幸吉が銅メダル、マラソン熱で国中がわいていた。その翌年のことだった。あれが根高最後のマラソンとなってしまった。経緯を知っている先生は根室高校にいない、このブログを読み事情が分かっただろう、スポーツ大会最終日のマラソンを復活したらどうか?

6.<反抗期と友人H:こどもだったな(笑)>
 高校生での日商珠算1級は根室高校から初めて東大に現役合格を果たした横田さんが受験勉強真っ盛りの高3のとき、そして私が2年生で始めて、根室高校では二人目の合格者だった。横田さんはわたしよりも10個くらい先輩、横田市長の長男だった。道庁へ就職して、上川支庁長で退職している。根室高校長が、「東大を受験しようなんて身の程知らずがいる」なんて生徒集会で発言したという、笑える。きっと自分を基準に考えたのだろう。
 1級合格には生徒集会で校長から直々に合格証書が渡されるが、名前を呼ばれても、出て行かなかった。ちょっとざわついた。N村校長から受け取るのは嫌だったから前に出て行かなかった。あとで、担任から教室で受け取った。担任は何も言わなかったが、校長から何か言われたはずだ。
 珠算の全道大会は日商珠算能力検定試験1級の問題を半分の時間でやるので、それに比べるとどうってことのないスキルで、全道大会ではそれが最低レベル、しかし鍛錬を要するのは事実だ。珠算部ではないのに毎年珠算部顧問=担任の冨岡先生に頼まれて大会へ参加していた。いやT岡先生がわたしに直接頼んだことはないし、珠算部長のNさんからも頼まれたことはなかった。先輩の仲野さんがわたしに、「来週、全道大会行くからな」と告げると、わたしに拒否権はない、「はい!」と返事をする。1週間だけ練習に参加して、当然の顔で札幌会場へみんなと行っていた。それが愉しいのである。男は仲野先輩とわたしだけ、美人も複数いた。(笑)年に一度の懇親会のようなもの。大会出場はおまけだった。珠算部長は柏陵中学校出身のNさんだった。わたしはどういうわけか、光洋中学校の珠算部長だった。毎週、一日だけ後輩たちの指導をしていた。「計算実務」の「応用計算」種目はわたしだけ参加、複利計算や年金現価の計算や開平(平方根を求める)、開立(立方根を求める)、定率法減価償却など、50パタンぐらいも暗記してしまえば、簡単である。ただ、1問30秒で10ケタほど計算しなかればならないので、とっても忙しい。たとえば次のような問題が出題される。開平九九や開立九九なんていうのがあった。高橋先生から教えてもらったような気がする。よくあんな計算知っていたなといま思う、勉強家だった。根室高校の先生でそういう指導のできる先生はいなかった。後に、全道大会の作問委員をやられていた。
 ところで全道大会の応用計算では次のような形式の問題が出される。出題レベルは計算実務検定1級の問題、制限時間は半分。
「100万円を年率5%の複利で預けると、10年後にはいくらになるか。円未満は四捨五入すること」
 数学的には簡単である。式は[1,000,000×(1+0.05)^10]、これを30秒で計算すればいい。当時は8桁の電卓が4万円もした時代である。高卒の初任給2か月分では買えなかった、算盤が計算道具として重要だったのである。女子はこういう計算が苦手だった。計算式を数学的に理解してしまえば、あとは簡単、単なるパターン計算になる。大学受験数学も同じで、そのパターンがおよそ10倍の500パターンある。頭のいい生徒はこれを200以下に集約できる。なるべく脳のメモリーを余計なことに使わないほうがいいのである。肝心な時につかえるエリアが狭くなってしまうからだ。

 年が明けて、2年生の2月に日経協の簿記1級に二人合格した。生徒集会で合格証をもらうのは点数の高い方だから、わたしの名前が呼ばれた。この時は担任の顔を2度も潰してはいけないので、前に出てすなおに受け取った。 もう一人の合格者は後に21歳で税理士試験に合格することになるH瀬である。歯舞中学出身のあいつはよくできた。生徒会副会長にわたしが引っぱりだした男だ、ふさわしいのはあいつしかいなかった。ほんとうは会長職を頼みたかったが、会長立候補の話をもって行っても返事はノーだっただろう。名前が知られていなかった。資格を取ってからほどなく有楽町で税理士事務所を開いている、見込んだ通りの男だった。高校時代は簿記では定期試験でも検定試験でも結果を見ると一度もトップを譲ったことがない。あいつは昆布漁師の息子で、昆布干しの作業の手伝いがあったし、わたしは家業のビリヤード店の店番を毎日していた。どちらも家業を大事にしていた。好い奴と1年生の時に同じクラスになった。2年からは別々のクラスだった。1年の時に同じクラスでなかったら、あいつの気心を知らないから、2年の生徒会選挙に引っ張り出さなかっただろう。先輩の副会長2人に応援演説をしてもらうのだから、それなりの人選の責任がわたしにはあった。

7.<産学共同事業:市民珠算大会>
 珠算に関していうと、わたしが卒業した年に、小学6か中1の生徒が二人全珠連検定試験五段に合格した。駒沢さんと多田さんという名前を記憶している。五段は日商珠算検定を半分の時間で合格するよりもレベルがずっと高い。高橋珠算塾の生徒である。そのご、高橋珠算塾では十段位もでたと聞く。高橋尚美先生の「男子一生の仕事」という情熱の賜物だろう。元々釧路の方だ。20歳くらいで根室で本町大岩米穀店の隣の2階で珠算塾を開いた。根室発の珠算塾だった。小学生の四人に一人は通っていた。花咲街道を挟んで根室信金本店の向かい側。家が近かったので、高橋先生とはビリヤードもよくやった。そちらはわたしが先生だった。(笑) 根室に知人友人を創るには、ビリヤードはなかなかいい手段だったかもしれない。そういう目的でマージャンもよくやっておられ、付き合いの広い人だった。
 わたしは高校2年の時に、中大文学部へ進学した澤山先輩のあと、半年ほどピンチヒッターで汐見町の教室を任された。金曜日だけ曙町の本塾で教える高橋先生と交代して本塾のほうで教えた。高橋先生は「男子一生の仕事」と言い切るほど、熱が入っていたから、指導していると、次第に声が大きくなってしまう。塾生たちはビビッて手が思うように動かない。わたしがいく金曜日はほっとしていた。あの当時高卒の給料が1.5-1.8万円ほどだったが、夕方3時間ほどで8000円いただいていた。ビリヤードの店番もあったので、毎月高卒のサラリーマンの給料くらいお小遣いがあった。高度経済成長のいい時代だった。
 珠算部顧問と高橋先生の仲が悪いという噂があった。珠算部顧問の冨岡先生が「卒業生に塾を開かせて潰してやる」なんて噂がまことしやかにささやかれていた。ところが、担任の冨岡先生から高橋先生の悪口は一度も聞いたことがなかったし、高橋先生も冨岡先生の悪口を言われたことがない。冨岡先生は珠算部顧問で、計算実務を教えていたが、算盤の扱いは素人、苦手だったと思う。計算実もの授業では教壇の前に大きな算盤を載せて、計算の実演をしなければならないのだが、算盤の後ろ側から珠を操作するのは厄介で、時々計算が合わない。わたしは数秒で計算を済ませてしまっているから、冨岡先生の珠の動きを見ている。どこで間違えたかわかってしまう。計算結果が合わないといらいらしている。そんなときに視線が合ったことがあった。カッとなって冨岡先生、チョークをわたしに投げつけたことがあった。大人げないのでよけもせずに胸のところへ当たって落ちた。計算実務の授業が苦痛だったのだろう。わたしが計算実務1級の問題を半分の時間でやることはご存じだったから、バカにしていると思ったのだ。わたしは代わりにやってあげてもいいと思っていつも見ていたのだが、珠算部顧問のメンツもある。いい思い出だ。
(簿記の白方先生は出張で工業簿記の授業ができないときには、わたしに問題プリントを人数分預けて出張していた、「出張でいないから次の時間これみんなにやらせておいて」、クラスのみんなもそれで誰も文句言わない。授業の説明を一番後ろの席で聞いていて、ややこしいところの説明が終わると、わたしのほうを見る、頷くと次に進む、首を横に振るともう一度説明をした。わたしは、2年生になる前に、工業簿記1級の問題集を1週間でやり終えていたから、工業簿記の授業は復習だった。何も言わなくても白方先生はわたしがそれくらいの勉強をしていることをご存じだった。だから、2年生の時に神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。そのときには公認会計士二次試験の受験勉強を始めており、金融機関へ就職するつもりだったから大学進学に興味がなかった。)
 高橋先生は日商珠算検定1級の満点合格になんども挑戦するほどの名手。根室明照高校で珠算を教えていたことがあったらしい。根室高校と根室明照高校、それぞれで珠算の指導に当たっていたから、対抗心はあっただろう。両方の先生のそばにいたのにはわたしだけ、仲が悪いわけではなかった、たんに、疎遠だっただけ。話したことすらなかったはず。
 高橋先生から、あるとき珠算の市民大会を根室高校で開催したいと相談を受けた。わたしが根回しするのがよさそうだから、根室高校側はわたしから珠算部顧問の冨岡先生に話して柔道・剣道道場を会場とすることや準備の段取りを決めた。珠算部員でもないのに、毎年、全道大会に出て貸しがあったから、冨岡先生すぐに動いてまとめてくれた。根室商工会議所主催で、根室高校珠算部顧問と高橋珠算塾が手を組んだ仕事になった。商工会議所の巻き込みは珠算塾側の高橋先生と板野先生が担当したのだろう。こうして根室初の産学共同事業が実現した
 第一回目はわたしが選手宣誓をやった。高橋先生が「選手宣誓」の原稿をもってきて、やれと指示。わたしは「ノー」とは言えないから、選手としては暗算部門だけ出場、あとは主催者側に回った。だから、初回の暗算部門の優勝者はebisuである。読み上げ算は6-10桁を高速で読み上げなければならず、やったことのない根室高校の先生たちには無理だったので、別の珠算塾の板野国雄先生と高橋珠算塾の高橋尚美先生、そして根室高校珠算部幽霊部員のわたしの3人でやった。珠算部長のN村さんは、高橋珠算塾にはいなかったから、板野先生の所へ通ったのだろう。もうひとつ安達さんのやっている珠算塾があった。妹のみどりさんが、根高珠算部で1年後輩だった。運指の綺麗な人が安達さんと同じ学年の後輩にいたが、名前が思い出せない、板倉さんといったかな。
 商工会議所主催の市民珠算大会はわたしが根室に戻ってきてから何度か開かれていた。珠算人口が激減したのでおそらくもうやってないだろう。今年、釧路高専へ進学したM君が澤山先輩の珠算塾で小6のときに3段合格したと言っていた。野球部だったから、中学校では無理、ボールを投げると指が震えて、運指に差し支える。どちらかをえらばなければならないが、大好きな野球を選んだ。かれは野球が好きで、武修館から優れたコーチが来ていた別海高校へ進学するつもりだった。めずらしく文武両道だったから釧路高専への進学を勧めた。大学へ進学への道が残る。豊橋と長岡にある技術科学大学は国立だが、全国の国立高専から優秀な学生を3年次編入で受け入れている。釧路高専で上位1/3の成績なら、進学できる。さらにそのうちの上位1/3なら、大学院へも進学できる。あとは自分の努力次第と言って送り出した。還暦高専生の高木さんが同期生である。高木さんは元釧路市学校教育部長である。ユニークな人だ。かれこれ8年間ほどお付き合いがある。
 根室の珠算人口が激減した。その一方で四則計算(加減乗除算)が満足にできない中1が増えた。分数や小数の計算ができない中1の生徒が3割はいる。小学生低学年で2年間ぐらい習わせたら、四則計算のできない生徒はほとんどいなくなる。毎日15分、1年間やらせるだけでもずいぶん効果がある。根室には五段以上の高段位を取得している女性が十数人残っているはず。もったいない、そういう人たちを講師にして小学校で教えたらいい。梅ヶ枝町2丁目の生徒S君のお母さんが五段位だった。S君は数年前に根室鉱区を卒業している。他の地域では五段位取得者はなかなかいないよ。根室には表に出てこないがこうした人材がいる、人財といった方がいい。根室市の宝だ。根室市教委はそういう人を掘り起こして使ったらいい。

 いま、全国の病院で使われている臨床検査項目コードは日本臨床検査医学会が公表して臨床検査最大手のSRL内にある事務局からインターネットで配信されているが、これは大手臨床検査会社と日本臨床病理学会(当時)臨床検査項目コード検討委員会が5年ほどかけて産学協同の作業部会での検討をへて制定されたものだ。事実上の日本標準臨床検査項目コードである。これは、1985年の「臨床診断支援システム開発事業」構想がベースになっている。臨床検査項目コードを統一することで診断支援システムが稼働可能になる。入社した翌年この構想を書いて、創業社長の藤田さんから予算200億円の承認をもらった。臨床病理学会臨床検査項目コード検討委員会委員長の櫻林郁之助教授を引っ張り出して、大手六社との共同プロジェクトに参加してもらった。櫻林先生には入社後案歳ぐらいで項目コード検討委員会を手伝ってほしいと個人的に頼まれていた。創業社長の藤田さんにに言って手伝いができるように総合企画部への異動を働きかけるのでいいかと相談があった。SRLはもともと臨床病理学会長の河合教授の発案で、藤田さんが始めた事業である。だから、その一番弟子でSRL顧問の櫻林先生の依頼なら、藤田社長は二つ返事でわたしの異動を人事部へ命令しただろう。その時は統合システム開発と予算編成を抱えていたので、お断りした。だが、どこかでお手伝いするつもりだった。「臨床診断支援システム開発・事業化案」がきっかけになって大手六社を巻き込んで実現した。大義名分がなければ、こういう大きな仕事はできないものだ。

 慶応大学産婦人科ドクターたちとの出生前診断トリプルマーカ―MoM値も産学共同プロジェクトだった。これもわたしがコーディネータ。3年かけて妊婦の血液を6000検体ほど集めて、日本標準値が制定できた。最近、第2世代のもっと精度のいい検査にかわった。20年間ほど日本標準の基準値だった。
 こういう産学協同プロジェクトをコーディネートするのは、こうして書いてみると根室高校時代の市民珠算大会へ遡ることができる。高校時代はいろんなことを経験しておいた方がいい

 
 ところで、高橋珠算塾の汐見町の教室を任されていた時に、高橋先生は全珠連の全道の集まりにわたしを連れて行ってくれた。釧路までは砂利道だった、会場は帯広。十勝川温泉一泊のおまけがついていた。当時は混浴で、若くて美人でプリンプリンの巨乳の人が入浴してきた、目が点になり鼻血がでそうだった。あれは天からのご褒美だったのだろうか。(笑)
 


8.<根高ラグビー部創設の経緯>
 高校2年生の時に、明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任してきた。チャンスだと、友人数名にラグビー部立ち上げを相談した。村田先生に部員は集めるから、1年間ラグビー同好会顧問をお願いしたいと申し出ると快く引き受けてくれた。規定で1年間は同好会、様子を見て部へ昇格というのが手順だった。部へ昇格すると部予算が割り当てられる、そこは生徒会計形の一存で決められた。同好会の1年間は予備費から支出したのか記憶にない。明大のメニューでトレーニングしてくれたから、すぐに根室管内の強豪であった中標津高校に勝てるレベルになった。数年前に部員が居なくて廃部になったようだ。
 大学でなにか部活をやった先生が赴任してくるようなチャンスがあったら、種目はなんでもいいから、その先生を担いで同好会、そしてクラブを立ち上げたらいい。指導がよければ道内ならすぐに強豪校になれる。

9.<総番制度廃止の経緯:ヒロシ>
 もうひとつ、だいじなことがあった。総番制度である。2年生ときに3年生の総番グループと衝突があった。3年生の総番長グループの数人が民青に所属していたはず。総番グループが変質しつつあった。北海道新聞には「13対7の決闘」というようなタイトルが躍っていた。2年生13人3年生7人、全員停学処分である。3年生でケガをしたものが病院へ行って警察の知るところとなった。羅臼出身のニックネーム「やすべ」も退学処分。定期テスト前だったが、退屈だろうと思って、毎日行って花札をして12時ころまで遊んだ。ノートは見せたかな?いや、ほしがらなかったのではなかったかな。あいつのオヤジは根室管内で当時一番税金を納めていたが、下宿生活していたあいつは質素に暮らしていた。オヤジにねだればいくらでもお金は送ってくれただろう。やすべは本当は気弱なボンボンだった。高校卒業して札幌の水産関係の会社に就職、その夏に根室へやってきて、二人だけで酒を飲んだ。それ以来会っていない。2-3年前に癌を患い東京の病院で亡くなったと聞いた。会って昔話をしておきたかった。やすべとは3年間同じクラスだった。1年の時に同じクラスで仲の良かったオンネットの天野がいた。かれも総番グループの一人だった。美容師になって札幌で数か所店を開いて優雅にやっていたようだが、店舗を増やしすぎて一度倒産したと聞いた。高校卒業以来一度もあっていない。書くときりがないからこれくらいにしておく。
 2年生の新学期からクラス編成がかわる。商業科はEFGの三クラスだが、一番端のGクラスに問題児が集められる。だからとっても面白いクラスになる。総番長のヒロシとも同じクラスになった、息があった。それ以来、お互いに名前で呼び合う。「ヒロシ」「トシ」である。二人だけで話す機会がよくあった。
 かれに総番長に代々伝わて来た仁義の切り方を知ってるかと訊いたことがある、伝わってなかった。根室高校の総番制度は根室商業時代にできたもので、それが数十年にわたって代々伝わっていた。総番長は商業科という不文律があった。2学年上のY山さんは普通科だったが、プロレスラーのようなガタイ、不文律が不満だった。ヒロシと一緒に明治牧場を横断していた時に絡まれたことがあった。わたしたちが3年のときだから、卒業して2年たっていた。何か用事があって高校へ向かう途中だったようだ。
 5年先輩の総番長は親戚のお兄さん、野球部のキャプテンでもあった。お祭りのときだけ、なんだか怖い顔をして、後ろに眼付きの鋭い不良を十数人従えて、足駄をはいて街中を闊歩していた。高校1年生の時に、代々伝わっている仁義を切って見せてくれた。ヤクザともめごとがあれば、根室高校を代表して仲裁交渉するのは総番の役目、だから相手の流儀であいさつしなければならない。「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうさんにござんす。手前生国発しまするところ…」と立て板に水のごとく言いよどんではならない。文句を間違えたら殺されてもしかたがない、そういっていた。小さく折りたたんだ紙に台詞が書いてあり完全に暗記して、実演して見せてくれた。よほど練習したのだろう。腰を落として構えて右手を出し、映画のシーンを見るような見事なものだった。わたしは「まこちゃん」と呼んでいた。その仁義の台詞が総番のヒロシに伝わっていない。先輩の3年生たちも十人くらい知っていたが、伝わっている気配がなかった。総番制度はすでに中身が変質していた。仁義の台詞を小さく折りたたんで後生大事に持っていたところから推測するに、まこちゃんが伝えなかったのかもしれない。時代の変化を敏感に感じていたのだろう。ヒロシには仁義が伝わっていないようではもういいだろう、総番制度は廃止、グループは解散くらいのことは話していた。2年生に総番を継げるような人材のいないことも二人で話していた。
 根高総番長には権力と責任が伴っており、いざというときには命懸けの覚悟が必要だったが、残念ながら、わたしたちのころはただのワル集団になりかかっていた。そこへ共産党という色の違ったものが1年生先輩たちを染めつつあった。解体する必要は感じていたし、ヒロシとそういう話をしたこともたしかにあった。土曜日に二人だけで高校から歩いて帰ることがあった。
 わたしの記憶はそのあたりまでだが、同級生のA野の説明だと総番長とA野とわたしの三人で廃止を決めたのだそうだ。総番長のヒロシは矢面に立たされたはずだが、あいつは独りで収めてしまった、そういうやつだ、大物。ヒロシは勉強が好きではなかったが、それでも2倍の競争率を潜り抜けたのだから、そこそこ勉強はできた。副番3人のうち2人は大学へ進学している。勉強が好きになれなくても、統率力のあるやつは社会人になったときにそれが武器になる。ヒロシは50代である水産会社の役員になっている。わたしと同じ大学へ進学した副番長の一人であるTはあるテレビ会社の取締役東京支社長だった。総番グループには面白い人材がいたと言っていいだろう。同じクラスでヒロシを支えていたバスケット部のムサシは、しょっちゃんと同じ拓大へ進学した。こいつもいい奴、花咲港のボンボンだった。冨岡先生があるとき「おまえは花咲港駅から自分の地所だけをあるいて帰れる」と言ったことがあった。苦労知らずの人っ子のいい奴だった。でも、奥さんが早く亡くなって苦労した。底抜けに人のいい奴らが周りにたくさんいた。
 下級生に総番にふさわしい人物がいなかったことも原因の一つだった。ただのワル集団なら伝統の総番制度とは似て非なるモノ。あれでよかった。ヤクザ屋さんともめごとを起こすようなはねっかえりも絶えて久しく、全体に小粒になってしまっていた。ヒロシは男気のあるやつ、酒を飲むとときどきはしゃぐ。(笑)

 根室高校生は50年間でずいぶん幼児化してしまった。この数年間、高校生は毎週出されるプリントのたくさんの宿題にあえいでいる。これではまるで小学生ではないか。高校生を見ていると、自主性・自発性が根こそぎになったような感がしている。一部に、自主性が強く自立した生徒を見かけるが、稀だね


10.<根室明照高校生徒会との交流>
 根室高校と私立の明照高校は生徒会も部活も一切交流がなかった。根室明照高校生徒会長の北川さんと話をして、交流をしようということになった。当時もわたしは生徒会会計だったが、両校の調整役ぐらいはできた。決めてきて、生徒会メンバーに話せば、ノーを言う人はいない。そういう経緯で、根室高校生徒会室で一度だけ両校の生徒会メンバーが接触した。とくに何かを決めるわけでもなく、顔合わせくらいなことだった気がする。北川さんは1期だけ根室市議をやったが、前回の選挙では立候補しなかった。
 部活の交流は女子バレーの練習試合を組んだ。明照高校のほうが運動神経のよい女子がたくさんいたはずだから、根室高校が負けると予想していた。ところが結果は明照高校の惨敗だった。わけがわからないので、明照高校バレー部にいた妹に、理由を訊いてみた。「お兄ちゃん、トスを上げると天井が高くて眩暈(めまい)がした」と言った。明照高校の体育館は、教室を二つぶち抜いただけで天井が低くてトス上げ練習できないことを後で知った。運動能力の高い生徒たちが気の毒な環境で部活動をしていた。何とかしてやりたかったが、なんともできなかった。
 後に、根室明照高校が財政的に行き詰って、道立根室西高校になったのはまことに喜ばしいことだった。道立高校だから、根室高校と同じレベルの体育館が整備できる、それでハンディがなくなっただろう。当時の明照高校女子バレー部の部長はいまは親友の奥さん。当時は全く面識がなかった。それでも知っているメンバーが何人かいた。高校が違えば、中学時代に一緒に遊んでも、遊ぶ機会がなくなるのがふつうだった。
 同じ根室の高校だから、年に一度は雑談でいいから集まって話をしようということになったが、3年生のときだったから、交流がその後続いたかどうか承知していない。こういうことは継続することがむずかしい。人が入れ替われば、続かなくなる。どうしたらいいのかわからなかった。

11.<記憶に残る根高の先生たち>
 担任の冨岡良夫先生はまず筆頭に挙げるのが礼儀というものだろう。お兄さんが仕事で中国勤務になったので、高齢の両親の面倒を見なければならなくなり、根室高校を50歳くらいで退職して東京都大田区のご自宅へ引っ越された。そのあと、道路工事の仕事やスーパーマーケットの駐輪場の係をやって、みこまれて、自転車売り場の担当になった。東京で同期会がある都度冨岡先生は出席してくれた。あるとき、手をついて、「申し訳なかった、もっとちゃんと授業するべきだった」と謝られた。自転車売り場の主任になってはじめて仕事というものが分かったとおっしゃった。安物の1.2万円くらいの自転車は勧めない、「3年乗り回して、あるときパイプが腐食して坂を下る途中でぽっきり折れたら、どうします?、お値段相応にできているんです」、そう言いながら、3万円以上の頑丈な国産自転車を勧めるのだそうだ。自分のこどもや孫が、安物の自転車に乗って数年後に大けがしたらと思うと、いい加減な販売はできないとおっしゃっていた。頭が下がった。冨岡先生は三年生の進路相談のときに、釧路日銀支店を受けるように奨めてくれた。学校推薦はできるし、生徒会もやっているので、日銀を受けてみろと言われた。都市銀行に就職して、公認会計士の資格を取るつもりだった。「おまえが都市銀行を受けたら、受けたい同級生が落ちることになる」そう言われて、就職しそこなった。だから、わたしの大学進学は「瓢箪から駒」のようなもの、進学するつもりがまったくなかった、時間切れ、成り行きでそうなっただけ。高卒で日銀就職は嫌だった。冨岡先生のニックネームは「どん太」である。癌があちこちに転移して、その都度手術されていたが、数年前になくなった。
 白方功先生は北見北斗出身で千葉商科大学出だった。簿記の教え方が優れていた。問題集は日商用のレベルの高いものを使って1年分予習してしまっていても、聴くべき内容があった。兵庫県立神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。受験科目を見て無理と思った。わたしたちが卒業してから、母校の北見北斗に戻って、しばらくしてから学校をやめてビジネスを始めたと噂に聞いた。ワインバーで飲んでいた時に製薬卸の営業の人と隣り合わせたことがある。北見北斗の出身だというので、白方先生知っているかと問うと、習ったという。北見北斗がテレビの取材を受けたときに、東京で放映された番組を見た。そのまんまだった。「バッキーしらかた」のニックネームで呼ばれていた。ずいぶん早く亡くなったようだ。
 英語の沢井先生が懐かしい。1年の時に英語を習った。文型中心に授業をしてくれた。すっと頭に入ってきた。定期テストで50問ほど文型問題を出題された。1問だけ間違った、50点以上は二人だけだった。他の生徒たちには、先生の説明が呑み込みにくかったのだろう。低音のいい声で教科書を音読してくれた。卒業して数年後に釧路高専の教授となったときいた。中学生のときに2年半英語を教えてくれたE藤先生は文法的な説明を一切しない人だったから、自分で勉強する癖がついた。中3年の後半になって、一人だけAクラスに編入してもらえた。それまでBクラスだったのである。成績が悪いはずもないのになぜ2年生の時にBクラスにされたのか理由がわからなかった。E藤先生は教科書を3回読み、和訳されたらあとは雑談だけ。変わった教え方だが、2年半はそれがスタンダードだと思っていた。先生によって教え方はまるで違うし、発音もだ。高校2年と3年の時に担当してくれたH先生は、togatherとテゲェアザーと変わった発音だった。1年生の時に発音記号をマスターしていたから、ちょっと気になった。NHK英語講座をソニーのオープンリールテープレコーダに録音して、巻き戻し・再生のために大きなレバーをガチャガチャさせて英語の勉強をしていた。あのレバーは案外丈夫だった。当時はカセットテープレコーダがまだなかった、東京オリンピックの年、1964年のことである。沢井先生は北大出身。中高と4人の英語の先生に習ったが、沢井先生が最高だった。
 35年ぶりに根室へ戻ってきて、数年たったころ、本町の海岸から双眼鏡で国後島を見ていたら、「ちょっと双眼鏡貸してくれない?」と頼まれ、振り向くと山田先生だった。生徒会顧問をしていたうちの一人だ。習ったことがないが、知っていた。「山田先生ですよね、昭和42年卒で生徒会・会計をやっていたebisuです」というと、家へ来ないかと誘われて、そのままご自宅へ。先生は郷土史研究会顧問を長くされており、それまで研究会がつくった郷土史関係資料をたくさん見せていただいた。山田先生のあの資料は誰かが引き継いだのだろうか?貴重な資料がたくさんあった。根室出身の方ではなかったが、お会いしたときに「根室の土になる」とおっしゃっていた。その言葉に胸が熱くなった。
 ラグビーの村田先生はすでに書いた。あと、高校時代には習っていなかったが、中学生の時に日本史を習った柏原栄先生がいる。いまも根室に住んでおり、水晶島出身で北方領土返還運動に携わっている。北方領土返還運動の担い手の一人である岩田先生(一昨年逝去)とは花咲小学校で同僚だったはず。いまも西浜町会長である。黒板に不揃いの大きさで字を書く先生だった。字は一つ一つ丁寧だった。高校のときは倫理社会の先生が用事でいなかったときに、普通科でやった政治経済のテスト問題をもってきてやらせたことがあった。文系と理系のふたつに最後の問題だけ分かれていたが、ちゃんと両方書いた。政治経済は習っていないのだが、北海道新聞の社説と政治経済欄を小4から読み続けていたので、全問正解できただろう。ちゃんと勉強してるよと、メッセージを送ったつもりだった。門閥について柏原先生から質問を受けたことがあったから、2度授業があったのかもしれない。倫理社会の谷口先生が説明した通りに応えたが、間違いであった。辞書に書いてあることと違う説明をした。わざとではなかったが、「谷口先生の説明ではそうでした」と伝えた。柏原先生は光洋中学校教諭時代は歴史を教えてたから、門閥というような歴史に関係する用語の定義には厳格だった。谷口先生は時事問題研究会で幼稚園の幼馴染を煽っていたので、反抗心がメラメラしていたのかもしれない。共産主義を云々するなら、谷口先生には資本論くらい読んでからにしろと思っていた。生一本な幼馴染のFは安田講堂に立てこもって逮捕されることになる。門閥については谷口先生が、「俺そんな説明したか?柏原先生に叱られた」とぼやいていた。谷口先生は中央大学法学部出身、司法試験合格者が一番多い大学だった。当時は東大法学部の次にランクされる難関。校舎が八王子へ移転してからレベルが下がった。SRLの同僚だった加藤が中大法学部だった。大学紛争で東大安田講堂がロックアウト、そのあおりで入試は中止、それで中大法学部へ進学した、家が裕福でなかったから1年間浪人できなかったとは加藤の述懐。奥さんは東大理Ⅲの才女だった。2つ年下の加藤は平成5年11月に43歳で胸部ガンで亡くなった。弊ブログのどこかで書いている。惜しい奴だった。
 写真展で柏原先生の桜の写真を見たことがあり、懐かしくて電話した。東京都内では診たことのない場所だったので、訊いてみたら大阪造幣局の桜だった。名前を覚えておられた。姉のことも母親のこともしっかり記憶されていた。すごい記憶力だ。どなたかのお葬式で2度ほどお見かけしたし、2年前の同期会にも出席してくれた、あいかわらずおしゃれ。いつまでもお元気でいてもらいたい。
 柏原先生の歴史の授業をきっかけに成績が急激にアップしたので、恩人である。頭の中でビリヤード・ゲームを無限居続けられるが、柏原先生の特徴のある板書は、緑色のラシャの上を走る白い球と一緒であることに気がついた。授業の後で脳内に繰り返し再現できた。それを歴史、数学、理科、英語などの好きな科目に応用したら、特に勉強時間が増えたわけでもないのに突然に成績がアップしたのである。それからは勉強がとっても簡単、楽ちん、愉しいものになった。数分間、脳内に展開するだけで人の数時間分の効果があった。

 野沢先生はバスケット部の顧問で、根室出身の先生だった。教えてもらった科目は「商事」、2年生の授業だったが、古い黄ばんだノートをもってきて、おもむろにそれを板書する。お酒が好きな名物先生だった。とっても人気があり、生徒たちはみんな「しょっちゃん」と親しみをこめて呼んでいた。しょっちゃんはわたしが大学を卒業して根室高校に戻ってくることを期待していた。もどってきたら、しょっちゃんの2代目だ。産業用エレクトロニクスの輸入商社へ中途入社したときに、道立高校の採用試験も受けていた。翌年、5月に留萌高校赴任の打診が来た。来週赴任してもらえないかという。入社早々社運を賭けるプロジェクトを社長から5つ任されていたから、放り出すわけにはいかなかったので、お断りした。高校の先生になってもどってきていたら、しょっちゃんと愉しく酒が飲めただろう。それはそれで楽しい人生選択。(笑)
 合掌。

 根室高校の「時代(1964-1966)の当事者」としていくつか証言を書いた。誰かが書き残しておかなければ消えてしまう。消えていいのだが…


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#3642 根室高校 総番制度の終焉の事情 :1966年の人間模様 Nov.19, 2017 [90.根高 総番制度]

<更新情報>
11/20 朝9:15 <余談:複雑な人脈、意外な場所>追記
11/21 朝9:15 当時の商業科と大学進学率


  日曜日、今日は3時ころ20分ほど大粒の雪が降り、夜になってまた雪が降っている。最低気温は2日続けてマイナスになった、いよいよ冬だ。あなたはタイヤ交換しましたか?ebisuは今週中に替えなくては…あたふた。

  根高総番制度は対外的な必要があってできた制度であることを最初にお断りしておく。それなりの格式があり、総番には人格、度胸、覚悟、腕っぷしなど、要求されるものが多い。一つだけ絶対的な資格要件があった。根室商業時代にできた制度だから、共学になり根室高校となってからも総番長は商業科であることが外せない要件であった。伝統というものはそういうところにこだわる。
  総番は多少やんちゃでも性格が温厚で統率力に秀でていなければなれない。周りが統率力に優れた者と認めることも要件である。与えられた権限は、重い仕事と責任を伴っていた。必要があってできた制度だが、伝統を受け継ぐ人材が枯渇したために廃止せざるを得なかった。そのあたりの事情を具体的に述べていくつもりだ。

  根室高校は明治39年に北海道庁立根室実業学校として設立され、大正4年に根室商業学校へ、そして昭和25年に男女共学となり北海道立根室高等学校となったから、根室商業の期間が34年間ある。
  総番制度がいつできたのかはわからないが、根室商業の時代からの伝統であるようだ。大正6年生まれの根室商業の大先輩である長身の歯科医のTa先生は、線路に立って汽車をとめて乗った「豪傑」。まだビリヤード台に背が足りない小学生低学年のころから、よくお相手をさせてもらった。往時は根室商業の学生だからとそういう行為を大目に見てくれたそうで、おおらかな時代、根室商業卒は根室のエリート層だった。根室商業は男子校だったからいわゆるバンカラの校風、戦後に男女共学になっても昭和40年まで男子は詰襟・黒の学生服に頭は丸刈り、制帽着用と校則で決まっていた。全員丸刈りの坊主、信じられますか?中学三年生の冬休み明け、わたしもはじめて丸刈りの坊主にしました、頭が寒かった。みんなお互いの頭をみて大笑い。「おまえ、絶壁だ」「形いびつ」など勝手なことを言いあってしばし大騒ぎ。観賞にたえる形の良い坊主頭はなかなかないもの。(笑)

  数名の登場人物を一部名前で、ほとんどはイニシャルで書こうと思う。同じイニシャルの場合があるから、母音をつけたして区別したい。51年もたったのだから、関係者にご迷惑は掛からないと思うが、いま具体的な名前が推定できる形で残しておかないと根室高校の総番制度がなんであったのか、どうして廃止されたのか後輩たちは知るすべがなくなるだろうから、記録としての意味をもたせたい。

  ebisuは根高昭和42年卒業組、親戚のお兄さんに"まこちゃん"がいる。5歳年上で根室高校野球部のキャプテンであった。夏の金刀比羅神社のお祭りの時だったと記憶するが、足駄(歯が10cmほどある高下駄のことをアシダと呼んでいた)を履き制帽をかぶって家の前の歩道を歩いてきた。数歩下がってトッポイ(不良っぽい)のが10名くらい歩いてくる。そのときは"まこちゃん"が根高総番長だとは知らなかった。いつもと雰囲気の違う怖い顔をして歩いてきたので、声をかけられなかった。年に一度、総番グループのデモンストレーションだったのかもしれない。隊列を組んでいたのだが、こういうときはメンバーは総番の数歩後ろを歩くのがルールだったようだ。
 ビリヤードの常連客の一人のやくざの親分がいた。使いっぱしりで来た若い衆に、「ここは〇〇さんの店だから、おまえたちは出入りしちゃいけない」と言ったのを覚えている。Taさんは幹部4人だけ出入りを許していた。言葉使いはとてもよかったし、声を荒げるようなことは一度もなかった。常連の皆さんとはビリヤードのお相手をしたが、このTaさんだけは一度もわたしとゲームしなかった。当時はなぜだかわからなかったが、いまはわかる、あれはわたしの将来を考えたTaさんの配慮だった。小学生のころからビリヤード店で店番をしながらお客さんのゲームの相手をして、仕事の合間に北海道新聞の「卓上四季」や社説や1面の政治経済欄記事を読みふける「トシ坊」を一人の人間として見守ってくれたいたのだろうと思う。根室に帰ってきてから、おふくろと昔話をしていたら、高校生の時に「Taがおまえになんかあれば言ってくれ」と言っていたと笑った。家業を手伝っていたし、1年間ほどは頼まれて珠算塾のバイトもやっていたので、小遣いは多かった、それでスナックに何度か出入りした。スナックのお姉さんたちは高校生だとわかっても野暮は言わない、面白がって相手してくれる。そこそこの広さの店でビールを飲んでいたら、端っこにいた威勢のよさげな若い衆から因縁をつけられた。相手にしないで放っておいたらグチグチいってしつこい、喧嘩になりそうだった。喧嘩を買おうか買うまいか迷っていた(そういう時は買わぬがいいのである)。そこへ顔見知りのTaさんの組の若頭のKirさんが来た。入ってくるなり雰囲気を察して「トシ坊、どうした?」と訊くので、「カウンターの向こうの...」と説明が終わらないうちに、その人のところへ行って一言二言やりとりがあって、おとなしくなった。「話はつけたから」とKirさん、高校生がスナックへ出入りしていると、そのうちトラブルに巻き込まれる。やくざの若頭がそうそう素人の、それも高校生の肩をもてるわけがない。キップのよいKirさんに迷惑をかけてはいけないから、「夜の社会科見学」はそれで終わりにした。若頭から親分のTaさんに報告くらいはあっただろう。
 1960年代後半、血の気の多い若い衆や女工さんがたくさん出稼ぎに来る、根室の町は若いエネルギーで沸騰していた。昔はやくざ屋さんと元気のよい根室商業の生徒がもめ事を起こしたこともあったようだ、酒を飲んで酔っ払った勢いで喧嘩が始まる、相手はヤンシュウかもしれないし、やくざの若い衆かもしれない。根高に総番制度の必要だった理由がよくわかった。やくざは顔(メンツ)を大事にするから、根室商業の代表である総番がやくざのお作法に従ってきっちり挨拶しないと収まらないのである。学校長も警察も無力。

  根室高校へ入学してから、まこちゃん本人から総番であったことを聞いた。そのときに小さく折りたたんだ紙を出して見せてくれた。それには、セリフが書てあった。
 「お控えなすって、さっそくお控えなかって下ってありがとうござんす。てまえ生国発しますところ、…」

  じっさいにやって見せてくれた。左手を後ろに回し、右手を前に出して腰を落として一気にセリフを言う。歯切れよくよどみない見事なものだった。先代の総番からメモを引き継ぎ何度も何度も練習したという。どうしてそんなことが必要なのか尋ねた。根室高校生がやくざとトラブルを起こしたときは、総番がやくざと交渉しなければならない、だからやくざの挨拶の台詞はしっかり覚えなければならない。台詞を間違えたら殺されても文句は言えない、そう言い切った。あの時代はそこまでの覚悟がなければ総番を引き受けられなかったのだ。だから、その責を持たなくてよいメンバーは一歩下がって歩く。修学旅行で他の学校と同じ列車に乗り合わせた時はそれ相応の「挨拶」をするのは副番の役割。対外的な面で総番は根高を代表しなければならぬ仕事があったのである。もちろん、学校内の統率でも。総番の責任の重さをメンバー全員が知っていたから、総番には敬意を払った。

  わたしは根高へ入学した年の夏に足駄を履いて通学した。身長174cmあったから、当時は大きいほうだった。足駄を履いたらさらに10cm以上高くなる。高1で足駄を履く者はほとんどいない。当然、上級生の番グループから眼をつけられ、ちゃんと呼び出しがある。わたしにも上級生3人から呼び出しがあった。生意気だと殴られるのだが、たいしたことではない、口の中が切れる程度の軟(やわ)なパンチを数発食らうだけ。翌日も足駄を履いて登校する。やるだけ無駄、あきれて二度目の呼び出しはない。二度目は危ないことをなんとなくわかっている。

  上の学年の総番グループとわたしたちの学年の総番グループが引継ぎを巡って抗争したことがある。13対7の喧嘩があり、北海道新聞の報ずるところとなった。「13対7の決闘」というようなセンセーショナルな見出しだった。7人しか集まらなかった3年生がぼこぼこにされて4人怪我をしていて病院へ行ったものだからばれたのだ。顔面数か所が腫れ上がったり、青あざになっているだけでたいしたことではなかった。あれは初冬で処分の出たのがテストの直前だった、関係者全員一週間の停学。羅臼のAbが下宿していて、学校にいけなくて寂しいというので、毎日あいつのところへ行って遅くまで花札をして遊んだ。テスト勉強はふだんもほとんどしないのだが、Abが「勉強しなくて大丈夫か?」と心配していた。毎日授業が終わった後数分黒板に書かれたことを頭の中に再現するだけで覚えられたから必要なかった。小学生の時から家業のビリヤード店を毎日2-3時間手伝っていたから、夏休みや冬休みや春休み以外は勉強する時間があまり取れなかった。珠算塾も高橋先生に頼まれて一年間ほど汐見町の塾を担当していた。アルバイトであるが、ビリヤード店を手伝って小遣いに不自由しなかったからバイトの必要はなかった、恩義に応えたかっただけ。生徒会会計もずっとやっていたが、こちらは3年生になってからは指名した後輩Haに任せた。ようするに時間を有効に使うしかなかった。だから、集中力を上げて授業に臨み、授業の合間の10分間を使って数分脳内に黒板に書かれた事項を再現して復習を済ませていた。3か月間は記憶が維持できたから、試験前はざっと教科書を見て黒板に書かれた事項を思い出すだけ。
  花札三昧の一週間で退屈しのぎができたからAbは喜んだ。あの時も科目の2/3はクラストップだったから、Abが「ほんとうなんだ」とあきれていた。冗談だと思っていたのだ。Abは三年間同じクラス、昨年癌で亡くなった。15年前のいまころ根室へ戻ってきてから一度も会っていない。昔話がしたかった。

  総番のKoは練習のきつかった野球部員、高校2年4月のクラス替えで一緒のクラスになった。2年G組は個性の強い生徒が何人もいた。扱いにくい生徒はG組に集めるというのが当時の学校側の生徒管理の方針。だから総番はGクラスと決まっていた。T山は三年間ずっと同じクラス、テレビ「11pm」に何度も出た女傑、美術部長。アンダーグラウンド業界では有名人、渋谷にビルをもっている。Kaは高3の9月に学校を中退して「ゴルゴ13」で有名な斎藤タカオの一番弟子になった劇画家。Diは社会人劇団で全国準優勝、G組には個性的で一癖あり面白いやつらが集まっていた。いや、よく集めてくれました。まじめな生徒も1/3はいました、その割合がとってもいいクラスだった。
  Koとは最初から妙に気があった。あいつと俺には似たところがある。自分の損得では動かないところだ、フィールドは違っていたがやるべきことがあれば敢然と損を覚悟でもやる、だから周辺に人が集まってくる。意識をしたことはなかったが根室高校の校訓である「敢為和協」(根高ホームページ参照)の「敢為」の2字を体現していた。腕っぷしが強いだけでは根高の総番にはなれない。大きな権限は仕事の責任とセットだから、だれでもできるわけではない。上級生と同期が認めなければなれない。Koは別格だった、なにより統率力がある。副番が3名いたが三人とも「格上」と認めていた。三人の副番のうち二人は大学へ進学している。一人は前回のブログで登場した同じクラスのMだ。もう一人はebisuと同じ大学で、後にあるテレビ局の取締役東京支社長をやった。静かな男だが、たまにぎらっとした眼付をすることがある、本人は気が付いているのだろうか、Tuも統率力と負けん気でのし上がったのかもしれぬ。当時の商業科は3クラス、定員150名で競争率は2.2倍くらい、そのなかで四年生大学へ進学したものは10名足らずだから7%未満(学力はあっても当時は、根室から東京の大学へ進学させるには経済的な負担が今よりずっと大きかったので、大学進学を断念して、地元に就職した者が少なからずいました)、そのうちの二人が副番である。振り返ると、丸刈り頭髪校則を改めることと総番制を廃止するという大仕事をするために人材がそろっていた。天の配材の妙、必要なときに必要な人材が見事にそろっていた。先輩たちと後輩たちを眺めても、これらふたつの仕事はわたしたちが担うべき仕事であった。総番制をそのまま残したら、仕事や責任の自覚のないただの不良集団と変わり果てただろう。同期にもそういう動きがあった。それを抑えきったのが、総番のKoと三人いた副番のうちの二人だ。場外から手伝ったのが、Aoとわたしということになる。Aoもわたしも、関わらざるを得ない個人的な人脈と事情を抱えていた。これだけ彩(いろどり)の異なる人間が集まって、総番制廃止をしたのである、いやせざるを得なかった。

  Koが42年の3月下旬に突然家に来て、「一緒に代ゼミへ行こう」とわたしを誘った。あれがなければ、わたしは根室に残って家業を手伝いながら公認会計士二次試験を受験する道を選んだだろう。総番のKoは進路変更の恩人である。誘ったあいつは大学へ行かずに数年東京で暮らして根室へ戻って仕事に就いた。誘われたわたしはそのまま東京で大学、大学院へと進学することになった。人の縁というものは大事にすべきだ。だれが人生の分岐点で導いてくれるかわからない。

  1年生の時に授業に手抜きして雑談・将棋の自慢話ばっかりする数学のO先生とテストの回答のことでもめたことがあった。教卓を挟んで、テストの回答が間違っているので話し合ったが、埒が明かない。ふだんからいい加減な授業をやって面白くなかったし、自分のミスを認めようとしないのでカチンときて、「なに!」と声を荒げたらそれまでざわついていた教室が水を打ったようにシーンとなった。ここで殴れば怪我をさせるし、退学処分になる。こんな教師と刺し違えるのはごめんだと、一呼吸もしないうちにスーッと興奮から覚めた。踵を返して席に戻った。O先生は殴られると思って慌てて眼鏡を外した、速かったね。休み時間にAbが、「危なかったな、殴ると思ったよ」と心配してくれた。ふだんはいたって温厚な性格。

 2年生になってから、英語の先生が北大出身の沢井先生からH先生に変わった。この人の授業がひどかったのか後に釧路高専教授となった沢井先生の授業が素晴らしかったのか、雲泥の差、しかも手抜き、反省を求めて3回授業をつぶした。学生運動で「造反有理」という言葉が流行る2年前のことだった。「体育館見てきます」と宣言して教室から出ていく、バスケットボールをもってきて、「みんないくぞ!」と声をかける。Koが「オー」と応じて一緒に廊下を走り出す、続いて日和見していた同級生が立ち上がって体育館へ向かう。総番長のKoが席を立たなけりゃ男子の1/3はついてこない。
  H先生はこの件で「授業中に体育館で生徒を遊ばせる先生がいると」校長から叱責を受けた。ちゃんとした授業をしてくれたら、こんな嫌がらせはしない。しっかり教えてくれる先生にとってはebisuは品行方正ないい生徒だった。

  一年生の時に生徒会会計をやっているNa先輩から指名されて生徒会会計になった。当時の会計は部活や文化祭の予算配分を任されていただけでなく、帳簿の記帳もしなければならないし、決算業務もやらなければならないので、商業科3クラス150人のなかで検定試験で簿記がトップの生徒の指定席だった。2年になるとNa先輩から、「ebisu、お前が予算配分の折衝をやれ」と任されてしまった。本当は先輩の仕事であるから、わたしに任せてトラブルがあれば先輩の責任となる、思いっきりの良い先輩だった。ありがたかったから、活動状況を調べて予算折衝に備えた。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、個別に予算配分案を示す、前年の活動を踏まえてやるわけで、部長は3年生で上級生である。公平にやればいいだけだが、コミュニケーション能力が要求される。納得しない部長だっていても不思議ではないからね、相手はすべて上級生。学校内では財務大臣並の権限を握っていたのが当時の生徒会会計。これが社会人になってからずいぶん役に立った。2社で入社直後から予算編成の責任者を任されたが、高校生徒会での経験があったから余裕でできた。売上40億円規模の輸入商社と、当時売上300億円の国内最大手の臨床検査センターの予算編成を入社して間もなく任された。

  2年生は修学旅行が最大のイベント、当時は飛行機ではなく東京まで汽車でいった。東京まで28時間の列車の旅。11泊12日だが、車中泊が2日間。修学旅行はいいが東京へ丸刈りの坊主頭で行くのはみっともない。生徒会に拠点ができたので、校則を変える算段をした。仕事は差し建(段取り)が結果を左右する。校則改正は全校集会で採決が必要だった。校長が弱いのはPTAだから、そこから崩して全校集会にもっていくことにした。三年生は修学旅行がすんでいるから、関係なしと無関心派になってもらってはことが成就しない。生徒会内部から固めた。やりたいことを副会長の二人に説明すると、「よし、ebisuやってみろ」と任せてくれた。副会長のFuさんは室蘭税務署長で退職。もう一人のHaさんはヤクルト釧路支社長だったと噂に聞いた。
  髪は身体の一部、それを校則で丸刈り一本に決めつけるのは人権侵害だし、戦後という時代にそぐわない。そういう論調のアンケート用紙をでサインしてガリを切り、謄写印刷。生徒を通じて保護者へ配布。生徒会メンバー全員が手伝ってくれた。アンケート結果はこちらの予測通り、校則改正に賛成反対の集計をして全校集会を開く。すんなり校則改正へこぎつけた。修学旅行3か月前、何とか間に合わせた。同学年の男子は長髪で修学旅行に行けると大喜び。
  
  Koに仁義の台詞は伝わっているか訊いたことがあるが、伝わっていなかった。たぶん、一つ上の先輩たちも受け継いでいない。統率が取れていなかったのは総番長の仕事と責任の自覚がないからだろう。下の学年も小粒なのばかり。ワルはいたけど、Koのような器の大きい者がいなかった。限界だったのだ。共産党のAoとわたしとKoの三人で相談して決めたとAoが言うが、そのあたりの記憶はあまりない。Koとは阿吽の呼吸でやっていたからだろう。自分の利害は度外視だから、「やるぞ!」と言えばKoは「おう!」と応える、いつもそんなもの。案を煮詰め相談したのは三人でも、総番制度を廃止したのはKo一人の仕事だ。続けたかったワルが何人かいたはず。Koはよくやった。副番二人がサポートしたから体制が決したのではないかと思う。テレビ局の東京支社長をやったTuは昨年の同窓会で、Koに「格が違っていた」という意味のことを言っていた。Koはなりたくてなったわけではない、副番三人が格の違いを認めたから総番となり、そして数十年続いた根高伝統の総番制度を廃止した。大したものだ、好い友人が身近にいた。

  統率力に優れていたKoは水産会社で働いて取締役になった。勉強だけではないが、されど勉強。たくさん見てきたが、勉強のできる奴は少なくないが、統率力に優れた奴は滅多にいない。社会に出た時に統率能力にすぐてている者はそれを武器に世の中を渡っていける。統率力のある者の周りには自然に人が集まってくる、人間的な魅力があるからだろう。

<余談:複雑な人脈、意外な場所>
 共産党の青年部に「民青」(日本民主青年同盟)とのかかわりを意図的に省いた。1年上の総番グループ数名が共産党の専従のところに出入りしていた。数年前に共産党市議をやめたSさんが専従だった。総番制度廃止に同級生の友人である共産党のAoが出てくるのはそのあたりも関係している。あいつは2学年上の総番グループに兄弟を通じて人脈をもっていた。わたしは一つ上のグループ数人に個人的な人脈があり、一緒に遊んでかれらの人柄をすこしは知っている。
 おふくろがやっていた居酒屋「酒悦」のお客さんに道庁勤務の組合関係者がたくさんいた。その中のKakさんから誘われて、彼の家で餅つきしたことがある。あれは1965年、矢臼別演習場での民青主催のキャンプがあった、キャンプが大好きだったのでKakさんからそれに誘われて参加した。その折に集合写真を撮ったのだが、そのネガは現像に回したら消えていた。1枚だけ消えていたのである。全道から参加したメンバーが写っていた。ネガには番号がついているから1枚抜けたらすぐにわかる。自分の引き伸ばし機をもっていたから、フィルム現像だけを写真屋に出して、引き延ばし作業は自分でやっていた。緑町三丁目にあったその写真屋さんはとっくにない、だから書ける。公安警察もなかなかやるもんだ、それがあってからはキャンプ参加をやめた。ずいぶん間抜けな情報活動だったから、バレバレ、二度目はない。大きく引き伸ばしてネガを戻しておけば気がつかなかった。相応のお金を支払えば、その写真屋が引き伸ばしをやったかもしれない。
 当時、根室には私立明照高校というのがあった。Kitさんが生徒会長だった。三年生の時だったと思う、彼と話して生徒会同士のコミュニケーションをはじめた。同じ根室市内の高校同士だから、親睦を深めようとしただけの話で、生徒会同士数名で一度話し合いをした。興味があったので女子バレー部の親善試合を組んだ。中学時代は同じバレー部に所属した友達同士が、高校では二つに分かれた。どちらかというと明照高校のほうへ運動神経の良いものが集まっていた。ところが明照側が惨敗した。やってみなければわからぬもの、意外な結果だった。原因は普段練習に使っている体育館の天井の高さだった。明照高校は大徳寺境内にあり体育館が狭く天井が低かった。教室3つ分くらいをぶち抜いて作ったような体育館、天井が低くトス練習ができない。根室高校の体育館でトスを上げたら天井が高いので頭がくらくらしたという。感覚が違ってお話にならなかった。運動する環境の差が大きいことを思い知らされた親善試合だった。生徒の側から明照高校体育館新設運動を起こすというような発想は残念ながら私も含めて関係者のだれにもなかった。未熟だったのだ、やるべきだったと当時を思い出しながら反省。きわめて穏健な親睦に限定された生徒会同士のコミュニケーションだった。kitさんも異論はないだろう。当時の明照高校生徒会長は9月の市議選に再立候補しなかったKitさんである。
 民青のキャンプの一件があったから、公安から根室高校学校長へ「連絡」が行っていただろう。
 3年生の副会長から、応援演説をやってやるから、おまえが会長に立候補しろと言われた。その旨生徒会顧問へ話したら、生徒会会計をやっているから駄目だというヘンな理由で拒否された。じつは校長が強硬に反対していた。危険人物視されていたようだ。過大評価だった。相手が校長だから喧嘩を打ってもよかったが、間に挟まれた生徒会顧問の先生が説得できなかったと窮地に立たされる。会長でなくても生徒会は動かせるし、実際に丸刈り校則改正は生徒会会計でもやれた。あとはもっとやりやすいように段取りをすればいいだけ、ebisuは柔軟に対応した。立候補をとりやめを決意、1年生のときの同じクラスの友人Haを説得して副会長へ立候補させ、事情を話して先輩の副会長お二人に応援演説をお願いした。快く引き受けてくれた。わたしが立候補しなかったので、オサムが会長になった。わたしは生徒会で一番の古株、事情を知らぬオサムはしばしば自分の意見が通らないことがあったが、わけがわからなかっただろう。しばしば学校側について孤立していた。ガタイのいいオサムは中学時代相撲部、たった一人の相撲部で、褌を占めて鉄砲(突っ張り)の稽古に余念がなかった。だから、生徒会での孤立もなんてことはなかったのだろう。Koともそうだが、オサムともお互いに名前で呼び合う間柄だ。根室に戻ってきてから、テニス部だった同級生の女子Akのやっているスナックで数人の飲み会があった。Akからebisuさんも来ませんかと言われて参加した。オサムも来るという話なので「オサムは何時ころ来るの?」とAkに訊いたら、同席していた同級生のSが「生徒会長を呼び捨てするとは何事だ」と怒った。偉そうに言うので、「オサムが来たら訊いてみな、あいつも俺を名前で呼ぶ」と黙らせた。30分ほどしてオサムが来たので楽しく飲んだ。
 あいつの家は鮭鱒の漁師、リッチだったから高校3年の時に16段変速のロードバイクを買ってもらった。アナログのスピードメータがついていた。乗ってきたその日に、「オサムいい自転車だな、貸せ、一回りしてくる」というとカギを渡してくれた。ふつうは貸さないよ、買ってもらったばかりだし、学校に初めて乗ってきたのだから。根室高校前からセブンイレブンまでの直線は緩い下り、そこを思いっきり飛ばした、前をダンプが走っていた。メータが60kmを超して70に近づいたとたんに赤い光が目に入った。T字路でダンプがブレーキをかけた。タイヤが細いから急ブレーキをかければ滑ってダンプカーの下に飛び込むことになる、瞬間に身体を右側に倒してセンターラインを越えてカーブに突っ込んでいた。反対車線から車は来てなかった。来てたら即死、オサムは新品で載ってきたばかりのロードバイクをお釈迦にするところだった。気のいい奴で光洋中学時代あいつは隣の9組、英語の授業は同じクラスだった。
 副会長に立候補してもらった(高1の時だけ同じクラス)Haは短大卒業の翌年税理士試験に合格して、東京有楽町でずっと整理士事務所を営んでいる。四年制大学なら3年次税理士試験合格だから、とても優秀なやつだ。わたしの眼鏡に狂いはなかった。昆布漁師の息子である彼は夏場は家業の手伝い、家業を手伝っているところがわたしと似ていた。そんなに優秀でも簿記検定では3年間ずっとわたしの後塵を拝し続けた。高校時代は一度もわたしを追い越さなかった友達思いのいい奴だ。(笑)


  三人で新宿でパンチボールを叩いたエピソードが載っている。
*#3641 先生、ストレッチのし方教えてください!にびっくり Nov. 18, 2017


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#3389-2 総番制度の終焉と3年G組の役割 Aug. 10, 2016 [90.根高 総番制度]

<余談:団塊世代の高校同期会>
 神輿の先導役を毎年やっているK浦と神社境内で立ち話した。9月3日の高校同期会は参加55名、東京から16名ほど来るという。懐かしい顔に会えそうだ。同期は7クラス350名だったから、1/7が集まる。地元に残っている者は半数の参加だそうだから2割強の80名くらいがいるのだろう。高校を卒業してから、8割がふるさとを離れたということ。そういうことが今も続いているのですから、根室の人口が減るわけです。


<余談-2:総番制度という伝統>
 昔、根室高校には総番制度がありました。団塊世代よりも5年先輩の総番長は親戚のお兄さん、野球部のキャプテンでした。お祭りの時には、10人ほど後ろに従えて闊歩していました。総番と並んで歩くものはいません、一歩下がって後ろからついていきます。権限と背負っている責任が大きかったので、誰もが認めていたのでしょう。統率がとれていました。
 高校生のときに、その人から「仁義」のきり方を見せてもらいました。「お控えなすって、早速お控えなすってくださってありがとうござんす、手前生国発しますところ・・・」、右手を前に出し、左手を後ろに回して、型と台詞が代々引き継がれていました。小さく折り畳んだ紙切れは代々渡されたものだったようです。昔は、町のやくざとの揉め事があると、総番長の出番です。台詞を間違えたら、殺されたって文句は言えないと言ってました。総番長になるのは覚悟のいることだったのです。生徒会長よりもずっと責任が重かった。あの紙切れを卒業した後ももっていたということは、後輩に引き継がなかった可能性があります。責任が軽くなれば、権限も軽いものにならざるを得ません。
 団塊世代の1年先輩のときにはすでに型がなくなっていました。同期の総番とは仲がよかったので、仁義の仕方を受け継いでいるかと2年生のときに訊いたことがあります。伝わっていませんでした。下級生には総番にふさわしい人材がいなかった。それで、相談して総番制度を廃止しました。A野と三人のプロジェクトだった。当事者は総番長のK泉だけですから、彼が決断しなければならなかった、男気があって偉かった。20人ほどの番長グループには総番制度の廃止に反対の勢力もありました、Kはたいへんだったはずですが、やり抜いてくれました。先輩たちを含めて人脈や複雑な事情がありました。A野は地元でずっと共産党でがんばっています。異色のトリオだったからこそなんとかなったのです。これだけで小説が一つ書けそうです。
 2年生の時に、「根室高校生は丸坊主にすべし」という校則の改正をしました。いまから見るとおかしいでしょう、でも丸坊主にしないと根室高校へ入学できなかったのです、わたしも入試直前の一月に丸坊主にしました。
 丸坊主・校則改正は2年生のわたしの発案で段取りも生徒会の先輩たちから任せてもらった。言いだしっぺのおまえがやってみろということだったのでしょう。会長のSさんも、副会長のH谷さんとF堂さんも快く賛成してくれました。ガリを切り、輪転機を回してアンケート用紙を作成し、学校側の弱みであるPTAにアンケート調査を実施、その結果を集計して、全校集会を開き、校則改正を実現。修学旅行のときには髪を伸ばして東京・京都へ行きました。3ヶ月前でした。
 勝つ段取りをちゃんとすれば、ことはそれほど難しくありません。段取り=戦略が7割、残り3割は何があってもたじろがないことです。
 わたしたちがやらずとも、校則はいずれ後輩たちが変えたでしょう。だが、総番制度だけは型が崩れたまま残してはいけないものでした。総番制度にはもともと厳しいルールがありましたが、1年先輩たちのときにはそれが崩れてしまっていました。ただのワル・グループでは、百害あって一利なし、残しておく意味がないのです。しっかり、伝統が受け継がれていたら、総番制度はいまもあったかもしれません。あれはあれで、効用もあったのです。
 副番が3人いました。二人は大学へ進学し、一人はあるテレビ局の取締役になりました、おとなしいけど目に凄みがあるんです。大学が同じだったので、東京の同窓会のあと二人だけで銀座で飲んでから、もう二十年ほど経ったような気がします。人材がそろっていて楽しかった。異色の人材が手をつなぐと思いもかけない結果が生まれます、そういうことを高校時代に経験できたのは幸せなことでした。

 ユニークな友人が何人もいるので、「勉強だけではない」というのはよくわかるんです。総番長は勉強はしませんでしたが、統率力に優れていました。でも、昔は根室高校に入学できたのは同期の三人に一人だけでしたから、入学できただけで、なかなかの成績だったのです。当時の商業科は3クラス、150人の定員で、競争率は2倍を超えていました。だから、ワルでも上位1/3に入っていないと根室高校へは入学できませんでした。わたしを東京へ誘ったのは総番のKです、彼がいなかったらいまのわたしはありません。「ebisu、一緒に東京へ行こう」、あいつのこの一言がなかったら根室から出ませんでした。高卒でそのまま勉強して地元で公認会計士くらいにはなっていたかもしれません。公認会計士が必要な会社なんて根室では根室信金ぐらいなものでした。
 一人、高校1年のときに中退して、銀座で飲食店2店のオーナーになったT木君がいます。中学時代は別の学校で、1年生の時には別のクラスでしたから、まったく面識がなく、1年足らずの在学中の記憶がありません。だから「君」をつけて書いています。でもなかなかの奴であることは、東京でKの紹介であったときにわかりました。銀座のお店はひとつは高級店でしたから一度も顔を出したことがありませんが、もうひとつのお店は数回行ったことがありました。T木は在学中は総番長になるKとつるんでいました、中学時代からのポン友だった。高校中退して、東京に出て、銀座で働き、お店を持つにはそれなりの出来事がいくつもあったでしょう。それを乗り切るパワーのある奴であることは、一目見てすぐに了解できました。家業のビリヤード店を小学校時代から高校卒業までずっと手伝っていたので、さまざまな職業の大人と接して、人を見る目が自然に磨かれたようです。
 慥かに、「学力だけではない」のです。喧嘩が強いだけでは人がついてきません、根っこに人の信用と覚悟がいるんです。三つともあったら社会人としては「鬼に金棒」でしょう。総番グループは「玉」が3割、「カス」が3割、どっちつかずが6割でした。6割には人っ子のいいのもいました。羅臼のボンボンのA部、美容師になって一時は数店舗の経営者になった温根沼のA野、副番の一人M蔵も花咲港のボンボンで人っ子のいいやつでした。
 人生の大半は高校卒業までの生き方で決まったように感じます。高校卒業までに「性根」が育ってしまうんです。その時期に曲がってしまうとなかなか直らないし、直せないものだから、若い人たちは高校卒業までにしっかりした生き方の基礎、「性根」を鍛えてください。
 どんなやつでも本気で自分を変えようと願えば変われます。たまたまその時期に性根が曲がって育っても、決してあきらめず、自分の性根をまっすぐにする努力を怠らないでください。神様がそうするように、どこかでそういうあなたの姿をあたたかく見ている人がいます。


<余談-3:根高ラグビー部創設の思い出>
 新任の村田先生が明大ラグビー部のご出身であることがわかりました。すぐに3人ほどに声をかけて、ラグビー同好会結成を持ちかけました。必要な人数をそろえられそうなので、村田先生に顧問になっていただけるか伺いました。人数はそろいそうです、規則があり、いきなりクラブにはできないので、1年間同好会として活動してもらえば翌年には責任を持ってクラブへ昇格させますと約束して引き受けていただきました。明大ラグビー部のトレーニングメニューを持ち込んでいただいたので、すぐに強豪校の一角である中標津高校に勝てるようになりました。翌年、約束どおりにクラブへ昇格の約束を果たしました。
 当時の生徒会会計は国で言うと大蔵大臣のような存在で、権限が大きかったのです。もちろん仕事の責任も大きかった。予算・決算の両方を単独でやっていました。手書きで帳簿をつけていたのです。2年先輩の女性が作成した帳簿は、字が実に丁寧できれいでしたから、わたしの字は恥ずかしかった。N野先輩の字があまり上手ではなかったので、ほっとした記憶があります。
 クラブ活動の予算は2年生のときから、先輩の生徒会会計のN野さんに「おんちゃ、やれ!」と任されて、各部の部長と副部長を生徒会室へ呼び、予算額を決めていました。予算と決算は会計が単独でやらなければならない仕事だったのです。学校祭や文化祭の支払い関係も、生徒会担当の先生と二人で各商店を回ってやっていました。
 この各部の責任者との予算交渉は企業人として働くようになったときに、全社予算編成作業にそのまま使えました。30億円の売上規模でも300億円の売上規模でもスタンスは同じでした。輸入商社へ中途入社したときにも、SRLへ東証Ⅱ部上場準備要員として中途入社したときにも、半年経ったら全社予算編成を任されていました。すべては根室高校生徒会会計のときに基礎ができていたのです。予算編成を任せてくれた先輩のN野さんに感謝です。公認会計士志望だったN野さんは大学の学部も一緒で、たくさんお世話になりました。先生にも、いい先輩たちにも恵まれていました。

<余談:3年G組>
 高校3年生の秋に、高校を中退してゴルゴ13の斉藤タカオの一番弟子になり、「劇画家」となった神田猛、『御用牙』シリーズがヒット作だった。テレビ化もされた。
 アンダーグランドで有名になった富山加津江は漁師の娘で美術部の部長だった。
 総番長のK、副番で花咲港のボンボンのM蔵、羅臼の漁師のボンボンのA部、共産党のA野、変わった奴が多かった。ベクトルが不ぞろいだが、エネルギーだけは大きい。大きく分けて男女ともに3グループぐらいに分かれていた。それでもなんとなくまとまってしまうのである。
 加津江は大橋巨泉の「11pm」に何度か出演していた、「女傑」といっていいだろう。アンダーグラウンドの女王、渋谷に自分のビルを持っている。3年間同じクラスで仲がよかったので弥生町の彼女の家に遊びに行ったことがあった。「お汁粉食べるか?」と訊かれて、うっかり「うん、食べる」と言ったら、1階の台所に下りていって、直径40cmはあろうかという大きなお鍋からお玉で何杯か掬って、どんぶりで「はい、どうぞ」。これでは加津江が太るはずだ。漁師の家の鍋は大きい。1年生のときは教室でストーブを囲みながら、よく雑談した。A部やA野(和田村)やA野(温根沼)と話していると、そこに加津江が割り込んでくるのである。わたしの家は1階がお店で、2階が住まいだった、玄関に入って「こんにちは」と大きな声で一声かけて、わたしの部屋に上がってくるのは女の友達では加津江だけだった。
 羅臼の漁師の娘のK尻は趣味が高じて、横浜で「絵手紙」の先生をしているようだ。富士銀行へ勤めたA部さんは千葉で食堂をやっているそうだ。M保さんは道銀だったかな、その後はS学会の熱心な信者であちこち飛び回っていた、よく笑う人だった。どうしてこんなに個性的な人が集まったのだろう。扱いにくい生徒を一番端のGクラスに集めた、担任の富岡先生はさぞご迷惑だっただろう。わたしもGクラスの重要メンバーの一人だった。1年生のときの担任(現代国語と古典担当)に嫌われてF組を「追放処分」になったのだ。富岡先生が「お前の成績では元のクラスに残すことになっているのだが、...よっぽど嫌われたんだ、何やった?」(笑)
 何にもしていない、ただ、テストのときにN村先生が黒板に書いたことは一切書かなかった。自分の考えを書き通した。現代文の解釈なんて、年齢と感性が違えばいく通りもありうる。

*富山加津江の消息 ウィキペディアより 「イメージフォーラム」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0

 富山加津江の映画作品
http://movie.walkerplus.com/person/52266/

 「記憶のかなたへ」 ・・・加津江の写真が載っていた
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20081011/1223740649


*#3390 金刀比羅神社例大祭8/11: 金棒 Aug. 11, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-08-11


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