#4745 送別会:3月末で退職した友人が根室を離れる April 24, 2022 [90.根高 こもごも]
根室高校の同級生の一人が3月末で退職した、2月生まれだから73歳である。来月帯広へ引っ越す予定なので、昨日、イーストハーバーホテルで送別会があった。ヨッコが手配してくれた。
オットさんは高校卒業後ヒシサンに数年勤務してから職を辞したときに、たまたま同級生と緑町で出遭って碓氷さんで人を募集している話を聞いた。そのまますんなり碓氷さん(「北の勝」の碓氷勝三郎商店)で仕事することになった。それ以来50年とちょっと地元の老舗の造り酒屋で坦々と仕事をし、めでたく退職した。
もう6年ほども前になるだろうか、かかとに異常を感じていたが、長男の嫁さんが看護師さんで、かかとを診て、大きな病院で検査したほうがいいと言われ、釧路の病院で検査したらメラノーマの診断。
そのあとで、電話してきた。
「トシ、おれもトシの仲間になった」
「何の仲間だ?」
「癌仲間だ」
ならないほうがいい、ありがたくない「仲間」が一人増えた。メラノーマは質(タチ)が悪い癌の一つである。かかとを削る手術をした。そのあとにかかとの再建手術ももちろんした。しばらくして定期検査のときに鼠径部(ソケイブ)のリンパ節に癌が飛んでいることがわかった。インターフェロン製剤での治療が手術の後に始まった。当時インターフェロン製剤を使った癌治療は道内では北大病院のみ、副作用が小さいので他の制癌剤に比べてダメージが小さい。3か月に一度入院して投薬治療を繰り返していた。
しばらくして肺に飛んでいることが分かった。1㎜のものが3か月検診ごとに少しずつ大きくなった。4㎜になったところで内視鏡手術で摘出した。肺癌特効薬のオプジーボがちょうど保険収載されて300万円弱で治療できる道が拓かれた。自己負担は3割、負担には上限があるから、さらに実際に支払う金額は小さくなる。日本の保険制度はありがたい。
ついていた。保険収載されるまでは年額2000-3000万円も治療費のかかる高額の治験薬だったから、庶民には高根の花、ほんとうについていたと言える。
これから、こういう病気にかかった人たちの参考になれば幸いである。
ついでだから、「癌仲間」のわたしの場合は16年前の2006年6月にスキルス胃癌と巨大胃癌の併発。7月20日ころ胃と胆嚢の摘出、胃の周りのリンパ節と癌が浸潤していた大腸も一部切除した。胃癌の特効薬TS-1を1年半ほど、何クール飲んだか覚えていない。副作用が激しかった。白血球数が限界まで下がった逆隔離の状況になり、主治医の岡田優二先生に相談して再発の危険を覚悟で3回ほど服薬を中止した。理由は簡単、あのときは生きてあるかぎりは授業をしたかった。入院したまま体力が弱り授業ができなくなるのが怖かったのだろう。何とかしのいで、手術してから16年だ。現代医療のお陰でオットさんもわたしも命をつないだ。
助けてくれる主治医や外科医やそしてよく効く治療薬がなければ、生きていなかっただろう。医療に感謝。
こうして「北の勝」の番頭さんは3月末で仕事を終えた。癌を患ってからは体力が落ちたので、勤務時間に配慮してくれた碓氷商店の当主にとっても感謝していた。根室の企業で同じような配慮をしてくれる経営者はまれだろう。企業経営者が従業員をどのように扱うかは、そこで働いているみんなが見ている。だから人を大切に使う企業には人材が集まる。
根室にいい企業が増えてもらいたい。企業経営者の心がけひとつで、働く人は気持ちよく働ける。その企業で働く人たちがみんな気持ちよく働いてくれたら、百年の風雪に耐えて栄えることができる。北の勝は1887年の創業だから、今年創業135周年である。もちろん根室で最古の老舗企業である。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」
企業を経営しているといろんな人がいるので、用心も必要だ。人を信用して何度も騙されて勉強してしだいに人材の見分けがつくようになる。従業員にやさしいだけで人材を見極める眼が肥えてこなければ経営が危うくなることもある。有能な経営者は人を使いながら日々人の使い方を学んでいる。一定の利益を出し続けながら、内部留保を厚くして、従業員の幸せを考える経営者のいる企業は長く栄える。
根室にそういう企業が増えてほしい。若い人たちの優良な雇用先が増えるということだから、それが一番の人口減対策になる。
<余談:今後>
五月半ばにあいつは根室を離れ帯広へ引っ越す。小学生の時に帯広から北斗小学校に転校してきたから、「戻る」ことになったのかもしれない。高校2年から同じクラスだった。大切な友人の一人、長い付き合いだ。
これからは年賀状でお互いの生存を確認することになるのだろう。
ついでに書いておくが、彼は20代前半で転職する前にお金をしっかり貯めていた。半年ぐらい職が見つからなくても大丈夫なように用意はしておこう。じっくり求職活動できれば、優良な転職先を選べる。わたしは何度も転職を繰り返したが、オットさんと同様にお金はしっかり蓄えていた。
転職にはタイミングと運もあるが、周到な準備がある者に運命の女神が微笑む場合が多い。損得を度外視して転職すると、天が配慮してくれるのか案外うまくいったりする。
首都圏での転職なら、専門的なスキルは複数、それも他企業でも通用するほど、できれば一流の域まで高めておきたい。世の中は何の準備もしないものに「転職の女神」が微笑んでくれるほど甘くはない。

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オットさんは高校卒業後ヒシサンに数年勤務してから職を辞したときに、たまたま同級生と緑町で出遭って碓氷さんで人を募集している話を聞いた。そのまますんなり碓氷さん(「北の勝」の碓氷勝三郎商店)で仕事することになった。それ以来50年とちょっと地元の老舗の造り酒屋で坦々と仕事をし、めでたく退職した。
もう6年ほども前になるだろうか、かかとに異常を感じていたが、長男の嫁さんが看護師さんで、かかとを診て、大きな病院で検査したほうがいいと言われ、釧路の病院で検査したらメラノーマの診断。
そのあとで、電話してきた。
「トシ、おれもトシの仲間になった」
「何の仲間だ?」
「癌仲間だ」
ならないほうがいい、ありがたくない「仲間」が一人増えた。メラノーマは質(タチ)が悪い癌の一つである。かかとを削る手術をした。そのあとにかかとの再建手術ももちろんした。しばらくして定期検査のときに鼠径部(ソケイブ)のリンパ節に癌が飛んでいることがわかった。インターフェロン製剤での治療が手術の後に始まった。当時インターフェロン製剤を使った癌治療は道内では北大病院のみ、副作用が小さいので他の制癌剤に比べてダメージが小さい。3か月に一度入院して投薬治療を繰り返していた。
しばらくして肺に飛んでいることが分かった。1㎜のものが3か月検診ごとに少しずつ大きくなった。4㎜になったところで内視鏡手術で摘出した。肺癌特効薬のオプジーボがちょうど保険収載されて300万円弱で治療できる道が拓かれた。自己負担は3割、負担には上限があるから、さらに実際に支払う金額は小さくなる。日本の保険制度はありがたい。
ついていた。保険収載されるまでは年額2000-3000万円も治療費のかかる高額の治験薬だったから、庶民には高根の花、ほんとうについていたと言える。
これから、こういう病気にかかった人たちの参考になれば幸いである。
ついでだから、「癌仲間」のわたしの場合は16年前の2006年6月にスキルス胃癌と巨大胃癌の併発。7月20日ころ胃と胆嚢の摘出、胃の周りのリンパ節と癌が浸潤していた大腸も一部切除した。胃癌の特効薬TS-1を1年半ほど、何クール飲んだか覚えていない。副作用が激しかった。白血球数が限界まで下がった逆隔離の状況になり、主治医の岡田優二先生に相談して再発の危険を覚悟で3回ほど服薬を中止した。理由は簡単、あのときは生きてあるかぎりは授業をしたかった。入院したまま体力が弱り授業ができなくなるのが怖かったのだろう。何とかしのいで、手術してから16年だ。現代医療のお陰でオットさんもわたしも命をつないだ。
助けてくれる主治医や外科医やそしてよく効く治療薬がなければ、生きていなかっただろう。医療に感謝。
こうして「北の勝」の番頭さんは3月末で仕事を終えた。癌を患ってからは体力が落ちたので、勤務時間に配慮してくれた碓氷商店の当主にとっても感謝していた。根室の企業で同じような配慮をしてくれる経営者はまれだろう。企業経営者が従業員をどのように扱うかは、そこで働いているみんなが見ている。だから人を大切に使う企業には人材が集まる。
根室にいい企業が増えてもらいたい。企業経営者の心がけひとつで、働く人は気持ちよく働ける。その企業で働く人たちがみんな気持ちよく働いてくれたら、百年の風雪に耐えて栄えることができる。北の勝は1887年の創業だから、今年創業135周年である。もちろん根室で最古の老舗企業である。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」
企業を経営しているといろんな人がいるので、用心も必要だ。人を信用して何度も騙されて勉強してしだいに人材の見分けがつくようになる。従業員にやさしいだけで人材を見極める眼が肥えてこなければ経営が危うくなることもある。有能な経営者は人を使いながら日々人の使い方を学んでいる。一定の利益を出し続けながら、内部留保を厚くして、従業員の幸せを考える経営者のいる企業は長く栄える。
根室にそういう企業が増えてほしい。若い人たちの優良な雇用先が増えるということだから、それが一番の人口減対策になる。
<余談:今後>
五月半ばにあいつは根室を離れ帯広へ引っ越す。小学生の時に帯広から北斗小学校に転校してきたから、「戻る」ことになったのかもしれない。高校2年から同じクラスだった。大切な友人の一人、長い付き合いだ。
これからは年賀状でお互いの生存を確認することになるのだろう。
ついでに書いておくが、彼は20代前半で転職する前にお金をしっかり貯めていた。半年ぐらい職が見つからなくても大丈夫なように用意はしておこう。じっくり求職活動できれば、優良な転職先を選べる。わたしは何度も転職を繰り返したが、オットさんと同様にお金はしっかり蓄えていた。
転職にはタイミングと運もあるが、周到な準備がある者に運命の女神が微笑む場合が多い。損得を度外視して転職すると、天が配慮してくれるのか案外うまくいったりする。
首都圏での転職なら、専門的なスキルは複数、それも他企業でも通用するほど、できれば一流の域まで高めておきたい。世の中は何の準備もしないものに「転職の女神」が微笑んでくれるほど甘くはない。

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#4688 雪のち雨、そして冷たい北風:自然の造形 Jan. 3, 2022 [90.根高 こもごも]
昨日は最低気温が-9.8度、最高気温が2.1度でした。その差11.9度、真夜中にプラスに変るのはほんとうに珍しい。南風が吹いていましたから、雪が雨に変りました。そして今朝、路面は凍結していました。
①ザラメをまいたような路面です
スコップで表面を削ってみました。なにやら日本庭園の枯山水の庭に子どがいたずら書きをしたような感じになりました。こんな路面は数年に一度ですから、遊ばない手はありません。

②陽があたっているのに車道も凍ったまま
カメラを構えているわたしの影が写り込んでいます。カラスが写真を撮っているように見えます。(笑)

③今朝の日本最東端の駅
いつもとどこが違うんだって? 同じです(笑)

④プラットホームの床板
雪が降った後に雨が叩いて、そこへ北西の冷たい風が吹いて、そのまま模様を固定してくれました。雪と雨と風の共同制作です。
ここを歩くと、ギシギシ音が出ました。気持ちの良い音です。

⑤朝陽を浴びてに光り輝くプラットホームの床面
こんな表情も見せてくれます。

⑥プラットホームにこの標識が建てられてあります
東経の数字が一部消えたていますが、145度35分50秒です。

⑦雪に雨という彫刻家が歩道に刻んだ模様を、冷たい北西風が固定してくれました
朝の光の中で輝いていました。

⑧ここを歩いてみたくなりませんか?

雪と雨と風が路面に刻んだ作品ご覧いただきありがとうございます。

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①ザラメをまいたような路面です
スコップで表面を削ってみました。なにやら日本庭園の枯山水の庭に子どがいたずら書きをしたような感じになりました。こんな路面は数年に一度ですから、遊ばない手はありません。

②陽があたっているのに車道も凍ったまま
カメラを構えているわたしの影が写り込んでいます。カラスが写真を撮っているように見えます。(笑)

③今朝の日本最東端の駅
いつもとどこが違うんだって? 同じです(笑)

④プラットホームの床板
雪が降った後に雨が叩いて、そこへ北西の冷たい風が吹いて、そのまま模様を固定してくれました。雪と雨と風の共同制作です。
ここを歩くと、ギシギシ音が出ました。気持ちの良い音です。

⑤朝陽を浴びてに光り輝くプラットホームの床面
こんな表情も見せてくれます。

⑥プラットホームにこの標識が建てられてあります
東経の数字が一部消えたていますが、145度35分50秒です。

⑦雪に雨という彫刻家が歩道に刻んだ模様を、冷たい北西風が固定してくれました
朝の光の中で輝いていました。

⑧ここを歩いてみたくなりませんか?

雪と雨と風が路面に刻んだ作品ご覧いただきありがとうございます。

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#4538 明治公園へお花見 May 9, 2021 [90.根高 こもごも]
今日も天気が好い。
正午の気温10.9度、南南東の風5.9m/s、湿度70%
マウンテンバイクで明治公園の桜を見に行く。家の庭の桜は5輪開花したので、開花宣言です。
①背丈くらいしかない桜
周りの桜はまだつぼみなのに、これだけ早く咲いている。
人間だっておませな早熟なものと子どもっぽいのがいる。

②紫つつじ
満開です。

③池へ下りる道の左にある桜です
この桜が一番です。FBで場所を教えてもらいました。
ベトナムの若い娘さんたちが、ポーズをとって何枚も撮影して楽しんでました。

④池へ流れてくる湿原の小川に水芭蕉が咲いてました
こういうところって昔は小魚がいっぱいいました。チカ用の釣り針で、30分ほどで10匹ほど釣れました。場所はここではなくて光洋中学校の裏手の湿地です。昼休みに一度湿地まで下りて行って釣ったことがあります。

⑤池には水鳥がたくさん遊んでいました
「ああ、そこ、密になってますよ!」「おや、マスクもつけてませんね。」、なんて言っているのは小池の主、おや草叢(くさむら)に狸さんもいます。(笑)

⑥雨が降ったら雨宿り
ここのベンチに座って読書なんて言うのも素敵です。決して密にはなりませんよ。

⑦池から見上げた啓雲中学校です
ズーム機能使用。間もなく花咲小学校が移転してくるようです。

⑦ズーム機能を解除しました
啓雲中学校が小さく写っています。

⑧ライトアップの準備がしてありました。
サイロの下の方にライトが設置してあります。プラスチックの袋がかぶせられてます。

⑨庭の桜も開花宣言
五輪咲きました。

⑩庭の桜-2

⑪光洋中テニスコート前の桜
もうすぐ開きそうです。密集してますね、こういうのをクラスターというのですね。いえ、感染しません。(笑)

⑫紫つつじ
庭の紫つつじは貧栄養かな?でも、姿かたちはまあまあでしょ。なんとなく品がある。

⑬マウンテンバイク
これに乗って、明治公園へ行ってきました。MTBは少々の段差もなんのその。やろうと思えば草地の横断もできます。前輪にサスペンションがついていてタイヤの幅は5.5㎝あり、乗り心地はフワッフワでとってもいい。ロードバイクは空気圧が9Barでタイヤが細いので、路面のがたつきがそのままサドルとハンドルに伝わってきます。ひび割れた路面を走ると、凄い振動がもろに掌とサドルに伝わってきます。
このMTBはブリジストン製。

⑭ミヤタ製ロードバイク
昭和の終わりころにオヤジが購入したもの。フレームはカーボンファイバー、当時としては高価な自転車だったようだ。オヤジはドロップハンドルのロードバイクをもう一台もっていた。姪っ子が乗っていたが、自転車は消えた。一輪車もロードバイクも地元の阿部自転車店に注文し購入していた。若いころに釧路の自転車レースで暴れまわっていた元気な若者だったそうだ。向かいに店のあった酒井さんがオヤジが亡くなってから焼香に訪れて昔話を聞かせてくれた。釧路で床屋の修行を終えて根室へ戻ってきたら、オヤジが目の前に店を出していたと。
60歳を過ぎてから釧路根室間の自転車競技に出たことがある。トップの選手と団子になってゴール。そのころ、根室の子どもたちに一輪車を教えていた。高校の先生たちの協力で、必要な体育協会の指導員の資格も取得していた。オヤジの形見、大切に乗っている。ギアのシフトレバーはフレームについている。ペットボトルの少し上にレバーが見える。とっても古いタイプ、クラッシックカーだ。

おしまい。お楽しみいただけましたでしょうか。
日本で一番遅咲きの東北海道(釧路と根室)の桜。

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正午の気温10.9度、南南東の風5.9m/s、湿度70%
マウンテンバイクで明治公園の桜を見に行く。家の庭の桜は5輪開花したので、開花宣言です。
①背丈くらいしかない桜
周りの桜はまだつぼみなのに、これだけ早く咲いている。
人間だっておませな早熟なものと子どもっぽいのがいる。

②紫つつじ
満開です。

③池へ下りる道の左にある桜です
この桜が一番です。FBで場所を教えてもらいました。
ベトナムの若い娘さんたちが、ポーズをとって何枚も撮影して楽しんでました。

④池へ流れてくる湿原の小川に水芭蕉が咲いてました
こういうところって昔は小魚がいっぱいいました。チカ用の釣り針で、30分ほどで10匹ほど釣れました。場所はここではなくて光洋中学校の裏手の湿地です。昼休みに一度湿地まで下りて行って釣ったことがあります。

⑤池には水鳥がたくさん遊んでいました
「ああ、そこ、密になってますよ!」「おや、マスクもつけてませんね。」、なんて言っているのは小池の主、おや草叢(くさむら)に狸さんもいます。(笑)

⑥雨が降ったら雨宿り
ここのベンチに座って読書なんて言うのも素敵です。決して密にはなりませんよ。

⑦池から見上げた啓雲中学校です
ズーム機能使用。間もなく花咲小学校が移転してくるようです。

⑦ズーム機能を解除しました
啓雲中学校が小さく写っています。

⑧ライトアップの準備がしてありました。
サイロの下の方にライトが設置してあります。プラスチックの袋がかぶせられてます。

⑨庭の桜も開花宣言
五輪咲きました。

⑩庭の桜-2

⑪光洋中テニスコート前の桜
もうすぐ開きそうです。密集してますね、こういうのをクラスターというのですね。いえ、感染しません。(笑)

⑫紫つつじ
庭の紫つつじは貧栄養かな?でも、姿かたちはまあまあでしょ。なんとなく品がある。

⑬マウンテンバイク
これに乗って、明治公園へ行ってきました。MTBは少々の段差もなんのその。やろうと思えば草地の横断もできます。前輪にサスペンションがついていてタイヤの幅は5.5㎝あり、乗り心地はフワッフワでとってもいい。ロードバイクは空気圧が9Barでタイヤが細いので、路面のがたつきがそのままサドルとハンドルに伝わってきます。ひび割れた路面を走ると、凄い振動がもろに掌とサドルに伝わってきます。
このMTBはブリジストン製。

⑭ミヤタ製ロードバイク
昭和の終わりころにオヤジが購入したもの。フレームはカーボンファイバー、当時としては高価な自転車だったようだ。オヤジはドロップハンドルのロードバイクをもう一台もっていた。姪っ子が乗っていたが、自転車は消えた。一輪車もロードバイクも地元の阿部自転車店に注文し購入していた。若いころに釧路の自転車レースで暴れまわっていた元気な若者だったそうだ。向かいに店のあった酒井さんがオヤジが亡くなってから焼香に訪れて昔話を聞かせてくれた。釧路で床屋の修行を終えて根室へ戻ってきたら、オヤジが目の前に店を出していたと。
60歳を過ぎてから釧路根室間の自転車競技に出たことがある。トップの選手と団子になってゴール。そのころ、根室の子どもたちに一輪車を教えていた。高校の先生たちの協力で、必要な体育協会の指導員の資格も取得していた。オヤジの形見、大切に乗っている。ギアのシフトレバーはフレームについている。ペットボトルの少し上にレバーが見える。とっても古いタイプ、クラッシックカーだ。

おしまい。お楽しみいただけましたでしょうか。
日本で一番遅咲きの東北海道(釧路と根室)の桜。

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#4494 大雪のため道立高校入試4日へ延期 Mar. 2, 2021 [90.根高 こもごも]
高校入試が4日へ延期になった。
*北海道立高校入試 - Bing News
昨夜来の雪と雨、景色がいい。
降り積もる/雪の重みに/耐えかねて
枝垂れる松に/春まちどうし

北風に/凍り付きたる/枝の雨

これって透明なガラスなんですが、はじめてこんな風になりました。雪とミゾレと雨がつくった奇跡です。

*北海道立高校入試 - Bing News
昨夜来の雪と雨、景色がいい。
降り積もる/雪の重みに/耐えかねて
枝垂れる松に/春まちどうし

北風に/凍り付きたる/枝の雨

これって透明なガラスなんですが、はじめてこんな風になりました。雪とミゾレと雨がつくった奇跡です。

#4493 新型コロナ第一世代卒業式:根室高校 Mar. 1, 2021 [90.根高 こもごも]
3/1、新型コロナ第一世代である根室高校生が卒業です。いま9:52ですが、卒業式の最中でしょうね。
3年生だけの卒業式、在校生は出席せず、保護者の出席もなし。校長が坦々と一人ずつ卒業証書を渡します。歌もありません。根室高校開設以来の異例な卒業式になりました。
生徒たちは入試で全国飛び回ってますから、しっかりマスクしての卒業式でしょ。卒業式のあとにみんなでカラオケにもいけない。楽しみにしてただろうに...卒業生の一人は、式が終わった途端に卒業証書をもったまま根室自動車学校へ直行、教習所内で運転の練習。でも、数日後には少人数でパーティをやるようです。人生の節目ですから、すこしはなにかを記念にやっておきたいのでしょう。幸いに根室は新型コロナは蔓延してません。
想い起せば昨年春に学校は2か月休み、学校祭は中止、異例ずくめの1年間でした。
卒業を迎えた3年生は、高校入学半年後の2018年9月6日、地震で3日間の全道ブラックアウト(大停電)も経験しましたね。3日目には冷凍庫の中の食品が溶け出しました。あんなことは一生に一度だけ、2度目は要らない、願い下げです。
卒業を迎えた3年生は、高校入学半年後の2018年9月6日、地震で3日間の全道ブラックアウト(大停電)も経験しましたね。3日目には冷凍庫の中の食品が溶け出しました。あんなことは一生に一度だけ、2度目は要らない、願い下げです。
20年たったらそれもこれも懐かしく思い出すでしょう。
ところで、高2の生徒たちの修学旅行は結局どうなったのかな?
当初の京都・大阪案がなくなり、四国めぐりの案が検討されたが、新型コロナが関西圏にも広がり、中止。2月になってから行先が旭川へ変更になったら、希望者が3割に激減、その後の消息を聞いてません。消滅かな?3割しか行かないのでは、愉しさは1/10でょ。2年生も苦労してます。
昨日花火の点火スイッチを押す係を引き受けたのは2年生、ご苦労様でした。
#4450 根室市内で新型コロナ感染者1名 Jan.5, 2021 [90.根高 こもごも]
<更新情報>1/6朝9時 <余談>追記、写真アップ
今朝(1/5)の北海道新聞釧路根室地域版によれば、根室市消防本部の50代賛成職員が新型コロナに感染したと根室市役所から発表があったとのこと。濃厚接触者18名がPCR検査中。
根室市内で新型コロナ感染者は1年間でまだ数名しか出ていない。いずれ、入ってくるのはしかたがない、新型感染症とはそういうものだから。
根室は火事が年に数回あるかなしかだ、60年前に比べて激減した。昔は石炭ストーブだった、いまそんなものを使っている家はないだろう。薪ストーブは贅沢品だ。暖房器具の安全性が飛躍的に高くなったことに加えて、建物の防火性能もよくなったからだろう。
昨日だったかな、大型消防車両が家の付近を巡回しているのを見た。バス通りは除雪が速やかになされるので心配ないが、裏通りの小路は大型車両が通れるかどうか、巡回確認の必要があるからだ。不用意に角に除雪した雪を積むと大型消防車両が曲がり切れないこともある。ああ、わが家も角にあるが、ブルが角に押し寄せた雪は大型車両が曲がる際の障害になるので、全部ママダンプで向かい側のテニスコート前の空き地に運んだから、運転手が新米でも曲がれるよ。ないだろうけど、万が一の時の用心がしてあるのとないのでは大違いだ。
巡回して、実際に裏通りの角を曲がって確認するのが一番確かだ。ご苦労さん。
それと消火栓の確認も。消火栓は道路の外側にあるので、雪に埋もれている場合が多い。雪が多く降ると別の部隊が来てその都度確認、除雪をしている。だから、火事があっても心配いらない。根室の消防署はちゃんと仕事しているのである。
無線システムも最新型にすでに更新済み。消防車両も手入れがいいのか新しいのかピカピカである。
火事の出動に比べて救急活動の方がずっと多い。そちらもちゃんと手配されているのだろう。
冬場だから空気も夏に比べて乾燥しているから、火の用心はしておきたい。
<余談:角の除雪の必要>
奥が東根室駅です。消防車両は右側から来て右折します。
円で囲った部分に左側からブルが除雪してきた雪が押し付けられ積み上げります。1mほど道路にはみ出し狭くしてしまうので、大型車両が入るには、その山を取り除いておく必要があります。目測を誤ったのか、夏に観光バスが後輪を歩道に乗り上げて曲がっていくのを何度か見ています。ここに雪山があれば後輪が乗り上げてスタックします。
今朝(1/5)の北海道新聞釧路根室地域版によれば、根室市消防本部の50代賛成職員が新型コロナに感染したと根室市役所から発表があったとのこと。濃厚接触者18名がPCR検査中。
根室市内で新型コロナ感染者は1年間でまだ数名しか出ていない。いずれ、入ってくるのはしかたがない、新型感染症とはそういうものだから。
根室は火事が年に数回あるかなしかだ、60年前に比べて激減した。昔は石炭ストーブだった、いまそんなものを使っている家はないだろう。薪ストーブは贅沢品だ。暖房器具の安全性が飛躍的に高くなったことに加えて、建物の防火性能もよくなったからだろう。
昨日だったかな、大型消防車両が家の付近を巡回しているのを見た。バス通りは除雪が速やかになされるので心配ないが、裏通りの小路は大型車両が通れるかどうか、巡回確認の必要があるからだ。不用意に角に除雪した雪を積むと大型消防車両が曲がり切れないこともある。ああ、わが家も角にあるが、ブルが角に押し寄せた雪は大型車両が曲がる際の障害になるので、全部ママダンプで向かい側のテニスコート前の空き地に運んだから、運転手が新米でも曲がれるよ。ないだろうけど、万が一の時の用心がしてあるのとないのでは大違いだ。
巡回して、実際に裏通りの角を曲がって確認するのが一番確かだ。ご苦労さん。
それと消火栓の確認も。消火栓は道路の外側にあるので、雪に埋もれている場合が多い。雪が多く降ると別の部隊が来てその都度確認、除雪をしている。だから、火事があっても心配いらない。根室の消防署はちゃんと仕事しているのである。
無線システムも最新型にすでに更新済み。消防車両も手入れがいいのか新しいのかピカピカである。
火事の出動に比べて救急活動の方がずっと多い。そちらもちゃんと手配されているのだろう。
冬場だから空気も夏に比べて乾燥しているから、火の用心はしておきたい。
<余談:角の除雪の必要>
奥が東根室駅です。消防車両は右側から来て右折します。

円で囲った部分に左側からブルが除雪してきた雪が押し付けられ積み上げります。1mほど道路にはみ出し狭くしてしまうので、大型車両が入るには、その山を取り除いておく必要があります。目測を誤ったのか、夏に観光バスが後輪を歩道に乗り上げて曲がっていくのを何度か見ています。ここに雪山があれば後輪が乗り上げてスタックします。
#4343 Take a chance on you「神田たけ志」50周年劇画展:9/17~22 Aug. 19, 2020 [90.根高 こもごも]
今朝8/19の朝刊に折り込み広告が入った。根室市教委主催で「根室市みらいのアーティスト応援事業」としてタケシの劇画展が催されるようだ。
独立してから50年か早いものだ。
●9/17~22日
●根室市総合文化会館多目的ホール
わたしたちは、根室中学が光洋と柏陵に分かれた最初の1年生である。当時の商業科の入試倍率は2倍を超えていたから、勉強のできる者がいた。学年平均点以下だと入学できなかった。学年平均以上の生徒でも入試当日の出来が悪いと落ちていた。1年生の時に同じFクラスのH(沖ネップ、歯舞中学校出身)は短大を卒業した年に税理士試験に合格している。大学でも3年次で税理士試験に合格するのはトップクラスの生徒のみ、だからHは優秀だった。20代から東京有楽町で事務所を開いてずっとやっている。Hは高校では生徒会副会長。同じクラスのカズコは中央執行委員。もう一人の中央執行委員は普通科のヒロコ、それぞれ仲が良かった。しっかりまとまっていた。
わたしは光洋中学校、タケシとヒロシは柏陵中学校出身だった。高1ではクラスが違っていたから接点がなかった。ちょっとトッポイ方だった。わたしは裸足が気持ちがいいので、足駄(高下駄、高さ10㎝)を履いて通学したからすぐに先輩たちに目をつけられた、生意気盛りだった。三人に呼び出し喰らって殴られた。これが「洗礼」。一度あったら2度目はない。いくら先輩でも2度目は黙っちゃいない、正当防衛が成立する、あいかわらず足駄で通学した。小学校の低学年のときから素手で焚き付け割りと四寸角の廃材を長柄の鉞で叩き折っていたから、空手の有段者よりも拳は硬かった。焚き付けの材料にはしなる生木も混じっており、それすら叩き折っていたので、手が力を入れるタイミングを知っていた。だから生木すら叩き折るような叩き方しかできない。顔を殴れば奥歯を折るだけではすまない、顔面骨折、額に当たれば頭がい骨陥没は免れない。高校を卒業した年に、ヒロシとカツミ(副番三人の一人)と新宿歌舞伎町のゲームセンターでパンチボールを叩いたことがあった。踏み込まずに腰のひねりだけで叩いたが180㎏を超えていた。同じウェイトのプロのボクサーでも強打者の部類だろう。それに加えて拳が硬い、当たる部分は拳の二か所で、両方合わせても2cm^2程度しかない。そこへ180㎏、踏み込むと250㎏くらいの力が加わる。人を殴るときには正当防衛が成立しても、殺す覚悟がなくてはできなかった。幸いに人生を暗転させてもかまわないシーンには遭遇しなかった。高1のときに危ないことはあった。数学のテストの採点で、採点ミスなのに言い訳して認めようとしないので、切れるところだった。教壇のところでO先生に採点ミスの指摘をしていた、うだうだ見苦しい言い訳に「なに!」っと大きな声が出てしまった。わたしはこの先生が嫌いだった。まともな授業をせずに将棋自慢の雑談をよくして授業時間を潰していたからだ。自分の指した将棋は全部記憶しているなんて自慢話ばかりしていた。そういう伏線があった。大きな声を一言発したとたんに、O先生はとっさにメガネを外した、殴られると思ったのだろう。教室は一瞬シーンとなった。クラスメートのだれもがわたしが教師を殴ると思った。一呼吸でスーッと冷静になれた。くるっと踵を返して席に戻った。仲のよかったヤスベ―が「あのとき殴ると思った、よくがまんしたな」あとで、そういった。一呼吸したとたんに、こんなクズ教師と刺し違えるほど自分の人生は安くはないと冷静になれた。手が出てたら加減ができないから、惨劇、高校退学は免れなかった。我流でヨガの呼吸法と同じトレーニングをしていたから、息を吐くことで感情をコントロールする術が自然に身についていた。このときはまだタケシには出遭っていない。
高2になってタケシやヒロシと同じクラスになった。二年G組。総番グループも生徒会もこの2年G組を中心に動いた。ヒロシは総番になり、生徒会は実質的にわたしの掌中にあった。だから、坊主頭という校則の改正もわたしの発案でやれた。3年の生徒会副会長のお二人が、「おんちゃ、言い出しっぺのおまえがやれ」、先輩の指示だから、否やはない。保護者へアンケートを取って生徒集会を開き、予定通り校則改正をした。長髪で修学旅行へ行ったのである。坊主頭で東京・京都・大阪・奈良へは行けません。なんてことはない、誰かがやる、そういう変わり目だっただけのこと。(笑)
学校側は鬼と金棒を同じGクラスにまとめてしまった。この二人の息があってしまった。まったく違うようでいてヒロシとわたしはどこか似たところがあった。
G組には個性的な奴らが揃っていた、揃うはずで、学校側が他の2クラスの生徒から隔離するために「アブナイ生徒たち」を集めた。計算外だったのは集められた危ない奴らはポテンシャルが高かったこと。学校としては火薬庫を大きくしたようなもの、管理を間違えたら大爆発だが、精神的には大人だったから自分たちで管理できた。それでも担任の冨岡先生には何度か迷惑をかけた。カチンときて間接的に何度か校長とぶつかることもあった。冨岡先生は古株だったから何とかしたのだろう。根室商業出身の野沢先生も古株の一人、当然バックアップがあっただろう。若い先生たちにも数人味方がいた。何か問題行動を起こしても、あいつらがやるんだから何か理由のあることとお目こぼしもあった。(笑)
わたしは1年生の時はF組だった。2年になってG組へ異動、担任の冨岡先生が「ebisuなにした?クラス1番はそのクラスに残すことになっていたが、お前は出された」、そう言った。「先生、引き取ってくれてありがとう」と笑って挨拶した。国語と古典の先生だった1年のときの担任のN先生とは相性が悪かっただけ。古典のテストクラストップでも評価は50だった。現代国語はN先生の解釈を答案に一度も書かなかった。自分の感じたとおりに書いた。60歳に手が届こうとしているロートルの感性と十代の生徒の感性が同じはずがないだろう、文学作品の解釈が違ってあたりまえ。頑固だった。以心伝心、こちらも願い下げだった。国語の先生は2年になって函館出身で空手家のS谷先生に変わった。この先生とはウマがあったね、でも、空手の稽古はつけてもらわなかった。(笑)
新しく担任になった冨岡先生は珠算部の顧問だった、珠算部員でもないのに全道競技会のとき2日間だけ珠算部員として大会に出ていたので顔見知りだった。高橋珠算塾の高橋尚美先生に頼まれて汐見町の方の教室の運営を任されていたので、両方の間で調整をつけて商工会議所主催の市民珠算大会開催にこぎつけた。巷の噂では、冨岡先生と高橋先生は仲が悪く、根室高校珠算部の卒業生に珠算塾を開かせて、潰してやるなんて物騒な話が流れていた。だから、間を取り持って調整する者が必要だった。そんなときにわたしが2年G組、冨岡先生のクラスの一員になったのである。二人の間をつなげと天の声がした、お鉢が自然に回ってきたとしか言いようがない。じつにスムーズに市民珠算大会開催となった。わたしの役割は車軸(根室高校冨岡先生)と車輪(高橋尚美先生と板野国男先生)の摩擦をなくするベアリングのようなもの。商業科の生徒にしかできない役割だった。第一回目の大会は根室高校柔道・剣道場が会場となった。旧友のH田と一緒に入部して柔道部に3か月ほど在籍して、この道場でコロコロ転がされていたことがある。畳を全部片づけて会場にした。高橋先生が原稿を書いて、わたしに選手宣誓をやれという。根室高校珠算部長でもよかったはずだが、調整役をしたご褒美だったのだろう。暗算部門のみ出場、優勝している。あとは主催者側に回って仕事の手伝い、読み上げ算を交代でやった。根室高校の先生には10ケタの読み上げ算を高速で読み上げられる人がいなかった。競技会で一つも間違えずに読むのはなかなかたいへんなのです。トレーニングを積んだ人でなければできません。根室では高橋先生と板野さん、そして高校生だったわたしだけ。ご褒美だったのだろうと思いますが、帯広で全珠連の全道の集まりがありました。高橋先生はそこへ連れて行ってくれました。車で出かけ、十勝川温泉に泊まって翌日が集会でした。泊った温泉は混浴、巨乳の若い女性がすぐ横に入ってきました。鼻血でそうだったな。
巷の噂の真偽のほどは知らない、両先生にそんなことをお聞きしたこともない。冨岡良夫先生と高橋尚美先生は何のわだかまりもなくそれ以降毎年市民珠算大会で顔を合わせていたはず。根室高校抜きでは市民珠算大会の開催が不可能でした。もう一つの珠算塾の板野先生と高橋尚美先生が市民珠算大会開催の相談をしていました。珠算塾だけではやれないのです。根室高校は元々根室商業ですから、そこのお墨付き、協力がどうしても必要でした。地域の学校と珠算塾が共同で動けば、大きな成果が出せるということ。そのことはいまも変わらぬ真理です。医学部受験生を育てるには、私塾だけでは大きな成果が出せない、根室高校の先生数名の協力が必要でした。化学と物理の指導は私塾ではできない。数か月前から連携がじつにうまくいっている。うれしいことです。
話を高校時代に戻すと、当時は全珠連の段位認定試験は権威がなかった。日商珠算能力検定1級保持者は一人だけだったから、珠算部の幽霊部員にされていた。計算実務検定の応用計算がわたしの競技種目だった。1級の応用計算問題10題を半分の時間5分で解く。先輩が全道大会の一週間くらい前になると誘ってくれた。生徒会会計のN先輩である。当時の生徒会会計は権限が大きかった。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、単独で生徒会の予算配分折衝、帳簿記帳、そして決算業務は会計の仕事、財務大臣のようなもの。珠算と簿記に堪能でなければ務まらない、選挙ではなくて指名制だったので生徒会では一番古株。そのN先輩から「ebisu、来週全道大会だ、行くぞ」って、後輩だから否やはない、返事は元気よく「ハイ!」だけ。そんな経緯から、冨岡先生はよく知っていた。わたしたちが卒業して数年後に、冨岡先生は親の介護のために50代で教員をやめて、東京大田区へ引っ越された。60代で癌を患い、何度か転移を繰り返したが、その都度手術をして東京の同期の同窓会に顔を出してくれた。数年前に亡くなられた。授業は下手くそだったけど、問題児だらけのクラスをよく受け持ってくれた、生徒思いのとってもいい先生だった。一杯問題起こしました、校長先生との間に挟まってたいへんだっただろう。でも冨岡先生は根室商業出身の野沢先生と並ぶ古株、新任の校長は滅多に口をはさめなかっただろう。卑怯なことやズルイことだけはしなかった。
2年でクラス替えになったら、タケシがいたのだが、何をやらかしたのか、聞いてみたことはない。総番のヒロシ(野球部)、大橋巨泉の深夜番組に何度か出演した女傑の富山かつえ(美術部長)、羅臼の大きな漁師の坊ちゃんのヤスベ―、共産党のマサミ。明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任されたので、ラグビー部を立ち上げるのに協力してくれたキヨシら数人。かつえは渋谷駅前にビルを一つ持っているそうだ。高校1年で中退したヒロシのポン友のタカギは銀座にバーを2軒もった。大学行こうって誘ってくれたのは総番のヒロシ。どこでウマが合ったのか、わからぬもの、感謝している。ヒロシの周りには不思議と面白い男たちが集まってくる、人望だろうな。ヒロシは水産会社の取締役だったが、もうやめたかな。
「北の勝」碓氷商店の番頭格のオトヤ、夫婦で元銀行員だった西浜ストアのコウジ、数年前に地元水産会社の経理担当役員で退職したニャンコ、散布漁協の専務理事だったケンジ(庭球部)…、多士済々。
3年になって友人二人に誘われて夏休みにアルバイトをした、土方である。柏陵中の土俵はその時に作り直した。だから今でも土俵はちゃんと作れるだろう。花咲港の灯台下の階段手すりも作った、天然記念物、円形柱状節理の「車石」への通路だ。50㎏のセメント袋を右肩に載せて急傾斜のところを何度も降りた。タケシもその夏にバイトしていた。理由があった。東京へ行くための旅費稼ぎだった。
夏休みが終わって8月下旬のある夜に、タケシが家へ来た。あらたまって正座して、「トシ、話がある」という。『ゴルゴ13』の作者である「斉藤タカオのところへ弟子入りしようと思う、一番弟子になりたい、学校辞めて東京へ行くことを考えている」、そんな話だった。「あと半年で卒業だ、3月に行ったらいい」、まったくアホな返事をした。
「3月になってからだと、一番弟子になれないかもしれない、俺は一番弟子になりたい」、思わず笑った。「なんだ決めているじゃないか、相談じゃなくって報告だ」、大笑い。決意は固い、好く決断したと、その思いっきりのよさに吃驚、見直したよ。若い人は冒険してもらいたい。
Take a chance on you.(チャンスにかけてみたら) ⇒アンジェラ・アキ
…高1英語教科書VIVID-1 Lesson 6のタイトル。
タケシは字が上手だった。学校祭の新聞コンクールでガリ版原稿はタケシに頼んだ。クラスの中でだれがどの分野に得意技をもっているか承知していた。あいつは字がきれいだった。レイアウトを担当した友人から記事が足りない、余白があるので埋める記事が必要と言われて、仕方ないので埋め草を提供した。わたしの書いた記事のできは悪かった、中身よりも体裁、2位だった。タケシのお陰だ。わたしにもっとましな記事が書けたら優勝だっただろう。
タケシよりも絵の巧いのがいた。中学時代の同級生のケンジだ。高2のときは隣のクラスだった。中学時代から北海道の展覧会に出すたびに賞をもらっていた。わたしも絵が好きだったが、ケンジの絵と比べたら才能の違いは歴然としていた。勝負にならない、それで絵はあきらめた。ケンジと中学3年間同級生だったのが運の尽き、あいつは俺の絵心にとどめを刺した。大好きだった大工仕事もどうやら才能がなさそう、ビリヤードの店番手伝いながら、中2のときにしかたなく勉強の方へ走った。少年マガジンと少年サンデーは中1のときに発刊されたと思うが、週刊漫画誌として初めてだった。それを教えてくれたのはケンジである。ケンジも漫画家への道を進んでほしかった。ケンジは慎重派だった。タケシの決断と度胸の良さは群を抜いていた。
東京へ行ってから気が付くと、ケンジは隣の駅に住んでいた。漫画の本を買って読むと、東武練馬駅で降りてあいつのところへ寄って置いてきた。通学路の途中だから、定期券で乗り降りできた。ケンジは一時期タケシを手伝っていた。絵の腕はいいから重宝しただろう。
神田は数年斉藤タカオ・プロダクションのスタッフとして作画して、3年くらいで独立し、京王線の国領に引っ越して住んだ。独立してからすぐに連絡があり、「税金の申告の仕方がわからない、トシ頼む」といわれては断れぬ。そのころはまだ大学生だった。領収書を月別に保管しておくように言って、2月にあいつのアパートへ行って、とってあった領収書から帳簿をつけて、決算し、税務申告書を書いて提出した。やってやるから、昼飯を食わせろという条件で3日くらい通ったはず。調布税務署だったかな。2年目も頼まれてやった。3年目は『御用牙』を描いていて売れっ子の仲間入り、収入も大きくなっていたから税理士に頼んでやってもらえというと、タケシはその通りにした。
タケシは当時景気がよくて、何度か誘ってくれてあいつの行きつけの新宿のバーでおごってもらった。その都度数軒のバーをハシゴ。なつかしい。
50年か、早いものだ。「50周年劇画展」おめでとう。
観に行くよ。

<余談:丸刈り坊主頭の校則改正と総番制度の廃止>
丸刈り&詰襟の制服と総番制度は根室商業時代から引き継がれてきた伝統であった。ヤクザとのもめごとがあったときに根室高校を代表するのは総番長ただ一人、だから5年先輩まではそういうときのために総番長に仁義の切り方と口上が伝わっていた。
「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうござんす。手前生国発します処、根室にござんす...」
任侠映画そのままだった。わたしは親戚の5年先輩の野球部のキャプテンが目の前で実演してくれたのを見ている。口上を間違えたら、殺されても文句は言えないと言っていた。それがヤクザのルールだと。総番長の責任は重かったのである。半端な覚悟ではやれない、いざというとき、ヤクザとのもめごとに学校を代表して出向かなければならなかったのだから。小さく折りたたんだ紙に仁義の口上が書いてあった。もらったような気もするが、机の中にしまったまま紛失してしまった。お祭りのときに目付の鋭い高校生が十数人、五年先輩よりも一歩下がって歩いていた。あれは年に一度の儀式だったのだろう。総番長は高下駄を履いて、後ろの十数人は靴や下駄だった。
ヒロシに確認したが、口上は伝わってなかった。五年先輩の総番長が卒業した後も口上書を小さく折りたたんで大事に持っていたから、伝えなかったのかもしれぬ。もうヤクザと高校生がもめごとを起こすようなバンカラな学校でもそういう時代でもなくなっていた。
中学校3年の冬休みまで一度も坊主頭にしたことがなかった。中3の冬休みに根室高校受験のために坊主頭にした。1年の終わりころに校則を変えたら、坊主頭で修学旅行に行かなくて済むことに気が付き、校則改正の条項を調べて、手続き、具体的な校則改正戦略を練った。先輩の副会長二人に話したら、「お前がやれ」ということになり、会長のSさんも了解していた。先生たちが弱いのは保護者、だから保護者への校則改正のアンケート調査票をデザインした。2年になったばかりのときのこと、4月にスタートして、10月下旬が修学旅行だったので、7月の夏休み前までにアンケートの集計と生徒会集会を開けば、間に合うことが分かった。あとは分担を決めて坦々と仕事を進めた。予定通りに夏休み前の校則改正し、髪を伸ばして10月下旬に修学旅行へ行った。当時は11泊12日だったと思う。京都・大阪・奈良・伊豆の下田・東京だった。
その年の秋に生徒会役員選挙だったと思う。ある日、副会長のH谷さんとF堂さんがわたしに「次の生徒会会長はお前がやれ、応援演説は俺たち二人でやる」と言い渡された。先輩に言われたらノーの返事はない、「ハイわかりました」と言って、生徒会顧問へ立候補の旨伝えたら、数日後に生徒会会計だから駄目だという。生徒会会計は指名する後輩を決めてあったし、会長をやっていてもいざというときには両方見ることはなんでもないこと。そう伝えたら、校長が難色を示しているらしかった。Gクラスから生徒会長がでたら、何をやるかわからない、現に生徒会会計が校則改正を実現していたから、警戒された。
(あの当時は高校生にも政治活動をしそうなものには公安のマークがついていた。誘われて矢臼別のキャンプに行った後にあることが起きて気が付いた。集合写真を1枚だけ撮ったのだが、フィルムを現像に回したら、その一枚だけネガがなくなっていた。フィルムには番号がついているので途中を抜けば確認できる、油断も隙もありゃしない。無邪気だった。その写真屋さんはとっくにないから迷惑はかからない。だから書ける。(笑) ああいうキャンプに参加したら、集合写真は撮ってはいけないということを学んだ。)
顧問の先生が間に入って気の毒だったので、先輩二人に事情を説明して降りた。会長でなくても生徒会は動かせるし生徒会会計でやれてきたのだから。もったいないので、だれか代わりがいないかと考えたら、1年生の時の友人のH(税理士)が思い浮かんだ。歯舞中学出身でネームバリューがないから会長職は無理、副会長への立候補を頼んでみた。先輩二人の副会長の応援演説をつけてやるからと説得したら、引き受けてくれた。先輩二人もOKだった。そういう経緯でHは副会長になった。会長にはなりそこなったが、同じクラスの中央執行委員のカズコと前から中央執行委員だった普通科のヒロコが旧知の仲だったので、生徒会を動かすのに何の支障もなかった。
もう一つ、根室商業時代から続いた総番制度もヒロシとA野と三人で相談して総番制度を廃止することに決めた。実際にやったのはヒロシである。内部で相当もめただろう。ヒロシは愚痴一つこぼさないで実行した、男だね。
団塊世代のわたしたちはそういう時代の変わり目に立っていた。ヒロシはヒロシの役割を果たし、わたしはわたしの役割を果たした。ヒロシは同期の桜、戦友だ。高校を卒業して東京へ一緒に行った。千歳からスカイメイトを利用、飛行機だった。「トシ、一緒に行こう」とあいつが誘ってくれたから、東京の大学へ進学できた。もちろん、一生懸命に働いて仕送りをしてくれた両親のお陰でもある。
漫画の材料になりそうな高校時代を過ごした。神田たけ志とはそういう激動の時代に出遭った、あいつもGクラスのメンバーの一人である。神田たけ志はペンネーム、わたしが高校時代に出遭ったのは神田猛のほうである。(笑)
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独立してから50年か早いものだ。
●9/17~22日
●根室市総合文化会館多目的ホール
わたしたちは、根室中学が光洋と柏陵に分かれた最初の1年生である。当時の商業科の入試倍率は2倍を超えていたから、勉強のできる者がいた。学年平均点以下だと入学できなかった。学年平均以上の生徒でも入試当日の出来が悪いと落ちていた。1年生の時に同じFクラスのH(沖ネップ、歯舞中学校出身)は短大を卒業した年に税理士試験に合格している。大学でも3年次で税理士試験に合格するのはトップクラスの生徒のみ、だからHは優秀だった。20代から東京有楽町で事務所を開いてずっとやっている。Hは高校では生徒会副会長。同じクラスのカズコは中央執行委員。もう一人の中央執行委員は普通科のヒロコ、それぞれ仲が良かった。しっかりまとまっていた。
わたしは光洋中学校、タケシとヒロシは柏陵中学校出身だった。高1ではクラスが違っていたから接点がなかった。ちょっとトッポイ方だった。わたしは裸足が気持ちがいいので、足駄(高下駄、高さ10㎝)を履いて通学したからすぐに先輩たちに目をつけられた、生意気盛りだった。三人に呼び出し喰らって殴られた。これが「洗礼」。一度あったら2度目はない。いくら先輩でも2度目は黙っちゃいない、正当防衛が成立する、あいかわらず足駄で通学した。小学校の低学年のときから素手で焚き付け割りと四寸角の廃材を長柄の鉞で叩き折っていたから、空手の有段者よりも拳は硬かった。焚き付けの材料にはしなる生木も混じっており、それすら叩き折っていたので、手が力を入れるタイミングを知っていた。だから生木すら叩き折るような叩き方しかできない。顔を殴れば奥歯を折るだけではすまない、顔面骨折、額に当たれば頭がい骨陥没は免れない。高校を卒業した年に、ヒロシとカツミ(副番三人の一人)と新宿歌舞伎町のゲームセンターでパンチボールを叩いたことがあった。踏み込まずに腰のひねりだけで叩いたが180㎏を超えていた。同じウェイトのプロのボクサーでも強打者の部類だろう。それに加えて拳が硬い、当たる部分は拳の二か所で、両方合わせても2cm^2程度しかない。そこへ180㎏、踏み込むと250㎏くらいの力が加わる。人を殴るときには正当防衛が成立しても、殺す覚悟がなくてはできなかった。幸いに人生を暗転させてもかまわないシーンには遭遇しなかった。高1のときに危ないことはあった。数学のテストの採点で、採点ミスなのに言い訳して認めようとしないので、切れるところだった。教壇のところでO先生に採点ミスの指摘をしていた、うだうだ見苦しい言い訳に「なに!」っと大きな声が出てしまった。わたしはこの先生が嫌いだった。まともな授業をせずに将棋自慢の雑談をよくして授業時間を潰していたからだ。自分の指した将棋は全部記憶しているなんて自慢話ばかりしていた。そういう伏線があった。大きな声を一言発したとたんに、O先生はとっさにメガネを外した、殴られると思ったのだろう。教室は一瞬シーンとなった。クラスメートのだれもがわたしが教師を殴ると思った。一呼吸でスーッと冷静になれた。くるっと踵を返して席に戻った。仲のよかったヤスベ―が「あのとき殴ると思った、よくがまんしたな」あとで、そういった。一呼吸したとたんに、こんなクズ教師と刺し違えるほど自分の人生は安くはないと冷静になれた。手が出てたら加減ができないから、惨劇、高校退学は免れなかった。我流でヨガの呼吸法と同じトレーニングをしていたから、息を吐くことで感情をコントロールする術が自然に身についていた。このときはまだタケシには出遭っていない。
高2になってタケシやヒロシと同じクラスになった。二年G組。総番グループも生徒会もこの2年G組を中心に動いた。ヒロシは総番になり、生徒会は実質的にわたしの掌中にあった。だから、坊主頭という校則の改正もわたしの発案でやれた。3年の生徒会副会長のお二人が、「おんちゃ、言い出しっぺのおまえがやれ」、先輩の指示だから、否やはない。保護者へアンケートを取って生徒集会を開き、予定通り校則改正をした。長髪で修学旅行へ行ったのである。坊主頭で東京・京都・大阪・奈良へは行けません。なんてことはない、誰かがやる、そういう変わり目だっただけのこと。(笑)
学校側は鬼と金棒を同じGクラスにまとめてしまった。この二人の息があってしまった。まったく違うようでいてヒロシとわたしはどこか似たところがあった。
G組には個性的な奴らが揃っていた、揃うはずで、学校側が他の2クラスの生徒から隔離するために「アブナイ生徒たち」を集めた。計算外だったのは集められた危ない奴らはポテンシャルが高かったこと。学校としては火薬庫を大きくしたようなもの、管理を間違えたら大爆発だが、精神的には大人だったから自分たちで管理できた。それでも担任の冨岡先生には何度か迷惑をかけた。カチンときて間接的に何度か校長とぶつかることもあった。冨岡先生は古株だったから何とかしたのだろう。根室商業出身の野沢先生も古株の一人、当然バックアップがあっただろう。若い先生たちにも数人味方がいた。何か問題行動を起こしても、あいつらがやるんだから何か理由のあることとお目こぼしもあった。(笑)
わたしは1年生の時はF組だった。2年になってG組へ異動、担任の冨岡先生が「ebisuなにした?クラス1番はそのクラスに残すことになっていたが、お前は出された」、そう言った。「先生、引き取ってくれてありがとう」と笑って挨拶した。国語と古典の先生だった1年のときの担任のN先生とは相性が悪かっただけ。古典のテストクラストップでも評価は50だった。現代国語はN先生の解釈を答案に一度も書かなかった。自分の感じたとおりに書いた。60歳に手が届こうとしているロートルの感性と十代の生徒の感性が同じはずがないだろう、文学作品の解釈が違ってあたりまえ。頑固だった。以心伝心、こちらも願い下げだった。国語の先生は2年になって函館出身で空手家のS谷先生に変わった。この先生とはウマがあったね、でも、空手の稽古はつけてもらわなかった。(笑)
新しく担任になった冨岡先生は珠算部の顧問だった、珠算部員でもないのに全道競技会のとき2日間だけ珠算部員として大会に出ていたので顔見知りだった。高橋珠算塾の高橋尚美先生に頼まれて汐見町の方の教室の運営を任されていたので、両方の間で調整をつけて商工会議所主催の市民珠算大会開催にこぎつけた。巷の噂では、冨岡先生と高橋先生は仲が悪く、根室高校珠算部の卒業生に珠算塾を開かせて、潰してやるなんて物騒な話が流れていた。だから、間を取り持って調整する者が必要だった。そんなときにわたしが2年G組、冨岡先生のクラスの一員になったのである。二人の間をつなげと天の声がした、お鉢が自然に回ってきたとしか言いようがない。じつにスムーズに市民珠算大会開催となった。わたしの役割は車軸(根室高校冨岡先生)と車輪(高橋尚美先生と板野国男先生)の摩擦をなくするベアリングのようなもの。商業科の生徒にしかできない役割だった。第一回目の大会は根室高校柔道・剣道場が会場となった。旧友のH田と一緒に入部して柔道部に3か月ほど在籍して、この道場でコロコロ転がされていたことがある。畳を全部片づけて会場にした。高橋先生が原稿を書いて、わたしに選手宣誓をやれという。根室高校珠算部長でもよかったはずだが、調整役をしたご褒美だったのだろう。暗算部門のみ出場、優勝している。あとは主催者側に回って仕事の手伝い、読み上げ算を交代でやった。根室高校の先生には10ケタの読み上げ算を高速で読み上げられる人がいなかった。競技会で一つも間違えずに読むのはなかなかたいへんなのです。トレーニングを積んだ人でなければできません。根室では高橋先生と板野さん、そして高校生だったわたしだけ。ご褒美だったのだろうと思いますが、帯広で全珠連の全道の集まりがありました。高橋先生はそこへ連れて行ってくれました。車で出かけ、十勝川温泉に泊まって翌日が集会でした。泊った温泉は混浴、巨乳の若い女性がすぐ横に入ってきました。鼻血でそうだったな。
巷の噂の真偽のほどは知らない、両先生にそんなことをお聞きしたこともない。冨岡良夫先生と高橋尚美先生は何のわだかまりもなくそれ以降毎年市民珠算大会で顔を合わせていたはず。根室高校抜きでは市民珠算大会の開催が不可能でした。もう一つの珠算塾の板野先生と高橋尚美先生が市民珠算大会開催の相談をしていました。珠算塾だけではやれないのです。根室高校は元々根室商業ですから、そこのお墨付き、協力がどうしても必要でした。地域の学校と珠算塾が共同で動けば、大きな成果が出せるということ。そのことはいまも変わらぬ真理です。医学部受験生を育てるには、私塾だけでは大きな成果が出せない、根室高校の先生数名の協力が必要でした。化学と物理の指導は私塾ではできない。数か月前から連携がじつにうまくいっている。うれしいことです。
話を高校時代に戻すと、当時は全珠連の段位認定試験は権威がなかった。日商珠算能力検定1級保持者は一人だけだったから、珠算部の幽霊部員にされていた。計算実務検定の応用計算がわたしの競技種目だった。1級の応用計算問題10題を半分の時間5分で解く。先輩が全道大会の一週間くらい前になると誘ってくれた。生徒会会計のN先輩である。当時の生徒会会計は権限が大きかった。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、単独で生徒会の予算配分折衝、帳簿記帳、そして決算業務は会計の仕事、財務大臣のようなもの。珠算と簿記に堪能でなければ務まらない、選挙ではなくて指名制だったので生徒会では一番古株。そのN先輩から「ebisu、来週全道大会だ、行くぞ」って、後輩だから否やはない、返事は元気よく「ハイ!」だけ。そんな経緯から、冨岡先生はよく知っていた。わたしたちが卒業して数年後に、冨岡先生は親の介護のために50代で教員をやめて、東京大田区へ引っ越された。60代で癌を患い、何度か転移を繰り返したが、その都度手術をして東京の同期の同窓会に顔を出してくれた。数年前に亡くなられた。授業は下手くそだったけど、問題児だらけのクラスをよく受け持ってくれた、生徒思いのとってもいい先生だった。一杯問題起こしました、校長先生との間に挟まってたいへんだっただろう。でも冨岡先生は根室商業出身の野沢先生と並ぶ古株、新任の校長は滅多に口をはさめなかっただろう。卑怯なことやズルイことだけはしなかった。
2年でクラス替えになったら、タケシがいたのだが、何をやらかしたのか、聞いてみたことはない。総番のヒロシ(野球部)、大橋巨泉の深夜番組に何度か出演した女傑の富山かつえ(美術部長)、羅臼の大きな漁師の坊ちゃんのヤスベ―、共産党のマサミ。明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任されたので、ラグビー部を立ち上げるのに協力してくれたキヨシら数人。かつえは渋谷駅前にビルを一つ持っているそうだ。高校1年で中退したヒロシのポン友のタカギは銀座にバーを2軒もった。大学行こうって誘ってくれたのは総番のヒロシ。どこでウマが合ったのか、わからぬもの、感謝している。ヒロシの周りには不思議と面白い男たちが集まってくる、人望だろうな。ヒロシは水産会社の取締役だったが、もうやめたかな。
「北の勝」碓氷商店の番頭格のオトヤ、夫婦で元銀行員だった西浜ストアのコウジ、数年前に地元水産会社の経理担当役員で退職したニャンコ、散布漁協の専務理事だったケンジ(庭球部)…、多士済々。
3年になって友人二人に誘われて夏休みにアルバイトをした、土方である。柏陵中の土俵はその時に作り直した。だから今でも土俵はちゃんと作れるだろう。花咲港の灯台下の階段手すりも作った、天然記念物、円形柱状節理の「車石」への通路だ。50㎏のセメント袋を右肩に載せて急傾斜のところを何度も降りた。タケシもその夏にバイトしていた。理由があった。東京へ行くための旅費稼ぎだった。
夏休みが終わって8月下旬のある夜に、タケシが家へ来た。あらたまって正座して、「トシ、話がある」という。『ゴルゴ13』の作者である「斉藤タカオのところへ弟子入りしようと思う、一番弟子になりたい、学校辞めて東京へ行くことを考えている」、そんな話だった。「あと半年で卒業だ、3月に行ったらいい」、まったくアホな返事をした。
「3月になってからだと、一番弟子になれないかもしれない、俺は一番弟子になりたい」、思わず笑った。「なんだ決めているじゃないか、相談じゃなくって報告だ」、大笑い。決意は固い、好く決断したと、その思いっきりのよさに吃驚、見直したよ。若い人は冒険してもらいたい。
Take a chance on you.(チャンスにかけてみたら) ⇒アンジェラ・アキ
…高1英語教科書VIVID-1 Lesson 6のタイトル。
タケシは字が上手だった。学校祭の新聞コンクールでガリ版原稿はタケシに頼んだ。クラスの中でだれがどの分野に得意技をもっているか承知していた。あいつは字がきれいだった。レイアウトを担当した友人から記事が足りない、余白があるので埋める記事が必要と言われて、仕方ないので埋め草を提供した。わたしの書いた記事のできは悪かった、中身よりも体裁、2位だった。タケシのお陰だ。わたしにもっとましな記事が書けたら優勝だっただろう。
タケシよりも絵の巧いのがいた。中学時代の同級生のケンジだ。高2のときは隣のクラスだった。中学時代から北海道の展覧会に出すたびに賞をもらっていた。わたしも絵が好きだったが、ケンジの絵と比べたら才能の違いは歴然としていた。勝負にならない、それで絵はあきらめた。ケンジと中学3年間同級生だったのが運の尽き、あいつは俺の絵心にとどめを刺した。大好きだった大工仕事もどうやら才能がなさそう、ビリヤードの店番手伝いながら、中2のときにしかたなく勉強の方へ走った。少年マガジンと少年サンデーは中1のときに発刊されたと思うが、週刊漫画誌として初めてだった。それを教えてくれたのはケンジである。ケンジも漫画家への道を進んでほしかった。ケンジは慎重派だった。タケシの決断と度胸の良さは群を抜いていた。
東京へ行ってから気が付くと、ケンジは隣の駅に住んでいた。漫画の本を買って読むと、東武練馬駅で降りてあいつのところへ寄って置いてきた。通学路の途中だから、定期券で乗り降りできた。ケンジは一時期タケシを手伝っていた。絵の腕はいいから重宝しただろう。
神田は数年斉藤タカオ・プロダクションのスタッフとして作画して、3年くらいで独立し、京王線の国領に引っ越して住んだ。独立してからすぐに連絡があり、「税金の申告の仕方がわからない、トシ頼む」といわれては断れぬ。そのころはまだ大学生だった。領収書を月別に保管しておくように言って、2月にあいつのアパートへ行って、とってあった領収書から帳簿をつけて、決算し、税務申告書を書いて提出した。やってやるから、昼飯を食わせろという条件で3日くらい通ったはず。調布税務署だったかな。2年目も頼まれてやった。3年目は『御用牙』を描いていて売れっ子の仲間入り、収入も大きくなっていたから税理士に頼んでやってもらえというと、タケシはその通りにした。
タケシは当時景気がよくて、何度か誘ってくれてあいつの行きつけの新宿のバーでおごってもらった。その都度数軒のバーをハシゴ。なつかしい。
50年か、早いものだ。「50周年劇画展」おめでとう。
観に行くよ。

<余談:丸刈り坊主頭の校則改正と総番制度の廃止>
丸刈り&詰襟の制服と総番制度は根室商業時代から引き継がれてきた伝統であった。ヤクザとのもめごとがあったときに根室高校を代表するのは総番長ただ一人、だから5年先輩まではそういうときのために総番長に仁義の切り方と口上が伝わっていた。
「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうござんす。手前生国発します処、根室にござんす...」
任侠映画そのままだった。わたしは親戚の5年先輩の野球部のキャプテンが目の前で実演してくれたのを見ている。口上を間違えたら、殺されても文句は言えないと言っていた。それがヤクザのルールだと。総番長の責任は重かったのである。半端な覚悟ではやれない、いざというとき、ヤクザとのもめごとに学校を代表して出向かなければならなかったのだから。小さく折りたたんだ紙に仁義の口上が書いてあった。もらったような気もするが、机の中にしまったまま紛失してしまった。お祭りのときに目付の鋭い高校生が十数人、五年先輩よりも一歩下がって歩いていた。あれは年に一度の儀式だったのだろう。総番長は高下駄を履いて、後ろの十数人は靴や下駄だった。
ヒロシに確認したが、口上は伝わってなかった。五年先輩の総番長が卒業した後も口上書を小さく折りたたんで大事に持っていたから、伝えなかったのかもしれぬ。もうヤクザと高校生がもめごとを起こすようなバンカラな学校でもそういう時代でもなくなっていた。
中学校3年の冬休みまで一度も坊主頭にしたことがなかった。中3の冬休みに根室高校受験のために坊主頭にした。1年の終わりころに校則を変えたら、坊主頭で修学旅行に行かなくて済むことに気が付き、校則改正の条項を調べて、手続き、具体的な校則改正戦略を練った。先輩の副会長二人に話したら、「お前がやれ」ということになり、会長のSさんも了解していた。先生たちが弱いのは保護者、だから保護者への校則改正のアンケート調査票をデザインした。2年になったばかりのときのこと、4月にスタートして、10月下旬が修学旅行だったので、7月の夏休み前までにアンケートの集計と生徒会集会を開けば、間に合うことが分かった。あとは分担を決めて坦々と仕事を進めた。予定通りに夏休み前の校則改正し、髪を伸ばして10月下旬に修学旅行へ行った。当時は11泊12日だったと思う。京都・大阪・奈良・伊豆の下田・東京だった。
その年の秋に生徒会役員選挙だったと思う。ある日、副会長のH谷さんとF堂さんがわたしに「次の生徒会会長はお前がやれ、応援演説は俺たち二人でやる」と言い渡された。先輩に言われたらノーの返事はない、「ハイわかりました」と言って、生徒会顧問へ立候補の旨伝えたら、数日後に生徒会会計だから駄目だという。生徒会会計は指名する後輩を決めてあったし、会長をやっていてもいざというときには両方見ることはなんでもないこと。そう伝えたら、校長が難色を示しているらしかった。Gクラスから生徒会長がでたら、何をやるかわからない、現に生徒会会計が校則改正を実現していたから、警戒された。
(あの当時は高校生にも政治活動をしそうなものには公安のマークがついていた。誘われて矢臼別のキャンプに行った後にあることが起きて気が付いた。集合写真を1枚だけ撮ったのだが、フィルムを現像に回したら、その一枚だけネガがなくなっていた。フィルムには番号がついているので途中を抜けば確認できる、油断も隙もありゃしない。無邪気だった。その写真屋さんはとっくにないから迷惑はかからない。だから書ける。(笑) ああいうキャンプに参加したら、集合写真は撮ってはいけないということを学んだ。)
顧問の先生が間に入って気の毒だったので、先輩二人に事情を説明して降りた。会長でなくても生徒会は動かせるし生徒会会計でやれてきたのだから。もったいないので、だれか代わりがいないかと考えたら、1年生の時の友人のH(税理士)が思い浮かんだ。歯舞中学出身でネームバリューがないから会長職は無理、副会長への立候補を頼んでみた。先輩二人の副会長の応援演説をつけてやるからと説得したら、引き受けてくれた。先輩二人もOKだった。そういう経緯でHは副会長になった。会長にはなりそこなったが、同じクラスの中央執行委員のカズコと前から中央執行委員だった普通科のヒロコが旧知の仲だったので、生徒会を動かすのに何の支障もなかった。
もう一つ、根室商業時代から続いた総番制度もヒロシとA野と三人で相談して総番制度を廃止することに決めた。実際にやったのはヒロシである。内部で相当もめただろう。ヒロシは愚痴一つこぼさないで実行した、男だね。
団塊世代のわたしたちはそういう時代の変わり目に立っていた。ヒロシはヒロシの役割を果たし、わたしはわたしの役割を果たした。ヒロシは同期の桜、戦友だ。高校を卒業して東京へ一緒に行った。千歳からスカイメイトを利用、飛行機だった。「トシ、一緒に行こう」とあいつが誘ってくれたから、東京の大学へ進学できた。もちろん、一生懸命に働いて仕送りをしてくれた両親のお陰でもある。
漫画の材料になりそうな高校時代を過ごした。神田たけ志とはそういう激動の時代に出遭った、あいつもGクラスのメンバーの一人である。神田たけ志はペンネーム、わたしが高校時代に出遭ったのは神田猛のほうである。(笑)
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#4161 「九人会」の新年会 Jan. 2, 2020 [90.根高 こもごも]
高校同級生に「九人会」(メンバーは11人)というのがあり、毎年正月2日にN山宅で新年会を、3月か4月に温泉旅行を催している。わたしは根室へ戻ってきた2003年の正月から「参加」しているから、新年会は18回目となる。奥方連れで来る人もあり、単身で来る人もいる。九人会ではないが、N山さんの個人的なお付き合いのある人も数人来る。リビングにはテーブルが三つ繋げられ、そこにご馳走が並ぶ。N山さんの奥さんの好意で毎年そうなっている。参加する人たちはそれぞれ自分の好みのビールや酒をもっていく。
いつからということもなく始まるので、わたしは5時半ころに出かけた。歩いて2分のご近所さんなのだ。すでに半数以上が集まって談笑していた。ビールを注いでもらい、みんなで乾杯した。人が来るたびに、乾杯なのである。このあと、北の勝の番頭さんのオトヤ(Y口)が来て乾杯、某水産会社の元経理担当役員のニャンコ(Y崎)が長節湖でアイスヨットを楽しんで風呂に入ってからゆるゆると来て乾杯、雪がないのと雨が降ってから凍結したので長節湖の氷は最高の状態。アイスヨットがよく滑るという。鋼のブレードをつけて自分で研ぐのだそうだ。続けて共産党のアオ(A野)が現れて乾杯、元根室漁業組合のエンちゃん(E藤)が来て乾杯。毎年、だれかが入院したり、癌になったりと寄る年波には勝てないが、今年も一人もかけることなくめでたく新年会。この新年会はもう数十年続いている。
毎度のことなのだが、酔いが回ってくると担任の冨岡良夫先生のことが話題になる。ヨッコ(Y岡)は普通科だったが、あるとき3Gのクラス会に参加していて、冨岡先生に「おまえだれだ?」と問われ、「ebisuの友だちです」と応えたら、先生は「そうか、それではうちのクラスの一員と認めよう」と冨岡先生公認の名誉(?)会員になった。
冨岡先生はお兄さんが中国へ赴任になって、両親の面倒を見る者がいないので、50歳を過ぎたあたりで退職されて東京大田区の実家に戻られた。東京で開かれた同期会では在京の担任は冨岡先生お一人なので、毎回出席してくれた。わたしはY岡をクラス会員として認めた経緯を冨岡先生から直接聞いて、ありがたくて座りなおして正座し丁重に御礼申し上げた。Y岡は顔の広い男で3Gに友人が何人もいて、高校を卒業してからそれぞれと付き合いが深かった。ebisuの中学時代の同級生で数人で遊んだ仲間の一人、親友である。もう一人中学時代のだいじな友H田がいたのだが、16歳から一度もあっていない、どこにいるのかわからぬ。柔道部へはあいつと一緒に入部した。ずっと会いたいと思っている。ブログを読んで連絡をくれたらうれしい。Y岡は真面目で、頑固一徹な性格、うまく立ち回るなんてことができない性分である。太平洋石油の根室支店長だったというと、根室ではたくさんの人が知っている。人柄と実直さが評価されて出世したタイプだろう。
宴たけなわになると、キヨシ(N山)は東京大田区にお住いの冨岡先生に電話を入れるのだが、数年前に他界されてしまった。あちこち癌になって、何度も手術をして20年くらい元気だった。10時ころ、先生が寝てしまっているのに構わず電話して、みんなで順番に出て挨拶するのである。先生、手術を何度もして体調がすぐれないこともあったはず。
高校では2年になるときにクラス編成替えがなされる。EとF組からG組に来た生徒たちは、冨岡先生に拾ってもらったものが多い。問題児(笑)が多いと言い換えてもいい。冨岡先生の説明では成績トップのものを自分のところに置いて、2番と3番を出し、4番を自分のクラスにして、5番と6番を出す…3n-2番目を元のクラスとするというようなルールだったらしい。
毎度のことなのだが、酔いが回ってくると担任の冨岡良夫先生のことが話題になる。ヨッコ(Y岡)は普通科だったが、あるとき3Gのクラス会に参加していて、冨岡先生に「おまえだれだ?」と問われ、「ebisuの友だちです」と応えたら、先生は「そうか、それではうちのクラスの一員と認めよう」と冨岡先生公認の名誉(?)会員になった。
冨岡先生はお兄さんが中国へ赴任になって、両親の面倒を見る者がいないので、50歳を過ぎたあたりで退職されて東京大田区の実家に戻られた。東京で開かれた同期会では在京の担任は冨岡先生お一人なので、毎回出席してくれた。わたしはY岡をクラス会員として認めた経緯を冨岡先生から直接聞いて、ありがたくて座りなおして正座し丁重に御礼申し上げた。Y岡は顔の広い男で3Gに友人が何人もいて、高校を卒業してからそれぞれと付き合いが深かった。ebisuの中学時代の同級生で数人で遊んだ仲間の一人、親友である。もう一人中学時代のだいじな友H田がいたのだが、16歳から一度もあっていない、どこにいるのかわからぬ。柔道部へはあいつと一緒に入部した。ずっと会いたいと思っている。ブログを読んで連絡をくれたらうれしい。Y岡は真面目で、頑固一徹な性格、うまく立ち回るなんてことができない性分である。太平洋石油の根室支店長だったというと、根室ではたくさんの人が知っている。人柄と実直さが評価されて出世したタイプだろう。
宴たけなわになると、キヨシ(N山)は東京大田区にお住いの冨岡先生に電話を入れるのだが、数年前に他界されてしまった。あちこち癌になって、何度も手術をして20年くらい元気だった。10時ころ、先生が寝てしまっているのに構わず電話して、みんなで順番に出て挨拶するのである。先生、手術を何度もして体調がすぐれないこともあったはず。
高校では2年になるときにクラス編成替えがなされる。EとF組からG組に来た生徒たちは、冨岡先生に拾ってもらったものが多い。問題児(笑)が多いと言い換えてもいい。冨岡先生の説明では成績トップのものを自分のところに置いて、2番と3番を出し、4番を自分のクラスにして、5番と6番を出す…3n-2番目を元のクラスとするというようなルールだったらしい。
「ebisu、おまえなにやった、出されるはずがないのにG組になった、N沢さんによっぽど嫌われるようなことしたんだろう」
もちろん胸に覚えがあった。担任で国語の先生のN沢先生とはたしかにウマが合わなかった。現代国語と古典が担当だったが、現代国語では先生の解釈をテストで一度も書いたことがなかった。自分が感じたとおりに書いた。解釈にばらつきの小さい古典でテストが一番でも評定は50だった。それでも現代国語はN沢先生の解釈を一度足りとも書かなかったから、反抗的な生徒に映ったのだろう。なんてことはないのだ、理由は簡単、答案に嘘は書きたくなかっただけ。正直すぎた、そんなところがY岡とウマが合ったのだろう。評価をどのようにつけようが、つける先生の勝手だと思っていた。定年間近か、頭がコチコチ、器量の小さい人だった。こういう相性の悪い人とはお互いに距離があった方がいい。
(N沢先生、わたしを追い出して清々しただろ。わたしにとってもありがたかった。2年生になると国語の担当が変わった。新谷先生になった。函館出身の空手家だったから、話があった。二松学舎大学だったと思う。空手の有段者は柔道部顧問の石間先生と新谷先生だけ。新谷先生は30歳代、部活をもってなかった。)
そういうわけで、Gクラスには個性的な者たちが集まった。事情は各人各様だったが、それらを全部呑み込んでくれた冨岡先生とは心のつながりがあった。授業は下手くそだったが、クラスの生徒たちに慕われた先生のお一人だった。
家が牧場をやっているA野は毎年、農作業で家の手伝いをして学校に来れない時期があった。1学期の終業式は草刈りが忙しくて、出席したことがない、それはよく知っていた。3年になって「商業実践」という週2回2時間連続の授業があった。それぞれが定款作成をして会社を作り、水産物を取引して利益を競う。相場は実際の数値を黒板に書いてやっていた。A野は休むから、市場価格のメモや帳簿の記録や取引ができない。出席日数も問題になった。この科目は同時に2人の先生が担当したと記憶しているが、冨岡先生はY浅先生にA野を卒業させてほしいと頼むと、Y浅先生が複数の生徒の帳簿から数字をピックアップして、資料を作ってくれて無事卒業になった。わたしは大学受験で2月初めから東京へ行って、遊び惚けて3月下旬にもどったから卒業式も出ていない。卒業証書は同級生のだれかが家までもってきてくれていた。何とか卒業できたらしい。
家が昆布漁師の家庭の子どもたちはみんな家の手伝いをしていた。わたしも家業のビリヤードを小学校低学年から高校卒業するまで毎日数時間手伝っていた。ビリヤード場が遊び場だった。さまざまな職業の大人たちと話をして、ゲームを楽しみ、観察できた。個人的な事情はそれぞれ違っているが、みんな冨岡先生のお世話になったのだ。先生の方から見ると、やんちゃで手間のかかった生徒ほどかわいい、なんとしてでも全員無事卒業させたいのである。卒業してから52年たっても、繰り返しそれぞれの思い出が語られている。A野の話は初めて聞いた、これは冨岡先生への供養なのだと話を聞きながらふと思った。
N山は酔うと電話したくなる癖がある、横浜の絵手紙の先生をしている旧姓K尻さんへ電話した。9時ころだったかな。N山が少し話をしてから、電話を回してきた。
「おめでとう」
「わたしのことなんかもう忘れたでしょ」
「わすれてないよ、だれも忘れてなんかいないよ、ご主人お元気?」
「うれしい、なんとかやってる」
50年たって体はポンコツになりつつあるが、こころはいまも変わらない。話をするとあのころに一気に戻る。K尻さんは羅臼の人、当時は羅臼に高校がなかったので、根室高校へ進学する者が多かった。学校の寮があったようだがK尻とヤスベ(A部)は下宿していた。ミネ(D目)は寮だと言っていたような気がする。
K尻は真面目なタイプでよく勉強していた、このグループをXグループとすると、NKやE藤やK谷そしてY崎もまじめでよく勉強したからXグループに分類できる。Y口は絵が得意で個性派だった、かれも頑固一徹派だ。テレビ番組「11pm」に数回出演したことのあるT山も美術部長で個性派、女傑と言っていい、渋谷にビルをもっている。彼ら・彼女たちをYグループとしよう。それとヒロシたちのグループをZとする。勉強も部活もほどほどというグループをTグループとする。3Gはそういう4つのグループに分類できたが、どういうわけかまとまりの好いクラスだった。1年で退学しなけりゃ同じクラスだったT木がいる。ヒロシのポン友だ、銀座に飲食店を2店持った。才覚も度胸もあるやつだ、T木が同じクラスにいればもっと面白かっただろう。根室高校のはねっかえりは銀座でも通用することをT木が証明してくれた。ヒロシの紹介で初めて会ったときに、こいつはモノが違うなと思ったよ。(笑)
1年のときから学校の指名で生徒会会計をしていたから、わたしは生徒会とのつながりが強かった。当時の会計は部活の予算や生徒会予算のすべてについて帳簿をつけて、決算業務もしていた。部長と副部長を個別に生徒会室に呼んで、予算折衝をやるのだが、2年生の時に一人でやらせてもらった。これがエレクトロニクス輸入商社や臨床検査会社SRLで入社早々から予算編成を管理を任されても、すっとこなせた理由だろう。生徒会会計の仕事をちゃんとやれば、予算が500億円の会社の予算編成や管理が可能だ。生徒会会計は簿記が堪能な生徒が指名された。1年先輩のN野さん(同じ大学へ進学)がわたしを指名してくれた。それまで面識がなかった。この先輩と副会長のFさん(室蘭税務署長で退職)がわたしをバックアップしてくれた。2年生の時にやった「丸刈り」の校則改正は、提案したら、3年生の会長と副会長の二人が、「言い出しっぺのおまえがやれ」と任せてくれた。保護者の賛成が鍵だったので、アンケートをとり、全校集会を開いて修学旅行の3か月前に校則改正をした。長髪で東京・奈良・大阪・京都を闊歩した。副会長の二人が応援演説をやるから、会長に立候補しろと指名があったが、校長が強硬に反対した。「会計をやっているから」と変な理屈をつけた。間に入った生徒会顧問の先生が困っているから、退いた。21歳で税理士試験に合格するH勢は1年生の時に同じクラスだったが、応援演説は3年生の普通科のH谷さんと商業科の副会長のFさんにやってもらうから副会長に立候補するように説得した。3年生の副会長二人に事情を話して、H勢の応援演説をお願いした。部活予算査定権は会計が握っているし、生徒会では一番古株で丸刈り校則改正という実績もあった。生徒会長へは旧知のオサムがなったが、何かやりたいことがあって立候補したわけではなかった。だから、生徒会は自由に動かせた。明照高校生徒会・会長の北側さん(元根室市議)とも生徒会室で会合をもった。部活の交流をしようということだった。女子バレー部の練習試合を組んだ。生徒の首に縄は付けられぬ、N村校長は戦々恐々としていただろう。
中大法学部出身のT口先生は生徒会顧問の一人、元革マル派で時事問題研究会の顧問だった。十数人の部員がいたはずだ。女性生徒会副会長のT部が時事問題研究会所属、美術部長のT山と並ぶ女傑だった、思想的にはフラット、利口な生徒だったから多少の感化を受けただけ。そういうわけで生徒会の運営にはT口先生の影響力はゼロだった。毎年夏にキャンプへ行っていたが、2年生の時に生徒会メンバー3人をふくめて十人くらいで長節湖でキャンプを企画したが、そのときに「俺もつれていけ」と頼まれ、一緒に楽しんだ。
ビリヤード店の手伝いをずっとしていたから、本を買う程度の小遣いには不自由しなかった。それに、居酒屋「酒悦」をやっていたお袋に言えば、本代は制限なしで出してくれた。日商簿記1級の問題集ではつまらなくなっていたので、新聞広告に載っていた、中央経済社から出版され始めた「公認会計士2次試験講座」をお袋に買っていいか訊いたら、二つ返事でOKだった。1年ほどかけて、7巻出版された。居酒屋「酒悦」は元々おふくろが始めた小さな店だが、常連客が多かった。本が買えたのはお店のお客さんたちと両親のお陰です。
もちろん胸に覚えがあった。担任で国語の先生のN沢先生とはたしかにウマが合わなかった。現代国語と古典が担当だったが、現代国語では先生の解釈をテストで一度も書いたことがなかった。自分が感じたとおりに書いた。解釈にばらつきの小さい古典でテストが一番でも評定は50だった。それでも現代国語はN沢先生の解釈を一度足りとも書かなかったから、反抗的な生徒に映ったのだろう。なんてことはないのだ、理由は簡単、答案に嘘は書きたくなかっただけ。正直すぎた、そんなところがY岡とウマが合ったのだろう。評価をどのようにつけようが、つける先生の勝手だと思っていた。定年間近か、頭がコチコチ、器量の小さい人だった。こういう相性の悪い人とはお互いに距離があった方がいい。
(N沢先生、わたしを追い出して清々しただろ。わたしにとってもありがたかった。2年生になると国語の担当が変わった。新谷先生になった。函館出身の空手家だったから、話があった。二松学舎大学だったと思う。空手の有段者は柔道部顧問の石間先生と新谷先生だけ。新谷先生は30歳代、部活をもってなかった。)
そういうわけで、Gクラスには個性的な者たちが集まった。事情は各人各様だったが、それらを全部呑み込んでくれた冨岡先生とは心のつながりがあった。授業は下手くそだったが、クラスの生徒たちに慕われた先生のお一人だった。
家が牧場をやっているA野は毎年、農作業で家の手伝いをして学校に来れない時期があった。1学期の終業式は草刈りが忙しくて、出席したことがない、それはよく知っていた。3年になって「商業実践」という週2回2時間連続の授業があった。それぞれが定款作成をして会社を作り、水産物を取引して利益を競う。相場は実際の数値を黒板に書いてやっていた。A野は休むから、市場価格のメモや帳簿の記録や取引ができない。出席日数も問題になった。この科目は同時に2人の先生が担当したと記憶しているが、冨岡先生はY浅先生にA野を卒業させてほしいと頼むと、Y浅先生が複数の生徒の帳簿から数字をピックアップして、資料を作ってくれて無事卒業になった。わたしは大学受験で2月初めから東京へ行って、遊び惚けて3月下旬にもどったから卒業式も出ていない。卒業証書は同級生のだれかが家までもってきてくれていた。何とか卒業できたらしい。
家が昆布漁師の家庭の子どもたちはみんな家の手伝いをしていた。わたしも家業のビリヤードを小学校低学年から高校卒業するまで毎日数時間手伝っていた。ビリヤード場が遊び場だった。さまざまな職業の大人たちと話をして、ゲームを楽しみ、観察できた。個人的な事情はそれぞれ違っているが、みんな冨岡先生のお世話になったのだ。先生の方から見ると、やんちゃで手間のかかった生徒ほどかわいい、なんとしてでも全員無事卒業させたいのである。卒業してから52年たっても、繰り返しそれぞれの思い出が語られている。A野の話は初めて聞いた、これは冨岡先生への供養なのだと話を聞きながらふと思った。
N山は酔うと電話したくなる癖がある、横浜の絵手紙の先生をしている旧姓K尻さんへ電話した。9時ころだったかな。N山が少し話をしてから、電話を回してきた。
「おめでとう」
「わたしのことなんかもう忘れたでしょ」
「わすれてないよ、だれも忘れてなんかいないよ、ご主人お元気?」
「うれしい、なんとかやってる」
50年たって体はポンコツになりつつあるが、こころはいまも変わらない。話をするとあのころに一気に戻る。K尻さんは羅臼の人、当時は羅臼に高校がなかったので、根室高校へ進学する者が多かった。学校の寮があったようだがK尻とヤスベ(A部)は下宿していた。ミネ(D目)は寮だと言っていたような気がする。
K尻は真面目なタイプでよく勉強していた、このグループをXグループとすると、NKやE藤やK谷そしてY崎もまじめでよく勉強したからXグループに分類できる。Y口は絵が得意で個性派だった、かれも頑固一徹派だ。テレビ番組「11pm」に数回出演したことのあるT山も美術部長で個性派、女傑と言っていい、渋谷にビルをもっている。彼ら・彼女たちをYグループとしよう。それとヒロシたちのグループをZとする。勉強も部活もほどほどというグループをTグループとする。3Gはそういう4つのグループに分類できたが、どういうわけかまとまりの好いクラスだった。1年で退学しなけりゃ同じクラスだったT木がいる。ヒロシのポン友だ、銀座に飲食店を2店持った。才覚も度胸もあるやつだ、T木が同じクラスにいればもっと面白かっただろう。根室高校のはねっかえりは銀座でも通用することをT木が証明してくれた。ヒロシの紹介で初めて会ったときに、こいつはモノが違うなと思ったよ。(笑)
1年のときから学校の指名で生徒会会計をしていたから、わたしは生徒会とのつながりが強かった。当時の会計は部活の予算や生徒会予算のすべてについて帳簿をつけて、決算業務もしていた。部長と副部長を個別に生徒会室に呼んで、予算折衝をやるのだが、2年生の時に一人でやらせてもらった。これがエレクトロニクス輸入商社や臨床検査会社SRLで入社早々から予算編成を管理を任されても、すっとこなせた理由だろう。生徒会会計の仕事をちゃんとやれば、予算が500億円の会社の予算編成や管理が可能だ。生徒会会計は簿記が堪能な生徒が指名された。1年先輩のN野さん(同じ大学へ進学)がわたしを指名してくれた。それまで面識がなかった。この先輩と副会長のFさん(室蘭税務署長で退職)がわたしをバックアップしてくれた。2年生の時にやった「丸刈り」の校則改正は、提案したら、3年生の会長と副会長の二人が、「言い出しっぺのおまえがやれ」と任せてくれた。保護者の賛成が鍵だったので、アンケートをとり、全校集会を開いて修学旅行の3か月前に校則改正をした。長髪で東京・奈良・大阪・京都を闊歩した。副会長の二人が応援演説をやるから、会長に立候補しろと指名があったが、校長が強硬に反対した。「会計をやっているから」と変な理屈をつけた。間に入った生徒会顧問の先生が困っているから、退いた。21歳で税理士試験に合格するH勢は1年生の時に同じクラスだったが、応援演説は3年生の普通科のH谷さんと商業科の副会長のFさんにやってもらうから副会長に立候補するように説得した。3年生の副会長二人に事情を話して、H勢の応援演説をお願いした。部活予算査定権は会計が握っているし、生徒会では一番古株で丸刈り校則改正という実績もあった。生徒会長へは旧知のオサムがなったが、何かやりたいことがあって立候補したわけではなかった。だから、生徒会は自由に動かせた。明照高校生徒会・会長の北側さん(元根室市議)とも生徒会室で会合をもった。部活の交流をしようということだった。女子バレー部の練習試合を組んだ。生徒の首に縄は付けられぬ、N村校長は戦々恐々としていただろう。
中大法学部出身のT口先生は生徒会顧問の一人、元革マル派で時事問題研究会の顧問だった。十数人の部員がいたはずだ。女性生徒会副会長のT部が時事問題研究会所属、美術部長のT山と並ぶ女傑だった、思想的にはフラット、利口な生徒だったから多少の感化を受けただけ。そういうわけで生徒会の運営にはT口先生の影響力はゼロだった。毎年夏にキャンプへ行っていたが、2年生の時に生徒会メンバー3人をふくめて十人くらいで長節湖でキャンプを企画したが、そのときに「俺もつれていけ」と頼まれ、一緒に楽しんだ。
ビリヤード店の手伝いをずっとしていたから、本を買う程度の小遣いには不自由しなかった。それに、居酒屋「酒悦」をやっていたお袋に言えば、本代は制限なしで出してくれた。日商簿記1級の問題集ではつまらなくなっていたので、新聞広告に載っていた、中央経済社から出版され始めた「公認会計士2次試験講座」をお袋に買っていいか訊いたら、二つ返事でOKだった。1年ほどかけて、7巻出版された。居酒屋「酒悦」は元々おふくろが始めた小さな店だが、常連客が多かった。本が買えたのはお店のお客さんたちと両親のお陰です。
生徒会室には新聞部が同居していたから、いつも一緒、新聞部のメンバーたちとも名字で呼び捨てか、ニックネームで呼んでいた。覚えているのは「ユカワ」と「ケイジ」、ユカワは学校の先生、ケイジは東京でソフト会社を立ち上げた。
A野が今回こんな話をした。
「3Gの生徒が1年生のIを殴ったと、I君の親戚筋のTひろ子から叱られた」
「だれがそんなことしたのかとTに訊いたら、クラスのKだった」
広子は生徒会中央執行委員の一人であるが、生徒会で頻繁に顔を合わせて気易かったのに、わたしにはそういう話をしなかった。当時の生徒会会計は権限が大きくていわば財務大臣だったから、そういうことをする人とはかかわりがないと思っていたのかもしれない。中年太りもせずに品よく老けた。いまでも仲の良い友人の一人である。
下級生のI君にはちっとも記憶がない。わたしたちが3年生のときには、総番制度もなくなっていたから、下級生を呼び出して「生意気だ」といってぶん殴るやつは聞いたことがなく、初耳だった。
わたしは1年生の時に高さが10㎝ほどの高下駄(アシダ)を履いて通学していたので、すぐに総番グループに目をつけられ、生意気だと2年生2人に呼び出しを食らって殴られたことがある。軍隊とおんなじ、通過儀礼である。根室高校はバンカラな根室商業が前身だから、そういう気風が残っていた。歯を食いしばれば口の中を少し切るだけ。たいしたパンチではないから、歯を折るような危険はない。身体を逃げなければ側頭部に当たったりしないので、どうってことはないのだ。校則で頭は丸坊主、詰襟の学生服と定められていた。呼び出しを食らって殴られた翌日もアシダで通学したが、2度目の呼び出しはなかった。1度目はこちらが下級生だから、おとなしく殴られてやるが、2度目があったら多少のケガをさせても学校から処分を食らうことはない。しつこい方が悪い。
小学生のころは石炭ストーブだった。灯油ストーブになるは東京オリンピックの1964年(高校1年生)ごろからだった。夏から秋にかけて石炭ストーブの焚き付けを山ほど割って積んでおく。小学生が毎年拳と手刀で焚き付けを叩き折っていたから、自然に拳が硬くなってしまった。9年間で数千本叩き折っただろう。腕力をつけるために廃材を大きな鉞で叩き折っていたので、背筋力が強かった。背中をそらせて、鉞(まさかり)を振りかぶって地面にまでつけて、円を描くようにゆっくり持ち上げながら真上にまで来たら、腰のばねを使って狙った一点めがけて渾身の力で振り下ろす。当たるときがマックスになるようにイメージして、四寸角や五寸角の柱の廃材を無心に叩いた。中学生になったころには拳は硬くて骨密度が増し重くなっていた。硬い拳で頭蓋骨を叩いたら、まともに当たれば一撃で砕いてしまっただろう。生木の焚き付け材でも叩き折るタイミングとスピードを身体が知っていた。だから、一度も人を叩いたことはない。だれだって人殺しにはなりたくない。高校を卒業した年にヒロシとムサシと3人で新宿歌舞伎町でパンチボールを叩いたときに180㎏を超えた。腰の回転だけ、踏み込まないでもでそれだけの重さがあった。踏み込めば衝撃は倍加する。オヤジが落下傘部隊員だったので、忍者まがいの訓練の話を聞いていて、屋根から飛び降りたり、薪割りで身体を鍛えた、愉しかった。2階の屋根に上って飛び降りようとして、下を覗いたときに、その高さにビビった。とてもじゃないが、けがは必至と思えた、落下傘部隊は3階の高さから飛び降りる訓練をする。その高さだと五点着地が完全にできないと大けがをする。脚に衝撃を逃がしながら、回転して肩、側面、尻、脚へと衝撃を逃がす。無意識にやれるようになるまで、訓練する。やって見せてくれたら、あるいは2階の屋根から飛び降りる技が身についたかもしれない。やれたのは脚を屈折して衝撃をやわらげながら、片手をついてさらに着地の衝撃を分散する、これは三点着地で、映画で忍者が屋根から飛び降りるときの技だ。オヤジは言葉で説明しただけで、五点着地をやって見せてくれなかった。一緒に厳しい訓練をへた戦友たちが、みんな南方で戦死している。戦時宣伝映画(加藤隼戦闘隊)撮影のための降下訓練中に右手複雑骨折をしたオヤジだけが生き残った。主導索に右腕をひっかけて、飛行機を飛び出した瞬間に複雑骨折、右手はブランとしてまともな態勢では着地できない、よく命があったものだと言っていた。息子には五点着地技を伝えるのが嫌だったのだろう。小学生のころ、オヤジは自衛隊から空挺部隊の教官で来てほしいと要請があったようだった。生き残っている落下傘兵はほとんどいなかったからだろう。オヤジはノーだった。
「戦友たちは、結婚もせず、子どもも作らず、靖国で会おうと言い残して死んでいった、おれは結婚もしたし、子どももいる。幸せだ」
こんどは自分が訓練した空挺兵が戦地で死ぬかもしれない、関わりたくなかったのだろう。
記憶がはっきりしないが、3年生になって、A野によれば数人で総番長のヒロシと総番制度について話をしたようだ。そして何十年間も続いた総番制度を廃止したのだが、統制がとれなくなったという弊害は出た。総番長は本来は外部ともめごとがあったときに、学校を代表して、おさまりをつけなければならない。それがルールだった。生徒の誰かがヤクザとたまたまもめごとを起こしても、総番長が代表して話をつけるから、責任が重かったのである。5代前の総番長までは「仁義」の切り方、そして台詞が伝わっていた。「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さったありがとうさんにござんす、手前生国発しますところ…」、滔々(とうとう)とヤクザの流儀であいさつする。台詞を間違えたら、殺されたって文句は言えない、5代前の親戚の総番長が仁義を切って台詞を実演して見せてくれた。小さく折りたたんだ台詞を書いた紙をそのときにいただいた気がするが、机の中にしまったままいつかなくなった。映画の一シーンのような名文句だった。折りたたんでもっていたということは、その次の総番長には伝えなかったということ、そういう時代ではなくなっていたのを感じたからだろう。野球部のキャプテンだった人だ。お祭りのときに総番グループは総番長が足駄を履いて先頭を歩き、数歩下がってグループの十数人が肩で風を切って歩いた。「行列」のときは総番長だけが高い下駄を履き、その他は低い下駄を履いていた、総番長と並んで歩くことはご法度。わたしたちの代にはそういうルールもなくなっていた。
仁義の切り方はヒロシに伝わってなかった。どうやら4代前から総番制度は変質してしまっていた。総番制度の廃止はたまたまヒロシが同じクラスで、ウマがあったから持ち掛けた話だ、わたしたちの役回りだったのだろう。総番グループには関係のないA野や数人で相談して決めたらしい。わたしはそのあたりの詳細な経緯をよく覚えてないのだ。変質してしまった総番制度は不要、潰そうとは思っていた。2年生になってヒロシと一緒のクラスになって、舞台が整ってしまっただけ。ヒロシ、A野、わたし、それぞれが自分の役割を演じた。
総番長は周りが認めなければなれない、人望がいる、なりたい奴は何人かいた。ヒロシは器の大きい奴だったから周りから認められて総番長になった。総番制度を潰したくないやつらがE組に数人いたから、ヒロシは矢面に立って苦労したはず。反対派を潰すので手をかせとヒロシが言えば、言い出しっぺだから否やはなかった。高校は退学になっただろう、それくらい大仕事だったのにヒロシは一人でやった。意外に思うだろうが、大学進学はヒロシが誘ってくれた、あいつから誘われなかったら、東京へ行っていない。冨岡先生に「お前が都市銀行を受験したら落ちる奴がいる、学校推薦するからおまえは日銀釧路支店を受けろ」と言われて、4月から迷って、見送り三振、優柔不断だった。オヤジに大学進学していいか話して3年生の12月からにわかに受験勉強を始めて失敗したわたしは、ヒロシが誘ってくれなかったら進学のために東京へ行ってない。高校2年生の時から始めた公認会計士2次試験の受験勉強をビリヤード店の手伝いをしながらやるつもりだった。突然「トシ、東京へ行こう」、と誘ってくれた、それで決心がついた、いい友だ。
ああ、I君の話だった、ところでI君はいま首長だそうだ。(笑)
気の毒したな、もうとっくに忘れているだろう。
A野が今回こんな話をした。
「3Gの生徒が1年生のIを殴ったと、I君の親戚筋のTひろ子から叱られた」
「だれがそんなことしたのかとTに訊いたら、クラスのKだった」
広子は生徒会中央執行委員の一人であるが、生徒会で頻繁に顔を合わせて気易かったのに、わたしにはそういう話をしなかった。当時の生徒会会計は権限が大きくていわば財務大臣だったから、そういうことをする人とはかかわりがないと思っていたのかもしれない。中年太りもせずに品よく老けた。いまでも仲の良い友人の一人である。
下級生のI君にはちっとも記憶がない。わたしたちが3年生のときには、総番制度もなくなっていたから、下級生を呼び出して「生意気だ」といってぶん殴るやつは聞いたことがなく、初耳だった。
わたしは1年生の時に高さが10㎝ほどの高下駄(アシダ)を履いて通学していたので、すぐに総番グループに目をつけられ、生意気だと2年生2人に呼び出しを食らって殴られたことがある。軍隊とおんなじ、通過儀礼である。根室高校はバンカラな根室商業が前身だから、そういう気風が残っていた。歯を食いしばれば口の中を少し切るだけ。たいしたパンチではないから、歯を折るような危険はない。身体を逃げなければ側頭部に当たったりしないので、どうってことはないのだ。校則で頭は丸坊主、詰襟の学生服と定められていた。呼び出しを食らって殴られた翌日もアシダで通学したが、2度目の呼び出しはなかった。1度目はこちらが下級生だから、おとなしく殴られてやるが、2度目があったら多少のケガをさせても学校から処分を食らうことはない。しつこい方が悪い。
小学生のころは石炭ストーブだった。灯油ストーブになるは東京オリンピックの1964年(高校1年生)ごろからだった。夏から秋にかけて石炭ストーブの焚き付けを山ほど割って積んでおく。小学生が毎年拳と手刀で焚き付けを叩き折っていたから、自然に拳が硬くなってしまった。9年間で数千本叩き折っただろう。腕力をつけるために廃材を大きな鉞で叩き折っていたので、背筋力が強かった。背中をそらせて、鉞(まさかり)を振りかぶって地面にまでつけて、円を描くようにゆっくり持ち上げながら真上にまで来たら、腰のばねを使って狙った一点めがけて渾身の力で振り下ろす。当たるときがマックスになるようにイメージして、四寸角や五寸角の柱の廃材を無心に叩いた。中学生になったころには拳は硬くて骨密度が増し重くなっていた。硬い拳で頭蓋骨を叩いたら、まともに当たれば一撃で砕いてしまっただろう。生木の焚き付け材でも叩き折るタイミングとスピードを身体が知っていた。だから、一度も人を叩いたことはない。だれだって人殺しにはなりたくない。高校を卒業した年にヒロシとムサシと3人で新宿歌舞伎町でパンチボールを叩いたときに180㎏を超えた。腰の回転だけ、踏み込まないでもでそれだけの重さがあった。踏み込めば衝撃は倍加する。オヤジが落下傘部隊員だったので、忍者まがいの訓練の話を聞いていて、屋根から飛び降りたり、薪割りで身体を鍛えた、愉しかった。2階の屋根に上って飛び降りようとして、下を覗いたときに、その高さにビビった。とてもじゃないが、けがは必至と思えた、落下傘部隊は3階の高さから飛び降りる訓練をする。その高さだと五点着地が完全にできないと大けがをする。脚に衝撃を逃がしながら、回転して肩、側面、尻、脚へと衝撃を逃がす。無意識にやれるようになるまで、訓練する。やって見せてくれたら、あるいは2階の屋根から飛び降りる技が身についたかもしれない。やれたのは脚を屈折して衝撃をやわらげながら、片手をついてさらに着地の衝撃を分散する、これは三点着地で、映画で忍者が屋根から飛び降りるときの技だ。オヤジは言葉で説明しただけで、五点着地をやって見せてくれなかった。一緒に厳しい訓練をへた戦友たちが、みんな南方で戦死している。戦時宣伝映画(加藤隼戦闘隊)撮影のための降下訓練中に右手複雑骨折をしたオヤジだけが生き残った。主導索に右腕をひっかけて、飛行機を飛び出した瞬間に複雑骨折、右手はブランとしてまともな態勢では着地できない、よく命があったものだと言っていた。息子には五点着地技を伝えるのが嫌だったのだろう。小学生のころ、オヤジは自衛隊から空挺部隊の教官で来てほしいと要請があったようだった。生き残っている落下傘兵はほとんどいなかったからだろう。オヤジはノーだった。
「戦友たちは、結婚もせず、子どもも作らず、靖国で会おうと言い残して死んでいった、おれは結婚もしたし、子どももいる。幸せだ」
こんどは自分が訓練した空挺兵が戦地で死ぬかもしれない、関わりたくなかったのだろう。
記憶がはっきりしないが、3年生になって、A野によれば数人で総番長のヒロシと総番制度について話をしたようだ。そして何十年間も続いた総番制度を廃止したのだが、統制がとれなくなったという弊害は出た。総番長は本来は外部ともめごとがあったときに、学校を代表して、おさまりをつけなければならない。それがルールだった。生徒の誰かがヤクザとたまたまもめごとを起こしても、総番長が代表して話をつけるから、責任が重かったのである。5代前の総番長までは「仁義」の切り方、そして台詞が伝わっていた。「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さったありがとうさんにござんす、手前生国発しますところ…」、滔々(とうとう)とヤクザの流儀であいさつする。台詞を間違えたら、殺されたって文句は言えない、5代前の親戚の総番長が仁義を切って台詞を実演して見せてくれた。小さく折りたたんだ台詞を書いた紙をそのときにいただいた気がするが、机の中にしまったままいつかなくなった。映画の一シーンのような名文句だった。折りたたんでもっていたということは、その次の総番長には伝えなかったということ、そういう時代ではなくなっていたのを感じたからだろう。野球部のキャプテンだった人だ。お祭りのときに総番グループは総番長が足駄を履いて先頭を歩き、数歩下がってグループの十数人が肩で風を切って歩いた。「行列」のときは総番長だけが高い下駄を履き、その他は低い下駄を履いていた、総番長と並んで歩くことはご法度。わたしたちの代にはそういうルールもなくなっていた。
仁義の切り方はヒロシに伝わってなかった。どうやら4代前から総番制度は変質してしまっていた。総番制度の廃止はたまたまヒロシが同じクラスで、ウマがあったから持ち掛けた話だ、わたしたちの役回りだったのだろう。総番グループには関係のないA野や数人で相談して決めたらしい。わたしはそのあたりの詳細な経緯をよく覚えてないのだ。変質してしまった総番制度は不要、潰そうとは思っていた。2年生になってヒロシと一緒のクラスになって、舞台が整ってしまっただけ。ヒロシ、A野、わたし、それぞれが自分の役割を演じた。
総番長は周りが認めなければなれない、人望がいる、なりたい奴は何人かいた。ヒロシは器の大きい奴だったから周りから認められて総番長になった。総番制度を潰したくないやつらがE組に数人いたから、ヒロシは矢面に立って苦労したはず。反対派を潰すので手をかせとヒロシが言えば、言い出しっぺだから否やはなかった。高校は退学になっただろう、それくらい大仕事だったのにヒロシは一人でやった。意外に思うだろうが、大学進学はヒロシが誘ってくれた、あいつから誘われなかったら、東京へ行っていない。冨岡先生に「お前が都市銀行を受験したら落ちる奴がいる、学校推薦するからおまえは日銀釧路支店を受けろ」と言われて、4月から迷って、見送り三振、優柔不断だった。オヤジに大学進学していいか話して3年生の12月からにわかに受験勉強を始めて失敗したわたしは、ヒロシが誘ってくれなかったら進学のために東京へ行ってない。高校2年生の時から始めた公認会計士2次試験の受験勉強をビリヤード店の手伝いをしながらやるつもりだった。突然「トシ、東京へ行こう」、と誘ってくれた、それで決心がついた、いい友だ。
ああ、I君の話だった、ところでI君はいま首長だそうだ。(笑)
気の毒したな、もうとっくに忘れているだろう。
毎年のことだが、NKさんの奥さんに感謝。ずいぶんとこまかい配慮をしてくれている。
Y岡の奥さんが毎年美味しい蕎麦を打ってきてふるまってくれる。腕前は2段だったかな。福島県の有名お蕎麦屋さん(磐梯熱海の2店、郡山市内の蕎麦屋、そば道場、会津桐屋など)、山形県のお蕎麦屋さん、仙台郊外大滝村のお蕎麦屋さん、そういう名店と比べても、遜色のない味と香りと歯ごたえのお蕎麦である。

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#4121 社会人になってからの仕事のルーツは高校時代にあり Nov. 11, 2019 [90.根高 こもごも]
1964⇒1966
<序論>
昭和23年と24年早生まれの団塊世代が根室高校へ入学時、男子は丸刈りという校則があった。わたしは一度も丸刈りにしたことはなかったが、しかたなく中3の冬休みに丸坊主頭にした。冬休みが開けると、坊主頭の同級生が増えていた。当時は一学年普通科4クラス200人、商業科3クラス150人、合計350人だった。根室高校はもともと商業高校で、戦後しばらくの間は釧路湖陵よりもレベルが高かったと「釧路の教育を考える会」の角田会長から聞いた。会長の角田さんは北大卒で元釧路市教育長、生粋の釧路っ子である。
北国賛歌を飯田三郎氏と一緒に作詞した田塚源太郎氏は国後島の大漁師の息子で根室商業、職業は歯科医だったから、根室商業から大学歯学部へ進学。根室印刷の会長である考古学者の北構保男先生は国学院大学文学博士、大正6年生まれで、お二人は根室商業同期生。年齢は下だったはずですが、歯科医の福井先生(先代)がご近所でした。昭和30年代のことですが、根室新聞に福井先生が書かれた時代小説と現代小説が数年間連載されてました。歯科医をやられている息子さんは目元がそっくりです。平成3年だった、たまたま帰省してビリヤード店の店番をしながら、ゲームしていた時に、来店されて、「トシボー」と声をかけてくれました。その時には癌の末期でお痩せになって顔の色が茶色になっていました。肝臓がやられているなとすぐにわかりました、それから数か月でお亡くなりになっています。品のよい、いい先生でした。田塚先生も福井先生もビリヤード店の常連客でしたから、小学校へ上がる前から可愛がってもらいました。背が届かないので「ちょっと失礼します」といって台の上に上がって撞きます。ほんとうはルール違反ですが、子どもだったから面白がって相手してくれました。北構先生は1軒おいて道路を渡ったところが根室印刷でしたから、オヤジと出遭うと道路上で大きな声で立ち話をする人です。気取らない、ざっくばらんなインテリ、そういう大人が身近にいたことはとっても幸せなことでした。
(昭和天皇のビリヤードコーチだった札幌の吉岡先生も毎年ラシャの交換作業をしに根室へ来ていました。来ると、旅館に泊まらずに家に泊まってくれてました。とっても品のよい白髪のお爺さんでした。使う言葉が違うんです。札幌でデートしているときに突然「トシボー」と呼ばれて誰だろうとみると、吉岡先生。ライオンズクラブで献血運動をしていました。ああ、彼女とデートだなとニコニコしながら、「献血していきなさい」「はい」、びっくりでした。彼女にまってもらって献血しました。献血手帳をもらって、それから西新宿駅前で数回献血しました。それが所沢のおじさんが日大駿河台病院で手術するときに役に立ちました。平成天皇のビリヤードコーチはスリークッション世界チャンピオンの小林先生、新大久保駅前でビリヤード店をやっていました。小林先生にも習っています。毎年常連会の忘年会で小林先生と一緒にお酒を飲んでビリヤード談義してました。小林先生が試合でしか使わないチョークを一箱いただいたことがあります。ダイヤモンドが混ざっているかのようにキラキラしています。橋ギリギリの撞点でもミスショットがありません。一度練習で使っていたら、先生慌てて、「ebisuさん、それわたしは大会でしか使っていない…」、それ以来常連会の大会と高田馬場ビックボックスで行われるアマとプロ混在の大会でだけ使いました。小林先生、メーカーがつぶれてしまって手持ちの貴重な在庫を一箱常連会の年に一度の大会にわたしにくれるために供出してくれたのです。わたしがドローショットのときに、厳しい撞点を打ち抜くのをちゃんと見てくれていたんです。12個のうち8個くらい残っているはず。東京の家を探せばどこかにしまってあります。世界最高品質、プロ垂涎のチョークですが、もう使う機会がありません。世界大会に出場できる腕前の人にあげたい。令和天皇のビリヤードコーチは町田正さん、アーティステックビリヤード世界2位、ボークラインゲームを3ゲームだけお願いしたことがあります。ボークラインゲームの全日本チャンピオンですから、もちろん、情けないほど相手になりませんよ。(笑)かれのお父さんが八王子でビリヤード店をしていましたが、そちらで教えていただきました。半円形にタップを削る技術はお父さんに教えてもらいました。お父さんはプロのコーチですが、「ebisuさん、あなたはコーチ料要らないから毎日来なさい」と言われました。筋がいいと褒められたのです。仕事が忙しくてたまにしかいけませんでした。町田先生と小林先生に教えていただいたことは、ノート50ページほどにまとめてあります。セミプロの技術書ですからこういうレベルの解説書は市販のものはありません。誤解を生じるから書かないと小林先生はおっしゃってました。一知半解でああだこうだという人が必ず出てくるのだそうです。八王子の町田先生のところには鉄製のキューがありました。町田正さんはそのキューで毎日素振りしていたんです。わたしがみた中では一番キュー切れがよかった。シルクハットというテーブルの端から端まで使うダイナミックなL字マッセはそういう道具で練習した成果でしょう。ショットに「切れ」がないとできない技です。ショットの「切れ」は天性のもの、そしてそれを磨きに磨いて初めて世界に通用する。「切れ」の好い者は上手になります。根室では西井さんという人が最高でした。全日本のアマチュアチャンピオンにはなれたと思います。全日本チャンピオンの小柴さんが常連会で一緒でした。何度か試合してますが、彼のキュー切れも素晴らしいものがありましたが、西井さんの方が上です。昔の写真を見てそうわかります。構えがいいのです。構えを見ただけで腕のほどはわかります。西井さんはebisuよりも一回りほど年長でした。家庭が裕福でしたから高校時代からビリヤードをやってました。
3代の天皇のビリヤードコーチ、吉岡先生・小林先生・町田正先生に教えてもらったのは日本で私だけです。根室から東京へ出て行ったときに、東京の有名なビリヤード店を回ってみようと思っていましたがこんな形になるとは夢にも思いませんでした。小林先生には三つ玉の常連会で特に親しくしていただきました。根室っ子には一度は東京に出てみろと言いたい。世界は広い!)
<序論>
昭和23年と24年早生まれの団塊世代が根室高校へ入学時、男子は丸刈りという校則があった。わたしは一度も丸刈りにしたことはなかったが、しかたなく中3の冬休みに丸坊主頭にした。冬休みが開けると、坊主頭の同級生が増えていた。当時は一学年普通科4クラス200人、商業科3クラス150人、合計350人だった。根室高校はもともと商業高校で、戦後しばらくの間は釧路湖陵よりもレベルが高かったと「釧路の教育を考える会」の角田会長から聞いた。会長の角田さんは北大卒で元釧路市教育長、生粋の釧路っ子である。
北国賛歌を飯田三郎氏と一緒に作詞した田塚源太郎氏は国後島の大漁師の息子で根室商業、職業は歯科医だったから、根室商業から大学歯学部へ進学。根室印刷の会長である考古学者の北構保男先生は国学院大学文学博士、大正6年生まれで、お二人は根室商業同期生。年齢は下だったはずですが、歯科医の福井先生(先代)がご近所でした。昭和30年代のことですが、根室新聞に福井先生が書かれた時代小説と現代小説が数年間連載されてました。歯科医をやられている息子さんは目元がそっくりです。平成3年だった、たまたま帰省してビリヤード店の店番をしながら、ゲームしていた時に、来店されて、「トシボー」と声をかけてくれました。その時には癌の末期でお痩せになって顔の色が茶色になっていました。肝臓がやられているなとすぐにわかりました、それから数か月でお亡くなりになっています。品のよい、いい先生でした。田塚先生も福井先生もビリヤード店の常連客でしたから、小学校へ上がる前から可愛がってもらいました。背が届かないので「ちょっと失礼します」といって台の上に上がって撞きます。ほんとうはルール違反ですが、子どもだったから面白がって相手してくれました。北構先生は1軒おいて道路を渡ったところが根室印刷でしたから、オヤジと出遭うと道路上で大きな声で立ち話をする人です。気取らない、ざっくばらんなインテリ、そういう大人が身近にいたことはとっても幸せなことでした。
(昭和天皇のビリヤードコーチだった札幌の吉岡先生も毎年ラシャの交換作業をしに根室へ来ていました。来ると、旅館に泊まらずに家に泊まってくれてました。とっても品のよい白髪のお爺さんでした。使う言葉が違うんです。札幌でデートしているときに突然「トシボー」と呼ばれて誰だろうとみると、吉岡先生。ライオンズクラブで献血運動をしていました。ああ、彼女とデートだなとニコニコしながら、「献血していきなさい」「はい」、びっくりでした。彼女にまってもらって献血しました。献血手帳をもらって、それから西新宿駅前で数回献血しました。それが所沢のおじさんが日大駿河台病院で手術するときに役に立ちました。平成天皇のビリヤードコーチはスリークッション世界チャンピオンの小林先生、新大久保駅前でビリヤード店をやっていました。小林先生にも習っています。毎年常連会の忘年会で小林先生と一緒にお酒を飲んでビリヤード談義してました。小林先生が試合でしか使わないチョークを一箱いただいたことがあります。ダイヤモンドが混ざっているかのようにキラキラしています。橋ギリギリの撞点でもミスショットがありません。一度練習で使っていたら、先生慌てて、「ebisuさん、それわたしは大会でしか使っていない…」、それ以来常連会の大会と高田馬場ビックボックスで行われるアマとプロ混在の大会でだけ使いました。小林先生、メーカーがつぶれてしまって手持ちの貴重な在庫を一箱常連会の年に一度の大会にわたしにくれるために供出してくれたのです。わたしがドローショットのときに、厳しい撞点を打ち抜くのをちゃんと見てくれていたんです。12個のうち8個くらい残っているはず。東京の家を探せばどこかにしまってあります。世界最高品質、プロ垂涎のチョークですが、もう使う機会がありません。世界大会に出場できる腕前の人にあげたい。令和天皇のビリヤードコーチは町田正さん、アーティステックビリヤード世界2位、ボークラインゲームを3ゲームだけお願いしたことがあります。ボークラインゲームの全日本チャンピオンですから、もちろん、情けないほど相手になりませんよ。(笑)かれのお父さんが八王子でビリヤード店をしていましたが、そちらで教えていただきました。半円形にタップを削る技術はお父さんに教えてもらいました。お父さんはプロのコーチですが、「ebisuさん、あなたはコーチ料要らないから毎日来なさい」と言われました。筋がいいと褒められたのです。仕事が忙しくてたまにしかいけませんでした。町田先生と小林先生に教えていただいたことは、ノート50ページほどにまとめてあります。セミプロの技術書ですからこういうレベルの解説書は市販のものはありません。誤解を生じるから書かないと小林先生はおっしゃってました。一知半解でああだこうだという人が必ず出てくるのだそうです。八王子の町田先生のところには鉄製のキューがありました。町田正さんはそのキューで毎日素振りしていたんです。わたしがみた中では一番キュー切れがよかった。シルクハットというテーブルの端から端まで使うダイナミックなL字マッセはそういう道具で練習した成果でしょう。ショットに「切れ」がないとできない技です。ショットの「切れ」は天性のもの、そしてそれを磨きに磨いて初めて世界に通用する。「切れ」の好い者は上手になります。根室では西井さんという人が最高でした。全日本のアマチュアチャンピオンにはなれたと思います。全日本チャンピオンの小柴さんが常連会で一緒でした。何度か試合してますが、彼のキュー切れも素晴らしいものがありましたが、西井さんの方が上です。昔の写真を見てそうわかります。構えがいいのです。構えを見ただけで腕のほどはわかります。西井さんはebisuよりも一回りほど年長でした。家庭が裕福でしたから高校時代からビリヤードをやってました。
3代の天皇のビリヤードコーチ、吉岡先生・小林先生・町田正先生に教えてもらったのは日本で私だけです。根室から東京へ出て行ったときに、東京の有名なビリヤード店を回ってみようと思っていましたがこんな形になるとは夢にも思いませんでした。小林先生には三つ玉の常連会で特に親しくしていただきました。根室っ子には一度は東京に出てみろと言いたい。世界は広い!)
わたしが根室高校を受験した年は、団塊世代の入試は普通科がほぼ定員通り、商業科は2倍を超えていた。市内全部の中3が1000人ほどいたから、根室高校への進学率はざっと1/3。当時は私立の根室明照高校があった。校舎は大徳寺境内に併設されていた。中学を卒業して就職する生徒も少なくなかった。
1.<生徒会・会計は財務大臣>
入学する前から、丸刈り坊主頭の校則があったから、高校へ入学したら、変えてやろうと思っていた。思っていただけで、具体的な算段があったわけではない。
高校1年の終わりごろに、生徒会会計に指名された。指名されて初めて生徒会会計を云う仕事があることを知った。その当時の生徒会会計は、選挙ではなくて指名制で、各部の部長との予算折衝と予算編成、帳簿の記入と決算業務が会計に任されていたから、簿記がよくできる生徒が指名されたようだ。権限は絶大だった。1年先輩の仲野さんがわたしを指名してくれた。それまで仲野さんとは話をした記憶がない。どうしてわたしを指名してくれたのか理由がわからない。妹さんとは小学生のときに同級生だった。会計の仕事は国でいうと財務大臣のようなもの。仲野さんは、わたしが2年生の時に各クラブ部長との予算折衝を一人でやらせてくれた。任せたからには口を出さなかった、好い先輩に巡り合っている。大学も一緒だった。副会長の古御堂さんと二人で「おんちゃ」とわたしのことを親しみを込めて呼んでいた。優秀な先輩二人ががっちりバックアップしてくれたから、思う存分仕事ができた。どこかかわいげのある後輩だったのかも?
生徒会・会計の経験が社会人になってから仕事で生きた。28歳で中途採用してもらった産業用エレクトロニクスの輸入専門商社では9月に入社1週間後にプロジェクトを5つ任され、すぐに予算編成と予算管理、資金管理などの仕事を担当させてもらった。35歳(1984年)に転職した従業員規模が3000人のSRLでも、2か月後には統合システム開発を任されただけでなく、予算編成と予算管理を任された。当時の予算規模は300億円。根室高校生徒会会計の経験が生きた。やり方は一緒である。ソニーの経営に関与してみたかった。
(ソニーがはじめて中途採用の全国募集をしたことがあった。事務部門は150人の応募、3次面接の2人まで残った。10時からの面接なのに、理由も言わずお昼過ぎまで待たされた、「お腹すいちゃった」といったらびっくりされた。ソニーはこんな会社になったのかと、こっちが驚いた。採ってはもらえなかった、二人まで絞り込んだのに規格外のわたしを採れないなら、ソニーの未来は危ういとその時に思った。
高校1年のとき(1964年)に3万円くらいの、オープンリールのソニーのテープレコーダーを使ったのが最初だった。新製品が出る都度、買い求めて使った、ソニーのつくるものに愛着があったのだが、中途採用の全国募集をしたころには何かが変わり始めたと感じていた。「ICZ-R260TV」が昨年買ったソニー製品である。同じ製品でも5割高くていいから、日本の工場で生産した堅牢な製品も並行して販売してもらいたい。製品番号の末尾に「J」マークをつけたらどうか。モノづくりのソニー、もうそういう会社ではないのかもしれない)
2.<丸刈り坊主頭の校則改正の動機と経緯>
2年生になって秋に修学旅行が予定されていたから、その3か月前までに校則改正をしようと、会長の関さんと副会長の古御堂さん(後に室蘭税務所長)、端谷さん(後にヤクルト釧路支店長?)へ持ちかけたら、かれらはもう修学旅行がすんでしまっているので、「ebisu、おまえがやれ」ということになった。社会人になって会社に勤務してからもそういうことがよく起きた。何か改革を提案すると、「おまえがやってみろ」とその仕事に必要な権限を委譲してくれることがよくあった。そういうことは高校生徒会から始まっていた。わたしの場合は、根室高校生徒会活動が人間形成や、仕事のやり方を学び、経験するのに役に立った。
校長や生徒会顧問は校則改正をしたくない、生徒会顧問は3人いたような気がする。彼らが弱いのは保護者である。保護者が校則改正を望むなら、学校側としては仕方がない、面子(めんつ)の問題がなくなる。そこで生徒と保護者にアンケートをとることにした。髪の毛は体の一部で、それを規制するというのは基本的人権に抵触するのではないかという一文を入れたアンケート原案を作り、生徒会役員みんなでチェックして、ガリを切って輪転機で印刷し、全校生徒に配布した。狙い通りの結果が出た。アンケートは質問の仕方や答えの選択肢の書き方次第で、ある程度誘導できる。
結果を集計して、全校集会を開き、満場一致で、修学旅行3か月前に校則改正をした。スケジュール通りに事を運んだ。修学旅行は、東京・京都・大阪・奈良、11泊12日、スケジュール通り、3か月でなんとか髪が伸びて都会を歩き回れた。いま、根高の修学旅行は大阪・京都・広島で4泊5日だそうだ。先週2年生が修学旅行、土曜日に戻ってきた。今日は休みだろう。
3.<生徒会・会長選挙の経緯と生徒会運営>
2年生の時に生徒会回線の選挙があった。副会長の古御堂さん(商業科)と端谷さん(普通科)から、二人が応援演説するから、会長選挙に立候補しろと話があった。そのつもりで生徒会顧問へ立候補を伝えたら、生徒会会計だから駄目だという。会計業務は後輩に任せることができるし、わたしも任されてやり通した。両方やることだって別段の無理はなかった。なぜだと問うと、口ごもる、どうやら校長が反対しているようす。総番長のヒロシとは息があっていたし共産党のグループとも友人関係でつながっていた。丸刈り坊主頭の校則改正をやったことも警戒を生んだ。民青の矢臼別キャンプにも1年生の夏休みに参加していた。先ごろ市議を引退した共産党の下〇さんだったかな、当時は専従だったからよく知っていた。社会主義は1960年代は流行りだったから、上級生たちのよく見知った顔が出入りしていた。そのなかに上級生の総番グループが混ざっていたのは意外だった。わたしは同級生のA野と一緒に出入りしていた。卒業してからあいつはいつのころからかずっと共産党員である。頑固なところがあるが根はまっすぐだから、組織内では縁の下の力持ち、下〇さんとはまるで性格が違っている。根室高校にはこのころ時事問題研究会があり、中央大学法学部出身で学生運動したことのある谷口先生が顧問だった。セクトは革マル派だったはず。普通科の十人くらいが影響を受けていた。そのうちの一人が幼稚園の幼馴染のF岡だった。東大安田講堂で立てこもって逮捕されたと噂に聞いた。もう一人有力メンバーにT部がいた。生徒会副会長だったかな、女傑だった。上智大学へ進学した。根室高校には3派存在したことになる。もう一つの勢力は総番グループである。
生徒会長立候補の件では生徒会顧問の先生が間に挟まって困っている様子だったので退いた。強引に立候補してもよかったが、顧問の先生が理由が言えずに困った顔をしたので、立候補はとりやめた。古御堂さんと端谷さんには「会計やっているので会長立候補はダメと言われた」とだけ話した。代わりに、友人のH瀬に副会長に立候補させるので、応援演説をお願いした。話をした生徒会顧問の先生はどなただったか覚えていない。同じクラスのK尻や旧知の普通科のT岡が中央執行委員に立候補してくれたから、生徒会はわたしの意思で動かせた。ポストにこだわる必要がなかった。幸いに生徒会長には中学生の時に隣のクラスだったオサムが立候補した。中3のときに一人で褌を占めて、鉄砲や蹲踞してすり足の稽古するようなストイックなやつだった。夏に一度黙々と鉄砲に励むオサムに声をかけたことがあった。身長180㎝、ガタイよくてたった一人の相撲部員、面白い奴だと認めていた。かれはしばしば生徒会顧問と生徒会役員たちの板挟みになった。もめごとは嫌いな質(たち)なのである。人っ子がよくて辛抱強い。あいつが買ってもらったばかりの16段変速のロードバイクを乗ってきて、生徒会室の窓の下に置いていた。あの時代に速度計までついたロードバイクは誰も持っていなかった、ずいぶん高かっただろう。オサムににちょっと貸せと言って、根室高校から現在セブンイレブンのある角まで走ってみた。オサムは180㎝ほどあったが、サドルはそのままで大丈夫だった。買ってもらったばかりのあんな高級車だれにも貸さないよ、だけどそこがあいつの性格のいいところ。すぐに鍵を渡して貸してくれた。前をダンプカーが走っていたので、追いつけるか目一杯漕いだら時速70㎞にアナログメータが近づいたとたんに、赤い光が目に入った。ダンプが右折するのでブレーキランプがついたのだと気がつき、間に合わないので身体を右側に倒して軽くブレーキを掛けながらセンターラインを越えて曲がった。あの速度でよく曲がりきれたものだ。いまならとてもできぬ。オサムが買ってもらったばかりのロードバイクを危うくオシャカにするところだった。対向車線を車が走ってきたら即死だっただろう。赤い光が目に入った瞬間、命が爆発するように燃え上がった。危ない遊びほどぞくぞくする。あの瞬間に脳内麻薬のドーパミンがどっと出たのだろう、痺(しび)れるような最高の瞬間、いきなりレッドゾーン突入。緩い下りになっているが、いまあそこをいくら速く走ろうとしても時速50㎞がせいぜいだ。交差点に近くなったらしっかり速度を落とす。危ないから。すっかりビビりになった。(笑)
4.<生徒管理強化での衝突:名札問題の経緯>
3年になって、名札問題がもちあがる。校長あるいは生徒会顧問の一人だったK林先生の発案で、生徒全員に名札をつけさせるというのだ。大義名分は「生徒数が多いので、顔と名前が一致しない」ということだった。1学年350名だから全員で1050名、顔と名前が一致するのはわずかだっただろう。先生も百人近い人数だったのではないか。習ったことのない先生が半数以上いた。だから、生徒会顧問に「生徒のほうも先生の顔と名前が一致しない、先生たちも当然名札付けるんでしょうね」と念を押した。数人の先生たちにもそう伝えた。先生たちにも管理されるのを嫌う人が多い。職員会議でもめて、校長と生徒会顧問が発案した名札は流れた。
前年には丸刈り坊主頭の校則を廃止したばかりで、大きな流れに逆行するものだった。カチンときていたのである。端(はな)から新任の校長と発案者である生徒会顧問と戦争するつもりでいた。獲得目標を明確にして、戦略と戦術を練り、やるときはとことんやる。
万が一職員会議で可決されたら、名札を付けることは生徒の服装を規制するものだから、校則追加制定に該当し、校則の追加は生徒集会での賛否を問うのが定められた手続きだった。それを盾に生徒集会を開いて真正面から廃案にするつもりだった。味方になってくれる先生が数人いたので、職員会議の段階で廃案にできた。もめごとはわたしも小さい方がいい。
5.<酷暑のマラソン大会と熱中症による女子死亡>
酷暑28度の体育最終日、生徒全員参加のマラソンでゴールしてから、熱中症で十人以上が倒れた。男子20㎞、女子10㎞だった。コースは日影がほとんどない、数年に一度の気温、カンカン照りだった。当時は水を飲んではいけないというのが常識だったから、水をまったく飲まずに走り通した真面目な生徒が、ゴールしてから熱中症で意識不明となった。10名ほどが倒れた、救急車で運ばれたがそのうちの一人が亡くなってしまった。責任を取らされる形で、物腰の穏やかな校長が更迭されて、体育会系の太ったN村校長が赴任してきて、生徒管理を強めようとした。やるべきことは生徒管理の強化ではなく、判断ミスが起きないように体制を整備することと、マラソンでは水分補給をしっかりやるように指導することだったはず。それを、体育祭最終日のマラソン大会廃止にすり替えた。これでは教育的配慮などありはしない。
1964年、わたしたちが高校1年生の秋に東京オリンピックが行われ、アベベが優勝し、円谷幸吉が銅メダル、マラソン熱で国中がわいていた。その翌年のことだった。あれが根高最後のマラソンとなってしまった。経緯を知っている先生は根室高校にいない、このブログを読み事情が分かっただろう、スポーツ大会最終日のマラソンを復活したらどうか?
6.<反抗期と友人H:こどもだったな(笑)>
高校生での日商珠算1級は根室高校から初めて東大に現役合格を果たした横田さんが受験勉強真っ盛りの高3のとき、そして私が2年生で始めて、根室高校では二人目の合格者だった。横田さんはわたしよりも10個くらい先輩、横田市長の長男だった。道庁へ就職して、上川支庁長で退職している。根室高校長が、「東大を受験しようなんて身の程知らずがいる」なんて生徒集会で発言したという、笑える。きっと自分を基準に考えたのだろう。
1級合格には生徒集会で校長から直々に合格証書が渡されるが、名前を呼ばれても、出て行かなかった。ちょっとざわついた。N村校長から受け取るのは嫌だったから前に出て行かなかった。あとで、担任から教室で受け取った。担任は何も言わなかったが、校長から何か言われたはずだ。
珠算の全道大会は日商珠算能力検定試験1級の問題を半分の時間でやるので、それに比べるとどうってことのないスキルで、全道大会ではそれが最低レベル、しかし鍛錬を要するのは事実だ。珠算部ではないのに毎年珠算部顧問=担任の冨岡先生に頼まれて大会へ参加していた。いやT岡先生がわたしに直接頼んだことはないし、珠算部長のNさんからも頼まれたことはなかった。先輩の仲野さんがわたしに、「来週、全道大会行くからな」と告げると、わたしに拒否権はない、「はい!」と返事をする。1週間だけ練習に参加して、当然の顔で札幌会場へみんなと行っていた。それが愉しいのである。男は仲野先輩とわたしだけ、美人も複数いた。(笑)年に一度の懇親会のようなもの。大会出場はおまけだった。珠算部長は柏陵中学校出身のNさんだった。わたしはどういうわけか、光洋中学校の珠算部長だった。毎週、一日だけ後輩たちの指導をしていた。「計算実務」の「応用計算」種目はわたしだけ参加、複利計算や年金現価の計算や開平(平方根を求める)、開立(立方根を求める)、定率法減価償却など、50パタンぐらいも暗記してしまえば、簡単である。ただ、1問30秒で10ケタほど計算しなかればならないので、とっても忙しい。開平九九や開立九九なんていうのがあった。高橋先生から教えてもらったような気がする。よくあんな計算知っていたなといま思う、高橋先生は勉強家で努力家、そして信念の人だった。根室高校の先生でそういう指導のできる先生はいなかった。後に、全道大会の作問委員をやられていた。
ところで全道大会の応用計算では次のような形式の問題が出される。出題レベルは計算実務検定1級の問題、制限時間は半分。
「100万円を年率5%の複利で預けると、10年後にはいくらになるか。円未満は四捨五入すること」
数学的には簡単である。式は[1,000,000×(1+0.05)^10]、これを30秒で計算すればいい。当時は8桁の電卓が4万円もした時代である。高卒の初任給2か月分では買えなかった、算盤が計算道具として重要だったのである。女子はこういう計算が苦手だった。計算式を数学的に理解してしまえば、あとは簡単、単なるパターン計算になる。大学受験数学も同じで、そのパターンがおよそ10倍の500パターンある。頭のいい生徒はこれを200以下に集約できる。なるべく脳のメモリーを余計なことに使わないほうがいいのである。肝心な時につかえるエリアが狭くなってしまうからだ。
(ソニーがはじめて中途採用の全国募集をしたことがあった。事務部門は150人の応募、3次面接の2人まで残った。10時からの面接なのに、理由も言わずお昼過ぎまで待たされた、「お腹すいちゃった」といったらびっくりされた。ソニーはこんな会社になったのかと、こっちが驚いた。採ってはもらえなかった、二人まで絞り込んだのに規格外のわたしを採れないなら、ソニーの未来は危ういとその時に思った。
高校1年のとき(1964年)に3万円くらいの、オープンリールのソニーのテープレコーダーを使ったのが最初だった。新製品が出る都度、買い求めて使った、ソニーのつくるものに愛着があったのだが、中途採用の全国募集をしたころには何かが変わり始めたと感じていた。「ICZ-R260TV」が昨年買ったソニー製品である。同じ製品でも5割高くていいから、日本の工場で生産した堅牢な製品も並行して販売してもらいたい。製品番号の末尾に「J」マークをつけたらどうか。モノづくりのソニー、もうそういう会社ではないのかもしれない)
2.<丸刈り坊主頭の校則改正の動機と経緯>
2年生になって秋に修学旅行が予定されていたから、その3か月前までに校則改正をしようと、会長の関さんと副会長の古御堂さん(後に室蘭税務所長)、端谷さん(後にヤクルト釧路支店長?)へ持ちかけたら、かれらはもう修学旅行がすんでしまっているので、「ebisu、おまえがやれ」ということになった。社会人になって会社に勤務してからもそういうことがよく起きた。何か改革を提案すると、「おまえがやってみろ」とその仕事に必要な権限を委譲してくれることがよくあった。そういうことは高校生徒会から始まっていた。わたしの場合は、根室高校生徒会活動が人間形成や、仕事のやり方を学び、経験するのに役に立った。
校長や生徒会顧問は校則改正をしたくない、生徒会顧問は3人いたような気がする。彼らが弱いのは保護者である。保護者が校則改正を望むなら、学校側としては仕方がない、面子(めんつ)の問題がなくなる。そこで生徒と保護者にアンケートをとることにした。髪の毛は体の一部で、それを規制するというのは基本的人権に抵触するのではないかという一文を入れたアンケート原案を作り、生徒会役員みんなでチェックして、ガリを切って輪転機で印刷し、全校生徒に配布した。狙い通りの結果が出た。アンケートは質問の仕方や答えの選択肢の書き方次第で、ある程度誘導できる。
結果を集計して、全校集会を開き、満場一致で、修学旅行3か月前に校則改正をした。スケジュール通りに事を運んだ。修学旅行は、東京・京都・大阪・奈良、11泊12日、スケジュール通り、3か月でなんとか髪が伸びて都会を歩き回れた。いま、根高の修学旅行は大阪・京都・広島で4泊5日だそうだ。先週2年生が修学旅行、土曜日に戻ってきた。今日は休みだろう。
3.<生徒会・会長選挙の経緯と生徒会運営>
2年生の時に生徒会回線の選挙があった。副会長の古御堂さん(商業科)と端谷さん(普通科)から、二人が応援演説するから、会長選挙に立候補しろと話があった。そのつもりで生徒会顧問へ立候補を伝えたら、生徒会会計だから駄目だという。会計業務は後輩に任せることができるし、わたしも任されてやり通した。両方やることだって別段の無理はなかった。なぜだと問うと、口ごもる、どうやら校長が反対しているようす。総番長のヒロシとは息があっていたし共産党のグループとも友人関係でつながっていた。丸刈り坊主頭の校則改正をやったことも警戒を生んだ。民青の矢臼別キャンプにも1年生の夏休みに参加していた。先ごろ市議を引退した共産党の下〇さんだったかな、当時は専従だったからよく知っていた。社会主義は1960年代は流行りだったから、上級生たちのよく見知った顔が出入りしていた。そのなかに上級生の総番グループが混ざっていたのは意外だった。わたしは同級生のA野と一緒に出入りしていた。卒業してからあいつはいつのころからかずっと共産党員である。頑固なところがあるが根はまっすぐだから、組織内では縁の下の力持ち、下〇さんとはまるで性格が違っている。根室高校にはこのころ時事問題研究会があり、中央大学法学部出身で学生運動したことのある谷口先生が顧問だった。セクトは革マル派だったはず。普通科の十人くらいが影響を受けていた。そのうちの一人が幼稚園の幼馴染のF岡だった。東大安田講堂で立てこもって逮捕されたと噂に聞いた。もう一人有力メンバーにT部がいた。生徒会副会長だったかな、女傑だった。上智大学へ進学した。根室高校には3派存在したことになる。もう一つの勢力は総番グループである。
生徒会長立候補の件では生徒会顧問の先生が間に挟まって困っている様子だったので退いた。強引に立候補してもよかったが、顧問の先生が理由が言えずに困った顔をしたので、立候補はとりやめた。古御堂さんと端谷さんには「会計やっているので会長立候補はダメと言われた」とだけ話した。代わりに、友人のH瀬に副会長に立候補させるので、応援演説をお願いした。話をした生徒会顧問の先生はどなただったか覚えていない。同じクラスのK尻や旧知の普通科のT岡が中央執行委員に立候補してくれたから、生徒会はわたしの意思で動かせた。ポストにこだわる必要がなかった。幸いに生徒会長には中学生の時に隣のクラスだったオサムが立候補した。中3のときに一人で褌を占めて、鉄砲や蹲踞してすり足の稽古するようなストイックなやつだった。夏に一度黙々と鉄砲に励むオサムに声をかけたことがあった。身長180㎝、ガタイよくてたった一人の相撲部員、面白い奴だと認めていた。かれはしばしば生徒会顧問と生徒会役員たちの板挟みになった。もめごとは嫌いな質(たち)なのである。人っ子がよくて辛抱強い。あいつが買ってもらったばかりの16段変速のロードバイクを乗ってきて、生徒会室の窓の下に置いていた。あの時代に速度計までついたロードバイクは誰も持っていなかった、ずいぶん高かっただろう。オサムににちょっと貸せと言って、根室高校から現在セブンイレブンのある角まで走ってみた。オサムは180㎝ほどあったが、サドルはそのままで大丈夫だった。買ってもらったばかりのあんな高級車だれにも貸さないよ、だけどそこがあいつの性格のいいところ。すぐに鍵を渡して貸してくれた。前をダンプカーが走っていたので、追いつけるか目一杯漕いだら時速70㎞にアナログメータが近づいたとたんに、赤い光が目に入った。ダンプが右折するのでブレーキランプがついたのだと気がつき、間に合わないので身体を右側に倒して軽くブレーキを掛けながらセンターラインを越えて曲がった。あの速度でよく曲がりきれたものだ。いまならとてもできぬ。オサムが買ってもらったばかりのロードバイクを危うくオシャカにするところだった。対向車線を車が走ってきたら即死だっただろう。赤い光が目に入った瞬間、命が爆発するように燃え上がった。危ない遊びほどぞくぞくする。あの瞬間に脳内麻薬のドーパミンがどっと出たのだろう、痺(しび)れるような最高の瞬間、いきなりレッドゾーン突入。緩い下りになっているが、いまあそこをいくら速く走ろうとしても時速50㎞がせいぜいだ。交差点に近くなったらしっかり速度を落とす。危ないから。すっかりビビりになった。(笑)
4.<生徒管理強化での衝突:名札問題の経緯>
3年になって、名札問題がもちあがる。校長あるいは生徒会顧問の一人だったK林先生の発案で、生徒全員に名札をつけさせるというのだ。大義名分は「生徒数が多いので、顔と名前が一致しない」ということだった。1学年350名だから全員で1050名、顔と名前が一致するのはわずかだっただろう。先生も百人近い人数だったのではないか。習ったことのない先生が半数以上いた。だから、生徒会顧問に「生徒のほうも先生の顔と名前が一致しない、先生たちも当然名札付けるんでしょうね」と念を押した。数人の先生たちにもそう伝えた。先生たちにも管理されるのを嫌う人が多い。職員会議でもめて、校長と生徒会顧問が発案した名札は流れた。
前年には丸刈り坊主頭の校則を廃止したばかりで、大きな流れに逆行するものだった。カチンときていたのである。端(はな)から新任の校長と発案者である生徒会顧問と戦争するつもりでいた。獲得目標を明確にして、戦略と戦術を練り、やるときはとことんやる。
万が一職員会議で可決されたら、名札を付けることは生徒の服装を規制するものだから、校則追加制定に該当し、校則の追加は生徒集会での賛否を問うのが定められた手続きだった。それを盾に生徒集会を開いて真正面から廃案にするつもりだった。味方になってくれる先生が数人いたので、職員会議の段階で廃案にできた。もめごとはわたしも小さい方がいい。
5.<酷暑のマラソン大会と熱中症による女子死亡>
酷暑28度の体育最終日、生徒全員参加のマラソンでゴールしてから、熱中症で十人以上が倒れた。男子20㎞、女子10㎞だった。コースは日影がほとんどない、数年に一度の気温、カンカン照りだった。当時は水を飲んではいけないというのが常識だったから、水をまったく飲まずに走り通した真面目な生徒が、ゴールしてから熱中症で意識不明となった。10名ほどが倒れた、救急車で運ばれたがそのうちの一人が亡くなってしまった。責任を取らされる形で、物腰の穏やかな校長が更迭されて、体育会系の太ったN村校長が赴任してきて、生徒管理を強めようとした。やるべきことは生徒管理の強化ではなく、判断ミスが起きないように体制を整備することと、マラソンでは水分補給をしっかりやるように指導することだったはず。それを、体育祭最終日のマラソン大会廃止にすり替えた。これでは教育的配慮などありはしない。
1964年、わたしたちが高校1年生の秋に東京オリンピックが行われ、アベベが優勝し、円谷幸吉が銅メダル、マラソン熱で国中がわいていた。その翌年のことだった。あれが根高最後のマラソンとなってしまった。経緯を知っている先生は根室高校にいない、このブログを読み事情が分かっただろう、スポーツ大会最終日のマラソンを復活したらどうか?
6.<反抗期と友人H:こどもだったな(笑)>
高校生での日商珠算1級は根室高校から初めて東大に現役合格を果たした横田さんが受験勉強真っ盛りの高3のとき、そして私が2年生で始めて、根室高校では二人目の合格者だった。横田さんはわたしよりも10個くらい先輩、横田市長の長男だった。道庁へ就職して、上川支庁長で退職している。根室高校長が、「東大を受験しようなんて身の程知らずがいる」なんて生徒集会で発言したという、笑える。きっと自分を基準に考えたのだろう。
1級合格には生徒集会で校長から直々に合格証書が渡されるが、名前を呼ばれても、出て行かなかった。ちょっとざわついた。N村校長から受け取るのは嫌だったから前に出て行かなかった。あとで、担任から教室で受け取った。担任は何も言わなかったが、校長から何か言われたはずだ。
珠算の全道大会は日商珠算能力検定試験1級の問題を半分の時間でやるので、それに比べるとどうってことのないスキルで、全道大会ではそれが最低レベル、しかし鍛錬を要するのは事実だ。珠算部ではないのに毎年珠算部顧問=担任の冨岡先生に頼まれて大会へ参加していた。いやT岡先生がわたしに直接頼んだことはないし、珠算部長のNさんからも頼まれたことはなかった。先輩の仲野さんがわたしに、「来週、全道大会行くからな」と告げると、わたしに拒否権はない、「はい!」と返事をする。1週間だけ練習に参加して、当然の顔で札幌会場へみんなと行っていた。それが愉しいのである。男は仲野先輩とわたしだけ、美人も複数いた。(笑)年に一度の懇親会のようなもの。大会出場はおまけだった。珠算部長は柏陵中学校出身のNさんだった。わたしはどういうわけか、光洋中学校の珠算部長だった。毎週、一日だけ後輩たちの指導をしていた。「計算実務」の「応用計算」種目はわたしだけ参加、複利計算や年金現価の計算や開平(平方根を求める)、開立(立方根を求める)、定率法減価償却など、50パタンぐらいも暗記してしまえば、簡単である。ただ、1問30秒で10ケタほど計算しなかればならないので、とっても忙しい。開平九九や開立九九なんていうのがあった。高橋先生から教えてもらったような気がする。よくあんな計算知っていたなといま思う、高橋先生は勉強家で努力家、そして信念の人だった。根室高校の先生でそういう指導のできる先生はいなかった。後に、全道大会の作問委員をやられていた。
ところで全道大会の応用計算では次のような形式の問題が出される。出題レベルは計算実務検定1級の問題、制限時間は半分。
「100万円を年率5%の複利で預けると、10年後にはいくらになるか。円未満は四捨五入すること」
数学的には簡単である。式は[1,000,000×(1+0.05)^10]、これを30秒で計算すればいい。当時は8桁の電卓が4万円もした時代である。高卒の初任給2か月分では買えなかった、算盤が計算道具として重要だったのである。女子はこういう計算が苦手だった。計算式を数学的に理解してしまえば、あとは簡単、単なるパターン計算になる。大学受験数学も同じで、そのパターンがおよそ10倍の500パターンある。頭のいい生徒はこれを200以下に集約できる。なるべく脳のメモリーを余計なことに使わないほうがいいのである。肝心な時につかえるエリアが狭くなってしまうからだ。
年が明けて、2年生の2月に日経協の簿記1級に二人合格した。生徒集会で合格証をもらうのは点数の高い方だから、わたしの名前が呼ばれた。この時は担任の顔を2度も潰してはいけないので、前に出てすなおに受け取った。 もう一人の合格者は後に21歳で税理士試験に合格することになるH瀬である。歯舞中学出身のあいつはよくできた。生徒会副会長にわたしが引っぱりだした男だ、ふさわしいのはあいつしかいなかった。ほんとうは会長職を頼みたかったが、会長立候補の話をもって行っても返事はノーだっただろう。名前が知られていなかった。資格を取ってからほどなく有楽町で税理士事務所を開いている、見込んだ通りの男だった。高校時代は簿記では定期試験でも検定試験でも結果を見ると一度もトップを譲ったことがない。あいつは昆布漁師の息子で、昆布干しの作業の手伝いがあったし、わたしは家業のビリヤード店の店番を毎日していた。どちらも家業を大事にしていた。好い奴と1年生の時に同じクラスになった。2年からは別々のクラスだった。1年の時に同じクラスでなかったら、あいつの気心を知らないから、2年の生徒会選挙に引っ張り出さなかっただろう。先輩の副会長2人に応援演説をしてもらうのだから、それなりの人選の責任がわたしにはあった。
7.<産学共同事業:市民珠算大会>
珠算に関していうと、わたしが卒業した年に、小学6か中1の生徒が二人全珠連検定試験五段に合格した。駒沢さんと多田さんという名前を記憶している。五段は日商珠算検定を半分の時間で合格するよりもレベルがずっと高い。高橋珠算塾の生徒である。そのご、高橋珠算塾では十段位もでたと聞く。高橋尚美先生の「男子一生の仕事」という情熱の賜物だろう。元々釧路の方だ。20歳くらいで根室で本町大岩米穀店の隣の2階で珠算塾を開いた。根室発の珠算塾だった。小学生の四人に一人は通っていた。花咲街道を挟んで根室信金本店の向かい側。家が近かったので、高橋先生とはビリヤードもよくやった。そちらはわたしが先生だった。(笑) 根室に知人友人を創るには、ビリヤードはなかなかいい手段だったかもしれない。そういう目的でマージャンもよくやっておられ、付き合いの広い人だった。
わたしは高校2年の時に、中大文学部へ進学した澤山先輩のあと、半年ほどピンチヒッターで汐見町の教室を任された。金曜日だけ曙町の本塾で教える高橋先生と交代して本塾のほうで教えた。高橋先生は「男子一生の仕事」と言い切るほど、熱が入っていたから、指導していると、次第に声が大きくなってしまう。塾生たちはビビッて手が思うように動かない。わたしがいく金曜日はほっとしていた。あの当時高卒の給料が1.5-1.8万円ほどだったが、夕方3時間ほどで8000円いただいていた。ビリヤードの店番もあったので、毎月高卒のサラリーマンの給料くらいお小遣いがあった。高度経済成長のいい時代だった。
珠算部顧問と高橋先生の仲が悪いという噂があった。珠算部顧問の冨岡先生が「卒業生に塾を開かせて潰してやる」なんて噂がまことしやかにささやかれていた。ところが、担任の冨岡先生から高橋先生の悪口は一度も聞いたことがなかったし、高橋先生も冨岡先生の悪口を言われたことがない。冨岡先生は珠算部顧問で、計算実務を教えていたが、算盤の扱いは素人、苦手だったと思う。計算実もの授業では教壇の前に大きな算盤を載せて、計算の実演をしなければならないのだが、算盤の後ろ側から珠を操作するのは厄介で、時々計算が合わない。わたしは数秒で計算を済ませてしまっているから、冨岡先生の珠の動きを見ている。どこで間違えたかわかってしまう。計算結果が合わないといらいらしている。そんなときに視線が合ったことがあった。カッとなって冨岡先生、チョークをわたしに投げつけたことがあった。大人げないのでよけもせずに胸のところへ当たって落ちた。計算実務の授業が苦痛だったのだろう。わたしが計算実務1級の問題を半分の時間でやることはご存じだったから、バカにしていると思ったのだ。わたしは代わりにやってあげてもいいと思っていつも見ていたのだが、珠算部顧問のメンツもある。いい思い出だ。
(簿記の白方先生は出張で工業簿記の授業ができないときには、わたしに問題プリントを人数分預けて出張していた、「出張でいないから次の時間これみんなにやらせておいて」、クラスのみんなもそれで誰も文句言わない。授業の説明を一番後ろの席で聞いていて、ややこしいところの説明が終わると、わたしのほうを見る、頷くと次に進む、首を横に振るともう一度説明をした。わたしは、2年生になる前に、工業簿記1級の問題集を1週間でやり終えていたから、工業簿記の授業は復習だった。何も言わなくても白方先生はわたしがそれくらいの勉強をしていることをご存じだった。だから、2年生の時に神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。そのときには公認会計士二次試験の受験勉強を始めており、金融機関へ就職するつもりだったから大学進学に興味がなかった。)
高橋先生は日商珠算検定1級の満点合格になんども挑戦するほどの名手。根室明照高校で珠算を教えていたことがあったらしい。根室高校と根室明照高校、それぞれで珠算の指導に当たっていたから、対抗心はあっただろう。両方の先生のそばにいたのにはわたしだけ、仲が悪いわけではなかった、たんに、疎遠だっただけ。話したことすらなかったはず。
高橋先生から、あるとき珠算の市民大会を根室高校で開催したいと相談を受けた。わたしが根回しするのがよさそうだから、根室高校側はわたしから珠算部顧問の冨岡先生に話して柔道・剣道道場を会場とすることや準備の段取りを決めた。珠算部員でもないのに、毎年、全道大会に出て貸しがあったから、冨岡先生すぐに動いてまとめてくれた。根室商工会議所主催で、根室高校珠算部顧問と高橋珠算塾が手を組んだ仕事になった。商工会議所の巻き込みは珠算塾側の高橋先生と板野先生が担当したのだろう。こうして根室初の産学共同事業が実現した。
第一回目はわたしが選手宣誓をやった。高橋先生が「選手宣誓」の原稿をもってきて、やれと指示。わたしは「ノー」とは言えないから、選手としては暗算部門だけ出場、あとは主催者側に回った。だから、初回の暗算部門の優勝者はebisuである。読み上げ算は6-10桁を高速で読み上げなければならず、やったことのない根室高校の先生たちには無理だったので、別の珠算塾の板野国雄先生と高橋珠算塾の高橋尚美先生、そして根室高校珠算部幽霊部員のわたしの3人でやった。珠算部長のN村さんは、高橋珠算塾にはいなかったから、板野先生の所へ通ったのだろう。もうひとつ安達さんのやっている珠算塾があった。妹のみどりさんが、根高珠算部で1年後輩だった。運指の綺麗な人が安達さんと同じ学年の後輩にいたが、名前が思い出せない、板倉さんといったかな。
商工会議所主催の市民珠算大会はわたしが根室に戻ってきてから何度か開かれていた。珠算人口が激減したのでおそらくもうやってないだろう。今年、釧路高専へ進学したM君が澤山先輩の珠算塾で小6のときに3段合格したと言っていた。野球部だったから、中学校では無理、ボールを投げると指が震えて、運指に差し支える。どちらかをえらばなければならないが、大好きな野球を選んだ。かれは野球が好きで、武修館から優れたコーチが来ていた別海高校へ進学するつもりだった。めずらしく文武両道だったから釧路高専への進学を勧めた。大学へ進学への道が残る。豊橋と長岡にある技術科学大学は国立だが、全国の国立高専から優秀な学生を3年次編入で受け入れている。釧路高専で上位1/3の成績なら、進学できる。さらにそのうちの上位1/3なら、大学院へも進学できる。あとは自分の努力次第と言って送り出した。還暦高専生の高木さんが同期生である。高木さんは元釧路市学校教育部長である。ユニークな人だ。かれこれ8年間ほどお付き合いがある。
根室の珠算人口が激減した。その一方で四則計算(加減乗除算)が満足にできない中1が増えた。分数や小数の計算ができない中1の生徒が3割はいる。小学生低学年で2年間ぐらい習わせたら、四則計算のできない生徒はほとんどいなくなる。毎日15分、1年間やらせるだけでもずいぶん効果がある。根室には五段以上の高段位を取得している女性が十数人残っているはず。もったいない、そういう人たちを講師にして小学校で教えたらいい。梅ヶ枝町2丁目の生徒S君のお母さんが五段位だった。S君は数年前に根室鉱区を卒業している。他の地域では五段位取得者はなかなかいないよ。根室には表に出てこないがこうした人材がいる、人財といった方がいい。根室市の宝だ。根室市教委はそういう人を掘り起こして使ったらいい。
いま、全国の病院で使われている臨床検査項目コードは日本臨床検査医学会が公表して臨床検査最大手のSRL内にある事務局からインターネットで配信されているが、これは大手臨床検査会社と日本臨床病理学会(当時)臨床検査項目コード検討委員会が5年ほどかけて産学協同の作業部会での検討をへて制定されたものだ。事実上の日本標準臨床検査項目コードである。これは、1985年の「臨床診断支援システム開発事業」構想がベースになっている。臨床検査項目コードを統一することで診断支援システムが稼働可能になる。入社した翌年この構想を書いて、創業社長の藤田さんから予算200億円の承認をもらった。臨床病理学会臨床検査項目コード検討委員会委員長の櫻林郁之助教授を引っ張り出して、大手六社との共同プロジェクトに参加してもらった。櫻林先生には入社後案歳ぐらいで項目コード検討委員会を手伝ってほしいと個人的に頼まれていた。創業社長の藤田さんにに言って手伝いができるように総合企画部への異動を働きかけるのでいいかと相談があった。SRLはもともと臨床病理学会長の河合教授の発案で、藤田さんが始めた事業である。だから、その一番弟子でSRL顧問の櫻林先生の依頼なら、藤田社長は二つ返事でわたしの異動を人事部へ命令しただろう。その時は統合システム開発と予算編成を抱えていたので、お断りした。だが、どこかでお手伝いするつもりだった。「臨床診断支援システム開発・事業化案」がきっかけになって大手六社を巻き込んで実現した。大義名分がなければ、こういう大きな仕事はできないものだ。
慶応大学産婦人科ドクターたちとの出生前診断トリプルマーカ―MoM値も産学共同プロジェクトだった。これもわたしがコーディネータ。3年かけて妊婦の血液を6000検体ほど集めて、日本標準値が制定できた。最近、第2世代のもっと精度のいい検査にかわった。20年間ほど日本標準の基準値だった。
こういう産学協同プロジェクトをコーディネートするのは、こうして書いてみると根室高校時代の市民珠算大会へ遡ることができる。高校時代はいろんなことを経験しておいた方がいい。
ところで、高橋珠算塾の汐見町の教室を任されていた時に、高橋先生は全珠連の全道の集まりにわたしを連れて行ってくれた。釧路までは砂利道だった、会場は帯広。十勝川温泉一泊のおまけがついていた。当時は混浴で、若くて美人でプリンプリンの巨乳の人が入浴してきた、目が点になり鼻血がでそうだった。あれは天からのご褒美だったのだろうか。(笑)
8.<根高ラグビー部創設の経緯>
高校2年生の時に、明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任してきた。チャンスだと、友人数名にラグビー部立ち上げを相談した。村田先生に部員は集めるから、1年間ラグビー同好会顧問をお願いしたいと申し出ると快く引き受けてくれた。規定で1年間は同好会、様子を見て部へ昇格というのが手順だった。部へ昇格すると部予算が割り当てられる、そこは生徒会計形の一存で決められた。同好会の1年間は予備費から支出したのか記憶にない。明大のメニューでトレーニングしてくれたから、すぐに根室管内の強豪であった中標津高校に勝てるレベルになった。数年前に部員が居なくて廃部になったようだ。
大学でなにか部活をやった先生が赴任してくるようなチャンスがあったら、種目はなんでもいいから、その先生を担いで同好会、そしてクラブを立ち上げたらいい。指導がよければ道内ならすぐに強豪校になれる。
9.<総番制度廃止の経緯:ヒロシ>
もうひとつ、だいじなことがあった。総番制度である。2年生ときに3年生の総番グループと衝突があった。3年生の総番長グループの数人が民青に所属していたはず。総番グループが変質しつつあった。北海道新聞には「13対7の決闘」というようなタイトルが躍っていた。2年生13人3年生7人、全員停学処分である。3年生でケガをしたものが病院へ行って警察の知るところとなった。羅臼出身のニックネーム「やすべ」も退学処分。定期テスト前だったが、退屈だろうと思って、毎日行って花札をして12時ころまで遊んだ。ノートは見せたかな?いや、ほしがらなかったのではなかったかな。あいつのオヤジは根室管内で当時一番税金を納めていたが、下宿生活していたあいつは質素に暮らしていた。オヤジにねだればいくらでもお金は送ってくれただろう。やすべは本当は気弱なボンボンだった。高校卒業して札幌の水産関係の会社に就職、その夏に根室へやってきて、二人だけで酒を飲んだ。それ以来会っていない。2-3年前に癌を患い東京の病院で亡くなったと聞いた。会って昔話をしておきたかった。やすべとは3年間同じクラスだった。1年の時に同じクラスで仲の良かったオンネットの天野がいた。かれも総番グループの一人だった。美容師になって札幌で数か所店を開いて優雅にやっていたようだが、店舗を増やしすぎて一度倒産したと聞いた。高校卒業以来一度もあっていない。書くときりがないからこれくらいにしておく。
2年生の新学期からクラス編成がかわる。商業科はEFGの三クラスだが、一番端のGクラスに問題児が集められる。だからとっても面白いクラスになる。総番長のヒロシとも同じクラスになった、息があった。それ以来、お互いに名前で呼び合う。「ヒロシ」「トシ」である。二人だけで話す機会がよくあった。
かれに総番長に代々伝わて来た仁義の切り方を知ってるかと訊いたことがある、伝わってなかった。根室高校の総番制度は根室商業時代にできたもので、それが数十年にわたって代々伝わっていた。総番長は商業科という不文律があった。2学年上のY山さんは普通科だったが、プロレスラーのようなガタイ、不文律が不満だった。ヒロシと一緒に明治牧場を横断していた時に絡まれたことがあった。わたしたちが3年のときだから、卒業して2年たっていた。何か用事があって高校へ向かう途中だったようだ。
5年先輩の総番長は親戚のお兄さん、野球部のキャプテンでもあった。お祭りのときだけ、なんだか怖い顔をして、後ろに眼付きの鋭い不良を十数人従えて、足駄をはいて街中を闊歩していた。高校1年生の時に、代々伝わっている仁義を切って見せてくれた。ヤクザともめごとがあれば、根室高校を代表して仲裁交渉するのは総番の役目、だから相手の流儀であいさつしなければならない。「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうさんにござんす。手前生国発しまするところ…」と立て板に水のごとく言いよどんではならない。文句を間違えたら殺されてもしかたがない、そういっていた。小さく折りたたんだ紙に台詞が書いてあり完全に暗記して、実演して見せてくれた。よほど練習したのだろう。腰を落として構えて右手を出し、映画のシーンを見るような見事なものだった。わたしは「まこちゃん」と呼んでいた。その仁義の台詞が総番のヒロシに伝わっていない。先輩の3年生たちも十人くらい知っていたが、伝わっている気配がなかった。総番制度はすでに中身が変質していた。仁義の台詞を小さく折りたたんで後生大事に持っていたところから推測するに、まこちゃんが伝えなかったのかもしれない。時代の変化を敏感に感じていたのだろう。ヒロシには仁義が伝わっていないようではもういいだろう、総番制度は廃止、グループは解散くらいのことは話していた。2年生に総番を継げるような人材のいないことも二人で話していた。
根高総番長には権力と責任が伴っており、いざというときには命懸けの覚悟が必要だったが、残念ながら、わたしたちのころはただのワル集団になりかかっていた。そこへ共産党という色の違ったものが1年生先輩たちを染めつつあった。解体する必要は感じていたし、ヒロシとそういう話をしたこともたしかにあった。土曜日に二人だけで高校から歩いて帰ることがあった。
わたしの記憶はそのあたりまでだが、同級生のA野の説明だと総番長とA野とわたしの三人で廃止を決めたのだそうだ。総番長のヒロシは矢面に立たされたはずだが、あいつは独りで収めてしまった、そういうやつだ、大物。ヒロシは勉強が好きではなかったが、それでも2倍の競争率を潜り抜けたのだから、そこそこ勉強はできた。副番3人のうち2人は大学へ進学している。勉強が好きになれなくても、統率力のあるやつは社会人になったときにそれが武器になる。ヒロシは50代である水産会社の役員になっている。わたしと同じ大学へ進学した副番長の一人であるTはあるテレビ会社の取締役東京支社長だった。総番グループには面白い人材がいたと言っていいだろう。同じクラスでヒロシを支えていたバスケット部のムサシは、しょっちゃんと同じ拓大へ進学した。こいつもいい奴、花咲港のボンボンだった。冨岡先生があるとき「おまえは花咲港駅から自分の地所だけをあるいて帰れる」と言ったことがあった。苦労知らずの人っ子のいい奴だった。でも、奥さんが早く亡くなって苦労した。底抜けに人のいい奴らが周りにたくさんいた。
下級生に総番にふさわしい人物がいなかったことも原因の一つだった。ただのワル集団なら伝統の総番制度とは似て非なるモノ。あれでよかった。ヤクザ屋さんともめごとを起こすようなはねっかえりも絶えて久しく、全体に小粒になってしまっていた。ヒロシは男気のあるやつ、酒を飲むとときどきはしゃぐ。(笑)
根室高校生は50年間でずいぶん幼児化してしまった。この数年間、高校生は毎週出されるプリントのたくさんの宿題にあえいでいる。これではまるで小学生ではないか。高校生を見ていると、自主性・自発性が根こそぎになったような感がしている。一部に、自主性が強く自立した生徒を見かけるが、稀だね。
10.<根室明照高校生徒会との交流>
根室高校と私立の明照高校は生徒会も部活も一切交流がなかった。根室明照高校生徒会長の北川さんと話をして、交流をしようということになった。当時もわたしは生徒会会計だったが、両校の調整役ぐらいはできた。決めてきて、生徒会メンバーに話せば、ノーを言う人はいない。そういう経緯で、根室高校生徒会室で一度だけ両校の生徒会メンバーが接触した。とくに何かを決めるわけでもなく、顔合わせくらいなことだった気がする。北川さんは1期だけ根室市議をやったが、前回の選挙では立候補しなかった。
部活の交流は女子バレーの練習試合を組んだ。明照高校のほうが運動神経のよい女子がたくさんいたはずだから、根室高校が負けると予想していた。ところが結果は明照高校の惨敗だった。わけがわからないので、明照高校バレー部にいた妹に、理由を訊いてみた。「お兄ちゃん、トスを上げると天井が高くて眩暈(めまい)がした」と言った。明照高校の体育館は、教室を二つぶち抜いただけで天井が低くてトス上げ練習できないことを後で知った。運動能力の高い生徒たちが気の毒な環境で部活動をしていた。何とかしてやりたかったが、なんともできなかった。
後に、根室明照高校が財政的に行き詰って、道立根室西高校になったのはまことに喜ばしいことだった。道立高校だから、根室高校と同じレベルの体育館が整備できる、それでハンディがなくなっただろう。当時の明照高校女子バレー部の部長はいまは親友の奥さん。当時は全く面識がなかった。それでも知っているメンバーが何人かいた。高校が違えば、中学時代に一緒に遊んでも、遊ぶ機会がなくなるのがふつうだった。
同じ根室の高校だから、年に一度は雑談でいいから集まって話をしようということになったが、3年生のときだったから、交流がその後続いたかどうか承知していない。こういうことは継続することがむずかしい。人が入れ替われば、続かなくなる。どうしたらいいのかわからなかった。
11.<記憶に残る根高の先生たち>
担任の冨岡良夫先生はまず筆頭に挙げるのが礼儀というものだろう。お兄さんが仕事で中国勤務になったので、高齢の両親の面倒を見なければならなくなり、根室高校を50歳くらいで退職して東京都大田区のご自宅へ引っ越された。そのあと、道路工事の仕事やスーパーマーケットの駐輪場の係をやって、みこまれて、自転車売り場の担当になった。東京で同期会がある都度冨岡先生は出席してくれた。あるとき、手をついて、「申し訳なかった、もっとちゃんと授業するべきだった」と謝られた。自転車売り場の主任になってはじめて仕事というものが分かったとおっしゃった。安物の1.2万円くらいの自転車は勧めない、「3年乗り回して、あるときパイプが腐食して坂を下る途中でぽっきり折れたら、どうします?、お値段相応にできているんです」、そう言いながら、3万円以上の頑丈な国産自転車を勧めるのだそうだ。自分のこどもや孫が、安物の自転車に乗って数年後に大けがしたらと思うと、いい加減な販売はできないとおっしゃっていた。頭が下がった。冨岡先生は三年生の進路相談のときに、釧路日銀支店を受けるように奨めてくれた。学校推薦はできるし、生徒会もやっているので、日銀を受けてみろと言われた。都市銀行に就職して、公認会計士の資格を取るつもりだった。「おまえが都市銀行を受けたら、受けたい同級生が落ちることになる」そう言われて、就職しそこなった。だから、わたしの大学進学は「瓢箪から駒」のようなもの、進学するつもりがまったくなかった、時間切れ、成り行きでそうなっただけ。高卒で日銀就職は嫌だった。冨岡先生のニックネームは「どん太」である。癌があちこちに転移して、その都度手術されていたが、数年前になくなった。
白方功先生は北見北斗出身で千葉商科大学出だった。簿記の教え方が優れていた。問題集は日商用のレベルの高いものを使って1年分予習してしまっていても、聴くべき内容があった。兵庫県立神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。受験科目を見て無理と思った。わたしたちが卒業してから、母校の北見北斗に戻って、しばらくしてから学校をやめてビジネスを始めたと噂に聞いた。ワインバーで飲んでいた時に製薬卸の営業の人と隣り合わせたことがある。北見北斗の出身だというので、白方先生知っているかと問うと、習ったという。北見北斗がテレビの取材を受けたときに、東京で放映された番組を見た。そのまんまだった。「バッキーしらかた」のニックネームで呼ばれていた。ずいぶん早く亡くなったようだ。
英語の沢井先生が懐かしい。1年の時に英語を習った。文型中心に授業をしてくれた。すっと頭に入ってきた。定期テストで50問ほど文型問題を出題された。1問だけ間違った、50点以上は二人だけだった。他の生徒たちには、先生の説明が呑み込みにくかったのだろう。低音のいい声で教科書を音読してくれた。卒業して数年後に釧路高専の教授となったときいた。中学生のときに2年半英語を教えてくれたE藤先生は文法的な説明を一切しない人だったから、自分で勉強する癖がついた。中3年の後半になって、一人だけAクラスに編入してもらえた。それまでBクラスだったのである。成績が悪いはずもないのになぜ2年生の時にBクラスにされたのか理由がわからなかった。E藤先生は教科書を3回読み、和訳されたらあとは雑談だけ。変わった教え方だが、2年半はそれがスタンダードだと思っていた。先生によって教え方はまるで違うし、発音もだ。高校2年と3年の時に担当してくれたH先生は、togatherとテゲェアザーと変わった発音だった。1年生の時に発音記号をマスターしていたから、ちょっと気になった。NHK英語講座をソニーのオープンリールテープレコーダに録音して、巻き戻し・再生のために大きなレバーをガチャガチャさせて英語の勉強をしていた。あのレバーは案外丈夫だった。当時はカセットテープレコーダがまだなかった、東京オリンピックの年、1964年のことである。沢井先生は北大出身。中高と4人の英語の先生に習ったが、沢井先生が最高だった。
35年ぶりに根室へ戻ってきて、数年たったころ、本町の海岸から双眼鏡で国後島を見ていたら、「ちょっと双眼鏡貸してくれない?」と頼まれ、振り向くと山田先生だった。生徒会顧問をしていたうちの一人だ。習ったことがないが、知っていた。「山田先生ですよね、昭和42年卒で生徒会・会計をやっていたebisuです」というと、家へ来ないかと誘われて、そのままご自宅へ。先生は郷土史研究会顧問を長くされており、それまで研究会がつくった郷土史関係資料をたくさん見せていただいた。山田先生のあの資料は誰かが引き継いだのだろうか?貴重な資料がたくさんあった。根室出身の方ではなかったが、お会いしたときに「根室の土になる」とおっしゃっていた。その言葉に胸が熱くなった。
ラグビーの村田先生はすでに書いた。あと、高校時代には習っていなかったが、中学生の時に日本史を習った柏原栄先生がいる。いまも根室に住んでおり、水晶島出身で北方領土返還運動に携わっている。北方領土返還運動の担い手の一人である岩田先生(一昨年逝去)とは花咲小学校で同僚だったはず。いまも西浜町会長である。黒板に不揃いの大きさで字を書く先生だった。字は一つ一つ丁寧だった。高校のときは倫理社会の先生が用事でいなかったときに、普通科でやった政治経済のテスト問題をもってきてやらせたことがあった。文系と理系のふたつに最後の問題だけ分かれていたが、ちゃんと両方書いた。政治経済は習っていないのだが、北海道新聞の社説と政治経済欄を小4から読み続けていたので、全問正解できただろう。ちゃんと勉強してるよと、メッセージを送ったつもりだった。門閥について柏原先生から質問を受けたことがあったから、2度授業があったのかもしれない。倫理社会の谷口先生が説明した通りに応えたが、間違いであった。辞書に書いてあることと違う説明をした。わざとではなかったが、「谷口先生の説明ではそうでした」と伝えた。柏原先生は光洋中学校教諭時代は歴史を教えてたから、門閥というような歴史に関係する用語の定義には厳格だった。谷口先生は時事問題研究会で幼稚園の幼馴染を煽っていたので、反抗心がメラメラしていたのかもしれない。共産主義を云々するなら、谷口先生には資本論くらい読んでからにしろと思っていた。生一本な幼馴染のFは安田講堂に立てこもって逮捕されることになる。門閥については谷口先生が、「俺そんな説明したか?柏原先生に叱られた」とぼやいていた。谷口先生は中央大学法学部出身、司法試験合格者が一番多い大学だった。当時は東大法学部の次にランクされる難関。校舎が八王子へ移転してからレベルが下がった。SRLの同僚だった加藤が中大法学部だった。大学紛争で東大安田講堂がロックアウト、そのあおりで入試は中止、それで中大法学部へ進学した、家が裕福でなかったから1年間浪人できなかったとは加藤の述懐。奥さんは東大理Ⅲの才女だった。2つ年下の加藤は平成5年11月に43歳で胸部ガンで亡くなった。弊ブログのどこかで書いている。惜しい奴だった。
写真展で柏原先生の桜の写真を見たことがあり、懐かしくて電話した。東京都内では診たことのない場所だったので、訊いてみたら大阪造幣局の桜だった。名前を覚えておられた。姉のことも母親のこともしっかり記憶されていた。すごい記憶力だ。どなたかのお葬式で2度ほどお見かけしたし、2年前の同期会にも出席してくれた、あいかわらずおしゃれ。いつまでもお元気でいてもらいたい。
柏原先生の歴史の授業をきっかけに成績が急激にアップしたので、恩人である。頭の中でビリヤード・ゲームを無限居続けられるが、柏原先生の特徴のある板書は、緑色のラシャの上を走る白い球と一緒であることに気がついた。授業の後で脳内に繰り返し再現できた。それを歴史、数学、理科、英語などの好きな科目に応用したら、特に勉強時間が増えたわけでもないのに突然に成績がアップしたのである。それからは勉強がとっても簡単、楽ちん、愉しいものになった。数分間、脳内に展開するだけで人の数時間分の効果があった。
7.<産学共同事業:市民珠算大会>
珠算に関していうと、わたしが卒業した年に、小学6か中1の生徒が二人全珠連検定試験五段に合格した。駒沢さんと多田さんという名前を記憶している。五段は日商珠算検定を半分の時間で合格するよりもレベルがずっと高い。高橋珠算塾の生徒である。そのご、高橋珠算塾では十段位もでたと聞く。高橋尚美先生の「男子一生の仕事」という情熱の賜物だろう。元々釧路の方だ。20歳くらいで根室で本町大岩米穀店の隣の2階で珠算塾を開いた。根室発の珠算塾だった。小学生の四人に一人は通っていた。花咲街道を挟んで根室信金本店の向かい側。家が近かったので、高橋先生とはビリヤードもよくやった。そちらはわたしが先生だった。(笑) 根室に知人友人を創るには、ビリヤードはなかなかいい手段だったかもしれない。そういう目的でマージャンもよくやっておられ、付き合いの広い人だった。
わたしは高校2年の時に、中大文学部へ進学した澤山先輩のあと、半年ほどピンチヒッターで汐見町の教室を任された。金曜日だけ曙町の本塾で教える高橋先生と交代して本塾のほうで教えた。高橋先生は「男子一生の仕事」と言い切るほど、熱が入っていたから、指導していると、次第に声が大きくなってしまう。塾生たちはビビッて手が思うように動かない。わたしがいく金曜日はほっとしていた。あの当時高卒の給料が1.5-1.8万円ほどだったが、夕方3時間ほどで8000円いただいていた。ビリヤードの店番もあったので、毎月高卒のサラリーマンの給料くらいお小遣いがあった。高度経済成長のいい時代だった。
珠算部顧問と高橋先生の仲が悪いという噂があった。珠算部顧問の冨岡先生が「卒業生に塾を開かせて潰してやる」なんて噂がまことしやかにささやかれていた。ところが、担任の冨岡先生から高橋先生の悪口は一度も聞いたことがなかったし、高橋先生も冨岡先生の悪口を言われたことがない。冨岡先生は珠算部顧問で、計算実務を教えていたが、算盤の扱いは素人、苦手だったと思う。計算実もの授業では教壇の前に大きな算盤を載せて、計算の実演をしなければならないのだが、算盤の後ろ側から珠を操作するのは厄介で、時々計算が合わない。わたしは数秒で計算を済ませてしまっているから、冨岡先生の珠の動きを見ている。どこで間違えたかわかってしまう。計算結果が合わないといらいらしている。そんなときに視線が合ったことがあった。カッとなって冨岡先生、チョークをわたしに投げつけたことがあった。大人げないのでよけもせずに胸のところへ当たって落ちた。計算実務の授業が苦痛だったのだろう。わたしが計算実務1級の問題を半分の時間でやることはご存じだったから、バカにしていると思ったのだ。わたしは代わりにやってあげてもいいと思っていつも見ていたのだが、珠算部顧問のメンツもある。いい思い出だ。
(簿記の白方先生は出張で工業簿記の授業ができないときには、わたしに問題プリントを人数分預けて出張していた、「出張でいないから次の時間これみんなにやらせておいて」、クラスのみんなもそれで誰も文句言わない。授業の説明を一番後ろの席で聞いていて、ややこしいところの説明が終わると、わたしのほうを見る、頷くと次に進む、首を横に振るともう一度説明をした。わたしは、2年生になる前に、工業簿記1級の問題集を1週間でやり終えていたから、工業簿記の授業は復習だった。何も言わなくても白方先生はわたしがそれくらいの勉強をしていることをご存じだった。だから、2年生の時に神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。そのときには公認会計士二次試験の受験勉強を始めており、金融機関へ就職するつもりだったから大学進学に興味がなかった。)
高橋先生は日商珠算検定1級の満点合格になんども挑戦するほどの名手。根室明照高校で珠算を教えていたことがあったらしい。根室高校と根室明照高校、それぞれで珠算の指導に当たっていたから、対抗心はあっただろう。両方の先生のそばにいたのにはわたしだけ、仲が悪いわけではなかった、たんに、疎遠だっただけ。話したことすらなかったはず。
高橋先生から、あるとき珠算の市民大会を根室高校で開催したいと相談を受けた。わたしが根回しするのがよさそうだから、根室高校側はわたしから珠算部顧問の冨岡先生に話して柔道・剣道道場を会場とすることや準備の段取りを決めた。珠算部員でもないのに、毎年、全道大会に出て貸しがあったから、冨岡先生すぐに動いてまとめてくれた。根室商工会議所主催で、根室高校珠算部顧問と高橋珠算塾が手を組んだ仕事になった。商工会議所の巻き込みは珠算塾側の高橋先生と板野先生が担当したのだろう。こうして根室初の産学共同事業が実現した。
第一回目はわたしが選手宣誓をやった。高橋先生が「選手宣誓」の原稿をもってきて、やれと指示。わたしは「ノー」とは言えないから、選手としては暗算部門だけ出場、あとは主催者側に回った。だから、初回の暗算部門の優勝者はebisuである。読み上げ算は6-10桁を高速で読み上げなければならず、やったことのない根室高校の先生たちには無理だったので、別の珠算塾の板野国雄先生と高橋珠算塾の高橋尚美先生、そして根室高校珠算部幽霊部員のわたしの3人でやった。珠算部長のN村さんは、高橋珠算塾にはいなかったから、板野先生の所へ通ったのだろう。もうひとつ安達さんのやっている珠算塾があった。妹のみどりさんが、根高珠算部で1年後輩だった。運指の綺麗な人が安達さんと同じ学年の後輩にいたが、名前が思い出せない、板倉さんといったかな。
商工会議所主催の市民珠算大会はわたしが根室に戻ってきてから何度か開かれていた。珠算人口が激減したのでおそらくもうやってないだろう。今年、釧路高専へ進学したM君が澤山先輩の珠算塾で小6のときに3段合格したと言っていた。野球部だったから、中学校では無理、ボールを投げると指が震えて、運指に差し支える。どちらかをえらばなければならないが、大好きな野球を選んだ。かれは野球が好きで、武修館から優れたコーチが来ていた別海高校へ進学するつもりだった。めずらしく文武両道だったから釧路高専への進学を勧めた。大学へ進学への道が残る。豊橋と長岡にある技術科学大学は国立だが、全国の国立高専から優秀な学生を3年次編入で受け入れている。釧路高専で上位1/3の成績なら、進学できる。さらにそのうちの上位1/3なら、大学院へも進学できる。あとは自分の努力次第と言って送り出した。還暦高専生の高木さんが同期生である。高木さんは元釧路市学校教育部長である。ユニークな人だ。かれこれ8年間ほどお付き合いがある。
根室の珠算人口が激減した。その一方で四則計算(加減乗除算)が満足にできない中1が増えた。分数や小数の計算ができない中1の生徒が3割はいる。小学生低学年で2年間ぐらい習わせたら、四則計算のできない生徒はほとんどいなくなる。毎日15分、1年間やらせるだけでもずいぶん効果がある。根室には五段以上の高段位を取得している女性が十数人残っているはず。もったいない、そういう人たちを講師にして小学校で教えたらいい。梅ヶ枝町2丁目の生徒S君のお母さんが五段位だった。S君は数年前に根室鉱区を卒業している。他の地域では五段位取得者はなかなかいないよ。根室には表に出てこないがこうした人材がいる、人財といった方がいい。根室市の宝だ。根室市教委はそういう人を掘り起こして使ったらいい。
いま、全国の病院で使われている臨床検査項目コードは日本臨床検査医学会が公表して臨床検査最大手のSRL内にある事務局からインターネットで配信されているが、これは大手臨床検査会社と日本臨床病理学会(当時)臨床検査項目コード検討委員会が5年ほどかけて産学協同の作業部会での検討をへて制定されたものだ。事実上の日本標準臨床検査項目コードである。これは、1985年の「臨床診断支援システム開発事業」構想がベースになっている。臨床検査項目コードを統一することで診断支援システムが稼働可能になる。入社した翌年この構想を書いて、創業社長の藤田さんから予算200億円の承認をもらった。臨床病理学会臨床検査項目コード検討委員会委員長の櫻林郁之助教授を引っ張り出して、大手六社との共同プロジェクトに参加してもらった。櫻林先生には入社後案歳ぐらいで項目コード検討委員会を手伝ってほしいと個人的に頼まれていた。創業社長の藤田さんにに言って手伝いができるように総合企画部への異動を働きかけるのでいいかと相談があった。SRLはもともと臨床病理学会長の河合教授の発案で、藤田さんが始めた事業である。だから、その一番弟子でSRL顧問の櫻林先生の依頼なら、藤田社長は二つ返事でわたしの異動を人事部へ命令しただろう。その時は統合システム開発と予算編成を抱えていたので、お断りした。だが、どこかでお手伝いするつもりだった。「臨床診断支援システム開発・事業化案」がきっかけになって大手六社を巻き込んで実現した。大義名分がなければ、こういう大きな仕事はできないものだ。
慶応大学産婦人科ドクターたちとの出生前診断トリプルマーカ―MoM値も産学共同プロジェクトだった。これもわたしがコーディネータ。3年かけて妊婦の血液を6000検体ほど集めて、日本標準値が制定できた。最近、第2世代のもっと精度のいい検査にかわった。20年間ほど日本標準の基準値だった。
こういう産学協同プロジェクトをコーディネートするのは、こうして書いてみると根室高校時代の市民珠算大会へ遡ることができる。高校時代はいろんなことを経験しておいた方がいい。
ところで、高橋珠算塾の汐見町の教室を任されていた時に、高橋先生は全珠連の全道の集まりにわたしを連れて行ってくれた。釧路までは砂利道だった、会場は帯広。十勝川温泉一泊のおまけがついていた。当時は混浴で、若くて美人でプリンプリンの巨乳の人が入浴してきた、目が点になり鼻血がでそうだった。あれは天からのご褒美だったのだろうか。(笑)
8.<根高ラグビー部創設の経緯>
高校2年生の時に、明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任してきた。チャンスだと、友人数名にラグビー部立ち上げを相談した。村田先生に部員は集めるから、1年間ラグビー同好会顧問をお願いしたいと申し出ると快く引き受けてくれた。規定で1年間は同好会、様子を見て部へ昇格というのが手順だった。部へ昇格すると部予算が割り当てられる、そこは生徒会計形の一存で決められた。同好会の1年間は予備費から支出したのか記憶にない。明大のメニューでトレーニングしてくれたから、すぐに根室管内の強豪であった中標津高校に勝てるレベルになった。数年前に部員が居なくて廃部になったようだ。
大学でなにか部活をやった先生が赴任してくるようなチャンスがあったら、種目はなんでもいいから、その先生を担いで同好会、そしてクラブを立ち上げたらいい。指導がよければ道内ならすぐに強豪校になれる。
9.<総番制度廃止の経緯:ヒロシ>
もうひとつ、だいじなことがあった。総番制度である。2年生ときに3年生の総番グループと衝突があった。3年生の総番長グループの数人が民青に所属していたはず。総番グループが変質しつつあった。北海道新聞には「13対7の決闘」というようなタイトルが躍っていた。2年生13人3年生7人、全員停学処分である。3年生でケガをしたものが病院へ行って警察の知るところとなった。羅臼出身のニックネーム「やすべ」も退学処分。定期テスト前だったが、退屈だろうと思って、毎日行って花札をして12時ころまで遊んだ。ノートは見せたかな?いや、ほしがらなかったのではなかったかな。あいつのオヤジは根室管内で当時一番税金を納めていたが、下宿生活していたあいつは質素に暮らしていた。オヤジにねだればいくらでもお金は送ってくれただろう。やすべは本当は気弱なボンボンだった。高校卒業して札幌の水産関係の会社に就職、その夏に根室へやってきて、二人だけで酒を飲んだ。それ以来会っていない。2-3年前に癌を患い東京の病院で亡くなったと聞いた。会って昔話をしておきたかった。やすべとは3年間同じクラスだった。1年の時に同じクラスで仲の良かったオンネットの天野がいた。かれも総番グループの一人だった。美容師になって札幌で数か所店を開いて優雅にやっていたようだが、店舗を増やしすぎて一度倒産したと聞いた。高校卒業以来一度もあっていない。書くときりがないからこれくらいにしておく。
2年生の新学期からクラス編成がかわる。商業科はEFGの三クラスだが、一番端のGクラスに問題児が集められる。だからとっても面白いクラスになる。総番長のヒロシとも同じクラスになった、息があった。それ以来、お互いに名前で呼び合う。「ヒロシ」「トシ」である。二人だけで話す機会がよくあった。
かれに総番長に代々伝わて来た仁義の切り方を知ってるかと訊いたことがある、伝わってなかった。根室高校の総番制度は根室商業時代にできたもので、それが数十年にわたって代々伝わっていた。総番長は商業科という不文律があった。2学年上のY山さんは普通科だったが、プロレスラーのようなガタイ、不文律が不満だった。ヒロシと一緒に明治牧場を横断していた時に絡まれたことがあった。わたしたちが3年のときだから、卒業して2年たっていた。何か用事があって高校へ向かう途中だったようだ。
5年先輩の総番長は親戚のお兄さん、野球部のキャプテンでもあった。お祭りのときだけ、なんだか怖い顔をして、後ろに眼付きの鋭い不良を十数人従えて、足駄をはいて街中を闊歩していた。高校1年生の時に、代々伝わっている仁義を切って見せてくれた。ヤクザともめごとがあれば、根室高校を代表して仲裁交渉するのは総番の役目、だから相手の流儀であいさつしなければならない。「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうさんにござんす。手前生国発しまするところ…」と立て板に水のごとく言いよどんではならない。文句を間違えたら殺されてもしかたがない、そういっていた。小さく折りたたんだ紙に台詞が書いてあり完全に暗記して、実演して見せてくれた。よほど練習したのだろう。腰を落として構えて右手を出し、映画のシーンを見るような見事なものだった。わたしは「まこちゃん」と呼んでいた。その仁義の台詞が総番のヒロシに伝わっていない。先輩の3年生たちも十人くらい知っていたが、伝わっている気配がなかった。総番制度はすでに中身が変質していた。仁義の台詞を小さく折りたたんで後生大事に持っていたところから推測するに、まこちゃんが伝えなかったのかもしれない。時代の変化を敏感に感じていたのだろう。ヒロシには仁義が伝わっていないようではもういいだろう、総番制度は廃止、グループは解散くらいのことは話していた。2年生に総番を継げるような人材のいないことも二人で話していた。
根高総番長には権力と責任が伴っており、いざというときには命懸けの覚悟が必要だったが、残念ながら、わたしたちのころはただのワル集団になりかかっていた。そこへ共産党という色の違ったものが1年生先輩たちを染めつつあった。解体する必要は感じていたし、ヒロシとそういう話をしたこともたしかにあった。土曜日に二人だけで高校から歩いて帰ることがあった。
わたしの記憶はそのあたりまでだが、同級生のA野の説明だと総番長とA野とわたしの三人で廃止を決めたのだそうだ。総番長のヒロシは矢面に立たされたはずだが、あいつは独りで収めてしまった、そういうやつだ、大物。ヒロシは勉強が好きではなかったが、それでも2倍の競争率を潜り抜けたのだから、そこそこ勉強はできた。副番3人のうち2人は大学へ進学している。勉強が好きになれなくても、統率力のあるやつは社会人になったときにそれが武器になる。ヒロシは50代である水産会社の役員になっている。わたしと同じ大学へ進学した副番長の一人であるTはあるテレビ会社の取締役東京支社長だった。総番グループには面白い人材がいたと言っていいだろう。同じクラスでヒロシを支えていたバスケット部のムサシは、しょっちゃんと同じ拓大へ進学した。こいつもいい奴、花咲港のボンボンだった。冨岡先生があるとき「おまえは花咲港駅から自分の地所だけをあるいて帰れる」と言ったことがあった。苦労知らずの人っ子のいい奴だった。でも、奥さんが早く亡くなって苦労した。底抜けに人のいい奴らが周りにたくさんいた。
下級生に総番にふさわしい人物がいなかったことも原因の一つだった。ただのワル集団なら伝統の総番制度とは似て非なるモノ。あれでよかった。ヤクザ屋さんともめごとを起こすようなはねっかえりも絶えて久しく、全体に小粒になってしまっていた。ヒロシは男気のあるやつ、酒を飲むとときどきはしゃぐ。(笑)
根室高校生は50年間でずいぶん幼児化してしまった。この数年間、高校生は毎週出されるプリントのたくさんの宿題にあえいでいる。これではまるで小学生ではないか。高校生を見ていると、自主性・自発性が根こそぎになったような感がしている。一部に、自主性が強く自立した生徒を見かけるが、稀だね。
10.<根室明照高校生徒会との交流>
根室高校と私立の明照高校は生徒会も部活も一切交流がなかった。根室明照高校生徒会長の北川さんと話をして、交流をしようということになった。当時もわたしは生徒会会計だったが、両校の調整役ぐらいはできた。決めてきて、生徒会メンバーに話せば、ノーを言う人はいない。そういう経緯で、根室高校生徒会室で一度だけ両校の生徒会メンバーが接触した。とくに何かを決めるわけでもなく、顔合わせくらいなことだった気がする。北川さんは1期だけ根室市議をやったが、前回の選挙では立候補しなかった。
部活の交流は女子バレーの練習試合を組んだ。明照高校のほうが運動神経のよい女子がたくさんいたはずだから、根室高校が負けると予想していた。ところが結果は明照高校の惨敗だった。わけがわからないので、明照高校バレー部にいた妹に、理由を訊いてみた。「お兄ちゃん、トスを上げると天井が高くて眩暈(めまい)がした」と言った。明照高校の体育館は、教室を二つぶち抜いただけで天井が低くてトス上げ練習できないことを後で知った。運動能力の高い生徒たちが気の毒な環境で部活動をしていた。何とかしてやりたかったが、なんともできなかった。
後に、根室明照高校が財政的に行き詰って、道立根室西高校になったのはまことに喜ばしいことだった。道立高校だから、根室高校と同じレベルの体育館が整備できる、それでハンディがなくなっただろう。当時の明照高校女子バレー部の部長はいまは親友の奥さん。当時は全く面識がなかった。それでも知っているメンバーが何人かいた。高校が違えば、中学時代に一緒に遊んでも、遊ぶ機会がなくなるのがふつうだった。
同じ根室の高校だから、年に一度は雑談でいいから集まって話をしようということになったが、3年生のときだったから、交流がその後続いたかどうか承知していない。こういうことは継続することがむずかしい。人が入れ替われば、続かなくなる。どうしたらいいのかわからなかった。
11.<記憶に残る根高の先生たち>
担任の冨岡良夫先生はまず筆頭に挙げるのが礼儀というものだろう。お兄さんが仕事で中国勤務になったので、高齢の両親の面倒を見なければならなくなり、根室高校を50歳くらいで退職して東京都大田区のご自宅へ引っ越された。そのあと、道路工事の仕事やスーパーマーケットの駐輪場の係をやって、みこまれて、自転車売り場の担当になった。東京で同期会がある都度冨岡先生は出席してくれた。あるとき、手をついて、「申し訳なかった、もっとちゃんと授業するべきだった」と謝られた。自転車売り場の主任になってはじめて仕事というものが分かったとおっしゃった。安物の1.2万円くらいの自転車は勧めない、「3年乗り回して、あるときパイプが腐食して坂を下る途中でぽっきり折れたら、どうします?、お値段相応にできているんです」、そう言いながら、3万円以上の頑丈な国産自転車を勧めるのだそうだ。自分のこどもや孫が、安物の自転車に乗って数年後に大けがしたらと思うと、いい加減な販売はできないとおっしゃっていた。頭が下がった。冨岡先生は三年生の進路相談のときに、釧路日銀支店を受けるように奨めてくれた。学校推薦はできるし、生徒会もやっているので、日銀を受けてみろと言われた。都市銀行に就職して、公認会計士の資格を取るつもりだった。「おまえが都市銀行を受けたら、受けたい同級生が落ちることになる」そう言われて、就職しそこなった。だから、わたしの大学進学は「瓢箪から駒」のようなもの、進学するつもりがまったくなかった、時間切れ、成り行きでそうなっただけ。高卒で日銀就職は嫌だった。冨岡先生のニックネームは「どん太」である。癌があちこちに転移して、その都度手術されていたが、数年前になくなった。
白方功先生は北見北斗出身で千葉商科大学出だった。簿記の教え方が優れていた。問題集は日商用のレベルの高いものを使って1年分予習してしまっていても、聴くべき内容があった。兵庫県立神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。受験科目を見て無理と思った。わたしたちが卒業してから、母校の北見北斗に戻って、しばらくしてから学校をやめてビジネスを始めたと噂に聞いた。ワインバーで飲んでいた時に製薬卸の営業の人と隣り合わせたことがある。北見北斗の出身だというので、白方先生知っているかと問うと、習ったという。北見北斗がテレビの取材を受けたときに、東京で放映された番組を見た。そのまんまだった。「バッキーしらかた」のニックネームで呼ばれていた。ずいぶん早く亡くなったようだ。
英語の沢井先生が懐かしい。1年の時に英語を習った。文型中心に授業をしてくれた。すっと頭に入ってきた。定期テストで50問ほど文型問題を出題された。1問だけ間違った、50点以上は二人だけだった。他の生徒たちには、先生の説明が呑み込みにくかったのだろう。低音のいい声で教科書を音読してくれた。卒業して数年後に釧路高専の教授となったときいた。中学生のときに2年半英語を教えてくれたE藤先生は文法的な説明を一切しない人だったから、自分で勉強する癖がついた。中3年の後半になって、一人だけAクラスに編入してもらえた。それまでBクラスだったのである。成績が悪いはずもないのになぜ2年生の時にBクラスにされたのか理由がわからなかった。E藤先生は教科書を3回読み、和訳されたらあとは雑談だけ。変わった教え方だが、2年半はそれがスタンダードだと思っていた。先生によって教え方はまるで違うし、発音もだ。高校2年と3年の時に担当してくれたH先生は、togatherとテゲェアザーと変わった発音だった。1年生の時に発音記号をマスターしていたから、ちょっと気になった。NHK英語講座をソニーのオープンリールテープレコーダに録音して、巻き戻し・再生のために大きなレバーをガチャガチャさせて英語の勉強をしていた。あのレバーは案外丈夫だった。当時はカセットテープレコーダがまだなかった、東京オリンピックの年、1964年のことである。沢井先生は北大出身。中高と4人の英語の先生に習ったが、沢井先生が最高だった。
35年ぶりに根室へ戻ってきて、数年たったころ、本町の海岸から双眼鏡で国後島を見ていたら、「ちょっと双眼鏡貸してくれない?」と頼まれ、振り向くと山田先生だった。生徒会顧問をしていたうちの一人だ。習ったことがないが、知っていた。「山田先生ですよね、昭和42年卒で生徒会・会計をやっていたebisuです」というと、家へ来ないかと誘われて、そのままご自宅へ。先生は郷土史研究会顧問を長くされており、それまで研究会がつくった郷土史関係資料をたくさん見せていただいた。山田先生のあの資料は誰かが引き継いだのだろうか?貴重な資料がたくさんあった。根室出身の方ではなかったが、お会いしたときに「根室の土になる」とおっしゃっていた。その言葉に胸が熱くなった。
ラグビーの村田先生はすでに書いた。あと、高校時代には習っていなかったが、中学生の時に日本史を習った柏原栄先生がいる。いまも根室に住んでおり、水晶島出身で北方領土返還運動に携わっている。北方領土返還運動の担い手の一人である岩田先生(一昨年逝去)とは花咲小学校で同僚だったはず。いまも西浜町会長である。黒板に不揃いの大きさで字を書く先生だった。字は一つ一つ丁寧だった。高校のときは倫理社会の先生が用事でいなかったときに、普通科でやった政治経済のテスト問題をもってきてやらせたことがあった。文系と理系のふたつに最後の問題だけ分かれていたが、ちゃんと両方書いた。政治経済は習っていないのだが、北海道新聞の社説と政治経済欄を小4から読み続けていたので、全問正解できただろう。ちゃんと勉強してるよと、メッセージを送ったつもりだった。門閥について柏原先生から質問を受けたことがあったから、2度授業があったのかもしれない。倫理社会の谷口先生が説明した通りに応えたが、間違いであった。辞書に書いてあることと違う説明をした。わざとではなかったが、「谷口先生の説明ではそうでした」と伝えた。柏原先生は光洋中学校教諭時代は歴史を教えてたから、門閥というような歴史に関係する用語の定義には厳格だった。谷口先生は時事問題研究会で幼稚園の幼馴染を煽っていたので、反抗心がメラメラしていたのかもしれない。共産主義を云々するなら、谷口先生には資本論くらい読んでからにしろと思っていた。生一本な幼馴染のFは安田講堂に立てこもって逮捕されることになる。門閥については谷口先生が、「俺そんな説明したか?柏原先生に叱られた」とぼやいていた。谷口先生は中央大学法学部出身、司法試験合格者が一番多い大学だった。当時は東大法学部の次にランクされる難関。校舎が八王子へ移転してからレベルが下がった。SRLの同僚だった加藤が中大法学部だった。大学紛争で東大安田講堂がロックアウト、そのあおりで入試は中止、それで中大法学部へ進学した、家が裕福でなかったから1年間浪人できなかったとは加藤の述懐。奥さんは東大理Ⅲの才女だった。2つ年下の加藤は平成5年11月に43歳で胸部ガンで亡くなった。弊ブログのどこかで書いている。惜しい奴だった。
写真展で柏原先生の桜の写真を見たことがあり、懐かしくて電話した。東京都内では診たことのない場所だったので、訊いてみたら大阪造幣局の桜だった。名前を覚えておられた。姉のことも母親のこともしっかり記憶されていた。すごい記憶力だ。どなたかのお葬式で2度ほどお見かけしたし、2年前の同期会にも出席してくれた、あいかわらずおしゃれ。いつまでもお元気でいてもらいたい。
柏原先生の歴史の授業をきっかけに成績が急激にアップしたので、恩人である。頭の中でビリヤード・ゲームを無限居続けられるが、柏原先生の特徴のある板書は、緑色のラシャの上を走る白い球と一緒であることに気がついた。授業の後で脳内に繰り返し再現できた。それを歴史、数学、理科、英語などの好きな科目に応用したら、特に勉強時間が増えたわけでもないのに突然に成績がアップしたのである。それからは勉強がとっても簡単、楽ちん、愉しいものになった。数分間、脳内に展開するだけで人の数時間分の効果があった。
野沢先生はバスケット部の顧問で、根室出身の先生だった。教えてもらった科目は「商事」、2年生の授業だったが、古い黄ばんだノートをもってきて、おもむろにそれを板書する。お酒が好きな名物先生だった。とっても人気があり、生徒たちはみんな「しょっちゃん」と親しみをこめて呼んでいた。しょっちゃんはわたしが大学を卒業して根室高校に戻ってくることを期待していた。もどってきたら、しょっちゃんの2代目だ。産業用エレクトロニクスの輸入商社へ中途入社したときに、道立高校の採用試験も受けていた。翌年、5月に留萌高校赴任の打診が来た。来週赴任してもらえないかという。入社早々社運を賭けるプロジェクトを社長から5つ任されていたから、放り出すわけにはいかなかったので、お断りした。高校の先生になってもどってきていたら、しょっちゃんと愉しく酒が飲めただろう。それはそれで楽しい人生選択。(笑)
合掌。
根室高校の「時代(1964-1966)の当事者」としていくつか証言を書いた。誰かが書き残しておかなければ消えてしまう。消えていいのだが…
合掌。
根室高校の「時代(1964-1966)の当事者」としていくつか証言を書いた。誰かが書き残しておかなければ消えてしまう。消えていいのだが…
#3642 根室高校 総番制度の終焉の事情 :1966年の人間模様 Nov.19, 2017 [90.根高 こもごも]
<更新情報>
11/20 朝9:15 <余談:複雑な人脈、意外な場所>追記
11/21 朝9:15 当時の商業科と大学進学率
日曜日、今日は3時ころ20分ほど大粒の雪が降り、夜になってまた雪が降っている。最低気温は2日続けてマイナスになった、いよいよ冬だ。あなたはタイヤ交換しましたか?ebisuは今週中に替えなくては…あたふた。
根高総番制度は対外的な必要があってできた制度であることを最初にお断りしておく。それなりの格式があり、総番には人格、度胸、覚悟、腕っぷしなど、要求されるものが多い。一つだけ絶対的な資格要件があった。根室商業時代にできた制度だから、共学になり根室高校となってからも総番長は商業科であることが外せない要件であった。伝統というものはそういうところにこだわる。
総番は多少やんちゃでも性格が温厚で統率力に秀でていなければなれない。周りが統率力に優れた者と認めることも要件である。与えられた権限は、重い仕事と責任を伴っていた。必要があってできた制度だが、伝統を受け継ぐ人材が枯渇したために廃止せざるを得なかった。そのあたりの事情を具体的に述べていくつもりだ。
根室高校は明治39年に北海道庁立根室実業学校として設立され、大正4年に根室商業学校へ、そして昭和25年に男女共学となり北海道立根室高等学校となったから、根室商業の期間が34年間ある。
総番制度がいつできたのかはわからないが、根室商業の時代からの伝統であるようだ。大正6年生まれの根室商業の大先輩である長身の歯科医のTa先生は、線路に立って汽車をとめて乗った「豪傑」。まだビリヤード台に背が足りない小学生低学年のころから、よくお相手をさせてもらった。往時は根室商業の学生だからとそういう行為を大目に見てくれたそうで、おおらかな時代、根室商業卒は根室のエリート層だった。根室商業は男子校だったからいわゆるバンカラの校風、戦後に男女共学になっても昭和40年まで男子は詰襟・黒の学生服に頭は丸刈り、制帽着用と校則で決まっていた。全員丸刈りの坊主、信じられますか?中学三年生の冬休み明け、わたしもはじめて丸刈りの坊主にしました、頭が寒かった。みんなお互いの頭をみて大笑い。「おまえ、絶壁だ」「形いびつ」など勝手なことを言いあってしばし大騒ぎ。観賞にたえる形の良い坊主頭はなかなかないもの。(笑)
数名の登場人物を一部名前で、ほとんどはイニシャルで書こうと思う。同じイニシャルの場合があるから、母音をつけたして区別したい。51年もたったのだから、関係者にご迷惑は掛からないと思うが、いま具体的な名前が推定できる形で残しておかないと根室高校の総番制度がなんであったのか、どうして廃止されたのか後輩たちは知るすべがなくなるだろうから、記録としての意味をもたせたい。
ebisuは根高昭和42年卒業組、親戚のお兄さんに"まこちゃん"がいる。5歳年上で根室高校野球部のキャプテンであった。夏の金刀比羅神社のお祭りの時だったと記憶するが、足駄(歯が10cmほどある高下駄のことをアシダと呼んでいた)を履き制帽をかぶって家の前の歩道を歩いてきた。数歩下がってトッポイ(不良っぽい)のが10名くらい歩いてくる。そのときは"まこちゃん"が根高総番長だとは知らなかった。いつもと雰囲気の違う怖い顔をして歩いてきたので、声をかけられなかった。年に一度、総番グループのデモンストレーションだったのかもしれない。隊列を組んでいたのだが、こういうときはメンバーは総番の数歩後ろを歩くのがルールだったようだ。
ビリヤードの常連客の一人のやくざの親分がいた。使いっぱしりで来た若い衆に、「ここは〇〇さんの店だから、おまえたちは出入りしちゃいけない」と言ったのを覚えている。Taさんは幹部4人だけ出入りを許していた。言葉使いはとてもよかったし、声を荒げるようなことは一度もなかった。常連の皆さんとはビリヤードのお相手をしたが、このTaさんだけは一度もわたしとゲームしなかった。当時はなぜだかわからなかったが、いまはわかる、あれはわたしの将来を考えたTaさんの配慮だった。小学生のころからビリヤード店で店番をしながらお客さんのゲームの相手をして、仕事の合間に北海道新聞の「卓上四季」や社説や1面の政治経済欄記事を読みふける「トシ坊」を一人の人間として見守ってくれたいたのだろうと思う。根室に帰ってきてから、おふくろと昔話をしていたら、高校生の時に「Taがおまえになんかあれば言ってくれ」と言っていたと笑った。家業を手伝っていたし、1年間ほどは頼まれて珠算塾のバイトもやっていたので、小遣いは多かった、それでスナックに何度か出入りした。スナックのお姉さんたちは高校生だとわかっても野暮は言わない、面白がって相手してくれる。そこそこの広さの店でビールを飲んでいたら、端っこにいた威勢のよさげな若い衆から因縁をつけられた。相手にしないで放っておいたらグチグチいってしつこい、喧嘩になりそうだった。喧嘩を買おうか買うまいか迷っていた(そういう時は買わぬがいいのである)。そこへ顔見知りのTaさんの組の若頭のKirさんが来た。入ってくるなり雰囲気を察して「トシ坊、どうした?」と訊くので、「カウンターの向こうの...」と説明が終わらないうちに、その人のところへ行って一言二言やりとりがあって、おとなしくなった。「話はつけたから」とKirさん、高校生がスナックへ出入りしていると、そのうちトラブルに巻き込まれる。やくざの若頭がそうそう素人の、それも高校生の肩をもてるわけがない。キップのよいKirさんに迷惑をかけてはいけないから、「夜の社会科見学」はそれで終わりにした。若頭から親分のTaさんに報告くらいはあっただろう。
1960年代後半、血の気の多い若い衆や女工さんがたくさん出稼ぎに来る、根室の町は若いエネルギーで沸騰していた。昔はやくざ屋さんと元気のよい根室商業の生徒がもめ事を起こしたこともあったようだ、酒を飲んで酔っ払った勢いで喧嘩が始まる、相手はヤンシュウかもしれないし、やくざの若い衆かもしれない。根高に総番制度の必要だった理由がよくわかった。やくざは顔(メンツ)を大事にするから、根室商業の代表である総番がやくざのお作法に従ってきっちり挨拶しないと収まらないのである。学校長も警察も無力。
根室高校へ入学してから、まこちゃん本人から総番であったことを聞いた。そのときに小さく折りたたんだ紙を出して見せてくれた。それには、セリフが書てあった。
「お控えなすって、さっそくお控えなかって下ってありがとうござんす。てまえ生国発しますところ、…」
じっさいにやって見せてくれた。左手を後ろに回し、右手を前に出して腰を落として一気にセリフを言う。歯切れよくよどみない見事なものだった。先代の総番からメモを引き継ぎ何度も何度も練習したという。どうしてそんなことが必要なのか尋ねた。根室高校生がやくざとトラブルを起こしたときは、総番がやくざと交渉しなければならない、だからやくざの挨拶の台詞はしっかり覚えなければならない。台詞を間違えたら殺されても文句は言えない、そう言い切った。あの時代はそこまでの覚悟がなければ総番を引き受けられなかったのだ。だから、その責を持たなくてよいメンバーは一歩下がって歩く。修学旅行で他の学校と同じ列車に乗り合わせた時はそれ相応の「挨拶」をするのは副番の役割。対外的な面で総番は根高を代表しなければならぬ仕事があったのである。もちろん、学校内の統率でも。総番の責任の重さをメンバー全員が知っていたから、総番には敬意を払った。
わたしは根高へ入学した年の夏に足駄を履いて通学した。身長174cmあったから、当時は大きいほうだった。足駄を履いたらさらに10cm以上高くなる。高1で足駄を履く者はほとんどいない。当然、上級生の番グループから眼をつけられ、ちゃんと呼び出しがある。わたしにも上級生3人から呼び出しがあった。生意気だと殴られるのだが、たいしたことではない、口の中が切れる程度の軟(やわ)なパンチを数発食らうだけ。翌日も足駄を履いて登校する。やるだけ無駄、あきれて二度目の呼び出しはない。二度目は危ないことをなんとなくわかっている。
上の学年の総番グループとわたしたちの学年の総番グループが引継ぎを巡って抗争したことがある。13対7の喧嘩があり、北海道新聞の報ずるところとなった。「13対7の決闘」というようなセンセーショナルな見出しだった。7人しか集まらなかった3年生がぼこぼこにされて4人怪我をしていて病院へ行ったものだからばれたのだ。顔面数か所が腫れ上がったり、青あざになっているだけでたいしたことではなかった。あれは初冬で処分の出たのがテストの直前だった、関係者全員一週間の停学。羅臼のAbが下宿していて、学校にいけなくて寂しいというので、毎日あいつのところへ行って遅くまで花札をして遊んだ。テスト勉強はふだんもほとんどしないのだが、Abが「勉強しなくて大丈夫か?」と心配していた。毎日授業が終わった後数分黒板に書かれたことを頭の中に再現するだけで覚えられたから必要なかった。小学生の時から家業のビリヤード店を毎日2-3時間手伝っていたから、夏休みや冬休みや春休み以外は勉強する時間があまり取れなかった。珠算塾も高橋先生に頼まれて一年間ほど汐見町の塾を担当していた。アルバイトであるが、ビリヤード店を手伝って小遣いに不自由しなかったからバイトの必要はなかった、恩義に応えたかっただけ。生徒会会計もずっとやっていたが、こちらは3年生になってからは指名した後輩Haに任せた。ようするに時間を有効に使うしかなかった。だから、集中力を上げて授業に臨み、授業の合間の10分間を使って数分脳内に黒板に書かれた事項を再現して復習を済ませていた。3か月間は記憶が維持できたから、試験前はざっと教科書を見て黒板に書かれた事項を思い出すだけ。
花札三昧の一週間で退屈しのぎができたからAbは喜んだ。あの時も科目の2/3はクラストップだったから、Abが「ほんとうなんだ」とあきれていた。冗談だと思っていたのだ。Abは三年間同じクラス、昨年癌で亡くなった。15年前のいまころ根室へ戻ってきてから一度も会っていない。昔話がしたかった。
総番のKoは練習のきつかった野球部員、高校2年4月のクラス替えで一緒のクラスになった。2年G組は個性の強い生徒が何人もいた。扱いにくい生徒はG組に集めるというのが当時の学校側の生徒管理の方針。だから総番はGクラスと決まっていた。T山は三年間ずっと同じクラス、テレビ「11pm」に何度も出た女傑、美術部長。アンダーグラウンド業界では有名人、渋谷にビルをもっている。Kaは高3の9月に学校を中退して「ゴルゴ13」で有名な斎藤タカオの一番弟子になった劇画家。Diは社会人劇団で全国準優勝、G組には個性的で一癖あり面白いやつらが集まっていた。いや、よく集めてくれました。まじめな生徒も1/3はいました、その割合がとってもいいクラスだった。
Koとは最初から妙に気があった。あいつと俺には似たところがある。自分の損得では動かないところだ、フィールドは違っていたがやるべきことがあれば敢然と損を覚悟でもやる、だから周辺に人が集まってくる。意識をしたことはなかったが根室高校の校訓である「敢為和協」(根高ホームページ参照)の「敢為」の2字を体現していた。腕っぷしが強いだけでは根高の総番にはなれない。大きな権限は仕事の責任とセットだから、だれでもできるわけではない。上級生と同期が認めなければなれない。Koは別格だった、なにより統率力がある。副番が3名いたが三人とも「格上」と認めていた。三人の副番のうち二人は大学へ進学している。一人は前回のブログで登場した同じクラスのMだ。もう一人はebisuと同じ大学で、後にあるテレビ局の取締役東京支社長をやった。静かな男だが、たまにぎらっとした眼付をすることがある、本人は気が付いているのだろうか、Tuも統率力と負けん気でのし上がったのかもしれぬ。当時の商業科は3クラス、定員150名で競争率は2.2倍くらい、そのなかで四年生大学へ進学したものは10名足らずだから7%未満(学力はあっても当時は、根室から東京の大学へ進学させるには経済的な負担が今よりずっと大きかったので、大学進学を断念して、地元に就職した者が少なからずいました)、そのうちの二人が副番である。振り返ると、丸刈り頭髪校則を改めることと総番制を廃止するという大仕事をするために人材がそろっていた。天の配材の妙、必要なときに必要な人材が見事にそろっていた。先輩たちと後輩たちを眺めても、これらふたつの仕事はわたしたちが担うべき仕事であった。総番制をそのまま残したら、仕事や責任の自覚のないただの不良集団と変わり果てただろう。同期にもそういう動きがあった。それを抑えきったのが、総番のKoと三人いた副番のうちの二人だ。場外から手伝ったのが、Aoとわたしということになる。Aoもわたしも、関わらざるを得ない個人的な人脈と事情を抱えていた。これだけ彩(いろどり)の異なる人間が集まって、総番制廃止をしたのである、いやせざるを得なかった。
Koが42年の3月下旬に突然家に来て、「一緒に代ゼミへ行こう」とわたしを誘った。あれがなければ、わたしは根室に残って家業を手伝いながら公認会計士二次試験を受験する道を選んだだろう。総番のKoは進路変更の恩人である。誘ったあいつは大学へ行かずに数年東京で暮らして根室へ戻って仕事に就いた。誘われたわたしはそのまま東京で大学、大学院へと進学することになった。人の縁というものは大事にすべきだ。だれが人生の分岐点で導いてくれるかわからない。
1年生の時に授業に手抜きして雑談・将棋の自慢話ばっかりする数学のO先生とテストの回答のことでもめたことがあった。教卓を挟んで、テストの回答が間違っているので話し合ったが、埒が明かない。ふだんからいい加減な授業をやって面白くなかったし、自分のミスを認めようとしないのでカチンときて、「なに!」と声を荒げたらそれまでざわついていた教室が水を打ったようにシーンとなった。ここで殴れば怪我をさせるし、退学処分になる。こんな教師と刺し違えるのはごめんだと、一呼吸もしないうちにスーッと興奮から覚めた。踵を返して席に戻った。O先生は殴られると思って慌てて眼鏡を外した、速かったね。休み時間にAbが、「危なかったな、殴ると思ったよ」と心配してくれた。ふだんはいたって温厚な性格。
2年生になってから、英語の先生が北大出身の沢井先生からH先生に変わった。この人の授業がひどかったのか後に釧路高専教授となった沢井先生の授業が素晴らしかったのか、雲泥の差、しかも手抜き、反省を求めて3回授業をつぶした。学生運動で「造反有理」という言葉が流行る2年前のことだった。「体育館見てきます」と宣言して教室から出ていく、バスケットボールをもってきて、「みんないくぞ!」と声をかける。Koが「オー」と応じて一緒に廊下を走り出す、続いて日和見していた同級生が立ち上がって体育館へ向かう。総番長のKoが席を立たなけりゃ男子の1/3はついてこない。
H先生はこの件で「授業中に体育館で生徒を遊ばせる先生がいると」校長から叱責を受けた。ちゃんとした授業をしてくれたら、こんな嫌がらせはしない。しっかり教えてくれる先生にとってはebisuは品行方正ないい生徒だった。
一年生の時に生徒会会計をやっているNa先輩から指名されて生徒会会計になった。当時の会計は部活や文化祭の予算配分を任されていただけでなく、帳簿の記帳もしなければならないし、決算業務もやらなければならないので、商業科3クラス150人のなかで検定試験で簿記がトップの生徒の指定席だった。2年になるとNa先輩から、「ebisu、お前が予算配分の折衝をやれ」と任されてしまった。本当は先輩の仕事であるから、わたしに任せてトラブルがあれば先輩の責任となる、思いっきりの良い先輩だった。ありがたかったから、活動状況を調べて予算折衝に備えた。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、個別に予算配分案を示す、前年の活動を踏まえてやるわけで、部長は3年生で上級生である。公平にやればいいだけだが、コミュニケーション能力が要求される。納得しない部長だっていても不思議ではないからね、相手はすべて上級生。学校内では財務大臣並の権限を握っていたのが当時の生徒会会計。これが社会人になってからずいぶん役に立った。2社で入社直後から予算編成の責任者を任されたが、高校生徒会での経験があったから余裕でできた。売上40億円規模の輸入商社と、当時売上300億円の国内最大手の臨床検査センターの予算編成を入社して間もなく任された。
2年生は修学旅行が最大のイベント、当時は飛行機ではなく東京まで汽車でいった。東京まで28時間の列車の旅。11泊12日だが、車中泊が2日間。修学旅行はいいが東京へ丸刈りの坊主頭で行くのはみっともない。生徒会に拠点ができたので、校則を変える算段をした。仕事は差し建(段取り)が結果を左右する。校則改正は全校集会で採決が必要だった。校長が弱いのはPTAだから、そこから崩して全校集会にもっていくことにした。三年生は修学旅行がすんでいるから、関係なしと無関心派になってもらってはことが成就しない。生徒会内部から固めた。やりたいことを副会長の二人に説明すると、「よし、ebisuやってみろ」と任せてくれた。副会長のFuさんは室蘭税務署長で退職。もう一人のHaさんはヤクルト釧路支社長だったと噂に聞いた。
髪は身体の一部、それを校則で丸刈り一本に決めつけるのは人権侵害だし、戦後という時代にそぐわない。そういう論調のアンケート用紙をでサインしてガリを切り、謄写印刷。生徒を通じて保護者へ配布。生徒会メンバー全員が手伝ってくれた。アンケート結果はこちらの予測通り、校則改正に賛成反対の集計をして全校集会を開く。すんなり校則改正へこぎつけた。修学旅行3か月前、何とか間に合わせた。同学年の男子は長髪で修学旅行に行けると大喜び。
Koに仁義の台詞は伝わっているか訊いたことがあるが、伝わっていなかった。たぶん、一つ上の先輩たちも受け継いでいない。統率が取れていなかったのは総番長の仕事と責任の自覚がないからだろう。下の学年も小粒なのばかり。ワルはいたけど、Koのような器の大きい者がいなかった。限界だったのだ。共産党のAoとわたしとKoの三人で相談して決めたとAoが言うが、そのあたりの記憶はあまりない。Koとは阿吽の呼吸でやっていたからだろう。自分の利害は度外視だから、「やるぞ!」と言えばKoは「おう!」と応える、いつもそんなもの。案を煮詰め相談したのは三人でも、総番制度を廃止したのはKo一人の仕事だ。続けたかったワルが何人かいたはず。Koはよくやった。副番二人がサポートしたから体制が決したのではないかと思う。テレビ局の東京支社長をやったTuは昨年の同窓会で、Koに「格が違っていた」という意味のことを言っていた。Koはなりたくてなったわけではない、副番三人が格の違いを認めたから総番となり、そして数十年続いた根高伝統の総番制度を廃止した。大したものだ、好い友人が身近にいた。
統率力に優れていたKoは水産会社で働いて取締役になった。勉強だけではないが、されど勉強。たくさん見てきたが、勉強のできる奴は少なくないが、統率力に優れた奴は滅多にいない。社会に出た時に統率能力にすぐてている者はそれを武器に世の中を渡っていける。統率力のある者の周りには自然に人が集まってくる、人間的な魅力があるからだろう。
<余談:複雑な人脈、意外な場所>
共産党の青年部に「民青」(日本民主青年同盟)とのかかわりを意図的に省いた。1年上の総番グループ数名が共産党の専従のところに出入りしていた。数年前に共産党市議をやめたSさんが専従だった。総番制度廃止に同級生の友人である共産党のAoが出てくるのはそのあたりも関係している。あいつは2学年上の総番グループに兄弟を通じて人脈をもっていた。わたしは一つ上のグループ数人に個人的な人脈があり、一緒に遊んでかれらの人柄をすこしは知っている。
おふくろがやっていた居酒屋「酒悦」のお客さんに道庁勤務の組合関係者がたくさんいた。その中のKakさんから誘われて、彼の家で餅つきしたことがある。あれは1965年、矢臼別演習場での民青主催のキャンプがあった、キャンプが大好きだったのでKakさんからそれに誘われて参加した。その折に集合写真を撮ったのだが、そのネガは現像に回したら消えていた。1枚だけ消えていたのである。全道から参加したメンバーが写っていた。ネガには番号がついているから1枚抜けたらすぐにわかる。自分の引き伸ばし機をもっていたから、フィルム現像だけを写真屋に出して、引き延ばし作業は自分でやっていた。緑町三丁目にあったその写真屋さんはとっくにない、だから書ける。公安警察もなかなかやるもんだ、それがあってからはキャンプ参加をやめた。ずいぶん間抜けな情報活動だったから、バレバレ、二度目はない。大きく引き伸ばしてネガを戻しておけば気がつかなかった。相応のお金を支払えば、その写真屋が引き伸ばしをやったかもしれない。
当時、根室には私立明照高校というのがあった。Kitさんが生徒会長だった。三年生の時だったと思う、彼と話して生徒会同士のコミュニケーションをはじめた。同じ根室市内の高校同士だから、親睦を深めようとしただけの話で、生徒会同士数名で一度話し合いをした。興味があったので女子バレー部の親善試合を組んだ。中学時代は同じバレー部に所属した友達同士が、高校では二つに分かれた。どちらかというと明照高校のほうへ運動神経の良いものが集まっていた。ところが明照側が惨敗した。やってみなければわからぬもの、意外な結果だった。原因は普段練習に使っている体育館の天井の高さだった。明照高校は大徳寺境内にあり体育館が狭く天井が低かった。教室3つ分くらいをぶち抜いて作ったような体育館、天井が低くトス練習ができない。根室高校の体育館でトスを上げたら天井が高いので頭がくらくらしたという。感覚が違ってお話にならなかった。運動する環境の差が大きいことを思い知らされた親善試合だった。生徒の側から明照高校体育館新設運動を起こすというような発想は残念ながら私も含めて関係者のだれにもなかった。未熟だったのだ、やるべきだったと当時を思い出しながら反省。きわめて穏健な親睦に限定された生徒会同士のコミュニケーションだった。kitさんも異論はないだろう。当時の明照高校生徒会長は9月の市議選に再立候補しなかったKitさんである。
民青のキャンプの一件があったから、公安から根室高校学校長へ「連絡」が行っていただろう。
3年生の副会長から、応援演説をやってやるから、おまえが会長に立候補しろと言われた。その旨生徒会顧問へ話したら、生徒会会計をやっているから駄目だというヘンな理由で拒否された。じつは校長が強硬に反対していた。危険人物視されていたようだ。過大評価だった。相手が校長だから喧嘩を打ってもよかったが、間に挟まれた生徒会顧問の先生が説得できなかったと窮地に立たされる。会長でなくても生徒会は動かせるし、実際に丸刈り校則改正は生徒会会計でもやれた。あとはもっとやりやすいように段取りをすればいいだけ、ebisuは柔軟に対応した。立候補をとりやめを決意、1年生のときの同じクラスの友人Haを説得して副会長へ立候補させ、事情を話して先輩の副会長お二人に応援演説をお願いした。快く引き受けてくれた。わたしが立候補しなかったので、オサムが会長になった。わたしは生徒会で一番の古株、事情を知らぬオサムはしばしば自分の意見が通らないことがあったが、わけがわからなかっただろう。しばしば学校側について孤立していた。ガタイのいいオサムは中学時代相撲部、たった一人の相撲部で、褌を占めて鉄砲(突っ張り)の稽古に余念がなかった。だから、生徒会での孤立もなんてことはなかったのだろう。Koともそうだが、オサムともお互いに名前で呼び合う間柄だ。根室に戻ってきてから、テニス部だった同級生の女子Akのやっているスナックで数人の飲み会があった。Akからebisuさんも来ませんかと言われて参加した。オサムも来るという話なので「オサムは何時ころ来るの?」とAkに訊いたら、同席していた同級生のSが「生徒会長を呼び捨てするとは何事だ」と怒った。偉そうに言うので、「オサムが来たら訊いてみな、あいつも俺を名前で呼ぶ」と黙らせた。30分ほどしてオサムが来たので楽しく飲んだ。
あいつの家は鮭鱒の漁師、リッチだったから高校3年の時に16段変速のロードバイクを買ってもらった。アナログのスピードメータがついていた。乗ってきたその日に、「オサムいい自転車だな、貸せ、一回りしてくる」というとカギを渡してくれた。ふつうは貸さないよ、買ってもらったばかりだし、学校に初めて乗ってきたのだから。根室高校前からセブンイレブンまでの直線は緩い下り、そこを思いっきり飛ばした、前をダンプが走っていた。メータが60kmを超して70に近づいたとたんに赤い光が目に入った。T字路でダンプがブレーキをかけた。タイヤが細いから急ブレーキをかければ滑ってダンプカーの下に飛び込むことになる、瞬間に身体を右側に倒してセンターラインを越えてカーブに突っ込んでいた。反対車線から車は来てなかった。来てたら即死、オサムは新品で載ってきたばかりのロードバイクをお釈迦にするところだった。気のいい奴で光洋中学時代あいつは隣の9組、英語の授業は同じクラスだった。
副会長に立候補してもらった(高1の時だけ同じクラス)Haは短大卒業の翌年税理士試験に合格して、東京有楽町でずっと整理士事務所を営んでいる。四年制大学なら3年次税理士試験合格だから、とても優秀なやつだ。わたしの眼鏡に狂いはなかった。昆布漁師の息子である彼は夏場は家業の手伝い、家業を手伝っているところがわたしと似ていた。そんなに優秀でも簿記検定では3年間ずっとわたしの後塵を拝し続けた。高校時代は一度もわたしを追い越さなかった友達思いのいい奴だ。(笑)
三人で新宿でパンチボールを叩いたエピソードが載っている。
*#3641 先生、ストレッチのし方教えてください!にびっくり Nov. 18, 2017
70% 20%

11/20 朝9:15 <余談:複雑な人脈、意外な場所>追記
11/21 朝9:15 当時の商業科と大学進学率
日曜日、今日は3時ころ20分ほど大粒の雪が降り、夜になってまた雪が降っている。最低気温は2日続けてマイナスになった、いよいよ冬だ。あなたはタイヤ交換しましたか?ebisuは今週中に替えなくては…あたふた。
根高総番制度は対外的な必要があってできた制度であることを最初にお断りしておく。それなりの格式があり、総番には人格、度胸、覚悟、腕っぷしなど、要求されるものが多い。一つだけ絶対的な資格要件があった。根室商業時代にできた制度だから、共学になり根室高校となってからも総番長は商業科であることが外せない要件であった。伝統というものはそういうところにこだわる。
総番は多少やんちゃでも性格が温厚で統率力に秀でていなければなれない。周りが統率力に優れた者と認めることも要件である。与えられた権限は、重い仕事と責任を伴っていた。必要があってできた制度だが、伝統を受け継ぐ人材が枯渇したために廃止せざるを得なかった。そのあたりの事情を具体的に述べていくつもりだ。
根室高校は明治39年に北海道庁立根室実業学校として設立され、大正4年に根室商業学校へ、そして昭和25年に男女共学となり北海道立根室高等学校となったから、根室商業の期間が34年間ある。
総番制度がいつできたのかはわからないが、根室商業の時代からの伝統であるようだ。大正6年生まれの根室商業の大先輩である長身の歯科医のTa先生は、線路に立って汽車をとめて乗った「豪傑」。まだビリヤード台に背が足りない小学生低学年のころから、よくお相手をさせてもらった。往時は根室商業の学生だからとそういう行為を大目に見てくれたそうで、おおらかな時代、根室商業卒は根室のエリート層だった。根室商業は男子校だったからいわゆるバンカラの校風、戦後に男女共学になっても昭和40年まで男子は詰襟・黒の学生服に頭は丸刈り、制帽着用と校則で決まっていた。全員丸刈りの坊主、信じられますか?中学三年生の冬休み明け、わたしもはじめて丸刈りの坊主にしました、頭が寒かった。みんなお互いの頭をみて大笑い。「おまえ、絶壁だ」「形いびつ」など勝手なことを言いあってしばし大騒ぎ。観賞にたえる形の良い坊主頭はなかなかないもの。(笑)
数名の登場人物を一部名前で、ほとんどはイニシャルで書こうと思う。同じイニシャルの場合があるから、母音をつけたして区別したい。51年もたったのだから、関係者にご迷惑は掛からないと思うが、いま具体的な名前が推定できる形で残しておかないと根室高校の総番制度がなんであったのか、どうして廃止されたのか後輩たちは知るすべがなくなるだろうから、記録としての意味をもたせたい。
ebisuは根高昭和42年卒業組、親戚のお兄さんに"まこちゃん"がいる。5歳年上で根室高校野球部のキャプテンであった。夏の金刀比羅神社のお祭りの時だったと記憶するが、足駄(歯が10cmほどある高下駄のことをアシダと呼んでいた)を履き制帽をかぶって家の前の歩道を歩いてきた。数歩下がってトッポイ(不良っぽい)のが10名くらい歩いてくる。そのときは"まこちゃん"が根高総番長だとは知らなかった。いつもと雰囲気の違う怖い顔をして歩いてきたので、声をかけられなかった。年に一度、総番グループのデモンストレーションだったのかもしれない。隊列を組んでいたのだが、こういうときはメンバーは総番の数歩後ろを歩くのがルールだったようだ。
ビリヤードの常連客の一人のやくざの親分がいた。使いっぱしりで来た若い衆に、「ここは〇〇さんの店だから、おまえたちは出入りしちゃいけない」と言ったのを覚えている。Taさんは幹部4人だけ出入りを許していた。言葉使いはとてもよかったし、声を荒げるようなことは一度もなかった。常連の皆さんとはビリヤードのお相手をしたが、このTaさんだけは一度もわたしとゲームしなかった。当時はなぜだかわからなかったが、いまはわかる、あれはわたしの将来を考えたTaさんの配慮だった。小学生のころからビリヤード店で店番をしながらお客さんのゲームの相手をして、仕事の合間に北海道新聞の「卓上四季」や社説や1面の政治経済欄記事を読みふける「トシ坊」を一人の人間として見守ってくれたいたのだろうと思う。根室に帰ってきてから、おふくろと昔話をしていたら、高校生の時に「Taがおまえになんかあれば言ってくれ」と言っていたと笑った。家業を手伝っていたし、1年間ほどは頼まれて珠算塾のバイトもやっていたので、小遣いは多かった、それでスナックに何度か出入りした。スナックのお姉さんたちは高校生だとわかっても野暮は言わない、面白がって相手してくれる。そこそこの広さの店でビールを飲んでいたら、端っこにいた威勢のよさげな若い衆から因縁をつけられた。相手にしないで放っておいたらグチグチいってしつこい、喧嘩になりそうだった。喧嘩を買おうか買うまいか迷っていた(そういう時は買わぬがいいのである)。そこへ顔見知りのTaさんの組の若頭のKirさんが来た。入ってくるなり雰囲気を察して「トシ坊、どうした?」と訊くので、「カウンターの向こうの...」と説明が終わらないうちに、その人のところへ行って一言二言やりとりがあって、おとなしくなった。「話はつけたから」とKirさん、高校生がスナックへ出入りしていると、そのうちトラブルに巻き込まれる。やくざの若頭がそうそう素人の、それも高校生の肩をもてるわけがない。キップのよいKirさんに迷惑をかけてはいけないから、「夜の社会科見学」はそれで終わりにした。若頭から親分のTaさんに報告くらいはあっただろう。
1960年代後半、血の気の多い若い衆や女工さんがたくさん出稼ぎに来る、根室の町は若いエネルギーで沸騰していた。昔はやくざ屋さんと元気のよい根室商業の生徒がもめ事を起こしたこともあったようだ、酒を飲んで酔っ払った勢いで喧嘩が始まる、相手はヤンシュウかもしれないし、やくざの若い衆かもしれない。根高に総番制度の必要だった理由がよくわかった。やくざは顔(メンツ)を大事にするから、根室商業の代表である総番がやくざのお作法に従ってきっちり挨拶しないと収まらないのである。学校長も警察も無力。
根室高校へ入学してから、まこちゃん本人から総番であったことを聞いた。そのときに小さく折りたたんだ紙を出して見せてくれた。それには、セリフが書てあった。
「お控えなすって、さっそくお控えなかって下ってありがとうござんす。てまえ生国発しますところ、…」
じっさいにやって見せてくれた。左手を後ろに回し、右手を前に出して腰を落として一気にセリフを言う。歯切れよくよどみない見事なものだった。先代の総番からメモを引き継ぎ何度も何度も練習したという。どうしてそんなことが必要なのか尋ねた。根室高校生がやくざとトラブルを起こしたときは、総番がやくざと交渉しなければならない、だからやくざの挨拶の台詞はしっかり覚えなければならない。台詞を間違えたら殺されても文句は言えない、そう言い切った。あの時代はそこまでの覚悟がなければ総番を引き受けられなかったのだ。だから、その責を持たなくてよいメンバーは一歩下がって歩く。修学旅行で他の学校と同じ列車に乗り合わせた時はそれ相応の「挨拶」をするのは副番の役割。対外的な面で総番は根高を代表しなければならぬ仕事があったのである。もちろん、学校内の統率でも。総番の責任の重さをメンバー全員が知っていたから、総番には敬意を払った。
わたしは根高へ入学した年の夏に足駄を履いて通学した。身長174cmあったから、当時は大きいほうだった。足駄を履いたらさらに10cm以上高くなる。高1で足駄を履く者はほとんどいない。当然、上級生の番グループから眼をつけられ、ちゃんと呼び出しがある。わたしにも上級生3人から呼び出しがあった。生意気だと殴られるのだが、たいしたことではない、口の中が切れる程度の軟(やわ)なパンチを数発食らうだけ。翌日も足駄を履いて登校する。やるだけ無駄、あきれて二度目の呼び出しはない。二度目は危ないことをなんとなくわかっている。
上の学年の総番グループとわたしたちの学年の総番グループが引継ぎを巡って抗争したことがある。13対7の喧嘩があり、北海道新聞の報ずるところとなった。「13対7の決闘」というようなセンセーショナルな見出しだった。7人しか集まらなかった3年生がぼこぼこにされて4人怪我をしていて病院へ行ったものだからばれたのだ。顔面数か所が腫れ上がったり、青あざになっているだけでたいしたことではなかった。あれは初冬で処分の出たのがテストの直前だった、関係者全員一週間の停学。羅臼のAbが下宿していて、学校にいけなくて寂しいというので、毎日あいつのところへ行って遅くまで花札をして遊んだ。テスト勉強はふだんもほとんどしないのだが、Abが「勉強しなくて大丈夫か?」と心配していた。毎日授業が終わった後数分黒板に書かれたことを頭の中に再現するだけで覚えられたから必要なかった。小学生の時から家業のビリヤード店を毎日2-3時間手伝っていたから、夏休みや冬休みや春休み以外は勉強する時間があまり取れなかった。珠算塾も高橋先生に頼まれて一年間ほど汐見町の塾を担当していた。アルバイトであるが、ビリヤード店を手伝って小遣いに不自由しなかったからバイトの必要はなかった、恩義に応えたかっただけ。生徒会会計もずっとやっていたが、こちらは3年生になってからは指名した後輩Haに任せた。ようするに時間を有効に使うしかなかった。だから、集中力を上げて授業に臨み、授業の合間の10分間を使って数分脳内に黒板に書かれた事項を再現して復習を済ませていた。3か月間は記憶が維持できたから、試験前はざっと教科書を見て黒板に書かれた事項を思い出すだけ。
花札三昧の一週間で退屈しのぎができたからAbは喜んだ。あの時も科目の2/3はクラストップだったから、Abが「ほんとうなんだ」とあきれていた。冗談だと思っていたのだ。Abは三年間同じクラス、昨年癌で亡くなった。15年前のいまころ根室へ戻ってきてから一度も会っていない。昔話がしたかった。
総番のKoは練習のきつかった野球部員、高校2年4月のクラス替えで一緒のクラスになった。2年G組は個性の強い生徒が何人もいた。扱いにくい生徒はG組に集めるというのが当時の学校側の生徒管理の方針。だから総番はGクラスと決まっていた。T山は三年間ずっと同じクラス、テレビ「11pm」に何度も出た女傑、美術部長。アンダーグラウンド業界では有名人、渋谷にビルをもっている。Kaは高3の9月に学校を中退して「ゴルゴ13」で有名な斎藤タカオの一番弟子になった劇画家。Diは社会人劇団で全国準優勝、G組には個性的で一癖あり面白いやつらが集まっていた。いや、よく集めてくれました。まじめな生徒も1/3はいました、その割合がとってもいいクラスだった。
Koとは最初から妙に気があった。あいつと俺には似たところがある。自分の損得では動かないところだ、フィールドは違っていたがやるべきことがあれば敢然と損を覚悟でもやる、だから周辺に人が集まってくる。意識をしたことはなかったが根室高校の校訓である「敢為和協」(根高ホームページ参照)の「敢為」の2字を体現していた。腕っぷしが強いだけでは根高の総番にはなれない。大きな権限は仕事の責任とセットだから、だれでもできるわけではない。上級生と同期が認めなければなれない。Koは別格だった、なにより統率力がある。副番が3名いたが三人とも「格上」と認めていた。三人の副番のうち二人は大学へ進学している。一人は前回のブログで登場した同じクラスのMだ。もう一人はebisuと同じ大学で、後にあるテレビ局の取締役東京支社長をやった。静かな男だが、たまにぎらっとした眼付をすることがある、本人は気が付いているのだろうか、Tuも統率力と負けん気でのし上がったのかもしれぬ。当時の商業科は3クラス、定員150名で競争率は2.2倍くらい、そのなかで四年生大学へ進学したものは10名足らずだから7%未満(学力はあっても当時は、根室から東京の大学へ進学させるには経済的な負担が今よりずっと大きかったので、大学進学を断念して、地元に就職した者が少なからずいました)、そのうちの二人が副番である。振り返ると、丸刈り頭髪校則を改めることと総番制を廃止するという大仕事をするために人材がそろっていた。天の配材の妙、必要なときに必要な人材が見事にそろっていた。先輩たちと後輩たちを眺めても、これらふたつの仕事はわたしたちが担うべき仕事であった。総番制をそのまま残したら、仕事や責任の自覚のないただの不良集団と変わり果てただろう。同期にもそういう動きがあった。それを抑えきったのが、総番のKoと三人いた副番のうちの二人だ。場外から手伝ったのが、Aoとわたしということになる。Aoもわたしも、関わらざるを得ない個人的な人脈と事情を抱えていた。これだけ彩(いろどり)の異なる人間が集まって、総番制廃止をしたのである、いやせざるを得なかった。
Koが42年の3月下旬に突然家に来て、「一緒に代ゼミへ行こう」とわたしを誘った。あれがなければ、わたしは根室に残って家業を手伝いながら公認会計士二次試験を受験する道を選んだだろう。総番のKoは進路変更の恩人である。誘ったあいつは大学へ行かずに数年東京で暮らして根室へ戻って仕事に就いた。誘われたわたしはそのまま東京で大学、大学院へと進学することになった。人の縁というものは大事にすべきだ。だれが人生の分岐点で導いてくれるかわからない。
1年生の時に授業に手抜きして雑談・将棋の自慢話ばっかりする数学のO先生とテストの回答のことでもめたことがあった。教卓を挟んで、テストの回答が間違っているので話し合ったが、埒が明かない。ふだんからいい加減な授業をやって面白くなかったし、自分のミスを認めようとしないのでカチンときて、「なに!」と声を荒げたらそれまでざわついていた教室が水を打ったようにシーンとなった。ここで殴れば怪我をさせるし、退学処分になる。こんな教師と刺し違えるのはごめんだと、一呼吸もしないうちにスーッと興奮から覚めた。踵を返して席に戻った。O先生は殴られると思って慌てて眼鏡を外した、速かったね。休み時間にAbが、「危なかったな、殴ると思ったよ」と心配してくれた。ふだんはいたって温厚な性格。
2年生になってから、英語の先生が北大出身の沢井先生からH先生に変わった。この人の授業がひどかったのか後に釧路高専教授となった沢井先生の授業が素晴らしかったのか、雲泥の差、しかも手抜き、反省を求めて3回授業をつぶした。学生運動で「造反有理」という言葉が流行る2年前のことだった。「体育館見てきます」と宣言して教室から出ていく、バスケットボールをもってきて、「みんないくぞ!」と声をかける。Koが「オー」と応じて一緒に廊下を走り出す、続いて日和見していた同級生が立ち上がって体育館へ向かう。総番長のKoが席を立たなけりゃ男子の1/3はついてこない。
H先生はこの件で「授業中に体育館で生徒を遊ばせる先生がいると」校長から叱責を受けた。ちゃんとした授業をしてくれたら、こんな嫌がらせはしない。しっかり教えてくれる先生にとってはebisuは品行方正ないい生徒だった。
一年生の時に生徒会会計をやっているNa先輩から指名されて生徒会会計になった。当時の会計は部活や文化祭の予算配分を任されていただけでなく、帳簿の記帳もしなければならないし、決算業務もやらなければならないので、商業科3クラス150人のなかで検定試験で簿記がトップの生徒の指定席だった。2年になるとNa先輩から、「ebisu、お前が予算配分の折衝をやれ」と任されてしまった。本当は先輩の仕事であるから、わたしに任せてトラブルがあれば先輩の責任となる、思いっきりの良い先輩だった。ありがたかったから、活動状況を調べて予算折衝に備えた。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、個別に予算配分案を示す、前年の活動を踏まえてやるわけで、部長は3年生で上級生である。公平にやればいいだけだが、コミュニケーション能力が要求される。納得しない部長だっていても不思議ではないからね、相手はすべて上級生。学校内では財務大臣並の権限を握っていたのが当時の生徒会会計。これが社会人になってからずいぶん役に立った。2社で入社直後から予算編成の責任者を任されたが、高校生徒会での経験があったから余裕でできた。売上40億円規模の輸入商社と、当時売上300億円の国内最大手の臨床検査センターの予算編成を入社して間もなく任された。
2年生は修学旅行が最大のイベント、当時は飛行機ではなく東京まで汽車でいった。東京まで28時間の列車の旅。11泊12日だが、車中泊が2日間。修学旅行はいいが東京へ丸刈りの坊主頭で行くのはみっともない。生徒会に拠点ができたので、校則を変える算段をした。仕事は差し建(段取り)が結果を左右する。校則改正は全校集会で採決が必要だった。校長が弱いのはPTAだから、そこから崩して全校集会にもっていくことにした。三年生は修学旅行がすんでいるから、関係なしと無関心派になってもらってはことが成就しない。生徒会内部から固めた。やりたいことを副会長の二人に説明すると、「よし、ebisuやってみろ」と任せてくれた。副会長のFuさんは室蘭税務署長で退職。もう一人のHaさんはヤクルト釧路支社長だったと噂に聞いた。
髪は身体の一部、それを校則で丸刈り一本に決めつけるのは人権侵害だし、戦後という時代にそぐわない。そういう論調のアンケート用紙をでサインしてガリを切り、謄写印刷。生徒を通じて保護者へ配布。生徒会メンバー全員が手伝ってくれた。アンケート結果はこちらの予測通り、校則改正に賛成反対の集計をして全校集会を開く。すんなり校則改正へこぎつけた。修学旅行3か月前、何とか間に合わせた。同学年の男子は長髪で修学旅行に行けると大喜び。
Koに仁義の台詞は伝わっているか訊いたことがあるが、伝わっていなかった。たぶん、一つ上の先輩たちも受け継いでいない。統率が取れていなかったのは総番長の仕事と責任の自覚がないからだろう。下の学年も小粒なのばかり。ワルはいたけど、Koのような器の大きい者がいなかった。限界だったのだ。共産党のAoとわたしとKoの三人で相談して決めたとAoが言うが、そのあたりの記憶はあまりない。Koとは阿吽の呼吸でやっていたからだろう。自分の利害は度外視だから、「やるぞ!」と言えばKoは「おう!」と応える、いつもそんなもの。案を煮詰め相談したのは三人でも、総番制度を廃止したのはKo一人の仕事だ。続けたかったワルが何人かいたはず。Koはよくやった。副番二人がサポートしたから体制が決したのではないかと思う。テレビ局の東京支社長をやったTuは昨年の同窓会で、Koに「格が違っていた」という意味のことを言っていた。Koはなりたくてなったわけではない、副番三人が格の違いを認めたから総番となり、そして数十年続いた根高伝統の総番制度を廃止した。大したものだ、好い友人が身近にいた。
統率力に優れていたKoは水産会社で働いて取締役になった。勉強だけではないが、されど勉強。たくさん見てきたが、勉強のできる奴は少なくないが、統率力に優れた奴は滅多にいない。社会に出た時に統率能力にすぐてている者はそれを武器に世の中を渡っていける。統率力のある者の周りには自然に人が集まってくる、人間的な魅力があるからだろう。
<余談:複雑な人脈、意外な場所>
共産党の青年部に「民青」(日本民主青年同盟)とのかかわりを意図的に省いた。1年上の総番グループ数名が共産党の専従のところに出入りしていた。数年前に共産党市議をやめたSさんが専従だった。総番制度廃止に同級生の友人である共産党のAoが出てくるのはそのあたりも関係している。あいつは2学年上の総番グループに兄弟を通じて人脈をもっていた。わたしは一つ上のグループ数人に個人的な人脈があり、一緒に遊んでかれらの人柄をすこしは知っている。
おふくろがやっていた居酒屋「酒悦」のお客さんに道庁勤務の組合関係者がたくさんいた。その中のKakさんから誘われて、彼の家で餅つきしたことがある。あれは1965年、矢臼別演習場での民青主催のキャンプがあった、キャンプが大好きだったのでKakさんからそれに誘われて参加した。その折に集合写真を撮ったのだが、そのネガは現像に回したら消えていた。1枚だけ消えていたのである。全道から参加したメンバーが写っていた。ネガには番号がついているから1枚抜けたらすぐにわかる。自分の引き伸ばし機をもっていたから、フィルム現像だけを写真屋に出して、引き延ばし作業は自分でやっていた。緑町三丁目にあったその写真屋さんはとっくにない、だから書ける。公安警察もなかなかやるもんだ、それがあってからはキャンプ参加をやめた。ずいぶん間抜けな情報活動だったから、バレバレ、二度目はない。大きく引き伸ばしてネガを戻しておけば気がつかなかった。相応のお金を支払えば、その写真屋が引き伸ばしをやったかもしれない。
当時、根室には私立明照高校というのがあった。Kitさんが生徒会長だった。三年生の時だったと思う、彼と話して生徒会同士のコミュニケーションをはじめた。同じ根室市内の高校同士だから、親睦を深めようとしただけの話で、生徒会同士数名で一度話し合いをした。興味があったので女子バレー部の親善試合を組んだ。中学時代は同じバレー部に所属した友達同士が、高校では二つに分かれた。どちらかというと明照高校のほうへ運動神経の良いものが集まっていた。ところが明照側が惨敗した。やってみなければわからぬもの、意外な結果だった。原因は普段練習に使っている体育館の天井の高さだった。明照高校は大徳寺境内にあり体育館が狭く天井が低かった。教室3つ分くらいをぶち抜いて作ったような体育館、天井が低くトス練習ができない。根室高校の体育館でトスを上げたら天井が高いので頭がくらくらしたという。感覚が違ってお話にならなかった。運動する環境の差が大きいことを思い知らされた親善試合だった。生徒の側から明照高校体育館新設運動を起こすというような発想は残念ながら私も含めて関係者のだれにもなかった。未熟だったのだ、やるべきだったと当時を思い出しながら反省。きわめて穏健な親睦に限定された生徒会同士のコミュニケーションだった。kitさんも異論はないだろう。当時の明照高校生徒会長は9月の市議選に再立候補しなかったKitさんである。
民青のキャンプの一件があったから、公安から根室高校学校長へ「連絡」が行っていただろう。
3年生の副会長から、応援演説をやってやるから、おまえが会長に立候補しろと言われた。その旨生徒会顧問へ話したら、生徒会会計をやっているから駄目だというヘンな理由で拒否された。じつは校長が強硬に反対していた。危険人物視されていたようだ。過大評価だった。相手が校長だから喧嘩を打ってもよかったが、間に挟まれた生徒会顧問の先生が説得できなかったと窮地に立たされる。会長でなくても生徒会は動かせるし、実際に丸刈り校則改正は生徒会会計でもやれた。あとはもっとやりやすいように段取りをすればいいだけ、ebisuは柔軟に対応した。立候補をとりやめを決意、1年生のときの同じクラスの友人Haを説得して副会長へ立候補させ、事情を話して先輩の副会長お二人に応援演説をお願いした。快く引き受けてくれた。わたしが立候補しなかったので、オサムが会長になった。わたしは生徒会で一番の古株、事情を知らぬオサムはしばしば自分の意見が通らないことがあったが、わけがわからなかっただろう。しばしば学校側について孤立していた。ガタイのいいオサムは中学時代相撲部、たった一人の相撲部で、褌を占めて鉄砲(突っ張り)の稽古に余念がなかった。だから、生徒会での孤立もなんてことはなかったのだろう。Koともそうだが、オサムともお互いに名前で呼び合う間柄だ。根室に戻ってきてから、テニス部だった同級生の女子Akのやっているスナックで数人の飲み会があった。Akからebisuさんも来ませんかと言われて参加した。オサムも来るという話なので「オサムは何時ころ来るの?」とAkに訊いたら、同席していた同級生のSが「生徒会長を呼び捨てするとは何事だ」と怒った。偉そうに言うので、「オサムが来たら訊いてみな、あいつも俺を名前で呼ぶ」と黙らせた。30分ほどしてオサムが来たので楽しく飲んだ。
あいつの家は鮭鱒の漁師、リッチだったから高校3年の時に16段変速のロードバイクを買ってもらった。アナログのスピードメータがついていた。乗ってきたその日に、「オサムいい自転車だな、貸せ、一回りしてくる」というとカギを渡してくれた。ふつうは貸さないよ、買ってもらったばかりだし、学校に初めて乗ってきたのだから。根室高校前からセブンイレブンまでの直線は緩い下り、そこを思いっきり飛ばした、前をダンプが走っていた。メータが60kmを超して70に近づいたとたんに赤い光が目に入った。T字路でダンプがブレーキをかけた。タイヤが細いから急ブレーキをかければ滑ってダンプカーの下に飛び込むことになる、瞬間に身体を右側に倒してセンターラインを越えてカーブに突っ込んでいた。反対車線から車は来てなかった。来てたら即死、オサムは新品で載ってきたばかりのロードバイクをお釈迦にするところだった。気のいい奴で光洋中学時代あいつは隣の9組、英語の授業は同じクラスだった。
副会長に立候補してもらった(高1の時だけ同じクラス)Haは短大卒業の翌年税理士試験に合格して、東京有楽町でずっと整理士事務所を営んでいる。四年制大学なら3年次税理士試験合格だから、とても優秀なやつだ。わたしの眼鏡に狂いはなかった。昆布漁師の息子である彼は夏場は家業の手伝い、家業を手伝っているところがわたしと似ていた。そんなに優秀でも簿記検定では3年間ずっとわたしの後塵を拝し続けた。高校時代は一度もわたしを追い越さなかった友達思いのいい奴だ。(笑)
三人で新宿でパンチボールを叩いたエピソードが載っている。
*#3641 先生、ストレッチのし方教えてください!にびっくり Nov. 18, 2017
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