#5133 根高同期忘年会 in 有楽町 Dec. 21, 2023 [90.根高 こもごも]
昨日12/20有楽町で午後4時から同期会があった。集まったのは18名、1967年(昭和42年)に卒業したのは350名だった。そのうち46名が故人である。今年はとくに多かった。根室商業以来続いていた総番長制度を廃止した、最後の総番長のヒロシが1月に亡くなっている。もともとは血の気の多いヤンシュウ(出稼ぎ漁師)の多い漁師町、地元のヤクザもいるし、そういう人たちと根室商業の生徒がいざこざを起こした時には、総番長の出番だった。だから、仁義が伝わっていた。「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さってありがとうさんにござんす。手前生国発しますところ、...」というやつだ。やくざ映画で見ているでしょう、腰を落として左手を後ろに回し、右手を前へ出して掌を見せての口上。わたしは5年先輩の野球部のキャプテンだったSMさんが目の前でやってくれたのを見ている。ヤクザともめごとが起きたときには、「向こうさんの流儀で挨拶しなくっちゃいけない、一言でも間違えたら、殺されたって文句は言えない」、そう語った。仁義の台詞を書いた小さく折りたたんだ紙ももらった。金刀比羅神社のお祭りには、SMさんが高下駄を履いて、その後ろを2mほど下がって目つきのキツイ十数人がついて回っていた。ヤクザもお祭りの宵宮には夜店の場所割で巡回していたから、なんだか危ない図だった。おっかない顔してたから、あの日だけは気軽に声を掛けられなかった。年に一度の伝統、いや伝説かな、デモンストレーションである。見たのは中2の時だった。
ヒロシも野球部だったが、本人に確認したが伝わっていなかった。SMさんが時代に合わないので、後輩に伝えなかったのだと思う。5年先輩までは、「総番長を張る」のは、いざことが起きれば命懸け、覚悟のいる地位だったのだ。ただの不良の集まりとは違っていたが、2年先輩あたりからすっかり崩れてしまっていた。
新聞部のケイジも亡くなった。あいつは声がでかくて愉しい奴だった。新聞部の部室は生徒会室に間借りしていたので高校時代の彼はよく知っている。輪転機が生徒会室に設置してあったので、新聞部と共用していた。ケイジはシステムハウスを起業した。技術を覚えれば若い社員は独立していく者が相次ぐ、派遣すれば派遣元がどれくらい支払っているかはすぐにその派遣社員に知れる。人の管理が案外たいへんなのだ。ストレスだったろうとAKが語っていた。亡くなる前に会社を整理していたようだ。
システム開発仕事が多かったわたしにはその辺の事情がよくわかる。予算と決算情報を社員にオープンにして処遇を改善すればいいだけだが、それができる経営者は少ない。規模が50人を越えたら、個人企業から会社経営への切り替えが必要になる。それができたら、売上100億円の企業に育つ例が多い。1984年にSRLで経営統合システム開発を担当したときに、NCDさんのSEが3人パートナーになったが、1年後に仕事が終わると、Tさんが独立して池袋で起業した。シオリさんは結婚退職し、M山さんだけが残ったが、彼は間もなく取締役総務部長に就任した。1978年から6年間付き合ったオービックの芹沢SEは数年後に開発担当取締役になっていた。独立するか、残って取締役を目指すかは腕とコミュニケーション能力次第の業界なのである。
10月末にムサシが突然亡くなった。具合が悪くなり、タクシーで病院へ行ってその日のうちに亡くなったと聞いた。ムサシは寂しがり屋で人っ子のいい奴だった。三人の副番の一人で、ヒロシと同じGクラスだからいいコンビだった。東京へ出てきた年に、ムサシから葉書が来た。「ホームシックだ、寂しい、会ってくれ」とあいつらしい文面。さっそく、高円寺のヒロシのところは集まって朝まで飲み歩いた。花咲港のJRの駅から、自宅まで自分の地所を通って家路につけるやつだと担任の冨岡先生が冗談交じりに話したことがあったが、本当だったようだ。牧場の跡取り息子で鷹揚な奴だった。もちろん、牧場は継がず、東京で亡くなった。
そんなことが続いたので「根室高校第19期生忘年会。偲ぶ会」を開くことにしたのだ。今年あっておかないと、来年はまた誰かが逝ってしまうかもしれないと、多少の危機感も感じてのことだった。わたしは二十数年ぶりの参加だった。ほとんどが見知った顔だから懐かしかった。
52歳の時に古里へ戻って、お仲人さんである根室印刷の創業者であり文学博士(専門は考古学)である北構保男先生のところへご挨拶に行った。根室商業高校同期の北構先生の親友・田塚源太郎先生(国後島出身の歯科医)の昔話や東京での生活に話が弾んだ。その際に、「同期の友人は皆逝ってしまった、昔話をできるのはもう君くらいしかいない、時々来て話し相手になってくれ」、そう仰った。先生は大正6年生まれだったので、そのときには84歳である。
わたしたちの同期は団塊世代真っただ中、74歳と75歳が混じっている。十年後でも半数は生き延びているだろうから、ずいぶん長生きになったと言えるだろう。
幹事さんのFGが急遽やれなくなり、KKがピンチヒッターになったよし。会場の手配は21歳の時に税理士試験に合格してそれ以来有楽町交通会館で事務所を開いているH勢である。だから、有楽町になった。
会場に15分前に到着したら幹事さんのK.Kが目の前にいた。2人すでに来ていた。5分ほどたつと税理士のHが来て、30年ぶりくらいなのでわたしの向かいに座る。高校1年の時に同じクラスで仲の良い友人だった。高校生の時から優秀な奴で生徒会へ引っ張り込んで副会長をやってもらった。応援演説は先輩の副会長2人へわたしがお願いした。その内の一人HH先輩は札幌在住で岩見沢で税理士をしている。H勢は現在は弁護士と一緒に共同で法人を作って運営しており、25名ほどもスタッフがいるという。求人難だと言っていた。「お前ももう年だから、所長が10年は仕事を続けられないと思ったら新人が来るはずがないな」と応じると、後継者が欲しいのだという。
穏やかな表情のH勢は営業が上手そうだ。税理士資格はもっていても営業がちゃんとできるやつは稀だ。いかにもやる気の人は、しかも若ければ警戒される。H勢は風格が備わってきたから、代わりを務められる人材を見つけるのは難しそうだ。どこだって中小企業は後継者を見つけること自体がたいへんな仕事ではある。H勢は終活に突入しているということだろう。首尾よく人が見つかると好い。
サイトウタカオの弟子のタケシが、「このごろ身の回りで次々に亡くなっていく、団塊世代は競争が激しくてストレスが強かったので、早死にしているのではないか」と持論を語る。年代は異なるが、一回り年上だったサイトウタカオ氏も亡くなった。自身も小さな膀胱癌が見つかって経過観察中だ。同じ病気を患っている同期のMTとは住所が近いので同じ病院で検査を受けているという。
斜(ハス)向かいに座っていたTTが誰かに問われて自分の職業を言った。半導体製造設備開発事業の企業に勤務していて設計をやっていたという。興味が湧いたので会社名を聞いたらアドバンティストだという。半導体製造装置では世界ナンバーワンの企業である。1984年に転職するときに選択肢が3社あり、その中のひとつがセミコンダクター製造企業のフェアチャイルド・ジャパンだった。経理課長職で850万円の年俸の提示があった。後はプレジデント社と臨床検査業のSRLだった。ファイルにある財務諸表をざっと眺めたら、SRLが高収益で成長性が高い企業であることが分かった。経営分析モデルと開発して6年間経営分析とデータに基づく経営改革をしていたから、数分眺めただけでどんな企業か判断がつく。給料は3社の中では低かったが、臨床検査業界では給料の高さもナンバーワン、そして新宿西口の超高層ビルであるNSビル22階だったので、SRLに決めた。
向かい側の席の方で誰かが、「学校の先生風に見える」と発言した。大学と高校、考えたことはあった。経済学の研究を進展させるためにもフィールドワークが必要だった。そのためにその都度業種を変えて転職した。
隣のボックスの左斜向かいはC組のIIだ。小学校の時の同級生で中規模ゼネコンで高速道路の建設に携わって、その後独立して今も現役、元気がいい。緑内障で右目がほとんど見えないという。車の運転は大丈夫だと言い切っていた。「おいおい、夕暮れ時、右側から飛び出してきたら、気がつくのが0.5秒遅れたら子供や若い人をはねる可能性が強い。反応速度が遅くなっているので、わたしは昨年引っ越して来るときに車は処分した。環境が変わればリスクは大きくなるから」、そう伝えた。首都圏だって郊外に住んでいたら車を手放せない事情もよくわかる。ましてや現役で現場を飛び回ることが多ければ、なおさら車は手離せない、ジレンマです。人にはそれぞれ事情というものがあるから、自分の意見を押し付けてはいけない。
隣のボックスの二人目はAKだ。こいつはユニークな奴で、盛岡で手広く商売をしている。ブテックをいくつか持っていて、タイによく遊びに行くのでタイ式マッサージの学校ももっていたはず。真っ黒な顔をしているので、「タイでは日本人に間違われるだろう?」と訊くと、「よく間違われる」と愛想のよい返事、そう言った後で気がついて、大笑い。あいつはれっきとした日本人である。冬は寒いので半分くらい沖縄暮らしだそうで、相変わらず元気がよすぎ、声がでかい。でも、あいつがあいつらしいことがうれしい。8時過ぎの新幹線で盛岡へ帰るのだそうだ。AKは総番長だったヒロシと中学時代からの仲良しだった。ヒロシは今年1/10にリンパ腫と間質性肺炎で亡くなっている。1年ほども札幌の癌センターで入退院を繰り返していた。東京へ出ようとわたしを誘ったのはヒロシだった。札幌の白馬ビリヤードで少し時間を潰して、千歳空港からスカイメイトで一緒に羽田へ降り立った。スカイメイトというのは、全日空のヤング向けの半額料金である、1967年にたしか6500円だった。
お店のスタッフが手際よく次々に料理を運んでくる。最初に仕事に慣れた感じの女性スタッフが、2時間飲み放題というシステムを説明したが、よく聞いていなかったのか、幹事のKKは時間は3時間だとみんなに説明している。
有楽町で、いくら時間が早いからと言って5000円会費で3時間はあり得ないというのがわたしの判断。H勢と楽しく会話しながら、頭は採算計算の並列処理をし始めている。おやおや、これは仕事モードに脳が切り替わっていると気がついた。
家賃は売上の20%が相場だから、お店は4000円、並んでいる料理の原価を考えると2500円くらいはかかっている。間接費を入れたらほとんど儲けなしだ。だから3時間はあり得ない。早い時間は仕入れ量を増やすために採算度外視で営業しているのではないだろうか?
そうこうしているうちに、鍋物が食べ終わった後に投入する〆のご飯が運ばれてきた。右隣に座っていたシゲルが、中身を空けて、ご飯を入れた。5分ほどで食べごろになった。
美術部長だったカツエは用事があるので途中で帰ると幹事から聞いていた。遠い席に女性陣4人が座っていたが、手を挙げて合図を送ってきた。帰るのでエレベータの前まで来てくれという。エレベータ前で椅子に座ってタバコを吸い始めた。タケシにライターないかと訊いたら、奴は電子タバコ(笑)。お店のスタッフに鍋物に使う長いライターを借りて火をつける。カツエは『かわなかのぶひろ展 日常の実験・実験の映像』という100頁ほどの本をもってきていた。ご亭主の出版した本だから、渡したくて持ってきてくれたのだ。アングラ劇場関係のビジネスをして、渋谷にビルをもっていると噂で聞いていた。高校3年間ずっと同じクラスで仲の良い友人だった。漁師の娘で、遊びに行ったら、「お汁粉食べるか?」と聞くので、「食べる」というと、階下の台所へ降りて行って大きな鍋からどんぶりにお玉でよそってくれた。ふだんからあんなに食べるのかと驚いた。カツエは昔、大橋巨泉の番組に2回出演したことがあった。またそのうちに会おうということになった。
隣のテーブルで、火が消えているので、火をつけ直して鍋物にご飯を投入しようとしている人がいたが、もう時間切れである。あと15分だった。そのときになって幹事さんが気がついた。やはり2時間である。
さて、手つかずで残されたこの後入れのご飯等の具材はSDGsのかまびすしい昨今では、どうするのだろう。店長の判断次第である。自分が店長ならどう判断するのかと頭の中の別の自分が問いかける。
お開きになった後、男8人でビックエコーで1.5時間2次会をした。AKと小学生の時の同級生の通称「あんちゃん」が、そしてタケシが歌った。誰かが歌い始める前に、K山はうるさいと一言、あいつは話がしたかったのだ。少し時間がたってから隣に来て喋っていた。三菱商事で仕事していたが50歳くらいで子会社勤務だったかな。団塊世代は競争が激しかったとタケシが言ったときに、青山学院大へ進学したK山は学生運動真っ盛りだったと言った。あの時代の大学生なら当然だと。K山とは、小学生の1~3年まで同じクラスだった。家も歩いて4分ほどの距離。高校生の時はA組で柏原先生が担任。「小中高と俺たちと一緒に「進学?」してきた先生は一人だけ」と言ったので、水晶島出身で、予科練に合格、土浦航空隊へ特攻兵として出発寸前に敗戦となり、釧路工業高校から日大へ進学しで先生になったと教えてあげた。予科練には優秀な若者が選抜されて集められいた。敗戦が数か月遅れたら、わたしの恩師の市倉宏祐教授が土浦でゼロ戦の操縦を教えていた可能性があった。社会科の教師として、そういう経歴が先生の発言や行動の背景にあったことを知ってた教え子は皆無だろう。
タケシがわたしは古里へ戻って20年間学習塾をやっていたと紹介してくれた。同期の数人から評判を聞いていたらしい。KHが「紳士服製造の企業じゃなかったか?」と訊くので、「三年間いた」と返事した。やることがあり、業種を変えて7つの企業を転々としたことは内緒、どことなく謎めいた部分がある方がが面白い。
公認会計士でドイツ銀行に勤務したことのあるO(中大へ進学)がべ平連でやっていたと昔を懐かしむ。私の所属していた市倉宏祐ゼミからは大学処分者が(一学年上に)一人出た。同期のゼミ員の一人Sは赤軍派の分派の「さらぎ派」だった。敵対する派に捕まることを恐れて、朝早く学校へ来て、昼からのゼミに参加していた。帰りは3人ほどで「護衛」してやった。激動の時代だったな。
一人台40代の奥さんのいる旧知の同期がいる。中1の女の子がいて、スマホの写真をタケシに見せていた。現役で頑張っている。すこぶる健康そうで、また一人できる可能性があるんじゃないかと冷やかされていた。
ビッグエコーは最後に上場準備の仕事をした外食産業(東和フーズ)の本社が銀座にあり、いま同期と入ったこの店舗は、退職時の送別会の2次会で使ったカラオケ店だった。外に出た瞬間にあの日のメンバー数人の顔が記憶によみがえった。2002年の夏だった。
MTとタケシとわたしは新宿までは一緒なので、有楽町駅から山手線外回りに乗った。タケシは向かいの席で真っ赤な顔をして居眠り、わたしはMTと話し込んでいた。一番前の方から出たので、新宿駅は中央改札口ではないところへ出た。京王線の改札口を通り過ぎて、MTは各駅停車ホームへわたしは特急電車ホームへと別れた。
タケシは代々木駅で降りた。仕事場は代々木駅で降りても歩いてそんなにかからない。
<余談:起業した元同僚の会社の整理、1993年>
SRLの同時期入社の加藤は、同大安田講堂事件があった年の受験組だった。入試が中止になったので、家庭の事情で浪人はできなかったのでやむなく中大法学部へ入学したと言っていた。あの事件がなければ自分は東大法学部卒だったと、2人だけで新宿で酒を飲んだ時にぼやくことがあった。気持ちはわからんでもない。
1983年12月にSRLへ転職し、2か月後のわたしと上場準備要員としては入社時期が一番近かった。リクルート社の斡旋でSRLへ入社したところは一緒。八王子ラボで中途社員講習を一緒に受けたときに、あいつSPIテストの結果を見せろと言い出して利かない。ダメだというと、自分のSPIテストの偏差値を見せてくれた。68だった。「ずいぶん高いな」と言ったら、自分のを見せたのだからebisuさんのも見せろと言ってきかない。五月蠅(うるさ)いので、見せた。72だった。それ以来、あいつはすっかり弟分の気分でわたしに接してきた。高学歴は偏差値に弱いのだ。難関大卒と院卒でもトップレベルは学力ががまるで違う、仕事をやらせて見たらすぐに知れる。(笑)
高校時代から、会計学、経済学、哲学の専門書を問題意識をもって読み、好奇心に駆り立てられて思考し続けたら、大学を卒業するころには知識や思考力に大きな差がついてしまう。生徒会会計を担当し、全部のクラブの部長と副部長をそれぞれ生徒会室へ呼んで公平な予算査定をし、帳簿記帳と決算業務を2年間したのもすばらしい経験になった。丸刈り坊主頭の校則改正の経験も人を巻き込むやり方をそこから学び取ってしまっていた。産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事では同時に社運のかかった5つのプロジェクトを同時に担い、予算編成や予算管理、資金管理を入社早々から担当している。経験智も当然ついてしまうし、場数も踏んでいるから仕事がおおきくても悠然とこなせる。予算編成や予算管理は根室高校時代の経験で、どんな企業規模でも同じことだった。必要にして十分な経験を積んでしまっていた。
加藤は1991年頃に厚生省の補助金を利用して、企業の社員の健康増進プログラムを開発して独立起業した。大手企業の健康政策のアドバイザーのような仕事だった。1年間は空振り、苦労していたが、心境に変化が出てから事業が軌道に乗り出した。経営コンサルタント仕事の相談が舞い込むようになって、そちらの仕事の専門家であるわたしへ仕事を手伝ってほしいと依頼が来たので、1件だけ900万円の仕事を手伝った。取締役の名刺を用意してくれて、対象の企業を訪問し、決算書類について周辺情報をいくつかリアリングさせてもらい、1978年に開発した25ゲージ、5ディメンションの経営分析モデルに入力し、25ゲージのレーダーチャートをEXCELで作って、どこをどのように改善すればいいのか、一日で調査レポートと提案書を書き終えて、数日後にその企業に説明に行った。仕事が無事終わって、取締役への就任を頼まれたので、土曜日だけで十分こなせるので、人事部へ届けたら、ノーの返事だった。年収がアルバイトの方がずっと多くなる。10件こなせば1~2億の売上になるから、4000~8000万円くらいの年収にはなる。
SRL人事部が奨めていたはずの兼業にノーの返事、ちょっと驚いた。加藤にその旨伝えたら、副社長のポストを用意すると提案があった。臨床検査業界ナンバーワン企業のSRLでやりたい仕事がたくさんあったので、いまはやめるつもりはないと返事した。そうしたら、奥さんと話をして、社長で来てくれないかと打診があった。奥さんは東大理Ⅲの才女で、某海外有名ブランドの化粧品の開発部長をしていた。せっかくの申し出ではあるけれど、相談には乗れるがダメだと電話で断った。その2か月ぐらい後で、あいつは会社を4~5人の社員へ営業譲渡して整理した。
健康増進プログラムを事業化したあいつは、客先が増えると、経営コンサルタント仕事を相談されるようになった。そちらの方がずっと市場が大きいのだ。最初のテストケースの仕事を、「わたしにはできないが、ebisuさんならできるはず」と振ってきたので引き受けたのである。数回やって見せたら、頭がよければやれるかもしれない。わたしは産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事(後にセキテクノトロンと社名変更)でさまざまな仕事の傍ら、経営改革のための経営分析を6年間やっていた。当時はこの分野では日本で最先端のスキルをもっていた。
経営コンサル仕事を受けて、その後の3年間の決算書類を提出してもらい、伸びた経常利益の3割を成功報酬として手数料にもらえば面白いビジネスだった。生産性を上げて数億円利益が増えたら、業績をモニターしているだけで、会社は安定して十分なお金を稼げる。支払う方も楽だ。高収益企業に変われば、経常利益の3割の支払いは借金しないで可能になる。そんなビジネスモデルを考えたが、簡単すぎてつまらない。遊びも仕事も一緒、リスクを伴うものでなければ楽しめない。
でも楽して過ごすのもありだったかも。経営改革をコンサルしたら、次のターゲットは株式上場だ。4回経験があるので、面白い事業ではある。成功報酬で上場前の株式を割り当ててもらえば、成功報酬だから、コンサルを依頼する側の負担はナシだ。株式上場を手伝うのは通常は証券会社だが、彼らは手続きができるだけで、その前処理、上場要件を満たす高収益企業、高成長企業へと普通の会社を変貌させるスキルはない。いわば株式上場の前処理段階の作業である。10人くらいの規模で数年で売上高を5億円確保できたら、社員一人当たり2000万円程度の給料は支払える。ユニークな企業が誕生したかもしれない。
事情は変わらないから、いまからだってそういう企業が生まれても自然だろう。やりたい若い人がいたら、ノウハウ全部伝授してあげる。この分野の事業に情熱をもった人でないといけません。(笑)
断って1か月ぐらいのこと、1993年の3月頃だったかな。電話があり、あいつの声がかすれていたので、何だか嫌な予感がした。「熱はないか?」と訊いたら、「このところ微熱がある」と返事。「大きな病院で検査してもらえ、癌の疑いがある、進行性の癌だったら若いから、そんなにもたない」と告げてしまった。あいつは横浜済生会病院で検査を受けて、胸部に癌が発見された。末期だった、声がかすれていたのは腫瘍が肺と気管支を圧迫していたからだった。
私はそのころ、金沢の臨床検査センターの決算分析と買収交渉と買収後の立て直し、並行して東北の臨床検査センターとの資本提携話を取りまとめ、東北の会社の方を選んで経営企画室担当取締役で出向が決まったところだった。入院治療を勧められたが、助からないから自宅療養したほうがいいとのわたしのススメ通りに、医師を説得して済生会病院では初めての末期癌患者の自宅療養、通院による治療が始まった。
夏になってあいつから暑中見舞いが来た。「余命3か月」と書いてあった。慌てて、横浜のあいつの高層マンションを訪れ、見舞った。抗癌剤と放射線治療で髪が抜け、夏なのにエアコンで頭が涼しいと毛糸の帽子をかぶっていた。将棋を所望され、3番指した。奥さんが帰宅するまで帰らないでくれと頼まれ、時々疲れて、15分くらい横になりに寝室へいっては、しばらくするとまた戻ってきて、昔話と将棋をせがむ。7時過ぎに奥さんが帰宅して、挨拶をして別れた。
そんなふうで、2度横浜を訪れた。1993年9月に2年前に手術した大腸癌が全身転移してオヤジが亡くなり、49日の法要の前日だったかな、奥さんから電話があり、加藤の死を知った。「もうダメそうだと朝言って、肩につかまりタクシーで病院へ、そのまま入院、モルヒネを打ってもらっい3日後に眠るように亡くなった」とのこと。オヤジの法要を済ませて、すぐに横浜を訪れ、線香をあげた。いいやつだったな。
起業して、一緒にやらないかと言われたのは、加藤が2人目だった。関商事のときも、有力な取引先が日本法人を作るというので、遠藤さんに打診があり、彼はわたしを誘った。売上の3割近くを失い、優秀な社員が引き抜かれたら、関商事が傾く、受けられない相談だったから、この時も断った。
加藤は2歳年下、兎年生まれ43歳だった。
ケイジが起業したシステム会社を整理してから亡くなったと聞いて、ずいぶん昔になるが営業権を4~5人の社員へ譲渡して亡くなった加藤のことを思い出した。違いは、営業譲渡したときに、加藤はまだ自分が癌に罹患していることすら知らなかったということ。たまたま、3度わたしが経営に参画するのを断ったので、会社の整理をしたことにある。まるで寿命を知って事前にやったかのように見える、偶然というのは怖いものだ。
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ヒロシも野球部だったが、本人に確認したが伝わっていなかった。SMさんが時代に合わないので、後輩に伝えなかったのだと思う。5年先輩までは、「総番長を張る」のは、いざことが起きれば命懸け、覚悟のいる地位だったのだ。ただの不良の集まりとは違っていたが、2年先輩あたりからすっかり崩れてしまっていた。
新聞部のケイジも亡くなった。あいつは声がでかくて愉しい奴だった。新聞部の部室は生徒会室に間借りしていたので高校時代の彼はよく知っている。輪転機が生徒会室に設置してあったので、新聞部と共用していた。ケイジはシステムハウスを起業した。技術を覚えれば若い社員は独立していく者が相次ぐ、派遣すれば派遣元がどれくらい支払っているかはすぐにその派遣社員に知れる。人の管理が案外たいへんなのだ。ストレスだったろうとAKが語っていた。亡くなる前に会社を整理していたようだ。
システム開発仕事が多かったわたしにはその辺の事情がよくわかる。予算と決算情報を社員にオープンにして処遇を改善すればいいだけだが、それができる経営者は少ない。規模が50人を越えたら、個人企業から会社経営への切り替えが必要になる。それができたら、売上100億円の企業に育つ例が多い。1984年にSRLで経営統合システム開発を担当したときに、NCDさんのSEが3人パートナーになったが、1年後に仕事が終わると、Tさんが独立して池袋で起業した。シオリさんは結婚退職し、M山さんだけが残ったが、彼は間もなく取締役総務部長に就任した。1978年から6年間付き合ったオービックの芹沢SEは数年後に開発担当取締役になっていた。独立するか、残って取締役を目指すかは腕とコミュニケーション能力次第の業界なのである。
10月末にムサシが突然亡くなった。具合が悪くなり、タクシーで病院へ行ってその日のうちに亡くなったと聞いた。ムサシは寂しがり屋で人っ子のいい奴だった。三人の副番の一人で、ヒロシと同じGクラスだからいいコンビだった。東京へ出てきた年に、ムサシから葉書が来た。「ホームシックだ、寂しい、会ってくれ」とあいつらしい文面。さっそく、高円寺のヒロシのところは集まって朝まで飲み歩いた。花咲港のJRの駅から、自宅まで自分の地所を通って家路につけるやつだと担任の冨岡先生が冗談交じりに話したことがあったが、本当だったようだ。牧場の跡取り息子で鷹揚な奴だった。もちろん、牧場は継がず、東京で亡くなった。
そんなことが続いたので「根室高校第19期生忘年会。偲ぶ会」を開くことにしたのだ。今年あっておかないと、来年はまた誰かが逝ってしまうかもしれないと、多少の危機感も感じてのことだった。わたしは二十数年ぶりの参加だった。ほとんどが見知った顔だから懐かしかった。
52歳の時に古里へ戻って、お仲人さんである根室印刷の創業者であり文学博士(専門は考古学)である北構保男先生のところへご挨拶に行った。根室商業高校同期の北構先生の親友・田塚源太郎先生(国後島出身の歯科医)の昔話や東京での生活に話が弾んだ。その際に、「同期の友人は皆逝ってしまった、昔話をできるのはもう君くらいしかいない、時々来て話し相手になってくれ」、そう仰った。先生は大正6年生まれだったので、そのときには84歳である。
わたしたちの同期は団塊世代真っただ中、74歳と75歳が混じっている。十年後でも半数は生き延びているだろうから、ずいぶん長生きになったと言えるだろう。
幹事さんのFGが急遽やれなくなり、KKがピンチヒッターになったよし。会場の手配は21歳の時に税理士試験に合格してそれ以来有楽町交通会館で事務所を開いているH勢である。だから、有楽町になった。
会場に15分前に到着したら幹事さんのK.Kが目の前にいた。2人すでに来ていた。5分ほどたつと税理士のHが来て、30年ぶりくらいなのでわたしの向かいに座る。高校1年の時に同じクラスで仲の良い友人だった。高校生の時から優秀な奴で生徒会へ引っ張り込んで副会長をやってもらった。応援演説は先輩の副会長2人へわたしがお願いした。その内の一人HH先輩は札幌在住で岩見沢で税理士をしている。H勢は現在は弁護士と一緒に共同で法人を作って運営しており、25名ほどもスタッフがいるという。求人難だと言っていた。「お前ももう年だから、所長が10年は仕事を続けられないと思ったら新人が来るはずがないな」と応じると、後継者が欲しいのだという。
穏やかな表情のH勢は営業が上手そうだ。税理士資格はもっていても営業がちゃんとできるやつは稀だ。いかにもやる気の人は、しかも若ければ警戒される。H勢は風格が備わってきたから、代わりを務められる人材を見つけるのは難しそうだ。どこだって中小企業は後継者を見つけること自体がたいへんな仕事ではある。H勢は終活に突入しているということだろう。首尾よく人が見つかると好い。
サイトウタカオの弟子のタケシが、「このごろ身の回りで次々に亡くなっていく、団塊世代は競争が激しくてストレスが強かったので、早死にしているのではないか」と持論を語る。年代は異なるが、一回り年上だったサイトウタカオ氏も亡くなった。自身も小さな膀胱癌が見つかって経過観察中だ。同じ病気を患っている同期のMTとは住所が近いので同じ病院で検査を受けているという。
斜(ハス)向かいに座っていたTTが誰かに問われて自分の職業を言った。半導体製造設備開発事業の企業に勤務していて設計をやっていたという。興味が湧いたので会社名を聞いたらアドバンティストだという。半導体製造装置では世界ナンバーワンの企業である。1984年に転職するときに選択肢が3社あり、その中のひとつがセミコンダクター製造企業のフェアチャイルド・ジャパンだった。経理課長職で850万円の年俸の提示があった。後はプレジデント社と臨床検査業のSRLだった。ファイルにある財務諸表をざっと眺めたら、SRLが高収益で成長性が高い企業であることが分かった。経営分析モデルと開発して6年間経営分析とデータに基づく経営改革をしていたから、数分眺めただけでどんな企業か判断がつく。給料は3社の中では低かったが、臨床検査業界では給料の高さもナンバーワン、そして新宿西口の超高層ビルであるNSビル22階だったので、SRLに決めた。
向かい側の席の方で誰かが、「学校の先生風に見える」と発言した。大学と高校、考えたことはあった。経済学の研究を進展させるためにもフィールドワークが必要だった。そのためにその都度業種を変えて転職した。
隣のボックスの左斜向かいはC組のIIだ。小学校の時の同級生で中規模ゼネコンで高速道路の建設に携わって、その後独立して今も現役、元気がいい。緑内障で右目がほとんど見えないという。車の運転は大丈夫だと言い切っていた。「おいおい、夕暮れ時、右側から飛び出してきたら、気がつくのが0.5秒遅れたら子供や若い人をはねる可能性が強い。反応速度が遅くなっているので、わたしは昨年引っ越して来るときに車は処分した。環境が変わればリスクは大きくなるから」、そう伝えた。首都圏だって郊外に住んでいたら車を手放せない事情もよくわかる。ましてや現役で現場を飛び回ることが多ければ、なおさら車は手離せない、ジレンマです。人にはそれぞれ事情というものがあるから、自分の意見を押し付けてはいけない。
隣のボックスの二人目はAKだ。こいつはユニークな奴で、盛岡で手広く商売をしている。ブテックをいくつか持っていて、タイによく遊びに行くのでタイ式マッサージの学校ももっていたはず。真っ黒な顔をしているので、「タイでは日本人に間違われるだろう?」と訊くと、「よく間違われる」と愛想のよい返事、そう言った後で気がついて、大笑い。あいつはれっきとした日本人である。冬は寒いので半分くらい沖縄暮らしだそうで、相変わらず元気がよすぎ、声がでかい。でも、あいつがあいつらしいことがうれしい。8時過ぎの新幹線で盛岡へ帰るのだそうだ。AKは総番長だったヒロシと中学時代からの仲良しだった。ヒロシは今年1/10にリンパ腫と間質性肺炎で亡くなっている。1年ほども札幌の癌センターで入退院を繰り返していた。東京へ出ようとわたしを誘ったのはヒロシだった。札幌の白馬ビリヤードで少し時間を潰して、千歳空港からスカイメイトで一緒に羽田へ降り立った。スカイメイトというのは、全日空のヤング向けの半額料金である、1967年にたしか6500円だった。
お店のスタッフが手際よく次々に料理を運んでくる。最初に仕事に慣れた感じの女性スタッフが、2時間飲み放題というシステムを説明したが、よく聞いていなかったのか、幹事のKKは時間は3時間だとみんなに説明している。
有楽町で、いくら時間が早いからと言って5000円会費で3時間はあり得ないというのがわたしの判断。H勢と楽しく会話しながら、頭は採算計算の並列処理をし始めている。おやおや、これは仕事モードに脳が切り替わっていると気がついた。
家賃は売上の20%が相場だから、お店は4000円、並んでいる料理の原価を考えると2500円くらいはかかっている。間接費を入れたらほとんど儲けなしだ。だから3時間はあり得ない。早い時間は仕入れ量を増やすために採算度外視で営業しているのではないだろうか?
そうこうしているうちに、鍋物が食べ終わった後に投入する〆のご飯が運ばれてきた。右隣に座っていたシゲルが、中身を空けて、ご飯を入れた。5分ほどで食べごろになった。
美術部長だったカツエは用事があるので途中で帰ると幹事から聞いていた。遠い席に女性陣4人が座っていたが、手を挙げて合図を送ってきた。帰るのでエレベータの前まで来てくれという。エレベータ前で椅子に座ってタバコを吸い始めた。タケシにライターないかと訊いたら、奴は電子タバコ(笑)。お店のスタッフに鍋物に使う長いライターを借りて火をつける。カツエは『かわなかのぶひろ展 日常の実験・実験の映像』という100頁ほどの本をもってきていた。ご亭主の出版した本だから、渡したくて持ってきてくれたのだ。アングラ劇場関係のビジネスをして、渋谷にビルをもっていると噂で聞いていた。高校3年間ずっと同じクラスで仲の良い友人だった。漁師の娘で、遊びに行ったら、「お汁粉食べるか?」と聞くので、「食べる」というと、階下の台所へ降りて行って大きな鍋からどんぶりにお玉でよそってくれた。ふだんからあんなに食べるのかと驚いた。カツエは昔、大橋巨泉の番組に2回出演したことがあった。またそのうちに会おうということになった。
隣のテーブルで、火が消えているので、火をつけ直して鍋物にご飯を投入しようとしている人がいたが、もう時間切れである。あと15分だった。そのときになって幹事さんが気がついた。やはり2時間である。
さて、手つかずで残されたこの後入れのご飯等の具材はSDGsのかまびすしい昨今では、どうするのだろう。店長の判断次第である。自分が店長ならどう判断するのかと頭の中の別の自分が問いかける。
お開きになった後、男8人でビックエコーで1.5時間2次会をした。AKと小学生の時の同級生の通称「あんちゃん」が、そしてタケシが歌った。誰かが歌い始める前に、K山はうるさいと一言、あいつは話がしたかったのだ。少し時間がたってから隣に来て喋っていた。三菱商事で仕事していたが50歳くらいで子会社勤務だったかな。団塊世代は競争が激しかったとタケシが言ったときに、青山学院大へ進学したK山は学生運動真っ盛りだったと言った。あの時代の大学生なら当然だと。K山とは、小学生の1~3年まで同じクラスだった。家も歩いて4分ほどの距離。高校生の時はA組で柏原先生が担任。「小中高と俺たちと一緒に「進学?」してきた先生は一人だけ」と言ったので、水晶島出身で、予科練に合格、土浦航空隊へ特攻兵として出発寸前に敗戦となり、釧路工業高校から日大へ進学しで先生になったと教えてあげた。予科練には優秀な若者が選抜されて集められいた。敗戦が数か月遅れたら、わたしの恩師の市倉宏祐教授が土浦でゼロ戦の操縦を教えていた可能性があった。社会科の教師として、そういう経歴が先生の発言や行動の背景にあったことを知ってた教え子は皆無だろう。
タケシがわたしは古里へ戻って20年間学習塾をやっていたと紹介してくれた。同期の数人から評判を聞いていたらしい。KHが「紳士服製造の企業じゃなかったか?」と訊くので、「三年間いた」と返事した。やることがあり、業種を変えて7つの企業を転々としたことは内緒、どことなく謎めいた部分がある方がが面白い。
公認会計士でドイツ銀行に勤務したことのあるO(中大へ進学)がべ平連でやっていたと昔を懐かしむ。私の所属していた市倉宏祐ゼミからは大学処分者が(一学年上に)一人出た。同期のゼミ員の一人Sは赤軍派の分派の「さらぎ派」だった。敵対する派に捕まることを恐れて、朝早く学校へ来て、昼からのゼミに参加していた。帰りは3人ほどで「護衛」してやった。激動の時代だったな。
一人台40代の奥さんのいる旧知の同期がいる。中1の女の子がいて、スマホの写真をタケシに見せていた。現役で頑張っている。すこぶる健康そうで、また一人できる可能性があるんじゃないかと冷やかされていた。
ビッグエコーは最後に上場準備の仕事をした外食産業(東和フーズ)の本社が銀座にあり、いま同期と入ったこの店舗は、退職時の送別会の2次会で使ったカラオケ店だった。外に出た瞬間にあの日のメンバー数人の顔が記憶によみがえった。2002年の夏だった。
MTとタケシとわたしは新宿までは一緒なので、有楽町駅から山手線外回りに乗った。タケシは向かいの席で真っ赤な顔をして居眠り、わたしはMTと話し込んでいた。一番前の方から出たので、新宿駅は中央改札口ではないところへ出た。京王線の改札口を通り過ぎて、MTは各駅停車ホームへわたしは特急電車ホームへと別れた。
タケシは代々木駅で降りた。仕事場は代々木駅で降りても歩いてそんなにかからない。
*#4343 Take a chance on you「神田たけ志」50周年劇画展:9/17~22 Aug. 19, 2020
<余談:起業した元同僚の会社の整理、1993年>
SRLの同時期入社の加藤は、同大安田講堂事件があった年の受験組だった。入試が中止になったので、家庭の事情で浪人はできなかったのでやむなく中大法学部へ入学したと言っていた。あの事件がなければ自分は東大法学部卒だったと、2人だけで新宿で酒を飲んだ時にぼやくことがあった。気持ちはわからんでもない。
1983年12月にSRLへ転職し、2か月後のわたしと上場準備要員としては入社時期が一番近かった。リクルート社の斡旋でSRLへ入社したところは一緒。八王子ラボで中途社員講習を一緒に受けたときに、あいつSPIテストの結果を見せろと言い出して利かない。ダメだというと、自分のSPIテストの偏差値を見せてくれた。68だった。「ずいぶん高いな」と言ったら、自分のを見せたのだからebisuさんのも見せろと言ってきかない。五月蠅(うるさ)いので、見せた。72だった。それ以来、あいつはすっかり弟分の気分でわたしに接してきた。高学歴は偏差値に弱いのだ。難関大卒と院卒でもトップレベルは学力ががまるで違う、仕事をやらせて見たらすぐに知れる。(笑)
高校時代から、会計学、経済学、哲学の専門書を問題意識をもって読み、好奇心に駆り立てられて思考し続けたら、大学を卒業するころには知識や思考力に大きな差がついてしまう。生徒会会計を担当し、全部のクラブの部長と副部長をそれぞれ生徒会室へ呼んで公平な予算査定をし、帳簿記帳と決算業務を2年間したのもすばらしい経験になった。丸刈り坊主頭の校則改正の経験も人を巻き込むやり方をそこから学び取ってしまっていた。産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事では同時に社運のかかった5つのプロジェクトを同時に担い、予算編成や予算管理、資金管理を入社早々から担当している。経験智も当然ついてしまうし、場数も踏んでいるから仕事がおおきくても悠然とこなせる。予算編成や予算管理は根室高校時代の経験で、どんな企業規模でも同じことだった。必要にして十分な経験を積んでしまっていた。
加藤は1991年頃に厚生省の補助金を利用して、企業の社員の健康増進プログラムを開発して独立起業した。大手企業の健康政策のアドバイザーのような仕事だった。1年間は空振り、苦労していたが、心境に変化が出てから事業が軌道に乗り出した。経営コンサルタント仕事の相談が舞い込むようになって、そちらの仕事の専門家であるわたしへ仕事を手伝ってほしいと依頼が来たので、1件だけ900万円の仕事を手伝った。取締役の名刺を用意してくれて、対象の企業を訪問し、決算書類について周辺情報をいくつかリアリングさせてもらい、1978年に開発した25ゲージ、5ディメンションの経営分析モデルに入力し、25ゲージのレーダーチャートをEXCELで作って、どこをどのように改善すればいいのか、一日で調査レポートと提案書を書き終えて、数日後にその企業に説明に行った。仕事が無事終わって、取締役への就任を頼まれたので、土曜日だけで十分こなせるので、人事部へ届けたら、ノーの返事だった。年収がアルバイトの方がずっと多くなる。10件こなせば1~2億の売上になるから、4000~8000万円くらいの年収にはなる。
SRL人事部が奨めていたはずの兼業にノーの返事、ちょっと驚いた。加藤にその旨伝えたら、副社長のポストを用意すると提案があった。臨床検査業界ナンバーワン企業のSRLでやりたい仕事がたくさんあったので、いまはやめるつもりはないと返事した。そうしたら、奥さんと話をして、社長で来てくれないかと打診があった。奥さんは東大理Ⅲの才女で、某海外有名ブランドの化粧品の開発部長をしていた。せっかくの申し出ではあるけれど、相談には乗れるがダメだと電話で断った。その2か月ぐらい後で、あいつは会社を4~5人の社員へ営業譲渡して整理した。
健康増進プログラムを事業化したあいつは、客先が増えると、経営コンサルタント仕事を相談されるようになった。そちらの方がずっと市場が大きいのだ。最初のテストケースの仕事を、「わたしにはできないが、ebisuさんならできるはず」と振ってきたので引き受けたのである。数回やって見せたら、頭がよければやれるかもしれない。わたしは産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事(後にセキテクノトロンと社名変更)でさまざまな仕事の傍ら、経営改革のための経営分析を6年間やっていた。当時はこの分野では日本で最先端のスキルをもっていた。
経営コンサル仕事を受けて、その後の3年間の決算書類を提出してもらい、伸びた経常利益の3割を成功報酬として手数料にもらえば面白いビジネスだった。生産性を上げて数億円利益が増えたら、業績をモニターしているだけで、会社は安定して十分なお金を稼げる。支払う方も楽だ。高収益企業に変われば、経常利益の3割の支払いは借金しないで可能になる。そんなビジネスモデルを考えたが、簡単すぎてつまらない。遊びも仕事も一緒、リスクを伴うものでなければ楽しめない。
でも楽して過ごすのもありだったかも。経営改革をコンサルしたら、次のターゲットは株式上場だ。4回経験があるので、面白い事業ではある。成功報酬で上場前の株式を割り当ててもらえば、成功報酬だから、コンサルを依頼する側の負担はナシだ。株式上場を手伝うのは通常は証券会社だが、彼らは手続きができるだけで、その前処理、上場要件を満たす高収益企業、高成長企業へと普通の会社を変貌させるスキルはない。いわば株式上場の前処理段階の作業である。10人くらいの規模で数年で売上高を5億円確保できたら、社員一人当たり2000万円程度の給料は支払える。ユニークな企業が誕生したかもしれない。
事情は変わらないから、いまからだってそういう企業が生まれても自然だろう。やりたい若い人がいたら、ノウハウ全部伝授してあげる。この分野の事業に情熱をもった人でないといけません。(笑)
断って1か月ぐらいのこと、1993年の3月頃だったかな。電話があり、あいつの声がかすれていたので、何だか嫌な予感がした。「熱はないか?」と訊いたら、「このところ微熱がある」と返事。「大きな病院で検査してもらえ、癌の疑いがある、進行性の癌だったら若いから、そんなにもたない」と告げてしまった。あいつは横浜済生会病院で検査を受けて、胸部に癌が発見された。末期だった、声がかすれていたのは腫瘍が肺と気管支を圧迫していたからだった。
私はそのころ、金沢の臨床検査センターの決算分析と買収交渉と買収後の立て直し、並行して東北の臨床検査センターとの資本提携話を取りまとめ、東北の会社の方を選んで経営企画室担当取締役で出向が決まったところだった。入院治療を勧められたが、助からないから自宅療養したほうがいいとのわたしのススメ通りに、医師を説得して済生会病院では初めての末期癌患者の自宅療養、通院による治療が始まった。
夏になってあいつから暑中見舞いが来た。「余命3か月」と書いてあった。慌てて、横浜のあいつの高層マンションを訪れ、見舞った。抗癌剤と放射線治療で髪が抜け、夏なのにエアコンで頭が涼しいと毛糸の帽子をかぶっていた。将棋を所望され、3番指した。奥さんが帰宅するまで帰らないでくれと頼まれ、時々疲れて、15分くらい横になりに寝室へいっては、しばらくするとまた戻ってきて、昔話と将棋をせがむ。7時過ぎに奥さんが帰宅して、挨拶をして別れた。
そんなふうで、2度横浜を訪れた。1993年9月に2年前に手術した大腸癌が全身転移してオヤジが亡くなり、49日の法要の前日だったかな、奥さんから電話があり、加藤の死を知った。「もうダメそうだと朝言って、肩につかまりタクシーで病院へ、そのまま入院、モルヒネを打ってもらっい3日後に眠るように亡くなった」とのこと。オヤジの法要を済ませて、すぐに横浜を訪れ、線香をあげた。いいやつだったな。
起業して、一緒にやらないかと言われたのは、加藤が2人目だった。関商事のときも、有力な取引先が日本法人を作るというので、遠藤さんに打診があり、彼はわたしを誘った。売上の3割近くを失い、優秀な社員が引き抜かれたら、関商事が傾く、受けられない相談だったから、この時も断った。
加藤は2歳年下、兎年生まれ43歳だった。
ケイジが起業したシステム会社を整理してから亡くなったと聞いて、ずいぶん昔になるが営業権を4~5人の社員へ譲渡して亡くなった加藤のことを思い出した。違いは、営業譲渡したときに、加藤はまだ自分が癌に罹患していることすら知らなかったということ。たまたま、3度わたしが経営に参画するのを断ったので、会社の整理をしたことにある。まるで寿命を知って事前にやったかのように見える、偶然というのは怖いものだ。
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#5129 高校同期会で有楽町へ Dec. 14, 2023 [90.根高 こもごも]
昨日12/13、同期会が有楽町であるので出かけた。昨年11月下旬に極東の町から東京へ戻ってきてからは、半径3㎞以内で暮らしていたので、都心へは出かけたことがなかった。だから、不安だった。
新宿までの長いこと、永遠につかないかと思ったがそんな私の心情を特急電車がくみとってくれるはずもなし、ようやく電車は新宿駅へ到着。滅多に来ることがないので地下街を5分ほど偵察、21年前とはまるで様子が変わっていた。SRLへ転職した理由の一つが、西口駅前の「超高層ビル」のNSビル22階に本社があったからだった。せっかく東京で仕事するのだから、一度は超高層ビルで仕事したかった。1984年2月、念願がかなったわけだ。本社勤務は2年間だけだった。そのあと1~3年でさまざまな部署(購買課⇒学術開発本部⇒関係概査管理部⇒東北の関係会社へ出向⇒本社経理部管理会計課・社長室・購買部兼務⇒SRL東京ラボ出向⇒帝人との合弁会社出向)を異動して歩いた。普通の会社からは考えられない、会社都合で「支離滅裂な異動」が続いた、半分くらいは自分のせいでもあるのだが…。
そんな感慨に浸りながら、どういう経路で行けばいいのか考えるのも面倒なので、山手線で渋谷・品川回り(内回り)で行くことに決めた。電車は込み合っていた。有楽町で降りたら、駅構内がまるっきり違っていた。中央口から京橋口までなが~い通路ができている。中央西口から出たら、ここはどこ?って感じで、パニックに陥る。
18歳で東京に出てきたときにも感じたことがなかった街との違和感、違和感というよりももう異次元の世界だ。2002年の春まで2年間銀座五丁目スズラン通りのとある会社の本社ビルで上場準備の仕事をしていたのが嘘のような「お上りさん」状態なのだ。
会場のこじゃれた居酒屋までどうやっていったらよいのか茫然自失、面倒なので「0101」の新しいビルの前からヒロコへ電話を入れた。
「駅前の丸井のビルの正面玄関にいるんだけど、迎えに来てくれない?」
「え!20日だよ」
(笑)聞き違えたのだろう、有楽町界隈、銀座をぶらぶらする気力なしで、戻ってきた。有楽町駅から日比谷への通りが、電飾できれいだったのが思い出された。
帰路、スマホをチェックすると知らない固定電話から何度も着信があったが無視していた。原則出ないことにしている。夜8時過ぎにまたかかってきたので電話に出たら、
「トシ、久しぶり」
タケシから電話だった。仕事場から用事があって電話を何度もかけたが出ないと叱られた。(笑)
タケシも同級生で数年前に古里で、劇画家となってから五十周年記念展を開いた。
タケシの要件は調べて明日返事するからと伝えて電話を切ると、今度はヒロコからだった。
ケンキチの方から日時と場所の案内をメールで送るように手配したという。
1967年だったかな、ケンキチが学生運動で反対セクトに捕まったという情報が流れて、喫茶店に缶詰めになっているので、様子を見に行ってくれと頼まれたことがあった。セクトには関係したくなかったが、友達の一人だから、しかたなくいったらすでにいなかった。後で無事に戻ってきたようだ。あの場にいたらちょっとやばいことになっただろう。助け出すのを黙って見ているはずがないからだ。素手で1~2人戦闘不能にすれば、ひるんでスキが出るだろうと修羅場を覚悟して「偵察」にいった。角材を拳で受けても骨折しないくらい小学生の時に鍛えてあった。ただ殴れば場所によっては危険すぎるので場所を選ばなくてはいけないが、動くからちゃんを思ったところに拳を叩き込めるか心配だった。二十歳前に殺人犯にはなりたくなかった。
ケンキチはカナメと同じ郡部出身だったから、カナメを通じて知った。カナメは優秀な奴で、短大卒業した年に税理士試験に合格して、それ以来有楽町で税理士事務所を構えている。若いのに一等地で勝負しようとは見上げた根性だ。1年生の時に同じF組だった。今回の同期会の会場設定はカナメの仕事だ。
丸刈り坊主頭の校則改正をやった後で、生徒会の先輩の副会長FさんとHさんの二人に「俺たちが応援演説やるから会長に立候補しろ」と「指示」があった。ノーは言えないので生徒会顧問へその旨申し出たら、校長からストップ。生徒会会計なのでダメだという。何をやりだすかわからない危険人物視されてました。警察の公安からも目をつけられていました。
昔の生徒会会計は生徒会の帳簿をつけて決算業務をしていました。だから先輩の生徒会会計から後輩へ指名制で決められていました。各部への予算の割り振りも生徒会会計が個別に各部の部長と副部長を生徒会室に呼んで、順に査定を申し渡しました。だから、権限は絶大、簡単には変えられないのです。でも、両方だってやれるし、後輩のH田に任せてバックアップすればいいだけ。生徒会顧問が困った顔をしたので、裏の事情を察して先輩二人に話して立候補は取りやめたのです。その代わりに優秀な友人がいるので副会長に立候補させるから、応援演説をしてもらえるか訊いたら、OKでした。それでカナメを説得した。ヒロコは中央執行委員、同級生のカズコも中央執行委員に立候補した。そして中学校の時に一人で褌を占めて鉄炮をしていたオサムが会長に立候補した。当時は私立高校が1校あり、その生徒会とも交流をもったし、部活も女子バレー部で親善試合を組んだ。やりたいことはいつだってやれるものだ。やれないいいわけなんかしてないでどんどん始めたらいい。古いことを壊したり、新しいことを始めると危険視されるのはいつの時代でもあることです。
一緒に歩いてくれた、いい仲間たちだった。
一度「予行演習」したので、今度は不安な気持ちなんてない、迷わず会場へ足が運べるだろう。ケンキチから今日か明日にもメールが入る、楽しみだ。
今年は同級生が二人亡くなった。一緒に東京へ出てきたヒロシとムサシだ。ヒロシは根室商業以来続いた総番制度の最後の総番長だった。ムサシは副番長3人のうちの一人だった。一番早く死にそうになったわたしが生き残り、元気だった二人がそれぞれ病気と闘って逝ってしまった。東京へ出てきたころ、ヒロシのところへ行って何度か朝まで飲んだ。
タケシの用件は先ほど電話で済ませた。
70歳を過ぎると、癌を患う人が増える。2006年にステージ3.5?だったわたしもいつ逝っても不思議ではない。速度のわからない列車に乗っているうえに、終着駅がどのあたりかもわからぬ、ただ、車窓から旅を楽しむのみ。
一休さんのこの短歌に痺れる...
門松や 冥土の旅の 一里塚
雨降らば降れ 風吹かば吹け
20日の同期会で会うのが今生の別れとなる人もいるかもしれない、楽しく飲みたい。
他人ごとと思ってお気楽に書いてはいるが、自分事かもしれません(笑)
<余談:スマホの道案内機能>
その後使っているihoneで道案内機能を試してみた。ihoneオリジナルのアプリよりもGoogleMapsの方が使い勝手がよいことが分かった。これは「お上りさん状態」のわたしには便利がいい。来週はこの機能を使って会場まで行ってみたい。楽しみが一つ増えました。
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新宿までの長いこと、永遠につかないかと思ったがそんな私の心情を特急電車がくみとってくれるはずもなし、ようやく電車は新宿駅へ到着。滅多に来ることがないので地下街を5分ほど偵察、21年前とはまるで様子が変わっていた。SRLへ転職した理由の一つが、西口駅前の「超高層ビル」のNSビル22階に本社があったからだった。せっかく東京で仕事するのだから、一度は超高層ビルで仕事したかった。1984年2月、念願がかなったわけだ。本社勤務は2年間だけだった。そのあと1~3年でさまざまな部署(購買課⇒学術開発本部⇒関係概査管理部⇒東北の関係会社へ出向⇒本社経理部管理会計課・社長室・購買部兼務⇒SRL東京ラボ出向⇒帝人との合弁会社出向)を異動して歩いた。普通の会社からは考えられない、会社都合で「支離滅裂な異動」が続いた、半分くらいは自分のせいでもあるのだが…。
そんな感慨に浸りながら、どういう経路で行けばいいのか考えるのも面倒なので、山手線で渋谷・品川回り(内回り)で行くことに決めた。電車は込み合っていた。有楽町で降りたら、駅構内がまるっきり違っていた。中央口から京橋口までなが~い通路ができている。中央西口から出たら、ここはどこ?って感じで、パニックに陥る。
18歳で東京に出てきたときにも感じたことがなかった街との違和感、違和感というよりももう異次元の世界だ。2002年の春まで2年間銀座五丁目スズラン通りのとある会社の本社ビルで上場準備の仕事をしていたのが嘘のような「お上りさん」状態なのだ。
会場のこじゃれた居酒屋までどうやっていったらよいのか茫然自失、面倒なので「0101」の新しいビルの前からヒロコへ電話を入れた。
「駅前の丸井のビルの正面玄関にいるんだけど、迎えに来てくれない?」
「え!20日だよ」
(笑)聞き違えたのだろう、有楽町界隈、銀座をぶらぶらする気力なしで、戻ってきた。有楽町駅から日比谷への通りが、電飾できれいだったのが思い出された。
帰路、スマホをチェックすると知らない固定電話から何度も着信があったが無視していた。原則出ないことにしている。夜8時過ぎにまたかかってきたので電話に出たら、
「トシ、久しぶり」
タケシから電話だった。仕事場から用事があって電話を何度もかけたが出ないと叱られた。(笑)
タケシも同級生で数年前に古里で、劇画家となってから五十周年記念展を開いた。
タケシの要件は調べて明日返事するからと伝えて電話を切ると、今度はヒロコからだった。
ケンキチの方から日時と場所の案内をメールで送るように手配したという。
1967年だったかな、ケンキチが学生運動で反対セクトに捕まったという情報が流れて、喫茶店に缶詰めになっているので、様子を見に行ってくれと頼まれたことがあった。セクトには関係したくなかったが、友達の一人だから、しかたなくいったらすでにいなかった。後で無事に戻ってきたようだ。あの場にいたらちょっとやばいことになっただろう。助け出すのを黙って見ているはずがないからだ。素手で1~2人戦闘不能にすれば、ひるんでスキが出るだろうと修羅場を覚悟して「偵察」にいった。角材を拳で受けても骨折しないくらい小学生の時に鍛えてあった。ただ殴れば場所によっては危険すぎるので場所を選ばなくてはいけないが、動くからちゃんを思ったところに拳を叩き込めるか心配だった。二十歳前に殺人犯にはなりたくなかった。
ケンキチはカナメと同じ郡部出身だったから、カナメを通じて知った。カナメは優秀な奴で、短大卒業した年に税理士試験に合格して、それ以来有楽町で税理士事務所を構えている。若いのに一等地で勝負しようとは見上げた根性だ。1年生の時に同じF組だった。今回の同期会の会場設定はカナメの仕事だ。
丸刈り坊主頭の校則改正をやった後で、生徒会の先輩の副会長FさんとHさんの二人に「俺たちが応援演説やるから会長に立候補しろ」と「指示」があった。ノーは言えないので生徒会顧問へその旨申し出たら、校長からストップ。生徒会会計なのでダメだという。何をやりだすかわからない危険人物視されてました。警察の公安からも目をつけられていました。
昔の生徒会会計は生徒会の帳簿をつけて決算業務をしていました。だから先輩の生徒会会計から後輩へ指名制で決められていました。各部への予算の割り振りも生徒会会計が個別に各部の部長と副部長を生徒会室に呼んで、順に査定を申し渡しました。だから、権限は絶大、簡単には変えられないのです。でも、両方だってやれるし、後輩のH田に任せてバックアップすればいいだけ。生徒会顧問が困った顔をしたので、裏の事情を察して先輩二人に話して立候補は取りやめたのです。その代わりに優秀な友人がいるので副会長に立候補させるから、応援演説をしてもらえるか訊いたら、OKでした。それでカナメを説得した。ヒロコは中央執行委員、同級生のカズコも中央執行委員に立候補した。そして中学校の時に一人で褌を占めて鉄炮をしていたオサムが会長に立候補した。当時は私立高校が1校あり、その生徒会とも交流をもったし、部活も女子バレー部で親善試合を組んだ。やりたいことはいつだってやれるものだ。やれないいいわけなんかしてないでどんどん始めたらいい。古いことを壊したり、新しいことを始めると危険視されるのはいつの時代でもあることです。
一緒に歩いてくれた、いい仲間たちだった。
一度「予行演習」したので、今度は不安な気持ちなんてない、迷わず会場へ足が運べるだろう。ケンキチから今日か明日にもメールが入る、楽しみだ。
今年は同級生が二人亡くなった。一緒に東京へ出てきたヒロシとムサシだ。ヒロシは根室商業以来続いた総番制度の最後の総番長だった。ムサシは副番長3人のうちの一人だった。一番早く死にそうになったわたしが生き残り、元気だった二人がそれぞれ病気と闘って逝ってしまった。東京へ出てきたころ、ヒロシのところへ行って何度か朝まで飲んだ。
タケシの用件は先ほど電話で済ませた。
70歳を過ぎると、癌を患う人が増える。2006年にステージ3.5?だったわたしもいつ逝っても不思議ではない。速度のわからない列車に乗っているうえに、終着駅がどのあたりかもわからぬ、ただ、車窓から旅を楽しむのみ。
一休さんのこの短歌に痺れる...
門松や 冥土の旅の 一里塚
雨降らば降れ 風吹かば吹け
20日の同期会で会うのが今生の別れとなる人もいるかもしれない、楽しく飲みたい。
他人ごとと思ってお気楽に書いてはいるが、自分事かもしれません(笑)
<余談:スマホの道案内機能>
その後使っているihoneで道案内機能を試してみた。ihoneオリジナルのアプリよりもGoogleMapsの方が使い勝手がよいことが分かった。これは「お上りさん状態」のわたしには便利がいい。来週はこの機能を使って会場まで行ってみたい。楽しみが一つ増えました。
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#5123 高校同期会のお誘い Dec. 4, 2023 [90.根高 こもごも]
12時半ころ珍しくスマホが鳴った。
ヒロコから来週同期会があるので来ないかとお誘いだった。
歯科治療の予約があるので、行けないと返事したが、思い直した。
治療ではなく、毎月のチェックだから、予約を1週間繰り延べてもらうことにした。
場所は有楽町、時間は4時からだ。午前中は体調が悪くて出かけられないが、4時なら大丈夫だ。
「このお店のチョイスはカナメか?」
「そうだよ」
高校卒業してから3年目に税理士試験に合格してそれ以来有楽町に事務所を構えているのがカナメだ。
同級生のヒロシが1月に、そしてムサシが11月に逝き、新聞部のケイジ、そして、東京の幹事だったオオモトも逝った。
だから、生きているうちに旧交を温めようということに急遽決まった由。
15人ほど集まるようだ。高校同期は350人、その内東京へ出てきたものは2割くらいだろうか。
二十数年ぶりに東京の高校同期会に復帰だ。懐かしい顔が見れる。タケシもカツエも来る。横浜のカズコは来ないのだろうか?
銀座2丁目に本社のある会社で2年弱上場準備の仕事したことがあった。中央通りと裏通り、懐かしい街並みである。
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ヒロコから来週同期会があるので来ないかとお誘いだった。
歯科治療の予約があるので、行けないと返事したが、思い直した。
治療ではなく、毎月のチェックだから、予約を1週間繰り延べてもらうことにした。
場所は有楽町、時間は4時からだ。午前中は体調が悪くて出かけられないが、4時なら大丈夫だ。
「このお店のチョイスはカナメか?」
「そうだよ」
高校卒業してから3年目に税理士試験に合格してそれ以来有楽町に事務所を構えているのがカナメだ。
同級生のヒロシが1月に、そしてムサシが11月に逝き、新聞部のケイジ、そして、東京の幹事だったオオモトも逝った。
だから、生きているうちに旧交を温めようということに急遽決まった由。
15人ほど集まるようだ。高校同期は350人、その内東京へ出てきたものは2割くらいだろうか。
二十数年ぶりに東京の高校同期会に復帰だ。懐かしい顔が見れる。タケシもカツエも来る。横浜のカズコは来ないのだろうか?
銀座2丁目に本社のある会社で2年弱上場準備の仕事したことがあった。中央通りと裏通り、懐かしい街並みである。
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#4745 送別会:3月末で退職した友人が根室を離れる April 24, 2022 [90.根高 こもごも]
根室高校の同級生の一人が3月末で退職した、2月生まれだから73歳である。来月帯広へ引っ越す予定なので、昨日、イーストハーバーホテルで送別会があった。ヨッコが手配してくれた。
オットさんは高校卒業後ヒシサンに数年勤務してから職を辞したときに、たまたま同級生と緑町で出遭って碓氷さんで人を募集している話を聞いた。そのまますんなり碓氷さん(「北の勝」の碓氷勝三郎商店)で仕事することになった。それ以来50年とちょっと地元の老舗の造り酒屋で坦々と仕事をし、めでたく退職した。
もう6年ほども前になるだろうか、かかとに異常を感じていたが、長男の嫁さんが看護師さんで、かかとを診て、大きな病院で検査したほうがいいと言われ、釧路の病院で検査したらメラノーマの診断。
そのあとで、電話してきた。
「トシ、おれもトシの仲間になった」
「何の仲間だ?」
「癌仲間だ」
ならないほうがいい、ありがたくない「仲間」が一人増えた。メラノーマは質(タチ)が悪い癌の一つである。かかとを削る手術をした。そのあとにかかとの再建手術ももちろんした。しばらくして定期検査のときに鼠径部(ソケイブ)のリンパ節に癌が飛んでいることがわかった。インターフェロン製剤での治療が手術の後に始まった。当時インターフェロン製剤を使った癌治療は道内では北大病院のみ、副作用が小さいので他の制癌剤に比べてダメージが小さい。3か月に一度入院して投薬治療を繰り返していた。
しばらくして肺に飛んでいることが分かった。1㎜のものが3か月検診ごとに少しずつ大きくなった。4㎜になったところで内視鏡手術で摘出した。肺癌特効薬のオプジーボがちょうど保険収載されて300万円弱で治療できる道が拓かれた。自己負担は3割、負担には上限があるから、さらに実際に支払う金額は小さくなる。日本の保険制度はありがたい。
ついていた。保険収載されるまでは年額2000-3000万円も治療費のかかる高額の治験薬だったから、庶民には高根の花、ほんとうについていたと言える。
これから、こういう病気にかかった人たちの参考になれば幸いである。
ついでだから、「癌仲間」のわたしの場合は16年前の2006年6月にスキルス胃癌と巨大胃癌の併発。7月20日ころ胃と胆嚢の摘出、胃の周りのリンパ節と癌が浸潤していた大腸も一部切除した。胃癌の特効薬TS-1を1年半ほど、何クール飲んだか覚えていない。副作用が激しかった。白血球数が限界まで下がった逆隔離の状況になり、主治医の岡田優二先生に相談して再発の危険を覚悟で3回ほど服薬を中止した。理由は簡単、あのときは生きてあるかぎりは授業をしたかった。入院したまま体力が弱り授業ができなくなるのが怖かったのだろう。何とかしのいで、手術してから16年だ。現代医療のお陰でオットさんもわたしも命をつないだ。
助けてくれる主治医や外科医やそしてよく効く治療薬がなければ、生きていなかっただろう。医療に感謝。
こうして「北の勝」の番頭さんは3月末で仕事を終えた。癌を患ってからは体力が落ちたので、勤務時間に配慮してくれた碓氷商店の当主にとっても感謝していた。根室の企業で同じような配慮をしてくれる経営者はまれだろう。企業経営者が従業員をどのように扱うかは、そこで働いているみんなが見ている。だから人を大切に使う企業には人材が集まる。
根室にいい企業が増えてもらいたい。企業経営者の心がけひとつで、働く人は気持ちよく働ける。その企業で働く人たちがみんな気持ちよく働いてくれたら、百年の風雪に耐えて栄えることができる。北の勝は1887年の創業だから、今年創業135周年である。もちろん根室で最古の老舗企業である。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」
企業を経営しているといろんな人がいるので、用心も必要だ。人を信用して何度も騙されて勉強してしだいに人材の見分けがつくようになる。従業員にやさしいだけで人材を見極める眼が肥えてこなければ経営が危うくなることもある。有能な経営者は人を使いながら日々人の使い方を学んでいる。一定の利益を出し続けながら、内部留保を厚くして、従業員の幸せを考える経営者のいる企業は長く栄える。
根室にそういう企業が増えてほしい。若い人たちの優良な雇用先が増えるということだから、それが一番の人口減対策になる。
<余談:今後>
五月半ばにあいつは根室を離れ帯広へ引っ越す。小学生の時に帯広から北斗小学校に転校してきたから、「戻る」ことになったのかもしれない。高校2年から同じクラスだった。大切な友人の一人、長い付き合いだ。
これからは年賀状でお互いの生存を確認することになるのだろう。
ついでに書いておくが、彼は20代前半で転職する前にお金をしっかり貯めていた。半年ぐらい職が見つからなくても大丈夫なように用意はしておこう。じっくり求職活動できれば、優良な転職先を選べる。わたしは何度も転職を繰り返したが、オットさんと同様にお金はしっかり蓄えていた。
転職にはタイミングと運もあるが、周到な準備がある者に運命の女神が微笑む場合が多い。損得を度外視して転職すると、天が配慮してくれるのか案外うまくいったりする。
首都圏での転職なら、専門的なスキルは複数、それも他企業でも通用するほど、できれば一流の域まで高めておきたい。世の中は何の準備もしないものに「転職の女神」が微笑んでくれるほど甘くはない。
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オットさんは高校卒業後ヒシサンに数年勤務してから職を辞したときに、たまたま同級生と緑町で出遭って碓氷さんで人を募集している話を聞いた。そのまますんなり碓氷さん(「北の勝」の碓氷勝三郎商店)で仕事することになった。それ以来50年とちょっと地元の老舗の造り酒屋で坦々と仕事をし、めでたく退職した。
もう6年ほども前になるだろうか、かかとに異常を感じていたが、長男の嫁さんが看護師さんで、かかとを診て、大きな病院で検査したほうがいいと言われ、釧路の病院で検査したらメラノーマの診断。
そのあとで、電話してきた。
「トシ、おれもトシの仲間になった」
「何の仲間だ?」
「癌仲間だ」
ならないほうがいい、ありがたくない「仲間」が一人増えた。メラノーマは質(タチ)が悪い癌の一つである。かかとを削る手術をした。そのあとにかかとの再建手術ももちろんした。しばらくして定期検査のときに鼠径部(ソケイブ)のリンパ節に癌が飛んでいることがわかった。インターフェロン製剤での治療が手術の後に始まった。当時インターフェロン製剤を使った癌治療は道内では北大病院のみ、副作用が小さいので他の制癌剤に比べてダメージが小さい。3か月に一度入院して投薬治療を繰り返していた。
しばらくして肺に飛んでいることが分かった。1㎜のものが3か月検診ごとに少しずつ大きくなった。4㎜になったところで内視鏡手術で摘出した。肺癌特効薬のオプジーボがちょうど保険収載されて300万円弱で治療できる道が拓かれた。自己負担は3割、負担には上限があるから、さらに実際に支払う金額は小さくなる。日本の保険制度はありがたい。
ついていた。保険収載されるまでは年額2000-3000万円も治療費のかかる高額の治験薬だったから、庶民には高根の花、ほんとうについていたと言える。
これから、こういう病気にかかった人たちの参考になれば幸いである。
ついでだから、「癌仲間」のわたしの場合は16年前の2006年6月にスキルス胃癌と巨大胃癌の併発。7月20日ころ胃と胆嚢の摘出、胃の周りのリンパ節と癌が浸潤していた大腸も一部切除した。胃癌の特効薬TS-1を1年半ほど、何クール飲んだか覚えていない。副作用が激しかった。白血球数が限界まで下がった逆隔離の状況になり、主治医の岡田優二先生に相談して再発の危険を覚悟で3回ほど服薬を中止した。理由は簡単、あのときは生きてあるかぎりは授業をしたかった。入院したまま体力が弱り授業ができなくなるのが怖かったのだろう。何とかしのいで、手術してから16年だ。現代医療のお陰でオットさんもわたしも命をつないだ。
助けてくれる主治医や外科医やそしてよく効く治療薬がなければ、生きていなかっただろう。医療に感謝。
こうして「北の勝」の番頭さんは3月末で仕事を終えた。癌を患ってからは体力が落ちたので、勤務時間に配慮してくれた碓氷商店の当主にとっても感謝していた。根室の企業で同じような配慮をしてくれる経営者はまれだろう。企業経営者が従業員をどのように扱うかは、そこで働いているみんなが見ている。だから人を大切に使う企業には人材が集まる。
根室にいい企業が増えてもらいたい。企業経営者の心がけひとつで、働く人は気持ちよく働ける。その企業で働く人たちがみんな気持ちよく働いてくれたら、百年の風雪に耐えて栄えることができる。北の勝は1887年の創業だから、今年創業135周年である。もちろん根室で最古の老舗企業である。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」
企業を経営しているといろんな人がいるので、用心も必要だ。人を信用して何度も騙されて勉強してしだいに人材の見分けがつくようになる。従業員にやさしいだけで人材を見極める眼が肥えてこなければ経営が危うくなることもある。有能な経営者は人を使いながら日々人の使い方を学んでいる。一定の利益を出し続けながら、内部留保を厚くして、従業員の幸せを考える経営者のいる企業は長く栄える。
根室にそういう企業が増えてほしい。若い人たちの優良な雇用先が増えるということだから、それが一番の人口減対策になる。
<余談:今後>
五月半ばにあいつは根室を離れ帯広へ引っ越す。小学生の時に帯広から北斗小学校に転校してきたから、「戻る」ことになったのかもしれない。高校2年から同じクラスだった。大切な友人の一人、長い付き合いだ。
これからは年賀状でお互いの生存を確認することになるのだろう。
ついでに書いておくが、彼は20代前半で転職する前にお金をしっかり貯めていた。半年ぐらい職が見つからなくても大丈夫なように用意はしておこう。じっくり求職活動できれば、優良な転職先を選べる。わたしは何度も転職を繰り返したが、オットさんと同様にお金はしっかり蓄えていた。
転職にはタイミングと運もあるが、周到な準備がある者に運命の女神が微笑む場合が多い。損得を度外視して転職すると、天が配慮してくれるのか案外うまくいったりする。
首都圏での転職なら、専門的なスキルは複数、それも他企業でも通用するほど、できれば一流の域まで高めておきたい。世の中は何の準備もしないものに「転職の女神」が微笑んでくれるほど甘くはない。
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#4688 雪のち雨、そして冷たい北風:自然の造形 Jan. 3, 2022 [90.根高 こもごも]
昨日は最低気温が-9.8度、最高気温が2.1度でした。その差11.9度、真夜中にプラスに変るのはほんとうに珍しい。南風が吹いていましたから、雪が雨に変りました。そして今朝、路面は凍結していました。
①ザラメをまいたような路面です
スコップで表面を削ってみました。なにやら日本庭園の枯山水の庭に子どがいたずら書きをしたような感じになりました。こんな路面は数年に一度ですから、遊ばない手はありません。
②陽があたっているのに車道も凍ったまま
カメラを構えているわたしの影が写り込んでいます。カラスが写真を撮っているように見えます。(笑)
③今朝の日本最東端の駅
いつもとどこが違うんだって? 同じです(笑)
④プラットホームの床板
雪が降った後に雨が叩いて、そこへ北西の冷たい風が吹いて、そのまま模様を固定してくれました。雪と雨と風の共同制作です。
ここを歩くと、ギシギシ音が出ました。気持ちの良い音です。
⑤朝陽を浴びてに光り輝くプラットホームの床面
こんな表情も見せてくれます。
⑥プラットホームにこの標識が建てられてあります
東経の数字が一部消えたていますが、145度35分50秒です。
⑦雪に雨という彫刻家が歩道に刻んだ模様を、冷たい北西風が固定してくれました
朝の光の中で輝いていました。
⑧ここを歩いてみたくなりませんか?
雪と雨と風が路面に刻んだ作品ご覧いただきありがとうございます。
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①ザラメをまいたような路面です
スコップで表面を削ってみました。なにやら日本庭園の枯山水の庭に子どがいたずら書きをしたような感じになりました。こんな路面は数年に一度ですから、遊ばない手はありません。
②陽があたっているのに車道も凍ったまま
カメラを構えているわたしの影が写り込んでいます。カラスが写真を撮っているように見えます。(笑)
③今朝の日本最東端の駅
いつもとどこが違うんだって? 同じです(笑)
④プラットホームの床板
雪が降った後に雨が叩いて、そこへ北西の冷たい風が吹いて、そのまま模様を固定してくれました。雪と雨と風の共同制作です。
ここを歩くと、ギシギシ音が出ました。気持ちの良い音です。
⑤朝陽を浴びてに光り輝くプラットホームの床面
こんな表情も見せてくれます。
⑥プラットホームにこの標識が建てられてあります
東経の数字が一部消えたていますが、145度35分50秒です。
⑦雪に雨という彫刻家が歩道に刻んだ模様を、冷たい北西風が固定してくれました
朝の光の中で輝いていました。
⑧ここを歩いてみたくなりませんか?
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#4538 明治公園へお花見 May 9, 2021 [90.根高 こもごも]
今日も天気が好い。
正午の気温10.9度、南南東の風5.9m/s、湿度70%
マウンテンバイクで明治公園の桜を見に行く。家の庭の桜は5輪開花したので、開花宣言です。
①背丈くらいしかない桜
周りの桜はまだつぼみなのに、これだけ早く咲いている。
人間だっておませな早熟なものと子どもっぽいのがいる。
②紫つつじ
満開です。
③池へ下りる道の左にある桜です
この桜が一番です。FBで場所を教えてもらいました。
ベトナムの若い娘さんたちが、ポーズをとって何枚も撮影して楽しんでました。
④池へ流れてくる湿原の小川に水芭蕉が咲いてました
こういうところって昔は小魚がいっぱいいました。チカ用の釣り針で、30分ほどで10匹ほど釣れました。場所はここではなくて光洋中学校の裏手の湿地です。昼休みに一度湿地まで下りて行って釣ったことがあります。
⑤池には水鳥がたくさん遊んでいました
「ああ、そこ、密になってますよ!」「おや、マスクもつけてませんね。」、なんて言っているのは小池の主、おや草叢(くさむら)に狸さんもいます。(笑)
⑥雨が降ったら雨宿り
ここのベンチに座って読書なんて言うのも素敵です。決して密にはなりませんよ。
⑦池から見上げた啓雲中学校です
ズーム機能使用。間もなく花咲小学校が移転してくるようです。
⑦ズーム機能を解除しました
啓雲中学校が小さく写っています。
⑧ライトアップの準備がしてありました。
サイロの下の方にライトが設置してあります。プラスチックの袋がかぶせられてます。
⑨庭の桜も開花宣言
五輪咲きました。
⑩庭の桜-2
⑪光洋中テニスコート前の桜
もうすぐ開きそうです。密集してますね、こういうのをクラスターというのですね。いえ、感染しません。(笑)
⑫紫つつじ
庭の紫つつじは貧栄養かな?でも、姿かたちはまあまあでしょ。なんとなく品がある。
⑬マウンテンバイク
これに乗って、明治公園へ行ってきました。MTBは少々の段差もなんのその。やろうと思えば草地の横断もできます。前輪にサスペンションがついていてタイヤの幅は5.5㎝あり、乗り心地はフワッフワでとってもいい。ロードバイクは空気圧が9Barでタイヤが細いので、路面のがたつきがそのままサドルとハンドルに伝わってきます。ひび割れた路面を走ると、凄い振動がもろに掌とサドルに伝わってきます。
このMTBはブリジストン製。
⑭ミヤタ製ロードバイク
昭和の終わりころにオヤジが購入したもの。フレームはカーボンファイバー、当時としては高価な自転車だったようだ。オヤジはドロップハンドルのロードバイクをもう一台もっていた。姪っ子が乗っていたが、自転車は消えた。一輪車もロードバイクも地元の阿部自転車店に注文し購入していた。若いころに釧路の自転車レースで暴れまわっていた元気な若者だったそうだ。向かいに店のあった酒井さんがオヤジが亡くなってから焼香に訪れて昔話を聞かせてくれた。釧路で床屋の修行を終えて根室へ戻ってきたら、オヤジが目の前に店を出していたと。
60歳を過ぎてから釧路根室間の自転車競技に出たことがある。トップの選手と団子になってゴール。そのころ、根室の子どもたちに一輪車を教えていた。高校の先生たちの協力で、必要な体育協会の指導員の資格も取得していた。オヤジの形見、大切に乗っている。ギアのシフトレバーはフレームについている。ペットボトルの少し上にレバーが見える。とっても古いタイプ、クラッシックカーだ。
おしまい。お楽しみいただけましたでしょうか。
日本で一番遅咲きの東北海道(釧路と根室)の桜。
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正午の気温10.9度、南南東の風5.9m/s、湿度70%
マウンテンバイクで明治公園の桜を見に行く。家の庭の桜は5輪開花したので、開花宣言です。
①背丈くらいしかない桜
周りの桜はまだつぼみなのに、これだけ早く咲いている。
人間だっておませな早熟なものと子どもっぽいのがいる。
②紫つつじ
満開です。
③池へ下りる道の左にある桜です
この桜が一番です。FBで場所を教えてもらいました。
ベトナムの若い娘さんたちが、ポーズをとって何枚も撮影して楽しんでました。
④池へ流れてくる湿原の小川に水芭蕉が咲いてました
こういうところって昔は小魚がいっぱいいました。チカ用の釣り針で、30分ほどで10匹ほど釣れました。場所はここではなくて光洋中学校の裏手の湿地です。昼休みに一度湿地まで下りて行って釣ったことがあります。
⑤池には水鳥がたくさん遊んでいました
「ああ、そこ、密になってますよ!」「おや、マスクもつけてませんね。」、なんて言っているのは小池の主、おや草叢(くさむら)に狸さんもいます。(笑)
⑥雨が降ったら雨宿り
ここのベンチに座って読書なんて言うのも素敵です。決して密にはなりませんよ。
⑦池から見上げた啓雲中学校です
ズーム機能使用。間もなく花咲小学校が移転してくるようです。
⑦ズーム機能を解除しました
啓雲中学校が小さく写っています。
⑧ライトアップの準備がしてありました。
サイロの下の方にライトが設置してあります。プラスチックの袋がかぶせられてます。
⑨庭の桜も開花宣言
五輪咲きました。
⑩庭の桜-2
⑪光洋中テニスコート前の桜
もうすぐ開きそうです。密集してますね、こういうのをクラスターというのですね。いえ、感染しません。(笑)
⑫紫つつじ
庭の紫つつじは貧栄養かな?でも、姿かたちはまあまあでしょ。なんとなく品がある。
⑬マウンテンバイク
これに乗って、明治公園へ行ってきました。MTBは少々の段差もなんのその。やろうと思えば草地の横断もできます。前輪にサスペンションがついていてタイヤの幅は5.5㎝あり、乗り心地はフワッフワでとってもいい。ロードバイクは空気圧が9Barでタイヤが細いので、路面のがたつきがそのままサドルとハンドルに伝わってきます。ひび割れた路面を走ると、凄い振動がもろに掌とサドルに伝わってきます。
このMTBはブリジストン製。
⑭ミヤタ製ロードバイク
昭和の終わりころにオヤジが購入したもの。フレームはカーボンファイバー、当時としては高価な自転車だったようだ。オヤジはドロップハンドルのロードバイクをもう一台もっていた。姪っ子が乗っていたが、自転車は消えた。一輪車もロードバイクも地元の阿部自転車店に注文し購入していた。若いころに釧路の自転車レースで暴れまわっていた元気な若者だったそうだ。向かいに店のあった酒井さんがオヤジが亡くなってから焼香に訪れて昔話を聞かせてくれた。釧路で床屋の修行を終えて根室へ戻ってきたら、オヤジが目の前に店を出していたと。
60歳を過ぎてから釧路根室間の自転車競技に出たことがある。トップの選手と団子になってゴール。そのころ、根室の子どもたちに一輪車を教えていた。高校の先生たちの協力で、必要な体育協会の指導員の資格も取得していた。オヤジの形見、大切に乗っている。ギアのシフトレバーはフレームについている。ペットボトルの少し上にレバーが見える。とっても古いタイプ、クラッシックカーだ。
おしまい。お楽しみいただけましたでしょうか。
日本で一番遅咲きの東北海道(釧路と根室)の桜。
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#4494 大雪のため道立高校入試4日へ延期 Mar. 2, 2021 [90.根高 こもごも]
高校入試が4日へ延期になった。
*北海道立高校入試 - Bing News
昨夜来の雪と雨、景色がいい。
降り積もる/雪の重みに/耐えかねて
枝垂れる松に/春まちどうし
北風に/凍り付きたる/枝の雨
これって透明なガラスなんですが、はじめてこんな風になりました。雪とミゾレと雨がつくった奇跡です。
*北海道立高校入試 - Bing News
昨夜来の雪と雨、景色がいい。
降り積もる/雪の重みに/耐えかねて
枝垂れる松に/春まちどうし
北風に/凍り付きたる/枝の雨
これって透明なガラスなんですが、はじめてこんな風になりました。雪とミゾレと雨がつくった奇跡です。
#4493 新型コロナ第一世代卒業式:根室高校 Mar. 1, 2021 [90.根高 こもごも]
3/1、新型コロナ第一世代である根室高校生が卒業です。いま9:52ですが、卒業式の最中でしょうね。
3年生だけの卒業式、在校生は出席せず、保護者の出席もなし。校長が坦々と一人ずつ卒業証書を渡します。歌もありません。根室高校開設以来の異例な卒業式になりました。
生徒たちは入試で全国飛び回ってますから、しっかりマスクしての卒業式でしょ。卒業式のあとにみんなでカラオケにもいけない。楽しみにしてただろうに...卒業生の一人は、式が終わった途端に卒業証書をもったまま根室自動車学校へ直行、教習所内で運転の練習。でも、数日後には少人数でパーティをやるようです。人生の節目ですから、すこしはなにかを記念にやっておきたいのでしょう。幸いに根室は新型コロナは蔓延してません。
想い起せば昨年春に学校は2か月休み、学校祭は中止、異例ずくめの1年間でした。
卒業を迎えた3年生は、高校入学半年後の2018年9月6日、地震で3日間の全道ブラックアウト(大停電)も経験しましたね。3日目には冷凍庫の中の食品が溶け出しました。あんなことは一生に一度だけ、2度目は要らない、願い下げです。
卒業を迎えた3年生は、高校入学半年後の2018年9月6日、地震で3日間の全道ブラックアウト(大停電)も経験しましたね。3日目には冷凍庫の中の食品が溶け出しました。あんなことは一生に一度だけ、2度目は要らない、願い下げです。
20年たったらそれもこれも懐かしく思い出すでしょう。
ところで、高2の生徒たちの修学旅行は結局どうなったのかな?
当初の京都・大阪案がなくなり、四国めぐりの案が検討されたが、新型コロナが関西圏にも広がり、中止。2月になってから行先が旭川へ変更になったら、希望者が3割に激減、その後の消息を聞いてません。消滅かな?3割しか行かないのでは、愉しさは1/10でょ。2年生も苦労してます。
昨日花火の点火スイッチを押す係を引き受けたのは2年生、ご苦労様でした。
#4450 根室市内で新型コロナ感染者1名 Jan.5, 2021 [90.根高 こもごも]
<更新情報>1/6朝9時 <余談>追記、写真アップ
今朝(1/5)の北海道新聞釧路根室地域版によれば、根室市消防本部の50代賛成職員が新型コロナに感染したと根室市役所から発表があったとのこと。濃厚接触者18名がPCR検査中。
根室市内で新型コロナ感染者は1年間でまだ数名しか出ていない。いずれ、入ってくるのはしかたがない、新型感染症とはそういうものだから。
根室は火事が年に数回あるかなしかだ、60年前に比べて激減した。昔は石炭ストーブだった、いまそんなものを使っている家はないだろう。薪ストーブは贅沢品だ。暖房器具の安全性が飛躍的に高くなったことに加えて、建物の防火性能もよくなったからだろう。
昨日だったかな、大型消防車両が家の付近を巡回しているのを見た。バス通りは除雪が速やかになされるので心配ないが、裏通りの小路は大型車両が通れるかどうか、巡回確認の必要があるからだ。不用意に角に除雪した雪を積むと大型消防車両が曲がり切れないこともある。ああ、わが家も角にあるが、ブルが角に押し寄せた雪は大型車両が曲がる際の障害になるので、全部ママダンプで向かい側のテニスコート前の空き地に運んだから、運転手が新米でも曲がれるよ。ないだろうけど、万が一の時の用心がしてあるのとないのでは大違いだ。
巡回して、実際に裏通りの角を曲がって確認するのが一番確かだ。ご苦労さん。
それと消火栓の確認も。消火栓は道路の外側にあるので、雪に埋もれている場合が多い。雪が多く降ると別の部隊が来てその都度確認、除雪をしている。だから、火事があっても心配いらない。根室の消防署はちゃんと仕事しているのである。
無線システムも最新型にすでに更新済み。消防車両も手入れがいいのか新しいのかピカピカである。
火事の出動に比べて救急活動の方がずっと多い。そちらもちゃんと手配されているのだろう。
冬場だから空気も夏に比べて乾燥しているから、火の用心はしておきたい。
<余談:角の除雪の必要>
奥が東根室駅です。消防車両は右側から来て右折します。
円で囲った部分に左側からブルが除雪してきた雪が押し付けられ積み上げります。1mほど道路にはみ出し狭くしてしまうので、大型車両が入るには、その山を取り除いておく必要があります。目測を誤ったのか、夏に観光バスが後輪を歩道に乗り上げて曲がっていくのを何度か見ています。ここに雪山があれば後輪が乗り上げてスタックします。
今朝(1/5)の北海道新聞釧路根室地域版によれば、根室市消防本部の50代賛成職員が新型コロナに感染したと根室市役所から発表があったとのこと。濃厚接触者18名がPCR検査中。
根室市内で新型コロナ感染者は1年間でまだ数名しか出ていない。いずれ、入ってくるのはしかたがない、新型感染症とはそういうものだから。
根室は火事が年に数回あるかなしかだ、60年前に比べて激減した。昔は石炭ストーブだった、いまそんなものを使っている家はないだろう。薪ストーブは贅沢品だ。暖房器具の安全性が飛躍的に高くなったことに加えて、建物の防火性能もよくなったからだろう。
昨日だったかな、大型消防車両が家の付近を巡回しているのを見た。バス通りは除雪が速やかになされるので心配ないが、裏通りの小路は大型車両が通れるかどうか、巡回確認の必要があるからだ。不用意に角に除雪した雪を積むと大型消防車両が曲がり切れないこともある。ああ、わが家も角にあるが、ブルが角に押し寄せた雪は大型車両が曲がる際の障害になるので、全部ママダンプで向かい側のテニスコート前の空き地に運んだから、運転手が新米でも曲がれるよ。ないだろうけど、万が一の時の用心がしてあるのとないのでは大違いだ。
巡回して、実際に裏通りの角を曲がって確認するのが一番確かだ。ご苦労さん。
それと消火栓の確認も。消火栓は道路の外側にあるので、雪に埋もれている場合が多い。雪が多く降ると別の部隊が来てその都度確認、除雪をしている。だから、火事があっても心配いらない。根室の消防署はちゃんと仕事しているのである。
無線システムも最新型にすでに更新済み。消防車両も手入れがいいのか新しいのかピカピカである。
火事の出動に比べて救急活動の方がずっと多い。そちらもちゃんと手配されているのだろう。
冬場だから空気も夏に比べて乾燥しているから、火の用心はしておきたい。
<余談:角の除雪の必要>
奥が東根室駅です。消防車両は右側から来て右折します。
円で囲った部分に左側からブルが除雪してきた雪が押し付けられ積み上げります。1mほど道路にはみ出し狭くしてしまうので、大型車両が入るには、その山を取り除いておく必要があります。目測を誤ったのか、夏に観光バスが後輪を歩道に乗り上げて曲がっていくのを何度か見ています。ここに雪山があれば後輪が乗り上げてスタックします。
#4343 Take a chance on you「神田たけ志」50周年劇画展:9/17~22 Aug. 19, 2020 [90.根高 こもごも]
今朝8/19の朝刊に折り込み広告が入った。根室市教委主催で「根室市みらいのアーティスト応援事業」としてタケシの劇画展が催されるようだ。
独立してから50年か早いものだ。
●9/17~22日
●根室市総合文化会館多目的ホール
わたしたちは、根室中学が光洋と柏陵に分かれた最初の1年生である。当時の商業科の入試倍率は2倍を超えていたから、勉強のできる者がいた。学年平均点以下だと入学できなかった。学年平均以上の生徒でも入試当日の出来が悪いと落ちていた。1年生の時に同じFクラスのH(沖ネップ、歯舞中学校出身)は短大を卒業した年に税理士試験に合格している。大学でも3年次で税理士試験に合格するのはトップクラスの生徒のみ、だからHは優秀だった。20代から東京有楽町で事務所を開いてずっとやっている。Hは高校では生徒会副会長。同じクラスのカズコは中央執行委員。もう一人の中央執行委員は普通科のヒロコ、それぞれ仲が良かった。しっかりまとまっていた。
わたしは光洋中学校、タケシとヒロシは柏陵中学校出身だった。高1ではクラスが違っていたから接点がなかった。ちょっとトッポイ方だった。わたしは裸足が気持ちがいいので、足駄(高下駄、高さ10㎝)を履いて通学したからすぐに先輩たちに目をつけられた、生意気盛りだった。三人に呼び出し喰らって殴られた。これが「洗礼」。一度あったら2度目はない。いくら先輩でも2度目は黙っちゃいない、正当防衛が成立する、あいかわらず足駄で通学した。小学校の低学年のときから素手で焚き付け割りと四寸角の廃材を長柄の鉞で叩き折っていたから、空手の有段者よりも拳は硬かった。焚き付けの材料にはしなる生木も混じっており、それすら叩き折っていたので、手が力を入れるタイミングを知っていた。だから生木すら叩き折るような叩き方しかできない。顔を殴れば奥歯を折るだけではすまない、顔面骨折、額に当たれば頭がい骨陥没は免れない。高校を卒業した年に、ヒロシとカツミ(副番三人の一人)と新宿歌舞伎町のゲームセンターでパンチボールを叩いたことがあった。踏み込まずに腰のひねりだけで叩いたが180㎏を超えていた。同じウェイトのプロのボクサーでも強打者の部類だろう。それに加えて拳が硬い、当たる部分は拳の二か所で、両方合わせても2cm^2程度しかない。そこへ180㎏、踏み込むと250㎏くらいの力が加わる。人を殴るときには正当防衛が成立しても、殺す覚悟がなくてはできなかった。幸いに人生を暗転させてもかまわないシーンには遭遇しなかった。高1のときに危ないことはあった。数学のテストの採点で、採点ミスなのに言い訳して認めようとしないので、切れるところだった。教壇のところでO先生に採点ミスの指摘をしていた、うだうだ見苦しい言い訳に「なに!」っと大きな声が出てしまった。わたしはこの先生が嫌いだった。まともな授業をせずに将棋自慢の雑談をよくして授業時間を潰していたからだ。自分の指した将棋は全部記憶しているなんて自慢話ばかりしていた。そういう伏線があった。大きな声を一言発したとたんに、O先生はとっさにメガネを外した、殴られると思ったのだろう。教室は一瞬シーンとなった。クラスメートのだれもがわたしが教師を殴ると思った。一呼吸でスーッと冷静になれた。くるっと踵を返して席に戻った。仲のよかったヤスベ―が「あのとき殴ると思った、よくがまんしたな」あとで、そういった。一呼吸したとたんに、こんなクズ教師と刺し違えるほど自分の人生は安くはないと冷静になれた。手が出てたら加減ができないから、惨劇、高校退学は免れなかった。我流でヨガの呼吸法と同じトレーニングをしていたから、息を吐くことで感情をコントロールする術が自然に身についていた。このときはまだタケシには出遭っていない。
高2になってタケシやヒロシと同じクラスになった。二年G組。総番グループも生徒会もこの2年G組を中心に動いた。ヒロシは総番になり、生徒会は実質的にわたしの掌中にあった。だから、坊主頭という校則の改正もわたしの発案でやれた。3年の生徒会副会長のお二人が、「おんちゃ、言い出しっぺのおまえがやれ」、先輩の指示だから、否やはない。保護者へアンケートを取って生徒集会を開き、予定通り校則改正をした。長髪で修学旅行へ行ったのである。坊主頭で東京・京都・大阪・奈良へは行けません。なんてことはない、誰かがやる、そういう変わり目だっただけのこと。(笑)
学校側は鬼と金棒を同じGクラスにまとめてしまった。この二人の息があってしまった。まったく違うようでいてヒロシとわたしはどこか似たところがあった。
G組には個性的な奴らが揃っていた、揃うはずで、学校側が他の2クラスの生徒から隔離するために「アブナイ生徒たち」を集めた。計算外だったのは集められた危ない奴らはポテンシャルが高かったこと。学校としては火薬庫を大きくしたようなもの、管理を間違えたら大爆発だが、精神的には大人だったから自分たちで管理できた。それでも担任の冨岡先生には何度か迷惑をかけた。カチンときて間接的に何度か校長とぶつかることもあった。冨岡先生は古株だったから何とかしたのだろう。根室商業出身の野沢先生も古株の一人、当然バックアップがあっただろう。若い先生たちにも数人味方がいた。何か問題行動を起こしても、あいつらがやるんだから何か理由のあることとお目こぼしもあった。(笑)
わたしは1年生の時はF組だった。2年になってG組へ異動、担任の冨岡先生が「ebisuなにした?クラス1番はそのクラスに残すことになっていたが、お前は出された」、そう言った。「先生、引き取ってくれてありがとう」と笑って挨拶した。国語と古典の先生だった1年のときの担任のN先生とは相性が悪かっただけ。古典のテストクラストップでも評価は50だった。現代国語はN先生の解釈を答案に一度も書かなかった。自分の感じたとおりに書いた。60歳に手が届こうとしているロートルの感性と十代の生徒の感性が同じはずがないだろう、文学作品の解釈が違ってあたりまえ。頑固だった。以心伝心、こちらも願い下げだった。国語の先生は2年になって函館出身で空手家のS谷先生に変わった。この先生とはウマがあったね、でも、空手の稽古はつけてもらわなかった。(笑)
新しく担任になった冨岡先生は珠算部の顧問だった、珠算部員でもないのに全道競技会のとき2日間だけ珠算部員として大会に出ていたので顔見知りだった。高橋珠算塾の高橋尚美先生に頼まれて汐見町の方の教室の運営を任されていたので、両方の間で調整をつけて商工会議所主催の市民珠算大会開催にこぎつけた。巷の噂では、冨岡先生と高橋先生は仲が悪く、根室高校珠算部の卒業生に珠算塾を開かせて、潰してやるなんて物騒な話が流れていた。だから、間を取り持って調整する者が必要だった。そんなときにわたしが2年G組、冨岡先生のクラスの一員になったのである。二人の間をつなげと天の声がした、お鉢が自然に回ってきたとしか言いようがない。じつにスムーズに市民珠算大会開催となった。わたしの役割は車軸(根室高校冨岡先生)と車輪(高橋尚美先生と板野国男先生)の摩擦をなくするベアリングのようなもの。商業科の生徒にしかできない役割だった。第一回目の大会は根室高校柔道・剣道場が会場となった。旧友のH田と一緒に入部して柔道部に3か月ほど在籍して、この道場でコロコロ転がされていたことがある。畳を全部片づけて会場にした。高橋先生が原稿を書いて、わたしに選手宣誓をやれという。根室高校珠算部長でもよかったはずだが、調整役をしたご褒美だったのだろう。暗算部門のみ出場、優勝している。あとは主催者側に回って仕事の手伝い、読み上げ算を交代でやった。根室高校の先生には10ケタの読み上げ算を高速で読み上げられる人がいなかった。競技会で一つも間違えずに読むのはなかなかたいへんなのです。トレーニングを積んだ人でなければできません。根室では高橋先生と板野さん、そして高校生だったわたしだけ。ご褒美だったのだろうと思いますが、帯広で全珠連の全道の集まりがありました。高橋先生はそこへ連れて行ってくれました。車で出かけ、十勝川温泉に泊まって翌日が集会でした。泊った温泉は混浴、巨乳の若い女性がすぐ横に入ってきました。鼻血でそうだったな。
巷の噂の真偽のほどは知らない、両先生にそんなことをお聞きしたこともない。冨岡良夫先生と高橋尚美先生は何のわだかまりもなくそれ以降毎年市民珠算大会で顔を合わせていたはず。根室高校抜きでは市民珠算大会の開催が不可能でした。もう一つの珠算塾の板野先生と高橋尚美先生が市民珠算大会開催の相談をしていました。珠算塾だけではやれないのです。根室高校は元々根室商業ですから、そこのお墨付き、協力がどうしても必要でした。地域の学校と珠算塾が共同で動けば、大きな成果が出せるということ。そのことはいまも変わらぬ真理です。医学部受験生を育てるには、私塾だけでは大きな成果が出せない、根室高校の先生数名の協力が必要でした。化学と物理の指導は私塾ではできない。数か月前から連携がじつにうまくいっている。うれしいことです。
話を高校時代に戻すと、当時は全珠連の段位認定試験は権威がなかった。日商珠算能力検定1級保持者は一人だけだったから、珠算部の幽霊部員にされていた。計算実務検定の応用計算がわたしの競技種目だった。1級の応用計算問題10題を半分の時間5分で解く。先輩が全道大会の一週間くらい前になると誘ってくれた。生徒会会計のN先輩である。当時の生徒会会計は権限が大きかった。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、単独で生徒会の予算配分折衝、帳簿記帳、そして決算業務は会計の仕事、財務大臣のようなもの。珠算と簿記に堪能でなければ務まらない、選挙ではなくて指名制だったので生徒会では一番古株。そのN先輩から「ebisu、来週全道大会だ、行くぞ」って、後輩だから否やはない、返事は元気よく「ハイ!」だけ。そんな経緯から、冨岡先生はよく知っていた。わたしたちが卒業して数年後に、冨岡先生は親の介護のために50代で教員をやめて、東京大田区へ引っ越された。60代で癌を患い、何度か転移を繰り返したが、その都度手術をして東京の同期の同窓会に顔を出してくれた。数年前に亡くなられた。授業は下手くそだったけど、問題児だらけのクラスをよく受け持ってくれた、生徒思いのとってもいい先生だった。一杯問題起こしました、校長先生との間に挟まってたいへんだっただろう。でも冨岡先生は根室商業出身の野沢先生と並ぶ古株、新任の校長は滅多に口をはさめなかっただろう。卑怯なことやズルイことだけはしなかった。
2年でクラス替えになったら、タケシがいたのだが、何をやらかしたのか、聞いてみたことはない。総番のヒロシ(野球部)、大橋巨泉の深夜番組に何度か出演した女傑の富山かつえ(美術部長)、羅臼の大きな漁師の坊ちゃんのヤスベ―、共産党のマサミ。明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任されたので、ラグビー部を立ち上げるのに協力してくれたキヨシら数人。かつえは渋谷駅前にビルを一つ持っているそうだ。高校1年で中退したヒロシのポン友のタカギは銀座にバーを2軒もった。大学行こうって誘ってくれたのは総番のヒロシ。どこでウマが合ったのか、わからぬもの、感謝している。ヒロシの周りには不思議と面白い男たちが集まってくる、人望だろうな。ヒロシは水産会社の取締役だったが、もうやめたかな。
「北の勝」碓氷商店の番頭格のオトヤ、夫婦で元銀行員だった西浜ストアのコウジ、数年前に地元水産会社の経理担当役員で退職したニャンコ、散布漁協の専務理事だったケンジ(庭球部)…、多士済々。
3年になって友人二人に誘われて夏休みにアルバイトをした、土方である。柏陵中の土俵はその時に作り直した。だから今でも土俵はちゃんと作れるだろう。花咲港の灯台下の階段手すりも作った、天然記念物、円形柱状節理の「車石」への通路だ。50㎏のセメント袋を右肩に載せて急傾斜のところを何度も降りた。タケシもその夏にバイトしていた。理由があった。東京へ行くための旅費稼ぎだった。
夏休みが終わって8月下旬のある夜に、タケシが家へ来た。あらたまって正座して、「トシ、話がある」という。『ゴルゴ13』の作者である「斉藤タカオのところへ弟子入りしようと思う、一番弟子になりたい、学校辞めて東京へ行くことを考えている」、そんな話だった。「あと半年で卒業だ、3月に行ったらいい」、まったくアホな返事をした。
「3月になってからだと、一番弟子になれないかもしれない、俺は一番弟子になりたい」、思わず笑った。「なんだ決めているじゃないか、相談じゃなくって報告だ」、大笑い。決意は固い、好く決断したと、その思いっきりのよさに吃驚、見直したよ。若い人は冒険してもらいたい。
Take a chance on you.(チャンスにかけてみたら) ⇒アンジェラ・アキ
…高1英語教科書VIVID-1 Lesson 6のタイトル。
タケシは字が上手だった。学校祭の新聞コンクールでガリ版原稿はタケシに頼んだ。クラスの中でだれがどの分野に得意技をもっているか承知していた。あいつは字がきれいだった。レイアウトを担当した友人から記事が足りない、余白があるので埋める記事が必要と言われて、仕方ないので埋め草を提供した。わたしの書いた記事のできは悪かった、中身よりも体裁、2位だった。タケシのお陰だ。わたしにもっとましな記事が書けたら優勝だっただろう。
タケシよりも絵の巧いのがいた。中学時代の同級生のケンジだ。高2のときは隣のクラスだった。中学時代から北海道の展覧会に出すたびに賞をもらっていた。わたしも絵が好きだったが、ケンジの絵と比べたら才能の違いは歴然としていた。勝負にならない、それで絵はあきらめた。ケンジと中学3年間同級生だったのが運の尽き、あいつは俺の絵心にとどめを刺した。大好きだった大工仕事もどうやら才能がなさそう、ビリヤードの店番手伝いながら、中2のときにしかたなく勉強の方へ走った。少年マガジンと少年サンデーは中1のときに発刊されたと思うが、週刊漫画誌として初めてだった。それを教えてくれたのはケンジである。ケンジも漫画家への道を進んでほしかった。ケンジは慎重派だった。タケシの決断と度胸の良さは群を抜いていた。
東京へ行ってから気が付くと、ケンジは隣の駅に住んでいた。漫画の本を買って読むと、東武練馬駅で降りてあいつのところへ寄って置いてきた。通学路の途中だから、定期券で乗り降りできた。ケンジは一時期タケシを手伝っていた。絵の腕はいいから重宝しただろう。
神田は数年斉藤タカオ・プロダクションのスタッフとして作画して、3年くらいで独立し、京王線の国領に引っ越して住んだ。独立してからすぐに連絡があり、「税金の申告の仕方がわからない、トシ頼む」といわれては断れぬ。そのころはまだ大学生だった。領収書を月別に保管しておくように言って、2月にあいつのアパートへ行って、とってあった領収書から帳簿をつけて、決算し、税務申告書を書いて提出した。やってやるから、昼飯を食わせろという条件で3日くらい通ったはず。調布税務署だったかな。2年目も頼まれてやった。3年目は『御用牙』を描いていて売れっ子の仲間入り、収入も大きくなっていたから税理士に頼んでやってもらえというと、タケシはその通りにした。
タケシは当時景気がよくて、何度か誘ってくれてあいつの行きつけの新宿のバーでおごってもらった。その都度数軒のバーをハシゴ。なつかしい。
50年か、早いものだ。「50周年劇画展」おめでとう。
観に行くよ。
<余談:丸刈り坊主頭の校則改正と総番制度の廃止>
丸刈り&詰襟の制服と総番制度は根室商業時代から引き継がれてきた伝統であった。ヤクザとのもめごとがあったときに根室高校を代表するのは総番長ただ一人、だから5年先輩まではそういうときのために総番長に仁義の切り方と口上が伝わっていた。
「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうござんす。手前生国発します処、根室にござんす...」
任侠映画そのままだった。わたしは親戚の5年先輩の野球部のキャプテンが目の前で実演してくれたのを見ている。口上を間違えたら、殺されても文句は言えないと言っていた。それがヤクザのルールだと。総番長の責任は重かったのである。半端な覚悟ではやれない、いざというとき、ヤクザとのもめごとに学校を代表して出向かなければならなかったのだから。小さく折りたたんだ紙に仁義の口上が書いてあった。もらったような気もするが、机の中にしまったまま紛失してしまった。お祭りのときに目付の鋭い高校生が十数人、五年先輩よりも一歩下がって歩いていた。あれは年に一度の儀式だったのだろう。総番長は高下駄を履いて、後ろの十数人は靴や下駄だった。
ヒロシに確認したが、口上は伝わってなかった。五年先輩の総番長が卒業した後も口上書を小さく折りたたんで大事に持っていたから、伝えなかったのかもしれぬ。もうヤクザと高校生がもめごとを起こすようなバンカラな学校でもそういう時代でもなくなっていた。
中学校3年の冬休みまで一度も坊主頭にしたことがなかった。中3の冬休みに根室高校受験のために坊主頭にした。1年の終わりころに校則を変えたら、坊主頭で修学旅行に行かなくて済むことに気が付き、校則改正の条項を調べて、手続き、具体的な校則改正戦略を練った。先輩の副会長二人に話したら、「お前がやれ」ということになり、会長のSさんも了解していた。先生たちが弱いのは保護者、だから保護者への校則改正のアンケート調査票をデザインした。2年になったばかりのときのこと、4月にスタートして、10月下旬が修学旅行だったので、7月の夏休み前までにアンケートの集計と生徒会集会を開けば、間に合うことが分かった。あとは分担を決めて坦々と仕事を進めた。予定通りに夏休み前の校則改正し、髪を伸ばして10月下旬に修学旅行へ行った。当時は11泊12日だったと思う。京都・大阪・奈良・伊豆の下田・東京だった。
その年の秋に生徒会役員選挙だったと思う。ある日、副会長のH谷さんとF堂さんがわたしに「次の生徒会会長はお前がやれ、応援演説は俺たち二人でやる」と言い渡された。先輩に言われたらノーの返事はない、「ハイわかりました」と言って、生徒会顧問へ立候補の旨伝えたら、数日後に生徒会会計だから駄目だという。生徒会会計は指名する後輩を決めてあったし、会長をやっていてもいざというときには両方見ることはなんでもないこと。そう伝えたら、校長が難色を示しているらしかった。Gクラスから生徒会長がでたら、何をやるかわからない、現に生徒会会計が校則改正を実現していたから、警戒された。
(あの当時は高校生にも政治活動をしそうなものには公安のマークがついていた。誘われて矢臼別のキャンプに行った後にあることが起きて気が付いた。集合写真を1枚だけ撮ったのだが、フィルムを現像に回したら、その一枚だけネガがなくなっていた。フィルムには番号がついているので途中を抜けば確認できる、油断も隙もありゃしない。無邪気だった。その写真屋さんはとっくにないから迷惑はかからない。だから書ける。(笑) ああいうキャンプに参加したら、集合写真は撮ってはいけないということを学んだ。)
顧問の先生が間に入って気の毒だったので、先輩二人に事情を説明して降りた。会長でなくても生徒会は動かせるし生徒会会計でやれてきたのだから。もったいないので、だれか代わりがいないかと考えたら、1年生の時の友人のH(税理士)が思い浮かんだ。歯舞中学出身でネームバリューがないから会長職は無理、副会長への立候補を頼んでみた。先輩二人の副会長の応援演説をつけてやるからと説得したら、引き受けてくれた。先輩二人もOKだった。そういう経緯でHは副会長になった。会長にはなりそこなったが、同じクラスの中央執行委員のカズコと前から中央執行委員だった普通科のヒロコが旧知の仲だったので、生徒会を動かすのに何の支障もなかった。
もう一つ、根室商業時代から続いた総番制度もヒロシとA野と三人で相談して総番制度を廃止することに決めた。実際にやったのはヒロシである。内部で相当もめただろう。ヒロシは愚痴一つこぼさないで実行した、男だね。
団塊世代のわたしたちはそういう時代の変わり目に立っていた。ヒロシはヒロシの役割を果たし、わたしはわたしの役割を果たした。ヒロシは同期の桜、戦友だ。高校を卒業して東京へ一緒に行った。千歳からスカイメイトを利用、飛行機だった。「トシ、一緒に行こう」とあいつが誘ってくれたから、東京の大学へ進学できた。もちろん、一生懸命に働いて仕送りをしてくれた両親のお陰でもある。
漫画の材料になりそうな高校時代を過ごした。神田たけ志とはそういう激動の時代に出遭った、あいつもGクラスのメンバーの一人である。神田たけ志はペンネーム、わたしが高校時代に出遭ったのは神田猛のほうである。(笑)
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独立してから50年か早いものだ。
●9/17~22日
●根室市総合文化会館多目的ホール
わたしたちは、根室中学が光洋と柏陵に分かれた最初の1年生である。当時の商業科の入試倍率は2倍を超えていたから、勉強のできる者がいた。学年平均点以下だと入学できなかった。学年平均以上の生徒でも入試当日の出来が悪いと落ちていた。1年生の時に同じFクラスのH(沖ネップ、歯舞中学校出身)は短大を卒業した年に税理士試験に合格している。大学でも3年次で税理士試験に合格するのはトップクラスの生徒のみ、だからHは優秀だった。20代から東京有楽町で事務所を開いてずっとやっている。Hは高校では生徒会副会長。同じクラスのカズコは中央執行委員。もう一人の中央執行委員は普通科のヒロコ、それぞれ仲が良かった。しっかりまとまっていた。
わたしは光洋中学校、タケシとヒロシは柏陵中学校出身だった。高1ではクラスが違っていたから接点がなかった。ちょっとトッポイ方だった。わたしは裸足が気持ちがいいので、足駄(高下駄、高さ10㎝)を履いて通学したからすぐに先輩たちに目をつけられた、生意気盛りだった。三人に呼び出し喰らって殴られた。これが「洗礼」。一度あったら2度目はない。いくら先輩でも2度目は黙っちゃいない、正当防衛が成立する、あいかわらず足駄で通学した。小学校の低学年のときから素手で焚き付け割りと四寸角の廃材を長柄の鉞で叩き折っていたから、空手の有段者よりも拳は硬かった。焚き付けの材料にはしなる生木も混じっており、それすら叩き折っていたので、手が力を入れるタイミングを知っていた。だから生木すら叩き折るような叩き方しかできない。顔を殴れば奥歯を折るだけではすまない、顔面骨折、額に当たれば頭がい骨陥没は免れない。高校を卒業した年に、ヒロシとカツミ(副番三人の一人)と新宿歌舞伎町のゲームセンターでパンチボールを叩いたことがあった。踏み込まずに腰のひねりだけで叩いたが180㎏を超えていた。同じウェイトのプロのボクサーでも強打者の部類だろう。それに加えて拳が硬い、当たる部分は拳の二か所で、両方合わせても2cm^2程度しかない。そこへ180㎏、踏み込むと250㎏くらいの力が加わる。人を殴るときには正当防衛が成立しても、殺す覚悟がなくてはできなかった。幸いに人生を暗転させてもかまわないシーンには遭遇しなかった。高1のときに危ないことはあった。数学のテストの採点で、採点ミスなのに言い訳して認めようとしないので、切れるところだった。教壇のところでO先生に採点ミスの指摘をしていた、うだうだ見苦しい言い訳に「なに!」っと大きな声が出てしまった。わたしはこの先生が嫌いだった。まともな授業をせずに将棋自慢の雑談をよくして授業時間を潰していたからだ。自分の指した将棋は全部記憶しているなんて自慢話ばかりしていた。そういう伏線があった。大きな声を一言発したとたんに、O先生はとっさにメガネを外した、殴られると思ったのだろう。教室は一瞬シーンとなった。クラスメートのだれもがわたしが教師を殴ると思った。一呼吸でスーッと冷静になれた。くるっと踵を返して席に戻った。仲のよかったヤスベ―が「あのとき殴ると思った、よくがまんしたな」あとで、そういった。一呼吸したとたんに、こんなクズ教師と刺し違えるほど自分の人生は安くはないと冷静になれた。手が出てたら加減ができないから、惨劇、高校退学は免れなかった。我流でヨガの呼吸法と同じトレーニングをしていたから、息を吐くことで感情をコントロールする術が自然に身についていた。このときはまだタケシには出遭っていない。
高2になってタケシやヒロシと同じクラスになった。二年G組。総番グループも生徒会もこの2年G組を中心に動いた。ヒロシは総番になり、生徒会は実質的にわたしの掌中にあった。だから、坊主頭という校則の改正もわたしの発案でやれた。3年の生徒会副会長のお二人が、「おんちゃ、言い出しっぺのおまえがやれ」、先輩の指示だから、否やはない。保護者へアンケートを取って生徒集会を開き、予定通り校則改正をした。長髪で修学旅行へ行ったのである。坊主頭で東京・京都・大阪・奈良へは行けません。なんてことはない、誰かがやる、そういう変わり目だっただけのこと。(笑)
学校側は鬼と金棒を同じGクラスにまとめてしまった。この二人の息があってしまった。まったく違うようでいてヒロシとわたしはどこか似たところがあった。
G組には個性的な奴らが揃っていた、揃うはずで、学校側が他の2クラスの生徒から隔離するために「アブナイ生徒たち」を集めた。計算外だったのは集められた危ない奴らはポテンシャルが高かったこと。学校としては火薬庫を大きくしたようなもの、管理を間違えたら大爆発だが、精神的には大人だったから自分たちで管理できた。それでも担任の冨岡先生には何度か迷惑をかけた。カチンときて間接的に何度か校長とぶつかることもあった。冨岡先生は古株だったから何とかしたのだろう。根室商業出身の野沢先生も古株の一人、当然バックアップがあっただろう。若い先生たちにも数人味方がいた。何か問題行動を起こしても、あいつらがやるんだから何か理由のあることとお目こぼしもあった。(笑)
わたしは1年生の時はF組だった。2年になってG組へ異動、担任の冨岡先生が「ebisuなにした?クラス1番はそのクラスに残すことになっていたが、お前は出された」、そう言った。「先生、引き取ってくれてありがとう」と笑って挨拶した。国語と古典の先生だった1年のときの担任のN先生とは相性が悪かっただけ。古典のテストクラストップでも評価は50だった。現代国語はN先生の解釈を答案に一度も書かなかった。自分の感じたとおりに書いた。60歳に手が届こうとしているロートルの感性と十代の生徒の感性が同じはずがないだろう、文学作品の解釈が違ってあたりまえ。頑固だった。以心伝心、こちらも願い下げだった。国語の先生は2年になって函館出身で空手家のS谷先生に変わった。この先生とはウマがあったね、でも、空手の稽古はつけてもらわなかった。(笑)
新しく担任になった冨岡先生は珠算部の顧問だった、珠算部員でもないのに全道競技会のとき2日間だけ珠算部員として大会に出ていたので顔見知りだった。高橋珠算塾の高橋尚美先生に頼まれて汐見町の方の教室の運営を任されていたので、両方の間で調整をつけて商工会議所主催の市民珠算大会開催にこぎつけた。巷の噂では、冨岡先生と高橋先生は仲が悪く、根室高校珠算部の卒業生に珠算塾を開かせて、潰してやるなんて物騒な話が流れていた。だから、間を取り持って調整する者が必要だった。そんなときにわたしが2年G組、冨岡先生のクラスの一員になったのである。二人の間をつなげと天の声がした、お鉢が自然に回ってきたとしか言いようがない。じつにスムーズに市民珠算大会開催となった。わたしの役割は車軸(根室高校冨岡先生)と車輪(高橋尚美先生と板野国男先生)の摩擦をなくするベアリングのようなもの。商業科の生徒にしかできない役割だった。第一回目の大会は根室高校柔道・剣道場が会場となった。旧友のH田と一緒に入部して柔道部に3か月ほど在籍して、この道場でコロコロ転がされていたことがある。畳を全部片づけて会場にした。高橋先生が原稿を書いて、わたしに選手宣誓をやれという。根室高校珠算部長でもよかったはずだが、調整役をしたご褒美だったのだろう。暗算部門のみ出場、優勝している。あとは主催者側に回って仕事の手伝い、読み上げ算を交代でやった。根室高校の先生には10ケタの読み上げ算を高速で読み上げられる人がいなかった。競技会で一つも間違えずに読むのはなかなかたいへんなのです。トレーニングを積んだ人でなければできません。根室では高橋先生と板野さん、そして高校生だったわたしだけ。ご褒美だったのだろうと思いますが、帯広で全珠連の全道の集まりがありました。高橋先生はそこへ連れて行ってくれました。車で出かけ、十勝川温泉に泊まって翌日が集会でした。泊った温泉は混浴、巨乳の若い女性がすぐ横に入ってきました。鼻血でそうだったな。
巷の噂の真偽のほどは知らない、両先生にそんなことをお聞きしたこともない。冨岡良夫先生と高橋尚美先生は何のわだかまりもなくそれ以降毎年市民珠算大会で顔を合わせていたはず。根室高校抜きでは市民珠算大会の開催が不可能でした。もう一つの珠算塾の板野先生と高橋尚美先生が市民珠算大会開催の相談をしていました。珠算塾だけではやれないのです。根室高校は元々根室商業ですから、そこのお墨付き、協力がどうしても必要でした。地域の学校と珠算塾が共同で動けば、大きな成果が出せるということ。そのことはいまも変わらぬ真理です。医学部受験生を育てるには、私塾だけでは大きな成果が出せない、根室高校の先生数名の協力が必要でした。化学と物理の指導は私塾ではできない。数か月前から連携がじつにうまくいっている。うれしいことです。
話を高校時代に戻すと、当時は全珠連の段位認定試験は権威がなかった。日商珠算能力検定1級保持者は一人だけだったから、珠算部の幽霊部員にされていた。計算実務検定の応用計算がわたしの競技種目だった。1級の応用計算問題10題を半分の時間5分で解く。先輩が全道大会の一週間くらい前になると誘ってくれた。生徒会会計のN先輩である。当時の生徒会会計は権限が大きかった。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、単独で生徒会の予算配分折衝、帳簿記帳、そして決算業務は会計の仕事、財務大臣のようなもの。珠算と簿記に堪能でなければ務まらない、選挙ではなくて指名制だったので生徒会では一番古株。そのN先輩から「ebisu、来週全道大会だ、行くぞ」って、後輩だから否やはない、返事は元気よく「ハイ!」だけ。そんな経緯から、冨岡先生はよく知っていた。わたしたちが卒業して数年後に、冨岡先生は親の介護のために50代で教員をやめて、東京大田区へ引っ越された。60代で癌を患い、何度か転移を繰り返したが、その都度手術をして東京の同期の同窓会に顔を出してくれた。数年前に亡くなられた。授業は下手くそだったけど、問題児だらけのクラスをよく受け持ってくれた、生徒思いのとってもいい先生だった。一杯問題起こしました、校長先生との間に挟まってたいへんだっただろう。でも冨岡先生は根室商業出身の野沢先生と並ぶ古株、新任の校長は滅多に口をはさめなかっただろう。卑怯なことやズルイことだけはしなかった。
2年でクラス替えになったら、タケシがいたのだが、何をやらかしたのか、聞いてみたことはない。総番のヒロシ(野球部)、大橋巨泉の深夜番組に何度か出演した女傑の富山かつえ(美術部長)、羅臼の大きな漁師の坊ちゃんのヤスベ―、共産党のマサミ。明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任されたので、ラグビー部を立ち上げるのに協力してくれたキヨシら数人。かつえは渋谷駅前にビルを一つ持っているそうだ。高校1年で中退したヒロシのポン友のタカギは銀座にバーを2軒もった。大学行こうって誘ってくれたのは総番のヒロシ。どこでウマが合ったのか、わからぬもの、感謝している。ヒロシの周りには不思議と面白い男たちが集まってくる、人望だろうな。ヒロシは水産会社の取締役だったが、もうやめたかな。
「北の勝」碓氷商店の番頭格のオトヤ、夫婦で元銀行員だった西浜ストアのコウジ、数年前に地元水産会社の経理担当役員で退職したニャンコ、散布漁協の専務理事だったケンジ(庭球部)…、多士済々。
3年になって友人二人に誘われて夏休みにアルバイトをした、土方である。柏陵中の土俵はその時に作り直した。だから今でも土俵はちゃんと作れるだろう。花咲港の灯台下の階段手すりも作った、天然記念物、円形柱状節理の「車石」への通路だ。50㎏のセメント袋を右肩に載せて急傾斜のところを何度も降りた。タケシもその夏にバイトしていた。理由があった。東京へ行くための旅費稼ぎだった。
夏休みが終わって8月下旬のある夜に、タケシが家へ来た。あらたまって正座して、「トシ、話がある」という。『ゴルゴ13』の作者である「斉藤タカオのところへ弟子入りしようと思う、一番弟子になりたい、学校辞めて東京へ行くことを考えている」、そんな話だった。「あと半年で卒業だ、3月に行ったらいい」、まったくアホな返事をした。
「3月になってからだと、一番弟子になれないかもしれない、俺は一番弟子になりたい」、思わず笑った。「なんだ決めているじゃないか、相談じゃなくって報告だ」、大笑い。決意は固い、好く決断したと、その思いっきりのよさに吃驚、見直したよ。若い人は冒険してもらいたい。
Take a chance on you.(チャンスにかけてみたら) ⇒アンジェラ・アキ
…高1英語教科書VIVID-1 Lesson 6のタイトル。
タケシは字が上手だった。学校祭の新聞コンクールでガリ版原稿はタケシに頼んだ。クラスの中でだれがどの分野に得意技をもっているか承知していた。あいつは字がきれいだった。レイアウトを担当した友人から記事が足りない、余白があるので埋める記事が必要と言われて、仕方ないので埋め草を提供した。わたしの書いた記事のできは悪かった、中身よりも体裁、2位だった。タケシのお陰だ。わたしにもっとましな記事が書けたら優勝だっただろう。
タケシよりも絵の巧いのがいた。中学時代の同級生のケンジだ。高2のときは隣のクラスだった。中学時代から北海道の展覧会に出すたびに賞をもらっていた。わたしも絵が好きだったが、ケンジの絵と比べたら才能の違いは歴然としていた。勝負にならない、それで絵はあきらめた。ケンジと中学3年間同級生だったのが運の尽き、あいつは俺の絵心にとどめを刺した。大好きだった大工仕事もどうやら才能がなさそう、ビリヤードの店番手伝いながら、中2のときにしかたなく勉強の方へ走った。少年マガジンと少年サンデーは中1のときに発刊されたと思うが、週刊漫画誌として初めてだった。それを教えてくれたのはケンジである。ケンジも漫画家への道を進んでほしかった。ケンジは慎重派だった。タケシの決断と度胸の良さは群を抜いていた。
東京へ行ってから気が付くと、ケンジは隣の駅に住んでいた。漫画の本を買って読むと、東武練馬駅で降りてあいつのところへ寄って置いてきた。通学路の途中だから、定期券で乗り降りできた。ケンジは一時期タケシを手伝っていた。絵の腕はいいから重宝しただろう。
神田は数年斉藤タカオ・プロダクションのスタッフとして作画して、3年くらいで独立し、京王線の国領に引っ越して住んだ。独立してからすぐに連絡があり、「税金の申告の仕方がわからない、トシ頼む」といわれては断れぬ。そのころはまだ大学生だった。領収書を月別に保管しておくように言って、2月にあいつのアパートへ行って、とってあった領収書から帳簿をつけて、決算し、税務申告書を書いて提出した。やってやるから、昼飯を食わせろという条件で3日くらい通ったはず。調布税務署だったかな。2年目も頼まれてやった。3年目は『御用牙』を描いていて売れっ子の仲間入り、収入も大きくなっていたから税理士に頼んでやってもらえというと、タケシはその通りにした。
タケシは当時景気がよくて、何度か誘ってくれてあいつの行きつけの新宿のバーでおごってもらった。その都度数軒のバーをハシゴ。なつかしい。
50年か、早いものだ。「50周年劇画展」おめでとう。
観に行くよ。
<余談:丸刈り坊主頭の校則改正と総番制度の廃止>
丸刈り&詰襟の制服と総番制度は根室商業時代から引き継がれてきた伝統であった。ヤクザとのもめごとがあったときに根室高校を代表するのは総番長ただ一人、だから5年先輩まではそういうときのために総番長に仁義の切り方と口上が伝わっていた。
「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうござんす。手前生国発します処、根室にござんす...」
任侠映画そのままだった。わたしは親戚の5年先輩の野球部のキャプテンが目の前で実演してくれたのを見ている。口上を間違えたら、殺されても文句は言えないと言っていた。それがヤクザのルールだと。総番長の責任は重かったのである。半端な覚悟ではやれない、いざというとき、ヤクザとのもめごとに学校を代表して出向かなければならなかったのだから。小さく折りたたんだ紙に仁義の口上が書いてあった。もらったような気もするが、机の中にしまったまま紛失してしまった。お祭りのときに目付の鋭い高校生が十数人、五年先輩よりも一歩下がって歩いていた。あれは年に一度の儀式だったのだろう。総番長は高下駄を履いて、後ろの十数人は靴や下駄だった。
ヒロシに確認したが、口上は伝わってなかった。五年先輩の総番長が卒業した後も口上書を小さく折りたたんで大事に持っていたから、伝えなかったのかもしれぬ。もうヤクザと高校生がもめごとを起こすようなバンカラな学校でもそういう時代でもなくなっていた。
中学校3年の冬休みまで一度も坊主頭にしたことがなかった。中3の冬休みに根室高校受験のために坊主頭にした。1年の終わりころに校則を変えたら、坊主頭で修学旅行に行かなくて済むことに気が付き、校則改正の条項を調べて、手続き、具体的な校則改正戦略を練った。先輩の副会長二人に話したら、「お前がやれ」ということになり、会長のSさんも了解していた。先生たちが弱いのは保護者、だから保護者への校則改正のアンケート調査票をデザインした。2年になったばかりのときのこと、4月にスタートして、10月下旬が修学旅行だったので、7月の夏休み前までにアンケートの集計と生徒会集会を開けば、間に合うことが分かった。あとは分担を決めて坦々と仕事を進めた。予定通りに夏休み前の校則改正し、髪を伸ばして10月下旬に修学旅行へ行った。当時は11泊12日だったと思う。京都・大阪・奈良・伊豆の下田・東京だった。
その年の秋に生徒会役員選挙だったと思う。ある日、副会長のH谷さんとF堂さんがわたしに「次の生徒会会長はお前がやれ、応援演説は俺たち二人でやる」と言い渡された。先輩に言われたらノーの返事はない、「ハイわかりました」と言って、生徒会顧問へ立候補の旨伝えたら、数日後に生徒会会計だから駄目だという。生徒会会計は指名する後輩を決めてあったし、会長をやっていてもいざというときには両方見ることはなんでもないこと。そう伝えたら、校長が難色を示しているらしかった。Gクラスから生徒会長がでたら、何をやるかわからない、現に生徒会会計が校則改正を実現していたから、警戒された。
(あの当時は高校生にも政治活動をしそうなものには公安のマークがついていた。誘われて矢臼別のキャンプに行った後にあることが起きて気が付いた。集合写真を1枚だけ撮ったのだが、フィルムを現像に回したら、その一枚だけネガがなくなっていた。フィルムには番号がついているので途中を抜けば確認できる、油断も隙もありゃしない。無邪気だった。その写真屋さんはとっくにないから迷惑はかからない。だから書ける。(笑) ああいうキャンプに参加したら、集合写真は撮ってはいけないということを学んだ。)
顧問の先生が間に入って気の毒だったので、先輩二人に事情を説明して降りた。会長でなくても生徒会は動かせるし生徒会会計でやれてきたのだから。もったいないので、だれか代わりがいないかと考えたら、1年生の時の友人のH(税理士)が思い浮かんだ。歯舞中学出身でネームバリューがないから会長職は無理、副会長への立候補を頼んでみた。先輩二人の副会長の応援演説をつけてやるからと説得したら、引き受けてくれた。先輩二人もOKだった。そういう経緯でHは副会長になった。会長にはなりそこなったが、同じクラスの中央執行委員のカズコと前から中央執行委員だった普通科のヒロコが旧知の仲だったので、生徒会を動かすのに何の支障もなかった。
もう一つ、根室商業時代から続いた総番制度もヒロシとA野と三人で相談して総番制度を廃止することに決めた。実際にやったのはヒロシである。内部で相当もめただろう。ヒロシは愚痴一つこぼさないで実行した、男だね。
団塊世代のわたしたちはそういう時代の変わり目に立っていた。ヒロシはヒロシの役割を果たし、わたしはわたしの役割を果たした。ヒロシは同期の桜、戦友だ。高校を卒業して東京へ一緒に行った。千歳からスカイメイトを利用、飛行機だった。「トシ、一緒に行こう」とあいつが誘ってくれたから、東京の大学へ進学できた。もちろん、一生懸命に働いて仕送りをしてくれた両親のお陰でもある。
漫画の材料になりそうな高校時代を過ごした。神田たけ志とはそういう激動の時代に出遭った、あいつもGクラスのメンバーの一人である。神田たけ志はペンネーム、わたしが高校時代に出遭ったのは神田猛のほうである。(笑)
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