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#4803 『向山家の子育て21の法則』(4):方向性の違い Aug. 11, 2022 [55.1 TOSSの水野さんとの対話]

 TOSSという教育団体の代表である向山洋一氏は小学校の先生の経験があり、授業の名人でもあります。水野さんはその授業の着眼の良さと上手さにほれ込んだ、「向山一門」はそういう人々なのでしょう。だから授業の名人がすくなくありません。落語の一門を想像してもらうのが、近いでしょう。ひたすら師匠の芸を真似て近づく、一生修行です。

 わたしが授業について話すときに脳裏に思い描いているのは、ゼミの指導教授だった市倉宏祐教授(哲学)、授業を1年間拝聴した内田義彦教授(経済学史)、大学院でたった3人で1年間薫陶を受けた増田四郎先生(西洋経済史)の三人です。それぞれがその分野では日本でトップレベルの学者でしたから、三人の先生に巡り合えたのは奇跡に近い。授業のうまさなんてものは問題にはなりません、そんなものを学生は求めてません。わたしは三人の先生の学識と思索の深さに触発を受けました。それゆえ、大学以上の教育機関では授業のうまさなんてどうでもよいことと思っています。経済学の分野で、この三人の先生たちがそれぞれの分野で残された業績に匹敵する何かを築けたらうれしい。これら三人の先生は一度も首都圏を離れていません。だから、塾生には首都圏の大学へ行けと勧めています。
 ドイツには「教師は研究者たり得てはじめて教師たることができる:"Leher können nur Leher sein, wenn sie Forscher sind..."」という格言がありますが、その通りだと思うのです。 古里である極東の小さな町で生徒たちに教えながら、わたしは研究者でもあり続けたい。
 
 小学校の先生たちに授業スキルが大切なことはわたしにも同意できますが、大学はまったく違っています。大学の先生は授業のうまさを磨くなんていう人は例外中の例外でしょう。それよりは研究の中身の方がはるかに重要です。そのことは、生徒の発達段階に応じて、理想とすべき授業のあり方が変わることを意味しています中学校と高校はそうした授業の在り方のはざまにあるのです
 中学生になると、成績上位の生徒達には、授業の上手さでは対応できないと思います。この時期は動物的な勘も鋭い、教師のふだんの言動や授業の中身から、学力の高い生徒たちは先生の学力レベルを見抜きます、お粗末だったらいうことを気かなくなります。授業だって聞かなくなるのです。自分で難易度の高い問題集をやっているほうが学力をアップできますから。
 だから、中学校の段階では授業のうまさが必要なのは、1割のトップ層を除いた9割の生徒です。高校生は半分大人ですから、やる気のない生徒に合わせて授業の質を下げる必要はないと思います。自主的、自律的な学習を育むには、中学生よりは厳しい態度で授業に臨んでいい。赤点で落第させていいのです。そうでないと自分たちの学習責任に対する自覚が生まれず、育たぬ、ということになります。ありていに言うと大人になれないとうこと。子どもを大人にするのが高校教育の役割だとしたら、現状の在り様はとってもまずいということになりませんかね。

 どんなに問題をやさしくしても30点以下の成績しか獲れない生徒は落第でいい。国立釧路高専はその基準(赤点)が60点だそうです。もちろん毎年落第者が出ています。そうして初めて、釧路高専卒業者が一定のレベルの学力があることを経済社会に認めさせることができます。しっかり勉強して学力では大人になったことを保障できるのです。基準に達しない生徒を卒業させないことで、卒業生の学力に対する品質保証をしています。

 翻(ひるがえ)って、根室高校生卒業生にはそういう品質保証がなくなりました。どんなに成績が悪くても留年や退学処分はないのです。赤点とっても追試すらなくなりました。どうせ卒業させるのですから不要と考えてのかもしれません。根室高校卒業生が根室の地元経済を支えてきましたが、もはや根室高校を卒業したというだけで、採用はできぬということ。地元企業の嘆きが聞こえてきます。

 小学生じゃあるまいし、宿題もなくても高校生になったら自主的に自律的に学習すべきです。教科ごとに授業の上手な先生たちのYouTube番組が教科ごと単元ごとにフリーでいくらでもありますから、学習意欲のある生徒はどんどん学べます。高校生になっても学習意欲のない生徒は留年させていい。そうすることで「学力の品質保証」が可能になります。

 わたしが一番長く勤務したのはSRLという臨床検査最大手の企業で、16年間仕事しました。上場前と東証一部上場後では入社してくる新入社員の学歴がまるで違いました。20人の募集に1万人の応募なんて年もありました。ところがそういう難関を超えて入社してくる高学歴の社員たちが仕事ができないのです。一橋大卒は合弁会社を含めて6人ほど一緒に仕事していますが、マネジメントができません。京都大の理系学卒の開発課長人とも一緒に仕事していますが同じでした。早慶では一人優秀な人がいました。ベンチャーですが一部上場企業ペプチドリームの創業社長をやってます。SRLの元社長だった近藤さんは慶応大医学部卒の切れ者でした。厚生省の医系技官としても型破りだったとは、早世した同僚のKYから聞いてました(KYの奥さんは東大理Ⅲでした)。
 難関大卒にも人材は案外少ないのです。受験勉強と企業や組織のマネジメントはスキルが別だというだけのことですから当たり前のことかもしれません。
 そういう現実から出発し、社会人になってからでは手遅れ、人材育成のカギは高校以下の学習スタイルにあるという仮説で、古里で小さな私塾をはじめました。
 どの段階で何をすれば、受験勉強バカでなくて、学力とマネジメント力の両方を具有した人材を育てられるのかを探りたかった。20年間生徒たちを指導し観察してみて、おおよそのことはわかりましたね。

 そういうわけで、向山さんの直弟子である水野さんとは授業に対する出発点と方向性が違っていました。それはいろいろな問題を論じているときにも、考え方の違いとして顔を出します。
 
 日本の伝統的な子育てを議論しているときに、方向性の違いがはっきり出てきました。日本の伝統的な子育てを問題にしながら日本の伝統的な性風俗の問題が出てきません。水野さんは知らないわけではありません、以前一度議論してますからご存じですが、伝統的な性風俗には触れないというのが彼の基本的なスタンスです。
 わたしはそこに触れなければ、子育て、子どもから大人への過渡期の性教育は、日本の伝統的なものから大きく外れてしまうと思います。
 市倉宏祐先生も内田義彦先生も増田四郎先生も、おそらく同じことを言います。そういう学風なのです。
 だから、よき教育者であるためにはよき研究者であらねばならぬ、それがわたしのスタンスです。日本の伝統的な子育てを問題にするときに、若衆宿や娘宿の果たした役割を看過するわけにはいかないのです。それを外したら、よき研究者であるとは言い難いからです。

 なぜ、水野さんがよくご存じであるはずの日本の性風俗をとりあげないかは、わたしの考えるところでは、明治の文教政策批判になるからだと思います。若衆宿や娘宿という制度を、富国強兵・殖産興業の名のもとに明治政府の文教政策が徹底的に破壊しました。西欧列強に並ぶためには、欧米のスタンダードから大きく外れる日本の伝統的な性風俗を破壊し、なかったことにするしかありませんでした。そこだけで終わればよかったのですが、いまも文化破壊は学校現場で続いています。高校の古典文学教育がその典型例です。伊勢物語、源氏物語、枕草子、和泉式部物語など、古典文学の背後には日本の性風俗があり、性愛に満ちています。それを授業では取り上げないのです。明治政府の文教政策が、性風俗に関しては令和の時代の学校教育を支配していると言えないでしょうか?
 性教育に関して、性交・妊娠は扱わないという文科省の出所不明の「歯止め規定」もどこかでつながっているように感じます。若衆宿や娘宿の制度では乱交がしばしば行われました(つまり実技の指導もしていました)が、それには厳格なルールがありました。妊娠したら、女の子が男を選べます。身に覚えがある男は結婚を拒否できません。そんなことを知っている中高生はいないでしょうね。学校の先生たちだってご存じない。
 TOSSがなぜその点を指摘しないのか?理由があるはずです。

 水野さんは「win3計画」というブログを書いています。性教育についても積極的に発言し、中標津町の学校で性教育について何度も講演をしています。とっても活動的で立派だと思います。名人芸ですから、伝え方もとっても上手だと思います。
 でも、伝統的な性風俗にはどういうわけかアンタッチャブルです。日本の伝統的な子育てといいながら、その中で重要な役割を果たした性風俗には触れない。つまり、現在の政府の文教政策批判となるような問題には触れないというのがわたしの推測です。水野さんには別の理由があるかもしれませんね。
 水野さんは向山さんの直弟子、しかも高弟です。TOSSの大幹部でもあります。そういう立場があるので、発言に制限があることはあたりまえです。十年来のお友達ではありますが、わたしはそこがとっても気になっています。しかし、それはわたしの問題意識でいえることで、水野さんにとってはどうでもよいことかもしれません(笑)
 1万人のTOSSの先生たちはどのように思うのでしょう?完璧な答えはないのですから、意見が割れて当然だと思います。

  水野さんとわたしは、出発点と目標とするところが異なっています。どちらがいいという話をしたつもりはありません。問題意識も目標も異なっても、お互いに対話はできるし、何か大きな問題があればそれぞれのスキルを活かして一緒に取り組むことだってできます。大事なのは相手を知り、その上でいままでの生き方を尊重するということ。何かを議論して、相手を説得しようなんてお互いに思っていません、それぞれでいい。

 いろいろ書きましたが、水野さんとは意見の一致していることもあるんです。それは就学前教育に学力格差を縮める鍵があるということ。小学校に入学してくるときにはすでに大きな学力格差が存在しています。それをどうやって解消するかが学力格差を縮める鍵の一つです。開けなければならない扉は何枚もあります。
 水野さんの「子育てwin3計画 」はそういうことを目標に立ち上げたもの。この分野での水野さんの活躍を期待しています。彼のもモットーは「親によし!、子によし!世間によし!」です。
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は近江商人の商道徳で、広く商家の家訓となっていますが、これをもじったものでしょう。わたしも弊ブログで繰り返し、「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」を叫んでいます。大切な同士かも(笑)

 ところで夏休みの四日間(8/8-11)が終わりました。毎日雨でしたのでサイクリングにも行けず、悶々としてました。(笑)


 以下は、水野さんがFBで同じ日の夜に書いてくれた返信です。ごまかしがなく仕事が速い点でも特筆すべき人です。(8/11午後10時半追記)


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私は性教育にも関心があります。
日本の伝統的な性風俗にも関心があります。
性のみならず生活全般に関わる民俗学に興味があります。
それは子育ての問題を考える上で必要な情報だと思うからです。
しかし、本やブログの中ではあまり積極的に扱っていません。
それは明治政府や現行政府の政策批判になるからではなく、
私の中で現代の子育てに対して役立つ形にまとめ切れていないからです。
①古典文学の背景←教えるべきだと思います
②歯止め規定←なくすべきだと思います
③若衆宿や娘宿の制度←歴史的知識として必要だと思います
しかし、①②③は知識です。
知識が多い方が自分で考えるためには有益だとは思いますが、社会の仕組みとして現行日本の性教育は不十分だと認識しています。
システムが見えないのです。
良い悪いは別として、江戸後期にはシステムとしてはかなり完成されて(安定して)いたと思います。
しかし、それをそのまま現代に当てはめるには無理があります。
ならばどうすべきか。
私の頭の中はそういう状態です。
中高生男子生徒にYouTubeで「男の授業」を実施しているのはその一つの試みです。
具体的な目的の一つにはDVを減らしたいという思いがあります。男女平等と言いますが、動物として男は女より強い。
DVが減らないのはこの事実を補う仕組みが未完成なのだと捉えています。
そういう意味での「男の授業」です。
男の側に、性交など~子育てにおける全体的な見通しが必要だと考えている途中です。
今回のebisuさんのブログはそのことを振り返るきっかけを与えてくださいました。
感謝です。
win3の意味。まさしくその通りです。
「三方よし」はシステムを評価するときの極めてシンプルなルーブリックだと実感しています。またぼちぼち発信し始めます。
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 わたしも江戸時代の性風俗をそのまま現代に再現しようとは思いません、では、どうしたらいいのか。わたしも試行錯誤で、若い人たちの性の問題をブログで採り上げています。困っています。
結局、問題意識は一緒でしたね。


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#4797 『向山家の子育て21の法則』(3):⑱砂糖は白い麻薬をめぐって Aug. 8, 2022 [55.1 TOSSの水野さんとの対話]

 水野さんの著書『向山家の子育て21の法則』に「⑱砂糖は白い麻薬」という項目があります。これをみたときに「おや?」と思ったので、わたしの素朴な疑問を書きます。

 砂糖は過剰摂取しなければ何の問題もない食品です。わたしは胃の全摘手術をしているので、血糖値が急激に下がることがあるが、そういう時に砂糖やブドウ糖は薬となります。適度に用いれば薬にもなり、過剰に摂取すれば体を害するというのは、食品全般に言えることです。

 過剰摂取すれば、塩だって水だって体を害することになります。過剰摂取が長い期間に及ぶと浮腫や血圧上昇を起こし、心臓病や腎臓病、高血圧症の原因になります。摂取量が過少なら、浸透圧の調整がうまくいかなくなるし、筋肉も動かなくなります。
 水の過剰接種も浮腫を起こします。人間の身体は毎日摂取する食品や水や空気で成り立っています、そして人間の身体はホメオスタシスを保っていますので、それを支えるために食品の摂取量についてもバランスが大事なのでしょう。過剰も過少も体にとっては害なのです。

 101頁に「砂糖は「白い麻薬」、向山先生のマクガバンレポートン話は有名である」と書いてあります。これは米国の上院議員だったマクガバン氏が1970年代後半に州議会や連邦議会に提出した一連の食品摂取と健康に関するレポートだそうです。精製した食品をとらないようにと書いてありますが、学術的な根拠のあるレポートではありません。
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<マクガバン・レポート>
レポートでは、具体的な改善目標が示されています。
1、 未精製である野菜・果物・全粒といった穀物による炭水化物(糖質)の摂取量を増やすこと
2、 砂糖の摂取量を減らすこと
3、 脂肪の摂取量を減らすこと
4、 動物性脂肪を減らし、脂肪の少ない赤身肉や魚肉に替えること
5、 コレステロールの摂取量を減らすこと
6、 食塩の摂取量を減らすこと
7、 食べ過ぎをしないことレポートでは、具体的な改善目標が示されています。
1、 未精製である野菜・果物・全粒といった穀物による炭水化物(糖質)の摂取量を増やすこと
2、 砂糖の摂取量を減らすこと
3、 脂肪の摂取量を減らすこと
4、 動物性脂肪を減らし、脂肪の少ない赤身肉や魚肉に替えること
5、 コレステロールの摂取量を減らすこと
6、 食塩の摂取量を減らすこと
7、 食べ過ぎをしないこと
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 この要約を見るかぎり、砂糖の過剰摂取を避けることを推奨しているだけに見えます。

 TOSSの先生たちは「⑱砂糖は白い麻薬」を見て「ほんとうだろうか?」と思う人が少なくないに違いありません。一般的な常識とは異なっていますからね。TOSSのメンバーは、普通の教員に比べて、たくさん本を読んでいるし、ネットのリテラシーにも優れた人が多いのです。もちろん、この本の著者の水野さんもそうで、以前ネットのリテラシーについて、優れた洞察をアップしています。

 向山家の子育て21の法則の⑱に「砂糖が白い麻薬」だ書いているのですから、言ったのは向山洋一さんですね。一門であり直弟子、それも「高弟」である水野さんが、師匠を批判しないのはよくわかる。落語界だって、師匠と仰ぐ人を批判するバカはいない。
 でも、「200人の向山一門」の外側にいる9800人、98%のTOSSのメンバーはどうでしょう?
 わたしが疑問に思ってネットでググったように、「砂糖が人体に悪い根拠」「砂糖が人体に有害である根拠」というようなキーでグーグルで検索するでしょうね。トップに出てきたのは次のサイトです。

 「「砂糖は健康に悪い」は本当? どんな影響があるの?
 中身を読んでみると、虫歯や体重増加など、砂糖の過剰摂取の害を列挙しています。そして最後に、「砂糖は成長に必要な栄養源、でも摂り過ぎに注意しましょう」となっています。過剰摂取がいけないのであって、砂糖そのものが悪いわけではないのです。砂糖の精製の仕方にも言及しているものがあります。純粋な砂糖の結晶は白い。三温糖は白砂糖と成分はほとんど一緒、黒砂糖はミネラル分が多い。白砂糖にミネラル分が少ないことが問題なら、それをサプリメントで補ったっていいのですよ。
 他にもいくつも出てくるから、ご覧いただきたい。
 「塩分の過剰摂取の害」も同様にしてたくさん出てきます。

 水野さんはの主張は向山氏とはまったく違って穏やかなものです。「砂糖が白い麻薬だ」なんて書いていませんよ。慎重に次のように書いています。わたしでもこういう風に書きます。
向山家と同じように、母乳で育てる、清涼飲料水は与えない、人口添加物の入った食品を極力避けるという点も意識するようになった」同書102頁

 繰り返しますが、水野さんは「砂糖は白い麻薬」だとは書いていません。向山氏がそう言っていると書いただけです。
 白砂糖が白い麻薬だという記事はネットにいくつもあります。その中の一つに白砂糖は化学物質だと書いてありました。そうではない、サトウキビからつくられた天然由来の食品です。食品の製造過程も調べずに思い込みで、まるで化学的に合成されたか、化学薬品を添加して白くしたかのように書いています。間違っていますよね、白砂糖の原料は天然由来です。砂糖の製造法についてはっこちらのサイトをご覧ください。
*「白い砂糖は悪者ではなかった。なぜか根強い「白い食べ物は有害」説

 ネットのリテラシーについて卓見を披露している水野さんがこういうサイトをチェックしていないわけはない。でも、彼は直弟子ですから、師匠批判になることは避けます。だが、直弟子ではない一般のTOSS会員の中には、こういう記述を見たら、腰が引けるというのが本音でしょう。学術的な団体ではなくてとたんに宗教臭を感じるでしょう。「⑱砂糖は白い麻薬」説には学術的な根拠がありません。TOSS内部で、「過剰摂取でなければ問題ないのでは?」なんて言いにくいでしょうね。そんなことを言って居づらくなるなら、言わずに退会するでしょう。

 芸事なら師匠と弟子、宗教なら教祖と弟子、向山一門は向山洋一先生を教祖と仰ぐ団体に、外部からも内部からも見えてしまう。向山一門とTOSSの一般の会員の間には越えがたい溝があるように感じました。
 直弟子である水野さんの役割は、「白砂糖は麻薬」という、師匠の間違った認識を改めてもらうことではないでしょうか?そうじゃないのでしょう、彼なりの理屈がありますよ、きっと。
 師匠の「砂糖は白い麻薬である」という論と、自分の論、砂糖の過剰摂取がいけないを併記して見せたことだけでも大したものです。水野さんらしい。

<余談:栄養医学研究所の佐藤章夫君>
 彼はわたしより9歳年下でした。SRLでいくつか一緒に仕事してます。沖縄米軍からの出生前診断検査トリプルマーカ―は学術営業部員として彼が担当した仕事でした。慶応大学産婦人科医とトリプルマーカー基準値研究も同じ時期に彼が担当した仕事で、前者はシステム部に不可能と言われて暗礁に乗り上げ、後者はマネジメントできる人材がいなかったので暗礁に乗り上げてました。たまたま、わたしが学術開発本部へ異動になって、関係資料を米国から取り寄せた東さん(わたしの向かいの席で、米国在住25年の臨床検査技師さん、一回りほど年上でした)が、これ佐藤君が担当なんだけど、ebisuさんならなんとかできるでしょって、英文の学術論文をわたしの机の上にポンと投げてよこしました、「手伝ってやって」。否やはありません。資料に目を通したらシステム本部ができないという理由がわかりました。基幹業務システムの入口のところに大きな変更が必要なので、この依頼のためにそんな大きなことはできなかったのです。入り口部分の作り直しになるので、それ以降の処理にも影響します。基幹業務システムはほとんど作り直しです。6年前に基幹業務システム入れ替えで大失敗で、半年間ひどい目に遭っていましたから、断って当然です。だから、基幹業務システムには影響しない方法でやりました。営業所のパソコンで足りない項目、妊婦の体重、妊娠週令、人種などを入力して、八王子から検査結果ファイルが送られてきたら、結合処理して検査報告書を営業所のパソコンから出力したのです。東さんから資料を受け取り、実務デザインして関係部署と調整、プログラミング仕様書を書いて渡し、出来上がるまで1か月間でした。プログラミング仕様書を書くのに、HP43cで曲線回帰分析が必要でした。2次曲線回帰式でした。この仕事ができる可能性があったのは、わたしのほかは研究部でHP計算機を使っていた人と、研究部で統計解析の専門家でSASを使っていた古川君だけでした。二人ともシステムデザインは無理、製薬メーカーとの交渉も無理でしたから、社内でこのプロジェクトを担えるのはわたしだけでした。たまたま、絶好のタイミングで学術開発本部へ異動になったのです。
 それから9年ほどで佐藤君が休職して、米国で臨床栄養医学の学位を取得して、会社を辞めて栄養医学研究所を設立し独立しました。日本人ではこの学位取得者は初めてのケースでした。わたしのほうが先に辞めて300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事をやっていたので、彼が独立してから2年間、わたしはこの会社の監査役をやってました。佐藤君の上司の学術営業部長は窪田規一さん、現在はペプチドリームの創業社長です。創薬関係の仕事を請け負う一部上場のベンチャー企業です。
 専門家である佐藤君に砂糖について聞いてみたいのですが、2017年に亡くなっています。彼が処方したミネラルのサプリメントはいまでも販売されているようです。
 水野さんに紹介したかった。

 東京で仕事すると、人脈が違ってきます。これはどうしようもない。若い人たちは、一度は都会に浸ってきてほしい。北大なんか目指さずに東京の大学へ行ったらいい。


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#4791 『向山家の子育て21の法則』のススメ(2):第2章と第3章をめぐって July 30, 2022 [55.1 TOSSの水野さんとの対話]

<最終更新情報>7/31朝9:45 <余談:作家川野芽生の学びの意味>追記

 『向山家の子育て21の法則』のススメ(2)を書こうと思うが、共著者の水野さんがわたしのアップした記事を受けて、FB上に思うところを書いてくれたので、それを踏まえて第2章以降を逐次紹介しながらコメントを入れていきたいと思います。水野さんのご意見は後でまとめてアップします。

 水野さんはFBで重要な区分を提起しています。法則化運動であるTOSSのメンバーとしての立場と約200名の向山一門の中で直弟子としての発言を区別したいようです。
 師匠と弟子の関係では落語の一門を想起したらいいのかもしれませんね。もちろん師匠への批判はナシです、師匠の芸風にほれ込んでの全身全霊での弟子入修行ですからね。名人芸の授業はそういう師匠と弟子との関係で成立したものなのでしょう。そういう点でも落語の一門によく似ています。
 TOSSメンバーは1万人、その内の優秀なお弟子さんたち200人の中でも数名の「高弟」のお一人と水野さんをお呼びしても差し支えないのでしょう。

 ところで、わたしは前回、法則化に関して2つの異なる解釈を提起しました。
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A. 誰がやっても同じ結果が出せる教育技術を洗練して追求して行こうということかな?
B.自分の培ってきた教育実践を法則化しようという意味にもとれる。
 こちら(B)の解釈は部外者のわたしには不遜に感じる。
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 水野さんの説明によれば、AはTOSSとしての法則化運動の視点、Bは向山一門の弟子としての視点だそうです。師匠である向山家の子育ては、水野さんにとっては無前提で「子育ての法則」で、それを広宣流布するのは直弟子の崇高な使命なのでしょう。
 そうして整理してみると、「第2章 向山家の子育て21の法則」は向山一門の200名の方から21名の人がそれぞれ、向山家流の子育てをやってみた、あるいは考えた結果報告ということになります。

 部外者のわたしには、向山洋一氏の特殊な環境と経験を一般化しようと、向山一門の人たちが頑張っているように見えます。健気で純真な姿は十代の後半に出遭った二人の人(純真で熱心な共産党員と創価学会員)を思い出させました。一人は高校時代の同級生でもう一人は東京で隣の部屋に住んでいた板橋区役所職員でした。朝の5時まで「南無妙法蓮華経...」が聞こえていました。「眠くならないの?」と聞くと「お経をあげているからなんともない」と言ってました。純真な信仰の姿を見た思いがしました。
 60歳を過ぎたはずなのに水野さんは相変わらず純粋でお若い、そしてお人柄もたいへんよいのです。エトセトラというNPOの主宰者で、地域の子育てに中標津町のFM放送を通じて貢献しています。

 話を元に戻しますと、2章のタイトルは「向山家の子育て21の法則」であって、「向山家の子育て21の法則」ではありません。数学なら、公理のようなものです。法則化運動では、たくさんの教育実践から優良かつ一般化できるものを選び出して、教育実践の中から帰納的に法則を模索するというものでしたが、向山一門の活動は、「向山家の子育て21の法則」を所与の前提として、演繹的に自分たちの子育てに当てはめます、そしてどう思ったかを綴ったのが第2章です。

 TOSSの活動の母体となった法則化運動は、教育実践から帰納的に法則を追求していますが、第2章は「向山家の子育て21の法則」と書いてあるように、そこから自分たちの子育てを演繹的に実証しようというものです。方法が真逆に見えます。これは一門の方々には違和感がないのでしょうがTOSSのメンバーで一門ではない方々には違和感の大きいものでしょう。
 優良な実践例から、一般化するという法則化運動の方法論は、本家本元の向山家の子育て21の法則ではなぜ放棄されたのでしょう?
 なぜそうなったのかは、向山洋一氏を師匠と仰いでいる21人(21の質問をした人が全員向山一門とはかぎらないようです)が、そのまま受け入れたからだとわたしは考えました。それは信仰そのものです。外に向かっては、優良な教育実践例を集めて、そこから一般的なものを拾い、法則化を試みようと言いながら、向山一門ではまったく反対の方法論で子育てを論ずる。どなたか一人ぐらい、「方法的な矛盾がありませんか?」と声が上がっても不思議ではないと思いますが、あがらないのでしょう。それは、一門の師匠に対する絶対的な信頼がベースになっているからなのでしょう。絶対的的信頼とは信仰と変わるところがありません。そういうところも、外側から見ると、宗教臭さを嗅ぎ取ってしまう原因のような気がします。これでは大きくなれませんね。TOSSには熱心な教員が多いのに、一門の存在が、方法論のベクトルの違いが、組織拡大の足かせになっているのではありませんかね。
 向山一門ではない私は、あくまでも向山洋一氏を一人の人間として見たいと思います。

 わたしは事例の一つとして、自分が受けた子育てを前回詳細に書きました。ビリヤード店が家業だというのも珍しいし、そこで小学生から高校生まで毎日遊んだり店の手伝いをして身につけた脳の使い方も大半ユニークです。とても一般化できません。トレーニング次第で数%の人は似たような脳の使い方をマスターできるとは思いますが、特殊な事例の一つであることは否めません。脳の使い方を広めることができたら、一般化可能ですし、それを「法則化」ということはできるのでしょうね。
 向山洋一さんの子育ての経験もたくさんある中の一つだとわたしは考えます。共通点はいくつか見つかりました。代表例は「両親のどちらからも勉強しろとは言われたことがないこと」です。他にもいくつか類似点があることは前回書きましたが、各人がそれぞれ違った子育てをされてきて、いまがあるのではないでしょうか。普通はそう考えます。

 第2章では向山一門の21名の方の子育てが、「向山家の子育て21の法則」に則って紹介されています。わたしはこの法則を全否定しているのではありません。わたしが受けた子育てもいくつか該当するものがあるのですから、賛同する項目も多いのです。だから、これはこれで面白いし、きっと多くの人の役に立つでしょう。わたしの言いたかったことは一つだけ、方法論がAとBとでは真逆であるということ。第2章はこれくらいにします。

<日本の伝統的な子育てや価値観をめぐって>
 第3章のタイトルは、「講座・日本人が知らない「日本の子育て」」(113-172頁)となっています。ここは直弟子である水野さんのご担当です。「法則①先人の知恵に学ぶ」と関連しているので、とっても大事な部分です。

 最初に母子手帳を取り上げています。終戦後間もなくのでしょうが、母子手帳に書かれている子育て4箇条と現在の母子手帳に記載のある子育て4箇条が真逆である事実を述べています。面白いので書きます。
 これが昭和20年代の母子手帳記載事項です。
・別々に寝ましょう
・抱かないようにしましょう
・一人で遊ばせましょう
・甘えさせてはいけません
 現在の母子手帳には...
・見て話しましょう 
・抱っこしてあげましょう
・一緒に遊びましょう
・甘えさせましょう

 「別々に寝ましょう」は欧米の性生活とも関連していると思います。日本では人の気配のある所でのセックスはタブーではありませんでした。平安時代だったかな、絵巻物に爺と婆が真昼間に孫たちが周りではしゃいで走り回る中で、まぐわっている絵図が残されています。源氏物語や枕草子には、男が女のところに通いますが、当時の家屋事情では女のいる部屋には、衝立があるくらいで、女房たちも同じ部屋に寝ていますから、そこでいたしたら丸聞こえですが、そんなことにはお構いなしです。翌朝、男が帰った後で、女房達は昨夜訪れた男がどうだったかとエッチな話で盛り上がるのです、そして昨夜の男のランキングを決め、大きな声で笑って話していたのでしょう。枕草子にそうしたシーンが出てきます。清少納言は、男が訪れたが、なかなか中に入ってこないので、何と決断のできない男だと笑いものにしてます。男ならさっさと入ってきて、することして帰ればいいのにと。かわいそうな男は平生昌(たいらのなりまさ)*でしたね。カテゴリー「枕草子」に収納してあります。高校の古典授業で取り上げる先生はいますでしょうか?
*「#4039粋な女と無粋な男:第六段 平生昌」
 そういうことを考えれば、子どもと一緒に寝ている横で、夫婦が交わるのはなんともないことでした。そもそも古事記ですら、国産みが男女の神様の交わりから始まるのですから、セックスは神事に関連づけられていたのです。だから、子供は「神の子」、水野さんはそうも書いています。個人の自立を最優先に考えた欧米の子育てには、宗教の影響が大きいのでしょう。幼子をセックスの場から遠ざける。マリアが処女受胎してキリストが生まれたなんて神話を本気で信じているのですから、高貴な人間はセックスでは生まれない、セックスは忌避すべきものになっているのではないでしょうか。もっとも、ロシア語通訳だった米原真理子に言わせると、ヘブライ語から他の言語、ラテン語でしょうか、書き替えたときに、誤訳されてそうなっただけで、ヘブライ語の方ではマリアは不特定の男性と交わっていて妊娠しただけと書いていました。
 日本の伝統的な価値観に基づく子育てと言いながら、水野さんは日本人が明治まで維持してきた性風俗はばっさり切り捨てています。なぜでしょう?

 最初の四項目は欧米の価値観での子育て、日本の伝統的な子育てと違って当たり前です。性風俗と宗教が違いますから。GHQが「日本の古い家族制度を変えるためにやってきたわけです」(p.115)と水野さんは書いています。
 そうですね。でも、キリスト教をベースとするこうした子育ては日本には合わない。もちろん水野さんもそう思っています。

 博学ですね、水野さん。わたしの知らない名前が出てきました。1889年から1894年まで駐日公使を務めたフレイザー氏の夫人の言を引用して15歳で日本人が「一夜にして大人になる」と書いています。水野さんの書いているところを要約すると。これはその歳になると若衆宿や娘宿に所属することになるからです。「読み・書き・そろばん」を教える寺子屋を卒業して青年の独立組織に入ることになります。そこで運用されていたルールを七つ、140頁に水野さんは列挙しています。教育機関としての若衆宿や娘宿を取り上げているのですが、この仕組みは性風俗と切り離しては論ぜられません。筆おろしは若衆宿の頭の指示で新入りメンバーが指定された女性のところへ行っていたします。娘宿との雑魚寝もありです。子どもができると女性に指名権があります。関係をもった男たちは、女が指名したら拒否できないのです。性は奔放でしたが、厳格なルールがありました。20歳にもなって童貞とか処女なんてありえなかったのです。現在は30歳になっても未経験の女性や男性がかなりの割合でいるそうです。若衆宿や娘宿がないからでしょうね。代わりにSNSがありますが、STD(性感染症)のリスクが大きい。梅毒がこの10年間で6倍に増えています。若衆宿や娘宿の時代なら、共同体の中ではだれがどんなSTDに感染しているか情報の共有がなされるので、感染拡大を防げるでしょうね。

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古来からの性教育の智慧
<若衆宿・娘宿の目的>
 昔の農村における若衆宿や娘宿は、一緒の性の知識の伝習塾だったが、本来の目的は、村の労働力の均等な確保のためであった。
 村という共同体では、誰もが等しい労働能力や知識をもつことが要求される。それでないと共同体が保持できない。たとえば、田植えにしても、みんなが早く植えているのに、一人だけ遅いようでうは、全体の能率が下がってしまう。
 このように、村落における秩序と労働能力の均一化、能率化のために、若衆宿や娘宿がつくられ、そこで、共同体のしきたり、人との付き合い、信仰,他村との対応法、そして文字習熟、計算能力の向上、体力の強化、人としての道徳や作法、さらには、幸福な結婚のための身の処し方や相手の選び方などが教えられた。いわば、今でいう研修のための合宿所である。

<性教育機関に変質>
 若衆宿や娘宿は、若者たちに共同体の一員としての意識をもたせることが第一の目的であったが、夜まで技術の勉強ばかりやってはいられない。そこで夜とか雨の日に、先輩は後輩に性の知識を教えた。先輩が後輩に性知識を教えるという不文の義務が、習慣としてあったのである。
 「源氏物語」の「帚木(ははきぎ)」の巻の中に、有名な雨夜の品定めの段がある。
 宮中の物忌(ものいみ)が何日も続いたある雨の日の夜、光源氏の部屋に頭中将(とうのちゅうじょう)や佐馬守(さまのかみ)や藤式部丞(とうしきぶのじょう)がやってきて、女たちの話を始める。佐馬守が女の三階級論や中流重視論、良妻難説などを、自分蘭体験を交えながら話す。藤式部丞もインテリ女性について話す、これは、先輩たちが性についての話をして、光源氏に女を選ぶ条件などを教えているのである。
 このように平安時代からすでに、先輩が、後輩に性的な知識や女性の選び方なども含めて教えていたのである。
 娘宿では娘に対しては、所長が訪れたときに、それに対する諸地方や恐怖感の除去を、親ではなくて、先輩たちが教えてくれた。男性の能力や、健康に応じてどういう男を選んだらいいかという智慧も、そこで教えた。
 具体的な性の接触行為についても、その場になって慌てたり、傷ついたりせず、自然な生の営みができるように、教えられた。不倫な行為が引き起こす悪しき結果についても、教えられたのである。
 若衆宿では男に対して、大尉など具体的なテクニックのほかにも、性行為は相手の女に対して道徳的に責任があるということなどが教えられた。 樋口義之著『日本人の歴史①性と日本人』102-103頁
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 林望現代語訳『謹訳源氏物語第1巻』で先週、この部分を読んだ。出版される都度購入して全巻読んだが、最近また読みたくなって、本を開いている。
 紫式部が書いているのだが、彼女は男が女をどのような視点から選ぶのかをよくご存じです。理路整然と複数の視点から三人の男の持論を展開して見せます。これは清少納言にはできない技です。ここまで品位の高い女選び談義を書く能力をもった作家は現代にはいないかもしれません。それほど格調高いのです。光源氏は三人の話を聞きながら、ふんふんと気のない返事をして、自分の意見はちょっと違うと距離を置いているように見えます。あのシーンでは光源氏は他人には言い出せない鬱屈や心の悩みを抱えているようにも見えます。
 漢学の素養のある女は難があると誰かが発言しています。漢文での文のやり取りなんて情緒に欠けるでしょうよ。漢学者の娘であった紫式部は、そういう風に周りから揶揄されていました。それとなく物語に自分を登場させています、とってもオシャレな人だ。(笑)

 祭りや盆踊りは乱交の場でした。亭主も人妻も盆踊りに出かけ、相手を見つけてお互いに踊りの息が合えば、手に手を取って輪を離れて、適当な場所でいたします。女房殿が妊娠しても亭主は自分の子どもとして育てます。それがあたりまえのルール(不文律)でした。
 暗闇祭りで有名な、東京府中の大國魂神社は、昭和30年代初めのころまで、お祭りの三日間は無礼講でした。境内の中に入れば、乱交してかまわなかったのです。元々寺社奉行の管轄ですから、町奉行所の警察権は及びません。そういう伝統があるから昭和30年代初頭まで、闇祭りの時の境内内は警察の管轄の埒外でした。親は年ごろの娘を大国玉神社例大祭の三日間は出したくない、年頃の娘は親を出し抜いて家を出て祭りへ行きたがる...
 根室高校を卒業して、昭和42年に東京へ行きましたが、その年に府中の人から聞いた話です。

 1990年頃に米国の製薬メーカの人がSRL八王子ラボを見学したいというので、ご案内しました。HLA検査室へはいると、テスト数を訊いてきました。その中で親子鑑定はどのくらいかと問うので、ゼロですとお答えしました。日本では移植の組織適合性を判断するためにだけ使われていました。親子鑑定は一つもないとお答えすると米国人の方は絶句してました。その当時、国内ではは親子鑑定のDNA検査はまだ商業ベースではなされていませんでした。やるとすれば、たしかな親子鑑定は白血球の血型検査であるHLA検査で判定するしかありません。米国では裁判で親子鑑定にHLA検査が使われているというのです(HLAタイピング検査は要するに白血球の血液型検査です。数万人に一人の割合でしか同じタイプがありません)。日本では、そもそも親子ではないという夫側からの裁判事例が一つもなかったのです。米国ではその当時で年間3000件あると聞きました。凄いでしょ、日本の性風俗に関する伝統はいまでもちゃんと息づいています。

 「0対3000」、それほど、日本と欧米の性風俗には大きな違いがあります。水野さんは日本の伝統的な価値観に基づく子育てと言いながら、太い柱である日本の性風俗には触れていません。日本人が千年以上も育んできた性風俗でとっても大事なものですから、そこを知っているのにスルーはいけないと思うのです。(笑)

 明治政府は富国強兵・殖産興業で欧米に追い付けと、肩を並べるために、日本の性風俗を破壊しました。若衆宿や娘宿を廃止したのです。いくら廃止しても価値観はそのまま残っています。HLA検査が親子鑑定には一つも使われなかったのが日本です。問題にしていないのです。調べたら、10人あるいは20人に一人ぐらい親子ではないケースがあるかもしれませんね。でも「育てりゃ自分の子だ」というおおらかな考えが日本人の心の底にはあるのです。少なく見積もっても1000年を超える伝統的な価値観ですよ。
 水野さんは「子供組」を「若者組」と並べて書いていますが、この点はわたしは少し抵抗があります。
 子供組は共同体の行事を担当する組織ですから、行事のある時だけ、通年の組織ではありません。根室では金刀比羅神社の例大祭に四祭典区があって、それぞれ先太鼓や笛、金棒、山車の太鼓や笛、手古舞などを担っています。大人が混じって指導していますが、子どもたちの集まりです。イベントの担い手ということ。だから根室の大人は、イベントが大好きな人が多い。大人になり切れていないのかも。

 性風俗に関するまとめです。
 明治政府の文部省は欧米に対して体裁が悪いので、若衆宿や娘宿を廃止し、日本の伝統的な性風俗を葬り去ろうとしました。それはいまも続いています。高校の古典教育が性風俗を切り取った形で授業が行われていることに端的に現れています。伊勢物語や源氏物語、枕草子、和泉式部日記など、古典は性愛をふんだんに取り上げていますが、そこをスルーしてしまうのです。明治政府と文部省が敷いた路線を、令和に生きるわたしたちが墨守する必要はないと思いますが、伝統的な性風俗に言及すると、現在の文教政策批判にならざるを得ません。だから、TOSSのメンバーとしての水野さんはあえてそこへは踏み込まない。でもそれでは都合の良い日本の伝統的な子育てをつまみ食いしているように見えます。
 正直で誠実な水野さんにはこちらも同じ態度で接したい、そういう思いで書きましたが、最後のところで辛辣な表現になってしまったことは、どうかご容赦ください。

 私個人が感じた問題点をあげつらいましたが、総じてこの本はお母さんたちが子育てするのに役立つ本だと思います。この本を書くために、彼は1000冊も育児に関する本を読み漁ってます。そのエッセンスをいただけるのですから、ありがたい、ありがたい。孫がいるので感謝、感謝してます。(笑)

 TOSSの活動は手弁当のようです。会費はなし、珍しい団体です。向山一門は宗教臭い匂いがわたしにはしますが、統一教会のようにお金を巻き上げる活動はありません。手弁当で持ち出しです、よくやってますね。今回の対話で、そのあたりがわかって熱心さに驚いています。
 高校まで含めると全国に約90万人の教員がいますが、TOSSは公称1万人の教育団体。教員の90人に一人しかいません。でも、1万人もいるとも言えますね。宗教くささが抜けたら、一気に会員が10万人になるかもしれません。いまのままだと、向山洋一さんのカリスマ性が大きすぎるので、お亡くなりになったら、組織がどうなるのか危惧します。当然、具体的なプランがあるのでしょう。人間はいつまでも生きてはいられませんからね。TOSSの法則化運動と向山一門の方法論の違いは、この教育団体の未来にどのような影を落とすのでしょう。スキルの認定を含めていくつか重要な問題をクリアしないといけないように感じます、大仕事ですね。いくつかの企業で長期計画や予算管理、経営改革を担ってきたので、たいへんさが肌感覚でわかります。

 水野さんは子育てに関するメールマガジンを発信しています、登録は無料です。役に立つ情報が満載なので、子育て中のお母さんたちは登録して是非お読みください。おススメします。
 「親によし、子によし、世の中によし!」
 子育てwin3計画


向山家の子育て21の法則

向山家の子育て21の法則

  • 出版社/メーカー: 騒人社
  • 発売日: 2022/07/08
  • メディア: 単行本
<余談:川野芽生の学びの意味>
 7/31北海道新聞8面「ほん」に『無垢なる花たちのためのユートピア』の作者である川野芽生のインタビュー記事が載っていた、その最後に彼女が考える学びの意味が記されている。
今の社会を批判し変えていく『危険人物』を育てること。それが『学び』の意味だと私は思います。」
 歌人のようですが、この女性、主張がはっきりしていて、凄いね。

無垢なる花たちのためのユートピア

無垢なる花たちのためのユートピア

  • 作者: 川野 芽生
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2022/06/20
  • メディア: Kindle版
 歌人が登場したので、今朝(7/31)NHKラジオで聞いた短歌を紹介します。
  暴力の うつくしき 世に住みて 
   ひねもすうたふ わが子守歌
 斎藤史の歌です。226事件が題材になっています。父親の陸軍少将斎藤 瀏が事件に関連して5年投獄されています。そして史(ふみ)の旭川時代の幼馴染の青年将校2人が死刑になっています。
 権力奪取のためではなく、やむに已まれぬ思いで決起し、処刑された青年将校たち。
 暴力がうつくしく映る世の中で、ひがな一日、死んでいった幼馴染の青年将校二人を思い出し、安らかに眠れと祈る史(ふみ)の姿がわたしの目に浮かびます。
 嘘偽りの政治をやりつくし、戦後最長総理大臣在任記録を打ち立てた政治家の生きざまに、挽歌を贈る歌人は現れるだろうか?



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参考にした本を六冊紹介します。



性と日本人 日本人の歴史第1巻 (講談社文庫)

性と日本人 日本人の歴史第1巻 (講談社文庫)

  • 作者: 樋口清之
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2021/07/09
  • メディア: Kindle版





忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/04/20
  • メディア: Kindle版





盆踊り 乱交の民俗学

盆踊り 乱交の民俗学

  • 作者: 下川 耿史
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2011/08/19
  • メディア: 単行本

嬥歌(かがい:歌垣ともいう)についてはこちらの本をご覧ください。万葉集にもあります。ようするに乱交です。




日本古代文学入門

日本古代文学入門

  • 作者: 三浦 佑之
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2006/09/01
  • メディア: 単行本

文庫本が出たようですね。こちらでお読みください。




増補 日本古代文学入門 (角川ソフィア文庫)

増補 日本古代文学入門 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 三浦 佑之
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2021/09/18
  • メディア: 文庫

弓削の道鏡の事件で有名な孝謙上皇が、宮中で嬥歌を催すシーンが描かれています。どの巻だったか忘れました。




風の陣【大望篇】 ((PHP文芸文庫))

風の陣【大望篇】 ((PHP文芸文庫))

  • 作者: 高橋 克彦
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2012/09/14
  • メディア: Kindle版

 文庫版が出たのですね。こちらの方が安いですが、オリジナルは装丁がとってもいい。日本の伝統的な和綴じになっています。


謹訳 源氏物語 一 改訂新修 (祥伝社文庫)

謹訳 源氏物語 一 改訂新修 (祥伝社文庫)

  • 作者: 林望
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2017/09/13
  • メディア: 文庫



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#4789 『向山家の子育て21の法則』のススメ(1) July 25, 2022 [55.1 TOSSの水野さんとの対話]

 リライアブルに注文していた本が土曜日に届いたので、昨日(7/24日曜日)朝に読み終わった。240頁のハウツーものだから、読みやすかった。
 著者の向山洋一氏と水野正司氏はTOSSという「教育の法則化運動」の創始者と「直弟子」の関係である。そう本に書いていった。
 わたしは、この本をどう取り上げるか、読み終わってから、半日考えあぐねていたが、今朝になって方針が決まった。相手の土俵で相撲を取ってみようという気になった、TOSSという組織、あるいは運動の原点である「法則化」という視点から取り上げてみようと思う。

<法則+化?>
 「法則」と「化」の語義から始めたい。左巻健男著『始まりから知ると面白い物理学』の目次から「法則」を拾ってみる。
 フックの法則、万有引力の法則、運動の第1法則(慣性の法則)、運動の第2法則(運動の法則)、運動の第3法則(作用反作用の法則)、運動量保存の法則、角運動量保存則、振り子の法則、てこの原理(てこの法則)、仕事の原理、力学的エネルギー保存の法則、エネルギー保存の法則、オームの法則、キルヒホッフの法則、クーロンの法則、ジュールの法則、右ネジの法則、フレミングの左手の法則、ファラデーの電磁誘導の法則、並の重ね合わせの原理、ホイヘンスの原理、反射・屈折の法則、...

 きりがないのでこれくらいにするが、要するに法則とは、
「①守らねばならない決まり、おきて ②一定の条件の下で必ず成立する事物相互の関係、また、それを言い表した言葉や記号、自然法則・化学法則・物理法則・社会法則・経済法則などをいう」...『大辞林第2版』
 大事なことだが、『大辞林』には「教育法則」という項目は載っていなかった。

 「化」とはなにか?
「①徳によって教え導くこと。教化、感化。 ②自然が万物を育てる力。化育、造化。 ③生滅転変の理 二〈接尾〉主に漢語の名詞に付いて、そういう物、事、状態に」変える、または変わるという意を表す。」...同書
 接尾辞としての「化」の役割は、その名詞をそのようなものに変えるということを意味するようだ。
 「日本語接尾辞「ー化」についての研究」という論文を見つけた。詳しくはそちらを参照してもらうとして、たとえば「ロボット化」は人間をロボットにしてしまうということ。「機械化」は人間の手でやっていたことを機械に置き換えること、グローバル化はいままで国内市場でビジネスしてきたのを国際市場でビジネスをすること。「法則化」は法則でないものを法則にする、あるいは個々バラバラのものを共通項を見出したり、一般化することで法則としてまとめることと読めそうだ。

 まとめると、教育の法則化とは「個々バラバラな教育実践のなかから効果の大きいものを集めて、その中から共通項を見つけたり、一般化することで、法則性を見出そうとするもの。一定の条件下で必ず成立する事物相互の関係を教育技術の中に見出そうとするもの」ということを意味しているのではないか。TOSSでどのように定義しているのかは本書には載っていないので、これは水野さんに確認するしかないだろう。わたしの語義解釈ということになる。TOSSの外側から見て、どう見えるのかということを記述するのがわたしの視座である。
 向山氏はそれまでの教育技術は個々バラバラなもので法則とは言い難いものだと批判したのだろう。先生たちの実践例からいいものを選りすぐって、
A. 誰がやっても同じ結果が出せる教育技術を洗練して追求して行こうということかな?
B.自分の培ってきた教育実践を法則化しようという意味にもとれる。
 こちら(B)の解釈は部外者のわたしには不遜に感じる。

<全体の俯瞰と向山家の紹介:母親と父親の役割、弟と娘>
 『向山家の子育て21の法則』は優れた実践例を集めて、その中から一般化できるようなものを選りすぐり、法則化しているだろうか?それとも、向山家の子育てを法則化しようというものなのだろうか?

 本書は5章構成になっている。「第一章 向山家の子育て」は向山洋一氏、向山行雄氏(弟)、向山恵理子さん(娘)、谷和樹氏、師尾喜代子さん、安田亮氏、小嶋悠紀氏の座談会形式でのインタピューである。
 向山洋一氏は昭和25年(1950年)に旗の台小学校へ入学と書いてあるので、1944年の生まれ、団塊世代のわたしに近い世代である。共有できる価値観が少なからずある。母親の実家は土浦の副市長と書いてあるが、昔はそんな肩書はないからたぶん助役あるいは収入役だったのだろう(実際の肩書を調べるのは共著者の水野さんの仕事ではないのか?TOSS以外の人も読むのだから、それぐらいの配慮は欲しい)。
 小学校へ入学する前に母親が百人一首を買い与えてくれ、教えてくれて入学前に覚えてしまった。百人一首を覚えて入学している小学生なんて、その時代にはほとんどいなかったに違いない。印刷職人であり印刷会社を経営していた父親が寝るときに読み聞かせをしてくれて、そのお話を覚えていて、周囲に話して聞かせるのが得意だった。小学校1年生のときに「渡辺先生の前で物語の話をずっとしたことがある」。記憶力に優れているだけでなく、お話上手な子供だった。
 ところで、百人一首を未就学児に教えたとして、受け入れるのはごく一部の子どもだろう。受け入れないのにやらせたら嫌いになるから、子どもによっては時期を俟たないといけない。つまり、百人一首一つとっても、それを教えたら向山氏のように全員が覚えるなんてことはない。向山氏もそんなことは言ってない。だとしたら、これは法則ではないだろう。子どもが誰であろうと、同じことをしたら同じ結果が出なければ法則ではないのだから。そもそも、教育は教える側と学ぶ側がある。だから、同じ教え方をしても学ぶ側が違うのだから、同じ結果は出ないのが普通のことだろう。当たり前だ。現に同じ兄弟でも行雄氏と洋一氏では違う結果が出ている。「人を見て法を説く」というところが教育にはある。

 弟の行雄氏は食べ物の好き嫌いが激しく、毎日学校給食を食べ残してランドセルに放り込み、ぐちゃぐちゃになって、母親がランドセルをぬぐっていた。一度も注意したことも、文句を言ったこともない。
 このくだりを読んで、わたしはどうして食べ残しをいれる弁当箱やそれを包む風呂敷を与えなかったのか疑問に思ったし、ランドセルの中で食べ物が散らかれば、本とノートは使い物にならないくなるので、それらをどうしたのか、訊いてみたくなった。高校生が雨の日にリュックに教科書とノートを入れて塾へ来た。防水になっていないリュックだったので、本は濡れて、乾かしてもがばがばになり波打っていた。そんなことを毎日やったら、どうなるかと素朴な疑問がわたしにはわいたが、インタビューでも座談でもそこへは話がいかないのはなぜだろう?共著者の水野さんも、話を聞いている谷氏も、疑問に思っていない様子。これはふつうではない。「師と直弟子」の関係が反映しているようにわたしには見える。部外者のわたしには奇異に映る。グルとその弟子の関係なら理解はできるが、TOSSは宗教的な集まりではないのだから、違うと思うのだ。
 お母さんが「ノートは丁寧に書くもの」と諭したと書いてある。「間を空けてゆったり、丁寧に書く、丁寧に書くというというノートの使い方」「向山型ノートの原点」はそこにある。水野さんは「その力は向山少年が中学、高校へと進んでも失われなかった。一生の財産となったのである」と書いている。ここでは向山式ノートのとり方が法則化しているというようにわたしの耳には聞こえた。

<勉強しろと言わぬ両親:遊びによる脳の進化>
 面白いのは、向山氏が母親から「勉強をしろ」と言われたことがないことだ。
 向山氏と比較するのは気が引けるのだが、わたしも両親のどちらからも一度も勉強しろと言われたことがない。わたしの場合はそんなことを言う必要のない子供だったのかもしれぬ。家業がビリヤードと居酒屋をやっていたから、小学1年生の頃から、毎日ビリヤード三昧(ザンマイ)、相手をする大人たちが面白がってくれるから夢中で遊んだ。夢中でやるから就寝すると頭の中にグリーンのビリヤード台が現れ、ビリヤードが無限にできた。だから私の見る夢はいつもカラフルだった。毎日繰り返すから、そういう脳の使い方に慣れてしまっていた中学生になり、それが勉強に応用できることに気が付く授業に集中して聴いていたら、後で黒板に書かれた字や説明をページをめくるように脳に再現できた。だから、授業の後に5分間黒板に書かれた文字と説明を脳内に具体的なイメージとして思い描くだけで、復習が完了したビリヤード店を手伝って勉強する時間がほとんどなくても学校で習った範囲だったら、脳内にイメージ画像を再現するだけで十分だったのだろう。家で勉強しなければならなかったのは、問題演習をしないと力がつかない数学と、授業で2年半の間、文法説明を一切してくれなかった中学英語だけ。記憶すればいい科目は、目をつぶって思い出すだけで済ませた。社会科や理科には抜群の効果があった。集中力高揚の効果はそれだけではなかった。英語の単語だけでなく、複雑な知識体系や概念相互の関係をイメージとして脳内でいじくれるようになっていたビリヤードの店番をしていて、隙間の時間が数分できると日本史は出来事の起きる順番に断片的な知識を整理していた。公認会計士二次試験受験参考書で覚えた経済学や経営学や原価計算の諸概念を脳内に呼び起こして、いじくりまわす。人の声は聞こえなくなる、たとえ話しかけられてもすぐには反応できない。生返事しかできない。他人が見たら、ボーっとしていて阿呆に見えただろう思考がある程度まとまったら紙に書いて整理してみる。単なる記憶から出発して、諸概念が次第に整然としたネットワーク化していくのがわかった知識の整理に役に立つのは起きているときの脳よりは、眠ったときの脳の方が得意だ。起きているときに脳内でイメージをいじくりまわすと、眠ったときに潜在意識がそうした知識を整理してくれるのがわかった自分の脳に起きていることが理解できるようになっていた。数学の解けなかった問題も、問題を丸ごと記憶して寝てしまえば、脳が緩くなるのか、既成の思考のフレームを軽々と飛び越えて、思わぬ方向から解決してくれる。経済学の分野も潜在意識は垣根を飛び越えて、他の分野の知識をつかって整理してくれる。それが完成品に近づくと睡眠が浅くなり眼が覚める。すぐにノートに書かないと朝になって思い出せないことがあった。このように潜在意識だって自在に使うことができる
 赤字の企業を黒字にするときにも、会社の収益構造や財務体質を根底から変革するときにも、臨床検査項目コードの日本標準化プロジェクトを立ち上げる時にも、慶応大学病院のドクターと出生前診断検査MoM値の日本人の妊婦の基準値研究プロジェクトをマネジメントするときにも、こうした思考法は抜群の効果を産み出した。イメージとして仕事の関係や時系列がネットワーク化されてしまえば、それを現実に移すことは簡単で「失敗しない」のである。PERTチャートを習得してからは、脳内でさまざまな仕事の連関や手順が一層明確になった。イメージができあがった時点で、仕事は90%終わっていた。あとはつまらない仕事で、脳内では実現済みのことを坦々とやるだけ。失敗はない、具体的なイメージがネットワーク構造として結像するまでが愉しい。
 この本ではそうした集中状態のことを第2章の「法則⑦熱中体験をさせる」で熱中体験」とか「フロー体験」と書いている。誰かが言い出した言葉だろうが、そうした体験の積み重ねが脳の働きを変えてしまうことは事実だ。だから、熱中してよく遊んだ子は、それが勉強に向かうと学力が飛躍的に上がるこの部分はまさしく法則である、著しい学力アップという同じ結果が出るからだ。学力アップという点からは、集中力の高揚を伴なう遊びは勉強以上に重要なのだ。プロの将棋士が自分の差した将棋を手順を間違えずに再現できるのと脳の使い方にどこか似ているかもしれぬ。プロ棋士は潜在意識を上手に使っている。起きている間、四六時中将棋の手を考えるから、潜在意識にそれが刻まれ、眠ったときに潜在意識が問題を解くように動き出してしまう。枠が緩くなるので、顕在意識ではそれまでの思考の枠組みにとらわれていたのだ、外れてしまい、”緩くなる”。思考にクォンタムリープ(量子的な飛躍)が起きやすいのだ。
 常連客の影響も小さくなかった。ビリヤードの常連客の職層はさまざま、大工さんや印刷工や肉屋さん、菓子作り、などの職人、歯科医、銀行員、信金職員、学校の先生、スナックや喫茶店の店主など家具職人などの自営業者、ヤクザの親分と親分が店に来ることを許可した数人の礼儀正しい幹部(遣い走りは「出入り禁止」だった、たまに親分に緊急の用事があってくることがあると、「ここは出入りしてはいけない」と言われているのを見たことがある。親分のTさんはどういうわけか落下傘部隊員のオヤジに敬意を払っていた)、さまざまな職業の人たちがゲームに熱中するところを見てたくさんのことを学んだ。好奇心の強い子供とはそういうものだ。 父親が寝しなに読み聞かせをするなんてことは一度もない。わたしが寝ることにはまだ働いている。小学生の頃は9時ころには寝ていた。寝るときには来ているものをたたんで枕元に置き、正座して、父親と母親に「おやすみなさい」と言って寝ていた。お袋の躾である。当時は火事が多かったので、消防のサイレンが鳴るとすぐに服を着て、火事が近所だったら逃げなきゃいけない。だから、暗闇でもすぐに服を着れるように枕元に畳んで寝たのです。よその家遊びに行ったときには靴を揃えるのはあたりまえで、その家の家族に、正座して両手をついて「おじゃまします」、帰るときは「お邪魔しました、帰ります」と挨拶してました。おかげで、中学生になると友人たちの母親に評判がよかった。行儀のよい子に見えたのでしょうね。(笑)
 母親が何かを教えてくれたということで覚えているのは、小1の時に吃音が出ていたわたしに、一緒に本を読んでくれたことだ。すぐに吃音は消えてしまった。四年生の時に「北海道新聞の卓上四季を読んでみたら?」と言ったことがある。それで辞書を引きながら読み始めた。語彙の増えるのが面白くて、社説も読んだ。数か月で1面の政治経済欄を読むようになっていた。そこで語彙が増えた。小6になって担任の鶴木俊輔先生が貸してくれたシェークスピアの作品を読んだ。中学生になると光洋中学校の図書室にあったSF小説が面白くてあらかた読んだ。根室には公認会計士は一人もいない、それなのに中学生の頃には公認会計士という職業があることを知り、根室高校商業科へ進学を考えた。担任の山本幸子先生は強く反対して、母親が2度も学校へ呼び出された。戻ってきて、「息子が公認会計士になると自分で決めてそういうのだから、わたしにも説得できない」そう言ったと笑っていた。東京の大学へ行くなんて、当時はたいへんな贅沢に思えたし、ビリヤード店を手伝っていたから、わたしが抜けるとオヤジに負荷がかかる。なら進学せずに独力で勉強すればいいと考えた。山本幸子先生は「この子は大学へ行く子だ」と商業科への進学に強く反対された。結果は大学だけでなく大学院へ進学して山本先生のおっしゃった通りになった。根室へ戻ってきてから、何度かお宅へお邪魔した。夫の栄進先生ともども歓迎してくれた。栄進先生は「女房が喜ぶので、時々来てください」とおっしゃってくれた。先に栄進先生が亡くなり、幸子先生がペースメーカを入れたと聞いてまた遊びに行こうかなと考えている矢先に、術後数か月でお亡くなりになった。まだしばらくお話しできるのではと思っていました。喪失感が大きかった。いい先生に恵まれました。1年間副担任だった大岩朋子先生(旧姓)、パン屋さんでお見掛けするたびににこにこして声をかけていただいた。「癌仲間だよね!、わたし、薬での治療はやめたの、わたしも頑張るからebisu君も頑張ってね!」、学校を退職してから、市教委の仕事をやられていたようだった。新卒で赴任してきて中3の1年間だけのお付き合い、歳が8歳ほどしか離れていないので「お姉さん」感覚だった。いつも行くパン屋で中学を卒業してから初めて、四十数年ぶりにお会いしたのに、突然名前で呼ばれて驚いた。記憶の良い人だった。癌が再発したのか亡くなったが、わたしは死ぬまで彼女のことを記憶しているだろうな。
 高校生になって、1年次で簿記を勉強し、2年生になると中央経済社から出版が始まった公認会計士二次試験講座を購読して読んだ。当時は七科目、簿記論、財務諸表論、原価計算論、経営学、経済学、監査論、商法が試験」科目だった。これらの専門書を読みこなし、答案練習ができたのは、小4から新聞を読んで、語彙力を拡張したからだろう。高2のときにはマルクス『資本論』やヘーゲルの著作も読んだ。

<特殊な事例は一般化できぬ:教育は「多対多」対応>
 言いたいのは、小4の子どもに、新聞のコラムや社説を読めと母親が言ったとしても、読み始める子どもは稀だし、高校生になってから、公認会計士2次試験受験参考書を読む子供はほとんどいないだろう。公認会計士2次試験の経済学は近代経済学であるが、好奇心から『資本論』まで読む者はほとんどいない。新聞のコラムや社説を読めと母親が言っても、結果は子どもによってバラバラになる。そこには特殊な事例があるだけで、法則なんてありゃしない。教育はするほうと受ける方で「多対多対応」なのである。そこに関数関係はないから、「教育法則」というのは無理があるようにわたしには見える。

<叱らない父親の影響:向山氏とわたし>
 向山氏は印刷職人だった父親の背中からさまざまなことを学んだという。印刷技術を身につけたという話ではない、「見ていた」ということ。
 小学生のころに6年間ほどオヤジは根室で一番大きい水産缶詰工場で現場監督として働いていた。人の使い方と工程改善の話は、面白おかしく話して聞かせてくれるオヤジから学んだ。わたしがサラリーマン時代に人の使い方がいくらか上手だったとしたら、オヤジが小学生時代に話して要点を教えてくれたからだ。四工場の一つがオヤジの受け持ち。工場長の下で200人の女工さんと機械担当などの男工さんを使う立場だった。四工場で800人の女工さんがいた。蟹罐詰では日本一の品質の工場だった。株式会社日本合同罐詰という。オヤジは働く人を大事にした。ズルをする人はかならずいるが、それを防ぐ方法も話の中にちゃんと入っていた。オヤジは商売人だから、現場監督でも、常に経営者の立場で考えていた。気持ちよく働いてもらって生産性を上げるには自分は何をすべきかという視点から考え抜いて行動していた。名現場監督だっただろう。オヤジが辞めてから3年の間に、会社を辞める男工さんが、根室を離れるたびに挨拶に来ていたのを覚えている。各工場は女工さんを集められなくなっていた。オヤジのところにはたくさんの応募があり、足りない他の工場へ回すこともあった。人の使い方は経営にとってとても重要なのだ。原料の仕入は花咲港の魚市場、朝の5時ころからだから、4時過ぎになると迎えが来ていた。よく体がもったものだ。
 その一方でビリヤード店も営んでいた。門前の小僧は、毎年いらっしゃる昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生のラシャの張替え作業を終わるまで見ていた。先生は旅館に泊まらずに戦後のぼろ屋の私の家に泊まった。張替えを安くやってくれるためだっただろう。台の水平の調整は、木枠を組んだところで大きい水準器を使って一度水平を出し、重いスレート4枚を載せてからもう一度水平を出す。スレートを載せてからでは四枚のスレートは水平になってくれない。一つを動かせば他のスレートと高さが違ってしまう。仕事は二段階でやるのがプロのやり方。中2に頃からオヤジと二人でラシャの張替え作業をした。これは社会人になってから、仕事でとっても役に立った。2段構えで仕事の段取りをすると、実にスムーズに運べる。赤字の会社の黒字化や、自己資本増強、新規事業分野の開拓など、プロジェクトを2段構えで差し立てたら、「わたし失敗しないので」ということになる。

 父親には叱られたことがないと向山氏。わたしもオヤジには一度も叱られたことがなかった。わたしはオヤジとお袋が夫婦げんかをしているのも見たことがない。
 「法則②叱らない」に「叱るのではなく、教え込むのでもなく、手本を見せること」、ビリヤードのラシャの替え方はそうして覚えた。
 大学院の時に渋谷駅前の個人指導進学塾で教えていた時のその塾の指導方針は「褒める教育」だった。お金をいただいて教えるのだから、プロとしてその方針に忠実な授業を心がけた。「褒める教育」について研修はなかったが考え方だけ聞けば、あとは実務をそれでこなす力が備わっていた。

<子育てに関する39の質問:当意即妙の答え>
 第1章の後半は「向山洋一先生へ 子育て世代から39の質問」が載っている。子育てに関する質問の大半は、学校の先生、しかも女性がほとんどである。質問に対して、当意即妙な答え方をしており、面白い。
「Q3:赤ちゃんを抱っこする、おんぶする。どちらの方が赤ちゃんにとってはよいのでしょうか。」
「向山:よくわかりませんけれども、わたしはおんぶもしましたし、抱っこもしました。」
 とぼけたお答えです。臨床心理士や精神科医の受け答えのような問答もいくつか見受けました。
 でも、子育てで悩むお母さんたちには、有益な情報もたくさん載っていますので、ご覧ください。

<法則化という視点からの第1章のまとめ>
 全体を見回すと、向山家の子育てが紹介されていますが、これは一般的なものとは言い難いようです。母方の実家が土浦の副市長であること、就学前に百人一首を買ってあげて、教えるなんて、並のお母さんにはできませんね。しかも弟の行雄氏が吹き嫌いが激しくて、小学生の6年間は毎日給食を残してランドセルの中をぐちゃぐちゃにしても、怒らず、きれいに清掃し続けるなんてとても普通のお母さんにできることではありません。そして弟の行雄氏は後に全国PTA連合会の会長になるんですから、好き嫌いなんてあってもダイジョブという洋一氏の言は説得力があります。しかし、好き嫌いがあれば全国PTA連合会の会長に成れるとは書いていません。法則は一定の条件下では同じことをしたら同じ結果が出るということですから、同じ条件が見つからないのかもしれません。
 ノートのとり方の指導もお母さんです。こんなことのできる母親もまれでしょう。特異な事例だと思います。わたしの事例も含めて一般的ではない。だから、他の人がやっても同じ結果は起きぬ。

 法則とは特異な事例のオンパレードではなくて、一般化できるものが対象ですから、「第1章 向山家の子育て」は特殊な事例をまとめたものと理解していいのでしょう。一般化はできないということです。
 それはそれ、TOSSの「五色百人一首」は優れた遊び道具です。ぜひ就学前にお買い求めになって子どもと遊んでください。青字の部分に購入先のリンクを張っておきました。

<百人一首カルタと論語の素読>
 なお、就学前(5歳児への)教育で伝統的なのは、江戸時代は「論語の素読」でした。百人一首ではございません。こちらが一般的。明治時代以降は学制が敷かれて、寺子屋や藩校がなくなり、論語の素読をやらなくなりました。こちらを日本の伝統的な子どもへの教育として、どうして推奨しないのでしょう?時代が違うからだと思います。そんなものを指導できる親は稀ですから、「法則化」は不可能だとわたしも思います。たぶん向山氏の現実的な判断なのでしょう。したがって、「百人一首」というのはよいアイデアだと思います。古いけど着想は新しい!
 小学校の担任が正月に自宅へ生徒たちを読んで、百人一首大会をやってくれてました。北海道はとり札は木札です。小学生の時に家にありましたから母親が買ってくれたのでしょう。就学前に百人一首を買い与えて、教える親はさすがにこの極東に町にはほとんどいなかったでしょうが、65年前でも、小学生のいる家庭で子どもに百人一首を買い与えていたのは多数派ではなかったかと思います。そうでなければ、小学校の担任の先生が自分の家に正月に生徒たちを呼んでカルタ取り大会は開けるはずもありません。昭和30年代前半のまだ貧乏だった時代でも、木箱に入った「木札の百人一首」がほとんどの家庭にあったことは、特筆していいことなのでしょう。

<次回取り上げたいこと>
 「第2章 向山家の子育て21の法則」というタイトルはビックリです。自信にあふれていますね、向山家の子育ては「法則化」できると宣言しているようなもの。
 批判的な吟味になりそうで、議論の範囲が広がり、民俗学が視野に入ってきます。江戸時代の子育てを語るうえで民俗学と性風俗は切り離すことができないからです。「富国強兵」「殖産興業」を旗印に、西欧諸国に追いつけ追い越せ、肩を並べるために、キリスト教の性風俗とは真っ向から対立する、日本の伝統的な性風俗を、明治政府の文部省はことごとく潰してきました。大人社会から独立した若者たちの教育組織であった若衆宿や娘宿は一つも残っていません。その延長線上に現在の高校の性風俗抜きの古典教育があり、「法則①先人の知恵に学ぶ」があります。世界で一番古くそして質の高い古典文学をもっていながら、伝統的な性風俗と切り離した授業が行われることで、古典教育は見るも無残な現状をさらしています。これらは、次回に回します。

 どこかで、共著者の水野さんとのかかわりとお人柄についても書こうと思います。わたしは自分の眼で確かめましたが、まぎれもない授業の達人です。

*「向山家の子育て21の法則のススメ(2)

<余談:釧路のビリヤード店>
 小学生の時に、用事があってオヤジと釧路へ行った。釧路は親せきが多いのでオヤジと二人で行くことが時々あった。ああ、幼稚園の頃ひどい蕁麻疹にかかって釧路の棒院で治療してもらったこともあったな。
 駅前のお蕎麦屋さん(東屋)でそばを食べるのが愉しみだった。そば好きでした。時間があってビリヤード店へ入り、オヤジは用事があるので、しばらくそこで遊んでいるように言われ、大人相手にゲームが始まった。当時は七球ドローンといって、7回失敗したら引き分け。ビリヤードの上手な小学生が現れたものだから、大人たちは面白がって相手してくれます。3人ほどに勝った後、「強すぎる、持ち点を上げよう」と言われて、応じました。それでも撞き切りが出る。撞き切りとは、初回にノーミスで持ち点を全部取ってしまうことですが、持ち点アップしてすぐに撞き切るなんてありえないこと。
 家でビリヤードを手伝っているときは、お客さん御相手ですから、愉しく遊ばせてあげます。だから本気で勝負はしません。釧路ですから、こちらが客です、ブレーキが外れ、全力勝負してよかった。適当な緊張感がある方が、力が出るタイプなんです。10回以上ゲームして、負けなし。大人たちは周りでわいわい言ってました。完全に「フロー状態」でした。
 東京で、高田馬場ビックボックスで年末にビリヤード大会が開かれてました。1チーム5人で20チームに分かれ、各チームにはプロが一人ずつ参加します。そのときに「ビリヤードの神様」が降りてきました。プロ相手だから手を抜く必要がありません。初球撞き切り。周りでわいわい言っているのが聞こえなくなります。そして思い描いたゾーンではなく、理想のピンポイントにボールがピタッと決まります。神業が連続しました。愉しい一瞬でした。見ていた観客も愉しかったでしょう。プロだって一流のプロ以外はそんなことはできません。
 そのあと、持ち点の低いへタッピ―な学生さんと当たって、「お客さん相手の手抜きのクセ」が出てしまってあえなく負け。(笑)
 弱い相手だと「フロー状態」は訪れません。「ビリヤードの神様」は降臨してくれないのです。アーティスティック・ビリヤード世界2位の町田正さんにボークラインゲームの相手をお願いしたことがあります。3回ともぼろ負けでした。勝てるはずがありませんから、「神様」は降りてきません。目の前で町田さんの技術を見ることができました、じつに上手だった。贅沢な時間でした。八王子駅前にあったシルクハットという名前の店でした。当時はおとうさんが存命で、歩いて10分くらいのところにお店があったので、次男の彼は京王線八大氏駅前のビルの2階にお店を開店してました。正さんに相手してもらう数年前にお父さんの方にもお世話になってます。プロのコーチですが、わたしに教えてくれました。撞いたところと持っているキューを見て、「わたしはプロのコーチだから有料で教えているが、あなたはタダで教えてあげるので、毎日きたらいかがですか?」、そう言ってくれましたが、仕事が忙しくてなかなかいけませんでした。持っているキュウは新宿の名人の作、タップももうメーカが廃業してみることのできないもの。「タップを削らせてくれませんか」と町田さん。「どうぞ、お願いします」というと、丸く半球状に削りました。台の上のボールから50cmくらい離してボールとタップの円が重なればOKです。こんな削り方は初めて見ましたが、使ってみたら、この削り方はとてもいいものでした。下をついたときに打突点の精度と深さが違います。タップがいうことを聞いてくれます。チョークは常連会で2位になったときに賞品として小林先生に1ダース、「幻のチョーク」をいただいてます。多分あの商品は予定になかったものでした。わたしが2位だったので特別提供してくれたのです。どんな商品よりも貴重な品でした。小林先生が試合の時しか使わないものでだとわかったのは、2か月ぐらい後です。練習の時に使っていたら、小林先生(スリークッション世界チャンピオン)が慌ててわたしのところに来て「ebisuさん、そのチョークはとっくに売ってないんだ、わたしは大会の時しか使っていない」、それからは練習では使わないようにしました。日本にあるのは小林先生の在庫とわたしがもっている1ダースだけかもしれません。10個ほどどこかにしまってあるはず。
 ビリヤードは四百字詰め原稿用紙で3000~5000枚くらいの長編小説が書けそうです。やってきた仕事もそれぐらい書ける材料があります。(笑)



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  • 出版社/メーカー: 騒人社
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