SSブログ
A6-1 帝人とSRLの治験合弁会社の経緯 ブログトップ

#4824 帝人とSRL:治験合弁会社をめぐって(昔話)Sep. 17, 2022 [A6-1 帝人とSRLの治験合弁会社の経緯]

<最終更新情報>9/18朝11時


 もう昔話だから、経緯を書いても差し支えないだろう。あの時に何を考え、どう動いたのか、いまどう思うのか、視点をさ迷わせながら思い出してみたい。あのときには理由がわからなかった自分の行動も、いまならわかるかもしれない。幸いに、発信文書は管理番号を付して保管してあるので、記憶があいまいなところは5~8㎝のファイル8冊に閉じられた文書が助けてくれる。二日ばかりかけて関連部分だけ読み返してみた。
 帝人とSRLの治験合弁会社の経営へと至る過程で伏線ともいうべき流れがあるので、そこからボチボチと始めたい。

<CC社への出向>1993/6/1~94/9/30
 東北の臨床検査会社CC社への資本提携交渉を担当して、社長のTさんとの話がまとまり、資本提携にはわたしの出向が条件だという彼の要求で取締役経営管理室長に就任したのは1993年6月でした。
 経営分析資料を携えての交渉だった。売上予測値が彼がEXCELで営業所別に線形回帰した数字を積み上げたものと、わたしの予測値がほぼ一緒だった。パソコンを開いて営業所別の売上データと計算した予測値を見せながら説明してくれた。EXCELの計算式を見て、「ああ、線形回帰したのですね、わたしは別の方法で推計計算しています」と応じた。だから、今後三年間で次のようになるというわたしの損益シミュレーションが現実味を帯びた。EXCELの元データをみたら、3年分しかなかったから、推計計算精度が著しく落ちる。わたしは別の方法で推計していた。「どうやって計算したのか?」と問われたので、「決算データを五年分並べて、ヒアリングを1時間もすれば、グロスで線形回帰した推計データを修正してこれくらいの精度の推計計算ができるのです」と説明すると、真剣に話を聞いてくれた。資本提携なしには、経営が行き詰まることが明らかだった、そういう経営分析レポートになっていた。データを分析するときは先入観を一切排除する。そんなものがあるとそれに沿ったデータを集めて判断し、ミスリードすることになる。データを扱う上で一番難しいのは先入観を排除することだった。
 T橋社長が本社ビル内を案内するというので、社長室と同じフロアに営業所があり、血球計算機が置いてあった。それを見て、「なぜ、コールターを選びました?メンテナンスは無理でしょ?業界ナンバーワンの東亜の製品を選ばない理由があったのでしょうね」というとびっくりした顔。経理屋さんが検査機械のことなど知っているはずがないのです。しかもたまたまそこに置いてあったものでした。コールターの血球計算機の方が性能がいいことは承知していました。T橋社長の好みが少しわかったような気がしました。「決算書を見て材料費率が低いのが気になりました、どこか特別なコネクションがあるのでしょうね?普通はこの値段では入らない」と聞いたら、大株主でK澤会長の息子が大手の薬問屋「福神」へ勤務していて、そこ経由でした。結構無理した価格で入れていましたね。薬剤師でした。彼にも一度会ってます。T橋社長が「紹介する」と一席設けてくれました。
 CC社は本社ビル内にシステム部門があるので、開発中のものを見せてもらいました。パソコン並べてそれをボードにつなげて何か開発していました。開発中のボードに興味がわいたので、「裏を見ていいですか?」と許可をもらいひっくり返しました。マッピングではなくて、プリント基板でしたから、「これ、販売目的ですね?プリント基板ですからプロトタイプではない」と確認。プリント基板をつくるには金型が必要です。金型製作には200万円くらいかかるります。前職の産業用エレクトロニクス輸入商社で、ウィルトロン社のマルチコントローラと同等品の開発をしたときに、Nさんというエンジニアが、マッピングでプロトタイプをつくった後で、金型を発注してプリント基板をつくるのをそばで見ていました。マルチコントローラの原価計算はわたしがしていたので、経験があったのです。試作品でそんなお金はかけられないので、ハンダで線をつなぎます、マッピングと言います。T橋社長はぎょっとした顔してましたね、「こいつ何者?」。見逃しませんでした。用途を聞いたら、パソコン十台ほどをつないで使うためのマルチコントローラーでした。この会社のシステムを千葉ラボが導入して、生産性が悪いので別に独自開発して、91年7月に生産性を2-3倍にアップしていたので、千葉ラボの件を伏せて、社長室に戻ってから話をしました。「社長、あれ開発止めましょう、使っていた沖電気のパソコンは罫線も引けない代物、そしてアッセンブラでコントローラを開発する時代ではありません」、そう言いました。C言語での開発があたりまえでした。システム開発担当者はI崎常務取締役、残念ですが技術も頭も古すぎました。千葉ラボではIBM/AS-400ともう一台DBマシンを使って、生産性を2-3倍にしていました。「臨床検査業界では、わたしが一番システムに詳しいと思っていた…ebisuさんの底が見えない...」、出資交渉の時にそんなことがありました。だからT橋社長が、資本提携にわたしの出向を条件に入れたのです。同時進行で金沢市の臨床検査ラボの買収案件も担当して、話をまとめ終わっていたので、SRL社長の藤田さんは、「好きな方を選んでいい」とわたしに出向を勧めました。金沢の方は最終打ち合わせには藤田さんが同行しました。経営分析には今後の損益のシミュレーションと改善に必要な資源と現状の経営状態を表す25ゲージのレーダチャート、そして経営状態を数値で表した総合偏差値が書き込まれていました。これは1978年にHP-97とHP-67を使って統計計算アプリと自分でプログラミングして作成したシステムです。いまでもこれ以上の経営管理ツールは日本には存在しません。おそらくは世界中を見渡してもないでしょう。1978-1984年はシステム開発と経営改善では産業用エレクトロニクスの輸入専門商社でそういうレベルの仕事をしていました。別のところで詳しく書きます。SRLの原価計算システムを利益管理システムに改造する具体案も1985年にはもっていました。新規導入項目の価格設定とテスト数の伸びと原価低減のシミュレーションシステムを組み合わせるつもりでした。レーダーチャートの成長性指標群と収益性指標群がこれで管理できます。SRLで新設された関係会社管理部へ異動したときにはそれをEXCELに乗せ換えました。簡単な作業です。EXCELが仕事でつかえるくらい強力なツールになっていました。1度だけ、子会社全部の決算をそのレーダーチャートと総合偏差値で評価したことがあります。経営会議メンバーは資料として見ています。各社ごとに分析レポートを付けてありました。わたしがCC社へ取締役経営管理室長で出てしまったので、誰もその仕事を引き継げませんでした。
 わたしの経営改善はそうした大きなシミュレーションシステムの中で構想され、具体化され、PERTチャートでスケジュール化されたものです。常にそうしたシステム思考で経営改善の具体策を練り、年度に分けて達成目標値を設定して仕事してきました。だから、経営改善は具体的な構想ができた時点でうまくいくに決まっていました。あとは坦々と構想と単年度目標に従って実行するだけ。その部分はリスクがほとんどないので案外つまらないのです。

<システム開発工数比較>
 具体的なデータを挙げておきます。SRLで原価計算システムを担当した一人、同僚のH本さんはSRLを退職した後、ベンチャー企業の上場の仕事をして、監査役に収まっていますが、彼はわたしが入社4年目くらいの時に、八王子ラボに来てお酒を飲みながら「ebisuさんのいうことは10年たたないと理解できない」と話してました。上場準備のための原価計算システムはSRL側3人が2年かかっていますが、2000年に私は外食産業の原価計算システムの外部設計書を1週間で書き、NCDさんにお願いして1か月で完成しています。工数は1/24、いや、SRLの原価計算システム(1983~1985年)は担当者が3人ですから、工数は1/72です。NCDさん、仕様書を渡すと600万円で引き受けてくれました。1か月後にすぐに本稼働でした。ノートラブル。インターフェイスは必要なデータを示して、既存のカミサリー(調理工場)のシステムからピックアップしてもらいました。そちらはNECの子会社が担当していました。すり合わせは2回だけ。SRLは外注のNCDさんに原価計算システムだけで1億円以上支払ったはずです。システム開発費用って、やり方次第でこんなに違います。もっとも、原価計算システムチーム3名の中にはシステム開発の専門知識と経験の諜報を持ち合わせた人が一人もいません。原価計算を知っていたのはH本さんだけ。ラボの業務についても検査部が多すぎて専門知識がありませんでした。実施していた検査項目は3000でしたから、実に広範囲なのです。検査管理部長もメンバーでしたが、東京商船大学出身卒、臨床検査は知識がなかったのです。わたしは検査機械の共同開発や機器の購入業務をして、ラボの全検査部門へ日常、業務で出入りしていたので、門前の小僧で詳しいのです。固定資産管理業務に年に一度の棚卸もしますから、設備と全部の機械をチェックします。海外メーカからの見学希望にも対応していたので、全部署の業務を説明できます。SRL1300人の社員の中では一人だけです。前職のセキテクノトロンで、欧米50社の最先端の計測器類や理化学機器を見て、メーカのエンジニアによる新製品の説明会は全部聴いていたので、理解のベースがあったからです。6年間聴き続けました。毎月マイクロ波計測器の勉強会にディテクターがあって、制御系とデータ処理部があり、アウトプットのためのインターフェイスGPIBがついているのが標準的な構成でした。臨床検査機械は双方向のインターフェイスバスがついていませんでした。
 投資・固定資産管理システムも上場要件だったので、会計及び買掛金支払いシステムを8か月で作ったときに、並行して造りましたが、これも300万円くらいだったはず。減価償却費の予算精度が一桁アップしました。1億以上の誤差があったのが1000万円程度に縮小できました。設備投資や固定資産に該当する機器購入予算を入力できるようにしましたが、それまで固定資産投資予算は組まれていませんでしたので、実務設計の難易度が高かったのです。設計した通りに200部署ほどある組織を同じルールで一斉に動かしました。いい加減に行われていた固定資産棚卸の方法も固定資産管理ラベルも、実務設計をし直しています。システム的には原価計算システムと難易度がそう変わらなかったと思います。いや、投資・固定資産管理システムの方が難易度が高かったかもしれません。上場審査で、減価償却予算が1億円以上も外れたのでは、収益見通しの信頼性が審査上問題になると幹事証券会社の言い分でした。経理課長を飛ばして、富士銀行から出向していた経理部長からの直接の指示でした。銀行からの出向役員は臨床検査会社の仕事が理解できないのです。必要なスキルもありません。部長直接指示の仕事をやっても、課長は関係ありませんから評価しないわけです。組織上は勝手に仕事しているだけ。94年10月に経営管理部に戻ったときには、経理部が経営管理部となっており、84年の時の経理課長は取締役経営管理部長になっていました。中身は看板とは違って昔のまんま経理部でしたから、どうしてそんなことになるのか不思議でした。看板掛け変えても人が変わらなければ組織は変わらないということ、当たり前ですね。経理部を経営管理部にするためには、経営管理ができる人材をトップに据えなくてはいけません。当たり前のことを当たり前にやればよかっただけです。こういうところが、SRLの人事制度は硬直化していました。人事部長は元システム開発部長でした。大手六社と臨床病理学会の産学協同による臨床検査項目コード検討委員会に反対していました。システム開発部のK原課長が部長を無視して協力してくれました。そういう自由な会社でした。日本標準コードはそういう個人のネットワークで出来上がったのです。業界ナンバーワン企業としてSRLが果たした社会的貢献の中で一番大きいものでした。全国の病院システムが、その標準臨床検査項目コードで動いています。

<CC社への出向の経緯>1992年3月~5月
 前年にやった千葉ラボの生産性アップは稟議書「SMS再構築プラン:1991年7月15日」に損益シミュレーションを添付してありました、もちろん社長の藤田さんの決裁印が押されています。SRLの稟議書では初めて損益シミュレーションの添付されたものでしたから、周囲の興味を引きました。数か月でシミュレーションを超える実績が出て、報告してありますから、金沢の赤字の臨床検査ラボの経営改善も、短期間で実行すると判断したのでしょう。たしかに金沢の方が簡単でした。むずかしい方が仕事が面白いので、CC社を選びました。東北のラボとの資本提携はわたしの出向が資本提携の条件でもありましたので、わたしに拒否権はありませんでした。いや、むしろとても面白そうな仕事だと思いました。わたしのほうが乗り気だったのかもしれません。どうせやるなら、いくつか山を越えなければならないドラマに富んだ方が愉しいのです。

<「遺伝子ラボ採算シミュレーション」>94/1/15
 1年間社長のT橋さんとじっくりお付き合いして、人柄と経営に対する基本的な考え方をつかみ、それから黒字化へのプランを練っってます。黒磯と仙台のラボを見て、何人かの検査担当者と話してます。黒磯ラボにはそのとき自社開発したばかりのパソコンの「細菌システム」がありました。検査担当者に操作と機能の説明をお願いしてみましたら、「じつは使えない」と正直に話してくれました。使えないにもかかわらず、置いていったきりで開発した社員が黒磯のラボに来ないというのです。それで、本社に戻って開発担当者に理由を聞きました。「行っても文句言われるので行きません」という答え。これには心底驚きました。システム開発業務はマネジメント不在でした。システム商品などこんな体制でやれっこありません。即トラブルにつながります。ユーザーニーズをろくに聞かずに開発して、そのまま。ドキュメントも残っていません。担当常務の技術が古すぎる上に、ユーザーニーズを仕様書にまとめられません。確認した結果はT橋社長へ報告してます。それで、マルチコントローラの開発は沙汰闇になりました。システム担当役員には仕事がなくなりますから、居づらかったでしょう。勉強し直してもらうしかありませんが、わたしのマターではないので、T橋社長が自らI崎常務と話し合うことになったでしょうね。
 仙台の遺伝子ラボを見学して、病理医の玉橋先生、そして染色体検査課長と雑談しました。玉橋先生はパソコンへ病理診断用の画像を取り込んでいました。時系列で眺めるとグレーゾーンのところが判別がつくようになる、東北大学でやっていた時の百倍もの症例数を処理するので、自然にスキルが上がってしまうと言ってました。病理診断の精度は見た件数に比例すると仰ってました。だとすると、SRLの病理医の診断精度はダントツに高い。病理組織の画像を数万枚ディープラーニングすれば、病理診断の強力なツールになることがわかりました。画像診断システムを開発すれば、SRLはこの分野で世界トップレベルを走れます。SRLシステム部長は病理医のS田さんですから、わたしは彼とそういうビジョンを共有すべきでした。ここにも、大きなビジネスの芽がありました。

 TBLの染色体画像解析装置はSRLが導入したものと同じ英国エジンバラのIRS社製品ですが、培養の方法が異なりました。SRLは72時間培養ですが、このラボでは24時間培養でした。培養液の濃度に秘密がありました。「大丈夫?データはとってありますか?」と確認しました。SRLと方法の違いがあるので、SRL側でデータをとって確認しなければいけません。作業手順を同じにしないと品質管理上の問題が生じるので、CC社の仙台ラボにSRLの営業が受注した検体を外注できません。幸いに、SRL染色体課のI課長は一緒に仕事してますから、直接話ができます。SRLの染色体課のI原課長がデータに納得がいかないと、CC社の方をSRLの標準作業手順書通りに変更してもらう必要がありました。

(ラボの購買課に2年いて機器の購入担当をしていたのと、学術開発本部で1年半仕事していたので、ラボのほとんどの課長さんには個人的なコネクションができていました。仕事はしやすかったのです。学術開発本部長のI神さんは異動して半年後くらいから、本部内のマネジメントのほとんどをわたしに任せていました。学術情報部、開発部、精度保証部の三つの部がありました。毎週金曜日には藤田社長がラボ勤務で来ており、午後に開発部のメンバーと社長のミーテイングがありました。わたしの席の背中の壁が社長室でした。そういう経緯で、製薬メーカーとの検査試薬共同開発業務の標準化(PERTを使いました)。学術営業部の佐藤君が持ち込んだ仕事、沖縄米軍から要請のあった出生前診断検査受け入れのために、システム開発と実務デザイン。慶応大学病院産婦人科医との出生前診断検査MoM値の日本人標準値研究プロジェクトのSRL側マネジャーをわたしが担当していたことをご存じでした。ちょうどそのころ、藤田社長86年にOK出してくれた「臨床診断支援システム開発と事業化案」の10個のプロジェクトの内、臨床検査項目コードの日本標準制定プロジェクト(臨床検査大手6社と臨床病理学会の産学共同プロジェクト)は3年目に入っていました。藤田さんはそれもご存じだった。その後さらに2年ほどかかって、臨床病理学会から事実上の日本標準臨床検査コードが公表され、いま全国の病院システムがそのコードで動いています。)

 染色体検査を経営改善の核にして赤字会社であるCC社を売上高経常利益率15%の超優良会社へ再生する具体的なプランを固めました。SRLのどの子会社よりもダントツに業績が上になります。売上高経常利益率ではSRLすら超えてしまいます。T橋社長は案を了承。専務と常務が反対していました。SRLに仙台ラボを奪われると心配したのです。そんなつもりはわたしにはありません。高収益企業に生まれ変わらせて、社員の給与をアップして、愉しく働いてもらいたかっただけ。そこまで来るのに14か月かかってます。具体案の実行の前に、SRL創業社長の藤田さんへ最終確認のために本社へ赴きました。応接室には副社長の谷口さんも同席していました。谷口さんは一度仙台ラボを表敬訪問してました。経営改善案の説明をはじめると「聞いていない」というのです。一瞬、何だろうと思いました。つまりやるなということ。わたしは仕事は文書ですることにしているので、電話だけでなく定期的に文書でも藤田さんには連絡を入れていました。藤田社長の特命案件だったからです。すぐに理由に気がつきました。経営改善案を実施させたくなかったのです。子会社になると、その社長はSRL本社役員への就任が慣例でした。東北の会社の社長は毛色が違ったので、嫌ったのです。「わかりました、勇み足でした」と引き下がると、藤田さんと谷口さん顔を見合わせ、びっくりしています。反論を予想して、構えていたのだろうと思いました。この件の後、3年の約束のはずが、わずか15か月で出向解除辞令があわただしく出されました。わたしが辞職して東北の会社に転籍するかもしれないと思ったのかもしれません。染色体検査事業がなくても、一般検査ラボの生産性を2.5倍にするシステム導入は、1年前にSRLの子会社の千葉ラボ(SMS)で実験済みだった。赤字会社が優良会社に化ける方法は少なくとも二つはありましたから、SRLと縁を切ってもCC社は売上高経常利益率が10%の会社にはなったでしょう。
 そうはしなかった。出庫解除を受け入れました、そういう運命だったと受け止めたのです。かわいそうなことをしたと思います。その後つぶれて他社へ吸収合併されました。社長の藤田さんは、東北の臨床検査会社を100%子会社にしたかったのでしょう、そうでなければいらぬということ。藤田さんの別の面を見た思いがしました。赤字会社を黒字にして、その会社の社員に喜んでもらおうと思っていたから、藤田さんの本心が読めなかった私が愚かだった。前職の、産業用エレクトロニクス輸入商社で、会社の経営改善のための5つのプロジェクトを抱えて、青息吐息の会社を、生産性をアップするシステムを3つ開発して、売上高総利益率を28%から38%へアップさせて、高収益で財務安定性の高い会社へ生まれ変わらせたので、同じ仕事をするつもりでの出向希望だった。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」、いつでもそういうスタンスで仕事していました。世間よしにはその企業で働く人たちが入っています。わたしは創業社長である藤田さんの腹の底の底まで読まなければいけなかったのです。

<15か月で出向解除の経緯とその後の顛末>
 藤田さんはわたしを東北の臨床検査会社から引き揚げさせると同時に、N田営業担当常務を社長として送り込みました。三名出向しましたが、人選からは経営改善できないのは明らかでした。どうするのだろうと思って見守っていました。藤田さんにCC社の経営改善をするつもりはまるでなかった、そのまま放置しました。社長に据えたN田常務を外したかったのではないかと思います。予想通りに業績は悪化してSRLは手を引き、株式は他社へ譲渡しました。あれは藤田さんの思惑通りだったのでしょうか?失敗がなければ力量がなくても役員はなかなか外せない。創業社長の藤田さんにはかなわないなと思うと同時に、経営哲学の違いも大いに感じました。藤田さんは日本で初めて現役社長として2社(製薬メーカーの富士レビオと臨床検査会社のSRL)を上場させた人物だったので、それなりに敬意を抱いていたのです。

<本社経営管理部へ復帰>1994/10/1~12/末
 出向解除で本社経営管理部経営管理課長、社長室、購買部兼務の辞令が出ました。経営管理部は、元経理部が名称変更。経営管理機能はありませんでした。そういうスキルをもった人がいませんでしたね。経営統合システムのリニューアル、経営分析、経営改善具体策の提案、長期計画の立案と実行計画の立案、それらと連動した年次予算、そして検証、子会社の経営管理など。ただの経理屋さんの組織でした。
 わたしが本社へ戻ったときには社長は藤田さんから近藤さんに変わっていました。近藤さんは社長室兼務のわたしに、一度も仕事の指示をしたことがなかったように記憶している。記憶が正しいなら、経営管理課長と社長室と購買部の兼務は、近藤さんのやった人事ではなくて藤田さんだったかもしれませんね。厚生省の医系技官だった近藤さんが社長に就任したので、経営参謀としての役割を創業者の藤田さんが期待したのかもしれません。社長室兼務は当時のわたしにとっては、あの時点では不可解な人事でした。
 藤田さんは阿吽の呼吸で動けというタイプだったのかもしれません。わたしが買収を担当した金沢の臨床検査センターのときには相手側との最後の交渉のための会議のときに一緒でした。交渉が終了した後、外に出るとひばりが鳴いていました。「ひばりですね」と藤田さん、「ヒバリです、高いところにいるので姿が見えませんね」、「あとは任せます」。JAFCOと交渉事の時はお供はわたし一人でした。あのときは本社の打ち合わせ用テーブルで荒々しい意見を述べてわたしを困らせた後に、新宿の本社を出て山手線の電車に乗りました。浜松町で電車を降りて、JAFCO本社のある東芝ビルまで歩いている途中で、穏やかな表情を浮かべ、「やはりebisuさんの言う通りにやりましょうか」と仰った。からかわれていたのです。(笑)全部演技でした、すっかり騙されました。もちろん、JAFCOとの交渉の場でも、名演技を見せてくれました。ゆっくり、そしてときどきなが~い間をとる。大きな圧力がグーンと相手にかかる。あんな見事な演技は見たことがない、名優でした。ええ、交渉はうまくいきましたよ。見せたかったのだと思います。わたしは入社と同時に予算編成と予算管理を任されていたので、2年目に、一番大きな費目の材料費(検査試薬代)の3割コストカットを提案しました。購買課長が不可能だというので、谷口専務が「価格交渉プロジェクトをつくるからお前がやれ」と指示。これも上司からの仕事の依頼でないので評価の対象外でした。初年度16億円、ちゃんとやりました。3年間で50億円ほどカットしてます。わたしは平社員ですが、製薬メーカーからは担当営業と役員が必ず価格交渉に臨まれていました。こちらも数合わせで役員に立ちあっげもらいますが、試薬のことはさっぱりわからないので、わたしが交渉します。2か月のプロジェクトの約束が、効果が大きいので、購買部へ異動して続けてやれということで、異動辞令が出ました。1年後ぐらいにラボで親会社の元経理部長でその当時はSRLの監査役だっ外口さんに会社のバスの中で偶然会いました。「ebisuさん、ラボにいるの?どの部署?」、「購買です」、「購買か、じゃあ部長でしょ」、「いえ平社員です」、そう伝えると絶句されてましたね。富士レビオが上場したときの経理部長ですから、上場審査に耐えるシステム構築で苦労されえているはず。わたしが8か月で会計及び買掛金支払システムを本稼働させたのはもちろん、投資・固定資産管理システムをつくったのもご存じでした。親会社の人事ルールなら、わたしの3年目の職位は「購買部長」ということ。外口さんの一言がうれしかった。入社して2年目からはの3年間は一人で16~20億円利益を出していました。SRLの当時の年間利益の半分ほどでした。専務の指示ですから、上司は関係なし、仕組み上は人事評価に乗らないのです。自分で勝手に提案して、上司を飛び越えて指示を受けて、勝手に仕事しているということ。

 近藤さんから聞いた社長交代の経緯を書きます。藤田さんが社長を辞任し、後は役員間で社長を決めろと言い置いて取締役会を退席したのです。近藤さんが来る前なら赤石専務が社長だったかもしれません。彼は臨床検査技師、近藤さんは医師、社歴の一番浅い近藤さんが社長になりました。当然の結果でした。近藤さんが抜きんでいたのは事実で、匹敵するような人材がいませんでした。
 3部署兼務はSRLでは初めて、異例な人事でしたね。SRLへ転職した1984年2月、最初の仕事は所属は経理部で予算編成と管理、それと経営統合システム開発だったから、古巣に戻ったことになります。購買部も2年半、設備購入担当とシステム担当、製薬メーカー相手の検査試薬の価格交渉プロジェクトをやった経験があるので、ここも古巣でした。兼務の内容は1985年に開発した購買在庫管理システムのリニューアル。1週間で外部設計をして購買部のシステム担当者へ渡しました。システム担当者はなんだか不機嫌な顔をしました。富士通と汎用大型機で開発を考えていたようです。業務もシステムもわからず富士通のSEに丸投げだったのだろうと思います。1984年に開発した購買在庫管理システムは富士通の汎用大型機で運用していました。しかし1994年だからもう汎用大型機の時代ではありません。コンパクトなクライアントサーバーシステムを考え、そういう外部設計書を書きました。システム部から派遣されたシステム担当者は、素人が何を言うという顔をしました。SRLのシステム部は基幹業務システムだけで、経営統合システム開発はノータッチだったから、理解できるものが一人もいません。だれがメインで巨大な統合型パッケージシステムを創ったのかさえ知りません。突然の辞令で購買部へ舞い降りたわたしが、経営統合システムに関してはシステム全体も、それぞれの専門分野にも、業務にすら精通しているとは知らなかっただけ。あの態度では何を言っても無駄だったので、しばらく放っておきました。購買課長の尾形さんは、1985年に投資・固定資産管理システムを創ったときに、検査管理部側で投資・固定資産管理システムの固定資産の分類コードを作るために協力してくれた人だから、わたしがそっちの方面のエキスパートであることを知っていました、いずれ彼が部下を指導説得することになる、それでいい。
 元システム部関係者の古い社員が何か言ったのでしょうね、たぶん、渡辺さん。しぶしぶ引っ込んだのです。仕様書をNCDさんの宇田SEに渡せば、後はそのまま彼が仕事してくれます。1年半後にシステム部長の島田さんに本社のパーティで偶然会ったら、「あのときは失礼しました、ebisuさんのことを知らなかったので」丁重に謝っていました。購買在庫管理システムはわたしの外部設計書通りにつくられたのだろうと思います。島田さんは病理医にもかかわらず、どういう経緯かわかりませんがシステム部門を任された人。経営統合システムのアプリケーション分野の専門知識もないから、知っている人に聞けばいいだけ。病理医が原価計算システムや購買在庫管理システムに関わる専門知識なんて持ち合わせていないのはあたりまえ。他の人が担当したら、1年かけても同じレベルの仕事はできなかったでしょう。わたしには1週間で完了する程度の仕事でした。期待された仕事の一つは簡単に済ませた。たぶん、これも近藤さんはご存じなかった。半年もしないうちに、子会社への異動要求を突き付けたのですから。わたしがいなくなれば、経営管理課の二人の部下が会社を辞めるだろうことも予測の内でした。わたしの異動前から、上司に強い不満がありました。彼らからみたら、まったく仕事のできない上司に見えていたのです。元の木阿弥にしてしまいました。3か月で蹴っ飛ばしました。すこしわがままでしたね。

<SRL東京ラボへの出向>1995/1/3~96/11
 わたしは経営管理部の人事の件でカチンときたので、半年で関係会社へ強引に異動を願い出ました。通らなければ辞めるつもりでした。仕事のできない者が出世するのがSRLの遺伝子。あわてた担当役員のMさんはわたしが社長室も兼務になっているので、近藤社長と話し合ったのでしょう、出向要望をすぐに受け入れてくれて、一番歴史の古い子会社のSRL東京ラボへ出向。社長の箕輪さんは、SMS(千葉ラボ)の兼務社長でもありましたから、関係会社管理部でSMSの新システム導入支援を担当していたので、きつい時期に3か月ほど一緒に仕事してます。生産性が2倍以上にアップして、損益シミュレーション以上に利益が出て黒字化したので、仕事の信頼関係があって話がしやすかった。わたしが経営管理課長から子会社へ出向すると、SRLでは経営管理課の有能な社員が2人辞めてます。一人はエイベックスで国際経理課長、もう一人はベンチャー企業へ就職して40歳前後で経理担当役員になっています。一生懸命に仕事して実績を上げているのに、実績がない者を昇格させると、その下で働く有能な社員はやめていくのはモノの道理です。仕事の技量は一緒に仕事をしているものが一番よくわかっています。担当役員のMさんがわかっていないだけでした。だから人事はとっても大事です。「仕事と権限と責任と報酬は一体」のものです。有能な社員は給料をアップして転職できます。有能な社員は無能な上司の下ではしだいに仕事をするのが嫌になります。彼ら二人のキモチはよくわかりました。O君は、若いけどSRLの経理部長にしたいぐらい柔軟で優秀だった。経営管理部は元は経理部でした、看板を掛け変えただけ、経営管理ができる人材がいません。関係会社管理部がわたしのCC社出向で機能停止状態になり、廃部。そのあと管理会計課へ一部の業務が移ったようですが、経営管理は無理でした。わたしが帝人との治験合弁会社へ出向していた時に事業管理部が新設されましたが、そちらへ子会社の経営管理機能が移されました。旧知の友人H本さんが担当してました。

<帝人との合弁会社立ち上げプロジェクトへ合流>1996/11~99/9/30
 1996年11月に、SRL近藤社長から、帝人との治験合弁会社立ち上げのプロジェクトが暗礁に乗り上げたので、担当しろと「特命」がSRL東京ラボの箕輪社長にあった。親会社の社長である近藤さんの意向には逆らえないのでと箕輪さん。親会社の経営管理課長から子会社への「訳アリの出向」だったから、わたしが嫌がると思ったようだ。練馬のラボは建物の老朽化が激しく、重い検査機器を載せる床を支えるために各階ごとに鉄柱を何本も入れていた。大きな地震があれば崩れかねない。ラボの建て替えと同時にSRLグループ会社のラボ再編成ができないか複数のプランを箕輪さんと相談していたところだった。200mくらいの直線ラインを考えていた。SRL八王子ラボは業務量が増える都度、建物を増設したので、自動化にはまことに障害が大きかった。問題のほとんどが平面で200mの自動化処理ラインが構築できれば雲散霧消する。仕様書を書くのがずっと簡単になる。SRLの業務部もシステム部も仕様書を書ける社員がいなかった。検体は病理を除いては液体だから、搬送中に上下移動でジャムってしまったら、検体がダメになる。臨床検査センターとしては許されないことだ。だから、設計を容易にするために平面の長大なラインが不可欠だった。輪郭が固まったところで、親会社のSRL近藤社長へ相談に行くつもりだった。生産性を2倍に引き上げられたら、コスト競争力が増すだけでなく、検査精度がアップし、利益が劇的に増やせる。BMLの川越ラボを凌ぐ、高い生産性のラボをつくらないと長期的にはBMLに追いつかれる
 SRLが八王子ラボを現在の場所に移転したのは2017年ころだろうか。20年遅れたことになる。この事実はSRLの競争力を著しくそいでしまった。SRL東京ラボは、その後計画をあきらめ、一番コストの大きい現地建て替えをしている。なぜそんなことになったか?SRL本社から仕事の経験のない企画部門のT田さんを出向させたからだ。臨床検査のことも検査機械のこともシステム専門知識のない人物が仕事をした結果だ。近藤さんは200mの平面ラインの自動化ラボ計画が子会社のSRL東京ラボで進行中だったことをご存じなかっただろう。幻のSRL自動化巨大ラボ構想となってしまった。ラボで設備や機器購入を担当した2年半の間に、製薬メーカーや機械メーカと個人的なコネクションがいくつもできていた。共同開発も担当した。ファルマシアLKBは新製品の開発情報を一番先に私に知らせてくれるようになっていた。世界初の96チャンネルの紙フィルター式の液体シンチレーションカウンターは世界初導入。SRL仕様の100本ラックが使えるガンマーカウンターも開発してもらった。日本ではSRLの百本ラックが標準規格になっていた。デザインがいいのでRI部へ1台だけいれたら、3年くらい後に見たときには、全部がファルマシアLKB製品に変わっていた。あとで、どうしてそんなことが可能になったのかまとめて記しておく。検査試薬、マルチアレルゲンの仕入価格交渉がきっかけになった。3割値引きすれば販促が書けれれるので2倍以上仕入れることになる。日本でのシェアをアップしたければ値引きしろと迫った。2倍にならなければ仕入価格は元に戻すと約束した。日本法人の社長は受け入れてくれた。売上は急増し、日本法人の社長はご栄転。だから、ファルマシアは開発情報はすぐにくれたし、こちらの要求通りの仕様で製品開発をして、要求通りにカタログに載せてくれた。特注ではないから性能とデザインの良い検査機器を安価に導入できた。栄研化学のLX3000だったか9000という型番だったか、ビーズ酵素法の大型自動検査機が開発中だった。営業マンが取引契約書を締結したいと申し入れてきたので上場準備中だとわかった。それで何かを手伝ってあげたら、開発部長がお礼に情報をくれた。市場へ出す前にSRLでインスタレーションテストをやらないかと持ち掛け、半年独占仕様の契約を取り付けた。染色体自動解析装置の導入はニレコとの共同開発を中止させ、検査管理部の尾形さんと染色体課長の石原さんと検体を持ち込んでテストしたら、こちらの条件をクリアした。25分で5検体だったかな、処理できたので、すぐに2台導入した。英国メーカだったので、2台買う代わりに、1台をバックアップで置くように交渉した。故障が発生して1台しか動かなければ、クレームになるからだ。その代わり、BMLへ「SRLで導入した」と言っていい、必要なら見学もさせてやる、一円も値引きせずに売れるはずだと伝えた。こちらの狙い通りだった。日本電子輸入販売の担当者S野さんは、お礼にセントアンドリュースでゴルフをしようと言ってきた。会社の了解も取れたのでと、にこにこしていた。わたしはゴルフはしない、セントアンドリュースなら、根室のゴルフ場も似たようなもの。S野さんの落胆ぶりにすまない気がした。
 仕事をしていると次々にコネクションが広がっていく。だから、BMLの自動化ラインを凌ぐ200mの平面ラボを構想していた。ラボの生産性をアップすることで、SRLの競争力をさらに高め、BMLに決定的な差をつけるつもりだった。巨大自動化ラボが完成したら、米国進出すればいい。

 そういうタイミングで、SRL東京ラボから、暗礁に乗り上げてしまった帝人との治験合弁会社のプロジェクトへ参加して、隘路を切り拓く仕事を引き受けることになった。仕事は自分で選べないときもある、サラリマンだから仕方のない時もあるのだ。運命と思って受け入れた。ベートーヴェンのシンフォニー第五番「運命」が頭の中で鳴っていた。論理の人、近藤さんはわたしの使い方を間違えたのかもしれぬ。
 
<近藤社長の四条件>1995/11
 初めて、プロジェクトに参加するために11月下旬に本社ビルへ行き、エレベータ前で出かけるところだった近藤さんと出くわし、仕事の確認を立ち話した。彼の指示は四つ。
(1) 治験合弁会社を予定期限に立ち上げること(1月だったかな?)
(2) 黒字転換すること
(3) 合弁解消してTBL持ち分の資本を引き取りSRLの完全子会社にすること
(4) 帝人の臨床治験子会社である帝人バイオラボラトリーを買収し子会社化すること


 これら三つを、3年でやり遂げること。この時点では、どれくらいの採算なのかわたしには不明だった。治験事業の採算が悪いことは入社した1984年に予算編成と予算管理の責任者をしていたので知っていた。当時はスタートしたばかりで、治験事業は予算編成で部長職と課長職2人を相手に予算編成の打ち合わせをしてよく覚えていた。だから、旧知の社員がいた。
 近藤さんには、三年間でこの4課題は、「好きにやらないとできない仕事ですから、経営に関しては全権を委譲してください、随時文書で報告はします」というと、「任せる」と即答。そこから仕事はスタートした。度胸のい人だと思った。
 SRLの職能等級からわたしの職位は管理部門の責任者であって、平取締役ですらなかった。冗談がきついと思った。東北の臨床検査会社へ資本提携交渉をして出向したときには取締役だった。仕事の責任は合弁会社社長のH本さんよりもはるかに重かった。「仕事は権限と責任と報酬が一体でなければならない」、そんな経営の基本を近藤さんに言うのは気が引けた。気がついてほしかった。ただの駒にすぎないと言っているのも同然だが、近藤さんそういうことには感受性がない。この場面ではebisuが必要だから、投入しただけ。役職は職能等級相当。この四課題を引き受け、三年間でクリアできる人材はSRLには他にはいなかった。もちろん帝人にも、STBやTBLを黒字化できる人材はいなかった。
 帝人本社の石川常務は人を見る眼がしっかりしていた、自分の首が掛かっていた。社長や役員の仕事の半分は、人の力量を見極めて適材適所で使うことだろう。そして「仕事と権限と責任と報酬はセット」なのがあたりまえ。わたしがどんな仕事をしてきたのか近藤さんはまったくご存じなかったようだが、経歴を知らなくても、仕事の力量を見抜いて、わたしをSTB社長にして、TBLをSTB子会社に編成し直し、親会社になるSTB社長のわたしに経営を任せたいというのは正解でした。それが一番社員のためになることでした。黒字化すれば社員の給料は200万円はアップできます。残念だけど、経営者としての眼の確かさは帝人の石川専務に軍配を挙げるしかないようです。SRLは硬直化した職能等級制度が経営の重大なネックになっていました。人事制度が経営リスクだったのです。これも人事部長の選定を間違えたからです。臨床検査項目コードの日本標準を制定するための産学協同プロジェクトに反対した元システム部長でした。どこかセンスがくるっていて対極的な判断を間違える人だった。近藤さんはそんな人事部長を重用してしまってました。
 わたしはTBLについては1990年頃から黒字化の具体策を練り、買収案と具体的な黒字化案を用意してあったのですから、石川専務はいい嗅覚の持ち主だったかもしれませんね。

<近藤さんの入社の経緯と経営哲学>
 1990年頃厚生省の課長補佐だった近藤さんを藤田社長が引き抜いた。「調査役」という肩書だった。近藤さんが書いた調査レポートを読んだ。あれは、学術開発本部長の石神さんだったか、仲の良い同僚の加藤寛幸だったか判然としないが、どちらかがわたしに手渡してくれたものだった。加藤だろう。健康事業で厚生省回りをしていて、午前中から新聞をかぶって寝ている面白い課長補佐がいると話を聞いていた。「ebisuさんにそっくりだ」というので、「おれは新聞かぶって午前中から寝たことはない」と笑って答えた。加藤から聞いて、なんとなく興味がわいたのは事実だ。それが、1年もしないうちに入社してきで、経営に関する調査レポートをまとめたのである。切れ者だなあと思った。論理で割り切っているところがSRLの他の役員とはまるで違った。頭がいいのである。慶応大学医学部卒。間違いなくSRLの役員ではナンバーワンだった。それは他の役員も認めていた。同時に、書いてあることに情緒に欠けるところが見えて気になった。いまにして思うとカルロス・ゴーンタイプのコストカッターになりかねない人だった。わたしは何度か大きな経営改善をしてきたが、コストカッターで業績改善をしたことがない。そういう手段は絶対にとらないし、上手に経営改善したら、そんな残酷なことはしなくていい。経営の仕方がまずい経営者だけがそんなことを平気でやる。社員への憐憫の情を失ったら、社員の方でも経営者に愛想尽かしをするのが当然の反応である。それは結局、不要で弱い者から切っていくことにつながる。
 日本の伝統的なビジネス道徳は「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」である。近藤さんの書いたものに理詰めで割り切る強さを認めると同時に、大きな弱点があのときに見えた。それが、あとから災いとなるとは、予想外のことでした。

<立ち上げプロジェクトの大きなミス2つ>
 プロジェクトチームの一員となって、最優先は期限通りの会社の立ち上げだが、気になることが二つあった。経営管理部次長もメンバーだったが、わたしと交替。彼が主導で帝人バイオラボの売上計上を請求基準から、発生基準に切り換えることがすでに決定済みだった。ところが肝心の販売会計部からだれも参加していない。売掛金の管理で大問題が起きることはこの時点で予測していた。上場企業である巨大製薬メーカー相手の仕事がほとんどなので、先方様式の納品書を営業マンがちゃんと切っていれば、支払いは買掛金支払いシステムできちんとなされるから、大問題になっても売掛金の取りそこないはいい加減な営業マンが担当している会社だけ。SRLの買掛金支払いシステムと、購買在庫管理システム開発を1984年にやっているので、仕組みはよくわかっていた。ただ、売掛金消込みは営業サイドと売上債権管理を担当する部署の仕事。経理では責任のもてない仕事だった。大きな問題にならぬ限り、SRLの販売会計部から係長クラス半年派遣してもらうことはできない、だから放置した。消込できない残高が発生したら稟議書を書いて利益でカバーしたらいいだけ、割り切った。
 要するに、立ち上げのプロジェクトメンバーに、会社の仕組み全体に目配せできるメンバーがいなかった。経営管理部次長とメンバーにするという人選ミスがあった。もう一つの問題は、損益シミュレーションのないことだった。これも経営管理部マターである。精度の高い損益シミュレーションのできる管理職がいない。どちらも大きな問題だったが、これらを俎上にあげると新聞発表通りの会社創立が間に合わない。調整も作成も自分でやる羽目になる。それで、目をつぶった。あとで、売上高総利益率(Sales Margine Ratio)が18%しかないことが判明する。これは致命傷である。そのまま経営をしたら利益は永久に出せっこない。この会社はSMR27%ぐらいが損益分岐点である。治験検査では構造的に利益が出せないことが3か月もしないうちにわかった。近藤さん、無茶な合弁始めちゃった。何とかしてやらないと社長になって最初の大きな仕事で躓いてしまう。周りにしっかりしたブレーンが一人もいなかったので、メクラ蛇におじずだ。わたしが、社長室兼務のままでいれば、事前に相談があっただろうし、売掛金管理も、損益シミュレーションも当たり前の仕事だったから、ちゃんとやって、説明しただろう。近藤さんとはそれまで一緒に仕事してなかったから、わたしを職能等級で判断したのだろう。理詰めで経営を考えるが、経営センスはなかったのかもしれぬ。後に、破綻するに決まっている八王子ラボの自動化を指示して50億円ほど損失を出した。大失敗だったと聞いている。これも八王子ラボの役員や管理職の仕事のレベルを知らないからだった。システム部ですら構想案や仕様書を書ける人材がいなかった。いつも富士通の半端なスキルのSEが構想案と仕様書を書いてもってきていると、システム部門の関係者がわたしに説明してくれていた。購買在庫管理システムのリニューアルで、図らずも富士通のSEが書いたものを見てしまった。入社3年くらいの経験の浅いSEで見るに値しなかった。だから、一週間かけて、クライアントサーバーシステムで業務用サーバーでシステムを稼働させる仕様書を書いて渡した。

<経理屋はどこまで行っても経理屋>
 幅の狭い経理屋になってしまってはもうどうしようもありません。経理部門は放っておくとそういう人材の墓場になります。SRL経理部はわたしが本社へ戻るときには、経営管理部という名称になっていましたが、人はそのまま、システム部から一人、ほかに総合企画室から一人増員になっていただけで、後は経理屋さん。20代後半から

30代の中には数人、いま鍛えれば転身がきく人材がいました。部長も次長も損益シミュレーションすらできない、ただの経理屋でした。上司がダメなら部下は育ちません。わたしが経営管理課長をやめてSRL東京ラボへ出向した後に愛想をつかして有能な人4人の内、2人辞めています。部長も次長もシステム音痴でした。仕事のできない者を長い間にわたって組織のトップや2番手にすると、有能な若い部下が愛想をつかして辞めるだけではありませんよ。治験合弁会社立ち上げのプロジェクトでも、スタート地点で仕事の基本にかかわる重大なミスが二つも発生してしまっていました。
 社歴の一番若い取締役である近藤社長はそういうことが理解できなかった。職位で仕事を任せてはいけないのだが、SRLでは部長職なら、まるで経験のない部署へ異動するときも部長職。やる気のある有能な社員は次第にやる気をそがれる。社外でも通用する者から転職してしまっていました。近藤さんが社長になって間もなく、明らかな「前兆現象」が出ていたのですが、近藤さんは気がつきません。わたしもサインを送った一人でした。3部署兼務は名誉でもありましたが、わずか3か月で蹴っ飛ばして、子会社への出向願いを強引に押し通しました。こんな体制では、まともな経営管理業務なんてできませんという強いメッセージを送ったつもりでした。
 経理屋さんには、他の部署との仕事の関連が見えない。昇格させてはならぬ者を昇格させると、帝人との治験合弁会社の立ち上げプロジェクトでもスタートのところで基本的で重大ななミスを二つも重ねてしまうのです。すったもんだして誰も問題を解決できないし、スタート期限が守れない状況に追い込まれてしまってました。PERTチャートを造ってジョブを管理していたら、絶対に起きないトラブルでした。実務に必要な基本的なスキルのあるものが一人もいなかったということです。だから、立ち上げ当初から重大な事故をいくつも引き起こしてしまう。
 近藤さんは部長クラスや次長クラスの仕事の実力をたぶんご存じなかったのでしょう。社歴が浅いせいで、人材のネットワークをもっていませんでした。おそらく仕事のできる相談相手もいなかった。社長になって一番警戒すべきは、口のうまいのがすり寄ってくることです。「1年間だまってみていたらわかる」とは九州の臨床検査子会社JML社長だった工藤さんが、わたしがCC社の出向役員で行くときに贈ってくれた言葉です。その通りにしました。工藤さんは販売会計システム開発の責任者でした。途中まで進んでいて空中分解しそうだったところを、開発にストップをかけ、元から仕様の見直しをしてます。わたしが関係会社管理部にいたときに、一度JMLを訪問しています。社長室に社員全員の顔写真が壁に貼り付けてありました。名前も家族構成も知ってました。人のキモチのわかる経営者に育っていました。合弁会社もそうですが、JMLもSRLに対する反発がとっても強い会社でした。一度四月から方法変更で健診周りの検査項目でSRLと検査方法を統一しなければならないことがありました。SRLRI部が今頃言ってきてももう間に合わないとケンモホロロ、JMLの課長が関係会社管理部へ何とかしてほしい、ユーザーに迷惑が掛かってしまうと電話してきたのです。「15分したらもう一度電話してください、調整してみます」と電話を切ってRI部の担当課長と話をしました。「3月下旬になってからでは時間がないので困る、もっと早く言ってもらわないとスケジュールのやりくりがつかない、でもebisuさんからの依頼ですからやります」「検査試薬代が30万ほどかかるのでは?予算の手配はできるよ」と伝えると、「予備があるのでそちらでやりくりします。すぐに私宛に検体送らせてください」、JMLの課長からきっちり15分後に電話がありました。「話はついたから、RI部の〇〇課長宛てすぐに送ってください。検査料金はSRLの方で負担することにしました」、そう伝えると、電話の向こうで喜んでましたね。一度用事があってSRLにその人を含めて2人来たことがありました。一緒にお酒に誘って飲みました。こちらも用事があってJMLを一度訪問しましたが、ラボ内を案内してくれただけで、なんだかよそよそしいのです。お酒に誘ってくれないので、こちらから誘ったら断られました。親会社の人間と親しく酒なんか飲んだら、そのあとまずいのです。「裏切者」みたいな感情が生まれるのだそうです。むずかしいものです、社長の工藤さんよくやっているなと、思いました。
 近藤さんは彼をSRL本社の専務にしました。この人事はわたしも賛成でした。SRLの役員の中では抜きんでた実務派、人のキモチのわかる人でしたね。関西ペイントだったかな、ペンキ会社からの転職組でした。

<人の使い方>
 役員や部課長がそれぞれどんなスキルをもって、どういうレベルの仕事をしているのかを知らずに、職位だけで判断して経営をすると、仕事は基本を外してでたらめになり、いたるところで無用のトラブルが続発することになります。その後始末がまた大仕事になるから、しなくていい仕事に追われ、肝心な仕事に手が付けられなくなるのです。当時から、そうなっていました。誰もパーフェクトではありませんが、近藤さんは論理で割り切る強さをもっていましたが、それは情緒の裏づけが必要でしたが、そこが欠けていました。理由ははっきりしてました。大きな病院の次男坊で、慶応大学医学部卒の典型的な受験エリートだったからです。憐憫の情がありませんでした。無能な上司の下で使われて、我慢を強いられている有能な社員たちのキモチが理解できなかったのです。後で書きますが、帝人の臨床検査子会社を買収したときにそれが先鋭に出てしまいました。 20代や30代で家族を抱えていて、首を切られて違う業種へ転職せざるを得なくなる社員のキモチが理解できませんでした。論理で割り切る合理的な近藤さんの行動が経営哲学に支えられていたら、もっと違った結果になったでしょう。簡単なことで「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」でいいのです。近江商人の商道徳で経営はうまくいきます。実にシンプルです。経営をゲームのように見ていた節がありました。隙だらけでした。だからそこを補完する人材をそ

ばに置いて相談してことを決めていく慎重さが必要でした。どんなに利益をあげたって、そこで働く社員や準社員や派遣社員が不幸のどん底に落とされるなら、そんな経営に意味はないのです。そういう話を、社長室兼務の時にわたしが近藤社長に伝えるべきでした。深く反省しています。
 三方よしで仕事していると、会社が窮地の時にビジョンを示して、一緒にやろうと声をかけるとたいがいの者は一緒に苦労を共にしてくれます。うまくいったら報酬で報いてやるのはあたりまえです。

<合弁会社はすったもんだがあって当たり前:嵐の日々>
 とにかく日経新聞へ発表した通りの期日に合弁会社をスタートさせました。いろいろあったが、他のところで書いたので省略。文化も処遇も違うのでごたごたがあって当たり前です。一つだけ書くと、保管試料を確認してもらい、書類保管庫スペースを計算したときにTBL文の治験資料が極端に少ないことに気がつきました。そんなわけはない、絶対に見落とししていると判断しました。すぐに対応しなければいけませんので、相手側の調査がいい加減ではないのかとは言えず、念のためにSRL側の業務に詳しい人間を選んで一緒に確認させたら、他の場所からぞろぞろ出てきました。3倍くらいに膨れ上がりました。書類が手元にないと仕事にならないのです。やはり受託業務量に比例して治験資料がありました。急遽、借りる予定のビルの地下室を確保してます。資料を見るのに、エレベータで地下室まで行って、開錠して書類をピックアップしなければならない。著しく作業効率を悪化させてしまいました。
 スタート当初からえらく仕事のし甲斐のある合弁会社だと思いました。ヘンだと感じたら、即チェック。TBL社長のH本さんが合弁会社STBの社長を兼務。SRL側はO部さんが常務取締役。同数の役員にするという契約だったからです。後は非常勤役員が両社から二人ずつ。帝人側は石川常務ともう一人。SRLは営業担当役員のT村さんとラボ担当役員のH泉さん。実質的には役員全員が非常勤のようなものでした。治験業務やシステムを承知していないのですから。だから、取締役会の前に経営会議で物事を決めていきました。こちらはわたしが議長。自分で損益シミュレーション付きの経営改善案をつくり、会議に諮り、情報を共有してもらう。まとめて取締役会へ報告。あとで新たにできたSRL事業管理部から取締役会ではなくて、経営会議で重要事項が決まっているとお叱りを受けました。非常勤役員と2名の常勤役員は業務知識もないし経営のスキルもありません。そんな取締役会構成にしておいて、経営会議で部課長を集めて議論する以外にどのようなやり方があったのか、あきれてものが言えませんでした。新設された事業管理部にも、経営のわかる人材は一人もいなかったのです。
 経理を任せた坂本と、NTサーバーの管理を任せた梶谷は実によく働いてくれました。応用生物統計の専門家であるM野もよくやってくれた。データ管理のM宅も。死ぬ思いで仕事して、急速にスキルアップしてました。育ちつつありました、育たなければ会社がやっていけなくなります。自分の成長のためでもあり、一緒に働く仲間のためでもあることを自覚してくれてました。元々の治験事業のメンバーが一生懸命にやるのはあたりまえだから、個人名は挙げませんが、文句を言いながらよく頑張ってました。人間関係はたいへんでした、文化の異なる会社からの出向寄り合い所帯で、いずれ転籍を迫られます。普通は給料が下がってしまいます。赤字の会社ですからそのままではもちろん給料が下がってしまうことは眼に見えています。SRLの社員だって、TBLの社員と同じ給料になりかねません。ほとんどが辞めるでしょう。それぞれ仕事に自負があり、不満があり、不安があって衝突を繰り返してました。それぞれが自分の能力を発揮しないと、赤字の会社が黒字になるなんてことはない、嵐になるならなれ、気分はとっても楽観的でした。必ず打開の糸口は見つかりますから。(笑)
 
<そのままやったのでは永久に利益の出ない治験事業:経営方針転換>
 粗利益率が18%ではなにをどうやっても治験検査事業では赤字解消できないので、治験データ管理システムをパッケージ化してデータ管理事業へシフト、NTサーバーで開発しました。元々の治験事業でデータ管理を担っていたチームと、わたしが連れて行ったチームの両方の力を最大限に発揮しないと成功できない仕事でしたが、よくやってくれました。ベースにしたのは武田薬品向けの治験管理システムです。これが一番完成度が高いと古いチーム。それをNTサーバー担当の梶谷がよくやってくれた。パッケージを武器に当面は切り抜け、次のステップではまるで個人商店のような営業業務を標準化し、収益性の良い売上拡大を狙いました。
 6月ごろだったかな、帝人本社に事業方針を説明するように呼ばれました。STB社長のH本さん、震えて支離滅裂。それで経営方針をわたしが説明しました。「言うことは分かった。これまでわからなかったことが理解できた」、石川常務はそう言い切ってくれました。「合弁会社のSTBの経営には問題がない、問題はTBLの経営だ」と仰ってます。TBL社長も兼務していたH本さんきつかったでしょう。
 1年間で売上高粗利益率は18%から27%にアップしてます。赤字解消です。ところが1998年に新GLP基準が公報され、臨床治験の件数が1/4ほどとんでしまった。新GCP基準に対応に製薬メーカーの方で時間がかかったからです。23億円あった売り上げは、新事業をいれても20億円に減少しました。だが、手は打ってありました。病院向けの治験管理パッケージシステムを開発し売ればいい。東京の国立大学付属病院の治験管理システム開発が暗礁に乗り上げ、支援要請があったので、病院治験管理パッケージ・システム開発の参考になるので、無償での支援を決定しました。製薬メーカよりも病院の方がずっと数が多いのです、市場が大きい。治験データ管理パッケージシステムのビジネスのすそ野が広くなります。粗利益率を30%にアップする方法が見えてきました。

<帝人本社常務との大事なコミュニケーション>
 数か月たってびっくりしたことがありました。SRLから帝人へ治験検査が移管されてこないとH本社長が言うので、何の話かと聞いてみた。SRLの治験検査がTBLへ移管されるはずが、そうなっていないと主張していました。帝人本社にも、そうなるからと数字を予算に織り込んで報告していたのです。S山さんがTBLのナンバー2ですが、二人とも治験事業のことをご存じないので、勝手に妄想して数字をつくって帝人本社に「これで黒字化できる」と報告していたのです。SRLで受託した治験検査は当然SRLで実施する契約になっています。それをTBLへ移管したら、契約違反で訴えられます。品質保証体制がまるで違っているのですから。SRLは1988年から世界一基準の厳しいCAPライセンスラボです。TBLはそうではない。海外メーカーから見たら、まるで異なる品質保証体制のラボなのです。

 K山さん(薬学博士)という人がTBLに出向してきました。この人が石川常務とのパイプ役になってくれました。向こうからお誘いで一度二人だけでお酒を飲んで、会社の経営の現状とあと5年ほどで売上高総利益率(SMR)を35%にまでもっていき、SRL本体よりも高い給料を払って、苦労している社員に報いてやりたい、具体的な方法も忌憚なく話してます。
 帝人はその年に安居さんが帝人本社の社長になり、子会社の経営に新しいルールを作りました。「2年赤字が続いたら、社長直轄事業になる」ということ。TBLはずっと赤字で、その年も2億円以上の赤字の見込みでした。そのままでは、2年ルールが適用されて、石川常務と松崎専務が責任をとることになる。そういう窮地にありました。K山さん、石川常務に「経営のキーパーソンはebisuさん」と言われて、わたしに帝人側の内情をつまびらかにしてくれたのです。剛腕の安居さんは東大卒、帝人は本社エリートは一橋大閥で固めていました。松崎専務や石川専務、そしてTBL社長のH本さんはみな一ツ橋大卒でした。
 K山さんを通じて石川常務から具体的な提案がありました。「治験合弁会社STBを帝人本社との合弁会社にして、帝人バイオラボをSTBの子会社にしてもらいたい、STB社長はebisuさんにやってもらいたい」、これが石川常務の提案でした。石川常務はわたしの職位を勘違いしていたのでしょう。わたしに経営を任せたら、TBLも黒字化できると踏んだのでしょうね。その通りで申し入れはありがたいが、SRLの職能等級上は不可能な提案でした。S1等級は子会社の役員にもなれないくらいですから、社長職なんて、SRL本社が大騒ぎになります。

<TBL買収は90年頃から考えていた:運命の糸>
 TBLは1990年頃、染色体画像解析装置を導入していました。SRLが英国のIRS社製染色体画像解析装置3台を導入したのは1989年ころ、そのあとのことでした。日本電子輸入販売の営業担当S本さんから情報は得ていました。社外にも情報のネットワークがいくつもありました。購買課で一人で機器や設備の購入担当をやっていたのと、試薬の値下げ交渉プロジェクトを率いて、国際的な製薬メーカーや日本の製薬メーカーと3年間価格交渉を積みかさねていたからです。学術開発本部の本部長直属のスタッフとして異動してから、2社の買収構想を練っていました。染色体画像解析装置を導入しても、検体を集められるわけがありません。市場動向と品質管理を知らぬ社長の判断だと理解してましたから、CC社とTBLの2社は採算が悪化することも予測していました、いずれ買収可能になると
 TBLと東北の臨床検査会社CC社も業績が悪化して、染色体部門を拡張することで黒字化を狙ったのだろうと推測していました。染色体検査はSRLが外注市場の8割を握っていたので、これら2社は検体を集められない。業績はさらに悪化する、いずれ買収してみようという算段は学術開発本部で開発部の仕事をしていた時に構想していたのです。両方とも私が担当することになりました、運命とは恐ろしい。東北の会社には資本提携交渉を担当して、その会社の社長の強い要望で、経営企画室担当役員として出向してます。SRLの社内ルールではS1等級での役員出向はありえないのですが、創業社長の藤田さんの特命案件だったために、先方の要求に応じました。社長のT橋さんから、「あんたのところはどうなっているんだ?常務で送り込んできた社員と平取りのebisuさんと逆じゃないのか?」、後で外部からの評価について書きますが、彼にはそう言うだけの理由がありました。 

 東北の会社で染色体事業を拡張することで黒字転換の具体的な構想案を作ってあったので、それを実行するだけで、TBLの黒字転換は可能でした。ためしてみたい方法変更があった。培養に72時間かかっていたが、それを24時間で東北のラボがやっていた、培養液の濃度に秘密があった。SRLは生産力に限界があって染色体検査を受注抑制していたから、方法を同じにすればすぐに生産能力は25%増やせる。そこだけで2億円ほど利益が出るから、TBLの赤字解消が可能だった。社員の月収を平均で10万円/月アップしたかったので、もう2億円の利益のタネを探すだけでいい。これはラボシステムを再構築するだけで簡単にやれるが、どちらも軌道に乗せるまで、SRL染色体検査部とのいろいろな調整が必要なので3年かかる。課長の石原さんと横山さんとは染色体自動検査装置の導入で一緒に仕事しているので、パイプがあった。

<大きな給与格差を乗り越える具体策:課長職で300-400万円の差>
 ひとつ問題があった、STBは合弁会社だったので、机を並べて仕事しているのに、課長職で300-400万円の年収の差があった。親会社の干渉をなくして、独自に給与体系を決めるつもりでいたし、そういう話をSRLからの出向社員に話していた。将来かならず転籍になる、そのときに年収が減るのではかわいそうだ。だから、最低でもSRLの年収は保証してやる必要があった。TBLからの出向社員たちに、給料の違いへの不満がくすぶり始めていた。同じ仕事をしているのに、もらっている給料は大きな差があった。親会社への返戻金は同じにしていた。ようするにTBLとSRLでは給与差が大きかったのだ。黒字転換をして、給与体系を一つにしなければ、TBLから出向してきた社員の給与はアップできない。黒字転換が最優先課題であったが、それは半年でめどをつけた。SRLを超える給料アップのためにはSRL以上の高収益会社にしなければならない。めどは立っていた。後は一つずつ実行すればいいだけ。検体保管の事業化が、新GCP基準で可能になっていた。品質保証を整備し、保管検体の在庫管理システムをつくる必要があった。REVCO社製のディープフリーザー(-80度)9台に30000を超える検体が保管されていた。それを担当者の記憶だよりに入出庫作業していた。著しく時間も手間もかかっていた。在庫管理システムをつくり、実務デザインをし直せば生産性を3倍以上にアップできると踏んだ。営業マンを一人そちらへ異動させた。検体保管在庫管理システムをつくるために、自分で作業させて流れを体で覚えさせなくてはならない。その上で、実務設計とシステムデザインをするつもりだった。3か月はかかる。一緒に作業をすれば、システム技術を多少は移転できるだろう。わたしは、ひとつの部署には長くいられない、だから急いで人を育てなければならない。経理や経営管理はS本がすったもんだしながら、育ちつつあったし、NTサーバーの管理を任せたK谷もすばらしい仕事をしていた。応用生物統計のM野もいい仕事をして能力を発揮しだした。次は検体保管事業の番だ。記憶に頼る方式を改めて、実務設計をして検体保管在庫管理システムをつくり、品質保証をしなければ、お金がとれません。SRLの購買在庫管理スステムとはまったくことなるものになりそうでした。在庫管理システムと実務にSRLで一番詳しいのは、そのシステムの外部設計書を半分くらい書いたわたしでした。3か月くらいかかりそうです。-80度の超低温に耐えられる材質のチューブを選ばなくてはいけません。保管効率から底が平たいのがいい。ニプロとテルモのどちらかへ相談しないといけません。ラックもそれに合わせて設計します。保管効率のアップ(2倍)と入出庫の作業がスムーズにやれるようにを上げる実務設計が肝心でした。3か月あればシステムはできますが、問題は容器の方です。こちらのデザインができそうな社員はいませんから、ニプロかテルモに用途や作業を説明して提案をもらう必要がありました。一人営業担当に適性のあり祖王なものを選んで検体保管作業をやらせて、実務設計やシステム構築の仕事を経験させておきたいと思ってました。KYさんを指名してます。保管事業の採算はもう少し後で言及しようと思います。

<事業会社への格付け:利益を出せば親会社の了解なしに給与を決めていい>
 SRL社長の近藤さんはSTBを事業会社に位置づけてくれた。黒字転換したら、親会社の了承なしに独自に給与体系を決めていい、これはありがたかった。毎月レポートは送っていたので、こちらの構想が実現できるように、子会社への適用ルールを新設してくれた。近藤さんはTBLを買収したら管理系はわたしに任せるつもりでいた。実際にTBLを買収するとそうはいかなくなった。ラボの業務にSRL社内で詳しいのは何人もいない、わたしもそのうちの一人だったが、それを近藤さんはご存じなかった。そのあたりも後で「外部評価」のところでまとめて書こう。メーカーと検査機器の開発にもいくつかタッチしていた。千葉ラボに新規システムを導入して生産性を2.5倍にアップして黒字転換した件はわたしが関係会社管理部に所属して直接担当した案件だった。東北のラボから出向解除で本社勤務に戻るまで近藤さんとは仕事で接点がなかったので、彼はわたしを経理屋さんと誤解したのかもしれぬ。おまけに、経営管理課長と同時に社長室も兼務だったが、取締役経営管理部長へ子会社への異動希望を出したから、自動的に兼務先の社長室の仕事も蹴っ飛ばしたことになった。事情はつまびらかにしなかったので、わがままな奴だと思って当然である。

<検体保管事業に関わる品質保証体制整備:SMR目標値40%の高収益企業へ>
 検体保管事業が軌道に乗れば、治験データ管理パッケージシステムと新GCLP基準でのガッチリ品質保証された検体保管とセットで販売できるから、営業スタイルが一変する。営業の生産性が上がり、現有人員で無理しなくても売上拡大が可能になる。セットで営業することで検体検査も値引きの必要がなくなるので、検体検査の粗利益率を18%から30%にアップできる。そうしたベースの上に、利益率が8割の治験管理システム販売事業と利益率が40%の検体保管事業を軌道に乗せたら、粗利益率は40%を維持できる。5年後売上40億円、粗利益16億円が可能になる。社員は百人でも平均年収800万円で8億円だから、内部留保を厚くしながら、安定した経営の可能性が見え始めていた。
 実際には、出身母体で課長クラスで300万円以上の給与格差があり、ぐちゃぐちゃ、混とんとしていた。できるだけ早く転籍させて、同じ給料で処遇してやらないと、TBL出身者たちのこころが折れてしまう。SRL出身の社員も、準社員との間で数か所でトラブルが起きていた。強力なNTサーバーで社内メールを整備したので、部門を飛び越えて、わたしのところに相談が来ていた。扱いを間違えると準社員数人が辞職しかねない。社員でその分をカバーできるかといえば、それは不可能。自分の仕事しか見えていないのだ。高収益会社にできなければ、SRLからいずれ転籍を迫られるときに、給与がダウンする。結婚している社員は、奥さんに何と説明するのか?会社を辞めて転職したらと薦めるだろう。それもたいへんなこと。売上粗利益率たった18%の赤字子会社を黒字にしようと一緒に苦労している社員をそんな目にあわせたくなかった。

<合弁解消とTBLの子会社化実現>
 2年9か月目くらいに、合弁解消とTBLの子会社化が決まった。そうしたら、近藤さんはRI部門をSRLへ移管して、人員整理を帝人側に迫った。誰と話して決めたのか、よくない決断だった。社員全部は要らないから、不要な社員の再就職の斡旋を帝人側でしてもらいたいと、理詰めの交渉をしていた。もちろん、STBへ出向しているTBLの社員たちの耳に入る。「SRLはそんな会社か?」と、自分たちの未来をTBLからの出向社員たちは二重写しに見てしまった。わたしが高収益会社にしてSRL並での転籍を実現しようと言っていることも、だましているのではと疑心暗鬼が広がった。人の心の不安は燎原の火のごとくに広がる。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は潰えたと感じた。社員を整理するような非情な経営には手を貸すつもりがなかった。とても残念に思い、吹っ切れてしまった。話が違うと感じたのはTBLの社員だけではありません、わたしの方でも同じでした。要らなくなれば感嘆すお払い箱にするのがSRLの経営スタイル。ebisuさんが黒字化して利益を増やし年収をSRL並にして転籍を実現したいと言っても、SRLはそういう会社じゃない、TBLをみたらわかると、TBLから出向してきた社員たちががっかりしてました。なんだかとっても申し訳なかった。わたしが経営に参画していたら、避けられたであろう事態が、手の届かぬところでどんどん進んでいました。

 RI部のT幡さんをTBL社長に据えたんだったかな。彼はRI検査畑一筋で、他の検査部の経験がありません。だから、採算の悪いTBLのRI検査課を潰して、SRLへ移管しました。そこまではわたしも同じことをしますが、そこから先が違います。染色体検査へ余剰人員を投入します。トレーニングを1か月ほどやります。一生懸命に働いてくれる社員は会社の宝ですよ。SRL染色体検査課は生産体制が限界に来ていて、ずっと受注抑制していましたから、それが外せたら、SRLの営業部隊もやりやすいのです。染色体検査市場の8割を押さえていました。それでもニーズに届かなかったのです。チャンスでした。ところが新社長のT幡さんはRI部でずっと仕事してきた人で、そこまで視野が広がらない。近藤さんは、そういう人を選んでしまった。起こさなくていいトラブルをまた起こしてしまった。職能等級でS3は子会社社長がやれることになっていますが、職能等級と経営センスや経営スキルは何の関係もありません。近藤さん自身が失敗を重ねることで学ぶしかなかった。教えてもらったのでは身につかないのです。
 「近藤さん×T幡部長=リストラ」、集合の掛け算は積集合ですが、こんな方程式が成り立ってしまってました。とっても単純です。頭の良い近藤さんがどうして気がつかないのか不思議でした。わたしに聞けばよかったのです。「子会社化した後、TBLの経営はどうしたらいいのか?」と。具体案もSRL染色体検査部との調整も、わたしがやりましたよ、幸いにH泉さんが、非常勤役員でSTBへ来ていたので、彼と一緒に動けば、事は簡単でした。あっという間に黒字、それからゆっくりと考えたらよかったのです。「SRLの営業よし、SRL染色体検査部よし、TBLよしの三方よし」でした。もちろん成果は全部社長の近藤さんのものです。STBに出向していたTBLの社員も安心できただろうし、転籍時に夢を見ることができました。人間そうした明るい見通しで頑張ったときに、一番成果が出せるのです。明日がどうなるかわからない状態では全力で仕事できないのが普通の人です。人の使い方はかんたんなのです。一緒に夢を見て、それを着実に現実にするだけで爆発的な力を発揮してもらえます。
 SRLの人事制度が癌でした。だから優秀な社員が次々に辞めていくのです。日本の企業の人事制度は似たようなものかもしれません。長期的に見たら、実力があり、実績を上げた者を昇格させる米国流の経営にかなうはずがないのです。こんなことを続けていたら、日本企業から優秀な人材は外資系企業へ吸い寄せられ、日本企業全体が沈んでいきます。


<大屋社長体制の後の帝人のリストラ:苦い思い出>
 帝人側には苦い思い出があった。大屋さんの時代に最後の頃、ワンマンが行き過ぎて経営が傾いた。大手町の飯野ビルに本社があったが、余剰人員を隣のビルの一室に集めて、仕事を与えず辞めていくのをまった。精神を病む者も出たという、自殺した人も。同期の誰かがそこへ送り込まれ、耐えきれなくなって次々に辞めていく、そんな時代を経験した人が、定年退職後の職場に帝人側から出向していた。帝人は平取締役は62歳、常務や専務は64歳だったかな、役員定年制を敷いていますが、二度と「長期政権」で経営危機を招かないようにという配慮からです。不要な人材の就職斡旋を受け入れた帝人本社役員の脳裏には、あの時代のことが思いおこされていたのかもしれません。

<出処進退の潔さ>
 産業用エレクトロニクス専門輸入商社セキテクノトロンに勤務したとき(1978-1984年1月)に、上司の経理総務担当取締役から、創業社長はスタンフォード大卒で三井合同の幹部だった。戦後の財閥解体で、社員の首を切ったあと、社員の首を切って自分が残るわけにはいかぬと、辞職して、スタンフォード大で同期の友人だったヒューレットとパッカードのススメで、HP社の総代理店を始めたのだそうだ。

 やむを得ず人の首を切る立場になったら、最後は自分の出処進退も潔くすべきだ、それが日本人の情緒というもの。わたしは会ったこともないセキテクノトロンの創業社長の潔さに感化されていたのかもしれぬ。

 人の不幸の上に自分の幸せは築けないものです。TBLで解雇が始まってしまいました。直接関係なしですが、無関係でもありません。300ベッド弱の特例許可老人病院の理事長から常務理事で来てほしいと、半年ほど前からアプローチがありました。病院を核にして、その周りに老健施設、グループホーム、訪問看護会社などを配置して、シームレスな老人医療・介護を実現してみたいと思いましたね。一つうまくいったら、金太郎あめ方式で首都圏の周辺に10個くらい同じ方式で事業を拡大してみたい、そう思った。年収はSRL役員並みの提示でした。年収はどうでもよかった、夢を見たかったのです。当面の仕事は特例許可老人病院から療養型病院への転換のために、病棟建て替えが仕事でした。

<SRLは総合評価ではいい会社>
 それにしても、当時SRLはダントツに業界ナンバーワンだった。品質においても売上においても。ところが近年BMLに追い抜かれている。巨大自動化ラボの建設に20年も遅れ生産性向上が果たせなかったこと、硬直化した職能等級制度、仕事の実績とは無関係なところで、仕事のできぬ上司の判断だけで、昇給昇格が左右されることが長く続いたら、経営に大きなダメージになるのは必定。実際にそうなってしまった。有能な社員が、未来に希望がもてる会社へ変わってほしかった。

 次回は、仕事を通じていただいた外部評価を具体的に記したい。若い人たちの参考になるはずである。一部は反面教師としてかもしれぬが。
 裏返してみれば、SRLは職位に関わらず実に自由に仕事のできる会社であることも事実なのである。総合評価では好い会社なのです。もちろん、社長だった近藤さんも、総合評価では他の役員よりも断然抜きんでていました。しかし、わたしも含めて、だれもパーフェクトではなかっただけです。。お互いに経営という分野では優れたスキルと欠点を併せ持った人間でした。
 経営管理課長と社長室の兼務の時に、SRLの経営ビジョンについて忌憚なく話し合っていれば、まったく違うことになっていたことにいまさら気がついてます。帝人との臨床治験合弁会社もまるで別の形にと結果になったでしょう。わたしの方に配慮が足りなかった。しっかり手を組めば、巨大ラボの建設のあとは米国進出してSRLの売上規模は3倍になっていたかもしれません。夢まぼろしです。
 産学協同プロジェクトを二つやりましたが、どちらも業界ナンバーワンのSRLという看板なしには不可能な仕事でした。一つは日本標準臨床検査項目コード、全国の病院システムがこのコードで動いています。そしてもう一つが、慶応大学病院産婦人科医との出生前診断検査MoM値の日本標準値に関する共同プロジェクトとです。
 いい仕事の機会を与えてくれたSRLに感謝。...m(_ _)m

 近藤さんはSRLを辞めてから、根室までに会いに来てくれました。一緒に養老牛温泉へ一泊し、地域医療と教育について語り合いました。とっても楽しい2日間でした。左側のカテゴリ―欄の23番目に「養老牛温泉対話」というのがあります。そこに記事が7本アップしてあります。興味のある方はクリックご覧になってください。13年前、2009年のことだったのですね。SRLを辞めて10年目に来てくれました。そういうやさしい近藤さんに感謝...m(_ _)m

 健康でいてくれたらうれしい。



にほんブログ村

nice!(0)  コメント(0) 
A6-1 帝人とSRLの治験合弁会社の経緯 ブログトップ