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#5128 公理を変えて資本論を書き直す⑤:生産性シミュレーション Dec. 11, 2023 [A2. マルクスと数学]

企業経営に及ぼす生産性の影響を数字で確認するのが今回の目的です。投下労働量が同じでも生産性が1.5倍になれば、商品の価値(=売上)も1.5倍になります。つまり生産性というファクターを導入したら、労働価値説は成り立たないということ。こんな当たり前のことが『資本論第1巻』(1867年)以後、議論されたことがありません。マルクス自身は生産性向上を労働強度の強化で説明しますが、それは現実とは矛盾します。生産性向上は労働の軽減や短縮、作業の単純化を伴なうケースが多いのです。SRLでは最初の大きな生産性アップはRI部の分注作業の自動化(1983~87年)でした。小さなメーカーと共同で自動分注機を開発し、手作業での分注作業はゼロになりました。そのメーカーは大きく育って今ではPSS社という名前で上場している企業です。フランスが新型コロナ検査用にその会社の自動PCR検査機器を大量に購入して新聞をにぎわしました。生産性向上の裏には現場の工夫がそれぞれにあります。そうしたことを念頭に置きながら、シミュレーションデータを眺めてください。
 以下は産業用エレクトロニクスの輸入商社の経営改革実例がデータの背後にあります。



輸入商社  
<ケース1> 金額単位:百万円
社員数(人) 150
売上 4,000
1人当たり売上 26.7
売上総利益率 30%
売上総利益率 1200
物件費 450
1人当たり人件費 5
総人件費 750
売上原価 1200
利益 0
10年後自己資本額 10
20年後自己資本 10


 業種は輸入商社、資本金は1億円、売上規模は40億円、社員数は150名の中小企業を想定したシミュレーションです。
 社員の平均年収は500万円とします。粗利は30%ですから、売上総利益は年間12億円です。ここからすべての人件費と物件費を支払うものとします。
●人件費総額 500万円×150人=7.5億円…労働分配率は62.5
●物件費 4.5億円
 増資しないと、運転資金が回らないでしょう。こんな企業で増資に応じる株主は考えにくいのです。数年で経営破綻します。

<ケース2では、社員数はそのままで売上が1.5倍になりました。生産性が1.5倍になったということです。


<ケース2> 金額単位:百万円
社員数(人) 150
売上 6,000
1人当たり売上 40
売上総利益率 30%
売上総利益 1800
物件費 450
1人当たり人件費 8
総人件費 1200
売上原価 1650
経常利益 150
売上高経常利益率 2.5%
売上高税引後利益 90
10年後自己資本額 900
20年後自己資本 1600


売上総利益が12億円から18億円に増えていますから、社員の平均年収を500万円から800万円に増やせます。経常利益が1.5億円になるので、40%が法人税と法人住民税とすると、税引き後利益は9000万円になります。配当を資本金の10%支払うとすると、内部留保は8000万円です。10年後には自己資本額は9億円になります。
 10年後には自己資本が充実して、財務安定性がしっかりしてきました。

<ケース3>では、生産性が1.5倍、売上高総利益率が30%から40%へアップしています。物件費も10%強アップ、オフィスを新しいビルに移しました。社員の平均年収は1000万円です


<ケース3> 金額単位:百万円
社員数(人) 150
売上 6,000
1人当たり売上 40
売上総利益率 40%
売上総利益 2400
物件費 500
1人当たり人件費 10
総人件費 1500
売上原価 2000
経常利益 500
売上高経常利益率 8.3%
税引後利益 300
10年後自己資本額 3000
20年後自己資本 5800

 経常利益は5億円、配当を10%、税金を40%、2億円支払い、配当を1千万円支払うと、内部留保に2.9億円回せます。10年後には30億円の内部留保になります。
 自然災害などで、売上が50%ダウンしても3年は持ちこたえられます。
 生産性を50%アップして、売上高総利益率を30%から40%へアップすることができたら、社員の年収は2倍、3年間売上が半減してもそれまで通りに給料を支払い続けて持ちこたえられる企業になるということです。財務安定性の盤石な企業となります。

<ケース4売上高総利益率が30%から25%へダウンしたときのシミュレーションです。産業用エレクトロニクスの専門輸入商社では、急激に円安が進むとこういう事態に見舞われていました。為替変動に対する対策がなかったからです。
<ケース4>  
社員数(人) 150
売上 4,000
1人当たり売上 26.7
売上総利益率 25%
売上総利益 1000
物件費 400
1人当たり人件費 4
総人件費 600
売上原価 1000
経常利益 0
売上高経常利益率 0.0%
税引後利益 0
10年後自己資本額 10
20年後自己資本 10

 社員の平均年収が5百万円から4百万円に下がっています。下げざるを得ません。赤字の会社に賞与を支給するために融資してくれる銀行はありません。社長が自宅を担保に借入しない限り、融資はないのです。だから、社員の給与を下げざるをえません。
 <ケース1>に比べて生産性は下がっていませんが、売上総利益率が下がるとこういうことが起きます。生産性が下がっても同様に社員の年収を削らざるを得ないのです。
 <ケース4>のような企業は賃上げ闘争をしたって無駄です。経営者に経営能力がないのですから、さっさと見限って他に企業へ転職したほうがいいのです。

 予算管理がなされ、決算情報が社員へ公開されている<ケース2>や<ケース3>のような企業では、経営者と賃上げの交渉のテーブルにつくべきです。そして経営分析をして、どれくらい賃上げの余地があるのか、そしてどれだけ賃上げするのか、しっかり話し合いましょう。

 シミュレーションに使ったデータはおおむね1978~1983年まで勤務していた産業用エレクトロニクスの輸入商社をベースにしています。当時の貨幣価値に換算する場合は0.60.7掛けで考えてもらえば、現実に近い数字になります。

 為替変動対策がなかったので、わたしが入社する1978年以前の円安時にはボーナス支給が1か月なんてことがあったようです。円安になると会社は赤字です。できるだけ赤字を小さくするために決算月の10月末に、集中的に受注管理をして、受注した製品をその月に納品できるように無理な努力をしていました。その結果、普段の月の2か月分の売上が立ちます。翌月は通常月の半分しか売上が立ちません。みんな決算月に振り回されるのです。こういう円安の非常時には、社長が銀行借り入れに担保を差し出していたでしょう。

 定価表がなく、営業マンがそれぞれ自分の受注ごとに見積書を作成発行していました。使用する為替レートは営業マンごとにバラバラでした。日本電気府中工場と横浜工場では担当営業所が違うために、同じ製品なのに見積金額が異なるなんて不都合が起きてクレームになっていました。東京営業所長のEさんが京セラの黎明期に稲森和夫の薫陶を受けた優秀な人で、セールスで抜群の成績を上げるだけでなく、営業事務の合理化に鋭い意見をもっていました。円定価表を作成して全営業所へ配布して営業活動しようということになりました。利益重点営業委員会というのがあって、彼がそのメンバーで、唯一の実務担当でもあったのです。Eさんは「営業マンが外へ出ないで、時間の半分は事務所で見積書を作成したり、納期の督促の英文レターを書いている。円定価表をつくって女子社員が見積書を作成できるようになれば、売上は1.5倍にできる。円定価システムをつくりたいので協力してくれ」そう申し入れてきました。よく二人で酒を飲みました。
 わたしは入社して1週間後に経営改革のための5つのプロジェクト(長期経営計画委員会・収益見通し分析委員会・為替対策委員会・電算化推進委員会・資金投資計画委員会)を任されていましたから、為替対策もわたしの仕事でした。それで為替対策と円定価表をセットで問題を解決する方法を考えました。
 受注時の「円定価レート」と仕入時の「仕入レート」と「決済レート」を連動しそれらと為替予約を組み合わせる
ことで、為替リスクをゼロにしました。金利裁定取引で先物は常に円高で為替差益が数千万円恒常的に発生するようになりました。注文する取引先も為替変動の影響受けず、契約時の円定価で購入できるので、為替変動を心配しなくてよくなったのです。円定価表は3か月に一度、為替相場をいくつかの移動平均値で観察して、30日移動平均値で傾向をみて、連動させることにしました。自動的に計算できるような仕組みを入れました。こういうことは人に依存してはいけません。
 定価表を3か月に一度オフコンでプリント、更新することで、製品分野別に売上総利益率のコントロールができるようになりました。それで売上高総利益率を30%から40%へアップしたのです。欧米50社から世界最先端の産業用エレクトロニクス製品や軍事用エレクトロニクス製品ですから、競合品が少ないのです。すぐに効果が出ました。40%へもっていくのに、2年ほどかかっています。受注管理や納期管理システムの開発も必要でした。

 高収益企業となり、内部留保が溜まって財務安定性が強化され、10年後くらいにで株式上場していますが。東大出の3代目に変わって業績不振で上場廃止、2010年頃に他社へ吸収合併されています。あのころ20代だった社員は定年前に会社が経営破綻して、たいへんな苦労をしたと思います。

 労働価値説が真なら、長時間労働すれば商品の価値がアップしますが、そんなことはありません。生産性を2倍にあげたら、商品生産量は2倍となり、売上(=商品の価値)も2倍になります。1.5倍にし、
売上総利益率を30%から40%へアップできたら<ケース3>にあるように給料は2倍にできるのです。品質を維持あるいは品質を向上させて生産性を上げれば大幅な賃上げが可能になることがお分かりいただけたと思います
 商品の価値を決めている因子はたくさんあります。生産性、品質、耐用年数、故障率、使いやすさ、デザインの良さ、使う材料の良さ、仕事をしている人たちのスキルの高さ・仕事の精度、ダイヤモンドのように希少性も商品の価値を高める大きな要因です、水だって飲み水が全地球規模で不足すればその商品価値は膨れ上がります。要するに商品の価値を決めている要因は無数にあるということ
 そんな当たり前のことが、労働価値説に立ってしまうと、マルクスがそうであったように一切見えなくなります。マルクスが『資本論』を1867年に出版してから156年が過ぎましたが、マルクス経済学者で生産性と商品の価値の問題を取り上げた人はほとんど聞いたことがありません。

 マネジメントが下手な経営者は、生産性を上げても社員の給料を上げません。価格を下げて競争力を確保しようとするからです。
 30年前に比べて、上場企業の取締役の報酬は2~3倍になっていますが、従業員(社員と非正規雇用者)の平均給与はアップしていません。どういう神経しているのでしょうね。
 「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」
 こうしたビジネス倫理に照らせば、愚の骨頂の経営です。日産のカルロス・ゴーンのような下劣な経営者は一人だけでたくさんです。
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は江戸時代から日本企業が受け継いできたビジネス倫理です。多くの上場企業の経営者が日本の伝統的なビジネス倫理を忘れています

 予算や決算データを公開して、データに基づいて社員と話し合う企業が増えてほしいと思っています


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<余談-1
:関周さん>
 このシミュレーションは産業用エレクトロニクス輸入商社のデータがベースになっています。創業者はスタンフォード大を卒業し、三井合同で人事関係の仕事をしていたお父さんです、関周さんは2代目。お父さんは戦後の財閥解体で、社員の首切りをしなければなりませんでした。その解雇処理という仕事をした後に三井合同を離職しています。「人の首を切って自分が会社に居残るのは嫌だった」と創業社長が言っていたそうです。わたしの入社時の上司だった総務経理担当取締役の中村さんから聞いた話です。中村さんも創業社長の情緒や潔さを受け継いだ人でした
 スタンフォードでHP社の創業者になるヒューレッドとパッカードの2名と友人だった縁で、HP社の日本総代理店をやらないかと話があり、HP社日本総代理店としてスタートした企業でした。後に、HP社は横河電機とと合弁でYHP社を立ち上げます。それで、従業員の半数以上を新会社へ引き取ってもらい、他の欧米のメーカーと総代理店契約を締結して、再スタートしています。2代目の関周さんは慶応大学大学院経済学専攻科で学んだ人でした。大学へ残る道はあったでしょうが、二代目ですから、会社を継がなければならなかったのだろうと思います。少し気の毒な気がします。
 1978年9月の新聞募集広告での中途入社でしたが、1週間後には社運を賭ける6つのプロジェクトを公表し、5つをわたしに任せました。残り1つは利益重点委員会でしたから、ナンバーワン営業の東京営業所長の遠藤さんに任せたのです。プロジェクトメンバーは取締役と部長職1人、課長職が全部で3名でした。実務は5つのプロジェクトはわたしが、利益重点営業委員会は遠藤さんが担当でした。他のメンバーは提案とその進捗の報告を聞くだけでしたね。
 入社したばかりのわたしに社運を賭けた5つのプロジェクトを任せるというのは、関周さん、ずいぶん大胆不敵な人でした。森英恵の会社の方を先に受けて社長面接で採用が決まったので、履歴書を送ってあった関商事の方へ断りの電話を入れたら、経理総務担当取締役の中村さんが、断りでもいいから電話じゃなくて社長に会って直接話をしてみろと言われて、青山の森英恵の本社ビルを出て、関商事のある日本橋人形町へ向かいました。技術部の前を通ったら、さまざまな電子機器が乱雑に置かれてました。マイクロ波計測器用の制御用高性能パソコンや4色プロッターも転がっていました。少年の心を少し残していたわたしの目には魅力的に映りました。「いじってみたい!」(笑) 社長室に通され、関さんと話したら、慶応大学大学院で経済学を学んだことのある人で、同じ経済学の専門家でした。わたし学んだ東京経済大学大学院は開設して10年間合格者なし、文部省からクレームがあり、合格者を出さないなら設置許可を取り消すと言われて、わたしは2期生、2人の合格者の一人でした。そのころの大学院の入試難易度は慶応大学大学院と一緒です。専門がマルクス経済学で『資本論』体系構成に関する研究をしたことを告げました。簿記と珠算が1級(どちらも日商)だったのでそこが異色だったかもしれません。関さんはそのころ40代半ばで会社経営に行き詰まっていました。固定相場制から変動相場制になって今までのやり方が通用しなくなっていたのです。
 いい社長に恵まれました。いい仕事がなければスキルは磨きようがありませんので。その関周さんと経営統合システム開発を巡って、意見が対立し辞職することになるのですから、運命はわからぬものです。辞職を申し出たのが11月下旬でした。引継ぎを1月末までやってほしいと頼まれ、その通りにしました。
 年が明けて、1月に新聞を見て職を探し、リクルート社が斡旋をしていたので、経歴書を持参して試験を受けました。7段階で最高ランクだったので、いい就職先のファイルがオープンになりました。面接を担当してくれた人から、「面白そうだから転職しなくても5年後にもう一度リクルート社へ来てテストと面接を受けてほしい」といわれました。そのときの偏差値は72でしたが、「5年後にはあなたはもっとアップしている」と告げられました。年齢が高くなれば普通は偏差値が下がるんだそうです。面接官の興味を惹いたようでした。
 SRLとプレジデント社とフェアチャイルドジャパン社の3社を選んで2社会社訪問し、成長企業であったSRLを選びました。たしかSRLが一番給料が安かった。500万円くらいの提示でした。フェアチャイルド社は経理課長職で850万円でした。外資はあのころから年収が高かったのです。1984年1月のことです。
 2/1からSRLで仕事しました。2月になってから日商岩井から転職してきた総務部長から電話があり、日商岩井のシステム子会社に課長職で推薦できるので行かないかとお誘いを受けました。SRLで働いていたのでありがたいけど断りました。営業部長の関さん(社長とは親戚ではない)からも電話をもらい、同期が帝人エレクトロニクスにいるので、課長職で転職しないかとオファーを受けました。6年間一緒にシステム開発していたオービックの芹沢SEからも、取引先に輸入商社が20社ほどあるので、輸入商社向けのパッケージソフト開発をしたいので来ないかとお誘いを受けました。彼はそのご開発担当役員になっています。優しくて人情味のある人たちと仕事していたことに会社を辞めて気づかされました。
 すぐに就職が決められる、いい時代でした。SRLでも予算編成と管理の仕事がわたしに回ってきました。入社1か月後には経営統合システム開発の仕事もわたしの担当になりました。産業用エレクトロニクスの輸入商社の10倍以上の規模の開発でした。ラッキーでした。エレクトロニクス輸入商社でも経営統合システム開発をしていたので、何だか続きをしているようでしたね。わたしに任されたのは、会計システムと、買掛金支払いシステムそして投資・固定資産管理システム、各サブシステム(購買在庫管理システム・販売会計システム、原価計算システム)とのインターフェイスでした。8か月で本稼働させています。パッケージソフトの開発のような仕事でした。ここでもスキルがかなり上がりました。米国で出版された会計情報システムに関する専門書がずいぶん役に立ちました。当時はこういう本の翻訳なんかでないのです。システム開発の専門知識と管理会計学の専門知識の両方を兼ね備えた学者がいませんでした。管理会計学の分野でも最先端にいましたから、仕事に夢中でした。

<余談-2:辞職の決意>
 なぜ関商事を辞職したのか今まで書いたことがないので、書いておきます。
 入社して2年目だったかな、受注・受注残・納期管理システムを開発しました。関商事へ入社するまでコンピュータなんて触ったこともありません。だから在職中の6年間でシステム開発関係の専門書を50冊以上読んでいます。10冊ぐらいは英語で書かれた専門書でした。社会人となったら数学も英語も必要になります。それができないならできないなりの仕事しか回ってこないでしょう。社運を賭けるようなプロジェクトを半端な能力の人間に任せたら、会社がつぶれかねませんから。
 入社1か月目に関さんが米国出張して帰ってくると、朝わたしの机の上にHP67がありました。社長秘書に聞くと、「社長がebisuさんにって置いていきました」。うれしかった。プログラマブル関数計算機で、マイクロ波計測器の制御ができるインターフェイスをもった小型コンピュータでした。当時11万円ですから、大卒初任給とほぼ一緒でした。1週間でで400頁の英文マニュアル2冊を読んで数値計算プログラミングをマスターしました。逆ポーランド記法、RPNというとっても扱いやすい数値プログラミング言語でした。経営分析モデルを創るために毎日電卓で膨大な計算をしていました。それを見ていて、いけないなと思ったのでしょう、強力な武器を与えてくれました。線形回帰分析がこの小型コンピュータでやると、電卓で1日かかるような計算が30分で済みます。25ゲージ5ディメンションのレーダチャートと総合偏差値評価モデルをこの時につくりました。13年後にSRLでEXCELに乗せ換えて、子会社関係会社の業績評価システムとして使いました。1992年でも、最先端の業績評価モデルでした。会社の買収の際の買収価格算定にも利用しています。
 関商事へ入社2か月目にはHP96が朝、机の上に載っていました。こちらなプリンター付きで、キーが大きくて扱いやすい、22万円の上位機種でした。HP67は社内ではナンバーワン営業の東京営業所長だけ、入社早々のわたしには、倍の値段の上位機種まで社長がプレゼントしてくれました。まったくの特別待遇でした。社長にしてみたら、5つの経営改革プロジェクトを一人で担わせているのですから、経営分析モデル作成や、経営改善のための経営分析だけに時間を使ってほしくないわけです。社長の目論見通りでしたね。3か月後には三菱電機製のオフコンの3日間のプログラム講習会へ行かせてもらって、COOLという12ケタのダイレクトアドレッシングの言語をマスターしました。3ケタのオペコードに3ケタのオペランドが3個で構成された言語でした。ハードディスクの使用エリアはプログラマー側で指定します。さっそくプログラミングして営業部別・営業所別の売上総利益表を出力してみました。それまで、営業部別・営業所別の売上総利益データがなくて、管理できていませんでした。これがあるお陰で、後から円定価表システムをつくり粗利益をコントロールするようになると、実績結果の対比ができるようになったのです。2代目のオフコンはコンパイラー言語で走るマシンでした。これも3日間の講習に行かせてもらいマスターしました。3言語目でした。PTOGRESSⅡという言語でした。
 納期管理システムで仕入処理を電算化しました。それまで業務課員が手計算していた輸入処理業務はコンピュータ入力すればいいだけで、単純作業になりました。ここでも生産性がアップしていました。もちろん業務の精度は格段に高くなっています。受注データに製品の納期を更新することで、売上推計が可能になりました。為替対策も受注レートと仕入レートと決済レートを連動させることで、高い確率でか為替予約でリスクのカバーができるようになったのです。経理課長のNさん喜んでいました。
 もう為替変動を心配する必要もないし、決算月に売上を2倍計上する必要もない、毎月すれすれの資金繰りで銀行と交渉する必要もなくなったのです。
 会計システムを含めてこれらのシステムを1台の汎用コンピュータで統合システムとして運用しようということになり、NEC製の汎用小型コンピュータ導入が決まりました。社長はコンピュータを三菱から大口取引先であるNECへ変更するのに、ナンバーワンSEの派遣を条件に出しました。難易度の高い仕事ですから当然です。高島さんというSEが担当することになりました。それまで担当してくれていたオービックのSE芹沢さんも凄腕の人でした。外部設計と実務設計はわたしの仕事で、高島さんは内部設計という役割分担でスタート。システム開発で一番難易度の高いのは実務設計です。ここがしっかりしていて、プログラミング仕様レベルで詳細な外部設計がなされていたら、内部設計は試行錯誤がなくなります。プログラミングの工数を半分程度に抑えられます。
 この仕事が進みだした時に、関社長は大学同期の友人でSEだというMさんをシステム開発の助言をしてもらうために1か月間社内でヒアリング調査をさせたのです。外資で撤退したコンピュータメーカにいた方ということしかわかりませんでした。1か月たって調査報告書が出てきて、電算化推進委員会のメンバー全員で読みました。読んでSEではないことが内容から知れました。POSの営業担当だったのです。デパートなんかのレジシステムです。社内の各課の課長をそれぞれ呼んでヒアリングを1か月もしたので、「ebisuさん担当外れたの?」と言われて、やりにくかったのです。委員会のメンバー全員で報告書を読み、業務内容が理解できていないことを確認して、経営統合システム開発にはかかわらないでほしいと申し入れをしました。委員長は営業担当常務のKさんでした。利益重点営業委員会の委員長も兼務でした。
 電算化推進委員会の総意ですから、社長の関さん、了解してくれました。本音はわたしの上司にしたかったのだろうと思います。わたしにとってはタダの足手まといです。若い人ならともかく、50歳前後の人で、これから勉強するのは無理でした。コンピュータのことだけでなく輸入業務や外国為替業務、管理会計業務に精通していなければお手伝いにはならないのです。こちらが教えなければいけません。だから、ノーでした。
 わたしは、社長室のあるビルから歩いて2分の所にあるビルで仕事していました。管理部の平社員でしたが、
電算室が新設になり係長職で異動になりシステム開発専任となっていました。上司は第2営業部長でしたが、システム開発の専門知識がありませんから、電算室へ来たこともほとんどありませんでした。コンピュータを設置してある部屋で一人で仕事してました。経理課や管理部の女子社員が伝票入力に毎日来てました。
 数か月後に仲良しの業務課長から、Mさん昨日また来てましたよと電話で連絡くれました。輸入商社向けの日本では最先端の経営統合システム開発をしていて、仕事をディスターブされたくありませんでした。友人関係と仕事の区別がつかない社長に愛想が尽きて、すぐに社内電話をしたのです。
 「大学同期のご友人が大切なことは理解しているつもりです、しかし仕事は別ですよ、Mさんが関わるならこの仕事はできません、どうしますか?」
 電話の向こうで言葉に詰まってました。無言が十秒間ほど続いたような気がしました。「ご返事がないようですね、お心はわかりました。残念です。辞表を上司に出しおきます」、そう告げて電話を切りました。11月下旬でした。数か月は無職かなと覚悟が決りました。
 プレゼントされていたHP67とHP97は秘書を通じてお返ししました。
 実はこの間にもう一つトラブルがありました。わたしより1年後に採用された総務課長のTさんがなにかと為替対策の仕組みを聞くので答えてあげてました。何だかヘンだなという感じはありました。そうしたら別の案を社長に提案していました。杜撰な案でしたね。取締役会にかけたのでその提案書がわたしの目に入ることになりました。別の案があるならそう言えばいいのに、内緒にして別の案を社長に進言。カチンときたので、理由を示して使い物にならぬ提案であることを明らかにしました。当然没になりました。卑怯なことを承知で、それでも点数上げたかったのです。中途採用の哀しさがありました。アイデアルという傘のメーカーがありましたが、そこが倒産して転職してきた人でした。原価計算制度の運用ミスが祟ったというのがわたしの感想です。製品別原価を計算して採算の合わないものから切り捨てていった。本社費の負担が重くなり、儲かる製品がなくなります。
 送別会は水戸営業所の女性社員が同時期に辞めるので、一緒になりました。送別会に出席しなかったのは社長の関さんと総務課長のTさんぐらいでしたね。
 常務の加藤さんはポルトガルの国際会議で脳出血を起こして倒れ、リハビリを終えて、ようやく通勤可能な状態へ回復しつつありました。加藤さん、「わたしがこんなことになっていなければ、社長に言うのだが...すまない」、そうおっしゃいました。身体が弱っている加藤さんにこんなに心配かけたんだと、身が細る思いをしました。申し訳なかった。
 採用の時に関係した中村取締役はそのご社長とそりが合わずに、数年後に退社しています。いろいろ原因があったのでしょうが、その中のひとつはわたしが関係していたと思います。ギクシャクしていたのをそばにいて感じてました、情の人でしたから。
 あのときあのタイミングでやめたから、SRLへの転職、そして経営統合システム開発の仕事が可能でした。ピンポイントのタイミングだったのです。転職先を探してから辞表出すなんてことをしていたら、別の企業で仕事していたでしょう。大きな経営統合システムを担当するチャンスはなかったでしょう。

 システム化の推進で経営改革を続けた結果、6年間で財務安定性が盤石になり、人形町界隈で10億円の自社ビル購入が可能になっていました。みんなと一緒に株式上場祝いたかった。



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「hp97」の画像検索結果HP-97


「hp67」の画像検索結果

 HP-97画像

 
  現在使っている5台目のもの...HP-35sはHP67と同じくらいの大きさです。 

 12年ほど前に10500円で購入しましたが、いま65000円もしていますね。

HP-35s に対する画像結果 
 
1978年から使い続けて45年、5台目です。RPN方式の操作がすっかり体の一部になってしまっています。他のメーカーのものは使えません。スタックがxyztと四段あるので、頭の中にもスタックが四段あって、表示されていないのにスタックの中が「いつでも見えています」。(笑)


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