#5113 公理を変えて『資本論』を演繹体系として書き直すことは可能か? Nov. 13,2023 [A2. マルクスと数学]
高校2年生の時から数えると58年間『資本論』研究に断続的に費やしてきたことになります。大学に残って研究を続けてもマルクスを超えることはおそらくできない、民間企業で仕事してマルクスの労働観が正しいかどうかも確かめたかったのです。
小学生になる前から、家業のビリヤード場が遊び場で、中高と6年間は毎日店番を数時間していたので、さまざまな職種の常連客とコミュニケーションに恵まれました。歯科医の先生3人、青年実業家、タクシー会社の社長、ヤクザの親分、大工さん、印刷会社の熟練工、お菓子の商店主、喫茶店のマスター、ラーメン屋さん、漁業関係者、公務員、銀行員、信金職員、魚屋さん、肉屋さん、高校の先生、男子一生の仕事と言っていた珠算塾の先生、家具職人、...、さまざまな職種の常連客がいました。
そこからみてもどうもマルクスの労働観(労働は苦役である)は日本人の仕事観とは違っている感じがしていたのです。その違和感の正体を突き止めるために、業種の異なる民間企業5社を選んで仕事して、じっくり日本の企業をマネジメントの視点から観察しました。仕事が面白くてドツボにはまってしまい28年があっという間に過ぎましたが、そのうち3社は株式上場を果たしています。その経験を通していくつか分かったことがあります。
マルクスに欠けていたのは労働とマネジメントの経験智でした。大英図書館と頭の中で考えていただけで、21世紀の今から見るとまるで専門家の「資本家的生産様式」の分析とは思えないような内容です。晩年にマルクスは『資本論第1巻』の体系構成方法の誤りに気がついてしまったのです。その結果、『資本論第1巻』を出版してから死ぬまでの17年間、続巻を出せずに沈黙したまま亡くなりました。
マルクスには複式簿記の知識がありませんでした。資本主義経済の企業では複式簿記と株式会社制度は会計帳簿の記帳法と企業形態のスタンダードですが、複式簿記の専門知識がないことも致命的でした、理由は後で(稿を改め)詳しく書きますが、そのせいで生産過程で商品の価値が決まると思い込んでしまいました。商品の価値が決まるのは市場です、生産過程で決まるのは製造コストにすぎないのです。複式簿記の知識と原価計算論の知識や経験があれば間違えるはずのないことです。
1867年という『資本論第一巻』初版出版年を考えると、経済学者に複式簿記理論の知識や実務経験のないことも、株式会社でマネジメントの仕事をした経験のないことも、学問の体系構成法に関する数学の知識のないことも、数学が不得意なマルクスには仕方のないことだったのでしょう。
世界初の株式会社は17世紀「オランダ東インド会社(Dutch East India Company)です。
小学生になる前から、家業のビリヤード場が遊び場で、中高と6年間は毎日店番を数時間していたので、さまざまな職種の常連客とコミュニケーションに恵まれました。歯科医の先生3人、青年実業家、タクシー会社の社長、ヤクザの親分、大工さん、印刷会社の熟練工、お菓子の商店主、喫茶店のマスター、ラーメン屋さん、漁業関係者、公務員、銀行員、信金職員、魚屋さん、肉屋さん、高校の先生、男子一生の仕事と言っていた珠算塾の先生、家具職人、...、さまざまな職種の常連客がいました。
そこからみてもどうもマルクスの労働観(労働は苦役である)は日本人の仕事観とは違っている感じがしていたのです。その違和感の正体を突き止めるために、業種の異なる民間企業5社を選んで仕事して、じっくり日本の企業をマネジメントの視点から観察しました。仕事が面白くてドツボにはまってしまい28年があっという間に過ぎましたが、そのうち3社は株式上場を果たしています。その経験を通していくつか分かったことがあります。
マルクスに欠けていたのは労働とマネジメントの経験智でした。大英図書館と頭の中で考えていただけで、21世紀の今から見るとまるで専門家の「資本家的生産様式」の分析とは思えないような内容です。晩年にマルクスは『資本論第1巻』の体系構成方法の誤りに気がついてしまったのです。その結果、『資本論第1巻』を出版してから死ぬまでの17年間、続巻を出せずに沈黙したまま亡くなりました。
マルクスには複式簿記の知識がありませんでした。資本主義経済の企業では複式簿記と株式会社制度は会計帳簿の記帳法と企業形態のスタンダードですが、複式簿記の専門知識がないことも致命的でした、理由は後で(稿を改め)詳しく書きますが、そのせいで生産過程で商品の価値が決まると思い込んでしまいました。商品の価値が決まるのは市場です、生産過程で決まるのは製造コストにすぎないのです。複式簿記の知識と原価計算論の知識や経験があれば間違えるはずのないことです。
1867年という『資本論第一巻』初版出版年を考えると、経済学者に複式簿記理論の知識や実務経験のないことも、株式会社でマネジメントの仕事をした経験のないことも、学問の体系構成法に関する数学の知識のないことも、数学が不得意なマルクスには仕方のないことだったのでしょう。
世界初の株式会社は17世紀「オランダ東インド会社(Dutch East India Company)です。
日本初の株式会社は『資本論第一巻初版』が出版された2年後、1869年の丸善でした。英国だって株式会社形態はまだ黎明期でした。個人経営や共同出資経営が支配的な企業形態だったからこそ、「資本家対労働者」という2項対立構図があたりまえだったのです。所有と経営が分離するのは株式会社形態が普及してからのことで、1910年以降のことです。だから資本論の失敗の半分以上は、時代のせいであり、マルクスの責任ではないとわたしは思います。早すぎたのです。
21世紀のわたしたちには、発展段階の異なる資本主義を見ています。そして努力次第でマルクスが手にできなかった複式簿記という武器を容易に手に入れられます。しかし、いまでも経済学者で複式簿記理論を熟知している人は殆どいないのが実態でしょう。だから、マルクスがどこで何を間違えたのかが理解できないでいます。とはいえ、ユークリッド『原論』とデカルト『方法序説』「科学の方法四つの規則」を読まなかったのはマルクスの責任に帰していい。流行だったヘーゲル弁証法かぶれも同じです。視野狭窄に陥っていました。
ところで、わたしのテーマは二つに分かれています。資本主義経済の分析と新しい経済社会のデザインです。公理を変えて資本主義経済を演繹的に記述するのはマルクスと同じ程度の分量の原稿を書かなければならないと漠然と思っていました。もうそんなことをしている時間的余裕はないので、新しい経済社会のデザインについて研究方向を絞ろうとしていました。
昨日から、脳を分散モードにして、A4のコピー用紙に資本主義経済の分析をメモしながら、公理を変えて演繹的に記述がどの程度の手間でできるのか整理していました。今朝になって、あらかた整理がついたので、これから作業に入るつもりです。
どうやら『資本論』全3巻の分量の1/10以下で、コンパクトに記述できそうです。資本主義経済分析の演繹的な記述はあたらしい経済社会デザインにつながります。
研究ノートとして書き溜めたら、整理して体系的な叙述をしてみたいと思います。研究ノートが書き終われば、そういう作業が必要かどうかがわかるでしょう。
<余談:株式会社制度に言及した最初の経済学者>
A. Smithは『諸国民の富』(1776年)の中で、合資会社の間接有限責任社員に言及しているようです。現在の会社法の株式会社に近いものと言えそう。
--------------------------------------------
●リスクの大きい直接無限社員ではなく、過度のリスクを背負わず、資産を増やせる可能性のある合資会社の間接有限責任社員になりたい人が多い
●そのような投資家が多数いるため、最終的に多額の資本を調達できること
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『諸国民の富』で該当箇所を探してみましたが、見つけられませんでした。

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ところで、わたしのテーマは二つに分かれています。資本主義経済の分析と新しい経済社会のデザインです。公理を変えて資本主義経済を演繹的に記述するのはマルクスと同じ程度の分量の原稿を書かなければならないと漠然と思っていました。もうそんなことをしている時間的余裕はないので、新しい経済社会のデザインについて研究方向を絞ろうとしていました。
昨日から、脳を分散モードにして、A4のコピー用紙に資本主義経済の分析をメモしながら、公理を変えて演繹的に記述がどの程度の手間でできるのか整理していました。今朝になって、あらかた整理がついたので、これから作業に入るつもりです。
どうやら『資本論』全3巻の分量の1/10以下で、コンパクトに記述できそうです。資本主義経済分析の演繹的な記述はあたらしい経済社会デザインにつながります。
研究ノートとして書き溜めたら、整理して体系的な叙述をしてみたいと思います。研究ノートが書き終われば、そういう作業が必要かどうかがわかるでしょう。
#5088『資本論』の論理と背理法:労働価値説の破綻を証明 Oct. 17, 2023
<余談:株式会社制度に言及した最初の経済学者>
A. Smithは『諸国民の富』(1776年)の中で、合資会社の間接有限責任社員に言及しているようです。現在の会社法の株式会社に近いものと言えそう。
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●リスクの大きい直接無限社員ではなく、過度のリスクを背負わず、資産を増やせる可能性のある合資会社の間接有限責任社員になりたい人が多い
●そのような投資家が多数いるため、最終的に多額の資本を調達できること
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『諸国民の富』で該当箇所を探してみましたが、見つけられませんでした。
#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023

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2023-11-13 08:40
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コメント(12)
それにしても島根大学元客員教授の久保田邦親氏の材料物理数学再武装による関数接合論がきっかけでバックオフィスの連中のKPIブームがDXブームに負けず劣らず加速しているな。KPI競合モデルとも。これでストライベック、国富論、人工知能(AI)まで説明してしまうんだから。すごいタコツボ組織の破壊力だ。
by 軸受財務のプロ (2023-11-13 15:46)
軸受財務のプロさん
ネーミングが面白い。軸受けと財務のプロは接合しないように感じます。何か含意がありそうですね。
ストライベックと国富論をひとくくりにするのは意味が解りません。愚生にわかるように、もうすこし敷衍していただけたらありがたい。
by ebisu (2023-11-13 17:42)
名門の輝きといいたいのでは。
by グリーン経済 (2023-11-19 21:51)
グリーン経済さん
軸受財務のプロさんの投稿を、そういう風に理解したのですか。
わたしには異分野の用語を羅列しただけに見えています。
そうでなければ、日本語として意味をなすような説明をしてくれるでしょう。
by ebisu (2023-11-19 23:36)
でも少なくともストライベックと国富論という両者の言葉の意味をよく知り、その組み合わせにこだわる姿勢は素晴らしい知性を感じてしまいます。
by グリーン経済 (2023-11-20 21:08)
グリーン経済さん
ストライベックと国富論、この二つの言葉の間にどのようなつながりがあるのでしょう?
あなたの理解するところを教えていただけたら幸甚です。
by ebisu (2023-11-20 21:49)
これはAIというアルゴリズムが社会の通念を変革しつつある兆候なのではと思われます。
by 通りすがり (2023-11-21 08:16)
通りすがりさんへ
AIというアルゴリズムが社会通念を変革しつつあるというのはわかります。
AIとは汎用型のものを指しているとすれば、最近流行りの「AI」は文書作成支援エキスパートシステムという位置づけになるのでしょう。
それですら、いくつかの職業を脅かす存在になりつつありますし、それを上手に使えるか否かで、文書作成効率や漏れがないかのチェックなどに有効に使えると思います。
1970年代後半から、エレクトロニクス業界で仕事してましたが、コンピュータの高性能化と通信速度の高速化のどちらもけた外れになりました。「社会通念」を変えてきたのは事実です。それがさまざまなエキスパートシステムが開発されていいずれ万能・汎用タイプのAIが実現するのかもしれません。
そうした議論は今や常識なのでしょう。
それで、ストライベックのベアリング(軸受け)に関する理論と国富論がどのように関連をもって説明がなされるのかが日本語としては、わたしには理解不能と申し上げています。
KPIについては知らなかったのでネットで調べましたが、中身は陳腐です。
デジタルトランスフォーメーションは1980年代半ばから先進的な企業で取り組まれてきたものです。それが中小企業にまで広がったのが現状でしょう。
過去40年間一貫した流れにわたしには見えます。
理解できないのは、ストライベック理論と国富論の関連です。それについて取り上げた学術論文でもあるなら、つながりそうもないからこそ面白そう、ですから読みます。
ご存じの方は投稿をお願いします。
by ebisu (2023-11-21 13:33)
まあ私の理解だと、ヘーゲル哲学の止揚(アウフヘーベン)の真の定式化をしたというのが久保田博士だとの認識がありますが。
by 象が転んだ (2023-11-23 22:45)
言葉を弄ぶのがお好きなようですね。
同じ方がハンドルネームを変えて投稿しているのでしょうか?
by ebisu (2023-11-23 23:03)
よくみると、「グリーン経済」さんというハンドルの方だけが同じネームで2度投稿されています。これだけが別人の可能性があります。
それ以外のハンドルの方は、同一人物かもしれません。
どうでもいいことです。
問題は中身なのですから。わたしは、いくつか提示された罐詰のラベルを眺めている気がしています。
ところが罐の中身が一向に見えてこないのです。ひょっとして空き缶なのではという気すらしてきます。
好奇心から、以下の投稿文をまな板に載せたいと思います。
「まあ私の理解だと、ヘーゲル哲学の止揚(アウフヘーベン)の真の定式化をしたというのが久保田博士だとの認識」
精神現象学なのか、論理学なのか、どちらを想定されているのかこの文章からは判別できませんがヘーゲル論理学の定式化は、ヘーゲルの著作やヘーゲル研究者の著作を読まずとも、議論できるでしょう。
便利ですね、wikiには次のように書かれています。
-------------------------------
ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される。このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた統合されて保存されているのである。ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。なおカトリックではaufhebenは上へあげること(例:聖体の奉挙Elevation)だけの意。
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aufは「上へ」hebenは「持ち揚げる」、それを哲学者は「止揚」や「揚棄」という用語を当てました。1960年代後半の学生運動盛んなりしころに流行った言葉でした。簡単なことを難しく議論するというのが当時の傾向でもありました。
引用した一般に流布しているこの弁証法の定式化に、あなたが思いついた「真の定式化」を対置してください。そうすれば、このブログを読んでくれている読者のみなさんにも理解できるような具体的な対話が拓けます。
弁証法と言えば、ソクラテスがその端緒ですが、ヘーゲルとは意味合いが違っています。弁論術あるいは対話術とでもいうべきものがソクラテスの弁証法でした。3度質問を重ねたら、アテネの学者たちは黙らざるを得なくなります。学者は言う及ばすアテネ市民にも嫌われました。
そのあたりを上手に解説した本があります。
遠藤利國著『百%の真善美―ソクラテス裁判をめぐって』2013年刊
遠藤さんは早稲田大学大学院時代は樫山ゼミでした。そのときの授業で採りあげられたヘーゲル研究の著作は、市倉宏祐訳、イポリット著『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』です。
学部の午後のゼミのときに、眠い顔をされているので、どうしたのかと尋ねると、「イポリットの翻訳をしていて、気がついたら朝になっていた」、なんておっしゃっていました。1972年の秋頃だったかな。
ゼミではマルクス『資本論』全巻と『経済学批判要綱』1~3までだったかな、テクストに取り上げていました。
先生とヘーゲル精神現象学について議論したことは一度もありませんでした。
でも、ヘーゲル論理学については、十代の終わりのころの数年間10冊ぐらいは読んでいますので、ハンドルネームを変えながら投稿してくれている方が、ヘーゲル研究者なら、対話のお相手が務まるかもしれません。
日本ではヘーゲル研究者は多くありません。どの先生に師事したのか、どういう本を読んだのかがわかれば、議論の方向が見えてきます。
どうぞ、罐詰の蓋を開けて、中身を見せていただけませんか?このブログの管理人からのお願いです。
by ebisu (2023-11-24 08:40)
世界が注目しそうな話ですね。わたしにもわかりません。
by 象が転んだ (2023-11-30 05:08)