#5133 根高同期忘年会 in 有楽町 Dec. 21, 2023 [90.根高 こもごも]
昨日12/20有楽町で午後4時から同期会があった。集まったのは18名、1967年(昭和42年)に卒業したのは350名だった。そのうち46名が故人である。今年はとくに多かった。根室商業以来続いていた総番長制度を廃止した、最後の総番長のヒロシが1月に亡くなっている。もともとは血の気の多いヤンシュウ(出稼ぎ漁師)の多い漁師町、地元のヤクザもいるし、そういう人たちと根室商業の生徒がいざこざを起こした時には、総番長の出番だった。だから、仁義が伝わっていた。「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さってありがとうさんにござんす。手前生国発しますところ、...」というやつだ。やくざ映画で見ているでしょう、腰を落として左手を後ろに回し、右手を前へ出して掌を見せての口上。わたしは5年先輩の野球部のキャプテンだったSMさんが目の前でやってくれたのを見ている。ヤクザともめごとが起きたときには、「向こうさんの流儀で挨拶しなくっちゃいけない、一言でも間違えたら、殺されたって文句は言えない」、そう語った。仁義の台詞を書いた小さく折りたたんだ紙ももらった。金刀比羅神社のお祭りには、SMさんが高下駄を履いて、その後ろを2mほど下がって目つきのキツイ十数人がついて回っていた。ヤクザもお祭りの宵宮には夜店の場所割で巡回していたから、なんだか危ない図だった。おっかない顔してたから、あの日だけは気軽に声を掛けられなかった。年に一度の伝統、いや伝説かな、デモンストレーションである。見たのは中2の時だった。
ヒロシも野球部だったが、本人に確認したが伝わっていなかった。SMさんが時代に合わないので、後輩に伝えなかったのだと思う。5年先輩までは、「総番長を張る」のは、いざことが起きれば命懸け、覚悟のいる地位だったのだ。ただの不良の集まりとは違っていたが、2年先輩あたりからすっかり崩れてしまっていた。
新聞部のケイジも亡くなった。あいつは声がでかくて愉しい奴だった。新聞部の部室は生徒会室に間借りしていたので高校時代の彼はよく知っている。輪転機が生徒会室に設置してあったので、新聞部と共用していた。ケイジはシステムハウスを起業した。技術を覚えれば若い社員は独立していく者が相次ぐ、派遣すれば派遣元がどれくらい支払っているかはすぐにその派遣社員に知れる。人の管理が案外たいへんなのだ。ストレスだったろうとAKが語っていた。亡くなる前に会社を整理していたようだ。
システム開発仕事が多かったわたしにはその辺の事情がよくわかる。予算と決算情報を社員にオープンにして処遇を改善すればいいだけだが、それができる経営者は少ない。規模が50人を越えたら、個人企業から会社経営への切り替えが必要になる。それができたら、売上100億円の企業に育つ例が多い。1984年にSRLで経営統合システム開発を担当したときに、NCDさんのSEが3人パートナーになったが、1年後に仕事が終わると、Tさんが独立して池袋で起業した。シオリさんは結婚退職し、M山さんだけが残ったが、彼は間もなく取締役総務部長に就任した。1978年から6年間付き合ったオービックの芹沢SEは数年後に開発担当取締役になっていた。独立するか、残って取締役を目指すかは腕とコミュニケーション能力次第の業界なのである。
10月末にムサシが突然亡くなった。具合が悪くなり、タクシーで病院へ行ってその日のうちに亡くなったと聞いた。ムサシは寂しがり屋で人っ子のいい奴だった。三人の副番の一人で、ヒロシと同じGクラスだからいいコンビだった。東京へ出てきた年に、ムサシから葉書が来た。「ホームシックだ、寂しい、会ってくれ」とあいつらしい文面。さっそく、高円寺のヒロシのところは集まって朝まで飲み歩いた。花咲港のJRの駅から、自宅まで自分の地所を通って家路につけるやつだと担任の冨岡先生が冗談交じりに話したことがあったが、本当だったようだ。牧場の跡取り息子で鷹揚な奴だった。もちろん、牧場は継がず、東京で亡くなった。
そんなことが続いたので「根室高校第19期生忘年会。偲ぶ会」を開くことにしたのだ。今年あっておかないと、来年はまた誰かが逝ってしまうかもしれないと、多少の危機感も感じてのことだった。わたしは二十数年ぶりの参加だった。ほとんどが見知った顔だから懐かしかった。
52歳の時に古里へ戻って、お仲人さんである根室印刷の創業者であり文学博士(専門は考古学)である北構保男先生のところへご挨拶に行った。根室商業高校同期の北構先生の親友・田塚源太郎先生(国後島出身の歯科医)の昔話や東京での生活に話が弾んだ。その際に、「同期の友人は皆逝ってしまった、昔話をできるのはもう君くらいしかいない、時々来て話し相手になってくれ」、そう仰った。先生は大正6年生まれだったので、そのときには84歳である。
わたしたちの同期は団塊世代真っただ中、74歳と75歳が混じっている。十年後でも半数は生き延びているだろうから、ずいぶん長生きになったと言えるだろう。
幹事さんのFGが急遽やれなくなり、KKがピンチヒッターになったよし。会場の手配は21歳の時に税理士試験に合格してそれ以来有楽町交通会館で事務所を開いているH勢である。だから、有楽町になった。
会場に15分前に到着したら幹事さんのK.Kが目の前にいた。2人すでに来ていた。5分ほどたつと税理士のHが来て、30年ぶりくらいなのでわたしの向かいに座る。高校1年の時に同じクラスで仲の良い友人だった。高校生の時から優秀な奴で生徒会へ引っ張り込んで副会長をやってもらった。応援演説は先輩の副会長2人へわたしがお願いした。その内の一人HH先輩は札幌在住で岩見沢で税理士をしている。H勢は現在は弁護士と一緒に共同で法人を作って運営しており、25名ほどもスタッフがいるという。求人難だと言っていた。「お前ももう年だから、所長が10年は仕事を続けられないと思ったら新人が来るはずがないな」と応じると、後継者が欲しいのだという。
穏やかな表情のH勢は営業が上手そうだ。税理士資格はもっていても営業がちゃんとできるやつは稀だ。いかにもやる気の人は、しかも若ければ警戒される。H勢は風格が備わってきたから、代わりを務められる人材を見つけるのは難しそうだ。どこだって中小企業は後継者を見つけること自体がたいへんな仕事ではある。H勢は終活に突入しているということだろう。首尾よく人が見つかると好い。
サイトウタカオの弟子のタケシが、「このごろ身の回りで次々に亡くなっていく、団塊世代は競争が激しくてストレスが強かったので、早死にしているのではないか」と持論を語る。年代は異なるが、一回り年上だったサイトウタカオ氏も亡くなった。自身も小さな膀胱癌が見つかって経過観察中だ。同じ病気を患っている同期のMTとは住所が近いので同じ病院で検査を受けているという。
斜(ハス)向かいに座っていたTTが誰かに問われて自分の職業を言った。半導体製造設備開発事業の企業に勤務していて設計をやっていたという。興味が湧いたので会社名を聞いたらアドバンティストだという。半導体製造装置では世界ナンバーワンの企業である。1984年に転職するときに選択肢が3社あり、その中のひとつがセミコンダクター製造企業のフェアチャイルド・ジャパンだった。経理課長職で850万円の年俸の提示があった。後はプレジデント社と臨床検査業のSRLだった。ファイルにある財務諸表をざっと眺めたら、SRLが高収益で成長性が高い企業であることが分かった。経営分析モデルと開発して6年間経営分析とデータに基づく経営改革をしていたから、数分眺めただけでどんな企業か判断がつく。給料は3社の中では低かったが、臨床検査業界では給料の高さもナンバーワン、そして新宿西口の超高層ビルであるNSビル22階だったので、SRLに決めた。
向かい側の席の方で誰かが、「学校の先生風に見える」と発言した。大学と高校、考えたことはあった。経済学の研究を進展させるためにもフィールドワークが必要だった。そのためにその都度業種を変えて転職した。
隣のボックスの左斜向かいはC組のIIだ。小学校の時の同級生で中規模ゼネコンで高速道路の建設に携わって、その後独立して今も現役、元気がいい。緑内障で右目がほとんど見えないという。車の運転は大丈夫だと言い切っていた。「おいおい、夕暮れ時、右側から飛び出してきたら、気がつくのが0.5秒遅れたら子供や若い人をはねる可能性が強い。反応速度が遅くなっているので、わたしは昨年引っ越して来るときに車は処分した。環境が変わればリスクは大きくなるから」、そう伝えた。首都圏だって郊外に住んでいたら車を手放せない事情もよくわかる。ましてや現役で現場を飛び回ることが多ければ、なおさら車は手離せない、ジレンマです。人にはそれぞれ事情というものがあるから、自分の意見を押し付けてはいけない。
隣のボックスの二人目はAKだ。こいつはユニークな奴で、盛岡で手広く商売をしている。ブテックをいくつか持っていて、タイによく遊びに行くのでタイ式マッサージの学校ももっていたはず。真っ黒な顔をしているので、「タイでは日本人に間違われるだろう?」と訊くと、「よく間違われる」と愛想のよい返事、そう言った後で気がついて、大笑い。あいつはれっきとした日本人である。冬は寒いので半分くらい沖縄暮らしだそうで、相変わらず元気がよすぎ、声がでかい。でも、あいつがあいつらしいことがうれしい。8時過ぎの新幹線で盛岡へ帰るのだそうだ。AKは総番長だったヒロシと中学時代からの仲良しだった。ヒロシは今年1/10にリンパ腫と間質性肺炎で亡くなっている。1年ほども札幌の癌センターで入退院を繰り返していた。東京へ出ようとわたしを誘ったのはヒロシだった。札幌の白馬ビリヤードで少し時間を潰して、千歳空港からスカイメイトで一緒に羽田へ降り立った。スカイメイトというのは、全日空のヤング向けの半額料金である、1967年にたしか6500円だった。
お店のスタッフが手際よく次々に料理を運んでくる。最初に仕事に慣れた感じの女性スタッフが、2時間飲み放題というシステムを説明したが、よく聞いていなかったのか、幹事のKKは時間は3時間だとみんなに説明している。
有楽町で、いくら時間が早いからと言って5000円会費で3時間はあり得ないというのがわたしの判断。H勢と楽しく会話しながら、頭は採算計算の並列処理をし始めている。おやおや、これは仕事モードに脳が切り替わっていると気がついた。
家賃は売上の20%が相場だから、お店は4000円、並んでいる料理の原価を考えると2500円くらいはかかっている。間接費を入れたらほとんど儲けなしだ。だから3時間はあり得ない。早い時間は仕入れ量を増やすために採算度外視で営業しているのではないだろうか?
そうこうしているうちに、鍋物が食べ終わった後に投入する〆のご飯が運ばれてきた。右隣に座っていたシゲルが、中身を空けて、ご飯を入れた。5分ほどで食べごろになった。
美術部長だったカツエは用事があるので途中で帰ると幹事から聞いていた。遠い席に女性陣4人が座っていたが、手を挙げて合図を送ってきた。帰るのでエレベータの前まで来てくれという。エレベータ前で椅子に座ってタバコを吸い始めた。タケシにライターないかと訊いたら、奴は電子タバコ(笑)。お店のスタッフに鍋物に使う長いライターを借りて火をつける。カツエは『かわなかのぶひろ展 日常の実験・実験の映像』という100頁ほどの本をもってきていた。ご亭主の出版した本だから、渡したくて持ってきてくれたのだ。アングラ劇場関係のビジネスをして、渋谷にビルをもっていると噂で聞いていた。高校3年間ずっと同じクラスで仲の良い友人だった。漁師の娘で、遊びに行ったら、「お汁粉食べるか?」と聞くので、「食べる」というと、階下の台所へ降りて行って大きな鍋からどんぶりにお玉でよそってくれた。ふだんからあんなに食べるのかと驚いた。カツエは昔、大橋巨泉の番組に2回出演したことがあった。またそのうちに会おうということになった。
隣のテーブルで、火が消えているので、火をつけ直して鍋物にご飯を投入しようとしている人がいたが、もう時間切れである。あと15分だった。そのときになって幹事さんが気がついた。やはり2時間である。
さて、手つかずで残されたこの後入れのご飯等の具材はSDGsのかまびすしい昨今では、どうするのだろう。店長の判断次第である。自分が店長ならどう判断するのかと頭の中の別の自分が問いかける。
お開きになった後、男8人でビックエコーで1.5時間2次会をした。AKと小学生の時の同級生の通称「あんちゃん」が、そしてタケシが歌った。誰かが歌い始める前に、K山はうるさいと一言、あいつは話がしたかったのだ。少し時間がたってから隣に来て喋っていた。三菱商事で仕事していたが50歳くらいで子会社勤務だったかな。団塊世代は競争が激しかったとタケシが言ったときに、青山学院大へ進学したK山は学生運動真っ盛りだったと言った。あの時代の大学生なら当然だと。K山とは、小学生の1~3年まで同じクラスだった。家も歩いて4分ほどの距離。高校生の時はA組で柏原先生が担任。「小中高と俺たちと一緒に「進学?」してきた先生は一人だけ」と言ったので、水晶島出身で、予科練に合格、土浦航空隊へ特攻兵として出発寸前に敗戦となり、釧路工業高校から日大へ進学しで先生になったと教えてあげた。予科練には優秀な若者が選抜されて集められいた。敗戦が数か月遅れたら、わたしの恩師の市倉宏祐教授が土浦でゼロ戦の操縦を教えていた可能性があった。社会科の教師として、そういう経歴が先生の発言や行動の背景にあったことを知ってた教え子は皆無だろう。
タケシがわたしは古里へ戻って20年間学習塾をやっていたと紹介してくれた。同期の数人から評判を聞いていたらしい。KHが「紳士服製造の企業じゃなかったか?」と訊くので、「三年間いた」と返事した。やることがあり、業種を変えて7つの企業を転々としたことは内緒、どことなく謎めいた部分がある方がが面白い。
公認会計士でドイツ銀行に勤務したことのあるO(中大へ進学)がべ平連でやっていたと昔を懐かしむ。私の所属していた市倉宏祐ゼミからは大学処分者が(一学年上に)一人出た。同期のゼミ員の一人Sは赤軍派の分派の「さらぎ派」だった。敵対する派に捕まることを恐れて、朝早く学校へ来て、昼からのゼミに参加していた。帰りは3人ほどで「護衛」してやった。激動の時代だったな。
一人台40代の奥さんのいる旧知の同期がいる。中1の女の子がいて、スマホの写真をタケシに見せていた。現役で頑張っている。すこぶる健康そうで、また一人できる可能性があるんじゃないかと冷やかされていた。
ビッグエコーは最後に上場準備の仕事をした外食産業(東和フーズ)の本社が銀座にあり、いま同期と入ったこの店舗は、退職時の送別会の2次会で使ったカラオケ店だった。外に出た瞬間にあの日のメンバー数人の顔が記憶によみがえった。2002年の夏だった。
MTとタケシとわたしは新宿までは一緒なので、有楽町駅から山手線外回りに乗った。タケシは向かいの席で真っ赤な顔をして居眠り、わたしはMTと話し込んでいた。一番前の方から出たので、新宿駅は中央改札口ではないところへ出た。京王線の改札口を通り過ぎて、MTは各駅停車ホームへわたしは特急電車ホームへと別れた。
タケシは代々木駅で降りた。仕事場は代々木駅で降りても歩いてそんなにかからない。
<余談:起業した元同僚の会社の整理、1993年>
SRLの同時期入社の加藤は、同大安田講堂事件があった年の受験組だった。入試が中止になったので、家庭の事情で浪人はできなかったのでやむなく中大法学部へ入学したと言っていた。あの事件がなければ自分は東大法学部卒だったと、2人だけで新宿で酒を飲んだ時にぼやくことがあった。気持ちはわからんでもない。
1983年12月にSRLへ転職し、2か月後のわたしと上場準備要員としては入社時期が一番近かった。リクルート社の斡旋でSRLへ入社したところは一緒。八王子ラボで中途社員講習を一緒に受けたときに、あいつSPIテストの結果を見せろと言い出して利かない。ダメだというと、自分のSPIテストの偏差値を見せてくれた。68だった。「ずいぶん高いな」と言ったら、自分のを見せたのだからebisuさんのも見せろと言ってきかない。五月蠅(うるさ)いので、見せた。72だった。それ以来、あいつはすっかり弟分の気分でわたしに接してきた。高学歴は偏差値に弱いのだ。難関大卒と院卒でもトップレベルは学力ががまるで違う、仕事をやらせて見たらすぐに知れる。(笑)
高校時代から、会計学、経済学、哲学の専門書を問題意識をもって読み、好奇心に駆り立てられて思考し続けたら、大学を卒業するころには知識や思考力に大きな差がついてしまう。生徒会会計を担当し、全部のクラブの部長と副部長をそれぞれ生徒会室へ呼んで公平な予算査定をし、帳簿記帳と決算業務を2年間したのもすばらしい経験になった。丸刈り坊主頭の校則改正の経験も人を巻き込むやり方をそこから学び取ってしまっていた。産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事では同時に社運のかかった5つのプロジェクトを同時に担い、予算編成や予算管理、資金管理を入社早々から担当している。経験智も当然ついてしまうし、場数も踏んでいるから仕事がおおきくても悠然とこなせる。予算編成や予算管理は根室高校時代の経験で、どんな企業規模でも同じことだった。必要にして十分な経験を積んでしまっていた。
加藤は1991年頃に厚生省の補助金を利用して、企業の社員の健康増進プログラムを開発して独立起業した。大手企業の健康政策のアドバイザーのような仕事だった。1年間は空振り、苦労していたが、心境に変化が出てから事業が軌道に乗り出した。経営コンサルタント仕事の相談が舞い込むようになって、そちらの仕事の専門家であるわたしへ仕事を手伝ってほしいと依頼が来たので、1件だけ900万円の仕事を手伝った。取締役の名刺を用意してくれて、対象の企業を訪問し、決算書類について周辺情報をいくつかリアリングさせてもらい、1978年に開発した25ゲージ、5ディメンションの経営分析モデルに入力し、25ゲージのレーダーチャートをEXCELで作って、どこをどのように改善すればいいのか、一日で調査レポートと提案書を書き終えて、数日後にその企業に説明に行った。仕事が無事終わって、取締役への就任を頼まれたので、土曜日だけで十分こなせるので、人事部へ届けたら、ノーの返事だった。年収がアルバイトの方がずっと多くなる。10件こなせば1~2億の売上になるから、4000~8000万円くらいの年収にはなる。
SRL人事部が奨めていたはずの兼業にノーの返事、ちょっと驚いた。加藤にその旨伝えたら、副社長のポストを用意すると提案があった。臨床検査業界ナンバーワン企業のSRLでやりたい仕事がたくさんあったので、いまはやめるつもりはないと返事した。そうしたら、奥さんと話をして、社長で来てくれないかと打診があった。奥さんは東大理Ⅲの才女で、某海外有名ブランドの化粧品の開発部長をしていた。せっかくの申し出ではあるけれど、相談には乗れるがダメだと電話で断った。その2か月ぐらい後で、あいつは会社を4~5人の社員へ営業譲渡して整理した。
健康増進プログラムを事業化したあいつは、客先が増えると、経営コンサルタント仕事を相談されるようになった。そちらの方がずっと市場が大きいのだ。最初のテストケースの仕事を、「わたしにはできないが、ebisuさんならできるはず」と振ってきたので引き受けたのである。数回やって見せたら、頭がよければやれるかもしれない。わたしは産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事(後にセキテクノトロンと社名変更)でさまざまな仕事の傍ら、経営改革のための経営分析を6年間やっていた。当時はこの分野では日本で最先端のスキルをもっていた。
経営コンサル仕事を受けて、その後の3年間の決算書類を提出してもらい、伸びた経常利益の3割を成功報酬として手数料にもらえば面白いビジネスだった。生産性を上げて数億円利益が増えたら、業績をモニターしているだけで、会社は安定して十分なお金を稼げる。支払う方も楽だ。高収益企業に変われば、経常利益の3割の支払いは借金しないで可能になる。そんなビジネスモデルを考えたが、簡単すぎてつまらない。遊びも仕事も一緒、リスクを伴うものでなければ楽しめない。
でも楽して過ごすのもありだったかも。経営改革をコンサルしたら、次のターゲットは株式上場だ。4回経験があるので、面白い事業ではある。成功報酬で上場前の株式を割り当ててもらえば、成功報酬だから、コンサルを依頼する側の負担はナシだ。株式上場を手伝うのは通常は証券会社だが、彼らは手続きができるだけで、その前処理、上場要件を満たす高収益企業、高成長企業へと普通の会社を変貌させるスキルはない。いわば株式上場の前処理段階の作業である。10人くらいの規模で数年で売上高を5億円確保できたら、社員一人当たり2000万円程度の給料は支払える。ユニークな企業が誕生したかもしれない。
事情は変わらないから、いまからだってそういう企業が生まれても自然だろう。やりたい若い人がいたら、ノウハウ全部伝授してあげる。この分野の事業に情熱をもった人でないといけません。(笑)
断って1か月ぐらいのこと、1993年の3月頃だったかな。電話があり、あいつの声がかすれていたので、何だか嫌な予感がした。「熱はないか?」と訊いたら、「このところ微熱がある」と返事。「大きな病院で検査してもらえ、癌の疑いがある、進行性の癌だったら若いから、そんなにもたない」と告げてしまった。あいつは横浜済生会病院で検査を受けて、胸部に癌が発見された。末期だった、声がかすれていたのは腫瘍が肺と気管支を圧迫していたからだった。
私はそのころ、金沢の臨床検査センターの決算分析と買収交渉と買収後の立て直し、並行して東北の臨床検査センターとの資本提携話を取りまとめ、東北の会社の方を選んで経営企画室担当取締役で出向が決まったところだった。入院治療を勧められたが、助からないから自宅療養したほうがいいとのわたしのススメ通りに、医師を説得して済生会病院では初めての末期癌患者の自宅療養、通院による治療が始まった。
夏になってあいつから暑中見舞いが来た。「余命3か月」と書いてあった。慌てて、横浜のあいつの高層マンションを訪れ、見舞った。抗癌剤と放射線治療で髪が抜け、夏なのにエアコンで頭が涼しいと毛糸の帽子をかぶっていた。将棋を所望され、3番指した。奥さんが帰宅するまで帰らないでくれと頼まれ、時々疲れて、15分くらい横になりに寝室へいっては、しばらくするとまた戻ってきて、昔話と将棋をせがむ。7時過ぎに奥さんが帰宅して、挨拶をして別れた。
そんなふうで、2度横浜を訪れた。1993年9月に2年前に手術した大腸癌が全身転移してオヤジが亡くなり、49日の法要の前日だったかな、奥さんから電話があり、加藤の死を知った。「もうダメそうだと朝言って、肩につかまりタクシーで病院へ、そのまま入院、モルヒネを打ってもらっい3日後に眠るように亡くなった」とのこと。オヤジの法要を済ませて、すぐに横浜を訪れ、線香をあげた。いいやつだったな。
起業して、一緒にやらないかと言われたのは、加藤が2人目だった。関商事のときも、有力な取引先が日本法人を作るというので、遠藤さんに打診があり、彼はわたしを誘った。売上の3割近くを失い、優秀な社員が引き抜かれたら、関商事が傾く、受けられない相談だったから、この時も断った。
加藤は2歳年下、兎年生まれ43歳だった。
ケイジが起業したシステム会社を整理してから亡くなったと聞いて、ずいぶん昔になるが営業権を4~5人の社員へ譲渡して亡くなった加藤のことを思い出した。違いは、営業譲渡したときに、加藤はまだ自分が癌に罹患していることすら知らなかったということ。たまたま、3度わたしが経営に参画するのを断ったので、会社の整理をしたことにある。まるで寿命を知って事前にやったかのように見える、偶然というのは怖いものだ。
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ヒロシも野球部だったが、本人に確認したが伝わっていなかった。SMさんが時代に合わないので、後輩に伝えなかったのだと思う。5年先輩までは、「総番長を張る」のは、いざことが起きれば命懸け、覚悟のいる地位だったのだ。ただの不良の集まりとは違っていたが、2年先輩あたりからすっかり崩れてしまっていた。
新聞部のケイジも亡くなった。あいつは声がでかくて愉しい奴だった。新聞部の部室は生徒会室に間借りしていたので高校時代の彼はよく知っている。輪転機が生徒会室に設置してあったので、新聞部と共用していた。ケイジはシステムハウスを起業した。技術を覚えれば若い社員は独立していく者が相次ぐ、派遣すれば派遣元がどれくらい支払っているかはすぐにその派遣社員に知れる。人の管理が案外たいへんなのだ。ストレスだったろうとAKが語っていた。亡くなる前に会社を整理していたようだ。
システム開発仕事が多かったわたしにはその辺の事情がよくわかる。予算と決算情報を社員にオープンにして処遇を改善すればいいだけだが、それができる経営者は少ない。規模が50人を越えたら、個人企業から会社経営への切り替えが必要になる。それができたら、売上100億円の企業に育つ例が多い。1984年にSRLで経営統合システム開発を担当したときに、NCDさんのSEが3人パートナーになったが、1年後に仕事が終わると、Tさんが独立して池袋で起業した。シオリさんは結婚退職し、M山さんだけが残ったが、彼は間もなく取締役総務部長に就任した。1978年から6年間付き合ったオービックの芹沢SEは数年後に開発担当取締役になっていた。独立するか、残って取締役を目指すかは腕とコミュニケーション能力次第の業界なのである。
10月末にムサシが突然亡くなった。具合が悪くなり、タクシーで病院へ行ってその日のうちに亡くなったと聞いた。ムサシは寂しがり屋で人っ子のいい奴だった。三人の副番の一人で、ヒロシと同じGクラスだからいいコンビだった。東京へ出てきた年に、ムサシから葉書が来た。「ホームシックだ、寂しい、会ってくれ」とあいつらしい文面。さっそく、高円寺のヒロシのところは集まって朝まで飲み歩いた。花咲港のJRの駅から、自宅まで自分の地所を通って家路につけるやつだと担任の冨岡先生が冗談交じりに話したことがあったが、本当だったようだ。牧場の跡取り息子で鷹揚な奴だった。もちろん、牧場は継がず、東京で亡くなった。
そんなことが続いたので「根室高校第19期生忘年会。偲ぶ会」を開くことにしたのだ。今年あっておかないと、来年はまた誰かが逝ってしまうかもしれないと、多少の危機感も感じてのことだった。わたしは二十数年ぶりの参加だった。ほとんどが見知った顔だから懐かしかった。
52歳の時に古里へ戻って、お仲人さんである根室印刷の創業者であり文学博士(専門は考古学)である北構保男先生のところへご挨拶に行った。根室商業高校同期の北構先生の親友・田塚源太郎先生(国後島出身の歯科医)の昔話や東京での生活に話が弾んだ。その際に、「同期の友人は皆逝ってしまった、昔話をできるのはもう君くらいしかいない、時々来て話し相手になってくれ」、そう仰った。先生は大正6年生まれだったので、そのときには84歳である。
わたしたちの同期は団塊世代真っただ中、74歳と75歳が混じっている。十年後でも半数は生き延びているだろうから、ずいぶん長生きになったと言えるだろう。
幹事さんのFGが急遽やれなくなり、KKがピンチヒッターになったよし。会場の手配は21歳の時に税理士試験に合格してそれ以来有楽町交通会館で事務所を開いているH勢である。だから、有楽町になった。
会場に15分前に到着したら幹事さんのK.Kが目の前にいた。2人すでに来ていた。5分ほどたつと税理士のHが来て、30年ぶりくらいなのでわたしの向かいに座る。高校1年の時に同じクラスで仲の良い友人だった。高校生の時から優秀な奴で生徒会へ引っ張り込んで副会長をやってもらった。応援演説は先輩の副会長2人へわたしがお願いした。その内の一人HH先輩は札幌在住で岩見沢で税理士をしている。H勢は現在は弁護士と一緒に共同で法人を作って運営しており、25名ほどもスタッフがいるという。求人難だと言っていた。「お前ももう年だから、所長が10年は仕事を続けられないと思ったら新人が来るはずがないな」と応じると、後継者が欲しいのだという。
穏やかな表情のH勢は営業が上手そうだ。税理士資格はもっていても営業がちゃんとできるやつは稀だ。いかにもやる気の人は、しかも若ければ警戒される。H勢は風格が備わってきたから、代わりを務められる人材を見つけるのは難しそうだ。どこだって中小企業は後継者を見つけること自体がたいへんな仕事ではある。H勢は終活に突入しているということだろう。首尾よく人が見つかると好い。
サイトウタカオの弟子のタケシが、「このごろ身の回りで次々に亡くなっていく、団塊世代は競争が激しくてストレスが強かったので、早死にしているのではないか」と持論を語る。年代は異なるが、一回り年上だったサイトウタカオ氏も亡くなった。自身も小さな膀胱癌が見つかって経過観察中だ。同じ病気を患っている同期のMTとは住所が近いので同じ病院で検査を受けているという。
斜(ハス)向かいに座っていたTTが誰かに問われて自分の職業を言った。半導体製造設備開発事業の企業に勤務していて設計をやっていたという。興味が湧いたので会社名を聞いたらアドバンティストだという。半導体製造装置では世界ナンバーワンの企業である。1984年に転職するときに選択肢が3社あり、その中のひとつがセミコンダクター製造企業のフェアチャイルド・ジャパンだった。経理課長職で850万円の年俸の提示があった。後はプレジデント社と臨床検査業のSRLだった。ファイルにある財務諸表をざっと眺めたら、SRLが高収益で成長性が高い企業であることが分かった。経営分析モデルと開発して6年間経営分析とデータに基づく経営改革をしていたから、数分眺めただけでどんな企業か判断がつく。給料は3社の中では低かったが、臨床検査業界では給料の高さもナンバーワン、そして新宿西口の超高層ビルであるNSビル22階だったので、SRLに決めた。
向かい側の席の方で誰かが、「学校の先生風に見える」と発言した。大学と高校、考えたことはあった。経済学の研究を進展させるためにもフィールドワークが必要だった。そのためにその都度業種を変えて転職した。
隣のボックスの左斜向かいはC組のIIだ。小学校の時の同級生で中規模ゼネコンで高速道路の建設に携わって、その後独立して今も現役、元気がいい。緑内障で右目がほとんど見えないという。車の運転は大丈夫だと言い切っていた。「おいおい、夕暮れ時、右側から飛び出してきたら、気がつくのが0.5秒遅れたら子供や若い人をはねる可能性が強い。反応速度が遅くなっているので、わたしは昨年引っ越して来るときに車は処分した。環境が変わればリスクは大きくなるから」、そう伝えた。首都圏だって郊外に住んでいたら車を手放せない事情もよくわかる。ましてや現役で現場を飛び回ることが多ければ、なおさら車は手離せない、ジレンマです。人にはそれぞれ事情というものがあるから、自分の意見を押し付けてはいけない。
隣のボックスの二人目はAKだ。こいつはユニークな奴で、盛岡で手広く商売をしている。ブテックをいくつか持っていて、タイによく遊びに行くのでタイ式マッサージの学校ももっていたはず。真っ黒な顔をしているので、「タイでは日本人に間違われるだろう?」と訊くと、「よく間違われる」と愛想のよい返事、そう言った後で気がついて、大笑い。あいつはれっきとした日本人である。冬は寒いので半分くらい沖縄暮らしだそうで、相変わらず元気がよすぎ、声がでかい。でも、あいつがあいつらしいことがうれしい。8時過ぎの新幹線で盛岡へ帰るのだそうだ。AKは総番長だったヒロシと中学時代からの仲良しだった。ヒロシは今年1/10にリンパ腫と間質性肺炎で亡くなっている。1年ほども札幌の癌センターで入退院を繰り返していた。東京へ出ようとわたしを誘ったのはヒロシだった。札幌の白馬ビリヤードで少し時間を潰して、千歳空港からスカイメイトで一緒に羽田へ降り立った。スカイメイトというのは、全日空のヤング向けの半額料金である、1967年にたしか6500円だった。
お店のスタッフが手際よく次々に料理を運んでくる。最初に仕事に慣れた感じの女性スタッフが、2時間飲み放題というシステムを説明したが、よく聞いていなかったのか、幹事のKKは時間は3時間だとみんなに説明している。
有楽町で、いくら時間が早いからと言って5000円会費で3時間はあり得ないというのがわたしの判断。H勢と楽しく会話しながら、頭は採算計算の並列処理をし始めている。おやおや、これは仕事モードに脳が切り替わっていると気がついた。
家賃は売上の20%が相場だから、お店は4000円、並んでいる料理の原価を考えると2500円くらいはかかっている。間接費を入れたらほとんど儲けなしだ。だから3時間はあり得ない。早い時間は仕入れ量を増やすために採算度外視で営業しているのではないだろうか?
そうこうしているうちに、鍋物が食べ終わった後に投入する〆のご飯が運ばれてきた。右隣に座っていたシゲルが、中身を空けて、ご飯を入れた。5分ほどで食べごろになった。
美術部長だったカツエは用事があるので途中で帰ると幹事から聞いていた。遠い席に女性陣4人が座っていたが、手を挙げて合図を送ってきた。帰るのでエレベータの前まで来てくれという。エレベータ前で椅子に座ってタバコを吸い始めた。タケシにライターないかと訊いたら、奴は電子タバコ(笑)。お店のスタッフに鍋物に使う長いライターを借りて火をつける。カツエは『かわなかのぶひろ展 日常の実験・実験の映像』という100頁ほどの本をもってきていた。ご亭主の出版した本だから、渡したくて持ってきてくれたのだ。アングラ劇場関係のビジネスをして、渋谷にビルをもっていると噂で聞いていた。高校3年間ずっと同じクラスで仲の良い友人だった。漁師の娘で、遊びに行ったら、「お汁粉食べるか?」と聞くので、「食べる」というと、階下の台所へ降りて行って大きな鍋からどんぶりにお玉でよそってくれた。ふだんからあんなに食べるのかと驚いた。カツエは昔、大橋巨泉の番組に2回出演したことがあった。またそのうちに会おうということになった。
隣のテーブルで、火が消えているので、火をつけ直して鍋物にご飯を投入しようとしている人がいたが、もう時間切れである。あと15分だった。そのときになって幹事さんが気がついた。やはり2時間である。
さて、手つかずで残されたこの後入れのご飯等の具材はSDGsのかまびすしい昨今では、どうするのだろう。店長の判断次第である。自分が店長ならどう判断するのかと頭の中の別の自分が問いかける。
お開きになった後、男8人でビックエコーで1.5時間2次会をした。AKと小学生の時の同級生の通称「あんちゃん」が、そしてタケシが歌った。誰かが歌い始める前に、K山はうるさいと一言、あいつは話がしたかったのだ。少し時間がたってから隣に来て喋っていた。三菱商事で仕事していたが50歳くらいで子会社勤務だったかな。団塊世代は競争が激しかったとタケシが言ったときに、青山学院大へ進学したK山は学生運動真っ盛りだったと言った。あの時代の大学生なら当然だと。K山とは、小学生の1~3年まで同じクラスだった。家も歩いて4分ほどの距離。高校生の時はA組で柏原先生が担任。「小中高と俺たちと一緒に「進学?」してきた先生は一人だけ」と言ったので、水晶島出身で、予科練に合格、土浦航空隊へ特攻兵として出発寸前に敗戦となり、釧路工業高校から日大へ進学しで先生になったと教えてあげた。予科練には優秀な若者が選抜されて集められいた。敗戦が数か月遅れたら、わたしの恩師の市倉宏祐教授が土浦でゼロ戦の操縦を教えていた可能性があった。社会科の教師として、そういう経歴が先生の発言や行動の背景にあったことを知ってた教え子は皆無だろう。
タケシがわたしは古里へ戻って20年間学習塾をやっていたと紹介してくれた。同期の数人から評判を聞いていたらしい。KHが「紳士服製造の企業じゃなかったか?」と訊くので、「三年間いた」と返事した。やることがあり、業種を変えて7つの企業を転々としたことは内緒、どことなく謎めいた部分がある方がが面白い。
公認会計士でドイツ銀行に勤務したことのあるO(中大へ進学)がべ平連でやっていたと昔を懐かしむ。私の所属していた市倉宏祐ゼミからは大学処分者が(一学年上に)一人出た。同期のゼミ員の一人Sは赤軍派の分派の「さらぎ派」だった。敵対する派に捕まることを恐れて、朝早く学校へ来て、昼からのゼミに参加していた。帰りは3人ほどで「護衛」してやった。激動の時代だったな。
一人台40代の奥さんのいる旧知の同期がいる。中1の女の子がいて、スマホの写真をタケシに見せていた。現役で頑張っている。すこぶる健康そうで、また一人できる可能性があるんじゃないかと冷やかされていた。
ビッグエコーは最後に上場準備の仕事をした外食産業(東和フーズ)の本社が銀座にあり、いま同期と入ったこの店舗は、退職時の送別会の2次会で使ったカラオケ店だった。外に出た瞬間にあの日のメンバー数人の顔が記憶によみがえった。2002年の夏だった。
MTとタケシとわたしは新宿までは一緒なので、有楽町駅から山手線外回りに乗った。タケシは向かいの席で真っ赤な顔をして居眠り、わたしはMTと話し込んでいた。一番前の方から出たので、新宿駅は中央改札口ではないところへ出た。京王線の改札口を通り過ぎて、MTは各駅停車ホームへわたしは特急電車ホームへと別れた。
タケシは代々木駅で降りた。仕事場は代々木駅で降りても歩いてそんなにかからない。
*#4343 Take a chance on you「神田たけ志」50周年劇画展:9/17~22 Aug. 19, 2020
<余談:起業した元同僚の会社の整理、1993年>
SRLの同時期入社の加藤は、同大安田講堂事件があった年の受験組だった。入試が中止になったので、家庭の事情で浪人はできなかったのでやむなく中大法学部へ入学したと言っていた。あの事件がなければ自分は東大法学部卒だったと、2人だけで新宿で酒を飲んだ時にぼやくことがあった。気持ちはわからんでもない。
1983年12月にSRLへ転職し、2か月後のわたしと上場準備要員としては入社時期が一番近かった。リクルート社の斡旋でSRLへ入社したところは一緒。八王子ラボで中途社員講習を一緒に受けたときに、あいつSPIテストの結果を見せろと言い出して利かない。ダメだというと、自分のSPIテストの偏差値を見せてくれた。68だった。「ずいぶん高いな」と言ったら、自分のを見せたのだからebisuさんのも見せろと言ってきかない。五月蠅(うるさ)いので、見せた。72だった。それ以来、あいつはすっかり弟分の気分でわたしに接してきた。高学歴は偏差値に弱いのだ。難関大卒と院卒でもトップレベルは学力ががまるで違う、仕事をやらせて見たらすぐに知れる。(笑)
高校時代から、会計学、経済学、哲学の専門書を問題意識をもって読み、好奇心に駆り立てられて思考し続けたら、大学を卒業するころには知識や思考力に大きな差がついてしまう。生徒会会計を担当し、全部のクラブの部長と副部長をそれぞれ生徒会室へ呼んで公平な予算査定をし、帳簿記帳と決算業務を2年間したのもすばらしい経験になった。丸刈り坊主頭の校則改正の経験も人を巻き込むやり方をそこから学び取ってしまっていた。産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事では同時に社運のかかった5つのプロジェクトを同時に担い、予算編成や予算管理、資金管理を入社早々から担当している。経験智も当然ついてしまうし、場数も踏んでいるから仕事がおおきくても悠然とこなせる。予算編成や予算管理は根室高校時代の経験で、どんな企業規模でも同じことだった。必要にして十分な経験を積んでしまっていた。
加藤は1991年頃に厚生省の補助金を利用して、企業の社員の健康増進プログラムを開発して独立起業した。大手企業の健康政策のアドバイザーのような仕事だった。1年間は空振り、苦労していたが、心境に変化が出てから事業が軌道に乗り出した。経営コンサルタント仕事の相談が舞い込むようになって、そちらの仕事の専門家であるわたしへ仕事を手伝ってほしいと依頼が来たので、1件だけ900万円の仕事を手伝った。取締役の名刺を用意してくれて、対象の企業を訪問し、決算書類について周辺情報をいくつかリアリングさせてもらい、1978年に開発した25ゲージ、5ディメンションの経営分析モデルに入力し、25ゲージのレーダーチャートをEXCELで作って、どこをどのように改善すればいいのか、一日で調査レポートと提案書を書き終えて、数日後にその企業に説明に行った。仕事が無事終わって、取締役への就任を頼まれたので、土曜日だけで十分こなせるので、人事部へ届けたら、ノーの返事だった。年収がアルバイトの方がずっと多くなる。10件こなせば1~2億の売上になるから、4000~8000万円くらいの年収にはなる。
SRL人事部が奨めていたはずの兼業にノーの返事、ちょっと驚いた。加藤にその旨伝えたら、副社長のポストを用意すると提案があった。臨床検査業界ナンバーワン企業のSRLでやりたい仕事がたくさんあったので、いまはやめるつもりはないと返事した。そうしたら、奥さんと話をして、社長で来てくれないかと打診があった。奥さんは東大理Ⅲの才女で、某海外有名ブランドの化粧品の開発部長をしていた。せっかくの申し出ではあるけれど、相談には乗れるがダメだと電話で断った。その2か月ぐらい後で、あいつは会社を4~5人の社員へ営業譲渡して整理した。
健康増進プログラムを事業化したあいつは、客先が増えると、経営コンサルタント仕事を相談されるようになった。そちらの方がずっと市場が大きいのだ。最初のテストケースの仕事を、「わたしにはできないが、ebisuさんならできるはず」と振ってきたので引き受けたのである。数回やって見せたら、頭がよければやれるかもしれない。わたしは産業用エレクトロニクスの輸入商社関商事(後にセキテクノトロンと社名変更)でさまざまな仕事の傍ら、経営改革のための経営分析を6年間やっていた。当時はこの分野では日本で最先端のスキルをもっていた。
経営コンサル仕事を受けて、その後の3年間の決算書類を提出してもらい、伸びた経常利益の3割を成功報酬として手数料にもらえば面白いビジネスだった。生産性を上げて数億円利益が増えたら、業績をモニターしているだけで、会社は安定して十分なお金を稼げる。支払う方も楽だ。高収益企業に変われば、経常利益の3割の支払いは借金しないで可能になる。そんなビジネスモデルを考えたが、簡単すぎてつまらない。遊びも仕事も一緒、リスクを伴うものでなければ楽しめない。
でも楽して過ごすのもありだったかも。経営改革をコンサルしたら、次のターゲットは株式上場だ。4回経験があるので、面白い事業ではある。成功報酬で上場前の株式を割り当ててもらえば、成功報酬だから、コンサルを依頼する側の負担はナシだ。株式上場を手伝うのは通常は証券会社だが、彼らは手続きができるだけで、その前処理、上場要件を満たす高収益企業、高成長企業へと普通の会社を変貌させるスキルはない。いわば株式上場の前処理段階の作業である。10人くらいの規模で数年で売上高を5億円確保できたら、社員一人当たり2000万円程度の給料は支払える。ユニークな企業が誕生したかもしれない。
事情は変わらないから、いまからだってそういう企業が生まれても自然だろう。やりたい若い人がいたら、ノウハウ全部伝授してあげる。この分野の事業に情熱をもった人でないといけません。(笑)
断って1か月ぐらいのこと、1993年の3月頃だったかな。電話があり、あいつの声がかすれていたので、何だか嫌な予感がした。「熱はないか?」と訊いたら、「このところ微熱がある」と返事。「大きな病院で検査してもらえ、癌の疑いがある、進行性の癌だったら若いから、そんなにもたない」と告げてしまった。あいつは横浜済生会病院で検査を受けて、胸部に癌が発見された。末期だった、声がかすれていたのは腫瘍が肺と気管支を圧迫していたからだった。
私はそのころ、金沢の臨床検査センターの決算分析と買収交渉と買収後の立て直し、並行して東北の臨床検査センターとの資本提携話を取りまとめ、東北の会社の方を選んで経営企画室担当取締役で出向が決まったところだった。入院治療を勧められたが、助からないから自宅療養したほうがいいとのわたしのススメ通りに、医師を説得して済生会病院では初めての末期癌患者の自宅療養、通院による治療が始まった。
夏になってあいつから暑中見舞いが来た。「余命3か月」と書いてあった。慌てて、横浜のあいつの高層マンションを訪れ、見舞った。抗癌剤と放射線治療で髪が抜け、夏なのにエアコンで頭が涼しいと毛糸の帽子をかぶっていた。将棋を所望され、3番指した。奥さんが帰宅するまで帰らないでくれと頼まれ、時々疲れて、15分くらい横になりに寝室へいっては、しばらくするとまた戻ってきて、昔話と将棋をせがむ。7時過ぎに奥さんが帰宅して、挨拶をして別れた。
そんなふうで、2度横浜を訪れた。1993年9月に2年前に手術した大腸癌が全身転移してオヤジが亡くなり、49日の法要の前日だったかな、奥さんから電話があり、加藤の死を知った。「もうダメそうだと朝言って、肩につかまりタクシーで病院へ、そのまま入院、モルヒネを打ってもらっい3日後に眠るように亡くなった」とのこと。オヤジの法要を済ませて、すぐに横浜を訪れ、線香をあげた。いいやつだったな。
起業して、一緒にやらないかと言われたのは、加藤が2人目だった。関商事のときも、有力な取引先が日本法人を作るというので、遠藤さんに打診があり、彼はわたしを誘った。売上の3割近くを失い、優秀な社員が引き抜かれたら、関商事が傾く、受けられない相談だったから、この時も断った。
加藤は2歳年下、兎年生まれ43歳だった。
ケイジが起業したシステム会社を整理してから亡くなったと聞いて、ずいぶん昔になるが営業権を4~5人の社員へ譲渡して亡くなった加藤のことを思い出した。違いは、営業譲渡したときに、加藤はまだ自分が癌に罹患していることすら知らなかったということ。たまたま、3度わたしが経営に参画するのを断ったので、会社の整理をしたことにある。まるで寿命を知って事前にやったかのように見える、偶然というのは怖いものだ。
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