#5112 同期の桜・ムサシの訃報 Nov. 12, 2023 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
同じクラス3Gの3人、ヒロシとムサシとトシ(ebisu)が東京へ出てきた。根室高校最後の総番長のヒロシとは一緒に上京したから、同じ飛行機便で東京へ降り立った。全日空のスカイメイト、料金は半額6800円だった。1967年当時は中標津空港がない。ムサシは拓大へ進学した。ムサシも総番グループ、三人の副番長のうちの一人だったが、ボンボンで気の優しい奴だった。
東京へ出てきて、わたしは新宿や池袋の盛り場を遊びまわっていた。夏になるとムサシから一通の葉書が来た。ホームシックにかかって寂しいので会おうと。そういうやつだった。
二人でヒロシの高円寺のアパートに泊まって酒を飲んだ。数回そんなことがあった。
二十数年前だったかな、一度、有楽町で偶然にすれ違った。声をかけたら照れくさそうだった。奥さんを亡くしてから数年たっており、女性と一緒でほほえましかった。
ヒロコはクラスは違うが仲の良い友人の一人である。生徒会で一緒だった。ヒロコは初台の「男子禁制」のアパートに住んでいた。なぜかそこは根室人が数人まとまっていた。新宿駅から歩いても20分ほどの距離だったから、新宿で遊んだついでに何度か行ったことがあった。鍵をかけていないので、本でも読んで暇をつぶして1時間も待っても戻らないとあきらめて新宿へ戻る。男女の気遣いをしなくていい気さくな友人である。
同じアパートにヒロシも来ていたことを、30年もたってから知った。彼の奥さんになる人が同じアパートにいたのである。だから、時々行っていたとヒロシ。大笑いした。ヒロシは歌舞伎役者のよう顔立ちで野球部、ずいぶんもてていたが、晩熟(おくて)だった。
根室会に来ていないので、連絡が行っていないのではと気遣ってヒロコが電話してくれた。ヒロコの亭主も数年前に亡くなっている。団塊世代はそういう時期に入ったということだ。来年、東京の同期会を開く予定なので、決まれば連絡をくれるそうだ。ありがたい。行けるかどうかはそのときの体調次第だ。
まだしばらく東京の空気を吸っているつもりだが、元気そうに見えても、突然体調を崩すということがある。会いたい人には、機会を逃さずいまのうちに会っておいたほうがいいのだろう。
高校時代の友人は付き合いの長いのが多い。会うと不思議とあの時代のこころに戻れるから不思議だ。
1月にヒロシが亡くなって、ムサシが逝った。向こうは賑やかそうだ。何年かしたら、また三人で楽しい酒が飲めるかもしれない。
ムサシの冥福を祈る。
<余談:3回英語授業を潰した>
1年生の時の沢井先生は中高6年間で最高でした。音読は低音ですばらしい。説明も理論的でした。文型中心の授業をしてくれました。北大卒の先生で、根室高校の後は釧路国立高専の教授になったそうです。高2と3年次はH先生に変わりました。やる気のない手抜きの授業になぜか無性に腹が立ちました。
あるとき、授業中に席を立って廊下へ出ていき、体育館へいって体育の授業で使っていないことを確かめ、バスケットボールをもって教室に戻り、「体育館空いている、バスケットしようぜ」と声を掛けると、バスケット部のムサシと総番長のヒロシが「おう!」とひと声、ムサシはニコニコしてついてきます。
3回目には、H先生が校長からお咎めがあったようで、気の毒で3度だけにしました。
「授業中に体育館で遊ばせている先生がいる」
職員会議でそう叱責があったようで、他の先生から聞きました。担任の冨岡先生だったかな。私がやったことは当然ご存じですが、お咎めなし。理由なくそんなことをする生徒ではないとよくわかってくれていました。
2年次の化学の先生もいい加減な授業でした。2度質問をしましたが答えられず、あきれて自分で勉強することに決めました。わたしたちが卒業してから別海町へ転任し、あまり授業がずさんだったために首になったといううわさを聞きましたが、公務員ですから首にはなってないでしょう。そういう噂がたつほどの先生だったということ。この先生のときには授業妨害してません。教える能力のない先生もいていいと思っていましたから。でも、やる気のないのは許せませんでした。
いい先生もいました。授業がうまかったのは簿記の白方功先生(北見北斗高校出身、バッキーシラカタの愛称で呼ばれていました)、政治経済の柏原栄先生、英語の沢井先生、生徒に慕われたのは担任に冨岡良夫先生とバスケットボール部顧問の野沢先生。担任は「ドンタ」野沢先生は「ショッちゃん」の愛称で呼ばれていました。
新任で二年間だけの付き合いで授業を持ってもらったことはありませんでしたが、ラグビー部を創設時に顧問を引き受けてくれた明大ラグビー部出身の村田先生、お願いしたので部員集めと1年後の部への昇格はわたしの方で手配しました。発足1年間は「同好会」という規定が規約にありました。同好会の部への昇格は、活動実績を見て生徒会の判断でできたので、お約束できました。指導がいいからすぐに強豪校のひとつになりました。予算の配分は、当時は生徒会会計が部長と副部長を生徒会室に読んで単独で決めていたので自由にやれました。予算は生徒会会計の専権事項でしたから、権限が大きかった。もちろん公平性には意を砕きました。
予算と帳簿の記帳と決算業務が生徒会会計の仕事でしたから、毎年仕事のできる生徒を選んでいました。指名権は生徒会会計にありましたから、先輩の指名があれば否やなナシでした。拒否権ないのです。生徒会選挙の時に、先輩の副会長が2名、次期生徒会長に立候補しろとこれも「命令」でしたから、その旨生徒会顧問へ告げると、校長が反対、表向きは「生徒会会計をしているので、立候補はダメ」、でもそんな規程はありませんから無視してよかったのですが、生徒会顧問が困った顔をされたので、同じクラスだったH勢に副会長への立候補を依頼、副会長の先輩二人に事情を告げて、H勢の応援演説をお願いしました。お二人とも快諾してくれました。副会長の先輩二人がなぜわたしを会長候補に推したのかは理由がありました。1年の終わりころ会計に指名されて、まもなく、丸刈り坊主頭の校則改正を副会長と会計の先輩に相談したら、「おまえがやれ」と言われて、11月の修学旅行に間に合うようにスケジュールを引いて、作戦を練り、2年生になったばかりの四月に保護者へ丸刈り校則の改正を目的としたアンケートを実施しました。髪型は基本的人権の一部だと誘導するようになっていましたので、保護者の方はOKです。校長が弱いのはPTAですから、PTAを味方につけたら、勝負は勝ったようなものでした。あとは集計結果をまとめて、校則改正の規約に則って全校生徒集会を開催して賛否を問いました。それで校則改正ができたのです。修学旅行の3か月前でした。髪を伸ばして東京都・大阪・奈良、11泊12日の修学旅行を楽しみました。その経緯を見ていた副会長二人が、「会長に立候補しろ、応援演説は俺たち二人がやる」そう言ってくれたのです。そして校長の反対。
そういうわけで会長は中学の時、隣のクラスにいたオサムが立候補となりました。あいつは、一人褌を締め、たんたんと「鉄砲」をしていました。たった一人の相撲部、でも性格が温厚な大柄な男でした。
オサムは漁師の親方の次男坊、あるとき(1967年)16段変速のサイクリング車に乗ってきました。生徒会室の窓の外に置いてました。ピカピカの新車で。
「オサム、自転車ちょっと貸せ、前の道路を走ってみたい」
「いいよ」
と二つ返事でした。貸したくなかったと思います。(笑)
アナログのスピードメーターがついていました。
根室高校前からセブンイレブン方向は緩い下りです。そこを全速力で走ってみました。ダンプカーが前にいました。スピードメーターに目を落としたら、あと少しで時速70㎞です。その瞬間に赤い光が目に入りました。ブレーキランプでした。T字路ですからダンプはブレーキをかけて右に曲がります。あ、と思った瞬間におもいきり右側に自転車を倒して、センターラインを越えて反対車線に出ていました。ブレーキをかけたらタイヤの細いロードバイクですから、タイヤがロックしたまま滑ってそのままではダンプの車体の下に入り込んで、命はありません。どーどバイク用のヘルメットをかぶっていてもアウトだったでしょう。そんなものはあの時代にありません、たまたま対向車線には車がいませんでした。生きるか死ぬかの一瞬の判断、後からドキドキです。あの瞬間は「生きてる!」って実感がわいたのです。危ないことほどドキドキワクワクなのです。流氷に乗って遊ぶのと一緒でした。
オサムが買ってもらったばかりの新車のサイクリング車をあやうくお釈迦にするところでした。あいつ、大事にしているのわかっていましたからね。強引に「貸せ!」って言いました。あの時に死ななくてよかった。優しい奴だから、オサムのこころに傷がついたでしょう。
ムサシは牧場主の長男、どちらもボンボンで人柄のいい仲間でした。
<余談-2:根室高校総番制度>
根室高校の総番制度がいつから始まったのかはわかりません。戦前の根室商業高校時代からだろうと思います。5年先輩のSMさんも総番長でした。野球部のキャプテンでもありました。親戚のお兄さんですから、高校1年の時に半年だったか、1年間だったか、事情があって一緒に暮らしていた期間があったので、総番制度について知るところとなりました。ヤクザともめごとがあれば、学校を代表して総番長が話をつけるルールになっていました。なにせ、気の荒い「ヤンシュウ」の多い漁業町ですから、トラブルはあったのです。
ヤクザともめごとがあったときには、向こうの流儀で「挨拶」をします。「仁義を切る」というアレです。やくざ映画で見たことあるでしょう。SMさん、やって見せてくれました。仁義の台詞が総番長に代々伝わっていました。右手を前に出して、左手を後ろに回して腰を落とし、「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さって、ありがとうござんす。手前生国発しますところ...」とやるわけです。見事な仁義でした。そのときに仁義の台詞を書いた小く折りたたんだ紙をもらいました。机の中に入れたまま数十年がたち机もなくなってしまいました。残しておきたい資料でした。
あの紙をわたしに渡したということは、総番長の後継者には渡していないということ。ヒロシに確認してみましたが、あいつはそういう引継ぎはなかったと言いました。ヒロシもSMさんと同じ野球部でした。二人に面識はありません。普通科ができても、総番長は商業科から出すのが不文律でした。仁義の台詞はSMさんが時代にそぐわないので、後継の総番長に引き継がなかったのでしょう。根室高校生がヤクザともめごとを起こすなんてことはとっくにありませんでした。親分のTさんも、わたしを少し危ない奴と見ていたようで、「姉さん、息子に何かあったら言ってくれ」そう言っていたと、2002年11月に根室に戻ってきてから、当時を思い出して笑って教えてくれました。
総番長も5代前のSMさんまでは、責任重大だったわけです。ヤクザともめごとがあったら、それを収めるのは、校長でも生徒会の会長でもなく、総番長の役割と責任でした。半端な覚悟ではやれません。いざとなったときに逃げるようでは総番長にはなれません。根室高校の前身の根室商業はそういうバンカラな学校だったのです。
短歌をよく詠んだ歯科医のT塚先生は、大正6年のお生まれだったかな、根室商業時代に、線路上で両手を広げて蒸気機関車を止めています。どのあたりだったのか、たぶん花咲港へ行った帰りのことではないかと思います。「乗せてくれ」と一言。国鉄の機関手は停車して乗せた、なんて逸話が残っています。根室商業の学生はそんなことをしても大目に見られた時代がありました。いま根室高校の生徒がそんなことをしたら、即逮捕でしょう。
ところで、T塚先生は軍医で中国の華北で終戦を迎えています。そのときのことを短歌で残しています。弊ブログでも書きました。ああ、検索のために実名を記しておきましょう。田塚源太郎先生です。オシャレで品のよい方でした。ビリヤードの常連客の一人です。先生のために帽子掛けスタンドが置かれていました。いつもソフトハットをかぶって来られました。落下傘部隊のオヤジとは気が合っていました。オヤジは「軍医殿」という態度で接していました。いやいや、一度も「軍医殿」なんて呼ぶことはありませんでしたね、そういう接し方をしていたということですよ。二女のケイコさんが、小中高と同じクラスでした。
田塚先生は根室印刷の創業者で考古学者・文学博士の北構保男先生と根室商業の同期です。親友だと言ってました。田塚先生が亡くなってから、残された短歌を(田塚先生の)奥さんや娘さんと編集して遺稿集がつくられています。わたしも1冊もっています。田塚先生は国後島の蟹漁の親方が実家、お父さんが早くに亡くなられたようで、お母さんが漁場と漁を仕切っていたそうです。発掘で何度か訪れたことがあるので、北構先生は「大漁師」と形容していました。人を何人か使って、カニ漁は値が張るので、金額が大きいのです。いま、あんな大きなタラバ蟹がとれたら、漁獲高は軽く1億円を超えるでしょう。国後島沖にはそれくらい密に蟹が生息していました。根室商業には5月になってから入学してきたと北構先生がいってました、ずいぶん気があったようです。
話が転々として申し訳ありません。身近に接して知ったことを書き残しておかないとという思いがどうしても起きます。
#5090 運転免許証の返納と「運転経歴証明書」交付について Oct. 21,2023 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
#5080 ウィルスで画面フリーズ Oct. 9, 2023 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
ディスクへアクセスしていないことをランプで確認して、電源スイッチを切りました。ノートパソコンなので緑色の小さなLED電源ランプは点いたままです。
以前、同様のことが起きたときにはこれで、再起動したらOKでしたが、今回はダメでした。
この画面表示プログラムはRAMに入っているのだろうから、電源をシャットダウンすれば消えるはずですから、バッテリーを外してみました。すると、緑色のLEDランプが消えましたので、バッテリーを再装着して起動したら、OKでした。
「警告画面」が出たら、ハードディスクはアクサスしていないことを確認して電源を落としてから、バッテリーを外して、緑色のLED電源ランプが消えてから、もう一度バッテリーを装着してみましょう。「警告画面」のプログラムが消滅するので障害はなくなります。くれぐれも表示されているサイトへのアクセスや、指定された電話番号へ電話しないように。
ハンドルネームaieseiさんから、こうしたトラブルの正しい対処法が投稿欄へポスティングされました。こちらを参考にして対処してください。とくに、企業や病院内のパソコンでこういう症状が出たときは、「電源落とし」による対処は厳禁です。電源落としたら、システム管理者がきっと悲鳴をあげます。
セキュリティソフトを入れていなかったり、重要ファイルについては毎月バックアップをとっていないなんて言うのは論外です。わたしはそのあたりはちゃんとやっています。メールについては受発信の両方にメインのセキュリティソフトとは別のプロバイダーの有料セキュリティソフトで全件チェックしています。

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#4964 大谷翔平人気爆上がりはなぜか? May 1, 2023 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
WBCの優勝前には、「理想の新人」でNo.1だったが、「今日だけは(米国野球に)憧れるのをやめましょう」と言ってWBC優勝した後のアンケートでは「理想の上司No.1」に輝いている。
さて、わたしたちは大谷翔平の何に感動しているのだろう?
エンジェルスと言えば、企業にたとえると業績不振の会社である。大谷が奪三振の山を積み上げても、味方の打線が不発のときには負け投手となる。
昨年四月は4勝、今年は7勝しているのは、そういう業績不振の企業の中での成果である。自分が頑張っても打線が降るわねければ負け、勝利投手になれない。それでも腐らず、にこにこしながら野球を楽しみ、奪三振の山をまた積み始める。倦まず弛まず努力する、その姿勢に感動しているのではないか?
非正規雇用が4割の世の中、業績不振の中小企業で働いている人は多い。どうにもならぬ現状に這い出す努力もあきらめきってしまっている人たちがいる。多くの人たちが、自分にはない光り輝く才能とひたすら努力し続けることの美しさを彼の活躍の中に見ているのではないだろうか。
西海岸ではドジャース、東海岸ではヤンキースが業績の良い企業で、そこに移籍すれば大谷翔平の投手としての勝利数は20勝を軽くオーバーし、全米No.1に輝くだろう。
でも、弱小エンジェルスというより困難な状況の中で成績をアップし、チームを最強のチームに成長させ、優勝に導く翔平を観たいというのがファンの本音ではないだろうか?
夢が持てない時代へ突入して三十数年がたち、たくさんの人が、漫画の主人公のような活躍を翔平に託しているような気がしてならない。
WBCの最後は大谷翔平とトラウトの一騎打ちだった。あれは漫画のワンシーン以上だ。翔平はトラウトを三振に打ち取って、WBC優勝を決めた。偶然というのは空恐ろしい。あんな「臭いシナリオ」を漫画家が書くことは絶対になさそうだが、現実になった。
<余談:野球漫画>
団塊世代のわたしが読んだ野球漫画は、『巨人の星』『ドカベン』『タッチ』『メジャー』の四つである。大谷翔平は『メジャー』の主人公・茂野吾郎をほうふつとさせるところがある。
*野球マンガ

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#4871 天体ショー:皆既月食 Nov. 8, 2022 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
明るい月に左下に陰りがでる。双眼鏡を3つ出して、それぞれ見比べてみた。12倍のものと8倍の2種類。対物レンズの口径は一番大きい12倍のものが50mm、二番目のものが35mm、一番小さのは28mmのようだ。
天王星が皆既月食中の月の裏側を通り抜けた。前回この現象が起きたのは織田信長の時代。
8時45分頃には右上が輝きだした。
二人並んで、天体ショーを眺めるなんて初めてかも知れない。
月は東京で見たって同じ月だが、古里の空に陰っていく月を見るのは格別の味わいがある。
いい夜だった。
一番左の双眼鏡は12x50、87m/1000m、CONDOR社製品。後の二つはニコン製品です。

一番左の双眼鏡、必要な方がいらっしゃったら差し上げます。引っ越し作業中でいろんなものを処分して、荷物を減らしています。どうぞいらしてください。

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#4737 ピアニスト岩井のぞみ:NHK朝のラジオ放送より April 10, 2022 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
視力がない代わりに、聴覚が発達する、人が気づかぬような音までよく聞こえるのだそうだ。
シューマンのトロイメライを弾いてくれた。わたしはピアノが弾けないし、ピアノのことはちっともわからないが、この人の演奏は、一音一音が粒だって響いてくる。別々の音が美しく響いてきて、それがメロディを紡いでゆく様は、その場で音からメロディを創り上げていくような感覚がして、他の演奏家とは違った音の世界へ誘ってくれる。女性でなければあんな音の紡ぎ方はできないだろうし、女性のピアニストでもこんなに美しい音を響かせてくれる演奏を聴くのははじめて、マルタ・アルゲリッチも内田光子もフジコ・ヘミングも力強いのである。
作詞作曲もやっており、「あさぼらけ」という曲が流れた。歌はそれほど上手には聞こえないが、詞が美しい。大切な人が亡くなったときに空がピンク色に見え、それをそのまま詩と曲にしたと語っていた。そのときの彼女のこころの在り様がそのまま素直に入ってきます。
こころの情景が見えるようで、こちらの心が共振していました。放送されなかったが「ケセラセラ」という曲はつらい時に元気の出る曲のようです。
さて、話し方や声の調子から小柄で華奢な女性を想像していました。ネットで検索して演奏会の写真を見たら、想像とはすこし違っていました。一つ一つの音がきらめきあって語りだすとっても個性的な演奏ですので、ぜひお聴きになってください。
ホームページとブログのURLを貼り付けておきます。
*岩井のぞみホームページ
**岩井のぞみオフィシャルブログ
<ピアノを習っている生徒たち>
塾へ来ている生徒たちの2-3割ぐらいがピアノを習っています。わたしの年代では、根室でピアノを習ったことのある子どもはほとんどいなかったのではないかと思います。バイオリン教室はありました。指導する先生がいました。いま根室市内にピアノ教室は5か所くらいはあるのではないでしょうか。
昨年卒業した生徒ではK川君とU崎さんの二人ですが、K川君の演奏がすばらしいとは友人たちの評です。大学を卒業してもう5年ほどたちますがS田さんという生徒がいました。小樽商大に進学して、入部早々指揮者に指名されて、活躍してました。彼女のピアノ演奏を聞いた同期の生徒の一人が「鳥肌が立った」と言ってました。
今年札幌光星高校マリスコースへ進学した生徒もピアノを習っていました。ブラスバンド部ではバリトンサックス担当でしたね。彼は受験が忙しくなり、半年以上前にピアノをやめて受験勉強に専念してました。どうやらピアノよりもバリトンサックスの方が好きなようです。いろんな楽器をやってみて自分にあった楽器を見つけられる、いい時代ですね。彼の同期のN村さんがいまもピアノを習っているので、時々ピアノの話題が出ます。「先生、ショパンのエチュードは何が好きですか?」と聞かれ、「ショパンのエチュードっていくつもあるの?」なんて頓珍漢でしたね。あとから調べました、27作品もある、難易度はさまざまです。e-tudeはフランス語で「練習曲」という意味なのです。どの曲を練習しているかで、腕のほどがわかるのでしょう。
中3の生徒の一人、T中さんも習っています。
補習の必要のある場合に、習い事等で都合の悪い曜日と時間を聞くことがあります。だから全員を知っているわけではないので、他にもいるかもしれません。好きなら、音楽や絵画や書道などの習い事、柔道や剣道、サッカーや野球、バスケットボール、バレーボールなどなど部活動も積極的にしたらいい。そのうちに一生続けられるものが出てきます。どんなものでも30年続けたら、一人前です。毎日練習すると30年間で日数にすると1万日を越えますから、それぐらいかかるということ。いろいろ試してみてから一生付き合うものを決めていいのです。わたしにとってはビリヤードと経済学です。

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#4733 パソコン・デトックス:すこしだけ休暇 Mar. 21, 2022 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
ネット情報は玉石混交、より分けるのがたいへんです。毎日ネットサーフィンしていると、少なからぬ量の質のよろしくない情報も読むことになります。そうした情報が頭の中を通過することで、得体のしれぬ毒がたまってくるような気がします。あなたはそんな気がしませんか?
毎年いま頃になると、2週間前後パソコンに触りません。情報の入力をやめて、たまった毒を排出できるのかどうかわかりませんが、とにかく2週間前後デトックス。
わたしは情報の広い海を漂う小舟のようなものです、岸辺に艫綱(ともづな)を結び、しばし休息。
前置きが長くなりましたが、そういうわけで4月になるまでブログニムオロ塾はお休みします。
瞑想と音読トレーニング三昧、いい休暇になりそうです。
<余談:H君へ>
昨年7月の最終週から教えていたH君は今日の授業が最後でした。黙々と勉強する生徒です。得意の数学はそれまでのやり方を変え、独力で予習方式でやってもらいました。文句も言わずにそれまでのやり方を棄てて、言われた通りにやり抜きました。これで、札幌光星高校へ行ってからも、独力で高校数学の学習を続けられます。夏までにはいま56頁あたりをやっているシリウス数Ⅰと数Aの問題集をやり切ってください。「論理と命題」の章は完全に独力でやり切れましたから、札幌へ行くまでに2次関数の章は終われるでしょう。2次関数はシリウスだけではちょっと足りないので、『1対1対応数Ⅰ』の2次関数問題で補ってください。
来た時は英語が苦手でした。でも、しっかり勉強してました。高校英語教科書の音読・語順通り音読トレーニングは2時間の授業で10回、1年の教科書を終わったところで時間切れでした。大学受験長文問題集は半分やり終えました。寡黙な生徒でしたから音読が不得手でした。でもスラッシュリーディングにも慣れて、ずいぶんよくなりましたよ。適当な音源(ノーマルスピードの小説の朗読CD)を見つけて、トレーニングを継続してください。夏ころには英検2級に合格可能でしょう。多読して語彙を増やせば2年生の半ばごろには準一級に合格できるかもしれませんね。
英作文はメールで3年間、問題と解答・解説を週2回(4~30問/回す。君も札幌で頑張ってください。夏休みに帰省したときには、顔を出してくれたらうれしい。わたしに札幌の話を聞かせてください、数人のメンバーがきっと喜びます。

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#4638 夫婦:女房殿の話に耳を傾ける Oct. 27, 2021 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
11時54分の中標津空港行バスへ乗るために駅前のバスターミナルまで車で送った。午前中は首都圏の天候が荒れて風が強いと天気予報。午後9時に仕事が終わって50分ほど食事にかかってそれから電話しようと携帯を手に取った途端に着信ベルが鳴った。
中標津空港へ着いてもなかなか羽田からの飛行機が来ない、出発できたのは1時間遅れだったという。中標津空港⇒羽田はCOVID-19でずっと休便になっていた。3月に東京へ行ったときは中標津空港からは飛べなくて、釧路空港を利用した。
機長が途中風が強いので揺れますとアナウンス。
「昔はあまり当たらなかったよねー、この頃ちゃんと当たるのよねー」
「そういえばそうだったな、観測精度がアップしているんだ」
「30分くらいずっと揺れてたわ、強い北風だから早く着いたの」
「そんなバカな、南に向かって追い風だから早く着くなんて、まるで自転車みたいだ。ちょっと揺れるくらいでは飛行機はびくともしないから。荷物はすぐにでてきたろう?」
「それが飛行機が連絡通路に横付けになって、そこからバスに乗って到着ロビーへ行ったのよ、いつもの経路と違ったわ」
「そうなんだ、それでバスは6時5分発に乗ったのかい?」
「到着口から出たら5時半になっていたの、自動券売機は5時35分はもう締め切り、だから6時5分発の桜が丘行きを買ったの、だけどバス乗り場へ行ってみたら、3分前で、荷物を入れる車体の下のドアが閉まっていた」
「バスの前にいる人に話して、6時5分なんだけど、このバスに切り換えてもらえますか?って言ったら、手書きで直して、OKです!って」
「ラッキーだったね」
「空港で一人で30分も待っているの嫌だったから」
「それで山手トンネルかい、混んでた?」
「車が込んでいて山手トンネル通らなかった。新宿で中央高速への入り口で込みだして時間がかかって、しばらく甲州街道を走ったわ」
「ノロノロ運転で、退屈だから車のナンバーを見ていたら、八王子や多摩ナンバーが多いの、仕事が終わって帰宅する車かな?」
「7時前に着いたの?」
「ううん、7時15分くらいだった。お弁当買って、神戸屋さんのケーキが3割引き、ずらっと並んでいたわ。8時近かったからもうショートケーキとシュークリームぐらいしかなかった。列の後ろの方の人は買えなかっただろうな。」
「神戸屋さんのケーキは高いけどおいしいからね。」
「8時発のバスに乗って帰ってきた。お弁当食べてお腹いっぱい。」
「何買ったの?」
「とんかつ弁当。」
「残っててよかったね。サボテンかな?」
「そう。メールがあって、今日〇〇ちゃんの運動会だったの、中止にならなかったらしい。だから、明日に延期にならなかった、残念。」
「今週行くって言っていたので、月曜日に東京へ着いていると思っていたみたい。」
「惜しかったね!」
こんな他愛もない話を30分ほどしていた、なんだかとってもご機嫌である。途中で眞子さんの会見ニュースが入っていたが、それを消してじっくり話を聞いた。
いつも何かしている最中に話しかけてくるので、ナマ返事で、話の内容を覚えていない。考え事をしていて話しかけられても、音としてしか認識できないのです。それで、「いつも私の話を聞いていない」って叱られてます。きょうはしっかり聞けたな、こんなこと何年ぶりだろう。英作文問題とその解説集つくりで、この1年と10か月忙しかったので、ずっとナマ返事していた(1018回分9200題のメール配信用の問題と解説集ができあがった)。ちゃんと聞いて上げたらご機嫌なのだ。たまには、こうしてちゃんと話を聞いてあげよう。
一緒に暮らし始めてからもう53年だ。高校生の時にめんこい下級生がいるなと思ってから56年。この年になってようやく日常のお付き合いのコツがわかった。三日に一度くらいは30分間は話をじっくり聞いてみるということ。
東京時代は土日は書斎に引きこもって常に何かに夢中になっていた。ウィークディも仕事で遅くなるのがあたりまえ、娘と晩御飯を食べたことなどほとんどなかった。
2002年の晩秋に古里根室に戻ってきてからも何かに夢中になる癖は治らず、阿呆はいくつになっても阿呆です(笑)。
1年ほど前にリビングに置いてある机を一つ増設して連結し、作業環境を良くしました。冬は別の部屋で作業すると暖房費がアップするので、節約のためにリビングで作業をしていることが多い。今年は灯油が100円を越えたそうだ。根室へ戻ってきてから40円台のことがあったと女房殿。
北海道は冬の暖房コストがバカにならない。室温26℃で半袖で過ごすなんてことはナシだ。
<余談>
最近体重は62㎏前後アリ、15年前にスキルス胃癌の全摘手術をしてから、この1週間、体重は最大値を記録している。だが、口内炎がでて、食事が辛い昨日が一番ひどかった。腸の炎症が起きてひどくなると、口内炎が起きる。消化器管としてつながっているのでそうなるのだろうか?
舌には濃い味付けのものが染みる、びりびりするので、鏡で見たら、舌の中央部付近から奥が薄黄土色をしている。あちゃ、ひどいな、痛いわけだ。食べないのが一番いいが、食べないと体力も体重も失う。経験則だと2㎏減少すると、回復に1か月を要する。
昨夜は、頭頂部にとろりとしたものをイメージしてそれが口内や腸に広がっていく様子を想像した。内観と言うらしいが、今朝起きたら、口が渇いていないし、舌が痛くない。半分は気のせいかもしれないが、楽にはなった。これで食事が苦痛ではなくなる。好い朝です。
今日は中3生相手に、教科書の音読トレーニング特訓の日。水曜日は塾は休みですが、今年は高3と中3対象に1か月間隔で音読トレーニングを実施しています。英語アレルギーの人が多いので、放って置いたら勉強しないからです。読めなきゃ英語ができるようになるはずもありませんから。10回音読、そして意味をつかんで、それをイメージしながらさらに3回音読。あとは家で自分で30回読んで10回書いてくれたら、定期テストは8割以上点が取れます。でも家でやらない人が多いんだよね。(苦笑)
突然化ける生徒がたまに出ます。9年前のことです。学力テストで英語が半分くらいしか得点できなかったMK君が1月から2か月間一番前に座って質問しだしました。入試本番で満点でした。あれには驚いた。受験票もって行って高校の窓口で点数確認して来いと言ったら、本当に満点。MK君、中高とサッカー少年です。彼と同期のIY君が早稲田商学部に一般入試で現役合格してました。中学2年で「塾卒業」の免許を与えた二人の生徒のうちの一人でした。もう塾来なくても大学入試は大丈夫だと感じたので、サッカーしながら文武両道でトライしたらと薦めました。一緒に一番前に座って質問しだしたKT君は総合ABCが11-13点でした。英作文中心に2か月一番前の席に座って質問しだしました。次第にいい質問が出るようになりました。彼も入試本番で49点。当時は60点が満点です。教えた私も、なにより本人が一番びっくりしたでしょうね。KT君は根室で仕事してます。うれしいね。高校時代はバイトに精出してました。それぞれ自分の選んだ道を歩いています。
成績が突然に大幅にアップする、みんなに起きるわけではない、ごく少数の者に置きますが、こういうことが誰に起きるか本当にわからない、だから生徒が指示通りに家で復習しようがしまいが、わたしがやるべきことだけはやる、後は生徒の問題、最後まであきらめないのです。おそらく英語アレルギーを直す生涯最後のチャンスです。それをものにできるかできないかで生徒の未来に影響があります。
ブラスバンド部の生徒は定期演奏会が11月下旬にあるので、練習が忙しくて10月の音読特訓には来れませんでしたね。12月と1月の2か月間を充てようと予定しています。大学や看護学校進学の生徒は推薦でほぼ決まりだからやる必要なしです。空いた時間をブラスバンド部の中3へ振替。学力テスト総合Bで英語が80点を超したのは一人だけ。合計点も390点台⇒420点台⇒430点台と目標の450点に向かって着実に歩んでいます。450点の取り方を教えただけ。科学者になりたいというので、学問研究の仕方について具体的な説明はしています。効率的な受験勉強という学習スタイルは棄てるべきです。そういうことをちゃんと織り込んで指導しています。7月下旬から来ている生徒ですが、出遭うべくして出遭った感があります。道内最高峰の難易度の高校への進学。根室高校からでも北大総合理系レベルなら、現役合格できるでしょう。ほんとはこういう生徒は全部根室で育てたいね。今年の3月は旭川医大へ現役合格したO君がいました。生徒の5%は小4から長期戦略で受験勉強すれば、そのうちの半数は北大レベルなら現役合格できるのです。根室の教育関係者はやり方を知らないだけです。1学年200人とすると5%は10人、そのうちの半数の5人は国公立大医学部や北大以上の難易度の大学へ根室高校から現役合格する道があります。

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#4509 うっせえうっせえうっせえわ:Ado Mar.15, 2021 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
現役高校生が歌っている。リリースしてから4か月ですでに9500万回の再生回数だという。間もなく1億回を突破する。どこまで伸びるかわからないが、あまりはやると「うっせえ」。
「正しさとは愚かさとは/それが何か見せつけてやる/ちっちゃなころから優等生/気づいたら大人になっていた/ナイフのような思考回路/持ち合わせるわけもなく/でも遊び足りない/何か足りない/困っちまうこれは誰かのせい/あてもなく混乱するエイディ」
歯切れがいいね、反逆精神の欠片がラップ風のリズムに乗ってポンポン飛び出してくる。
「骨まで愛して」は城卓矢が1966年にリリースした歌で、美空ひばりさえもカバーしている大流行した歌だ。そのころ根室高校から明治牧場内を横切って歩いて家へ帰るときに、小学生が
*城卓矢 骨まで愛して 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)
* Ado うっせぇわ 歌詞 (j-lyric.net)
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歌:Ado
作詞:syudou
作曲:syudou
正しさとは愚かさとは
それが何か見せつけてやる
ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく
でも遊び足りない何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい
あてもなくただ混乱するエイデイ
それもそっか
最新の流行は当然の把握
経済の動向も通勤時チェック
純情な精神で入社しワーク
社会人じゃ当然のルールです
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
嗚呼よく似合う
その可もなく不可もないメロディー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
頭の出来が違うので問題はナシ
つっても私模範人間
殴ったりするのはノーセンキュー
だったら言葉の銃口を
その頭に突きつけて撃てば
マジヤバない?止まれやしない
不平不満垂れて成れの果て
サディスティックに変貌する精神
クソだりぃな
酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい
皆がつまみ易いように串外しなさい
会計や注文は先陣を切る
不文律最低限のマナーです
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
くせぇ口塞げや限界です
絶対絶対現代の代弁者は私やろがい
もう見飽きたわ
二番煎じ言い換えのパロディ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
丸々と肉付いたその顔面にバツ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
私が俗に言う天才です
うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
嗚呼つまらねぇ
何回聞かせるんだそのメモリー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
アタシも大概だけど
どうだっていいぜ問題はナシ
エネルギーに満ちていて、全身からエネルギーがほとばしる若者が出てこないものかと期待して待っていたが、歌の世界に現れた。1980年代にレベッカというバンドがあった。FBで採り上げていた人がいたので、聴いてみた。元気いっぱい、若いころはあれでいい。
根室商業時代からの伝統だった総番制度はヒロシが潰した。総番制度に普通科の生徒はアンタッチャブルだった。商業科で規格外の生徒たちが集められた「Gクラス」のA野とわたしも少しだけ関与している。1年生が終わり、一年間生徒の性質を見極めたうえで、どうにも扱いに困る生徒たちはベテランの冨岡先生のクラスに集められたのである。お陰で面白いクラスだった。わたしは1年生の時にはFクラス。隣のクラスにヒロシがいたはずだが、お互いに全く面識なしだった。出身中学校もヒロシは柏陵、わたしは光洋だったので接点がない。「Gクラス」へ集められなかったら、接点がないままだったかも。出遭いは偶然、否、行動を考えると必然だった、Gクラスという箱が必要だった。2年と3年の2年間、同じ箱の中で過ごした。1年生の夏から足駄(10㎝くらいの高下駄)を履いて通学した。背が高い方だったから上級生を見下ろすような格好になった。ずいぶん目障りな奴だったのだろう。総番グループだって足駄で通学する奴は少なかった。何かルールがあったのだろう。ルールなんかうっせうっせだった。
丸刈り坊主頭の校則は2年生になってすぐに生徒会で改正の段取りをして、3か月後には生徒総会で校則改正にこぎつけ、11月の修学旅行は長髪で東京・京都・奈良を歩いた。
当時の修学旅行は11泊12日だった。こちらはたまたま生徒会会計をしていた私が担当した。校則改正を提案したら、3年生の副会長2人が「おまえがやれ」と言ってくれたからだ。3か月で完了できる具体的な段取りをすぐに決めて実行に移した。目標は修学旅行へ長髪で行くことだった。保護者への髪型のアンケートを実施し、スケジュール通り運んだ。
当時の生徒会会計は生徒会の帳簿をつけて決算までやっていた。政府で言うと財務大臣のポストだった。簿記の成績のよい者が任命されていた。たまたま先輩のNさんがわたしを指名した。思いっきりのいい人で、2年生の時に各部の予算折衝を「おんちゃ、おまえがやれ」と一人で任された。各部の部長と副部長を生徒会室へ呼んで個別に予算折衝をした。責任が重い仕事だったが、そういう仕事を任されて、人は育つ。
ぶっ飛んだ高校生時代だったが、ヒロシもおれも社会人になってからちゃんと仕事してきたから、至極まともだ。(笑)
若いうちは一度はぶっ飛べ!
#4244 ビリヤードのタップの調整の技と世界最高のチョーク、そして勉強法 May 8, 2020 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
わたしはビリヤード屋の息子、小学校へ入学する前からビリヤード台の上で遊んでいました。小学生の低学年からお客さんたちとビリヤードして遊んでもらいました。じきに店番を手伝うようになり、中学生のころは独りでもお客さんたちをさばけるようになっていました。小学生のときには床に就いても頭の中にビリヤード台が浮かんで、そこで球を撞いています。「エアー」でというか「バーチャル空間」でビリヤードできるようになっていました。それで球の配置を変えてトレーニングできるんです。中学生の時にその技が学習に使えることに気がつきました。集中して授業を聞いていると、授業を聴いた後に黒板の文字と先生の説明の言葉が脳内に再現できることに気がつきました。それからは勉強が楽になりました。授業の合間の数分間に目をつむり、頭の中に黒板に書かれた文字を再現すればいいだけ。成績は勝手に伸びていきました。店番の合間に、目をつむって思い出すだけで、数分で復習できました。お店で夢中になって遊ぶことで、ユニークな学習方法を自然に身につけてしまっていました。だから、さまざまな概念を頭の中に思い浮かべて関係を探ることが大好きです。経済学の研究も自然にそちらの方へ向かいました。だいぶ遅れましたが数学も。20歳代の半ばころにユークリッド『原論』とマルクス資本論体系の相同性に気がついたのです。
高校卒業するまでずっとお店の手伝いをしてましたから、門前の小僧習わぬ経を読むの類でして、ビリヤードの腕前はいつのまにかセミプロクラス。高校卒業して古里の根室を離れて東京生活が始まると、都内の有名ビリヤード店をいくつか訪れました。そしてプロのトレーニングメニューを知ることになったのです。一流のプロの中には、親切にトレーニングメニューを教えてくれる人がいました。ノートに50ページほどトレーニング図面を書き溜めてあります。セミプロからプロになるためのトレーニングメニューです。こんなノートは世の中にあまりないでしょう。プロは公開したがりません。スリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生はNHKのビリヤード講座を担当したときに教本を書いていますが、高度な技は書かれた本がないのです。理由をお聴きしたことがあります。「半端な腕前の者が半端な理解でこうはならないとクレームを言う、面倒くさいことになる、だから書かないんです」とおっしゃりながら、そのレベルの技をわたしには丁寧に教えてくれました。「面授」なら人を選んで教えられるので、小林先生は教えてくれました。誤解するような人の質問には答えないでしょうね。
「毎日来なさい教えてやるから」と言ってくれたのは、八王子市にあるチャンピオンというお店のオーナーの町田さんでした。そこには息子さん用の鉄製のキューがありました。プロのプレイヤーにするのに素振り用に鉄製のキューをつくったと言ってました。それを見て『巨人の星』の「大リーガー養成ギブス」を思い出しました。うちのオヤジなら、考え付いても息子が可愛くてそんなことやらせっこありません。遊びでいいんです。次男の正さんがアーティステックビリヤード世界2位です。長男も同じ鉄製のキューで素振りしたはずと思って、聞いてみました。腕はよかったそうですが、まだプロのビリヤード選手で飯が食える時代ではなかった、それで板前にしたと。次男のときにはプロのプレーヤーで飯が食えるかもしれないと思ったそうです。正さんはボークラインゲームでは全日本チャンピオン。皇族がビリヤードのコーチを受ける霞会館で現在の天皇のコーチだったようです。小林先生が自分の後は彼になったとおっしゃっていました。小林先生の推薦だったのでしょう。
そういうわけでプロのトレーニングメニューのすごさを知ってます。一流のプロの指導技術や指導メニューは効果抜群です。
時は小学生のころ、昭和30年代初めころにさかのぼります。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生は毎年根室に来られて、ラシャの張替えをして、そのあと根室でナンバーワンの腕前の人を相手にアメリカンセリの技を見せてくれました。短クッションで往復するセリです。角に来て、方向転換するときがむずかしいのです。図面上で検討して理屈は呑み込めても、何度もパターントレーニングをしないと身につかない技です。短クッションのセリは吉岡先生以外には見たことがありません。白髪のとっても品の好い方でした。
スリークッション世界チャンピオンの小林先生にはボールの配置した図面を描いてもって行き、質問をしたことがあります。丁寧に教えてくれます。マッセのキューの構え方を教えてもらいました。吉岡先生とは違った構えで、クビにキュー当たります。吉岡先生の方式はこめかみの上のあたりにキューが当たります。小林先生の構えの方が撞点がよく見えるんです。
シルクハットというマッセの大技のもち主である町田正さんのマッセの構えは記憶にありません。あの大技は世界で町田正さんだけの技です。台の端から端までL字を描いて玉が走ります。キューの重量は23オンス以上(私が普段使っていたのは14.5オンス)でしょうね、うんと重くないとやれない技。あんな勢いで球を撞くことができたとしても止められません、ラシャを撞いて破いてしまいます。それがちゃんと止まっているのですから驚きです。あの技をテレビで見たときはどういうトレーニングでああなったのかまるでわかりませんでした。お父さんのお店に素振り用の鉄のキューがありました。あれで素振りを繰り返さないと身につかない技です。マッセトレーニング専用の1辺が50㎝くらいの正方形の台がありました。スレート(石)をカットし、枠木を誂える、そしてクッションもゴムを切って貼り付ける、とっても手間をかけて造ったもの。お父さんが息子にマッセの練習させるために特別につくったものです。世界一にするためには何でもやる、父親の執念を感じました。町田正さんはキューの切れがものすごくいい、そして柔らかい。才能もありますが、道具とトレーニングもなければ絶対に身につけられない技、それが「シルクハット」です。トレーニングの仕方がどれほど重要かわかります。おそらく小林先生でも真似できません。そういう特別なトレーニングをしていないからです。
アーティステック・ビリヤードで世界2位の町田正さんのお父さんのお店へ出入りするようになって、数回目の時、「プロだから、コーチ料をとるのだが、ebisuさんにはタダで教えてあげる」と言われました。わたしは自分の筋がよかったからと思いたいのですが、もっていたキューがある名人の作だったからでしょうね。タップも世界最高クラスのメーカの逸品がつけてありました。「いまもうないよこのタップ、十数年前に見たのが最後、鑢(やすり)を当てさせてくれないだろうか?」と申し入れがあり、OKしました。タップをいとおしむようにやすりを充てて削った後に、タップの調整の仕方を教えてくれました。角を落として半球状に仕上げます。台の上に置いた球と目からキュー先のタップのカーブがちょうどかぶさるような位置から見て、同じになるように調整します。そのほうが球の端の撞点をついたときにミスショットが少なくなります。いや、そうではない、だいじなのはいままで狙えなかった外側の下の撞点を撞き抜くことができるようになった、軽い弱いショットでドロー・ショット(引き)ができるようになりました。大きさの異なる円と円が打突でぶつかります。タップの角に当たるとミスショットが出やすいのですが、半球状に調整すると角がないのでミスショットになりにくいのです。吉岡先生のタップの調整の仕方は半球の上面、そうですね半径で割ると1/4くらいのところでカットしたような穏やかなもの、だから角が立ってます。そういうやり方がスタンダードでした。町田先生のタップの調整法はわたしにはまったく異例だった。理屈がわかったのでそれから、町田先生方式のタップの調整をしています。どうぞ、セミプロ以上の腕前の方は、真似してください。安物のタップや腕が悪ければどんなに素晴らしいタップの調整ができてもおそらく効果は小さい。(笑)
小林先生は平成のときの天皇のビリヤードコーチ、常連会で準優勝したときに世界最高のチョークをワンケース(12個)を賞品としていただきました。アマチュア全日本チャンピオンのK柴さんに決勝で負けました。一回目は撞き切り(自分の持ち点をノーミスでクリアすること)ましたが、その裏をK柴さんも撞き切り、延長の2戦目はK柴さんが先、2回続けて撞き切りました。試合で撞き切りなんて滅多にあることではないのです。それが3回続きました。初回にわたしに撞き切られたので、あいつ本気モードになった。(笑) さすが元全日本アマチャンピオン本気出すと半端なく強い。ゲームの種類はキャロムゲームの三つ玉です。
見ている人たちが手に汗握る白熱の試合、準優勝でしたが、観客に大いに楽しんでもらえました。メーカーがとっくに潰れて、小林先生が世界大会用にしか使わないチョークを準優勝商品にいただいたのです。半分は残っています。ダイヤモンドを砂にしたようなきらきらしたものが青色のチョークに混ざってます。思いっきり端を撞いても、ミスショットにならない。こんなチョークは初めてでした。
町田正さんは今の天皇のビリヤードコーチでした。ボークラインゲームを3回お相手願いました。このゲームの全日本チャンピオンですからね。わたしはお相手していただいただけで感謝感激でした。トレーニングメニューは正さんのお父さんの方に教えていただきました。ノートが50ページほどあります。
そういうコーチに巡り合うのは、ほんとうに稀。自分の方から出かけないとお会いできません。熱意があれば、叩くと案外と門は開くものです。どんなに偉そうに見えても、実績があっても、相手もやはり人間なのです。熱意にはいつか応えてくれます。(笑))
駿台予備校の荒木重蔵さん(数学)が小林先生のお店の常連会で一緒でした、プロクラスの腕前です。三菱銀行のN川さんもお上手だった。システム関係の担当だと言っていたような気がします。常連会には日本野鳥の会の方が2名いました。1986年から1992年ころまでの話です。町田先生のビリヤードは八王子、小林先生のお店は新大久保から徒歩2分のビルの2階、仕事が忙しくて、なかなかいけませんでした。
小林先生のお店にはベルギー製のスリークッションの台が4台ほどあったかな。ラシャが綾織りでなくて平織りだった。掌を当てて前後に動かしてもラシャがほとんどずれません。人間の力では無理そうなのでどうやってラシャを張るのか訊いてみました。ラシャを引く専用の道具があるんだそうです。それで引っ張りながら隙間をつめながら鋲を打つそうです。台にはヒータがついてました。日本は梅雨があるので湿度が高くなるからです。湿度が高くなると、角度が小さく出てしまいます。ベルギー製の台のラシャ張替え一度だけでいいから手伝ってみたかった。吉岡先生のラシャ張替えを小さい時から何度も見ていたし、中学生ころからはオヤジを手伝ってラシャの張替えやったことがありました。いまできるかな?あやしい!自分一人で全部をやったことはなかったけど、作業の段取りは記憶にあります。お手伝いくらいしかできないでしょうね。あれ、結構楽しいのです。張り替えたあと、まっさらなラシャの上で玉を走らせてみる。なつかしい。
小林先生もビリヤード店の息子です。わたしは「小林さん」と言ったことがありません。どういうわけか出遭ったときから「小林先生」でした。ネットで調べたら小林先生は7歳年上、誕生日が3日違いであることを知りました。あれ、忘年会のときに聞いたかもしれません。誕生日が近くて肩組んで写真撮りましたね。聞いた、聞きました。忘れてました。
昨年11月に77歳で亡くなられています。お世話になりました、ご冥福をお祈り申し上げます
*ビリヤードスリークッション世界チャンピオン小林伸明
7https://ja.wikipedia.org/wiki/小林伸明
**町田正
http://champion.wp.xdomain.jp/
町田先生のこのお店はお父さんが経営していたもの、とってもなつかしい。SRL八王子ラボ勤務のときに20回ほどしか行けませんでした。正さんは京王八王子駅前のビルの2階でご自分の店をやっていました。お父さんが亡くなって移られたのでしょう。
<余談:小寺さんと友人K藤>
小寺さんがバドミントンが学力をアップするのにとっても役に立つと彼のブログで繰り返し述べておられます。市民バドサークルを三十数年間奥様と主宰して来られた。息子さんや娘さんもそのサークルの一員です。小寺さんは東大現役合格、そのまま大学院へ進学し、マスターを終えたあと富士通へ。野球が大好きで、東大野球部のメンバーだったそうです。野球のことは技術的なことをよく知っていますから、大学時代は勉強には熱が入らなかった方かもしれませんね。東大の人は頭で野球する。(笑)
都内随一の進学校である開成高校に「たまたま合格」(小寺さんの弁)した息子さんは開成でもバドクラブに所属、いまは東工大教授で量子コンピュータを教えています。娘さんもバドの名手だそうです。バドの名門高校関東第一高校の教頭先生のようです。国語が専門。
小寺さんのブログの愛読者の一人ですから、いつのまにかプライベートなことをよく知っています。
東大安田講堂の事件があったときに大学院の1年生だったというので、私よりいくつか年上です。1969年1月の東大安田講堂事件では根室幼稚園の幼馴染が立てこもった一人だったので記憶しています。SRLで東証Ⅱ部上場準備要員として私より2か月先に採用されたK藤がその年の受験でした。東大の受験はその年はなかった。「あればわたしは東大法学部卒だった、浪人できないので仕方なく中大法学部へ行った」とK藤。41歳の時に会社を辞めて独立起業、2年後に事業が軌道に乗り始めたときに胸部に進行性癌ができて、半年で逝きました。癖があるけどとってもいい奴でした。事業が軌道に乗り始めたら、一緒に事業をやらないかと誘ってくれました。最初は副社長、断ると社長のポストではどうだろうと。臨床検査業界最大手のSRLでなければやれない仕事がいくつもあるので、それも断ると、事業を分割して営業譲渡、その直後の発病でした。奥さんは東大理三卒、ある有名海外メーカの化粧品部門の開発部長でした。
小寺さんはバドミントンが学力アップに効果があると繰り返し述べていますが、わたしの場合はビリヤードです。無心に遊ぶ時間をもつことがどんなに脳を活性化するかよくわかります。
子どもの学力アップに興味のある方は、小寺さんのバドミントンのブログをお読みください。
**バドミントンが拓くあなたの未来
https://blog.goo.ne.jp/badmintonmusume/e/e446278865d
#3066 C中学校バドミントン部:首都圏の技術指導チャンネルを開く Jun. 24, 2015
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2015-06-24
<余談-2:バーチャル空間で無心に遊べ>
ビリヤード台を頭の中に浮かべて、ゲームを楽しむ技が小学生の時にに身についていたことはすでに述べた。さまざまな問題を脳内の引き出しにしまっておいて、いつでも取り出してそれをいじくることができたから、ルーチンの仕事のほかにプロジェクトをいくつ抱えても負荷にはならなかった。多い時にはルーチンのほかに5つのプロジェクトを2年間抱えていたことがある、このときの5つのプロジェクトはメンバーが役員と部長が2人、課長が3人、実際にプロジェクトの作業をするのはわたし一人、産業用エレクトロニクス輸入商社で愉快な仕事だった。財務委員会、長期計画委員会、収益見通し分析委員会、為替対策委員会、電算化推進委員会、あとで6つ目の利益重点営業委員会の方もシステム化案件を含んでいたので、東京営業所長(課長職)のE藤さんから円定価システムを頼まれて一緒に実務の検討からやった。移動平均値で円定価に使う為替レートの計算式を決め、平均的な納期で仕入レートを決定、推定仕入額を計算して、バルクで為替予約をした。それで、為替差損の発生が消滅、日米金利差で、仕入額の2%ほどつねに円高差益がでるという利益構造に変えた。E藤さんはわたしが付き合った営業マンの中ではナンバーワン。
(昨日、フランスからPCR検査機械の製造で感謝状をいただいたPSS社長の田島さんが営業マンとしてはE藤さんの次かな。1986年ころはアドバンティック東洋という会社の営業マン、SRLの業務部の自動分注機開発のメーカ側の担当者だった。自由に開発をやりたかったのだろう、SRLをがっちりつかんで、会社に見切りをつけ数年で独立している。購買担当で、八王子ラボの検査機器に限らず、固定資産購入はわたし一人でやっていたから、かれのところへの購入協議書の審査を何件もしたし、発注書も何枚も書いた。独立した当初も同じ。わたし一人で年間20億円以上買っていたし、製薬メーカとの検査試薬の価格交渉はもっと金額が大きかった。だから、よほどしっかりしていないと危うい。お誘いに呑み込まれたり、自分の方から接待を要求する、そういう人が絶えなかったのである。程よい距離を保つのが好い。
田島さんには一度だけ八王子の居酒屋で酒をご馳走になったことがあった。その居酒屋の店主の趣味が全国の酒造巡り。で全国の造り酒屋を回って自分が飲んでおいしいと思った酒だけ買ってくる。といっても十本単位だから、あとで送ってもらっていたのだろう。取材がはいって有名になるともう行かないと言っていた。特別に仕入れた銘酒が地下蔵にたくさんしまってあった。メニューや壁に名前が張ってある銘柄を選んで注文して飲んでいると、「こちら飲んでみてください」とおもむろにガラス製のグイ呑みを三つ並べた。二つは美味しかった、無名の地方メーカーだった。一つだけまずいと感じたので、苦労して仕入れた酒をまずいと言っては失礼だから、「この盃の酒は悪いけど僕の口には合わない」と言ったら、満面の笑み。田島さんと酒談義しながらカウンターで飲んでいたので試されたのだ。そのあとで、とびっきりの酒を出してくれた。こんな味の日本酒があるのかと思うような逸品、驚きました。「すごいお酒を集めてますね」と言うと、医療関係でお金をたくさんお持ちの客が酔って、「一番いい酒をだせって言われるんですが、この酒は出しません、もったいない、味のわかる人にだけ」、酒の選び方も目利きだったが、お追従も上手なオヤジだった。お陰で気分良く酔えました。田島さんとは好い酒呑みました。
それから何年かして営業本部の関係会社管理部に異動して三鷹の居酒屋で飲んでいた時に、田島さんが八王子ラボの管理職と連れ立って入ってきて、カウンターの隅で飲んでいた。しばらくすると、そのお店で一番高い日本酒が二つまわってきた。卒のない人だ、ちゃんとわたしがいることに気がついていたのだ。わたしがいつ購買部長で八王子ラボに戻ってくるかわからないとでも考えていたのかな、心配なかった。会社はもうそんな部署ではもう使ってくれない。購買システムを作り直すときに、経営管理課長と社長室、購買部の兼務辞令が出たが、一週間でクライアントサーバーシステムでの作り直しの仕様書を書いて担当者に渡した。システム部門でもめたいた。病理医のシステム部長は管理系統合システムのことをご存じない、知識ゼロだった。元々の購買管理システムは担当プロジェクトチームの三人が困ったいたので、外部設計書を半分書いてあげたし、試薬の価格交渉で購買課へ異動になったときに、不具合を全部直してあった。担当システムハウスが管理系統合システムを富士通の当時最大の汎用大型機で稼働させることに決めた合ったので、汎用大型機でEASY-TRIEVEでプログラミングされて動いていた。いい機会だからNTサーバーに載せ替える仕様書を書いて渡したのである。購買在庫管理システムはわたしが書いた仕様書通り、汎用大型機からNTサーバーへ移された。NCDさんの宇田さんが汎用大型機で統合管理システムの運用メンテナンスチーム10人ほどの責任者をしていたので、システム部門から彼にわたしが書いた仕様書を渡すだけで仕事は終わったはず。2年ほどしてそのシステム部長と本社で会社全体の何か催しごとがあったときに、「あの折は大変失礼しました、何も知りませんで」と挨拶があった。ラボ時代に病理医のその人とは何度も話したことがあった。購買の機器担当だったり、学術開発本部スタッフとしてのわたししか知らないから、システム開発の専門家で、会社の統合システム全体の設計を担当していたことを知らなかっただけ。入社した年の1984年にわたしが仕様書を書いて開発した「投資・固定資産管理システム」も購買部に移管されていた。
試薬の問屋三社と取引していたが、各社年に一度だけ、居酒屋でご馳走になった。付き合ってあげないと、三社とも取引金額が年間数十億円と大きいので担当営業が困るのだ。試薬問屋の担当役員と会うのは年に一度の飲み会だけ。価格交渉は全部、製薬メーカの部長と役員がラボに来て交渉するように切り替えたから交渉事はない。卸の業者相手に価格交渉をしても10%ほどしかマージンがないので、徒労。20%カットが目標だった。入社して2年目の11月、予算編成の責任者のわたしが16億円の試薬カットを提言したことから、専務がプロジェクトを作るから、言い出しっぺのお前が行ってやってみろということになった。購買課長ができっこないと言ったのだろう。迷惑な話だった。卸問屋とちょこちょこ交渉するからやれない。製薬メーカ相手に交渉すればいいだけ。予定を超えた。製薬メーカーには卸問屋のマージンは現状を維持するように約束を取り付けておいた。卸問屋いじめはしない。それから毎年、消費量の増えた試薬の価格交渉が恒例となった。情実が絡む余地は小さくなった。親会社のレビオからは少しだけだったが、レビオの子会社の東レ富士バイオは1984年に導入したCA-19-9が超大型案件だったから、検査試薬の仕入額が大きかった。会社上場で客観的な取引価格を決めないといけないので、入社した3か月目くらいに経理部長のI本さんの指示で、東レ富士バイオの役員と「取引価格の決め方」を決めた。当時は平社員、I本さん自分の担当だったが、富士銀行からの出向部長でどうやったらいいのかわからなかったのだろう。「ebisuお前がやってこい、東レ富士バイオ役員の〇〇さんには電話入れておくので、明日1時に練馬のラボの会議室だ」。20分ほどで紙に書いていった方法で納得頂いた。ドル建ての輸入価格に過去3か月間の為替レートTTBの移動平均値を使うと決めたはず。予定量は計算できるから、毎月先物為替予約をしておけば東レ富士バイオさんの方で為替差損の発生はないよと伝えたら、喜んでいた。為替変動による為替差損発生が向こう側には頭の痛い問題だったのである。お会いする前にそこのところの問題の大きさがわかっていたから交渉は簡単だった。36年もたっているのにいまでもこの癌マーカは使われている。わたしも何度もこの癌マーカのお世話になった。手術前は数値が1000を超えていた。それ以来、基準値を超えたことがない、お世話になりたくない検査項目だ(笑)
膵癌マーカ検査は1990年ころ学術開発本部で仕事していた時に、開発部の仕事を理解し、各担当がそれぞれ独自のやり方でやっていた業務の標準化をするためにDPC社Ⅳ型コラーゲン検査試薬と塩野義製薬膵癌マーカ検査薬の共同開発を担当した。こちらの腫瘍マーカのお世話にはなっていない。当時は「死のマーカ」と言われた。検査で陽性に出たときには手遅れだった。膵臓は胃の裏側にあるので見つけにくい。最大手の臨床検査会社にいると、いろんな部門で面白い仕事にありつけます。その都度、異動した部門で、その部門特有のスキルを身につけます。その前から、好奇心に任せて必要な勉強はあらかた終わっていることが多い。だから、異動してから実務でスキルを磨くことになります。いい仕事しないとスキルは磨けませんから。)
中途入社すると産業用エレクトロニクスの輸入商社でもSRLでも、すぐに予算編成と予算管理の仕事をルーチン業務として任されたが、数十ある費目(中項目レベルで数十項目、SRLでは細目レベルだと百を超えていました)を、時間がぽっと空いたときに三ケタで数項目を動かして頭の中で計算を繰り返していた。だから、どの費目あるいは部門の費用や売上や粗利に異常がでれば全体への影響が三ケタの概数で頭の中で計算できた。珠算で暗算が得意だったからだろう。長期経営計画もそうだった、脳内でのシミュレーションの賜物。暇を見つけると引き出しから取り出していつもやっていたから、具体的な実行計画がデザインでき、それを紙に落とす、そして年度予算編成にもって行けばいいだけだった。
赤字の会社の経営を任されたときにも、新規事業にかかる経費や必要人員や増加する費用や増加する売上、減少する分野の売上、会社の現状の業務の流れ、そしてシステム化したまったく別の実務でたえず頭の中でシミレーションしていた。思いついたアイデアを組み込んで、数年間の損益シミュレーーションや財務構造への影響が判断できた。だから、業種を変えても現場で数か月仕事をすれば、何が問題で、どこをどのようにいじれば黒字になるのかわかったし、すぐに実行できた。シミュレーションの裏付けがあるので、あとは紙に書いて稟議決裁をもらえばいいだけ、簡単な話だった。で、失敗したことがない。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」