#5020 技術の伝承:有人深海探査艇の例 Jul. 22, 2023 [A.6 仕事]
日本には1890年建造の有人深海探査艇「しんかい6500」があります。世界で2番目に深いところを探査できる友人潜水艇です。
これが、二つの技術が失われたために、もう造れないのです。溶接技術者がいません。1平方センチメートル当たり1トンの圧力に耐えて溶接部分から水漏れを起こさない技術は当時世界最高水準です。「しんかい」を建造したときの溶接工はとっくに現役を退いています。仕事がなかったために技術伝承がなされませんでした。
帝人とSRLの臨床治験検査・データ管理の合弁会社の立ち上げと経営を任されたことがあります。1996年11月下旬のことでした。帝人本社から定年退職をした社員の方と一緒に仕事しましたが、そのIさんが、「国内で繊維の製造工場を作る技術がもうないのです」、そうおっしゃいました。帝人は海外へ工場移転をしたので、工場建設技術も海外へ流出してしまいました。国内で繊維工場を建設し、稼働させた技術者たちは、最後の工場建設から30年以上たったので、一人も残っていないというのです。
30年工場をつくらなければ、繊維製品工場の建設と稼働に関する技術は伝承できずに、消滅してしまうということでした。
伊勢神宮には式年遷宮というのがあり、20年に一度お社の建て替えが行われます。20代で参加した人たちが、20年後に40代で、お社の建造の主力を担います。60代で棟梁としてお社建造の全般を差配します。こうして1300年間、お社の建築技術が伝承されてきました。
金剛組という神社・仏閣を建造できる企業がありますが、この企業は日本最古の企業で、578年の創建されて約1500年の歴史を持っています。もちろん世界最古の企業です。木組みの技術伝承が1445年間連綿となされてきています。
日本にはさまざまな職人がおり、名工の数も少なくありませんが、仕事がなければ技術の伝承が途絶えてしまいます。
貴重な技術伝承のために、有人深海探査艇ぐらいは、20年に一度の割合で、新しい船を国費で造っていいのではないでしょうか?
玉鋼の製造もそういう技術の一つです。さまざまな分野で、名工の技術伝承が途絶えようとしています。国はどのような技術が途絶えようとしているのか、それが途絶えたときに、どのような不都合が起きるのか調査し、残さなければならない技術を選別して、技術伝承がなされるように配慮すべきなのでしょう。技術立国を今後も維持しようと思うなら、そうした国家戦略が必要です。
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#4959 NHK番組 解体キングダム Apr. 12, 2他より [A.6 仕事]
古い鉄塔の外側に新しい鉄塔をつくり、新しい送電線を引っ張り連結する。次に内側にある古い鉄塔を解体する。
27.5万ボルトのあたらしい送電線を引っ張るのは、ラインマンという4人のチーム。碍子(ガイシ)に新しい送電線を接続してボルトで止める。地上40mの高所作業だが、張られたラインに縄梯子をぶら下げてそこを降りて振ら下がったままでの作業だ。観ているだけで、こちらの方が足がすくむ思いがした。23歳から41歳までの高所作業の専門職人が15人ほどで作業をしていた。そこの現場は3か月間で、終われば別の現場での作業に移る。危険な作業を安全をしっかり確保しながら、声を掛け合っててきぱきと仕事していた。
新しい送電線を架け替えたら、次は内側の古い鉄塔の解体専門職人のチームに交替した。40mの先端部分の床を構成する鉄材のボルトを外す。錆止めでボルトが鉄材に固着しているが、モンキーレンチをハンマーでたたいて外していく。下では78歳の親方が、ウィンチの操作と作業指示をしていた。作業をしていた人たちはみな60歳を超えていたが、スルスルと40mの鉄塔の天辺まで昇っていった。相当な腕力がなければ上まで昇れない。鉄塔の床面は薄くて幅が7-8㎝ほどの鉄材が格子状に組み立てられてできていた。最上部の床面をつくる鉄材の最後の一本を吊り上げるために中央部の穴のあけられたところまで歩いて近づいたら、撓(しな)った。折れそうなので、元へ戻って腹ばいになって中央部の穴のところまで行き、ウインチにつながっているワイヤーの金具を穴に通して、無事に鉄材が1本下ろされた。全部で700本になるという。
すごいな、60歳を過ぎた職人が10人ほど息を合わせて作業をしていた。78歳の親方は下から声をかけている。
「あわてるな、ゆっくりでいい!」
長年やっていて、息があっているから、安全にやれる作業なのだろう。こういう専門職人の仕事を若い人たちが引き継いでいかないといけない。みなさん、専門学校などで電気工学を学んだ人たちだ。
こうして今パソコンを使っていられるのも、送電線から電気が流れて来るからだ。「ラインマン」や「送電鉄塔の建設・解体専門職人」がいないとわたしたちは電気を使えない。
すごい仕事だ、わたしにはとてもできそうもない。こういう仕事を担う人たちの給料は平均よりもずっと高くていい。いい仕事は収入でも報われるべきだ。
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#4904 仕事と経験:「段取り八分」の意味② システム開発編 Jan. 5, 2023 [A.6 仕事]
前回#4902ではビリヤードテーブルのラシャの張替えを取り上げて、2段構えでやらないと、完璧な仕事はできない、プロはそうしている実例をあげました。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生とスリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生のお名前を挙げさせてもらいました。
今回はシステム開発編です。1978年から84年まで、産業用エレクトロニクスの輸入商社と臨床検査会社のSRLでシステム開発に携わりました。それまでシステム開発経験はありません。大学は商学部会計学科、大学院は経済学専攻でマルクス『資本論』と『経済学批判要綱』を取り上げて、経済学の体系構成に関する研究をしておりました。だからシステム開発とは縁もゆかりもありませんでした。そんなわたしに、産業用エレクトロニクスの2代目社長(関周さん:オーナー)は入社1週間後に社運を左右する5つのプロジェクトをわたしに任せてくれました。いい度胸してましたね。プロジェクト名は前回書いています。
システム開発でも2段構えのアプローチが有効でした。基本設計と実務設計がしっかりしていたら、あとはなんてことありません。そのためには、システムに載せる業務について複数の専門知識が必要でした。それに加えて外部設計書を書くためにプログラミング技術は必須でした。システム開発専門書も洋書を含めて3年ほどの間に十数冊読みました。コンピュータに関する専門書も数十冊目を通しています。プログラミング言語は3言語マスターしました。HP-67とHP-97(逆ポーランド方式の言語:1978年経営分析用のための推測統計計算用)、三菱のオフコン(言語:COOL、ダイレクトアドレッシング)、三菱のオフコン(コンパイラー言語「プログレスⅡ」)、SRL(1984年)では当時最大規模の富士通の汎用大型機でした。COBOLでコーディングして、1年後にEasytrieveで書き換え。この言語は簡易言語で生産性が高いだけでなく、コンパイラーした後の処理速度がCOBOLよりも速い。メンテナンスも簡単になるので、この言語に切り換えたと、NCDのM山SEから聞いた。
産業用エレクトロニクス輸入商社では、収益性を高め、財務体質を変革するために必要なシステムを開発するというものでした。欧米50社の総代理店をしていたので、それぞれのメーカーの商品を理解するのはもちろん、外国為替業務、自社の経営分析、為替が変動する中でのたしかな収益見通し、売上総利益率を27%から40-45%へアップさせるためのシステム開発、営業事務のシステム化など、学んでおかねばならないことはたくさんありました。
それぞれ独立のシステムを開発し、開発目標はクリアしました。
(次のステップはこれらを統合することでした。そこで、オーナー社長と方針が合わず辞職し、SRLへ転職してます。予算編成と予算管理業務をしながら、経営統合システム開発を別業種で担当することになってしまいました。そのための練習のようなことになるとは思いもしませんでした。使うコンピュータは汎用小型機から、当時国内最大規模の富士通の汎用大型機になりました。ソフト開発予算も10倍でしたから、思いっきり仕事できました。産業用エレクトロニクス専門輸入商社でシステム開発業務の引継ぎを終わったのが、84年1月末でした。3月中旬にはSRLで10倍規模のシステム開発業務を担当することになったのです。ついてました。天の導きの手に誘われて転職したような気がしました。)
商品の理解は、海外メーカーから毎月のように新商品の説明にエンジニアが来日するので、理系の営業マンと一緒に、新商品解説セミナーに在籍した6年間全部出席してました。おかげで計測器については慣れました。ディテクターとデータ処理部(コンピュータ)とインターフェイスで構成されていました。ディテクトする周波数に違いがあるだけで、みな同じなのです。門前の小僧習わぬ経を読むの類です。(笑)
外部設計書と実務設計は外部SEには不可能です。業務に関する専門知識も経験もありません。そこはユーザー側でないとできない領域ですが、ユーザ側はSEに理解できるように、説明しなければなりません。つまり、外部設計書がそのままプログラミング仕様書になるくらいのレベルで記述しなければなりません。内部設計についてもあるていどのスキルが要求されます。つまり、実務設計及び外部設計と内部設計の全部をやれる技能が要求されるということです。
その当時、一緒に仕事してくれたのは、オービックのS澤SE、その次には日本電気情報サービスのT島SEでした。どちらも業界トップレベルのSEでしたから、一緒に仕事することで、彼らのスキルをコピーさせてもらいました。ありがたかった。
1984年にSRLへ転職して経営統合システムを担当しますが、上場準備で開発中のシステムの内、財務会計及び買掛金支払いシステムだけが手がついていませんでした。経理部門に経理や原価計算や売上債権管理や購買業務の専門知識とシステム開発能力の両方を持ち合わせた人材がいなかったからです。だから、だれもインターフェイス仕様が書けません。暗礁に乗り上げていました。
わたしが担当したのは財務経理システムと買掛金支払いシステム、それと固定資産管理システムでした。固定資産管理がぐちゃぐちゃでしたから、実地棚卸の実務設計と投資案件を入れて、減価償却費の精度を10倍にすることでした。8か月でトップで本稼働しています。
入社1か月後に引き受けると、経理課長は仕事の様子を見ていて、トーマツ監査法人の応援SEは不要だろうと訊いてきました。公認会計士でしたがシステムには素人、足手まといでした。月300万円支払っていました。
内部設計とプログラミングはソフトハウスのNCDさん、M山さんとT本さんと栞さんという女性SEの3人が担当してくれました。実務設計と外部設計が完璧だったので、8か月で本稼働。内部の人件費が600万円、外注支払いが8000万円ほどでした。一番遅れたのは販売会計システムでした。基本設計に問題があり、販売会計部長のK藤さんはストップをかけて見直しました、3年かかりました。2億円くらいかかっています。
購買在庫管理システムはなかなか進まないので、半分以上わたしが外部設計してます。1年半かかって、財務会計システムと同時に稼働しましたから、買掛金支払いシステムも一緒でした。
原価計算は2年半だったかな、担当が3人とも臨床検査に関する知識がありませんでした。プログラミングスキルもないので、5表にすれば簡単なものを1表にまとめるような複雑な仕様書をかいてしまったので、プログラミング工数が膨れ上がりました。一人700万円の人件費とすると、700万円x3人×2.5年=5250万円、それにトーマツ監査法人の応援が300万円x30か月=9000万円、NCDさんの内部設計とプログラミングで1億円ほど、合計2.4億円かかっています。システム開発は期間が長くなればなるほど工数が増えてコストが膨らみます。
だから基本設計や実務設計でミスがあり、見直しが入ると、並行して作成していたプログラムがジャンクになってしまいます。作り直しです。
わたしは、2001年に外食産業の原価計算システム開発を担当したことがありますが、既存のシステム(給与支払い、カミサリーの購買在庫管理システム)をヒアリングして、1週間で仕様書を書き上げました。それをNCDさんに1か月で開発してもらいました。支払ったのは600万円です。なぜそんなに安いのか?開発期間が短いのと、基本仕様にミスがなかったからです。
1984年にやった固定資産管理システムを投資及び固定資産管理システムに作り直した時は、八王子ラボへ出向いて、固定資産台帳と現物を全品自分の目で突き合わせて、確認しています。それで、表記を全部チェックしました。極端な例を挙げますが、「フランキー」「孵卵機」「腐乱機」「恒温槽」、これらは同じものです。経理部が台帳管理していたので、購入協議書で上がってきたのを台帳に書き写すのに勘違いを起こしていました。固定資産実地棚卸マニュアルを作成し、固定資産管理規定を造りました。固定資産分類を検査管理部の機器担当に手伝ってもらってやり、分類コード表を造りました。そのコードで出力すると、マイナス80度のディープ・フリーザがどの部署に何台、会社に何台あるのかがすぐにわかります。台帳を整理すると同時に、予算管理責任者でもあったので、職権を利用して、投資予算を提出させ、減価償却費計算に必要な項目を入力して、翌年度の減価償却予算を計算し、固定資産管理台帳の既存償却資産から計算した減価償却費と合算して、減価償却予算としました。1億千以上の誤差が2000万円以下になりました。
固定資産実施棚卸をして償却資産分類コードを設定し、投資予算を減価償却費が計算できるレベルで全部署から提出させるというのが、二段構えの第一段目でした。後はシステム開発ですから、外部設計とプログラミング仕様書を書けばいいだけでした。
システム開発の二段構えで仕事の段取りをすると、スムーズにいきます。それは開発コストを半分以下にします。場合によっては、臨床検査会社SRLと外食産業のカミサリー(工場)の原価計算システムを例に挙げたように2.4億円対600万円なんて極端なことが起きるのです。この外食産業は株式上場しました
全部実例です。
1978~84年ころは、経営統合システム開発はパッケージシステムの開発のようなものでした。外部設計書と実務設計書をユーザー側で書いて、ソフトハウスに外注していました。
1990年以降は、オラクルなどのパッケージスステムが主流になりました。パッケージに合わせて実務設計をする方向に変わったのです。パッケージスステムを導入しながら、それまでやっていた実務にこだわって、カスタマイズをやりすぎて、メンテナンスがむずかしいシステムにしてしまう例が多いようです。愚かだとおもいます。
それなら、外部設計書を書き、実務設計をして、内部設計とプログラミングを外注した方がいい。
<余談:臨床検査ラボの自動化と米国進出>
1984年にSRLへ転職して、棚卸にかこつけて、八王子ラボの検査機器を全部確認し、驚いたことがあります。GPIBインターフェイスをもった臨床検査機器がほとんどなかったのです。HP社のガスクロやガスマス(質量分析器)はGPIBが標準装備ですから、それ以外はありませんでした。
機器を制御したりネットワークを構築するには双方向のインターフェイスであるGPIBが必須でした。そのときに、ラボの自動化を担当するときには、メーカと交渉してほとんどの検査機器にGPIBを標準装備させようと考えていました。そういう視点で、メーカの営業マンや技術者にコネを造っていきました。検査試薬の20%コストカットを提案して、実質的なプロジェクトリーダーでしたので、製薬メーカの役員とコネクションができました。入社してから2年目、あの当時は平社員です。面白い会社でしょ。3年間はSRLの利益の40%を検査試薬のコストカットで稼いでいたんです。
1991年頃に、細胞性免疫課で、リンパ球表面マーカ検査にDECのミニコンをつないだのが、ミニコン利用の検査サブシステムの初事例でした。
いまでは、血球計算機にもブルーツースが標準装備になっています。
1995年頃、子会社のSRL東京ラボの移転問題が持ち上がりました。社長のMさんと相談して練馬から移転するつもりでいました。3ヘクタール以上の土地が見つかったら、SRLの首都圏全体のラボの再編成をするつもりでした。具体案が書けそうになった段階で、SRL社長のKさんへ相談に行くつもりをしていたら、帝人との治験合弁会社の立ち上げと経営をやれと業務命令があり、計画は頓挫しました。八王子ラボ移転と画期的な自動化ラボ建設は20年ほど遅れました。検査と検査機器とシステム開発の三つの分野の専門知識と経験を有している人材がいなかったからです。生産性を画期的にアップして、社員の給料やボーナスをアップするには意外と個人のビジョンと仕事のスキルが重要なのです。
3年ほど前にSRLは八王子ラボをあきる野市へ移転しています。
双方向のインターフェイスで、画期的な自動化ラボはできたかな?
わたしの構想は、二段構えの自動化ラボ建設でした。
ラボの生産性を2倍に引き上げて、余剰人員の一部を米国法人設立で使おうと思っていました。米国市場へ進出するために必要な布石でした。
平社員の時から、経営者の視点でビジョンを構想し、具体的な戦略目標を立て、戦略を練ること、それが#4901のテーマでした。
<余談:臨床検査項目コードに関する日本標準制定プロジェクト>
日本標準臨床検査項目コードが1990年に臨床病理学会から公表されて、日本中の病院やクリニックで使われていますが、あれも二段階の仕事の第一段階でした。
入社2年目の1986年に「臨床診断システム開発と事業化案」を書いて、創業社長の藤田光一郎さんから、200億円の予算を認めてもらいました。臨床診断システムを開発プロジェクトは、検査項目コードの標準化やカルテの標準化など、10個のプロジェクトに分解してありました。項目コードがバラバラだと、臨床診断に必要な検査データを集められません。全国の大学病院や専門病院をネットワーク化して、10疾患ほど選んで、プロトタイプを造るつもりでしたから、取引先ではない病院も含めて、臨床検査項目コードが統一されていなければなりません。
BMLが新ラボをつくるにあたって、業界標準コードをつくりたいと大手6社に働きかけがあったので、2回目の会議に出席して、「業界で標準コードを作っても病院が使わない、理由は学術的なバックがないから」だと説明し、臨床病理学会の櫻林郁之助助教授(当時)が検査項目コード委員会の委員長なので、次回お連れするので、産学共同プロジェクトにしようと提案、6社の了解を得られたので3回目から、産学協同プロジェクトになり、1990年に第1版の標準臨床検査項目コードが臨床病理学会から公表されています。櫻林先生にはSRLに入社して間もなく、学会の項目コード検討委員会の仕事を発つだってほしいと頼まれました。仕事がやりづらいなら、藤田社長に行って総合企画室へ異動し、現在の仕事を外してもらうようにするとの申し入れでした。予算返済と予算管理、そして経営統合システム開発をしている最中で、他に変われる人がいないので、お断りしました。その1年半ほど後に「臨床診断システム開発と事業化案」を書いたのです。世界市場を相手に仕事するつもりだったので、日本標準は単なるたたき台のつもりでした。櫻林先生には構想全体についてはお話してませんでした。産学共同プロジェクトは5回ほど出席しただけ、そのころは購買課で機器担当、ついで学術開発本部へ異動し沖縄米軍の依頼の女性兵士の出生前診断検査の導入、慶応大学産婦人科医との出生前診断検査MoM値の日本標準値作成に関するプロジェクト、製薬メーカーとの検査試薬の開発および共同開発仕事の標準化などを担当していました。そういうわけで、構想全体を櫻林先生にお話しする機会がありませんでした。
「臨床検査診断システム開発」は検査項目コードやカルテの標準化というインフラ整備が第一段階、対象疾患の絞り込みと提携病院やドクターの選定が第二段階、システム開発が第三段階と考えていました。
NTTデータ通信事業本部と数回ミーティングをもちましたが、通信速度と処理能力が要求仕様を満たすのは30年後だろうということになって、予備調査しただけで、開発はあきらめました。でも15年ほどで画像処理を含めてやれるような環境になりました。
200億円使いきって突っ走ればよかった。(笑)
臨床検査項目コードの標準化は先進国では日本のみ、だから、臨床診断システム開発は日本が一番有利です。だれかやったらいい。
<帝人とSRLの臨床治験検査合弁会社>
帝人との治験合弁会社設立プロジェクトを担当するように事例が出たのは96年11月でしたが、そのまえから、帝人の臨床検査子会社の経営状態は知っていました。87年から89年11月末まで購買課で2年半機器担当をしていましたが、あるとき英国のIRS社の染色体画像解析装置を3台購入しています。そのときに、輸入商社の日本電子輸入販売の担当者から、帝人羽村ラボと東北の臨床検査会社から引き合いがあったと話を聞いていました。ピンときました。どちらも業績が思わしくないので赤字打開のために商品ラインを拡張しようとしているのは明らかでした。ラーメン屋がイタリアンを始めるようなものです。染色体の外注市場はSRLが8割握っていました。技術水準が高いからシェアが高い、だから真似しても、受注できないのです。高コストの機器導入でさらに経営が悪化すると予測していました。
不思議ですね、東北の会社は出資交渉を92年の春にわたしがまとめて、役員出向しています。そして96年に帝人の臨床検査子会社との合弁会社設立プロジェクトに参加することになりました。どちらもそういうめぐりあわせになっていました。帝人との治験合弁会社は、出航を受け入れあとで述べる4条件をクリアする代わりに、経営の全権をSRL社長の近藤さんに保証してもらいました。社長は帝人から、SRLの常務取締役でO部さんがいましたが、SRL側での経営の全権は当初は取締役ですらないわたし(SRLでは学術開発部門と管理会計課の課長職、合弁会社では総務経理部門、データ管理部門、システム部門担当部長で取締役ではない)にありました。もちろん業績についての責任もついてまわります。SRLの硬直化した職能等級制度の足枷が産んだ、ヘンな職位でした。(笑)親会社からは営業担当役員とラボ担当役員の2名が非常勤役員として毎月取締役会に出席していました。治験合弁会社で親会社営業部門やラボ部門と調整事項ができたときのためです。帝人本社からも石川常務が非常勤取締役で毎月取締役会に来られていました。これは異例なことです。取締役会では経営方針や経営戦略について毎回わたしが、提案説明し、結果も報告してました。単なる報告会でした。わたしの経営スキルの評価を石川常務が取締役会に出席することで確認していたようです。
(親会社の役付役員が売上規模20-25億円の合弁会社の非常勤役員というのは事例がないのです。帝人側は創業30年を超える臨床検査子会社の経営がうまくいかないので、いよいよその処理について決断を迫られていると読みました。その通りでした。I常務が臨床検査子会社の方に腹心の部下を送り込んで、その方から社内事情を打ち明けられて確認できました。正直にやるのが問題の解決が速いのです。石川常務が今後の臨床検査子会社の経営についてわたしと直接話をしろと指示していたのだと思います)
帝人の臨床検査会社は赤字企業でした。そのなかの治験部門ももちろん赤字でした。SRLでも治験事業は赤字でした。赤字同士の部門を本体から切り離して、黒字にしようというつもりだったかもしれません。帝人本社側はこれ以上赤字続きだと、臨床検査子会社を切り捨てなくてはいけない社内事情がありました。焦っていました。合弁会社のプロジェクトが始まって、SRL社長が日経新聞で1月に帝人との治験合弁会社を設立するとアナウンスしました。10月になって、いくつか問題が発生し、1月のスケジュールは間に合わないような事態になっていました。それで、SRL東京ラボへ出向していたわたしが呼び戻されました。もっていく資料の分量すら、わかっていませんでした。確認させたら当初の報告の倍近くありました。これでは契約したビルに入りません。
プロジェクトメンバーのシステム担当の古株のWが、スケジュール通りに事態を収拾できるのはわたししかいないと「推薦した」と言ってましたが、近藤社長がその言を受け入れて呼び戻したかどうかわかりません。引っ越し先の場所の選定と必要な広さの確認がまだとれておらず、間に合わないスケジュールでした。合弁会社を立ち上げるのに売上債権管理システムの売上計上基準が帝人の検査子会社とSRLでは異なっていました。帝人側は請求基準、SRLは発生基準での売上計上でしたから、そこのところの調整は、新会社は発生基準でやるということだけがわたしの着任以前のプロジェクトで決められていました。SRLは請求基準から発生基準へ売上計上基準を変えた1984年に、半年間トラブルが続き、各部門から応援を出してマニュアル対応で乗り切っています。そういうことを知らないSRL経理次長が発生基準を主張してます、経理部長も報告をつけたはずですがノーアクション。問題の深刻さが理解できなかったのでしょう。しかたなく売上や売掛金関係の帳票を発生基準にするように1週間で仕様書を書いてシステムに渡しています。それで何とか間に合わせました。だが、消込はむずかしくなります。SRL本体から販売会計部の消込担当を一人もらわないと、処理できません。赤字なので人員増員を拒否されてます。ぐちゃぐちゃになるのを承知でほっておきました。上場企業ばかりですから、先方の用紙で納品伝票を上げているので、それを切らないというミスを、合弁会社の営業マンがしない限りは、大きな問題は起きないのです。消込がたいへんなだけ。合わない部分は利益を上げて、処理すればいいだけでした。
SRL東京ラボで、SRL本体の八王子ラボ移転を含むラボ移転構想が具体的な検討段階に入る寸前でしたから迷惑な話でした。SRL東京ラボのM輪社長とラボを移転する話はついて、土地を探すのに条件を言って不動産屋に依頼するところでした。
SRL社長は創業者の藤田さんから、慶応大医学部出身の近藤さんへ変わっていました。合弁会社の経営を任せるについて近藤さんからの要求は四つありました。
①期限通りに会社の立ち上げをすること
②赤字を黒字にすること
③帝人の臨床検査子会社を買収すること
④治験合弁会社の帝人本社持ち分を引き取り、SRLの完全子会社にすること
これら②~④を3年以内にやること。
近藤社長の了解をもらってから、SRLの経理担当役員(入社時の上司、当時は霧課長)に経理マンを一人出向させるように電話で話しました。Sが適任なので指名しました。「ebisuさん、自分でやればいいんじゃないか」、そういって渋りました。でも私に期待されたのは、4項目で、経理実務をやることではなかったのですが、84年に上場準備でシステム開発案件を含め経理部に課せられたすべての課題を消化したので、経理マンだと勘違いしたのでしょう。「わたしの役割は経理の仕事ではありません、近藤さんからいくつか直接指示を受けているので、必要なら近藤さんへ聞いてください。わたしの口からは言えません」、それで了解してもらいました。
問題は②でした。③と④は88年頃に染色体画像解析装置を3台、SRLで購入したときにある情報をつかんでいたので、いずれ③はできると踏んでいました。
治験部門の売上高総利益率は24%以下で、売上高20億円、社員数60人ですから、永久に黒字転換できません。売上高総利益率を30%以上にしないといけない。治験検査以外に新規事業分野を開拓する必要がありました。
半年ほど決算データと仕事を観察していて、治験データ管理分野に可能性があることがわかりました。武田薬品向けのデータ管理システムをベースにパッケージの開発をもくろみました。治験事業の古株のシステム担当のWから、ユニシスの見積もりが出てきました。三菱のオフコンとラインプリンタを使ったシステムを更新するために、機種を変えただけ、7000万円前後の見積もりでした。治験データ管理システムのパッケージ化をやるので、オフコンでは不可能、NTサーバーを導入する旨説明して、ユニシスとは手を切ると告げました。SRLシステム本部から若手のSEのK谷をもらったので、彼にNTサーバー管理を任せ、データ管理業務のM宅と東大応用生物統計のM野にパッケージ開発を任せました。1年後にはパッケージシステムで2億円、売上高総利益率はその分野では7割以上でしたから、赤字は免れました。
NTサーバーはラックマウントのもので、商品開発やデータ管理に使うので、ハードディスクはレイドアレイでした。プリンター類を合わせて5000万円かかっています。このときに、SRLの事業管理部のH本さんから、「過剰投資だ」という報告書があげられていました。旧知のH本さんでしたが、慣れない仕事でデータの読み違えをやっているだけでしたので、そのままにしておきました。データの背景を説明してあげたほうがよかったかもしれませんが、経営分析は推測統計学を使って数年やらなければとてもマスターできないので、あきらめました。売上20-25億円の規模でしかも赤字会社ですから、5000万円の投資は過剰だというのです、数字だけ見たらそういうことも言い得ます。経営分析をするときは、データに先入見をもってはいけないのです。先入見をもつと、その先入見に合致するデータだけをみて、先入見とは違う事実を表しているデータを見ないようになります。その結果判断を誤る。経営分析は自社のデータでやって、実際に自分でいくつか経営改善案を作成して、そのシミュレーションをし、そのシミュレーションが結果と合致するかどうかを繰り返し判断しないと、その妥当性が判断できません。推測統計学と芸術のミックスした領域にある技なのです。資金運用表がつけられていましたが、実際には資金状況は改善していました。スポットの数字だけ見て、その背景をみない、経理屋さんには無理なのだなあというのがその時の感想でした。何度も繰り返し痛い失敗をして自分で気がつくしかありません。S本をSRL経理部から出向させてわたしの下に置いたのは、そういう経理屋になってほしくなかったから、教育研修を兼ねてきてもらっていました。もう一人、S本と同じくらいの年齢で優秀な経理マンがいました。O君です。彼は無能な上司に嫌気がさしてSRLをやめて、ベンチャー企業に転職し、40歳前後で経理担当取締役になっています。同じ理由でエイベックスへ転職したT君がいました。国際経理課長だったかな。ゴルフの好きな男でした。どちらもSRL管理会計課では平社員、こういう有能な若手を育てるのが本当にへたくそでした。優秀な若手は、上司がどの程度仕事ができるのかを測ります。スキルが伸びないので、仕事のできない上司の下で仕事するのを嫌がりますから、いつまでも放置していたら、優秀な若手は転職します。人事部門が調整すればいいことですが、あたらしい制度を導入するばかりで、弱体でした。職能等級で役職をたらいまわししてただけ。たくさんありますが、まだ差しさわりがあるのでいちいち具体例を挙げるのはやめておきます。ひどかった。仕事ができなければ降格すべきでしたね。部長クラスでマネジメントができる人は稀でした。部長の成り上がりが役員ですから、もちろん役員も同じですよ。部長と役員を含めて、数人だけまともな人がいました。
製薬メーカ向けの治験データ市場は小さいので、そこをまず固めるのが第一段階。次は病院の治験データ管理システムに狙いを定めました。情報を収集していると、東京のある国立大学の治験管理スステムが暗礁に乗り上げ、応援要請が来ているとのこと、担当役員として挨拶に行って、無償での全面支援を約束しました。1年後にはうまく動いてました。なぜそんなことをしたかというと、病院のニーズが知りたかったからです。製薬メーカ向けの治験データ管理システムとはニーズが違うので、仕様が異なります。絶好の勉強の機会だったのです。それに製薬メーカ向けに比べて、病院向けの治験だーた管理システム市場は数十倍の規模ですから、データ管理業務だけで、合弁会社の社員にSRL以上の給料を支払ってやれます。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」の中にはその企業で仕事する社員や準社員も入っています。
合弁会社を立ち上げて2年目には治験の管理基準のGLPが改正されて、治験売上が激減しています。データ管理業務にシフトしていなかったら、アウトだったでしょう。
メインバンクは管理部門の担当がわたしだったので、帝人側のメインバンクである三和銀行にしてます。SRLはみずほ銀行で、西新宿支店(支店長は取締役)。両方の銀行へ決算報告をしていました。経理担当のSを伴なっていってました。資金管理実務は大事ですから、銀行交渉を経験してもらおうとの算段でした。2年目の決算に三和銀行本店へ出向きました。応接室に通されて、決算報告をすると三和銀行の営業部長は「親会社の保証なしでいくらでも貸付します、前回の決算報告の時に聞いた収益りあげていどだった見通しを上回っています、来年も予算以上の利益をだすでしょうから」、そう言ってくれました。「無制限ということはないでしょう、ほんとうに親会社の担保もなしでよろしいのですか?」と訊くと、「わたしの決裁で10億円まではOKです」。ありがたかった。運転資金が年間売り上げの1/12、つまり月平均売上程度だったので、インパクトローンで金利1%で1億円お付き合いで借入しました。相棒のSにやり方を指示して体験してもらいました。
SRLの近藤社長から指示された四つの課題は全部3年以内にクリアしています。
帝人の臨床検査会社買収交渉をする寸前のことでした、帝人のI常務から、帝人の臨床検査会社を治験合弁会社の子会社にして、両方の企業の社長をしてもらいたいと申し入れがありました。SRLの近藤社長にはその旨伝えましたが、SRLの社内ルール(職能等級制度)上、次長職は子会社の社長職にはなれないのです。そして有力子会社社長はSRL本体の役員ポストでもありました。近藤さんは役員の中では社歴が一番若いので、無理を通すことはできないとわかっていました。帝人の臨床検査子会社を黒字にする具体案はありましたが、わたしが経営するのでなければ無理、近藤さんにはリストラしかないと告げました。帝人本社が社員の就職斡旋をしていましたが、かわいそうでしたね。救う方法があった。7年までに実証済みでした。
近藤さんにお約束した4項目は期限内に全部クリアしたので、16年間勤務したSRLを退職して、老人医療で新規事業をやるために、首都圏のある特例許可老人病院を療養型病床へ建て替え・転換する仕事を引き受けました。300ベッド弱の病院から、常務理事で来ないかと、半年以上前からお誘いがありました。
SRLでは実にいろんな仕事を担当させてもらった愉しい16年間でした。
<エビソード:帝人との縁>
産業用エレクトロニクス輸入商社関商事(上場時にはセキテクノトロンへ社名変更、三代目社長になって2010年頃業績不振で他者へ吸収合併されて上場廃止)で統合システム開発を単独で開発していた時に、オーナー社長の関周さんが重大な約束違反をしました。電算化推進委員会メンバーの総意で、やめてもらうように交渉し、社長がOK出していましたが、破られました。それで12月初旬に辞表を書きました。1月いっぱい引継ぎをしましたが、1日だけお休みをもらいリクルート社で就職の斡旋のためのSPI試験と面接を受けました。7ランクの最高ランクの結果でした。「5年たったら再就職のつもりがなくても、また来てください、偏差値が上がっていますから」、そんなお誘いを面接官から受けました。提示されたファイルには優良会社が並んでいました。興味を引いたのは半導体製造会社のフェアチャイルドジャパン、経理課長で850万円、プレジデント社と臨床検査センターのSRLの3社でした。SRLが給料が一番安かったのですが、5年間の決算書を見て成長性の高い、そして高収益企業だったので、SRLに決めました。上場準備中というところも魅力でした。
関商事をやめて1週間ほどで、総務部長が日商岩井の子会社で課長職で斡旋できるがどうかという電話をもらいました。日商岩井を退職して関商事へ再就職した方でした。営業部長からも電話をもらい、同期が帝人エレトロニクスにいるので課長職で紹介できると申し入れがありました。退職した翌週からSRLで仕事していたので、丁重にお断りしました。「そうだろうな」って、仰ってました。2週間後にオービックのSEのS澤さんから電話をいただきました。「うちの取引先の輸入商社が20社ほどあるので、一緒に仕事をしませんか?」というお誘いでした。輸入商社向けの為替差損の発生を回避できる経営統合システムは需要があったのです。SRLは当時西新宿のNSビル22階に本社がありました。「超高層ビル」は当時は少なかったので、一度そいうところで仕事したかったのもSRLを選んだ理由かもしれません。オービックさんは西新宿の三井ビルに本社がありました。そこから電話をいただいたのです。「もう近くで仕事してます」とお断りしました。もっと早く連絡いただいていたら、超高層ビルで仕事のできるオービックへ転職していたかもしれません。S澤さんはほどなく取締役になっています。開発担当取締役、優秀なSEでした。彼からずいぶんとスキルを盗ませてもらいました。専門書を読んでいただけではスキルは身につかないのです。良質の仕事をこなすことで、そして自分よりもスキルの高い人と一緒に仕事することで、技術のコピーが可能になります。S澤さんのつぎにお付き合いしたのは、日本電気情報サービスのSEのT島さんでした。関商事社長の関周さんが、コンピュータを三菱電機から日本電気の汎用小型機に変えるにあたり、トップクラスのSE派遣を条件にしてくれました。お陰で、この二人のいいとこどりが可能になりました。
財務会計分野、原価計算を含む管理会計分野、システム開発分野、外国為替、マイクロ波計測器、臨床検査などの業務知識と経験と積んだので、経営情報システム開発に関しては、国内トップクラスのSEよりもすこしスキルが上になっていました。さまざまな専門分野の知識と実務経験からたしかな実務設計ができることがわたしの強みでした。システム化すると実務がまったく違ったものになります。そうでないと意味がありません。従来の実務をそのままコンピュータに載せるなんて愚の骨頂です。実務のほとんどが消滅し、生産性が数倍にならなければシステム化の意味がありません。
SRLに入社してからは1年半の間、NCDさんのSE3人と一緒に仕事してました。彼らもその分野では国内トプレベルでした。M山さん(すぐに取締役に就任)、T本さん(独立起業)、N口さん(女性:結婚退職)の三人。N口さんの後任のSE(女性)も優秀でした。彼女の下でメンテナンス部隊を取りまとめていたU田さんもいいSEになっています。優秀な人たちと大きな仕事をすれば、スキルは伸びます。だから、これから伸びる人たちとも一緒にお仕事して恩返し。
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#4902 仕事と経験:「仕事は段取り八分」の意味① Jan. 4, 2022 [A.6 仕事]
家がビリヤード店と居酒屋をしていたので、小学生低学年の頃から、ビリヤード台のラシャの張替え作業を飽きずにずっと見ていました。札幌から吉岡先生(昭和天皇のビリヤードコーチ)がいらっしゃって、張替え作業をしてくれます。好奇心からその作業をずっと見ていました。鳴海町にあった桶屋さんの桶の制作業も1時間でも作業場の窓の外から眺めている子供でした。NTTの建物を建てる時も地下を5mほどは掘っていたので、地層を飽きずに眺めていました。好い粘土層になっており、帯水層があって地盤がふにゃふにゃであることがわかりました。あれも小学生の終わりころのこと、子どもって好奇心が強いんです。
高学年になるころ、作業を手伝っていたオヤジが、自分でもやりだしました。新品のラシャを張るときには吉岡先生が、それを裏返すときにはオヤジが作業したのです。石のスレートが3枚の台と4枚の台があります。スレートを載せてから水準器を使って水平を出しますが、接合部で段差があってはいけません。たとえば1枚目の右端が下がっていると、そこに葉書を一枚差し込みます。そうすると、その部分は水平になりますが、反対側が下がってしまいます。そして反対側に葉書を1枚差し込むと、元の木阿弥。それでも調整を繰り返すうちに、何とかなってきます。でも、完璧な仕事にはなっていないことは、ラシャの裏返しの張替え作業をしたオヤジにはよくわかっています。
あるとき、吉岡先生の作業を見ていたオヤジが気がつきました。スレートを載せる前に、枠木を組んだ状態で水準器を充てていました。プロですから、流れるような作業の中で、水準器を軽くのせて読み取り、枠木を組んだ状態で水平にしてから、スレートを載せてました。作業に無駄がないので、よくよく見ていないと気がつきません。
つまり、二段構えで水平にしていたのです。こうしてわたしは「仕事は段取り八分」という言葉の意味を知ったのです。最初の一段をパスしてしまったら、仕事の難しさは何倍にもなります、時に不可能になるのです。完璧な仕事は、段取りがいいからこそ可能です。プロはそういうことを当たり前にやって、日常作業で結果を出しています。
40歳前後の頃、スリークッションの世界チャンピオンだった小林伸明先生のビリヤードの四つ球常連会のメンバーに入れてもらいました。スリークッション台でも撞きましたが、ラシャの感触が違います。掌を充てて押してみました、ラシャが動かないのです。四つ球のテーブルは手で引っ張って張りますが、スリークッションは大台ですから、同じ張り具合なら、よほど力が強くないとできません。
小林先生に質問しました。
「湿気を飛ばすのに、ヒータが入っていることはわかります、ラシャの張り具合が違いますが、どうやっているのでしょう、人間の手では張れない強度です」
小林先生は、ベルギー製のテーブルであることを教えてくれました。ラシャは四つ球の代は「綾織」、大台は「平織」でした。平織は引張強度が格段に大きいのです、綾織のラシャを同じ強度で引っ張ったら裂けます。そしてラシャを張るときに使う道具があることも教えてくれました。人間の握力で引っ張れるものではありませんでした。大台のラシャの張替えの時に会社を休んで手伝わせてもらったらよかった。小林先生、即座にOK出してくれたでしょうね。
こんな質問をして、答えてもらい、コミュニケーションできたのは、ラシャの張替え作業を中高時代にずっと手伝っていたからです。取り方のわからないところを図面に書いて質問を一度だけさせてもらいました。弟子のボーイさん数人を呼んで、説明してくれました。そのあと、こういう風に質問しないといけないよというようなことを言われて、それ以後、質問しずらくなりました。またあるとき、マッセの姿勢が吉岡先生とは違うので、そう告げて理由を聞いたことがあります。吉岡先生はこめかみにキューをあてます、小林先生は首にあてます。理由はその方が手球の撞点がよく見えるということでした。なるほど、真似をするだけでなく、よくよく自分で考えてみないといけないのです。こめかみにあてると、レストで手球の撞点が隠れて見えません。吉岡先生は見えなくてもどこに当たるか、ミリ単位で見えているのです。マッセのスキルが低いセミプロクラスには吉岡先生のスタイルよりも、小林先生の合理的なスタイルがいいことがわかります。
小林先生は、セミプロ用の教本は書くと誤解が生じるので、書かないと仰っていました。半端な腕前の人が、書いてある通りにならないとクレームをつけることがあるんだそうです。それが嫌で、セミプロ用の教本はかかないことにしていると仰ってました。
具体例を一つ出しておきましょう。小林先生にマッセの姿勢を習った人が、吉岡先生にマッセはキュ―を首にあてるべきだと主張したら、吉岡先生はうざいだけでしょうね。一知半解、小林先生がどういう前提条件でおっしゃったのかまで、すぐに理解できますから、技術が半端な人へ指導するのはむずかしいのです。撞点がレストで隠れていても、吉岡先生にはミリ単位で見えています。セミプロクラスとはスキルが違うのですから、やりかたも違うのです。一知半解の人は、言っている前提条件にまで思考が届かないのです。理解には「智慧の働き」が必要なのです。むずかしいですね。
タップの調整の仕方も、吉岡先生と町田正さんのお父さんのやりかたはまったく違います。写真を貼り付けておきます。それぞれ理由があります。
同じことは、ニムオロ塾で生徒を個別指導しているときにも現れます。だから、生徒の学力に応じて、説明の仕方を変えています。一律にはいかないので、文科省の学習指導要領は無視しています。
「仕事は段取り八分」というのは中高の時代にビリヤードテーブルのラシャの張替え作業を手伝うことで理解しました。根室高校の丸刈り校則を改正するのにも、この「仕事は段取り八分」があったからできたような気がします。生徒の方はOK、一部の教員と校長が反対に回る可能性がありました。教員の方は賛成してくれる先生が多かった。そこで2段構えで段取りを考えました。学校(校長)は保護者に弱い、だから生徒会で保護者へ基本的人権にかかわるアンケート調査を実施して、丸刈り校則の是非を問い、その結果をもって生徒総会にかけて、改正にもっていく。アンケート調査の質問事項を工夫し、誘導すればいいだけ。その結果をもって行けば、先生たちも校長も賛成しやすい。
生徒会の先輩や同じ学年の友人たちが手伝ってくれたので、1年生の終わりの頃提案して、2年生の4月から作業を始めて、修学旅行の3か月前に、スケジュール通りに改正し、髪を伸ばして修学旅行へ行きました。
東京・大阪・京都・奈良の11泊12日の長旅でした。当時は車中泊が2泊組み込まれていました。まだ高校生が修学旅行で飛行機を使う時代ではありませんでした。
経験でしか培えないものがある、そのひとつが「仕事は段取り八分」ということ。コンピュータシステムを設計するときにも、このことは役に立ちました。最初の段取りを間違えたらコストが2倍3倍になります。それは基本仕様と実務設計の段階でのミスや見逃しをなくするということ。次回、説明したいと思います。
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小林伸明先生からいただいた、世界最高品質の幻のチョーク、ブルーダイアモンド。
<タップ削り方の形状の違い>
①吉岡先生方式
比較的フラットです
②町田正先生のお父さんの削り方
半球状になっています。
町田正先生は、アーティステックビリヤードで世界2位、国内ではさまざまな種目で50回以上もチャンピオンになっています。現役の選手です。
#4901 マネジメント資質は中高生の時代に造られる Jan. 3, 2023 [A.6 仕事]
経営層に受験エリートの多い日本の大企業が、この30年間地盤沈下を起こしています。銀行だけでなく家電メーカーもその象徴でしょう。東芝は青息吐息、パナソニックや日立も往時の勢いはありません。シャープは外資の傘下、サンヨーはパナソニックグループ入り。株式時価総額では日本企業がトップ50社に1989年は32社ランクインしていました。2021年度はトヨタだけ。
マネジメントのできる人材要件、満たしておくべき条件は次の三つ。
*リーダー経験が一度もない人に決定的に欠けていること
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<余談:三人三様ダー経験も切り捨てたことになった。周りのおとなが誰もそういうことを助言してあげなかったのではないか。社会人になってから、強い副作用が出たかも知れない。
●根室高校から現役で旭川医大へ2年前に合格(東北東党推薦枠で現役トップ合格)した生徒は、部活はやらなかったが、学校祭には積極的に参加していたし、数学の問題で友人たちに「教えてほしい」と頼まれたら全部受け入れていた。だから交友関係は小さくない。大学では体育系のあるブカツの部長をしているという。
●昨年、札幌の進学校へ合格した生徒は、部活を継続すべきか否か悩んでいた。難関大学の理系志望で、将来は学者になりたい生徒。「今のペースで部活と勉強両立できたら、現役合格の可能性あるよ、そして部活でしかつかめないことが必ずある」、そういって背中を押した。目的はマネジメント資質を磨くこと。社会人となったときに、そういう経験と磨いた能力が必ず役に立つ。理系の研究なんて、その多くがチームでやらないとできません、そのときに数人束ねて人を動かせなけりゃ、研究業績にも響きます。
やれる人は、中高の時代にリーダー経験を積んだらいい。そんなことのできるのは難関大学合格者の30人に一人くらいかもしれません。他の大学よりも少ない。
一部上場企業には難関大学合格者が数%います。そういう人たちと一緒に仕事した結果の結論です。
そうしてあらためて考えると、最難関の国公立大医学部や慶応大学医学部卒の医師の中にマネジメントスキルに秀でる人が少ないことは、当然のことと言えそうです。
もちろん、わたしの経験の範囲でも例外はありました。
<余談2:企業のマネジメントは人次第>
業種を変えて五度転職しましたが、どの会社でも、自分が社長ならどのようなビジョンで、どのような戦略目標を打ち立て、どのような戦略でそれを実現するかを考えていました。面白いからです。仕事を通じて、異なる分野での社内人材探しも常にしていました。
ルーツは高校時代の生徒会活動にあったような気がします。部活の予算編成と決算業務を担当しながら、男子は丸坊主という校則があったのでそれを廃止しました。当時は各部の予算編成は生徒会会計に任されていたのです。もちろん日常の帳簿記帳も決算業務も生徒会会計に任されていましたから、権限が大きかったのです。財務大臣のようなものです。
丸刈り校則があったので、根室高校へ入るために中3の冬休みに生まれて初めて、坊主刈りにしたのです。とりあえず、校則には従うが、理不尽な校則は入学したら、定められた規則に従って改正するつもりでしたが、1年生の三学期に生徒会で提案したら、上級生の副会長二人が、「言い出しっぺのお前がやれ」とやらせてくれました、とってもありがたかった。先輩たちに育ててもらいました。
二十代後半に産業用エレクトロニクスの輸入商社へ中途採用してもらったときには、入社して1か月たたぬうちに二代目社長の関周さんから5つのプロジェクトを任されています。わたしのほかは役員と部長、それから3人の課長がそれぞれの職務に関係のあるプロジェクトメンバーとして指名されていました。
長期計画委員会、収益見通し分析委員会、為替対策委員会、電算化推進委員会、資金投資計画委員会の5つ。他に利益重点営業委員会があったが、これは為替レートの変動を反映した円定価表をコンピュータシステムをつくってプリントアウトするものだったので、営業課長の遠藤さんに頼まれて、一緒にやることになった。3か月ごとに全商品の円定価表の改訂版をつくって営業マンに渡した。それまで、受注がある都度、営業マンと営業サポートの女子社員が電卓を弾いて、見積書を作成していたので、営業の生産性がひどく悪かった。事務作業が多くて、得意先にあまりいけない状況にあった。そういう事務作業から、営業職を解放したから、生産性は倍ほどに高まった。粗利益率も27%から42%にアップした。為替についても対策システムをつくったので、為替差損が出ない仕組みに切り換えた。収益構造も財務体質も劇的に変わり、10年後には株式上場を果たしている。しかし、東大出の三代目になってから業績が傾き、2010年頃に上場廃止、他企業に吸収された。
マネジメントで一番大切なことは、人の能力を見極め、仕事のできる人に任せることでしょうね。自分で何もかもやる必要はないのです。それは良質の仕事を何度も経験することで培われる能力なのだと思います。
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#3043 コミュニケーション能力とは何か(3):理系と文系のコミュニケーション May 16, 2014 [A.6 仕事]
<更新情報>
□5/16 8:30 NECシステム開発シリーズの専門書等について追記
□5/16 23:00 HP-41CX、HP-48GX、HP-35Sの画像とコメント追加
□5/17 0:00 追記及び文章校正作業 対象「余談-1」
企業内でのコミュニケーションでむずかしいものの一つに、理系と文系職種間のコミュニケーションがある。わたしの体験が普遍性をもつかどうかは、お読みになった皆さんが判断すればいい。
1979年9月にAは軍事用・産業用エレクトロニクスの輸入専門商社に中途採用された。経理のスキルがあったので「経理担当取締役付き」のスタッフ採用。
二代目社長のSさんは自分が旗を振る財務委員会の下に次の6つの委員会を設けた。
①長期経営計画委員会
②資金投資計画委員会
③収益見通し分析委員会
④為替対策委員会
⑤利益重点営業委員会
⑥電算化推進委員会
各委員会は、役員全員と部長が一人、課長が東京営業所長と女性の業務課長の2名、そして中途入社したばかりの社員のAで構成されていた。このうち⑤の利益重点委員会を除いた5委員会の実務がAに任された。簿記1級はもっていたが、大学院で理論経済学(マルクス経済学)を学んだことを承知で、これだけの仕事を任せてくれた2代目社長、大きな賭けだったのだろう。40歳代半ばで、経営者としては自力での財務体質の変革と経営改善に限界を感じていたようだ。負荷の大きな仕事をいきなり任されたので、わたしは自分の能力を大きく飛躍させるチャンスをいただいたのである。どんな会社を選んだとしても、これだけの仕事を任せてくれるオーナ社長は日本で彼一人だったと確信している。二代目社長の放った矢は見事に的を射たのである。会社の財政状態と経営成績はその後3年間で劇的に変わった。
委員会は全部所期の目的を果たして、2年後に解散した、次の段階は企画を実行に移すことだった。
(業務単位で独立に開発したシステムを統合してしまうことも大きな課題となった。そのために会社は1983年に電算室を新設し、わたしを管理部から統合システム開発要員として電算室への異動を命じた。たった一人の新設部署だった。さらに大きな経営改善をするために統合システムの開発が必要だったのである。)
利益重点委員会はE藤東京営業所長が実務を担当した。円定価システム開発だったので、そちらも手伝った。受注時の為替レートと仕入レートと決済レートが異なるために、為替変動の影響を受け、円安になると為替差損を出し赤字転落、円高になると為替差益で利益が増えるという経営構造の会社だった。だから、まじめな努力が実を結ばない、ばくちをやっているような経営状態だったのである。
為替変動から会社の業績を切り離すための円定価システムであると同時に、営業マンが見積書を提出するために時間の半分を割き、営業活動時間が少ないことを改善するという目的もあった。円定価表を元にして見積書が簡単に作成されるようになった。それまでは営業マンが納期やその間の為替変動を考慮してそれぞれ勝手な為替レートを使って見積もり計算をしていた。E藤東京営業所長はそこに目をつけていたのである。営業事務改善がやれる営業課長はめったにいない。営業でも実力ダントツのナンバーワン、某メーカから10年間50億円の受注を狙って獲得するような凄腕の持ち主だった。徹底して考え抜く姿勢は数年勤務していた京セラの稲盛さんの薫陶かもしれない。
この会社の営業は一人の高専出身者を除いて、全員が理系の大卒である。販売した機器の修理と新規商品の開発を担う技術部門がある。技術部門の責任者はN臣課長で営業部門に出色のE藤課長がいた。わたしが一緒に仕事をした中では、このE藤さんの右に出る営業マンはいない。気があった。
Aは当初1年間は経理部長付きのスタッフだったが、1年後には新設された管理部所属となり、さらに1983年には新設の電算室へ異動、統合システム開発を任された。
収益見通し分析委員会の仕事はAが一人で担当。5年間のB/S、P/Lをベースに5つのデメンション、25項目の指標を使った当時最先端のレーダチャートモデルをつくった。このレーダチャートは目標設定用に使えるものであり、もちろん結果についても検証可能なツールであった。5群の目標偏差値を設定し、その結果(到達度)を同じゲージの25のレーダチャート指標にブレイクダウンした偏差値で確認できる優れものである。経営管理ツールとしては最強だった。1979年に開発したものだが、これに匹敵するツールを開発して経営管理をしている会社は日本にはいまだにないだろう。
<3プログラミング言語の習得>
モデル構築には科学技術計算用のプログラマブル計算機HP67とHP97(HP67にプリンタの機能の付いたもの)を使ったので、逆ポーランド方式のプログラミングを覚えた。レーダチャートは線形回帰分析を多用し、25指標は尺度が標準偏差で調整され、25指標を5群に分けて群単位で偏差値評価のできるモデルだった。HP-67は、電卓で計算しているAを見かねて入社、1ヶ月目に社長が買ってくれた。Aは1週間後にはプログラミングをマスターして使いこなしていた。この製品には400ページを超える英文のマニュアルが2冊ついていた。1週間で使いこなしたのを確認した社長は11月の米国出張の「お土産に」プリンタ付きのHP-97を買ってきてくれた。ある朝、机の上にHP-97がおいてあるので、秘書に訊くと「社長がAさんにとおっしゃっていました」、うれしかった。入力データやブログラムをプリントしてチェックできる。作業効率はさらに上がった。
中途入社翌年の1980年には三菱製のオフコンの言語、COOLを習得した。ダイレクトアドレッシングの原始的な言語で、3桁の数字ブロック4つでコマンドとオペランドが構成されていた。このコンピュータも、三日間の講習会へ行かせてもらい、自分でプログラミングするようになった。その後、コンパイラー系のマシンを導入し、1981年にはコンパイラー言語のPROGRESSⅡという言語をマスターした。
<統合システム開発:必要な技術書群の読破>
この会社にいたのは5年と4ヶ月間だったが、三つのプログラミング言語を習得しただけでなく、システム開発の専門書を数十冊読んで、統合システム開発に利用した。NECから出版されていたシステム開発シリーズ本は5~7冊はあったと思うが全部読んだし、岩波書店からも2度コンピュータシリーズが刊行されたので、それらも全巻そろえて必要な巻には目を通した。統合システムという当時は先端システムの開発だったので、翻訳がまだされていない米国で出版されたソフトウェア工学専門書も読んだ。
Software Engineering, Martine L. Shooman, McGRAW-HILL, 1983).
興味に任せて、人工知能関係の専門書、Artificial Inteligence (Elaine Rich、McGRAW-HILL, 1983)を読むと同時に、チョムスキーの構造言語学関係の翻訳のない著作を数冊読み漁った(文法工程指数の高い圧縮された英文を日本語にするときに、チョムスキーの生成変形文法がいまでも役に立っている。生成変形文法は大学院受験の際に板橋区立図書館で勉強するときに書架の中から見つけて、10日くらいかかって1冊読んだのが最初である)。
大野照男:『変形文法と英文解釈』 千城書房 1972年刊
Andrew Ranford:Transformational Syntax, Cambridge Textbooks in Linguistic 1988
V. J. Cook:Chomsky's Universal Grammar, An Introduction, Blacwell 1988
Knowledge
Noam Chomsky: Kowledge of Language Its Nature, Origin, and Use PRAEGER 1986
システム開発で大事なことはスケジュール管理である。目標期限どおりに本稼動するためには厳格なスケジュールの管理をしなければならない。だからこの分野ではRERTの専門書を読み、その技術を利用した。Program Evaluation and Review Technique の略である、この本は日本で出版されているものを読んだ。strutured codingに関する本もプログラミング以外でも役に立った。実務フローチャートは日能方式と産能大方式の両方をマスターした。たまたま組んだソフトハウスが異なる方式のものを導入していたので、それぞれに合わせた。相手に使う技術を合わせることは、大きな目で見て成長を助ける。だからこういう方面ではこれでなければ嫌だというようなことは決して言わない。
システム開発はさまざまな技術の集合でその質が決まる。個別のシステム開発関連技術の習得をおろそかにしてはいけないのである。輸入商社の5年間と、臨床検査センターSRLで統合システム開発を担当した最初の1年間は、ずいぶんとシステム関係書物を読んで、それらの技術を片っ端から実務で利用していた。SRLに入社した1984年に統合システム開発を担当して、課長から「必要ないだろう?」の一言で、それまで1年間ほど大手監査法人のシステム担当公認会計士を切った。役に立たぬ素人だったのである。課長は同じ大学出身で3年次で公認会計士に合格したK本さんと同期だったが、よく見抜いていた。Aは両方の専門技術をマスターしていたから、経理もシステムも応援は不要だった。
<仕事では業界トップレベルのSEとお付き合い>
統合システム開発という仕事に関することだけでも国内で出版されている本では間に合わなかったのである。したがって、外部設計だけでなく、内部設計の知識も実務で使えるくらいあった。3言語のプログラミングを習得していので、内部設計に関する専門書も難なく読めたのである。
仕事でお付き合いしたSEはオービック、日本電気情報サービス、NCDと3社あったが、それぞれトップレベルのSEとのみ仕事した。オービックのSEもNCDのSEもどちらもほどなく取締役となっている。そういうSEでなければ当時は統合システムを開発することはできなかった。パッケージは存在せず、全部作りこみをしたのである。私の役割は実務フロー設計をすること、外部設計書と外部設計に関わる部分のプログラミング仕様書を書くところまでで、内部設計はそれらの担当SEにお任せした。
システム開発で期限を守れなかったとか、トラブルがあったことはない。一発で完全な立ち上げになるような仕事の段取りができたからである。テスト仕様書を書きテストデータまで作成したこともある。
1984年2月初旬に臨床検査会社のSRLへ転職して、統合システムのうち財務及び支払い管理システムを任されたときには、米国で開発された会計情報システムの中身を知りたくて、Accounting Information Systems Theory and Practice, Fredirick H. Wu, 1984 を読んだ。大判の600ページのこの本は実際の開発業務に役に立った。
<会社取り扱い製品の専門知識の習得>
この会社(輸入商社)は海外メーカ五十数社の総代理店契約があったので、毎月さまざまなメーカがエンジニアを派遣し、新商品説明会を開いてくれた。もちろん英語である。マイクロ波計測器、ミリ波計測器、光計測器、時間周波数標準器、質量分析器、液体シンチレーションカウンタなど扱う製品はさまざまだったが、基本的にはどの機器も、ディテクターとデータ処理部とインターフェイスで構成されていたから、データ処理部のコンピュータを中心にデータのやり取りを見ていくだけで、おおよその機能は理解できた。共通パターンがわかってしまえば、理解は速くなるし、相互の特徴を比較できるから理解は深くなる。
<基礎技術の定例勉強会と営業や技術部社員とのお付き合い>
営業系の社員の95%は理系大卒、そして技術部の社員も全員理系大卒だった。毎月一度東北大学の助教授がマイクロ波計測器についての原理的な講習会を開いていたので、それも参加した。営業と技術の人間のみ、管理部門からの参加はAのみであった。そのうちにデータ処理部や機器制御用コンピュータにかんしてわからないことがあると、Aに訊く営業マンが出だした。
予算を統括しているのは通常経理部長だが、この会社はAに長期経営計画の策定と年次予算編成を任せた。管理部門の社員は技術的なことはわからないのが普通だから、会社の取り扱い製品を熟知しているAは営業からも技術部員からも飲み会へのお誘いが増えた。仕事の話が通じるのである。技術課長のN臣さんやA木君、1980年ころにマルチチャンネルアナライザーを開発者し後に独立したN中さん。東京営業所長のEさん、大阪営業所長のS藤さんなど、皆さん理系の人だが会社の取扱商品に関する知識が深まるにつれて、コミュニケーションがよくなった。仲間の一人として認めてくれる。これには、技術課長のN臣さんと東京営業所長のE藤がAを自分たちの部署の飲み会に頻繁に引き回してくれたことが大きい。「Aさん、放課後30分時間ある?」E藤さんがそういうときは決まって午前様になった。
<輸入商社向けパッケージシステム開発でのオービックSEからのお誘い>
オービックのSEとも専門用語で話が通じる。S沢さんは後にオービックの取締役になった。S沢さんから輸入専門商社をやめてから1ヶ月目くらいに、取引先の輸入商社にわたしが開発したシステムが20セットほど販売可能だから、パッケージにしないかとお誘いを受けた。開発した統合システムは受注時の換算レートと仕入れ時の換算レートをある数式で連動させて、それに為替予約を組み込むことで、為替変動から会社の業績を切り離すことに成功し、毎期2000万円ほどの為替差益が出るような仕組みのものだったのである。売上高粗利益率(SMR)は2年間で28%から38%に10ポイントも拡大した。40億円の売上規模で利益が4億円も増えてしまった。最終的には43%ほどの粗利益を組み込むことができる優れものだった。出た利益は社員と株主と内部留保に三等分することを提案し、オーナ社長の了解をもらい、取締役会で決定して社員にアナウンスした。ボーナスが安定すると同時に、うんと増えたから、家が買えると社員が喜んでいた。社内の活気がまるで違った。円定価システムで営業事務量が数分の一になったので、売上も増大したのである。
S沢さんからのせっかくのお誘いではあったが、職を辞して1ヶ月で新宿西口にあるニッセイビルの22階、SRL本社に転職していたので、お断りした。同じ業界に関わる仕事はしたくなかった。
(他にもS部長から、帝人のエレクトロニクス子会社へ就職紹介があったし、日商岩井出身の総務部長からも紹介があったが、リクルート社を通してすぐに再就職先を見つけたので、ありがたいが丁重にお断りした。二つとも課長ポストを用意してくれていた。ある件でオーナー社長と意見が衝突して、とづぜんの辞職に何人かの人が心配してくれたのである。)
<異分野コミュニケーションの土台はたしかな基礎学力>
こうしてみると、異分野の人々との仕事のコミュニケーションは相手の専門分野を理解する能力をもっていてはじめて成り立つものだということがわかる。専門用語での会話が成り立つと、実に短時間で誤解のないコミュニケーションが成り立つ。極端な例を挙げると、3日掛かることが15分ですんでしまう。
相手の専門分野を理解できる基礎的学力が仕事上でのコミュニケーションには欠かせない。
SEの上にKEという職種があるが、異分野の相手と一緒に仕事をして1年間もすると、相手と同等の専門知識を身につけている人のことをいう。知識エンジニア。
Knowledge Engineer
近い存在であったとはいえるが、わたしがKEであるとは言わない。ここで大事なことは、相手の専門分野について専門用語の基礎的知識があるだけでも異分野コミュニケーションは実にスムーズに行くという事実である。その程度のことならAにも可能だったというわけ。
<余談-1>
マイクロ波計測器に関する知識は、臨床検査会社で購買課機器担当になったときや学術開発本部スタッフとしてラボ見学担当になったときに絶大な力を発揮した。臨床検査に使われている理化学分析器の基本的な構成はマイクロ波計測器と一緒だったのである。臨床検査に使われる理化学機器は制御系やデータ処理部に使われるコンピュータの性能が10年以上も遅れていた。特に機器制御とインターフェイスが致命的に遅れていた。さまざまな検査機器の大きな違いはディテクターの周波数が異なるだけ。RI、490nmの蛍光、赤外線、原子吸光、ガスクロとさまざまだった。
RIの統計的なデータ管理システムも資料に目を通して、現場で確認しただけで理解できた。ほとんどがすでに知っていたのである。学術開発本部のI神取締役がAに海外のからのお客様のラボ見学を担当させると言ったときに、ラボ見学を担当していた学術情報部の担当者三人が反対した。3000項目もある臨床検査の関する適確な説明を、3年前には全社予算の統括をやり、1年前まで購買課機器担当だった男にできるわけがないというのが理由だった。I神取締役は、一度Aを三人のラボ見学に同行させた後、次に三人がA同行してAのラボ見学案内の様子をモニターして結論を出すことを提案した。
いきなりお客様を連れての2時間のラボ見学案内をAがやったあと、I神取締役は担当3人に聞いた、「それでどうだ、やれないか?」、「いいえ、大丈夫です」と答えたようだ。I神取締役は笑っていた。この人は理系のドクターで、青山学院理工学部で有機化学を教えていたことがある。そもそもAを学術開発本部に引き抜いたのはAが仕事時間中に暇をもてあまして、チョムスキーのKnowledge of Languageを読んでいたのを目撃したからで、彼が管理していた図書室にも頻繁に出入りして、海外の医学雑誌を読み漁っていたのを目にしていたからである。
ラボ見学案内担当の3人の内の一人は営業出身で、慣れるまでずいぶん苦労したようだから、自分を基準に考えたのだろう。最初の内は営業からなんどもクレームが入っていたのを知っていた。
Aは用意されたマニュアルに一通り目を通して、そこにはない説明をベテランの三人を同行してさまざまな検査部門でやってのけたのである。結石分析の前処理ロボットはラボ管理部のO形君(室蘭工大)と検査部門の担当者の仕事だったが、購買課で業者との調整をしていたのはAだったし、フィルタ方式の液体シンチレーションカウンタの世界初導入は、AがメーカのファルマシアLKBから特別なコネで引っ張ったものだった。RI部の真っ白いデザインのよいガンマーカウンターもAがファルマシアLKBにSRL仕様での市販を促したものだった。栄研化学のLX3000は開発最終段階の製品のインスタレーションテストをSRLでやり、半年間の独占使用を認めさせたものだが、これは栄研化学の上場準備作業に対する協力御礼として、営業マンを通じて栄研化学の取締役が配慮してくれたものだった。いままでだれにも言ってない。
LX3000のインスタレーションチェックはデータの再現性が悪くて途中で暗礁に乗り上げた。現場からは使い物にならぬという声が上がっていた。両方から事情を聞いて、解決案を具体的に指示してことを収めた。時間周波数標準機の知識が役に立った。時間周波数標準機は水晶、ルビジウム、水素メーザなどがある。火(電源)を入れて1ヶ月ほど暖めないと規定の性能が出ない。ようするに暖めておけばいいだけのこと、必要な箇所の電源を切らないように回路を変えてもらった。そうして問題を回避しながら、再現性が悪い真の原因を取り除く時間稼ぎをしたのである。役に立たぬ勉強はないものだ。原因を取り除いてLX3000は市販にこぎつけた。SRLでデータの比較チェックをしなければ、市場に出てからクレームの嵐となっただろう。栄研化学にとっても上場間際の大事な時期だったから、大型の新製品が完全な形で市場の出せたのはうれしいことだった。こういう仕事を通じてあちこちに人脈が広がるのである。
検査項目を度忘れしたが、細胞性免疫のリンパ球の解析装置と検査サブシステム開発も現場とメーカの間に入って見ていて、検査手順や機器の機能や監査サブシステムとのデータのインターフェイス仕様を熟知していた。
染色体画像解析装置も処理がなぜ速いのか機器の構成をラボ管理部の担当者と共に英国メーカの技術者に質問して確認していたから説明は簡単だった。検査の処理手順についてもそのときに調べて熟知していた。
問題が起きる都度、各検査部門に出入りして自分の目で確認し、調整していたので、どの検査部門に行っても歓迎された。必要な機器も世界最高性能のものを調べて予算をとってあげた。入社当初に全社予算編成の統括責任者をやったから、経理取締役に一言電話しておけばなんでも通してくれた。会社にとって将来必ず利益になるからである。廊下を歩いていると、検査現場から「あれがAさんだ」とまで言われた(ラボと本社のつなぎの役は果たせた。それまで本社部門とラボはなんとなく気分的に対立があった)。
大学病院関係者のラボ見学対応をした後に応接室で雑談すると、「ところでAさんはどの検査部門でお仕事していたのですか?」と質問されるようになっていた。「上場準備のための統合システム開発」と予算編成と管理がこの会社でのわたしの元々の仕事です。入社当初は全社予算の統括責任者をやっていました、SRLの大蔵大臣でした」と告げると「え!検査部門の人ではないのですか」と言われる始末。「やりたいのですが、会社はわたしに一度も検査をやらせてくれません、そのうちにやる機会があればうれしいですね」と何度か話したがついに検査を担当する機会はなかった。
ここでも、理化学分析器やデータ処理用コンピュータやインターフェイスに関する専門知識があることが、お客様とのコミュニケーションでも、検査現場とのコミュニケーションでも、学術開発本部内での学術情報部のラボ見学担当との間のコミュニケーションでも役に立ったのである。それらの専門知識も本をただせば、基礎学力の高さがものを言っている。どんな分野の専門書も英語と数学がある程度できれば独力で読破し、ただちに仕事で使うことができる。専門書に書いてないことが起きても、全部自前で処理できるのである。場数を踏む、経験を積むというのは大事なことだ。たいがいのことにはたじろがぬ自己が練りあがってしまう。
<余談ー2>
軍事用・産業用エレクトロニクス輸入専門商社(セキテクノトロン)の初代は三井合同で働いていた。財閥解体に関与して最後に自分もやめて、独立した。スタンフォード大学卒であり、HP社創業者のヒューレットとパッカードの二人と同じクラスだった。その縁で日本総代理店をやることになった。横河電機とHP社の合弁会社YHPには参加せずに独立の道を歩む。二代目がわたしが仕えた社長である。慶応大学大学院経済学研究科卒、英語に堪能で品のよい人だった。その後店頭公開を果たしている。三代目はわたしが職を辞したときに一浪した後東大生だった。
セキテクノトロンは2010年にコーンズドットウェル社の完全子会社となり、2012年に吸収合併されて消滅。業績が悪化して店頭上場廃止目前での子会社化と吸収合併だったようだから、社員は気の毒だ。この会社は2回チャンスがあったが、二つとも見送ってしまった。社長は有能な社員を使える器がないといけない。
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*HP-67
実に使いやすい科学技術用プログラマブル計算機だった。シンガポール製品で信頼性が高かった。中国製品に変わってから品質が比較にならぬほど劣化した。グラフィックス機能のあるHP48GXは1年ほどで壊れたし、現在使っているHP35sもテンキーのうち「0」が強く押さないとはいらない。1990年ころ、米国から取り寄せたデータからMoM値の計算式をカーブフイッティングするのに使ったHP-41cxは1984年に経理部所属で統合システム開発をしていたときに買ったものだが、これは健在である。ROMメモリー(HP-67とHP-97は1cm×8cmほどの薄型プラスチック磁気カードにプログラムやデータを保存できた)の統計パックを含めて5万円を超えていた。これは現在も元気に動いているから、シンガポール製品だろう。
値段は高くてけっこうだから、高機能の製品はシンガポールや日本で製造してもらいたい。
1979年の国内販売価格はHP-67が11万円、HP-97が22万円だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/HP-67/-97
*HP-97画像
http://www.keesvandersanden.nl/calculators/hp97.php
この製品が一番使いやすかった。データとプログラムは左上のスロットからプラスチック製の磁気カードを差し込んでロードしたり、ストアする。キーが大きいのでブラインドタッチでデータ入力ができたから、作業時間を短縮できた。入力データは感熱プリンターで打ち出して、チェックできる。入社2ヶ月で二代目社長のSさんが米国出張のお土産だといってわたしにくれた。当時22万円。おかげで統計処理作業が短時間で済むようになり、時間が空いたので為替差損を回避する仕組みや為替予約をどういうタイミングでいくらやれば、実際の決済をカバーできるのか、そういう研究をする時間的余裕ができた。オフコンのプログラミング習得や、システム開発関連の専門書も近くの日本橋丸善まで出かけて、よさそうな本を片っ端から読んだ。管理会計関係の洋書は社長がやはり「お土産」として買ってきてくれた。500ページを超えるような先端の良書だった。本気でわたしに会社の経営改善をやらせるつもりだった。
<HP-41cx>
この製品はシンガポール製で、1984年に購入していまだに故障知らず、優良品である。メモリーは磁気カードから、ROMになった。ROM容量が大きいので統計パッケージはROM1個に収まる。統計パック込みで5万円くらいした。これはSRL経理部で会社の経費で購入してもらった。MoM値のカーブフィッティングに威力を発揮した。
<HP-49GX>
この機種から中国製品、1990年ころ自分で買ったがすぐに故障した。4万円程度だった。
<HP-35s>
10000円ほどで買える。表示が2ラインになっているので使いやすい。4段のスタックは慣れれば1ラインしか表示されなくても頭の中では見えているからなんの不都合もないが、初めて使う人にはこのほうが親切だ。2008年ころに購入したものだが、中国製だからゼロキーの調子がよくない。強く押さないと入力できないことがよくある。最初の3機種でこういうトラブルはまったくなかった。
<おまけ情報>
HP社製の電卓は科学技術用計算機からダウンサイジングしたものだから日本製に比べて性能がいい。入力した数値を200ラインほど記憶しているから、入力データのチェックがディスプレイ上でできる。たとえば、簿記の検定試験で試算表の合計が合わないときは、ボタンを押して一つずつ入力データを呼び出して確認できる。もちろん、間違えたラインを消去して、正しいデータを再入力できるから、商業科の高校生は使ってみたら良い。値段は国産電卓製品と変わらない。
ただ、キーが大きくて、サイズに難がある。日本の電卓と同じくらいのサイズの製品を出してもらいたい。HP-97のテンキーくらいの大きさが良い。
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*#3041 コミュニケーション能力とは何か?(1) May 10, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-10
#3042 コミュニケーション能力とは何か(2) :<事例-2> May 12, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-11
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#3042 コミュニケーション能力とは何か(2) :<事例-2> May 12, 2015 [A.6 仕事]
□更新情報 5/12 11:35更新 追記アリ
□5/12 15:30 「余談」を追記
□5/13 10:50 エピソード二つ追記
□5/13 23:00 追記
□5/14 0:10 余談へ検査試薬輸入ルート追記
少し限定して論じたい。民間企業で必要とされるコミュニケーション能力とは何かというように。
便宜上、コミュニケーション能力を二つに分割して考える。一つは、上司の言うことには異論を唱えないとか、出世がしたいので上手にゴマをするとかという類のコミュニケーション能力で、これをAタイプと定義する。
専門知識をベースとして問題解決に役立つコミュニケーション能力をBタイプとしよう。どちらも必要な能力だろうが、社員が全員前者のようなコミュニケーション能力しかなければ、その企業はすぐに消えてなくなる。企業体質を強化し対外的競争力を高めるには後者のコミュニケーション能力を持った社員が3%もいれば十分である。
1984年春のある日のことである。臨床検査会社に東証Ⅱ部上場準備要員(統合システム・財務及び支払管理システム開発要員)として中途採用された入社3ヶ月目の社員Aがいたとしよう。その臨床検査会社は親会社であるFR社という製薬メーカの子会社TFB社経由で新規開発項目のCA19-9用のという検査試薬材料を輸入してた。大型の新規開発項目で、この腫瘍マーカは31年後の現在でも使われている。この臨床検査会社は証Ⅱ部へ上場するので、関係会社との取引に公正なルールを設定しないと、利益移転の疑いがかかるのでどこからもケチのつかない客観的な方法で取引をしたい。こういうルートになっていた。
海外メーカ ⇒ TFB ⇒ 日本RI協会 ⇒ SRL
放射性ヨードで標識するので、TFBが輸入した検査試薬材料を日本ラジオアイソトープ協会で放射性ヨードで標識して臨床検査センターのSRLが購入する。TFBが輸入する検査試薬材料の$価格にいくらの換算レートを適用するか、ルールを決めるということ。恣意性が入ってはいけない。
TFB社取締役と、臨床検査最大手のSRL社購買課長、経理課長が3ヶ月間打ち合わせを重ねるが、具体案が作れない。上場準備を担当している証券会社からはさっさと具体案をつくらなければ間に合わぬと矢のような催促。困った経理部長は、中途採用したばかりのAに三人の話を聞いて何とかしろと指示。
Aは会議の席上で関係者から話を一通り聞いた。そしておもむろに「来週の会議には実務フロー及び必要な帳票の具体案を提示します」と宣言しミーティングを終了させた。30分と掛かっていない。関係者は顔を見合わせて目をぱちくりしている。
翌週の会議には約束どおり、産能大方式での輸入業務に関する事務フロー・チャートと輸入業務に関する帳票、仕切り価格に適用する換算円ドルレートに関するメモとTFB側の取り分に関するメモが提出された。
適用する円ドル換算レートは、市場終値の月平均値を用いることに決定。各部門の担当者を決め、来月から提案された帳票を使って実務を開始することも決定。そして取引基本契約書を作成し取り交わすことも決めた。今度も会議は30分で終了した。
実務はこの日の提案通りになされ、爾後トラブルはない。この案件に関する上場要件もクリアした。
輸入業務や実務設計の専門知識がないと、何人集まって何度会議を開いてもまともな実務具体案はできぬもの。検査試薬の輸入に関わる関係者が集まって具体案を作るためには、必要な専門知識と経験が不可欠となる。
日本語がうまく話せますとか、波風立てないように口を慎みますとか、上手にゴマをすれますという類のAタイプのコミュニケーション能力は、企業では新たな価値を何も生み出さない。不生産的コミュニケーション能力である。
このことからわかるのは、仕事で必要とされるコミュニケーション能力とは、複数の分野の専門知識と経験がベースになったものだということ。
設計された帳票は、コンピュータシステムに載るように設計してあった。上場準備で購買在庫管理システムを開発中だったから、それに載せることも考慮してあったのである。Aは入社3ヶ月だが、「財務及び支払い管理システム」開発責任者だから、「財務会計および支払管理システムにもつなぐことを考えて実務設計や帳票設計をしていた。さらに半年後には全社予算編成を任され統括管理することになった。実質的な「財務大臣」である。SRLというのは面白い会社だった。社歴数ヶ月の30歳代の男に、いきなりいろんなことを任せられる会社だった。
試薬輸入業務設計に必要な専門知識は、輸入実務に関する知識、外国為替管理に関する知識、実務設計に関わる知識、経理知識、コンピュータシステム開発の5つである。そしてこれらの5分野の専門知識を一人の人格に統合するためには、これらの分野の専門書を読み、理解する基礎的学力が要求される。
ようするに、基礎的学力が高いことが、必要な複数分野の専門書を読み、問題を解決し、生産的なコミュニケーションをするための基礎的条件である。
1984年の実際の事例を再現。
<余談:腫瘍マーカCA19-9 創業社長F田さんそしてあとを継いだK藤さん>
O田医院へ行って来た。前回が昨年6月だったので、まもなく1年近くになる。呼吸が苦しくないのでついつい足が遠のいていた。体内のビタミンB12が枯渇するころなので、静注しないと危ない、悪性貧血になってからではまずいので、こんなに期間をあけてはいけませんと叱られた。行こう行こうと思いながら、延び延びにしてしまった、反省。
ところで、今回は身体の状態を見るために血液検査もしてもらうのだが、一般検査項目の他に腫瘍マーカが3つあり、その中に1984年に輸入実務をデザインしたCA19-9も含まれていた。この検査項目は寿命が長い。「1年ぶりですから腫瘍マーカも入れておきます」と主治医。同じ行に並んで、CEAとSCCがあった。CEAも腫瘍マーカだからSCCもそうなのだろう。SCCという検査項目は知らないのでネットで調べたら、扁平上皮癌のマーカで、食道癌を引っ掛けることができる。婦人科系の扁平上皮癌もわかるようだ。
HbA1cも懐かしい項目だ。1ヶ月くらいの血糖値を図る。SRL八王子ラボの臨床科学2課の一室には、1986年ころ30台ほどグリコHbA1cの測定器が並び、24時間機械が動き続けていた。担当者の顔まで思い出した。彼もそろそろ定年だろう。2課の課長だった沖縄出身のS袋さんとは、10年ほどあとで、練馬の子会社で一緒に仕事をした。彼はラボ部門の責任者、私は管理部門の責任者だった。下地作りが終わりこれから考えていたことが実行できるところで、帝人との治験合弁会社の立ち上げが暗礁に乗り上げ、本社社長から呼び戻され、そちらを担当することになった。それはそれで大変面白い仕事だった。赤字の部門を出し合って、会社を作り、3年間で黒字にしろという指示だった。他に2つ実に明解な指示があった。相手側から株を引き取り合弁の解消(完全子会社化)と帝人の臨床検査会社買収・子会社化だった。どういうわけか三つとも期限内にやり終えた、スタッフがよかったからだろう。同期中途入社のH本さん(原価計算システム担当:現在新規上場会社の監査役)は、「ebisuさんのことだから、3年なんてかけないでしょう」と合弁会社への出向が決まったときに、笑いながら言った。福島県郡山市の臨床検査会社への資本参加交渉と、創業社長とY口副社長がボツにした劇的経営改善案のことを、わたしと入れ替わりに出向したから誰かから聞いたのかもしれない。売上高経常利益率が20%になる具体案だったから、事前にアナウンスしてあったのに、お二人は「聞いていない」とおっしゃった。染色体検査事業に関わる改善案だった。仙台にある遺伝子研究所の現場を見て管理者の説明を聞き、ポイントになるところを確認した。前処理の培養技術と人的生産性にかなりの差があった。ニコンの子会社とSRL染色体検査課の染色体画像解析装置の開発中止とIRS社(英国)染色体画像解析装置導入に購買課の機器担当として関わっていたから染色体検査についてはよく知っていたのである。入社当時は経理部所属、そして統合システム開発と全社予算の統括を担当していたから、創業社長もF銀行出身のY副社長もわたしが一部の検査技術に詳しいことをご存じなかったのだろう。関係会社管理部で資本提携交渉を担当してそのまま出向、そして1年間でそういう具体的な経営改善案ができるとは思うはずがない、それが普通の思考だ。直接話を聞いたときにもできっこないからやらせておけと考えたのだろうが、相手が悪かった。「聞いていない」と二人で口裏を合わせて言うので、理由が飲み込めた。その案を実行したら、郡山の会社の社長を本社役員にしなければならなくなる、それを嫌ったのである。赤字の関係会社が子会社、関連会社でダントツに利益率の高い会社に化けてしまう。面白いものだ、仕事をしすぎてはいけない。「わかりました」とあっさり引き下がったら、二人でびっくりして顔を見合わせていた。わたしが引き下がるはずがないと身構えていたのだろう。この二人には何度も直接報告を入れていた。ことが重要なので、直接会うか電話でSRL郡山営業所から電話で報告していたのである。お二人の真意が即座に飲み込めたので聞きたくもなかった。郡山の会社の社長はSRLのカラーにそぐわないことは、私も承知していた。小さくない波乱を必ず生じる。創業社長と副社長の判断は当然のことでもあった。わたしが創業社長でも同じような判断を下しただろう。F田社長はその後この会社のことでJAFCO本社と交渉をしたのだが、私を本社社長室に呼び、社長室内ではなく、みんなの見えるテーブルで二人だけで小一時間も話をした上で、わたし一人を同道した。テーブル席での話は3分、JAFCOと激しいやり取りをすると主張した。あるルートから情報が筒抜けになるのでやめるようにと私の案を話したが、聞き入れてくれない。本筋の話はたった3分、その後50分ほども小声で雑談だけ(F田さんがみんなの見えるテーブルで小一時間も社員と打ち合わせをしたことがなかったので、あとから何を話していたのかあちこちから訊かれた)。F田さんは役者である、この人俳優になってもそれなりに大成した人だと思えた。浜松町駅で電車を降り、JAFCO本社へ歩いていく途中で、「どうしたらいいですか?」と唐突にebisuに問う。再度「情報が漏れますので、わたしの案どおりに穏やかにやってください」そう告げると、「そうしましょうか」とあっさり受け入れてくれた。最初からわたしの案を呑むつもりだったのである。交渉は見事だった。なにしろ二つの会社を東証一部上場した社長は、F田さんだけ。言葉少なにゆっくり話して、間をおく、その間のおき方が凄い。向こうも役員が対応しているのだが、空気が張り詰め、圧力が増す。次の言葉を固唾を呑んでまっている。名優の芝居を隣でみているようだった。きちんと報告していたのに、「聞いていない」ととぼけて経営改善案を拒絶したことに対するお返しだったのだろう。だからわたしの案を丸呑みしてにっこり笑って見せ、交渉ごとはこうやるものだと、問わず語りにわたしに教えてくれたのだ、腹芸である。F田創業社長は、交渉ごとに関するコミュニケーション能力がとても高い方だった。
交渉が終わって、JAFCOの役員が私に問う、「お車はどちらに?正面玄関へ回すように手配しますので」。「電車で来ましたので電車で帰ります」というと、一部上場会社の社長なのだから電車は拙いですと向こうが慌てていた。F田社長は面白い人で、あるときA専務が羽田に迎えに行った、タクシーで社長を送りつつ仕事の報告をしようとしたら、「社員が電車で移動しているのだからわたしもタクシーは使いません」と怒ってさっさとモノレールに乗ったとか。朝も8時前に会社に来て8時過ぎには営業所や客先訪問に外出する。日直よりも先に来て鍵を開け、日直が来ると「おはよう、出かけます」と一言告げて出かけてしまう。
(入社2年目のときに、F田社長は200億円の臨床診断システム開発提案の稟議書に資料を見ただけでOKをだしてくれた。お陰ですぐにNTTデータ通信事業本部などと予備調査を開始できた。1985年だったから、通信回線やパソコンの処理速度が当分の間追いつかないことが判明し、棚上げした。画像解析データの転送がどうしても必要だったが、3000万円クラスのミニコンでも処理速度が不足していたし、光回線がまだなかったから転送速度もとても無理だった。10年後におおかたが解消できるとは予想できなかった。コンピュータの処理速度と回線の性能向上はこの40年間つねにわたしの予測を超えていた。)
歴代の役員の中では、そういうことがやれるのは日本生命から出向してきたT内常務だけだっただろう。この人は一橋大学出で、能の名手である。人間国宝級をずらりと並べた舞台で仕手をつとめるのを一度だけ見た。製薬メーカとの価格交渉のときにタッグを組んだことがあり、隣の席で彼の交渉を見させてもらった。力量を見たくて、事前打ち合わせだけして、一切口を出さずにみていた。交渉を終わった後で「どうだった?」と訊かれて、「舞台の呼吸そのものでしたよ」と応じると、満足そうな笑みを浮かべ頷いた。間のおき方と声の出し方が独特で巧かったのである。
この人は余計な仕事をしなかった、超然としていたと言ってよいだろう。要所要所で、資金をニッセイへ流す役割だけはしっかり果たした。一ツ橋にはなかなか個性的な人物がいる。知っている4人の内ではこの人が最高だった。一人は人格と仕事の両方でまるでダメだった。もう二人はコメントする必要がない。
創業社長のF田さんからバトンを渡されたK大医学部出身のK藤社長、この人は論理的で裏表のないいい人だった。お坊ちゃんの育ちのよさがそのまま出ていた。この人への報告はほとんどが文書である。20本くらい進捗状況を報告したのではなかったか。e-mailは使わなかった。社内のシステム部門で管理権限のある人間数人が閲覧していることを知っていたからである。
重要なことはすべて紙の文書で報告した理由は、前回の郡山の会社の件での失敗に懲りていたからでもあった。K藤さんは三つの課題の進捗状況をモニターして、要所要所で本社担当役員を動かし、バックアップしてくれた。だから三課題とも期限内完了できた。K藤社長へは主として文書でのコミュニケーションで、大事な局面ではお会いして報告した。だから、文書作成能力がコミュニケーションの基礎をなしていたと言いうる。このあたりのコミュニケーション能力は、もう複数の専門知識のレベルではない。それを超えている。お互いの気心や本音を知るために何度か「ノミュニケーション」のお誘いも何度かあった。
百年を超える歴史のある一部上場企業との合弁事業はSRLとしては初ケースだった。自分の会社の力量がどれほどのものかを測るには、格上の会社の胸を借りるのもよい。帝人は紳士的な会社であるというのが私の印象である。常務のI川さん、専務のMさんとは経営方針の説明で何度かお会いした。洗練された感じを受けた。帝人本社エリートは東大や一ツ橋が多く、早慶だとかなり肩身が狭いのが実情である。
K藤社長と仕事を支えてくれたスタッフ、満足のいく仕事だった。課題を三つとも期限内に終えたらある種の「卒業」という気分になっていた。K藤さん、とてもいいタイミングで使ってくれた、ありがとう。
*#3041 コミュニケーション能力とは何か?(1) May 10, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-10
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#2994 大学時代に何をしておくべきか(1) Mar. 8,2015 [A.6 仕事]
大学生から面白い質問をもらった。「#2993 本年度大学受験対策授業終了」へ次のような投稿があった。
*http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-03-07
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お久しぶりです。ebisuさんの考える、社会でやっていく(就職、就職後)ために大学時代にしておくべきことは何ですか?私も経済学部に進学希望(大学の都合上今は教養課程で2年の後期から専門の学部に進学する仕組みになっています)なので簿記くらいはとっておこう、と思い2級を取得いたしましたが、将来のことを考えると学歴だけではとてもわたっていけないよなあ、と考えるととても不安です。
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前にもらった投稿はずいぶん長いものだったが、論旨の明快なしっかりした文章だった。今回は短いが学生でこれだけ書ければかなり優秀なほうだろう。
経済学部の学生ということに限定してわたしの意見はすでに投稿欄に書いたので、あとで引用紹介する。
簿記検定試験は三種類あって、日本商工会議所、全国経理学校協会、全国商業高等学校主催のものがある。難易度は並べた順になっており、日商2級がそれ以外の団体主催の簿記1級に相当する。
日商簿記2級は商業簿記と工業簿記の2科目あり、両方の合計点で合否が判定される。全経協や全商は2級は商業簿記のみである。
製造部門を有する会社の経理は原価を集計するために工業簿記(原価計算)が必要になる。だから、商業簿記と工業簿記が組み合わされた、日商2級や全経協1級、全商1級が経理関係の仕事に就くための最低条件となるのである。
日商簿記一級は商業簿記・会計学・工業簿記・原価計算の4科目からなり、25点ずつの配点で合計100点満点、70点が合格ラインである。商業簿記と工業簿記は計算システムだから、その技能(速度と計算精度)が要求されるが、会計学と原価計算は論述式の問題が主体だから、示された問題テーマについて知りうるところを簡潔に作文する技術が求められる。それゆえ、日商1級は日商2級と比べて難易度が大幅に高くなる。
専門学校出身で日商2級(日経協1級、全商1級)レベルでは中小企業の経理マンだろう。大企業では能力不足だ。日商1級なら専門学校出身であろうが大卒であろうが差はない。大企業でも人事部宛てに中途採用希望を経歴書を同封して送っておけば、5社に一つぐらいはなんらかの返事があるだろう。
専門学校出身者で日商簿記2級あるいは全商1級は能力不足と判定される。専門学校まで行っても日商1級の論述式の問題に対応できなかったのだから、基礎学力に問題ありと判断されるだろう。そしてほとんどがその通りで、その他大勢の経理屋さんの一人として使われるだけ。
わたしは1979年に輸入商社の経理部に中途入社し、いくつかの会計システム周辺の輸入業務・納期管理・外国為替決済管理システムなどの開発をした。そのあと1984年に大手臨床検査センターで東証Ⅱ部上場準備要員として中途採用され、統合システム(基幹系情報システム)開発を担当した。当時は基幹系情報システムの開発は日本国内ではほとんど事例がなかっただろう。
その6年(1979~84年)ばかりの間に、システム関係の専門書を読み漁り、仕事で次々に使って技倆を磨いた。
現実の統合会計システム開発は、会計学とシステム開発、予算管理、経営管理、原価計算、購買実務、売上債権管理などの専門知識や実務知識が必要である。この段階になると、それぞれの専門知識を短期間に習得するために基礎学力の高さが問題になる。
日本の会計学者たちはシステムの専門知識がないから、会計システムについての本を書いた会計学者は当時は日本国内に一人も存在しなかったし、そうした専門書の翻訳すらできなかった。だから、原書で読むほかなかったのである。会計システムに関する時代の最先端の専門書を読破する必要があった、そしてその通りのことをした。1984年に必要を感じて600ページばかりの会計システム専門書を読んだのである。
Accounting Information System, Theory and Practice, written by Frederick H. Wu, McGRAW-HILL INTERNATIONAL BOOK COMPANY, 1984
とっくに時代遅れで絶版になっている。この本は会計学や原価計算の知識のほかに、コンピュータシステム開発の専門知識がなければ読めない。ファイル・フロー図や処理フロー図がふんだんに使われているから、それらの記述ルールを知らないと何をしているのか具体的なイメージが湧かないだろう。実際の統合システムは百を超えるファイルを生成してさまざまな処理をやって動いているから、問題が生じたらそれらの処理フロー図全体をみて理解・判断できなければならなかった。この本を読む前に、5年間でシステム関係の専門書群20冊ほどに目を通していたから理解できた。
この本を参考にしながら会計情報統合システムの核である経理・支払い管理システムを開発期間8ヶ月でトラブルなしに稼動させた。この本がなかったら、確信をもって仕事できなかっただろう。ソフトハウスの優秀なSE3名を使ってやり遂げた。彼ら(一人は女性)が優秀だった、当時のあの業界ではトップクラスの技能をもっていた。
それに比べて、日本の会計学者は能力が落ちる。システム開発は理系分野だから文系出身者のかれらは手が出せない。原価計算学者も同じだ。世の中の原価計算はコンピュータシステムを利用してなされているが、いまだにそうした原価計算の本がない。実務に比べて原価計算学者は時代遅れになっている。原価計算学の遅滞は一橋大学が癌だろう。
企業で働くということは、文系・理系のクロス・オーバーする世界で仕事をするということだ。だから、「読み・書き・そろばん(計算)」能力の高さがシビアに問われる。「読み」には英語で書かれた文系・理系の専門書群も入るのである。
#2993コメント引用
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おや、また来てくれましたか、学年末試験はとっくに終わっていますね。
経済学部に進学希望ですか、それで簿記2級をすでに取得した、立派なものです。日本商工会議所簿記能力検定試験2級でしょうか?全商簿記実務検定や日本経理学校協会の簿記検定試験なら2級では就職の武器にはなりません。日商3級相当ですから。
日商2級がすでに1年生で取れているなら、1級を目指すべきです。
日商簿記検定1級を独力で合格できたら、公認会計士2次試験が射程に入ります。
普通科出身の2学年先輩が、1年生の11月の試験で日商1級合格という例があります。昔は今と違って公認会計士2次試験は難関でしたが、3年生のときにその先輩は合格しています。大手監査法人の京都の責任者をしていました。
四年制大学でしかも商学部会計学科ではない経済学部で日商1級とれたら、将来上場企業の経理担当役員も可能性がありますよ。
あとはシステム専門能力を磨くことですね。プログラミングはできたほうがいい。コンピュータで会計処理をしていない会社はありませんから。
これからは基礎学力の高さが物を言います。その会社の商品に関する専門知識も必要です。理系の専門書であってもバリバリ消化できる基礎学力があれば鬼に金棒です。数学の勉強もしておいたほうがいい。無駄になる勉強なんて一つもありません。
企業で困難な問題はつねに文系と理系のクロスオーバした領域で生じます。しかし、両方ができて問題解決のできる人材は千人に一人くらいしかいないのが現実です。
謙虚に学び続けたら、就職も就職後も心配ありません。
ところで、暇があったら、カテゴリー欄の「資本論と経済学」をクリックして、お読みください。予告してあった経済学の論文、四百字詰め原稿用紙で300枚ほど書いてアップしてあります。マルクス資本論をようやく超えました。ピケティの『21世紀の資本』と比較して読んでいただいたらいい。彼のは分配論、分配を変えることに議論が集中していますが、わたしは生産の仕組みと貿易の仕組みを変えること、経済学の公理公準を書き直すことで、人類が生き残ることのできる経済学を提案しています。ピケティよりは百倍面白いですよ。本人が言うのだから間違いなし(笑)
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<余談>
' Accounting Information Systems'はとっくに絶版になっているし、たとえあったとしてももう古いので参考にならない。1983年当時は仕様書を書いて全部作りこんだから、輸入商社用の汎用パッケージシステム開発をやったようなものだ。84年に大手臨床検査会社に転職して、統合システム開発を担当し、コアの部分の財務・支払い管理システムを8ヶ月で稼動させた。予算管理システム、購買在庫管理システム、検査原価計算システム、販売管理システムとのインターフェイス仕様書も一週間で書き上げ、配布した。
古い本の替わりに、シェアーの高いパッケージシステムに関する本を紹介しておく。柔軟なシステムではあるが設定が大変らしい。
SAP ERP Financial Accounting and Controlling: Configuration and Use Management
- 作者: Andrew Okungbowa
- 出版社/メーカー: Apress
- 発売日: 2015/04/08
- メディア: ペーパーバック
*#2993 本年度大学受験対策授業終了 Mar. 7, 2015
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#2994 大学時代に何をしておくべきか?(1) Mar. 8,2015
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#2995 大学時代に何をしておくべきか(2) Mar. 10, 2010
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#3003 大学時代に何をしておくべきか(3) :簿記学習開始8日目 Mar. 18, 2015
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#3004 大学時代に何をしておくべきか(4) :簿記学習開始9日目 Mar. 20, 2015
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#3005 大学時代に何をしておくべきか(5) :簿記学習開始10日目 Mar. 20, 2015
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#3008 大学時代に何をしておくべきか(6) :簿記学習開始11日目 Mar. 22, 2015
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#3011 大学時代に何をしておくべきか(7) :簿記学習開始12日目 Mar. 23, 2015
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#2986 五種類のスキ・バサミ と職人魂 Feb. 26, 2015 [A.6 仕事]
すっきり髪を刈ってもらった。髪を一度梳いたあとで鋏を替えて今度は先端のほうを軽く梳いた。聞いたみたら、癖が出ないように梳きバサミを数回替えて、場所と角度を考えて梳いているという。どうりで癖が出ないわけだ。わたしの髪は長くなると癖がでるが、それが2週間ほど違うことは腕がいいからだと感じてはいたのだが、職人はいくつになっても工夫と腕を磨くことを怠ることはないのだと感心したしだい。一つの仕事で万日の修業(30年)、怠らずやり遂げたものは名人の入り口の域にたどり着ける。
5種類の隙バサミは歯の間隔や隙間の間隔、そして厚みがそれ異なる。道具と会話して使いなれ、指に馴染むまで半年かかるそうだ。梳き歯に縦に溝のついたものも2本あった。同じ梳きバサミという名前がついてはいるが、それぞれ形状が異なり個性的な顔をしていた。一人ひとり髪の質も癖も違うから、お客の「髪の毛」と相談しながら磨いた腕を振るうのだろう。
髭そりのあと、クリームを塗って顔をマッサージしてくれたが、心地いい。客が疲れていると顔の筋肉の硬直しているのが指先で感じるのだそうだ。数分マッサージすると、コリがほぐれるのが指先の感触でよくわかる、そういうときは終わった後の表情がかわるんだそうだ。リラックスしたいい表情になる。
指先がセンサー、そして技術の練磨を怠らぬ、塾の先生のわたしは教育の職人。いくつになっても、仕事しているからには技術の練磨を怠ってはならぬと戒めた。
刈り終わって、「ありがとう、勉強になりました」と挨拶、若い人に教えてもらった。
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#2782 手仕事と職業観そしてシツケ Aug. 20, 2014 [A.6 仕事]
昨夜はベッドの中に入ってから幸田露伴『五重塔』を音読してみた。最初の数ページは読みにくかったが、すぐになれた。なれると露伴の文体は妙に舌になじむ、調子がいいのである。
親方源太とのっそり十兵衛が五重塔の普請請負を競うが、和尚は意外な裁定を下す。二人で相談して決めろというのである。決めたら檀家を説得してその通りにしてやると。和尚は二人を前にお経の話をする。川に丸太を渡してあるが、向こう側へ行くのに兄がわたるときは弟が丸太を揺らし川へ落とし、弟がわたるときは兄が丸太を揺らして川へ落とす。お互いにずぶぬれになるという話だ。仕事がこんなことになっては和尚が困る。どちらの腕もたしかだ。さあ、二人で遺恨を残さぬように話し合って結論をもってこいというのである。職人の腕の見極めも利く、なかなかの和尚だ。
前置きはこれくらいにして本題に入ろう。大工は徒弟制度の中で教育されてきた。
明治以降の日本の教育は二つの柱で支えられてきた。ひとつは学校教育であり、もうひとつは徒弟制度である。
学校教育は先生が教えるものであるが、徒弟制度の教育は教えられるものではなく、師匠や親方の技を見て盗むことで学ぶのである。学んでやるぞというつもりのない者はハナからダメだ。
同じことを毎日毎日繰り返して身体に技をじっくりしみこませていく。5年10年と修行を続け、道具を使い続けるうちに、その職にふさわしい手ができあがる。身体もまたその職業にふさわしい身体につくり変えられる。
親方の技を学ぶには、親方のやることをコピーする。弟子入りしたら同じ家で一緒にご飯を食べ、親方の身の回りの世話や掃除、食事の支度などをしながら、技も考え方も生活の仕方も学んでいく。親方は教えない、やって見せるだけである。見てわからなければ「何を見ていたんだ」と檄が飛ぶ。親方の仕事を見て、真似てやってみる、そして違いがなぜ生ずるのか考え、試行錯誤をしながら親方の仕事に近づいていく。一つ一つの仕事の微妙な手加減など口で教えられるものではないそうだ。繰り返し身体に覚えこませてはじめてわかってくる。
同僚や兄弟子への口の利き方、仕事の依頼主への態度や口の利き方、用材ごとの品質の見極め方、材木屋との応対の仕方、他の職人への仕事の割り振り方など、全てが学ぶべきことになる。一人前の職人となったときに、自分ができなければならないからだ。
こうして、親方の仕事の仕方や挨拶の仕方、取引先との口の利き方、応対の仕方、兄弟子との口の利き方など、シツケ全般がなされる。一人前の職人とは仕事の腕だけではない、用材の見極め方、回りの関係者との口の利き方、挨拶の仕方、応接の仕方、食事の仕方や酒の飲み方、遊び方を含めて、一人の職人としてきちんと処して行ける術を身につけているということだ。
5年、10年したら技倆に応じて責任ある仕事が任される、そうして仕事に対する責任の重さと、それを引き受けてやりきる度胸も学んでいくのである。
仕事の依頼主には大工仕事の目利きがおり、そういう目利きは仕事相応の代価を支払ってくれる代わりに仕事を見る目も厳しい。そういう目利きの批評や期待に応えて仕事をすることも腕を上げる力になる。職人が精根込めてつくり上げた品物を高い値段で買ってくれる消費者がいないと職人仕事が成立たぬのは道理だから、そう考えると、大量生産大量消費、大量廃棄のいまの生産方式は、職人と品物の価値を見分け、いい品物には高額の代価を支払う目利きたる消費者をまとめて絶滅に追いやっている。
職人たちが受け継いできた職業観も大量生産時代のなかで急速に失われつつある。中高生達が職業観をもてないのは回りにそういう職人達の姿が消えうせたことが大きく影響しているに違いない。見ていないものはわからないのだ。
5年、10年の修業が終わる頃には手は職人のそれとなり、口の利き方、仕事への責任感のあり方などがしっかり身についている。それで一人前のお金のとれる職人となる。
修業期間は学ぶ期間だから、昔は小遣い程度しか対価は支払われなかった。あたりまえだ、最初の内はお金の獲れる仕事ができない、ただで一人前の職人にしてもらうのだから、一人前の給料が出るはずがない。最低賃金法はそうした徒弟制度を日本経済社会から根こそぎ取り除いてしまう。いま昔のままの徒弟制度で内弟子をとり、育てたら法律違反になるのである。無批判に西洋の制度を日本に移植するとこういうとんでもない文化破壊が起きて、気がついた時には、日本経済を支えてきた徒弟制度というすぐれた教育制度を失ってしまった。
職人の給料は腕と速度で決まる。どんなに丁寧な仕事でも、人の倍も時間がかかるようでは半分しか稼ぐことができないし、半人前の仕事すらできない見習い修行の者に払える賃金などありはしないのである。職人の手間賃は弟子を何人も抱えて、貴重な材料を使わせて給料を支払えるほど高くはない。自分の生活を切り詰めないと内弟子を抱えることはできないのが普通だった。
中高生を見ていると、どんな職について飯を食っていくのかさっぱり考えていないものが多い、考えられないのだろうと思う。
コツコツ努力を積み重ねて手仕事を身につけようなんて価値観が軽視されてしまっている。それは職人文化が消えつつあるからだろう。
たとえば古典落語ならそれなりの修業期間を要したのだが、最近のお笑いは禄に修行もなしにでてくる。そしてそういう中には年間億を超えるような金額を稼ぐ者たちが出ている。青年実業家と称する者たちの中にも粉飾決算までして濡れ手で粟をつかむことをよしとする類の者が増えてきている。こんなものをもてはやしていたら、日本の行く末は危うい。
周りに職人が少なくなってきている。工場で機械を使った大量生産品が安く出回り、そういうものを消費者が買う。工場の機械を操作するコンピュータに名人クラスの職人の経験智をデジタルデータにして入力してしまえば、その瞬間は見た目で区別がつかぬほどそっくりなものができ上がる。しかし、大工仕事に関していえば、木の癖までも見抜いてさまざまな用材を使い分けている名人クラスの大工の作ったものは何百年ともつが、工場生産した材料は正確に刻まれていても、組み上げて数年経ったら木が思わぬ方向に反り、建物は軋みを生じて長持ちしない。
再生可能な自然素材を使った手仕事の品物が失われていった。職人もいなくなってしまった。だから、職人がもっていた文化や職業観もまた失われつつあるのだろう。
わたしはいくつか業種の異なる会社で、経営管理や経営企画、そしてコンピュータシステム開発、実際の経営などをやってきた。システム業界では30年ほど前にKE(ナレッジエンジニア'knowledge engineer)という職種がSEの上の階層に位置づけられたことがあるが、いまそういう用語がつかわれることはない。
わたしは自分を事務仕事の職人だと思っている。必要な技術はその都度自分で学んできたし、学んだものはどういうわけかすぐにそれを使うような仕事が舞い込むようなめぐり合わせになっていた。直接現在の仕事に関係のない分野の専門書も興味の赴くままに読み漁ったのだが、準備が整うのをまっていたかのように、そうした専門知識がないとチャレンジできない仕事を任される、不思議だった。仕事があれば本で習得したスキルを磨くことができる。大工さんの請負仕事と同じで、一切合財任されてやってみることで度胸がつきスキルが上がる。
管理会計の専門書群、経営管理の専門書群、マイクロ波計測器に関する本や大量のカタログ、システム開発技術の専門書群、言語学の専門書、医学関係の専門書など、その都度仕事のかかわりのあるもの、ないもの両方を興味の赴くままに読み漁り、仕事に使って腕を磨いてきた。
そして正直に誠実に渾身の力で仕事をするのが最善であることを仕事を通して学んだ。会社の経営はお客様を大事にすることだけでなく仕事に関わる取引先も、そして何より大事なのは会社を支えてくれている社員を大事にすることでうまくいくことも仕事を通して学んだ。
昔とは異なるタイプの職人が日本に生まれつつあるような実感がある。新しい分野だから師事すべき'親方'はいない。わたしは30年早かったのだ。日本人はそろそろ大量生産・大量消費・大量廃棄社会を卒業すべきときに来ている。団塊世代の中には新しいタイプの職人が少なからずいるはずで、仕事を通じて磨いたそのスキルを30代に引き継がなくてはならない。それをうまくやれるかどうかで日本の30年後100年後が変わる。
再生可能な材料を使い、自国でつくれるものは自国で生産し、生産者の顔の見えるものを使う内需中心の経済社会を創るべきだ。人口は3000万人まで減少していい。戦争をしなければ人口を増やす必要はない。しばらくの間は少子高齢化と人口減少時代が進行し、百年経たぬうちに少子高齢化は終わる。そうした変化にふさわしい社会、職人仕事を中心に国内に仕事を確保してやっていく道を探せばいい。強い管理貿易(鎖国)がふさわしいとebisuは考えている。昔の鎖国と違うのは、飛行機や船で海外へは自由に行き来できることだ。(笑)
『失われた手仕事の思想』 塩野米松著
この本のふたつの章をお読みいただきたい。
「第三章 徒弟制度」
「第四章 手の記憶」
著者はさまざまな分野の職人仕事の取材を積み重ねてきたジャーナリストである。この二つの章を読めば、大きく変わりつつある日本の経済社会の現状がみえてくる。ebisuとは違って文章の品もよい。
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「職人が消えそれを支えた社会も変質しようとしているが、よい道具やよい品物をそれなりに評価する智慧は社会の底流として残るものである」 289㌻
「手の時代の倫理や職業観、経験を尊ぶ社会は暮らしやすさを求めたうえに生み出されたルールであった。これらは手仕事の時代であった。」 289㌻
「 携帯電話やパソコンのように手仕事の時代の後から出てきたものは、その使い方にマナーが出来上がっていない。以前の手仕事の時代の倫理では間に合わないことが多くなってきているのだ。このことは、前の思想がほころんでしまったことを証明してはいないだろうか。
これらの横行が暮らしづらいことであれば、いずれルールが生まれてくるだろう。
常にその時代の倫理は、一生懸命生きることから生まれてくる。
安易に簡便さを望み、それだけを追い求めれば、混乱の時代が続くかもしれない。
現在は、作り手が見えない、経験がいらない、積み重ねが不要の時代である。送り出されてくる機械は、手もいらず、肉体も必要としない。名もなく、実を追うものばかりである。人間不要の時代であるように思える。
そうではないと思う。
改めてその時代に適した「人間」という概念が生み出されるのだろう。
手の仕事の時代が終わり、手を失った時代の思想は?
それはこれから決まってくるものである。まだ橋はできていないが、いずれできる。そこでの倫理や職業観は、行きやすい方向へ行くはずである。そういうものは生活の智慧だから必ず行きやすいところに行き、低みを見つけ水が貯まるように、そこに安定を見つけ出すだろう。そして、そこが安定の場所でなければ、また水を移すであろうが、落ち着くところに落ち着く。
そこには新たな倫理や人の生き方が築かれるだろう。
そのときに、私たちが立ち会った職人が活躍した「手仕事の時代」の倫理や職業観が、新たな道を模索するときの指針になるだろう。」 290㌻
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- 作者: 塩野 米松
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2008/03/23
- メディア: 文庫
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