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#4343 Take a chance on you「神田たけ志」50周年劇画展:9/17~22 Aug. 19, 2020 [90.根高 こもごも]

 今朝8/19の朝刊に折り込み広告が入った。根室市教委主催で「根室市みらいのアーティスト応援事業」としてタケシの劇画展が催されるようだ。
 独立してから50年か早いものだ。
●9/17~22日
●根室市総合文化会館多目的ホール

 わたしたちは、根室中学が光洋と柏陵に分かれた最初の1年生である。当時の商業科の入試倍率は2倍を超えていたから、勉強のできる者がいた。学年平均点以下だと入学できなかった。学年平均以上の生徒でも入試当日の出来が悪いと落ちていた。1年生の時に同じFクラスのH(沖ネップ、歯舞中学校出身)は短大を卒業した年に税理士試験に合格している。大学でも3年次で税理士試験に合格するのはトップクラスの生徒のみ、だからHは優秀だった。20代から東京有楽町で事務所を開いてずっとやっている。Hは高校では生徒会副会長。同じクラスのカズコは中央執行委員。もう一人の中央執行委員は普通科のヒロコ、それぞれ仲が良かった。しっかりまとまっていた。

 わたしは光洋中学校、タケシとヒロシは柏陵中学校出身だった。高1ではクラスが違っていたから接点がなかった。ちょっとトッポイ方だった。わたしは裸足が気持ちがいいので、足駄(高下駄、高さ10㎝)を履いて通学したからすぐに先輩たちに目をつけられた、生意気盛りだった。三人に呼び出し喰らって殴られた。これが「洗礼」。一度あったら2度目はない。いくら先輩でも2度目は黙っちゃいない、正当防衛が成立する、あいかわらず足駄で通学した。小学校の低学年のときから素手で焚き付け割りと四寸角の廃材を長柄の鉞で叩き折っていたから、空手の有段者よりも拳は硬かった。焚き付けの材料にはしなる生木も混じっており、それすら叩き折っていたので、手が力を入れるタイミングを知っていた。だから生木すら叩き折るような叩き方しかできない。顔を殴れば奥歯を折るだけではすまない、顔面骨折、額に当たれば頭がい骨陥没は免れない。高校を卒業した年に、ヒロシとカツミ(副番三人の一人)と新宿歌舞伎町のゲームセンターでパンチボールを叩いたことがあった。踏み込まずに腰のひねりだけで叩いたが180㎏を超えていた。同じウェイトのプロのボクサーでも強打者の部類だろう。それに加えて拳が硬い、当たる部分は拳の二か所で、両方合わせても2cm^2程度しかない。そこへ180㎏、踏み込むと250㎏くらいの力が加わる。人を殴るときには正当防衛が成立しても、殺す覚悟がなくてはできなかった。幸いに人生を暗転させてもかまわないシーンには遭遇しなかった。高1のときに危ないことはあった。数学のテストの採点で、採点ミスなのに言い訳して認めようとしないので、切れるところだった。教壇のところでO先生に採点ミスの指摘をしていた、うだうだ見苦しい言い訳に「なに!」っと大きな声が出てしまった。わたしはこの先生が嫌いだった。まともな授業をせずに将棋自慢の雑談をよくして授業時間を潰していたからだ。自分の指した将棋は全部記憶しているなんて自慢話ばかりしていた。そういう伏線があった。大きな声を一言発したとたんに、O先生はとっさにメガネを外した、殴られると思ったのだろう。教室は一瞬シーンとなった。クラスメートのだれもがわたしが教師を殴ると思った。一呼吸でスーッと冷静になれた。くるっと踵を返して席に戻った。仲のよかったヤスベ―が「あのとき殴ると思った、よくがまんしたな」あとで、そういった。一呼吸したとたんに、こんなクズ教師と刺し違えるほど自分の人生は安くはないと冷静になれた。手が出てたら加減ができないから、惨劇、高校退学は免れなかった。我流でヨガの呼吸法と同じトレーニングをしていたから、息を吐くことで感情をコントロールする術が自然に身についていた。このときはまだタケシには出遭っていない。

 高2になってタケシやヒロシと同じクラスになった。二年G組。総番グループも生徒会もこの2年G組を中心に動いた。ヒロシは総番になり、生徒会は実質的にわたしの掌中にあった。だから、坊主頭という校則の改正もわたしの発案でやれた。3年の生徒会副会長のお二人が、「おんちゃ、言い出しっぺのおまえがやれ」、先輩の指示だから、否やはない。保護者へアンケートを取って生徒集会を開き、予定通り校則改正をした。長髪で修学旅行へ行ったのである。坊主頭で東京・京都・大阪・奈良へは行けません。なんてことはない、誰かがやる、そういう変わり目だっただけのこと。(笑)
 学校側は鬼と金棒を同じGクラスにまとめてしまった。この二人の息があってしまった。まったく違うようでいてヒロシとわたしはどこか似たところがあった。

 G組には個性的な奴らが揃っていた、揃うはずで、学校側が他の2クラスの生徒から隔離するために「アブナイ生徒たち」を集めた。計算外だったのは集められた危ない奴らはポテンシャルが高かったこと。学校としては火薬庫を大きくしたようなもの、管理を間違えたら大爆発だが、精神的には大人だったから自分たちで管理できた。それでも担任の冨岡先生には何度か迷惑をかけた。カチンときて間接的に何度か校長とぶつかることもあった。冨岡先生は古株だったから何とかしたのだろう。根室商業出身の野沢先生も古株の一人、当然バックアップがあっただろう。若い先生たちにも数人味方がいた。何か問題行動を起こしても、あいつらがやるんだから何か理由のあることとお目こぼしもあった。(笑)
 わたしは1年生の時はF組だった。2年になってG組へ異動、担任の冨岡先生が「ebisuなにした?クラス1番はそのクラスに残すことになっていたが、お前は出された」、そう言った。「先生、引き取ってくれてありがとう」と笑って挨拶した。国語と古典の先生だった1年のときの担任のN先生とは相性が悪かっただけ。古典のテストクラストップでも評価は50だった。現代国語はN先生の解釈を答案に一度も書かなかった。自分の感じたとおりに書いた。60歳に手が届こうとしているロートルの感性と十代の生徒の感性が同じはずがないだろう、文学作品の解釈が違ってあたりまえ。頑固だった。以心伝心、こちらも願い下げだった。国語の先生は2年になって函館出身で空手家のS谷先生に変わった。この先生とはウマがあったね、でも、空手の稽古はつけてもらわなかった。(笑) 
 新しく担任になった冨岡先生は珠算部の顧問だった、珠算部員でもないのに全道競技会のとき2日間だけ珠算部員として大会に出ていたので顔見知りだった。高橋珠算塾の高橋尚美先生に頼まれて汐見町の方の教室の運営を任されていたので、両方の間で調整をつけて商工会議所主催の市民珠算大会開催にこぎつけた。巷の噂では、冨岡先生と高橋先生は仲が悪く、根室高校珠算部の卒業生に珠算塾を開かせて、潰してやるなんて物騒な話が流れていた。だから、間を取り持って調整する者が必要だった。そんなときにわたしが2年G組、冨岡先生のクラスの一員になったのである。二人の間をつなげと天の声がした、お鉢が自然に回ってきたとしか言いようがない。じつにスムーズに市民珠算大会開催となった。わたしの役割は車軸(根室高校冨岡先生)と車輪(高橋尚美先生と板野国男先生)の摩擦をなくするベアリングのようなもの。商業科の生徒にしかできない役割だった。第一回目の大会は根室高校柔道・剣道場が会場となった。旧友のH田と一緒に入部して柔道部に3か月ほど在籍して、この道場でコロコロ転がされていたことがある。畳を全部片づけて会場にした。高橋先生が原稿を書いて、わたしに選手宣誓をやれという。根室高校珠算部長でもよかったはずだが、調整役をしたご褒美だったのだろう。暗算部門のみ出場、優勝している。あとは主催者側に回って仕事の手伝い、読み上げ算を交代でやった。根室高校の先生には10ケタの読み上げ算を高速で読み上げられる人がいなかった。競技会で一つも間違えずに読むのはなかなかたいへんなのです。トレーニングを積んだ人でなければできません。根室では高橋先生と板野さん、そして高校生だったわたしだけ。ご褒美だったのだろうと思いますが、帯広で全珠連の全道の集まりがありました。高橋先生はそこへ連れて行ってくれました。車で出かけ、十勝川温泉に泊まって翌日が集会でした。泊った温泉は混浴、巨乳の若い女性がすぐ横に入ってきました。鼻血でそうだったな。
 巷の噂の真偽のほどは知らない、両先生にそんなことをお聞きしたこともない。冨岡良夫先生と高橋尚美先生は何のわだかまりもなくそれ以降毎年市民珠算大会で顔を合わせていたはず。根室高校抜きでは市民珠算大会の開催が不可能でした。もう一つの珠算塾の板野先生と高橋尚美先生が市民珠算大会開催の相談をしていました。珠算塾だけではやれないのです。根室高校は元々根室商業ですから、そこのお墨付き、協力がどうしても必要でした。地域の学校と珠算塾が共同で動けば、大きな成果が出せるということ。そのことはいまも変わらぬ真理です。医学部受験生を育てるには、私塾だけでは大きな成果が出せない、根室高校の先生数名の協力が必要でした。化学と物理の指導は私塾ではできない。数か月前から連携がじつにうまくいっている。うれしいことです。
 話を高校時代に戻すと、当時は全珠連の段位認定試験は権威がなかった。日商珠算能力検定1級保持者は一人だけだったから、珠算部の幽霊部員にされていた。計算実務検定の応用計算がわたしの競技種目だった。1級の応用計算問題10題を半分の時間5分で解く。先輩が全道大会の一週間くらい前になると誘ってくれた。生徒会会計のN先輩である。当時の生徒会会計は権限が大きかった。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、単独で生徒会の予算配分折衝、帳簿記帳、そして決算業務は会計の仕事、財務大臣のようなもの。珠算と簿記に堪能でなければ務まらない、選挙ではなくて指名制だったので生徒会では一番古株。そのN先輩から「ebisu、来週全道大会だ、行くぞ」って、後輩だから否やはない、返事は元気よく「ハイ!」だけ。そんな経緯から、冨岡先生はよく知っていた。わたしたちが卒業して数年後に、冨岡先生は親の介護のために50代で教員をやめて、東京大田区へ引っ越された。60代で癌を患い、何度か転移を繰り返したが、その都度手術をして東京の同期の同窓会に顔を出してくれた。数年前に亡くなられた。授業は下手くそだったけど、問題児だらけのクラスをよく受け持ってくれた、生徒思いのとってもいい先生だった。一杯問題起こしました、校長先生との間に挟まってたいへんだっただろう。でも冨岡先生は根室商業出身の野沢先生と並ぶ古株、新任の校長は滅多に口をはさめなかっただろう。卑怯なことやズルイことだけはしなかった。

 2年でクラス替えになったら、タケシがいたのだが、何をやらかしたのか、聞いてみたことはない。総番のヒロシ(野球部)、大橋巨泉の深夜番組に何度か出演した女傑の富山かつえ(美術部長)、羅臼の大きな漁師の坊ちゃんのヤスベ―、共産党のマサミ。明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任されたので、ラグビー部を立ち上げるのに協力してくれたキヨシら数人。かつえは渋谷駅前にビルを一つ持っているそうだ。高校1年で中退したヒロシのポン友のタカギは銀座にバーを2軒もった。大学行こうって誘ってくれたのは総番のヒロシ。どこでウマが合ったのか、わからぬもの、感謝している。ヒロシの周りには不思議と面白い男たちが集まってくる、人望だろうな。ヒロシは水産会社の取締役だったが、もうやめたかな。
 「北の勝」碓氷商店の番頭格のオトヤ、夫婦で元銀行員だった西浜ストアのコウジ、数年前に地元水産会社の経理担当役員で退職したニャンコ、散布漁協の専務理事だったケンジ(庭球部)…、多士済々。

 3年になって友人二人に誘われて夏休みにアルバイトをした、土方である。柏陵中の土俵はその時に作り直した。だから今でも土俵はちゃんと作れるだろう。花咲港の灯台下の階段手すりも作った、天然記念物、円形柱状節理の「車石」への通路だ。50㎏のセメント袋を右肩に載せて急傾斜のところを何度も降りた。タケシもその夏にバイトしていた。理由があった。東京へ行くための旅費稼ぎだった。
 夏休みが終わって8月下旬のある夜に、タケシが家へ来た。あらたまって正座して、「トシ、話がある」という。『ゴルゴ13』の作者である「斉藤タカオのところへ弟子入りしようと思う、一番弟子になりたい、学校辞めて東京へ行くことを考えている」、そんな話だった。「あと半年で卒業だ、3月に行ったらいい」、まったくアホな返事をした。
 「3月になってからだと、一番弟子になれないかもしれない、俺は一番弟子になりたい」、思わず笑った。「なんだ決めているじゃないか、相談じゃなくって報告だ」、大笑い。決意は固い、好く決断したと、その思いっきりのよさに吃驚、見直したよ。若い人は冒険してもらいたい。
 Take a chance on you.(チャンスにかけてみたら) ⇒アンジェラ・アキ
  …高1英語教科書VIVID-1 Lesson 6のタイトル。
 タケシは字が上手だった。学校祭の新聞コンクールでガリ版原稿はタケシに頼んだ。クラスの中でだれがどの分野に得意技をもっているか承知していた。あいつは字がきれいだった。レイアウトを担当した友人から記事が足りない、余白があるので埋める記事が必要と言われて、仕方ないので埋め草を提供した。わたしの書いた記事のできは悪かった、中身よりも体裁、2位だった。タケシのお陰だ。わたしにもっとましな記事が書けたら優勝だっただろう。
 タケシよりも絵の巧いのがいた。中学時代の同級生のケンジだ。高2のときは隣のクラスだった。中学時代から北海道の展覧会に出すたびに賞をもらっていた。わたしも絵が好きだったが、ケンジの絵と比べたら才能の違いは歴然としていた。勝負にならない、それで絵はあきらめた。ケンジと中学3年間同級生だったのが運の尽き、あいつは俺の絵心にとどめを刺した。大好きだった大工仕事もどうやら才能がなさそう、ビリヤードの店番手伝いながら、中2のときにしかたなく勉強の方へ走った。少年マガジンと少年サンデーは中1のときに発刊されたと思うが、週刊漫画誌として初めてだった。それを教えてくれたのはケンジである。ケンジも漫画家への道を進んでほしかった。ケンジは慎重派だった。タケシの決断と度胸の良さは群を抜いていた
 東京へ行ってから気が付くと、ケンジは隣の駅に住んでいた。漫画の本を買って読むと、東武練馬駅で降りてあいつのところへ寄って置いてきた。通学路の途中だから、定期券で乗り降りできた。ケンジは一時期タケシを手伝っていた。絵の腕はいいから重宝しただろう。

 神田は数年斉藤タカオ・プロダクションのスタッフとして作画して、3年くらいで独立し、京王線の国領に引っ越して住んだ。独立してからすぐに連絡があり、「税金の申告の仕方がわからない、トシ頼む」といわれては断れぬ。そのころはまだ大学生だった。領収書を月別に保管しておくように言って、2月にあいつのアパートへ行って、とってあった領収書から帳簿をつけて、決算し、税務申告書を書いて提出した。やってやるから、昼飯を食わせろという条件で3日くらい通ったはず。調布税務署だったかな。2年目も頼まれてやった。3年目は『御用牙』を描いていて売れっ子の仲間入り、収入も大きくなっていたから税理士に頼んでやってもらえというと、タケシはその通りにした。
 タケシは当時景気がよくて、何度か誘ってくれてあいつの行きつけの新宿のバーでおごってもらった。その都度数軒のバーをハシゴ。なつかしい。

 50年か、早いものだ。「50周年劇画展」おめでとう。
 観に行くよ。

DSCN3935s.jpg

<余談:丸刈り坊主頭の校則改正と総番制度の廃止>
 丸刈り&詰襟の制服と総番制度は根室商業時代から引き継がれてきた伝統であった。ヤクザとのもめごとがあったときに根室高校を代表するのは総番長ただ一人、だから5年先輩まではそういうときのために総番長に仁義の切り方と口上が伝わっていた。
「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうござんす。手前生国発します処、根室にござんす...」
 任侠映画そのままだった。わたしは親戚の5年先輩の野球部のキャプテンが目の前で実演してくれたのを見ている。口上を間違えたら、殺されても文句は言えないと言っていた。それがヤクザのルールだと。総番長の責任は重かったのである。半端な覚悟ではやれない、いざというとき、ヤクザとのもめごとに学校を代表して出向かなければならなかったのだから。小さく折りたたんだ紙に仁義の口上が書いてあった。もらったような気もするが、机の中にしまったまま紛失してしまった。お祭りのときに目付の鋭い高校生が十数人、五年先輩よりも一歩下がって歩いていた。あれは年に一度の儀式だったのだろう。総番長は高下駄を履いて、後ろの十数人は靴や下駄だった。
 ヒロシに確認したが、口上は伝わってなかった。五年先輩の総番長が卒業した後も口上書を小さく折りたたんで大事に持っていたから、伝えなかったのかもしれぬ。もうヤクザと高校生がもめごとを起こすようなバンカラな学校でもそういう時代でもなくなっていた。

 中学校3年の冬休みまで一度も坊主頭にしたことがなかった。中3の冬休みに根室高校受験のために坊主頭にした。1年の終わりころに校則を変えたら、坊主頭で修学旅行に行かなくて済むことに気が付き、校則改正の条項を調べて、手続き、具体的な校則改正戦略を練った。先輩の副会長二人に話したら、「お前がやれ」ということになり、会長のSさんも了解していた。先生たちが弱いのは保護者、だから保護者への校則改正のアンケート調査票をデザインした。2年になったばかりのときのこと、4月にスタートして、10月下旬が修学旅行だったので、7月の夏休み前までにアンケートの集計と生徒会集会を開けば、間に合うことが分かった。あとは分担を決めて坦々と仕事を進めた。予定通りに夏休み前の校則改正し、髪を伸ばして10月下旬に修学旅行へ行った。当時は11泊12日だったと思う。京都・大阪・奈良・伊豆の下田・東京だった。
 その年の秋に生徒会役員選挙だったと思う。ある日、副会長のH谷さんとF堂さんがわたしに「次の生徒会会長はお前がやれ、応援演説は俺たち二人でやる」と言い渡された。先輩に言われたらノーの返事はない、「ハイわかりました」と言って、生徒会顧問へ立候補の旨伝えたら、数日後に生徒会会計だから駄目だという。生徒会会計は指名する後輩を決めてあったし、会長をやっていてもいざというときには両方見ることはなんでもないこと。そう伝えたら、校長が難色を示しているらしかった。Gクラスから生徒会長がでたら、何をやるかわからない、現に生徒会会計が校則改正を実現していたから、警戒された。
(あの当時は高校生にも政治活動をしそうなものには公安のマークがついていた。誘われて矢臼別のキャンプに行った後にあることが起きて気が付いた。集合写真を1枚だけ撮ったのだが、フィルムを現像に回したら、その一枚だけネガがなくなっていた。フィルムには番号がついているので途中を抜けば確認できる、油断も隙もありゃしない。無邪気だった。その写真屋さんはとっくにないから迷惑はかからない。だから書ける。(笑) ああいうキャンプに参加したら、集合写真は撮ってはいけないということを学んだ。)
 顧問の先生が間に入って気の毒だったので、先輩二人に事情を説明して降りた。会長でなくても生徒会は動かせるし生徒会会計でやれてきたのだから。もったいないので、だれか代わりがいないかと考えたら、1年生の時の友人のH(税理士)が思い浮かんだ。歯舞中学出身でネームバリューがないから会長職は無理、副会長への立候補を頼んでみた。先輩二人の副会長の応援演説をつけてやるからと説得したら、引き受けてくれた。先輩二人もOKだった。そういう経緯でHは副会長になった。会長にはなりそこなったが、同じクラスの中央執行委員のカズコと前から中央執行委員だった普通科のヒロコが旧知の仲だったので、生徒会を動かすのに何の支障もなかった。

 もう一つ、根室商業時代から続いた総番制度もヒロシとA野と三人で相談して総番制度を廃止することに決めた。実際にやったのはヒロシである。内部で相当もめただろう。ヒロシは愚痴一つこぼさないで実行した、男だね。
 団塊世代のわたしたちはそういう時代の変わり目に立っていた。ヒロシはヒロシの役割を果たし、わたしはわたしの役割を果たした。ヒロシは同期の桜、戦友だ。高校を卒業して東京へ一緒に行った。千歳からスカイメイトを利用、飛行機だった。「トシ、一緒に行こう」とあいつが誘ってくれたから、東京の大学へ進学できた。もちろん、一生懸命に働いて仕送りをしてくれた両親のお陰でもある。

 漫画の材料になりそうな高校時代を過ごした。神田たけ志とはそういう激動の時代に出遭った、あいつもGクラスのメンバーの一人である。神田たけ志はペンネーム、わたしが高校時代に出遭ったのは神田猛のほうである。(笑)

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