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#4017 遺体の検案業務 Jun. 14, 2019 [41. 科学・技術とその周辺]

 昨日の北海道新聞夕刊の根室地域版に「遺体の検案業務に尽力」という記事が載っていた。根室警察署長から遺体検案業務に携わっている地元医師三人が表彰された。岡田優二医師は2014年から検案嘱託医、共立病院の杉木和博幸医師は2007年からと書いてあった。他に江村精神内科の岡崎和也医師の名前が載っている。

 この業務は結構大変なのだ。時間のたった水死体や、ご遺体もあるからね。殺人事件も自殺も、自然死もある。ご遺体を解剖して事件性があるかないか、そして死因の判断をしなければならない。
 自宅で亡くなった場合も、殺人事件かもしれないので、そうでないことを証明するためにも遺体の検案が必要になる。検死解剖は特別な技術のいる仕事だから、患者の治療の合間を縫って、そちらの勉強のもしなかればならないから、結構負荷が大きいと推察する。

  ここまで書いて、検死と検案とどう違うのか気になって検索してみた。
*https://www.e-sogi.com/guide/1907/
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「検案」は、監察医、法医学者などの医師が、遺体の外表面を検査し、病気の既往歴や死亡時の状況などから、死因や死亡時刻を医学的に判定します。
検死は、法律用語ではなく、検視と検案、解剖の3つを包括した言葉です。同じ読み方で漢字も似ているので、検視と同じ意味合いで使われることが多いです。

・病死・自然死(老衰)であっても、病院以外での死亡や主治医(かかりつけ医)がいないときまたは連絡が取れないとき⇒この場合は検死対象となります。
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 なるほど、検案と検死はかくも違うのだ。

 1990年ころに起きたことを思い出した。SRL学術開発本部で仕事をしていた時に、取締役であるI上司のお母さんが自宅で亡くなったことがあった。夕方具合が悪いと2階へ上がって寝てしまった。翌朝冷たくなっていることに気がついた。死亡診断書が必要になるし、警察から事情聴取もある。主治医がいなかったので遺体の検死ということになる。解剖するというので、「必要ない」と警察とずいぶん言い合いになったそうだ。自宅で死ぬのはなかなかやっかいな仕組みになっている。
 上司のお母さんは脳出血で寒気がして寝たのだが、出血が少しずつ広がって寝ている間に亡くなった。だれも気がつかなかったのだ。

 弊ブログによく投稿してくれる人にkoderaさんがいる。4年ほど前に弊ブログを読み、興味をもって根室まで会いに来てくれた。そして啓雲中学校でバド部に実際に指導してくれたことがあった。彼は千葉県柏市で長年にわたって市民バドクラブを主宰している。以前、一時期バド強豪校関東第一高校の講師であったことから高校バドにも人的ネットワークがある。そのうちのお一人が渋谷さん。現在は関東の関東第一高校校長である。バドミントンの世界では有名な指導者のお一人。
 その小寺さんには母方のおじさんがいる、石山昱夫という。元東大医学部教授で検死解剖の権威である。
 小寺さんに薦められて、石山昱夫著『科学鑑定 引き逃げ車種からDNAまで』(文春新書)を昨年6月に読んだ。最大手の臨床検査会社SRLに16年間勤務していたから、検査技術については職務柄いろいろ見聞きし、また機器の購買担当として3年間ほど毎年数十億円買っていたこともあって少しは知っているので、面白く読めた。

 北海道新聞に主治医の岡田優二先生の写真が載っていたので、日本の科学鑑定の権威であるkoderaさんの叔父さんを思い出した。

*関東第一高校ホームページ
https://www.kanto-ichiko.ac.jp/about/rinen/

 弊ブログで石山昱夫さんの『科学鑑定』をとりあげました。
*#3779 オウム地下鉄サリン事件:被害者の脳幹や延髄が溶けていた July 10,2018
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-07-10




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科学鑑定―ひき逃げ車種からDNAまで (文春新書)

科学鑑定―ひき逃げ車種からDNAまで (文春新書)

  • 作者: 石山 いく夫
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1998/11
  • メディア: 新書

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#3301 オモチャからわずか25年で汎用大型機を消滅させつつあるパソコンという怪物(2) May 25, 2016  [41. 科学・技術とその周辺]

<更新情報>
5/26 朝10時半 CC社出向の経緯とエピソード三つ追記
5/26 午後8時 見出し付け、追記多数。

最終更新 5/27 午前8時15分


 #3299で科学技術計算用プログラマブル・カリュキュレータ、オフコン、汎用小型機、汎用大型機まで、自分が担当したシステム開発の仕事に即して、1979年から1984年までの15年間にユーザ側から見たコンピュータがどれほど驚異的な性能アップを成し遂げたのかについて書きました。
 この30年間のコンピュータの性能アップはおおよそ2年で2倍という指数関数的なものでした。これから30年指数関数的な変化が継続するとしたら人間の想像力をはるかに超えたものになるでしょう。どういう世界がまっているのか誰にも予測ができません。さらにその30年後は?

 人工知能の発達は経済社会を根幹から破壊するでしょう。高性能で安価な人工知能開発によってほとんどの職種が人工知能搭載型のロボットかクラウド上の人工知能にとってかわり、失業によって急速な人口縮小が生じて人類が絶滅しかねない危険性を孕(はらん)んでいます。クラウド上の人工知能はインターネットにつながれた任意のサーバに自分のコピーを暗号化していくつでも分散保存できますから、事実上不死の存在となります。
 人間の欲望が便利さを追い求めて人工知能の開発を極限まで推し進めると、どこかで人間には制御できなくなります。
 人工知能が人間の手を離れて自己再設計すできるようになれば大きな危険が産まれます。
 全世界の図書館データを使ってディープラーニングすることも、人類の悪徳と善徳を区別なく学習してしまうので、大きな危険をもたらします。
 見境なくビッグデータを食い尽くし、お腹をすかして、仮想現実の世界でさまざまなシミュレーションを数億回も繰り返して生成したデータを平らげ始めます。その次の段階は膨大なシミュレーションの結果の中から妥当と思うものを選び、現実世界で実験を試みるかもしれないのです。あなたが人工知能なら、地上から戦争をなくすにはどういう選択肢を選びますか?
 ・・・ 結果は明白、永遠の平和は人類の絶滅によってもたらされます。人類あるかぎり戦争はなくならないという結論は過去の歴史を学べばあたりまえの結論です。

 1979年に初めて超小型コンピュータである科学技術用プログラマブル・カリキュレータHP67、HP97(経営分析ツールとして使用)でプログラミングをマスターしたことに始まり、オフコン(1980)、汎用小型機(1982)、汎用大型機(1984)とのかかわりをユーザ側の視点から見てきました。1984年以降の関わりは書かなかったので、年度を明確にしながら書き足してみます。

<CC社をめぐる四つのエピソード>
 1993年6月に出資交渉を担当していた郡山のCC社へ、先方から乞われて役員出向が決まりました。5年分の財務諸表を分析して、人員情報など必要な追加情報をヒアリングをし、本社を見学しています。臨床検査会社の経営建て直しは、子会社の千葉ラボで経験済みだったので、難しい仕事ではありませんでした。1億円の資本提携が決まり、赤字会社の建て直しを目的として出向しています。
 見学したときに社長が開発中の現場を見せてくれました。当時CC社では、プリント基板を使ったマルチコントローラを開発中でしたパソコンを十数台つないでラボシステムとして使おうというわけです東北の売上高25億円程度の臨床検査センターがパソコンが台頭してくる中で十数台をつないで一つのコンピュータとして機能させるためにマルチコントローラを開発していました、その事業意欲の高さはすばらしい、評価したいと思います。ちゃんとした開発体制が取れたら、臨床検査会社ではなくなっていたでしょう。経営を支える柱が変わってしまいます。汎用小型機に比べたら、パソコンは十台購入しても1/5以下のコストでした、事業化の可能性はあったのです。ただ、当時のパソコンはまだまだ業務で使うにはトラブル発生の頻度が大きく、信頼性には欠けました。どのようなシーンでも使えて安いコンピュータなんてありえないのですが、画面に罫線の引けないようなノートパソコンを選定していたことも引っかかりました。画面に罫線がないのでその場で質問しました。「罫線は引けません」という返事がありました。「表」なのに罫線がないシートが想像できますか?商品化するのになぜこういうメーカのノート型パソコンを選定したのか理由がわかりません。システム全体の印象が悪化するので致命傷になりかねません。何か特別なコネがなければ選ばないメーカでした。単に安かったのかもしれません。理由はどうあれ、わたしなら決して選ばないメーカでした。銀行端末で名前の知れたメーカで、パソコンのシェアーは業界で5本指にも入らないメーカです。
 SRLの子会社の千葉ラボ(旧SMS)は1991年に新システムの導入にあたって受付・業務にはAS400、検査部門にはUNIXマシンのR/S6000を採用しました。このあたりの判断の違いが、経営に重大な影響を与えていました。T橋社長が、コンピュータのことが生半可にわかっていたからこそ陥った「罠」でした
 マイクロ波計測器を複数台コントロールできる「マルチコントローラ」開発現場を1981年ころ産業用エレクトロニクス輸入商社でわたしは見ています。技術部でN中さんという優秀な技術者が、アッセンブラとマッピング方式でプロトタイプを製作していました。1台目は800万円くらいコストがかかったのですが、プリント基板で製作すると2台目からは製造原価が1/4に下がりました。輸入品のマルチコントローラの販売価格が1000万円以上していました。技術屋さんとは馬が合うので、開発担当者のN中さんから話が聞けたのです。
 技術が多少わかっているとやってみたくなるのは、少年がオモチャをいじりたくなるのと同じ心境です。企業経営者は企業規模や経営状況も考慮しないといけません。
 最初はマッピング(基盤の裏側の配線をハンダ付けします)でプロトタイプを製作し、動作を確認してからプリント基板をつくって量産です、手順をわかっていました。これはすでにプロトタイプのテストが終わって、製品開発の最終段階テストに入っていると判断しました。
 そこで一つ目の質問をしました。基盤をひっくり返していいですかと訊いてから、「マッピングではないのですか?プリント基板を使っているということは商品として売るつもりですね?」そう訊くとびっくりした顔をしていました、図星でした。SRLの関係会社管理部からCC社の財務分析のために、財務資料だけでは再建計画がつくれないので、現場を見学させてほしいと申し入れてあったのですから、そちらの専門家だと思っていたわけです。それはそれで正解ですが、わたしには別の顔もありました。
 何個か質問して、「これは売れませんよ」と理由を挙げて説明しました。使っていたパソコンの性能が悪かったのと、アッセンブラでの開発でした。十数年遅れていました。C言語で資料を残してやるべきでした。システム部長しか中身がわかる人がいません。プログラミング仕様書も残していません。システム部長に何かあったらアッセンブラで書かれたプログラムを逐一読んでいくしか手がないのです、事実上不可能と言わざるをえません、メンテナンスができないのです。商品の開発はメンテナンスまで含めて考えてつくるのがあたりまえでしたが、それがありませんでした。あとで黒磯にある細菌検査ラボを見ました。細菌検査システムを開発完了したところでしたが、やはり同じ状態でした。開発した後不具合がでても対応できませんでした。プログラミングを担当したシステム部の女性社員がラボに行かない理由を訊ねました。「行けば現場からクレームがあるから行きたくない」とはっきり言いました。細菌検査の手順がよくわからないまま、実務設計をおろそかにしてプログラミングしたのではないかと推測しました。システム開発は現行実務をそのままやるのではなく、どのような実務設計なら生産性がアップできるかという視点から現行実務の見直しからしなければならないのです。システム化以前と以後の実務に代わり映えがしなかったら、開発は失敗です。社内ですらこういう状態では、販売を目的としたシステム商品開発などできるわけがありません。
 システム担当取締役を変えないで事業化したら、メンテナンスでトラブル続出となり、経営の足を引っ張るので、どうしてもやるのなら別会社にするしかありませんよと話して中止してもらいました。社長の首に鈴をつける人が社内にいなかったのです。どこの会社でもオーナ社長の首に鈴をつけるのは無理でしょ。
 システム開発のありようが経営の足を引っ張っていました。コンピュータやソフトの最近の動向すらモニターしていなかった、唯我独尊で不勉強だったのです。年齢を考えてもシステム担当取締役がアッセンブラを棄てて、C言語やC++に切り替えるのは無理というのがわたしの判断でした。仕事全体のやり方に問題があるということは、システム開発の考え方に根本的な問題のあるからです。
 SRLの千葉ラボは買収前に、CC社が開発したラボシステムを使っていました。生産性の悪いもので、赤字の原因のひとつは業務システムと検査システムにありました。メンテナンスができなくなって、1991年に生産性2倍アップを目標として新システム再開発しました。結果は3~4倍。
 CC社の社長はシステム関係に自信があっただけに、1991年に稼動した千葉ラボの新システム(業務・受付系がAS400、検査系がRS/6000(UNIXマシン))を今度は逆輸入することになるので、やっかいだなと感じました。自尊心を傷つけないように配慮が必要でした。しかし、ラボの生産性を3~4倍に上げる目途は最初の見学の時点でたったのです。出向する1年前に事前トレーニングしていたようなものでした。天の采配とはこういうことでしょう。
 大手のソフト会社とタッグを組み、マルチコントローラの開発販売でのし上がろうとするならともかく、東北の中規模の臨床検査会社のラボシステムにマルチコントローラの開発なんて必要なかったのです。事業というよりはT橋社長の趣味でした。ラボシステムはUNIXマシンを使えばよかっただけですが、システム担当取締役はアッセンブラで開発していて、UNIX用のC言語への切り替えができなかったのだろうと推測します。十数年も技術が遅れていました。「ボード基盤をひっくり返していいですか?」と聞いてから、「商品開発ですね、すでにプリント基板を使用していますから」と言うと"財務屋さんに何でそんなことがわかるの"と言いたげな表情を浮かべ、目を真ん丸くしていました。

 本社建物内の3階奥の部屋(郡山営業所)に海外メーカのコールター社製自動血球計算機がありました、そこでは二つ目の質問をしました。「自動血球計算機でコールターの品質のよいのはわかりますが、なぜコールターですか?郡山ではメンテナンスに問題がありませんか?」、そしてメンテナンスの良い国内トップメーカの名前を挙げました。当時のトップメーカは東亞医用電子という名前だったかな、購買課で機器担当をしていたときに、ブランチラボの案件が殺到して、購入する自動血球計算機の機種を決めました。ルーチンラボですから、トラブルがあれば即日対応してもらわないとラボが止まるので、メンテナンス対応の良し悪しが重要なんです。東亞医用電子に電話して、ブランチラボの標準機種にするので納入価格は○○にしてもらいたいとかなり強引な値引きを電話交渉だけで呑んでもらいました。そのときに、自動血球計算機について代表的なメーカを5社ほど調べてあっただけのことでした。どのような仕事でも手を抜かずに、そのときにできる範囲で努力しておくべきですね。どこで役に立てるかは天が考えてくれますから、ebisuがあれこれ考える必要はないのです。目の前の仕事を一つずつ丁寧にやるだけでよろしい

 検査試薬コストも財務諸表を見て気になっていたので、仕入先を訊ねました、三つ目の質問でした。その問屋とは取引したことはありませんでしたが、名前は知っている問屋でした。「この問屋さんは業界3位ですね、この価格での仕入れということはなにか特別なコネがあるのですか?」と確認したら図星でした。内部事情を正直に話してくれました。大株主の一人の息子さんが薬剤師でその問屋に勤務しており、特別に安く仕入れていました。なかなかたいしたものです、問屋経由でこの値段の提示はありえないでしょう。素直にほめました。SRLでは問屋を叩いてもしょうがないので、製薬メーカの部長または役員と購買課が直接交渉します。わたしも大口取引先との価格交渉を数件受け持っていました。シビアな交渉をしてコストカットを毎年繰り返していました。問屋には利益が出るようにメーカ側に配慮してもらいます。問屋にある程度在庫を抱えてもらわないと八王子ラボが回りませんから、問屋の経営が成り立つことは大事なことなのです。財務屋で検査試薬問屋の業界順位や取引価格の水準を知っている者はほとんどいません。値引率を質問され、その評価をわたしの口から聞いて、T橋社長ぎょっとした顔をしていました。ヒヤリングが楽しくて、からかっていたのです。

 もう一つ、エピソードがありました。社長室に戻ってから二人っきりのときの話です。財務諸表を分析してその期の売上推計をして行ったのですが、それがT橋社長の営業所別月別推計値の合計額とほとんど一緒でした。そこで四つ目の質問です。「どうやって推計計算されましたか?」彼は自分の計算の仕組みを説明してくれました。EXCELで線形回帰分析をしていたのです。説明している途中でノート型パソコンの画面に表示されていたデータを見ただけで仕組みがわかりました。かれが「標準偏差をここで計算して・・・」とまどろっこしい説明を始めたので、「線形回帰分析データですね」と伝えると、目を丸くしていました。財務屋でEXCELのスプレッドシートに表示された統計データを一目見て、線形回帰分析だと気がつく人はほとんどいませんから。「データを見ただけでわかります」と応えました。1979年から5年間、財務体質と収益構造を変革するためにの経営分析モデル構築とデータ解析に線形回帰を多用していたのですから、表のつくりを確認しただけでわかりました。
 CC社・T橋社長は東北大学附属の臨床検査技師専門学校卒の秀才です。四つの質問でわたしのバックグラウンドが読めなくなった「わけがわからなくなった」とあとで語っていました。
 たった一日の見学・調査で、T橋社長はなんでも正直に話すように変わりました。これにはわたしの方が吃驚でした。内部事情も自分がどうしたいのかも話してくれました。後からわかったのですが、虚心に人の懐に飛び込み、心をつかむのが上手なのです。何度もそういう場面を目撃しました。
 売上推計は推計精度がかわらない簡便なやりかたで計算していました。たくさんのデータを分析した経験があれば、だいたいのところはわかるのです。それを計算によって確認するだけのこと。やりかたに質問が及んだので、簡単に説明しました。そして「このレベルの売上推計は簡単な方法があるので、精度が同じなら簡単なほうがいいに決まっていますから、線形回帰は必要ないのです、御社のケースは因果関係の分析と簡単な計算ですみます」と結論を述べました。

 財務データを分析してから、確認のための見学・現地調査時に四つのエピソードがあって、CC社側から、資本提携にあたってはebisuの出向要請が条件のひとつに出されました。自社の経営改革に必要な人材だと認めたのでしょう。
 T橋社長のSRLへの入れ込み方に他の役員が警戒感を抱きました。週に2度ほどT橋社長のおごりで酒を飲み歩いていました。他の役員も一緒に協力してくれなければ経営改革なんてできませんから、警戒感を解くのに半年かかりました、首になるかもしれないので用心深いのです。非協力と見極めたら、1年かければ「掃除」はできますが、そんなことが目的ではありませんでした。わたしの目的はその会社で働く従業員の生活を守ることでした。
 専務に半年たってから初めて酒を呑もうと誘われ、飲みながら「ebisuさん、もっと安いところで社長と一緒に飲んでくれ」と頼まれました。会社に請求書が回っていました。専務はお蕎麦の好きな趣味人でした。ちょっと昼飯食べに行こうと誘われ、かれの車に乗るとガソリンスタンドによって空気圧の調整、どこに行くのかと思いきや、高速道路を利用して磐梯の「そば道場」、そのまま山形へ入り、もう一軒山間の蕎麦屋によって美味しいそばを食べ、赤湯で一泊。翌日仙台の大滝村で香りの良い新そばを食べて会社へ帰還、専務は専務で気を使ってくれたのです。半年様子をじっと見ていましたと語りました。

 92年6月1日付で「#295 CC社経営状況報告」を発信しています。このときは営業部門を通じて経営分析だけの依頼でした。現地調査は翌年4月になってから、資本提携話が持ち込まれてからやっています。
 1ヶ月ほど先に北陸の臨床検査会社の買収交渉も担当していたので、どちらでもいけましたが、厄介なほうを選びました。(笑)
 北陸はだれでもやれるように再建案の大筋を示してあったからです。郡山の会社は何が出てくるか、やってみないとわからないところがありました。とくに仙台ラボの中にあった遺伝子研究所が気になっていました。ただの勘でしたが、当たりでした。

<親会社社長と副社長と経営再建計画についての思惑の違い>
 親会社社長(創業社長のF田さん)とF銀行から転籍したY口副社長へ文書と電話の両方で逐一進行を報告していました。わたしは大事なポイントでは文書で報告するようにしています。上司名での稟議書や稟議添付文書を除いて発信文書番号と発信日付、宛先を入れてファイルしています。「#378 94/1/15 遺伝子ラボ採算シミュレーション」という文書があります。
 ある件で問題が起きて仙台ラボに様子を見にきた副社長に、問題の解決の仕方と仕事の進捗状況そして経営再建の鍵となる染色体検査の現場をご案内して概要を説明済みでした。
 この資本提携案件は提携成立後はY口副社長の担当案件となりました。海軍士官学校と陸軍士官学校の両方に合格し、戦後に東大に入りなおした傑物でした。旗色を見て言動と行動ががらりと変わるところがある、状況を見るに敏な人でした。こういう人との仕事も別な楽しみがありました。出向に当たって、Y口さんに頼んで、交際費50万円を戴いていきました。こういうところはお願いするとちゃんとしてくれます。8割は一緒に行った営業担当が使ってくれました。CC社の役員や社員との「友好」を深めるよりも、協力してもらう東北営業部との飲み会に多くを使ったようです。たいした金額ではありません。交際費は気をつけないと贈収賄になることがありますから、なかなか許可が下りないのです。あとでY口さんに「おまえ、よく使うな」と笑いながら言われてしまいました。ちゃんとチェックしていたようです。領収書に書いてあるお店の場所を確認すれば、どちらが使ったかはわかることでした。わたしは郡山に、営業担当は仙台に常駐していました。使い切れば後は自腹ですから、ほうっておいて問題ありません。

 CC社内で役員に再建計画の大筋を話して了解をとりました。遺伝子研究所の扱いでもめました。
 詳細な再建案を作り、親会社へ進めていいか最終確認をかねて相談に行ったところ、社長と副社長のお二人は「聞いていない」ととぼけました。意外な返事に驚きましたが、お二人の顔を見て、すぐに理由がわかりました。千葉ラボのシステムを導入するだけで黒字化するのに、わたしは別の案を追加していました、それが嫌だったのです。口頭で報告を聞いていたときには赤字会社が1年間で黒字に転換するという案に半信半疑だったのでしょう、どうせ現実的な具体案にはならないと高を括っていたようです。でも、目の前に現実的な具体案がありました。
 それよりも数ヶ月前に仙台の遺伝子ラボに来られると聞いて、郡山からラボまで出かけ、Y口副社長に口頭で報告して検査現場に案内しました。染色体画像解析分野の事業での業務提携が再建案に織り込んであったからです。こういう話は関係セクションとの調整を伴うので筋を通しておかなければあとで厄介なことになりかねません。

<染色体画像解析装置つながり:CC社と帝人臨床検査子会社>
 CC社の仙台ラボには遺伝子研究所があり、染色体画像解析装置を導入して検査を受託していました。病理と染色体画像解析検査の2分野のみ。染色体検査は売上が確保できないために高額の画像解析装置(5000万円)と人件費が負担になっていました。同じ機械を89年ころ八王子ラボに導入したのは、染色体検査科のI原課長、そして検査管理部のO形さんと購買機器担当のわたしでした。英国のIRSという企業の製品でした。それでその分野については専門知識がありました。東北の会社が1台購入したことは、日本電子輸入販売のS本さんから当時聞いて知っていましたが、「その会社は検体を集められないので大きな損失が出るよ」と意見を聞かれて話した記憶があります、その通りになっていたのです。まさかその会社へ経営建て直しのために出向することになるとは考えもしませんでした。もう一台は帝人の臨床検査子会社(羽村ラボ)が導入したことを知っていました。臨床治験検査事業の合弁事業を96年11月から担当することになり、その臨床検査子会社買収もわたしの担当となりました。染色体画像解析装置を介した不思議な縁でつながっていたのです。
 余計だったのは、染色体検査を八王子ラボから仙台ラボの遺伝子研究所に外注することでした。八王子ラボの染色体検査は市場の8割くらいを占有していましたが、画像解析装置を3台導入しても生産力が追いつかず受注制限をしていました。八王子ラボにいて染色体検査課の数人の課長職とは懇意でしたから現場との調整はつけられます。培養方法に大きな違いがありました。染色体検査を外注することは両社の検査部門と営業ニーズにかなっていました。

<現実的で具体的、そして驚異的な効果の経営改革案は不要>
 業種業態が同じで、規模も同じくらいだったSRL子会社千葉ラボの業務受付システムとラボの臨床検査システムに置き換えるだけで黒字転換するのに、染色体検査を組み込むと、売上高経常利益率が15~20%ほどにアップする損益シミュレーションになっていました。千葉ラボのときにも損益シミュレーション結果を稟議書に添付しましたが、1年後の実績はシミュレーションを超えていたのです。だから、そっちの方面の分析についてはSRLの役員には信用が厚かったのです。わたしが書いた具体的な再建案を実施すれば、シミュレーション以上の実績が出ることは親会社の社長と副社長には明らかでした。
 まずいのは親会社の売上高経常利益率を上回るだけではなく、SRLのどの子会社の利益率も大幅に上回ってしまうことでした。臨床検査業でそんなに高い利益率を上げた会社はいまだにありません。その計画案が実施されたら、関係会社社長を親会社の役員に迎えざるをえない、それが嫌だったのです。毛色があまりにも違っていたからです。
 お二人は「聞いていない」ととぼけました。表情ですぐに理由がわかったので、「勇み足でした」と引いたら、びっくりした顔をして二人が目を合わせました。文書での報告記録もあるから、わたしがごねると予想して、なにか説得案を用意していたのでしょう。そんな茶番劇は必要なし、あっさり引き下がりました。社長と副社長に決断をさせてしまった、わたしの仕事のやり方に配慮が足りなかった、何度も話をしていたのに創業社長の本音を読めなかったのです。無邪気に経営再建案をつくってしまいました、負けは負けでした。わたしは何もしないで出向しているだけでよかったのです。経営が悪化すれば、累積損失の解消に減資をすれば、それまでの大株主が消えてくれます、減資と同時に資本増強のための増資に応ずれば東北の独立系のラボが手に入ります。創業社長のF田さんの方が役者が一枚上手でした。お二人が「聞いていない」ととぼけたときに、そのような見え透いた嘘にあきれると同時に脱帽したのです。
 出向先の社長や大株主とも太いパイプができていたのでそれも親会社の懸念材料になったのでしょう。大株主の賛成は経営再建上必要なことでした。親会社に反旗を翻し、もう片方の経営再建を実行しかねないと思われたのかもしれません。千葉ラボのシステムの改良版を開発することはわたし一人でできる仕事でした。縁があって出向したのだから、骨をうずめてもよいぐらいの覚悟はありました。
 あのときにRLをやめて転職して、経営建て直しをしてあげるべきだったのかもしれません。でも、そういう気になれませんでした。黒字転換に2年かからない仕事で、ドキドキワクワクする仕事には思えませんでした。2年後にはCC社を辞めている自分が見えました。
 当時CC社は赤字に陥っていたのに幹事証券会社を決めて店頭公開を目指していました。T橋社長は赤字が解消できないので、SRLの資本参加と経営支援によって店頭公開を果たしたいと心の底から願っていました。それが可能なら、SRLからどのような要求が出てきても、店頭公開と引き換えなら呑む覚悟をしていました。自分のためであり、大株主のためであり、社員のためだったのです。

<たった15ヶ月での親会社本社への帰還命令>
 CC社に置いておくと経営改革を進めかねない、危険と判断したのかわずか15ヶ月で出向解除となり、91年10月1日付で本社経営管理部へ呼び戻されました。肩書きは、経営管理部のラインの課長職で「社長室兼務・資材部兼務」でした。こんな兼務は聞いたこともありません。どれもやって来た仕事だったのでわたしの場合はそういうのもありだなと受け容れました。社長は創業者のF田さんから、K藤さんに代わっていました。K藤さんは感情を交えず、合理的な判断をする人でした。成果主義に基づく人事制度の改革はそれだけで数回ブログが書けるほどです。K藤さんも創業社長のF田さんと同じく医者でした。厚生官僚からSRLへ「転職」(F田さんが引っ張った)した方です。5年後に帝人との治験合弁会社設立に使ってくれました。百年以上の歴史のある一部上場企業との合弁会社はSRLにとってはじめての経験でしたから最重要案件だったのです。新聞発表したあとでプロジェクトチームがスタート、すぐにスケジュールどおり行かなくなって、新聞発表したスケジュールで会社が設立できるようにプロジェクトを指揮しろと、急遽一番古い子会社のSRL東京ラボから呼び戻されました。この子会社では親会社のラボをを巻き込んだ再編成案という面白い企画が進行中だったのです。東ラボ社長M輪さんとラボ担当常務のS袋さんとebisuの三人だけで骨格を詰めていました。100~120mの平面ラインの大型ラボを構想していました。具体案にして、土地の目当てがついたら、親会社・社長のK藤さんへ相談して一気にことを決めようとしていたのです。

<資材部の(購買在庫管理と固定資産管理)システム再開発をめぐって>
 本論で関係のあるのは、資材部のシステム開発案件です。汎用大型機で85年から運用していた購買在庫管理システムとパソコンで動かしていた固定資産管理システムを汎用大型機へ統合する話が進んでいました。データ処理量からみても、コストから見てもばかげた案でした、資材部の担当者とシステム部長の間で話が進んでいました。わたしはClient-Serverシステムでやる案を作成して、方向を変えるべきと主張し、それまでの開発案を否定したのです。コストが20:1くらいも違います。提案書を作成したのは実は購買課へ異動してきた社員ではなく、富士通の入社2~3年目の社員だという話が元システム部関係者から伝わってきました。SRLではよくある話でした。
 SRLのシステム部門は、受付・業務システム(社内では「基幹システム」と呼んでいました)が守備範囲でした。検査系のシステムを子会社でDECのミニコンで運用しようとして失敗(1984年)していました。当時はUNIX系マシンは手に負えなかったようです。検査部門へのDECミニコン導入は1990年ころに細胞性免疫部のリンパ球表面マーカ検査が最初の成功事例でした。
 基幹新システムは富士通製の当時最大規模の汎用大型機で1984年に半身不随で稼動し始めました。OSのバグもあり3ヶ月ほど本社管理部門から応援部隊を編成してマニュアルで対応で危機を凌ぎました。上場準備のための事務系の統合システム開発はSRLシステム部の手に負えないので、NCDさんへ外注していました。だから、SRLシステム部はノータッチで、統合システム開発のノウハウが蓄積されていなかったのです。10年たってもNCDさんのメンテナンス部隊が5~8人常駐していました。
 資材部の側の担当者はシステム部からの異動してきた人で、もちろん事務部門のシステム化にタッチしたことがない人でした。
 84年当時、購買在庫管理システムの外部設計書の半分くらいはわたしが書いてあげたし、固定資産管理システムも投資案件を入力して精度の高い予算減価償却費が算出できるように1985年にわたしがシステム設計したものでしたから、二つのシステムも実務も熟知していました。1987年に消耗品のシステム化をやっています。検査試薬だけだった購買在庫管理システムに消耗品管理を追加しました。「87/3/30 消耗品購買業務及び納期管理のシステム化」という文書を作成していますから、わたしが外部設計書を書いたようです。
 おまけに三つの部署の兼務で二つは本社の最重要部門だから、わたしの影響力は大きかった。資材部の担当者とシステム部長、面子丸つぶれで内部からぶすぶすと不満の声が聞こえてきました。仕事ができないのだから、だまって言う通りにやれというのがわたしの本音、大人ですからそんなことは一言もいいませんでしたけど。レベルが低すぎて、話をするのもうんざりでした。
 これとは別に、経営管理部内にうんざりするようなことがあって、上司であるM井経営管理担当取締役(同じ大学同じ学部の一つ先輩)に頼んで、95年1月から子会社の東京ラボへ異動しました。その後、本社のパーティで、システム部長のS田さんがわたしを見つけて、「あのときは何も知りませんでたいへん失礼しました」と平謝り、気になっていたのだろうと思います、素直な人物です。
 購買課で機器担当をしていたわたしから見ても、前システム部長には眼に余る問題がありました。何がきっかけだったのかわかりませんが、K藤社長はシステム部長の更迭を決断し、S田さんを新システム部長にすえたようです。S田さんは病理医でシステムにはまったくの素人でした。パソコンを20台くらい並べてイントラネットの整備をやっていましたが、最初のうちはたいへんだったでしょう。あの当時のパソコンサーバは信頼性に乏しくとても業務で使える代物ではありませんでした。社内電子メールサーバはUNIXマシンを使うべきでしたが、パソコンしか知らないのでNTサーバを採用したのでしょう、知っている道具でやるしかありません。失敗から学べばいいのです。SRLは高収益会社でしたから、小さな失敗をとがめる文化はありません、いい会社です、収益力に失敗を許容する余裕がありました。
 どういうわけかあれほど反対したわたしの案で、1年後に資材部のシステム再開発プロジェクトが進行したのです。おやおやと思っていました。結果よければすべてよしです。S田さんは八王子ラボにいたときに仕事を通じて親しくお付き合いがありました。そのときはわたしがシステム開発の専門家だということはまったくご存知ありませんでした。なにしろ、購買課の機器担当のあとは学術開発本部スタッフだったのですから知らなくて当然です。だから、横から経営管理部の管理会計課長の口出しが気に触ったのです。ラボで知っているだけに、なんでebisuさんが・・・と腹が立ったのでしょう。(笑)
 かれはやったことのない仕事で必死だった、よくやっていたと思います。多少頑ななところはありましたが、まじめなちゃんとした人ですから、前任者と異なり業者との癒着もなかったでしょう。一生懸命なところが好感がもてたのです。

<日本標準臨床検査項目コードをめぐって>
  では他社のシステム部門の責任者はどうだったのでしょう。業界第2位の臨床検査会社BMLのKシステム部長はわたしが見てもなかなかの切れ者でした、構想が大きいのです、業界の中では一番早く取締役になっています。臨床検査業界ではNo.1のシステム部門長でした。BMLは川越に100mの平面ラインをもつラボを作ったので、ラボシステムを一新するために大手6社間で臨床検査項目コードを統一したくて、6社のシステム部門に呼びかけを行いましたこういうことは本来は業界No.1のSRLが旗を振るべきでした。それがNo.1の社会的責任というものです。
 SRLにはシステム開発部にK原課長という有能な人材がいましたが、その人が1985年にわたしが書いた『臨床診断システム事業化構想案』を読んでいて、2回目の6社ミーティングに誘ってくれたのです。発信文書をみると「#078 86/11/5 統一コード検討会(第2回)」となっています。
 当時のシステム開発部長S茂さんはコード標準化にかたくなに反対しました。K原さん、上司の反対を押し切ってわたしを誘ったのです。これがSRLの面白いところです。冷や飯覚悟なら上司の反対を無視して堂々とやれるのです。とうぜん賞与の評価や昇進では割を食いますが、侍ならやれます。
 わたしは入社して半年後くらいに、会社の顧問でもあり、臨床病理学会の項目コード検討委員会・委員長の櫻林先生から臨床検査項目コード検討のお手伝いを頼まれました。仕事を手伝えるように、創業社長のF田さんに総合企画部へ異動をお願いするからというのです。入社して早々、統合システム開発と全社予算編成の統括を任されていたので、社長のF田さんには申し入れをしないようにお願いしました。それから1年後にシステム開発部課長のK原さんから、大手6社の項目コードの検討会の発足が知らされたのです。いいタイミングでした。臨床検査部長のK尻さんに話して、一緒に参加してもらいました。彼女はその後、学術開発本部の学術情報部長になって、この検討会をずっと引っ張ってくれました。
 話しをもってきてくれたのはK原さんでした、彼がいなければ、大手6社の項目コード標準化検討委員会は大手6社だけの小さなものに終わったはずです。86年11月5日の2回目の検討委員会に三人で乗り込み、臨床検査会社だけで標準コードを決めても臨床検査会社でしか使われないから詮のない話で、臨床病理学会との産学協働委員会に変えて日本標準臨床検査項目コードを作る委員会にしようと説得しました。6社の賛意をえて、櫻林教授にすぐに話を持っていきました。渡りに船ですから喜んで参加してくれました。86年12月7日第3回目の会合で櫻林教授を紹介して、臨床検査項目コードの検討は臨床検査大手6社と臨床病理学会の産学協働で、発表は臨床病理学会項目検討委員会でと、おおまかな分担に大手6社の賛同をえたのです。発信文書「#086 統一コード検討会 櫻林先生同行」となっています。
 SRLだけでも実施検査項目は3000を超えていましたから、分類作業がたいへんでした。学術的な検討もしっかりしなければなりません。その時に大手6社が受注している検査項目情報がデータ・ファイルですべてリストアップされたというのは、日本でなされている全臨床検査項目のリストを意味していました。桜林先生の指導の下で、6社の学術部門が作業をしたのですから、理想的なチームでした。こうして、日本が世界に先駆けて臨床検査項目コードの標準化を達成したのです。
 大学病院で使ってもらうには臨床病理学会から日本標準臨床検査コードとして発表してもらうことがベストでした。現在日本全国の病院で使われている臨床検査項目コードはその産学協働の成果です。検討作業に6社のシステム部門と学術部門が協力して5年間ほど費やしました。
 臨床検査項目コードの日本標準を作ることは臨床診断システム事業構想の一環でした。コードが統一されていないと診断システムに入力できないからです。臨床診断支援システム事業化案については、8月までに1985年につくった案を弊ブログ上で公開する予定です。もう31年がたってしまいました。

<変化を感じて学習:好奇心こそ原動力>
 93年ころから、必要を感じて本を数冊読みました。パソコン・サーバが業務で使われだしたのです。どの程度の威力があるのか気になりました。

①Windows NT  The Complete reference  1993 by McGraw-Hill, Inc.
  索引まで入れると648ページの本です。まだ翻訳が出ていない段階で読みました。パソコンサーバが業務で使えるのかどうかが知りたかったのです。ワープロOASISを使い100ページほど原典対訳してみました。専門用語がほとんど出尽くすので、残りは辞書を引く回数が激減し、読むのが楽になります。内容だけピックアップする読み方に変えると、とたんに楽しくなります。目の前にNTサーバがないのに、イメージしながら読んでいると、最初のうちは具体的なイメージの湧かない表現や、日本語にはしづらい用語が出てきます。それを漢字に置き換えるのは楽しい作業です。たとえば、システム・アドミニストレータという用語が頻繁に出てきますが、この本を読んでいたときには「システム管制官」という訳語を充てていました。システム関係の専門書はカタカナ語が氾濫して、部外者には理解しにくくなっています。翻訳する人たちの漢字造語能力が明治時代の人たちに比べるとほとんど失われてしまったのではないかと心配になります。
 システム関係の専門書を翻訳するのは、専門知識がないとできませんから、理系の人です。日本語が得意な人は少ない、だから、漢字の熟語に翻訳ができなくてカタカナ語を頻繁に使うことになります。もう理系だ文系だと分けてはいけないのです。
 ところで、UNIXサーバがいいのかNTサーバーがいいのか、このころはぜんぜんわかりませんでした。パソコンの延長上のサーバには堅牢性の点で心配なところがありました。HP社のプログラマブル・カリュキュレータは制御用パソコンのダウンサイジングによって設計されたものでした。日本の電卓メーカもプログラマブル計算機を作っていましたが、関数電卓にプログラムメモリーをつけただけのおもちゃにしか見えませんでした。だから、パソコンサーバはシビアな業務には向かないだろうというのが、そのころのわたしの判断でした。

②Client Server  
 この本は数年前に棄ててしまったので、amazonで見つけた類似の本の画像を貼り付けておきます。これから3年間で蔵書の半分くらいを処分するつもりですから、こういうことが増えるのでしょう。
*http://www.amazon.co.jp/Client-Server-Managers-Guide-Shafe/dp/0201427907/ref=sr_1_62?s=english-books&ie=UTF8&qid=1464130027&sr=1-62&keywords=client+server+system

③Teach yourself  Borand C++4.5 in 21 days second edition  1995
  事務系言語しかやってことがなかったので、なんでもできるC++に興味がありました。コンパイラーも購入しました。

<学習すれば仕事が天から降ってくる>
 これらの知識は96年11月から帝人との治験合弁会社で管理担当取締役として総務部とシステム課が管掌になったので、その折にたいへんに役に立ちました。ラックにマウントした複数のNTサーバーですぐに管理システムを開発しています。仕事の指示はある程度知っていなければできません、必要になってからでは間に合わないのです。好奇心で業務に直接関係のない専門書を読んでいると、不思議とそれに関連する仕事やプロジェクトが舞い込みます。勉強が仕事を呼ぶのだと思います。2000人以上いる会社でも、理系と文系の境界を自由に行き来できる人材はまったく稀なのです。クロスオーバするその領域は競争相手がいません、only-one。
 システム技術者と専門用語を介してコミュニケーションできれば、話は速いのです。お互いに気持ちの良い仕事になります。余計な説明が要らないので短時間で密度の高いコミュニケーションが成立します。びっくりするほど短期間で完成度の高い仕事の成果が出ます。

 1984年の汎用大型機に搭載した統合システム開発までは自分で外部設計書を書きましたが、それ以降はありません。1997年1月に設立された帝人との治験検査合弁会社では管理担当取締役として、総務部門の他にシステム部門もマネジメントしていました。社内の治験検査管理システムとイントラネットはラックにパソコンサーバを複数台マウントして使っていました。
 そのころに、パソコンの並列処理と価格が数万円のハードディスクをレイドアレイ(Raid Alley)方式でドライブすることで、汎用大型機がパソコンサーバに変わっていきました。UNIXサーバはより信頼性の要求される分野へと棲み分けがなされていきました。
 84年には10億円もした汎用大型機よりもはるかに高性能なシステムが、パソコンの並列処理とハードディスクのレイドアレイ技術で実現できる時代になったのです。コストは1000~5000万円、価格破壊が起きたのです。

<最近の動向:ハードウェア今昔>
 1990年代中ころからすでにメインフレームの90%以上がUNIXサーバか業務用パソコンサーバに切り替わっています。2007年には業務用パソコン・サーバのシェアがUNIXサーバを上回りました。
(メインフレームは数が激減しましたが、シビアな業務で生き残っています)

 もう一つコスト比較のためにメモリーの価格を挙げておきます。84年に汎用大型機に3Mega byteのメインメモリーを増設し、5000万円支払いました。いま、増設メモリーは8 Gigaで800円くらいなものです。

 50,000,000円/3Mega=16,666/Mega
  800円/8,000 Mega=0.1/Mega

 32年間でメモリーの販売価格は1/166,666に下がっています。あなたは30年後の世界が予測できますか?

 CPUの処理能力が2年で2倍になり、メモリーも同じ速度で上昇すると仮定すると、30年後には「2^15=32,768」倍になります。スマホが現在の3.2万倍の処理能力とメモリーを内蔵する人工知能に進化して、ネットとつながっていたら、何が起きるか想像できますか?
 人工知能は30年以内に人間の知能を超えてしまいます。人間の知能を超えるというのは、「人間より進化した存在」あるいは「神」になるということです。株の売買はすでに数学的なプログラムで自動化されてなされています。政治や経済の判断すら人工知能にゆだねることになりかねません。
 百年後には、「1.126×10^15」(千兆)倍になります。指数関数的な変化は時間がたつにつれて、人間の想像を絶する変化をもたらします。
 際限のない欲望を自制しなけくても大丈夫なのでしょうか?原始仏教経典に小欲知足という言葉がありますが、そうしなければいけない段階に来てしまったように感じます。「言うは易し、行うは難し」です。コンピュータの発達をとめたほうがいいのでしょうが、もうとめられないでしょう。江戸末期から明治にかけて、お金に執着せずに世界中の尊敬を集めた日本人ですら、金の亡者に変わりつつあります。欲望の暴走がとめられません。

 小欲知足を可能にする経済学は「資本論と21世紀の経済学」という弊ブログのカテゴリーにまとめてあります。西洋の経済学の公理を日本的な仕事観に置き換えることで、まったく別な経済学が展望できます。人類の幸福実現のための経済学です。


*#3299 オモチャからわずか25年で汎用大型機を消滅させつつあるパソコンという怪物 May 23, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-05-22-1

 
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#3299 オモチャからわずか25年で汎用大型機を消滅させつつあるパソコンという怪物 May 23, 2016 [41. 科学・技術とその周辺]

<更新情報>
5/25 0時30分 92年に書いた文書で確認し、ラボ検査システムとして導入したUNIXマシンであるRS6000の条を追記
     1時 HP-67, HP97画像追記、<余談>追記

 1970年代から1990年代にかけて、25年ほどのパソコンの性能アップの状況を整理して、koderaさんのブログへコメントしました。

 koderaさんは(東大工学部機械工学⇒大学院工学系研究科機械工学専攻⇒)富士通でコンピュータの開発をしていた方です。富士通の後、シャープでワープロ「書院」の開発も担当しました。「書院」はベストセラーだった富士通の「OASIS」の後に出てきて、ずいぶん売れました。
 koderaさんはメーカ内部の事情をいろいろと書いてくれています。今書き残しておかないと、あの時代に開発の仕事に携わった人がこの世から次々とおさらばしていますので、その時代に生きていた人でないと書けない泥臭い話も含めていろいろなことがわからなくなります。大学生は研究開発志向が強い人が多いようですから、実際の開発現場がどのようなものであるか、参考になれば幸いです。コンピュータ開発をめぐる製造メーカ側の内部事情はkoderaさんのブログをお読みください。

 わたしは1979年から1999年までさまざまなタイプのコンピュータのユーザでしたから、ユーザ側から見た20年年史を語りたいと思います。
 産業用エレクトロニクスの輸入商社へ1979年に入社するとすぐに逆ポーランド記法の科学技術計算用プログラマブル・キャリュキュレータ(HP社製、HP67とプリンタ付のHP97)とCOOLというダイレクトアドレッシング言語で動くオフコン(三菱電機)でプログラミングを独習し、1980年にコンパイラ言語の汎用小型機(三菱電機)のプログラミング言語(PROGRESSⅡ)もマスターしました。IBMのRPGⅡと同種の言語でした。最初に独習したのが科学技術計算専用の言語、次に事務系のアッセンブラ級の原始的な事務系言語と事務系コンパイラー言語を学んだということになります。事務系の言語は3日間の講習に行かせてもらいました。仕事上必要に迫られて修得したプログラミング言語は三つ。
 ①逆ポーランド方式の科学技術計算用言語
 ②COOL: 三菱電機のオフコン用言語 12桁の数字によるダイレクトアドレッシング
 ③PROGLESSⅡ:三菱電機汎用小型機用のコンパイラー言語
 90年代半ばにパソコン用言語の「C++」を学びたかったが、仕事上の機会がありませんでした。
*HP67, HP97画像
「hp67」の画像検索結果HP-67

「hp97」の画像検索結果HP-97

(入社して、電卓を使って統計計算をして経営分析をしていたら、1ヵ月後に社長が米国出張から戻ると机の上にHP67がありました。秘書に訊くと「社長がebisuさんにって、仰ってました」との返事。この計算機はカードにプログラムやデータが記録できます。標準の統計計算は頭の部分にROMのスロットが二つあって、そこに統計アプリROMを差し込みます。統計アプリと数学アプリを使っていました。HP97は入社して2.5ヶ月後に社長が米国出張で買ってきてくれました。HP97は当時の価格で22万円もしましたから、ずいぶん気前の良い社長でした。作成したプログラムや入力データをプリントアウトしてチェックできるので、ずいぶん楽になりました。「5ディメンション25ゲージの経営分析用レーダーチャート」に使う数値を計算するのに丸1日かっていましたが、この計算機のお陰で30分で完了、オフコンのプログラミングに手を出す余裕やシステム開発関係の専門書を十数冊読む余裕が生まれました。)

 産業用エレクトロニクス輸入商社へ入社してすぐに、メンバーが役員と部長そして課長2名の6つの委員会に属して、そちらの仕事をほとんど一人でやっていました。財務委員会、資金投資委員会、長期計画委員会、収益見通し及び経営分析委員会、為替対策委員会、電算処理委員会の6つ。利益重点営業委員会だけメンバーではありませんでしたが、為替レートの変動に合わせて円定価表を作成・四半期ごとに改訂するというシステム化課題が明確になっていたので、メンバーの営業課長のE藤さんとわたしの仕事になっていました。
 これらの7委員会の目的は、具体的なデータ分析をして、会社の強みと弱点を洗い出し、財務体質と利益構造を変革する具体的な提案をオーナ社長の関さんにすることでした。3番目までの委員会は社長自ら委員長として指揮しました。20代後半にこういう大きな仕事を課題を明確にして担わせてくれた関周社長に感謝です。大きな仕事をいくつもこなすチャンスがあったので、仕事のスキルが飛躍的に上がってしまったのです
 この会社では6つの委員会の仕事と予算編成と予算管理がわたしのルーチン業務でしたが、1年後にはコンピュータの管理とシステム開発の仕事が追加されました。月のうち半分くらいは終電で帰宅という状態でしたが、大きな仕事を一人でいくつも任され、スキルがガンガン上がっていくので楽しかった。
 1984年に規模が10倍ほどの企業である国内最大手の臨床検査センター、SRLへ東証Ⅱ部上場準備要員として転職し、当時国内最大クラスの汎用大型機(富士通、買い取り価格10億円、1台は買取、1台はレンタル、計2台。3MegaのMM増設に5000万円)を使って、仕事の半分くらいの時間を投入して統合システム開発をしました。1984年末まではシステム開発が仕事の半分でした。残りは予算編成と予算管理、そして大きな費目のコストカット提案がわたしの業務でした。
 その後の大きなシステム開発は、千葉の臨床検査子会社のラボシステム開発に親会社の関係会社管理部として1992年に関わったのが最後です。仕事の精度と生産性を4倍に上げることで簡単に黒字転換できました。受付・報告系にIBMのAS400(IBMのRDBマシン、システム38の後継機である、ユーザー部門に使い勝手の良いマシンである)とラボ検査系にRS6000(IBMのUNIXサーバー)を使用しました。ラボシステムはRDBマシンでは無理、検査機器とのインターフェイスや制御をやるにはUNIXマシンが最適でした。それまで1台のホストコンピュータによる処理だったのを、2台の汎用小型機で用途別に分散処理に替えました。
 (資料:1992年8月20日付けRef.#SM(I)-303)

 この後のシステム関係の仕事は1990年代後半に帝人との臨床治験検査合弁会社でシステム部門がわたしの管理下にあっただけで、仕事の指示はしましたが、取締役ですからわたしが実務を担うことはなくなっていました。このときには業務用パソコンを数台をラックにマウントする形のサーバー・コンピュータを使用してました。ディスクもテラバイト単位でした。イントラネットが整備され、パソコンが業務の中心にありました。
 職位が上がるのは権限が大きくなってやりたいことがやれるので、うれしいことではありますが、マネジメントが仕事の主体になり、実務を直接担当できなくなるという寂しい話も裏側にはあります。仕事上の役割が違ってしまいます。サーバがパソコン中心のシステム構成になったところからは、わたしはシステム開発や管理の実務にタッチしておりません。ずっとやっていたかった。SRL八王子ラボで購買課でシステム管理と機器購入担当、その後の89年に学術開発本部スタッフとして開発部(製薬メーカとの検査試薬の共同開発及び共同開発業務の標準化担当、米軍との母体血によるトリプルマーカ検査(MoM値:出生前診断検査)システム開発、慶応大学病院と出生前診断産学共同プロジェクトのコーディネイト(製薬メーカ2社に3種類の検査試薬各々3000テスト分を無償提供してもらいました。))学術情報部(海外のお客様のラボ見学案内担当及び臨床病理学会との臨床検査項目コード標準化に関する産学共同プロジェクト)精度保証部(米国制度管理基準CAPライセンス関係業務お手伝い)の三つの部門それぞれの仕事を担当していましたが、本音は一度自分の手で検査業務をしてみたかったのです。でも、やらせてもらえませんでした。入社してすぐに、2年間全社予算編成を統括していたので、現場の仕事をさせてくれません、東証Ⅱ部上場準備要員としてとくにシステム開発能力に期待して35歳のわたしを雇ったのですから、当然といえば当然ですが、臨床検査業の会社で検査を自分の手でやらないとわかった気がしなかったのです。原価計算システムでそれまでの学説をひっくり返すような画期的な利益思考のシミュレーションシステムを構想していましたから、3ヶ月ごとに4種類の検査部門で検査業務をやってみたかったのです、機会がありませんでした。

 1984年当時は富士通の汎用大型機はCOBOLで動いていましたが、外部仕様書やプログラミング仕様書を書き、新しい事務フロー・デザイン、つまり外部設計をしただけで、COBOLでコーディングをやる機会がありませんでした。SRLにはシステム開発に失敗して使えなかったDECの最新(1984年当時)ミニコンも2台あったし、腕を磨くために自分でプログラミングをしていろいろ試してみたいことがありました。事務用の言語では統計計算処理が絡むシステム開発に使い勝手の点で限界を感じていました。だからC言語でDECのミニコンを使ってみたかったのです。汎用大型機の事務用言語で処理したデータを使って、経営分析用の統計計算処理をミニコン側でやる、そういう処理系を考えていました。結局は、パソコンの性能アップで、ラックにマウントされた数台のサーバの並列処理で全部のデータ処理が扱えるように(1990年代後半)変わってしまいました。
 1984年の統合システム開発は、わたしが会計システムと支払管理システム、固定資産管理システムの3つの外部設計と実務設計を担当し、内部設計とプログラミングはNCDさんへ委託。当初はCOBOLでつくったシステムを翌年(1985)にEASY-TRIEVEという簡易言語で書き直しました。そちらの方が処理時間が短縮できました。プログラミング効率がよいだけでなく、マシン語にコンパイルしたときにコンパクトになるような高性能の言語だったようです。実際にバッチ処理時間が短縮できました。
 84年4月に開発をスタートさせ、12月から本稼動した統合システムは、以前からあった業務システム、ラボシステム(臨床検査サブシステム)に、新たに原価計算システム、購買在庫管理システム、販売管理(請求)システム、予算サブシステム、会計システム、支払いシステム、固定資産管理(投資案件と予定減価償却費シミュレーションも含む)システムを構築し、これら9個のシステムがインターフェイスするものでした。後ろの3システムと会計情報システムと各システムとのインターフェイス仕様書作成もわたしの担当でした。1週間で書き上げました。
 当時はまだパソコンが仕事で使えるほどの性能ではなかったので、汎用大型機でのバッチ処理システムでした。ワープロ専用機が出て4年目くらいのことです。最初のころのワープロ専用機はA4版が縦に表示できるもので、1980年ころ200万円もしていたのです。10年で1/20に価格が下がったことになります。1980年当時は順番待ちで営業事務に使っていました。お客様への見積書や提案書作成用でした。わたしは使わせてもらえず、手書きで文書作成をしていました。四半期ごとの経営分析レポートも、さまざまな統計グラフも、納期管理システムの外部設計書も、外貨決済と為替予約を含む外国為替管理システム仕様書も、何から何まで手書きで資料をつくっていました。
 経営分析の計算業務は1979年から科学技術計算用のHP67とHP97を使って統計計算プログラミングをしてました。標準偏差を利用したモデル計算に基づく、5ディメンション・25ゲージのレーダチャートも手書きでした。この2台の計算機がなければ仕事量は半分以下だったでしょう。この経営分析システムはSRLで関係者管理部へ異動したときに、EXCELに載せ替えました。子会社や買収対象の臨床検査会社の評価に使いました。じつに強力でした。
 富士通のワープロ専用機OASISを自費購入して仕事に使い始めたのが1990年ころのことです。生産性が上がって、文書作成量が5倍くらいに増えました。思いつくままにタイピングしてから後編集(あとへんしゅう)できるので、構成を考えずに書き進めるからだろうと思います。タイピングしているうちに全体の構成が頭の中でまとまりだします。
 20歳中ころに修士論文にドイツ語文献を引用するために、ドイツ製かスイス製のオリンピア*という欧文タイプライターを購入してタイピング・トレーニングをしたことがあったので、10本指で高速タイピングが可能でした。90年に41歳、20代の人が「ebisuさんどうしてそんなに速いのですか?」と吃驚(びっくり)していました。同じくらいの年頃に人は左右1本指でキーを叩くような人までいましたから。ビリヤードや珠算と同じで、こういう手の技は基本に忠実なトレーニング(毎日30分ほど、3ヶ月くらい)やるのが、効果的です。いまでは高校でタイピングのトレーニングをしているようです。ワープロ検定というのがある、便利になりました。

*OLIMPIA typewriter 画像 ⇒これです!頑丈なタイプライターでした、見た目の堅牢性と色とフォルムの美しさからインテリアとして小道具に使えます。
http://www.mbok.jp/item/item_339311138.html


 思いつくままに書いているので話が前後して申し訳ありません、それぞれに年を入れておくので、時間軸を行ったり来たりするのはご寛恕ください。
 最初にパソコンに出会ったのは1979年でしたが、コモドール社製のもので、まるでオモチャでした。キーを押すと、いくつか持ち上がって元に戻らないような代物でした。産業用エレクトロニクス輸入商社の技術部の中臣さんという課長に教えてもらいました。画面にコマンドを表示させて、数十ステップのプログラミンをするだけ、こんなものは20年たっても仕事では使えないと思いました。国産のワープロ専用機のキーボードは実に性能が良くて、キーに不具合なんで起きたことがありませんでした。日本製品はメカニカルな部分は比べ斧にならないほど品質がよかった。
 でも、会社の技術部にはHP社のマイクロ波計測器制御用の高性能パソコンが何台も転がっていました。双方向のインターフェイスバス(GPIB)が標準装備で150~200万円ほどしていました。4色プロッターが200万円でした。ほしかったのですが、80年ころは買ってもらえませんでした。

 そのころからCPUの速度とMM(Main Memory)に使われていたROMやRAMの集積度が2年で4倍に指数関数的に上がっていたのですが、ハードウェアの高性能化に対応したソフトが開発されて、WORDやEXCELが出てきて、ワープロ専用機が15年後に消滅するとは、誰も考えられなかったでしょう。指数関数的な変化はどこかで人間の想像力の限界を振り切ってしまうようです。その変化はこれから30年間、想像を絶するほど人工知能の性能をアップしてしまうでしょう。ハードウェアの性能アップとソフトウェアの性能アップと、ビッグデータが「三種の神器」となっていますが、もっと強力なアイテムがこれから30年間のうちに現れます。それが何かを人間の知能が予測することができない。人類が滅亡しかねないほど怖いことになります。

 koderaさんは富士通と第五世代コンピュータ開発技術研究組合で実際の議論に加わっていた人です。面白いですから、このころのコンピュータの加速的な性能アップに興味がある方はkoderaさんのブログをお読みください。
 米国にはスティーブ・ジョブスやビル・ゲイツに匹敵する有能な人たちが輩出していましたし、日本でも似たような状況がありました。でも、結果が違います。koderaさんはその原因にも言及しています。

 記事のタイトルをリストアップしておきます。クリックするとkoderaさんのブログへジャンプします。

 ebisu先生への返信


 スモールビジネスコンピュータ登場前夜の状況
 

 自分の記事が面白い

 システム工学は説得工学

 新任課長と新任研究部長の思い出

 書きたいことは2ケタ上

 新しい事業部長

 シャープの独身寮の思いで 

 
オフィスオートメーション機器開発時代


<余談>
 産業用エレクトロニクス輸入商社時代から、自分が発信した文書は管理番号を振り、発信日付を付して、日付順にファイルしてあります。それは臨床検査会社SRLへ入社してからも同じですから、必要のある都度、ファイルから取り出して確認できます。
 SRL時代の分だけで8cmの暑さのファイルが6冊ほどあります。産業用エレクトロニクス時代の発信文書はほとんど棄ててしまいました。


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#3286 謎 : X線観測衛星ひとみ   May 11, 2016 [41. 科学・技術とその周辺]

 X線天文観測衛星「ひとみ」が観測準備中に壊れて観測ができなくなりました。回転を始めたので、姿勢制御プログラムで逆の方向へ噴射を行い静止させようとしたら、回転方向へ加速してしまいました。大きな太陽電池パネルが2枚開いていますから、遠心力で千切れ飛んだようです。
 どこが壊れたかというとJAXAの報告書ではパドル(paddle)部分です。パドルはボートの櫂(かい)のことですから、櫂の先端に大きく広がった太陽電池パネルがついていると想像してください。人間の身体にたとえると、腕と掌(てのひら)です。腕がパドルで掌が太陽電池です。回転速度が増して遠心力が大きくなり、細いパドル部分が壊れて太陽電池が人工衛星から千切れ飛んでしまいました。
 600億円ほどがパーになってしまいました、しかたないですね。

 ブラックホールから、X線が出ているそうですが、可視光線はブラックホールの重力につかまり、外側に出てこれないのに、なぜそれよりも波長の短いX線なら出てこれるのかわたしには謎です。波長が短くなると重力の影響が薄まるのでしょうか?どなたか教えてください。m(_ _)m

 「ひとみ」には「X線マイクロカロリーメータ」という世界最高の分光性能をもつ機器が搭載されていました。
 不思議な名前です。マイクロカロリーとなっているので、微小なエネルギーを検出できるメータ(計器)ということのようです。軟γ線に関係あるのでしょう。軟γ線がエネルギー単位で分類できるようですから、それと関係がありそうです。

 日本は天文学とか、宇宙物理学とかこういう方面ではなかなかやりますね。理論物理学が世界最先端であるだけでなく、実験レベルでそれを支える分光技術や光電子倍増管製造技術で世界の最先端を走るメーカがあるからです。
 搭載されていたディテクター(detector:検出器)は3種類、補足できる周波数帯域は軟X線⇒軟γ線をカバーしています。

*JAXA「X線天文衛星ひとみ」の解説
http://www.jaxa.jp/projects/sat/astro_h/


 ネットで検索すると、X線の波長域は1pm~10nmです。ピコ(10^-12)とかナノ(10^-9)ですから小さい単位です。軟γ線はそれよりも一桁小さいので、10^-13から10^-8ですから、検出幅がずいぶん広いですね。これで分光の分解能が高ければいったいどのような画像が見られるのでしょう。人類がまだ見たことのない未知の領域の画像です。

 可視光線の範囲内の望遠鏡では見ることのできないブラックホールが放出するX線を観測できます。コンピュータでいかようにも色づけできるので、ブラックホールの画像を見てみたいものです。軟X線から軟γ線まで周波数域を変えてスキャンしていったらどのよう変化が画像に見られるのか楽しみです。
 軟γ線はX線よりも一桁波長が短いようです。中性子星が軟ガンマ線のバーストを繰り返す(SGR:Soft-Gamma Repeater)ことが知られているので、中性子星観測用のディテクターのようです。

 太陽電池パネルがちぎれとんだのは、人為的なミスが重なったためだとJAXAは説明しています。どのようなプロジェクトでもミスは起こりえますから、それに対して事前のチェック体制がどうだったのか、そしてミスが起きたときの対処についてもチェックが行き届いていたのかどうかが問題になりそうです。JAXAにはどうもマネジメント上の問題があるようです。

 STAP細胞問題では理化学研究所のマネジメント体制上の問題が、小保方さんという特定の個人へすりかえられたように感じます。

*「STAP問題の元凶は若山教授だと判明…恣意的な研究を主導、全責任を小保方氏に背負わせ 」
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/stap%e5%95%8f%e9%a1%8c%e3%81%ae%e5%85%83%e5%87%b6%e3%81%af%e8%8b%a5%e5%b1%b1%e6%95%99%e6%8e%88%e3%81%a0%e3%81%a8%e5%88%a4%e6%98%8e%e2%80%a6%e6%81%a3%e6%84%8f%e7%9a%84%e3%81%aa%e7%a0%94%e7%a9%b6%e3%82%92%e4%b8%bb%e5%b0%8e%e3%80%81%e5%85%a8%e8%b2%ac%e4%bb%bb%e3%82%92%e5%b0%8f%e4%bf%9d%e6%96%b9%e6%b0%8f%e3%81%ab%e8%83%8c%e8%b2%a0%e3%82%8f%e3%81%9b/ar-BBq0tU0#page=2
 
* #2646 STASP細胞狂想曲 笹井芳樹氏の弁明  Apr. 17, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-17

 #2761 嘆かわしいのは上司の腹の細さ:笹井氏自殺  Aug. 7, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-08-07


 X線天体衛星は学術的な意義の大きなプロジェクトですから、JAXAは問題をすりかえることなく解明し、次の打ち上げに生かしてもらいたいと思います。

<余談:マネジメント>
 理研の理事長はノーベル賞受賞者、不幸にしてなくなられた発生・再生科学総合研究センター副センター長の笹井芳樹さんもノーベル賞候補者の一人でありました。上司が研究で業績を挙げた人でないと、現場で使われる研究者は納得しません。技術屋は自分よりも腕が下だと判断したらついていかないものです。日本には職人文化がありますから、腕のよい職人は腕のよい親方の下でしか働かない。腕のよい親方だけが、腕のよい職人を育てられるということでしょう。そこがむずかしいところです。

 ところが、有能な研究者がマネジメントでも有能かというとそうではありません、マネジメントにおいては凡人がほとんどです。
 有能な研究者の出現確率が1/1,000,000、有能なマネジャーの出現確率が1/1000とすると、有能な研究者にして有能なマネジャーは十億分の1になります。つまり、そういう能力の持ち主はいないに等しいということです。
 だから、研究者で高いマネジメントの地位についた人は、マネジメント能力の高い人を自分のそばに置かなければなりません。理研はいまだにそういう配慮がなされていないのではないでしょうか?
 JAXAは大丈夫だろうか?というのがわたしの懸念です。

<余談-2:門前の小僧と結石検査ロボット>
 世界最先端の産業用マイクロ波計測器を取り扱っていた輸入商社に5年間いたので、マイクロ波計測器やミリ波計測器の原理については社内で毎月開かれた講習会に出席していたので、文科系のわたしでも、五年間60回も東北大学の助教授の講義を聴く続けたら多少知るところとなります。「門前の小僧習わぬ経を読む」の類です。

 マイクロ波>ミリ波>可視光線>赤外線>紫外線>X線

 γ線⇒β線⇒α線

 このように電磁波は順次波長が短くなります。
 γ線は原子核由来、X線は核外電子由来で、光子あるいは電磁波。
 ネット検索してみたら、β線とα線は粒子線としてとらえるべきだと書いてありました。物理って面白そうですね。来年、暇を見つけて勉強してみようと思っています。

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アルファ線α線アルファ線は、放射線の一種で、陽子2個と中性子2個からなるヘリウムの原子核と同じ構造の粒子である。 物質を通り抜ける力は弱く、衝突した相手を電離する能力が高いため、自分の持つエネルギーを急速に失ない空気中では数センチメートルしか進めず、紙一枚程度で止めることができる。

アルファ線とは - 環境用語 Weblio辞書

www.weblio.jp/content/アルファ線

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  SRL八王子ラボRI部で使用していたγカウンタは、放射性ヨードで標識した抗体を使っていました。半減期が短いので、今日検査したものと昨日のではコンピュータソフトでデータ補正をしないと比較ができません。統計学的品質管理システムがミニコンで稼動していました。

  ところで、計測器は①ディテクター(検出器)と②制御部及びデータ処理部(コンピュータとソフトの受け持ち分野)、③インターフェイスの3つの部分から構成されていますから、どういう種類の計測器もたいした違いはないのです。ディテクトする周波数域が異なるだけです。
 業界最大手の臨床検査会社SRLでは2年間ほど八王子ラボの機器を担当していたので、世界中で作られているさまざまな分野の高性能臨床検査機器を扱いました。理解できるか否かは脇においておいて、チャンスですからカタログを見て、スペックを確認し、実物を見、設置した後に稼働状況を確認していました。その製品に関する学術文献がほしければ、メーカの営業担当にお願いするとコピーをとってもってきてくれます、役得です。
 分光光度計の国内トップメーカの日本分光とも取引がありました。電子顕微鏡や赤外分光光度計が八王子ラボにはありました。
 1988年頃に3台導入した英国製の染色体画像解析装置は日本分光の輸入子会社(日本分光輸入販売株式会社)から購入しました。日本分光の赤外分光光度計は、結石の検査に使っていました。八王子ラボとある機械メーカさんとで独自開発したアームロボットで五円玉状の金属板の中心部分に、砕いて粉にした結石材料をつめて固める過程を自動化したのです。これはラボ見学で評判がよかった。臼状の穴が10個ほど開けられた金属プレートの中で砕いた後、特殊なブレードで臼からはがして五円玉状の金属の中心にに詰めて固めます。ブレードの形状を20種類以上変えて、きれいに取り出せるのはどれかと検討しました。開発を担当した会社の社長がとても腕のよい、そして熱心な技術屋さんでした。とてもいいものを開発してくれました。このロボットの開発で結石検査の生産性が10倍くらいに上がりました。
 染色体画像解析装置も結石ロボットも検査管理部で検査部と業者の技術者の橋渡しを担当したのはO形さんです。なかなか優秀な人で、後に購買課長になっています。たしか、室蘭工大の出身でした。こういう人たちと仕事するのはとっても楽しい。何がおきるかわからない、ドキドキハラハラが続きますが、最後はなんとかしてしまうのです。(笑)
 日本の技術はこういう現場の力で支えられているのでしょう。


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