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#5022 北方領土返還:いまになって気がついたこと Jul. 23, 2023 [21. 北方領土]

 ある理由があって北方領土返還運動には距離を置いてきました。

 お袋は択捉島で育ち、終戦のときには根室に住み、働いていました。だから「元島民」ではないのです。千島歯舞諸島居住者連盟という北方領土返還運動団体がありますが、彼らがいう「元島民」とは終戦時に北方領土に住んでいた人たちだけです。この定義が、北方領土を故郷とする人々を分断した、排他的で狭量なものに見えていました。

 わたしはいま東京に住んでいますが、古里は根室です、根室で生まれて根室高校を卒業した18歳まで根室で育ちましたから、「元根室市民」「根室っ子」です。
 おまえはいま東京に住んでいるから「元根室市民」ではないというのと同じに聞こえるのです。だから「元島民」という千島歯舞居住者連盟の定義には違和感があります。

 択捉島蘂取村で生まれて育ったお袋は、北方領土返還運動とは距離を置いていました。
 秋になると蘂取村の前浜に流れ込む川に、鮭がびっしり上ってきて、手で掬い上げられるほど魚影が濃い、竹竿を立てても倒れないくらいたくさんの鮭が遡上してくる。兄が鮭を手で掬い上げてイクラをとるのですが、「そんなにとっても腐るだけだから、それくらいにしたら?」と声をかけます。そんな話をするときにお袋はとってもうれしそうでした。
 漁獲量は根室の3倍もあったそうですから、文字通り「宝島」でした。腕の良い青森の出稼ぎ漁師だった母方の父が、まだらボケが始まってしばらくしてから、「宝島」だと懐かしそうに話していました。青森の両親の具合が悪くなり、農業を手伝うために択捉島を離れて戻らざる得ませんでした。その後母親は再婚します。漁場の権利があるので、そうせざるを得なかったようです。漁獲量が大きいことが災いしています。そして十数年、青森の父親とは音信が途絶えます。あいにくと根室に働きに出る前に、択捉の両親は相次いで亡くなります。
 お袋は根室空襲で焼け出されたときには、「パンツの替えも持ち出せなかった」と言ってました。500人の死者が出たそうですが、リヤカーにご遺体を載せて運ぶのを数日間手伝ったそうです。火葬にはできなくて弥生町の浜から海へ流しました。小学生の頃にあの浜で遊ぶと人骨らしき白いものが砂や小石に混ざっていました。母の兄は満州で侵攻してきたソ連軍と戦って戦死してますから、21歳の女の子が一人で終戦後を生き抜いてきたのです。だから、苦労したのは「元島民」だけではないと思っていたはず。

 叔母の動画や小学校の先生だった岩田宏一さんの動画を見ました。敗戦の後にソ連軍が入ってくる、そして強制労働がはじまる。叔母は国民学校の1年生でしたから強制労働の対象外でしたが、十代の叔父貴は漁労(ノルマのある強制労働)に駆り立てられました。1年数か月後に食糧がなくて窮乏化が著しくなったころに、引き揚げが決まり、輸送船が蘂取村に着くと、大きな網の中に荷物を入れて、その上に子供や年寄りが載せられ、周りを大人たちが囲むように網に張り付き、ウィンチで船上に引き揚げられたそうです。持ち揚げるときに網はすぼまりますから、荷物や網に押し付けられて顔がしばらく腫れあがった。
 根室へ輸送されるかと思ったら、韃靼(間宮)海峡を渡って樺太の真岡の収容所に運ばれたことを着いてから知ります。トイレは別棟につくられており、深い穴に板を渡してあるだけ。子どもや年寄りがふらついて何人も落ちます。ほとんど助からなかった。だから、「子供は一人でトイレに行ってはいけない」と言われていたそうです。
 友だちや知っている人たちが栄養失調で次々に死んでいく。やったことのない木材伐採作業で、やり方を知らないものだから、倒れてくる方向にいた人は下敷きになって何人も死んでいます。死んだ赤ん坊を抱いたお母さんの話が出てきます。ソ連兵に赤ん坊が死んでいるとわかれば、おいてこなければならない、函館に着いてから泣いています。
 そういう経験をして、同じ船で函館に着く。財産も何もない、どうしていいのかわからない不安を抱えていました。根室空襲に遭ったお袋と一緒の気持ちだったでしょう。同じだったのですよ。

 異常な経験をして、同じ強制収容所で暮らし、友人や知人が栄養失調や肺結核で死んでいく中で生き延び、同じ船で戻ってきた。引き揚げ者たちが「引き揚げ者」あるいは「元島民」というひとつのコミュニティを形成したのはむしろ当然の成り行きだったでしょう。「元島民」の定義をいま読むと、そういうことがよくわかります
 叔母もお袋も形は違えど同じ苦労を乗り越えてきたことが、いまはよくわかります

 敗戦という過酷な時代を生き抜いてきた叔母やお袋、戦死した人、引き揚げる途中で命を落とした人、無事支那から引き揚げてきた人たち、そういう人たちが、灰燼に帰した街を作り直してきた。団塊世代はそうした努力の上に高度成長期の時代に社会人となることができました。忘れてはならないことです。

 お袋は、兄が満州の荒野でソ連軍と戦って戦死しています。オヤジは落下傘部隊の生き残りで、「加藤隼戦闘隊」という戦時宣伝映画撮影時の事故で、飛行機から飛び出すときに主導索にひっかけて右腕複雑骨折してました。お見合いの時に箸はもてますが、腕が上がらず、口を箸のところまで持って行って食べたそうです。それを見て、お袋はこの人と結婚しようと決めたそうです。怪我をした兵隊さんのお嫁さんになろうと。
(終戦後の食糧難の時代に、オヤジは富良野で農産物を買い付けて根室で売っていたことがあります。富良野の映画館でヤクザに絡まれ、トイレに連れ込まれて、数分後に甥っ子のノボルさんが行ったときに、5人とも床に転がっていたそうです。右腕は上がらないので左腕一本でやつけてしまった。それ以降、富良野のヤクザは通りで出会うと、道をさっと開けたとノボルさん。オヤジの葬式の晩に楽しそうに話してくれました。ボクシングをしていたし、落下傘部隊員は正規兵を同時に3人相手にできるほど精鋭だったのです。小学生低学年のころから手刀や拳で焚き付けを割っていたわたしにボクシングは教えてくれませんでした(が、男の孫には教えたようです)。何年間も数千本の焚き付けを叩き折ってましたから、拳や手刀が固かったので、わたしにボクシングを教えたら人殺しになるとでも思っていたのかもしれません。無心に手刀や拳で焚き付け割りをしている横を通りかかっても何にも言いません。若気の至りで、十代の時に人を殴ったことがあるそうで、数年後にその人にあったら歯がぞっくり金歯になっていたと、そんな話を聞いたことがありました。オヤジが怒る理由はあったのですが、後味の悪いものだと言ってました。高校を卒業した年に新宿でパンチボールを叩いたことがありますが、踏み込まないで腰のひねりだけで180kgありました。握力の65㎏は40歳過ぎてもかわりませんでした。プロのボクサー並みの打撃力ですから、半がわきの焚き付けを折るようなタイミングで、人の顔面殴ったら粉砕骨折です。踏み込んだら250㎏くらいの衝撃はあったでしょう。硬い拳で怒りに任せて殴ったら、殺しかねないので、人を叩いたことがありません。加減ができません。
 ヤクザの親分のTさん、ビリヤード店の常連でした。オヤジに対する言葉と態度が丁寧なので、不思議に思ってどういう知り合いか訊いてみたことがあります。終戦間もなくのころ、根室で地元のヤクザの若頭に松の湯で目があってしまい、「表に出ろ」ということがあったとオヤジ。それがTさんとの出遭い、続きは笑って話してくれませんでした。旭川の甥っ子のノボルさんにオヤジの葬式の時にそんな話をしたら、にやっと笑って、富良野での一件を話してくれました。Tさんはお袋のことを「姉さん」と呼んでいました。いえ、決してご同業ではありません。Tさんがビリヤード店への出入りを許したのは幹部の4人だけでした。「ここは〇〇さんの店だ、お前たちは出入りはなんねえ」、そう言いました。けじめのはっきりした人でした。チンピラと違って素人を威嚇するようなことはありません。とっても礼儀正しいのです。お店の雰囲気はお客がつくります)

 岩田先生(姉の小学校の担任でした)は亡くなる数年前に、花咲町の自宅まで話においでと言ってましたが、その内にと思っているうちに、訃報に接しました。奥さんが厚岸の親戚の「てっちゃん」と根室中学の同級生でした。
 歯舞諸島出身で引き揚げ者の一人である柏原栄先生がご存命です。柏原先生は、花咲小学校⇒光洋中学校⇒根室高校と団塊世代のわたしたちと一緒に勤務先が変わっています。元予科練、終戦が少し遅ければ、土浦航空隊へ配属で特攻兵として飛行訓練を受けるところでした。大学の指導教官の市倉宏祐教授(哲学)が土浦で予科練の少年兵に操縦を教えていました。ゼロ戦の操縦を教えるのですから、「優秀な若者ばかりだった」とそうおっしゃっていました。
 カテゴリー「1.特攻の記録:縁路面に座って」に市倉先生の遺稿を全文掲載してあります。哲学者による唯一の特攻の記録です。

 動画 岩田宏一
 動画 鈴木咲子

<余談:四島一括返還>
 叔母と言っても10歳しか離れていないので、「歳の離れたお姉さん」でした。
 インタビューの最後のところで、四島一括返還を主張しています。2島なんて言ったら、永久に国後島と択捉島が返ってこないし、ロシアは約束を守らないとも言ってました。全面的に賛成です。ビザなし交流の欺瞞性にも触れています。どうやら、千島歯舞居住者連盟の中でも意見はさまざまなようです。少し年の離れたお姉さんと、距離が縮まった気がします。


#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06


#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題: 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-14


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#5021 北方領土返還と日米合同委員会での基地提供の取り決め Jul. 23, 2023 [21. 北方領土]

 日米地位協定に基づく「日米合同委員会」という組織がある。米軍と日本のさまざまな省庁の官僚たちで構成されている委員会であるが、そこでの決定事項は、両方の合意がない限り一切公表されないことになっている。

 1983年12月に作成された外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル「日米地位協定の考え方」に次の2項が載せられている。
●アメリカは日本国内のどんな場所にでも基地にしたいと要求することができる
●日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない

 つまり、北方領土が返還された場合に、日本は米国が北方領土に基地を置くと主張したら、それを拒否できないのである。プーチン・安倍会談は20回ほど行われたが、この日米地位協定運用に基づく取り決めが障害になって領土返還交渉が途絶した。

 この密約解消を日本の総理大臣が主張したら、半年後にはその地位を失うだろう。米国のインテリジェンスは権力もカネも巨大である。

 プーチンは憲法を改正して、領土の割譲ができない旨を書き入れたので、ロシア側も北方領土返還には憲法改正手続きが必要になった。ロシア外交はしたたかである、お人よしでは戦えない。

 千島歯舞居住者連盟は、日米合同委員会で取り決められている、基地提供への拒否権放棄を是正すべきと、政府に要請すべきである。北方領土返還交渉を具体的に進めるには、障害を一つずつ取り払っていかなければならない。

 根室支庁管内1市4町(根室市、別海町、中標津町、標津町、羅臼町)の市議会あるいは町議会へ、北方領土が返還されても、そこに米軍基地は置かないことを政府に要請する案を提出したらいい。決議できてもできなくても、マスコミが飛びつく。さざ波を立てることくらいはできる。


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#4910 老害:国会議員は70歳定年でいいのでは? Jan. 17, 2023 [21. 北方領土]

 この人は一体何がしたいのだろう?

 2005年に新党大地という政党を立ち上げ、9年間公民権が停止になった後、自分の党からは当選できないと判断したのか、2019年に日本維新の会の参議院比例区で出馬、現参議院議員である。
 厚顔無恥と老害を絵にかいたような御仁に見える。
 1948年1月31日の生まれ、団塊世代のわたしより一つ上。

 ロシアのウクライナ侵攻について、ウクライナの被害は報じられるが、ロシア兵やロシア人の死者数が報じられないのは、不公平だとがなっている
 ロシア自身がロシア兵の死亡者数を以上に過少に報じているから、そんなものをそのまま報じれば、ロシアのプロパガンダの片棒を担ぐことになると私には思えるのだが、彼には不公平に見えるということらしい。中国の「コロナ死者数38人」というのと同類のプロパガンダだろう。昨日、最近一か月間で60000人弱の死亡者数だと中国当局が公表した。コロナ死亡者数の定義を変えれば数字はその都度動く。定義を公表しないと何を公表しているのかすらわからぬ。
 彼はロシアのウクライナ侵攻では、ひたすら「ロシアの代弁者」を演じている。

 そういえば、この人は北方領土問題でも、歯舞諸島と色丹島の2島返還(四島の7%の面積、国後島と択捉島の2島で93%を占める)を強硬に主張し続けていた。この主張は日本の国益に反する。日本は発言が自由の国だから、何を発言しても法律的な問題は生じない。だから、彼はロシアの代弁者といっていい政治活動をもう40年やっている。70歳をとっくに過ぎたのだから、いさぎよく引退なさったらいかが?

 引き際を法律で縛るわけにもいかないとすれば、あとは政治家の良識あるのみだが、良識を欠いた政治家が多いから、皆さん引退の時期の判断を誤る。
 自民党国会議員は70歳定年制を敷いたはずだが、中曽根元総理が、その禁を破った。麻生氏は80歳を過ぎてもいまだに居座る、地位と権力への妄執から逃れられない、情けないね。

 わが古里、根室には建築業界を中心に根強い支持者がいるという。政治家になった娘の貴子さんがかわいそうだ。新党大地から民主党へ、そして自民党へとオヤジの都合で振り回されている。あのバカオヤジが余計な口出ししなければ、政治家としてはまっすぐに伸びたかもしれない。

*「#3856 日露平和条約:国後島と択捉島は北方領土の93%」

 択捉島(3184平方キロ)は沖縄本島(1206平方キロ)の2.5倍もあるのです。


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#4894 ウクライナを侵略したロシアの理屈 Dec. 16, 2022 [21. 北方領土]

占領した領土に対するロシアの言い分が載っていたので紹介したい。 昨日の読売新聞の記事から抜粋。

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 タス通信によると、ロシアの大統領報道官は15日までに、ウクライナとの和平協議に関して、一方的に併合した東・南部4州を念頭に、「ウクライナはロシアが新たな『領土』を手にしたという現実を受け入れなければならない」と述べた 。 
 14日には、年末年始も戦闘を続ける考えを示した。 ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領が12日、オンライン形式で開かれた先進7か国(G7)首脳会合で、クリスマスと新年に合わせた戦闘停止をロシアに提案していた。

 12日の英国防省の発表によると、ロシアが2月の侵略後に占領した領土の約54%をウクライナ軍が奪還した。 ロシアは2014年に併合した南部クリミアを含め、全土の約18%を占領下に置いているという。

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 話の要点は、ロシアは占領した地は返還しない、それがウクライナ侵攻でも確認されたということ。 和平交渉の前提条件はロシアの占領を認めること(領土放棄が前提)だと宣言している。 日ロ平和条約締結も同じことが前提条件になるのだろう。
ロシアのウクライナ侵略は71年の時を経て、北方領土問題とつながっていることがわかる。 北方領土返還運動諸団体は現実を直視し、現実的な北方領土返還戦略を練らなければならない。70年も時を無駄に過ごしてしまった、そろそろ目を覚まそう。
 古里を追われて国内の他地域や国外へ脱出する人々が1000万人を超えている。そうした人々に70年前の自らの経験を重ねて、心を深く痛めている北方領土引き揚げ者が少なからずいる。

 現実的な北方領土返還戦略はすでに一つ公表している。
 他の戦略があれば、投稿欄へどうぞ!

#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06


#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題: 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012 
 
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#4814 高田屋嘉兵衛と林子平:ウクライナ侵略戦争 Aug. 28, 2022 [21. 北方領土]

 司馬遼太郎(1923-1996)『菜の花の沖<6>』を読んでいたら、気になる箇所が三つありました。
 カムチャッカの小さな村へ連行されて上陸したときのことです。武器と訓練に驚いています。
「<此地の武備大砲二十四挺。いづれも精巧の車台に載せ、常に庫内に納置、日々引き出して、習練怠ることなし>と嘉兵衛はのちに述べている。首邑のペトロハバロフスクにして人家三十余戸というのに、大砲二十四挺というのは、嘉兵衛が属する国から見れば、驚くべき重装備であった。たとえば日本国第一等の大名である加賀前田百万石にしても、火力に置いては、この小さなペトロハヴロフスクの装備に遥かに劣るのである。」
 首邑(シュユウ)とは、その地方の中心の村のことです。カムチャッカではペテロハヴロフスクです。邑とは「村」を意味しています。

 嘉兵衛は装備の大きさに率直に驚いています。田沼意次は北海道開拓のためにあぶれている武士3万人を送る計画をもっていたので、ロシア側のこの警戒ぶりがあながち過剰であるとは言い難いところがあります。お互いに国防という観点から、最新兵器の重火器で防備を固める必要がありました。日本とロシアはそういう地政学的な位置関係にあるということです。これは変えられません。

 二つ目は「上国」と「国政悪しき国」の定義です。
 「他を譏ず、自誉ず、世界同様に治り候国は上国と心得候」
 これは高田屋嘉兵衛(1769-1827)がディアナ号の船長であるリコルド少佐との会話を『高田屋嘉兵衛遭厄自記』書き残したものですが、司馬は次のように解説しています。
 「自分の家門を無用に自慢したり、他家をおとしめて悪口をいうのは、上等な家のものではないということはたれでもわかっている。また一村一郷を誇って隣村隣郷を譏るという地域が、上等な地域であるはずがない。国家も同様である、ということらしい。」...同書159頁
 「愛国心を売り物にしたり、宣伝や扇動材料に使ったりする国はろくな国ではない。という意味である。」
 もっともなはなしですね。でもね、これで国が守れるでしょうか?
 1923年生まれの司馬は敗戦時の価値観の転換を経験しているので、国防にたいしてアレルギーがあるように感じます。強力な軍備なしで「上国」が独立を守れるでしょうか?

 また、高田屋嘉兵衛はリコルド少佐に次のようにも言ってます。
 「好んで軍を催し、人を害する国は、国政悪しき故と心得候」

 こういう国があるということです。あるのに、武力をもたずに「上国」を気取っていて独立が守れるのだろうかと疑問がわきます。

 気になった箇所の三つめは、司馬は高田屋嘉兵衛と林子平を対置して見せたところです。
 林子平(ハヤシシヘイ1738-1793)は『海国兵談』1786年(上梓は1791年)の著者であり、彼が作成した「三国通覧輿地路程図」1785年があります。三国とは日本とロシアと中国です。ユーラシア大陸を下側に、東を上に下地図です。中国とロシアが太平洋へ進出するためには、覆いかぶさるように位置している日本列島が邪魔です、日本はそういう地政学的な位置にあります。林子平は海防を説きます。ロシアがユーラシア大陸の東の果てまで来てしまっているから、次は南下すことになる、だから海の守りを固めるべきだと。ロシアの侵略の意図を見抜いていました。ところが、『海国兵談』は発禁処分となり、版木まで焼かれてしまいます。林子平は蟄居処分。1793年に失意の中で亡くなっています。松平定信に疎まれて、発禁、蟄居処分となったのですが、幕末にその重要性が認識され、再発行されました。
 松平定信は中学生には天明の飢饉の後の「寛政の改革」でおなじみでしたね。

 司馬はロシアの侵略に備えて防備を固め、武装を強化することに反対のようです。そんなことをすれば自ら戦争を呼び込むことになる、そう主張していますが、敗戦による価値観の転換を経験したからでしょうね。軍備強化にアレルギーがあるのでしょうね。司馬は満州牡丹江で戦車隊の小隊長を経験しています。

 繰り返しますが、司馬は、沿岸を武装し、戦艦を多数建造すれば、それが戦争を引き起こすというのです。そして林子平は思慮が浅いと具体的な点をあげつらって断罪しています。
 「なぜなら、その帝室は明以前のような漢民族ではなく、好戦的な元(モンゴル帝国)と似た北種(この場合満州民族)であるからだ、というのである。子平の他国への分析能力が、文字を同じくする隣国についてもこの程度の粗末なものであるというのは、驚くに値する。かつ論旨が単純すぎ、たとえば武装のみが国防の唯一の要件であると説く。
 むろんその論がたとえ聴くに値するとしても、武装を世界的水準にするためには開国以外にはないということに気づいていない。さらには海国というものが、幕藩体制の衰微を意味するという恐ろしい結果に対する予測もしくは予感が、文章に感じられない。」...同書181頁

 嘉兵衛はロシアの狙いは商売(=貿易)にあるとみていました。林子平はロシアはユーラシア大陸の東の端に到達し、次いで南下して日本を侵略するとみていました。
 さてどちらのロシア観が、現実を直視し、ロシアの本質を見抜いていたのでしょう?

 77年前に、ロシアは日本がポツダム宣言受諾を決めたあとで、北海道の東側半分を自分の領土にしようと侵攻してきました。そして北方領土をソ連領に組み入れました。いま、ロシアの西側に隣接するウクライナに侵攻して、領土拡張を試みています。

 帝政ロシアは貿易もしたかったのでしょう、わたしには林子平の主張がよりロシアの本質を見抜いていたように見えます。
 実際に、朝鮮半島を挟んでロシアと対峙することになり、日露戦争が勃発しています。
 日本が開発した下瀬火薬の威力が大きかった。対等に戦える武力をもっていないと、ロシアや中国にほしいがままに蹂躙されるということ、そういう地政学的な宿命を日本は背負っています。林子平が作成した地図を見てください。彼は毎日この地図を見て日本の海防を具体的に考えていたのではないでしょうか。地図と『海国兵談』の記述に執念を感じます。

 今日の北海道新聞を見ると、北方領土の引き揚げ者の発言が載っています。戦争ではなくて、政治的な話し合いで解決すべきだと。77年間政治的な話し合いをしてきて、領土が戻りましたか?
 戦わなければ、ウクライナはロシアの領土となるだけではないでしょうか。ウクライナ語もなくなるでしょう。

<武器開発の重要性>
 江戸時代は武器の開発製造を禁じていましたから、世界に300年も遅れました。戦国時代は日本製の鉄砲は世界最先端の性能でした。運用も優れていました。射手の腕もいい。種子島銃を見ただけで、刀鍛冶は、見本よりも品質の良いものをたくさん作れたのです。日本の職人は腕がいいし、知能も高い。
 幕末の頃に韮山に反射炉をつくり、鋳物の大砲を製造し、砲身をくりぬいてカノン砲をつくっています。幕府が資金援助して大々的にやれば、ペリーが戻ってくるまでにお台場にカノン砲を数十門は揃えられたでしょう。重要な技術者を大事な時期に、十数年間も牢に閉じ込めました。
 ジョン万次郎こと中濱万次郎をペリーとの交渉の場で使えば、ずいぶんと活躍してくれたでしょうが、箱館に追いやっていました。ハリスにしてやれれることも回避できたかもしれません。それほどトップがバカだったのです。

 第二次世界大戦以降、日本は武器開発の大きな制限があってやれていません。歴史が教えているように、ロシアや中国と対等に戦える武器開発はいつの時代でも必要だと思うのです。

 幕末はトップ(幕閣)がバカだったことと300年間武器開発をしてこなかったことが致命傷でした。でも、優秀な職人がたくさんいたのですから、何とかしようと思えば、図面さえ手に入れば何とでもなったのです。大砲も戦艦もすぐに造れたでしょう。それぞれ国産のものを実際に造っていますが、国を挙げて大々的にはやらなかった。

 対等に戦える武器なしで、隣国に中国とロシアという領土拡張意欲の大きい国があるのに、無事ですむとは思えません。武力の背景のない外交も政治も無力です。
 誰だって戦争は嫌です、でも独立を維持するためには戦わざるを得ないことがあるのではないでしょうか?

<三国通覧與程路図>
 株式会社根室印刷がこの地図を精巧に複製して、2011年のカレンダーとして特別に配布しました。会長の北構保男氏からいただいたものです。教室の壁に貼ってます。ロシアと中国が太平洋へ出るのを日本列島が邪魔しているように見えませんか?林子平はこの地図を作って毎日眺め、いずれロシアや中国と戦争になると海防を具体的に考えていたのだろうと思います。戦争を経験することで国防アレルギーをもっていた司馬遼太郎よりは、現実的ではるかに先見の明がありました。司馬は「上国」ならだれも侵略してこないと妄想しているように見えます。
DSCN3569s.jpg

#2781 北方領土の地政学的な位置 

ディアナ号
 このディアナ号は1807年建造のスループ船で、1本マストです。船長はゴローニンでしたが国後島で日本の役人にとらえられて拘留されたままです。それで副艦長のリコルド少佐が艦長になっています。
 安政の大地震が1854年と55年に起きますが、その折に津波で大破したディアナ号は1853年建造の別の船です。フリゲート艦で3本マスト、艦長はプチャーチンでした。1854年11月4日の地震による大津波でディアナ号は大破、そのあと嵐で沈没します。戸田村に船大工が集まり、設計図を見ながらわずか3か月で「ヘダ号」を造ってロシアへ返してあげます。このとき、船大工たちは、西洋式の船の建造技術を手に入れてます。
 とはいえ、ヘダ号はディアナ号に比べて排水トンで1/20ですから、ミニチュア版といってよいくらいのサイズです。同じサイズのものを作る必要はありませんでしたが、もし造るとしたら、何年かかったでしょう?数年では不可能だと思います。大砲も炸裂式の砲弾も作らなければなりませんから。

    ディアナ号   ヘダ号
総長  53.3m     24.6m
幅   14m      7m 
排水量 2000トン    100トン
マスト  3本      2本
乗員  500名     50名



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新装版 菜の花の沖 (6) (文春文庫)

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  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2000/09/01
  • メディア: 文庫
海国兵談 (岩波文庫 青 30-1)

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2022/08/28
  • メディア: 文庫

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#4808 ロシア軍のウクライナ侵攻に憤る元北方領土島民:山本忠平氏 Aug. 16, 2022 [21. 北方領土]

 北方領土である択捉島蘂取村の元と翁民の山本忠平さんが、ロシア軍のウクライナ侵攻を77年前の択捉島へのロシア軍の侵攻を重ねて、心を痛めている。
 墓参やビザなし交流が途絶えるのを心配する人は多い。しかし、もう6か月が経とうというのに、北方領土返還運動関係者で、ロシアのウクライナ侵攻を批判する人をほとんど見なかったが、3月にウクライナへのロシア軍の侵攻で77年前を思い出して共感を寄せる人がいました。ちょっとうれしい。
 北方領土返還運動関係者にこうした共感が広がってくれたらと淡い期待を抱いています。

 日本人の美質の一つに「惻隠の情」というものがあります。大数学者の岡潔先生によれば、それが日本人の心の中心にある情緒であるらしい。
*惻隠:かわいそうに思うこと、あわれむこと

 以下は3月に掲載された神戸新聞記事です。

*「理不尽な選択迫られた」 75年前、北方領土追われた男性 ウクライナに重ねる思い|総合|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp
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神戸市中央区の山本忠平さん(87)は択捉島の蘂取村(しべとろむら)出身だ。「千島歯舞諸島居住者連盟」の語り部として戦前の島での暮らしやソ連軍占領下の状況とともに、故郷を追われた思いを語ってきた。
「着の身着のままの私たちは、引き揚げ者という名の難民でした」。国民学校1年生のとき、戦争が始まった。終戦直前の1945年7月には北海道根室市に買い出しに行っていた山本さんの父親が空襲で亡くなった。
島には米軍が現れないまま終戦。「武装解除し、現場にとどまり、指示を待て」。そんな命令を最後に、国や軍隊からの連絡は途絶えた。しばらくして択捉島にやってきたのはソ連軍だった。
通信は遮断され、海を渡ろうとした人は射殺された。財産は奪われ、行動の自由も言論の自由もなくなった。労働者として強制的に移動させられてきたロシア人やソ連軍の軍人らとの共同生活が始まった。
2年後の47年夏ごろ、島に残りたければ、ソ連の国籍を取るように言われた。村の人々は全員、拒否した。「理不尽な選択を迫られ、追い出された」。ほとんどの荷物を置いたまま家族で船に乗せられ、函館の収容所へ。助け合って生きてきた村の人々はばらばらになった。

和平へロシア人に期待も

山本さんは母親の出身地、秋田県に身を寄せ、高校卒業後に神戸の会社に就職した。故郷に墓参りに行けるようになったのは、43年が過ぎた1990年からだ。それから約30年、山本さんは、島に移り住んだロシア人との交流を積み重ねながら地道に返還を訴えてきた。そこにロシアのウクライナ侵攻が始まった。
平和の祭典である五輪閉幕直後の侵攻に、心臓が止まりそうなほどショックを受けた」と山本さん。ウクライナから着の身着のままで避難する人々と自身の経験を重ねる。

欧米と歩調を合わせてロシアに制裁を科す日本に対し、ロシアは平和条約締結交渉の中断だけでなく、元島民の自由訪問やビザなし交流さえ停止すると表明した。

山本さんは「30年間交流を続けてきたロシア人に悪い人はいない。プーチン大統領一人のために、息の長い交流が消えてしまうのは悲しく、残念」とする。

一方で、ロシア国内では弾圧の中でも反対の声を上げ続ける若者らの姿に、「世代が変わり、ロシアでも市民の声が届くようになれば、解決への道が開けるのではないか」と期待も見い出す「ウクライナの人たちは私たちより苦しい思いをしている。一日でも早く砲撃がやんでほしい」と願った。

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 山本忠平さんは『セルツェ こころ 遥かなる択捉を抱いて』の著者である山本昭平氏の弟です。

セルツェ――心 遥かなる択捉を抱いて

セルツェ――心 遥かなる択捉を抱いて

  • 作者: 理江, 不破
  • 出版社/メーカー: 東洋書店新社
  • 発売日: 2018/10/25
  • メディア: 単行本

<余談:山本さんの祖父とその弟>

 山本昭平氏と山本忠平氏の祖父の弟は、北海道開発庁長官であった黒田清隆の副官山本忠令です。
 あるとき、お爺さんは根室町長と交渉事があって根室町役場を訪れたが、とても無礼な扱いを受けて、席を立って札幌行きの汽車に乗りました。そうして、札幌から戻り根室駅に着くと、町長以下町役場の幹部が並んで出迎えたそうです。札幌から根室町役場に電報が打たれたようです。当時の根室町長は選挙ではなくて、北海道開拓庁長官の任命によって決まりましたから、根室町長はさぞかし肝を冷やしたことでしょう。(笑)
 蘂取村の村長はI氏になりましたが、任命された後で、お爺さんのところへ挨拶に来ていたそうだ。お爺さんに蘂取村の村長を決める実質的な権限があったからでしょう。中央集権ですから、町長や村長は、北海道開拓庁には頭が上がりませんでした。いまも、市役所の職員は道庁の職員に頭が上がらず、道庁の職員は本省の職員に頭が上がらない。百年たってもかわりゃしません。

<余談:ソ連に対する思いの違い>
 山本家は択捉島蘂取村で商店を営んでいました。択捉の漁民は北海道の漁民の3倍ほどの漁があったから、裕福でした。だから、商店もとても繁盛したのでしょう。戦時中でも砂糖はあったし、高島屋や三越から着物も取り寄せて着れるぐらい裕福だったそうです。本州からの出稼ぎ猟師は、根室の3倍稼げたと言ってました。水産資源が豊富で、魚やカニが濃かったので。
 山本家の二人の兄弟は商店の息子だましたから、漁の経験はありません。漁師の息子たちはソ連軍が入ってくると、強制労働に駆り立てられました。ソ連共産党中央から指示された食糧生産のノルマがあるのでかなり厳しいものだったようです。わたしの叔父貴もそうした漁労に従事した一人ですから、とうぜん、ソ連に対する思いは別のものがありました。ソ連支配下でどのような生活であったかは、ひとそれぞれでした。漁業従事者がきつい思いをしたようです。
 漁獲量が大きかったので、ソ連共産党は北方領土に注目したでしょう。それはいまも変わりません。戦争でもしない限り、彼らが北方領土を手放すはずもありません。


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#4744 ウクライナの現状と北方領土返還運動 April 22, 2022 [21. 北方領土]

<最新更新情報>4/23朝8時半<余談:北方領土返還運動はその方向を変えるべき>

 ビザなし交流が30年目を迎えたそうだ。北海道新聞4/22朝刊31面「第一社会面」より、「命奪う国…はなしあえるか」抜粋

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 命奪う国...はなしあえるか
  途絶えた交渉
   悲劇を重ね

どこに行くかもわからず、子どもやお年寄りが故郷を追われている。77年前の北方領土と同じことが起きている」。ロシアがウクライナへの侵攻を開始した2月24日以降、北方領土択捉島出身の鈴木咲子さん(83)=根室市=は、ウクライナを脱出する人々の姿に自身の経験を重ねていた。 
.....
「生き地獄だった」。鈴木さんは、約1カ月に及んだ収容所生活をこう振り返る。栄養失調で歩けなくなる子どもや高齢者が続出し、鈴木さんの幼なじみも6、7人が亡くなった。引き揚げ船には遺体を乗せることができなかったため、冷たくなった乳児を背負って乗船した女性もいた。

 ウクライナでは、子どもを含む多くの民間人の犠牲が明らかになり、プーチン大統領の戦争責任を追及する動きも強まる。ロシアは3月21日、日本の対ロ制裁への対抗措置として、北方領土問題を含む平和条約締結交渉の「中断」を通告してきたが、鈴木さんは「子どもたちの命まで奪う政権との話し合いなど再開できるだろうか」と嘆く。
.....
 日ロの北方領土交渉は2018年11月、当時の安倍晋三首相が1956年の日ソ共同宣言に基づく歯舞群島と色丹島の2島返還を軸とした交渉に大きくかじを切ったが、ロシアは強硬姿勢を崩さなかった。「領土交渉は白紙に戻ってしまった」「自分たちが生きている間の返還はなくなった」―。ウクライナ侵攻を受け、根室市内の元島民にはいらだちと諦めが広がる。
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 ロシアのプーチン大統領は国境の西側でいまも領土拡大に夢中になっている。皆殺しが目的のようだ。全員移住させるか皆殺しが一番手っ取り早い方法だ。こんなことを目論むロシアと領土交渉なんてありうるはずがない。北方領土返還運動団体は今まで夢を見ていたのである。
 敗戦となり、それでも戦い続けたら北方領土の住民は皆殺しになっていたかもしれない。択捉島出身の鈴木咲子さんは自らの体験をウクライナ国民に重ねて、同情の思いを強くしたのだろう。やり切れぬ思いが伝わってくる。

 その一方で、テレビニュースでは「お金がいくらかかってもビザなし交流を続けるべきだ」と意味不明のことを声高に訴える人もいた。「ジョバンニの島」のT氏(81歳)である。ご自分の都合だけでウクライナへの同情なんてこれっぽっちもその発言には感じられなかった。交流を絶やしたくない気持ちは理解できるが、独りよがりで閉鎖的な考えに聞こえます。ビザなし交流はいずれまた再開されます、それまでお休みでいい。北方領土に住むロシア住民と創り上げた絆が消えてしまうわけではないでしょう。彼らの中にも、今回のウクライナへの侵攻を是としない人たちが少なくないかもしれません。
(数年前に亡くなった択捉島蘂取村出身の岩田先生も、水晶島出身で予科練入隊直前に終戦になって命を長らえた元根室高校教員だった柏原栄先生(現西浜町会長)もこういうこと(お金がいくらかかってもビザなし交流を続行すべきだと)はおっしゃらないだろう。)
 どちらの主張が日本国民の胸を打つかは論ずるまでもない。

 日本人の心の奥には情緒があり、その中で大切なものは「憐憫の情」「惻隠の情」だと言ったのは『国家の品格』の著者である数学者の藤原正彦氏である。それを失ったら、もう日本人とは認められないというのが藤原さんの主張だろう。
 生まれ育った家や土地を棄ててウクライナを離れざるを得なかった500万人の住民や、侵攻してきたロシア兵と製鉄所の地下にこもって絶望的な戦いを続けている兵士たちに憐憫の情がわいた北方領土返還運動関係者のいることは救いだ。

 ところで、最近、元外務次官が本を上梓(じょうし)したそうだ。2018年に当時の安倍晋三首相が2島返還に舵を切ったことについて、国家主権を放棄した最悪の首相として歴史に記録されるかもしれないと書いてある。2島返還論を声高に主張して安倍氏の露払いをしてきたのは「日本維新の会」所属の参議院議員鈴木宗男氏である。ムネオハウス事件はもう20年以上も前だった。ロシアがらみで噂の多い御仁である。

 ウクライナがロシアに勝利し、早く平和が訪れますようにと祈ります。

<余談:北方領土返還運動はその方向を変えるべき>
 北方領土返還運動を思い起こすにつれ、たとえばパプアニューギニアなど南方諸島からの引き揚げ者のことを想う。苦労して開墾した農園をそのままにして命からがら引き揚げた人々にも何の補償もなかった。どうしてそういう人たちへ共感を表明できないのでしょう?また、元島民は引き揚げ者だけではありません。択捉島で育った私の母の兄弟姉妹7人の内引き揚げ者は2人だけです。5人は元島民ではありますが、引き揚げ者ではありませんでした。引き揚げ者だけの運動に矮小化していては、ただのエゴに聞こえ、元島民の引き揚げ者ではない人々の共感すら生まれないでしょう。こうして戦後七十数年間の北方領土返還運動は他者の共感を呼ばぬものでした。それは北方領土返還運動を担ってきた人たちの過ちでもあります。いまウクライナから逃げざるを得なかった500万人を越えるウクライナの人々とウクライナに残ってロシアと戦っている兵士に共感を寄せることができなければ、北方領土返還運動はエゴイストのそれとみなされるでしょう。運動の方向を大きく変換するいい機会ですよ。

*色丹島のロシア人から見た北方領土問題


#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー

 フォークランド紛争時のマーガレット・サッチャー英国首相の果断な決断が見事だった。毅然とした態度が参考になりませんか?ロシア大統領プーチンに2島返還論をもちかけて国家主権を放棄した元総理の安倍晋三氏とは資質が違いますね。

*#2054 マーガレット・サッチャーと領土問題(3) : Aug.16, 2012

#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012


#4025 日露首脳会談6/29:「元島民落胆深く」 Jul. 1, 2019v



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外交証言録 高度成長期からポスト冷戦期の外交・安全保障――国際秩序の担い手への道

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国家の品格(新潮新書)

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#4740 叔父貴の思い出:択捉島蘂取村からの引き揚げ者 April 16, 2022 [21. 北方領土]

 叔父貴(おじき)が亡くなったので午前中に線香をあげてきた。叔父貴は母親の弟、択捉島からの引揚者である。生年は昭和7年頃だから、ソ連が侵攻した来た時には13歳だ。そのときに満州では長兄が侵攻してきたソ連軍と戦って22歳で亡くなっている。昭和22年の9月に樺太経由で引き揚げてきたときは15歳。ソ連占領下で漁労に駆り立てられ、結構しんどい思いをしたようだ。敗戦で強制労働に従わざるを得なかった者たちのソ連観は甘いものではなかっただろう。わたしの母親は7人兄弟姉妹の長女。叔父貴は6番目。

 わたしが幼稚園か小学校へ入ったころに半年ほど我が家へ来て食住を共にしていたので記憶がある。昭和20年代の終わりころだっただろう。戦後の10年間ほどはみんな生活し食べていくのがたいへんだった。オヤジが戦後根室で下駄屋を開業していたので、お袋の兄弟たちや従姉妹・従弟が入れ替わり来ては数か月間一緒に暮らしてにぎやかだった。千歳の叔母が一番明るい性格で、まだ幼い娘を連れて来ると、毎日笑い声が絶えなかった。千歳の従姉妹は小さい頃はとってもメンコかった。

 叔父貴の息子のNはわたしとはちょうど一回り離れている。わたしが根室高校を卒業するころに6歳だったし、住んでいたのが別海町尾岱沼で離れていたので、あったことがなかった。尋ねてみたら妹の結婚式の時に一度会ったことがあったようだ。叔父貴に連れられて根室に来たのだろう。まさか、仕事でずっと根室に住むようになるなんて、そのときには考えたこともなかっただろう。
 叔父貴は一度だけ択捉島へ行っている。前浜の川には昔と変わらぬほど鮭がびっしり俎上していたという。満州で侵攻してきたソ連軍と戦って戦死しすることになる長兄が、川に竹竿を突き立てたら遡上してくるシャケで竿が倒れなかったとお袋が言っていた。その川を見て叔父貴はどんな思いを抱いただろうか?
 叔父貴からはいろいろ聞きたいことがあったが、根室の老健施設に入所したときにはコロナが流行っていたので、面会できず、コロナが収まってからゆっくり話したいと思っていた矢先に亡くなってしまった。叔父貴は「誰も会いに来ない」と不審がっていたらしい。コロナは3年目に入った、介護・老人施設の入所者たちの内、いったい何人の人が親族と談笑することもできずに亡くなったのだろう。しかたがないことではあるが、割り切れない思いが残った。

 叔父貴の息子には一人娘がいる。ひょっとして霊感が強くないかと尋ねてみたら、驚いた顔をした。高校の修学旅行で沖縄に行ったときに、ある場所には近づくこともできず、戻ってきたという。
 やはりそうか、理由を従弟に説明した。母方のばあさんは霊感の強い人で、娘たちも半分はそうした資質を受け継いでいる。女系の孫にもそうした資質の強いものが多い。未来が見えてしまう、人が死ぬと場所が離れていてもわかる、亡くなった人が来るのだ。自分の意思に関わらず見えるときにはそうしたものが見えてしまうので厄介なのだ。亡くなった人が来るのは怖いことはない。お別れの挨拶に来るようなものだからね。厄介なのはよくない未来、見たくない未来が見えてしまうことがあることだ。幸福な未来ならいいが、人は必ず死ぬ、その死ぬ時期が数か月前から見えてしまうのは不幸以外の何物でもない。悲しみがずっと続く、そしてそれは必ず見た通りに起きる。生きている身の回りの者に関わることでも空間を超えて見えてしまうことがある、どうしようもない。
 遺伝子の関係から考えると、叔父貴は霊感の強かった母親由来のX染色体と父親由来のY染色体を受け継いでいる。その息子は母親由来のX染色体と母親由来のY染色体を受け継いでいる。だから、択捉島のばあさんのX染色体は叔父貴の息子に受け継がれた。その娘は父親のX染色体と母親由来のY染色体のXYだから、択捉島のばあさんのX染色体が受け継がれている。どうも、この性別を左右するX染色体に時間や空間を超越できる霊感に関わる遺伝子が載っているようだ。わたしも同じような手順で択捉のばあさんのX染色体を受け継いでいるが、男の場合は強く発現しないように見える。余計なことで悩まずともすむのでありがたい。遺伝子の仕組みから考えるとわたしの娘や孫には伝わっている。娘は大丈夫だった、孫には強く発現しないことを願う。

 択捉島の墓に眠っているばあさんは霊感が強いので成田山新勝寺で修行をしないかとお坊さんに勧められたことがあったと母が言っていた。叔母の一人が生まれ育った択捉島蘂取村で「イタコ」のようなことをして、子どもの頃に人の相談にのっていた。その叔母が父親が病気で死ぬ1か月前から泣いている。なぜ泣いているのか訊いたら、もうすぐ二人とも死んでしまうと言うのだ。病気の父親はともかく元気にぴんぴんしている母親も亡くなると泣いているので、母は誰にも言うなと妹に固く口止めした。父親が亡くなって、一週間後に元気だった母親が突然死んだ。このように徳子叔母は見たくもない未来が見えてしまう。人が死んだときもわかる。何度も何度も見ている。
 わたしの姉が霊感が強い。話がたくさんあるので端折ろう。とにかく見たくないものが空間を超えて見えてしまうことがある。
 お転婆で気の強かった妹は、小学生の頃、裏庭でつながっていた喫茶店「凡(ボン)」の奥さんがNTTの前でトラックに二度跳ねられて即死したことがあった。しょげてたっけ。その夕方のこと、家の玄関に入ろうとしたら、叔母さんが裏庭の方に立っていた。「よくなったの?」と声をかけようとしたとたんに、死んだことを思い出した。真っ青な顔で戻ってきて、それからしばらくは夕方は外に出なくなった。あとで確認したら、事故にあったときに着ていた血の付いた服が物干し竿にかかっていた。子どものいなかったそのおばさんは妹を特別にかわいがっていた。お鍋の底に張り付いたお焦げでお菓子を作って食べさせてくれたりしていた。昭和30年頃は、まだみんな貧乏でひもじかった。でも、世の中は戦時中の閉塞感から解き放たれて未来が明るかった。
 わたしが高校1年生の時(1964年東京オリンピックの年)に、同級生で同じ柔道部だったN西が釧路の病院から退院してきて、鳴海公園のあたりですれ違った。腎臓が悪くて釧路の病院に入院していたはず、「よくなったのか?」「うん」、そう言葉を交わした。その数日後の夕方のことだった。わが家は1階が居酒屋「酒悦」とビリヤード店をやっていたので、リビングは2階だった。窓の外を白い大きなものがゴオーッと音を立てて飛んでいったので、あわてて窓を開けた。窓は波状のガラス板と透明なガラス窓の二重窓で外がはっきりとは見えないが、白い大きなものが音を立てて飛んでいったのははっきりわかった。窓を開けて確認したがなんにもない。叔母に「見た?」と聞いてみたら、見たという、気味悪がられるので言わなかったと。「え、誰かが死んだ?」、叔母はうなづいている。翌日だったか、N西の葬儀折込が入った。ちょうどその時間に亡くなっていた。N西君はいまなら人工透析があるから死なずにすんだのだろう。治療の方法がなくて退院したのだと後でわかった。

 従弟の娘は根室の中学校を出てから、札幌の高校へ進学した。成績がよかったのは知っていた。3年間学年トップだったそうだが、それでも札幌旭丘高校へは不合格、第一高校へ進学したと従弟が言っていた。大学は特待生で授業料免除だったそうだ。親孝行な娘は数年前に卒業して東京住まい。

 叔父貴には、ソ連占領後の生活や引き揚げてきたときの事情、根室へ来た前後のことなど、聞きたいことがいくつかあった。母方の一番年下の妹がわたしと10歳しか離れていないので、叔母というより「姉・弟」の感覚に近い。名前を付けて「〇〇お姉さん」と呼んでいた。「叔母さん」と呼んだことがなかった。叔父貴は17歳離れているが気持ちの上での「距離」は近かった。

<余談-1:航空自衛隊と落下傘部隊>
 従弟のNは航空自衛隊員である。ウチのオヤジが落下傘部隊員だったことを知っていたかな?千歳の叔父貴も自衛隊員だったが、オヤジが落下傘部隊員だと知って大喜びしていた。根室方面に仕事があってくると必ず寄って、酒を飲みながら楽しそうに話をしていた。オヤジが通信兵や落下傘部隊のときの話をおもしろおかしくするので、よく笑っていた。
 中1だったか、小学校高学年だったのか、千歳に遊びに行ったら、戦闘機に搭乗できるように計らってくれたことがあった、あれはF-104。
 戦後、自衛隊が発足し、落下傘部隊の生き残りはほとんどいなかったので、教官として誘いがあったことがあったが、オヤジは断った。一緒に命懸けの訓練に明け暮れた戦友が全員死んでいるので、そういう気持ちにはなれなかったのだろう。制空権を奪われ、飛行機にも乗れず、「空の神兵」たちは戦意を鼓舞するための道具として船で南方へ派遣されて、死んでいる。空から真っ白い落下傘で降り立ち、戦って死にたかっただろう。落下傘で降りて、飛行場を占拠して、3日間戦って全滅した部隊が一つだけあったようだ。援軍や補給のない戦いだったが、悔いはなかっただろう。一度だけその本を読んだっきり、二度と開かなかった。戦時宣伝映画の「加藤隼戦闘隊」撮影時の降下訓練の事故で右腕複雑骨折、左手で敬礼して戦友たちが船に乗るのを宮崎県の港で見送っている。「靖国で会おう」と言い残して一人も帰ることがなかった。
 中国で通信兵として従軍していた時に「命の要らない者集まれ」と募集があったのだそうだ、それに応募した。部隊には長男は一人もいなかったと言っていた。家を継ぐ長男は落下傘部隊には入れなかった、それほど訓練が危険だったからだ。データもないので、降下訓練は人体実験を兼ねることがあった。たとえば、「30kgのフル装備で、体重80kgならこのパラシュートで無事に降りれるか?」というように。指名されたら返事にノーはないのが軍隊である。なるほど「命の要らない者集まれ」と募集要領の通りだったわけだ。忍者まがいの訓練だったから、落下傘部隊員は正規兵を3人相手に戦えた。宮崎の新田原で一般道を走って訓練中に人がいると上官が「前転!」と号令をかけるのだそうだ。舗装のしていない道路には石っころもあるから痛い。面白がって何度もやらせる。「天皇陛下の兵卒」と言いながら、天皇陛下からお預かりしたその大事な兵卒を実に粗末に扱う上官がいたそうだ。
 いまでも落下傘部隊はエリート部隊のようだ。名称は変わって空挺団という。戦時中は落下傘部隊員は親や兄弟にも秘密だった。神話になぞらえて「高千穂項か部隊」と言ったそうだ。宇佐神宮で部隊が撮った公式記録写真が残っている。おどろおどろしい空模様の写真である。秘密部隊だったので、戦後に戦犯に問われるという噂が流れて、写真のほとんどを焼却している。捨てきれなかった数枚が残った。機関銃を構えた写真は、まるで映画の一シーン。銃はピカピカに黒光りしており、穏やかな目をしていない、鷹のような鋭い目つきだ。

<余談-2:根室の中学校の学年トップクラス>
 ついでだから書いておこうと思う。昨年、従弟の娘と同じ中学校の女生徒が、12月からニムオロ塾に来て3か月間勉強し札幌旭丘高校に合格している。ブラスバンド部と勉強、「文武両道」のガッツのある生徒だった。定期演奏会が終わってから12月1日に入塾してきた。学力テストの点数を見たら、このままでは希望の高校へは合格できない、しかしやる気があったので、もしかすると届くかもと予感させた。目標は3か月間で英数で25点以上のアップ。毎日来ていいぞと伝えたが、時間がもったいないからと、歩いてこない。親が仕事が終わり車で送ってくれるまで、家で勉強していた。必ず車で送り迎え、そして指示した通りに勉強しぬいた。1月下旬になって、それまで毎回いくつかしていた数学の質問がなくなった。難問も自力で解けるほど仕上がっている手ごたえを感じ、合格を確信した。そのころには英語の長文にも慣れてきて点数が上がっていた。
 合格してから「コスパの好い塾だ」と言っていたようだ。3か月で英数で30点アップして合格したのだから、その通りだろう、これには笑ってしまった。たまたまコスパがよかったのは彼女が指示通りに勉強したから、普通の生徒にはとても無理でした。1年生の時から来ていたら、ダントツトップで3年間走り抜け、違った進学先になっただろう。あんな女の子が同級生に居たら、ガッツの点で男はかなわない。旭丘高校の制服が大好きだと言っていた。ブラスバンドと勉強の文武両道で充実した高校生活のようだ。(笑)
 お兄さんが高3で受験だったので、兄妹同時の大学・高校同時受験。彼女は3年生と時の学年トップは3回くらいだったかな。学校の学力テストは標準問題、旭丘の入試は裁量問題、難易度の高い問題での30点アップだった。各科目ごとの点数を書いたメモをもってきて、誇らしげな顔をして報告してくれた。「やったよ!」という顔をしていた、達成感があったのだろう。お兄さんの方は北海学園大学法学部に進学した。
 五科目合計点は現在は500点満点だが、昨年までは300点満点、各科目の国の満点は60点であった。

<学習スタイルの切り替え:ブレイキン>
 ブレイキン(ダンスバトル)の投稿が弊ブログ「#4737ピアニスト岩井のぞみ」にあったので、投稿欄でコメントしました。ノサップの小学生(いま中1)が北海道で1位、全国で12位だったとNHKの番組が特集していました。とっても上手でした。ダンスの練習場を作り、お父さんに習っていました。わたしはブレイキンについては何も知りませんが、テレビでトレーニングの様子を見ていて基礎トレーニングの不足を感じました。そうしたら、途中でプロのコーチの指導のシーンが流れ、基礎トレーニングメニューを提案し、それを繰り返すことを指示したので、なるほど同じことを感じたのかと思った次第。柔道にたとえると、乱取りばかりしていて型の稽古を疎かにしている感じを受けました。これではもう限界、基礎からやり直さぬと技術が伸びない。実はもう一つ、一流になるためにはクリアしなければならない重要なことがあったと思いますが、プロのコーチは短時間でのレッスンを頼まれただけですから、言及を避けたのでしょう。
 勉強もスポーツも根室は一流のプロの指導者がいません。我流でやっていては全国大会では通用しないのです。勉強も同じです。
 ブレイキンをやったこともないし、専門知識もないわたしに何でこんなことがわかるのか、ビリヤードで複数の一流のプロの指導を受けたことがあるからです。そして小学生の頃、道東ではナンバーワンの腕前でした。釧路で数人の大人相手にゲームして10連勝したことがありました。オヤジが用事があって私を釧路のビリヤード店に置いたまま数時間席を外したからです。強くて持ち点アップを要求されて、それでもなおつき切る。大人が驚いていました。でも門前の小僧が習わぬ経を読むのと同じで、我流でしてね、一時はビリヤードのプロになろうと思いました。しかし、わたしの場合にはとても日本一なんてそのままでは無理。昭和天皇のビリヤードコーチの吉岡先生に、「プロになりたい」と言ったら、「勉強した方がいい」と言われ、しょげかえりました。当時はビリヤードのプロで飯が食べられる人は一人もいなかったのです。そこまで知りませんでした。東京へ行ってからわかりました。ブレイキンはプロで食べていけます。時代が違う。ブレイキンやっているノサップの子どもによく似たところがありましたね。(笑)

*「リトルダンサー 最東端で踊る」 | NHK



 昭和天皇にビリヤードを教えていた吉岡先生の技術を高校卒業するころでもコピーできませんでした。「アメリカン・セリ」はわたしにとっては魔法のような技術でした。高校を卒業した年に千歳から飛行機に乗るのに、札幌の白馬ビリヤードへ寄りました。オーナーである吉岡先生は一番上手な常連客を呼んで、わたしの相手をさせてくれました。あれは勉強になりましたね。北海道ではアマチュアトップレベルの人でした。半年ぐらいみっちりやったらコピーできるかもと思わせてくれました。セリの技術の基本部分を教えてくれたのです。見ただけで自分で工夫してやれないようでは一流のプロにはなれません。高校時代には勉強がとっても面白くなっていたので、ビリヤードはアマチュアでいいと思いました。東京へ行ってから、有名なビリヤード場をいくつか訪れて、そのうち2か所でプロが教えてくれました。一人は、アーティステック・ビリヤードで世界2位の町田正さんのお父さんでした。八王子のビリヤード店には素振り用の鉄のキュウがありました。正さんはそれを振っていたのです。シルクハットというマッセは。大台をL字がたの軌跡を描くマッセで、世界で町田正さんしかできませキュウの切れがないとできないのです。八王子の町田ビリヤード店にあった鉄製のキュウ―を見た瞬間に町田正さんがどのようなトレーニングを積んだかわかりました。正さんのお父さんはわたしに基礎トレーニングメニューを教えてくれました。キュウ―の切れが少し良かったのと、もっていたキュウが名人作の特別なものだったからです。タップがすごかった。「このタップはもう十年以上見たことがない、世界で最高のタップです、ヤスリを当てさせてもらえないか?」とおずおずと申し出がありました。OKするとゆっくりと丁寧にキュウを転がしながらタップにヤスリをあてて半球状に仕上げました。理由を聞いたらやり方とともに解説してくれました。半球状にすると丸いボールを打突するときに正確につけることとミスショット(滑ってしまう)がすくなくなるのです。拡大してボールを大きな円に、キュウのタップを小さな半球にして図でショットの瞬間の力の伝わり方を確認しました。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生のタップの調整は、半球状の部分が3mmぐらいで5mmの厚さの部分は平べったいのです。小学生のころからタップの調整の仕方は吉岡先生を真似ていましたので、目から鱗が落ちる思いでした。25年ほどでタップの削り方の理論と技術が進化してたのです。もう一人はスリークッション世界チャンピオンに何度も輝いた小林先生です。先生のお店の常連会のメンバーに入れてもらったので、わからないときには図面を描いてもって行って質問をしました。丁寧に教えてくれました。プロの基礎トレーニングメニューを使うと、根室で10年かかる技術進歩が1年で達成できます。ノサップの子どもは我流の癖がついてしまっています。それを取り除くために、基礎トレーニングが必要なのです。プロに言われた基礎トレーニングメニューを坦々とこなせば、1年後には見違えるようになります。体重少し落とした方がいいよ。無茶なトレーニングをし過ぎると腱や関節が壊れます。これから身長が急速に伸びるので要注意なのです。骨が先に伸びるから、腱や筋肉の発達が追い付かない。過負荷がかかって壊れます。

 さて、勉強法ですが、ブレイキンのトレーニングが、普通の子どもと能力が高い子供とトレーニングメニューが違うように、能力に応じたメニューが必要なことは、これまでの話でお分かりいただけるでしょう。
 学年トップクラスの上位3%の生徒は我流での勉強法を棄てて予習方式に切り替えるべきです。難易度の高い問題集のコンパクトな解説を読んで理解できるなら、答えが出るまで解答解説は参照しないこと。試行錯誤が思考なのです。すぐに解答・解説を見てしまうと、思考が育たない。解答を真似て「覚えるだけ」になってしまいます。成績上位3%から外れた生徒は、10分考えて答えが出なければ、解答解説を読んで覚えてしまえばいい。頭の良し悪しは中学生になったらはっきり差が出てしまっています。それぞれの頭の良し悪しに合った勉強法があります。
 偏差値55ぐらいまでの大学なら、答えを覚えてしまう勉強でクリアできますよ。難関大学へそういう勉強法で合格した生徒は、公務員になるのが一番いい。民間会社では半分以上がつぶれてしまいます。考えるトレーニングをしていないから、社会人になったときには答えのない課題に戸惑うばかりです。難関大学出身者で仕事ができないタイプがこれ、受験勉強専用マシンになってしまったのです。それ以外には役に立たない。難関大学出身者でなくても、解答・解説を見て覚えるだけの受験勉強をした人は、社会人になってから、使い物になりません。

 だから中高生の時に、好奇心のままにトコトン勉強したらいい。なかなか解けない問題に何時間も何日も費やしたらいいのです。そういう無駄が社会人になってから百倍になって効いてきます。
 受験勉強がおろそかになって受験に失敗してもいいのですよ。入った大学で上位1%になれます。大学院でも同じことです。民間企業で働くことになったら仕事の能力は上位0.1%です。
 この項はあとで追記して、別建てでアップします。


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#4723 ロシアのウクライナ侵略と北方領土返還運動 Mar. 7, 2022 [21. 北方領土]

 ロシアがウクライナの諸都市を爆撃し、住宅街にミサイルを撃ち込んでいる。民間人364人が死亡したと伝えられているが、実際には10倍以上の人が亡くなっているだろう。「避難回廊」確保のために停戦合意したはずが、ロシアの攻撃がやまないために市民の避難が不可能になっている プーチンは市民を閉じ込めたまま皆殺しにするつもりなのかもしれぬ。いかにもKGBらしい陰湿な策だ。
 戦えば市民の犠牲が増えるから、ロシアの侵攻を受け入れたほうが犠牲が小さいという人たちが少数だがいる。占領されて、追い出されても、ロシアのプーチンは慈悲深いから、ビザなし交流すれば、失われた領土を返還してくれると教えてあげたらいい。

 世界中からこの侵略戦争に非難が集まり、世界各地でロシアは撤退すべきだとデモが起きている。
 モスクワの西側のウクライナへの侵略行為は現在進行形だが、北方領土は島民全員が追い出され、70年以上も前にロシアのものになっている。70年もたってスターリンから数えて7人目のプーチンへ変わったはずが、やることはなんにも変わっちゃいません、そこにロシア共産党の本質を見る思いがします。
 
 別海町では「矢臼別平和委員会」の森高哲夫さん(71)の呼びかけで、「道道沿いで6日、ロシア軍によるウクライナ侵攻への抗議行動が行われ17名が参加した」。「ウクライナに平和を」「プーチンの侵略戦争NO」(北海道新聞根室地域版)

 北海道新聞を見るかぎり、北方領土返還運動諸団体からは声が上がっていない。ロシアの西と東の国境紛争で同じ問題を抱えているから連帯できるはずだし、共感ももてるはずだが、どうしたことだろう?
 国内を見ても尖閣列島で中国と、竹島では韓国と国境問題が生じているが、それぞれ別々でばらばらである。

 ロシアが西側で隣接する国へ侵攻しても、北方領土返還運動諸団体が無関心なら、北方領土返還運動もウクライナの人々に共感をもたれないだろうし、竹島問題への発言がなければ、島根県で竹島問題に取り組んでいるグループとの共感や連帯もあり得ないのではないか。
 70年やり続けても、北方領土返還運動は国民的な広がりを見せない。
 広がりの視点をもたぬ北方領土返還運動は、北方領土問題を根室地域だけのものに限定・矮小化していないだろうか?
 
<3/8朝追記>
 ウクライナの人口4200万人の内、10日間で174万人(比較のために、札幌市に人口195万人を挙げておく)が国外へ脱出したという。ロシアが指定する「避難回廊」の出口はロシアやベラルーシである。そちらへ逃げたら、プーチンは「ウクライナ政府を嫌ってロシアへ逃げてきた人々」と宣伝に使うつもりだろう。いまでもプーチンはKGBのようだ、やることが姑息で残忍である。
 ロシア国民の中にはプーチンを支持する者もいれば、プーチンのこのような残忍非道なやり方に、命懸けで異を唱えてデモをする人たちもいる。

「飯作鶴幸さんの意見」ディリー新潮より
「飯作さんは2歳の時に色丹島から引き揚げた。
「引き揚げの記憶は薄いが、いきなりウクライナを武力で攻めたやり方は、あの時のソ連と同じで許せない。ロシア人は、個人的にはお人好しでいいけど、どうして国家となるとああなるのか。今回はロシア全体の判断ではなく、クレムリン(ロシアの大統領府)だけがやったんだろうから、ロシア国民から反戦運動などが高まってほしい」と話す。」

 水産会社をもっている飯作さん、誰かと思ったら同期のオサムのお兄さんだ。わりと親しかった同期とは名前で呼び合う。あいつは「トシ」あるいは姓のほうで呼んだりまちまちだった。中学時代はあいつが9組、俺が10組、高校では生徒会で一緒だった。生徒会は俺の方が古株、一番古かったから、思ったことは何でもできたしやった。お陰で校長からはずいぶん目をつけられていた。多彩な人脈を持ち、いつでも、どことでも、誰とでもジョイント可能なネットワークのハブだったから。(笑)



 プーチンはウクライナで核を使用することを示唆している。ロシアの東側で国境を接している日本は核武装しなければ、いつかロシアに蹂躙される日が来る。現実に、北方領土はロシアのものになってしまった。
#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー

 フォークランド紛争時のマーガレット・サッチャー英国首相の果断な決断が見事だった。毅然とした態度が参考になりませんか?

*#2054 マーガレット・サッチャーと領土問題(3) : Aug.16, 2012

#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012

#4025 日露首脳会談6/29:「元島民落胆深く」 Jul. 1, 2019 

 


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#4482 異国(とつぐに)に領占められし Feb. 8, 2021 [21. 北方領土]

 『遺稿集田塚源太郎』の最後のページに掲載された詩を#4480で紹介したが標題の句にどこか異様なニュアンスを感じて頭の中で反芻していた。そこには消化しがたい何かがあった。わたしは次のように書いている。

「 「異国(とつぐに)に領占められし」は「領」に「リョウ」という音と「くび・えり・おさめる・うける」の訓があるから、「とつぐににくびしめられし」が素直な読みだろう。このように読むとちゃんと五音のあとに七音になっている。」

 文脈が詩の理解に必要なので後半部分を採録しておく。

 ふるさとよ雪に島山
 胸いたく迫り来るがに
 対(むか)ひ佇(た)つものをいざなふ
 異国(とつぐに)に領占められし
 還へらざるわがふるさとと
 思ふさへ今にくやしも
 いくたびか冬は来向ふ
 還へざる島山見つつ
 ものなべて失ひつつも
 なお生きて島よ還へれと
 待ちがたく待ちがたくゐる
 人ありしと思ふにくやし
 思ふさえ今にくやしくも


 朝まだきに、この句を頭の中で繰り返し反芻していて気がついたことは、ふるさとである国後島がいまもロシアに「占領」されていること。すなおに「占領」と読んでいいのだということ。
 白川静『字統』で「占」を引いてみる。「セン うらなう・しめる」とある。うらないは神意を訊くものだから「神意は絶対のものであるから、のち占有の意となる」とある。わざわざひっくり返して「領占」と書いた、そして「首絞められ」と直截的な表現を避けたのはそこに込めた思いを読み手に受け取ってもらいたかったのではないか。この「領占」が田塚先生が読み手にかけたナゾナゾだとしたら、読み解いてみたくなるのは当然だ。何か重要なメッセージが隠されている気がしてくる。

 「とつぐにに 首絞められて」と訓で読める。これはどういう意味だろうかと夜明け前のベッドの中でうつらうつらしながら考えていた。
 国後島の大きな蟹漁師の網元、いや蟹は籠で獲るから「籠元」だろう、豊かな海から獲れる蟹で、ずいぶんとぜいたくな暮らしができたことは、北構さん・高坂さんと3人で東京の東横デパート屋上で撮った写真にも表れている。二人は根室商業の制服の上にコートを着込み徽章のついた制帽をかぶっているが、田塚先生だけはコートにスーツとオシャレなハットをかぶって写っている。10歳くらいも年上かと感じるような服装であり、根室商業を卒業したばかりの青年の姿ではない。これだけ衣服にお金を投じることができ、ファッションに興味もあったということだ。詩歌に対するセンスは服装にも表れている。当時の国後島ではファッション雑誌や映画を見る機会があったようだ。戦前の国後島の大きな漁師の財力がうかがわれる。ちなみに北構さんも根室では良家のお坊ちゃんである。お父さんが根室信金の理事長をされていたし、兄弟もわたしが高校生の頃に理事長だった。戦前に根室商業から大学へ進学できたのは、財産のある良家の子息だけだった。お金はかかるが、いまは普通の家庭の子が多少の無理は伴なうだろうが、学力さえあれば東京の大学へ進学できる、そういう時代になった。

 四年間軍医として北支を転戦し、敗残の身となって戦後しばらくしてから本土の土を踏み、札幌で親友の北構さんに再開する。根室が空襲に遭い、五百人が焼死したことを聞いただろう。そしてその後根室に住み歯科医院を開業することになる。「とつぐににくびしめられ」は豊かな前浜の漁場を奪われ、母親や姉たちが生活の糧を失ったということを言いたいのだ。ふるさとを追われ根室へ引き揚げてきた母親と姉たちは文字通り、ソ連の国後島占領によって首を絞められたかのような生活状態に陥っていた。引き揚げてきた者たちはそれぞれに苦労があった。エトロフ島蘂取村出身の岩田先生も水晶島出身で予科練の実技試験に合格し終戦を迎えた柏原栄先生も、択捉島蘂取村から引き揚げてきた根室に住む叔母や尾岱沼の叔父もたくさんの引揚者の数の中に入る。

 「くびしめられ」には「占」の字が使われている。首を何者かに抑えられて声も出せないとの意味もでてくる。訓が「しめられ」だから「絞められ」と「占められ」に二通りにい読める。
 根室空襲で財産すべてを失いし者たちが多かった。お袋は焼夷弾の包囲網を運よく潜り抜けて、ホロムシリまで逃げた。替えのパンツも持ち出せなかったとわたしが35年ぶりで根室へ戻ってきてから当時を回想して話してくれた。岡野洋裁店で縫子をしていたが、お店は空襲でなくなり、住むところも着替えも食べ物もない、そんな中を少なからぬ根室町民が生き延びてきたのである。だから、田塚先生は「ふるさとの国後島を返せ」とは思っていても口に出しにくい状況が続いたのだろう。そこを「占められ」の言葉に込めた。言い出しにくい空気があったということ。根室の漁師は一人も漁場を失っていないが、空襲で全財産を失った人たちが多かった、同じ痛みを分かち合っていると感じていたのではないだろうか、だから声高に言えなかった、そういう想いが「くびしめられ」にはある。

 そこまで読んでみたら、別の文字が気になってきた。「異国(とつぐに)に領占められし」の「異国」とはどこかという問題に行きあたってしまう。国後島占領だけの問題なら「ソヴィエトに」と書けば五音の音合わせはできる、なぜそうしなかったのか?
 根室空襲で無辜の根室町民を市街地を囲むように落としてから、中心部を叩く、東京大空襲と同じ大量虐殺の戦術をとった米国への憤りを込めたようにわたしには読める。人の痛みに敏感に反応し共感を抱いてしまう田塚先生のお人柄から推してそう読めてしまうのだ。だから、「異国(とつぐに)に」という漢字を充てた。
 米国がヤルタ協定で北方領土のソ連占領を認めたことへの怒りもあっただろう。北方領土返還運動で米国への非難がないことへの悲憤慷慨も込められているように感じる。言い出したくても言い出せない事情が当時は確かにあった。まさに、首絞められて声が出せない状況にあった。

 すごいなと思う。田塚先生は精神的には孤高の人ではなかったか。こんな視点を獲得してしまっていたら、見える景色が普通のインテリとはまったく違う。

 最近の話だが、北構さんと田塚先生を知る人が、「北構さんはとっても気さくで、分け隔てのない人だった」と具体的な事例をいくつか挙げて話してくれた。わたしもそういう事例をオヤジから直接聞いて知っている。北構さんの人柄だ。北構さんについては実業家としての顔と研究者として文学博士の顔があるから、そこに敬意を表して「先生」の敬称をつけることが多いのだが、つけてしまうとお人柄が失われる場合があるので、そういうエピソードに触れるときには「北構さん」と書く。北構さんについて聞いた後で、親友であった「田塚先生の方はどうでしたか?」と尋ねてみた。「近寄りがたい感じがして、ほとんどお話したことがないのです」とおっしゃった。わたしは、小学生の1年生のときにはビリヤードの相手をしてもらって、面白がって遊んでくれた田塚先生に「近寄りがたい」という感じを抱いたことがなかった。冬に車道の端に停めていた車がスタックすると、「手伝ってくれ」といって、車を押して抜け出すと、お小遣いをくれる。え、こんなことでお小遣い?とびっくりしていると、微笑んでいた。

 さて、とりとめのない話はこれくらいにして、標題にした句の意味をまとめておこう。
① 「異国(とつぐに)」は国後島を占領して住民を追い払ったソ連であり、根室空襲で無辜の市民500人を焼き殺し、ヤルタ協定でソ連の北方領土占領を認めた米国のことでもある。ひどい目に遭った人へ共感する心の強い人だったからこの漢字表記には二つの大国への憤りが感じられる。
 自分が北支を四年間転戦し、敗残の身となって戻ったこと、母と姉たちが占領後の国後島でひどい目に遭ったから、同様な目に遭った人たちへも心の底から共感できたし、否応もなく心の琴線が鳴ったのだろうと思った。

② 「領占められし」は「くびしめられし」と訓をつけた。占領をひっくり返したのだから、ソ連に占領され生まれ故郷の国後島のことを言っているのは当然だが、想いはそこにとどまらぬ。国後島の豊かな漁場を奪われふるさとを追われた母と姉二人が、生活の糧を失った事実を「領占(くびしめ)」の二文字に込めた。同じ音の漢字にすると「首絞め」である。
 根室空襲では根室を出港したばかりの北方領土への定期船が撃沈されている、船には多数の乗客がいた。択捉島へ定期船に乗って戻るところだった山本昭平さんと妹、そして父親もその中の一人。父親はグラマンの投下した魚雷の犠牲、妹軍と一緒に重油の浮かぶ海に投げ出された。根室の海は夏でも14度を超える日は数日しかない。軍艦でもないのに魚雷を投下して撃沈した、理不尽な話である。そして焼け出されて財産すべてを失ない、職も失って路頭に迷ったたくさんの根室町民への共感も、「くびしめられて」に込めたのである。みんな生活の糧を失ったのだ。根室を故郷とする人たちへの共感が、生まれ故郷の国後島を返せという心の叫びに蓋をさせることになったのではないか。田塚先生のやさしさを思い出すと、そう読めてしまう。


 大学を卒業した年に根室で結婚式をしたが、披露宴のときの田塚先生の祝辞がいまも耳元に残っている。オヤジが根室で下駄屋をやっていたときの話をしてくれた。
「...冬の寒い日に、店の戸を開けて、下駄に鼻緒をせっせとつけていた。お客が入って来やすいようにとの気遣いだったが、そんな仕事の仕方をする下駄屋は五郎さんだけだった...」
 オヤジの仕事に対する姿勢がよく表れている。仕事に関しては妥協がない。焼き肉屋をやってとんでもなく繁盛した。釧路の屠場の責任者が兄弟子だった。その人がなくなり、仕入れルートを失い、地元の肉屋から肉を仕入れて少しの間やってみたが、すぐに店を閉めた。肉の質が格段に落ちる、納得がいかなかったのだろう、あっさり店を閉めてしまった。そういう人だった。ビリヤード店の方を癌を患ってからもやっていた。再発して入院する間際まで仕事していた。
 歌人の視野の中に若いころの下駄屋のオヤジがいた。

 

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