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#5124 資本論の論理構造とヘーゲル弁証法 Dec. 5, 2023 [A2. マルクスと数学]

 ヘーゲル弁証法を定式化すると次のようになります。
①正(テーゼ)
②反(アンチテーゼ)
③合(ジンテーゼ)
④止揚/揚棄(アウフヘーベン)

 次に、マルクス資本論ではこれがどのようになっているのかを示します。
①商品の価値(投下労働量)
②商品の使用価値
③貨幣
 番号で対応関係が明らかです。では④はどうなるのでしょう。

 交換過程での展開が①~③です。
 生産過程で貨幣が資本へ転化します。すると二項対立は
⑤資本
⑥労働
 となります。
 交換過程からより具体的な生産過程への移行が「止揚」ということです。この訳語がまずいですね。元の意味はauf「上へ」、heben「持ち揚げる」ですから、より具体的でより複雑な関係へと移行することを表しているだけです。単純なものから複雑なものへ、です。マルクスはときどき「上向法」とも呼んでいます。
 ところで、生産関係では資本と労働のジンテーゼに該当する⑦がありません、余談で言及します。⑧は後で言及しますが、生産関係から市場関係へのアウフヘーベンです。より具体的で複雑な関係へ「持ち揚げる」だけです、簡単でしょ。

 生産過程の次は何でしょう?より具体的な関係は市場過程です。
 市場関係で二項対立しているのは個別企業の生産価格(製造原価ではありません、利益を含む販売価格です)と市場価格が考えられます。ここで投下労働価値説が破綻します。
 投下労働量の多寡に関わらず、品質が劣る商品は商品価値が下がります。ニーズを超えて生産された商品は投下労働量の大きさには関係なく無価値です。ニーズを超えて生産された商品というのは過剰生産を表しています。
 反例をもう一つ追加しておきます。システム化と機械化で生産性が2倍になれば、同じ投下労働量で商品価値は2倍生産されます。ここでも投下労働量と商品価値は関係がないことがわかります。
 逆説的に述べるならば、労働価値説をとる限り、生産性をアップするという発想は出てこないのです。生産性を2倍にしても投下労働量が同じなのだから商品価値は増大しないという変な理屈になりますから。実際には売上は2倍になります。企業の売上は企業が産出した商品価値そのものですから、売上が2倍になっているのに商品価値の総量が変わらないなんてヘンテコな理屈になりますが、現実の企業活動を見たらそんな馬鹿な話が成り立たぬことは経済学者でなくても理解できます。モノの道理ですから。生産性が2倍になれば、売上は2倍になり、赤字会社は超優良企業へ化けて、社員のボーナスや給料が増やせます。

(労働価値説に基づく経済理論では生産性のアップが不可能です。だから、ソ連も中国も長きにわたって経済的に停滞していました。中国はコマツが無償でモノづくりのシステムと心構え、品質改善の具体的な方法を手取り足取り教えました。民間の一企業が無償でやったのです。それが中国全土へ拡大しました。
 日本はこうした生産システムを世界中に無償で輸出したらいいのです。教育も含めてのことです。自国で消費する製品は原則その国で作ればいい。自然条件で生産が不利なものだけ貿易したらいいのです。そうすれば輸出先を失いグローバリズムは終焉します。利益追求を目的としたあくなき拡大再生産も止みます。)

 マルクスがそれら反例のどれか一つにでも気がついたとしたら、1867年に「資本論第一巻」を出した後、市場過程を記述する資本論第二巻が出版できないというのも、モノの道理です。
 公理に措定した「抽象的人間労働の現象形態が商品の価値を規定する=労働価値説」という命題が偽であることが反例で論証されたのですから、神でもこれを覆すことはできません。

 マルクスは労働価値説に基づいて資本論の叙述を始めましたが、労働価値説が間違いであることに市場過程を書き始めて気がついたのだろうと思います。ショックだったでしょうね。反例はわたしが挙げたものだけではありませんから、いくらでも見つかります。市場関係では過剰生産を採り上げないわけにはいきませんから、マルクスが気がついて当然です。でも、書き残すことはできなかった。自分が死んだ後に遺稿を整理する者がいることはわかっていたはずですから。続巻の出版を断念し、自分の理論の破綻を秘密にして墓場まで持って行きました。資本主義経済の分析はそこで終わってしまったのです。研究方向を変えざるを得ませんでした。その後の研究の詳細は斎藤幸平氏の諸著作が明らかにしてくれています。

 市場過程で労働価値説が成り立たなければ、資本論の最初の商品価値規定(=公理、抽象的人間労働の現象形態)も命題としては偽と言わざるを得ないのです。公理に措定した概念に対する、市場関係での反例ひとつで体系が根底から崩れます
 労働価値説が間違いであれば、剰余価値学説も間違いです。不払労働という形での搾取という理論もドミノ倒しに破綻します

 『共産党宣言』で「万国の労働者団結せよ!」なんて煽っておいて、いまさら間違いでしたとは言えなかったのでしょう。苦しかったと思います。だから、晩年は資本論の続巻を出せずに、どうしたら、理想の経済社会の仕組みがつくれるかということへ、研究方向を転換したようです。斎藤幸平氏はそのマルクスの膨大な遺稿を新メガ版で読んでいます。重要な概念はアソシエーションだそうです。答えがマルクスの遺稿の中にあるなら、彼の研究は意味があります。
 現代の支配的な企業形態は株式会社です。マルクス没後140年経ちますが、組合形態の企業が支配的な企業形態になる可能性はなさそうです。それよりは日本の老舗のビジネス倫理に注目すべきでしょう。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」に「従業員よし」を加えて「四方よし」で経営すれば、グローバリズムの終焉もSDGsも可能になります。実際にそういう企業活動を200年以上継続している企業が日本にはたくさんあるのですから、そこに学べばいい。コマツもすばらしい先行事例を示してくれています。マルクスのアソシエーション概念よりは実際の企業活動として数百年先を行っています。ビジネス倫理では日本は350年前から先進国です。このビジネス倫理と職人仕事があれば十分です。日本ではあらゆる職種が職人仕事化します。
 日本の老舗企業のビジネス倫理と職人仕事にもっと注目していいのではないでしょうか。

 資本論第1巻(1867年)から16年間マルクスは続巻を出さずに亡くなりました。その意味を正面から考え、答えを見出すためには、マルクスの方法に忠実に従って資本論第一巻を読み、そしてその方法に忠実に第二巻を書いてみたらいいのです
 そんなことをしたマルクス経済学者は残念ながら私の知る限りでは一人もいませんでした。

 マルクス経済学者でデカルトに注目した人を知りませんので、最後にデカルトを紹介しておきます。二項対立図式のヘーゲル弁証法の適用は間違いです。科学の方法としてあるのは一つだけです。それは公理に基づく演繹体系です。ユークリッド『原論』が最も古いものです。デカルトは『方法序説』の中で「科学の方法」に言及していますが、それを「四つの規則」にまとめています。

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<デカルト 科学の四つの規則>
まだ若かった頃(ラ・フェーレシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数を、少し熱心に学んだ。この三つの技術ないし学問は、わたしの計画にきっと何か力を与えてくれると思われたのだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。ます論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、道のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり、余計だったりするものが多くまじっていて、それらを選り分けるのは、まだ、下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を彫り出すのと同じくらい難しい。次に古代人の解析と現代人の代数は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことだけに用いられている。そのうえ解析はつねに図形の考に縛りつけられているので、知性を働かせると、想像力をひどく疲れさせてしまう。そして代数では、ある種の規則とある種の記号にやたらとらわれてきたので、精神を培う学問どころか、かえって、精神を混乱に陥れる、錯雑で不明瞭な術になってしまった。以上の理由でわたしは、この三つの学問(代数学・幾何学・論理学)の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければと考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという、堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、なにもわたしの判断の中に含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三に、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。

 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
 きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった
  デカルト『方法序説』 p.27(ワイド版岩波文庫180 *重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。

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 公理に基づく演繹体系としては、他にヒルベルトの『幾何学基礎論』やブルバキ『数学原論』シリーズがあります。

<余談-1:生産関係でのヘーゲル弁証法の破綻>
 生産過程は生産関係の中に貨幣を置くことです。そこで貨幣は資本へ転化します。対立概念としては資本と労働です。テーゼとアンチテーゼが揃いましたが、生産関係では交換関係で生まれた価値と使用価値の総合である貨幣のようなジンテーゼ概念の具体的な提示がありません。その点からは、すでに生産関係でもヘーゲル弁証法は破綻していると考えていいのでしょう。

 マルクスはジンテーゼをスルーしています。とぼけているのか、気がつかなかったのか、どちらでしょう?
 とぼけたところ、あるいは抜けているところ、どちらにせよマルクスはとっても人間臭いのです。おもしろいでしょ。

(一緒に暮らしていた女中さんとの間に息子がいます。顔がそっくりなのでごまかしがききません。妻のイェニーだって、承知して暮らしていましたよ、きっと。夫が共産主義運動の神様ですから騒ぎ立てるわけにはいかなかったのでしょう。)

#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023



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