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雨、雷鳴り、気温11.7度&幻の臨床診断支援システム開発プロジェクト [22. 人物シリーズ]

雨、雷鳴り、気温11.7度&
 幻の臨床診断支援システム開発プロジェクト


 市立病院でCT検査をした。Philips社製の装置で昨年購入したものだ、性能はよさそうである。検査が速いのと音が静か、そして装置全体が小さい。
 Philips社製の医療用検査機器ははじめてみた。元々はオランダとイギリス本社の会社でオーディオカセットテープの標準規格がこの会社の社内規格から生まれたものだ。オーディオでは知ってはいたが医療用検査機器や理化学機器を作っているとは知らなかった。仕事で何度も展示会を見たが、この会社の製品はひとつも記憶がない。
 あまり売れていない製品、つまりシェアの低い外国製品はメンテナンスに問題のあるケースが多いのが通常である。一般に外国製品を買う際にはこの点だけを注意すればいい。
 それにしてもめずらしいものをみせてもらった。釧路医師会病院が2年前に入れた東芝製の製品よりも性能が上のような気がした。音が静かでスキャニング時間が短い、スペックを比較したわけではない、単なる患者の印象である。
 性能本意の機種選定だったのだろうか、それとも派遣元の大学病院と同じ機種をというドクター要望だったのだろうか。医師会病院にあったのは定価で3億円程度のものだから、購入価格は1.5~2億円だっただろう。リースだろうが元値がいくらなのかが気になった。3億円なら月額540万円くらいのリース料だ。建物は古いがX線CT装置は民間病院では採算上なかなか導入できない高額の高性能機種のようだ。これなら患者は安心して検査を受けられる。画像はインターネット経由で札幌の専門医へ送られ、読影がなされる。

【幻の臨床診断支援システム開発プロジェクト】
 80年代中葉にこういう環境がそろっていたら、全国の専門病院・大学病院を結ぶ疾患ごとの臨床診断支援システムが稼動していただろう。社内稟議を読んだシステム開発部の課長が協力してくれてNTTとつなぎをとってくれた。国内で唯一国立病院ネットワークを稼動させていたのはNTTデータ通信事業部だけだった。東京中野駅前にネットワークを管理するコンピュータの入った黒いビルがあった。インターネットは出現していなかった、専用線のネットワークだった。民間で全国ネットワーク使用する場合は維持費が高かすぎた。コンピュータの性能も要求スペックに届いていなかった。当時最高性能の大型コンピュータへの増設メインメモリーが3メガバイトで5000万円もした時代のことである。いまでは2ギガで2千円程度だろう。コンピュータの性能と安価な商用ネットワークのない状況から判断してこのプロジェクトは不可能だとの結論を出さざるえなかった。検討してみたが当時の伝送速度では画像を送ることなど不可能だった。渾身の力で挑んで破れてもなお悔いが残ることもあるものだ。
 もともと血液学の重鎮であるドクターとの対話から生まれたアイディアである。そうした仕組みがあれば複雑な診断ロジックを公開して専門医を育てることができる、「大学では無理だから民間での開発を」と勧められたことに端を発する。血液学的診断だけでなく疾患別の大規模な臨床診断支援システム開発の可能性に気がついた。日本の医学教育へ強力なCAIシステムを提供するものでもあった。疾患ごとのベテラン専門医の診断ロジックを専門医の卵たちへ公開するものだった。可能性を検討し始めたのは中途で入社し半年ぐらいのことだった。
 しばらくアイデアを頭の中で温め、整理していた。13プロジェクトに仕事の分割が出来たので、200億円の投資を伴うプロジェクトのフィジビリティ・スタディを提案した。当時は経営会議というものがあったが、社内稟議に創業社長がOKをだした。年間売り上げの70%もの投資金額へのゴーサインをだった、決断が速かった、途中でヒアリングがあったわけでもない、稟議書を見ただけで即決、これには私も驚いた。
 84年か85年の秋だっただろう。84年だったら8ヶ月かけた東京証券取引所上場要件であった事務系統合システムの開発がスケジュールどおり年末の本稼動へ向けて開発中の頃であり、85年だったら統合システム開発が終了し、全社の予算編成を任されて仕事の区切りがついていた頃のことだ。時期はおそらく後者だろう。
 創業社長のF氏は企業の社会的使命を理解し、個人的な損得を度外視して物事を判断できる人だった。その会社にいた16年間で、社長案件である企業2社の買収や資本参加で三度一緒に仕事をした。収益分析と再建のために必要な仕事と投資金額を提示したわたしの説明が終わり、創業社長が受け入れる用意があると結論を手短に話す。詳細な条件詰めは実務部隊に任された。交渉が終わって外に出ると天高く小鳥が鳴いている。「ひばりですね」F社長が私のほうを振り返ってそう言ったのを覚えている。春、北陸の蒼い空が広がっていた。小鳥はよほど高いところでさえずっているのか姿が見えなかった。このあと私は同時進行していた別の会社の資本参加案件に関わり東北の会社へ出向することになる。Fさん(創業社長自らが“さん”付け運動を提唱し、“F社長”と呼ぶことを禁止した)は思い出の深い社長5人のうちの一人である。
 稟議を簡単に認めてもらったことでプレッシャーがかかった。信頼に応えなければならない。中途半端にやって失敗は許されない。企業生命に関わるプロジェクトだ。仕事には責任が伴う。
 事業のやり方・その成否を判断するためにフィジビリティ・スタディをやってみたが、中止の結論を出さざるをえなかった。コンピュータの性能もネットワークもまだこの事業の要求スペックを満たしていなかった。まだ専用回線の時代だったし、第五世代コンピュータ開発技術組合の推論マシンもまた要求に合うものではなかった。いま省みれば、具体的なスペックを詰めておき、時代の来るのを待つ辛抱をすべきだったが、当時の私にはできなかった。10年たってもそのような時代が訪れるとは思えなかったのだ。若かった、智慧が足りなかったとしか言いようがない。知り合った仲間たちと、知的な遊びに切り替えてスペックを具体的に詰めるべきだった。たとえそれを担う高性能のコンピュータも安価で高速なネットワークが存在しなくても・・・
 遣り残したと思えるのはあの仕事だけである。13のプロジェクトの内、臨床病理学会と連携してやった検査項目コードのみが成果として残った。項目コード検討委員会委員長のSドクターにはたいへんお世話になった。その先生と業界6社のシステムおよび学術部門のエキスパートたちの数年にわたる協力で標準コードは開発され、いま日本の標準検査項目コードとして使われている。
 病理医への画像伝送も臨床診断支援システムの一部だった。撮った画像がすぐに札幌の読影専門医ーへ電送されると聞いて、懐かしいことを思い出した。明後日、担当ドクターにCT画像を見せてもらうのが楽しみだ。

 今日は一日中雨が降っていた。夜になり10時近くに雷鳴が数度鳴り響いた。昨日テレビでトルネードの映画を見ていたので、暗闇の中で成長するスーパーセル(大型の積乱雲)とカミナリが脳裏に浮かんだ。
 地元産の天然ホタテの刺身で北の勝「吟醸酒」を呑んでくつろいでいたら、雨の音がひとしきり強くなり、その後にカミナリが鳴った。
 気温は夜9時10分頃11.2度、寒冷な空気と昼間温められた空気が根室半島上空で衝突したのだろうか。

*新潟の病院だが、同型と思われるX線CT装置が写真つきで紹介されている
 http://www.shinrakuen.com/renkei-22.pdf

*Philips社
http://www.medical.philips.com/jp/products/ct/products/ct_brilliance_40_channel/index.wpd

 2009年8月3日 ebisu-blog#684
  総閲覧数:139,434/617 days(8月3日23時50
分)


大きすぎる寒暖の差:大雪山系トムラウシ山で遭難 [22. 人物シリーズ]

大きすぎる寒暖の差:大雪山系トムラウシ山で遭難

 今夜はマツカワ(高級カレイ)の刺身で日本酒をいただいた。オヒョウに比べると身がぷりぷりして脂が乗っている。
 鰈科の高級魚といっても、そこは根室のこと、たったの298円だそうだ。石鯛にも似た食感で、東京なら4000円くらいの値段がつきそうだ。
 根室はいいところだ、新鮮な魚が安くて美味い。マツカワは稚魚を養殖して放流するが、沿岸で生育して定着するようだ。北海道では各地でマツカワの養殖放流が盛んになった。とてもありがたい。根室でも風連湖付近でやっているのではないだろうか。養殖に携わっている関係者とこの魚を獲ってくれた漁師さんに感謝、あ、魚市場と小売店(コープサッポロ)にも。お陰で今夜も旨い魚で、美味しい酒が呑めた。「北の勝」の「夏用冷用酒」が一月ほど前に発売されている。

 さて、根室の昨日の最高気温は12度、今日はお昼に26度だった。街で見かけたほとんどの人が半袖姿である。たった一日で最高気温に14度の差があった。今日なら浴衣姿でも寒くなかっただろう。夜でも気温は15度近いが、今夜もシャンコ♪シャンコシャンコ♪ッシャシャンコシャン♪は聞こえてこない。
 赤い提灯に彩られた緑町商店街の上空を明かりを消した銀河鉄道の車両が警笛を鳴らしながら蛇行し駆け上がるのがみえた。大きな角をつけた鹿が数頭、列車の前を横切ったようだっだ。今夜の乗客は誰だったのだろう。このところ死亡通知の折込が2枚重なって入る日が多い。

 前置きはこれくらいにして本題に入ろう。トムラウシ山(2141m)の山頂付近で60歳前後の登山客が20人遭難しているが、まだ救助がすんでいない。ガイドが4人ついていたのになぜこのような事態を引き起こしたのだろう?自然の変化が予測を超えていたということだろうか。山頂は岩山であるが積雪はない。それにも関わらず20人もが遭難した。2人がすでに意識不明で4人が絶望的とみられている。
 (17日10時のニュースでは九人死亡が伝えられた。登山者は薄手の雨具を着ていたが、あれで2~4度くらいの気温で雨と強風にさらされたら遭難は当然だ。テレビの救助映像を見てさもありなんと思った)
 平地の根室ですら昨晩は8度ほどしかなかったのだから、2141mの山頂付近は4度くらいではなかっただろうか。記事では気温8度となっているが、たぶん最低気温ではなくて昼の気温だろう。山頂付近は20~25mの強風が吹いていて下山できなかったという。夜になって横殴りの雨に見舞われた。強風下でのテント設営はベテランでも大仕事だろう。経験の少ないものには不可能だ。ましてや山頂付近では広げたとたんに飛ばされてしまう。岩山である山頂付近で冷たい雨と強風に遭い、まごまごするうちに冷え切った体は思うように動かなくなる。冷たい雨も風も一向にやまない、体温が低下し体力が急激に失われていく。気の毒というほかない。
 高齢の登山客だったからなおさらのこと体温を奪われるスピードが速かったのだろう。体温を奪われると体力が急に落ちる。これは経験しないとわからない種類の現象である。水の中ではいっそう極端にあらわれる。海や湖で泳いでいて水温が数度低い流れに出遭うと、とたんに身体が動かなくなる。急激に体温が奪われてしびれてしまう。
 夏でも北海道で2000m前後の山に登るときは防寒対策は十分にしておきたい。東京付近のそのクラスの山とは状況がまるで違うので、1000mプラスして3000m級の山を想定すべきだろう。
 山は神からの素晴らしい贈り物、そしてときに魔物の棲家へと変わる。体力のない者や準備のない者には容赦がない。

<富士山頂、赤い大鳥居前での三番勝負の思い出>
 友人に誘われて8月に富士山に登ったことがあったが、2000mの5合目付近は30度近かったのでタンクトップに半ズボンの登山者もいた。ところが8合目を過ぎる辺りから、気温は4度、風は強い、冬の防寒着が必要だった。幸いもっていたので凌げたが、高い山で冷たい強風に吹かれたら、体温は見る間に奪われ、体力は著しく消耗した。風の冷たさは予想をはるかに超えていた。
 下山は須走コースで、軽石混じりの斜面を半ば駆け下りるように2時間ほどでついてしまった。登山靴は軽石にこすられて傷だらけだった。須走コースを降りるなら新しい登山靴は履いていかないほうがいい。8合目を過ぎる辺りから顕著に気温が上がっていった。頂上は冬、5合目はやはり真夏だった。着いて水を飲みながら、周りの半袖姿の人をみてほっとした。「あ~あ、夏だ」

 それにしても、山頂のトイレ十数基から300mほども線を引くように垂れ流された汚物にはげんなりした。いまはバイオトイレがあるので、あのような光景はなくなったのだろう。霊峰富士はありがたみを増したに違いない。

 登山は夏山といえども万が一の用意を怠ってはならない。高い山や北海道の2000mクラスの山へ登るときには防寒は十分すぎるくらいの装備をすべきだ。山をなめてはいけないし、60前後になったら、自分の体力を過信してはいけない。身体は正直だ。
 私にはもう登山は無理だ。頂上の赤い鳥居の辺りでお鉢(噴火口)周りをする人を遠目に眺めながら指した将棋、気持ちよかったな。日本一の富士山頂に誘ってヘボ将棋に付き合ってくれた群馬県川場村出身の心根の優しい友に感謝。サザンオールスターの桑田ケイスケに似ていたな。

*毎日ニュース
  http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090717k0000m040103000c.html

遭難:北海道・大雪山系で2団体 2人意識不明か

 
トムラウシ山と美瑛岳の位置

 16日午後3時55分ごろ、北海道新得町の大雪山系トムラウシ山(2141メートル)で登山中の男性から「山頂付近でツアー客やガイド十数人が強風のため動けなくなっているので救助してほしい」と110番があった。登山者は計19人で、8人が山頂に取り残されているとみられる。さらに同日午後5時50分ごろ、同山系の美瑛岳(2052メートル)でも、茨城県つくば市の登山ツアー会社から道警に「登山中の6人のうち、女性ツアー客1人が低体温症で動けなくなったようだ」と連絡があった。道警などが救助に向かっている。

 道警によると、トムラウシ山の登山者は、宮城1人▽静岡2人▽愛知5人▽岐阜1人▽広島4人▽山口1人▽岡山1人--の50~60代の15人(男性5人、女性10人)と、付き添いの男性ガイド4人。ツアーは東京都千代田区の登山ツアー会社「アミューズ・トラベル」が企画した。14日に旭岳から入山。白雲岳、忠別岳などの大雪山系の尾根を縦断し、16日にトムラウシ山から下山する予定だった。

 道警によると、山頂付近で数人が強風や寒さのため動けなくなり、まず3人が5合目まで下山して110番した。その後、山頂に残っているガイドの男性からツアー会社に「さらに8人が下山した。8人がまだ山頂に残っているが、このうち4人ぐらいが駄目かもしれない」という内容のメールが届いたという。また、山頂に残っているメンバーが携帯電話で道警に対し、「山頂にいる2人が意識不明になっている」と説明したという。

 道警はヘリコプターを飛ばしたが、悪天候のため、救助はできず、道警救助隊員がトムラウシ山の登山口に向かった。

 美瑛岳の登山者は、兵庫県姫路市の56歳と64歳の女性2人と埼玉県草加市の女性1人に男性ガイド3人を加えた6人。15~19日にかけて、十勝連峰を縦断する予定で、占冠村トマムから入山し、テントを張りながら、十勝岳を経由し、美瑛岳に向かっていたという。

 美瑛岳にいる男性ガイドから登山ツアー会社「オフィスコンパス」に対し、携帯電話で女性の異変を知らせる連絡があったという。

 釧路地方気象台帯広測候所によると、16日のトムラウシ山山頂付近の天候は、低い雲がかかっていたものの、晴れ。風速20~25メートルの西よりの風が吹いており、気温は平年並みの8度ほどだったとみられるという。

**産経ニュース
 
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090717/dst0907170043000-n1.htm

***<18日朝8時のNHKラジオニュース>
 ツアー客は次々に体力を失いばらばらになって取り残されて死んでいった。その事実から、天候や天候の変化に対する判断でツアーガイドにミスがあったのではないかとして、警察は業務上過失致死容疑で捜査をするという。
 さて、管轄はどちらだろう。遭難事故の起きた北海道警かツアー会社アミューズトラベル本社のある東京を管轄する警視庁のどちらだろう?

 お昼のニュースによれば、ガイド二人は今度のトムラウシ・コースは初めてだったという。ツアー客へ防寒対策をするように説明したというが、救助された人を見る限り雨具は着ていたが、防寒具ではないように見えた。
 プロのガイドなら客の装備のチェックも仕事のうちに入っているだろう。どんな仕事も基本のところは手抜きしてはならないことに気づかされる。
 何かある度に他人事と思わずに、わが仕事は大丈夫かと顧みる。
   「他人の振り見てわが振り直せ」


 2009年7月17日 ebisu-blog#655
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#654 ピカドン:三宅一生氏被爆体験について語る July 16, 2009 [22. 人物シリーズ]

ピカドン:三宅一生氏被爆体験について語る
 
  今日(7月15日)は東京も根室もお盆の中日である。デザイナーの三宅一生(71)さんが自らの被爆体験についてニューヨークタイムズに寄稿した。日本時間でお盆の中日を寄稿日に選んだのは死者への追悼の意もあったのだろうか。だとしたら、やはり渋い味のあるいいデザイナーだ。

 世界で活躍するデザイナーの三宅一生さん(71)が、14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿し、これまで多くを語ってこなかった自らの原爆体験に触れながら、オバマ米大統領に広島を訪れるよう呼びかけた。オバマ氏が「核兵器のない世界」を訴えた4月のプラハでの演説に触発されたという。

 寄稿によると、三宅さんは広島にいた7歳の時に閃光(せんこう)を目撃。黒い雲があがり、人々が逃げまどう光景が「目を閉じれば今も浮かぶ」。母親は被爆の影響で、3年もたたないうちに亡くなった。

 一方で「原爆を経験したデザイナー」といったレッテルを張られるのを嫌い、「広島について聞かれることにはずっと抵抗があった」という。

 しかし、オバマ氏が「プラハ演説」で核廃絶に言及したことが「心の奥深くに埋もれさせていたものを、突き動かした」といい、「閃光を経験した一人として発言すべきである」と考えたという。
朝日新聞社ニュースより
  
http://www.asahi.com/national/update/0715/TKY200907150116.html

 オバマ大統領の核廃絶発言に触発されて、原爆を目撃した者として語る義務があることに気がついたという。
 三宅氏は若くエネルギッシュだ。デザイナーとして世界的にも著名な彼が自分に負わされた仕事に71歳になって気がつく。そして素直に自分の義務を果たそうと行動し始める。ナイス・ガイである。あの優しいまなざしは64年前の7歳のときに原爆の閃光を目撃していたのだ。

 数あるデザイナー・ブランドの中で私はイッセイ・ミヤケが一番気に入っている。手持ちのネクタイの4本に1本はイッセイ・ミヤケだ。ストライプを基調にした柄が多い。もちろんそのバリエーションにイッセイ・ミヤケらしさが宿っている。色と柄に品があるのが特徴だろう。少々奇抜な色使いをしても凛とした品のある不思議なブランドである。デザイナー自身の人間性や人生観、価値観とどこかでつながっているのだろうか?

 私は根室市民は原爆には関係がないと思っていた。友人のお父さんが亡くなり、葬儀に参列したときに経歴が読み上げられた。衛生兵をしていて原爆投下直後にたまたま広島にいて医療活動に従事した。幸い原爆症が出ることはなかったが、いつそうなっても不思議ではなかったようだ。
 友人の口からそういう話しを聞いたことは一度もない。彼の母親からはいろいろな話しを聞いた記憶があるがやはり夫の被爆に関わる話しを聞いた記憶がない。二人の息子にすらもほとんど話さなかったようだ。

 私の父親は秘密部隊である高千穂降下部隊員だった。通信兵だったときに、「命のいらない者集まれ」と募集があった。三男だったオヤジは「ぱっと散りましょ潔く」と応募したという。家を継ぐ長男は落下傘部隊に応募資格がなかった。
 実験データもない中での30㌔の完全武装での降下訓練は人体実験に近い危険なものだった。体重80kgの兵が30㎏の装備をつけて降下が可能か、やってみなければわからない。体重70㎏の者は無事だった。次は80・・・そうやってパラシュート部隊は実験データを積み上げてきた。
 「加藤隼戦闘隊」という戦時中の戦意高揚映画に降下訓練中の「高千穂降下部隊」が映っているが、地元釧路で上演されたときに地元のデパート・マルサンツルヤにオヤジの大写しの写真がかかり、兄弟姉妹たちはそのときに知った。それまでは家族にも秘密だったのである。
 九州新田原の落下傘部隊訓練の話しを面白おかしく子供たちに話して聞かせることがあった。皆を大笑いさせながら面白おかしい話しに仕立てて語った。
 しかし、戦後自衛隊からのパラシュート部隊の教官での誘いが何度かあったが、応ずることはなかった。「~空挺団」はエリート部隊のひとつだった。
 「戦争はもうたくさんだ」と語り、傷痍軍人が物乞いをする姿を見ると、目を背けた。自分も降下訓練で右腕を複雑骨折して、「傷痍軍人」となり九州の温泉で療養中に戦後を迎えた。
 戦争で一緒に命がけの訓練をした戦友たちのほとんどが亡くなっていた。「結婚もせずに、子供もつくらずに皆逝った、俺は幸せだ」、空を見上げながら、何度かつぶやいた。
 戦後GHQから秘密部隊に所属していた者への追求があることを恐れて、たくさんあった写真を数枚残して焼いた。どうしても焼けなかった数枚だけが残されている。
 戦争で死なずに生き残った者たちも、それぞれの思いを胸に戦後を生き抜いてきた。オヤジは戦後まもなく根室に来て、根室に根を張り、根室の土となった。原爆投下後の広島で医療活動に従事した友人のお父さんも根室の土となっている。
 根室は新盆、7月13日からお盆である。合掌。

 広島といえば仕事で2度だけ訪れたことがあった。某医師会検査センターの経営分析とコンサル業務だった。「げんばく」という言葉を使ってはいけない、原爆に関わる発言もしてはいけないと事前に社内の担当者から説明を受けていた。仕事で行くのだからそのような話しをするわけもないのだが、土地柄、話題には気をつけるようにとの配慮だったのだろう。
 仕事は短時間にスマートに終わった。同行した相棒がよく仕事のできる男だった。
 用件が済んで皆と飲みに行くときに、8時だというのに明るいので驚いた記憶がある。なるほど広島は西に位置していた。夕陽が沈むのが遅いだけではなかった、朝陽が昇るのも遅かったのである。同じ日本国なのに、朝夕の時間の感覚が根室とはまるで違った。
 現地へ行って観なければわからないこともある。

 2009年7月16日 ebisu-blog#654
  総閲覧数:129,445/598 days(7月16日0時25分)
 

<オバマ大統領広島訪問決定間近>2016年4月23日追記
 オバマ大統領の広島訪問が決定が近いというニュースが流れた。三宅一生氏は大喜びだろう。

*朝日デジタルニュース
http://www.asahi.com/articles/ASJ4R51MHJ4RUHBI00S.html

 オバマ米大統領が、5月下旬の主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)の際に広島を訪問するかについて、米政府はオバマ氏が25日に欧州歴訪から帰国した後に政権内で協議し、早ければ月内にも最終判断する。米政府は、広島訪問は実現可能との見方を固めつつも、複数の米政府高官は「まだ決まっていない」としている。


還暦を迎えた団塊世代(1) [22. 人物シリーズ]

還暦を迎えた団塊世代(1)

  昨夜は新年会だった。産科がなくて結婚した娘が出産に困ったとか、釧路の整形外科病院がいいとか、医療へも話題がとんだ。3人が退職したばかりなので、男どもは年金の話しや失業手当の話しで持ちきりだった。
 11時頃家に戻ってから1時過ぎに寝たが、雨音がしていた。朝少し冷え込んだのか水溜りが凍り付いている。アスファルトは白っぽい灰色で乾いているように見える。うっすらところどころ雪がかかっていた。

 団塊世代の元同僚を一人紹介しよう。Hさんである。同じ会社だったが、同じセクションで一緒に仕事をする機会はなかった。連携しながら仕事をする機会は2度あった。彼は経理の専門家で、東証Ⅱ部上場準備で検査ラボの原価計算システム開発を担当したことがある。その後、子会社に役員出向したり、本社に戻り十数社ある子会社管理を担当していた。
 会社を早期退職した後にどうしているのかと思ったら、IPO(Inicial Public Offering 新規株式公開)関係の仕事をしていた。ある会社の株式公開社仕事が終わり、今年は別の会社で経営建て直しにチャレンジするという。サムライである。

 上場準備は会社として当たり前の諸規定・諸手続きを整備をするものである。各種規程(経理規程、就業規則、人事関係諸規程、稟議規程など)、東証による上場審査のためにすべての業務のフローチャート、経理及び業務システム整備などが含まれる。経理規程は予算規程、原価管理規程などを含む。ようするに、利益管理を合理的にしていることが要求されている。決算精度の向上と高速化も重要部分を占める。各種システム整備はそのために行われる。
 あらゆる業務を根本から見直す機会がIPOにはある。だから、彼は次の仕事として会社の建て直しを選んだのかもしれない。
 同じ理由で、わたしは地元企業の中からIPOを目指す企業が出てほしいと願っている。企業としてしっかりしたものになり、永続的発展が展望できる。経営者は自分の会社が大きくなることで、数十億から数百億円を手にできるし、社員は会社の知名度が上がり、社員持株会で値上がりする自社の株式を有利な条件で手にできる。私のいた会社では一番多い人で2億円も会社の株を手にした人がいた。多くは数千万円である。株式公開は社員がすこしまとまった財産を手にする絶好の機会である。

 ところで彼はこのブログを読んでくれているらしい。「“迷ったら厳しい道を選択せよ!”のメッセージにびっくり、実は、棘の道と平坦な道があったら、迷わず棘の道を選択するのが僕のモットーだから」と年賀状に書いてきた。
 あの会社で3年目くらいのきついときに、彼はあまり呑めないのに私をお酒に誘ってくれた。そしてこう言った。「折れるべきだ、妥協すれば出世ができる。なぜ?」と。わたしは「折れないからこそ、損得を考慮に入れないからこそ、支持してくれる人たちがいるので妥協できない」と応えた。あの頃は10年冷や飯を食ってやるつもりでいた。腹が固まっていたから、彼の言うことはもっともだけど、「そういうわけだ、心配してくれてありがとう」といって別れた。どんな障害も数年で跳ね除ける自信があったから、ずいぶん青臭い言葉が恥ずかしげもなくでた。普段はこんな青臭い言葉が口からでることはない、クールである。しかし彼と話したときにそういう言葉が自然に出てしまったのは、人情味のあるいい男だからだろう。だから私は元同僚というより友人であると思っている。淡い付き合いだが、密度の濃い交わりの瞬間があるものだ。

 Hさんは仕事ができるだけでなく人間として信頼のおける職人型のいい男である。生き方は多少不器用なところがあるが、手先は器用な人で、家具造りを趣味にしていた。家の中は彼の作品で一杯だろう。孫ができたと書いてあった。おめでとう。

 2009年1月3日 ebisu-blog#471
  総閲覧数:61,146/404 days(1月3日9:50分


Actor Paul Newman dies of cancer at 83 [22. 人物シリーズ]

Actor Paul Newman dies of cancer at 83

  2008年9月29日Japan Times1面の記事の見出しである。
 ポールニューマンが癌で亡くなった。享年83、日本式だと85歳だろうか。個性的ないい俳優だった。
 記事の中から拾ってみる。原文のほうがずっといいが拙訳を載せる。
「伝説的な映画スターであるポールニューマン(きらきらした青い瞳、見た目のよさと才能で60年間もハリウッドのトップスタートして君臨した)が長い癌闘病生活の末に83歳で死去した」

 9回オスカーにノミネートされて1986年"The Color of Money"で主演男優賞。監督やF1レースドライーバーとしても活躍した。自分の食品会社をもち、その利益から2億5千万ドルを世界中の数千の慈善団体に寄付をしたとある。
 5人の娘の署名のあるステートメントによれば、「父は自らの幸運に限りない感謝を捧げていた、父自身の言葉を借りると"いまここにこうしていること自体が光栄なことだ"」とある。
 共演者であったロバートレッドフォードの哀悼の言葉は原文のままがいい。
"There is a point where fellings go beyond words. I have lost a real friend. My life -- and this country -- is better for his being in it."
 「言うべき言葉もない。いい奴だった。私の人生は彼があることでいまも実り豊かなものとなっている。」

 1925年1月26日クリーブランドの郊外に生まれ、第2次世界大戦では太平洋戦線で通信兵であった。オハイオのKenyon大学へフットボールの奨学生として進学するも、酔っ払って喧嘩してクビになり、そこから俳優への道を目指すことになる。いかにもニューマンらしい。

 人生とは不思議なものだ。酔って喧嘩しなければ俳優になることはなかっただろう。不運が幸運の始まりとなった。
  2億5千万ドル、米国の成功者はチャリティに半端ではない金額の寄付をする。マイクロソフトの創業者ゲイツも慈善団体へ数千億円の寄付でつとに知られている。慈善精神は宗教が絡んでいるからか、日本人は真似ができない。日本では自らの信じる宗教団体へ多額の寄付をする人は数限りないが、慈善団体への寄付は珍しい。
 
 ただ、ひとつだけ残念なことがある。映画「ハスラー」のことである。ヨーロッパの貴族のたしなみとしてマナーの厳しいビリヤードが「ハスラー」によって品のないものとなってしまったことである。
 もともと貴族の遊びだった。皇族は教養の一つとして霞会館でビリヤードを習う。小林先生の後、いまも町田正さんが教えているのだろうか。昭和30年代中ごろまではビリヤード・ボールは象牙製だった。四つ玉と言われるボールが一番大きい。スリークッションはそれより小さい。エイトボールやローティションゲームはもっとボールが小さくなる。どういうことかというと、ボールは使っていると傷がつく。傷がつけば削ることになるが、次第にボールは小さくなる。最後がポケットゲームである。くずボールを使うしかなかった経済的に一番下層のビリヤードゲームといえる。マナーも当然悪くなる。映画「ハスラー」によって、品格にかけるビリヤードが全世界に紹介され、それがビリヤードだと思われてしまった。そのことが残念である。ポールニューマンは演技が実にうまかった。相当練習したろう。そこに彼の役者魂を感じる。それだけに影響力も甚大だった。

 ハスラー以後にビリヤードを習った人はマナーを知らない人が多い。すでに故人だが、歯科医の田塚先生や福井先生が品のよいビリヤードだった。中央ハイヤーの斉藤社長がその頃をご記憶だろう。彼は一度だけ吉岡先生のゲームの相手をしたことがある。根室では一番腕のよい人だが、そのときばかりはコチコチだった。
 昭和天皇のビリヤードコーチであった吉岡先生は白髪で穏やかな品のよい人だった。札幌中央通にあった先生のお店「ビリヤード白馬」がなくなってからもう二十数年たつ。
 存命の戦中派には懐かしい東京八重洲の桂姉妹のビリヤード店、戦後の八王子町田先生のお店(巨人の星の星飛雄馬のお父さんのような人である。鉄製の素振り用のキュウが在った)、平成では新大久保の小林先生のお店と八王子駅近くのビルにある町田正さんの「シルクハット」など名店をいくつか知っているが、「ビリヤード白馬」の品格は群を抜いていた(関西のビリヤード店は一店も訪れたことがないのでコメントできない)。
  
 楽しい映画をいっぱい見せてくれたポールニューマン感謝をしつつ・・・合掌

 2008年9月30日 ebisu-blog#326
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二人の先輩 [22. 人物シリーズ]

               二人の先輩

 昨夜から根室も雨である。たいした降りではない。昨日から全国的に雨模様が広がっているようだ。佐渡の一部で1時間110ミリもの降雨量を観測したというニュースがあった。局地的な豪雨は今日も予報されている。

 同じ学部の先輩によく勉強している人が二人いた。一人はN先輩の友人で公認会計士を目指していた人である。高校時代からよく面倒を観てくれたN先輩の友人であるその人に計修会(公認会計士受験者のための大学公認グループ)で何度かあったことがあった。そのときはまだ公認会計士になるつもりであった。公認会計士を目指して勉強する人のサークルである計修会でナンバーワンと当時から目されていた人である。商業高校出身だったと記憶する。Kさんと書いておく。
 春になると布団を自分の家へ送り返し一日10時間前後の勉強をしていた。布団があると眠ってしまうからという理由だった。寝るのは数時間の転寝だけである。それで身体がもつほど強健であったことも事実だろう。通常は睡眠不足で頭が回らなくなる。しっかり寝たほうが効率がいい。私の場合は彼の真似ができない。真似したら睡眠不足がたたってかえって効率を落とす。もって生まれた身体や頭脳の働きがそれぞれ違うということだろう。 
 
 もう一人よく勉強していた人がいる。大学院へ進学した同じゼミのT先輩の大学院での友人である。面倒をよく見てくれたT先輩に紹介されて2度ほどあったことがある。その当時、大学院の1年生だったが、マーケティングを専攻していて毎日10時間前後勉強するほどのめり込んでいた。よくのめりこめるなと感心したので記憶にあった。Taさんとしておこう。
 T先輩はある大学の教授であるが、最近用事があってTaさんと会ったというメールが来て、覚えているかという。もちろん覚えていた。
 彼はいま同じ大学の経営学部と情報ネットワーク学部の教授である。毎週2時間連続授業を2回東大でやっているという。非常勤講師で東大で教えているのだろう。東大の学生はよく勉強するとはそのTaさんの弁である。T先輩によれば最近は母校の大学院に研究者を目指す者がいなくなったという。われわれの時代が最後だったと。
 わたしは母校の大学院ではなく3年社会人を経験してから、他校の大学院へ進学したのでTaさんとはその後の付き合いはまったくない。たまたま、T先輩からの最近のメールで消息を知っただけである。

 最初に紹介したK先輩は3年次に公認会計士2次試験に合格したが、その後大手監査法人で京都の責任者をやっていると10年以上前に聞いた。もちろん代表社員の一人である。いまどうしているのかは知らない。Taさんは母校の教授となった。
 彼らに共通しているのは、ある時期10時間前後の勉強期間が1年以上続いたということだ。大学に残り研究者になった者は数年間そういうのめりこみ方をした者たちである。やるときにはやったつもりの私が、彼らのバイタリティーには脱帽するほどの徹底したのめり方であった。

 研究者にならんとする者は、数年間そういうのめりこみ方をする時期が来るだろう。のめりこみは危険が伴うことも事実である。少数だがしばらくの間、心療内科への通院が必要になる者もいる。リスクはあるが、のめりこみ続ければ道は拓けることを先輩たちが証明している。
(それほどの努力をしているようには見えなかった大学院の先輩一人と、後輩一人がやはり教授となっている。そうは見えなかっただけで、原書を読むスピードを考えると相当勉強していたことは間違いないだろう。かれらのようにそれほどののめり込みを見せずに、バランス感覚を保ちながら研究者になる者もまたいるのであり、その在り様は個性や能力に合わせてさまざまではある。)

 大学教授になりたい人や公認会計士なりたい人へ、何らかの参考になることを願って異色の先輩二人の消息をここに記す。


  2,008年8月20日   ebisu-blog#263 
  総閲覧数: 27,856/268days (8月20日7時55分)


懐かしき友人の消息 [22. 人物シリーズ]

  2,008年6月7日   ebisu-blog#194 
  総閲覧数: 15,831/194 days (6月7日00時30分) 

 まったくの音信不通、しかし、気になる昔(70年代半頃)の友人がいるので、どうしているかアマゾンで検索してみたら、期待通り何冊か翻訳書と著書を出している。一人は古代ギリシャやローマに関する分厚い翻訳書を何冊か翻訳しているEさん、もう一人は経済思想史の専門家のSさんだ。首都圏のある大学の経済学部長をやっていることがわかった。
 リスト『経済学の国民的体系』をテクストにした増田四郎先生の授業を3人で受講した内の一人がSさんである。ネットで検索したらある大学の教員紹介コーナーで写真入で紹介されていた。髪が白くなっていたが、言うことは変わらない。学生への一言に次のように書いている。

いざ就職活動が始まったとき、己の非力とやり残したことの余りの多さに気づき、自分の大学生活とは一体何であったのかと後悔しないように、日々精進することを望みます。」

 彼そのもの。この短い文に彼の生き方が過不足なく述べられている。変わらないものだな、そう思った。大学へ進学する諸君はこの短い文を声を出して繰り返し読んで欲しい。

 アダムスミスの"The Theory of Moral Sentiments"を当時、原書で読みふけっていた。経済思想史が専攻なのによくそんな本まで読んでいるなと驚くと同時にセンスのよさを感じた。彼が薦めるのでそのときに買った本が今も書斎の本棚に載っている。
 今月初めに、東北のある大学の教授をしている先輩が過剰富裕化論に関する著作を送ってくれた。その中にヴェブレンの顕示的消費が取り上げられていたが、Sさんはロジャーメイソンの『顕示的消費の経済学』を共訳している。
 ネットで検索してみると、同じゼミの後輩も96年から母校へ戻って教授をしている。かれは物流理論の専門家だ。生産から消費までが古い物流論だが、消費以後の廃棄や資源化・リサイクルをテーマに新しい物流理論の研究を続けていたようだ。学生へのメッセージにはこう書いてあった。

この低金利時代に、溜め込んだ、詰め込んだ知識は無力です。老後の足しにもなりません。知識を磨いて知恵に変え、怖い世間を渡っていくためには選球眼の確かさが重要です。物事を見るためにはちょっと離れて、周りをうろうろ歩いたり、クンクンと臭覚をきかせたりして、なるほどと思ったり、まっこんなもんかと納得したりする距離感も大切ではないでしょうか。

 原典に直接触れることの大切さは何度も繰り返し言いたい。しっかりした問題意識が原典を読み込むことで生まれるからだ。解説書を先に読んではいけない。そして、その道一筋にこつこつとまっしぐらに30年間歩むことを勧めたい。

 (分野は違うが、甲骨文字を2万ページもなぞった白川静という学者がいる。中国の古典も含めて、既存の漢字の解釈を全部ひっくり返してしまった。世の中にはすごい学者がいる。)


#70 現実の仕事は文系・理系の区別がない(4)-完- 2,008年2月3日 [22. 人物シリーズ]

2,00823日   ebisu-blog#070
 
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 西にも一つ開口部をもつ書斎から眺めるオホーツクは一面の氷だ。沖まで真っ白に見える。流氷が入ったというニュースは聞かない。結氷がこれほど急速に広がるはずもないだろう。どういうことだろう?西側には野付半島が横たわっているが、平べったいので見えない。その後ろに真っ白になった知床の山々が遠望できる。
 ,さて、いよいよIさんシリーズの最終章を書かねばなるまい。

【出生前診断】
 沖縄米軍からの要請である3項目(AFP、hCG、E3)多変量解析による出生前診断検査システム開発の仕事が完了し、Iさん、学術営業のS君、プログラマーのU君と一緒に沖縄へ出張したことがある。嘉手納米軍基地内はアメリカ領であり、治外法権の地であった。関税もかからない。当時2500円程度のマカディミアンナッツチョコレートが900円で買える。嘉手納基地に入った。ゲートでチェックを受けたが、連絡がすでに来ているらしくIさんが名前を言うと、「ドクターI」と大きな声で確認し、丁重に通してくれた。米国は肩書きがものを言う社会なのだろうか?国内でこのような扱いは見たことがない。
 基地内の会議室で米軍の医療関係者に仕組みを説明して検査受託の準備ができていることを告げると大いに喜んだ。後にIさんは、この仕事がきっかけで"General Meeting"に何度か招待された。当時、S社は世界一厳しい精度管理基準であるCAPライセンスをもつ国内唯一のラボだった。
 米軍は女性の兵士に出生前診断を義務付けていたので、米国内と同様に日本にある嘉手納基地でも、女性兵士に同じ検査をする必要があった。ニューヨーク州から文献を取り寄せて、データ解析をし、そのままシステム化した。ラボのシステムを変えるわけには行かないので、沖縄営業所のパソコンで処理できるように、足りない情報を追加入力できるようにして、検査値とマッチング処理を行ってから、データ解析をして検査値を出力するようにした。仕様書は私が書き、C言語でのプログラミングは若いプログラマーのU君が担当した。
この検査で一年間に2件異常値がでた。この検査は母体血によるスクリーニング検査なので、陽性になると確認のために、羊水を材料とする染色体検査が行われる。結果は2件とも染色体異常だった。
 この検査では黒人の基準値は白人よりも20%ほど高く出る。オリエントではどうだろうかという疑問が当然湧く。沖縄米軍での実績を背景に、今度は慶応大学医学部との共同研究がなされた。1990年に研究をスタートさせた。製薬メーカには当該検査に関わる試薬の無料提供をお願いし、快く承諾してもらった。S社は検査とSASシステムによる解析を担当した。3000例以上の母体血を検査し事実上の日本標準値が出来上がった。なんと、白人に比べて日本人の基準値は30%高かったのである。研究成果は慶応大学医学部が発表している。もちろんS社の名前は一切出てこない。ネットで“MoM値”で検索すると情報が出てくるだろう。慶応大学医学部と組み合わせて検索キーにすると共同研究時代のデータが出てくるだろう。このドメインをクリックすればすぐにみれる。http://ci.nii.ac.jp/naid/110002109039/en/
 この仕事を営業本部学術営業課で担当したのはS君だ。米軍と慶応大学の件で一緒に仕事をした。彼もその後スピンアウトして起業した。健康医学研究所という会社をやっている。ネットで検索できる。ブログもなかなか面白い。臨床栄養医学を日本に紹介したパイオニアだ。この数年、何冊か本も書いている。名前は会社名で検索すればすぐに判明するので臨床栄養学に興味のある方はネット検索して欲しい。

 学術開発本部の次の異動部署は関係会社管理部である。十数社に増えた子会社・関係会社を管理するセクションだった。新設された部署を任されたO部長は旧知の人だった。電話ひとつで異動を承知してくれた。そこでは三井物産から買収した千葉の臨床検査子会社の新システム構築による経営再建プロジェクトを担当した。会社の買収も二つ担当し、そのうちの一つである郡山の会社へ経営管理担当役員で出向することになる。わずか15ヶ月であったが、ここでも面白い人間ドラマが展開する、いつか書くことがあるかもしれない。人の縁とは異なものである。

 出生前診断に特化した会社が米国ナスダック市場に上場されていた。その会社の買収提案が持ち込まれたことがある。ユダヤ資本のベルトハイムシュローダー(WS社)が仲介役だった。100ページほどもある提案書をもってきた。VIVIGEN社という名前の会社である。実はその会社をよく知っていた。染色体画像解析装置を英国の会社から輸入したときから知っており、創業社長のグレッグとも顔を合わせていた。WS社は100億円近い買収提案を持ちかけてきた。3日で買収提案の要旨を翻訳して社内稟議にかけた。英語に堪能なだけでは無理な仕事である。V社の経営内容が米国流のやり方で細かく分析されている。そちらの専門知識がないと歯が立たない。ところが、輸入商社に勤務していた頃からその分野には詳しかった。日本では翻訳されていない原書を読み、海外の取引先50社の連結決算書や営業報告書をそうした目で見ていた。自社の経営分析や長期計画用に学んだ知識を科学技術計算用プログラマフルキャリュキュレータHP97を使って応用し、技術を磨いてあった。必要な専門知識は全部そろっていたのである。
 日本と法律が違うので出生前診断に何人もの専門医によるサポートが必要なことと、出生前診断分野に手を出すことが日本国内で物議をかもす危険が大きかったことを考え、手を出すべきではないとの結論の稟議書だった。障害者団体や産婦人科学会からのクレームを恐れたのである。生命倫理の観点から議論が起きることは目に見えていたし、残念ながら一部の団体はこの問題に対して感情的に反応するばかりで、冷静な話し合いができないことが事前にわかっていた。当時は気がつかなかったが、倫理学会長はゼミでご指導いただいた恩師の市倉宏祐先生だった。趣旨を話せば全面的に協力してくれたと思う。なぜ、気がつかなかったのだろうか、不思議である。
 V社社長のグレッグはナイスアメリカンだった。国際金融機関のWS社は当時企業買収事業で世界ナンバーワンの会社だった。彼らの作った資料を見て、自分の開発していた、25の経営分析指標による総合偏差値評価をベースにした企業評価額が基本的に彼らの評価と一致する事実を確認できた。これは収穫だった。十数年やってきた経営分析システムが世界の先端を行っていることがわかった。経営分析の職人として世界の最先端を走っていたことが確認できてうれしかった。
 使っていた技術はいくつかの分野の基本技術にすぎない。組み合わせている分野の数が少し多い。現実の仕事は文系とか理系とかという分類にはなっていない両方の分野が融合している。私がやってきた仕事のあとを見ればそれが理解できるだろう。だから、文科系の諸君には数学を勉強しろといいたいし、理科系の諸君は文科系の専門書をたくさん読めと忠告したい。企業はそうした人材を求めている
 たとえば、社員が千人以上いても原価計算とコンピュータシステムにしっかりした専門知識をもつ者は一人か二人しかいない。そして、臨床検査会社の原価計算システム構築のためには臨床検査に関する専門知識が欠かせない。制度管理に使われている統計学に関する基礎的知識ももちろん必要である。原価計算とつながる一般会計システムについての専門知識も必要である。芋づる式に学習すべき分野は広がってゆくのが現実である。「事務の職人」はそうした現実に正面から挑み続けることで、よって自らの技術水準を磨き、いつか「名人」の領域へ到達しうる

 Iさんは仕事に関係する本をよく読んでいた。開発業務の担当役員は、最先端の技術情報に接していなければ務まらない。予算が潤沢にあったので新しい医学関係の専門書が出版されると次々に購入して片っ端から目を通していた。精読ではない、濫読派である。渋谷の進学塾講師時代の友人Eさんを思い出す。彼は翻訳家になっていたことは前にブログで書いた。Iさんも相当な濫読派で、ザーッと目を通し、要点をつかんだら、関連のある検査試薬開発を担当している者へ回していた。本には興味がない、俺が必要なのは尖端情報だと言わんばかりの読み方だった。なかなかエネルギーのある男だった。あるときこんな事を冗談めかして言った。「○○に使われることになるかもしれないな」、私が持つ経営に関する思想と専門技術がどれほどのものなのか一年ほど一緒に仕事して気がついたらしい。横で聞いていた準社員がにやりとした。実際に治験子会社でそうなるところだった。治験検査子会社の社長にはうってつけの人材だった。根回しは終わっていたが、ちょっとのタイミングのずれで先にお辞めになり外資系の会社へ行った。あのとき一緒に仕事をしていたら、店頭公開ぐらいはする気が起きたろう。店頭公開会社の社長の椅子に座ってもらうつもりだった。不採算部門を両社で分離して設立した赤字子会社を本社よりも高収益の会社に作り変えたところだった。
 自分が社長の椅子に座るつもりはなかったから、役割が終わった気がした。赤字会社を本社以上の利益率の会社に作りかえることに情熱を燃やしただけである。それも3年かからずに実現できた。そこからは凡庸な人材で可能な仕事である。このような事情で治験分野の仕事に興味がなくなったのである。本社社長のKさんと約束していた仕事も期限を待たずしてすべて完了していた。臨床検査業界にはもうどきどきするような仕事がなさそうにそのとき思ったのである。
 首都圏で老人医療の展開を考えていた。療養型病床群の病院を拠点にナースステーションなどの在宅介護や老健施設によるシームレスな老人医療事業を構想していた。金太郎飴方式で首都圏から全国制覇してみようという夢がだんだん大きくなっていた。
 会社の収益の多寡は経営にタッチする数人の人材とそれを具体策に落として実行に移すことのできる人材如何で決まる
 私の書棚には数冊、原書の医学専門書があるが、そのうち2冊は彼から担当していた開発項目の研究のために頂いたものだ。このセクションにいた当時は、仕事の時間を遣って米国の科学雑誌SCIENCEやダーウィンの進化論が載った科学雑誌として有名なNATURE、医学雑誌のOncogeneなど、読みたい放題であった。そういう機会を与えてくれたIさんに感謝している。彼はその後スピンアウトして、外資系の会社の社長をした後、自分で会社をやっている。
 このセクションで過ごした期間はたった2年間であったが、基礎知識を固めるために、"Molecular Biology of the CELL"(細胞分子生物学)など自分で買った原書も数冊ある。ステッドマン医学辞典では調べきれない用語が出て来るたびに、この本を引いた。頂いた本は以下の2冊である。いまでは懐かしい思い出とともに書斎の数千冊の本の中にうずもれている。

 "DECADE of NEUROPEPTIDES, PAST, PRESENT, AND FUTURE"
 "STRUCTERE, MOLECULAR BIOLOGY AND PATHOLOGY OF COLLAGEN"


現実の仕事は文系・理系の区別がない(3) [22. 人物シリーズ]

 2,00823日   ebisu-blog#069
 
総閲覧数: 3106/69 days (23日18時00分現在

 Iさんは青山学院大学で化学を教えていたことがあるようだ。その時代の教え子の一人S崎さんが開発部にいた。わたしが担当した製薬メーカとの検査試薬共同開発は二つともS崎さんから引き継いだものだった。日本DPC社の型コラーゲンと塩野義製薬の水癌マーカーである。
 Iさんは住友化学の臨床検査子会社でラボ所長をしていた。その彼が1980年代の終わり頃に私のいた会社へ移ってきた。ふたつくらい年上だったろうか。英語が堪能で、エネルギッシュな押しの強い男であった。本もよく読む文系の要素も兼ね備えた人物である。もっとも読む本は医学関係の専門書がもっぱらではあるから、濫読家ではあっても文系の要素ありとは言いがたいかもしれない。あえて文系の要素を挙げれば英語が堪能なところか。

話を元に戻そう。開発部は各人各様のやり方で製薬メーカとの検査試薬の共同開発をしていた。毎週各人の進捗状況を確認するための会議を開いていたが、個別に事情が違い、共通のものさしが当てられない。会議に時間をかけてもなかなか要領を得ず、時間がかかる。生産性の悪い会議に時間を費やすのは無駄だった。バックグラウンドの異なる者たちそれぞれ自分流のやり方をとり、なかなか手の内を明らかにしない。小出しにする。開発部は7人ほどで、試薬の共同開発が20~30本ほど並行して行われていた。その共同開発手順の標準化にシステム開発技術が役に立った。
 
 任されるのは好いが、仕事の手順がわからないので、数名から開発手順をヒアリングし、その情報をパートチャートに落とした。そうして「検査試薬共同開発標準業務フロー」が完成した。その図のどこに自分の仕事が位置しているのかを報告させれば、各プロジェクトの進捗状況や問題点が一目でわかる。開発部全員にお互いの仕事の進捗状況が理解できるようになった。開発部を所管する取締役のIさんには便利なツールだった。標準化によって、チーム全員の仕事が相互にどの程度の進捗かが簡単わかるようになった。
 PERTProgram Evaluation Review Techniqueの略である。アメリカでポラリスミサイル・プロジェクト用に開発されたスケジュール管理技術である。米国の公共工事の入札にはこのチャートを添付しなければならないようだ。スケジュール管理の標準ツールである。ガントチャートに代わってコンピュータシステムの開発には当時(1980年代)から当たり前に使われている。システム開発ではごく普通に使われている技術に過ぎない。

【日本標準検査項目コード】
 前に紹介した臨床診断支援システム開発プロジェクトのテーマの一つとして考えていた日本標準検査項目コードを制定する企画は、臨床病理学会のS先生を中心に、学術開発本部の学術情報部が中心になって進められていた。すでに項目コードは完成し、事務局はS社システム部に移管していた。3年ぶりに会議に出席した。国際標準コードにまでもっていくつもりでS先生を引っ張り出したのだが、何か支障があり国際標準の検討はとりやめになった。事務局は当初B社のシステム部門が担当していた。S社システム部門に移管するときにS先生からクレームがあったと聞いている。S社システム部門は検討会立ち上げに反対し、参加を拒否していたからだ。いまさら何を言うというもっともな主張である。しかし、この検討会は臨床診断支援システムのジョブの一つとして企画し、B社からの業界標準コード検討の呼びかけに便乗して、それを日本標準コードの検討会へと変えようと仕掛けたのは私と当時システム開発課長だったKさんである。システム開発部長が反対していただけである。システム部門が正式に参加していないのは大手6社の内、S社のみだった。学術部門とシステム部門から担当者を出して検討していた。S教授は怒っていたが、笑って矛を収めてくれた。事情を知らずに検討会を一生懸命に引っ張ってくれたB社のシステム担当取締役(当時は部長)には申し訳ない結果となった。
 B社は大掛かりなラボ自動化を計画しており、ラボシステム全体を再構築するため検査業界で検討したコードを利用しようとしていた。検討会はその手段であった。だからS社のシステム開発部長は反対だった。それを日本標準コード検討会へと変えることで病院と臨床検査会社との検査データのインターフェイスを簡単にしてしまった。病院も臨床検査会社もそれぞれ自分の事情で勝手なコード体系を導入してよい。データのやり取りに標準コードを使う。だから、自分のところの検査項目コードと標準コードの変換テーブルをもつだけでよくなった。2年に一度、保険点数が変わる都度、事務局であるS社から各社へ改定された保険点数がセットされた標準項目コードデータが配られている。各社は病院とのインターフェイスに配られたテーブルを利用すればよい。病院毎の個別対応がなくなった。テーブルを配布することで自動変換できるようになったのである。
 日本は国際標準に貢献したことがほとんどない。臨床病理学会長のK先生は創業社長のFさんとは旧知の仲であり、国際学会の学会長でもあったから、千載一遇のチャンスだった。S教授はそのK先生の一番弟子である。こういった仕事もIさんが所管する学術開発本部の担当であった。縁は異なものという実例がここにもある。S教授からの「どの部門なら担当できる?社長に人事異動を頼むから」という申し出を3年前に断ったが、気がついてみると、迂回して担当部門に来てしまっていた。


現実の仕事は文系・理系の区別がない(2) [22. 人物シリーズ]

2,00823日   ebisu-blog#068
 
総閲覧数: 3086/69 days (23日10時20分現在
 
 今度は仕事を中心にして、Iさんについてもう少し語りたい。専門分野があまり重ならない者(職人)同士が手を組んだときに生まれる仕事パワーがどのようなものであるか、一つの実例になるだろう。クロスオーバ現象とでも名づけたい。

  彼は思い切りがよかった。Iさんはまず異動した私にラボ見学を任せた。学術情報部のラボ見学担当三人の反対を押し切ってである。営業要望でラボ内の見学案内をする。対象は重要顧客であり、ほとんどが大学病院や国公立病院のドクターであった。だから、下手な案内の仕方は営業クレームにつながる。経験のない者に任せるなどということは考えられない。通常2年かかって人を育てる。それでも営業からクレームの入ることがあった。まず、ラボ見学に一度ついていけというのでついていった。ベテランのやるところをみて勉強させるつもりだろうと判断した。一回ついて廻ったら、次は単独で説明してみろという。しかも本番である。実際にお客様を案内した。見学には2時間ほどかかる。全部見せたら4時間かかるだろう。だから興味のありそうなところを重点的にご案内する。
 初回であるから、ベテランのラボ見学担当者複数が万が一の補佐役としてつけられた。当たり前の用心である。同時に彼らを納得させるためでもあった。最初のラボ見学の後で、Iさんに呼ばれた。一発でクリアである。なぜか?
 検査機器の共同開発にタッチしていたことから詳しい検査機器があちこちにあった。検査機器はマイクロ波計測器に比べてずいぶん遅れていたが、基本構成が同じだった。ディテクトする周波数が違うだけだった。マイクロ波ではなくさまざまな波長の光をディテクトするものが多い。赤外の分校光度計は赤外線を、蛍光光度計は490ナノメートルの蛍光を、その他炎光光度計や原子吸光光度計もあった。実にさまざまな波長の光をディテクトして血液の中に含まれる成分を特定する。
 基本構成が同じだから、産業用エレクトロニクスの輸入商社で5年間毎月勉強会に出ていた知識が役に立った。世界で最先端の機器も数多く輸入していたので、技術部でよく見せてもらっていた。海外メーカからも商品説明に毎月のようにエンジニアが来て説明会を繰り返していた。そのたびに管理部門だったが説明を聞いていた。お陰で営業や技術部に友人が多かった。
 ラボ内で使っているディテクターと情報を処理するコンピュータとそれを結果情報を受け取り処理するラボシステムという単純な構成だったので、検査部ごとに詳しい説明ができたのである。ガスクロやガスマスも取扱商品であった。HP社のコンピュータがデータ処理部に使われていたからなじみのあるものだった。
 そういうわけで、ラボ見学担当の責任者から説明のマニュアルを渡されたが、目は通しただけでほとんど使わなかった。機械やコンピュータについて素人が書いたものであったからである。ラボ内にはメーカと共同開発した検査機器やメーカに自社仕様で作らせた検査機器がごろごろしていた。
 結石分析前処理ロボットはラボ管理部のOさんが熱を入れて担当した機器だったし、染色体画像解析装置はニレコ社との共同開発が失敗に終わった辺りから、購買機器担当として輸入品の性能確認に立ち会っていたからよく知っていた。LX3000は初めての酵素系分析機の大型機械だった。これは個人的にある特別な事情があったので、栄研化学の営業担当者が私に話を持ち込んできたものだった。酵素系のディテクターはRIAに比べて1000倍ほど感度がよい。出始めだった。いまも十数台並んでいるだろう。市場に出す前に、フィールドテストをS社でやり、半年独占使用の約束を取り付けていた。メーカ側は製品を完全なものに仕上げて市場に出せる。クレームや修理対応に費やすお金を考えれば、私の提案は理にかなったものだったろう。途中で、ラボシステムとのインターフェイスに問題が出た。現場とメーカの間にはいって、ヒータの電源のみ落とし、回路の電源は切らないように細工してもらった。一度電気を切ると再現性が悪い。精度が安定するまで2時間ほどかかったからである。
 産業用エレクトロニクスの輸入商社の取り扱い品目には周波数標準機もあった。オシロクォーツ社の製品である。性能が安定するまで2週間ほど「火(電気)」を入れっぱなしにする。そういう知識も役に立った。検査サブシステムとのインターフェイスは切った。オフラインでのデータ渡しに決めた。パソコンが少々いじれるぐらいで、ラボサブシステムはやれるわけがない。検査サブシステムとのインターフェイスはこちら側に問題があった。シリアルインターフェイスでの接続などマイクロ波計測器では考えられない。GPIBが当たり前だった。受け側が業務用には到底使えないパソコンだった。当時のパソコンは信頼性が低かった。案の定開発は失敗し、50台あまり購入したパソコンは開梱もせずにそのまま放置して廃棄処分した。金額的にはたいした問題ではない。そういう失敗が責任を問われずに済むところがS社のパワーの源だったかもしれない。4年ほど後になってからDECのミニコンで検査サブシステムが構築された。

 ラボ見で参考にしたのはRI部の精度管理サブシステムのマニュアルだけである。これも、コンピュータと統計学についてはエレクトロニクス輸入商社の時代から熟知していたから、一度全体を見ただけで何をやっているかは簡単に理解できた。
 つまり、ラボ見学を担当する準備は何年も前からやっていたようなものだった。初回のラボ見対応では、ぜんぜん違った観点からラボの自動化を説明した。担当者たちが納得したので、その次からは単独で案内して回った。

 大学の先生たちをウィルス検査室に連れて行ったときに見せたいところがあった。蛍光顕微鏡を使った検査室である。カールツァイスの蛍光顕微鏡が12台並んでいる。当時はニコンの蛍光顕微鏡の2倍の値段がした。1台300万円である。機器担当時代にウィルス部からニコンかオリンパスの蛍光顕微鏡の購入申請があがったことがある。それをカールツァイス製に変えさせた。電子天秤も世界で最高の製品であるメトラー製に統一した。優れた技術は優れた道具を使ってこそ活かされる。予算を統括していた経験があったから、私が根回ししたものはすべてそのまま通った。ラボの検査課長からは歓迎された。だから、ラボ見で検査現場に入ると対応がよかった。ずいぶん親切にしてもらった。ラボ見が終わると大学の先生から「どの検査部にいらしたのですか?」と訊かれることが何度かあった。もちろん一度もない。

 異動したばかりのわたしにラボ見学対応を任せたIさんはなかなかの眼力の持ち主だ。彼には私が前職で何をやってきたかは一度も説明したことがない。説明の必要がなかった。動物的な勘のよさがIさんに備わっていたからだ。
 決断の大胆さと速さは、わたしにテイジンとの合弁会社を任せた(当時)社長のKさんによく似ている。Iさんはあるとき海外製薬メーカ相手のラボ見用パンフレットを作れと私に命じた。Iさんはある外部の人に英文のラボ見資料の翻訳を依頼した。出来上がってきて、私にその写しをみせた。ざっとみたがとても使いものににならない。検査のみならず医学専門用語がまるでわかっていない。「使えませんね、まるでお分かりになっていない。おそらくこの分野の知識がないのでしょう」と伝えた。「俺たちで書き直すしかないな」と私に命じた。Iさんに手伝ってもらって、10ページほどの薄いパンフレットが完成した。漫画風のカットを10個ほど入れた。検査現場でイラストにしたい場面の写真を撮って、学術情報部にいた武蔵美術大出身のパート社員に頼んだ。カットにあなたの名前を入れると話して仕事してもらった。雑誌のタイムには優れたイラストが多いが、イラストレータのサインが入っている。力がはいって当然である。その方式を採用した。なかなかシンプルでよい絵を描いてくれた。パンフレット作成も専門家がいるのに、やったことのない仕事をよく任せたものだと思う。
後もう一回Iさんとの仕事について語りたい。開発マターの仕事について語る予定である。



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