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現実の仕事は文系・理系の区別がない(1) [22. 人物シリーズ]

2,00823日   ebisu-blog#067
 
総閲覧数: 3059/68 days (230000分現在

-学術開発本部の頃(1990年前後)-
 ebisu-blog#65「学校配置と交通環境の変化 コストカットは可能か」で、業務削減プロジェクトを担当して、30%の業務カットをした話しを書いた。私の経験では、管理部門に関しては大幅な業務削減と人員カットは可能だ。個人別に担当している業務を棚卸しして、本当に必要な業務かどうかを一つ一つ丁寧に具体的に検討すればよい。そうして重要度の低い順に30%カットしていく。おそらくはどのような業種でも事務部門の業務30%カットは可能だろう。コンピュータシステムに載せてしまうと精度が十倍よくなり、仕事量が十分の一になる業務もざらにある。要は「なせばなる、なさねばならぬ何事も」の精神で敢然とチャレンジすることだ。


 現実の仕事はどのような様相をもって現れるのか?会社で人事異動がどのようなきっかけで行われるのか?どのような技術をもっていればどのような部署へ移動が可能なのか?人間関係はどのように絡み合うのかなど?これから社会へと出て行く若い人たちの参考になるかもしれないので、個人的な経験を書いておこう。高校を卒業する80%の人たちが根室の外へと出てゆく。実例をもって都会の現実を伝えておきたい
 ここで書いたのは、紳士服の製造卸会社⇒産業用・軍事用エレクトロニクスの輸入専門商社⇒国内最大手の臨床検査会社⇒276ベッドの療養型病床群の病院⇒外食産業の会社と、業界を変えて転職を繰り返したうちの一つの会社でのことである。これらの中には上場会社が3社含まれる。知らないうちに武者修行の道へ分け入っていたのかもしれない。なんとなく「職人仕事」に幼い頃から憧れがあった。


【学術開発本部担当取締役のIさん】
 所詮は人間社会、人と人の関わりが大切なことは言うまでもない。Iさんとの関わりはなんとなくウマが合ったところからお付き合いがはじまっている。お互いに確かな専門技術をもった「職人」であったことが惹きあう引力を形成していたのだろうと思う。このなんとなくという空気が大切だ。こういう出会いからはじまった人間関係は多かったかもしれない。Iさんとの関係での特徴はほとんどお互いの専門領域が重ならないということだ。お互いに専門分野がまったく異なりながら、なんとなくお互いを認めるところがある。こういう何か一見矛盾したところがありながら、共通の匂いがするところが面白い。
 こちらが経理・経営管理・コンピュータシステム開発・理化学機器などの専門分野に精通しているのに対し、Iさんの専門分野は有機化学を核にして、周辺に臨床検査や医学の分野の経験と専門知識を積み上げていた。一見して切り結ぶところがほとんどないようにみえるが、同じ土俵に上がり違った技で切り結ぶ未来はなんとなく予感できた。お互いに相手の技術と経験に興味がある。手を組むことで自分独りではできない仕事が可能になる。馬の合うのを感じただけでなく、このような確かな読みもまたあった。直接誘われて異動したのは入社5年目、89年だったろうか。

 842月に入社早々に担当した上場準備のための統合システム開発が8ヶ月で終わり、300億円の予算編成を2度担当した。システムや予算編成のマニュアルを作って引継ぎができるようにしたところへ、八王子ラボに本社管理会計課から試薬価格交渉のお手伝いに行って、2ヶ月ほどお手伝いをしたらそのまま異動辞令が出た。購買業務には統合システム開発のときに、会計システムとつながる他システムとのインターフェイスを一人で設計したこともあり、購買在庫管理システムについても詳しくなってしまっていた。
 試薬を直接輸入する話が持ち上がり、統合システムでどのように処理すべきか堂々巡りの会議が2ヶ月続いていた。暗礁に乗り上げているので見かねて、その仕事を引き受けた。仕組みを3日で作り、関係書類を設計して業務フロー図を描き、関係者を集めて説明した。こんなことができるのも輸入商社にいたときに統合システム設計の一部として実務設計を経験していたからである。そんなこんなで購買課には関係が深くなっていた。
 予算管理上、検査試薬の値下げが必要になり、業者との癒着が噂されていた購買課へ本社から送り込まれた節もあった。システム関係と購買の両部門の業者との癒着も目にし耳にした。購入金額が大きいから数百万円なら担当レベルで手にできる。私は一度もそのようなことをしたことはないが、やっている者はいた。メーカの営業担当者も上司の了解を取るのが簡単なようで「営業経費」と割り切っているようだった。営業担当者とはいっても大口取引先だから、課長から部長クラスが担当者のケースが多かった。
 価格交渉プロジェクトチームは年間6070億円購入していた検査試薬の購入額をきつい交渉によって15%ほど下げた。その後、毎年価格交渉が行われるようになった。目標管理による検査試薬値下げ交渉が常態化したのである。本社で予算を統括していたときに試薬コストの低減と複写費(1億円)の30%カットは自分が言い出したことだから、とくに押し付けられた感じはない。製薬メーカとはギブアンドテイクであるから、価格の交渉にはテクニックがいる。毎年交渉が楽しかった。卸問屋を通さずにメーカを呼んで直接値引き交渉をした。

 1台5000万円する染色体画像解析装置を3台買ったことがある。英国のIRSという会社から輸入したものだ。2台購入する交渉に条件をつけた。1台バックアップ用にただで置けと交渉した。その代わり、他の臨床検査会社の見学を許可した。つまり宣伝用のデモ機としてバックアップ機を置かせたのである。担当営業には業界第2位の会社へ営業をかけろと示唆した。No.1の当社が、厳しい社内検討の結果購入したと言って良い、その代わり1円も値引きをするな、必ず買うからと伝えた。商売はうまくいって、彼から英国のセントアンドリュースでゴルフしないかと誘いがあった。もちろん向こうの交際費で、接待である。ゴルフ発祥の地であることは千葉テツヤのゴルフ漫画で知っていた。しかし私はゴルフには興味がなかった。根釧原野にゴルフ場が20箇所も計画されていたことがあり、自然破壊の頑強の一つであるゴルフはしないと決めていたからだ。惜しいことをした。

 本当はラボで臨床検査をやってみたかった。本を読んでいるだけではいまいち感触がわからない。中身がわかった気がしなかったからである。だから、当時世界一の臨床検査ラボである八王子ラボに興味があった。管理会計課で統合システム開発をやる傍ら、固定資産管理システムを作り、ラボの全検査機器の実地棚卸をして、内容不明の記述の多かった台帳を整理した。決算時には4人×2ヶ月の仕事が、それ以後、私一人で一日仕事になった。8人/月の仕事が1人/日になった。240人/日が1人/日になったと言ったほうが事態が理解できるだろう。上手なシステム化はこのような驚くべき効果をもたらす。
 実地棚卸しに際しては、儲かっている会社だったから、それ行けどんどんでメーカと共同開発が進められ、杜撰な実例にもでくわした。玉石混交、いろんな例を見ることができた。機械は元々好きだったし、産業用エレクトロニクスの輸入専門商社で
5年間マイクロ波計測器の勉強会を欠かしたことがなかったし、「電算室」で開発責任者として統合システムの外部設計もしていたから、コンピュータに関する専門書を読み漁り、コンピュータや計測器には専門家並みに詳しくなっていた。結局、現場で検査をすることはかなわなかった。一年で好いからやってみたかった。

 

 次回のブログは、Iさんの下で一緒にやった仕事を中心に書こう。少し面白くなるかもしれない。ジャンルの異なる専門技術をもつ者同士が仕事をはさんでクロスオーバーする。


遅咲きの櫻 [22. 人物シリーズ]

2,008年1月5日   ebisu-blog#042
総閲覧数: 1,886/40 days (1月5日13時00分現在)
 

 わが根室に咲く千島桜が日本で一番遅咲きである。うちの庭には千島列島の最北端アッツ島の櫻もある。こちらは可憐な薄紫がかった花をつける。
 このブログにはどういうわけか写真が一枚もない。いまはもう写真の趣味がないということもある。以前、地元の写真家、浜崎さんのホームページを紹介したことがある。
 昨日、同級生から来た年賀状に書いてあるホームページを開いてみたら、きれいな「絵手紙」がたくさん掲示されていた。40代半ばからはじめたようだが、なかなかセンスがいい。

 高校の同級生には劇画家の神田猛をはじめさまざまな才能をもった人がいる。60年続いた「根高最後の総番長」、Kさんは地元企業で総支配人をしている。人望を生かしたのだろう。共産党まっしぐらのAさんは高校時代以来節を曲げたことがない可愛気のある頑固者だ。子供を3人とも釧路湖陵高校から国立大学に入れた。見事な教育パパである。彼の教育法はユニークで効果がある。いつかブログで紹介したい。東京渋谷にビルを構えてアンダーグラウンド劇場関係の仕事をしている女傑カツエ(元根高美術部長)もわがクラスのメンバーである。20代後半から大橋巨泉の「11PM」に何度か出演していた。ユニークな奴が多い。一年のときの同級生の早勢要は40年近く税理士をしているが、有楽町に事務所を構えて久しい。小学生の同級生で公認会計士でドイツ銀行に勤務している人がいる。同級生ではないが商業科の同期で同じ大学を卒業したTさんは6年前から北海道放送の取締役東京支社長である。高校時代はそこそこのワルだった。現職だからこれ以上は書かない。6年ほど前に東京で同期会をやった後、3軒目は彼と二人だけで銀座で飲んだ。いい奴だ。まるっきり付き合いがなかったが、中学時代の隣のクラスのIさんは野村證券の副社長をやったあとJAFCOの社長をしている。一部上場会社S社のF社長と関係会社に係る問題で90年代半ばに一度交渉に行ったことがある会社である。本社は浜松町の東芝ビルだった。
 一番絵の才能に恵まれたTKはデザインの仕事に就いて、ついに漫画家としての才能を職業に活かすことがなかった。もったいないと惜しまれる。石の森章太郎クラスの漫画家にはなっていたろう。

 話を戻そう。旧姓川尻(田中)かず子、横浜で絵手紙のカルチャースクールの先生をしているらしい。なかなかユニークな絵である。彼女は世界遺産の知床半島、羅臼町に生まれ育った。そして高校が根室だ(九人会のメンバーにも一人羅臼出身者がいる)。大自然の中で育んだ感性が「絵手紙」で開花したようである。絵に添えられた文章も字体に趣があっていい。
 思うに根室人の優れた武器のひとつは、人の手のあまり入っていない北海道の自然の中で育んだ感性かもしれない。是非、下記のアドレスをクリックして、遅咲きの櫻(叱られそうだ)の才能のほどをご覧あれ。

   http://www.asahi-net.or.jp/~pf2m-tnk/


世界チャンピオン小林先生と道元:教育の本質 [22. 人物シリーズ]

2,007年12月31日   ebisu-blog#039
総閲覧数: 1,751/35 days (31日16時30分現在)
 

―教育の本質― 小林先生と道元禅師 

小林先生?what is he?

【ビリヤードと勉強法】
 私はビリヤードが大好きである。家がたまたま日本最東端のビリヤード場だったこともあり、小学校に入る前からビリヤードをやっていた。店の名前は「北球ビリヤード」という。親父が癌で亡くなる前に店を閉めたからとっくに存在しない。思い出として残るのみだ。三波春夫が根室で公演するたびに寄ってくれた。義理堅く浮ついたところのないきちっとした人だった。「ご主人」というふうに親父を呼ぶ人は三波春夫以外にはいない。一部の親しいお客さんは「○○さん」と苗字ではなく名前で呼んでいた。わたくしのほうは子供の頃、お客さんから「トシボー」と呼ばれていた。平成3年の夏に「トシ坊」と呼ぶ人がいるので、四十過ぎのわたしをそう呼ぶのは誰かと振り返ったら、歯科医のF先生(平成3年にお亡くなりになった。現在同じ場所で歯科医をしているのは息子さんである)だった。二十数年前には焼き肉店もやっていたので根室ではそちらのほうが馴染みが多いかもしれない。(釧路医師会病院の外科医G先生とともに)わたしの(消化器内科の)主治医であるO病院のO先生は中・高校生の頃に、親子で私どもの焼肉店を贔屓にしてくれた一人である。こちらも親子2代で診てもらっている、大事な先生である。
 ビリヤードは計算に左脳を、そしてイメージを作り上げて、そのイメージ通りに身体を使ってボールをコントロールする。イメージを扱う際に右脳を使っているので、知らない間にイメージをコントロールできるようになっていた。気がついたのは中学生のときだった。これは勉強にとても役に立った一つの授業につき2~3分間で完璧な復習が可能になる。実際に高校時代そのような勉強法を採り入れていた。
 
黒板に書かれた文字を記憶することで授業の細部を頭の中に再現できるようになっていた。ビリヤードのテーブルと黒板は同じ色のグリーンだし、手球の色はチョークと同じ白色である。偶然の一致だが、これが効果を大きくした。
 頭の中でいくらでもビリヤードを続けることができるほど、イメージを自在に創り上げ、維持できる。3か月分の授業なら、黒板をあたかもページをめくるように授業を再現できた。100%とはいえないが、90%そうしたことができれば試験対策には充分である。生徒会、そろばん塾の先生、店番と忙しい高校生活であった。夏休み・冬休み・春休みにまとめて一日8時間2週間集中的に勉強する以外には時間が取れなかった。にもかかわらず、高校時代に勉強で苦労したことはない。授業が終わった後2分間目をつぶって黒板の字を頭の中に再現しておくだけでよかった。通学帰りのバスの中で5分間好きな科目の授業を頭の中に思い出すだけで復習が終わった。これだけで毎日2~3時間の勉強時間量に匹敵していたように思う。
 しかし、この勉強法は大学受験には通用しなかった。金融機関に就職して公認会計士を目指すつもりで商業科を選択し、高校2年から公認会計士受験用の参考書を読み漁っていた。高校3年の秋までは、大学に行くつもりはまったくなかったのである。半年で間に合うはずがない。この勉強法が大学受験に役に立たなかったのは、この勉強法のせいではない。大学受験に必要な情報が高校の授業にはほとんどなかったからである。それと3年分を記憶することは無理があった。大学受験はまた勉強法が違う。今は自分が編み出した技術の有効な利用方法がわかるが、当時はどのようにやればよいのかわからなかった。KJ法のようなイメージ整理技術を使えば、記憶中心の科目は簡単に制覇できることがわかっている。大学院入試では一日8時間以上の集中学習トレーニングが役に立った。4週間で間に合った。
 右脳を使ったイメージ記憶は、プロの将棋指しも同じことをしているのだと思う。その辺りのことは別途書く機会があるだろう。

【ビリヤードの世界】
 小林先生も元々はビリヤード場の息子だったのではないだろうか。何度かスリークッションの世界チャンピオンになったことがある。日本でビリヤードの世界チャンピオン保持者は小林先生お一人である。
 町田正さん(彼も八王子にあるビリヤード場の息子だ、こちらはお父さんも知っている。プロのお父さんに教えてもらったことがあるからだ)がアーティステック・ビリヤード銀メダルに輝いたことがある。日本のボークラインというビリヤードゲームのチャンピオンであった頃、スリークッションの大台で、2度(6ゲーム)ボークライン教えていただいた。
 ビリヤードの世界には将棋界の羽生善治七冠王のような人がいる。ディリスだ。5種目を制覇し五冠王になったことがある

【ビリヤードは紳士のスポーツ:マナーが大切】
 日本の皇族はビリヤードを習う。ヨーロッパの貴族のたしなみの一つだからだ。子供の頃から個人チュータがついて、マナーを厳しく学ぶ。映画『ハスラー』は最下層の品のないビリヤードである。あのような映画でビリヤードが紹介されたことを残念に思う。もっとも大事なマナーが忘れ去られてしまった。
 皇族へは小林先生が教えていた。皇族の集まる“霞会館”といったかな、記憶があいまいであるが、そこで教えていたと小林先生は言っておられた。そのあと町田さんが引き継いだ。
 ちなみに昭和天皇のビリヤード教育係は、札幌駅前にあった「白馬」というビリヤードの経営者、吉岡先生である。実に品の良い方で、根室ではこの人の技を見たことのある人が多数いる。xxハイヤー社長のSさんもその一人だ。一度ゲームの相手をしたことがあった。いつものSさんらしくなく、まるで硬くなっていた。わたしは子供の頃から吉岡先生を知っている。小学生のときにプロになりたくて、「プロになりたい、なれるだろうか」と質問したことがある。
 ビリヤードについてはたくさん書くことがある。おいおい紹介してゆきたい。

【小林先生への質問】
 小林先生は新大久保駅前のビリヤードで支配人をしておられた。そこに私は一時期毎週のように通っていた。常連会のメンバーであったからだ。荒木さんという某大手予備校の数学の先生が常連会のリーダーであった。何度かディリスの「夏期講習」にヨーロッパまで通うほどビリヤードが好きな人である。小柴さんという元全日本アマチュア・チャンプもいた。
 わたしはキャロム系のビリヤードが好きで、図面でビリヤードの研究をしていた。ある配置のボールの処理の仕方がわからなくて、描いた図面を持参して先生に質問をした。そうしたらお弟子のボーイさん二人を呼んぶので、どうしたことかと訝ると、「君たちもこういう質問をしなさい」と訓戒を垂れる。あやや、申し訳ないことをしたと思ったが手遅れである。そのときはことさら丁寧に指導いただいた。

 ビリヤードは初級クラスの解説書は多数出ており、小林先生もNHK教育テレビで『ビリヤード入門』を担当されたときにテキストをお書きになっている。ところがセミプロクラスのテクニックの解説書がない。
 先生に書いたものありませんかとお聞きした。「ない」と即答である。「今後はお書きになる予定はございませんでしょうか」そう尋ねた。「ありません」という。
 「日本のビリヤードの技術水準を上げるにはセミプロクラスの解説書が必要だと思うのですが・・・」とご意見をお伺いした。「無理です、誤解が生じます。セミプロクラスの指導は本ではできません。実地に指導するしかありません」と言われた。
 本でテクニックを紹介すると、本を読んで一知半解の者がしたり顔に解説したり、批判をしたりする。ことの深いところまではけっして伝わることがない、だからセミプロレベルのテクニックの解説書は書かない。

【教育の本質に関わる事】
 小林先生がセミプロ用の解説書を書かない理由の中に、教育の本質がよく出ていると思う。教育の本質は人から人へのコミュニケーションの中に存在する。直接的なコミュニケーションを通じてしか容易に伝えれらないものなのだというのが、小林先生の言わんとしたことなのではないだろうか。
 
 思えば道元禅師も釈迦から達磨大師を経て、由緒正しき正伝の仏教を受け継いだことを誇りにしている。仏法も師から弟子へと伝えられ、受け継がれてきた。書いた物だけでは伝えられない何かがある。
 
年長の弟子懐奘の書いた『正法眼蔵随問記』は平易な文体で理解しやすいが、道元の書いた『正法眼蔵』は、いくら読んでも理解できたと感じることのできない書物である。思うに、漢文の素養がないだけでなく、命がけの修行、と只管打座をしなければ理解不能の書であるのだろう。

ある水準を超える教育は、本やパソコンでは不可能であるということか。たとえば文系の大学院で学者を大量生産することはできない。ひとりひとり手間隙をかけて育てるしかないのである。指導教官と院生の密度の濃いコミュニケーションの中で、手堅い学者として成長していくという側面はたしかにあるだろう。
 伝わるものの量や質は、時間の関数ではなさそうだ。「感化」という言葉で現されるなにものかだろうか。師から弟子へと「感染」して伝えられる何かがある。「対象への情念」もそのひとつだろうか?人は人生の中で気がつくつかないの差はあるが、そういう師に何人も巡りあうような気がする。) 

 ちなみに、わたしがビリヤードナンバーワンと確信している人がいる。根室の人である。西井さんという。元気の好い青年実業家だったことがある。プライバシーに関わるからこれ以上は書かない。彼のビリヤードは小林先生とはまた、まったくタイプが違う。天性の感覚のよさをもっていた。それが図抜けていた。東京でビリヤード修行をする機会があれば、世界チャンピオンになりえた人だったと思う。彼も根室高校時代からビリヤードにのめりこんでいた。私よりも15歳くらい年長だったと記憶する。キュウを構えた彼の写真が残っている。素質は構えに出てしまう。一流の構えである。アマチュアチャンピオンの小柴さんと何度か常連会でデッドヒートゲームしたことがある。彼もいい構えをしているが、西井さんとは比べ物にならない。わたしは構えを見ただけで、その人がどれほどの腕なのかが判断がつくほど、たくさんの人のゲームをみてきた。40代の終わりになって昔の写真を見ていて、あらためて西井さんの”構え”に驚いた。超一流の構えだった。


Eさんは翻訳家になっていた [22. 人物シリーズ]

2,007年12月21日   ebisu-blog#029
総閲覧数: 1,411/25 days (21日23時50分現在)
 

 根室の「文化人」、北構保男先生田塚源太郎先生福井先生の三人の思い出をebisu-blog#027で書きました。記憶は風化していくので、書き残しておきたい人びとが数十人単位でいます。
 今年の春から夏にかけ、娘からの要求に応じて、国際通貨の解説と、それに関わりがあるのですが今までやってきた仕事を整理してみました。娘から次々と日本経済新聞の切抜きとそれに関する質問事項が送られてきて、質問に答えるうちに、A4版150ページの「大部の本?」になってしまい、書き終わって読み返したら、良き師、良き上司、良き先輩、好き友、好き同僚、好き後輩に恵まれたことに気づかされました。そこで書かなかったことも含めて、あらためて振り返って、それらの人々について、エピソードを書こうと思います。 

 前回のブログでEさんのことに触れました。F学院渋谷進学教室の専任講師をしていた時代の仲間の一人です。F学院は東京の個人指導の草分けでした。1975年~1978年まで専任講師をしていました。F学院は理事長が野心家で、短大を作ろうとして潰してしまったようです。惜しい塾です。「ほめる教育」を旗印にしたユニークな個人指導の進学塾でした。
 Eさんのほかにもう一人仲の良かったのがOさんです。ひょっとして、Eさん、本を出しているのではと著者名でインターネットで検索したら、8冊でてきました。当時の渋谷の進学塾は時間が空くと、それぞれ分野が違いますが、議論が活発で、プチ梁山泊の雰囲気をかもし出していました。インターネットで検索して調べてみたら、Eさんは『図説 古代ローマの戦い』、『メディチ家の盛衰』などを東洋書林から翻訳出版しています。あんまり懐かしくって、少し嬉しい気分です。
 NM君を挟んで11年間の付き合いですが、後半はNM君から彼の話を聞くだけで、特に用事もなく、某社に勤務していて経営改善や統合システム開発をやっていたので多忙で、会う機会はありませんでした。教えていた新宿駅から数分のマンションはKDDが何かの事件で秘密の会議室として使っていたNSMという名称のビルです。その後、すぐ近くの超高層NSビルの22階、23階にある会社へ転職しました。毎週ここでEさんが英語を、私が数学を教えていました。

 話しをF学院時代に戻します。Eさんは塾でも空き時間があると原書を読んでいました。速度がわたしの倍はありました。典型的な「濫読派」だった。当時はかなり荒っぽい読みをしているようにみえました。私は故あって「精読派」に徹していました。高校時代から公認会計士受験関係の専門書や哲学や経済学の古典を読み漁ったことが関係あるのでしょう。私の当時の読書力ではこれらの本をとても「濫読」できませんでした。読む範囲を極めて限定せざるをえませんでした。たった1行に1日かかったこともあります。
 Eさんほどの速度で原書を読みこなせる人間を同年代では知りません。その点だけでも充分に面白い奴でした。当時はヴィトゲンシュタインも読んでいたような気がしますが、ドイツ語原典を読んでいたかどうかは記憶にありません。あっと驚いたのは、大学院入学後、間をおかずにラテン語とギリシャ語の勉強を始めたことです。そして数ヶ月でマスターしていたようです。面白いことをやる奴だというのが私の印象でした。
 彼の鎌倉の「豪邸」へ教えていたNM君とともに招待されて一晩どまりで遊びに行ったときのことを前回のブログで書きましたが、上場会社のオーナー社長の長男ですからF学院で専任講師をして働く必要なんてまったくないのです。にもかかわらず、自分で働いてお金を貯め、働きながら大学院進学を果たしているのです。何が何でも自立するという強い決意は露ほども見せず、自然体で自立している男でした。こういうところも気に入りました。

 あるとき飲み明かして、帰る電車がなくなり、荻窪のEさん宅へ泊めてもらったことがあります。酔って将棋をやったのではないかと思います。そのあと碁盤を出してきて、囲碁のほうが面白いからやろうというのです。囲碁はしたことがないと断ると、「将棋より絶対に面白いから、教えるからやろう」と食い下がります。こっちはしたたかに酔っ払っているし、まいったなと思いつつも、「熱意」にほだされて、教えてもらいながら指しました。結局、なんだかよくわからないまま、空が白んできたことだけは覚えています。以来、囲碁を見るたびにあの夜の「苦行」を思い出します

 これもあるときのこと。ときどきどこかの川原で3~5人で「野球」をやって遊んでいました。何度かやって物足りなくなって、Oさんが城南中学のときに野球部だったこともあり、渋谷の塾の先生たちで後楽園を借り切ってナイター野球をしようと言うことになりました。何人か中学校で野球部だった先生がいました。話しがどこでどうなったのか、後楽園ではなくて、わたしが国分寺にある東京経済大学のグランドを借りることになって、皆で野球をしました。
 高校時代に野球部員だった同じ研究室のS君も入ってもらい、2チームに分かれて4時間ほどの熱戦。どちらも二十数点の得点でへとへとでした。Oさんは元気がよすぎて、気持ちに身体がついていけず、足の肉離れを起こしてました。
 試合が終わった後で国分寺の蕎麦屋で食事をしながらビールを飲んだら、もう立ち上がるのが億劫なほどへとへと。一回限りの楽しい野球でした。
 そもそも後楽園でナイターをやろうと言い出したのはEさんだった。一人頭いくらかかると賃料を調べてきた人もいたっけ。最初は一人5000円で済む話でしたが計算違い?があって後楽園ナイターを中止下のではなかったかと思います。
 当時は渋谷の進学塾の先生たちの三分の二くらいが院生でした。専門分野はばらばら、だから面白かった。それぞれの専門がわかっているから、相手の分野に切り込み議論する強者もいました。同年代で分野の異なるもの同士が議論するのは良い刺激になりました。“異業種交流”のアカディミック版、みたいなものです。当時は異業種交流なんて言葉自体がありませんでした。大学院の研究室では“同業種交流”しかできませんので、貴重な3年間でした。

 東工大の研究室で建築が専門だったNさん、インドを放浪した話が楽しかった。月30万円で王侯貴族の暮らしが出来ると話していました。お金が貯まると放浪の旅にでる。放浪の自由人でした。お金が貯まったのかいつのまにかいなくなっていました。芸能人とよくマージャンをやる人もいましたね。女優の丘みつ子さんを「みっちゃん」と呼んでいました。彼は元東京銀行員の海外駐在員だったかな、英語の講師でした。世界史のいずれかの分野が専門だった早稲田大学大学院オーバードクターのKさん、パイプに煙草を詰めて煙をくゆらしていた。学生運動を懐かしむ慶応大のSさんは経済学の議論をよく仕掛けてきた。東京教育大のYさんは優しい人だった。同じくMさんは生真面目で激情家だった。少し若い東大のS君は元気があったな。数学のKawasakiさんは「褒める教育」をまったく無視して、大きな声で時々怒鳴っていた。隣で授業しているとこっちの生徒までびびっていました。もうひとり理工系の人がいました。HP(ヒューレッドパッカード社)の科学技術計算用のキャリュキュレータ(11万円)を研究室で買ってもらったと、ずいぶん喜んで使っていた。まさか同じものを塾講師をやめて半年後に使うことになるとは思わなかった。
 次回はHP97を巡る話しをしようと思います。


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