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#3092 芍薬(しゃくやく)の花:町の写真家「浜ちゃん」  July 25, 2015 [22. 人物シリーズ]

 「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合のよう」と詠われた芍薬の花が数日前から咲いている。
 ①のほうは右上に芍薬の花が写っているが、ピンボケである。ケイタイのピントは中央の被写体にあわせられるようだ。構図が拙くてもピントを合わせるためには写したいオブジェクトを真ん中にもってくるしかない。
 ②の写真は中央に芍薬の花が写っているが、手ブレしたのだろう。シャッター速度が遅い。真ん中にもって来たのではちっとも面白くないので、少し後ろに下がって、盛りを過ぎて萎垂(しおた)れたハマナスの花を右上に入れた。左下にはタツタナデシコの花が群生している。露出オーバになっているが、マニュアルカメラだと露出をアンダー気味に調整できる、頭の中でそうしてもらいたい。
 アナログの露出補正機能のついた一眼レフカメラが懐かしい。絞り優先かシャッター速度優先かなんて、撮影条件で判断したのはもう四十数年前のこと。
 高校1年生東京オリンピックの年の12月頃に、オヤジが写真の現像器と引き伸ばし機を買ってくれた。カラー写真が主流になる数年前のことだった。6畳間の自分の部屋に遮光カーテンを取り付けて、引き伸ばしをするのはなかなか楽しい時間だった。
 オヤジは戦後まもなくの頃、根室にあった中村写真館に集まる写真愛好家のメンバーの一人であった。いまも梅ヶ枝町にある光陽堂の創業者もその中のお一人。
 引き伸ばしをやってみたいなんてオヤジに一度も言った覚えはないが、息子が中学時代からカメラを楽しそうにいじっているのを眺めていたオヤジは、高校生になったら機材を一式買い与えてみようと思ったのだろう。
 店番をしていてお客さんが切れたときに、突然に「そこまでいくぞ!」と声をかけ、写真屋の中へ入っていくと、息子に内緒で注文してあった道具が一式そろえられていた。扱い方をその場で習って、機材を持ち帰った。当時で地元の高卒の初任給の2か月分くらいの価格だった。決して安いものではなかった。根室高校写真部には古い機材が一つあるだけ、個人で写真現像機材を持っているのは写真部員ですらもいなかった。何度かやっているときに、「やらせろ」といって、一度だけ自分で引き伸ばしたことがあった。オヤジがわたしに教えたことはなかった。運輸大臣賞を採ったことのある地元写真屋の主が引き伸ばし技術を教えてくれた。
 オヤジは結婚するときに、大事にしていた二眼レフカメラを処分した。昭和22年、極秘の落下傘部隊に所属し、右腕複雑骨折の後遺症で右腕がすこし不自由だった。結婚を機に「写真道楽」をやめたのだと思う。

 数年前に急逝した光陽堂の主(娘婿)の「浜ちゃん」の写真が好みだった。林を撮った一枚の写真が記憶にあるが、光と陰が深いところでバランスする重厚な印象のものだった。木漏れ日が何本も光の帯となって林を貫通していた。シャープでありながどっしりとした重厚な存在感のある一枚、あの瞬間のシャッターチャンスを待つのにどれくらい粘ったのだろう、風景を切り撮るという作業に執念を感じた。「光陽堂浜崎」でググれば写真画像がでてくるかもしれない、以前は出てきた。最後に話したのは夏、金刀比羅神社の例大祭の日だった。200mmか300mmのズームレンズで緑町2丁目交差点で各祭典区を写していた。「浜ちゃんいいカメラだな」、「ebisuさん、中古になるけどこれ買わないか?(もっといいやつがほしい)」、そう言って微笑んだ。デジタルカメラは高性能なものがすぐに出る。
 胃癌切除後、始めて東京へ旅行する日の朝の新聞を開いたら、逝去の折込が挟まっていた。3月下旬のことだった。逝くのが早かった、早すぎるよと心の中でつぶやいて、飛行機の中で冥福を祈った。死に顔は見ていないから、写真家のあいつはいまでも記憶の中に生きている。
 


<写真-1>
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<写真-2>
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#3036 人柄:釧路の教育を考える会・会長 角田憲治さん May 1, 2015 [22. 人物シリーズ]

□ 5/2 8:33追記
□ 5/2 10:30 追記
□ 5/3 8:35 追記 [根室市役所に北大卒が一人もいないことについて]


 角田さんは元釧路教育長である。釧路の教育を考える会の定例会のあとで何度か一緒にお酒を飲んだ。飲んでもちっとも崩れない、品のよい人というのがebisuの印象である。釧路の教育を考える会には「猛者」や「野武士」と形容すべき人間がいろいろな職業分野から集まっているが、角田さんの人柄を慕う者が多い。人の話をじっくり聴き、間をおいてからゆっくりと心にしみる言葉をつぶやく、そして人の心をわしづかみにする。私もわしづかみされてしまった一人だ。立場にとらわれずに考え・判断し・信念に基づいて行動できる人、要するに器が大きいのである。たいへん魅力ある人物で、そのあたりをZAPPERさんが適確に書いている。角田さんがZAPPERさんに、「わたしが教育長をやっているときに、あんたに会いたかったな」と言ったとき、私は隣でその言葉を聴いていた。ZAPPERさんその言葉でイチコロだった、何とはなしに出た言葉にわたしも角田さんのスケールの大きさと情の深さを感じた。この人となら一緒にやれる、いやこの人と一緒に釧路と根室の教育改革をやってみたい、そう思った。
 あんたとは敵として戦場で見(まみ)えたかったという戦国武将のような慨嘆だったのか、それとも北教組を相手に何度か深夜に及ぶ団交を経験しているから、教育長のときに北教組に対抗しうる教育改革の勢力があれば釧路の教育改革が十数年早く始まっていたという感慨だったのかはわたしにはわからない。だが、元教育長が、釧路の教育行政に真っ向から反旗を翻して教育改革を叫ぶ団体の会長を引き受けてくれるなんてことは全国レベルで考えてもほとんどありえない話しだから、その一事をもっても彼の器の大きさが推し量れるだろう。

 釧路にはこういう異色の元市役所管理職員がいる。釧路江南高校から北大へ進んで、釧路市役所に勤務し、教育長になって全盛期の北教組と渡り合い、辣腕を振るった。現場が困難な状況になってもけっして逃げない。

 根室市役所には北大出が過去一人もなかったのではないか。根室市政をいいものにしたいなら、北大卒を採るべきだ。もし北大卒が一人も応募してこないとしたら、根室市役所は問題のある職場ということになる。根室市役所には500人も職員がいるのだから、北大出が10人くらいいても不思議ではないが一人もいない。高学歴の人材が見向きもしない市役所だとしたら、市役所内の改革を最優先しなければならない
 偏差値の高い大学出身者がいないことが、根室市政のレベル低下となっているのではないか。偏差値の高い大学出身者が全員仕事ができるとは思わない、それどころか仕事ができるものはほんの一握りに過ぎないことも、上場企業に勤務していたから実態をよく知っている。
 私の周りには東大、一ツ橋、京大、慶大医学部、慶大大学院、早大などの出身者がいたが玉石混交だった。東大出はそこそこ仕事ができた。一ツ橋は三人いたが「当たり」は一人だけで能をやっていた。どこか超然とした風があった。「テラさん」と呼んでいた。凡庸な京大出は部長になったとたんにコケてしまった。慶大医学部出のKさんは理詰めでものごとをきちっと判断する優れた経営者だった。慶大大学院出のSさんは人の使い方がうまいのか下手なのかよくわからない2代目経営者だったが、自分の足りないものを知っており、人に任せることのできる人ではあった。初代はスタンフォード大学出、HP社創業者のヒューレットとパッカードとお友達だった。三代目は東大出だったが、凡庸だったのか会社をつぶしてしまった。

 昔を思い出しながら話が横道にそれてしまったから元に戻そう。根室市役所の人材の話だった。根室市役所は採用が偏りすぎていないか?高卒の管理職が多いから偏差値の高い大学の学卒採用にビビッていることはないか?

 角田さんは釧路の地元の人間であるから、釧路教育長をお辞めになってもふるさとを離れることはなかった。
 根室の歴代の教育長は、任期が終わると一人の例外もなくただちに根室を去っていった。ただの「腰掛」に過ぎないのでは、仕事で成果が出せるわけがないと根室市民の誰もが苦々しく思っている。

 ブログ情熱空間より転載
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7922582.html
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2015年05月01日

会長のコラム(釧路の教育を考える会)

ウチ(釧路の教育を考える会)の会長は、元釧路市教育長でらっしゃいます。
当初、正直、私はこう思っていました。

ウチの会の会長になるということは、教育長として仕事をなさったこと、つまりはご自身の仕事を否定することになるのではないか?
なので、会長を引き受けてはくださらないだろう…。

ところがどっこい、引き受けてくださったんですね。
実は、そのことについて質問をしたんです、会長に。
すると、笑ってこう一言。

やり残した仕事かな。

もうもうもう、単純な私などはその一言でイチコロです。
で、さらにもう一言。

私が教育長のときに、あんたに会いたかったな。

というわけで、私などはたった二言で「完全にやられてしまった」わけであります。
会長ったらもう、「人たらし」なんだから(笑)。
斬りまくってばかり、突撃隊長の私としては、温厚で沈着冷静な会長に、実に申し訳なく思ってはいるのですが、どうにも性分なもので…。

というわけで、今日(2015.05.01)の釧路新聞は番茶の味、釧路の教育を考える会・角田会長のコラムです。

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#2916 微生物による放射能減衰実験:N科さん Dec. 19, 2014 [22. 人物シリーズ]

 今朝珍しく電話が鳴った、相馬(福島県)のN科さんからだった。高潮被害を心配して電話をくれた。

 1993年6月に福島県の臨床検査会社へ出向したときに、N科さんはその会社の役員の一人だった。一回り年上のN科さんは昼飯を食べながら放射線についていろいろ教えてくれた。
 Nさんは福島県相馬に住んでおり2011年3月の津波被害に遭った。津波警報があったのですぐに車に乗って高台へ避難したという。判断の早さが生死を分けたのだろう。避難したところからは海が見えなかった、車で戻ったらあたり一面原始の状態に戻っていたという。海岸線の辺りで16m、住宅地へは7m余りの津波で、180戸ばかりあった家がなくなっていた。少し内陸側に遭ったN科さんの家は1階部分が損壊し、2階は10cmくらい浸水していた。家は海岸線から600m地点にあり、昨年リハウスして仮設住宅を脱出したことを今年の年賀状で知ってほっとしていた。

 器用な人で木製の長いアルプホルンを手作りして吹いているN科さんは放射線技術者でRI検査分野の仕事をしてきた。いま、北大や信州大学の研究者と微生物による放射線減衰実験をしているという。実験結果は良好だが、メカニズムが不明なので生物学の勉強をしはじめた。Natureに論文を発表するためには微生物による放射線減衰のメカニズム解明が必要なのだそうだ。
 放射線に関しては国は何もしてくれない、ならば自分たちでできることからはじめようと微生物による放射線減衰実験が2年になる。

 70代半ばを過ぎても専門の放射線の勉強に加えて、生物学の勉強をはじめるバイタリティに驚く。世のため人のために自分にできることをしている。60歳を過ぎたら、それまで学んだことや培った技術を駆使して世のため人のためになる仕事をするN科さんのような人が日本列島に増えれば日本中がもっと住みよくなるだろう。

 必要なときに、必要な分野の専門書を読み、世の中の役に立つために、若いときにしっかり勉強しておくべきなのだろう。基礎学力が高ければいろんな分野の専門書を70歳を過ぎても読むことができる。基礎は若いうちにしっかり築いておく。


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<余談:大失敗>
 93年3月のことだった、北陸の臨床検査会社から依頼があり財務諸表をみてから現場を一日だけ調査して要点をチェック、そして経営分析および改善案をつくり、買収交渉をしていたところへ、営業本部から福島県の臨床検査会社の経営診断と経営改善案の作成を要請があった。3年分の決算資料に目を通して一度ラボを視察に行ってその会社の社長にヒアリングしてから経営分析資料を2週間ほどで作成し、再度訪問して資本参加の話をまとめた。依頼を受けてから出向するまで3ヶ月かかった。北陸のラボよりも福島県(+仙台ラボ)のほうが問題が大きいので、出向は大変そうなほうを選んだ。福島県の会社の社長が資本提携にebisuの出向を条件にしたからでもある。Ta橋社長は毛3年分の決算資料をもらい現地調査に訪れたので、ebisuがただの経理屋だと思っていた。仕入先の確認や検査試薬の仕入価格についてヒアリングしたあと、営業所においてあったコールター製の血球計算機について性能はいいがメンテに問題がないか訊いてみたり、SRLでは国産の対抗機種に統一していることなどを話は多岐に及んだ。とどめは開発中だったパソコンのマルチコントローラだった。マッピングではなくプリント基板を使っていたので、「ひっくり返していいですか?」と訊いて基盤の裏側を確認してから、おもむろに「社長、これ商品だね、売るつもりでしょう」と言ったらぎょっとした顔をしていた。沖電気製のパソコンをみたらある欠点が見つかったのでその場でシステム担当責任者に確認してから、「商品化は無理、理由はこれこれ」と説明した。結局それは商品にならなかった。分析データからその年の決算予測も試算していたから、今年の損失の予測範囲を伝えておいたら、その次に行ったときに自分が持っているデータで分野別に推計計算していた。結果がほとんど同じだ、どうやって計算したのかと問われ、説明が面倒なのでデータを見れば推計計算はある程度の精度でできると答えておいた。パソコンに入っていたTa橋社長の分野別の計算データをみせてもらったらきちんと線形回帰分析をしていた。臨床検査会社の社長としてはシステムや統計計算に手馴れていた。ありがとうと礼を言って、きちんと計算しているね、線形回帰だといったらまたぎょっとしていた。だから、二回目にあったときから、資本提携はebisuの出向が条件だと言っていた。話せば話すほどそこが見えなくなるとあとで酒を飲みながら語った。半分お世辞だったろう。SRLと組んで店頭公開を果たしたい、そのためなら対外のことは譲歩するので何とかしてもらいたいと本音で話すようになった。反対派の役員が3人いたが、半年したところで態度が幾分変わった。

 1年ほどで染色体検査を柱にした経営再建・実行案を親会社に報告に行ったら、Y口副社長と創業社長のF田さんお二人に拒否された、「聞いていない」というのである。副社長には途中で2回ほど説明してあったし、文書で報告もしてあったから、無理な言い訳だった。でも本社社長がノーなのだから仕方がないので、飲み込んだ。「そうですか、わかりました。わたしの勇み足、そういうことですね」と微笑んだら、社長のF田さんと陸士出の副社長のY口さんが、顔を見合わせて慌てていた。二人はそのあとの言辞を用意してあったのだろう。
 ebisuは大事なところはすべてナンバーを付した文書で報告しているから、有無を言わさぬ反論はできたのだが、創業社長にその気がないことがわかったのだから、それを知らずに無邪気に経営改善案をつくった私に「落ち度」があった。Y口副社長もF田社長の意図を読みきれていなかったようだ。知っていたらわたしにブレーキをかけるタイミングが2度ほどあった。なにしろわたしは仙台ラボを見に来た副社長には詳しい話をしていたのだから。
 ズルズルと経営改善できないで赤字額が膨らめば、出資比率を増やして子会社化できるのだ。それならSRLにあわぬ役員には責任を取ってもらいお引取り願える。F田社長はそういう構想を描いていたのだろう。わたしはF田社長の構想をぶち壊す余計なことをしてしまったわけだ。交渉ごとのときの間の取り方もそうだが、まったく食えない人だった。ebisuとは考え方のスタンスがまるで違うが、スケールの大きな経営者であると認めざるをえない。
 F田社長、それならそうと言ってほしかった。子供じゃないのだから分れということ、言わずともF田社長の真意を読んで行動できる人材かどうか試されたのかもしれない。失格だったわけだが後悔はない。
 わたしは赤字の会社に出向して見て見ぬ振りなどできはしない。何遍出向を繰り返したってその会社の社員や取引先のために全力を尽くす人間でありたい、それが本音。
 無慈悲なシナリオをF田さんから聞かされていたら、わたしは出向を断っただろう、それくらいの腹はあった。数年冷や飯を食えばいいだけのことで、F田さんだっていつまでも社長をやっているつもりはない。チャンスはいくらでもやって来るし、そういう性格のebisuだから社内にはebisuファンもいた。損得抜きで協力してくれた人が数十人いた。
 わたしは仕事に関してはいつでも本気、任された会社が赤字なら短期間で黒字化に全力を尽くす、己のそういう信念は冷や飯を食っても曲げないで通す。「売り手よし買い手よし世間よしの三方よし」に「従業員よしと取引先よし」を加えて「五方よし」を信条に仕事をしてきた。F田さんとは経営スタンスの違いがはっきりした。いろんな考えをもった人材がいることがその会社の強みだ、SRLはなかなか素敵な会社だったのである。
(産業用エレクトロニクス商社勤務のときも、「経営改善」だから利益を出すために人件費を削ったことはない。利益を増やすから人件費は増額するしボーナスも配当も内部留保も増やす。社員の給料を減らして利益を出し、仕事をしない株主だけが儲けるなんて「経営改革」は愚の骨頂である。そういう点から見るとカルロスゴーンは最低の経営者にみえるのだが、マスコミの目が狂っているのかそれともebisuの目が狂っているのかどちらだろう。
 仕事をしている社員が幸せにならないような経営改革は改革ではない。経営者と株主だけがよくなればいいなんてことは経営能力の乏しい欲深なゲスの考えることだ。)

 それにしても間の抜けた話だからお笑いいただきたい。改善案を拒絶されてF田社長の役者が一枚も二枚も上であることに気がついたが、後の祭り。わかっていたら勝てる算段をして戦う準備をしただろう。F田社長には隙がなかった。
 ebisuの実行案では赤字の関連会社が子会社・関連会社中No.1の高収益会社に化けることになる、それがF田社長には不都合だった。親会社の売上高経常利益率も大幅に超えてしまうから、店頭公開したら超優良会社の株式公開となって世間の耳目を集めてしまうし、そもそも子会社の株式公開を認めない基本政策を壊すことになる。ebisuは福島県の会社の収益構造を変えて店頭公開を本気でやろうとしている、本社に戻すべきだとF田さんが判断した。飼い殺しは嫌だったから、ある件を利用して上司の経理担当取締役のMa井さん(同じ大学の2年先輩)にどこでもかまわないから子会社への出向根回しを無理やりお願いしたら、練馬にある一番古い子会社の経理部長の席を用意してくれた。わがままな後輩だった。

 能天気なわたしは赤字の会社へ出向してその会社の社長や役員連中と酒を飲み、現場を一つ一つ自分の目で確認しながら最適な経営改善構想を練っていた。子供が珍しいおもちゃをもらったときのようなうきうきした気分で親会社のF田社長の意図を読まずにいたのである。文書だけではなく、その会社の近くにあった親会社の営業所から電話で何度もF田社長には直接口頭で状況報告もしていた。そういうう要求がF田さんからあった、この資本提携は親会社社長にとっては気になる案件だったのである。
 F田社長から子会社化の交渉をするように指示があって、子会社化と社長交代案をTa社長に飲んでもった、会社の店頭公開をなんとか果たしてもらいたいというのがTa橋社長が株と社長のポストを譲渡する条件だった。結局ebisuは親会社F田社長の当初目論見どおりに動かされたわけだ。目的を果たしたら親会社への帰還命令が出た。
 これ以上出向させておいたら、会社を辞めて親会社に反旗を翻して経営再建をして店頭公開をやりかねないとでも疑われたのか、わずか15ヶ月で親会社の本社管理部門に戻された。しかしわたしにそのようなつもりはなく、業界ナンバーワン、しかも全国の大学病院からの信頼が厚いSRLでやれる仕事に魅力を感じていた。
 創業社長のF田さんにはその辺りまで読まれていた気がする。八王ラボ勤務の最後は学術開発本部スタッフとして仕事していたが、わたしの席の背中が簡易間仕切り一枚で、社長室だった。学術開発本部に全社予算編成と管理を統括経験のあるebisuがいた。
 上場準備の統合システム開発では一番最後のスタートして、一番最初に担当システムを本稼動させ、ノートラブル、5サブシステムとのインターフェイス設計仕様も、各プロジェクトのミーティングでどこがやるのか問題になり、暗礁に乗り上げていた。ほかの4つのプロジェクトチームからインターフェイス仕様の設計を依頼されて、1週間で書き下ろして各チームに配布した、それがなかったら東証Ⅱ部上場プロジェクト全体が2年ほどストップしかねなかった。
 F田社長はあるRIの廃液管理に関する社内告発をきっかけに八王子ラボに社長室を設置した。八王子ラボの社長室と副社長室は学術開発本部と同じスペースにあったから、学術開発本部担当取締役と開発部スタッフは情報一覧メモを作成して社長へ提出して意見交換していた。わたしは本部スタッフ二人のうちの一人で、開発部の仕事も二つやっていた。DPCと塩野義製薬の検査試薬の共同開発を担当していたから、社長との「情報交換」のメンバーの一人だった。

(84年に全国の大学病院や専門病院をネットでつなぐ200億円の臨床診断支援システム開発に簡単にOKをだして、フィジビリティ・スタディを許可してくれたのは創業社長のF田さんだった。この関連でNTTデータ事業本部とも共同事業が可能かどうか打ち合わせをした、ネットの伝送速度に問題があり、当時は画像情報のやり取りが不可能だった。10年たっても無理だという結論を出して臨床診断支援システム開発はお蔵入りにした。その関連で検査項目コードの標準化が必要だったので、臨床病理学会と大手六社の協力を得て、検査項目コードは5年ほどで実質的な日本標準コードを臨床病理学会項目コード検討委員会から公表した。自治医大櫻林郁乃介教授が項目コード検討委員会の委員長だった。SRLに入社した1年後の85年の初夏にSRLの免疫電気泳動の指導医であった櫻林先生から検査項目コード作成に協力してほしいと申し出があったから、大手六社のラボコード統一検討会議が立ち上がったのは渡りに船だった。それを産学協同の日本標準検査項目コード検討委員会に切り替えたのである。市立根室病院システムもその「日本標準検査項目コード」を利用している。全国の病院が採用している。光カードでのカルテ仕様の標準化もPERT・Chartに落とした10個余りのジョブのひとつだった。臨床検査項目コードの次に手をつけるつもりだったが、果たせなかった。ネットワーク技術の進化が追いついていなかったが、世の中のためにやっておけばよかった。仮想のカード仕様を決めることは可能だったのである。そして技術の進化を待てばよかった。十数年で要求仕様を満たすネットワーク環境が実現した。)

 福島の案件に関しては親会社社長としての判断は次のようなものであっただろう。同業種である関係会社・子会社の上場は相互取引に制約が出て、経営上臨機応変な対応が取れなくなる。100%子会社なら、取引条件を変更することで簡単に経営建て直しができたし、そういうことをしていたのである。だから、福島の会社の店頭公開は親会社として認めるわけにはいかなかった。
 F田社長はわたしを福島から呼び戻し、社長室ではなく、みんなから見えるオープンスペースの打ち合わせ用のテーブルで5分程度JAFCOとの協議について方針をすり合わせ、50分間ほど世間話をして時間をつぶしてから、浜松町の東芝ビルにあるJAFCO本社へ向かった。あとから「何を打ち合わせていたのか」とあちこちから聞かれたが、仕事の打ち合わせはたった5分、それも自分の方針を言い放って妥協なし、あとは単なる世間話だったなんて誰にも話していない。本社スタッフは福島案件以外に何かあってF田社長はebisu福島から呼んで打ち合わせをしているのではないかと打ち合わせ時間の異常に長いことを気にして遠くから眺めていたのだ。
 浜松町駅を降りてから東芝ビルまで歩き、「どうしましょうかね?」とわたしに問う。わたしはびっくりである、聞く耳持たぬという態度でつい一時間ほど前に自分の「戦闘」方針を言い放ったのだから、その変貌に驚くのは無理のないことだっただろう。「先ほど申し上げましたとおり、情報は漏れますからそのおつもりでお話ください」、「・・・わかりました、ebisuさんの言うとおりにやりましょう」。1時間前の打ち合わせは簡単だった、はっきりものを言う、喧嘩になってもかまわない」と強硬論だった。しかたがないので、わたしも覚悟を決めていたのである。それを5分ほど歩いている間にひっくり返した。時間が少しあるので東芝ビルのホールに展示してある人工衛星の模型を小型カメラを取り出して無邪気にぱちぱち撮り始めた。「時間があるといつもこうしているんです」と微笑んでいる。
 JAFCOは野村證券の子会社で、福島県の会社の店頭公開の幹事証券会社。先方はもちろん取締役が対応した。F田社長は当時初めて会社を二つ東証Ⅰ部へ上場した創業社長だった、扱いが丁重だったのは当然だった。慎重に言葉を選んでいるかのようにゆっくりしゃべり、そして突然言葉が途切れ間が空く、次の言葉が出るまでぴりぴりした緊張がその場を支配していた。立川本社で打ち合わせたときとは別人の雰囲気、F田社長は一流の役者でもあった。何も言わずに、交渉ごとはこうやるものだと教えてくれた。結局、交渉はこちらの意図通りに終わった。帰る段になって、JAFCOの役員から「お車を回しますがどちらに?」と訊かれて、「車では来ておりません、電車で来ました」と伝えるとずいぶん驚かれた。東証Ⅰ部上場会社の社長が電車で来るなどと、JAFCOの方ではセキュリティ上も考えられないことだったのである。JAFCO社長にはその数年後に光洋中学校で隣のクラスだったI藤君が就任した。会社上場準備の支援を業務とする会社では日本でナンバーワンの企業である。
 F田社長にはこんなエピソードがある。出張から戻り羽田へついたら、打ち合わせ事項のあったA石専務が迎えに来ていた。口頭で打ち合わせを済ませタクシーで送ろうとすると、社長は怒って「社員が一生懸命に働いているのにわたしがそんなことはできません」とさっさと電車に乗って戻ったことがある。朝は日直当番の社員が8時に開錠するのだが、それより30分も早く来てラジオ英会話を聴いていたり、仕事をしたりしていることが多い。わたしも入社したころ新宿NSビル22階本社事務所(当時)の日直をしたことが数回あるが、8時少し前に着くと社長がすでにいて、専務が打ち合わせに来ていたりする。一度は入れ替わりに社長が営業所へ向かったことがあった。毎月30項目の自分の行動のチェック項目があって、何勝何敗と記録をつけていた。その項目の中には、お客様の訪問件数や社員と昼食回数などがあった。本社で社員が十数人残業していると、NSビル30回の有名鮨店から、大きな桶で二つ届くことが何度かあった。だから、社員は創業社長のF田さんが大好きなのである。上場準備で84年に35歳で転職したわたしもそういうF田ファンの一人だった。
 ついでだからもうひとつエピソード書いておく。84年に入社したが、その前年に職場代表会議(労働組合)が冬のボーナス4.5ヶ月を要求したら、創業社長は業績が好いので5.2ヶ月出しますと回答した。お茶目な面もある人なのである。4月新入社員のボーナスが手取り80万円を超えて、父親から「俺より多い」とぼやかれたという。

 福島の生活は楽しいものだった。朝6時に起きて、歩いて5分のところにある温泉に入り、それからゆっくり朝ごはんを食べてから、歩いて5分の会社へ出勤する。ずっといて骨を埋めてもいいと思いはじめていた。
 出向した年の5月にオヤジが大腸癌が転移して二度目の手術をしたが全身転移で「アケトジ」、すでに手遅れだった。釧路市立病院の一回目の手術を担当してくれた外科医のMo先生が執刀してくれた。小柄な気合の入ったドクターだった。自宅で3ヶ月ほどすごして、最後は市立根室病院に一月ほど入院して亡くなった。オヤジは根室で死にたかったのだからありがたかった。担当してくれたのは美人な女医さんだった。
 オヤジに限らず住民の大半は最後は地元の病院で死にたいと願っている。ターミナルケアの病院機能も市立根室病院の重要な機能なのである。市立根室病院に療養型病床がひとつもないのは年老いた市民にとっては大きな問題なのである。
 Ta社長夫妻が揃って根室まで葬儀に来てくれた。本当は片腕だった大事な人の息子さんの葬儀が重なってしまったのだが、そちらのほうは葬儀の手配を済ませて根室に来てくれたのである、情が深く義理堅い人だった。会社を上場したら経営は若いやつらに任せて北海道に牧場を買って、全国から年寄りを集めて自給自足の生活をしよう、なんて話をよくしていた。鉄砲撃ちが趣味だった。Ta橋社長の自宅で数人で鴨鍋と狸汁をご馳走になったことがある。野生の狸の肉は硬かった、10分ほど噛み続けても噛み切れなかった。しばらく普通の肉が食べたくなくなった、あの柔らかさは運動させないで肥育した不健康な牛や豚の肉だと実感したからである。
 事後談がある。SRLは本社取締役営業本部長を福島県の会社社長にすえたが、ほどなくして持ち株をほかの臨床検査会社へ売却して撤退したのである。一緒に役員としてスタッフが数名送り込まれたが、一般臨床検査ラボの経営改善をやった経験のある者がいなかった。グループ会社の中に私以外ではグループ会社内に一人だけやれる人材がいた。だが、千葉の子会社から彼を引き抜くわけにはいかない事情があった。引き抜いたら代わりがいないのである。
 三井物産から買い取った千葉の臨床検査子会社のラボ・業務システムの再構築を主軸とする経営改善を91年ころに実施し劇的に収益性を改善した。ebisuは親会社の管理部門から応援部隊の一人として千葉ラボ側の担当取締役と一緒に仕事をしたが、あいつならやれただろう。F田社長は面識がなかった。当時グループ会社全体では4000人くらいの規模だったと思うが、そうした大きい会社でもマルチ能力の人材は一握り、数人しかいない。

 仙台ラボで病理医のDr.T橋と染色体検査の責任者に実務を含めて詳細にヒアリングした結果、染色体検査分野で大幅に経営改善できることがわかった。親会社と関連会社の双方に染色体検査事業分野で大きなメリットがあった。
 ebisuは日本最大の臨床検査ラボである八王子ラボで検査機器担当として染色体画像解析装置の導入にかかわっていたから、染色体検査と画像解析装置にはいくらか専門知識があった、同じ装置が仙台ラボにあったのである。責任者にヒアリングしたら検査手順はほぼ同じだが、前処理と培養の成功率と生産性にそれぞれ違いがあった。八王子ラボのやり方を知っていたので検査手順の比較ができたのである。
 この染色体画像解析装置は民間臨床検査センターでは、SRL、BML、帝人の羽村ラボ、そして仙台の遺伝子研究所の4箇所に導入されていた。もちろんSRLが民間検査センターでは初導入で、そのあと業界2番手のBML、そして福島県の会社の仙台ラボと帝人の臨床検査子会社羽村ラボが導入した。BMLへの導入はある条件をつけて私のほうから輸入販売をしていた会社の営業マンへもちかけた。値引きを要求されるだろうから、はねつけろ、定価でないと売れないと言えばいい。SRLがリサーチして導入を決めたことを全部話していい、ラボ見学の要請があれば現場との調整はebisuがするかわりひとつ条件を飲むように頼んだ。1台バックアップ用にただでおいてくれるようにお願いしたのである。すべて予定通りいった。営業がうまくいったお礼に英国の有名なゴルフコース・セントアンドルーズへ招待されたが、ゴルフの趣味はなかったのでお断りした。ゴルフ好きな営業担当にはたいへん申し訳ないことをした。
 染色体画像解析装置のコストと処理能力(1989年当時は5検体の処理に20分)から考えてBML以外は導入しても採算に合わぬと判断していた。この分野の検査はSRLが8割のシェアーを握っていた、いわゆる寡占である。資本規模と事業規模が小さく、検査精度への信頼度が格段に違うので、採算に必要な量の検体が集められないから、東北の会社と帝人の臨床検査子会社のどちらの会社も経営がさらに悪化すると判断していたのである。
 業績が悪いと新規部門へ投資して苦境を打開したくなるものだが、コストに見合う検体を集められなければ、採算は悪化の度合いを増す、結果は90年ころのebisuの読みの通りになった。どちらの社長も事業の詰めが甘かった。アイデアはいいのだが、ユーザからの信頼度や自社の営業力を秤にかけて判断しなければならないのである。両方の社長とそれぞれ時期をずらせて一緒に仕事をすることになったのだから、縁は不思議なものだ。

 東北の会社からは経営分析要請と引き続いて資本提携要請が93年にあった。そして帝人の臨床検査子会社とSRLは赤字部門である臨床治験部門を切り離して、97年1月に合弁会社を設立し2年後には帝人の臨床検査子会社を買収した。事業の黒字化も買収もKo藤さんの当初計画どおり、違ったのはebisuがスケジュールを1年短縮したこと。

 合弁会社発足の新聞発表の後、二つの問題がありプロジェクトが暗礁に乗り上げて、創業社長のF田さんの後を引き継いだKo藤さんから練馬の子会社のM輪社長にebisuの出向指示が出された。臨床治験検査部門のWaがこの難局を乗り切れるのは社内でebisuさんだけと余計なことを口走ったから厄介な仕事が回ってきた。いくつかあった問題のうち、ひとつだけすでに決定していて手遅れのものがあった。請求システムだった。請求基準で売り上げ計上して、発生基準の売り上げは別途計算したほうがシステムのつくりが簡単だったが、SRL本体と同じ発生基準での売上計上と請求システムに決まってしまっていた。SRLはそのために一度立ち上げた販売管理システムプロジェクトをストップさせ、作り直したが、本稼動でうまく動かず、手作業でしばらくの間作業せざるをえなかった。84~86年、販売管理システムに3億円以上かかった。経理部のシステム知識のない人間がそういう事情を知らずに余計な口出しをして、発生基準のシステム構築を決めてしまっていたのである。これだけはどうにもならなかった。トラブル必死と腹を括らざるをえなかった。
  親会社Ko藤社長の指示は四つだけ、簡明だった。
①予定通りに合弁会社を立ち上げる
②3年で黒字化する(どちらの会社でも臨床治験検査部門は赤字だった)
③帝人臨床検査子会社を買収する
④以上の仕事を3年で完了すること
 仕事を引き受けるにあたって、合弁会社での経営判断はebisuに任せてくれるように条件を出したら、二つ返事で了解してくれた、切れ者で豪胆な人だ。ebisuは89年に購買課で機器担当をしていたころに帝人の臨床検査子会社の経営がうまくいっていないことをつかんでいた。染色体画像解析装置の購入でどういう状態なのかよくわかったのである。だから③は②をやり遂げ、きちんとした条件で交渉すれば帝人本社側に異論がないと読んでいた。だから、3年という仕事の完了条件を二つ返事で引き受けたのである。出向するときに同期入社で同じ年齢のH本さんから「ebisuさんが3年と言ったらおそらく余裕で2年だね」と笑っていた。④の条件はKo藤社長とebisuの口頭での約束だからだれも知らなかったはず。Ko藤社長もあんまり当てにしていなかったのではないか?おまけくらいに考えていたのかもしれない。思っていることをはっきり言う人だったから、裏も表もなしで、仕事のしやすい人だった。もちろん、そういうタイプではなくてF田創業社長のような人物でも、今度はしっかり期待にこたえる自信はあった、手痛い失敗経験が教えてくれたから。
 仕事はあまり細かいことをごちゃごちゃ言われたら身動きが取れない。目標だけはっきりしてもらえばあとは任せてくれたらいい。こちらは期限内にちゃんと仕事を完了するだけ。必要なバックアップはすべて希望通りにしてくれた。こちらからお願いしたわけではないが本社の営業担当取締役とラボ担当取締役を非常勤取締役として応援につけてくれた。向こうが帝人本社の常務取締役を非常勤役員に送り込んだのでバランスもあったのだろう。
 帝人は紳士だった。黒字化して帝人臨床検査子会社の吸収と合弁会社の株引取りの話をしたら、当時のM専務とI常務が笑って応じてくれた。「初めてですよこんなこと、合弁会社の運営は大体うまくいかないことが多い、最後は損失が膨らみ帝人側が引き取ることになる」、そう言ってくれた。30年経営しても経営がうまくいかなかったから、帝人側はこの事業がお荷物だったのである。
 
 帝人と治験検査事業で合弁会社設立の話が進んでいるころebisuは子会社中で一番古い練馬の会社で仕事していた。出向して1年ほどたってようやく社長のMi輪さんとの信頼関係が強くなり、二人でラボ移転と大きな事業構想案を作成中だった。面白くなったところへ、出向前提にプロジェクトへの参加指示があった。Mi輪さんいわく、「これは親会社社長からの要請ではなく命令だ、俺やebisuに拒否権はない」と沈痛な表情だった。老朽化した練馬ラボの移転を計画していたのだが、結局移転はできず、現地建て替えになったと聞いている。数倍の規模にするつもりだったから、数百億円の投資案件だった。親会社を含めたラボの再編構想だったから、もう少しつめてから親会社の社長のKo藤さんへ相談にいくつもりだった。八王子ラボの移転が浮上したらさまざまなところから邪魔が入るから、すぐに実行できる具体案をつくって既成事実化してしまおうと考えていた。八王子ラボに5年いたのでラボの中はどの検査部門も離れたところにある業務部門も知り尽くしていた。用事があるたびに必ず現場へ出向いて担当者と直接話すことにしていた。検査機器を2年担当した後、学術開発部門で検査試薬の共同開発や海外製薬メーカ向けラボ見学対応をしていたから、各検査部で使用している検査機器には精通していたし、仕事を通じて全検査部門にそれぞれ強いコネクションを築いていた。仕事を通じて課長や係長クラスに顔が広かったのである。なにしろ八王子ラボに行く直前まで、本社管理会計課で全社の予算を統括していたのだから、開発に失敗した簿価2000万円以上の機器の後始末や臨床検査部のLANが失敗して50台のパソコンが要らなくなったのも大事にならないようにこちらのほうから処理してあげた。担当者の痛い勉強になったのだからいいのである。研究開発に必要な予算措置を裏からしてあげることができた。利益の大きな会社だったから、稟議書や協議書をの書き方ひとつで研究開発にはいくらでもお金が使えたのである。要は書類の書き方ひとつ、そして予算申請の仕方ひとつで数千万円単位のお金が使えるのである。面白いと思ったことは何でもやれる会社だった。八王子ラボは本社に強いコネクションがなかったので、対立感情があってギクシャクしていたから、私の八王子ラボへの異動は「渡りに船」だった。本社管理会計課からの異動は東証Ⅱ部上場準備で中途入社3年目のことだった。前職の産業用エレクトロニクス輸入商社でマイクロ波計測器や質量分析器、液体シンチレーションカウンターなど取扱商品についてやった勉強や磨いたシステム開発技術が生きた。もともとの本職は経理屋さんなのであるが、経理の実務はほとんど担当したことがない。予算編成と統括管理はプロジェクトをいくつか抱えながらエレクトロニクスの輸入商社でも臨床検査会社でも入社翌年に担当した。

 八王子ラボは敷地面積が狭く、業務量が増える都度敷地を買い増したので不便だった。5階建てのラボは垂直移動を伴うので、液体の検体を事故なくハンドリングするために平面の150mぐらいのラインがほしかったのである。練馬のラボも5階建てだった、これでは機械化が複雑になる。中央に検体の流れをつくって、その脇にそれぞれの検査部門をずらりと配置してみたかった。

 帝人の臨床検査子会社との臨床治験部門の合弁会社設立で、羽村ラボにも関係することになったのだが、90年ころ八王子ラボの検査機器担当としてこれらの動きをすべてモニターしていた。検査機器担当としての2年間がなければこういう仕事はできなかったかも知れぬ。天が先読みしたかのように必要な仕事を経験させてくれていた、現実はうまくできすぎている。でも 一本調子にはいかない、かならず予定外のドラマを用意してくれているから面白い。

 福島県の臨床検査会社は関連会社だから、子会社・関連会社No.1の高収益会社になったら、慣例上その会社の社長を本社役員にしなければならなくなる、それも嫌だったのだろう。わたしとはウマがあったが、たしかにSRLのカラーにはそぐわない「暴れん坊」気質の男だった。親会社創業社長のF田さんの判断は正しかったのだろう、わたしは余計なことをしたことになる、はっきりそれがわかったから「わかりました」と一言、それだけで引き下がった。お二人さん、ぎょっとした顔をしたのだけ覚えている。あっさり引き下がるとは思わなかったようだ。
 3年の出向だったはずが、実行可能な経営改善案を作ったために、15ヶ月で本社に戻されてしまった。3年間で赤字の会社を黒字にできるなんてやれっこないと見くびられていたのかもしれない。出向直前に千葉の子会社の経営改善に本社管理部門(関係会社管理部)としてタッチし、臨床検査会社の劇的な経営改善は予行演習済みだったから、染色体検査の件がなくても黒字化は簡単だった。具体的なプランを示して出向会社の社長を説得すればいいだけだった。福島県の会社のシステム部門が障害だったが、そちらも調査のときに釘を刺し、1年間かけてしっかり手を打ってあったのである。
 あの計画を実行できたら売上高経常利益率が20%を超えただろう。親会社の2倍の利益率だった。高収益会社の株式公開で耳目を集めることになっただろう。目の前に仕事がぶら下がるとそれに夢中になるところがebisuの長所でもあり欠点でもある。本社社長の本音を読もうとは思わなかった、直球しか投げない投手のようなもの、おろかだった。(笑)

 15ヶ月間一緒に仕事したN科さんからの電話で、なつかしいことをいろいろと思い出した。



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#2504 web 本棚 紹介 Nov. 19, 2013 [22. 人物シリーズ]

 ブクログ(booklog)を知っているだろうか?私は知らなかった。
 ブクログはweb上に自分の本棚をつくり、本ごとに紹介コメントを載せられるサービスである。なかなか楽しそうなソフトだ。コンピュータゲームやネットゲームには興味がないが、こういうソフトには興味がある。本棚には興味の範囲や並んだ本のレベルの幅などかなり個性が出るものなのである。


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 labonoboさんの本棚
http://booklog.jp/users/labonovo
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 labonoboさんがレビューを書いている本にはマークがついているから、それを読んで書き手の専門や職業が何かを想像するのも楽しいかもしれない。

 本棚はその人の興味や関心の範囲を示しており、よほど親しくなければ他人の蔵書を拝見することなどできるものではない。大学に勤務する先輩の書斎を見せてもらったことがあるが、きれいに整頓されて二部屋の壁にびっしり並んでいた。

(わたしのお仲人さんであるKさんは根室在住の文学博士(ある印刷会社の会長)だが、考古学者だからその蔵書は3万冊を超える。わたしはそんなにたくさんはないが、4000冊に近いかもしれない。いずれ処分しておかないととは考えている。
 若い自分にはけっこう苦労して買い集めても、興味がない家族には「タダのゴミ」(ワイフの言)だそうだが、わたしも(そして家族も)本の壁に囲まれた書斎にある種の思いがあるからそう簡単には捨てられない。数十年にわたって集められた書棚の本とそれを読み親しんだ本蟲は切っても切れないつながりがある。しかしこれも一つの執着だろうから、きれいさっぱり捨ててしまうのもいい。)

 前置きはこれくらいにして、どういう本を読むべきか迷っている高校生や大学生は、一度この本棚をのぞいて見たらいい。現在340アイテムが並んでいる。もっている本から読み手の大学生をイメージしながら厳選したものだろう。そのうちでlabonovoさんがレビューを書き込んたのが83冊。これからもレビューの数は増えていくはず。並べられた本の数十倍も読んでいるのだろうと推察する。

 web上の本棚は物理的な場所がいらないし、クリック一つで消去できる。更新が止まれば、管理者がセットしているプログラムが働いて自動的に削除してくれるだろう。
 定年を過ぎて暇をもてあましても諸先生は自分の本棚の本を全部ネット上の本棚に登録するようなことはあるまい。数百冊を選んでレビューを加えて公開してくれる先生が増えたら、高校生や大学生には自分の勉強方向や研究方向を決めるのに役立ててもらえるかもしれない。labonovoさんのブクログはそうした用途に利用できるレベルのものだ。

 わたしが高校生のころにこういうものがあったら小躍りして喜び、すべてのレビューを読んだだろう。いい時代になった、本につけられたレビューを読んで面白そうだと思ったら、小遣いと相談して本屋に注文して読んでみたらいい。


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#2260 東西の古地図に見る日本・北海道・千島:展示会 Apr. 10, 2013 [22. 人物シリーズ]

 4月9日から20日まで根室市総合文化会館で標記展示会が開かれている。根室の考古学者である北構保男氏(大正6年生まれ、94歳)所蔵の古地図に元北大講師の秋月俊幸氏が解説をつけて120枚が展示されている。根室市教委と大地みらいの協賛だ。

 10時頃MTBに乗って展示会へ。会場には30人ほどのシニアが散らばって古地図に見入っていた。会場は根室高校生の帰り道に位置しているから、学校帰りに友だちを誘って見に行ったらいい。

 No.46のユーラシア大陸側から見た北海道と千島列島図は、これらの島々がロシアが太平洋へ出るのを邪魔しているようにみえる。どちらから見るかで「風景」がまったく違った趣をみせるのは意外の感がある。似た角度から(中国が下に、日本列島が上に弧状に描かれたもの、太平洋側にあるフタが日本列島)からみた日本列島地図を一昨年カレンダー仕立てにしたものを北構さんからいただいた。中国にとっても日本列島は太平洋へ出るための障害にみえる。ロシアも中国も日本列島は実に邪魔な存在なのだ。西側を下に東を上に配置した地図でユーラシア大陸側から日本列島を見るとまるで印象が違う。百聞は一見にしかず、見るべし。

 驚くべきは1821年伊能忠敬製作の日本地図である。測量技術の卓越さが際立つ。距離を測る道具を引きながら三角測量によって沿岸を描いていったのだろうが、現在の地図とほとんど同じだ。これほどの精度の地図*は同時代にはないから展示されている他の地図と見比べたらいい。三角比は高校1年で習うから、中高生はぜひこの地図を見て数学の威力を実感してもらいたい。
 伊能忠敬がどのように測量して歩いたかは『四千万歩の男<蝦夷編>』(上・下巻、井上ひさし著)を読んでもらいたい。本棚にあるのだが私はまだこの本を読んでいない。講談社文庫からも出ている。

(*江戸時代製作の対馬の地図を本で見たことがある。対馬藩が幕府に献上したものだが、海岸線が衛星写真と同じにみえる。どのような測量技術で描いたのか、不明である。伊能忠敬の精度を超えている。どういう技術屋さんがいたのだろう?伊能忠敬を超える地図作りの名人がいたことになるが、歴史上名前が残っていない。数学を応用した測量理論と実際の測量技術があったはずだが、伝えられていない。無名でも神業の域の職人がいろんな分野に存在したのだろう。マルクスの言うような工場労働ではこのようなしごとはできない、現在隘路となってしまっている資本主義経済を打破するために、経済学は職人仕事と職人文化にスポットライトを当てるべきだ。)

 展示会実行委員長の大地みらい信用金庫理事長遠藤修一氏は次のようにあいさつ文を寄せている。
「・・・主催者としては、お一人でも多くの地域の皆様がこの展示会においでくださることと、とくに次世代を担う子供さんたちに日本の北辺や郷土の歴史にいっそうの関心をおもちいただくことを期待させていただく私大です。」

 二度と見る機会はないかもしれない百葉の古地図、中高生にこそ見てほしい。こんなに多数の古地図を収集するにはお金もヒマも必要だ。個人でよくこんなに収集したものだ。

 北構保男氏は地元の印刷会社の会長だが、事業をやる傍ら考古学研究も続けて60代半ばで博士論文を書いて母校である國學院の文学博士の学位を取得している。実業と学問を両立させた稀有な郷土の先輩である。戦時中は文部省からの委嘱でベトナムの王族関係者に日本語を教えていたことがある。
 「北国賛歌」だったかな、作詞者の田塚源太郎先生(歯科医)と根室商業では同級生。どちらも大柄である。わたしはこの世代の根室人を何人か知っているし、東京暮らしも長かったので昔の東京を含めて共通の話題がいくつかある。「友人達は皆死んでしまった、昔のことを話せる人がいない、時々話し相手においで」と言われても、なかなか気軽にはいけないのである。
 40代半ばで市長選挙に立候補したことがあったが、敗れた。それを機に地元の政治にはかかわらなくなった、何度か理由をはっきり仰っていた。大きな声で遠慮なく物を言う型破りな人である。
 わたしは個人的なお付き合いがあって「先生」とお呼びしている。蔵書は3万冊、そのほか考古学資料も多数ある。ご自宅では保管しきれず数箇所に保管場所を確保している。この中には貴重なものが多数含まれているだろう。市教委と大地みらいが続けてこれらの資料に解説をつけて展示会をやってもらいたい。

【釧路でも古地図展示会を開けないか?】4月16日追記
 釧路市教委も道教委と協力して、古地図の展示会を開き、広く釧路市民が見られるような機会をつくってもらいたい。釧路は協賛している大地みらい信用金庫の営業基盤の一つでもあるのだから、釧路と根室が協力して一つの事業を成し遂げるいい機会だ。
 根室から視野を広げて根釧という視野で見ても、事業家であり学者でもある人材は他には見当たらないのだから。


---------------------------------------------------
*#2264 なぜ松前藩だけが地図をつくれなかったのか?
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-04-15



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四千万歩の男〈蝦夷篇 上〉 (日本歴史文学館)

四千万歩の男〈蝦夷篇 上〉 (日本歴史文学館)

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1986/04
  • メディア: ハードカバー
4千万歩の男〈蝦夷篇〉 〈下〉 (日本歴史文学館)

4千万歩の男〈蝦夷篇〉 〈下〉 (日本歴史文学館)

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1986/05
  • メディア: 単行本

 間宮林蔵との出遭いがおもしろい。間宮は伊能を焼き殺そうとしたが失敗する。伊能は間宮の目つきが気に入らない。十数年後にこの二人が協力して蝦夷地図を完成させるのだから、事実は物語よりも不思議だ。

#2096 男子一生の仕事:若い頃はおっかなかった高橋珠算研究塾塾長 Sep. 28, 2012 [22. 人物シリーズ]

 

 9月27日に高橋珠算研究塾の高橋尚美先生が76歳で亡くなった。
 思い出を書き留めておきたい。

 団塊世代が小学4年生の頃だったか、本町4丁目いまAUのあるところはお米屋さん(中学3年生の時の副担任だった大岩朋子先生(ご結婚されて半田姓)のご実家)だった。その隣に2階建ての建物がある。大地みらい本店前の建物がそうだったのではないか、裏側に階段があり2階が珠算研究塾となっていた。ちょうど一回り上のT先生が根室で珠算塾を開いた。家から歩いて1分の距離だった。
 当時は学習塾もなく、初めての珠算塾でたいていの小学生は数年間通ったことがあっただろう。私は5年生の頃に通い始めた。級があがるのはうれしかったが、誰かに誘われて通い始めたから、最初のうちはあまり熱心ではなかったかもしれない。
 その頃Yさんという人が根室支庁長から市長選挙に立候補して、市長となった。高校3年生のご子息がいて、1年通って商工会議所1級に合格してしまった。考えられない上達速度である。札幌の進学校から転校してきてよほどヒマだったのだろう。わたしはこの話しを、根室に十年前に戻ってきてから毎年正月に新年のご挨拶に先生のお宅にお邪魔したが、その折りに聞いた。
「あいつが一番だったな」
 高校生で転校してきて、三年生で珠算を習って日商珠算能力検定試験1級に合格し、根室高校から初めて東大現役合格。卒業後は道庁に勤務して川上支庁長を最後に退職したという。すごい先輩がいたものだ。
 6年前にスキルス胃癌の手術をしたあとからは、正月にお伺いするのをやめた。抗癌剤で体調がよくなかったとと、顔色が悪かったし、体重も10キロ近く落ちていたので心配掛けたくなかった。つい、ご無沙汰が長くなり、今日新聞の折込で訃報に接した。

 高校1年生のときに、2学年上のS山先輩(市内で珠算塾と学習塾を経営)が中央大学文学部に合格して、汐見町の分塾を担当する人がいなくなった。そのあとを頼まれて、1年ほど「塾長代理」をしていたことがある。お世話になった先生からの依頼だから否やはない。S山先輩に続いて二人目の「塾長代理」だった。
 高橋先生は商工会議所の珠算能力検定試験1級満点合格に何回も挑戦したが、乗算・除算・見取算・伝票算・暗算のどれか1科目が90点あるいは95点でついに満点合格は果たせなかった。日商一級合格証が何枚もあった。

 男子一生の仕事と言っていたから、仕事の姿勢は厳しいものがあった。たまにだが、だんだん熱が入ってくると、大きな声で本気で叱りだすのである。塾生はビビッて指がなおさらうまく動かなくなる。やめる生徒が出てもお構いナシだった。
 汐見町の分塾を担当し、金曜日だけ交替して曙町の本塾を私が教えたのだが、金曜日に本塾へ行くと塾生たちの中には、ほっとした顔をするものが何人かいた。自分が叱られていなくても、そばで誰かが叱られていると怖かったのである。本気というのは生徒にびんびん伝わるものだ、こういうタイプの先生がいなくなった。

 私が教えていたころ、小学5年生で突然、全珠連珠算検定4段が出だした。一人が4段取ると4から5人が続いた。5段取るとまた続いた。結局十段位が数人出たのではないだろうか。私は高校を卒業してから35年間根室にもどらなかったので、そのあたりのことに詳しくない。だが、根室の珠算を全道トップレベルにしたことは間違いのない事実である。根室の教育関係者でこれほどの実績を上げた人を他に知らない。遅まきながら根室市は功労賞ぐらい送ってもいいのではないか。

 根室で珠算大会を初めて開催したのは私が高校2年のときだった。商工会議所との折衝は先生が担当し、高校側の根回しはebisuがやった。根室高校の柔剣道場で初回の大会をやったが、暗算だけ選手として出さしてもらって、後は主催者側。選手宣誓もやった、ebisuは初回の暗算種目で優勝している。なんだか自作自演のお芝居のようでヘンな気分だったので、翌年は主催者側で通した。他の部門も出場すればほとんどの部門で優勝ということになったかもしれぬ。暗算部門だけで充分だった。

 高校生のときに、全珠連の集まりに誘われて帯広まで先生の運転する車で一緒に出かけたことがあった。あの当時の国道は砂利道で、時速60キロも出すと、前に車が走っていると砂利がタイヤではじかれて飛んでくる、道路事情がよくなった。
 郊外にレストランを経営したこともあったがこれは程なく手仕舞いした。
 T先生はビリヤードをよくやったので、こちらは私のほうが先生だった。高校生のころはほぼ互角だったかもしれない。珠算の腕は遠く及ばなかった。

 高校の珠算競技(全道大会)は日商珠算能力検定試験1級と実務計算試験1級の問題を半分の時間で点数を競う。団塊世代が高校生のころは根室高校は2部校だった。5年後くらいには小学生だった優秀な連中が5人ほど根室高校に入学したはずだから、1部校に鞍替えできたのではないか。
  私は根室高校では珠算部員ではなかったと思うが、生徒会へ引っ張ってくれたN先輩から「いくぞ」と言われて、「はい」としか返事のしようもなく、全道大会のときだけの幽霊部員だった。N先輩は大学も一緒だった。

 商工会議所1級は全珠連の3段あるいは4段くらいに相当する。Yさんのあとの商工会議所検定1級合格者は私だった。1年間で日商一級に合格した大先輩とは比較にならない。
 1級検定試験に滑ったときに、毎週日曜日1ヶ月間、先生が2時間ほど直接指導してくれたので合格できた(あのころちょうど長女が赤ん坊で長男が元気に遊んでいた。その長女のお子さん(先生の孫)が中3のときにニムオロ塾へ通ってくれた)。
 あのとき、時間を半分にして合格点がとれるようにトレーニングした。練習時間を2倍にしたから、練習量は4倍に増えた。不器用だったのだろうが、練習時間を2倍にすればゆるぎない力がつくのはあたりまえ、へこたれない精神的強靭さが培われた。
 受験勉強はしっかりやらないと落っこちる、200%のところまで努力を徹底すればかならず合格でき、80%と思うあたりなら、落とし穴に引っ掛かりほぼ落ちる。
 だがそのあとも受験では、日商簿記一級、大学受験と詰めの努力を怠って手痛い失敗を重ねた。合格して当然だと思ったとたんに努力の手がゆるむ、人間とはおろかなものだ。三度の失敗があったので、大学院受験だけは手を抜かなかった。度重なる失敗は最後の勝負のための準備にすぎない、失敗から学べ。

 小学生には3年くらいソロバンを習わせるといい。これは日本の伝統文化だ。10分単位で時間を測ってやるので集中力が抜群に強くなる。暗算は10問2分間である。競技の時には1分間でやらなければならないから、爆発的な集中力が養われる。「運算用意、はじめ!」の声でスィッチが入り、エンジンはいきなりレッドゾーンに達する、気分爽快。
 小中学生の基礎計算力が驚くほど低下しているが、小学生のときにソロバンを習っていればこんなことにはならない。英語は高校生から始めても根室高校なら模試で学年一番をとることはできるから、小学生のときはソロバンを習わせたほうがいい。
 集中力と基礎計算力が人並みはずれていると高校数学で絶大な効果を発揮する。二次関数でも三角関数でも対数関数でも微分でも積分でも、最後は四則演算の速度と正確性が勝負を決める。ebisuは問題数が多くても、全問やるのに30分以上かかったことがない。100点とりたいときは、全問見直しする時間が充分にとれる。90点でよければ30分でやって後は次の科目の試験に備えて寝て休養をとっていたほうがいい。
 社会人になってから、産業用エレクトロニクス輸入商社時代は長期計画も資金繰りも、利益を増大させるためのサブシステムもどこをどのようにいじれば、利益率がどれだけ上げられるのか、頻繁に頭の中で暗算でシミュレーションして、具体策を見つけ出していた。売上300億円の国内最大手の臨床検査会社へ上場準備要員として30代半ばで転職して予算を統括してからも、いつも頭の中は3桁の概数でシミュレーションが走っているから、なにかあった場合でもどこにどれほどの影響が出るのかおおよその見当がつくので、臨機応変に対応ができた。高いところから会社経営の全体が見えてしまうのである。
 すべては、「男子一生の仕事」と言い切って、トレーニングを課してくれたT先生のお陰である。
 先生が小樽出身で、釧路江南高校を卒業後1年働いてから根室に来て珠算塾を開いたと、お通夜に代理で出席した女房が報告してくれた。釧路出身の人だと思っていた。まったく関係ない話だが、「釧路の教育を考える会」の会長と事務局長も同じ高校の出身、縁とは不思議なもの。 

 Yさんと比べるべくもない不肖の弟子であったことが残念だが、先生のご冥福を祈りたい。
 合掌

【見送り】追記
 29日朝7時半、出棺前の読経に参列した。棺の中に納まった先生はずいぶん小さくなっていた。病気を患うとみな小さくなる。遺影の写真は元気な頃の先生だった。出棺を見送ってもどってきた。
 老人は2.9万人の人口のうち8000人を占める。市立根室病院の終末医療機能はますます重くなるが、根室に医療療養病床はゼロである。
 新病棟がまもなく完成するが、病院経営は赤字がさらに増え、年間15億円を越すだろう。建て替えが完成したあとは、経営改善に努め、市立病院の灯を守ってもらいたい。
 市長は未だに建て替え後の病院収支を明らかにしていない。市議会で工事着工前に明らかにすると約束したのに、反故にしている。正直にシミュレーションすれば年間15億円を超える赤字になるからで、職員給与をカットするしか財源の当てがない。
 市立病院が夕張市のように診療所になっていいと思う人は市民には一人もいないだろう。だが、現実は危うくなってきているように見える。
 仕事は正直に誠実に、そしてやるべきときには全力でやるべきだ。珠算塾を「男子一生の仕事」と言い切っていた先生のような人が現れて、次の市長となってほしいもの。

<横田先輩のこと>
 根室から初の東大現役合格者である横田さんは、高校生の時に中標津から転校してきたという。中標津で珠算塾に通っていたのだそうだ。ある時、横田さん話題になったときに中標津で育った叔母が教えてくれた。根室へ来てから短期間で腕を挙げたことは事実だろう。高橋先生の記憶に強く印象を残した弟子だから。
 それにしても、高校生になってから、しかも東大受験をするつもりの生徒が、珠算塾の門をたたくなんてことは考えにくい。師と弟子は磁石のようなもので、近くにいると自然に吸い寄せられるように出遭うのではないか?
 卒業後は道庁へ就職、最後は上川支庁長で退職されたようだ。高橋先生のところへ年賀状が来ていて、正月に伺ったときに見せてくれた。


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#2055 四島返還願い史実を伝承:K先生  Aug. 17, 2012 [22. 人物シリーズ]

 K先生の写真がカラーで8月14日の北海道新聞根室地域版に載っていた。歳をとらないご様子に元生徒としては喜びに耐えない。たしか、西浜町会長もしておられたはずだが、現在もそうであるかどうかは知らない。先生が水晶島(歯舞群島のひとつ)の関係者だとは新聞を読むまで知らなかったが、退職後根室にもどってきた理由がわかったような気がする。
 団塊世代のわたしが小学生の頃、(根室花咲小学校で)一学年上の学級担任をしていた。わたしたちが光洋中学校へ入学すると一緒に異動した。わたしはそこで日本史をK先生に習った。黒板に字を大小取り混ぜてお書きになる特徴のある板書だったのでそのまま暗記することができた。黒板に書かれたことを映像として記憶できることに気がついたのはK先生の板書がきっかけだった。眠っていた能力が目覚めた感じがしたから、この先生の授業には特別の思いがある。わたしたちが根室高校へ進学すると、また一緒に根室高校へ異動になった。小中高とタイミングを同じにして伴走するかのように一緒だった唯一人の先生。
 根室高校のあと、道内のいくつかの高校で教えられた後、退職し、根室へお戻りになって現在に至る。81歳、お元気そうで、なにより。

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 根室水晶会会長 
  柏原栄さん(81歳)
    四島返還願い史実を伝承

 待望の会報第2号が完成した。「この1年間の出来事や会の活動を網羅しており、これを土台に会を存続させたい」と力を込める。
 会は1951年に水晶島の元島民の親睦団体として発足。60年あまり前には、島には千人近い日本人が暮らして瑛太が、年を追って年配の人が亡くなり、会員の高齢化も進んでいる。
 2世、3世の間でも四島の歴史を知らない人が増えつつある。「会報の発行の目的は、後世に当時の島の様子を伝え、もともと四島は日本の領土なんだという史実を伝承していくことです」
 会報には自身も小学生時代、父と一緒にシマエビ漁に出かけたときの思い出をつづり、ロシアのメドベージェフ首相の「四島は一寸たりとも渡さない」との発言を批判。「わが故郷を早く返して!」と訴えている。
 2年前には、北方領土返還要求市民大会で元島民代表として、領土返還への願いを切々と語った。
 悪天候もあって今年の市民大会の参加者はいまひとつだった。空席の目立つ会場を見やりながら「元島民の平均年齢は78歳。残ったわれわれには余り時間がないのです」。(五十嵐正剛)」

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 来年の北方領土返還要求市民大会には足を運んでみようかな。根室水晶会長のK先生と千島・歯舞居住者連盟からお二人、cccpcameraさん、そして択捉元島民のebisuがパネルディスカッションをしたら楽しいだろうな。会場には市内の中高生を招待して・・・いろんな意見のあることを市民が知るだろう。閉塞状況にある領土問題を打開できるきっかけになるかもしれぬ。

 北海道新聞の根室市局長は7月に異動があったようだが、新局長殿は北方領土問題に関心が強そうで、着任してからその関連の取材記事が多い。8月13日の紙面にも「北方領土 歴史 風化させないで 根室で教育指導者研修」という記事を書いている。独立行政法人北方領土問題対策協会(東京)主催の教育指導者研修だ。文科省の補助金事業だろう。
 支局長が北方領土領土問題、色白美人の女性記者は自然と環境問題、3年目になるベテラン男性記者は歯舞の浜の仕事をそこでしか使われていない特殊な浜言葉を交えて取材し、独自の取材領域を確立しつつある。

 柏原先生は日本史や政治経済を教えていたが、同僚の山田先生が郷土史研究部の顧問で郷土史家だった。収集した資料や学生と一緒に手作りした資料をたくさんもっておられた。20年以上前になるだろうか、本町の浜で双眼鏡で国後島を見ていたら、「ちょっとみせてくれないか」と声を掛けられ、そのまま先生宅にお邪魔していろいろ見せていただいた。山田先生は根室の土となられている。
 どちらの先生も根室高校生徒会顧問だったことがあるのでお世話になった。4年ほど前になるだろうか、柏原先生は写真が趣味で大阪造幣局の桜を街角サロンに出展していたことがあり、川とビルと柳の木が一緒に写っていたのだが撮影場所に検討がつかないのでどこで撮影されたのですかと自宅へ電話してお聞きしたことがあった。名前を名乗ったら覚えていたので驚いた、たった一年間ならっただけ、たくさんいた生徒の一人一人を覚えておられるようだった。わたしもそうありたい。

*#2056 団塊世代と競争:全国レベルを知る Aug. 17, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-17-1

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#1747 根高の先輩と久々に飲む Nov. 22, 2010 [22. 人物シリーズ]

  根室高校の一学年先輩が札幌から仕事で見えたので、二十数年ぶりにお会いした。前回は東京で会った。右手を差し出して握手をしたが、分厚い掌でとても事務屋をずっとやっていたとは思えないほと握力も強い。
「髪が白くなったな」
「少し痩せられましたね」
 そこから会話が始まった。お互いに積もる話しはたくさんあった。
「実は人工透析を週3回やっているんだ」
 数年前から透析をしているという。食事制限がたいへんだろう。
 私の方もスキルス胃癌を5年半前に手術したことを報告した。お互いに歳をとると身体が壊れてくるのを実感している。

【昔話】
 私はこの先輩Fさんともう一人Nさんという先輩にたいへん面倒を見ていただいた。Fさんは生徒会副会長、Nさんは会計だった。わたしはNさんの指名で彼の後任を務めた。
 手書きの帳簿をつけていたから簿記と珠算に堪能な生徒が指名された。2年生のときに全クラブの予算折衝を任された。当時のお金で約2百万円の規模だっただろう。
 各クラブから予算申請してもらい、各部2名、部長ともう一人が予算折衝に来た。公平を旨として、予算増額も減額もそれぞれ理由をハッキリさせて査定した。あの当時の生徒会会計の権限は大きかった。なにしろ予算も決算も単独でやってしまうのだから、大げさに言うと財務省並の権限があった。
 (20代後半と30代半ばに2度、売上規模30~40億円の会社でも400億円の会社でも、どちらもその会社に途中入社して1年後には予算の統括を任されたのだが、そのときに生きた。伸びる可能性のある事業分野には予算を思い切って投じ、その一方で費目の金額の大きい順に中身を検討し担当部署と具体的に話しを詰めて削っていった。生徒会会計の仕事も徹底してやれば社会に出てからそのまま役に立つ。)

 あるときHaさんというもう一人の副会長から、「会長に立候補しろ、俺が応援演説をやる」とのご託宣があり、Fさんからも後押しを受け、2名の副会長の薦めに断るわけにも行かず生徒会顧問の先生にその旨告げたが、意外や生徒会顧問から強いノーの返事。理由がヘンだった、生徒会会計だからダメだというのだ。そういう校則はないし、後任は前からある後輩を考え、N先輩の了解も取ってあったから、問題ないと伝えたがそれでもノーだった。
 こんな屁理屈を生徒会顧問が考え出すはずがない、たぶん校長から言われていたのだろう。私は共産党の下部組織のメンバーと接点があった。根室高校には戦前の根室商業高校時代から続いていた総番制度(私たちの代で廃止、軋轢あり)があった。商業科でないとメンバーにはなれない。私は2年生になって総番長と同じクラスになり馬が合ってよくつるんで二人で動いた。副番長一人は同級生で、あるところの地主の息子で駅から家まで自分の土地を歩いて帰れるだろうと先生に冷やかされていた鷹揚な奴、もう一人の副番長は小学校の同級生でこいつとも1年のときには同じ柔道部で仲が良かった。副番は3人いたが残りの一人は口数が少なく一見おとなしそうな奴だが体格はがっちりしていた。
 副番3人のうち二人は大学へ進学した。一人はあるテレビ会社の取締役になった。総番制度の伝統は残しておいた方がよかったのかも知れぬ。しかし、あの頃はもうカタチが崩れてしまっていた。私たちの世代で立て直すと同時に破壊したと言ってよいだろう。諸先輩たち築いたカタチが崩れていくのを見るに忍びなかったのである。後輩たちの中にもこうした伝統を受け継げる人材がいなかった。総番制度はタダのワル集団であってはならないのだ。総番長と私とある友人が解体に係わった。総番長は数名のグループメンバーの反発を買ったが愚痴を一切言わなかった、男気のある男だった。
 中大(革マル?)出身の社会科の先生もいて、時事問題研究会主催していたが、そこの主要メンバー数人とも接点があった。主要メンバーの一人は幼稚園で2年間一緒で仲のよかった男だった。あいつは高校を卒業してから東大安田講堂に立てこもった全共闘メンバーの一人になった。それ以来、静かになった。当時の話は聞いたことがないし、聞くつもりもない。同世代の一人として、幼い頃の友だちとして、その気性と気持ちはわかっているつもりだ。
 私自身はどこにでもつながる"ハブ"のようなものだった。正体不明のぬえのようなものだから、学校側の警戒は仕方がなかった。

(私は小学生の頃から家業のビリヤードの手伝いを毎日数時間していた。その手伝いを通じて根室の大人たちと接点があった。歯科医の先生たちや、信金さん、銀行員、喫茶店の店主、飲食店経営者、ヤクザの親分と幹部3人など、じつにさまざまな大人たちがお客様だった。ヤクザの親分は元落下傘部隊のオヤジに遠慮して、幹部3人以外の出入りを禁じていた。お袋を"ねえさん"と呼んでいたから勘違いをした人がいたかも知れぬ。ご同業ではない、正規兵3人を相手にできた元落下傘部隊のオヤジに対する彼なりの敬意だっただろう。使い走りが来たことがあるが、親分は"ここは○○さんの店だ、出入りはなんねえ"、ふだんはそういう言葉づかいを見せない、言葉づかいや身なりや礼儀はきちんとしていた。その親分の兄貴分だった人がいるが早くに渡世家業から手を引いて根室の実業家の大物となった。
 小さい頃から家業を手伝う私をお客の皆さんがかわいがってくれた。お客さんたちは"○○坊"と私を名前2字で呼んだ。40過ぎて用事があって帰省した折りに、"○○坊"と懐かしい呼び方をする人がいるので誰だろうと思った。顔色が土気色でお痩せになっていたので一瞬わからなかったが、旧知の歯科医の先生だった。癌と聞いて顔色と肌の色だけで肝臓転移がわかった、悲しかった。それから3ヶ月ほどでお亡くなりになった。若い頃には根室新聞に時代小説を連載していたから、小説家でもあった。いま私の歯科の主治医はその息子さんである。マスクからみえる目がときどきやさしい先代そっくりなのに気がつくことがある。いい歳をして涙腺がゆるみそうになる。私が赤ん坊の頃、太った先先代がお腹の上に乗っけてよく遊んでくれたそうだ。3代に渡ってお世話になっている。ふるさととはそういうところだ。
 もう一人かわいがってくれた歯科医の先生がいた。根室でおなじみの北国賛歌の作詞者である。男の子がいなかったのでなおさらかわいがってくれたのかもしれない。親父と仲が良かった。人情味の厚いお人柄でわたしはこの人も忘れることができない。
 その歯科医の先生と印刷会社の会長で根室の考古学者にして唯一の文学博士の好々爺とは根室商業時代の同級生、学生時代は東京でもつるんでよく遊んだらしい。歯科医の先生は2番目に大きい北方領土の島、国後島の大漁師の息子だったとは好々爺のKさんから聞いた話だ。私は普段は"先生"とお呼びしており、Kさんと呼びかけたことはない。40代に根室市長選挙に立候補して敗れて以来、地元政界に見切りをつけて会社経営と考古学の世界に自分を限定した。未練の断ち切り方が見事だ。"何をやっても根室は変わらんよ、変わるわけがない"とそう仰るので、私は根室を変えたくて無駄を承知で4年前の11月27日からブログを書き始めた。大正6年生まれのKさんは私のお仲人さんでもあり、時折お話を伺いに行く。"友だちはみんな亡くなってしまった、昔話ができるのは君くらいなものだから、話しにおいで"と大きな声でうれしそうにおっしゃる。)

 副会長のお二人には生徒会顧問の先生が反対しているとだけ話して会長立候補をあきらめてもらい、その代りに友人のHyを副会長に立候補させHaさんに応援演説をお願いした。生徒会長にはHnがなった。

 当時の根室高校は校則で坊主頭を強制していた。男子は坊主頭にしないと校則違反で入学できない。2年生は修学旅行の時期である。わたしは数人と4月から準備して、父兄にアンケート調査を実施した。髪型の強制は人権に係わる問題だという論調で髪型に関する校則を廃止するつもりだった。このアンケート結果を踏まえて体育館で全校集会を開き、学校側へ校則改正を認めさせた。学校側は父兄に弱いのである。だから父兄にアンケートをお願いした。決定は修学旅行で東京・大阪・京都へ行く4ヶ月前だった。予定通りのスケジュールで、私たちは髪を伸ばしてドライヤーを買って修学旅行に行った。
 当時は根室高校のほかに私立高校があった。明照高校である。そこの生徒会長は現在市議であるKさんだった、そことも生徒会同士のつながりをもった。
 面白い時代だった、やろうと思えば何でもできた。ラグビー部は明大でラグビーをやっていた先生が新任で赴任してきたのでチャンス到来と友人数名をたきつけて同好会を結成、翌年クラブ昇格をさせた。大学のメニューを持ってきたから中標津を凌ぐくらいにあっという間に強くなった。
 あるとき、生徒会顧問(複数)のある先生から名札をつける案が出された。職員会議ではすでにオーソライズされていた。これを潰すために、「わたしたちも名前を知らない先生が三分の一はいます、だから一緒につけましょう」と生徒会側から申し入れをした。案の定、職員会議は紛糾し、つけるのを嫌がる先生が続出して、この案は沙汰止みになった。目論見どおりだった。ある先生が生徒を管理するために校長に進言して進めただけであって、自分たちが名札をつけることを教員たちは嫌がった。作戦勝ちだった。あのとき生徒会長のHnは学校側と生徒会メンバーとの間に挟まって苦労したはずだ。
 生徒会を思った通りに動かしたくて、副会長にはHyになってもらったし、中央執行委員の一人は仲の良い同級生、もう一人はよく知っている美人のTさんだった。もう一人女の副会長だったのではないかとおもうが、Tbさんという人がいたが女傑といっていいだろう。彼女は時事問題研究会のメンバーだった。頭の切れる一風変わった雰囲気の人だった。企画さえよければノリのよいメンバーが集まって協力した。わたしは組織と人の動かし方、仕事の仕方を根高生徒会で学んだのだろうと思う。社会人になってから転職を繰り返してそうしたスキルをさらに磨いた。自分に権限がなくても組織は動かせるのである。
 生徒会室に同居していた新聞部のメンバーも面白いのがいた。"ケイジ"は起業してソフトハウスの社長をやっているし、Yは東京で学校の先生になった。当時は謄写版印刷で、ガリを切ったあと、ローラーにインクをつけて1枚ずつ刷った。印刷物が多いので生徒会でドラム式謄写印刷輪転機を買った。これだと全生徒分1050枚があっという間に印刷できた。新聞部と共用だった筈だ。輪転機を回したときのインクの臭いを思い出す。
 美術部の部長だった同級生のTはアンダーグラウンド劇場関係のプロモーターのような仕事をしていたが、東京渋谷の駅付近にビルを一つもっているそうだ。若い頃は大橋巨泉の番組など何度かテレビに出ていた。馬力のある女だった。
 同級生のKTは3年の夏に中退して、"ゴルゴ13"の斉藤タカオの一番弟子になった。
 同じ大学へ進んだ同期の一人はあるテレビ会社の東京支社長で役員をやっていた。いまは関係会社の社長のようだ。商業科からこういう進路に進む余地はもうないだろう。
 高1のときに中退した総番長のポン友は30代のころから銀座に2軒店をもった。何度か飲みにいった。盛岡でブティック店を数店とタイと日本にタイ式マッサージの学校を持っている者もいる。札幌で美容室チェーン展開を行ってモデルを奥さんにした同級生もいる。団塊世代の同期は実に様々な人材がいる。当時の根室高校は7クラス350人である。光洋中学校一校だけで同期が10クラス550人いた。
 3年になってから金融機関に就職するつもりだった私を担任が呼び出した。"おまえが金融機関を受けるとひとりいけなくなる者が出る。いくなら釧路の日銀を受けろ、いやなら大学へ行け"と言われた。家庭の事情というものがある、高校入試は80%程度の得点だっただろう。中学の担任からは普通科への進学を強く勧められた。"この子は大学へ行く子だ"と両親が2度も説得されたが、私は商業科へ進み、在学中に日商簿記1級と日商珠算1級をとって金融機関に就職して公認会計士になるという意志を固めていた。
 簿記を教えてくれた先生は2年生になったときに神戸商科大学への受験を薦めた。兵庫県立大学で商業科からは受験科目に無理があった。結局、担任から就職ストップがかかったまま12月になり、しかたなく3年の12月になってから大学受験を親に相談した。そして受験に失敗。学校の勉強だけで大学受験に間に合うはずがなかった。そういうわたしを仲の良かった総番長が東京の代々木ゼミナールに一緒に行こうと誘ってくれた。人間の縁とは不思議なものである。そこから東京35年間の生活が始まった。あいつがあのとき誘ってくれなければいまはない。Kは人望があるから、大学受験は失敗したが、地元でしっかり偉くなっている。学力ばかりでない、人間力、人望というものは学力にと共に大切だ。
 
 ずいぶん前のことになるが元生徒会長だったHnが道議会議員に立候補したことがある。残念ながら落選だった。中学のときは隣のクラス、一人で回しをつけてテッポウの練習に励んでいた気のいい奴でいまでもお互いに苗字ではなく名前で呼び捨てにする間柄だ。漁師の息子のあいつは高校3年生のときに15段変則のサイクリング車を親に買ってもらった。当時はたいへん高価な物だっただろう。アナログのスピードメーターがついていた。"○○いい自転車だな、前の道路で何キロ出るか試すからちょっと貸せ"というと、"いいよ"と二つ返事、あいつは嫌な顔しなかった。根室高校前をセブンイレブンの交差点まで目一杯スピードを出してみた。スピードメータを確認するために視線を下へ落とした、ゆるい下りだから時速70キロを超えた、視線を戻したとたんに前を走っていたダンプカーが信号で急停車して赤ランプがついている、間に合わぬ。細いタイヤだから止まれるわけがない、ブレーキをかければすべってトラックの下へ激突だ。そう思ったとたんに身体が反応してしまっていた。思い切って対向車線へ出た。交差点を曲がりきってからブレーキをかけてとまった。・・・、助かった、さいわい対向車も光洋中学校側からの車両もなかった。
 "オサム、ありがとう。スピード出るけどとっさに止まれない、かなり危ないぞ、気をつけて乗れや"
 友人の兄から250CCのバイクを借りたこともあった。あるとき後ろに同級生を乗せて根室高校前をトモシリ方面に向かって走った。アクセルはずっと全開でどれほどスピードが出るのか試した。セブンイレブン側からだとゆるい上り坂だからなかなか100㌔に達しなかった。エンジンの回転音が変わった。なんともないいい音だ。ギリギリのところまで性能を引き出した走る、その感触がたまらない。ようやく100㌔を超えたらゆるい下りカーブで左側は1mぐらいの側溝でその向こうは土手、バイクは遠心力で路肩の端の方へ吸い寄せられていく。あと15センチぐらいのところで思いっきりバイクを倒した。一人だったら飛び降りていただろう。柔道をやっていたから受身は自信があった、土の土手だから骨折ぐらいで済むだろうと覚悟したが、あいにく後ろへ友人を乗せている。ぎりぎりで回りきったところでアクセルを戻してブレーキをかけた。友だちは真っ青になっていた。
"おれ、もうだめだと思った"と友人。
"お前乗っけてるし、飛び降りるわけにも行かず、死なばもろともと思い切って右に倒した"
 友人は情けない顔をしていた、ハンドルを握っているのは私だからよっぽど怖かったのだろう。以来、自分の癖がわかったから運転免許証をとるのはそういう癖が治ってからと思った。エンジンの音が変わるまでアクセルを開け続けないと気がすまないのだ、限界ギリギリのあたりをさまようが好きだった。40過ぎてから、福島県郡山の会社に出資交渉をした後で出向したとき、社長と一緒に行動することが多くなり、もういいだろうと免許証を取得した。その社長、わたしに免許をとれといって知り合いの教習所を紹介して教習予約のとりやすいように段取りはしてくれたが、免許証取得後も相変わらず自分で運転し、一度も私に運転させなかった。動物的な勘のいい奴だったからわかっていたのかな?親会社とのあいだのパイプ役としてかなりリスクのある「ドライブ」をすることにはなった。売上規模二十数億円の赤字会社を利益3億円の黒字企業にする具体案とその実行許可を求めたが、最後の土壇場で親会社の社長と副社長の反対に遭い案を引っ込めたことがあった。あまり黒字幅が大きいと関係会社の社長をグループ本社へ迎え入れざるを得なくなる、そこを嫌ったのだろう。社長・副社長の二人と話しながら察しがついたので、これは無理だと「勇み足」でしたと引っ込めたら、二人できょとんと顔を見合わせていた。私からの反論を予想して対策を考えていたのだろう。これ以上おいておいたら、会社を辞めて出向会社へ移籍するとでも考えたのか、3年の約束だったが15ヶ月で本社へ呼び戻されてしまった。凡庸にやっていれば、毎朝6時に歩いて5分の温泉にはいり、のんびり楽しくやれただろうに、仕事のやりすぎはよくない。
 本社社長や副社長の期待値よりも大きい仕事をしてはいけない。後にテイジンとの合弁会社を任されたが、こちらの方は3年の期限より半年早く仕事を完了させただけ、郡山の件が勉強になっていた。治験事業と言う赤字部門同士を統合した合弁会社だったが、黒字化は簡単だった。利益率の高いある事業分野を開拓した。製造部門をもつ会社なら売上高の15%の利益率はそう難しいことではない。輸入商社ならやり方次第で10%ぐらいだろうか。
 話しが横道にそれたが、車の運転に関してはいまはおとなしい。
 
 冒頭で紹介したF先輩は根室の3倍強の人口の市の税務署長を最後に退職し、いまは札幌で税理士をしている。彼は私のことをいまでも"オンチャ"と呼ぶ。彼によれば、国家公務員が根室赴任を嫌がる理由は、医療教育だという(Fさんのお子さんは二人とも北大)。学力レベルを上げないと単身赴任が増えることになる。根室へ転勤したばかりに子どもの将来の可能性がつぶれてしまうと思われるような惨状だ。
(500満点の学力テストで400点以上が市街化地域の中学校3校の2年生で4名しかいない。7年前には50名を超えていた。)
 彼の次に副会長となったHyは高校卒業後短大へ進学し卒業した年に21歳で税理士試験に合格し、いまも東京有楽町で税理士をしている。2代続いて根室高校生徒会副会長が税理士というのも偶然とはいえ不思議な話だ。否、優秀な生徒がたくさんいたということだろう。
 もう二つ偶然がある。今年の春に塾生が小樽商科大学へ進学したが生徒会会計をやっていた。
「先生、生徒会やっているんです」
「なにやっているの?中央執行委員かな?」
「会計です」
「え、私もやってたよ」
 聞いたときには驚いた、連綿とつながる細い一本の糸を感じたものだ。
 そして先輩のFさんが昨日仕事で打ち合わせをした相手の一人が私が生徒会会計に指名した後輩である。これだけ偶然が重なるというのは、単に町が小さいせいかも知れぬ。

 おもえば古い根室の大人たち、何人かの先輩、それぞれユニークで才能溢れる同期の友人たちに恵まれた。
 長年のお付き合いに感謝すると共に週3回人工透析をしておられる先輩の健康を祈りつつ、筆をおく。


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#1375 戦時中、もう一つのベトナムと根室 Feb. 7, 2011 [22. 人物シリーズ]

 市長とその応援部隊であるオール根室の水産会社社長がベトナムへ行って根室のサンマの売込みをしていることが何度も新聞紙上で採り上げられているが、自分のところだけ免税の特例扱いをしろと、自分勝手な要求をしているように私には見える。常識的に考えて国内の他地域のサンマ加工業者から顰蹙を買うと見なければならぬ。
 自分さえよければいいという商売は長続きするはずがない。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方善し」にはならぬ。2月7日は北方領土の日だったが、根室人は得手勝手過ぎると北方領土問題へも影響しかねない下策であると私は考える
 釧路漁協と全さんまの動きと比較*してみるがいい、地域エゴの塊だ。市長と「オール根室」を自称する一部の地元経済人の視野狭窄、なんと嘆かわしいことよ。
 広大な根釧原野の大地に住まう人々よ、地域エゴを棄ておおらかさと誇りを取り戻そうではないか。

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*釧路と厚岸のサンマ業者はアジア系移民の多いオーストラリアへ販路拡大へ努力し始めた。全国さんま棒受網漁業協同組合と釧路漁協、水産加工業の磯田水産がそういう動きを推進している。もちろん、自分のところだけ関税を免除しろなどという話はないし、民間のことだから釧路市長は関係ナシだ。
 全さんまは3年前から輸出先調査をしていた。「冷凍サンマをオーストラリアが輸入する際、関税はかかっていないという」から、関税を下げてくれという交渉など必要ない。
       (2月8日北海道新聞朝刊1面「道東サンマ豪州開拓へ)
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 なぜわざわざトラブルのあるところへ進出したがるのか理由が分からない。北方領土問題対策協会専務理事の前職での任地がベトナムだったから市長は飛びついたのだろうか。なぜベトナム?
 いつのまにか「市アジア圏輸出促進協議会(会長:根室市長)」などという組織まで立ち上げられている。
 こうして比較し、経緯を眺めると、仕事が拙劣のように私は感じるのだが、関係者は誰も気がつかないらしい。仕事を始めるのにフィジビリティ・スタディすらやられなかったのではないか?
 全さんまと釧路漁協と関与している民間業者はきちんと手順を踏んでいることが新聞の記事からも分かる。バカバカしいから2011年のベトナムと根室の話はこれくらいにしておこう。


 さて、本題である。用事があって地元のある会社に行った折に、K会長から昔話を拝聴することがある。私にとってはお仲人さんであるその人は93になるはずだが、60歳を過ぎてから博士論文を書いて考古学で文学博士になったから、中小企業のオーナー経営者であるがK先生と表記する。その先生の親友の歯科医T先生を含めて何人かわたしは子供のころからよく知っている。「友人はみんな死んでしまった、(当時を知る)話し相手がいない、ときどき話においで」と言われても、死んだオヤジよりも4歳年上だから、そう気軽に行ってお話を伺うというわけにはいかない。でも、話しを聞くのは楽しい。40代のあるときに根室市長選挙に立候補したこともある先生は根室の政治も経済も教育も縦横無尽に切って捨てる。それに比べれば私のブログなどまるで小僧っ子、おとなしいもの。まあ、「小僧」だから、分をわきまえてこれぐらいでよい。

 話は戦時中のことである。國學院大學の大学院を出た後、文部省の委嘱でベトナムの王族の一人にしばらくの間日本語を教えたことがあるという。当時のベトナムはフランスの植民地だったから、そのベトナムの人はフランス語で話す。先生は水道橋のアテネフランセへ通ったことがあり、フランス語が話せたので、文部省から大学を通じて委嘱があったのだろう。
 日本は亡命王族を支援してフランスの植民地であったベトナムを独立させようとしていたらしい。アジアの諸民族を白人支配から解放しようと目論んだ大東亜共栄圏構想の一環である。日本語を教えつつフランス語の勉強になったという。あるとき、「殿下がお会いしたいと言っている」というので、その「殿下」にお会いしたそうだ。亡命ベトナム皇太子殿下だったのだろうか。
 その後のベトナムの独立までの経緯をおさらいしておこう。フランスは1954年デンエンビェンフーの戦いで破れ、仏領インドシナ(=ベトナム)から撤退し、その後、米国が傀儡政権を立て、1975年米国も戦いに敗れ撤退。ベトナムはようやく白人国家からの独立と南北統一を果たす。

 大東亜戦争は白人国家の植民地になっていたアジアの独立を勝ち取るという側面のあったことを日本人は知っておくべきだ。アジア各国は自力で白人国家と戦い得なかった。白人の人種差別に抗して大東亜共栄圏を掲げてはじめた戦いを挑んだのが日本人である。先生がベトナム人の王族の一人に文部省(外務省?)からの委嘱で日本語を教えたのは、そうした政策の一環だったのだろう。

 中学校の社会科の先生や高校生に読んで欲しい本、『わが愛する孫たちへ伝えたい 戦後歴史の真実』前野徹著(扶桑社文庫)から抜粋。
「1977年、マニラにおける国際会議で、韓国代表が日本を強く非難したときのことです。インドネシア人の大統領内外政治担当特別補佐官兼副長官のアリ・ムルトポ准将が発言を求めて、韓国代表をたしなめました。
「日本はアジアの光である。太平洋戦争はアジアの独立のための戦争であったゆえ、本来ならアジア人が戦うべきであったのに、日本人が敢然と立ち上がって犠牲になった」」 102ページ

 こういう見方をする隣人が少なからずいる。私たちの父の世代の功罪は両方きちんと見ておかなければ申し訳がない。罪ばかり見ていては歴史の真実には迫れぬ。著者はインパール作戦と英国からのインド独立についても、日本人の果たした役割に触れている。

戦後 歴史の真実 (扶桑社文庫)

戦後 歴史の真実 (扶桑社文庫)

  • 作者: 前野 徹
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 文庫

 中高生諸君、学校で教える日本史はいくつかの重要な事実を無視しているから要注意だ。違う歴史観もあることを学ぶために面白い本を2冊紹介したい。歴史という学問は身近な問題につながっている。面白いぞ。
 この本はタイトルどおりの本である。白人国家は自分たちに都合の悪い史実にはほうっかむりを決め込んでいる。


驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)

驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)

  • 作者: 松原 久子
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2008/09/03
  • メディア: 文庫

 朝鮮半島と日本の関係を半島の正史からひもとく。わたしたち日本人がまったく知らされていない半島と日本の関係が見えてくる。

日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書)

日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書)

  • 作者: 室谷 克実
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/04
  • メディア: 新書



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10年ぶりの「相棒」との再開 #768 Oct.23, 2009 [22. 人物シリーズ]

 久しぶりにSにメールをして近況を知らせたら、折りよく休暇がとれたと、東京から遊びに来た。

 96年12月のことだった。出向していた子会社の社長が暗い顔をして打ち合わせたいことがあるという。ある新会社のプロジェクトが本社で進行中で、そちらを担当してもらうことになってしまったと異動を言い渡された。断ることのできない異動だという。
 本社を呑み込んでしまう可能性を秘めた企画が進行中だった。表向きは老朽化した子会社ラボの移転・新築・コストの大幅な逓減という企画である。そしてある営業上の戦略と組み合わせることで、業界No.2の会社に壊滅的打撃を与える構想だった。TOBを仕掛けて吸収合併に追い込むか、潰してしまうかどちらも可能な戦略案を練っていた。
 200億円の借金の利息を支払っても必要な利益をあげられることは、数年前にシステム開発を含む経営改善で関わったラボで規模の小さい実験を済ませてあった。国内のいくつかの会社の経営改善にも出向や経営改善のための経営分析依頼に応じてタッチしていた。
 本社の手垢がしみついてしまった一番歴史の古い子会社の利益構造を変えるには子会社社長と二人三脚で社内意識改革をする必要があった。出向組みが親会社の方式をそのまま持ち込んでしまい、経営上の重大な欠点が拡大再生産されていた。そこを断ち切り、独自の生産ラインと業務処理システム及び利益管理システムを創りあげる。出向1年でようやく社長と気が合い始めていた。
 親会社は大きすぎて変われない。資産価値が大きすぎて既存のラボをスクラップできないから、有力子会社を梃子にしてグループ全体を変えるしかない。とくに外部に長年依存し続けた本社システム部門の技術力を評価できなかった。これらを断ち切るためにも子会社からグループ企業全体を変えていくのが妥当な戦略だった。毛沢東の戦略は「農村から都市へ」だった。「子会社から本社へ」という逆方向の変革はどこかで毛沢東のそれに似ている。
 子会社社長の理解と協力なしには実現できない企画であるが、幸い、許容力があり柔軟で人情に篤い人物だった。ずっと子会社だけでこのような構想が実現できるはずはない。どこかで構想全体を明らかにして、本社社長へ相談し営業戦略を含めてグループ戦略へと止揚するつもりだった。その時期がくれば、自然にそれとわかるものだ。こういうタイミングは天が決めると思っている。
 当時作成した資料を見ると、グループを生産会社と販売会社に分割する構想も検討している。これは自動車会社の在り様から一度検討して見る価値ありと判断したのか、それとももっと別の視点があったのか、いまとなっては定かではない。検討の価値ありと判断したことはたしかだ。製・販分離で問題になるのはグループ内の取引価格と製造(ラボ)会社のコスト競争力の維持である。
 93年頃だったかある医師会センターの経営改善をお手伝いしたことがある。製造コストは民間センターの2倍ほどかかっていた。検査部門も営業要望に応じて増やし、採算が考えられていなかった。そもそも検査部門別の損益計算がなされていなかった。これではどの部門がどれだけ儲かり、どの部門がいくら損失を出しているのかさえわからない。

(わが故郷の市立根室病院は診療科別や病棟別の損益計算をしているだろうか?この8年間みているが、経営改善をまったくしていないのは部門別損益計算がないからなのではないか?経営管理部門が院内にあるのだから、部門別損益計算をやってみるべきだ。そうすればどこに手をつければ好いのかわかる。地域医療上のニーズと部門別損益計算をつき合わせて、診療科別・病棟別の目標予算管理を導入すべきだろう。ある程度の規模になると、経営改善はそれに必要な仕組みがないとできないものだ。
 経営に専門知識をもっていない建設特別委のメンバーや病院事務局だけで病院問題を議論するのはもうやめたほうがいい。百害あって一利なしだろう。)

 この点は製販分離をしても検査部門別の原価計算システムとそれにつながる利益管理システムを創れば全国に何箇所ラボがあっても、コントロールができる。そして地域ごとの検査項目別の製造原価も直接比較できる。グループラボ内で検査項目ごとにコスト競争をさせればいい。製造原価のばらつきが大きい検査項目は一番安いところのやり方を調査して、ラボ共通の標準作業手順書をつくり、やりかたを統一していけば好い。
 利益管理システムについては原価計算システム・購買在庫管理システム・財務経理システム・販売会計システムとの統合システムとして、ユニークな概略仕様を80年代後半に検討済みだった。当時は載せるコンピュータがなかった。国内最大の汎用大型機を使っても、1台のマシンでは無理だった。90年代後半にはそのようなハード性能の制限がなくなっていた。

 首都圏の生産拠点の優劣がグループ企業内のそして長期的に見れば業界全体の中での勝敗を決する、そう感じていた。東京郊外のラボ群は場所が分散化し、垂直方向への異動を余儀なくされる5階建ての建物群で構成され、一貫した水平方向で自動化処理が不可能であった。グループ全体への漠然とした将来に対する危機意識から生まれた構想だった。
 検体という液体を扱うのだから垂直方向の移動はトラブルの元になるのでできるだけ避けたい。そのためには広い敷地と長いラインが敷設可能なラボ建物が必要だ。
 技術的優位やブランド力だけでは、いずれ業界内の競争に勝てなくなる日が来る。10年から20年先を考えると、検体を受付から3000項目の検査まで一貫して処理できる自動化ラボがどうしても必要だった。

 それ以前に仕事をしていた産業用・軍事用エレクトロニクスの会社では、統合システム開発に加えて、長期経営計画や長期資金管理を仕事としていたから、いざと言うときの銀行交渉も含めてやりきる自信があった。
 長期的な見通しがあり、具体的なスケジュールを示して1年単位で成果が確認できる企画案とその確実な実行があれが事業に必要な資金は集められる。
 そのような企画を子会社社長と動かし始めていた矢先のことだったから、異動は寝耳に水だった。「本社社長からの直接の指示」、どうしようもないという。別ルートからも事情がすぐに伝わってきた。断りきれない事情が持ち上がってしまっていた。首都圏での大型ラボ構想はあきらめざるをえなかった。

 100年以上の歴史のある東証一部上場会社との合弁会社の設立プロジェクトが暗礁に乗り上げていた。マスコミに新会社設立のアナウンスをした後だったから、対外的なスケジュールをずらすことができない。状況を打開できる人間を問われて、プロジェクトメンバーの一人であった旧知の社員が私の名前を挙げてしまっていた。
 すぐにパートチャートに新会社稼動までのジョブを落としてみたが、やれそうだった。非常時は非常時なりのやり方がある。
 私の目から見て、将来問題になる厄介なことがひとつ決定済みになっていた。システムと会計処理に関わることだった。請求基準から報告基準への売上計上基準の変更である。東証Ⅱ部上場時に販売会計プロジェクト・チームがこれで3年わずらったのを見ていた。このシステム稼動のために外部に支払った費用だけで3億円、不具合続出で内部で手作業で1年以上もかかって人海戦術で処理した。請求基準で月次決算をやっておき、報告基準に辻褄を合わせるファイルを決算時に作るほうが、はるかにシステムが簡単に作れて、売上債権管理が単純化できる。会社のサイズにあわない仕様を決めてしまっていた。合弁会社だから厄介な問題になる予感があった。もう一月早く仕事を依頼されていたらと思ったが、しようがない。おおよそ2年で問題が顕在化することを承知で引き受けた。問題が起きることを理解していない者たちが決めてしまったことだから、言っても理解できないだろう。問題が持ち上がってから、人とお金を投入して解決するしかない。
 こういう事情で仕事をスムーズに進めるために、わたしも早く合弁を解消したかった。30年たっても黒字化できない赤字子会社を切り捨てるだけだから、持株買取による合弁解消は相手企業の望むところであるだろう。こちらは売上高経常利益率10%以上の高収益会社に作り直し、100%子会社化する。本社の事情次第でいつでも店頭公開し半分程度株を売却して利益を手にできる。

 本社社長から、スケジュールどおりに会社を立ち上げること、会社を黒字にすること、そしてもうひとつ課題が提示された。
 これら3つの課題を3年以内に果たすように直接指示があり、確実に課題を果たすために二つ条件をつけて引き受けた。ひとつは新会社経営についての職務権限に関するものであり、もうひとつがSの異動だった。3つの課題は2年でやりきるつもりだった。1年間は想定外の問題が持ち上がった場合の保険期間である。
 私の上司だったことがある財務担当役員は「経理業務は君がやれるのにどうして経理マンが要るの?」と怪訝な顔をしていたが、私に任されたのは新会社の経理ではなく経営である。赤字部門同士を統合して黒字にすることも課題のひとつだったから経理業務に時間をとられてはどうしようもない。だから信頼できる有能な経理マンがどうしても必要だった。事情を話すと、Sの異動を快く承諾してくれた。
 システムの二人、データ管理業務のM、応用生物の専門家のM、経理のSの協力、そして本社ラボ担当役員の強いバックアップがあり課題は3つとも2年で果たした。交渉に応じてくれた相手先企業の常務と専務はとても紳士的だった。「相手先企業からこういう解消を持ちかけられたことははじめてです。いつもわたくしどもが尻拭いしていました」とそう言って応じてくれた。

 異動交渉の前にS本人の了解をもらっていた。「一緒に行くぞ」、そう言って3年間一緒に仕事した男である。「相棒」と言って好いだろう。
 10年ぶりの再会である。

 第1日目の夜は「ある人」からいただいた「大吟醸袋吊り」(檜物屋酒造店、福島県二本松)を呑んだ。山田錦を40%まで磨いた酒造りの限界ギリギリの酒だ。この酒には根室のウニが合う。そして仕上げは幻の焼酎「百年の孤独」だった。どちらもやさしく、飲みやすい酒だ。
 「ある人」とは合弁会社立ち上げの仕事を指示した当時の本社社長である。たまたま、Sが来る直前に送っていただいた。なんとタイミングのよいことよ。酒の旨いことこの上なし。縁の不思議さにも酔いしれる。

 翌日朝食前にSが牧の内のサイクリングコースを走りたいというので、つきあった。一回りほど若いSは息をたいして切らせもせずに12分で5キロを走りぬいた。往復10キロである。仕事の傍ら、趣味の日本武道で道場代表を務めるだけのことはある。全力で走ったら10分を切るかもしれない。岐路は逆風で16分ほどかかった。自転車のスピードは風圧が影響する。スピードを上げるほど風圧との闘いがきつくなるのは仕事と同じか。

 朝食を食べてから、霧多布湿原まで出かけた。展望台から湿原を眺めていたら、丹頂鶴の番(つがい)が目の前、20メートルほどのところに舞い下りてきた。
 天気は好いし暖かかい。そのまま、花咲港へ行って車石を背景に写真を撮る。昔は車石の前で写真を撮ったが、いまは上れない。歩く経路が昔と違っていた。広い太平洋は海の色が岸から100mぐらいが緑色っぽく、そこから先は群青色に染まっていた。
 仕事が終わってから、夜は食事をしながら北の勝「吟醸酒」を呑む。真ツブや海老の刺身、カキフライ、サンマの刺身が旨い。吟醸酒は飲みやすいが、地元の魚介類にはパンチの効いた辛口の「大海」のほうが合うのかも知れないと感じた。翌日の朝、食べ残した北海シマエビを食べながら呑んだ、旭川男山の「純米生酛」が絶妙に食材にあったからである。生酛は酒だけで呑むと癖があり個性の強い酒だ。ところが食材と合う。不思議なものだ。酒と肴の相性は仕事での人間関係に通じるものがありそうだ。
 吟醸酒は、そのまま酒だけを呑んでも美味しいが、肴とあわせることを考えるとパンチが足りないもどかしさが残る。

 昨日(23日)朝、5時におきて、Sを起こし、北海道再東端の納沙布岬へ日の出を見に出かけた。5時40分頃、低く垂れ込めた雲の上に太陽が昇り始めた。見る間に姿を現した。オホーツク海側をゆっくり走った。国後島は低い方の東側の山陰だけが見えた。茶々岳や知床連山はまったく見えない。
 途中から左折し、牧の内の「サイクリング・コース」を通って家に戻る。根室半島ぐるっと一周の「小旅」だった。

 朝食を食べてから9時頃春国岱へ回る。ラムサール条約の野鳥の王国であるこの湿原に観光客はSと私の二人だけ。なんと「貸切状態」である。他に観光客はいない。
 入り口の通路は封鎖されていた。昨年修理された木道を歩く。春国岱へわたる木橋をわたった。鳥の糞が白くところどころこびりついているが、キタナイという感じはない。きれいな真っ白い色だ。春国岱の中は木道が二つに分かれていた。右側の方を先に回った。

 先日、テレビで釧路町で捕獲された熊に発信機を取り付け、追跡したら、数日で知床連山を越えて斜里町まで行ったという。別当賀で熊が目撃されているから、この辺りにもいても不思議ではない。霧多布湿原で出遭った女性が熊除けの鈴を腰にぶら下げて歩いていた。霧多布も湿原の中に入るときは熊に用心しなければならない。Sが熊の走る速度は時速40キロもあると脅す。そんなスピードならオリンピック選手でも逃げ切れない。怖い話しだと思ったとたんに10メートルくらいはなれたところで「がさっ」と大きな動物が移動した音がした。「おっ!」と思わず後ずさりしたら、かわいい小鹿がぴょんと跳ねながら逃げていく。

 3年位前だったろうか、台風の強風で木が3000本ほど倒れたと聞いていた。なるほど、太い木がたくさん倒れている。大きなものは根が3メートルほども持ち上がっていた。湿原なので木の根は横に這っている。倒木はチェンソーで切ったままに放置されていた。数年もすれば腐って害虫が大量に発生し、分解されて温室効果が二酸化炭素の24倍もあるメタンガスもずいぶん出るだろう。
 鳩山首相が国連演説で二酸化炭素の25%削減を約束したが、春国岱のこの大量の倒木は搬出されて利用されるのだろうか?小さなことからはじめることも仕事を約束どおりに完成させるコツだろう。
 根室市民が薪を燃料にすれば2年分くらいの暖房を賄うほどの量があるかもしれない。だが搬出方法がみつからない。背負子を20ほどつくり、それに結わえて担いで来れるぐらいの大きさにカットして、市民に自由に持って行かせることができればいいのだが・・・人間が担いで搬出するしかない。Sはヘリコプターでも搬出できると言っていた。なるほどやり方次第だな。駐車場前の原っぱまで吊り上げて運び集積して、カットし「さあ、只だ、もっていけ」、それなら大量に処理できそうだ。

 橋を渡るときに丹頂鶴の番(つがい)が30メートルほど近くで首を伸ばして鳴いていた。「あんな鳴き方をするんですね」、Sがはじめて鳴き声を聞いたと感想を漏らした。

 中標津空港行きのバスが来るまでスワン44の窓辺のテーブルに陣取り、百羽近くの白鳥や無数にいるカモを眺めていた。岸辺の水の温かいところにいる白鳥が長い首を胴体に沿って後ろに回して転寝している。なにやら5時間目の高校生のようだ。転寝は気持ちの好いものだ。
 「いつも春国岱を縄張りにしている大鷲が見られなかったな、残念だった」と話していたら、「あ、飛んでる」とSが言う。目の前の空高く、大鷲が一羽悠然とこちらへ飛んでくる。何度か空中を回って、内陸の方へ飛んでいった。こういう猛禽類は本州ではよほどの山の中でなければ見られない。春国岱はやはり野鳥の宝庫なのだろう。

 これほど有名で、これほど観光客の少ない観光地は春国岱以外にないに違いない。これでいい、いつまでも観光客の来ない春国岱であってほしい。何年経っても何十年経っても変わらない、それでいい。

 スワンの案内カウンターでバス時刻を聞いたら、笑顔で時間を教えてくれた。10時37分は丘珠空港行きに接続するバスで、11時37分が中標津空港行きだ。バスはほぼ定刻どおり来た。「晴れ男」のSが根室にいた間、根室は晴れて穏やかだった。Sが去ると途端に気温が下がった。今夜は昨夜よりも3度気温が下がり8度である。

 羽田についたSから、いい休暇になったとメールが届いていた。
 根室の自然に浸れば気持ちが優しくなれる。また機会があったら何人か連れて来ればいい。自然の中を散策し、そして酒を呑もう。失いかけていたおおらかな心が取り戻せる。

*当時有能と見込んだ若手の経理マン3人は相次いで転職を果たした。一人は30代で店頭公開会社の取締役になったという。もう一人は某有名レコード会社に転職後課長となり、数年前さらに転職した。
 三人とも脂の乗った40代、それぞれが社会になくてはならない機能を仕事を通じて担っている。
 彼らのように経営感覚のもてる経理マンが日本中に増殖して欲しい。社長の器が大きければそういう経理マンのいる会社は「鬼に金棒」である。
 会社を辞めるときに合弁会社の社員に向けて『薄紅のひと時に』という15ページほどの惜別の辞を残してきた。すっかり忘れていたら、Sがもってきた。ある新規事業について構想が膨らみ、誘いもあって会社を辞める決心をした頃に、朝早く目が覚め、空が幾分明るくなるトワイライトにパソコンを叩いた。「私にだけだと思っていたら、社内のネットの掲示板にもオープンにするというので腹が立ちました」、もちろん冗談だろう、目が笑っている。12年も前のもの、時折だして読んでくれているらしい。Sはそういう奴だ。
 省みれば自分の思いに忠実に突っ走ってきたが、気がつけばかれら三人もそうしている。天はそれぞれにそれぞれの課題と仕事を用意している。二つとして同じものはない。おおらかな気持ちを忘れず、天が用意している仕事に励んで欲しい。
 自分の課題や仕事に全力で取り組み、仕事の技倆を不断に上げる。日本の伝統的な職人の姿をSにみた。さらなる成長を期待している。
 
*高校生へ
 記憶にある15年ほど前のデータを書いておくので、自分の将来を考える材料にしてもらいたい。
 日本最大の検査センターは東証Ⅱ部から東証1部へ上場替えをしたがその当時のことだ。新卒者の応募数が10000万人、書類選考で200人に絞込み、筆記試験と面接試験を実施した。そして採用は20人。採用は応募者の500人に一人。
 事務系は不定期に中途採用をやっている。こちらは経験と実力次第で学歴は問わない。
 定期新卒採用は大卒以外の採用は検査技師専門学校卒のみ。学歴は就職のためのパスポートである。
 3年間真面目に勉強して大学へ行け。大学へ行ったら4年間一心不乱に勉強しろ。たった7年間の努力でその後の50年の生活が保障される。
 もっと言うぞ、大企業でヒラと部長職では年収におおよそ700万円前後の差が出る。 


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