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#70 現実の仕事は文系・理系の区別がない(4)-完- 2,008年2月3日 [22. 人物シリーズ]

2,00823日   ebisu-blog#070
 
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 西にも一つ開口部をもつ書斎から眺めるオホーツクは一面の氷だ。沖まで真っ白に見える。流氷が入ったというニュースは聞かない。結氷がこれほど急速に広がるはずもないだろう。どういうことだろう?西側には野付半島が横たわっているが、平べったいので見えない。その後ろに真っ白になった知床の山々が遠望できる。
 ,さて、いよいよIさんシリーズの最終章を書かねばなるまい。

【出生前診断】
 沖縄米軍からの要請である3項目(AFP、hCG、E3)多変量解析による出生前診断検査システム開発の仕事が完了し、Iさん、学術営業のS君、プログラマーのU君と一緒に沖縄へ出張したことがある。嘉手納米軍基地内はアメリカ領であり、治外法権の地であった。関税もかからない。当時2500円程度のマカディミアンナッツチョコレートが900円で買える。嘉手納基地に入った。ゲートでチェックを受けたが、連絡がすでに来ているらしくIさんが名前を言うと、「ドクターI」と大きな声で確認し、丁重に通してくれた。米国は肩書きがものを言う社会なのだろうか?国内でこのような扱いは見たことがない。
 基地内の会議室で米軍の医療関係者に仕組みを説明して検査受託の準備ができていることを告げると大いに喜んだ。後にIさんは、この仕事がきっかけで"General Meeting"に何度か招待された。当時、S社は世界一厳しい精度管理基準であるCAPライセンスをもつ国内唯一のラボだった。
 米軍は女性の兵士に出生前診断を義務付けていたので、米国内と同様に日本にある嘉手納基地でも、女性兵士に同じ検査をする必要があった。ニューヨーク州から文献を取り寄せて、データ解析をし、そのままシステム化した。ラボのシステムを変えるわけには行かないので、沖縄営業所のパソコンで処理できるように、足りない情報を追加入力できるようにして、検査値とマッチング処理を行ってから、データ解析をして検査値を出力するようにした。仕様書は私が書き、C言語でのプログラミングは若いプログラマーのU君が担当した。
この検査で一年間に2件異常値がでた。この検査は母体血によるスクリーニング検査なので、陽性になると確認のために、羊水を材料とする染色体検査が行われる。結果は2件とも染色体異常だった。
 この検査では黒人の基準値は白人よりも20%ほど高く出る。オリエントではどうだろうかという疑問が当然湧く。沖縄米軍での実績を背景に、今度は慶応大学医学部との共同研究がなされた。1990年に研究をスタートさせた。製薬メーカには当該検査に関わる試薬の無料提供をお願いし、快く承諾してもらった。S社は検査とSASシステムによる解析を担当した。3000例以上の母体血を検査し事実上の日本標準値が出来上がった。なんと、白人に比べて日本人の基準値は30%高かったのである。研究成果は慶応大学医学部が発表している。もちろんS社の名前は一切出てこない。ネットで“MoM値”で検索すると情報が出てくるだろう。慶応大学医学部と組み合わせて検索キーにすると共同研究時代のデータが出てくるだろう。このドメインをクリックすればすぐにみれる。http://ci.nii.ac.jp/naid/110002109039/en/
 この仕事を営業本部学術営業課で担当したのはS君だ。米軍と慶応大学の件で一緒に仕事をした。彼もその後スピンアウトして起業した。健康医学研究所という会社をやっている。ネットで検索できる。ブログもなかなか面白い。臨床栄養医学を日本に紹介したパイオニアだ。この数年、何冊か本も書いている。名前は会社名で検索すればすぐに判明するので臨床栄養学に興味のある方はネット検索して欲しい。

 学術開発本部の次の異動部署は関係会社管理部である。十数社に増えた子会社・関係会社を管理するセクションだった。新設された部署を任されたO部長は旧知の人だった。電話ひとつで異動を承知してくれた。そこでは三井物産から買収した千葉の臨床検査子会社の新システム構築による経営再建プロジェクトを担当した。会社の買収も二つ担当し、そのうちの一つである郡山の会社へ経営管理担当役員で出向することになる。わずか15ヶ月であったが、ここでも面白い人間ドラマが展開する、いつか書くことがあるかもしれない。人の縁とは異なものである。

 出生前診断に特化した会社が米国ナスダック市場に上場されていた。その会社の買収提案が持ち込まれたことがある。ユダヤ資本のベルトハイムシュローダー(WS社)が仲介役だった。100ページほどもある提案書をもってきた。VIVIGEN社という名前の会社である。実はその会社をよく知っていた。染色体画像解析装置を英国の会社から輸入したときから知っており、創業社長のグレッグとも顔を合わせていた。WS社は100億円近い買収提案を持ちかけてきた。3日で買収提案の要旨を翻訳して社内稟議にかけた。英語に堪能なだけでは無理な仕事である。V社の経営内容が米国流のやり方で細かく分析されている。そちらの専門知識がないと歯が立たない。ところが、輸入商社に勤務していた頃からその分野には詳しかった。日本では翻訳されていない原書を読み、海外の取引先50社の連結決算書や営業報告書をそうした目で見ていた。自社の経営分析や長期計画用に学んだ知識を科学技術計算用プログラマフルキャリュキュレータHP97を使って応用し、技術を磨いてあった。必要な専門知識は全部そろっていたのである。
 日本と法律が違うので出生前診断に何人もの専門医によるサポートが必要なことと、出生前診断分野に手を出すことが日本国内で物議をかもす危険が大きかったことを考え、手を出すべきではないとの結論の稟議書だった。障害者団体や産婦人科学会からのクレームを恐れたのである。生命倫理の観点から議論が起きることは目に見えていたし、残念ながら一部の団体はこの問題に対して感情的に反応するばかりで、冷静な話し合いができないことが事前にわかっていた。当時は気がつかなかったが、倫理学会長はゼミでご指導いただいた恩師の市倉宏祐先生だった。趣旨を話せば全面的に協力してくれたと思う。なぜ、気がつかなかったのだろうか、不思議である。
 V社社長のグレッグはナイスアメリカンだった。国際金融機関のWS社は当時企業買収事業で世界ナンバーワンの会社だった。彼らの作った資料を見て、自分の開発していた、25の経営分析指標による総合偏差値評価をベースにした企業評価額が基本的に彼らの評価と一致する事実を確認できた。これは収穫だった。十数年やってきた経営分析システムが世界の先端を行っていることがわかった。経営分析の職人として世界の最先端を走っていたことが確認できてうれしかった。
 使っていた技術はいくつかの分野の基本技術にすぎない。組み合わせている分野の数が少し多い。現実の仕事は文系とか理系とかという分類にはなっていない両方の分野が融合している。私がやってきた仕事のあとを見ればそれが理解できるだろう。だから、文科系の諸君には数学を勉強しろといいたいし、理科系の諸君は文科系の専門書をたくさん読めと忠告したい。企業はそうした人材を求めている
 たとえば、社員が千人以上いても原価計算とコンピュータシステムにしっかりした専門知識をもつ者は一人か二人しかいない。そして、臨床検査会社の原価計算システム構築のためには臨床検査に関する専門知識が欠かせない。制度管理に使われている統計学に関する基礎的知識ももちろん必要である。原価計算とつながる一般会計システムについての専門知識も必要である。芋づる式に学習すべき分野は広がってゆくのが現実である。「事務の職人」はそうした現実に正面から挑み続けることで、よって自らの技術水準を磨き、いつか「名人」の領域へ到達しうる

 Iさんは仕事に関係する本をよく読んでいた。開発業務の担当役員は、最先端の技術情報に接していなければ務まらない。予算が潤沢にあったので新しい医学関係の専門書が出版されると次々に購入して片っ端から目を通していた。精読ではない、濫読派である。渋谷の進学塾講師時代の友人Eさんを思い出す。彼は翻訳家になっていたことは前にブログで書いた。Iさんも相当な濫読派で、ザーッと目を通し、要点をつかんだら、関連のある検査試薬開発を担当している者へ回していた。本には興味がない、俺が必要なのは尖端情報だと言わんばかりの読み方だった。なかなかエネルギーのある男だった。あるときこんな事を冗談めかして言った。「○○に使われることになるかもしれないな」、私が持つ経営に関する思想と専門技術がどれほどのものなのか一年ほど一緒に仕事して気がついたらしい。横で聞いていた準社員がにやりとした。実際に治験子会社でそうなるところだった。治験検査子会社の社長にはうってつけの人材だった。根回しは終わっていたが、ちょっとのタイミングのずれで先にお辞めになり外資系の会社へ行った。あのとき一緒に仕事をしていたら、店頭公開ぐらいはする気が起きたろう。店頭公開会社の社長の椅子に座ってもらうつもりだった。不採算部門を両社で分離して設立した赤字子会社を本社よりも高収益の会社に作り変えたところだった。
 自分が社長の椅子に座るつもりはなかったから、役割が終わった気がした。赤字会社を本社以上の利益率の会社に作りかえることに情熱を燃やしただけである。それも3年かからずに実現できた。そこからは凡庸な人材で可能な仕事である。このような事情で治験分野の仕事に興味がなくなったのである。本社社長のKさんと約束していた仕事も期限を待たずしてすべて完了していた。臨床検査業界にはもうどきどきするような仕事がなさそうにそのとき思ったのである。
 首都圏で老人医療の展開を考えていた。療養型病床群の病院を拠点にナースステーションなどの在宅介護や老健施設によるシームレスな老人医療事業を構想していた。金太郎飴方式で首都圏から全国制覇してみようという夢がだんだん大きくなっていた。
 会社の収益の多寡は経営にタッチする数人の人材とそれを具体策に落として実行に移すことのできる人材如何で決まる
 私の書棚には数冊、原書の医学専門書があるが、そのうち2冊は彼から担当していた開発項目の研究のために頂いたものだ。このセクションにいた当時は、仕事の時間を遣って米国の科学雑誌SCIENCEやダーウィンの進化論が載った科学雑誌として有名なNATURE、医学雑誌のOncogeneなど、読みたい放題であった。そういう機会を与えてくれたIさんに感謝している。彼はその後スピンアウトして、外資系の会社の社長をした後、自分で会社をやっている。
 このセクションで過ごした期間はたった2年間であったが、基礎知識を固めるために、"Molecular Biology of the CELL"(細胞分子生物学)など自分で買った原書も数冊ある。ステッドマン医学辞典では調べきれない用語が出て来るたびに、この本を引いた。頂いた本は以下の2冊である。いまでは懐かしい思い出とともに書斎の数千冊の本の中にうずもれている。

 "DECADE of NEUROPEPTIDES, PAST, PRESENT, AND FUTURE"
 "STRUCTERE, MOLECULAR BIOLOGY AND PATHOLOGY OF COLLAGEN"


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