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雨、雷鳴り、気温11.7度&幻の臨床診断支援システム開発プロジェクト [22. 人物シリーズ]

雨、雷鳴り、気温11.7度&
 幻の臨床診断支援システム開発プロジェクト


 市立病院でCT検査をした。Philips社製の装置で昨年購入したものだ、性能はよさそうである。検査が速いのと音が静か、そして装置全体が小さい。
 Philips社製の医療用検査機器ははじめてみた。元々はオランダとイギリス本社の会社でオーディオカセットテープの標準規格がこの会社の社内規格から生まれたものだ。オーディオでは知ってはいたが医療用検査機器や理化学機器を作っているとは知らなかった。仕事で何度も展示会を見たが、この会社の製品はひとつも記憶がない。
 あまり売れていない製品、つまりシェアの低い外国製品はメンテナンスに問題のあるケースが多いのが通常である。一般に外国製品を買う際にはこの点だけを注意すればいい。
 それにしてもめずらしいものをみせてもらった。釧路医師会病院が2年前に入れた東芝製の製品よりも性能が上のような気がした。音が静かでスキャニング時間が短い、スペックを比較したわけではない、単なる患者の印象である。
 性能本意の機種選定だったのだろうか、それとも派遣元の大学病院と同じ機種をというドクター要望だったのだろうか。医師会病院にあったのは定価で3億円程度のものだから、購入価格は1.5~2億円だっただろう。リースだろうが元値がいくらなのかが気になった。3億円なら月額540万円くらいのリース料だ。建物は古いがX線CT装置は民間病院では採算上なかなか導入できない高額の高性能機種のようだ。これなら患者は安心して検査を受けられる。画像はインターネット経由で札幌の専門医へ送られ、読影がなされる。

【幻の臨床診断支援システム開発プロジェクト】
 80年代中葉にこういう環境がそろっていたら、全国の専門病院・大学病院を結ぶ疾患ごとの臨床診断支援システムが稼動していただろう。社内稟議を読んだシステム開発部の課長が協力してくれてNTTとつなぎをとってくれた。国内で唯一国立病院ネットワークを稼動させていたのはNTTデータ通信事業部だけだった。東京中野駅前にネットワークを管理するコンピュータの入った黒いビルがあった。インターネットは出現していなかった、専用線のネットワークだった。民間で全国ネットワーク使用する場合は維持費が高かすぎた。コンピュータの性能も要求スペックに届いていなかった。当時最高性能の大型コンピュータへの増設メインメモリーが3メガバイトで5000万円もした時代のことである。いまでは2ギガで2千円程度だろう。コンピュータの性能と安価な商用ネットワークのない状況から判断してこのプロジェクトは不可能だとの結論を出さざるえなかった。検討してみたが当時の伝送速度では画像を送ることなど不可能だった。渾身の力で挑んで破れてもなお悔いが残ることもあるものだ。
 もともと血液学の重鎮であるドクターとの対話から生まれたアイディアである。そうした仕組みがあれば複雑な診断ロジックを公開して専門医を育てることができる、「大学では無理だから民間での開発を」と勧められたことに端を発する。血液学的診断だけでなく疾患別の大規模な臨床診断支援システム開発の可能性に気がついた。日本の医学教育へ強力なCAIシステムを提供するものでもあった。疾患ごとのベテラン専門医の診断ロジックを専門医の卵たちへ公開するものだった。可能性を検討し始めたのは中途で入社し半年ぐらいのことだった。
 しばらくアイデアを頭の中で温め、整理していた。13プロジェクトに仕事の分割が出来たので、200億円の投資を伴うプロジェクトのフィジビリティ・スタディを提案した。当時は経営会議というものがあったが、社内稟議に創業社長がOKをだした。年間売り上げの70%もの投資金額へのゴーサインをだった、決断が速かった、途中でヒアリングがあったわけでもない、稟議書を見ただけで即決、これには私も驚いた。
 84年か85年の秋だっただろう。84年だったら8ヶ月かけた東京証券取引所上場要件であった事務系統合システムの開発がスケジュールどおり年末の本稼動へ向けて開発中の頃であり、85年だったら統合システム開発が終了し、全社の予算編成を任されて仕事の区切りがついていた頃のことだ。時期はおそらく後者だろう。
 創業社長のF氏は企業の社会的使命を理解し、個人的な損得を度外視して物事を判断できる人だった。その会社にいた16年間で、社長案件である企業2社の買収や資本参加で三度一緒に仕事をした。収益分析と再建のために必要な仕事と投資金額を提示したわたしの説明が終わり、創業社長が受け入れる用意があると結論を手短に話す。詳細な条件詰めは実務部隊に任された。交渉が終わって外に出ると天高く小鳥が鳴いている。「ひばりですね」F社長が私のほうを振り返ってそう言ったのを覚えている。春、北陸の蒼い空が広がっていた。小鳥はよほど高いところでさえずっているのか姿が見えなかった。このあと私は同時進行していた別の会社の資本参加案件に関わり東北の会社へ出向することになる。Fさん(創業社長自らが“さん”付け運動を提唱し、“F社長”と呼ぶことを禁止した)は思い出の深い社長5人のうちの一人である。
 稟議を簡単に認めてもらったことでプレッシャーがかかった。信頼に応えなければならない。中途半端にやって失敗は許されない。企業生命に関わるプロジェクトだ。仕事には責任が伴う。
 事業のやり方・その成否を判断するためにフィジビリティ・スタディをやってみたが、中止の結論を出さざるをえなかった。コンピュータの性能もネットワークもまだこの事業の要求スペックを満たしていなかった。まだ専用回線の時代だったし、第五世代コンピュータ開発技術組合の推論マシンもまた要求に合うものではなかった。いま省みれば、具体的なスペックを詰めておき、時代の来るのを待つ辛抱をすべきだったが、当時の私にはできなかった。10年たってもそのような時代が訪れるとは思えなかったのだ。若かった、智慧が足りなかったとしか言いようがない。知り合った仲間たちと、知的な遊びに切り替えてスペックを具体的に詰めるべきだった。たとえそれを担う高性能のコンピュータも安価で高速なネットワークが存在しなくても・・・
 遣り残したと思えるのはあの仕事だけである。13のプロジェクトの内、臨床病理学会と連携してやった検査項目コードのみが成果として残った。項目コード検討委員会委員長のSドクターにはたいへんお世話になった。その先生と業界6社のシステムおよび学術部門のエキスパートたちの数年にわたる協力で標準コードは開発され、いま日本の標準検査項目コードとして使われている。
 病理医への画像伝送も臨床診断支援システムの一部だった。撮った画像がすぐに札幌の読影専門医ーへ電送されると聞いて、懐かしいことを思い出した。明後日、担当ドクターにCT画像を見せてもらうのが楽しみだ。

 今日は一日中雨が降っていた。夜になり10時近くに雷鳴が数度鳴り響いた。昨日テレビでトルネードの映画を見ていたので、暗闇の中で成長するスーパーセル(大型の積乱雲)とカミナリが脳裏に浮かんだ。
 地元産の天然ホタテの刺身で北の勝「吟醸酒」を呑んでくつろいでいたら、雨の音がひとしきり強くなり、その後にカミナリが鳴った。
 気温は夜9時10分頃11.2度、寒冷な空気と昼間温められた空気が根室半島上空で衝突したのだろうか。

*新潟の病院だが、同型と思われるX線CT装置が写真つきで紹介されている
 http://www.shinrakuen.com/renkei-22.pdf

*Philips社
http://www.medical.philips.com/jp/products/ct/products/ct_brilliance_40_channel/index.wpd

 2009年8月3日 ebisu-blog#684
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