#5209 心臓超音波検査:39年前の桜吹雪&世界最先端の臨床検査ラボ Apr. 12, 2024 [38. cancer]
心臓超音波検査をしてきました。検査室に入って、上半身裸になって診察台に横になります。「長いですよ、1時間弱かかります、大丈夫ですか?」と言われて、
「大丈夫です、ところで超音波検査にはどのような資格が必要なのですか?」
と訊いたら、
「わたし検査技師です」
と即答。答え方がすこし妙に感じたので、
「わたしは検査会社にいたことあるけど検査技師さんは検体検査だけじゃなく心臓エコーもやるんだ」
そう伝えたら、
「わたし、(SRL八王子ラボ)細菌課にいました」
普通は会社名を言うのがあたりまえなのに、会社名は言わずにいきなり所属部署名で答えたことにおどろいて、ああ、SRL社員だったということ。社内での会話なら、会社名は聞く必要がありません、所属がどこかで事足ります。だが、わたしはSRLに勤務していたとは言ってない、「検査会社」にいたとだけ答えたはず。SRLで仕事していたことが前提になった返事だったので、
「いつの入社ですか?」
答え方が気になった理由がわかりました、面識があったのです。マスクしてたのでわかりませんでした。1985年の入社、小金井公園で桜が満開の時に会社でお花見をしましたが、その時の新入社員でした。
「カルテが回ってきて苗字を見たときにひょっとして...ラボにいたebisuさんが頭をかすめましたが、まさかと...やっぱりそうでした」
紙コップでお酒を飲んでいたら、花弁が一枚コップの中へ。そのまま飲み干して、「いい桜吹雪だ、散歩してこようかな」と立ち上がると、「わたしも行きます!」と元気な声、風が吹くたびに桜が舞い落ちる公園内を10分ほど一緒に散歩しました。午後2時ころだったかな。美しい桜のせいで腕くらい組んで歩いたかもしれません。風が吹くたびに満開の桜が花吹雪となって散っていく光景とともに記憶に深く刻まれました。
前年は(2/1に入社して)小金井公園で会社の花見をしました。仕事が終わってから夜桜でしたね。あそこは上野公園に雰囲気が似てます。小金井公園は様子が違います、桜の本数がだいぶ多いようで(ネットで検索したら1400本)、場所が広いこともあって込み合っていません。満開の桜が風が吹くたびに花弁(はなびら)が舞い散る中を歩くのは粋で、ちょっと都会っぽい雰囲気なのです。
だから、彼女のことを満開の桜が散っていく光景と同じくらい鮮明に覚えてました。
そして桜が満開のいま、今度は「患者と心臓エコー検査担当者」として再会、顔をじっと見たら、マスクをしたままでも新入社員のころの面影がしっかり残っていました。髪に白いものが混じっていただけ。ちょうど60歳になったと言ってました。こちらはすっかり「花咲かジジイ」になってます。(笑)
「ebisuさん痩せましたね」
「スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で手術をしてから10~12㎏減ってます」
あの当時は腹筋は6パックで68~70㎏の筋肉マンでしたから、細身になりました。よく気がついてくれました。
お陰で45分間の検査も退屈せずにすみました。丁寧な検査が身に沁みました。
八王子ラボでは一度だけ立ち話をした記憶があるだけ、37年ぶり、奇跡のような再会でした。なつかしかった。
そのあと、エコーの動画データは循環器のドクターのパソコンに送られて、それを見ながら診断。
心房肥大はないし心室も異常なし。収縮率もいいので20代の心臓とかわらないと循環器専門医の女医さん。てきぱきした診察でした。
薬は万一の時の血栓予防ですから、念のため継続して飲んでくださいと言われて、ゴールデンウィークが入るので40日分薬が出ました。
血圧120/90mg 脈拍75/分
NT-proBNPが32.9pg(基準値は125以下)で異常なし。
ALP(IFCC)が128でhigh、基準値は38-113
BNPに異常が出ていなければ、心房細動はごく初期で、問題なしなのです。そういうことを理解して循環器専門医の診断を聞いてます。
ALPは腎臓の尿細管の機能異常にかかわりがあります。国際基準値がIFCCのようです。ALP(アルカリフォスファターゼ)には国際基準値と日本基準値(JSCC)があります。Jの字がついているので「ああ、日本人の基準値だな」と気がつきます。基準値って案外緩くて、ときどき変わったりします。臨床検査会社によって基準値が違うこともあります。年齢によって基準値の違うものもあります。たとえば血圧は成人と高齢者は別。人種によって基準値の違う検査のひとつがALPですが、理由があります。脂質は何度か変わっていますね。どこまでが基準値で、どこからが病気だというのは判断が難しいのです。個人差もありますから。
過去の記事を調べたら、「#4200アルカリフォスファターゼ少し高め」が見つかりました。4年前に高かったことがありました。
出生前検査のトリプルマーカ―基準値(MoM値)も人種差の大きい検査です。白人を100とすると、黒人が120、日本人は130です。妊娠週令や体重でも値が違ってきますから、それらと検査値を入れてある計算式で判断しています。この基準値制定に関する妊婦6000人の検体をを集めた3年間にわたる慶応大学産婦人科との産学共同プロジェクトでやってます。プロジェクトのスタートは1990年だったかな。たまたま学術開発本部に異動したときに、暗礁に乗り上げていたのでわたしに「なんとかして」とお鉢が回ってきました。社会的な意義が大きいよい仕事でした。国際的にも意義の大きな研究になったので、担当ドクターは教授になれたでしょうね。費用は検査試薬を製薬メーカー2社に、検査と多変量解析はSRL負担でやりました。こういう調整は社内の技術屋さんと製薬メーカーの両方に個人的なコネクションがないとできません。もちろん担当ドクターとも一度会っただけで、具体的な構想を説明して役割分担を明らかにして信頼関係を築くことも大切です。一つの部署にいただけではできない仕事です。複数の分野の専門知識が必要になります。自慢話ではありませんよ、40年以上も前から、民間企業で重要な仕事は複数の専門分野の職人が集まってプロジェクトを組まないとできない仕事が増えていました。あの当時は時代が変わりつつありました、いまでは複数の分野の専門知識と経験を有していることがマネジメント分野では当たり前になっています。ところが、必要な専門分野のそれぞれに基礎的な理解のあるプロジェクトマネジャーがなかなか育っていないのです。専門用語で話さないと、誤解が生じるので、プロジェクトマネジャーには関連するそれぞれの分野の職人たちと専門用語でコミュニケーションすることが求められます。それぞれの分野にはスキルが高く気難しい職人タイプの人が時々いるので、こちらの力量もしっかり観察される場合があります。「値踏み」(英語ではsize up、音読トレーニングしているアガサの小説に出てきました)されるんです。(笑)
心臓エコー検査をやりながら、検査技師のKさんは患者さんへの基準値の説明がなかなか難しいと言ってました。絶対的なものだと思っている人が多いので、そうではないことを説明するのがたいへんだと。臨床検査会社の人間同士で話しているときには当たり前のことが、患者さんと話すときには当たり前ではないからです。
ところで、細菌検査はとっても危険な仕事なのです。結核菌の同定も毎日しますから、空気感染の恐れがどうしてもあります。だからSRLは一度でも細菌検査を担当したことのある社員が将来結核を発症した場合には、治療費はもちろんのこと休業補償まですることがルールになっています。多剤耐性の結核菌が増えているので、万一感染したら厄介ですから、長いこと担当する検査ではないのです。20代の頃に数年間細菌検査室勤務の経験のある同僚が定年間近になって結核を発症しました。細菌検査をしていたことと因果関係があるかないかは誰にもわかりません。そんなこととは関係なしに、とにかく細菌検査室で仕事したことがあればその事実だけで、SRLは約束通り医療費は出しますし休業補償もします。期限に制限はありません。転職してももちろんルールは適用されます。創業社長の藤田光一郎さんは社員思いの人でしたから、創業間もなく決められたルール、彼の経営方針です。
藤田さんの特命係で2度仕事しました。自己管理の厳しい人であると同時に冷徹な経営判断のできる経営者でした。毎月30項目ほど目標値と実績をメモして管理していました。社員と食事を10回、お客様を20回訪問する、などなど。今月は「20勝10敗」だなんて仰ってました。学術開発本部で仕事したときに、わたしの席の背中が社長室のパーティションでした。毎週、開発部のメンバーと社長が30分ほどミーティングしてましたから、わたしもそのメンバーの一人でした。取締役本部長直属のスタッフだったので、開発部と学術情報部と精度管理室の仕事を同時に担当してました。マネジメントの上手な使い勝手のよい部下だったと思います。本部内で処理しきれないマネジメントがらみの仕事を遠慮なしに片っ端から振ってきましたから。振ってくる仕事が面白かったのです、I神さんとはとっても相性がよかった。異動して半年後くらいに、「数年後にはebisuに使われているかもしれないな」なんて冗談言ってました。取締役学術開発本部長を使うの権限のあるのは代表取締役だけですから、でも買いかぶりでした。(笑)
入社時は上場準備要員として、経営統合システム開発と予算管理の仕事で経理部へ配属。1年間でシステム開発を完了し、3年目になろうとするときに、検査試薬の20%コストカットを提案し、購買課長が不可能というので、専務が「言い出しっぺのお前がやれ、プロジェクトをつくってやる」というので、2か月間の約束で購買課へ「社内出向」。それまでやっていた試薬卸業者との交渉を辞めて、製薬メーカーと直接の価格交渉、それが首尾よくいって16億円利益が増えました。そうしたら、そのまま購買課へ異動辞令が出ました。富士銀行から転籍した管理部門担当役員である谷口専務が、翌年の価格交渉も担当させたかったからです。3回やりました。合計50億円ほどコストカットしてます。試薬の卸業者には今まで通りのマージンを保障するように製薬メーカーにお願いしました。違反があれば検査試薬の卸業業者から報告が入るようにしてありました。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で試薬の購入と検査機器の購入交渉をしてました。購買課へ異動になってからルーチンワークは購買在庫管理システムの手直しと機器購入、検査機器の共同開発を担当、課内の業務の標準化、それでも暇を持て余してチョムスキーの"Knowledge of Language"を読んでいると、学術開発本部長のI神さんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を採り上げて確認し、すぐに折り返し電話がありました。1989年12月、「俺のところに来ないか?」、お誘いでした。OKすると2日後に人事部から異動辞令が出ました。開発部の製薬メーカーとの検査試薬共同開発業務をPERTチャートを利用して標準化、産学共同プロジェクト・マネジャーや海外製薬メーカからのラボツアー要望への対応、本部3部門の全員の業務棚卸と優先順位をつけて順位の低い仕事を3割カットなど、そういう仕事をしてました。1年半で91年4月に新設された関係会社管理部へ異動し、関係会社と子会社の経営分析と臨床検査会社の買収や資本提携交渉を担当。前職の産業用エレクトロニクスの輸入専門商社で1978年に開発してあった25項目5ディメンションの経営分析レーダーチャートと総合偏差値評価システムが役に立ちました。この仕事でHP67とHP97を使っていたので数値プログラミングを習得してます。1993年6月に資本提携した臨床検査会社へ経営企画室担当取締役で出向。3年の約束が、藤田さんの判断で15か月で出向解除。黒字化の具体案ができたので実行許可をもらいに本社へ行ったら、社長と専務に実行を拒否されました。3年で黒字化できるなんて思っていなかったのです。SRL本社よりも売上高経常利益率が高くなる損益シミュレーションがしてありました。子会社化も出向会社社長に飲んでもらっていましたから、SRLではナンバーワンの業績の子会社が誕生するところでした。子会社社長はSRLでは本社役員兼務です。ナンバーワンの業績なら常務取締役か線も取締役で処遇する必要がありましたから、それを嫌ったのです。1994年10月SRL本社経理部管理会計課長の異動辞令がありましたが、社長室と購買部が兼務になっていました。人事問題で我慢のならぬことがあったので、3か月後に経理部長に子会社への出向を要請、子会社のSRL東京ラボへ出向しました。やりたいことがやりたいようにできないなら、そんな部署に長居するつもりはありません。だけど、他の人にはできない仕事であった、富士通汎用大型機に載せていた購買在庫管理システムの更新は、サーバー・クライアントシステムで仕様書を書いて購買課のシステム担当者に渡してありました。富士通からの汎用大型機で提案書が出ていたので、システム部から出向していた担当者のS君むくれてました。わたしが1984年に経営統合システム開発をしたSEだとは知らなかったのです。素人の管理会計課長がなにをいうかというような横柄な態度でした。仕様書を見ても気がつかないのでは、相手にしませんでした。1週間ほどで実務設計とシステム仕様書を書き上げて渡しました。富士通の提案を廃棄して、クライアントサーバーシステムで購買在庫管理システムがちゃんと稼働してましたよ。経理担当部長も社長の近藤さんもご存じなかった。そんなに短期間で仕事ができる社員はいませんから。普通は実務設計書と仕様書を書くのに半年以上かかります。以前の購買在庫管理システムの外務設計はわたしが半分くらい仕様書を書いてあげてました。買掛金支払管理システムのテストをするために購買在庫管理システムが稼働しないとテストできませんから。3年ほど後で、システム部長のS田さんから丁重な謝罪がありました。「いつぞやはebisuさんのことを何も知りませんで、失礼しました」。彼は病理医、わたしがラボのただの機器購入担当だと当時は勘違いしていたのです。日本臨床検査項目コード制定で一緒に動いたシステム開発課長の栗原さんか、そして沖縄米軍への出生前検査導入でプログラマーとして仕事に付き合ってくれた上野君のどちらかがなにか云ったのだと思います。開発を外注していたNCDさんのSE4名が、一緒に1年間仕事したので私のスキルのほどはよく承知しています。産業用エレクトロニクスの輸入商社時代からオービックの芹沢SE、NEC情報サービスの高島SE、NCDの村山・塚田・鈴木・宇田SEなど業界トップレベルのSEとばかり仕事してました。SRLの統合経営情報システム開発は大型のパッケージスステム開発のような仕事でした。しかも業界初でした。よい仕事に恵まれました。
目まぐるしく異動、お陰で、退屈しない会社でした。一番古い子会社のSRL東京ラボへ出向し、最後は、その時社長だった近藤さんの特命プロジェクトで、帝人との治験合弁会社の経営を担当して、四項目の指示(期限通りの新会社スタート、黒字化、帝人との合弁解消と子会社化、帝人の臨床検査子会社の吸収)を2年半で達成し、「卒業」しました。100%子会社化すれば経営の全権を移譲されていたわたしはやりたい仕事(移籍する社員の給料をSRL以上にする、いつでも上場できる体制を整備する)ことができなくなります。仕事のできない人が誰か、新社長で回ってくるので、半年前から頼まれていた300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事を引き受けることにしました。シームレスな老人医療と介護を実現してみたいと夢を見てました。数年で目途はつけられます。数年待てばSRLでは50代前半のうちにSRL本社役員でしょうが、50歳を過ぎたらお金儲け仕事からは足を洗うつもりでした。古里に戻って、高校を卒業するまで育てくれたことへの恩返しが何かできないかと30代のころから考えていました。
96年11月、帝人との臨床治験合弁会社は、近藤さんが社長に就任して初めての一部上場企業との合弁という力量を問われる重要な大仕事でしたから、プロジェクトが途中で暗礁に乗り上げて、それを打開するために急遽わたしを使わざるを得なくなりました。プロジェクトメンバーに一人であるシステム屋のWさんが、「社内でこの仕事をやれるのはebisuさんだけだ」と主張したからです。そのときには子会社のSRL東京ラボで箕輪社長と新ラボ構想の最終段階に入っていました。91年7月に子会社の千葉ラボ(社名SMS)で生産性を2倍にアップする新システム導入「SMS再構築基本プラン」に関係会社管理部課長として関わっていたので、それをさらに進化させた、もっと低コストの世界最先端の自動化ラボをつくるつもりでした。理化学機器の中では臨床検査に使われていた機器には1970年代終わりごろからマイクロ波計測器には標準装備だった双方向インターフェイスバスがありません。購買課で2年半仕事したときに、機器メーカーにしっかりコネをつくっておいたので、SRLへの検査機器導入にはGPIBを標準バスに指定するつもりでした。双方向のバスでないと機器が制御できないからです。たとえば、検査データを処理していて、統計処理をオンラインでやって異常なデータが頻繁に出続けたら、それは機器の不良と判断し、機械をストップさせてチェックするとか、再現性を改善するために「1時間プレヒーティング」するとか、コントロールを定期的にあるいは随時入れて、機器の精度をチェックする、そういうことが可能になります。24時間稼働させるためには機器の制御がどうしても必要です。双方向インターフェイスバスがあれば精度保証がいままでの自動化とはワンステップ別物になります。自動化が低コストでできます。機器製造メーカーにはGPIBを前提に機器をつくってもらうことになります。SRLだけでは無理で、取引業者にも構想を明らかにして協力をお願いしないといけません。それで、一般検査市場でもナンバーワンを企業を目指すつもりでした。SRL東京ラボだけでSRL親会社の半分程度の売上は見込めました。地域別に一般検査会社をつくり、高生産性&低コストのラボを設置すれば、保険点数の50%のディスカウントで、BMLの大口ユーザを絨毯爆撃すれば販路拡大が簡単にできます。SRL営業担当役員は3人いましたが、いくら変わっても営業戦略を練り上げることのできる人がいませんでした。一般検査市場は、SRLが対象としていた特殊検査市場よりも数倍大きいのです。簡単なことでした。
近藤さん、わたしを帝人との合弁会社に投入したのは仕方がなかったとはいえ、その経営判断は誤りであったかもしれませんね。近藤さんはわたしがSRLでどんな仕事をしてきたのはその半分もご存じなかった。彼は90年頃に厚生労働省の医系技官(課長補佐)を藤田光一郎社長が引き抜いた人でした。慶応大学医学部卒の医師、論理で割り切る頭の切れる人でしたね。その代わり「情」が理解できない弱点もありました。他には社長をしてもらいたいような取締役は一人もいませんでした。取締役の中では近藤さんが経営者としての能力はナンバーワンでした。近藤さんが、あの時SRL東京ラボのままで放っておいてくれたら、現在のSRLの売上1000億円は2000億円だった可能性があります。米国進出すれば、さらに3000億円規模の売上拡大ができます。米国進出はいまでもやれます。数年前に竣工した「あきる野ラボ」の自動化もぜんぜん別のものになっていたでしょう。見学して確認はしていませんが、あきる野ラボの自動化はいまいちど根本から見直した方がいいかもしれません。
細菌検査課の39年前の新人と再開してそんなことも思い出しました。桜は人の心を妖しく揺らします。
さて、診断の結果ですが、心臓を動かす電気信号にたまに異常が出るようですが、いまのところ何もする必要なし。今後は経過観察です。カテーテル・アブレーション手術はいまのところは不要ですが、病状が進行すればやった方がいいとは言われました。大腿部の静脈からカテーテルを挿入して、心臓を高周波で低温焼灼(50~60度)します。わたしはやりたくありません。年間10万例の手術であっても、わたしは臆病ですから。(笑)
<帝人との経緯(いきさつ)>
英国のIRS社という染色体画像解析装置製造企業から染色体画像解析装置を3台購入したのは1989年でした。ニコンの子会社のニレコ社とマジスキャンの画像解析用ミニコンを使って開発を2年くらいやっていました。染色体課とラボ副所長が担当してました。目標は1時間当たり6検体の処理能力でしたが1検体しか処理できません。副所長案件は他にもあって、RI部で固定資産台帳に2000万円で載っていた特注案件の機器がブルーシートで覆われ使われていないので、現場の担当者に確認すると、使い物にならないとのこと。どうやら副所長は機器やシステムにまったく専門知識がないことがわかりました。それで、ニレコ社との染色体画像解析装置開発は中止しました。当時は購買課の平社員ですが、経理担当役員のI岩本さんと管理部門担当専務の谷口さんのバックアップがあったので権限は大きかったのです。システムや機械のことがわかる人材が本社部門にはいませんでしたから。そういうタイミングの時に検査管理部の機器担当の尾形さんが、虎の門病院へ英国製の染色体画像解析装置が導入されているので、見学に行こうと誘ってくれたのです。染色体課長の石原さんと三人でサンプル5枚を持参してテストさせてもらいました。25分かかりませんでした。5分/検体で処理できます。あとでIRSのシステムエンジニアに確認しましたが、入り口が違っていました。CCDカメラでデータ入力してました。フィルムではありませんでした。CCDカメラでインプットするとデジアナ変換が不要なのでデータ処理が楽なのです。見るからに自作のボードコンピュータがつながれていました。自作のボードコンピュータの原価はせいぜい200万円です。産業用エレクトロニクスの輸入商社で、マルチチャンネルのマイクロ波計測器の開発をしたときに、担当エンジニアと話して開発過程をモニタリングしてました。だから、カバーを外してみただけで、原価の見当がつきます。2000万円の当時最高レベルの画像解析用ミニコンを使う必要はなかったのです。キーはCCDカメラでした。ニレコ社がフィルムとレンズにこだわっていたので、続けても開発は無理でした。
輸入総代理店が日本電子輸入販売でした。営業担当のSさんに3台買うから1台はバックアップ用でおいてくれるようにIRSに依頼してもらいました。5000万円の装置ですが、高性能のレーザープリンタを含めても原価が1000万円程度なのははっきりしてましたし、台数を多くすれば原価は劇的に下がるので、提案を一つしました。BMLへ販売しろと。SRLで導入したと話していい、その気があるなら、SRLへ話して見学させてもらうこともできるかもしれないと言え、ただし、値引きは1円もするな、必ず値引けと言ってくるが、IRSの経営方針で無理ですと突っぱねたら、すぐに定価で買うから。狙い通り首尾よく言ったようです。S本さんゴルフが大好きな人でした。うまくいったので、セントアンドリュースでゴルフしましょう、会社の了解が取れてますとお誘い。IRSはエジンバラ大学と共同開発しているので、セントアンドリュースでゴルフできるのです。(笑) せっかくのお誘いでしたがお断りしました。S本さんしばらくしょげてました。
S本さんは他に帝人と東北の臨床検査センターから引き合いがあると言ってました。帝人の臨床検査子会社は業績が悪いので、売上を増やすために導入するのでしょうが、染色体検査はSRLが市場の80%を握っているので、割り込むのは不可能。業績はさらに悪化するだろうと判断してました。東北の会社も事情は似たようなものと考えてました。流行らないフランス料理のレストランが売上増のためにメニューを増やして、高級食材の在庫を増やして廃棄損が増えて経営破綻するようなものです。経営が下手な人が社長をしていることはそれだけの情報でわかりました。こういう企業は社長が一生懸命に仕事をすればするほど業績は悪化します。いずれチャンスがあれば、買収しようと学術開発本部へ異動したころ(1990年)に考えてました。
意外とチャンスは早くやってきました。東北の臨床検査センターへの資本提携交渉を関係会社管理部へ異動して1993年3月に担当することになりました。1億円の出資交渉と業務提携をまとめて6月1日付で経営管理室担当取締役で出向しています。SRLのルールでは本当は関係会社の役員出向はできません。本社課長職は関係会社の部長職なのです。創業社長の特命案件だったので、買収交渉を担当した金沢の臨床検査会社と東北の臨床検査会社のどちらでも好きな方を選びなさいと言われて、楽ではない方を選びました。先方の社長の意向が取締役での出向で、創業社長の特命案件だったので、人事部長も異論は言えません、例外扱いになっていました。仕事の指示と報告はすべて藤田社長直接でした。だから、組織上どの部門に属していたかを知るのは15か月後の出向解除の時でした。
帝人との治験合弁会社の経営を担当することになったのは1996年の11月です。社長の近藤さんから、次の4課題を3年でクリアするように言われました。情報を収集・分析していれば仕事のチャンスは数年で巡ってきます。
①期限通りの設立スタート
②赤字会社の黒字化
③資本提携解消・子会社化
④帝人臨床検査子会社の買収
近藤さんが社長になって2年が過ぎたころです、この四課題がどれほど無茶なのかわかっていたのでしょう。経営の全権を委任してくれたら期限通り3年で四つとも達成は約束しますと伝えました。近藤さん迷いなく即答、「任せる」、他に選択肢はありません。たまたまプロジェクトのミーティングに初参加するためSRL本社へ出向いたときにエレベータの前で出かけようとしていた近藤さんと鉢合わせしたので、「聞いているか?」「そのためのプロジェクトに参加するために来ました」と立ち話。2分くらいで課題の確認と全権委任が決まりました。それで、暗礁に乗り上げた合弁会社立ち上げプロジェクトに(11月末から割り込み)参加してます。1月末までに本社の場所を決めて会社の体裁を整えスタートです、3か月しかありませんでした。PERTチャートをすぐに作ってクリティカルパスを確認して次々に手を打ちました。
そういう仕事をしながら、経理担当役員へS本を合弁会社へ異動させてもらいたいと伝えたら、「自分でできるでしょ?」と愛想のない返事、入社時の上司のM井さんが経理課長から取締役になっていました。SRLの近藤さんから任されたのは合弁会社の経理業務ではなくて経営、近藤さんから伝わってませんでしたが、近藤社長から全権委任を受けているので、経理担当役員には拒否権なしです。経理やシステム開発が仕事だと勘違いしていたようです。経理部門出身者に子会社の経営を任せる親会社の社長はいないでしょう。経理・財務以外の仕事はできませんから。
これらの課題の③と④は1990年から自分の手でやるつもりでしたから、願ったりかなったりでした。
帝人の臨床検査子会社は染色体画像解析装置の導入でさらに累積赤字が膨らみ、安居社長からM専務とI常務が、臨床検査子会社をどうするのか処理を迫られていました。相手側の事情も交渉を後押しする力になりました。
臨床検査子会社へはH本さんが社長。本社では部長職で、専務や常務とは同じ一ツ橋閥でした。一ツ橋で本社部長職に臨床検査子会社の経営は無理なのです。H本さん、治験合弁会社がスタートすると、SRLでやっていた治験分の検査が全部帝人臨床検査子会社へ移管されると勘違いしてました。それを帝人本社の常務と専務に説明していたことがわかりました。合弁会社の社長は帝人側のH本さんが兼務でした。
毎月行われる取締役会には非常勤役員としてI常務が来てました。SRL側は営業常務のツーさんとラボ担当役員のH泉さんでした。子会社常務はSRL側、わたしは管理部門担当部長でしたが、SRL社長の近藤さんから、経営の全権を委ねられていました。四課題は自由にやらしてもらえないと約束できない、経営を全権委任してくれるなら3年で課題全部をクリアする旨告げました。近藤さん即答でした。
数か月がたち、帝人の臨床検査子会社の業績が予定通り改善しないので、H本社長の話を聴いていてもよくわからないので、すまないが帝人本社に来てM専務とわたしへもう一度説明してくれないかと帝人本社のI常務から申し入れがあり、日比谷公園近くの帝人本社飯野ビルへ出向きました。データ管理事業へシフトすることで黒字化することを損益シミュレーションと事業分野のマトリックスで説明し、検査の移管がないことも具体的に説明しました。この会議の席上で、H本社長は震えていました。本社役付役員二人の前での業績見通しの説明はストレスが強くかかっていることがよくわかりました。
治験検査の移管は無理なのです。全世界の大手製薬メーカーはすべて取引先ですが、SRLでは精度管理基準(CAPライセンス)は世界で一番厳しいものを採用していますが、帝人の臨床検査子会社はそうではありませんから、SRLから帝人検査ラボへの検査移管は不可能なのです。逆なら問題ありません。臨床検査業界では当たり前の常識ですが、帝人羽村ラボの社長はご存じなかった。丁寧に説明したら、「H本の言うことがさっぱりわからなかった、ようやくわかった、やはり餅は餅屋ですね」そうおっしゃった。H本さん面目丸つぶれでしたが、このままやっても帝人臨床検査子会社の赤字は膨らむばかりということは帝人本社役員のお二人にはよくわかったと思います。あとは処理案についてわたしと交渉するだけ。3か月目くらいのこの会議で大筋に目途がついてしまいました。後は説明した以上の業績改善をして、そのデータをもとに交渉すればいいだけでした。
帝人の臨床検査子会社とSRLのスタートはほぼ一緒でした。そん時で三十数年の歴史がありました。売上規模は1:15です。一橋大卒の本社エリートを社長として何人送り込んでも、臨床検査子会社の再建は無理でした。業界の常識を知らない、検査の専門知識がない、検査機器や自動化の専門知識も経験もない、これではマネジメントに手も足も出せるはずがありません。
帝人の社長が東大出の安居さんに変わりました。一ツ橋閥のM専務とI川専務に遠慮はありませんから、臨床検査子会社の処理を期限をつけて迫りました。お二人困っていました。こういう情報はH本合弁会社社長を外して帝人本社のI川専務と直接交渉し始める少し前に薬学博士のKさんが、I川専務の意向を受けて帝人側の事情をつまびらかに話してくれましたので、やりやすかったのです。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で話をしていたので、ある時から正直に話してくれました。帝人の羽村ラボの見学もさせてもらいました。1時間ほど見学しただけで、このラボはもう駄目だと判断しました。治験検査専用ラボと言ってもいいくらい偏っていました。量が少ないので大規模な自動化やシステム化は無理でした。海外の製薬メーカーからの八王子ラボツアーの対応をしてたことがあるので、SRL八王子ラボの自動化と比較できました。一般検査市場へ出るしかなかったのですが、帝人は医薬品事業を拡大するために臨床検査事業を始めたので、市場が小さい治験検査に特化してしまいました。それがそもそも間違いのもとでした。
I川常務から、帝人臨床検査子会社を治験合弁会社の子会社にするので、両方の社長を兼務してほしいと要請がありました。SRL近藤社長に話をつなぎましたがノーでした。合弁会社2年目に課長職から次長職へ昇格して治験合弁会社の取締役に就任してますが、SRLのルールではSRL本社の次長職が子会社社長をやるわけにはいかないのです。2年続けて昇格というのも前例がありません。
それで、申し出をお断りして、③と④をI常務へ提案して、飲んでもらいました。
「合弁会社をやると決まって業績が振るわず後始末は帝人側でやってきた、こんなケースは初めてです」
そう言いながら笑って、OKしてくれました。M専務とI川常務は安居社長から期限付きで臨床検査子会社の整理あるいは黒字債券を迫られていたのですから、「渡りに舟」でした。ノイローゼになっていた合弁会社のH本社長は帝人本社勤務へ戻ることになりました。
「ebisuさん、H本に傷がつかないように処遇するが、了解してくれるかね」
「異論はありません、精神がだいぶ参っているようですから、楽な仕事につけてやってください」
帝人本社の一ツ橋閥は面倒見がいい。H本さんは、帝人で問題になっていた臨床検査子会社事業から撤退という仕事を首尾よくやったぐらいの評価はしたでしょう。I川常務、そのあたりは情の人でした。
帝人臨床検査子会社の課長職の年収はSRLの半分に満たなかった。社員も同じくらいの比率でした。そんな給与格差の大きい両社からの寄せ集めでしたが、年収は1年もするうちにお互いの知るところとなります。
SRL子会社になり、転籍するときにはSRL並の給料を保障してやろうと思っていました。それには経営改革をするために経営の全権委任を四課題を果たした後にも持たなければできません。しかし、近藤さんの返事はノーでした。現在の職位に関しては過去の業績の結果だから、そういうわけにはいかないとのこと。カチンと来ました。
経理部で入社して、経営統合システム開発では経理チームが一番遅れており、何も手がついていませんでした。原価計算システムチーム、購買在庫管理システムチーム、販売会計システムチームは1年前にスタートしてました。一番遅れていた財務会計システムと買掛金支払い管理システム、投資・固定資産管理システムを8か月で稼働させています。並行して予算編成と予算管理業務も統括してました。このときに、経理担当や役員から管理会計課を新設し課長職へ昇格願いが人事部へ出されましたが、人事部長が拒否してます。理由は上場準備要員としては一番最後に入社したので、まだ昇格が速すぎるという理由でしたね。2年目には検査試薬のコストカット20%を提案して、購買課長が不可能だというので、専務がプロジェクトをつくるから言い出しっぺのお前がやれというので、それまでの卸業者相手の価格交渉を止めて、製薬メーカと直接交渉に切り換えました。2か月間だけの約束で購買課へ出向して、予定通り16億円のコストカットを実現しました。それから半年後、ラボの通勤バスで親会社の富士レビオの元経理部長でSRLの監査役をしているT口さんと一緒になり、「ebisuさん今どこにいるの?」「ラボの購買です」と伝えると、「そうか購買部長してるんだ」、「いいえ平社員です」というと絶句してました。富士レビオが上場したときの経理部長ですから、たいへんさがわかっていました。それを8か月で稼働させるというのは「神業」でした。見るべき人はちゃんと見てくれています。とっても励みになりました。
近藤さんの言「現在の職位は過去の業績の結果ですから」というのは承服しがたい、それに社長でなければ、経営改革を思った通りに実現はできません。SRLから転籍する社員の給料も下げざるを得なくなります。我慢のならないことでした。半年以上前から、首都圏の特例許可老人病院が病棟の建て替えをするので常務理事で来てほしいとお誘いを受けていたので、病院を核にシームレスな老人医療と介護事業を展開してみる気になってしまいました。
SRLを退職してから十数年たって、故郷で小さな私塾をやっていたときに、近藤さん、根室まで遊びに来てくれました。養老牛温泉で、地域医療と教育の地域格差について語り明かしました。どちらかというと感情を排して論理で割り切るタイプの経営者でしたが、ロジックで割り切るだけの人でもありませんでした。3年弱の間、楽しい仕事を回してもらったと思います。
「大丈夫です、ところで超音波検査にはどのような資格が必要なのですか?」
と訊いたら、
「わたし検査技師です」
と即答。答え方がすこし妙に感じたので、
「わたしは検査会社にいたことあるけど検査技師さんは検体検査だけじゃなく心臓エコーもやるんだ」
そう伝えたら、
「わたし、(SRL八王子ラボ)細菌課にいました」
普通は会社名を言うのがあたりまえなのに、会社名は言わずにいきなり所属部署名で答えたことにおどろいて、ああ、SRL社員だったということ。社内での会話なら、会社名は聞く必要がありません、所属がどこかで事足ります。だが、わたしはSRLに勤務していたとは言ってない、「検査会社」にいたとだけ答えたはず。SRLで仕事していたことが前提になった返事だったので、
「いつの入社ですか?」
答え方が気になった理由がわかりました、面識があったのです。マスクしてたのでわかりませんでした。1985年の入社、小金井公園で桜が満開の時に会社でお花見をしましたが、その時の新入社員でした。
「カルテが回ってきて苗字を見たときにひょっとして...ラボにいたebisuさんが頭をかすめましたが、まさかと...やっぱりそうでした」
紙コップでお酒を飲んでいたら、花弁が一枚コップの中へ。そのまま飲み干して、「いい桜吹雪だ、散歩してこようかな」と立ち上がると、「わたしも行きます!」と元気な声、風が吹くたびに桜が舞い落ちる公園内を10分ほど一緒に散歩しました。午後2時ころだったかな。美しい桜のせいで腕くらい組んで歩いたかもしれません。風が吹くたびに満開の桜が花吹雪となって散っていく光景とともに記憶に深く刻まれました。
前年は(2/1に入社して)小金井公園で会社の花見をしました。仕事が終わってから夜桜でしたね。あそこは上野公園に雰囲気が似てます。小金井公園は様子が違います、桜の本数がだいぶ多いようで(ネットで検索したら1400本)、場所が広いこともあって込み合っていません。満開の桜が風が吹くたびに花弁(はなびら)が舞い散る中を歩くのは粋で、ちょっと都会っぽい雰囲気なのです。
だから、彼女のことを満開の桜が散っていく光景と同じくらい鮮明に覚えてました。
そして桜が満開のいま、今度は「患者と心臓エコー検査担当者」として再会、顔をじっと見たら、マスクをしたままでも新入社員のころの面影がしっかり残っていました。髪に白いものが混じっていただけ。ちょうど60歳になったと言ってました。こちらはすっかり「花咲かジジイ」になってます。(笑)
「ebisuさん痩せましたね」
「スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で手術をしてから10~12㎏減ってます」
あの当時は腹筋は6パックで68~70㎏の筋肉マンでしたから、細身になりました。よく気がついてくれました。
お陰で45分間の検査も退屈せずにすみました。丁寧な検査が身に沁みました。
八王子ラボでは一度だけ立ち話をした記憶があるだけ、37年ぶり、奇跡のような再会でした。なつかしかった。
そのあと、エコーの動画データは循環器のドクターのパソコンに送られて、それを見ながら診断。
心房肥大はないし心室も異常なし。収縮率もいいので20代の心臓とかわらないと循環器専門医の女医さん。てきぱきした診察でした。
薬は万一の時の血栓予防ですから、念のため継続して飲んでくださいと言われて、ゴールデンウィークが入るので40日分薬が出ました。
血圧120/90mg 脈拍75/分
NT-proBNPが32.9pg(基準値は125以下)で異常なし。
ALP(IFCC)が128でhigh、基準値は38-113
BNPに異常が出ていなければ、心房細動はごく初期で、問題なしなのです。そういうことを理解して循環器専門医の診断を聞いてます。
ALPは腎臓の尿細管の機能異常にかかわりがあります。国際基準値がIFCCのようです。ALP(アルカリフォスファターゼ)には国際基準値と日本基準値(JSCC)があります。Jの字がついているので「ああ、日本人の基準値だな」と気がつきます。基準値って案外緩くて、ときどき変わったりします。臨床検査会社によって基準値が違うこともあります。年齢によって基準値の違うものもあります。たとえば血圧は成人と高齢者は別。人種によって基準値の違う検査のひとつがALPですが、理由があります。脂質は何度か変わっていますね。どこまでが基準値で、どこからが病気だというのは判断が難しいのです。個人差もありますから。
過去の記事を調べたら、「#4200アルカリフォスファターゼ少し高め」が見つかりました。4年前に高かったことがありました。
出生前検査のトリプルマーカ―基準値(MoM値)も人種差の大きい検査です。白人を100とすると、黒人が120、日本人は130です。妊娠週令や体重でも値が違ってきますから、それらと検査値を入れてある計算式で判断しています。この基準値制定に関する妊婦6000人の検体をを集めた3年間にわたる慶応大学産婦人科との産学共同プロジェクトでやってます。プロジェクトのスタートは1990年だったかな。たまたま学術開発本部に異動したときに、暗礁に乗り上げていたのでわたしに「なんとかして」とお鉢が回ってきました。社会的な意義が大きいよい仕事でした。国際的にも意義の大きな研究になったので、担当ドクターは教授になれたでしょうね。費用は検査試薬を製薬メーカー2社に、検査と多変量解析はSRL負担でやりました。こういう調整は社内の技術屋さんと製薬メーカーの両方に個人的なコネクションがないとできません。もちろん担当ドクターとも一度会っただけで、具体的な構想を説明して役割分担を明らかにして信頼関係を築くことも大切です。一つの部署にいただけではできない仕事です。複数の分野の専門知識が必要になります。自慢話ではありませんよ、40年以上も前から、民間企業で重要な仕事は複数の専門分野の職人が集まってプロジェクトを組まないとできない仕事が増えていました。あの当時は時代が変わりつつありました、いまでは複数の分野の専門知識と経験を有していることがマネジメント分野では当たり前になっています。ところが、必要な専門分野のそれぞれに基礎的な理解のあるプロジェクトマネジャーがなかなか育っていないのです。専門用語で話さないと、誤解が生じるので、プロジェクトマネジャーには関連するそれぞれの分野の職人たちと専門用語でコミュニケーションすることが求められます。それぞれの分野にはスキルが高く気難しい職人タイプの人が時々いるので、こちらの力量もしっかり観察される場合があります。「値踏み」(英語ではsize up、音読トレーニングしているアガサの小説に出てきました)されるんです。(笑)
心臓エコー検査をやりながら、検査技師のKさんは患者さんへの基準値の説明がなかなか難しいと言ってました。絶対的なものだと思っている人が多いので、そうではないことを説明するのがたいへんだと。臨床検査会社の人間同士で話しているときには当たり前のことが、患者さんと話すときには当たり前ではないからです。
ところで、細菌検査はとっても危険な仕事なのです。結核菌の同定も毎日しますから、空気感染の恐れがどうしてもあります。だからSRLは一度でも細菌検査を担当したことのある社員が将来結核を発症した場合には、治療費はもちろんのこと休業補償まですることがルールになっています。多剤耐性の結核菌が増えているので、万一感染したら厄介ですから、長いこと担当する検査ではないのです。20代の頃に数年間細菌検査室勤務の経験のある同僚が定年間近になって結核を発症しました。細菌検査をしていたことと因果関係があるかないかは誰にもわかりません。そんなこととは関係なしに、とにかく細菌検査室で仕事したことがあればその事実だけで、SRLは約束通り医療費は出しますし休業補償もします。期限に制限はありません。転職してももちろんルールは適用されます。創業社長の藤田光一郎さんは社員思いの人でしたから、創業間もなく決められたルール、彼の経営方針です。
藤田さんの特命係で2度仕事しました。自己管理の厳しい人であると同時に冷徹な経営判断のできる経営者でした。毎月30項目ほど目標値と実績をメモして管理していました。社員と食事を10回、お客様を20回訪問する、などなど。今月は「20勝10敗」だなんて仰ってました。学術開発本部で仕事したときに、わたしの席の背中が社長室のパーティションでした。毎週、開発部のメンバーと社長が30分ほどミーティングしてましたから、わたしもそのメンバーの一人でした。取締役本部長直属のスタッフだったので、開発部と学術情報部と精度管理室の仕事を同時に担当してました。マネジメントの上手な使い勝手のよい部下だったと思います。本部内で処理しきれないマネジメントがらみの仕事を遠慮なしに片っ端から振ってきましたから。振ってくる仕事が面白かったのです、I神さんとはとっても相性がよかった。異動して半年後くらいに、「数年後にはebisuに使われているかもしれないな」なんて冗談言ってました。取締役学術開発本部長を使うの権限のあるのは代表取締役だけですから、でも買いかぶりでした。(笑)
入社時は上場準備要員として、経営統合システム開発と予算管理の仕事で経理部へ配属。1年間でシステム開発を完了し、3年目になろうとするときに、検査試薬の20%コストカットを提案し、購買課長が不可能というので、専務が「言い出しっぺのお前がやれ、プロジェクトをつくってやる」というので、2か月間の約束で購買課へ「社内出向」。それまでやっていた試薬卸業者との交渉を辞めて、製薬メーカーと直接の価格交渉、それが首尾よくいって16億円利益が増えました。そうしたら、そのまま購買課へ異動辞令が出ました。富士銀行から転籍した管理部門担当役員である谷口専務が、翌年の価格交渉も担当させたかったからです。3回やりました。合計50億円ほどコストカットしてます。試薬の卸業者には今まで通りのマージンを保障するように製薬メーカーにお願いしました。違反があれば検査試薬の卸業業者から報告が入るようにしてありました。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で試薬の購入と検査機器の購入交渉をしてました。購買課へ異動になってからルーチンワークは購買在庫管理システムの手直しと機器購入、検査機器の共同開発を担当、課内の業務の標準化、それでも暇を持て余してチョムスキーの"Knowledge of Language"を読んでいると、学術開発本部長のI神さんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を採り上げて確認し、すぐに折り返し電話がありました。1989年12月、「俺のところに来ないか?」、お誘いでした。OKすると2日後に人事部から異動辞令が出ました。開発部の製薬メーカーとの検査試薬共同開発業務をPERTチャートを利用して標準化、産学共同プロジェクト・マネジャーや海外製薬メーカからのラボツアー要望への対応、本部3部門の全員の業務棚卸と優先順位をつけて順位の低い仕事を3割カットなど、そういう仕事をしてました。1年半で91年4月に新設された関係会社管理部へ異動し、関係会社と子会社の経営分析と臨床検査会社の買収や資本提携交渉を担当。前職の産業用エレクトロニクスの輸入専門商社で1978年に開発してあった25項目5ディメンションの経営分析レーダーチャートと総合偏差値評価システムが役に立ちました。この仕事でHP67とHP97を使っていたので数値プログラミングを習得してます。1993年6月に資本提携した臨床検査会社へ経営企画室担当取締役で出向。3年の約束が、藤田さんの判断で15か月で出向解除。黒字化の具体案ができたので実行許可をもらいに本社へ行ったら、社長と専務に実行を拒否されました。3年で黒字化できるなんて思っていなかったのです。SRL本社よりも売上高経常利益率が高くなる損益シミュレーションがしてありました。子会社化も出向会社社長に飲んでもらっていましたから、SRLではナンバーワンの業績の子会社が誕生するところでした。子会社社長はSRLでは本社役員兼務です。ナンバーワンの業績なら常務取締役か線も取締役で処遇する必要がありましたから、それを嫌ったのです。1994年10月SRL本社経理部管理会計課長の異動辞令がありましたが、社長室と購買部が兼務になっていました。人事問題で我慢のならぬことがあったので、3か月後に経理部長に子会社への出向を要請、子会社のSRL東京ラボへ出向しました。やりたいことがやりたいようにできないなら、そんな部署に長居するつもりはありません。だけど、他の人にはできない仕事であった、富士通汎用大型機に載せていた購買在庫管理システムの更新は、サーバー・クライアントシステムで仕様書を書いて購買課のシステム担当者に渡してありました。富士通からの汎用大型機で提案書が出ていたので、システム部から出向していた担当者のS君むくれてました。わたしが1984年に経営統合システム開発をしたSEだとは知らなかったのです。素人の管理会計課長がなにをいうかというような横柄な態度でした。仕様書を見ても気がつかないのでは、相手にしませんでした。1週間ほどで実務設計とシステム仕様書を書き上げて渡しました。富士通の提案を廃棄して、クライアントサーバーシステムで購買在庫管理システムがちゃんと稼働してましたよ。経理担当部長も社長の近藤さんもご存じなかった。そんなに短期間で仕事ができる社員はいませんから。普通は実務設計書と仕様書を書くのに半年以上かかります。以前の購買在庫管理システムの外務設計はわたしが半分くらい仕様書を書いてあげてました。買掛金支払管理システムのテストをするために購買在庫管理システムが稼働しないとテストできませんから。3年ほど後で、システム部長のS田さんから丁重な謝罪がありました。「いつぞやはebisuさんのことを何も知りませんで、失礼しました」。彼は病理医、わたしがラボのただの機器購入担当だと当時は勘違いしていたのです。日本臨床検査項目コード制定で一緒に動いたシステム開発課長の栗原さんか、そして沖縄米軍への出生前検査導入でプログラマーとして仕事に付き合ってくれた上野君のどちらかがなにか云ったのだと思います。開発を外注していたNCDさんのSE4名が、一緒に1年間仕事したので私のスキルのほどはよく承知しています。産業用エレクトロニクスの輸入商社時代からオービックの芹沢SE、NEC情報サービスの高島SE、NCDの村山・塚田・鈴木・宇田SEなど業界トップレベルのSEとばかり仕事してました。SRLの統合経営情報システム開発は大型のパッケージスステム開発のような仕事でした。しかも業界初でした。よい仕事に恵まれました。
目まぐるしく異動、お陰で、退屈しない会社でした。一番古い子会社のSRL東京ラボへ出向し、最後は、その時社長だった近藤さんの特命プロジェクトで、帝人との治験合弁会社の経営を担当して、四項目の指示(期限通りの新会社スタート、黒字化、帝人との合弁解消と子会社化、帝人の臨床検査子会社の吸収)を2年半で達成し、「卒業」しました。100%子会社化すれば経営の全権を移譲されていたわたしはやりたい仕事(移籍する社員の給料をSRL以上にする、いつでも上場できる体制を整備する)ことができなくなります。仕事のできない人が誰か、新社長で回ってくるので、半年前から頼まれていた300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事を引き受けることにしました。シームレスな老人医療と介護を実現してみたいと夢を見てました。数年で目途はつけられます。数年待てばSRLでは50代前半のうちにSRL本社役員でしょうが、50歳を過ぎたらお金儲け仕事からは足を洗うつもりでした。古里に戻って、高校を卒業するまで育てくれたことへの恩返しが何かできないかと30代のころから考えていました。
96年11月、帝人との臨床治験合弁会社は、近藤さんが社長に就任して初めての一部上場企業との合弁という力量を問われる重要な大仕事でしたから、プロジェクトが途中で暗礁に乗り上げて、それを打開するために急遽わたしを使わざるを得なくなりました。プロジェクトメンバーに一人であるシステム屋のWさんが、「社内でこの仕事をやれるのはebisuさんだけだ」と主張したからです。そのときには子会社のSRL東京ラボで箕輪社長と新ラボ構想の最終段階に入っていました。91年7月に子会社の千葉ラボ(社名SMS)で生産性を2倍にアップする新システム導入「SMS再構築基本プラン」に関係会社管理部課長として関わっていたので、それをさらに進化させた、もっと低コストの世界最先端の自動化ラボをつくるつもりでした。理化学機器の中では臨床検査に使われていた機器には1970年代終わりごろからマイクロ波計測器には標準装備だった双方向インターフェイスバスがありません。購買課で2年半仕事したときに、機器メーカーにしっかりコネをつくっておいたので、SRLへの検査機器導入にはGPIBを標準バスに指定するつもりでした。双方向のバスでないと機器が制御できないからです。たとえば、検査データを処理していて、統計処理をオンラインでやって異常なデータが頻繁に出続けたら、それは機器の不良と判断し、機械をストップさせてチェックするとか、再現性を改善するために「1時間プレヒーティング」するとか、コントロールを定期的にあるいは随時入れて、機器の精度をチェックする、そういうことが可能になります。24時間稼働させるためには機器の制御がどうしても必要です。双方向インターフェイスバスがあれば精度保証がいままでの自動化とはワンステップ別物になります。自動化が低コストでできます。機器製造メーカーにはGPIBを前提に機器をつくってもらうことになります。SRLだけでは無理で、取引業者にも構想を明らかにして協力をお願いしないといけません。それで、一般検査市場でもナンバーワンを企業を目指すつもりでした。SRL東京ラボだけでSRL親会社の半分程度の売上は見込めました。地域別に一般検査会社をつくり、高生産性&低コストのラボを設置すれば、保険点数の50%のディスカウントで、BMLの大口ユーザを絨毯爆撃すれば販路拡大が簡単にできます。SRL営業担当役員は3人いましたが、いくら変わっても営業戦略を練り上げることのできる人がいませんでした。一般検査市場は、SRLが対象としていた特殊検査市場よりも数倍大きいのです。簡単なことでした。
近藤さん、わたしを帝人との合弁会社に投入したのは仕方がなかったとはいえ、その経営判断は誤りであったかもしれませんね。近藤さんはわたしがSRLでどんな仕事をしてきたのはその半分もご存じなかった。彼は90年頃に厚生労働省の医系技官(課長補佐)を藤田光一郎社長が引き抜いた人でした。慶応大学医学部卒の医師、論理で割り切る頭の切れる人でしたね。その代わり「情」が理解できない弱点もありました。他には社長をしてもらいたいような取締役は一人もいませんでした。取締役の中では近藤さんが経営者としての能力はナンバーワンでした。近藤さんが、あの時SRL東京ラボのままで放っておいてくれたら、現在のSRLの売上1000億円は2000億円だった可能性があります。米国進出すれば、さらに3000億円規模の売上拡大ができます。米国進出はいまでもやれます。数年前に竣工した「あきる野ラボ」の自動化もぜんぜん別のものになっていたでしょう。見学して確認はしていませんが、あきる野ラボの自動化はいまいちど根本から見直した方がいいかもしれません。
細菌検査課の39年前の新人と再開してそんなことも思い出しました。桜は人の心を妖しく揺らします。
さて、診断の結果ですが、心臓を動かす電気信号にたまに異常が出るようですが、いまのところ何もする必要なし。今後は経過観察です。カテーテル・アブレーション手術はいまのところは不要ですが、病状が進行すればやった方がいいとは言われました。大腿部の静脈からカテーテルを挿入して、心臓を高周波で低温焼灼(50~60度)します。わたしはやりたくありません。年間10万例の手術であっても、わたしは臆病ですから。(笑)
<帝人との経緯(いきさつ)>
英国のIRS社という染色体画像解析装置製造企業から染色体画像解析装置を3台購入したのは1989年でした。ニコンの子会社のニレコ社とマジスキャンの画像解析用ミニコンを使って開発を2年くらいやっていました。染色体課とラボ副所長が担当してました。目標は1時間当たり6検体の処理能力でしたが1検体しか処理できません。副所長案件は他にもあって、RI部で固定資産台帳に2000万円で載っていた特注案件の機器がブルーシートで覆われ使われていないので、現場の担当者に確認すると、使い物にならないとのこと。どうやら副所長は機器やシステムにまったく専門知識がないことがわかりました。それで、ニレコ社との染色体画像解析装置開発は中止しました。当時は購買課の平社員ですが、経理担当役員のI岩本さんと管理部門担当専務の谷口さんのバックアップがあったので権限は大きかったのです。システムや機械のことがわかる人材が本社部門にはいませんでしたから。そういうタイミングの時に検査管理部の機器担当の尾形さんが、虎の門病院へ英国製の染色体画像解析装置が導入されているので、見学に行こうと誘ってくれたのです。染色体課長の石原さんと三人でサンプル5枚を持参してテストさせてもらいました。25分かかりませんでした。5分/検体で処理できます。あとでIRSのシステムエンジニアに確認しましたが、入り口が違っていました。CCDカメラでデータ入力してました。フィルムではありませんでした。CCDカメラでインプットするとデジアナ変換が不要なのでデータ処理が楽なのです。見るからに自作のボードコンピュータがつながれていました。自作のボードコンピュータの原価はせいぜい200万円です。産業用エレクトロニクスの輸入商社で、マルチチャンネルのマイクロ波計測器の開発をしたときに、担当エンジニアと話して開発過程をモニタリングしてました。だから、カバーを外してみただけで、原価の見当がつきます。2000万円の当時最高レベルの画像解析用ミニコンを使う必要はなかったのです。キーはCCDカメラでした。ニレコ社がフィルムとレンズにこだわっていたので、続けても開発は無理でした。
輸入総代理店が日本電子輸入販売でした。営業担当のSさんに3台買うから1台はバックアップ用でおいてくれるようにIRSに依頼してもらいました。5000万円の装置ですが、高性能のレーザープリンタを含めても原価が1000万円程度なのははっきりしてましたし、台数を多くすれば原価は劇的に下がるので、提案を一つしました。BMLへ販売しろと。SRLで導入したと話していい、その気があるなら、SRLへ話して見学させてもらうこともできるかもしれないと言え、ただし、値引きは1円もするな、必ず値引けと言ってくるが、IRSの経営方針で無理ですと突っぱねたら、すぐに定価で買うから。狙い通り首尾よく言ったようです。S本さんゴルフが大好きな人でした。うまくいったので、セントアンドリュースでゴルフしましょう、会社の了解が取れてますとお誘い。IRSはエジンバラ大学と共同開発しているので、セントアンドリュースでゴルフできるのです。(笑) せっかくのお誘いでしたがお断りしました。S本さんしばらくしょげてました。
S本さんは他に帝人と東北の臨床検査センターから引き合いがあると言ってました。帝人の臨床検査子会社は業績が悪いので、売上を増やすために導入するのでしょうが、染色体検査はSRLが市場の80%を握っているので、割り込むのは不可能。業績はさらに悪化するだろうと判断してました。東北の会社も事情は似たようなものと考えてました。流行らないフランス料理のレストランが売上増のためにメニューを増やして、高級食材の在庫を増やして廃棄損が増えて経営破綻するようなものです。経営が下手な人が社長をしていることはそれだけの情報でわかりました。こういう企業は社長が一生懸命に仕事をすればするほど業績は悪化します。いずれチャンスがあれば、買収しようと学術開発本部へ異動したころ(1990年)に考えてました。
意外とチャンスは早くやってきました。東北の臨床検査センターへの資本提携交渉を関係会社管理部へ異動して1993年3月に担当することになりました。1億円の出資交渉と業務提携をまとめて6月1日付で経営管理室担当取締役で出向しています。SRLのルールでは本当は関係会社の役員出向はできません。本社課長職は関係会社の部長職なのです。創業社長の特命案件だったので、買収交渉を担当した金沢の臨床検査会社と東北の臨床検査会社のどちらでも好きな方を選びなさいと言われて、楽ではない方を選びました。先方の社長の意向が取締役での出向で、創業社長の特命案件だったので、人事部長も異論は言えません、例外扱いになっていました。仕事の指示と報告はすべて藤田社長直接でした。だから、組織上どの部門に属していたかを知るのは15か月後の出向解除の時でした。
帝人との治験合弁会社の経営を担当することになったのは1996年の11月です。社長の近藤さんから、次の4課題を3年でクリアするように言われました。情報を収集・分析していれば仕事のチャンスは数年で巡ってきます。
①期限通りの設立スタート
②赤字会社の黒字化
③資本提携解消・子会社化
④帝人臨床検査子会社の買収
近藤さんが社長になって2年が過ぎたころです、この四課題がどれほど無茶なのかわかっていたのでしょう。経営の全権を委任してくれたら期限通り3年で四つとも達成は約束しますと伝えました。近藤さん迷いなく即答、「任せる」、他に選択肢はありません。たまたまプロジェクトのミーティングに初参加するためSRL本社へ出向いたときにエレベータの前で出かけようとしていた近藤さんと鉢合わせしたので、「聞いているか?」「そのためのプロジェクトに参加するために来ました」と立ち話。2分くらいで課題の確認と全権委任が決まりました。それで、暗礁に乗り上げた合弁会社立ち上げプロジェクトに(11月末から割り込み)参加してます。1月末までに本社の場所を決めて会社の体裁を整えスタートです、3か月しかありませんでした。PERTチャートをすぐに作ってクリティカルパスを確認して次々に手を打ちました。
そういう仕事をしながら、経理担当役員へS本を合弁会社へ異動させてもらいたいと伝えたら、「自分でできるでしょ?」と愛想のない返事、入社時の上司のM井さんが経理課長から取締役になっていました。SRLの近藤さんから任されたのは合弁会社の経理業務ではなくて経営、近藤さんから伝わってませんでしたが、近藤社長から全権委任を受けているので、経理担当役員には拒否権なしです。経理やシステム開発が仕事だと勘違いしていたようです。経理部門出身者に子会社の経営を任せる親会社の社長はいないでしょう。経理・財務以外の仕事はできませんから。
これらの課題の③と④は1990年から自分の手でやるつもりでしたから、願ったりかなったりでした。
帝人の臨床検査子会社は染色体画像解析装置の導入でさらに累積赤字が膨らみ、安居社長からM専務とI常務が、臨床検査子会社をどうするのか処理を迫られていました。相手側の事情も交渉を後押しする力になりました。
臨床検査子会社へはH本さんが社長。本社では部長職で、専務や常務とは同じ一ツ橋閥でした。一ツ橋で本社部長職に臨床検査子会社の経営は無理なのです。H本さん、治験合弁会社がスタートすると、SRLでやっていた治験分の検査が全部帝人臨床検査子会社へ移管されると勘違いしてました。それを帝人本社の常務と専務に説明していたことがわかりました。合弁会社の社長は帝人側のH本さんが兼務でした。
毎月行われる取締役会には非常勤役員としてI常務が来てました。SRL側は営業常務のツーさんとラボ担当役員のH泉さんでした。子会社常務はSRL側、わたしは管理部門担当部長でしたが、SRL社長の近藤さんから、経営の全権を委ねられていました。四課題は自由にやらしてもらえないと約束できない、経営を全権委任してくれるなら3年で課題全部をクリアする旨告げました。近藤さん即答でした。
数か月がたち、帝人の臨床検査子会社の業績が予定通り改善しないので、H本社長の話を聴いていてもよくわからないので、すまないが帝人本社に来てM専務とわたしへもう一度説明してくれないかと帝人本社のI常務から申し入れがあり、日比谷公園近くの帝人本社飯野ビルへ出向きました。データ管理事業へシフトすることで黒字化することを損益シミュレーションと事業分野のマトリックスで説明し、検査の移管がないことも具体的に説明しました。この会議の席上で、H本社長は震えていました。本社役付役員二人の前での業績見通しの説明はストレスが強くかかっていることがよくわかりました。
治験検査の移管は無理なのです。全世界の大手製薬メーカーはすべて取引先ですが、SRLでは精度管理基準(CAPライセンス)は世界で一番厳しいものを採用していますが、帝人の臨床検査子会社はそうではありませんから、SRLから帝人検査ラボへの検査移管は不可能なのです。逆なら問題ありません。臨床検査業界では当たり前の常識ですが、帝人羽村ラボの社長はご存じなかった。丁寧に説明したら、「H本の言うことがさっぱりわからなかった、ようやくわかった、やはり餅は餅屋ですね」そうおっしゃった。H本さん面目丸つぶれでしたが、このままやっても帝人臨床検査子会社の赤字は膨らむばかりということは帝人本社役員のお二人にはよくわかったと思います。あとは処理案についてわたしと交渉するだけ。3か月目くらいのこの会議で大筋に目途がついてしまいました。後は説明した以上の業績改善をして、そのデータをもとに交渉すればいいだけでした。
帝人の臨床検査子会社とSRLのスタートはほぼ一緒でした。そん時で三十数年の歴史がありました。売上規模は1:15です。一橋大卒の本社エリートを社長として何人送り込んでも、臨床検査子会社の再建は無理でした。業界の常識を知らない、検査の専門知識がない、検査機器や自動化の専門知識も経験もない、これではマネジメントに手も足も出せるはずがありません。
帝人の社長が東大出の安居さんに変わりました。一ツ橋閥のM専務とI川専務に遠慮はありませんから、臨床検査子会社の処理を期限をつけて迫りました。お二人困っていました。こういう情報はH本合弁会社社長を外して帝人本社のI川専務と直接交渉し始める少し前に薬学博士のKさんが、I川専務の意向を受けて帝人側の事情をつまびらかに話してくれましたので、やりやすかったのです。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で話をしていたので、ある時から正直に話してくれました。帝人の羽村ラボの見学もさせてもらいました。1時間ほど見学しただけで、このラボはもう駄目だと判断しました。治験検査専用ラボと言ってもいいくらい偏っていました。量が少ないので大規模な自動化やシステム化は無理でした。海外の製薬メーカーからの八王子ラボツアーの対応をしてたことがあるので、SRL八王子ラボの自動化と比較できました。一般検査市場へ出るしかなかったのですが、帝人は医薬品事業を拡大するために臨床検査事業を始めたので、市場が小さい治験検査に特化してしまいました。それがそもそも間違いのもとでした。
I川常務から、帝人臨床検査子会社を治験合弁会社の子会社にするので、両方の社長を兼務してほしいと要請がありました。SRL近藤社長に話をつなぎましたがノーでした。合弁会社2年目に課長職から次長職へ昇格して治験合弁会社の取締役に就任してますが、SRLのルールではSRL本社の次長職が子会社社長をやるわけにはいかないのです。2年続けて昇格というのも前例がありません。
それで、申し出をお断りして、③と④をI常務へ提案して、飲んでもらいました。
「合弁会社をやると決まって業績が振るわず後始末は帝人側でやってきた、こんなケースは初めてです」
そう言いながら笑って、OKしてくれました。M専務とI川常務は安居社長から期限付きで臨床検査子会社の整理あるいは黒字債券を迫られていたのですから、「渡りに舟」でした。ノイローゼになっていた合弁会社のH本社長は帝人本社勤務へ戻ることになりました。
「ebisuさん、H本に傷がつかないように処遇するが、了解してくれるかね」
「異論はありません、精神がだいぶ参っているようですから、楽な仕事につけてやってください」
帝人本社の一ツ橋閥は面倒見がいい。H本さんは、帝人で問題になっていた臨床検査子会社事業から撤退という仕事を首尾よくやったぐらいの評価はしたでしょう。I川常務、そのあたりは情の人でした。
帝人臨床検査子会社の課長職の年収はSRLの半分に満たなかった。社員も同じくらいの比率でした。そんな給与格差の大きい両社からの寄せ集めでしたが、年収は1年もするうちにお互いの知るところとなります。
SRL子会社になり、転籍するときにはSRL並の給料を保障してやろうと思っていました。それには経営改革をするために経営の全権委任を四課題を果たした後にも持たなければできません。しかし、近藤さんの返事はノーでした。現在の職位に関しては過去の業績の結果だから、そういうわけにはいかないとのこと。カチンと来ました。
経理部で入社して、経営統合システム開発では経理チームが一番遅れており、何も手がついていませんでした。原価計算システムチーム、購買在庫管理システムチーム、販売会計システムチームは1年前にスタートしてました。一番遅れていた財務会計システムと買掛金支払い管理システム、投資・固定資産管理システムを8か月で稼働させています。並行して予算編成と予算管理業務も統括してました。このときに、経理担当や役員から管理会計課を新設し課長職へ昇格願いが人事部へ出されましたが、人事部長が拒否してます。理由は上場準備要員としては一番最後に入社したので、まだ昇格が速すぎるという理由でしたね。2年目には検査試薬のコストカット20%を提案して、購買課長が不可能だというので、専務がプロジェクトをつくるから言い出しっぺのお前がやれというので、それまでの卸業者相手の価格交渉を止めて、製薬メーカと直接交渉に切り換えました。2か月間だけの約束で購買課へ出向して、予定通り16億円のコストカットを実現しました。それから半年後、ラボの通勤バスで親会社の富士レビオの元経理部長でSRLの監査役をしているT口さんと一緒になり、「ebisuさん今どこにいるの?」「ラボの購買です」と伝えると、「そうか購買部長してるんだ」、「いいえ平社員です」というと絶句してました。富士レビオが上場したときの経理部長ですから、たいへんさがわかっていました。それを8か月で稼働させるというのは「神業」でした。見るべき人はちゃんと見てくれています。とっても励みになりました。
近藤さんの言「現在の職位は過去の業績の結果ですから」というのは承服しがたい、それに社長でなければ、経営改革を思った通りに実現はできません。SRLから転籍する社員の給料も下げざるを得なくなります。我慢のならないことでした。半年以上前から、首都圏の特例許可老人病院が病棟の建て替えをするので常務理事で来てほしいとお誘いを受けていたので、病院を核にシームレスな老人医療と介護事業を展開してみる気になってしまいました。
SRLを退職してから十数年たって、故郷で小さな私塾をやっていたときに、近藤さん、根室まで遊びに来てくれました。養老牛温泉で、地域医療と教育の地域格差について語り明かしました。どちらかというと感情を排して論理で割り切るタイプの経営者でしたが、ロジックで割り切るだけの人でもありませんでした。3年弱の間、楽しい仕事を回してもらったと思います。
2024-04-12 19:06
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