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#654 ピカドン:三宅一生氏被爆体験について語る July 16, 2009 [22. 人物シリーズ]

ピカドン:三宅一生氏被爆体験について語る
 
  今日(7月15日)は東京も根室もお盆の中日である。デザイナーの三宅一生(71)さんが自らの被爆体験についてニューヨークタイムズに寄稿した。日本時間でお盆の中日を寄稿日に選んだのは死者への追悼の意もあったのだろうか。だとしたら、やはり渋い味のあるいいデザイナーだ。

 世界で活躍するデザイナーの三宅一生さん(71)が、14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿し、これまで多くを語ってこなかった自らの原爆体験に触れながら、オバマ米大統領に広島を訪れるよう呼びかけた。オバマ氏が「核兵器のない世界」を訴えた4月のプラハでの演説に触発されたという。

 寄稿によると、三宅さんは広島にいた7歳の時に閃光(せんこう)を目撃。黒い雲があがり、人々が逃げまどう光景が「目を閉じれば今も浮かぶ」。母親は被爆の影響で、3年もたたないうちに亡くなった。

 一方で「原爆を経験したデザイナー」といったレッテルを張られるのを嫌い、「広島について聞かれることにはずっと抵抗があった」という。

 しかし、オバマ氏が「プラハ演説」で核廃絶に言及したことが「心の奥深くに埋もれさせていたものを、突き動かした」といい、「閃光を経験した一人として発言すべきである」と考えたという。
朝日新聞社ニュースより
  
http://www.asahi.com/national/update/0715/TKY200907150116.html

 オバマ大統領の核廃絶発言に触発されて、原爆を目撃した者として語る義務があることに気がついたという。
 三宅氏は若くエネルギッシュだ。デザイナーとして世界的にも著名な彼が自分に負わされた仕事に71歳になって気がつく。そして素直に自分の義務を果たそうと行動し始める。ナイス・ガイである。あの優しいまなざしは64年前の7歳のときに原爆の閃光を目撃していたのだ。

 数あるデザイナー・ブランドの中で私はイッセイ・ミヤケが一番気に入っている。手持ちのネクタイの4本に1本はイッセイ・ミヤケだ。ストライプを基調にした柄が多い。もちろんそのバリエーションにイッセイ・ミヤケらしさが宿っている。色と柄に品があるのが特徴だろう。少々奇抜な色使いをしても凛とした品のある不思議なブランドである。デザイナー自身の人間性や人生観、価値観とどこかでつながっているのだろうか?

 私は根室市民は原爆には関係がないと思っていた。友人のお父さんが亡くなり、葬儀に参列したときに経歴が読み上げられた。衛生兵をしていて原爆投下直後にたまたま広島にいて医療活動に従事した。幸い原爆症が出ることはなかったが、いつそうなっても不思議ではなかったようだ。
 友人の口からそういう話しを聞いたことは一度もない。彼の母親からはいろいろな話しを聞いた記憶があるがやはり夫の被爆に関わる話しを聞いた記憶がない。二人の息子にすらもほとんど話さなかったようだ。

 私の父親は秘密部隊である高千穂降下部隊員だった。通信兵だったときに、「命のいらない者集まれ」と募集があった。三男だったオヤジは「ぱっと散りましょ潔く」と応募したという。家を継ぐ長男は落下傘部隊に応募資格がなかった。
 実験データもない中での30㌔の完全武装での降下訓練は人体実験に近い危険なものだった。体重80kgの兵が30㎏の装備をつけて降下が可能か、やってみなければわからない。体重70㎏の者は無事だった。次は80・・・そうやってパラシュート部隊は実験データを積み上げてきた。
 「加藤隼戦闘隊」という戦時中の戦意高揚映画に降下訓練中の「高千穂降下部隊」が映っているが、地元釧路で上演されたときに地元のデパート・マルサンツルヤにオヤジの大写しの写真がかかり、兄弟姉妹たちはそのときに知った。それまでは家族にも秘密だったのである。
 九州新田原の落下傘部隊訓練の話しを面白おかしく子供たちに話して聞かせることがあった。皆を大笑いさせながら面白おかしい話しに仕立てて語った。
 しかし、戦後自衛隊からのパラシュート部隊の教官での誘いが何度かあったが、応ずることはなかった。「~空挺団」はエリート部隊のひとつだった。
 「戦争はもうたくさんだ」と語り、傷痍軍人が物乞いをする姿を見ると、目を背けた。自分も降下訓練で右腕を複雑骨折して、「傷痍軍人」となり九州の温泉で療養中に戦後を迎えた。
 戦争で一緒に命がけの訓練をした戦友たちのほとんどが亡くなっていた。「結婚もせずに、子供もつくらずに皆逝った、俺は幸せだ」、空を見上げながら、何度かつぶやいた。
 戦後GHQから秘密部隊に所属していた者への追求があることを恐れて、たくさんあった写真を数枚残して焼いた。どうしても焼けなかった数枚だけが残されている。
 戦争で死なずに生き残った者たちも、それぞれの思いを胸に戦後を生き抜いてきた。オヤジは戦後まもなく根室に来て、根室に根を張り、根室の土となった。原爆投下後の広島で医療活動に従事した友人のお父さんも根室の土となっている。
 根室は新盆、7月13日からお盆である。合掌。

 広島といえば仕事で2度だけ訪れたことがあった。某医師会検査センターの経営分析とコンサル業務だった。「げんばく」という言葉を使ってはいけない、原爆に関わる発言もしてはいけないと事前に社内の担当者から説明を受けていた。仕事で行くのだからそのような話しをするわけもないのだが、土地柄、話題には気をつけるようにとの配慮だったのだろう。
 仕事は短時間にスマートに終わった。同行した相棒がよく仕事のできる男だった。
 用件が済んで皆と飲みに行くときに、8時だというのに明るいので驚いた記憶がある。なるほど広島は西に位置していた。夕陽が沈むのが遅いだけではなかった、朝陽が昇るのも遅かったのである。同じ日本国なのに、朝夕の時間の感覚が根室とはまるで違った。
 現地へ行って観なければわからないこともある。

 2009年7月16日 ebisu-blog#654
  総閲覧数:129,445/598 days(7月16日0時25分)
 

<オバマ大統領広島訪問決定間近>2016年4月23日追記
 オバマ大統領の広島訪問が決定が近いというニュースが流れた。三宅一生氏は大喜びだろう。

*朝日デジタルニュース
http://www.asahi.com/articles/ASJ4R51MHJ4RUHBI00S.html

 オバマ米大統領が、5月下旬の主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)の際に広島を訪問するかについて、米政府はオバマ氏が25日に欧州歴訪から帰国した後に政権内で協議し、早ければ月内にも最終判断する。米政府は、広島訪問は実現可能との見方を固めつつも、複数の米政府高官は「まだ決まっていない」としている。


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