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対談 弁天島遺跡発掘130年〈中〉(北海道新聞) [21. 北方領土]

  2,008年6月19日   ebisu-blog#207 
  総閲覧数: 17,207/205 days (6月19日00時00分) 

 対談 弁天島遺跡発掘130年〈中〉
  オホーツク文化と根室・千島
   起 源
    民族移動 背景に経済的理由
 サハリンで形成、南下か 
 戦前、北大の児玉作左衛門教授がオホーツク人はアリュートだという説を唱えた。この説が真ならばアリューシャンからわたってきたはずだから、北千島の遺跡の方が北海道よりも古くなければなならない。ところが遺物は北千島の方がサハリンや北海道よりも新しい。だから戦後になってこの説は否定された。
 古い時代のアイヌ民族説、ウリチ民族説(アムール川流域の民族)があるが、菊池さんはニブフ民族説である。ニブフは北方系少数民族60のうちのひとつだ。北サハリンやアムール川河口域でオホーツク文化初期の土器が出土していないことから、ウリチ民族説は無理があるという判断だろうか。
 北構さんの説明をそのまま引用する。
「根室半島ではオホーツ側の弁天島から温根元までオホーツク文化の遺跡が残っているが、納沙布岬をまわった太平洋側では見つかっていません。網走周辺の遺跡に比べると、弁天島では金属器などの出土も少ない。オホーツク文化の主流は中ごろから千島に向かったようです」

 北構さんはオホーツク文化へ仏教の影響を指摘している。(セイウチ)牙製夫人像の腕の組み方のなかに北魏経由で仏教の影響をみる。弁天島でも牙製婦人像とそれに似た遺物が出土しているという。
 北構さんが中学2年生のときに見つけた針入れに彫られた鯨を獲る人々についての司会者からの質問に応えて次のように説明している。
 捕鯨の技術はあったが、当時の船の性能から考えてそう頻繁に鯨漁があったとは考えられない。食事は地場の魚類が中心で、犬や豚も食べていたことがわかっている。同時代で考えると、捕鯨の技術は他の民族ではあまり見られなかった。

 対談をまとめると、オホーツク文化はサハリンから南下して北海道オホーツク海沿岸へと渡り、その後、千島へ移動していったことまではこれまでの遺跡の発掘から言える。しかしその起源についてはよくわかっていない。戦前のアリュート(アリューシャン列島に住む人々)という説は北千島のオホーツク文化の遺跡が北海道やサハリンよりも新しいことから否定された。アムール川河口部にはオホーツク文化の土器が出土しないことからアムール川流域の民族であるウルチ民族説も無理がある。北方系少数民族は60あるが、菊池さんはオホーツク文化の起源をそのなかのニブフ民族に求めている。

 ネットで調べると、ロシアの北方系少数民族ニブフは1990年代にニブフ語を話すものが絶えたようだ。60ある北方系少数民族はみなニブフと同じような道を歩んでいるのだろうか。ロシアがユーラシア大陸を東進した陰で、多くの少数民族の文化が失われていった。自然と調和して暮らすという縄文文化と共通項をもった多数の文化が消滅してしまったか、現在進行形で消滅しつつある。
 米国流の「似非グローバリゼーション」で文化は単一化に向かっている。生態系の場合は、単一化は多くの生物種の絶滅を意味する。食物連鎖の頂点にいる人類は多くの生物種を絶滅させることで、自らが依存する多様な食糧を失ってゆく。そして生き残った生物種も絶滅へと向かわざるを得ない。IPCCの議論と温暖化防止に関する国際的な話し合いの現状を見ても、人類は近い将来その数を大きく減らすことになるだろう。人類が絶滅に近い状態になれば自然と共生する文化と生態系の構築を始めざるをえない。
 文化もまた生態系と似た側面をもっており、多種多様な文化が並存してこそ人類は存在できると考えると文化の絶滅=単一化は人類の絶滅を招来する危険性がありはしないだろうか。

 日本政府は最近ようやくアイヌ民族の先住権を認めた。アイヌ文化は縄文文化を色濃く残している。言葉と生活様式を次の世代へと伝え残す努力がなされなければならない。
 オホーツク文化とは何だったのか、その起源はどこにあり、どうして消えていったのかを知ることは、われわれがどこから来てどこへ行こうとしているのかを知るためにも必要なことである。
 地球温暖化で人類の絶滅が現実問題となりつつあるが、オホーツク文化の研究は森林を破壊する西欧流の文化の限界を打ち破る智慧をわたしたちに与えてくれる可能性がある。森の恵みを戴きながら、森と共に生きる文化の智慧がオホーツク文化に一杯詰まっている可能性がある。生産力の野放図な拡大、経済の拡大、人口の増大とは反対のベクトルをもつ文化への扉を開ける鍵であるかもしれない。オホーツク文化とは3000年にわたって自然と調和しながら存続してきた文化であることを忘れてはならない。アイヌ文化も同根だろう。
 こういう文化の中に蓄積されている自然との調和のための智慧や技術を失ってはならない。地球温暖化を防止し、人類が生き延びるために必要な生活の智慧や技術がこのような文化の中に大切に保存され続けていることを忘れてはならない。根室に住むわたしたち自身がオホーツク文化のことを知らないでどうする。

 《北方4島を日本が領有する意味を問う》
 ここに至って北方領土問題をもう一度考え直してみたい。ロシアが領有していようと日本が領有していようと、北方4島の自然は破壊される。日本が領有していたらもっと加速的に自然破壊が進んだろう。水産資源も根室沿岸部と同じように獲り尽くしてしまっただろう。
 いま、ロシアは豊富なガスや石油資源を手中にし、巨額の開発資金をもっている。それを北方4島へも投下しつつある。今までとはスケールの違う自然破壊が行われ、4島付近での生産力の飛躍的な増大へと向かいつつある。自然から資源を収奪しつくす時代が始まったと見てよい。
 北方4島は日本固有の領土であることは論を待たない。日本が北方4島を領有することの意味を今一度考えるべきだろう。北方4島に住み、何をすべきか、何をしてはならぬのかオホーツク文化との関わりの中でそれが明示できれば、北方領土返還運動は国内はもとより国際的な共感を呼ぶだろう。北方領土返還運動は明確な戦略をもつべきだ。
 
明治・大正時代の日本人は国際的に尊敬された。高い倫理水準とそれに基づく具体的な行動があったからだろう。未来の国際的な舞台では、倫理水準の高さと実践が日本人の武器となるだろう。経済学的な観点からも言いうる。その点については論をあらためて別カテゴリーで展開することになる。日本人の労働概念について経済学的な分析をしようとだけ思っていたが、倫理規範との関係であたらしい経済学が広がりをもちそうな予感がする。


対談 弁天島遺跡発掘130年〈上〉(北海道新聞) [21. 北方領土]

  2,008年6月18日   ebisu-blog#206 
  総閲覧数: 17,063/205 days (6月18日00時15分) 

 対談 弁天島遺跡発掘130年〈上〉
  オホーツク文化と根室・千島
  玄関口
    貝塚から縄文ない土器発掘
 日本人とは議論に一石
写真のキャプション①弁天島について話し合う北構さん(右)と菊池さん
②根室港の入り口に浮かぶ弁天島。長さ約400㍍、幅120㍍程度の小島だが、6世紀ごろから12世紀ごろにかけてオホーツク人が住み、住居跡が残っている。

きたかまえ・やすお:根室市生まれ。国学院大卒。少年時代から考古学に関心があり、中学2年の1932年に
捕鯨図が掘られた鳥骨製の針入れを弁天島で発見。町議、市議を務めたあと、55歳で学位取得を目指し、69歳で文学博士。著書に「古代蝦夷の研究」他。北地文化研究会代表。根室印刷社長。89歳。
きくち・としひこ:群馬県伊勢崎氏生まれ。北大文学部卒。2006年まで北大大学院教授(東洋史)を務め、名誉教授。道内各地でオホーツク文化の調査に参加したほか、サハリン、大陸での調査、研究も多い。主な著書に「北東アジア古代文化の研究」「環オホーツク海古代文化の研究」。65歳。


 根室の考古学者北構保男氏と北大名誉教授の菊池俊彦氏の三回にわたる対談の初回が北海道新聞夕刊に載った。6段組の特集記事で、対談するお二人の写真と弁天島の写真が左中央の段(2~4段目)に入っている。お二人ともごつい指をしている。発掘調査はそれほど力仕事ではないように理解しているが、写真に写っているお二人の指をみるとそうではないのかもしれない。このスナップを撮ったカメラマンは腕が良い。写真からお二人の楽しそうな声が聞こえてくるような一瞬を捉えている。
 地元にお住まいでない方は北海道新聞のこの記事を読む機会がないかもしれないので、対談の大筋を以下にまとめておく。できれば本文を読んで欲しい。

 エドワード・モースが大森貝塚を発掘した翌年に火山地震学者のミルンが北千島調査の途中、弁天島を調査した経緯を推測し、ミルンは函館を本拠地にしていた貿易商で博物学者のトーマス・ブラキストンから弁天島に関する情報を聞いたのだろうと北構さんは話している。ブラキストンは西別川の鮭などを買いに何度か根室を訪れていたとある。
 ミルン以降もいろいろな学者が弁天島を訪れているが、人種論的な関心が学者を動かしたと、当時の学会の研究動向に言及している。サハリン、千島、根室周辺は他の地域とは違う文化があったという認識が浸透してきたころだったという。いまではオホーツク文化圏という独自の文化圏が想定されている。
 弁天島の土器には縄文がない、それを作ったのは誰か。日本人の起源論である。原日本人はアイヌ民族であるのか、日本民族そのものかという議論がなされた。色丹や国後、北千島へも関心が広がり、弁天島はその出発点、玄関口であった。日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、優秀な日本人の起源に関する学問的興味が沸き立ったという時代背景がある。そういう中で、弁天島は研究活動の糸口になった。
 北千島で戦前、函館生まれの研究者馬場脩氏による発掘調査が5回行われたが、1937年4回目のシュムシュ島と翌年5回目のパラムシル島での調査に北構さんが参加している。國學院大學の予科生の頃のことだという。菊池さんは「北千島で発掘したことのある日本人研究者はごく限られていて、今では知る人もあまりいません。貴重な経験です」と論評している。
 
 初回の対談はこのような内容である。大森貝塚のエドワード・モースはたぶん中学校の教科書にも載っているのだろう。しかし、その翌年にミルンによって発掘調査がなされた弁天島は社会科の教師ですら知る人は少ないだろう。いまでは遺跡から発掘された骨を遺伝子解析することによって、原日本人の遺伝子が特定されているようだ。YAP遺伝子というらしい。いくつかタイプがあるので関心のある人は検索してみるとよい。南方起源ではなくて北方起源のようだ。アメリカインディアンやペルーのマチュピチュに住む人々などが同型の遺伝子に属している。
 縄文時代の土器に縄目の文様がないというのはどういうことだろう。文化圏が違うということのほかに、余暇の時間数や生活様式にも違いがあるのだろう。縄文土器の文化圏とオホーツク文化圏は土器に関しては違っている。これは事実だが解釈はいくつか考えられる。
  縄文式土器の文様は縄でつけられた。ではその縄は何を材料に作られたか。稲わらだろう。縄文時代も稲作があったということだ。ただ、平地で大々的にやったのではなく、山間部に小さな水田、たとえば棚田のような水田が作られたか、小規模な陸稲だったのだろう。縄文時代は人口が少なく、天然資源が豊富だった。小学校の頃温根沼で潮干狩りをしてアサリを獲ったことがあるが、砂の4分の一ほどもあるのでは驚いた。東京郊外奥多摩の倉戸山では秋になると谷を埋めるほどの胡桃やドングリがあった。だから、縄文時代の稲作は主食料ではなく、趣味的な補助食料の生産という位置づけだったろう。弥生時代と違って食うのに困る時代でななかったようだ。
 オホーツク海沿岸部は1万年前も今も内陸に比べて気温が低い。稲作は不可能だから、オホーツク文化圏の土器に縄目の文様がないのはあたりまえのことだ。そして漁労用に使う縄は水に強いものでなくてはならず、稲わらが材料ではありえない。貴重品だから消耗品として土器の文様につかえるわけもない。同じ縄文文化圏に属していても稲作が不可能なオホーツク文化圏の土器に縄目の文様のないことはよく考えてみれば理屈の上からも当然の帰結だろう。

 それにしてもオホーツク文化圏はいつ消滅してしまったのだろうか。考古学的な調査でそのあたりははっきりしているのだろうと思う。
 オホーツク人が住み、ついでアイヌが住み、和人が住む。オホーツク人からアイヌへの交代期にも争いがあったのだろうか?その土地に住む人々がいなくなる裏には、武力を背景とした争いがある。
 北方領土の島々と北海道オホーツク海沿岸部はもともと同一の文化圏をなしていた。それが近代国家の成立と共にロシアと日本に引き裂かれてしまう。今後100年を考えてみて、環オホーツク海というスケールで共通の文化圏が再構築される可能性はあるのだろうか。
 東ヨーロッパのロシアとオホーツク人は人種的にも文化的にも無関係の存在だろう。お二人の対談を拝聴していると、北方領土の島々と北海道オホーツク海沿岸部は原日本人を探索する上でも重要な地域であるらしい。環オホーツク文化圏とは何なのか、日本人の起源とどのように関わっているのか。日ロの共同調査は可能なのだろうか。
 それにしても、歴史の旅に出てみると、近代国家の成立と固有の文化圏の破壊は車の両輪のように動いてきたことに気づかされる。こうした現象はオホーツク文化圏に限らない、他の文化圏にも普遍的な広がりをもっている。北方領土問題は世界各地の国境紛争地帯と共通項を有しているといえる。
 弁天島を採り上げてあと2回、〈中〉と〈下〉の対談では何が飛び出すのだろう。

「知床学のすすめ」菊池俊彦
  この中に、北構さん所蔵の「鳥骨製針入れ」の写真が掲載されている。
http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition22/shiretoko.html