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対談 弁天島遺跡発掘130年〈上〉(北海道新聞) [21. 北方領土]

  2,008年6月18日   ebisu-blog#206 
  総閲覧数: 17,063/205 days (6月18日00時15分) 

 対談 弁天島遺跡発掘130年〈上〉
  オホーツク文化と根室・千島
  玄関口
    貝塚から縄文ない土器発掘
 日本人とは議論に一石
写真のキャプション①弁天島について話し合う北構さん(右)と菊池さん
②根室港の入り口に浮かぶ弁天島。長さ約400㍍、幅120㍍程度の小島だが、6世紀ごろから12世紀ごろにかけてオホーツク人が住み、住居跡が残っている。

きたかまえ・やすお:根室市生まれ。国学院大卒。少年時代から考古学に関心があり、中学2年の1932年に
捕鯨図が掘られた鳥骨製の針入れを弁天島で発見。町議、市議を務めたあと、55歳で学位取得を目指し、69歳で文学博士。著書に「古代蝦夷の研究」他。北地文化研究会代表。根室印刷社長。89歳。
きくち・としひこ:群馬県伊勢崎氏生まれ。北大文学部卒。2006年まで北大大学院教授(東洋史)を務め、名誉教授。道内各地でオホーツク文化の調査に参加したほか、サハリン、大陸での調査、研究も多い。主な著書に「北東アジア古代文化の研究」「環オホーツク海古代文化の研究」。65歳。


 根室の考古学者北構保男氏と北大名誉教授の菊池俊彦氏の三回にわたる対談の初回が北海道新聞夕刊に載った。6段組の特集記事で、対談するお二人の写真と弁天島の写真が左中央の段(2~4段目)に入っている。お二人ともごつい指をしている。発掘調査はそれほど力仕事ではないように理解しているが、写真に写っているお二人の指をみるとそうではないのかもしれない。このスナップを撮ったカメラマンは腕が良い。写真からお二人の楽しそうな声が聞こえてくるような一瞬を捉えている。
 地元にお住まいでない方は北海道新聞のこの記事を読む機会がないかもしれないので、対談の大筋を以下にまとめておく。できれば本文を読んで欲しい。

 エドワード・モースが大森貝塚を発掘した翌年に火山地震学者のミルンが北千島調査の途中、弁天島を調査した経緯を推測し、ミルンは函館を本拠地にしていた貿易商で博物学者のトーマス・ブラキストンから弁天島に関する情報を聞いたのだろうと北構さんは話している。ブラキストンは西別川の鮭などを買いに何度か根室を訪れていたとある。
 ミルン以降もいろいろな学者が弁天島を訪れているが、人種論的な関心が学者を動かしたと、当時の学会の研究動向に言及している。サハリン、千島、根室周辺は他の地域とは違う文化があったという認識が浸透してきたころだったという。いまではオホーツク文化圏という独自の文化圏が想定されている。
 弁天島の土器には縄文がない、それを作ったのは誰か。日本人の起源論である。原日本人はアイヌ民族であるのか、日本民族そのものかという議論がなされた。色丹や国後、北千島へも関心が広がり、弁天島はその出発点、玄関口であった。日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、優秀な日本人の起源に関する学問的興味が沸き立ったという時代背景がある。そういう中で、弁天島は研究活動の糸口になった。
 北千島で戦前、函館生まれの研究者馬場脩氏による発掘調査が5回行われたが、1937年4回目のシュムシュ島と翌年5回目のパラムシル島での調査に北構さんが参加している。國學院大學の予科生の頃のことだという。菊池さんは「北千島で発掘したことのある日本人研究者はごく限られていて、今では知る人もあまりいません。貴重な経験です」と論評している。
 
 初回の対談はこのような内容である。大森貝塚のエドワード・モースはたぶん中学校の教科書にも載っているのだろう。しかし、その翌年にミルンによって発掘調査がなされた弁天島は社会科の教師ですら知る人は少ないだろう。いまでは遺跡から発掘された骨を遺伝子解析することによって、原日本人の遺伝子が特定されているようだ。YAP遺伝子というらしい。いくつかタイプがあるので関心のある人は検索してみるとよい。南方起源ではなくて北方起源のようだ。アメリカインディアンやペルーのマチュピチュに住む人々などが同型の遺伝子に属している。
 縄文時代の土器に縄目の文様がないというのはどういうことだろう。文化圏が違うということのほかに、余暇の時間数や生活様式にも違いがあるのだろう。縄文土器の文化圏とオホーツク文化圏は土器に関しては違っている。これは事実だが解釈はいくつか考えられる。
  縄文式土器の文様は縄でつけられた。ではその縄は何を材料に作られたか。稲わらだろう。縄文時代も稲作があったということだ。ただ、平地で大々的にやったのではなく、山間部に小さな水田、たとえば棚田のような水田が作られたか、小規模な陸稲だったのだろう。縄文時代は人口が少なく、天然資源が豊富だった。小学校の頃温根沼で潮干狩りをしてアサリを獲ったことがあるが、砂の4分の一ほどもあるのでは驚いた。東京郊外奥多摩の倉戸山では秋になると谷を埋めるほどの胡桃やドングリがあった。だから、縄文時代の稲作は主食料ではなく、趣味的な補助食料の生産という位置づけだったろう。弥生時代と違って食うのに困る時代でななかったようだ。
 オホーツク海沿岸部は1万年前も今も内陸に比べて気温が低い。稲作は不可能だから、オホーツク文化圏の土器に縄目の文様がないのはあたりまえのことだ。そして漁労用に使う縄は水に強いものでなくてはならず、稲わらが材料ではありえない。貴重品だから消耗品として土器の文様につかえるわけもない。同じ縄文文化圏に属していても稲作が不可能なオホーツク文化圏の土器に縄目の文様のないことはよく考えてみれば理屈の上からも当然の帰結だろう。

 それにしてもオホーツク文化圏はいつ消滅してしまったのだろうか。考古学的な調査でそのあたりははっきりしているのだろうと思う。
 オホーツク人が住み、ついでアイヌが住み、和人が住む。オホーツク人からアイヌへの交代期にも争いがあったのだろうか?その土地に住む人々がいなくなる裏には、武力を背景とした争いがある。
 北方領土の島々と北海道オホーツク海沿岸部はもともと同一の文化圏をなしていた。それが近代国家の成立と共にロシアと日本に引き裂かれてしまう。今後100年を考えてみて、環オホーツク海というスケールで共通の文化圏が再構築される可能性はあるのだろうか。
 東ヨーロッパのロシアとオホーツク人は人種的にも文化的にも無関係の存在だろう。お二人の対談を拝聴していると、北方領土の島々と北海道オホーツク海沿岸部は原日本人を探索する上でも重要な地域であるらしい。環オホーツク文化圏とは何なのか、日本人の起源とどのように関わっているのか。日ロの共同調査は可能なのだろうか。
 それにしても、歴史の旅に出てみると、近代国家の成立と固有の文化圏の破壊は車の両輪のように動いてきたことに気づかされる。こうした現象はオホーツク文化圏に限らない、他の文化圏にも普遍的な広がりをもっている。北方領土問題は世界各地の国境紛争地帯と共通項を有しているといえる。
 弁天島を採り上げてあと2回、〈中〉と〈下〉の対談では何が飛び出すのだろう。

「知床学のすすめ」菊池俊彦
  この中に、北構さん所蔵の「鳥骨製針入れ」の写真が掲載されている。
http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition22/shiretoko.html


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