SSブログ

対談 弁天島遺跡発掘130年〈下〉(北海道新聞) [21. 北方領土]

  2,008年6月20日   ebisu-blog#208 
  総閲覧数: 17,426/206 days (6月20日00時50分) 

 対談 弁天島遺跡発掘130年〈下〉
  オホーツク文化と根室・千島
   クロスロード
    北方県民族とのつながり
 日ロ間で協力、解明を 
 最終回のテーマは三つある。ひとつは
オホーツク人の蒸発である。二つ目は千島・根室の地理的な位置にある。北太平洋や北東アジアへのハブとなっていることからカムチャッカの先住民やエスキモー・アリュート文化との関わりがある筈だが、未解明となって今後の研究に委ねられていること。三つ目は日ロの共同研究の必要である。これらのことが二人の考古学者によって話された。

 ある時期忽然と北海道オホーツク沿岸部から姿を消してしまう。弁天島にはオホーツク文化の竪穴住居跡の他に擦文文化の土器の破片が出たことがあるが、トビニタイ式の土器は新しいものが出ていない。このことから北構さんはオホーツク人と擦文人が一緒にはならなかったと推測している。これに対してトーサムポロでは住居跡やトビニタイ式時がたくさん出てくるので、擦文人と共存あるいは隣り合わせの生活をしていたと考えられる。温根元ではもう少し古い時代の土器しか見つかっていない。根室半島といっても、一括りにはできない。
 菊池教授は北海道沿岸部からのオホーツク人の消滅はサハリンへ引き揚げた結果ではないかと推測するが、それを証明するようなものはないという。
 アイヌ文化の熊送りはオホーツク文化の影響を受けたものだという北構さんの発言を受けて、菊池さんは千島はどうなのかと疑問を呈する。国後はドビニタイ式時が出ているので道東と同じだったようだが、択捉がはっきりしないという。北構さんは北千島の千島アイヌはオホーツク人に似ているという説を紹介する。それに対して、菊池さんはオホーツク文化の痕跡が12~13世紀になくなり、15世紀ごろにアイヌが北千島へ行くまでオホーツク人が生き延びただろうかと疑問を呈するが、自給自足で食料は何とかなったのでほそぼそと生活していたオホーツク人がアイヌと融合した可能性は棄てていない。
 北構さんが北千島とサハリンの東タライカの土器が似ているが、これをどうみるかと菊池さんに問う。菊池さんは船で直接交渉があった可能性を指摘している。しかしよくわからないことが多いようだ。
 司会者から今後の課題や展望を問われて、北構さんが地元の研究者として「元気のある限り発掘を続け、関心のあることをひとつひとつ確かめて生きたい。特に、根室は北太平洋や北東アジアの文化のクロスロードですから、オホーツク人の機嫌はサハリン方面だとしても、文化的にカムチャッカの先住民族の文化やエスキモー・アリュート文化などとどんなつながりがあるのか明らかにしたい」と答える。続いて菊池さんが「戦前、北構さんたちが北千島で発掘をしてから、もう70年になります。ロシア・旧ソ連も戦後、千島列島では、ウルップ島以外では発掘調査をしていません。北方領土問題はありますが、まず、国後と根室の博物館で展示品の交換展示ができないでしょうか。そこから交流を広げていけば、やがて共同調査もできるようになるのではないでしょうか」と応じた。
*(トビニタイ文化:オホーツク文化から擦文文化に変わる時期の文化。漁文化の特徴がある土器を作り、竪穴住居はオホーツク文化の六角形の大型ではなく、より小さい方形。9-13世紀ごろに道東に広がった。名称は根室管内羅臼町トビニタイ遺跡で見つかった土器に由来する。)

 3回のシリーズが終わった。身近な弁天島を切り口にお二人の案内で2500年の旅をさせてもらった。このような特集を組んでくれた北海道新聞と
対談をしながらオホーツク文化へと誘ってくれた北構さん、菊池さんに感謝申し上げる。
 根室が北東アジアの玄関口であるという発想はなかった。地政学的にはなるほどそうなのだろう。あらためて弁天島を眺めてみるとすこし偉そうに見える。
 弁天島は蟹祭りや秋刀魚祭りの会場から数百メートルの距離に浮かぶ根室市民にはなじみの島である。しかし、その土の上を歩いたことのある人は少ないだろう。昔(40年前)本町下の海岸は石の突堤が50メートルほど突き出していて、そこに貸しボート小屋があった。ボートを借りて弁天島へ渡ることは誰にでもできた。きれいな水と豊富なウニがあり、膝まで海水に浸かってウニを獲っては石で割って海水で洗い、口に運んだものだ。甘い味が口に広がる。懐かしい思い出だ。現在は弁天島まで三分の一ほど埋め立てられてしまって、岸壁だらけで海に下りることすらできない。しかし、幾分濁った岸壁際にはいまでもチカが群れをなして泳いでいる。魚影は昔の数分の一に減ってはいるが、本州の海に比べれば魚影の濃さは群を抜いている。

 一つの文化圏が近代国家成立の後、紆余曲折を経てロシアと日本の領土に分割され、発掘調査すらママならない状況が生まれ、それが63年を経て固定化してしまった。世界各地の国境紛争地域には多かれ少なかれ、大国の圧迫による少数民族の衰退や消滅があるのだろう。平和な文化ほどその文化を保存することができずに、消滅していく。
 生態系の中で特定の種の遺伝子的多様性が失われると、近親交配が進みその種は絶滅へと向かう。平和に自然と共存してきたがゆえに、強力な武力を持った近代国家に抗しえずさまざまな少数民族やそれに付属する文化が失われてゆく。オホーツク文化もそのようなもののひとつである。遺跡から学ぶと同時に、アイヌに残るオホーツク文化から学ぶことも大切なことなのだ。

 先ほどテレビニュースを見たら、地球温暖化の影響か九州で激しい集中豪雨があり、各地で洪水が起きたというニュースが流れていた。スコールのような集中豪雨は今後増える傾向にあると気象学者が警告していた。
 生産力の増大や経済成長を前提とした経済社会の行き着いた果ての現象だろう。われわれは、今手にしている便利さの大半を手放さずには生存できなくなる。自分の世代は何とかなっても次の世代がやってゆけなくなる。人間の生活がどうあるべきか、自然と共生する生活とはどのようなものであるのか、数千年にわたって蓄積されてきた人類の叡智に学ぶときだろう。考古学は今日の問題に直結していると言えそうである。