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10年ぶりの「相棒」との再開 #768 Oct.23, 2009 [22. 人物シリーズ]

 久しぶりにSにメールをして近況を知らせたら、折りよく休暇がとれたと、東京から遊びに来た。

 96年12月のことだった。出向していた子会社の社長が暗い顔をして打ち合わせたいことがあるという。ある新会社のプロジェクトが本社で進行中で、そちらを担当してもらうことになってしまったと異動を言い渡された。断ることのできない異動だという。
 本社を呑み込んでしまう可能性を秘めた企画が進行中だった。表向きは老朽化した子会社ラボの移転・新築・コストの大幅な逓減という企画である。そしてある営業上の戦略と組み合わせることで、業界No.2の会社に壊滅的打撃を与える構想だった。TOBを仕掛けて吸収合併に追い込むか、潰してしまうかどちらも可能な戦略案を練っていた。
 200億円の借金の利息を支払っても必要な利益をあげられることは、数年前にシステム開発を含む経営改善で関わったラボで規模の小さい実験を済ませてあった。国内のいくつかの会社の経営改善にも出向や経営改善のための経営分析依頼に応じてタッチしていた。
 本社の手垢がしみついてしまった一番歴史の古い子会社の利益構造を変えるには子会社社長と二人三脚で社内意識改革をする必要があった。出向組みが親会社の方式をそのまま持ち込んでしまい、経営上の重大な欠点が拡大再生産されていた。そこを断ち切り、独自の生産ラインと業務処理システム及び利益管理システムを創りあげる。出向1年でようやく社長と気が合い始めていた。
 親会社は大きすぎて変われない。資産価値が大きすぎて既存のラボをスクラップできないから、有力子会社を梃子にしてグループ全体を変えるしかない。とくに外部に長年依存し続けた本社システム部門の技術力を評価できなかった。これらを断ち切るためにも子会社からグループ企業全体を変えていくのが妥当な戦略だった。毛沢東の戦略は「農村から都市へ」だった。「子会社から本社へ」という逆方向の変革はどこかで毛沢東のそれに似ている。
 子会社社長の理解と協力なしには実現できない企画であるが、幸い、許容力があり柔軟で人情に篤い人物だった。ずっと子会社だけでこのような構想が実現できるはずはない。どこかで構想全体を明らかにして、本社社長へ相談し営業戦略を含めてグループ戦略へと止揚するつもりだった。その時期がくれば、自然にそれとわかるものだ。こういうタイミングは天が決めると思っている。
 当時作成した資料を見ると、グループを生産会社と販売会社に分割する構想も検討している。これは自動車会社の在り様から一度検討して見る価値ありと判断したのか、それとももっと別の視点があったのか、いまとなっては定かではない。検討の価値ありと判断したことはたしかだ。製・販分離で問題になるのはグループ内の取引価格と製造(ラボ)会社のコスト競争力の維持である。
 93年頃だったかある医師会センターの経営改善をお手伝いしたことがある。製造コストは民間センターの2倍ほどかかっていた。検査部門も営業要望に応じて増やし、採算が考えられていなかった。そもそも検査部門別の損益計算がなされていなかった。これではどの部門がどれだけ儲かり、どの部門がいくら損失を出しているのかさえわからない。

(わが故郷の市立根室病院は診療科別や病棟別の損益計算をしているだろうか?この8年間みているが、経営改善をまったくしていないのは部門別損益計算がないからなのではないか?経営管理部門が院内にあるのだから、部門別損益計算をやってみるべきだ。そうすればどこに手をつければ好いのかわかる。地域医療上のニーズと部門別損益計算をつき合わせて、診療科別・病棟別の目標予算管理を導入すべきだろう。ある程度の規模になると、経営改善はそれに必要な仕組みがないとできないものだ。
 経営に専門知識をもっていない建設特別委のメンバーや病院事務局だけで病院問題を議論するのはもうやめたほうがいい。百害あって一利なしだろう。)

 この点は製販分離をしても検査部門別の原価計算システムとそれにつながる利益管理システムを創れば全国に何箇所ラボがあっても、コントロールができる。そして地域ごとの検査項目別の製造原価も直接比較できる。グループラボ内で検査項目ごとにコスト競争をさせればいい。製造原価のばらつきが大きい検査項目は一番安いところのやり方を調査して、ラボ共通の標準作業手順書をつくり、やりかたを統一していけば好い。
 利益管理システムについては原価計算システム・購買在庫管理システム・財務経理システム・販売会計システムとの統合システムとして、ユニークな概略仕様を80年代後半に検討済みだった。当時は載せるコンピュータがなかった。国内最大の汎用大型機を使っても、1台のマシンでは無理だった。90年代後半にはそのようなハード性能の制限がなくなっていた。

 首都圏の生産拠点の優劣がグループ企業内のそして長期的に見れば業界全体の中での勝敗を決する、そう感じていた。東京郊外のラボ群は場所が分散化し、垂直方向への異動を余儀なくされる5階建ての建物群で構成され、一貫した水平方向で自動化処理が不可能であった。グループ全体への漠然とした将来に対する危機意識から生まれた構想だった。
 検体という液体を扱うのだから垂直方向の移動はトラブルの元になるのでできるだけ避けたい。そのためには広い敷地と長いラインが敷設可能なラボ建物が必要だ。
 技術的優位やブランド力だけでは、いずれ業界内の競争に勝てなくなる日が来る。10年から20年先を考えると、検体を受付から3000項目の検査まで一貫して処理できる自動化ラボがどうしても必要だった。

 それ以前に仕事をしていた産業用・軍事用エレクトロニクスの会社では、統合システム開発に加えて、長期経営計画や長期資金管理を仕事としていたから、いざと言うときの銀行交渉も含めてやりきる自信があった。
 長期的な見通しがあり、具体的なスケジュールを示して1年単位で成果が確認できる企画案とその確実な実行があれが事業に必要な資金は集められる。
 そのような企画を子会社社長と動かし始めていた矢先のことだったから、異動は寝耳に水だった。「本社社長からの直接の指示」、どうしようもないという。別ルートからも事情がすぐに伝わってきた。断りきれない事情が持ち上がってしまっていた。首都圏での大型ラボ構想はあきらめざるをえなかった。

 100年以上の歴史のある東証一部上場会社との合弁会社の設立プロジェクトが暗礁に乗り上げていた。マスコミに新会社設立のアナウンスをした後だったから、対外的なスケジュールをずらすことができない。状況を打開できる人間を問われて、プロジェクトメンバーの一人であった旧知の社員が私の名前を挙げてしまっていた。
 すぐにパートチャートに新会社稼動までのジョブを落としてみたが、やれそうだった。非常時は非常時なりのやり方がある。
 私の目から見て、将来問題になる厄介なことがひとつ決定済みになっていた。システムと会計処理に関わることだった。請求基準から報告基準への売上計上基準の変更である。東証Ⅱ部上場時に販売会計プロジェクト・チームがこれで3年わずらったのを見ていた。このシステム稼動のために外部に支払った費用だけで3億円、不具合続出で内部で手作業で1年以上もかかって人海戦術で処理した。請求基準で月次決算をやっておき、報告基準に辻褄を合わせるファイルを決算時に作るほうが、はるかにシステムが簡単に作れて、売上債権管理が単純化できる。会社のサイズにあわない仕様を決めてしまっていた。合弁会社だから厄介な問題になる予感があった。もう一月早く仕事を依頼されていたらと思ったが、しようがない。おおよそ2年で問題が顕在化することを承知で引き受けた。問題が起きることを理解していない者たちが決めてしまったことだから、言っても理解できないだろう。問題が持ち上がってから、人とお金を投入して解決するしかない。
 こういう事情で仕事をスムーズに進めるために、わたしも早く合弁を解消したかった。30年たっても黒字化できない赤字子会社を切り捨てるだけだから、持株買取による合弁解消は相手企業の望むところであるだろう。こちらは売上高経常利益率10%以上の高収益会社に作り直し、100%子会社化する。本社の事情次第でいつでも店頭公開し半分程度株を売却して利益を手にできる。

 本社社長から、スケジュールどおりに会社を立ち上げること、会社を黒字にすること、そしてもうひとつ課題が提示された。
 これら3つの課題を3年以内に果たすように直接指示があり、確実に課題を果たすために二つ条件をつけて引き受けた。ひとつは新会社経営についての職務権限に関するものであり、もうひとつがSの異動だった。3つの課題は2年でやりきるつもりだった。1年間は想定外の問題が持ち上がった場合の保険期間である。
 私の上司だったことがある財務担当役員は「経理業務は君がやれるのにどうして経理マンが要るの?」と怪訝な顔をしていたが、私に任されたのは新会社の経理ではなく経営である。赤字部門同士を統合して黒字にすることも課題のひとつだったから経理業務に時間をとられてはどうしようもない。だから信頼できる有能な経理マンがどうしても必要だった。事情を話すと、Sの異動を快く承諾してくれた。
 システムの二人、データ管理業務のM、応用生物の専門家のM、経理のSの協力、そして本社ラボ担当役員の強いバックアップがあり課題は3つとも2年で果たした。交渉に応じてくれた相手先企業の常務と専務はとても紳士的だった。「相手先企業からこういう解消を持ちかけられたことははじめてです。いつもわたくしどもが尻拭いしていました」とそう言って応じてくれた。

 異動交渉の前にS本人の了解をもらっていた。「一緒に行くぞ」、そう言って3年間一緒に仕事した男である。「相棒」と言って好いだろう。
 10年ぶりの再会である。

 第1日目の夜は「ある人」からいただいた「大吟醸袋吊り」(檜物屋酒造店、福島県二本松)を呑んだ。山田錦を40%まで磨いた酒造りの限界ギリギリの酒だ。この酒には根室のウニが合う。そして仕上げは幻の焼酎「百年の孤独」だった。どちらもやさしく、飲みやすい酒だ。
 「ある人」とは合弁会社立ち上げの仕事を指示した当時の本社社長である。たまたま、Sが来る直前に送っていただいた。なんとタイミングのよいことよ。酒の旨いことこの上なし。縁の不思議さにも酔いしれる。

 翌日朝食前にSが牧の内のサイクリングコースを走りたいというので、つきあった。一回りほど若いSは息をたいして切らせもせずに12分で5キロを走りぬいた。往復10キロである。仕事の傍ら、趣味の日本武道で道場代表を務めるだけのことはある。全力で走ったら10分を切るかもしれない。岐路は逆風で16分ほどかかった。自転車のスピードは風圧が影響する。スピードを上げるほど風圧との闘いがきつくなるのは仕事と同じか。

 朝食を食べてから、霧多布湿原まで出かけた。展望台から湿原を眺めていたら、丹頂鶴の番(つがい)が目の前、20メートルほどのところに舞い下りてきた。
 天気は好いし暖かかい。そのまま、花咲港へ行って車石を背景に写真を撮る。昔は車石の前で写真を撮ったが、いまは上れない。歩く経路が昔と違っていた。広い太平洋は海の色が岸から100mぐらいが緑色っぽく、そこから先は群青色に染まっていた。
 仕事が終わってから、夜は食事をしながら北の勝「吟醸酒」を呑む。真ツブや海老の刺身、カキフライ、サンマの刺身が旨い。吟醸酒は飲みやすいが、地元の魚介類にはパンチの効いた辛口の「大海」のほうが合うのかも知れないと感じた。翌日の朝、食べ残した北海シマエビを食べながら呑んだ、旭川男山の「純米生酛」が絶妙に食材にあったからである。生酛は酒だけで呑むと癖があり個性の強い酒だ。ところが食材と合う。不思議なものだ。酒と肴の相性は仕事での人間関係に通じるものがありそうだ。
 吟醸酒は、そのまま酒だけを呑んでも美味しいが、肴とあわせることを考えるとパンチが足りないもどかしさが残る。

 昨日(23日)朝、5時におきて、Sを起こし、北海道再東端の納沙布岬へ日の出を見に出かけた。5時40分頃、低く垂れ込めた雲の上に太陽が昇り始めた。見る間に姿を現した。オホーツク海側をゆっくり走った。国後島は低い方の東側の山陰だけが見えた。茶々岳や知床連山はまったく見えない。
 途中から左折し、牧の内の「サイクリング・コース」を通って家に戻る。根室半島ぐるっと一周の「小旅」だった。

 朝食を食べてから9時頃春国岱へ回る。ラムサール条約の野鳥の王国であるこの湿原に観光客はSと私の二人だけ。なんと「貸切状態」である。他に観光客はいない。
 入り口の通路は封鎖されていた。昨年修理された木道を歩く。春国岱へわたる木橋をわたった。鳥の糞が白くところどころこびりついているが、キタナイという感じはない。きれいな真っ白い色だ。春国岱の中は木道が二つに分かれていた。右側の方を先に回った。

 先日、テレビで釧路町で捕獲された熊に発信機を取り付け、追跡したら、数日で知床連山を越えて斜里町まで行ったという。別当賀で熊が目撃されているから、この辺りにもいても不思議ではない。霧多布湿原で出遭った女性が熊除けの鈴を腰にぶら下げて歩いていた。霧多布も湿原の中に入るときは熊に用心しなければならない。Sが熊の走る速度は時速40キロもあると脅す。そんなスピードならオリンピック選手でも逃げ切れない。怖い話しだと思ったとたんに10メートルくらいはなれたところで「がさっ」と大きな動物が移動した音がした。「おっ!」と思わず後ずさりしたら、かわいい小鹿がぴょんと跳ねながら逃げていく。

 3年位前だったろうか、台風の強風で木が3000本ほど倒れたと聞いていた。なるほど、太い木がたくさん倒れている。大きなものは根が3メートルほども持ち上がっていた。湿原なので木の根は横に這っている。倒木はチェンソーで切ったままに放置されていた。数年もすれば腐って害虫が大量に発生し、分解されて温室効果が二酸化炭素の24倍もあるメタンガスもずいぶん出るだろう。
 鳩山首相が国連演説で二酸化炭素の25%削減を約束したが、春国岱のこの大量の倒木は搬出されて利用されるのだろうか?小さなことからはじめることも仕事を約束どおりに完成させるコツだろう。
 根室市民が薪を燃料にすれば2年分くらいの暖房を賄うほどの量があるかもしれない。だが搬出方法がみつからない。背負子を20ほどつくり、それに結わえて担いで来れるぐらいの大きさにカットして、市民に自由に持って行かせることができればいいのだが・・・人間が担いで搬出するしかない。Sはヘリコプターでも搬出できると言っていた。なるほどやり方次第だな。駐車場前の原っぱまで吊り上げて運び集積して、カットし「さあ、只だ、もっていけ」、それなら大量に処理できそうだ。

 橋を渡るときに丹頂鶴の番(つがい)が30メートルほど近くで首を伸ばして鳴いていた。「あんな鳴き方をするんですね」、Sがはじめて鳴き声を聞いたと感想を漏らした。

 中標津空港行きのバスが来るまでスワン44の窓辺のテーブルに陣取り、百羽近くの白鳥や無数にいるカモを眺めていた。岸辺の水の温かいところにいる白鳥が長い首を胴体に沿って後ろに回して転寝している。なにやら5時間目の高校生のようだ。転寝は気持ちの好いものだ。
 「いつも春国岱を縄張りにしている大鷲が見られなかったな、残念だった」と話していたら、「あ、飛んでる」とSが言う。目の前の空高く、大鷲が一羽悠然とこちらへ飛んでくる。何度か空中を回って、内陸の方へ飛んでいった。こういう猛禽類は本州ではよほどの山の中でなければ見られない。春国岱はやはり野鳥の宝庫なのだろう。

 これほど有名で、これほど観光客の少ない観光地は春国岱以外にないに違いない。これでいい、いつまでも観光客の来ない春国岱であってほしい。何年経っても何十年経っても変わらない、それでいい。

 スワンの案内カウンターでバス時刻を聞いたら、笑顔で時間を教えてくれた。10時37分は丘珠空港行きに接続するバスで、11時37分が中標津空港行きだ。バスはほぼ定刻どおり来た。「晴れ男」のSが根室にいた間、根室は晴れて穏やかだった。Sが去ると途端に気温が下がった。今夜は昨夜よりも3度気温が下がり8度である。

 羽田についたSから、いい休暇になったとメールが届いていた。
 根室の自然に浸れば気持ちが優しくなれる。また機会があったら何人か連れて来ればいい。自然の中を散策し、そして酒を呑もう。失いかけていたおおらかな心が取り戻せる。

*当時有能と見込んだ若手の経理マン3人は相次いで転職を果たした。一人は30代で店頭公開会社の取締役になったという。もう一人は某有名レコード会社に転職後課長となり、数年前さらに転職した。
 三人とも脂の乗った40代、それぞれが社会になくてはならない機能を仕事を通じて担っている。
 彼らのように経営感覚のもてる経理マンが日本中に増殖して欲しい。社長の器が大きければそういう経理マンのいる会社は「鬼に金棒」である。
 会社を辞めるときに合弁会社の社員に向けて『薄紅のひと時に』という15ページほどの惜別の辞を残してきた。すっかり忘れていたら、Sがもってきた。ある新規事業について構想が膨らみ、誘いもあって会社を辞める決心をした頃に、朝早く目が覚め、空が幾分明るくなるトワイライトにパソコンを叩いた。「私にだけだと思っていたら、社内のネットの掲示板にもオープンにするというので腹が立ちました」、もちろん冗談だろう、目が笑っている。12年も前のもの、時折だして読んでくれているらしい。Sはそういう奴だ。
 省みれば自分の思いに忠実に突っ走ってきたが、気がつけばかれら三人もそうしている。天はそれぞれにそれぞれの課題と仕事を用意している。二つとして同じものはない。おおらかな気持ちを忘れず、天が用意している仕事に励んで欲しい。
 自分の課題や仕事に全力で取り組み、仕事の技倆を不断に上げる。日本の伝統的な職人の姿をSにみた。さらなる成長を期待している。
 
*高校生へ
 記憶にある15年ほど前のデータを書いておくので、自分の将来を考える材料にしてもらいたい。
 日本最大の検査センターは東証Ⅱ部から東証1部へ上場替えをしたがその当時のことだ。新卒者の応募数が10000万人、書類選考で200人に絞込み、筆記試験と面接試験を実施した。そして採用は20人。採用は応募者の500人に一人。
 事務系は不定期に中途採用をやっている。こちらは経験と実力次第で学歴は問わない。
 定期新卒採用は大卒以外の採用は検査技師専門学校卒のみ。学歴は就職のためのパスポートである。
 3年間真面目に勉強して大学へ行け。大学へ行ったら4年間一心不乱に勉強しろ。たった7年間の努力でその後の50年の生活が保障される。
 もっと言うぞ、大企業でヒラと部長職では年収におおよそ700万円前後の差が出る。 


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katu

ebisuさん
想像を絶する責任あるプロジェクトで、話を読んだだけで胃がいたくなりそう。

私もebisuさんの100分の1でも数字に強くて直感力があればいいのにと思います。
根室を楽しんで帰られたのでしょうね。
by katu (2009-10-25 00:25) 

ebisu

Katuさん
Sは北海道は初めてで、根室と霧多布の自然を満喫して帰りました。
牧の内の一本道を自転車で風を切って走ったことは当分忘れららないでしょう。
ああいう風が東京にはない。

仕事は企業規模の大小にあまり関係がないというのが実感です。10人未満の規模の会社で3年間働かせてもらったことがあります。
根室高校生徒会の予算編成と売上30億円、300億円の予算編成作業をする機会がありましたが、基本は同じだった。

Katuさんのブログの新ソフトに関する情報を興味深く読ませてもらっています。
40代?はそれまでの蓄積を生かして人生で一番仕事の出来るときかもしれません。
katuさんの活躍を期待しています。
by ebisu (2009-10-25 08:49) 

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