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#1747 根高の先輩と久々に飲む Nov. 22, 2010 [22. 人物シリーズ]

  根室高校の一学年先輩が札幌から仕事で見えたので、二十数年ぶりにお会いした。前回は東京で会った。右手を差し出して握手をしたが、分厚い掌でとても事務屋をずっとやっていたとは思えないほと握力も強い。
「髪が白くなったな」
「少し痩せられましたね」
 そこから会話が始まった。お互いに積もる話しはたくさんあった。
「実は人工透析を週3回やっているんだ」
 数年前から透析をしているという。食事制限がたいへんだろう。
 私の方もスキルス胃癌を5年半前に手術したことを報告した。お互いに歳をとると身体が壊れてくるのを実感している。

【昔話】
 私はこの先輩Fさんともう一人Nさんという先輩にたいへん面倒を見ていただいた。Fさんは生徒会副会長、Nさんは会計だった。わたしはNさんの指名で彼の後任を務めた。
 手書きの帳簿をつけていたから簿記と珠算に堪能な生徒が指名された。2年生のときに全クラブの予算折衝を任された。当時のお金で約2百万円の規模だっただろう。
 各クラブから予算申請してもらい、各部2名、部長ともう一人が予算折衝に来た。公平を旨として、予算増額も減額もそれぞれ理由をハッキリさせて査定した。あの当時の生徒会会計の権限は大きかった。なにしろ予算も決算も単独でやってしまうのだから、大げさに言うと財務省並の権限があった。
 (20代後半と30代半ばに2度、売上規模30~40億円の会社でも400億円の会社でも、どちらもその会社に途中入社して1年後には予算の統括を任されたのだが、そのときに生きた。伸びる可能性のある事業分野には予算を思い切って投じ、その一方で費目の金額の大きい順に中身を検討し担当部署と具体的に話しを詰めて削っていった。生徒会会計の仕事も徹底してやれば社会に出てからそのまま役に立つ。)

 あるときHaさんというもう一人の副会長から、「会長に立候補しろ、俺が応援演説をやる」とのご託宣があり、Fさんからも後押しを受け、2名の副会長の薦めに断るわけにも行かず生徒会顧問の先生にその旨告げたが、意外や生徒会顧問から強いノーの返事。理由がヘンだった、生徒会会計だからダメだというのだ。そういう校則はないし、後任は前からある後輩を考え、N先輩の了解も取ってあったから、問題ないと伝えたがそれでもノーだった。
 こんな屁理屈を生徒会顧問が考え出すはずがない、たぶん校長から言われていたのだろう。私は共産党の下部組織のメンバーと接点があった。根室高校には戦前の根室商業高校時代から続いていた総番制度(私たちの代で廃止、軋轢あり)があった。商業科でないとメンバーにはなれない。私は2年生になって総番長と同じクラスになり馬が合ってよくつるんで二人で動いた。副番長一人は同級生で、あるところの地主の息子で駅から家まで自分の土地を歩いて帰れるだろうと先生に冷やかされていた鷹揚な奴、もう一人の副番長は小学校の同級生でこいつとも1年のときには同じ柔道部で仲が良かった。副番は3人いたが残りの一人は口数が少なく一見おとなしそうな奴だが体格はがっちりしていた。
 副番3人のうち二人は大学へ進学した。一人はあるテレビ会社の取締役になった。総番制度の伝統は残しておいた方がよかったのかも知れぬ。しかし、あの頃はもうカタチが崩れてしまっていた。私たちの世代で立て直すと同時に破壊したと言ってよいだろう。諸先輩たち築いたカタチが崩れていくのを見るに忍びなかったのである。後輩たちの中にもこうした伝統を受け継げる人材がいなかった。総番制度はタダのワル集団であってはならないのだ。総番長と私とある友人が解体に係わった。総番長は数名のグループメンバーの反発を買ったが愚痴を一切言わなかった、男気のある男だった。
 中大(革マル?)出身の社会科の先生もいて、時事問題研究会主催していたが、そこの主要メンバー数人とも接点があった。主要メンバーの一人は幼稚園で2年間一緒で仲のよかった男だった。あいつは高校を卒業してから東大安田講堂に立てこもった全共闘メンバーの一人になった。それ以来、静かになった。当時の話は聞いたことがないし、聞くつもりもない。同世代の一人として、幼い頃の友だちとして、その気性と気持ちはわかっているつもりだ。
 私自身はどこにでもつながる"ハブ"のようなものだった。正体不明のぬえのようなものだから、学校側の警戒は仕方がなかった。

(私は小学生の頃から家業のビリヤードの手伝いを毎日数時間していた。その手伝いを通じて根室の大人たちと接点があった。歯科医の先生たちや、信金さん、銀行員、喫茶店の店主、飲食店経営者、ヤクザの親分と幹部3人など、じつにさまざまな大人たちがお客様だった。ヤクザの親分は元落下傘部隊のオヤジに遠慮して、幹部3人以外の出入りを禁じていた。お袋を"ねえさん"と呼んでいたから勘違いをした人がいたかも知れぬ。ご同業ではない、正規兵3人を相手にできた元落下傘部隊のオヤジに対する彼なりの敬意だっただろう。使い走りが来たことがあるが、親分は"ここは○○さんの店だ、出入りはなんねえ"、ふだんはそういう言葉づかいを見せない、言葉づかいや身なりや礼儀はきちんとしていた。その親分の兄貴分だった人がいるが早くに渡世家業から手を引いて根室の実業家の大物となった。
 小さい頃から家業を手伝う私をお客の皆さんがかわいがってくれた。お客さんたちは"○○坊"と私を名前2字で呼んだ。40過ぎて用事があって帰省した折りに、"○○坊"と懐かしい呼び方をする人がいるので誰だろうと思った。顔色が土気色でお痩せになっていたので一瞬わからなかったが、旧知の歯科医の先生だった。癌と聞いて顔色と肌の色だけで肝臓転移がわかった、悲しかった。それから3ヶ月ほどでお亡くなりになった。若い頃には根室新聞に時代小説を連載していたから、小説家でもあった。いま私の歯科の主治医はその息子さんである。マスクからみえる目がときどきやさしい先代そっくりなのに気がつくことがある。いい歳をして涙腺がゆるみそうになる。私が赤ん坊の頃、太った先先代がお腹の上に乗っけてよく遊んでくれたそうだ。3代に渡ってお世話になっている。ふるさととはそういうところだ。
 もう一人かわいがってくれた歯科医の先生がいた。根室でおなじみの北国賛歌の作詞者である。男の子がいなかったのでなおさらかわいがってくれたのかもしれない。親父と仲が良かった。人情味の厚いお人柄でわたしはこの人も忘れることができない。
 その歯科医の先生と印刷会社の会長で根室の考古学者にして唯一の文学博士の好々爺とは根室商業時代の同級生、学生時代は東京でもつるんでよく遊んだらしい。歯科医の先生は2番目に大きい北方領土の島、国後島の大漁師の息子だったとは好々爺のKさんから聞いた話だ。私は普段は"先生"とお呼びしており、Kさんと呼びかけたことはない。40代に根室市長選挙に立候補して敗れて以来、地元政界に見切りをつけて会社経営と考古学の世界に自分を限定した。未練の断ち切り方が見事だ。"何をやっても根室は変わらんよ、変わるわけがない"とそう仰るので、私は根室を変えたくて無駄を承知で4年前の11月27日からブログを書き始めた。大正6年生まれのKさんは私のお仲人さんでもあり、時折お話を伺いに行く。"友だちはみんな亡くなってしまった、昔話ができるのは君くらいなものだから、話しにおいで"と大きな声でうれしそうにおっしゃる。)

 副会長のお二人には生徒会顧問の先生が反対しているとだけ話して会長立候補をあきらめてもらい、その代りに友人のHyを副会長に立候補させHaさんに応援演説をお願いした。生徒会長にはHnがなった。

 当時の根室高校は校則で坊主頭を強制していた。男子は坊主頭にしないと校則違反で入学できない。2年生は修学旅行の時期である。わたしは数人と4月から準備して、父兄にアンケート調査を実施した。髪型の強制は人権に係わる問題だという論調で髪型に関する校則を廃止するつもりだった。このアンケート結果を踏まえて体育館で全校集会を開き、学校側へ校則改正を認めさせた。学校側は父兄に弱いのである。だから父兄にアンケートをお願いした。決定は修学旅行で東京・大阪・京都へ行く4ヶ月前だった。予定通りのスケジュールで、私たちは髪を伸ばしてドライヤーを買って修学旅行に行った。
 当時は根室高校のほかに私立高校があった。明照高校である。そこの生徒会長は現在市議であるKさんだった、そことも生徒会同士のつながりをもった。
 面白い時代だった、やろうと思えば何でもできた。ラグビー部は明大でラグビーをやっていた先生が新任で赴任してきたのでチャンス到来と友人数名をたきつけて同好会を結成、翌年クラブ昇格をさせた。大学のメニューを持ってきたから中標津を凌ぐくらいにあっという間に強くなった。
 あるとき、生徒会顧問(複数)のある先生から名札をつける案が出された。職員会議ではすでにオーソライズされていた。これを潰すために、「わたしたちも名前を知らない先生が三分の一はいます、だから一緒につけましょう」と生徒会側から申し入れをした。案の定、職員会議は紛糾し、つけるのを嫌がる先生が続出して、この案は沙汰止みになった。目論見どおりだった。ある先生が生徒を管理するために校長に進言して進めただけであって、自分たちが名札をつけることを教員たちは嫌がった。作戦勝ちだった。あのとき生徒会長のHnは学校側と生徒会メンバーとの間に挟まって苦労したはずだ。
 生徒会を思った通りに動かしたくて、副会長にはHyになってもらったし、中央執行委員の一人は仲の良い同級生、もう一人はよく知っている美人のTさんだった。もう一人女の副会長だったのではないかとおもうが、Tbさんという人がいたが女傑といっていいだろう。彼女は時事問題研究会のメンバーだった。頭の切れる一風変わった雰囲気の人だった。企画さえよければノリのよいメンバーが集まって協力した。わたしは組織と人の動かし方、仕事の仕方を根高生徒会で学んだのだろうと思う。社会人になってから転職を繰り返してそうしたスキルをさらに磨いた。自分に権限がなくても組織は動かせるのである。
 生徒会室に同居していた新聞部のメンバーも面白いのがいた。"ケイジ"は起業してソフトハウスの社長をやっているし、Yは東京で学校の先生になった。当時は謄写版印刷で、ガリを切ったあと、ローラーにインクをつけて1枚ずつ刷った。印刷物が多いので生徒会でドラム式謄写印刷輪転機を買った。これだと全生徒分1050枚があっという間に印刷できた。新聞部と共用だった筈だ。輪転機を回したときのインクの臭いを思い出す。
 美術部の部長だった同級生のTはアンダーグラウンド劇場関係のプロモーターのような仕事をしていたが、東京渋谷の駅付近にビルを一つもっているそうだ。若い頃は大橋巨泉の番組など何度かテレビに出ていた。馬力のある女だった。
 同級生のKTは3年の夏に中退して、"ゴルゴ13"の斉藤タカオの一番弟子になった。
 同じ大学へ進んだ同期の一人はあるテレビ会社の東京支社長で役員をやっていた。いまは関係会社の社長のようだ。商業科からこういう進路に進む余地はもうないだろう。
 高1のときに中退した総番長のポン友は30代のころから銀座に2軒店をもった。何度か飲みにいった。盛岡でブティック店を数店とタイと日本にタイ式マッサージの学校を持っている者もいる。札幌で美容室チェーン展開を行ってモデルを奥さんにした同級生もいる。団塊世代の同期は実に様々な人材がいる。当時の根室高校は7クラス350人である。光洋中学校一校だけで同期が10クラス550人いた。
 3年になってから金融機関に就職するつもりだった私を担任が呼び出した。"おまえが金融機関を受けるとひとりいけなくなる者が出る。いくなら釧路の日銀を受けろ、いやなら大学へ行け"と言われた。家庭の事情というものがある、高校入試は80%程度の得点だっただろう。中学の担任からは普通科への進学を強く勧められた。"この子は大学へ行く子だ"と両親が2度も説得されたが、私は商業科へ進み、在学中に日商簿記1級と日商珠算1級をとって金融機関に就職して公認会計士になるという意志を固めていた。
 簿記を教えてくれた先生は2年生になったときに神戸商科大学への受験を薦めた。兵庫県立大学で商業科からは受験科目に無理があった。結局、担任から就職ストップがかかったまま12月になり、しかたなく3年の12月になってから大学受験を親に相談した。そして受験に失敗。学校の勉強だけで大学受験に間に合うはずがなかった。そういうわたしを仲の良かった総番長が東京の代々木ゼミナールに一緒に行こうと誘ってくれた。人間の縁とは不思議なものである。そこから東京35年間の生活が始まった。あいつがあのとき誘ってくれなければいまはない。Kは人望があるから、大学受験は失敗したが、地元でしっかり偉くなっている。学力ばかりでない、人間力、人望というものは学力にと共に大切だ。
 
 ずいぶん前のことになるが元生徒会長だったHnが道議会議員に立候補したことがある。残念ながら落選だった。中学のときは隣のクラス、一人で回しをつけてテッポウの練習に励んでいた気のいい奴でいまでもお互いに苗字ではなく名前で呼び捨てにする間柄だ。漁師の息子のあいつは高校3年生のときに15段変則のサイクリング車を親に買ってもらった。当時はたいへん高価な物だっただろう。アナログのスピードメーターがついていた。"○○いい自転車だな、前の道路で何キロ出るか試すからちょっと貸せ"というと、"いいよ"と二つ返事、あいつは嫌な顔しなかった。根室高校前をセブンイレブンの交差点まで目一杯スピードを出してみた。スピードメータを確認するために視線を下へ落とした、ゆるい下りだから時速70キロを超えた、視線を戻したとたんに前を走っていたダンプカーが信号で急停車して赤ランプがついている、間に合わぬ。細いタイヤだから止まれるわけがない、ブレーキをかければすべってトラックの下へ激突だ。そう思ったとたんに身体が反応してしまっていた。思い切って対向車線へ出た。交差点を曲がりきってからブレーキをかけてとまった。・・・、助かった、さいわい対向車も光洋中学校側からの車両もなかった。
 "オサム、ありがとう。スピード出るけどとっさに止まれない、かなり危ないぞ、気をつけて乗れや"
 友人の兄から250CCのバイクを借りたこともあった。あるとき後ろに同級生を乗せて根室高校前をトモシリ方面に向かって走った。アクセルはずっと全開でどれほどスピードが出るのか試した。セブンイレブン側からだとゆるい上り坂だからなかなか100㌔に達しなかった。エンジンの回転音が変わった。なんともないいい音だ。ギリギリのところまで性能を引き出した走る、その感触がたまらない。ようやく100㌔を超えたらゆるい下りカーブで左側は1mぐらいの側溝でその向こうは土手、バイクは遠心力で路肩の端の方へ吸い寄せられていく。あと15センチぐらいのところで思いっきりバイクを倒した。一人だったら飛び降りていただろう。柔道をやっていたから受身は自信があった、土の土手だから骨折ぐらいで済むだろうと覚悟したが、あいにく後ろへ友人を乗せている。ぎりぎりで回りきったところでアクセルを戻してブレーキをかけた。友だちは真っ青になっていた。
"おれ、もうだめだと思った"と友人。
"お前乗っけてるし、飛び降りるわけにも行かず、死なばもろともと思い切って右に倒した"
 友人は情けない顔をしていた、ハンドルを握っているのは私だからよっぽど怖かったのだろう。以来、自分の癖がわかったから運転免許証をとるのはそういう癖が治ってからと思った。エンジンの音が変わるまでアクセルを開け続けないと気がすまないのだ、限界ギリギリのあたりをさまようが好きだった。40過ぎてから、福島県郡山の会社に出資交渉をした後で出向したとき、社長と一緒に行動することが多くなり、もういいだろうと免許証を取得した。その社長、わたしに免許をとれといって知り合いの教習所を紹介して教習予約のとりやすいように段取りはしてくれたが、免許証取得後も相変わらず自分で運転し、一度も私に運転させなかった。動物的な勘のいい奴だったからわかっていたのかな?親会社とのあいだのパイプ役としてかなりリスクのある「ドライブ」をすることにはなった。売上規模二十数億円の赤字会社を利益3億円の黒字企業にする具体案とその実行許可を求めたが、最後の土壇場で親会社の社長と副社長の反対に遭い案を引っ込めたことがあった。あまり黒字幅が大きいと関係会社の社長をグループ本社へ迎え入れざるを得なくなる、そこを嫌ったのだろう。社長・副社長の二人と話しながら察しがついたので、これは無理だと「勇み足」でしたと引っ込めたら、二人できょとんと顔を見合わせていた。私からの反論を予想して対策を考えていたのだろう。これ以上おいておいたら、会社を辞めて出向会社へ移籍するとでも考えたのか、3年の約束だったが15ヶ月で本社へ呼び戻されてしまった。凡庸にやっていれば、毎朝6時に歩いて5分の温泉にはいり、のんびり楽しくやれただろうに、仕事のやりすぎはよくない。
 本社社長や副社長の期待値よりも大きい仕事をしてはいけない。後にテイジンとの合弁会社を任されたが、こちらの方は3年の期限より半年早く仕事を完了させただけ、郡山の件が勉強になっていた。治験事業と言う赤字部門同士を統合した合弁会社だったが、黒字化は簡単だった。利益率の高いある事業分野を開拓した。製造部門をもつ会社なら売上高の15%の利益率はそう難しいことではない。輸入商社ならやり方次第で10%ぐらいだろうか。
 話しが横道にそれたが、車の運転に関してはいまはおとなしい。
 
 冒頭で紹介したF先輩は根室の3倍強の人口の市の税務署長を最後に退職し、いまは札幌で税理士をしている。彼は私のことをいまでも"オンチャ"と呼ぶ。彼によれば、国家公務員が根室赴任を嫌がる理由は、医療教育だという(Fさんのお子さんは二人とも北大)。学力レベルを上げないと単身赴任が増えることになる。根室へ転勤したばかりに子どもの将来の可能性がつぶれてしまうと思われるような惨状だ。
(500満点の学力テストで400点以上が市街化地域の中学校3校の2年生で4名しかいない。7年前には50名を超えていた。)
 彼の次に副会長となったHyは高校卒業後短大へ進学し卒業した年に21歳で税理士試験に合格し、いまも東京有楽町で税理士をしている。2代続いて根室高校生徒会副会長が税理士というのも偶然とはいえ不思議な話だ。否、優秀な生徒がたくさんいたということだろう。
 もう二つ偶然がある。今年の春に塾生が小樽商科大学へ進学したが生徒会会計をやっていた。
「先生、生徒会やっているんです」
「なにやっているの?中央執行委員かな?」
「会計です」
「え、私もやってたよ」
 聞いたときには驚いた、連綿とつながる細い一本の糸を感じたものだ。
 そして先輩のFさんが昨日仕事で打ち合わせをした相手の一人が私が生徒会会計に指名した後輩である。これだけ偶然が重なるというのは、単に町が小さいせいかも知れぬ。

 おもえば古い根室の大人たち、何人かの先輩、それぞれユニークで才能溢れる同期の友人たちに恵まれた。
 長年のお付き合いに感謝すると共に週3回人工透析をしておられる先輩の健康を祈りつつ、筆をおく。


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