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#2916 微生物による放射能減衰実験:N科さん Dec. 19, 2014 [22. 人物シリーズ]

 今朝珍しく電話が鳴った、相馬(福島県)のN科さんからだった。高潮被害を心配して電話をくれた。

 1993年6月に福島県の臨床検査会社へ出向したときに、N科さんはその会社の役員の一人だった。一回り年上のN科さんは昼飯を食べながら放射線についていろいろ教えてくれた。
 Nさんは福島県相馬に住んでおり2011年3月の津波被害に遭った。津波警報があったのですぐに車に乗って高台へ避難したという。判断の早さが生死を分けたのだろう。避難したところからは海が見えなかった、車で戻ったらあたり一面原始の状態に戻っていたという。海岸線の辺りで16m、住宅地へは7m余りの津波で、180戸ばかりあった家がなくなっていた。少し内陸側に遭ったN科さんの家は1階部分が損壊し、2階は10cmくらい浸水していた。家は海岸線から600m地点にあり、昨年リハウスして仮設住宅を脱出したことを今年の年賀状で知ってほっとしていた。

 器用な人で木製の長いアルプホルンを手作りして吹いているN科さんは放射線技術者でRI検査分野の仕事をしてきた。いま、北大や信州大学の研究者と微生物による放射線減衰実験をしているという。実験結果は良好だが、メカニズムが不明なので生物学の勉強をしはじめた。Natureに論文を発表するためには微生物による放射線減衰のメカニズム解明が必要なのだそうだ。
 放射線に関しては国は何もしてくれない、ならば自分たちでできることからはじめようと微生物による放射線減衰実験が2年になる。

 70代半ばを過ぎても専門の放射線の勉強に加えて、生物学の勉強をはじめるバイタリティに驚く。世のため人のために自分にできることをしている。60歳を過ぎたら、それまで学んだことや培った技術を駆使して世のため人のためになる仕事をするN科さんのような人が日本列島に増えれば日本中がもっと住みよくなるだろう。

 必要なときに、必要な分野の専門書を読み、世の中の役に立つために、若いときにしっかり勉強しておくべきなのだろう。基礎学力が高ければいろんな分野の専門書を70歳を過ぎても読むことができる。基礎は若いうちにしっかり築いておく。


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<余談:大失敗>
 93年3月のことだった、北陸の臨床検査会社から依頼があり財務諸表をみてから現場を一日だけ調査して要点をチェック、そして経営分析および改善案をつくり、買収交渉をしていたところへ、営業本部から福島県の臨床検査会社の経営診断と経営改善案の作成を要請があった。3年分の決算資料に目を通して一度ラボを視察に行ってその会社の社長にヒアリングしてから経営分析資料を2週間ほどで作成し、再度訪問して資本参加の話をまとめた。依頼を受けてから出向するまで3ヶ月かかった。北陸のラボよりも福島県(+仙台ラボ)のほうが問題が大きいので、出向は大変そうなほうを選んだ。福島県の会社の社長が資本提携にebisuの出向を条件にしたからでもある。Ta橋社長は毛3年分の決算資料をもらい現地調査に訪れたので、ebisuがただの経理屋だと思っていた。仕入先の確認や検査試薬の仕入価格についてヒアリングしたあと、営業所においてあったコールター製の血球計算機について性能はいいがメンテに問題がないか訊いてみたり、SRLでは国産の対抗機種に統一していることなどを話は多岐に及んだ。とどめは開発中だったパソコンのマルチコントローラだった。マッピングではなくプリント基板を使っていたので、「ひっくり返していいですか?」と訊いて基盤の裏側を確認してから、おもむろに「社長、これ商品だね、売るつもりでしょう」と言ったらぎょっとした顔をしていた。沖電気製のパソコンをみたらある欠点が見つかったのでその場でシステム担当責任者に確認してから、「商品化は無理、理由はこれこれ」と説明した。結局それは商品にならなかった。分析データからその年の決算予測も試算していたから、今年の損失の予測範囲を伝えておいたら、その次に行ったときに自分が持っているデータで分野別に推計計算していた。結果がほとんど同じだ、どうやって計算したのかと問われ、説明が面倒なのでデータを見れば推計計算はある程度の精度でできると答えておいた。パソコンに入っていたTa橋社長の分野別の計算データをみせてもらったらきちんと線形回帰分析をしていた。臨床検査会社の社長としてはシステムや統計計算に手馴れていた。ありがとうと礼を言って、きちんと計算しているね、線形回帰だといったらまたぎょっとしていた。だから、二回目にあったときから、資本提携はebisuの出向が条件だと言っていた。話せば話すほどそこが見えなくなるとあとで酒を飲みながら語った。半分お世辞だったろう。SRLと組んで店頭公開を果たしたい、そのためなら対外のことは譲歩するので何とかしてもらいたいと本音で話すようになった。反対派の役員が3人いたが、半年したところで態度が幾分変わった。

 1年ほどで染色体検査を柱にした経営再建・実行案を親会社に報告に行ったら、Y口副社長と創業社長のF田さんお二人に拒否された、「聞いていない」というのである。副社長には途中で2回ほど説明してあったし、文書で報告もしてあったから、無理な言い訳だった。でも本社社長がノーなのだから仕方がないので、飲み込んだ。「そうですか、わかりました。わたしの勇み足、そういうことですね」と微笑んだら、社長のF田さんと陸士出の副社長のY口さんが、顔を見合わせて慌てていた。二人はそのあとの言辞を用意してあったのだろう。
 ebisuは大事なところはすべてナンバーを付した文書で報告しているから、有無を言わさぬ反論はできたのだが、創業社長にその気がないことがわかったのだから、それを知らずに無邪気に経営改善案をつくった私に「落ち度」があった。Y口副社長もF田社長の意図を読みきれていなかったようだ。知っていたらわたしにブレーキをかけるタイミングが2度ほどあった。なにしろわたしは仙台ラボを見に来た副社長には詳しい話をしていたのだから。
 ズルズルと経営改善できないで赤字額が膨らめば、出資比率を増やして子会社化できるのだ。それならSRLにあわぬ役員には責任を取ってもらいお引取り願える。F田社長はそういう構想を描いていたのだろう。わたしはF田社長の構想をぶち壊す余計なことをしてしまったわけだ。交渉ごとのときの間の取り方もそうだが、まったく食えない人だった。ebisuとは考え方のスタンスがまるで違うが、スケールの大きな経営者であると認めざるをえない。
 F田社長、それならそうと言ってほしかった。子供じゃないのだから分れということ、言わずともF田社長の真意を読んで行動できる人材かどうか試されたのかもしれない。失格だったわけだが後悔はない。
 わたしは赤字の会社に出向して見て見ぬ振りなどできはしない。何遍出向を繰り返したってその会社の社員や取引先のために全力を尽くす人間でありたい、それが本音。
 無慈悲なシナリオをF田さんから聞かされていたら、わたしは出向を断っただろう、それくらいの腹はあった。数年冷や飯を食えばいいだけのことで、F田さんだっていつまでも社長をやっているつもりはない。チャンスはいくらでもやって来るし、そういう性格のebisuだから社内にはebisuファンもいた。損得抜きで協力してくれた人が数十人いた。
 わたしは仕事に関してはいつでも本気、任された会社が赤字なら短期間で黒字化に全力を尽くす、己のそういう信念は冷や飯を食っても曲げないで通す。「売り手よし買い手よし世間よしの三方よし」に「従業員よしと取引先よし」を加えて「五方よし」を信条に仕事をしてきた。F田さんとは経営スタンスの違いがはっきりした。いろんな考えをもった人材がいることがその会社の強みだ、SRLはなかなか素敵な会社だったのである。
(産業用エレクトロニクス商社勤務のときも、「経営改善」だから利益を出すために人件費を削ったことはない。利益を増やすから人件費は増額するしボーナスも配当も内部留保も増やす。社員の給料を減らして利益を出し、仕事をしない株主だけが儲けるなんて「経営改革」は愚の骨頂である。そういう点から見るとカルロスゴーンは最低の経営者にみえるのだが、マスコミの目が狂っているのかそれともebisuの目が狂っているのかどちらだろう。
 仕事をしている社員が幸せにならないような経営改革は改革ではない。経営者と株主だけがよくなればいいなんてことは経営能力の乏しい欲深なゲスの考えることだ。)

 それにしても間の抜けた話だからお笑いいただきたい。改善案を拒絶されてF田社長の役者が一枚も二枚も上であることに気がついたが、後の祭り。わかっていたら勝てる算段をして戦う準備をしただろう。F田社長には隙がなかった。
 ebisuの実行案では赤字の関連会社が子会社・関連会社中No.1の高収益会社に化けることになる、それがF田社長には不都合だった。親会社の売上高経常利益率も大幅に超えてしまうから、店頭公開したら超優良会社の株式公開となって世間の耳目を集めてしまうし、そもそも子会社の株式公開を認めない基本政策を壊すことになる。ebisuは福島県の会社の収益構造を変えて店頭公開を本気でやろうとしている、本社に戻すべきだとF田さんが判断した。飼い殺しは嫌だったから、ある件を利用して上司の経理担当取締役のMa井さん(同じ大学の2年先輩)にどこでもかまわないから子会社への出向根回しを無理やりお願いしたら、練馬にある一番古い子会社の経理部長の席を用意してくれた。わがままな後輩だった。

 能天気なわたしは赤字の会社へ出向してその会社の社長や役員連中と酒を飲み、現場を一つ一つ自分の目で確認しながら最適な経営改善構想を練っていた。子供が珍しいおもちゃをもらったときのようなうきうきした気分で親会社のF田社長の意図を読まずにいたのである。文書だけではなく、その会社の近くにあった親会社の営業所から電話で何度もF田社長には直接口頭で状況報告もしていた。そういうう要求がF田さんからあった、この資本提携は親会社社長にとっては気になる案件だったのである。
 F田社長から子会社化の交渉をするように指示があって、子会社化と社長交代案をTa社長に飲んでもった、会社の店頭公開をなんとか果たしてもらいたいというのがTa橋社長が株と社長のポストを譲渡する条件だった。結局ebisuは親会社F田社長の当初目論見どおりに動かされたわけだ。目的を果たしたら親会社への帰還命令が出た。
 これ以上出向させておいたら、会社を辞めて親会社に反旗を翻して経営再建をして店頭公開をやりかねないとでも疑われたのか、わずか15ヶ月で親会社の本社管理部門に戻された。しかしわたしにそのようなつもりはなく、業界ナンバーワン、しかも全国の大学病院からの信頼が厚いSRLでやれる仕事に魅力を感じていた。
 創業社長のF田さんにはその辺りまで読まれていた気がする。八王ラボ勤務の最後は学術開発本部スタッフとして仕事していたが、わたしの席の背中が簡易間仕切り一枚で、社長室だった。学術開発本部に全社予算編成と管理を統括経験のあるebisuがいた。
 上場準備の統合システム開発では一番最後のスタートして、一番最初に担当システムを本稼動させ、ノートラブル、5サブシステムとのインターフェイス設計仕様も、各プロジェクトのミーティングでどこがやるのか問題になり、暗礁に乗り上げていた。ほかの4つのプロジェクトチームからインターフェイス仕様の設計を依頼されて、1週間で書き下ろして各チームに配布した、それがなかったら東証Ⅱ部上場プロジェクト全体が2年ほどストップしかねなかった。
 F田社長はあるRIの廃液管理に関する社内告発をきっかけに八王子ラボに社長室を設置した。八王子ラボの社長室と副社長室は学術開発本部と同じスペースにあったから、学術開発本部担当取締役と開発部スタッフは情報一覧メモを作成して社長へ提出して意見交換していた。わたしは本部スタッフ二人のうちの一人で、開発部の仕事も二つやっていた。DPCと塩野義製薬の検査試薬の共同開発を担当していたから、社長との「情報交換」のメンバーの一人だった。

(84年に全国の大学病院や専門病院をネットでつなぐ200億円の臨床診断支援システム開発に簡単にOKをだして、フィジビリティ・スタディを許可してくれたのは創業社長のF田さんだった。この関連でNTTデータ事業本部とも共同事業が可能かどうか打ち合わせをした、ネットの伝送速度に問題があり、当時は画像情報のやり取りが不可能だった。10年たっても無理だという結論を出して臨床診断支援システム開発はお蔵入りにした。その関連で検査項目コードの標準化が必要だったので、臨床病理学会と大手六社の協力を得て、検査項目コードは5年ほどで実質的な日本標準コードを臨床病理学会項目コード検討委員会から公表した。自治医大櫻林郁乃介教授が項目コード検討委員会の委員長だった。SRLに入社した1年後の85年の初夏にSRLの免疫電気泳動の指導医であった櫻林先生から検査項目コード作成に協力してほしいと申し出があったから、大手六社のラボコード統一検討会議が立ち上がったのは渡りに船だった。それを産学協同の日本標準検査項目コード検討委員会に切り替えたのである。市立根室病院システムもその「日本標準検査項目コード」を利用している。全国の病院が採用している。光カードでのカルテ仕様の標準化もPERT・Chartに落とした10個余りのジョブのひとつだった。臨床検査項目コードの次に手をつけるつもりだったが、果たせなかった。ネットワーク技術の進化が追いついていなかったが、世の中のためにやっておけばよかった。仮想のカード仕様を決めることは可能だったのである。そして技術の進化を待てばよかった。十数年で要求仕様を満たすネットワーク環境が実現した。)

 福島の案件に関しては親会社社長としての判断は次のようなものであっただろう。同業種である関係会社・子会社の上場は相互取引に制約が出て、経営上臨機応変な対応が取れなくなる。100%子会社なら、取引条件を変更することで簡単に経営建て直しができたし、そういうことをしていたのである。だから、福島の会社の店頭公開は親会社として認めるわけにはいかなかった。
 F田社長はわたしを福島から呼び戻し、社長室ではなく、みんなから見えるオープンスペースの打ち合わせ用のテーブルで5分程度JAFCOとの協議について方針をすり合わせ、50分間ほど世間話をして時間をつぶしてから、浜松町の東芝ビルにあるJAFCO本社へ向かった。あとから「何を打ち合わせていたのか」とあちこちから聞かれたが、仕事の打ち合わせはたった5分、それも自分の方針を言い放って妥協なし、あとは単なる世間話だったなんて誰にも話していない。本社スタッフは福島案件以外に何かあってF田社長はebisu福島から呼んで打ち合わせをしているのではないかと打ち合わせ時間の異常に長いことを気にして遠くから眺めていたのだ。
 浜松町駅を降りてから東芝ビルまで歩き、「どうしましょうかね?」とわたしに問う。わたしはびっくりである、聞く耳持たぬという態度でつい一時間ほど前に自分の「戦闘」方針を言い放ったのだから、その変貌に驚くのは無理のないことだっただろう。「先ほど申し上げましたとおり、情報は漏れますからそのおつもりでお話ください」、「・・・わかりました、ebisuさんの言うとおりにやりましょう」。1時間前の打ち合わせは簡単だった、はっきりものを言う、喧嘩になってもかまわない」と強硬論だった。しかたがないので、わたしも覚悟を決めていたのである。それを5分ほど歩いている間にひっくり返した。時間が少しあるので東芝ビルのホールに展示してある人工衛星の模型を小型カメラを取り出して無邪気にぱちぱち撮り始めた。「時間があるといつもこうしているんです」と微笑んでいる。
 JAFCOは野村證券の子会社で、福島県の会社の店頭公開の幹事証券会社。先方はもちろん取締役が対応した。F田社長は当時初めて会社を二つ東証Ⅰ部へ上場した創業社長だった、扱いが丁重だったのは当然だった。慎重に言葉を選んでいるかのようにゆっくりしゃべり、そして突然言葉が途切れ間が空く、次の言葉が出るまでぴりぴりした緊張がその場を支配していた。立川本社で打ち合わせたときとは別人の雰囲気、F田社長は一流の役者でもあった。何も言わずに、交渉ごとはこうやるものだと教えてくれた。結局、交渉はこちらの意図通りに終わった。帰る段になって、JAFCOの役員から「お車を回しますがどちらに?」と訊かれて、「車では来ておりません、電車で来ました」と伝えるとずいぶん驚かれた。東証Ⅰ部上場会社の社長が電車で来るなどと、JAFCOの方ではセキュリティ上も考えられないことだったのである。JAFCO社長にはその数年後に光洋中学校で隣のクラスだったI藤君が就任した。会社上場準備の支援を業務とする会社では日本でナンバーワンの企業である。
 F田社長にはこんなエピソードがある。出張から戻り羽田へついたら、打ち合わせ事項のあったA石専務が迎えに来ていた。口頭で打ち合わせを済ませタクシーで送ろうとすると、社長は怒って「社員が一生懸命に働いているのにわたしがそんなことはできません」とさっさと電車に乗って戻ったことがある。朝は日直当番の社員が8時に開錠するのだが、それより30分も早く来てラジオ英会話を聴いていたり、仕事をしたりしていることが多い。わたしも入社したころ新宿NSビル22階本社事務所(当時)の日直をしたことが数回あるが、8時少し前に着くと社長がすでにいて、専務が打ち合わせに来ていたりする。一度は入れ替わりに社長が営業所へ向かったことがあった。毎月30項目の自分の行動のチェック項目があって、何勝何敗と記録をつけていた。その項目の中には、お客様の訪問件数や社員と昼食回数などがあった。本社で社員が十数人残業していると、NSビル30回の有名鮨店から、大きな桶で二つ届くことが何度かあった。だから、社員は創業社長のF田さんが大好きなのである。上場準備で84年に35歳で転職したわたしもそういうF田ファンの一人だった。
 ついでだからもうひとつエピソード書いておく。84年に入社したが、その前年に職場代表会議(労働組合)が冬のボーナス4.5ヶ月を要求したら、創業社長は業績が好いので5.2ヶ月出しますと回答した。お茶目な面もある人なのである。4月新入社員のボーナスが手取り80万円を超えて、父親から「俺より多い」とぼやかれたという。

 福島の生活は楽しいものだった。朝6時に起きて、歩いて5分のところにある温泉に入り、それからゆっくり朝ごはんを食べてから、歩いて5分の会社へ出勤する。ずっといて骨を埋めてもいいと思いはじめていた。
 出向した年の5月にオヤジが大腸癌が転移して二度目の手術をしたが全身転移で「アケトジ」、すでに手遅れだった。釧路市立病院の一回目の手術を担当してくれた外科医のMo先生が執刀してくれた。小柄な気合の入ったドクターだった。自宅で3ヶ月ほどすごして、最後は市立根室病院に一月ほど入院して亡くなった。オヤジは根室で死にたかったのだからありがたかった。担当してくれたのは美人な女医さんだった。
 オヤジに限らず住民の大半は最後は地元の病院で死にたいと願っている。ターミナルケアの病院機能も市立根室病院の重要な機能なのである。市立根室病院に療養型病床がひとつもないのは年老いた市民にとっては大きな問題なのである。
 Ta社長夫妻が揃って根室まで葬儀に来てくれた。本当は片腕だった大事な人の息子さんの葬儀が重なってしまったのだが、そちらのほうは葬儀の手配を済ませて根室に来てくれたのである、情が深く義理堅い人だった。会社を上場したら経営は若いやつらに任せて北海道に牧場を買って、全国から年寄りを集めて自給自足の生活をしよう、なんて話をよくしていた。鉄砲撃ちが趣味だった。Ta橋社長の自宅で数人で鴨鍋と狸汁をご馳走になったことがある。野生の狸の肉は硬かった、10分ほど噛み続けても噛み切れなかった。しばらく普通の肉が食べたくなくなった、あの柔らかさは運動させないで肥育した不健康な牛や豚の肉だと実感したからである。
 事後談がある。SRLは本社取締役営業本部長を福島県の会社社長にすえたが、ほどなくして持ち株をほかの臨床検査会社へ売却して撤退したのである。一緒に役員としてスタッフが数名送り込まれたが、一般臨床検査ラボの経営改善をやった経験のある者がいなかった。グループ会社の中に私以外ではグループ会社内に一人だけやれる人材がいた。だが、千葉の子会社から彼を引き抜くわけにはいかない事情があった。引き抜いたら代わりがいないのである。
 三井物産から買い取った千葉の臨床検査子会社のラボ・業務システムの再構築を主軸とする経営改善を91年ころに実施し劇的に収益性を改善した。ebisuは親会社の管理部門から応援部隊の一人として千葉ラボ側の担当取締役と一緒に仕事をしたが、あいつならやれただろう。F田社長は面識がなかった。当時グループ会社全体では4000人くらいの規模だったと思うが、そうした大きい会社でもマルチ能力の人材は一握り、数人しかいない。

 仙台ラボで病理医のDr.T橋と染色体検査の責任者に実務を含めて詳細にヒアリングした結果、染色体検査分野で大幅に経営改善できることがわかった。親会社と関連会社の双方に染色体検査事業分野で大きなメリットがあった。
 ebisuは日本最大の臨床検査ラボである八王子ラボで検査機器担当として染色体画像解析装置の導入にかかわっていたから、染色体検査と画像解析装置にはいくらか専門知識があった、同じ装置が仙台ラボにあったのである。責任者にヒアリングしたら検査手順はほぼ同じだが、前処理と培養の成功率と生産性にそれぞれ違いがあった。八王子ラボのやり方を知っていたので検査手順の比較ができたのである。
 この染色体画像解析装置は民間臨床検査センターでは、SRL、BML、帝人の羽村ラボ、そして仙台の遺伝子研究所の4箇所に導入されていた。もちろんSRLが民間検査センターでは初導入で、そのあと業界2番手のBML、そして福島県の会社の仙台ラボと帝人の臨床検査子会社羽村ラボが導入した。BMLへの導入はある条件をつけて私のほうから輸入販売をしていた会社の営業マンへもちかけた。値引きを要求されるだろうから、はねつけろ、定価でないと売れないと言えばいい。SRLがリサーチして導入を決めたことを全部話していい、ラボ見学の要請があれば現場との調整はebisuがするかわりひとつ条件を飲むように頼んだ。1台バックアップ用にただでおいてくれるようにお願いしたのである。すべて予定通りいった。営業がうまくいったお礼に英国の有名なゴルフコース・セントアンドルーズへ招待されたが、ゴルフの趣味はなかったのでお断りした。ゴルフ好きな営業担当にはたいへん申し訳ないことをした。
 染色体画像解析装置のコストと処理能力(1989年当時は5検体の処理に20分)から考えてBML以外は導入しても採算に合わぬと判断していた。この分野の検査はSRLが8割のシェアーを握っていた、いわゆる寡占である。資本規模と事業規模が小さく、検査精度への信頼度が格段に違うので、採算に必要な量の検体が集められないから、東北の会社と帝人の臨床検査子会社のどちらの会社も経営がさらに悪化すると判断していたのである。
 業績が悪いと新規部門へ投資して苦境を打開したくなるものだが、コストに見合う検体を集められなければ、採算は悪化の度合いを増す、結果は90年ころのebisuの読みの通りになった。どちらの社長も事業の詰めが甘かった。アイデアはいいのだが、ユーザからの信頼度や自社の営業力を秤にかけて判断しなければならないのである。両方の社長とそれぞれ時期をずらせて一緒に仕事をすることになったのだから、縁は不思議なものだ。

 東北の会社からは経営分析要請と引き続いて資本提携要請が93年にあった。そして帝人の臨床検査子会社とSRLは赤字部門である臨床治験部門を切り離して、97年1月に合弁会社を設立し2年後には帝人の臨床検査子会社を買収した。事業の黒字化も買収もKo藤さんの当初計画どおり、違ったのはebisuがスケジュールを1年短縮したこと。

 合弁会社発足の新聞発表の後、二つの問題がありプロジェクトが暗礁に乗り上げて、創業社長のF田さんの後を引き継いだKo藤さんから練馬の子会社のM輪社長にebisuの出向指示が出された。臨床治験検査部門のWaがこの難局を乗り切れるのは社内でebisuさんだけと余計なことを口走ったから厄介な仕事が回ってきた。いくつかあった問題のうち、ひとつだけすでに決定していて手遅れのものがあった。請求システムだった。請求基準で売り上げ計上して、発生基準の売り上げは別途計算したほうがシステムのつくりが簡単だったが、SRL本体と同じ発生基準での売上計上と請求システムに決まってしまっていた。SRLはそのために一度立ち上げた販売管理システムプロジェクトをストップさせ、作り直したが、本稼動でうまく動かず、手作業でしばらくの間作業せざるをえなかった。84~86年、販売管理システムに3億円以上かかった。経理部のシステム知識のない人間がそういう事情を知らずに余計な口出しをして、発生基準のシステム構築を決めてしまっていたのである。これだけはどうにもならなかった。トラブル必死と腹を括らざるをえなかった。
  親会社Ko藤社長の指示は四つだけ、簡明だった。
①予定通りに合弁会社を立ち上げる
②3年で黒字化する(どちらの会社でも臨床治験検査部門は赤字だった)
③帝人臨床検査子会社を買収する
④以上の仕事を3年で完了すること
 仕事を引き受けるにあたって、合弁会社での経営判断はebisuに任せてくれるように条件を出したら、二つ返事で了解してくれた、切れ者で豪胆な人だ。ebisuは89年に購買課で機器担当をしていたころに帝人の臨床検査子会社の経営がうまくいっていないことをつかんでいた。染色体画像解析装置の購入でどういう状態なのかよくわかったのである。だから③は②をやり遂げ、きちんとした条件で交渉すれば帝人本社側に異論がないと読んでいた。だから、3年という仕事の完了条件を二つ返事で引き受けたのである。出向するときに同期入社で同じ年齢のH本さんから「ebisuさんが3年と言ったらおそらく余裕で2年だね」と笑っていた。④の条件はKo藤社長とebisuの口頭での約束だからだれも知らなかったはず。Ko藤社長もあんまり当てにしていなかったのではないか?おまけくらいに考えていたのかもしれない。思っていることをはっきり言う人だったから、裏も表もなしで、仕事のしやすい人だった。もちろん、そういうタイプではなくてF田創業社長のような人物でも、今度はしっかり期待にこたえる自信はあった、手痛い失敗経験が教えてくれたから。
 仕事はあまり細かいことをごちゃごちゃ言われたら身動きが取れない。目標だけはっきりしてもらえばあとは任せてくれたらいい。こちらは期限内にちゃんと仕事を完了するだけ。必要なバックアップはすべて希望通りにしてくれた。こちらからお願いしたわけではないが本社の営業担当取締役とラボ担当取締役を非常勤取締役として応援につけてくれた。向こうが帝人本社の常務取締役を非常勤役員に送り込んだのでバランスもあったのだろう。
 帝人は紳士だった。黒字化して帝人臨床検査子会社の吸収と合弁会社の株引取りの話をしたら、当時のM専務とI常務が笑って応じてくれた。「初めてですよこんなこと、合弁会社の運営は大体うまくいかないことが多い、最後は損失が膨らみ帝人側が引き取ることになる」、そう言ってくれた。30年経営しても経営がうまくいかなかったから、帝人側はこの事業がお荷物だったのである。
 
 帝人と治験検査事業で合弁会社設立の話が進んでいるころebisuは子会社中で一番古い練馬の会社で仕事していた。出向して1年ほどたってようやく社長のMi輪さんとの信頼関係が強くなり、二人でラボ移転と大きな事業構想案を作成中だった。面白くなったところへ、出向前提にプロジェクトへの参加指示があった。Mi輪さんいわく、「これは親会社社長からの要請ではなく命令だ、俺やebisuに拒否権はない」と沈痛な表情だった。老朽化した練馬ラボの移転を計画していたのだが、結局移転はできず、現地建て替えになったと聞いている。数倍の規模にするつもりだったから、数百億円の投資案件だった。親会社を含めたラボの再編構想だったから、もう少しつめてから親会社の社長のKo藤さんへ相談にいくつもりだった。八王子ラボの移転が浮上したらさまざまなところから邪魔が入るから、すぐに実行できる具体案をつくって既成事実化してしまおうと考えていた。八王子ラボに5年いたのでラボの中はどの検査部門も離れたところにある業務部門も知り尽くしていた。用事があるたびに必ず現場へ出向いて担当者と直接話すことにしていた。検査機器を2年担当した後、学術開発部門で検査試薬の共同開発や海外製薬メーカ向けラボ見学対応をしていたから、各検査部で使用している検査機器には精通していたし、仕事を通じて全検査部門にそれぞれ強いコネクションを築いていた。仕事を通じて課長や係長クラスに顔が広かったのである。なにしろ八王子ラボに行く直前まで、本社管理会計課で全社の予算を統括していたのだから、開発に失敗した簿価2000万円以上の機器の後始末や臨床検査部のLANが失敗して50台のパソコンが要らなくなったのも大事にならないようにこちらのほうから処理してあげた。担当者の痛い勉強になったのだからいいのである。研究開発に必要な予算措置を裏からしてあげることができた。利益の大きな会社だったから、稟議書や協議書をの書き方ひとつで研究開発にはいくらでもお金が使えたのである。要は書類の書き方ひとつ、そして予算申請の仕方ひとつで数千万円単位のお金が使えるのである。面白いと思ったことは何でもやれる会社だった。八王子ラボは本社に強いコネクションがなかったので、対立感情があってギクシャクしていたから、私の八王子ラボへの異動は「渡りに船」だった。本社管理会計課からの異動は東証Ⅱ部上場準備で中途入社3年目のことだった。前職の産業用エレクトロニクス輸入商社でマイクロ波計測器や質量分析器、液体シンチレーションカウンターなど取扱商品についてやった勉強や磨いたシステム開発技術が生きた。もともとの本職は経理屋さんなのであるが、経理の実務はほとんど担当したことがない。予算編成と統括管理はプロジェクトをいくつか抱えながらエレクトロニクスの輸入商社でも臨床検査会社でも入社翌年に担当した。

 八王子ラボは敷地面積が狭く、業務量が増える都度敷地を買い増したので不便だった。5階建てのラボは垂直移動を伴うので、液体の検体を事故なくハンドリングするために平面の150mぐらいのラインがほしかったのである。練馬のラボも5階建てだった、これでは機械化が複雑になる。中央に検体の流れをつくって、その脇にそれぞれの検査部門をずらりと配置してみたかった。

 帝人の臨床検査子会社との臨床治験部門の合弁会社設立で、羽村ラボにも関係することになったのだが、90年ころ八王子ラボの検査機器担当としてこれらの動きをすべてモニターしていた。検査機器担当としての2年間がなければこういう仕事はできなかったかも知れぬ。天が先読みしたかのように必要な仕事を経験させてくれていた、現実はうまくできすぎている。でも 一本調子にはいかない、かならず予定外のドラマを用意してくれているから面白い。

 福島県の臨床検査会社は関連会社だから、子会社・関連会社No.1の高収益会社になったら、慣例上その会社の社長を本社役員にしなければならなくなる、それも嫌だったのだろう。わたしとはウマがあったが、たしかにSRLのカラーにはそぐわない「暴れん坊」気質の男だった。親会社創業社長のF田さんの判断は正しかったのだろう、わたしは余計なことをしたことになる、はっきりそれがわかったから「わかりました」と一言、それだけで引き下がった。お二人さん、ぎょっとした顔をしたのだけ覚えている。あっさり引き下がるとは思わなかったようだ。
 3年の出向だったはずが、実行可能な経営改善案を作ったために、15ヶ月で本社に戻されてしまった。3年間で赤字の会社を黒字にできるなんてやれっこないと見くびられていたのかもしれない。出向直前に千葉の子会社の経営改善に本社管理部門(関係会社管理部)としてタッチし、臨床検査会社の劇的な経営改善は予行演習済みだったから、染色体検査の件がなくても黒字化は簡単だった。具体的なプランを示して出向会社の社長を説得すればいいだけだった。福島県の会社のシステム部門が障害だったが、そちらも調査のときに釘を刺し、1年間かけてしっかり手を打ってあったのである。
 あの計画を実行できたら売上高経常利益率が20%を超えただろう。親会社の2倍の利益率だった。高収益会社の株式公開で耳目を集めることになっただろう。目の前に仕事がぶら下がるとそれに夢中になるところがebisuの長所でもあり欠点でもある。本社社長の本音を読もうとは思わなかった、直球しか投げない投手のようなもの、おろかだった。(笑)

 15ヶ月間一緒に仕事したN科さんからの電話で、なつかしいことをいろいろと思い出した。



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