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#3900 佐藤章夫、早世した才能:日本の臨床栄養医学の草分け Jan. 19, 2019 [22. 人物シリーズ]

 理由もないのに、なんとなく亡くなっているのではないかという気がしていた。こういう感覚はたまに訪れるのだが、微弱な電波のようなものだから真偽がはっきりしない。あいつはわたしよりも9つ年下だからまだ若い、気のせいだと思って感覚が発する嫌なシグナルを無視していた。
 19日真夜中に突然に、亡くなっているとはっきり直感が告げていたので確信に変わった。考え事をしていて、ある言葉をきっかけに、突然大きな警報音が鳴り響いたとでもたとえたらいいのだろうか、慌てて「ネットで検索したら平成29年7月19日に逝去、1年と半年を経て事実を知った。ずっともやもやしていた感覚に合点がいった。いままで気がつかずにすまなかった。

 栄養医学研究所長 佐藤章夫、59歳。

 遅ればせながら、部署が違ったので、彼の要請を受けて立ち上げた二つのプロジェクトで一緒に仕事し、栄養医学研究所立ち上げのときに相談がありほんのすこしだけお手伝いた経緯をつづり挽歌としたい。
 アキオが40歳前後のころに1年間ほど短期米国留学して臨床栄養学の博士の資格を取ったのはミレニアムの直前だった。米国の学位をとって栄養療法を事業の柱とする企業を立ち上げ、日本に臨床栄養学を広めてこの分野の事業の草分けとなった。勉強熱心な男で、爪や頭髪を検体とするミネラル検査や栄養学に基づく治療を医師と連携してやっていた。自社で調合したさまざまなミネラル製品も扱っている。栄養医学の根拠をもった処方なので、安心して利用したらいい。ミネラル不足からくる疾患は多い。たとえば亜鉛不足でおきる味覚障害とか、特定のミネラル不足が引き起こす情緒不安定、糖尿病や口内カンジタ菌による口内環境悪化など。学術的な情報が満載のブログを書いていた。
*うつ病の栄養療法処方箋
http://www.nutmed.sakura.ne.jp/?fbclid=IwAR30owEeOWl3ytjIb6AabttGzWYkNTk4RD4KEnMjBU7TSGSUEO2-YZdbS9I

** さまざまな臨床症状から栄養療法への案内板
http://www.nutmed.sakura.ne.jp/?fbclid=IwAR30owEeOWl3ytjIb6AabttGzWYkNTk4RD4KEnMjBU7TSGSUEO2-YZdbS9I

 知ったのは86年だったが、営業職の彼とは仕事で接点がなかった。あいつがSRLの学術営業部にいた1988年ころに仕事で接点ができた。米軍と慶応大学医学部から出生前診断検査のトリプルマーカMoM値の検査依頼をかれが受けたのだが、もちろん日本で実施している検査機関はなかったから、学術開発本部スタッフの東さんが佐藤君から依頼で米国から文献を取り寄せた。厄介なことに。通常の患者情報以外に妊婦の体重、妊娠週令、人種を入力しないと基準値(MoM値)の計算ができない。システム部へ相談したら「できない」とあっさり断られ、困っていた。
 東さんは米国滞在歴30年ほど、米国での実務経験のある臨床検査技師だった。彼女はわたしの向かいの机に座っており、購買課から異動してきたばかりのわたしに、「システム部がダメと言っているの、ebisuさんならなんとかできるでしょ、大事な仕事だから学術営業の佐藤君を助けてあげて」「資料はこれよ、見て頂戴」と英文の学術文献資料のコピーを渡された。「お姉さん」からの依頼だから否やはなし。ざっと見ただけで担当部門が「できない」と断った理由がわかった。余計な情報(体重・妊娠週齢・人種)を入力しなければならないが、そのために基幹業務システムの改造なんてやれるわけがないのである。入り口部分だから大掛かりな改造になる。「ebisuさんならやれるでしょ」、ご期待に応えることになった。社内で誰もできない仕事がもちあがったときの切り札だった。分野を問わない。わたしは営業所のパソコンで処理するように実務デザインした。売上を確保したい沖縄営業所にこれら3項目の入力を営業所のパソコンでさせる。基幹業務システムの監査結果データを営業所のパソコンでデータを受け取り、ファイルの結合処理をして、営業所のパソコンでMoM値を計算するようにデザインした。基幹システムの入力部を将来見直すことがあれば、そのときに3項目の追加情報を任意に入力できるようにすればいい、時間稼ぎの案であるが、これなら、システム部門はノーと言わない。検査報告書もラボ側で出すなら沖縄営業所で入力したデータを八王子ラボへ送信してラボ側でファイルを結合処理すればいいのである。何をどのようにやろうともシステム部門の協力は必要だ、パソコンでのプログラミングなので、C言語の扱えるプログラマーを1か月使えるようにシステム部へ依頼を出して人の応援をもらった。システム部門は当時は汎用大型機を使っていたので、C言語の扱えるプログラマーは数人しかいなかった。システム部のU野君が適任というので、HP-43cでカーブフィッティングして求めた計算式でプログラム仕様書を書いて彼にプログラミングしてもらった。こういう予算はいくらでも調整できる。もともと本社で予算編成と統括管理をしていたから、予備費から予算振替は紙を一枚書くだけでフリーパス。ラボと本社の融和になくてはならぬ調整役だった。U野君にはご褒美に3日間の沖縄出張に同行できるように手配した。

 ニュヨーク州から取り寄せた文献には二次曲線回帰したグラフとデータが載っていた。1980年代終わりころのパソコンでは統計処理なんてできないので、日ごろ使っていた科学技術用計算機HP-41cxの曲線回帰ソフトを使って、線形回帰分析をして式を求めた。計算式がないとプログラム仕様書が書けないから、この仕事を受けるには科学技術計算用のコンピュータで線形回帰ソフトを使うのが不可欠の条件だった。研究部に同じコンピュータ使っているのが一人いたらしく、あるとき特殊検査部の課長が「この計算機を使っている人はちょっと変わっている人、八王子ラボでは研究部に一人だけいる」と教えてくれた。誰だか知らぬがその人と同列のヘンジンにカウントされた。(笑)
 検査はRI部ともう一つの検査部門でやるように調整し、多変量解析は応用生物統計の専門家である研究部の古川君へ直接依頼、製薬メーカの2社の担当者を呼び、数千人分になるので検査試薬の無償提供をお願いした。数年にわたる共同研究になるから1億円近く金がかかるので大学側の負担はきついだろうから、検査料金と多変量解析はタダでやるように社内と社外の調整してやるよと章夫へ伝えたら、大喜びだった。
 関係する製薬メーカ2社に稟議書を起案して予算処置をしてもらわなければならないから、研究成果を販促に使わせることを条件に数千万円分の試薬提供を飲ませたのである。SRL社内の予算措置もした。就社した年と翌年の2年間全社予算編成と管理の統括業務をしていたから、電話一本で根回しして、稟議書を起草して上司の学術開発本部長I神さんの印鑑をもらうだけでいい。数日でこんな離れ業をやれるのは社内には他に誰もいない。

(それまで購買課で機器購入担当と製薬メーカ各社から仕入れる試薬の価格交渉数十億円分を担当していたから、製薬メーカの営業は顔なじみ、価格交渉には製薬メーカの担当役員が必ず同行していたから、そこまで顔が利いた。ようするにすぐに言うことを聞いてくれた。どこでどう出世して化けるかわからなければ取引先のみなさんは言うことを真剣に聞いてくれる。
 異動のしかたが前例になかったからだろう。入社早々上場準備のための統合システム開発を8か月で干渉し同時に予算編成と予算の統括管理をして、八王子ラボの購買課へ検査試薬のコストダウンの提案をしたら言い出しっぺだから、おまえがやってみろと価格交渉を任され2か月間の社内出向、終わると同時に異動辞令が出た。わたしを購買部門で使うのかとあきれたが仕事は楽しい。職権を利用して八王子ラボの検査機器全部を固定資産台帳を使って実地棚卸しながら一つ一つ調べた。2か月間かけた検査試薬のコストカットは役員数名にも協力してもらって目標値20%の材料費カットは実現した。以後3年ほど繰り返した。購買在庫管理システムの後始末と危険物の管理用のコードなど組み込んだ追加開発もやった。メーカとの検査機器の共同開発を何件か担当した。産業用エレクトロの輸入商社で仕事したときに、さまざまな理化学機器や計測器が取扱製品だったから、欧米50社の尖端商品の技術営業向けセミナーを5年間聞き続けていたからできた。染色体画像解析装置の開発はニコンの子会社とやっていたがうまくいかず、後始末。エジンバラの企業が開発した染色体画像解析装置を3台一気に導入した。これは検査管理部の緒方君と石原染色体課長との仕事。ファルマシアLKBが開発したフィルター方式の液体シンチレーションカウンターを国内初導入。これは「画期的だった。バイアルを山と積んで、それに検体をいれてガチャガチャ動かしていた。地震があったら怖いと検査担当者が怖がっていたが、紙フィルター方式のシンチレーションカウンターでは50検体くらいを25㎝×15㎝くらいの紙フィルターですむ。検査室はガラガラになった。購買課の次は学術開発本部の石神取締役に引っ張られて本部スタッフに異動。開発部の仕事である製薬メーカとの試薬の共同開発手順の標準化はPERTチャートを応用して作成した。学術情報部の仕事だった海外取引先からのラボ見学対応も担当した、ラボ内の業務部の分注システムやRI検査部のデータ管理システム、各検査部でやっている検査項目や検査方法などの案内しながら説明するのである。そういう一見滅茶苦茶な異動は後にも先にもなかった。そのあともまったくイレギュラーな異動をし続けた。学術開発本部から関係会社管理部で子会社・関係会社の管理、赤字子会社の黒字化、生産性を3倍に挙げるための新システム導入などの仕事を担当させてもらった。そういうことをしながら依頼のあった臨床検査会社の財務分析をし、業務改善提案書を作って、2社の買収と資本参加交渉をまとめ、郡山の検査センターへ役員出向、1年半で本社へ戻り経営管理部門で、社長室と購買部の兼務。つまらないので一番古い子会社へ無理やり異動しラボ新築計画を進めているところで、親会社社長の近藤さんから帝人との治験合弁会社を担当しろという指示、2年たたないうちに臨床治験合弁会社の経営を担当した。仕事はとっても面白かった。)

 稟議書もわたしが書いたし、手配もわたしが全部済ませたので、行きがかり上沖縄米軍のための出生前検査導入はわたしがプロジェクトマネジャーをすることになった。
 1か月くらいでシステムができ、検査受託体制が整ったと説明に沖縄米軍へ学術開発本部のI神取締役とプログラミングを担当したシステム部のU野君、そして学術営業部の佐藤君、わたしが4人で沖縄米軍を訪問して説明した。沖縄の司令官大喜びだった。女性兵士の出世以前検査は米国の法律で義務付けられていたので困り果てていた。
 出張したのは6月、梅雨時期の3日間、一日だけ海水浴に行った。曇天でよく雨が降っていたが、海岸につくと晴れ間が出て、1時間ほど泳ぎ、シャワーで海水を落としていたら、雨音がするのでみたらまた雨。沖縄の露時期はほんとうのよく雨がふる。
 夜お酒を飲みに出かけた。つまみに豚の耳がでた。生の耳をスライスしたもので、わたしは食べられないが、佐藤君は平気で食べていた。「ebisuさんおいしいよ、食べたら?」と笑顔で勧めてくれたが、勘弁、とても食べられない。わたしをからかって面白がっていたな。すぐになついて弟みたいなやつだった。

 沖縄米軍の成果を踏まえて、慶応大学医学部へ日本標準MoM値の共同研究プロジェクト案をもって説明に行った。信濃町の慶応大学病院では3時間ほど待たされたのではかなったか。診療がすむまでは打ち合わせができないのは当たり前、営業はなかなか辛抱がいるなと、その時に思った。
 初秋ではなかったかな、病院へ行く前に信濃町駅前にあるカレー屋さんで昼飯を食べた。4坪くらいしかないような狭い店だったが味はとびっきり、香辛料を自前で調合していた。夏の2か月間はインドや東南アジアを回っていろいろな香辛料を試すので、店が長期間休みになると聞いた。佐藤君が「ebisuさんおいしいカレー屋さんを知っているから、病院へ行く前に案内します」とかれがニコニコしながら言ったのをいまでも覚えている。確かにうまかった。あいつはわたしがカレー好きなことを知っていた。
 このプロジェクトは大成功、数年かけて6000人ほどの妊婦の検査をして日本標準値が定められた。黒人のMoM値が白人よりも2割程度高いのは文献を見て知っていたから、日本人はその間くらいだろうと見当をつけていたのだが、大外れだった。白人より3割も高かったのである。基準値を低い方から並べると「白人⇒黒人⇒日本人」ということがわかり、学術的な価値の高いプロジェクトとなった。
 新し検査法が2年ほど前に登場するまで、この産学協同プロジェクトが定めた基準値が二十数年間デファクトスタンダードであった。
 やはり佐藤君とタッグを組んでやった成果である。研究部の古川君の協力も重要なカギだった。応用生物統計の専門家は日本では少ないのである。その少ない中でもかなり優秀だった。古川は一度産婦人科学会で有るドクターが使った検査データに疑義を主張し、そのドクターが激怒。創業社長の藤田さんが謝罪に出向いたことがあった。あいにくと慶応大学病院産婦人科のドクターだった。「ebisuさんの頼みだからやるんだからね、他の人からなら受けてないよ」と笑いながら引き受けてくれた。そのプロジェクトが終わるとまもなくかれは応用生物統計の会社を立ち上げ、独立した。プロジェクトに優秀な人間を集めるのはふだんの人脈がものをいう。コミュニケーション能力は相手の専門分野の最低限の知識はもつこと、そして職人としての腕に敬意を払うことで醸成される。
 慶応大学病院との共同プロジェクトもSRL側のプロジェクト・マネジャーはやはり行きがかりというか、ebisuが担当することになった。ほかに担当できる社員がいないような仕事は必ず回ってくるようになっていたのはSRLに転職直後から一貫して変わらなかった。お陰様で、やりがいのある美味しい仕事がたくさんできました。(笑)

 わたしが15年間勤務したSRLをやめて、誘いのあった首都圏の300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事へと転職し、病院の建て替え仕様や県庁や横浜市役所担当部署と交渉していたころに、佐藤君も数年間独立の準備をしてSRLをやめた。臨床栄養学の学位(博士)を米国でとったので、そちらの新規事業をするということだった。
 立ち上げに協力してもらいたいと要請があったので、少しお手伝いした。要点を伝えただけで、かれは会社の登記も定款作成も自前でやった、栄養医学研究所はそうして立ち上がった。
 最初の数年間だけ監査役を引き受けたが、ふるさと根室へ戻ったのを契機に監査役辞任を認めてもらった。事業が軌道に乗って利益がたくさん出せるようになったらいっしょにやりたいという申し出が当初あったが、会社立ち上げまでがわたしの協力できる範囲である、そういう気は毛頭なかった。いままで同僚に会社を立ち上げるので3度、共同経営者になることを頼まれたことがあるが、3度ともお断りした。
  一つ目は軍事用と産業用エレクトロニクスの輸入専門商社時代に東京営業所長のE藤さんがある米国メーカから日本法人設立の相談を受けているので、一緒にやらないかと誘われた。E藤さんは営業活動で抜群の成果を上げただけでなく、営業実務を根本的に変えて営業効率を上げる方法を普段から考え抜いていた、そういう意味で切れ者だった、わたしが人生の中でであった営業マンではダントツにナンバーワンである。
 二つ目は、SRL時代に同時期に入社したK藤が会社を辞めて健康関連事業を立ち上げたが、1年もすると経営コンサルタントの仕事が舞い込むようになり、SOSで900万円の仕事を一度だけ手伝った。あ、無報酬ですよ。あの程度の仕事なら年間20件は消化できただろう。取締役就任を依頼され、SRLに非常勤取締役だから仕事に支障は出ないがと届けたら、人事部長から「認められない」とシャッタアウト。業界ナンバーワンのSRLの看板を背負ってやる仕事はスケールが大きくて魅力があった。その後K藤からSRLを辞めて副社長に就任してほしいと要請があったが、断ると、次には社長に就任してほしいと打診あり。べつに職位に不満で受けないわけではなかったので誤解のないように説明を尽くした。友人だから頼まれてお手伝いできる範囲で応援しただけ。でも経営コンサルタント事業は専門外で荷が重かったようだ。奥さんは東大理Ⅲ、海外の化粧品メーカで開発部長をしていた。当時41歳くらいだっただろう。K藤はSRLへ同時期に入社して、八王子ラボでの研修で一緒になった、それ以来の付き合いだった。誘われて二人だけで新宿界隈でよく飲んだ。
 佐藤君からの誘いが三つ目だった。その時は社会的に意義のある仕事だと思ったが、自分の関与の必要のない仕事だと感じた。佐藤君は佐藤君自身の信ずる道をまっすぐに歩めばいいと思った。誘われても、感覚の命ずるままに動く、大事なことに損得勘定は入れない、欲得が絡むと判断を誤るからだ。わたしにはわたしの人生がある。

 FBのブログにアップされている平成27年3月頃の佐藤君の写真がずいぶん窶(やつ)れているので驚いた。まるで癌で退院した直後のわたしのような感じだった。体力が失われて、さぞかしたいへんだっただろうと想像する。あの写真の姿と手術後の自分を折り重ねてしまう。わたしと話すときはよく笑ったから、親しみがわいてなんとなく弟のような気がしていた、めんこかった。
 君はいい仕事した、認めるよ。でもね早すぎるよ、早すぎた。
 いまはただ冥福を祈ります。

*FBの佐藤君のブログ
https://twitter.com/nutmed_1

**日本栄養医学食養学会「理事長(佐藤章夫)逝去のお知らせ」
http://janmf.com/osirase0727/

<余談>
 佐藤君は1990年ころSRL学術営業部に所属していたのだが、その部門の上司は窪田規一さん、東証1部上場した注目のベンチャー企業、ペプチドリームの現社長である。SRLにはユニークな人材がいた。(笑)
 創業社長の藤田さんは富士レビオとSRLの2社を現役社長で東証一部上場させた稀有な人、その跡を継いだ近藤さんも医師で切れ者。SRLの一部の社員の中にはそういう「遺伝子のようなもの」が流れているのかもしれない。

*ペプチドリーム
https://www.peptidream.com/



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