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#3280 ショッチャンのお通夜  May 4, 2016 [22. 人物シリーズ]

 ノザワのショッチャンの愛称で生徒から慕われていた先生の訃報に接した。今日がお通夜である。
 わたしは商業科目で1年間だけショッチャンの授業を受けたことがある。高2のときだから、1965年、東京オリンピックの翌年である。教師になってまもなく作成したのではないかと思えるような黄ばんだ古いノートを参照して堂々と板書していた。その姿がなんとなく憎めなかったのは、授業の手を抜いているようには見えなかったからだろう。マーケティングが授業内容に含まれていたように記憶するが、科目名は「商事」だったかな。
 お酒が好きで、顔色が土気色、肝臓を壊しているのか日焼けしているのか高校生のわたしには判断がつかなかった。でも、似たような顔色の大人はたいがい肝臓を壊して早く死んでいたので、ショッチャンも長生きできないのではないかと心配した。数年前にお祭りを見物しているショッチャンをみて、そんな心配が杞憂だったことを思い知らされた。どこかで節制されたのだろう。
 人に意地悪をしない、生徒に分け隔てのない器の大きな人だった。
 あるとき、こんなことを若い先生二人に言ったと人づてに聞いた。
 「ebisuが先生になって戻ってきたら、おまえたち、いまみたいにぼやぼやしていられないぞ!」

 大学へ行くつもりはまったくなく、ひたすら公認会計士の受験勉強をしていた早熟で生意気な高校生だったが、数人の先生が目をかけてくれた。もちろんわたしを徹底的に嫌らった先生もお一人いらっしゃった。1年生のときの担任である。現代国語と古典の担当だったが、小説や論説文の理解がこの先生とはまったく違った。60歳に手の届こうとする先生と15歳のわたしの感受性が同じはずはないから、違って当然で、現代国語の答案はすべて自分の解釈を押し通した。黒板に先生が書いたとおりでないとマルをつけない、別の解釈を許さない先生だった。反抗は答案の上だけのことで、ふだんは従順に見えただろう。逆鱗に触れたのかクラスでNo.1の得点の「古典」も20段階評価で50点がついた。ここまで来るとあきれてしまった、器が小さなと思ったので文句も言わなかった、軽蔑したのである。以心伝心、ちゃんと伝わっていた。しっぺ返しがあった、1年次の終わりのクラス替えでその先生はわたしを追い出したのである。先生と生徒のはずだったが、同じレベルで感情的になるのはいただけない。新しく担任となったT岡良夫先生(東京都大田区にお住まい)は、首をかしげて「ebisu、お前何をしたんだ、よほど嫌われたようだ、おまえはほんとうは元のクラスから動かないはずだった、そういうルールがある」、わたしは笑って「たしかに嫌われたようです、拾ってくれてありがとうT岡先生」と応じ、余計なことだから嫌われた理由は言わなかった。2年になって現代国語は空手の有段者の新谷先生に変わった。この先生に変わってから現代国語の点数が上がった。人には馬の合う合わぬがあって当然、よいトレーニングになった。
 当時の根室高校で日商珠算能力検定1級合格者はわたしだけだったので、珠算部員ではないのに、道内の高校珠算競技会参加メンバーでもあった。競技会のときだけの「助っ人」だったから、珠算部顧問のT岡先生は喜んでわたしを拾ってくれた。
 ところで、わたしの前に日商1級に合格したのは、根室高校から東大現役合格した横田先輩のみ。当時の根室高校校長が「東大を受験しようという身の程知らずがいる」と公言して、横田先輩が現役合格したので大恥をかいたという逸話が残っている。横田さんは中標津からの転校生だったから、余計に嫌われたのだろう。よそ者を嫌う風が根室にはあったが、いまではそれが裏返しになっている。高校普通科で日商珠算能力検定1級に1年間のトレーニングで合格するような集中力の高い生徒は滅多にいるものではない。東大を卒業してから道庁に勤務し、上川支庁長で退職したと曙町の珠算塾の高橋先生(故人)から聞いている。
 T岡先生に拾っていただいたのは珠算のお陰、「芸は身を助ける」のである。高橋尚美先生にも感謝の言葉を書いておかねばならない。
 担任のT岡先生と珠算塾の高橋先生の間には長年の確執があった、事情は書かないでおく。とにかくわたしが間に入ることで、その確執が終わる時期がきた。喉に刺さったとげが抜けたことで、商工会議所主催の根室市珠算大会がはじめて開催された、開催場所は根室高校柔剣道場。選手宣誓をやれと、高橋先生から大会前日に原稿を渡された。第一回大会では暗算競技だけ選手として出場して優勝させてもらった。主催者側でもあるから、それ以上欲張るわけにはいかなかった。読上算競技では数人の珠算塾の先生たちと交替で受け持った。決勝戦に近づくにしたがって読み手はたいへんである。10億の単位の数字を高速で読み上げる、読み間違えることが許されない。慣れているつもりでもむずかしいのである。高校の先生では10桁の読上算をこなせる人はいなかった。高校生で主催者メンバーだったのはわたしだけ、特別扱いだった。根室商工会議所側が両方への参加をよく納得したと思う。高橋先生の影響力が大きかった。高橋先生は高校生のわたしを、帯広であった全珠連の集まりにも同行してくれた。当時は釧路根室間は砂利道だった、行きか帰りに十勝川温泉に一泊、高校生での参加はわたしだけだった。高橋先生は何度も商工会議所珠算能力検定1級の満点合格に挑戦していたが、残念ながら、五科目(乗算20題、除算20題、見取算10題、伝票算10題、暗算10題)の満点合格は果たせなかった。いつもどれかの科目に一つだけミスがあった。満点合格は半分の時間でやれても、なお及ばない領域である。当時は全珠連の段位認定試験はまだ権威がなく、受験する生徒はいなかった。日商珠算能力検定1級満点合格が最高峰だったのである。どの科目でも、高橋先生のように努力と精進を惜しまなければ、すばらしい授業になるにちがいない。
 恩義のある先生がもう一人いらっしゃる。北見北斗高校出身の白方功先生(故人)、簿記と工業簿記の担当だった。2年生のときに神戸商科大学への進学を熱心に薦めてくれた。1年生の終わりの春休みの10日間ほどを工業簿記の予習に充て、問題集1冊を全部やりきった。普通科なら数Ⅱ・Bの問題集を一冊、1年生の春休みの10日間で独力でやりきる程度の勉強である。授業が始まったときにはレベルを上げて、商工会議所簿記能力検定1級の参考書と問題集(論述問題が半分出題されるので、大学受験難関校2次試験よりも難易度が高い)、そして公認会計士2次試験講座の原価計算論の参考書で勉強していたから、選択科目の工業簿記の成績は群を抜いていた。簿記と工業簿記で常に2番目の成績だったH勢は21歳で税理士試験に合格して、東京有楽町で税理士事務所を構えている、優秀な同期である。白方先生は出張のあるときに、人数分のプリントを用意して、「これをやらせておいてくれ」と授業の管理を生徒のわたしに委ねたことがあった。まるで助教扱いだった。
 何を使ってどういう勉強をしているか話したことはなかったが、テストの答案を見ているから訊く必要がなかったのだろう。スマートな授業をする先生だった。要所要所で確認のためにこちらに視線を送ってくる、うなずくと先に進める、首を横に振ると説明の仕方を変えてもう一度やってくれた。阿吽の呼吸だった、滅多に首を横に振ったことはなかった。「バッキーシラカタ」という愛称で呼ばれていた。ちょっと出っ歯で笑っていることの多い先生だった。子どものように笑うのである、あれは真似ができない。
 3年生になったときに担任のT岡先生から進路相談があり、「お前が都市銀行の就職試験を受けると、行きたい生徒が行けなくなる、就職するなら釧路の日銀支店を受験しろ、学校推薦するから、成績も生徒会活動も充分要件を満たしている」、と言われた。それまで日銀へ就職した生徒は一人もいなかったが、可能性があると判断したのだろう。あるいは、大学進学をもう一度考えろということだったのかもしれない。高卒で日銀の就職試験を受けるつもりはなかったが、同期の一人が銀行へ就職できなくなるという一言が引っかかって、就職活動の時期を見送ってしまった。幣舞橋のところにある元・日銀釧路支店の建物の前を通ると人生にあった分岐点を思い出す。
 その年の8月に同じクラスのK田が「ebisu話がある」と夜8時過ぎに相談に来た。改まった風で、「学校を中退して『ゴルゴ13』の斉藤タカオのところへ弟子入りしようと思う」と言った。決意は固かった。型どおり、「卒業してからではいけないのか」と訊いたら、それでは一番弟子になれないと言った。半年早く決断したので、あいつは目論見どおり斉藤タカオの一番弟子になった。高3の9月に学校を辞めて斉藤タカオのところへ押しかけ弟子にしてもらった、思いっきりのよい奴だ。彼が独立したときにわたしはまだ大学生だったが、所得税申告をたのまれて、領収書を整理して帳簿をつけて決算書を作り、所得税申告書を書いて2回税務署へ提出してあげた。3日ほどの作業だったと思うが、昼飯をうまいもの食わせろというのが条件だった。そのころはまだ公認会計士になるか理論経済で大学院へ進学するか迷っていた頃だったので、法人税法も所得税法も専門書を読んでいた。数年してずいぶん儲かるようになってから、何度か新宿歌舞伎町の店をあいつのおごりで飲み歩いた。
 根室高校のわたしのクラス、Ⅲ-Gは型にはまりきらない個性の強い者が集まっていた。根室商業時代から続いていた総番制度があったが、最後の総番長がうちのクラスだった。わたしたちの代で総番制度を廃止した。総番長のKや副番長Mとは気があった。東京に行ってからもよくつるんだ。女傑の美術部長T山は渋谷にビルを一つ持っている。アンダーグラウンド劇場の世界では昔は名前の売れた人物だった。11PMという大橋巨泉の番組に2回ほど出ていた。漁師の娘で、お汁粉をどんぶりで食べる、こんなことを書いたらカツヨに叱られそうだ。一クラスに集めてまとめて管理しようというのが学校側の思惑だっただろうが、一箇所に集めたら、核分裂反応が起きることを考えなかったようだ。お陰で楽しいことがたくさん起きた。
 進路についてはしばらく思い悩んだのだが、斉藤タカオのところへ飛び込んだK田を見て吹っ切れた。どうなるかわからない未来に漕ぎ出すのも悪くない、高3の12月に両親に相談して不本意ながら大学進学を決めたが迷いはもうなかった。
 中学校の担任の山本幸子先生(故人)が母を2度も学校へ呼び、「この子は大学へ進学する子だから、商業科ではなく普通科に進学させなさい」と粘り強く説得してくれたことがあった。山本先生は両親が普通科進学に反対していると勘違いしていた。商業科へ進学して独学で公認会計士になる決意をしていたのはわたし自身の意志である。銀行に勤務して時々店番をしながら受験するつもりだった。母は2度目に呼ばれたときに、「息子が公認会計士になるので商業科へ進学するといって聞きません、息子の意志です」とY本先生に説明した。そういう経緯があったので、いまさら大学進学するというのは、なんだか引っ込みのつかない妙な気持ちがしたのである。
 人生なにがあるかわからないもので、高校の担任T岡先生の一言「おまえが都市銀行へ就職すれば同期の一人が途を断たれる」、それが人生の分岐点となった、天命かなと感じた。きっかけを与えてくれた担任のT岡先生に感謝している。決断をするまで、いろいろな人が形を変えて後押ししてくれたのである。
 大学院のときにたった一人の同期、S田に誘われて教職課程を履修したので、道立高校の採用試験を一度だけ受けたことがある。5月になってから、突然連絡が来て、来週から留萌の高校へ赴任できるかと打診があった。大きなシステム開発案件を任されていたので、丁重にお断りした。社長が信頼して任せてくれた仕事を放り投げるわけにはいかない、代替できる要員が社内にはいない、縁がなかったのである。ひょっとしたら、根室高校でショッチャンと一緒に教えていたかもしれないと想像するとじつに楽しい。

 昔の根室高校には「購買部」というのがあった。先生たちが1年生から3人を選び、購買部員を決めた。どういう基準で選んでいたのかまったくわからない。美人が多かったことは事実だろう。
 購買部の女の子は男子生徒に人気があった。何をするかというと、お昼の時間にパンと飲み物を販売するのである。昼休み時間が短くなるから、たいへんだっただろう。販売するものに利ざやが載っているから、購買部にはお金がたまる。それを他校訪問と称して道内のほかの高校を訪れることで使うのである。日ごろの労苦に報いる「ご褒美」だったのだろう。それでもお金はずいぶんと残った。余剰金は部活の予算に繰り入れたか、どこかに寄付したか、同窓会へまわしたか生徒会会計を2年間やったわたしにも記憶がない。使途を聞いてはいたのだが、興味がなかった。
(当時の生徒会会計は部活の予算編成を単独で任されていた。各部の部長と副部長を生徒会室に呼んで、予算の折衝と査定をするのである。先輩から任されて特別に2年間予算折衝をやった。帳簿も手書きでつけた。決算書をつくるところまでが生徒会会計の役割だった。最初の年、先輩たちを相手の予算折衝は実績に基づいて、査定額を説明し、公平にやらせてもらった。どなたも文句は言わなかった。それまで歴代の生徒会会計がしっかり予算折衝をやってきたからだろう、権限が大きいと感じた。生徒会会計は会計をやっている先輩が指名した。わたしも慣例にしたがって、先輩に「○○にしようと思いますがよろしいでしょうか」とお伺いを立てて了解をもらってからある後輩を指名した。)
 わたしが卒業した年から、自己推薦ありで購買部員が決められるようになったらしい。購買部員になりたい女子生徒が少なくなかったのだろう。とっくに購買部はなくなっている。
 女房殿は1学年下の購買部員で、昼休みには一緒に働いているから三人は仲がよかった。三人揃って根室にいて、すっかりオバさんになっている。数日前にホクレンショップで買い物をしているT田さんに気がついて女房殿が声をかけた。「こんにちは」とわたしも挨拶したが、笑顔に昔の面影がある。品よくふけました。(笑) もう一人は金刀比羅神社のお祭りのときには必ず見かけます、裏方を取り仕切っているから当然です。目で挨拶するだけ、声はかけません、毎年忙しそうに石段の下でジープに乗ったご亭主とお神輿を見送っています。

 同じクラスに購買部員が三人いました。1年の時には別々のクラスだった三人が2年になって同じクラスになりました。二人は勉強熱心で成績も特別に優秀だった。卒業時の就職先は富士銀行と道銀だったかな、いまでは考えられない就職先。富士銀行は現在のみずほ銀行です。A部さん、M保さん、N山さん。
 ショッチャンは購買部の担当だった、バスケット部もショッチャンだったはず。
 そんな経緯で、女房殿がお通夜に参列することになりました。

 さようなら、ショッチャン、そしてありがとうございました。


<余談>
 1972年の11月に結婚式は根室で挙げたくて、友人たちにセッティングしてもらったが、購買部の顧問だったショッチャンも出席してくれた。あのときの祝辞の最初の一言はいまでも覚えている、大げさにほめてくれたが、まったく嫌味がなくてうれしかった。他の人に同じ言葉を戴いたら恥ずかしかっただろう。あれから44年、女房共々ほんとうにお世話になりました。
  ...合掌


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tsuguo-kodera

 この話は管理人さんの上澄みでしょう。裏に本音の恋のさや当てがあったはずです。管理人様にも源氏のような光る過去があったはず、お釈迦様でも気が付くめい。(笑)
追記です。私のブログも管理人さんと鈴木さんに感化されリンクを入れるようにしました。しかも情報はすべて私から見た本音で書くことにしました。鬼ができる蛇が出るか、怖いです。(笑)まじに南無阿弥陀仏で済ませています。一度また私のバドと実名のブログをアクセスしてみてくれませんか。管理人さんのコメントならそのまま公開いたします。ほとんどの人のコメントも実はそうなのですが。(笑)

by tsuguo-kodera (2016-05-04 18:10) 

ebisu

koderaさん

久しぶりに貴兄のブログを読みました。富士通に入社の経緯と入社後の仕事の状況が書かれていました。
個別の事情をオープンにすることで、これから就職する学生の参考になるでしょう。
形を変えて似たような問題が必ず起きます。そういうことを乗り越えて誰もが育つのでしょう。
何らかの問題にぶつかったときに、自分だけではなく、みんな似たような問題にぶつかり、悩み、歩いていったのだとわかれば、孤独ではなくなります。
一見して、何の悩みもなさそうな人でも、その人なりに苦労を乗り越えてきています。
ゆっくりお書きください。
by ebisu (2016-05-04 22:39) 

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