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#4267 北構保男さんの思い出 June 10, 2020 [22. 人物シリーズ]

 根室の文学博士(考古学)北構保男氏が6/5に亡くなった、103歳。札幌の老人ホームで2年ほど暮らしていたと新聞に載っていた。奥様がなくなられてからもう10年くらいにはなるのでは。根室印刷株式会社創業者でもあったが、体調の関係から会社の方へ顔をお出しにならなくなってから、もう5、6年になるだろうか。会社の方はとうに娘婿の山田氏に任せておられた。
 山田社長が、林子平「三国通覧輿地路程全図(1785年)」を2011年版のカレンダーで見事な復刻印刷をされたときに、「山田がね…やってくれた」とうれしそうなお顔でわたしに「一部あげるよ」と下さった。あの印刷は高度な技術を要するのだろう。東側が上になった、地図である。日本列島が北方領土から沖縄・台湾まで中国とロシアの太平洋進出を阻んで存在することが一目瞭然の地図。そういう地政学的位置に日本列島がある、だから、林子平は『海国兵談』を書いたのだろう。海の防衛という観点から政治家や自衛官そして社会科教師が読むべき本の一つである。別の古地図(改正蝦夷全図(1875年))のカレンダーも同じ年に復刻印刷をしている。塾生に視点を変えて日本列島を見てもらいたくて、林子平の「三国通覧輿地路程全図」はニムオロ塾の壁に貼ってある。「ロシアや中国からみたら太平洋へ出るのに日本が邪魔だね」、北方領土問題を考えるときにこの地図を見ると、一度太平洋への出口を確保したロシアが手放すはずがないと思うのはモノの道理だ。戦争で奪われたものは戦争で奪い返すしかない。それが国際政治の現実であるから、軍事力の背景のない外交交渉は無力、幻想にすぎぬ。経済的な側面からの交渉で領土返還が可能だとしたら、ロシアが経済的に崩壊したときのみ。それがあるかないかは誰にもわからぬ。
*https://ja.wikipedia.org/wiki/林子平
(奥様は根室に2つあった酒造「色媛」の長女と先生からお聞きした。穏やかで品の好い話し方をする方でした。ヒシサンホーマが造り酒屋「色媛」のあった場所、現在の成央小学校のあたりから湧き水を引いて酒の仕込み水に利用していた。角にはその湧き水の水道栓があって、花咲街道沿いの商店は水道栓の鍵を各家で持っていて、飲み水に使わせてもらっていた。花屋のケイコの家の木村さんも、床屋のマーちゃん家の酒井さんも、根室信金向かいのヤッコのお菓子屋さんの「ミドリ」も、洋裁店のユッコん家も、隣の根室の老舗奥田時計店も、ビリヤード店と居酒屋(後に焼き肉屋)をしていたわが家も飲み水は色媛の水道栓からふんだんに出る水を汲んできていただいていた。小学校2年生のときだったか町営水道が敷設され、鉄管と塩素の味がする水道水のまずさに閉口した。裏に住んでいたお茶の大好きなおばあさんはそ「色媛の水」でお茶を飲むのが楽しみだった。好い水で入れたお茶はまるで味が違う。もちろん、ご飯も味噌汁もラーメンも同じだ。そんな話を先生と愉しんだ。)

 2002年11月ころ古里根室に戻って来て、新聞の折り込み広告をお願いに根室印刷へ行ったら、奥の机におられた。以来何度か、会社とご自宅でお話を聞く機会があった。

 学生時代は京王井の頭線沿線にお住まいだったようだ。京王線明治大学前から渋谷まで京王井の頭線を利用することがあったが、京王井の頭線にはあまりなじみがない。昔は沿線はずっと閑静な住宅街だっただろう。国学院大学大学院を卒業されて、根室へ戻られ、先生は最初は新聞社をやるつもりだったという。1942年に道内11紙が統合されて北海道新聞が発足していたので、あきらめたのではないだろうか、それで印刷会社を興した。
 先生は、北国賛歌の作詞者である歯科医の田塚源太郎先生や高坂さんと根室商業の同期である。「長生きも考えものだ、友達はみんな逝ってしまった、もう昔話ができるのはebisu君、あなたくらいなものだよ、たまには家まで話に来い」と笑っておられた。50年近く前の話や先生の旧友の話ができるのは他にはいなかったご様子。田塚先生と高坂さんはビリヤードの常連だったし、田塚先生の二女が小学校、中学校で同級生、高校も1年生とときは同じクラス、男のお子さんがいなかったので、かわいがってくれた。小学校低学年の時に面白がってよくビリヤードの相手をして遊んでくれた。わたしはそれまで田塚先生の出身がどこかを知らなかったが、「かれは国後島の大漁師の家の息子だ」とおっしゃっていた。根室商業から三人そろって東京の大学へ行き、つるんで遊んだそうだ。
 昔は「根室商業⇒歯学部進学」もあり、道東の名門校だった。北構さん同様に田塚先生も175㎝ほどの長身だった。線路に立ちはだかり、手を振って列車を止めて乗せてもらったなんてことも。根室商業の生徒ならと、大人たちが大目に見てくれた時代だった。田塚先生の「武勇伝」である。この話は他の人から聞いた。

 国学院大学大学院へ通っていた時に、北構先生は文部省の依頼でベトナムの王族の一人に日本語を教えていたことがある。文科省からお金が給付されたという。ベトナムは当時フランスの植民地だったから、日本語を教える傍ら、フランス語の勉強になった。あるとき「殿下が日本へ来るので会わせたい」と話があったが、戦局の悪化で実現しなかった。当時の日本政府はベトナムをフランスから独立させるために、王族を日本へ呼び寄せ、支援していた。敗戦後少なからぬ日本人将校や兵士がベトナムに残留し、ベトナム独立に命をささげている。共産主義の北ベトナムのベトコンの精鋭は「生粋の日本帝国陸軍製」であった。ベトコンは生まれ落ちたその時から正規軍として日本帝国陸軍の軍事訓練を受けて育ったのである、だから比類なく強い。フランスが撤退した後、米国の傀儡政権ができたが、それも倒してしまった。統一独立を果たした後で、あの小国が今度は中国軍の侵略に抗して戦っている。米国との独立戦争に勝利した後、同盟軍であったはずの中国が領土拡張の好機とばかり背後を襲ったのである。ロシアと中国の領土拡張は彼の民族の遺伝子に刻まれているようなものだから、油断をしてはならない。現地に残留してベトナム名を名乗った元日本人将校と兵士たちは、故国に戻ることなくベトナム人として彼の地に眠っている。
 いま根室で働いているベトナムの方たちは100名を超えているのではないか。不思議な縁を感じる。ベトナムから働きに来ている人たちを大事にしてもらいたい。

 逝去を伝える6/9付北海道新聞記事によれば、通算18年間根室町議と市議を務めたというから、昭和21年ころに根室町議になっている。先生は大正6年のお生まれだから、27歳の町議。ずいぶんお若い、そして青年実業家で市井の考古学者であった。いまそういう若者がいたら根室はとっても面白い町だろう。

 1964年東京オリンピック開幕のさなかの市長選挙だった。お兄さんだったか当時根室信金理事長ではなかったかと思うが、信金の幹部数名を連れて、お店へ「応援よろしく」と挨拶に見えられた。オヤジはずっと北構さんに票を入れていたのでいまさら頼まれるでもなかった。人柄を買っていた。根室印刷とは道路と家一軒を挟んでいるだけ、ご近所さんだった。大きな声がするなと思うと、北構さんとオヤジが根室印刷と家の間の角で話している。声が大きいのだ。元落下傘部隊員だったオヤジは終戦後、小樽で下駄の卸問屋をしていた知り合いの後押しで梅ヶ枝町三丁目で下駄屋を開業した。それ以来の近所づきあい。
 北構さんは助役だった横田俊夫氏と選挙戦になり、落選した。インテリでものごとの白黒をはっきり言うので地元有力者たちから煙たがられた。あのときに北構さんを根室市長にしていたら、根室の町は大きく変わっただろう。先生は「あれであきらめた、政治から手を引き、会社経営と考古学研究に専念することに決めた。根室の町は何をどうやっても変わらないよ」と根室印刷の応接テーブルで大きな声で話してくれた。そのときの話が耳に残っているので、スキルス胃癌の手術後の2006年11月から古里を変えるためにはどうしたらいいかを考えながらブログを書き始めたのかもしれぬ。4267回目に先生の思い出を書くことになろうとは、そのときは思いもよらぬこと。小石を一つ投げ込んで、波の伝わり方を見たかっただけ。14年間で小さい変化はあったが、町の体質はあいかわらずだ。次の世代を育てることで30年先の根室を変えることになるのだろう。小さな私塾から巣立った者たち数名が協力して30年後の町を変える力の一つになる、根室を変えるのは根室人だ、そうありたい。

 ご自宅へお伺いしたときに、60歳を過ぎてから博士論文を書いて、母校から文学博士の学位いただいたことを話された。発掘作業とそれを論文にまとめているうちに、一冊の本に実を結んだのだろう。オホーツク海沿岸の文化史をまとめた論文が本になっていた。考古学に興味のある根室の若い人たちに読んでもらいたい。市立図書館にあるだろう。博士学位を取得されたと聞いてから、名字に「先生」をつけて話しかけていた。根室で考古学研究を続け、60歳を過ぎてから本を一冊まとめられたことへの敬意である。

 緑町3丁目の角にポンポン屋という釣具や模型などを商っていたお店があったがそこを先生は買われた。考古学の資料が溢れていたから、その整理のための場所だった。洋裁店のユリヤ横山も廃業して売りに出たので買われた。お付き合いがあったからだろう。そこも発掘した考古学の資料を保存するために使われた。自宅には本が3万冊以上ある、考古学仲間から献呈された本が多いと聞いた。発掘した資料をどうするかしばらく考えておられた。数年間に、根室市に寄贈された。何しろ数が多いので、そのご整理が進んでいる。大切に保管して、研究者に公開してもらいたい。

 1972年に結婚式を根室ですることに決め、北構さんに媒酌人を頼んでもらいたいとオヤジに伝えたら、先生は快く承諾してくれた。お仲人さんでもあった。

 子どものころからたくさんの根室の大人が育ててくれた。その中で最後のお一人と言ってよい北構先生が亡くなった。ちょっとばかり寂しい気がしている。
 古里に戻って来てからお世話になりました。ご冥福をお祈り申し上げます。...m(_ _)m

*#3953 北構コレクションの常設展示:オホーツク文化 Mar. 15, 2019
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2019-03-15
 
 #2781 北方領土の地政学的な位置 Aug. 19, 2014
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2014-08-19


 
#2260 東西の古地図に見る日本・北海道・千島:展示会 Apr. 10, 2013
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2013-04-10


 #2264 なぜ松前藩だけが地図をつくれなかったのか? Apr. 16, 2013
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2013-04-15


 <ニムオロ塾の教室の壁に貼ってある復刻古地図(根室印刷株式会社製)>
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