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#5211 同調音読のススメ Apr. 15, 2024 [49.1 英語音読トレーニング]

 1.3倍速(156words/min)のシャドーイングに慣れたので、今週はトレーニングメニューを変更しています。
 手順は三段階。

①まず3回リスニング
聞き取れなかったところや意味がつかめなかったところを、本文を見てしっかり理解します。
②1.0倍速での同調音読25回
お手本にピッタリかぶせて、同じリズムと息継ぎで読みます。シャドーイングのように遅れて読むのではなく、「同時に」です。もちろんテクストを見ながらです。10回目くらいでぴったり重なるようになってきますから、お手本の読上げと音がピッタリ重なる快感を楽しみます。
1.2倍速(144words/min)での同調音読
 26~50回までリピート。

 たとえば今日の放送分では、1.2倍速で、ぴったり重ならないところが一か所あったので、AB間リピートをとめて、そこだけ重なるよう繰り返してみます。納得がいったら、AB間リピートに戻ります。

 今日のNHK英会話本文を例に挙げて説明しておきます。

Ryan : Cynthia, hi! Fancy meeting you here.
Cynthia Ryan! Wow, what a surprise! What are you doing here?
Ryan : I like to read a good book now and then.
Cynthia That’s news to me.
Ryan : Anyway, I heard that you quit as manager of the band.
Cynthia Yes, that was quite a while ago.
Ryan : What are you doing now?
Cynthia I’m teaching English at a high school.
Ryan : You’re a teacher?
Cynthia Yes, it was a long-time dream of mine.
Ryan : That’s really great, Cynthia.


 1.2倍速(144words/min)だと太字の部分が遅れました。原因を調べたら、"quite a while"がつながって「クワィッタ・ワイル」になってました。「クワィト・ァ・ワイル」と発音すると遅れてしまいます。
 リスニングして意味の分からなかったのは、
 "Fancy meeting you here."(まさか、ここで君に会うなんて)
 fancy+動詞-ing形:(驚きを表して)おや~するなんて


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#5210 英語シャドーイング:7630回 Apr. 14, 2024 [49.1 英語音読トレーニング]

 日曜日は月~木曜日分のテクストを各々15回ずつシャドーイングする日です。
 各々すでに80回読んでいるので、ほとんど覚えてしまっています。口が勝手に英語のフレーズを覚えてくれますから、ストレスが少ないのです。覚えようとして読んだらしんどいでしょうね。
 だから、今日は1.3倍速(156words/min)でシャドーイングしてました。目をつぶってやったり、部屋の中を歩き回りながらしたり、椅子に座ってと、いろいろです。テクストのフレーズに慣れちゃっているので、急がなくて大丈夫です。高速シャドーイングはトレーニング時間を短縮できるのでありがたい。

 散歩しながら、120words/minでリスニングしたら、やけにゆっくりに聞こえました。1語1語明瞭に聞こえてきます。やはり、少し速いテンポでのトレーニングが好いようです。

 会話のテンポの遅い映画なら150woreds/minで十分ですが、会話のリズムの速い映画は180words/minでシャドーイングできないと、聞き取りが無理ですね。たとえば、
   映画:"a few gentlemen"
 トム・クルーズ(中尉)とジャック・ニコルソン(大佐)、デミー・ムーア(少佐)が共演している軍法会議物の映画です。この映画のように会話のテンポの速いものは、小説朗読CDで180words/min程度のものを選んでシャドーイング・トレーニングをする必要があります。でも、会話のテンポが標準的なものなら150words/minで間に合います。
 大佐が中佐に"We go way back."と言うシーンがありました。最近ラジオ英会話の本文で出てきた台詞でした。「お前とは長い付き合いだ」、意見とソリの合わない大佐が元は同じ位だった中佐に威圧的に語る場面です。そこのシーンは台詞がゆったり流れます。直後に、「部下(軍曹)の前で俺に二度と楯突くな」と言います。付き合いは長いことは事実だが、俺の方が先に出世した、だから付き合いが長くても、部下の前では俺に異論を言うなという文脈です。センテンス丸ごと覚えてしまった台詞は、とっさに出てきても脊髄反射で理解できます。百回繰り返しましたからね。(笑)
 言い争うシーンは感情のアクセルが踏み込まれますから、それにつられて台詞も猛烈に早くなります。翻訳しないで、英語のままで追うしかありません。この領域では意味が頭に入って来ません。音としては聞き分けできています。10,000回、15,000回、20,000回シャドーイングを繰り返したら、英語のままで意味が理解できるようになるのかどうか、それを知るためにもやり続けてみたいと思います。

 ああ、和文から英文の再生トレーニングをしてます。模範解答と違うところは3回書いて翌日もう一度"Let's try"です。書いてみてわかることもありますから。

 たとえば、「いい匂いよね?」は"Smells wonderful, right?"
  "'(It) smells wonderful."の主語のitが省略された形です。ちょこっと疑問の "right?" も小技が効いています。

 "It smells wonderful, doesn't it?"
 英文としてはいいですけど、模範例文と比べると冗長で、言葉としてのキレがありませんよね。
 まるで中学校の教科書風に見えます。こうして少し分析してみるとNHKラジオ英会話の文例はキレがいいようです。

 日本にいて聴くと話すの英語学習をするって、かかる時間の割には得られる対価が悪い、つまりコスパがとっても悪いと言えそうです。数学の方が数倍コスパが好い。
 それでもどれくらいコスパが悪いのかを、80words程度のものを10,000回音読あるいはシャドーイングして、パフォーマンスがどうなるのかだけは確認してみたいと思っています。たぶん、20,000回までやってから卒業するでしょう。後は回数をグンと減らして好きな小説の朗読CDを楽しみます。


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#5209 心臓超音波検査:39年前の桜吹雪&世界最先端の臨床検査ラボ Apr. 12, 2024  [38. cancer]

 心臓超音波検査をしてきました。検査室に入って、上半身裸になって診察台に横になります。「長いですよ、1時間弱かかります、大丈夫ですか?」と言われて、
「大丈夫です、ところで超音波検査にはどのような資格が必要なのですか?」
と訊いたら、
「わたし検査技師です」
と即答。答え方がすこし妙に感じたので、
「わたしは検査会社にいたことあるけど検査技師さんは検体検査だけじゃなく心臓エコーもやるんだ」
そう伝えたら、
「わたし、(SRL八王子ラボ)細菌課にいました」
  普通は会社名を言うのがあたりまえなのに、会社名は言わずにいきなり所属部署名で答えたことにおどろいて、ああ、SRL社員だったということ。社内での会話なら、会社名は聞く必要がありません、所属がどこかで事足ります。だが、わたしはSRLに勤務していたとは言ってない、「検査会社」にいたとだけ答えたはず。SRLで仕事していたことが前提になった返事だったので、
「いつの入社ですか?」

 答え方が気になった理由がわかりました、面識があったのです。マスクしてたのでわかりませんでした。1985年の入社、小金井公園で桜が満開の時に会社でお花見をしましたが、その時の新入社員でした。
「カルテが回ってきて苗字を見たときにひょっとして...ラボにいたebisuさんが頭をかすめましたが、まさかと...やっぱりそうでした」

 紙コップでお酒を飲んでいたら、花弁が一枚コップの中へ。そのまま飲み干して、「いい桜吹雪だ、散歩してこようかな」と立ち上がると、「わたしも行きます!」と元気な声、風が吹くたびに桜が舞い落ちる公園内を10分ほど一緒に散歩しました。午後2時ころだったかな。美しい桜のせいで腕くらい組んで歩いたかもしれません。風が吹くたびに満開の桜が花吹雪となって散っていく光景とともに記憶に深く刻まれました。
 前年は(2/1に入社して)小金井公園で会社の花見をしました。仕事が終わってから夜桜でしたね。あそこは上野公園に雰囲気が似てます。小金井公園は様子が違います、桜の本数がだいぶ多いようで(ネットで検索したら1400本)、場所が広いこともあって込み合っていません。満開の桜が風が吹くたびに花弁(はなびら)が舞い散る中を歩くのは粋で、ちょっと都会っぽい雰囲気なのです。
 だから、彼女のことを満開の桜が散っていく光景と同じくらい鮮明に覚えてました。

 そして桜が満開のいま、今度は「患者と心臓エコー検査担当者」として再会、顔をじっと見たら、マスクをしたままでも新入社員のころの面影がしっかり残っていました。髪に白いものが混じっていただけ。ちょうど60歳になったと言ってました。こちらはすっかり「花咲かジジイ」になってます。(笑)
 「ebisuさん痩せましたね」
 「スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で手術をしてから10~12㎏減ってます」
 あの当時は腹筋は6パックで68~70㎏の筋肉マンでしたから、細身になりました。よく気がついてくれました。

 お陰で45分間の検査も退屈せずにすみました。丁寧な検査が身に沁みました。

 八王子ラボでは一度だけ立ち話をした記憶があるだけ、37年ぶり、奇跡のような再会でした。なつかしかった。

 そのあと、エコーの動画データは循環器のドクターのパソコンに送られて、それを見ながら診断。
 心房肥大はないし心室も異常なし。収縮率もいいので20代の心臓とかわらないと循環器専門医の女医さん。てきぱきした診察でした。
 薬は万一の時の血栓予防ですから、念のため継続して飲んでくださいと言われて、ゴールデンウィークが入るので40日分薬が出ました。

 血圧120/90mg 脈拍75/分
 NT-proBNPが32.9pg(基準値は125以下)で異常なし。
 ALP(IFCC)が128でhigh、基準値は38-113

 BNPに異常が出ていなければ、心房細動はごく初期で、問題なしなのです。そういうことを理解して循環器専門医の診断を聞いてます。
 ALPは腎臓の尿細管の機能異常にかかわりがあります。国際基準値がIFCCのようです。ALP(アルカリフォスファターゼ)には国際基準値と日本基準値(JSCC)があります。Jの字がついているので「ああ、日本人の基準値だな」と気がつきます。基準値って案外緩くて、ときどき変わったりします。臨床検査会社によって基準値が違うこともあります。年齢によって基準値の違うものもあります。たとえば血圧は成人と高齢者は別。人種によって基準値の違う検査のひとつがALPですが、理由があります。脂質は何度か変わっていますね。どこまでが基準値で、どこからが病気だというのは判断が難しいのです。個人差もありますから。
 過去の記事を調べたら、「#4200アルカリフォスファターゼ少し高め」が見つかりました。4年前に高かったことがありました。

 出生前検査のトリプルマーカ―基準値(MoM値)も人種差の大きい検査です。白人を100とすると、黒人が120、日本人は130です。妊娠週令や体重でも値が違ってきますから、それらと検査値を入れてある計算式で判断しています。この基準値制定に関する妊婦6000人の検体をを集めた3年間にわたる慶応大学産婦人科との産学共同プロジェクトでやってます。プロジェクトのスタートは1990年だったかな。たまたま学術開発本部に異動したときに、暗礁に乗り上げていたのでわたしに「なんとかして」とお鉢が回ってきました。社会的な意義が大きいよい仕事でした。国際的にも意義の大きな研究になったので、担当ドクターは教授になれたでしょうね。費用は検査試薬を製薬メーカー2社に、検査と多変量解析はSRL負担でやりました。こういう調整は社内の技術屋さんと製薬メーカーの両方に個人的なコネクションがないとできません。もちろん担当ドクターとも一度会っただけで、具体的な構想を説明して役割分担を明らかにして信頼関係を築くことも大切です。一つの部署にいただけではできない仕事です。複数の分野の専門知識が必要になります。自慢話ではありませんよ、40年以上も前から、民間企業で重要な仕事は複数の専門分野の職人が集まってプロジェクトを組まないとできない仕事が増えていました。あの当時は時代が変わりつつありました、いまでは複数の分野の専門知識と経験を有していることがマネジメント分野では当たり前になっています。ところが、必要な専門分野のそれぞれに基礎的な理解のあるプロジェクトマネジャーがなかなか育っていないのです。専門用語で話さないと、誤解が生じるので、プロジェクトマネジャーには関連するそれぞれの分野の職人たちと専門用語でコミュニケーションすることが求められます。それぞれの分野にはスキルが高く気難しい職人タイプの人が時々いるので、こちらの力量もしっかり観察される場合があります。「値踏み」(英語ではsize up、音読トレーニングしているアガサの小説に出てきました)されるんです。(笑)

 心臓エコー検査をやりながら、検査技師のKさんは患者さんへの基準値の説明がなかなか難しいと言ってました。絶対的なものだと思っている人が多いので、そうではないことを説明するのがたいへんだと。臨床検査会社の人間同士で話しているときには当たり前のことが、患者さんと話すときには当たり前ではないからです。

 ところで、細菌検査はとっても危険な仕事なのです。結核菌の同定も毎日しますから、空気感染の恐れがどうしてもあります。だからSRLは一度でも細菌検査を担当したことのある社員が将来結核を発症した場合には、治療費はもちろんのこと休業補償まですることがルールになっています。多剤耐性の結核菌が増えているので、万一感染したら厄介ですから、長いこと担当する検査ではないのです。20代の頃に数年間細菌検査室勤務の経験のある同僚が定年間近になって結核を発症しました。細菌検査をしていたことと因果関係があるかないかは誰にもわかりません。そんなこととは関係なしに、とにかく細菌検査室で仕事したことがあればその事実だけで、SRLは約束通り医療費は出しますし休業補償もします。期限に制限はありません。転職してももちろんルールは適用されます。創業社長の藤田光一郎さんは社員思いの人でしたから、創業間もなく決められたルール、彼の経営方針です。
 藤田さんの特命係で2度仕事しました。自己管理の厳しい人であると同時に冷徹な経営判断のできる経営者でした。毎月30項目ほど目標値と実績をメモして管理していました。社員と食事を10回、お客様を20回訪問する、などなど。今月は「20勝10敗」だなんて仰ってました。学術開発本部で仕事したときに、わたしの席の背中が社長室のパーティションでした。毎週、開発部のメンバーと社長が30分ほどミーティングしてましたから、わたしもそのメンバーの一人でした。取締役本部長直属のスタッフだったので、開発部と学術情報部と精度管理室の仕事を同時に担当してました。マネジメントの上手な使い勝手のよい部下だったと思います。本部内で処理しきれないマネジメントがらみの仕事を遠慮なしに片っ端から振ってきましたから。振ってくる仕事が面白かったのです、I神さんとはとっても相性がよかった。異動して半年後くらいに、「数年後にはebisuに使われているかもしれないな」なんて冗談言ってました。取締役学術開発本部長を使うの権限のあるのは代表取締役だけですから、でも買いかぶりでした。(笑)

 入社時は上場準備要員として、経営統合システム開発と予算管理の仕事で経理部へ配属。1年間でシステム開発を完了し、3年目になろうとするときに、検査試薬の20%コストカットを提案し、購買課長が不可能というので、専務が「言い出しっぺのお前がやれ、プロジェクトをつくってやる」というので、2か月間の約束で購買課へ「社内出向」。それまでやっていた試薬卸業者との交渉を辞めて、製薬メーカーと直接の価格交渉、それが首尾よくいって16億円利益が増えました。そうしたら、そのまま購買課へ異動辞令が出ました。富士銀行から転籍した管理部門担当役員である谷口専務が、翌年の価格交渉も担当させたかったからです。3回やりました。合計50億円ほどコストカットしてます。試薬の卸業者には今まで通りのマージンを保障するように製薬メーカーにお願いしました。違反があれば検査試薬の卸業業者から報告が入るようにしてありました。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で試薬の購入と検査機器の購入交渉をしてました。購買課へ異動になってからルーチンワークは購買在庫管理システムの手直しと機器購入、検査機器の共同開発を担当、課内の業務の標準化、それでも暇を持て余してチョムスキーの"Knowledge of Language"を読んでいると、学術開発本部長のI神さんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を採り上げて確認し、すぐに折り返し電話がありました。1989年12月、「俺のところに来ないか?」、お誘いでした。OKすると2日後に人事部から異動辞令が出ました。開発部の製薬メーカーとの検査試薬共同開発業務をPERTチャートを利用して標準化、産学共同プロジェクト・マネジャーや海外製薬メーカからのラボツアー要望への対応、本部3部門の全員の業務棚卸と優先順位をつけて順位の低い仕事を3割カットなど、そういう仕事をしてました。1年半で91年4月に新設された関係会社管理部へ異動し、関係会社と子会社の経営分析と臨床検査会社の買収や資本提携交渉を担当。前職の産業用エレクトロニクスの輸入専門商社で1978年に開発してあった25項目5ディメンションの経営分析レーダーチャートと総合偏差値評価システムが役に立ちました。この仕事でHP67とHP97を使っていたので数値プログラミングを習得してます。1993年6月に資本提携した臨床検査会社へ経営企画室担当取締役で出向。3年の約束が、藤田さんの判断で15か月で出向解除。黒字化の具体案ができたので実行許可をもらいに本社へ行ったら、社長と専務に実行を拒否されました。3年で黒字化できるなんて思っていなかったのです。SRL本社よりも売上高経常利益率が高くなる損益シミュレーションがしてありました。子会社化も出向会社社長に飲んでもらっていましたから、SRLではナンバーワンの業績の子会社が誕生するところでした。子会社社長はSRLでは本社役員兼務です。ナンバーワンの業績なら常務取締役か線も取締役で処遇する必要がありましたから、それを嫌ったのです。1994年10月SRL本社経理部管理会計課長の異動辞令がありましたが、社長室と購買部が兼務になっていました。人事問題で我慢のならぬことがあったので、3か月後に経理部長に子会社への出向を要請、子会社のSRL東京ラボへ出向しました。やりたいことがやりたいようにできないなら、そんな部署に長居するつもりはありません。だけど、他の人にはできない仕事であった、富士通汎用大型機に載せていた購買在庫管理システムの更新は、サーバー・クライアントシステムで仕様書を書いて購買課のシステム担当者に渡してありました。富士通からの汎用大型機で提案書が出ていたので、システム部から出向していた担当者のS君むくれてました。わたしが1984年に経営統合システム開発をしたSEだとは知らなかったのです。素人の管理会計課長がなにをいうかというような横柄な態度でした。仕様書を見ても気がつかないのでは、相手にしませんでした。1週間ほどで実務設計とシステム仕様書を書き上げて渡しました。富士通の提案を廃棄して、クライアントサーバーシステムで購買在庫管理システムがちゃんと稼働してましたよ。経理担当部長も社長の近藤さんもご存じなかった。そんなに短期間で仕事ができる社員はいませんから。普通は実務設計書と仕様書を書くのに半年以上かかります。以前の購買在庫管理システムの外務設計はわたしが半分くらい仕様書を書いてあげてました。買掛金支払管理システムのテストをするために購買在庫管理システムが稼働しないとテストできませんから。3年ほど後で、システム部長のS田さんから丁重な謝罪がありました。「いつぞやはebisuさんのことを何も知りませんで、失礼しました」。彼は病理医、わたしがラボのただの機器購入担当だと当時は勘違いしていたのです。日本臨床検査項目コード制定で一緒に動いたシステム開発課長の栗原さんか、そして沖縄米軍への出生前検査導入でプログラマーとして仕事に付き合ってくれた上野君のどちらかがなにか云ったのだと思います。開発を外注していたNCDさんのSE4名が、一緒に1年間仕事したので私のスキルのほどはよく承知しています。産業用エレクトロニクスの輸入商社時代からオービックの芹沢SE、NEC情報サービスの高島SE、NCDの村山・塚田・鈴木・宇田SEなど業界トップレベルのSEとばかり仕事してました。SRLの統合経営情報システム開発は大型のパッケージスステム開発のような仕事でした。しかも業界初でした。よい仕事に恵まれました。

 目まぐるしく異動、お陰で、退屈しない会社でした。一番古い子会社のSRL東京ラボへ出向し、最後は、その時社長だった近藤さんの特命プロジェクトで、帝人との治験合弁会社の経営を担当して、四項目の指示(期限通りの新会社スタート、黒字化、帝人との合弁解消と子会社化、帝人の臨床検査子会社の吸収)を2年半で達成し、「卒業」しました。100%子会社化すれば経営の全権を移譲されていたわたしはやりたい仕事(移籍する社員の給料をSRL以上にする、いつでも上場できる体制を整備する)ことができなくなります。仕事のできない人が誰か、新社長で回ってくるので、半年前から頼まれていた300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事を引き受けることにしました。シームレスな老人医療と介護を実現してみたいと夢を見てました。数年で目途はつけられます。数年待てばSRLでは50代前半のうちにSRL本社役員でしょうが、50歳を過ぎたらお金儲け仕事からは足を洗うつもりでした。古里に戻って、高校を卒業するまで育てくれたことへの恩返しが何かできないかと30代のころから考えていました。
 96年11月、帝人との臨床治験合弁会社は、近藤さんが社長に就任して初めての一部上場企業との合弁という力量を問われる重要な大仕事でしたから、プロジェクトが途中で暗礁に乗り上げて、それを打開するために急遽わたしを使わざるを得なくなりました。プロジェクトメンバーに一人であるシステム屋のWさんが、「社内でこの仕事をやれるのはebisuさんだけだ」と主張したからです。そのときには子会社のSRL東京ラボで箕輪社長と新ラボ構想の最終段階に入っていました。91年7月に子会社の千葉ラボ(社名SMS)で生産性を2倍にアップする新システム導入「SMS再構築基本プラン」に関係会社管理部課長として関わっていたので、それをさらに進化させた、もっと低コストの世界最先端の自動化ラボをつくるつもりでした。理化学機器の中では臨床検査に使われていた機器には1970年代終わりごろからマイクロ波計測器には標準装備だった双方向インターフェイスバスがありません。購買課で2年半仕事したときに、機器メーカーにしっかりコネをつくっておいたので、SRLへの検査機器導入にはGPIBを標準バスに指定するつもりでした。双方向のバスでないと機器が制御できないからです。たとえば、検査データを処理していて、統計処理をオンラインでやって異常なデータが頻繁に出続けたら、それは機器の不良と判断し、機械をストップさせてチェックするとか、再現性を改善するために「1時間プレヒーティング」するとか、コントロールを定期的にあるいは随時入れて、機器の精度をチェックする、そういうことが可能になります。24時間稼働させるためには機器の制御がどうしても必要です。双方向インターフェイスバスがあれば精度保証がいままでの自動化とはワンステップ別物になります。自動化が低コストでできます。機器製造メーカーにはGPIBを前提に機器をつくってもらうことになります。SRLだけでは無理で、取引業者にも構想を明らかにして協力をお願いしないといけません。それで、一般検査市場でもナンバーワンを企業を目指すつもりでした。SRL東京ラボだけでSRL親会社の半分程度の売上は見込めました。地域別に一般検査会社をつくり、高生産性&低コストのラボを設置すれば、保険点数の50%のディスカウントで、BMLの大口ユーザを絨毯爆撃すれば販路拡大が簡単にできます。SRL営業担当役員は3人いましたが、いくら変わっても営業戦略を練り上げることのできる人がいませんでした。一般検査市場は、SRLが対象としていた特殊検査市場よりも数倍大きいのです。簡単なことでした。
 近藤さん、わたしを帝人との合弁会社に投入したのは仕方がなかったとはいえ、その経営判断は誤りであったかもしれませんね。近藤さんはわたしがSRLでどんな仕事をしてきたのはその半分もご存じなかった。彼は90年頃に厚生労働省の医系技官(課長補佐)を藤田光一郎社長が引き抜いた人でした。慶応大学医学部卒の医師、論理で割り切る頭の切れる人でしたね。その代わり「情」が理解できない弱点もありました。他には社長をしてもらいたいような取締役は一人もいませんでした。取締役の中では近藤さんが経営者としての能力はナンバーワンでした。近藤さんが、あの時SRL東京ラボのままで放っておいてくれたら、現在のSRLの売上1000億円は2000億円だった可能性があります。米国進出すれば、さらに3000億円規模の売上拡大ができます。米国進出はいまでもやれます。数年前に竣工した「あきる野ラボ」の自動化もぜんぜん別のものになっていたでしょう。見学して確認はしていませんが、あきる野ラボの自動化はいまいちど根本から見直した方がいいかもしれません。
 細菌検査課の39年前の新人と再開してそんなことも思い出しました。桜は人の心を妖しく揺らします。
 
 さて、診断の結果ですが、心臓を動かす電気信号にたまに異常が出るようですが、いまのところ何もする必要なし。今後は経過観察です。カテーテル・アブレーション手術はいまのところは不要ですが、病状が進行すればやった方がいいとは言われました。大腿部の静脈からカテーテルを挿入して、心臓を高周波で低温焼灼(50~60度)します。わたしはやりたくありません。年間10万例の手術であっても、わたしは臆病ですから。(笑)

<帝人との経緯(いきさつ)
 英国のIRS社という染色体画像解析装置製造企業から染色体画像解析装置を3台購入したのは1989年でした。ニコンの子会社のニレコ社とマジスキャンの画像解析用ミニコンを使って開発を2年くらいやっていました。染色体課とラボ副所長が担当してました。目標は1時間当たり6検体の処理能力でしたが1検体しか処理できません。副所長案件は他にもあって、RI部で固定資産台帳に2000万円で載っていた特注案件の機器がブルーシートで覆われ使われていないので、現場の担当者に確認すると、使い物にならないとのこと。どうやら副所長は機器やシステムにまったく専門知識がないことがわかりました。それで、ニレコ社との染色体画像解析装置開発は中止しました。当時は購買課の平社員ですが、経理担当役員のI岩本さんと管理部門担当専務の谷口さんのバックアップがあったので権限は大きかったのです。システムや機械のことがわかる人材が本社部門にはいませんでしたから。そういうタイミングの時に検査管理部の機器担当の尾形さんが、虎の門病院へ英国製の染色体画像解析装置が導入されているので、見学に行こうと誘ってくれたのです。染色体課長の石原さんと三人でサンプル5枚を持参してテストさせてもらいました。25分かかりませんでした。5分/検体で処理できます。あとでIRSのシステムエンジニアに確認しましたが、入り口が違っていました。CCDカメラでデータ入力してました。フィルムではありませんでした。CCDカメラでインプットするとデジアナ変換が不要なのでデータ処理が楽なのです。見るからに自作のボードコンピュータがつながれていました。自作のボードコンピュータの原価はせいぜい200万円です。産業用エレクトロニクスの輸入商社で、マルチチャンネルのマイクロ波計測器の開発をしたときに、担当エンジニアと話して開発過程をモニタリングしてました。だから、カバーを外してみただけで、原価の見当がつきます。2000万円の当時最高レベルの画像解析用ミニコンを使う必要はなかったのです。キーはCCDカメラでした。ニレコ社がフィルムとレンズにこだわっていたので、続けても開発は無理でした。
 輸入総代理店が日本電子輸入販売でした。営業担当のSさんに3台買うから1台はバックアップ用でおいてくれるようにIRSに依頼してもらいました。5000万円の装置ですが、高性能のレーザープリンタを含めても原価が1000万円程度なのははっきりしてましたし、台数を多くすれば原価は劇的に下がるので、提案を一つしました。BMLへ販売しろと。SRLで導入したと話していい、その気があるなら、SRLへ話して見学させてもらうこともできるかもしれないと言え、ただし、値引きは1円もするな、必ず値引けと言ってくるが、IRSの経営方針で無理ですと突っぱねたら、すぐに定価で買うから。狙い通り首尾よく言ったようです。S本さんゴルフが大好きな人でした。うまくいったので、セントアンドリュースでゴルフしましょう、会社の了解が取れてますとお誘い。IRSはエジンバラ大学と共同開発しているので、セントアンドリュースでゴルフできるのです。(笑) せっかくのお誘いでしたがお断りしました。S本さんしばらくしょげてました。
 S本さんは他に帝人と東北の臨床検査センターから引き合いがあると言ってました。帝人の臨床検査子会社は業績が悪いので、売上を増やすために導入するのでしょうが、染色体検査はSRLが市場の80%を握っているので、割り込むのは不可能。業績はさらに悪化するだろうと判断してました。東北の会社も事情は似たようなものと考えてました。流行らないフランス料理のレストランが売上増のためにメニューを増やして、高級食材の在庫を増やして廃棄損が増えて経営破綻するようなものです。経営が下手な人が社長をしていることはそれだけの情報でわかりました。こういう企業は社長が一生懸命に仕事をすればするほど業績は悪化します。いずれチャンスがあれば、買収しようと学術開発本部へ異動したころ(1990年)に考えてました。
 意外とチャンスは早くやってきました。東北の臨床検査センターへの資本提携交渉を関係会社管理部へ異動して1993年3月に担当することになりました。1億円の出資交渉と業務提携をまとめて6月1日付で経営管理室担当取締役で出向しています。SRLのルールでは本当は関係会社の役員出向はできません。本社課長職は関係会社の部長職なのです。創業社長の特命案件だったので、買収交渉を担当した金沢の臨床検査会社と東北の臨床検査会社のどちらでも好きな方を選びなさいと言われて、楽ではない方を選びました。先方の社長の意向が取締役での出向で、創業社長の特命案件だったので、人事部長も異論は言えません、例外扱いになっていました。仕事の指示と報告はすべて藤田社長直接でした。だから、組織上どの部門に属していたかを知るのは15か月後の出向解除の時でした。
 帝人との治験合弁会社の経営を担当することになったのは1996年の11月です。社長の近藤さんから、次の4課題を3年でクリアするように言われました。情報を収集・分析していれば仕事のチャンスは数年で巡ってきます。

①期限通りの設立スタート
②赤字会社の黒字化
③資本提携解消・子会社化
④帝人臨床検査子会社の買収

 近藤さんが社長になって2年が過ぎたころです、この四課題がどれほど無茶なのかわかっていたのでしょう。経営の全権を委任してくれたら期限通り3年で四つとも達成は約束しますと伝えました。近藤さん迷いなく即答、「任せる」、他に選択肢はありません。たまたまプロジェクトのミーティングに初参加するためSRL本社へ出向いたときにエレベータの前で出かけようとしていた近藤さんと鉢合わせしたので、「聞いているか?」「そのためのプロジェクトに参加するために来ました」と立ち話。2分くらいで課題の確認と全権委任が決まりました。それで、暗礁に乗り上げた合弁会社立ち上げプロジェクトに(11月末から割り込み)参加してます。1月末までに本社の場所を決めて会社の体裁を整えスタートです、3か月しかありませんでした。PERTチャートをすぐに作ってクリティカルパスを確認して次々に手を打ちました。
 そういう仕事をしながら、経理担当役員へS本を合弁会社へ異動させてもらいたいと伝えたら、「自分でできるでしょ?」と愛想のない返事、入社時の上司のM井さんが経理課長から取締役になっていました。SRLの近藤さんから任されたのは合弁会社の経理業務ではなくて経営、近藤さんから伝わってませんでしたが、近藤社長から全権委任を受けているので、経理担当役員には拒否権なしです。経理やシステム開発が仕事だと勘違いしていたようです。経理部門出身者に子会社の経営を任せる親会社の社長はいないでしょう。経理・財務以外の仕事はできませんから。

 これらの課題の③と④は1990年から自分の手でやるつもりでしたから、願ったりかなったりでした。
 帝人の臨床検査子会社は染色体画像解析装置の導入でさらに累積赤字が膨らみ、安居社長からM専務とI常務が、臨床検査子会社をどうするのか処理を迫られていました。相手側の事情も交渉を後押しする力になりました。
 臨床検査子会社へはH本さんが社長。本社では部長職で、専務や常務とは同じ一ツ橋閥でした。一ツ橋で本社部長職に臨床検査子会社の経営は無理なのです。H本さん、治験合弁会社がスタートすると、SRLでやっていた治験分の検査が全部帝人臨床検査子会社へ移管されると勘違いしてました。それを帝人本社の常務と専務に説明していたことがわかりました。合弁会社の社長は帝人側のH本さんが兼務でした。
 毎月行われる取締役会には非常勤役員としてI常務が来てました。SRL側は営業常務のツーさんとラボ担当役員のH泉さんでした。子会社常務はSRL側、わたしは管理部門担当部長でしたが、SRL社長の近藤さんから、経営の全権を委ねられていました。四課題は自由にやらしてもらえないと約束できない、経営を全権委任してくれるなら3年で課題全部をクリアする旨告げました。近藤さん即答でした。

 数か月がたち、帝人の臨床検査子会社の業績が予定通り改善しないので、H本社長の話を聴いていてもよくわからないので、すまないが帝人本社に来てM専務とわたしへもう一度説明してくれないかと帝人本社のI常務から申し入れがあり、日比谷公園近くの帝人本社飯野ビルへ出向きました。データ管理事業へシフトすることで黒字化することを損益シミュレーションと事業分野のマトリックスで説明し、検査の移管がないことも具体的に説明しました。この会議の席上で、H本社長は震えていました。本社役付役員二人の前での業績見通しの説明はストレスが強くかかっていることがよくわかりました。
 治験検査の移管は無理なのです。全世界の大手製薬メーカーはすべて取引先ですが、SRLでは精度管理基準(CAPライセンス)は世界で一番厳しいものを採用していますが、帝人の臨床検査子会社はそうではありませんから、SRLから帝人検査ラボへの検査移管は不可能なのです。逆なら問題ありません。臨床検査業界では当たり前の常識ですが、帝人羽村ラボの社長はご存じなかった。丁寧に説明したら、「H本の言うことがさっぱりわからなかった、ようやくわかった、やはり餅は餅屋ですね」そうおっしゃった。H本さん面目丸つぶれでしたが、このままやっても帝人臨床検査子会社の赤字は膨らむばかりということは帝人本社役員のお二人にはよくわかったと思います。あとは処理案についてわたしと交渉するだけ。3か月目くらいのこの会議で大筋に目途がついてしまいました。後は説明した以上の業績改善をして、そのデータをもとに交渉すればいいだけでした。
 帝人の臨床検査子会社とSRLのスタートはほぼ一緒でした。そん時で三十数年の歴史がありました。売上規模は1:15です。一橋大卒の本社エリートを社長として何人送り込んでも、臨床検査子会社の再建は無理でした。業界の常識を知らない、検査の専門知識がない、検査機器や自動化の専門知識も経験もない、これではマネジメントに手も足も出せるはずがありません。

 帝人の社長が東大出の安居さんに変わりました。一ツ橋閥のM専務とI川専務に遠慮はありませんから、臨床検査子会社の処理を期限をつけて迫りました。お二人困っていました。こういう情報はH本合弁会社社長を外して帝人本社のI川専務と直接交渉し始める少し前に薬学博士のKさんが、I川専務の意向を受けて帝人側の事情をつまびらかに話してくれましたので、やりやすかったのです。「売り手よし、買い手よし、従業員よし、世間よしの四方よし」で話をしていたので、ある時から正直に話してくれました。帝人の羽村ラボの見学もさせてもらいました。1時間ほど見学しただけで、このラボはもう駄目だと判断しました。治験検査専用ラボと言ってもいいくらい偏っていました。量が少ないので大規模な自動化やシステム化は無理でした。海外の製薬メーカーからの八王子ラボツアーの対応をしてたことがあるので、SRL八王子ラボの自動化と比較できました。一般検査市場へ出るしかなかったのですが、帝人は医薬品事業を拡大するために臨床検査事業を始めたので、市場が小さい治験検査に特化してしまいました。それがそもそも間違いのもとでした。
 I川常務から、帝人臨床検査子会社を治験合弁会社の子会社にするので、両方の社長を兼務してほしいと要請がありました。SRL近藤社長に話をつなぎましたがノーでした。合弁会社2年目に課長職から次長職へ昇格して治験合弁会社の取締役に就任してますが、SRLのルールではSRL本社の次長職が子会社社長をやるわけにはいかないのです。2年続けて昇格というのも前例がありません。
 それで、申し出をお断りして、③と④をI常務へ提案して、飲んでもらいました。
 「合弁会社をやると決まって業績が振るわず後始末は帝人側でやってきた、こんなケースは初めてです」
 そう言いながら笑って、OKしてくれました。M専務とI川常務は安居社長から期限付きで臨床検査子会社の整理あるいは黒字債券を迫られていたのですから、「渡りに舟」でした。ノイローゼになっていた合弁会社のH本社長は帝人本社勤務へ戻ることになりました。
「ebisuさん、H本に傷がつかないように処遇するが、了解してくれるかね」
「異論はありません、精神がだいぶ参っているようですから、楽な仕事につけてやってください」
 帝人本社の一ツ橋閥は面倒見がいい。H本さんは、帝人で問題になっていた臨床検査子会社事業から撤退という仕事を首尾よくやったぐらいの評価はしたでしょう。I川常務、そのあたりは情の人でした。

 帝人臨床検査子会社の課長職の年収はSRLの半分に満たなかった。社員も同じくらいの比率でした。そんな給与格差の大きい両社からの寄せ集めでしたが、年収は1年もするうちにお互いの知るところとなります。
 SRL子会社になり、転籍するときにはSRL並の給料を保障してやろうと思っていました。それには経営改革をするために経営の全権委任を四課題を果たした後にも持たなければできません。しかし、近藤さんの返事はノーでした。現在の職位に関しては過去の業績の結果だから、そういうわけにはいかないとのこと。カチンと来ました。
 経理部で入社して、経営統合システム開発では経理チームが一番遅れており、何も手がついていませんでした。原価計算システムチーム、購買在庫管理システムチーム、販売会計システムチームは1年前にスタートしてました。一番遅れていた財務会計システムと買掛金支払い管理システム、投資・固定資産管理システムを8か月で稼働させています。並行して予算編成と予算管理業務も統括してました。このときに、経理担当や役員から管理会計課を新設し課長職へ昇格願いが人事部へ出されましたが、人事部長が拒否してます。理由は上場準備要員としては一番最後に入社したので、まだ昇格が速すぎるという理由でしたね。2年目には検査試薬のコストカット20%を提案して、購買課長が不可能だというので、専務がプロジェクトをつくるから言い出しっぺのお前がやれというので、それまでの卸業者相手の価格交渉を止めて、製薬メーカと直接交渉に切り換えました。2か月間だけの約束で購買課へ出向して、予定通り16億円のコストカットを実現しました。それから半年後、ラボの通勤バスで親会社の富士レビオの元経理部長でSRLの監査役をしているT口さんと一緒になり、「ebisuさん今どこにいるの?」「ラボの購買です」と伝えると、「そうか購買部長してるんだ」、「いいえ平社員です」というと絶句してました。富士レビオが上場したときの経理部長ですから、たいへんさがわかっていました。それを8か月で稼働させるというのは「神業」でした。見るべき人はちゃんと見てくれています。とっても励みになりました。
 近藤さんの言「現在の職位は過去の業績の結果ですから」というのは承服しがたい、それに社長でなければ、経営改革を思った通りに実現はできません。SRLから転籍する社員の給料も下げざるを得なくなります。我慢のならないことでした。半年以上前から、首都圏の特例許可老人病院が病棟の建て替えをするので常務理事で来てほしいとお誘いを受けていたので、病院を核にシームレスな老人医療と介護事業を展開してみる気になってしまいました。

 SRLを退職してから十数年たって、故郷で小さな私塾をやっていたときに、近藤さん、根室まで遊びに来てくれました。養老牛温泉で、地域医療と教育の地域格差について語り明かしました。どちらかというと感情を排して論理で割り切るタイプの経営者でしたが、ロジックで割り切るだけの人でもありませんでした。3年弱の間、楽しい仕事を回してもらったと思います。


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#5208 音読回数7420回クリア:和訳から英文再生 Apr. 11, 2024 [49.1 英語音読トレーニング]

 NHKラジオ英会話を利用して英語音読トレーニングをしている。今日で7420回に達した。ここまで約半年費やしています。同じものを100回読んでいますが、効率悪いと思っていました。でも半年たってみて、その効果にびっくりです。音読・暗唱で丸ごと覚えてしまったフレーズが増えていくので思いのほか効率が好いのです。やってみないとわからぬものです。

 心房細動の症状が出て薬を飲んでいるので、緊張を伴なう1.5~1.8倍速のシャドーイングは先週から中止している。「早口言葉」風トレーニングは中止して、等倍(120語/分)~1.3倍速(156語/分)で丁寧なシャドーイングに切り換えた。50回が月~木曜日のノルマ。これに1.5倍速(180語/分)~2倍速(240語/分)のリスニングを10~15回増やしてみた。1.7倍速でリスニングしているときに、うっかり釣られてシャドーイングしていることがある。まあ、それは自然に口に出てくるものだから、精神の緊張はないのでよしとしよう。無理して覚える必要はありません。身体に英語のリズムが染み込むような感覚でシャドーイングに浸ることが大事ですね。
 目をつぶってやったり、部屋の中を歩き回りながらやっています。

 和訳の文から元の英語を書いて再生するトレーニングを追加してみたが、案外楽しい。これは英作文に慣れるのにいいトレーニング法に思える。時間も5~10分ほどしかかからない。間違えたところは黄色のマーカをつけておいて、復習している。模範解答と違うところは10回くらい書いた方がよさそうだ。わかっていることを何度も書くこと自体に意味がある。音読を繰り返すのと同じことで、身体に沁みこんでくる感覚がある。
 英作文は模範解答通りでなくていい、意味が通じればいいことにしている。そうすると表現の幅が増えるし、模範解答の英文としてのキレのよさもよくわかるからだ。

 昨日と今日、NHK衛星放送の映画を見たが、知っている表現が出てくるし、聞き取れるフレーズがずっと増えた。映画の台詞がとてもゆっくりに感じるようになったので、こころがゆったりとして落ち着いて聞き取れる。先ほど映画『裏窓』(1954年制作)を観た。脚をけがしてギブスをして車椅子に座っている男が、裏窓から周りの住民を見ているうちに、殺人事件と思えるような光景を目撃してしまう。雑誌の編集をしている美人でお金持ちの彼女が結婚を迫るが、世界各地を飛び回る写真家の主人公は決断がつかない。台詞回しがとっても楽しい映画なのである。『愛と青春の旅立ち』"An officer and a gentleman"は1982年制作のリチャードギア主演の映画だがこれも台詞がわかりやすくてなかなかよかった。海軍パイロット志望の士官候補生たちを教官の鬼軍曹が鍛えるのだが、パイロットの育成には莫大なお金がかかるし、乗る飛行機も高額だから、不適切な者を訓練でふるい落とすのだ。いろいろあって訓練が終り、最後に軍曹に挨拶をするが、そのときに訓練生は士官(少尉)に任官されているので、軍曹よりもくらいが上である。軍曹も士官に任命されたばかりの訓練生に対し、軍曹が少尉にとるべき礼儀をわきまえた挨拶を返す。少尉も偉そうだ。
 この映画を見て、学徒出陣、海軍士官候補生でゼロ戦のパイロットだった哲学者市倉宏祐先生を思い出した。訓練が終われば少尉任官だから、1期上の海軍士官学校出身者よりも位が上になる。海軍では先輩たちによる士官候補生たちや予科練の特攻隊志願者たちへの理不尽ないじめが横行していた。それがどのようなものであったかは市倉先生の遺稿である『特攻の記録 縁路面に座って』に詳しい。弊ブログのカテゴリー欄の3番目に「1.特攻の記録 縁路面に座って」に全文掲載してある。

 さて、本代に戻ろう。NHKラジを英会話をテクストにしたら、7000回を超したあたりで、ギヤが一つ分ほどリスニング力がアップしたようだ。
 五月末には10,000回を超すので、そのときに映画の台詞がどれくらい聞き取れるのか楽しみだ。

<余談-1:嫌いだった繰り返し音読>
 同じものを50回読むなんて、単純作業でバカバカしいと思っていた。英文で書かれた本は、趣味の領域では経済学と言語学、仕事では管理会計学やシステム開発関係の専門書、医学関係の最先端の英文で書かれた雑誌や専門書を読むことで英語の力を養ってきた。それで十分だった。英会話にはまったく興味がなかった。だから英会話の語彙力には不足を感じていた。
 ハンドルネーム「後志のおじさん」が30回音読、10回書くというトレーニングを続けていると投稿欄で説明してくれた。彼は英語とドイツ語がべらべらである。ヒロスケさんというハンドルネームの人も類似のトレーニングで英語の達人である。
 それから何年も経って、昨年10月半ばから音読トレーニングを始めたら、存外楽しいことに気がついた。それから、毎日趣味のようなものとなっている。
 10,000回やればそれなりの効果が産まれると思って継続している。英会話の語彙力がずいぶん強化されたことは、洋画を見ていてよくわかる。映画の内容よりも、俳優の口から出てくる台詞を楽しむようになってきた。
 お二人に心から感謝している。

 4年ほど前から英作文問題と解答解説集を作成してemailで週2回配信しているのだが、これが1642回、A4判で1924ページにもなっているから、多少は相乗効果が出ているのかもしれぬ。18000問題ほどになっているので、こちらも2100ページ、20000問題を超えるところまで作成してみたい。英作文の配信は、最後の高校生が来年大学受験なので、今年12月でやめるつもりだ、しかし、なお6年間配信を続けられるほど「在庫」がある。どうしたものか?(笑)
 作成が趣味だから、どうでもいい。孫が使うかもしれない。NHKラジオ英会話の四月号からは小学生や中学生向きの英文法や作文例が満載になっている。
 月別に作成したファイルを一つにまとめると、ワードの検索機能を使ってたくさんの文例を抜き出せる。これはちょっと便利だ。NHKラジオ英会話以外の英文例は採録した本とそのページ数が検索可能に配慮してある。
 

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#5207 歴史的順序と論理的順序:『資本論』の論理的破綻と新しい経済モデルについて Apr. 8, 2024 [A2. マルクスと数学]

<更新情報>4/9朝追記 <余談-1:高校での文系・理系のコース分けの弊害><余談-2:ヘーゲル研究者である市倉宏祐先生との出遭い>
 4/11午前中に一部追記
 

 数学を歴史的序列に従って記述しようとしたら、歴史的な順序が自明な分野はそれで可能だが、歴史的順序が決められない分野があり、数学の一部しか記述できないことに気がつくだろう。
 たとえば、数なら歴史的順序は自然数からだろう。負の数や分数はそのあとになる。無理数はもっと後で、複素数が一番最後になる。ところが、平面図形ではどのような図形が歴史的に一番最初に描かれたのかについては誰も知らない。そのようなことを気にする人もいないように思う。だから、単純なものから複雑なものへと論理的順序に従って叙述するしかない。
(じつは、自然数を公理論的な手続きに従って論理式で定義するのは簡単ではない。自然数を論証するには、前もって論理式が定義されていなければならない。小島寛之著『論理式の読み方からゲーデルまで 証明と論理に強くなる』技術評論社2017年「第3部 自然数を舞台に公理系を学ぶ」を参照)

 現代数学は1930年代から、ブルバキ(フランスの数学者を中心とする集団)が集合論で各分野を統一的にとらえようとしているが、数学の分野の拡散速度の方が大きくて、首尾よくいっているとはいいがたいが、さりとて、それ以外の方法というのは提示されたことがない。演繹体系として論理的順序に従って記述するということだけが確かなことのように思える。論理展開は論証でもあるので、数学的な論証は論理が厳密に組み立てられるので、その体系の記述あるいは順序は歴史的なそれとは関係がない。

 演繹的な体系として一番古いものは、ユークリッド『原論』である。経済学者にこの分野に馴染みのある人はほとんどいないから、その公理論的演繹体系構成がどのようなものであるのか紹介したい。
 『原論には』平面図形と数論が含まれており、その第一巻は23個の定義から始められている。

 点・線・線の端・直線・面・面の端・平面・平面角・直線角・垂線・鈍角・鋭角・境界・図形・円・円の直径・半円・直線図形・等辺三角形/二等辺三角形/不等辺三角形・直角三角形/鈍角三角形/鋭角三角形・正方形/短形/菱形/長斜方形/これら以外の四辺形・平行線

 実際には次のように記述されている。
「1. 点とは部分をもたないものである。」
「2.線とは幅のない長さである。」
「3.線の端は点である。」
「4.直線とはその上にある点について一様に横たわる線である。」
「5. 面とは長さと幅の実をもつものである。」
「6. 面の端は線である。」
「7. 平面とはその上にある直線について一様に横たわる面である。」
 ...

 「定義」の次には「5個の公準(要請)」が並ぶ。
「1. 任意の点から任意の点へ線を引くこと。」
「2. および有限直線を連続して一直線に延長すること」
「3. および任意の点と距離(半径)をもって円を描くこと。」
「4. およびすべての直覚は等しいこと。」
「5. および1直線が2直線に交わり同じ側の内角の和を2直角より小さくするならば、この2直線は限りなく延長されると2直角より小さい角のある側において交わること。」

 5番目のものは平行線公準と言われている。これを公準から外し、平行線は一点で交わるとすると、球面幾何学という数学モデルが誕生する。別の公準系である。

 公準の次には「9個の公理(共通概念)」が続いている。
「1. 同じものに等しいものはまた互いに等しい。」
「2. また等しいものに等しいものが加えられれば、全体は等しい。」
「3. また等しいものから等しいものがひかれれば、残りは等しい。」
「4. また不等なものに等しいものが加えられれば全体は不等である。」
「5. また同じものの2倍は互いに等しい。」
「6. また同じものの半分は互いに等しい。」
「7. また互いに重なり合うものは互いに等しい。」
「8. また全体は部分より大きい。」
「9. また2線分は面積をかこまない。」

 平面図形で一番単純なのは三角形である。『原論』は半径の等しい円をそれぞれが互いの中心を通るように描いて、交わった三点を結んで正三角形を作図して見せる。それ以降平面図形はどんどん複雑なものになる。演繹体系の展開順序は「単純なものから複雑なものへ」である。『資本論第一巻』もそのような構成になっている

 ユークリッド原論は「定義・公準・公理」を措定した後、それらを用いて作図によって複雑な図形を演繹的に展開していく。これが、学の最初の体系である。

 マルクスは『資本論第一巻初版』でも『経済学批判要綱』でもユークリッド原論やデカルト『方法序説』「科学の方法 四つの規則」に言及することがない。
 マルクスはユークリッドやデカルトを読まなかったようだ。その理由は『数学手稿』をみれば明らかだ。微分の概念を理解できなかったことが読み取れる。無限小が理解できなかったので、微分の意味がわからなかった。数学原論で無限を扱うのは、集合論の無限集合のところである。マルクスは古典数学の微分積分で躓いたということがわかる。そのため、『資本論』には四則演算のみで微分積分計算は出てこない。たとえば、消費者の満足度の変化と消費者が商品に抱く使用価値の変化が理解できなくなる。
 2次関数や3次関数的に変化する経済現象が扱えないだけでなく、指数関数や対数関数、そして三角関数のように周期的に変化するものを扱えないということ。
 たとえば、ここにお金持ちのお洒落なご婦人がいたとして、ダイヤモンドの指輪を初めて買うのと、100個も持っていて101個目を買うのとでは、ダイヤモンドの使用価値は異なる。そんなにたくさんいらないのだ。食品ならもっとはっきりする。A6の牛肉ですき焼きをしようと思う。1kg20000円買えば十分だ。10㎏買っても食べきれないで冷凍庫に保管し味が落ちる。だから、買う量を増やすにしたがって、その価値は低減していく。1㎏から100g増えるごとに価値は半分になるとすると、100g増やした時には1000円、その次の100gの増分には500円しか支払いたくない。食べきれずに捨てるか冷凍保存するしかないからだ。こういう変化が労働価値説や四則演算ではとらえきれない。『資本論』の議論から外さざるを得ないのである。そしてそうなっている。

 どうやらマルクスは数学は不得手だったようで、そちらの方面の本をほとんど読んでいないように見える。微分のような数学的な操作の意味が理解できなかっただけでなく、演繹的な体系構成についても、へーゲル弁証法を利用するしか選択肢がなかった。体系構成に関する数学の成果(公理的演繹体系法)を取り入れることができなかったことは後ほど述べる。
 数学嫌いの典型的な文系学生だったのではないだろうか。それが仇になってしまったと言っては言い過ぎだろうか?
 もうひとつ数学嫌いの「証拠」、いや「傍証」をだそう。
 簿記は19世紀は数学の応用分野の扱いを受けていた。株式会社は株主に決算報告をしないといけないから、複式簿記は企業行動を理解するための不可欠の学問分野である。生産性が向上が生産コストや利益にどのような影響があるのかは、損益計算書でシミュレーションすれば誰にでも理解できる。『資本論第一巻』と『経済学批判要綱』のどこを探しても、複式簿記や複式簿記に基づく損益計算書に言及した箇所はない。マルクスは苦手な分野を避ける傾向のあった人のように見える。そのことは彼の経済学へのアプローチに著しい限界を与えることになった。

 彼が用いたのは極めて限定された学説と方法論であった。スミス『諸国民の富』やリカード『経済学及び課税の原理』の労働価値説と体系構成の方法として当時流行りのヘーゲル弁証法である。そういうわけだから、視野がとても狭いということは言えそうである。ヘーゲルの『歴史哲学』は歴史的順序と論理的順序はイコールだという立場である。マルクスは忠実に継承していおり、「唯物史観」となったが、歴史的事実とまったく合致しない。
 遠い昔、50年ほど前になるが、西洋経済史の泰斗、増田四郎先生と3人の院生だけで1年間リスト『経済学の国民的体系』を読み、その学風にふれた。そのお陰で、唯物史観を払拭できた。授業が終わった後、国分寺駅前ビルの最上階の喫茶店で、月に一度ビールをご馳走になりながら雑談、とっても愉しかったちょうどイタリアから戻ってきた一番弟子の阿部謹也さんとその著作『中世の窓から』が何度か俎板に載った。増田先生は実証研究の人だった。人柄も学風もすばらしかった、その影響を幾分か享受することで、その後のわたしの研究方向が決まったような気がする。業種を変えて転職し、マネジメントや経営統合システム開発などの仕事を通じて企業を内側から観察することで、マルクス『資本論』の批判的検討と、新しい経済モデルの探索の旅をすることになった。資本主義を支える企業という現場に身を置いて実証研究をした。書斎の人であった、マルクスの轍は踏んでは、マルクスは越えられないのはモノの道理。
 リストの『経済学の国民的体系』には先に産業革命を成し遂げた英国資本主義の影響を受けて、ドイツの経済発展は英国とは別の独自の過程をたどることになることが描かれている。そのことを見ても、単線的な唯物史観の破綻は明らかだ。
 3人の院生が、増田先生に特別講義をお願いしたときに、増田先生が選んだテクストがリスト『経済学の国民的体系』だった。このセレクトは意味深である。3人の内、一人は社会思想史を研究していた鈴木さん、もう一人は大倉財閥の研究を手伝っていた須田さん、そしてマルクス経済学の体系構成に関する研究をしていたわたしの三人。単線史観の唯物史観が支配的だったから、その蒙を拓こうと考えたチョイスと思った。毎回坦々と、テクストを先生と三人の院生が読み、それぞれの意見を述べるだけ。もちろん先生も毎回自分の解釈を述べる、好い先生に出遭った。

 学の方法は2つあるのに、ヘーゲル弁証法しか見ていない。そして現実の観察を怠ったために、労働価値説の破綻に気がつくのが遅れてしまった。『資本論第一巻』を出版して、第二巻の草稿を書き溜めているうちに気がついたのだろうと思う。市場論で市場価格概念が出てくると労働価値説が破綻してしまうのだ。この点は生産性の問題として別稿で論じた。『資本論第一巻』を出版した後、死ぬまでの16年間資本論の続巻を出せなかったのは、方法的破綻に気がついたからだろう。エンゲルスとの共著『共産党宣言』で世界の労働運動を煽ったのだから、いまさら間違っていましたとは言えない、黙るしかなかった。マルクスの心情を思うと、気の毒。でも、正直に言うべきだった、それが学者としての矜持というもの。
 
 マルクスと同時代のプルードンは「系列の弁証法」ということを言っているが、論理的順序で経済学体系を記述すべきだという主張である。デカルトの『方法序説』にある「科学の方法 四つの規則」に酷似している。「四つの規則」は後に展開される公理的方法論であると言って差し支えないだろう。この議論は普遍数学の分野に属する。

 「《数学的真理》というものは、もっぱら、公理としての任意に立てられたれた前提から出発するところの論理的演繹の中にある」(村田全・清水達夫共訳『ブルバキ数学史』1970年 東京図書p.25)。

 1840年代から「公理的方法の拡大は一個の既成事実となる」(同書p.30)のである。資本論第一巻初版の出版年は1867年だから、だいたい20年後ということになる。その結果、ユークリッド幾何学の再吟味が数学者たちによってなされた。

「(ユークリッド)幾何学が実際上のそれらの対象の意味内容から独立であり、純粋にそれらの対象の関係の研究なのだ」(同書p.31)

 数学と経済学の演繹モデルには同型性がある。公理的演繹体系としては同型なのである。(同書p.32「B)モデルと同型性」参照)

「とにかく、あらゆる構造はその中に同型性の概念を伴なっており、構造の種類ごとに同型性について特定の定義を与える必要はないのだ、ということが最終的に理解されたのは、ようやく構造について現代的な概念が生まれてからのことなのである」(同書p.34)
 
 資本論が演繹的体系だと假定したら、資本家的生産様式の支配する社会の富の要素形態としての商品から貨幣へ、そして資本家的生産関係という場の中で、貨幣の資本への転化を論じていることは自明だろう。交換関係という場で貨幣が規定されるが、これは歴史的な順序に従っているのではないということになる。商品の交換関係という場が前提にされたから、商品と商品の交換を媒介するものとして貨幣が定義されたということだ。
 生産関係という場では資本の運動形態が記述されている。第二巻で想定したのは市場関係という場である。そこにおいては市場価格が演繹的に定義される。労働生産物であっても、市場のニーズのないものは商品にはなりえないので、ここで労働価値説が破綻する。生産性が高ければ少ない労働で同じ商品を生産できるが、その場合には労働強度が大きくなったので、投下された労働量は同じという説明をするしかない。機械化やシステム化あるいは生産現場の工夫の積み重ねで生産性が上がれば、ひとつの商品に投下される労働量は劇的に減少してしまう。労働価値説は観測される事実と異なるのである。
 論理展開は導入された関係概念の場でなされる。関係概念の場「単純なものからより複雑なものへ」の順で展開される。商品の交換関係で貨幣が、資本の生産過程で貨幣が資本へ転化し、資本の運動過程が展開される。そこまでが資本論第一巻である。次に展開されるべき市場価格という概念は「単純な市場関係という場」でなされるのだが、マルクスはここで躓いたことに気がつく。労働価値説が成り立たないのである。たいへんなショックだっただろう。それで、それ以降亡くなるまでの16年間の沈黙が続き、ついに資本論第2巻を出版することがなかった。この16年間の沈黙の意味に言及したマルクス研究者は他にはいない。
 そういうわけで、膨大に残されたマルクスの遺稿研究は、方法的に破綻しているので経済学的には意味がない。資本論の体系構成法への破綻を自覚したから、生産手段の共有化で共産主義社会が自動的にできあがるという幻想はなくなっている。労働価値説に基づく資本論を放棄して、別の経済モデル構築を考えざるを得なくなるのである。マルクスが残した膨大な遺稿(新MEGA版)の研究はそうしたことを確認できるだけだ。

 マルクスには体系構成に関する不可欠な数学の知識がなかったし、複式簿記やマネジメントの経験もなかったから、手も足も出ない状態に陥ってしまったと思う。それが晩年の真の姿である。

 マルクスは工場労働者として働いたこともなければ、経営者として生産性を上げる努力をしたこともないので、生産現場の観測的な事実を知らない。既存の学説を一生懸命に勉強しただけと言わざるを得ない。
 労働したことやマネジメントしたことがなくても、少し考えたらわかりそうなものだが、さすがに資本論第一巻を出版した後に、第二巻の原稿を書き溜めるうちに気がついたのだろう。
 現代でも名工は各分野にいるし、工場で働いている名工や、スカイツリー建設に携わったトビ職のような超一流の職人なしには、企業活動すら考えられない。ドイツにはマイスター制度があるが、マルクスは資本論から、マイスターを除外している。理由は簡単、労働価値説ではマイスターの仕事は説明できないからだ。そもそも、マイスターの仕事を「労働」とは言えない。日本なら、法隆寺宮大工棟梁だった西岡常一やその弟子である小川三の仕事をあげれば十分だろう。棟梁は寺社建築や修繕全体をマネジメントするだけでなく自身も超一流の名工である。自分がその時に持っているスキル全部で渾身の仕事を成し遂げる。主人に言われてやらされる「労働」ではなく、神聖な仕事である。職人仕事に関わる職場には神棚を祭る習慣が受け継がれている。日本ではあらゆる仕事が職人仕事になる。工場で働く人たちですら、意識は職人である。わたしも、かつては経理や経営統合システム開発やマネジメントの職人であった。

 学について体系を記述するときに、参考になるものはユークリッド『原論』の演繹的体系とブルバキの数学原論、デカルトの『方法序説』、ヒルベルトの『幾何学基礎論』である。
 労働価値説を棄てて、別の公理公準で経済学モデルを創り上げる必要がある。
 西欧の労働という概念の淵源は奴隷労働にあるから、労働からの開放が究極の目的になる。AIと機械による生産の完全支配が、西欧発の経済学の究極の目的になるのはモノの道理だ。
 それが何をもたらしたか、生産力の過剰な増大と深刻な環境破壊、そしてグローバリズムである。人間の欲望の暴走と言い換えてもよい。
 環境との調和を基本にして日本列島で暮らしてきた日本人が育ててきたものは「労働」ではなくて「仕事」である。それは職人仕事をベースにしている。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」という商道徳が数百年にわたって培われて。「浮利を追わぬ」「信用が第一」ということもビジネス倫理として尊ばれてきた。
 西欧とは別の経済モデルが日本にはある。

<補遺:デカルト『方法序説』>
 デカルトは科学者であると同時にデカルト座標で夙(つと)に有名な数学者であり、「われ思うゆえにわれあり」で高校生にも知られている哲学者でもある。こういう多分野にわたって学問研究をする学者がなかなか現れないから、視野狭窄のまま、解決の糸口が見いだせないのである。
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<デカルト 科学の四つの規則>
まだ若かった頃(ラ・フェーレシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数を、少し熱心に学んだ。この三つの技術ないし学問は、わたしの計画にきっと何か力を与えてくれると思われたのだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。ます論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、道のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり、余計だったりするものが多くまじっていて、それらを選り分けるのは、まだ、下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を彫り出すのと同じくらい難しい。次に古代人の解析と現代人の代数は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことだけに用いられている。そのうえ解析はつねに図形の考に縛りつけられているので、知性を働かせると、想像力をひどく疲れさせてしまう。そして代数では、ある種の規則とある種の記号にやたらとらわれてきたので、精神を培う学問どころか、かえって、精神を混乱に陥れる、錯雑で不明瞭な術になってしまった。以上の理由でわたしは、この三つの学問(代数学・幾何学・論理学)の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければと考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという、堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、なにもわたしの判断の中に含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三に、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと

 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
 きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった
  デカルト『方法序説』 p.27(ワイド版岩波文庫180 *重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。

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<余談-1:高校での文系・理系のコース分けの弊害>
 マルクスの学位論文はギリシア自然哲学に関するものだったが、その近傍にあるユークリッド『原論』を読んだ形跡は『資本論』にも『数学手稿』にもない。典型的な文系学生だったので、専門外あるいは自分の研究には関係がないと判断したのだろう。大学での職をあきらめて共産主義運動と経済学研究にのめり込むが、典型的な文系学生の弱点が出てしまった。肝心かなめな、学の体系構成法に関する古典的書物や、数学者・物理学者・哲学者であるデカルトの著作すら読まなかった様子が、彼の残した著作から読み取れる。彼が資本論第一巻初版を世に問う20年も前に、数学界では演繹的な体系構成がほとんど通説にまでなっていたのに、モニターしていない。
 翻って、日本の教育を見ると、高校で文系・理系のコース分けがなされて、両方の分野を歩き回ることのできる大学生がほとんどいないという状況が、百年以上も続いている。
 民間企業では、コンピュータの導入で、もう40年以上も前から文系・理系の区別などない領域の仕事が増えている。複数の専門知識がなければチャレンジできない分野の仕事が増えている。
 日本にはマルクス経済学者が多いが、これまでマルクス『資本論』の体系構成を、数学のそれから研究した論文が皆無なのは、おそらく高校での文系・理系のコース分けが少なからず影響しているだろう。

 マルクス研究は文系学部の出身者が遺稿を読み漁ることでは深みに達しない。マルク氏自身が『資本論第一巻』のあとで第二巻を書こうとして方法的な破綻に気がついたのだから、破綻の理由を書き残さずに研究方向を変えてしまっている。新しい経済モデルの模索に走ったが、マネジメントの経験のない彼には無理な課題だった。

<余談-2:ヘーゲル研究者である市倉宏祐先生との出遭い>
 学部のゼミの指導教授は哲学者の市倉宏祐教授だった。オヤジと同じ年対象10年生まれ、ゼロ戦のパイロットで予科練の生徒たちの操縦指導教官でもあった。オヤジは秘密部隊の落下傘部隊員、同じ空の兵隊であった。中学校と高校で社会科の教師をして授業を受け持ってもらったことのある柏原栄先生は、北方領土(水晶島)出身者で予科練に合格して、土浦配属が決まったときに戦争が終わった。戦争が半年長引き土浦へ配属になっていたら、市倉先生が操縦の指導教官になっていた可能性が高い。「予科練の少年兵は優秀な者が多かった」とは市倉先生の弁である。航空機の操縦訓練をするのだから、優秀な者を選抜するのは昔も今も変わらない。
 市倉先生は和辻哲郎の弟子でもある。戦後、東大の席(職)が空いていないので、数年専修大学へ行ってくれと言われて、来たと仰っていた。何かの手違いで、東大へ戻れなくなった。40歳までは食えなかったと学者の貧乏生活を吐露することがあった。学者になるつもりなら覚悟して置けということだったかもしれぬ。武蔵大学の哲学の講師を掛け持ちでやっていた時には、そちらの方が常勤の専修大学よりも高かったと、仰った。哲学科の本ゼミではサルトル『弁証法的理性批判』をテクストにしていた。本ゼミの方と交流をしたことがあった。お互いに希望者のゼミ参加を許可した。そのときに伊吹克己が一般教養ゼミに2度ほど参加した。彼は専修大学哲学科の教授になった。一般教養ゼミの先輩2名が大学院へ進学した。塚田さんは私学振興財団へ就職し融資部長、戸塚茂雄さんは後に青森大学の経営学部長になっている。どちらも商学部出身者である。

 市倉先生はヘーゲル研究者としてもトップレベルの学者、同時にサルトル研究者でもあった。晩年はパスカルの数学研究をしておられた。イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』の翻訳者でもある。あるとき午後一のゼミで、眠たげなお顔をしておられたので訊いてみたら、「イポリットの翻訳をしていて、気がついたら明るくなっていた。寝ていない。」と微笑みながらおっしゃった。夢中になって仕事していると、空が明けてきて朝になったことに気がつく。そんな経験は仕事に没頭したことのある人には覚えがあるだろう。市倉先生はわたしたちが卒業して数年後に、マンホールに落ちて骨折して入院したことがあった。生田のお住まいに先輩の戸塚さんと訪ねたときに、「考え事をしていて、マンホールのふたが開いているのに気がつかなかった、何が起きたのかわからなかった」、そう笑いながらおっしゃった。哲学者は思索に耽ると、周りが見えなくなるものらしい。わたしはどんなに忙しくても、どれほど没頭していてもマンホールに落ちた経験はない。(笑) もっとも、マンホールの蓋を開けたら、周りに防護柵を設置しないなんてことは滅多にあることではない。空から落下したのではなく、地上でマンホールに落ちてけがをした特攻兵は市倉先生お一人だろう。

 わたしは商学部会計学科の学生だったので、小沢先生の原価計算ゼミを選択するつもりでいたが、大事な用件があって11月に1週間極東の町へ帰省した間に、応募の締め切りが過ぎてしまい原価計算ゼミを断念。そのおりに大学の掲示板を見ると、一般教養ゼミの募集広告が載っていた。一般教養ゼミは学部を超えたゼミで、指導教授は市倉先生、読んでいるテクストは『資本論』全巻であった。1年生の時の12月から参加させてもらったので、第2巻の途中から読み始めた。第一巻は高校生の時に読んでいた。公認会計士第二次試験の受験勉強を高校2年生の時から始めていた。当時の公認会計士二次試験の科目は七科目(簿記・会計学・原価計算・商法・監査論・経済学・経営学)である。経済学は近代経済学であったが、マルクス経済学に興味があったので、『資本論』にチャレンジした。100頁ほど読んだが、大きな森の中に迷い込んだ感じがした。わけがわからないというのが高校生の時の率直な感想だった。そのうちに丸ごと理解してやるという気構えがこのときに芽生えた。
 そんなわたしには一般教養ゼミ募集は「猫に活節」のようなもので、すぐに飛びついた。申し込みには小論文を書いて提出が義務付けられていた。

 11月のあのときに古里に用事が発生しなかったら、小沢ゼミで勉強して、公認会計士試験を受験していただろう。小沢先生とは数度駅前の喫茶店で小沢ゼミ希望の数人の友人と一緒に話をしていた。高校時代から原価計算論には興味が強くて、数冊専門書を読んでいた。原価計算の分野で学者になるのもありかなと考えていた。
 だから、突然の方向転換は、天の導きがあったとしか思えない。
 


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#5206 ようやく八分咲き Apr. 7, 2024 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 まだかまだかと待っていた桜の開花、ようやく八分咲きになりました。午後2時の気温は21.8度、昨日よりも5度高いのです。
 古里、極東の桜が咲くのは五月下旬ですから、そのころには同じくらいの温かさになります。

 
 桜の木の下で、お弁当を広げている家族。広場で十数人でドッジボールに興じる子どもたち、ちょっと賑やかでした。

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 昨日は心拍数が180にアップし、「このまま逝くかもしれないな、死因は心不全ということになりそう」、救急車は間に合わないので、横になり安静にしていたら10分間でおさまりました。女房殿少し焦っていました。心拍数が200を超えたら10分間はもたないかもしれません。予行演習しているようなもので安らかに逝けそうです。
 消化器内科医の主治医と循環器内科医のドクターに心房細動という診断名をつけてもらったので、今週、心臓超音波検査の予約をしてあります。
 きりがないけど、5年生きられたらうれしい。人のために少しやることがあります。

 桜の季節ですから、西行法師の気持ちがよくわかります。
 散り始めた満開の桜とあたたかい春風の中で
 「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」


 思い出しました。スキルス胃癌と巨大胃癌の併発をいう珍しい症例で手術をした2006年7月20日、その翌年の千島桜と、金刀比羅神社のお祭りは、見納めかもしれないと思って見てました。あれから18年が過ぎようとしています。天に感謝です。

*#4546 日本最東端の駅「東根室駅」の桜が満開です  May 20, 2021


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#5205 台湾地震 Apr. 3, 2024 [8. 時事評論]

 今朝8時58分(日本時間)ころ、台湾花蓮県近くの海で地震があり、与那国島や石垣島、沖縄本島に3mの津波警報が出た。12時のNHKニュースでは与那国島の30cmが最大だった。
 花蓮県は太平洋岸、台中に位置している。

 気象庁の発表によれば、震源は台湾花蓮県の海岸付近でM7.7、深さ23㎞だから、震源地が浅いので大きな津波が予想されたようだ。台湾当局の発表ではM7.2である。能登半島沖地震はM7.6だから、同規模の地震ということ。

 花蓮県では山崩れが起きて、数十メートルの高さに砂塵が舞っていた。ビルがいくつか傾いていたり、1階がつぶれている様子がテレビに映っており、まるで、能登半島沖地震の再現に見えた。

 1986年と1999年に同じところを震源とするM7超の地震が起きている。
 いずれにしても震度6~7のところは大きな被害があったのではないかと思う。日本政府は支援を表明していた。
 わたしたち一般の国民ができることは金銭による被害地住民の支援だろう。
 災害に見舞われたときはお互い様、相手を思いやる心を持ちたい。
 日本には惻隠とか憐憫の情という言葉があり、そういう価値観を数十世代にわたって継承し大切に育んできた。

 一昨年、極東の町から首都圏へ戻ってきたが、関東大震災が近づいていることも忘れないで、できる限りの準備をしたい。千葉県のいずこかでM7クラスの直下型地震が起きたらどうなる?具体的な想定で、準備をしなければならない、他人ごとではないのである。

 東京都庁の地震対策関連部署は否応なしに来る直下型地震に備えて大忙しなのだろう。もちろん、首相官邸スタッフも。

*「【解説】 台湾地震 20年前の経験が被害を最小限に

 倒壊建物100超、死者7人、負傷者736人、77人が身動きの取れない状態に陥った。なぜこんなに被害が小さいのか?(4/9現在、死者は13名)
 日本の気象庁はM7.7と発表したが、台湾政府はM7.2のまま訂正なし。こちらが正しいように思える。能登半島沖地震の1/3のエネルギーである。台湾全体で100棟を超える建物が全半壊したとある。とても少ない。
**「台湾の地震、死者7人 負傷者700人以上




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