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#4481 北方領土の日:予科練入隊 柏原栄先生 Feb. 7, 2021 [21. 北方領土]

 柏原栄先生は特別です。どこが特別なのかお話しておきます。
 花咲小学校を卒業するときにわたしたちと一緒に「卒業」され、光洋中学校の社会科の先生として転任、そして根室高校へ入学すると同時に先生も根室高校社会科の教師になられました。だから団塊世代、光洋一期生(根室中学校が光洋中学校と柏陵中学校に分裂したときのピカピカの1年生がわたしたち昭和23年生まれと24年生まれ)にとっては特別な先生でした。
 わたしは光洋中学校で歴史を一年間教えてもらいました。高校のときに倫理社会の先生が用事があっていなかったときに代わりに来られました。そしていきなりテストでした。問題は普通科で出題された政治経済のテストでした。商業科の倫理社会の授業に、それも代講なのに授業をせずに政治経済のテスト問題をやらせたました。かなり無茶苦茶ですが、だれも文句を言わずにやってましたね。(笑)
 満点だったと思います。頭がよかったわけではありませんよ。最後の問題は文科系と理系に分かれてましたが面白かったのでどちらもやりました。
 中学校は1学年10クラス550人だったので、社会科の成績では目立つ生徒だったのでひょっとして覚えてらっしゃったのかもしれません。商業科へ進学して力が落ちていないか試されたのでしょう、だとしたら期待に応えられたと思います。小4から北海道新聞のコラム「卓上四季」を辞書を使って読み始め、語彙が増えるので「社説」を読みたくなり、そして自然に「政治経済欄」を読んでいました。そのあと中学生になると本の濫読期が来ました。光洋中学校の図書室にあったSF小説はあらかた読んだと思います。そんなにありませんでしたし。語彙は読む量に比例して増えるものですから、好奇心の赴くままにいろいろなジャンルを読み漁った方がいいと思います。ビリヤードの店番しながら暇なときに新聞に読みふける小学生、ちょっと変わっていたかもしれませんね。そういう背景があったから、いまの「公民」当時の「政治経済」は問題集だけでなく新聞を毎日読むことで知識が整理蓄積されていったいったのだと思います。群を抜いて「政治経済」の学力テストの成績がよかったのは新聞を丹念に読んでいたお陰です。学力テストには授業で習わないことが出てきますからそこで差がつくのです。頭のよさの問題ではない、新聞のコラム欄、社説、政治経済面の記事を毎日読んでいたかどうかだけの話なんです、でもそれで得してました。中3の「政治経済」担当の先生はお名前何と言ったかな、吉川先生だったような。
 柏原先生は黒板の字が傑作なんです。達筆ですが、大きく書いたり、小さかったり、おもしろい黒板の使い方を見せてくれました。そのせいでページをめくるように黒板に書いた文字が思い出せました。だから、店番をしているときにその日にやったことを頭の中に再現するだけでよかった。1時間の授業も数分で再現できました。若い時の記憶力はいくらでも大きくなるんです。お陰で、授業を聞いているだけで頭の中にストンストンと知識がたまっていきました。上手な授業にいまでも感謝してます。柏原先生に巡り合ったわたしは幸せ者です、とってもついていました。

 ここに昨年12月23日の道新があります。そこに「命捨てさせる教育の怖さ」と題した柏原先生への取材記事が載ってました。先生は海軍飛行予科練習生だったのです。
DSCN4572s.jpg

 記事によれば、先生は水晶島で生まれ育ちました。国民高等学校進学のために根室へ。高等科2年生の時に学校で予科練を強制的に受験させられたと書いてあります。

 大学でゼミの指導教授(哲学)だった市倉宏祐先生は、卒業を早く切り上げて学徒出陣、海軍でゼロ戦のパイロットになりました。土浦航空隊で少年兵のへ操縦技術を教えたことを先生から聞いたことがあります。そのほとんどが特攻兵として出撃しています。ベテランのパイロットがもう残り少なかったのです。「試験を経て選抜されて予科練へ入隊してくるから優秀な者が多かった」、「かれらが生きていたら...」と市倉先生は無念そうでした。ご自身も土浦で特攻兵として待機しているうちに敗戦の報を聴くことになったのです。市倉宏祐先生には遺稿集『特攻の記録 縁路面に座って』があります。編集に当たった伊吹克己専修大学教授(哲学)の許可を得て弊ブログに全文掲載しているので、一部で結構ですからぜひお読みいただきたい。哲学者による特攻の唯一の記録です。「縁路面」とはエプロンとも言い、飛行機の格納庫の前の部分を言います。

 柏原先生は土浦で実技試験を受けて予科練に合格、14歳の1945年8月に入隊が決まっていました。
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 入隊を目前にした7月、「親と水杯を交わしたい」と休みをとって水晶島へ。8月15日、故郷で終戦の知らせを聞いた。「そのときの自分は国を守るために生きる少年だった。敗戦を信じられず、一日中放心状態だった」。父に背中を押されて間もなく釧路にわたったが、水晶島はその後の9月にソ連軍に占領された。
 釧路工業学校(現・釧路工業高校)を経て日大を卒業し、小、中、高の教壇に立った。自らが教える立場になって感じたのは「国のために命を捨てる」ことを当然と思わせる教育の力と恐ろしさ。教え子には「戦争は絶対にいけない」と訴え続けた。
 福寿草やスズランが咲き乱れ、昆布を運搬する馬が歩き回る、喉かな水晶島。前浜でたくさん獲れる大きな北海島エビを食べたり、片道1時間の通学途中に、道端の甘く熟したハマナスの実をほお張ったりしたのは楽しい思い出だ。
 そんな故郷を奪った旧ソ連は決して許せない。
 「国を守るための戦争」という考え方があるのは理解できる。不戦を訴える自らの考えとの間に矛盾を感じたこともある。しかし、戦争が続けば自分は死んでいたかもしれない。運よく生き延びたが、故郷は奪われ、自由に還ることすらできない。そう考えると「戦争は悲劇しか生まない」という思いは変わらない「本当に平和であるためにはどうすべきか、真剣に考えないといけない」。柏原さんは力を込めた。
 取材は武藤里美記者
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 すごい偶然だと思います。もう1か月終戦が延びていたら、柏原先生は市倉宏佑先生からゼロ戦の操縦技術を習うことになったかもしれないのです。ベテランパイロットは次々と特攻兵として出撃しましたから、生き残りは少なくなっていました。
 危ういところでした、柏原先生、健やかに長生きされてください。

 戦争は悲惨であるが、戦わなければ、北方四島はおろか北海道まで旧ソ連に占領され、道民はシベリアへ移住を強制されて、北海道にはロシア人しか住んでいなかったかもしれませんよ。

 根室から北東1500kmのアッツ島で米軍と戦って日本兵2638名が玉砕しています。傷病兵の一部が生きて捕虜となったがわずか29名だった。生き残れたのは1.08%です。この戦い方が米軍に恐怖をもたらしました。武器もなくなって、降参を日本語で呼びかけられても、銃弾の雨の中を雄たけびを上げて軍刀を振り上げ、本部近くまで迫ったのです。米軍は恐慌を来しました。理解できない、気がおかしくなったものまで出た、それで米国は北からの日本侵攻をあきらめざるをえなかったのです。この米軍の戦略転換で沖縄が塗炭の苦しみを背負うことになりました。とことん戦い抜くことが犠牲を小さくするケースもあるという事例ですが、思わぬところが犠牲になりました。アッツ島の戦いは、大本営の作戦司令部が見捨てた結果、補給なしに玉砕せざるをえませんでした。現地司令官と兵隊にはまことに気の毒なことでした。兵站(食料や弾薬や武器や燃料の補給)がなかったという点でミャンマー(ビルマ)のインパール作戦にも似ているところがあります。陸軍大学出身のエリートである作戦参謀の戦略は無茶苦茶なのです。実際に自分が戦うわけではないのですから、現実の戦闘を経験していません。明治維新を戦い抜いた実戦経験のある将軍がいたときまではよかった。実戦経験のない受験エリート一色になって日本軍の作戦は滅茶苦茶になっていきました。特攻作戦が好例です。虎の子のベテランパイロットに爆弾抱えさせて自爆させる作戦はすぐにパイロットが枯渇し、戦力ダウンはわかり切ったことでした。それでも、やらせた。理不尽としか言いようがありません。
 
 現在の北方領土返還運動には戦略がありません。戦後75年間も戦略ナシでよくも運動を続けてきたものだと思います。企業経営なら、無能と言わざるを得ません。75年間も無能であるというのは途方もないことです。企業なら7回経営破綻しています。運動は単なるイベント、恒例行事の(予算)消化に堕しているように元島民2世のわたしは感じます。
 「島を返せ!」なんて百万回叫んだって、ロシアが返すはずがないではありませんか。北方領土返還運動には長期戦略が必要です。経営企画や経営管理の仕事をすることが多かったので、そういう経験から、領土返還の戦略をまとめてみました。柏原先生の想いをすこしは受け継いだ戦略になっていれば幸いです。

#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー

 フォークランド紛争時のマーガレット・サッチャー英国首相の果断な決断が見事だった。毅然とした態度が参考になりませんか?

*#2054 マーガレット・サッチャーと領土問題(3) : Aug.16, 2012

#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012

#4025 日露首脳会談6/29:「元島民落胆深く」 Jul. 1, 2019 


<余談>
 2002年の晩秋に古里へ戻ってきた。それから数年して、文化会館だったか、写真展があり、満開の桜の写真に撮影者柏原栄の名前を見つけた。ソメイヨシノだが建物の感じから東京の風景ではないような気がして、お電話を差し上げた。名前を言ったら、覚えていてくれました。母親や姉のことも。記憶のとってもよい先生です。写真の満開の桜は大阪の造幣局でした。
 花咲小学校で柏原先生の同僚だった岩田先生は択捉島蘂取村出身ですが、数年前にお亡くなりになっています。ニホロ会館で数十年ぶりでお会いしたときに、叔母が「貞子お姉さんの息子」と紹介されて、「ああ..」と思い出された様子。「暇だから遊びにおいで、話がしたい」とおっしゃって1年ほど行きそびれている間に、逝ってしまわれた。千歳の叔母と同じ年で、面白い話をたくさん聞いてました。小さな蘂取村の住民は大きな家族のようです。漁場が豊かで宝島だと爺さんから聞いてました。川に遡上するシャケで竹竿が立つくらい魚影が濃い。素手で岸に跳ね上げても獲れるんだそうです。満州で戦死した長兄が「そんなにたくさん獲っても食べきれないからそれくらいにしたら」、何度も聞いたので、自分がその光景を見たことがあるような気がします。
 望郷の想いというのはそういうことでも受け継ぐことができます。

#3901 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』:市倉宏祐先生 Jan. 22, 2019


#3902 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(1) :目次 Jan. 23, 2019

#3903 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(2) : Jan. 23, 2019

#3904 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(3):「2.誓子と特攻隊」 Jan. 23, 2019 

#3905 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.10~12 Jan. 24, 2019





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