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#4431 経済学研究と思想傾向の変遷 Dec. 14, 2020 [A4. 経済学ノート]

<最新更新情報>12/17日朝9:20

 ビリヤード店を手伝いながら、小4のときから北海道新聞の「卓上四季」や社説を読み始め、1年後の5年生のときには政治経済欄に読みふけるようになったわたしは、当時の社会党の思想に次第に染まっていった。
 高校生になって特殊数学の分野である簿記に夢中になり、中央経済社から出版され始めた公認会計士二次試験参考書を読み始めた。あの当時は7科目で経済学があった。もちろん近代経済学である。会計学説でも東大の黒沢清先生の本と一橋大学の沼田嘉穂先生の対立する理論を読み比べていたから、自然にマルクス『資本論』にも興味がわいた。根室高校図書館に『資本論』があったので、読んでみたが、100頁ほど読んでみて、大きな森の中に迷い込んだような感覚があり、話の大きな筋道が見つからないもどかしさを感じた。ヘーゲルの著作も1冊図書室にあるものを読んだ。ニーチェにも興味がわいて、これは自分で本を買って読んだ。中央公論の世界の大思想全集の一冊だった。
 歯が立たなかった『資本論』へはその論理がつかみたくて興味が持続した。原価計算論の小沢ゼミに入るつもりでいたが事情があって募集のときに東京にいなかった。戻ってきたらもう募集が閉め切られていた。がっくり来ていたところへ、市倉先生の一般教養ゼミの張り紙を掲示板で見つけたのである。使っているテクストは『資本論第3巻』となっていた。それで2年次から哲学の教授の市倉宏祐ゼミに入れてもらった。ゼミに入るには小論文の提出が課されていた。既存の経済学者の説に違和感が消えないので、経済学者ではないほうがいいとは漠然と考えていたら、市倉先生の一般教養ゼミは渡りに船だった。哲学の教授は資本論をどのように読むのか興味がわいていたからだ。学部を超えた「一般教養ゼミ」という位置づけだったが、とんでもない、経済学部のゼミよりもずっと専門的だった。集まった学生は商学部の学生が多かった、経済学部の学生には経済学者のゼミがあるから、一般教養ゼミをとるのは意味がない。意味はあるけど、哲学者の読みに興味がある学生が経済学部には一人もいなかったということだろう。
 資本論を読み終わると、市倉先生は『経済学批判要綱』をとりあげた。チョイスは先生だったか、大学院経済学研究科へ進学した先輩だったのか記憶にない。この本は資本論を書く準備のために経済学の基礎概念相互の関係や論理の展開方法を模索したものだった。全部で6冊あるから、その分量は資本論に匹敵する。この本を読まずして資本論のロジックが理解できるはずもない。世の中には『経済学批判』を読んだだけで分かったつもりのマルクス経済学者が当時は多かった。『経済学批判要綱』研究は当時は広松渉の論文ぐらいなものだった。マルクス経済学者でも通読した人がほとんどいなかっただろう。市倉ゼミはいつの間にか経済学部のゼミを凌いでいた。商学部の1年先輩が経済学研究科と哲学研究科へそれぞれ進学したが、ありがたいことに学部のゼミに継続して参加してくれた。議論のレベルが上がって、3年生が議論にほとんど参加できないような状況が現出した。そのころようやく資本論体系構造が見えだしてきた。はっきり見えたのは大学院へ進学してから、渋谷の進学塾で数学を教え始めて、ユークリッド『原論』に目を通した時である。『原論』と『資本論』に共通の演繹的体系構造が見えた。そういう目で見ると『資本論』は第一巻で方法的な破綻にたどり着いたこともわかった。その理由が何であるかは『数学手稿』を読んで明白になった。無限小が理解できなかった。微分概念が理解できなかったのだ。
(数学に優れた能力を発揮できる学者には別の経済学が見えてしまう。サミュエルソン『経済学』のように数学を駆使した経済理論が出てくることは必然だった。)
 マルクスは数学では劣等生だった。それで資本論第3巻を読んで四則演算しか出てこないことに違和感のあったのが氷解した。高校生の時の問題意識でマルクス研究にのめり込んだが、行きついたところは、マルクスの方法論の否定だった。数学が苦手だったのでヘーゲル弁証法などという、当時流行のまがい物にもたれたことが破綻の理由だった。デカルト『方法序説』の科学の方法「四つの規則」でも読めばよかった。デカルトは分かっていた、数学にその方法が示されていると。
 その後が問題だった。マルクスを超えるにはどうすればいいかの手掛かりがつかめなかった。日本資本主義は欧米のそれとはかなり様相を異にしている。職人仕事がベースでマルクスの経済理論の根底を支えている工場労働概念が日本の現実とはまるで合わないことにうすうす気づいていた。
 日本企業で働く中で欧米の工場労働概念と日本の職人仕事概念を比較研究し、新たな経済学体系が生み出せるかどうかがライフ・テーマになった。業種を変えて転職して、日本企業や日本人がしている仕事のスタイルに共通なものはないかを探った。

 本筋からそれるので、ここからは読み飛ばして結構です。
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 業種は変えたが、どの企業でも経営管理部門とシステム開発がメインの仕事だった。1978年9月に中途入社した産業用エレクトロニクスの輸入商社では、欧米50社の世界最先端の産業用エレクトロニクスは軍事用エレクトロニクス製品の勉強を6年間やった。毎月のように新製品の説明に各メーカーからエンジニアが本社に来て説明会が開催されたので、そのすべてに出席して傾聴した。製品知識がなければ経営管理はできない。入社早々5つのプロジェクトを任された。長期計画委員会、収益見通し分析委員会、為替対策委員会、電算化推進委員会、資金投資委員会の5つ、あとで利益重点営業委員会の方の仕事も電算化案件だったので、加藤常務と担当課長の遠藤さんの依頼で一緒にやった。プロジェクトはそれぞれ具体的な課題が設定されていたが、3年間で全部クリアした。システム開発や管理会計は米国の尖端の専門書で学習した。よく仕事したなと思う。そのあとは個別に開発した3システムの統合システム開発を任された。6年間仕事して、統合システム開発でオーナー社長と意見が衝突し辞職。引継ぎに2か月かけるように頼まれた。その期間にリクルート社の斡旋で転職先を見つけた。資本規模も従業員数もはるかに大きい会社への転職だった。6年間で培ったスキルがモノを言った。退職した翌日(1984年2月1日)から、SRL本社で仕事していた。好い時代だったし、運がよかった。
 国内最大手の臨床検査会社(当時の本社は西新宿のNSビル22階(後に都庁が移転してきた))でも商品知識は経営管理や経営改善には不可欠、同じことだった。会社の取扱商品や生産方法について知らなければ経営管理なんぞは出来はしない。上場準備で入社した年に、テーマごとに大学病院の先生を講師に招いて社内講習会が1年間にわたって開催された。そこで、臨床病理学会項目コード委員会の櫻林郁之助・助教授(当時)と知り合い、学会の仕事への協力を依頼された。
(86年に「臨床診断システム開発と事業化構想案」を書き、藤田社長の承認をもらいフィジビリティスタディをやった。予算は200億円。そのプロジェクトの一つに臨床検査コードの標準化=日本標準制定があった。大手6社を巻き込んで5年ほどかけて、臨床病理学会から公表、日本標準となる。いま全国の病院システムがその臨床検査項目動いている。構想全体はとん挫している。NTTデータ通信事業本部と数回打ち合わせたが、コンピュータの性能と通信速度が30年後でないと要求仕様を満たさないという結論になったからだ。しかし、10年でコンピュータの性能も通信速度も要求仕様を満たした。世界中でこの手のシステムが開発され出しているが、肝心のインフラが整備されていない。それは検査項目コードの世界標準制定や電子カルテのフォーマットの標準化である。クラウド上で可能だがセキュリティが大問題になるだろう。世界中の個々人の病歴データが巨大なファイルとなって存在することになるからだ。)
 経営統合システム開発を8か月で終え、予算編成や管理をしていたが、2年目には検査試薬の16億円のコストカットを提案し、実行部隊に加わるように指示され、購買課へ応援部隊として参加したら、交渉が目標通りに終わると、2か月後には異動事例が出た。
 入社3年目に監査役と会社の送迎バスで出遭った。「いまどこにいるの?」「購買です」「そうか、購買部長か」「いえ、平です」そう言ったら外口監査役絶句した。監査役は親会社の富士レビオが上場したときの経理部長だから、会社上場で上場要件を満たす経営統合システムを作ることがどれほど大変な仕事か体験してご存じ。それを8か月でやり、画期的な「投資・固定資産管理システム」も作った。減価償却費の予算差異が1億円以上でて、上場要件に引っかかっていたので、システムを作り誤差を1/10にした。固定資産棚卸がいい加減だったので、これも貼り付けるラベルと棚卸の実務設計をして、上場要件に適合するように変えた。検査試薬のコストカットも自分で提案して、プロジェクトを作ってもらい、交渉にも参加して、予定通り16億円の成果を上げたから、わたしの手腕を正当に評価できる唯一の人だっただろう。「入社して翌年では課長昇進が早すぎる」と人事部の反対で昇格がぽしゃったと後で聞いた。購買課へ異動事例が出てしまったので、そこで2年半機器の購入担当とシステムメンテナンスをした。この異動は結果としてはわたしにとっても役に立った。仕事上、世界最先端の水準にある八王子ラボの全セクションへ立ち入る権利を得たのである。だから、打ち合わせは頻繁に検査現場でやるようにした。担当者と話せばその人の担当分野の専門知識がコピーできる。漫画のスライムのようなものだ。そしてその検査に関する文献が機器メーカーの営業から手に入るものは片っ端からお願いして持ってきてもらった。購買担当だから機器メーカーの営業員に否やはない。
 購買在庫管理システムは担当者2人がド素人だったので、帳票類の半分はわたしが設計して仕様書を書いてあげたもの。しかし他の部分であちこちに不具合があり、半年ぐらい調整作業の追われた。危険物の管理も種類ごとにシステムの中に組み込む必要が出てきて、危険物分野ごとに分類してマスターファイルを作り、システムを作り替えるニーズがあった。機器を担当したお陰で検査知識と検査機器に関する知識が身についた。マイクロ波計測器に比べたら、インターフェイスが遅れていた。GPIB(双方向インターフェイス)が産業用エレクトロニクスでは標準だったが、検査機器にGPIBバスが標準装備されることはなかった。とっても不便で、SRLでは92年ころDECの64ビットマシンのミニコンを使って検査機器とインターフェイスを実現した。当時のパソコンでは機器の制御は出来なかった。検査機器の理解には、産業用エレクトロニクス輸入商社で育んだ世界最先端の計測器や質量分析器、時間周波数標準機、制御・データ処理用のコンピュータに関する技術がそのまま生きたのである。4年間購買で勉強させてもらった。そのご学術開発本部担当取締役のIさんから異動の打診があり、1989年12月に学術開発本部スタッフとなり開発部の仕事や学術情報部の仕事を兼務した。この時に上司のI取締役がすぐに課長にしてくれた。開発部は検査試薬の共同開発をやっていたので、製薬メーカー2社と検査試薬の共同開発、そし担当者バラバラにやっていた開発業務のPERT法を使った標準化、慶応大学病院産婦人科のドクターとの出生前診断の日本人基準値づくりのプロジェクト・マネージャをやっている。本部内には開発部、学術情報部、精度管理部の3つの部があったが、本部スタッフとして全部の部の仕事をテーマごとにもたされた。学術情報部のほうは「ラボ見学案内」を担当した。担当者が3人いたが、三人ともやれるわけがないとI取締役に言ったようだ。一度ラボ見学にお客さんを案内するときにわたしを同行して見学させるように言った。その後すぐにわたしがお客様を案内して、三人が観察するように指示した。それで問題解決。何年もその仕事をやっている彼らよりもわたしの方がずっと上手だったから、もう文句は言わない。仕事の分担が明瞭になされた。学術情報部長のK尻さんはわたしのことをよく知っていたから黙ってみていた。彼女を臨床病理学会項目コード委員会と業界6社の産学共同プロジェクトへ引っ張り出したのはわたしだった。大手6社で始まったプロジェクトを2回目に参加して産学共同プロジェクトへ変えたのもわたしの仕事。5年ほどかけて日本標準検査項目コードになった。制定後は検査項目コード管理事務局がSRL学術情報部の担当になった。日本全国の病院のシステムはこのコードで動いている。検査機器の共同開発を製造メーカー数社とやっていたから、その機械が設置してある検査部門での説明は三人に渡されたマニュアルを無視してやった。RI部の精度管理用のサブシステムも一度見ただけで統計的な管理もシステムもわたしの専門領域だから10分で理解出来た。国内の病院からのお客様は、手が足りないときに応援、海外製薬メーカーからの見学希望者への対応がわたしの仕事になった。「本部内の業務の3割カットプロジェクトも担当した。一緒に組んで仕事して、「何年か後に、おまえに使われているかもしれないな」なんてことをつぶやいた。1年5か月で新しくできた関係会社管理部へ異動(1991年4月)し、子会社千葉ラボの赤字脱出プロジェクトを親会社側で担当。新システム導入で、生産性が3倍になり、簡単に黒字になった。25本のゲージのレーダチャートと偏差値評価をベースにした関係会社業績評価システムをつくり、経営分析レポートを作成。これは輸入商社にいたときに、HP97で開発したシステムをEXCELに乗せ換えただけだったので、簡単だった。総合偏差値で業績評価のできる優れものだった。予算で目標偏差値の設定もできた。そのあと、1993年2月から北陸と東北の臨床検査会社2社の買収と資本提携交渉を同時に担当し、6月1日から3年の約束で東北の会社へ役員出向。黒字化案をつくり創業社長の藤田さんに最終承認をもらいにSRL本社へ行くと、藤田社長と谷口副社長からストップを命じられ、1994年10月1日付で出向解除、SRL本社へ戻る。損益シミュレーションの結果は売上高経常利益率が15-20%でありSRLグループナンバーワンになるので、ストップがかかった。子会社SMS(千葉ラボ)の新システム導入による損益シミュレーションは予測値を実績値が越えたので、改善改革案実施後の損益シミュレーションについては社内で信頼度が高かった。
 悪いと思ったのか、社長室、経営管理課長、購買担当課長の3業務兼務辞令が出ていた。ところが意にそわないことが起きて、本社業務の続行を拒否し、子会社への異動を希望、1994年1月3日付で一番古い子会社であるSRL東京ラボへ出向。その会社のラボ移転を口実にグループ全体のラボ再編計画を進めていた。八王子ラボは手狭で4か所に分散していたので、150mの平面ラインでの自動化ラボ構築を考えていた。圧倒的に世界一の生産性と品質管理を誇るラボを作るつもりだった。子会社社長の箕輪さんを説得してラボ移転の合意をとり、土地を不動産屋を使って物色しようとしていたときに、SRL近藤社長に呼び戻され、1996年11月から帝人との合弁会社プロジェクトと新会社の経営を命じられた。経営の全権と仕事の進め方はわたしの流儀でやることを認めてもらって、引き受けた。
 合弁会社のプロジェクトは暗礁に乗り上げていた。新聞に公表した1月の開業に間に合わないので慌てていた。お手上げだったのだ。任務は3つだった。①期限通りに合弁会社をスタートさせること、②臨床治験検査とデータ管理の合弁会社で両社の赤字部門だから3年間で黒字にすること、③帝人出資分を引き取り合弁解消をすること、ああもう一つあった、④羽村にある帝人の臨床検査子会社を買収することだった。
 ④は簡単だと思った。1988年に購買課で機器担当をしていたときに染色体画像解析装置を3台、英国エジンバラの会社IRSから買ったが、そのあとで帝人と東北の臨床検査会社がそれぞれ1台ずつ購入したという情報を輸入元の日本電子輸入販売の担当者から得ていた。この分野の外注検査はSRLが8割を占めていたので、採算に乗るだけの検体を集められるわけがない、そんなこともわからないで処理能力の高さに目をつけて買うようでは、おそらく会社は赤字で、新規分野の拡張による採算改善を狙ったものだと判断していた。2社ともさらに採算を悪化させると予測していた。いずれ、買収してみたい、1988年にそう考えていた。帝人は大会社だから、30年経営しても採算を合わせられない事業だから、社員の引き取り保証などを条件に上手に持ち掛けたら買収できると考えていた。帝人本社側は臨床検査事業を持て余していた。東北の会社には1992年資本提携交渉をして1億円の出資をして役員出向、染色体検査の拡大で黒字にできるめどが立ったが、SRL藤田社長の反対で、実施を見送り、藤田さんに本社へ戻された。ラボのシステムを入れ替えれば生産性は3倍にできたが、千葉ラボで実験済みだったのでつまらないのでやらなかった。
 帝人との合弁会社は①~④を2年半で終了し、仕事が終わったので、老人医療をやりたくて300ベッド弱の特例許可老人病院常務理事として1999年10月に転職した。経営手腕を見ていた帝人の石川専務からはebisuさんが社長をやったらいいとは言われた。SRL社内はなかなかそうはいかない。学術開発本部長のI取締役を社長に迎えるつもりで、SRL社長の承諾を取り付けたが、Iさん辞めてしまった。あとで担当していた案件で失敗がありお辞めになったという噂を聞いた。
 かねてからお誘いいただいていた特例許可老人病院へ転職した。療養型病院へ転換するために病棟建て替えが必要だった。県庁の医事課長や横浜市の医療担当者2名と半年ほど建築仕様を確認して、新日鉄のゼネコン部隊へ発注、坪単価65万円(で20万円/㎡)で竣工。そのあと、2001年5月に外食産業上場の仕事で転職、本社事務所は銀座である。四丁目交差点から徒歩1分。オーナー所有のパチンコ事業も見せてもらった。首都圏で20店舗1000億円の売上の企業である。2年後に古里へ戻った。会社上場には四度、3社経験している。

 できない仕事はなかったと言っていい。黒字にできなかった赤字会社もない。経営には「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」を貫いた。だから、赤字の会社も黒字にできたし、ボーナスが増えて社員が喜んで働いてくれたから、黒字はますます膨らんだともいえる。
 マネジメントには商品とそれを支えるさまざまな仕事に対する知識が必要だった。生産性を上げたり、新規事業分野を切り拓く仕事にはシステム開発が必要だった。
 マネジメントは人である。自分だけが得をしようなんてちっぽけなことをちらっとでも考えたら、それは伝わってしまう。無心で、そして最善を尽くして仕事すること、結果としてそれが心地もよければ結果もよくなるものだと悟った。そういう心の在り方が日本人の仕事観で、奴隷労働に淵源をもつマルクスの工場労働=苦役とは対極にある価値観である。刀鍛冶が神にささげるために禊をして新年初めに刀を打つ、あの姿が日本人の仕事をよく表していると思う。経済学の公理に日本人の仕事観を置けば、まったく別の経済学と経済社会が立ち上がる。新しい経済社会を創造するには、実務デザイン能力と長期戦略が不可欠である。担うに足る能力をもった若者が、いずれ何人も出現するだろう。
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 50歳くらいになってだいたいまとまった。スキルス胃癌を患ったあと書き残しておく必要を感じて、このブログに掲載している。
 マルクス研究者ではあってもマルクス教の信者ではない。わたしが展開したのはマルクス批判である。いまは健全な保守主義者を自称している。16歳のときに目覚め、55年の長い旅路ではあったが、健全な保守主義に辿り着いた。



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