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#4430 校則の厳格化が進行している:従順になった高校生 Dec. 14, 2020 [55. さまざまな視点から教育を考える]

 NHKラジオ朝7時半ころからの番組で、名古屋大学の准教授内田良さんだったかな、校則をテーマにデータを挙げて論じていた。
 校則を守るべきものだという生徒の割合が2001年の68%から2020年に88%にアップしているという。高校生は規則の当否を問わなくなっているようだ。ただ唯々諾々としたがう奴隷のような存在に意識の内ではなっている。こんな人材は企業にもたくさんいて、ただの数合わせの存在だ。必要なのはすべてを疑い、そして今までなかったものを創り出す力である。

 丸刈りの校則を導入する学校が増えているのだそうだ。これにもびっくりした。
 団塊世代のわたしは、極東の町根室で生まれ育った。根室商業が根室高校となっても丸刈りの校則がそのまま維持された。根室商業の伝統を受け継いだということだろう。中3の冬休みに生まれて初めて丸刈りにした。根室高校商業科へ進学するためである。生まれてこの方、坊主頭にしたことはなかったので、根室高校へ入学したら校則改正をするつもりだった。どういう手段があるかは、そのときは考えもしなかったが、問題意識だけは強烈にあった。
 なぜか?北海道新聞のコラム「卓上四季」と「社説」を小4のときから読み始めた。ビリヤードの店番をしながら、わからない語彙が出てきたら国語辞書を引いて新聞を読んでいる小学生を見て大人たちは面白がって遊んでくれた。ビリヤードは抜群に強かった。釧路に親せきが多いのでオヤジが釧路へ行くときは必ずわたしを連れて行ってくれた。用事を済ませる間、駅近くのビリヤード店へわたしを数時間置いて遊ばせてくれた。小6のときに釧路の平和ビリヤードだったかな、そこで大人を相手にゲームした。四つ玉で持ち点は60点だったが、連勝するだけでなく、調子がよくて撞き切ってしまったので持ち点をアップして70点でゲームした。何人か大人が変わって相手してくれた。それでも全勝した。昔は7キュウ・ドローンといって、7回交替して自分の持ち点を撞けなければ引き分けである。ゲームは10回やったのかな、それから釧路では評判のビリヤード少年となった。

 北海道新聞は左がかっているとよく言われるがその通りである。沖縄返還で反対声明を出したのは琉球新報と中部日報と北海道新聞の3紙だけだった。沖縄返還には密約があったことが後でわかる。1942年に新聞統制で道内の11紙が統合されて北海道新聞社が誕生した。紙の配給が関係があったのだろう。さんざん戦争を煽った朝日新聞と同様に戦後の民主主義の洗礼を受けて左傾化していった、時代の流れだったのだろう。
 社説は社会党というスタンスのものが多かったと記憶している。社会党党首浅沼稲次郎の刺殺1960年10月12日の記事は翌日の北海道新聞に載ったが、一面トップの写真を記憶している。メガネが外れかかって、腰を後ろに少し引いてよけたようだが、よけきれなかった。右翼の17歳の少年山口二矢(ヤマグチオトヤ)が刺す直前の瞬間をシャッターが捉えていた。数日後に犯人は独房内で自殺して果てる。
 自衛隊が極秘に机上作戦としてやっていた三矢研究が道新の記事になったのは1963年、中3のときだった。ビリヤード店の店番をしながら、時間があると政治経済欄を片っ端から読んだ。そしてその政治思想に染まっていった。だからわたしは北海道新聞の申し子のようなもの。
 小学校の担任は教育大釧路分校の新卒鶴木俊介先生だった。戦後の民主化教育に理想を見ていたから、とても熱心で、算数の授業がわからない生徒は放課後残れと言い、しょっちゅう補習をしてくれた。冬には一緒にスケートしたりソリやスキーを花咲小学校の裏山で滑って遊んでくれた。正月には生徒を自宅に呼んで百人一首をみんなでやって遊んだ。いい先生だった。北教組に加盟していたと思う。当時の先生たちのほとんどがそうだった。だから人権意識が高かった。わたしは、小学生の時に北海道新聞を読み、教育の民主化の理想を実現しようと突っ走る若い教師に育てられた。鶴木先生、とってもいい先生だった。
(西浜町会長の柏原栄先生もそういう時代のお一人である。わたしたちが花咲小学校を卒業と同時に根室中学が光洋と柏陵に分かれたときに一緒に光洋中学校へ、そこで歴史を習った。そして光洋中学校へ卒業と同時に、また一緒に根室高校へ、今度は高校の教員となられた。中学校の担任は山本幸子先生、家と学校にお袋が二人いるようなものだった。山森パンの長女だった。数年前に心臓にペースメーカーを入れる手術をされた数か月後に亡くなった。副担任は半田(旧姓大岩)先生、新卒で赴任されたので、女生徒と見分けのつかないことがあった。数年前に癌で亡くなられた。「ebisu君、癌友だね、がんばろうね」って、何度も笑顔で話しかけてくれた。)
 価値観の転換、そして激動の時代だった。

 思わぬ方向から校則改正のチャンスが訪れた。1年生の時にN先輩(大学も同じ)が生徒会会計に指名してくれた。それまで話をしたことはなかったが、気が合った。同じ商業科の副会長のFさん(後に室蘭税務署長)と一緒に「おんちゃ」と呼んで面倒見てくれた。普通科の副会長のHさんも好意的だった。生徒会会計は生徒会の帳簿を記帳して、決算までやっていたから、簿記や珠算に堪能な生徒が指名されていたのである。財務大臣のようなもので、生徒会会計は仕事の責任と権限が大きかった。各クラブの予算折衝も生徒会会計がやっており、2年生の時に部長と副部長を生徒会室に呼び、予算折衝を受けていた。決定権限は生徒会会計にあった。生徒会長も生徒会顧問の3人の先生たちもクラブ活動の予算配分には一切口出しできない。先生たちはまったくノータッチ、絶大な権限だった。(笑)
 2年生になってすぐに、東京・京都・大阪・奈良、11泊12日の修学旅行に長髪で行きたくて先輩に相談したら、言い出しっぺの「おんちゃ、おまえがやれ」と言われた。3年生の会長の関さんも了解してのことだった。そこで四月にどういう手順でやるかを決めた。先生たちが弱いのは保護者、保護者にアンケートをとって突きつけたら生徒集会へ持ち込み、校則改正の手続きに従ってやれると考えた。2年生の数人の生徒会役員と協力してすぐにアンケート原案を作り、謄写印刷して配った。アンケートの論調は頭髪は体の一部だからそれを規制するのは憲法の定める基本的人権に抵触する、よって校則を改正すべきだというもの。もちろん大多数の保護者は賛成してくれた。そのまま生徒総会へ持ち込み、予定通りのスケジュールで校則改正を果たし、四か月髪を伸ばして11月の修学旅行は長髪で行った。根室商業の伝統をひとつ壊したのである。応援団は面白くなかっただろう。
 総番のヒロシが応援団に入っていれば団長だっただろうが、総番は応援団長をやらないルールになっていただろう。やれば格が下がる。副番が3人いて応援団のメンバーは総番グループで固められていた。総番グループは2年のときに3年生ともめごとがあった。「13:7の決闘」と北海道新聞に載った。3年生の動員がうまくいかず、2年生にぼこぼこにされた。3年生がケガをして病院へ行ったので、警察の察知するところとなり、道新根室支局が派手に報道した。全員1週間の停学処分。9月ころだったか中間テスト直前だったのを覚えている。羅臼のヤスベ―が外出禁止で退屈していたので、毎日2-3時間ほど花札の相手をして遊んだ。店番の手伝いの終わるのが9時ころだから、それからあいつの下宿へ歩いて出かけて、帰ってくるのは真夜中すぎだった。もちろん試験勉強している暇はない、しかしテストの結果に影響はなかった。授業時間中に集中すれば、黒板に書かれた文字をほとんど記憶できた。授業が終わると5分くらい目をつぶりページをめくるように書かれたことを脳裏に再現して遊んだ。家に帰ってから店番しているときも数分間目をつぶって脳裏に黒板の字を再現すれば復習は終わり。「本当に勉強しないでいままでトップだったんだ」とヤスベ―びっくりしてた。店番してたから、そんな暇はない。春休みや夏休み冬休みにはまとめて時間をとって毎日8時間以上集中的に勉強して「貯金」しておいた。そのヤスベ―も数年前に癌でなくなった。
 生徒会活動はやっていたし、半年ほど高橋珠算塾の高橋塾長に頼まれて汐見町の塾で珠算を教えていた。澤山先輩が高校を卒業して、中央大学文学部へ進学したので、汐見町の塾を教える人が見つからなかったからだ。郡部にも分塾があったように思う。塾生が200人くらいはいたのではないか。そういうわけで時間はなかったが、公認会計士二次試験講座のテキストを読んで暗記する時間は採ったし、経済学や哲学の本は読み漁った。レベルを上げたくて上げたくて、脳がレベルの高い本を読むことを要求していた。腹をすかせた餓鬼を脳内に飼っているようなもの。高校時代は知的好奇心に突き動かされていたと言える。

 丸刈りの校則とともに総番制度も時代に合わぬものになっていた。ヤクザともめごとがあれば総番が学校を代表してもめごとを収めるようになっていたので、総番の地位と背負う責任は重かったが、そんなことは一切なくなっていた。5つ先輩の総番は野球部のキャプテンのSさんだった。わたしは親戚なので、「まこちゃん」と読んでいた。高校1年生の時にマコちゃんがヤクザとのもめごとがあったときには、ヤクザの型通りの挨拶をしなけらばならないと、目の前で実演して見せたくれた。「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さって、ありがとうござんす、手前生国発します処...」、まあ見事なものだった。途中で言いよどんだら殺されたって文句は言えない、そう云った。台詞を手書きした小さく折りたたんだ紙をもらったが、机の中に放り込んでそれっきり。野球部員でもあった総番のヒロシに伝えるべきだったのかもしれないが、そういう時代ではなかった。まこちゃんは次に総番になった後輩にあの仁義の切り方を伝えてなかった。もう無理だと考えていたのだろうと思う。だから、何かの縁、自分が関与して終わらせてやろうと思った。
 2年生になってF組から放り出されてGクラスへ、規格外の生徒をG組に集めるのが慣例になっていたから、このクラスには面白い人材が何人もいた。ヒロシと共産党のAと3人で総番制度の廃止を議論した。それぞれ異なる人脈とこの件に関わる理由をもっていた。土曜日にヒロシと二人だけで学校帰りの道、明治牧場の草原を突き抜けて家の前まで話しながら歩いた。同じクラスで気が合ったのだ。後輩の2年生に仕切れるような人材がいないので総番制度は廃止することにしたが、それを実行したのはヒロシ一人だ。Aもわたしも総番グループではないから部外者。同じクラスの副番のMがバックアップしただろうが、E組の総番グループに反対意見が集まった。結局、総番のヒロシが押し切って解散した、偉い奴だよあいつは。
 学校側から見たら、危ない二人、「鬼と金棒」の物騒なコンビだった。息が合いすぎて、表と裏から学校を支配していたのかもしれない。ヒロシのやることにわたしに否やはないし、わたしのやることにヒロシは否やを言わず協力してくれる。阿吽の呼吸だった。(笑)
 英語の先生があんまり舐めたレベルの授業をするので、カチンときた。あるとき、授業中に「体育館みてきまーす!」といって教室を出た、そしてバスケットボールをもって戻って来て、「空いてました!」と叫んで、男子を連れ出す。ヒロシが阿吽の呼吸ですぐついてくると、みんなぞろぞろ。そりゃあ、ついてこざるを得ないさ。3回授業を潰したら、校長から「授業中に体育館で生徒を遊ばせている先生がいる」と叱られたらしい。「まともな授業しろ!」というのが犯行の動機。
 1年生の時に数学の教師とトラブルを起こした。テストの回答が間違っていたので、教壇を挟んでここが違うだろうと話していたら、みったくない言い訳をだらだらするので、カチンときた、その瞬間「なに!」と声が出たら、数学の先生は慌ててメガネを外した。殴られると思ったのだ。その刹那、すーっと冷静になれた。こんなクズ教師と刺し違えで退学になるのでは死んでも死にきれない。踵を返して席へ戻った。あとでヤスベ―が「殴ると思った」、あのときはホントに危なかった。
 小学生のころから石炭ストーブに使う焚き付けを手刀や拳で叩き折って鍛えていた。大きな鉞を振りかぶって一気に落とし、四寸角や五寸角の角材を叩き折っていたから、腕力とモノを叩き折る技術は見かけとはまるで別。身体のひねりを加えるだけで打突の衝撃アップする。身体が柔軟だったから身体のひねりを加えて一歩踏み込んだら、拳は凶器となる。高校卒業した年に、新宿でヒロシとムサシと3人でパンチングボールを叩いた。身体のひねりだけで180㎏を超えた。拳が重くてかたいので、顔を殴れば顔面陥没、額にヒットすれば頭蓋骨陥没は必至、側頭部にヒットすれば頭蓋骨粉砕骨折だろう。カッとなって人を殴ったら、刑務所行だ。見かけと違って案外短気なところがあった。何度か危ういことはあったが、その都度抑えきれた。
 ビリヤードの常連だったヤクザの親分は一度もゲームしようとは言わなかったが、わたしの本性を見抜いていた。「トシボーに何かあったら、言ってくれ」とお袋に告げていた。何かやりかねない人間に見えていたのだ。さすがに親分だけあって人を見る目が確かだなと感心した。

 柏原先生が6年前の同期会で挨拶をされた。その折に、「君たちの学年は七大改革をした」とおっしゃった。その内の最大のものは今あげた二つである。あとは何があったのか、記憶にない。市内の私立高校生徒会と会合をもったことはあった。女子バレーで練習試合を組んだが、これは初めての事例だった。明照高校という名前だったと思うが、大徳寺の境内の一角にあり、体育館は教室を3個ほどぶち抜いて作ったもので、天井が低かった。根室高校体育館で練習試合して、トスが上がると、目がくらくらしたとは部員だった妹の話だ。そのときに3年生の部長が、いまは親友の奥さんだ。生徒会長の北川さんは一度市議になったが、一度っきりで2回目は立候補しなかった。同期では五十嵐が根室市議をやっている。

 いま根室高校生徒会会計は、帳簿はつけないから、生徒会会計をやった生徒に訊いても、会計の仕事がなんなのかさっぱり要領を得ない。部活の予算も生徒会会計ではなく先生たちが決めている。
 そして昔はなかった宿題が毎日のように出されている。小学生じゃあるまいし、高校生になったら勉強くらい自分で目標を決めてやれないのか?大半の生徒がやれないのだろう。生徒たちが幼児化しているから、宿題を出さざるを得ない。だが悪循環だ、手をかければかけるほど生徒たちはダメになる。
 これでは高校3年間で自主性・自律性をはぐくむのは不可能だ、逆に、自主性や自律性を根こそぎ奪ってしまっているような気がしてならない。ただ、先生の指示に従って動くだけの指示待ち人間を増産している。そしてルールを疑うことすらない。この点がわたしたち団塊世代と決定的に違う。理不尽なルールがあれば変えてやるという意気込みがあった。
 一度だけ校長が生徒会に介入したことがあった。副会長二人から、次の会長はお前がやれ、俺たち二人が応援演説するからと指示された。先輩の指示は絶対である。立候補の意志を生徒会顧問へ告げたらダメ出しがあった。会計をやっているからダメだという。理由にならぬ。次の会計は後輩のHを考えていたから、同じ生徒会にいるから、何か問題があっても教えることができるので差し支えない。どうやら校長の指示のようで、顧問が困った顔をした。間に挟まって気の毒なので下りた。同期のHを副会長にした。先輩の二人の副会長に、校長が反対している旨を告げ、Hの応援演説を頼んだら、快く引き受けてくれた。わたしが会長になったら何をやるかわからないので警戒された。民青の矢臼別のキャンプに参加した前後には公安がついていた。
 やりたいことがあれば生徒会会計は権限が大きい、会長のオサムや副会長のカナメや中央執行委員のヒロコやカズコたちを巻き込んでなんでもやれた。
 会社勤めでも同じだった。産業用エレクトロニクスの輸入商社ではオーナー社長を説得出来たら、やりたいことはたいがいのことはやれた。臨床検査センター最大手のSRLでも、提案書を書いて創業社長の藤田さんの決裁をもらえば200億円でも使える。経営統合システムのコア部分(財務経理システム・固定資産投資管理システム・各サブシステムとのインターフェイス)を8か月で本稼働させた。そして中途入社3年間で30億円以上の利益を増やした実績があるから、OKがでる。提案の内容次第で何でもやれるしお金も自由に使えた。

 同じものを同じ規格で大量生産して経済が回る時代はとっくに終わったのに、教育はむしろ後退して、自主性や自律性を子どもたちから奪う方向へ歩みを進めている。
 面白いことに、開成高校や灘高校は校則がとっても緩いらしい。校則で締め付けなくても自分で目標を設定して勉学に励む生徒が多いからだろう。

 20年とたたないうちに、一人当たり国民所得は韓国の後塵を拝しているだろう。北方領土をソ連に、竹島を韓国に取られただけでなく、尖閣列島が中国に奪われる。尖閣の次は琉球が中国に朝貢していたから元々中国のものだと言い出すだろう。太平洋の公海上の水産資源は中国の大型漁船がとりつくしてしまう。
 教育を軽視してはいけない。



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