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#4223 藤原辰史『パンデミックを生きる指針』April 16, 2020 [35. 感染症および自己免疫疾患]

 すごい人がいた。読み応えのある論考である。次のサイトから緊急メッセージを全文引用した。(…)部分は意味を分かりやすくするためのebisuのつけ足し。
 

*https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic?fbclid=IwAR2yXLiQraGym047OOYeTYQna8pw5UJ41WqNxcINNrYtQUlss7YEixGCW4E

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藤原辰史:パンデミックを生きる指針         ——歴史研究のアプローチ   
 
1 起こりうる事態を冷徹に考える 
2 国に希望を託せるか 
3 家庭に希望を託せるか 
4 スペイン風邪と新型コロナウイルス 
5 スペイン風邪の教訓 
6 クリオの審判 
(本文中で言及された①~④の記事には、末尾で示したQR コードからアクセスできます)
 (ebisu注:歴史の女神クリオが携えるのはラッパと書物、頭には月桂樹(げっけいじゅ)の冠をかぶっている。月桂冠とラッパは勝利と名声を表し、書物には勝者の栄光が記されている。歴史とは勝ち残った者の記録という寓意(ぐうい)なのだろう…https://mainichi.jp/articles/20190601/ddm/001/070/103000c)
 
1 起こりうる事態を冷徹に考える
    人間という頭でっかちな動物は、目の前の輪郭のはっきりした危機よりも、遠くの輪郭のぼやけた希望にすがり たくなる癖がある。だから、自分はきっとウイルスに感染しない、自分はそれによって死なない、職場や学校は 閉鎖しない、あの国の致死率はこの国ではありえない、と多くの人たちが楽観しがちである。私もまた、その傾 向を持つ人間のひとりである。     甚大な危機に接して、ほぼすべての人びとが思考の限界に突き当たる。だから、楽観主義に依りすがり現実から 逃避してしまう——日本は感染者と死亡者が少ない。日本は医療が発達している。子どもや若い人はかかりにく い。1、2週間が拡大か制圧かの境目だ。2週間後が瀬戸際だ。3週間後が分水嶺だ。一年もあれば五輪開催は大 丈夫だ。100 人に4人の中には入らないだろう。そう思いたくなっても不思議ではない。希望はいつしか根拠の ない確信と成り果てる。第一次世界大戦は 1914 年の夏に始まり 1918 年の秋まで続いたが、開戦時にドイツ皇 帝ヴィルヘルム二世はクリスマスまでには終わると国民に約束した。第二次世界大戦では、日本の勝利に終わる と大本営は国民に繰り返し語っていた。このような為政者の楽観と空威張りを、マスコミが垂れ流し、政府に反 対してきた人たちでさえ、かなりの割合で信じていたことは、歴史の冷酷な事実である。     ペストの猛威、三十年戦争、リスボンの大震災、ナポレオン戦争、アイルランドのジャガイモ飢饉、コレラやペ ストや結核の蔓延、第一次世界大戦、スペイン風邪、ウクライナ飢饉、第二次世界大戦、チェルノブイリ原発事 故、東京電力の原発事故。世界史は生命の危機であふれている。いずれにしても甚大な危機が到来したとき、現実の進行はいつも希望を冷酷に打ち砕いてきた。とりわけ大本営発表にならされてきた日本では、為政者たちが 配信する安易な希望論や道徳論や精神論(撤退ではなく転進と表現するようなごまかしなど)が、人を酔わせて 判断能力を鈍らせる安酒にすぎないことは、歴史的には常識である。その程度の希望なら抱かない方が安全とさ え言える。
     想像力と言葉しか道具を持たない文系研究者は、新型コロナウイルスのワクチンも製造できないし、治療薬も開 発できない。そんな職種の人間にできることは限られている。しかし(文系研究者にもやりうることは)小さくはない。たとえば、歴史研究者は発見した史料を自分や出版社や国家にとって都合のよい解釈や大きな希望の物語に落とし込む心的傾向を捨て る能力を持っている。そうして、虚心坦懐に史料を読む技術を徹底的に叩き込まれてきた。その訓練は、過去に 起こった類似の現象を参考にして、人間がすがりたくなる希望を冷徹に選別することを可能にするだろう。科学 万能主義とも道徳主義とも無縁だ。幸いにも私は環境史という人間と自然(とくに微生物)の関連を歴史的に考 える分野にも足を突っ込んでいる。こうした作業で、現在の状況を生きる方針を探る、せめて手がかりくらいを 得られたらと願う。       

2 国に希望を託せるか   
  まず、現実を観察したい。  
   新型コロナウイルスは世界を分断している。日本の内部も。そもそも、日本だけ感染者が少ないという事実は、 検査量の少なさに拠るところも多く、喜んでいられない。運悪く最近まで東京オリンピックを七月に実施したい と足掻いていた人たちが、日本社会に根拠のない楽観主義をもたらしてきた。しかし、延期が決定するやいなや 首都では感染者の数が急速に増えつづけている。世界では高齢者や重病者以外の感染者も死者も増えてきている。 さらにいえば、新型コロナウイルスは、人びとの健康のみならず、国家、家族、そして未来への信頼を打ち砕き つつある。すでにもう土台がぐらついていたものばかりであるが。 
    第一に、国家。     人びとは、危機が迫ると最後の希望をリーダーとリーダーの「鶴の一声」にすがろうとする。自分の思考を放棄 して、知事なり、首相なり、リーダーに委任しようとする。     たしかに、もしも私たちが所属する組織のリーダーが、とくに国家のリーダーがこれまで構成員に情報を隠すこ となく提示してきたならば、そのデータに基づいて構成員自身が行動を選ぶこともできよう。異論に対して寛容 なリーダーであれば、より創造的な解決策を提案することもできるだろう。データを改竄したり部下に改竄を指 示したりせず、きちんと後世に残す文書を尊重し、歴史を重視する組織であれば、ひょっとして死ななくてもよ かったはずの命を救えるかもしれない。自分の過ちを部下に押し付けて逃げ去るようなそんなリーダーが中枢に いない国であれば、ウイルスとの戦いの最前線に立っている人たち、たとえば看護師や介護士や保育士や接客業 の不安を最大限除去することもできよう。危機の状況にも臨機応変に記者の質問に対応し少数意見を弾圧しない リーダーを私たちが選んでいれば、納得して人びとは行動を起こせる。「人類の叡智」を磨くために、「有事」 に全く役に立たない買い物をアメリカから強制されるのではなく、研究教育予算に税金を費やすことを使命と考 えてきた政府であれば、パンデミックに対して少なくともマイナスにはならない科学的政策を提言できるだろ う。     ところが、残念ながら日本政府は、あるいはそれに類する海外の政府は、これまでの私たちが述べてきた無数の 批判に耳を閉ざしたまま、上記の条件を満たす努力をすべて怠ってきた。そんな政府に希望を抱くことで救われ る可能性は、『週刊文春』の 3 月 26 日号に掲載された「最後は下部のしっぽを切られる」「なんて世の中だ」 という自死寸前の赤木俊夫さんの震える手で書かれた文字群によって、また現在の国会での政府中枢の驚くべき 緩慢な言葉によっても、粉々に打ち砕かれている。この政権がまだ 45.5 パーセントの支持率を得ているという 驚異的な事実自体がさらに事態を悪くしている(共同通信社世論調査。2020 年3月28 日配信)。     その上、「緊急事態宣言」を出し、基本的人権を制限する権能を、よりにもよって国会はこの内閣に与えてしま った。為政者が、国民の生命の保護という目的を超えて、自分の都合のよいようにこの手の宣言を利用した事例は世界史にあふれている。どれほどの愚鈍さを身につければ、この政府のもとで危機を迎えた事実を、楽観的に 受け止めることができるだろうか。 

 3 家庭に希望を託せるか 
    第二に、家庭。   
  国が頼りなければ、家庭に生死を決める重荷がのしかかってくる。家族ほど近くて頼れて安心できる存在はない。「濃厚接触」は免れないから運命共同体とさえいえる。しかし、在宅の仕事が難しい親は、小学生の子どもを家 に置いていかなくてはならない。その不安と罪悪感と闘わなくてはならない。不況による解雇も増えている。遠 くに住む老いた両親に手伝いに来てもらうにも、感染リスクに晒されながらの長旅は正直心配だ。結局、経済基 盤も育児環境も改善しない。家庭が安全であるという保証もない。     そもそも、子どもにとって家庭は安全な存在だろうか。あるべきかどうかではない。そうなのかどうか、である。 日本は、七人に一人の子どもが貧困状態にある国である。経済状況の差をここまで広げた政策のつけは、こうい う危機の時代に回ってくる。私は、『給食の歴史』(岩波新書、2019 年)で、高度経済成長期でさえ給食で一日 の重要な栄養をとって食いつないできた子どもたちが多数いたことを書いた。まさに、現在は、子どもたちの最 後の生命線が絶たれている現状とさえいえるのだ。     たとえ、三食最低限のご飯が食べられている家庭でも、危険はまだ残っている。『クーリエジャポン』(3月29 日配信 ①)によると、「3 月 17 日の外出禁止令以降、家庭内暴力が増加した可能性があることを認めている。 パリ警視庁管轄の地域では1週間で 32 パーセント、憲兵管轄の地域では36 パーセントほど、家庭内暴力が増加 したという」。これはすでに女性への家庭内暴力が社会現象となっていたフランスだけの問題ではない。日本で も、普段は長時間一緒に滞在しない家族の成員が同じ屋根の下で過ごすことで、なんとなく気まずい空気が流れ ている家は少なくないだろう。普段虐待を受けている子どもにとって、家庭はますます逃げがたい牢獄となるだ ろう。子どもだけではない。配偶者、とくに夫の家庭内暴力を受けてきた妻には、外出が難しいこの現状は文字 通り牢獄にほかならない。今後、感染したことで家族の成員が欠けることも十分に考えられる。     家族が機能不全になったら地域に頼るしかない。しかし、不運なことに、そもそも社会的に弱い立場にある人を 支える場所が、新型コロナウイルスの影響で機能が低下したり、機能不全に陥ったりしている。地域の活動の場 所である PTA も自治会も NPO も、飛沫感染が恐れられるなか、活発な援助に手を出しにくい。子ども食堂も 学校給食もほとんど閉鎖され、子どもたちの腹と心の寂しさを誰も満たしてくれない。     しかも現時点で、近年頻発する水害や地震のような大災害が起こったならば、地域の避難所は間違いなく感染の 温床となってしまうだろう。ゆえに、現時点で各地方自治体は、災害時の避難の対応について早急にガイドライ ンを作成すべきである。  

  4 スペイン風邪と新型コロナウイルス  
   新型コロナウイルスの活動が鎮静ではなく、拡散の方向に向かっているいま、希望的観測から頼りうる指針を選 別していくため参考にすべき歴史的事件は、SARS やエボラ出血熱よりも「スペイン風邪」、すなわち、スパニ ッシュ・インフルエンザだと私は考える百年前のパンデミックである。アメリカを震源とするこのインフルエ ンザの災いは、戦争中の情報統制で中立国だったスペインからインフルエンザの情報が広まったため、スペイン人にとっては濡れ衣にほかならない名前が歴史の名称となった。1918 年から1920 年まで足掛け3 年かけて、3 度の流行を繰り返し、世界中で少なく見積もっても4800万人、多く見積もって一億人の命を奪い(山本太郎『感 染症と文明——共生への道』岩波新書、2011 年)、世界中の人びとを恐怖のどん底に陥れた。そのわりに教科書 でも諸歴史学会でもほとんど取り上げられなかった世界史の一コマである。私は、第一次世界大戦期ドイツの飢 餓について研究を進めていく過程で(『カブラの冬——第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』人文書院、2011 年)、多くの民間人をも苦しめたスパニッシュ・インフルエンザについて調べたことがあるが、現状のパンデミ ックと似ている点が少なくないことに気づく。どちらもウイルスが原因であり、どちらも国を選ばず、どちらも 地球規模で、どちらも巨大な船で人が集団感染して亡くなり、どちらも初動に失敗し、どちらもデマが飛び、ど ちらも著名人が多数死に、どちらも発生当時の状況が似ている。     ただ、当時は、インフルエンザのウイルスを分離する技術が十分に確立されておらず、医療技術的には現在の方 が有利、地球人口が17 億程度だった当時と、75 億人まで増えた現在とでは過去の方が有利だ。新聞以外にSNS も含め多くのメディアが必要・不必要にかかわらず情報を大量に発信しているのも現在の特徴であり、正直、ど ちらに転ぶかわからない。百年前はWHOも存在しなかったので、本来であれば現在の方が有利だと思いたいけ れど、なかなかそう思いづらいのは報道の通りである。 
    百年前の日本はちょうど米騒動とシベリア戦争(シベリア出兵)の時代である。当時、アジアもヨーロッパも北 米大陸にも、これまであり得ないほどの人の移動があった。第一次世界大戦の真っ只中だったからである。すで に 1918 年の春からインフルエンザが流行っていたアメリカから、多数の若い男たちが輸送船に乗ってヨーロッ パにわたっていた。換気が悪く、人口密度が高い船内でどんどん感染が広がり、健康そのものだった若者が次々 に死んでいった。ヨーロッパにはアジアからも多くの人たちが労働者として雇われていた。植民地である仏領イ ンドシナからはフランスへ、インドやビルマからはイギリスへ、中国からは苦力が多数ヨーロッパに上陸してい た(東南アジアの第一次世界大戦については、早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ——東南アジア史のなか の第一次世界大戦』人文書院、2012 年)。やがて、アジアにも感染は拡大し、日本でも約40 万人前後が亡くな ったと言われている。    インフルエンザがここまで世界に広がり、多くの兵士たちが死んでいった理由として、戦争中の衛生状態や栄養 状態が考えられた。環境史家のアルフレッド・W・クロスビーによれば、兵士は、体調不良を感じても衛生的に 悪い条件で無理して作業に従事するため、悪化しやすく、感染しやすかったという。銃後は食糧不足に悩んでお り、やはりインフルエンザ・ウイルスの格好の餌食となった。しかも当時兵士たちを悩ませていた一つが虫歯だ ったことを考えれば(Ruchel Duffett, The Stomach for Fighting: Food and the Soldiers of the Great War , Manchester University Press, 2012, p. 21.)、ウイルスの主な生存場所である口腔の衛生状態は相当に悪かっただ ろう。     だからといって、いま、世界規模で繰り広げられるような戦争がなかったことを寿ぐことはできない。ここ十年 の人の移動の激しさは当時の比ではない。その最大の現象は昨今のオーバーツーリズムであるかつての兵士は いまのツーリストである。船ではなく飛行機で動くツーリストたちの動きは、頻度と量が桁違いだ。それが今回 の特徴である。   

5 スペイン風邪の教訓   
  スパニッシュ・インフルエンザの過去は、現在を生きる私たちに対して教訓を提示している。クロスビー『史上 最悪のインフルエンザ——忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、みすず書房、2004 年)を参考にしつつ、ま とめてみたい。     
 
  第一に、感染症の流行は一回では終わらない可能性があること。スパニッシュ・インフルエンザでは「舞い戻り」 があり、三回の波があったこと。一回目は四ヶ月で世界を一周したこと。一回目よりも二回目が、致死率が高か ったこと。新型コロナウイルスの場合も、感染者の数が少なくなったとしても絶対に油断してはいけないこと。 ウイルスは変異をする。弱毒性のウイルスに対して淘汰圧が加われば、毒を強めたウイルスが繁殖する可能性も ある。なぜ、一回の波でこのパンデミックが終わると政治家やマスコミが考えるのか私にはわからない。ちょっ と現代史を勉強すれば分かる通り、来年の東京五輪が開催できる保証はどこにもない。 
    第二に、体調が悪いと感じたとき、無理をしたり、無理をさせたりすることが、スパニッシュ・インフルエンザ の蔓延をより広げ、より病状を悪化させたこと。何より、軍隊組織に属する兵士たちの衛生状況や、異議申し立 てができない状況を考えてみるとわかる。過労死や自殺者さえも生み出す日本の職場の体質は、この点、マイナ スにしか働かない。 

    第三に、医療従事者に対するケアがおろそかになってはならない。スパニッシュ・インフルエンザを生きのびた 人たちの多くが、医師や看護師たちの献身的な看病で助けられたと述懐している。目の前の患者の命がかかって いる場合、これらの人たちは、多少自分が無理しても助けようとすることが多いことは容易に想像できよう。し かし、いうまでもなく、日本の看護師たちは低く定められた賃金のままで、体を張って最前線でウイルスと戦っ ていることを忘れてはならない。世界現代史は一度だって看護師などのケアの従事者に借りを返したことはない のである。
     第四に、政府が戦争遂行のために世界への情報提供を制限し、マスコミもそれにしたがっていたこと。これは、 スパニッシュ・インフルエンザの爆発的流行を促進した大きな原因である。情報の開示は素早い分析をもたらし、 事前に感染要因を包囲することができる。 
    第五に、スパニッシュ・インフルエンザは、第一次世界大戦の死者数よりも多くの死者を出したにもかかわらず、 後年の歴史叙述からも、人びとの記憶からも消えてしまったこと。それゆえに、歴史的な検証が十分になされな かったこと。新型コロナウイルスが収束した後の世界でも同じことにならぬよう、きちんとデータを残し、歴史 的に検証できるようにしなければならない。とくにスパニッシュ・インフルエンザがそうであったように、危機 脱出後、この危機を乗り越えたことを手柄にして権力や利益を手に入れようとする輩が増えるだろう。醜い勝利 イヴェントが簇生するのは目に見えている。だが、ウイルスに対する「勝利」はそう簡単にできるのだろうか。 人類は、農耕と牧畜と定住を始め、都市を建設して以来、ウイルスとは共生していくしかない運命にあるのだか ら(たとえば、ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史——国家誕生のディープヒストリー』みすず書房、 2019 年)。もしも顕彰されるとすれば、それは医療従事者やケースワーカーの献身的な働きぶりに対してであ る。 
    第六に、政府も民衆も、しばしば感情によって理性が曇らされること。百年前、興味深い事例があった。「合衆 国公衆衛生局は、秋のパンデミック第二波の真っ只中、ほかにやるべき大事なことが山ほどあったにもかかわら ず、バイエル社のアスピリン錠の検査をさせられていた」。これは、「1918 年当時の反ドイツ感情の狂信的なま での高まり」が、変な噂、つまり、ドイツのバイエル社が製造していたアスピリンにインフルエンザの病原菌が 混ぜられて売られているという噂が広まっていたためである(クロスビー『前掲書』259 頁)。 
    現在も、疑心暗鬼が人びとの心底に沈む差別意識を目覚めさせている。これまで世界が差別ととことん戦ってき たならば、こんなときに「コロナウイルスをばら撒く中国人はお断り」というような発言や欧米でのアジア人差 別を減少させることができただろう。あるいは、政治家たちがこのような差別意識から自由な人間だったら、き っと危機の時代でも、人間としての最低限の品性を失うことはなかっただろう。そしてこの品性の喪失は、パン デミック鎮静化のための国際的な協力を邪魔する。 
 第七に、アメリカでは清掃業者がインフルエンザにかかり、ゴミ収集車が動けなくなり、町中にごみがたまった こと。もちろん、それは都市の衛生状況を悪化させること。医療崩壊ももちろん避けたいが、清掃崩壊も危険で あること。     第八に、為政者や官僚にも感染者が増え、行政手続きが滞る可能性があること。たとえば、当時のアメリカの大 統領ウッドロウ・ウィルソンも感染者の一人である。彼が英仏伊と四カ国対談の最中に三九・四度の発熱で倒れ、 病院に入院している間、会議の流れが大きく変わり、ドイツへの懲罰的なヴェルサイユ条約の方向性が決まって しまった。  


6 クリオの審判  

さらにいえば、新型コロナウイルスが鎮静化すれば危機が去ったと言うことはできない。実は、本当に怖いのは ウイルスではなく、ウイルスに怯える人間だ。ドイツの首相アンゲラ・メルケルは 3 月 18 日の演説で、日本の 首相とは異なり、基本的人権を制限することの痛みと例外性を強調した。東ドイツ出身の彼女にとって、移動と 旅行の自由は苦労してやっと得たものだった(日本語訳は、Mikako Hayashi-Husel ②)。だが、これが例外であ りつづけるのかどうか、私は大いに疑問である。今回のパンデミックは人びとの認識を大きく変えるだろう。人 びとの不測の事態に対するリスクへの恐怖が高まり、ビッグデータの保持と処理を背景とした個別生体管理型の 権威国家や自国中心主義的なナルシズム国家がモデルとなるかもしれない。ユヴァル・ノア・ハラリは新型コロ ナウイルスの後は、E U理念の復活のチャンスになりうるという希望的観測を慎重に抽出しているが、私は上記 の理由から、逆に価値が暴落する可能性も考えている(Yuval Noah Harari, In the Battle Against Coronavirus, Humanity Lacks Leadership, in: Time on 15 March 2020. ③)。また、ハラリは、コロナウイルスの対応におい て、各国の遮断ではなく協力を呼びかけており、それには全面的に賛成するが、それにしても自国中心主義に溺 れる国家が国際社会には溢れすぎている。こうして、世界の秩序と民主主義国家は本格的な衰退を見せていくの かもしれない。すでにパンデミック以前から進行していたように。 


 または、ハラリは述べていないが、新型コロナウイルスを「滅菌」するための消毒サービスが流行して、恐怖鎮 静化商品の市場価値が生み出され、人びとが、ただでさえ蔓延していた潔癖主義に取り憑かれ、人間にとって有 用な細菌やウイルスまで絶滅の危機、それによる体内微生物相の弱体化、そして免疫系統への悪影響に晒される かもしれない。第一次世界大戦後、毒ガスの民需転用で殺虫剤商品が増えていくが(その一つがユダヤ人虐殺に 用いられたツィクロンBである)、これが公共交通機関や公共施設の消毒に用いられたのは、おそらくインフル エンザが猛威を振るったこととも関係しているだろう(拙著『戦争と農業』集英社インターナショナル新書、2017 年)。 


 消毒文化の弊害については、さしあたり、マーティン・J・フレーザー『失われてゆく、我々の内なる細菌』(山 本太郎訳、みすず書房、2015年)が参考になるだろう。そうして、ある特定のウイルスを体内に長年共生させ、 他の病原菌から守るような状況になる可能性を失っていくかもしれない。潔癖主義が人種主義と結びつくと、ナ チスの事例に見られるようにさらに厄介である(H・P・ブロイエル『ナチ・ドイツ 清潔な帝国』大島かおり訳、 人文書院、1983 年)。     このように、悪いことはいくらでも想像できる。しかし、世界史の住人たちは一度として、危機の反省から、危 機を繰り返さないための未来への指針を生み出したことがない。世界史で流された血の染み付いたバトンを握る 私たちは、今回こそは、今後使いものになる指針めいたことを探ることはできないだろうか。  


 第一に、うがい、手洗い、歯磨き、洗顔、換気、入浴、食事、清掃、睡眠という日常の習慣を、誰もが誰からも 奪ってはならないこと。あたりまえだ、という反応が帰ってきそうだが、歴史が我々に教えているのはむしろ、 戦争とそのための船上および鉄道での移動がこのあたりまえの習慣を困難にしたことである。人間を不衛生な場 所に収容・監禁することがこれを困難にしてきた歴史も、私たちは知っている。仕事が忙しくても、仕事中に上 記の基本的な予防(たとえば昼休みにも歯磨きをすることや共有のゴミ箱やトイレを丁寧に使うこと)を部下が 実践することを、上司が止めず、上司もみずから進んでやること。よく食べ、よく笑い、よく寝る、という免疫 力をつける重要な行為が、これまで仕事よりもあまり重視されなかったことを反省してみてもよい。 

    第二に、組織内、家庭内での暴力や理不尽な命令に対し、組織や家庭から逃れたり異議申し立てをしたりするこ とをいっさい自粛しないこと、なにより、自粛させないこと。その受け皿を地方自治体は早急に準備すること。 総力戦体制だから「城内平和Burgfrieden」(第一次世界大戦時にドイツで唱えられたスローガン)でいきましょ う、というのが、20 世紀の歴史の常道だったが、異議申し立ての抑制こそが、かえって新型コロナウイルスによ る被害を増大させるだろう。フランス大統領のエマニュエル・マクロンは 3 月 16 日のテレビ演説で「我々は戦 争状態にある」と繰り返し、アメリカ大統領のドナルド・トランプもみずからを「戦時下の大統領」と呼んで憚 らないが、この言葉は諸刃の剣である。緊急性を高めることのみならず、異論を弾圧することにも極めて効果的 な言葉だからだ。 

    第三に、戦争にせよ、五輪にせよ、万博にせよ、災害や感染などで簡単に中止や延期ができないイベントに国家 が精魂を費やすことは、税金のみならず、時間の大きな損失となること。どのイベントも、その基本的な精神に 立ち戻り、シンプルな運営に戻ること。とくに、日本のような災害多発列島はいつキャンセルしても対応可能な 運営が望まれる。  

   第四に、現在の経済のグローバル化の陰で戦争のような生活を送ってきた人たちにとって、新型肺炎の飛沫感染の危機がどのような意味を持つのか考えること。危機は、生活がいつも危機にある人びとにとっては日常である、 というあたり前の事実を私たちは忘れがちである。いつ落ちてくるかわからない戦闘機に毎日さらされている基 地周辺に住む人びとにとって、爆音で神経が参ってしまうリスクや事故に遭うリスクは、新型コロナウイルスに 感染するリスクよりも低いだろうか。原発事故によって放射性物質にさらされ、いまだに避難中の人びとにとっ て、病気になるリスクは、新型コロナウイルスに感染するリスクよりも低いだろうか。上司の嫌がらせを受けな がら働く人間にとって、過労死や自殺やうつ病になるリスクは、新型肺炎で死ぬリスクよりも低いだろうか。ホ ームレスが病気を患っている可能性は、新型コロナウイルスに感染する可能性よりも低いだろうか。派遣労働者 として働いているシングルマザーにとって、体を崩して子どもに負担をかける怖さは、新型コロナウイルスの怖 さよりも小さいだろうか。学校に馴染めない子どもたちが学校によって傷つくリスクは、この子たちに新型肺炎 が発症するリスクよりも低いだろうか。権力を握る者たちは、毎日危機に人びと晒してきたことを忘れているの だろうか。なにより、新型コロナウイルスが、こういった弱い立場に追いやられている人たちにこそ、甚大かつ 長期的な影響を及ぼすという予測は、現代史を振り返っても十分にありうる。 


 第五に、危機の時代に立場にあるにも関わらず、情報を抑制したり、情報を的確に伝えなかったりする人たちに 異議申し立てをやめないこと台湾の保健省大臣のように、体力的にも知能的にも、何時間でもどんな質疑が来 ても誠実に応答できる人間だけが、政治を担うことができる。また、インターネット上の新聞記事は、個人の生 命に関わる重要な記事にもかかわらず、有料が多い。情報の制限が一人の救えたかもしれない命を消すこともあ るのだ。せめて新型コロナウイルスに関する記事だけでも無料で配信するのが、メディアの社会的責任である。  


   日本は、各国と同様に、歴史の女神クリオによって試されている。果たして日本はパンデミック後も生き残るに 値する国家なのかどうかをクリオが審判を下す材料は何だろうか。危機の時期に生まれる学術や芸術も指標の 一つであり、学術や芸術の飛躍はおそらく各国で見られるだろうが、それは究極的には重要な指標ではない。死者数の少なさも、最終的な判断の材料からは外れる。試されるのは、すでに述べてきたように、いかに、人間価値の値切りと切り捨てに抗うかである。いかに、感情に曇らされて、フラストレーションを「魔女」狩りや「弱 いもの」への攻撃で晴らすような野蛮に打ち勝つか、である。  

   武漢で封鎖の日々を日記に綴って公開した作家、方方は、「一つの国が文明国家であるかどうか[の]基準は、 高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達し ているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界 を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、 それは弱者に接する態度である」(日本語訳は日中福祉プランニングの王青 ④)と喝破した。     この危機の時代だからこそ、危機の皺寄せがくる人びとのためにどれほどの対策を練ることができるか、という 方方の試金石にはさらなる補足があってもよいだろう。危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日 常の危機を顕在化させる。危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた 人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか。皆が石を投げる人間に 考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができるのか。これがクリオの判断材料に ほかならない。「しっぽ」の切り捨てと責任の押し付けでウイルスを「制圧」したと奢る国家は、パンデミック 後の世界では、もはや恥ずかしさのあまり崩れ落ちていくだろう。 


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