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#4213 Sapiens (23th) : p.29 April 4, 2020 [44-3. 原書講読講座 Sapiens]

 武漢コロナウィルス感染症、正式名称はCOVID-19だったかな、そのあおりで根室高校は3月一か月間休校になった。弊塾も3/14から3/29までお休みしたから、久しぶりの原書講読SAPIENS授業である。問題となったのは一箇所のみ、なるほどと思う文だった。前後関係がわかるように段落全部をタイピングしておいた。<29.1>は29ページ第一段落という意味である。

<29.1>There are clear limits to the size of groups that can be formed and maintained in such a way.  In order to function, all members of a group must know each other intimately.  Two chimpanzees who have never met, never fought, and never engaged in mutual grooming will not know whether they can trust one another, whether it would be worthwhile to help one another,and which of them ranks higher.  Under natural conditions, a typical chimpanzees troop consists of about twenty to fifty individuals.  As the number of chimpanzees in a troop increases, the social order destabilises, eventually leading to ruputure and the formation of a new troop by some of the animals. Only in a handful of cases have zoologists observed groups larger than a hundred.   Separate groups seldem cooperate, and tend to compete for territory and food.  Researchers have documented prolonged warfare between groups, and even one case of 'genocidal' activity in which one troop systematically slaughtered most members of neighbouring band. 


 アンダーライン部は文構造がちょっと複雑だから、生徒と一緒に分析してみた。主語と動詞と目的語がわからば半分はOKだ。
Only in a handful of cases have zoologists observed groups larger than a hundred.

 文構造を書き出すと次のようになっている。
 Adv.P+have+S+V+O

 問題は二つある。文頭の前置詞句は機能から捉えると副詞句(Adverb Phrase)であるが、その位置から判断すると、強調である。いわゆる「強調構文」という類の文。二つ目の問題はhaveである。使役なのか現在完了なのかということ。文頭が副詞句で転置されているとしたら、主語の位置が助動詞と過去分詞に挟まれることになる。文を元に戻すと次のようになる。

  zoologists have observed groups larger than a hundred / only in a handful of cases.

 ずっと読みやすくなったのではないか。
 少し前に視線を移すと、'about twenty to fifty individuals'という前置詞句がある。「20-50頭のチンパンジー」ということ。'a hundred'が'a hundred individuals'であることは、このように文を複数頭の中において関連させながら読むこと(=文脈読み)で推察がつく。慣れてくるとこの'a hundred'を読む時に'individuals'を補って読めるようになる。

 わたしたちは日本語の文章を読むときに、文章前後の関係に留意しながら、無意識にあるいは意識的に論理的な整合性をチェックしながら読んでいるから、同じことを英文を読む場合にも使えばいいだけだ。だから、日本語の良質の本をたくさん読んだ生徒は英文の理解も速くて精確である。母語でできない技がとつぜん英語でできるわけがない。そういう点からは、中学生の終わりまで、或る程度のレベルの読書経験を積んでおくことが大切だ。中学卒業までに文庫本50冊、新書10冊が目安。新書版の本は専門書への扉のようなもの。文庫と新書版の本で先読み技術を磨いておこう。

 「動物学者は百頭以上の集団を観察したことがある」と書いて、それがどの程度の分量であるかについて補足説明をするのが典型的な英文の文章作法である。「わずか一握りの事例にすぎない」と付け足している。ハラリはその補足説明部分を強調したくて文頭にもってきた。
 20-50頭のチンパンジーの生態観察は研究報告事例が多いが、百頭を超えるような集団の生態研究はほとんどないというのが実情。ハラリがなぜそんなことを問題にするかというと、人間の集団なら150人あたりに閾値があるからだ。企業も150人までなら、社員全員の顔をお互いが判別がつくし、それぞれの性格も熟知して組織を動かすことができるが、それを超えると、別の枠組みが必要になる。たとえば、詳細な行動規則、分掌権限、部門別予算、目標とする収益構造や財務構造、企業を動かすコンピュータシステム、経営理念などである。

 20歳代の終わりから6年間勤務した産業用エレクトロニクスの専門輸入商社関商事(のちに、セキテクノトロンと名称変更し店頭公開)が200人弱の規模だった。為替変動にあえぐ企業だったが、5つのプロジェクトで仕事の仕方を根本から見直し、為替管理や円定価表や納期管理をシステム化し統合することで収益構造と財務構造を劇的に変えた。1984年1月末に退職して、2月1日から10倍の企業規模の臨床検査最大手企業SRLへ転職した。収益構造と財務構造を変革することでセキテクノトロンは店頭公開要件をクリアし、株式公開を果たしたが、東大出の三代目に代わって十数年、2010年ころに業績悪化で消滅している。1978-1983年までにやった経営改革の果実を30年間で食いつくしたからだろう。マネジメントはもって生まれたセンスだから、学歴ではなんともならぬ。
 150人というのは企業で言うと、個人企業から会社組織への転換だ。ここがうまくいかずに30-50億円くらいの売上規模で消滅する企業が多いというのは事実である。逆説的にいうと、150人以上の人数が上手に動かせる企業なら、売上規模が100億円を超えても、従業員数が500人に拡大しても問題が生じないということ。
 この節のタイトルは「プジョー伝説」である、どのような展開になるのか面白そうだ。


 例によって当該段落の訳を引用しておく。
そのような形で組織し、維持できる集団の大きさには明確な限界がある。一つの集団がうまく機能するには、成員全員が互いを親しく知らなければならない。一度も会ったり、戦ったり、グルーミングし合ったことのないチンパンジーどうしは、信用し合えるかどうかや、助け合う価値があるかどうか、どちらが上位かがわからない。自然状況下では、典型的なチンパンジーの群れは、およそ20-50頭から成る。群れの個体数が増えるにつれ、社会秩序が不安定になる、いずれ不和が生じて、一部の個体が新しい群れを形成する。100頭を超える集団を動物学者が観察した例は、ほんの一握りしかない。別々の集団が協力することは稀で、たいていは「縄張りと食べ物をめぐって張り合う。研究者たちは集団の長期に及ぶ線背負う状態を詳細に記録してきた。一つの集団が、近隣の群れの成員のほとんどを計画的に殺害する「大量虐殺」活動さえ、一件記録されている。」柴田訳


<余談>
 産業用エレクトロニクス専門輸入商社の関商事の従業員数が200人に近づいたときに、第一営業部長だったM木さんが退職して、取引先の米国メーカーと突然に日本法人を立ち上げた。そのときに社員が20人ほど移籍した。社長の関周さんには寝耳に水だっただろう。関商事は20%ほどの売上を失った。
 150人を超えると不安定になるというのは、チンパンジーの群れだけではない、人間の群れである企業でも同じようだ。ヒューレットやパッカードとスタンフォードで一緒に学んだ創業社長が亡くなり、慶応大学大学院経済学研究科卒の二代目に代わった。先に応募していた森英恵の会社で社長面接をして内定をもらった。ニューヨーク勤務か国内の子会社を一つ任せてくれるという話だった。どちらかに決めるので少し待ってほしいと言われたので、そのまま応募書類を出していた関商事に電話して経理総務担当役員へ告げたら、断っていいから、会社においでと言われて、日本橋の本社ビルへいくと、技術部にマイクロ波計測器がゴロゴロしていた。すぐに社長室へ通され、話をした。関周さんは慶応大学大学院で経済学専攻、わたしも東京経済大学大学院で経済学専攻、ウマが合った。企業経営にはまるで関係のないマルクス『資本論』をベースにスミスやリカード経済学にさかのぼって基本概念の相互の論理的な関係や体系構造を研究したことはその時に話した。経理や原価計算の専門知識があることが異色だっただろう。経済学専攻の院卒でそういう人材はほとんどいない。仕事を用意してあるからと誘われた。その前がアパレル関係(紳士服の製造卸の会社)だったので、同じ業界では詰まらぬという考えが浮かび、産業用エレクトロニクスの輸入商社で働くのもいいかと入社を承諾した。そしてすぐに社運を左右する6つのプロジェクトのうち5つを任された。関周さん、自分がやらなければならない課題を中途入社早々のわたしに丸投げしてくれた、ありがたかった。6つのプロジェクト・メンバーは取締役と部長職、課長職が3人だった。実務はわたしが全部やる、他のメンバーはわたしの報告と経営改革案を毎月聞いて、一つ一つ実行に移す決定を下した。生産性と仕事の精度をアップ、そして利益をコントロールした内部留保を増やし財務体質を変えることが目標だった。ルーチン業務は予算編成と管理を任された。それぞれがシステム開発を伴なう提案だったから、実行もわたしの担当になった。社内にはだれもやれる人がいなかったからだ。自分で提案して自分でやるのだから、だれも文句を言うはずもない。大幅に利益が増えたので、利益の三分割案も社長はすんなりOKしてくれた。社員のボーナス、配当、内部留保に三分割した。これには社員が喜んだし、士気が上がった。会社は儲けなけりゃ嘘だ。円安になると赤字でボーナスが1か月なんてこともあったが、社員は意気消沈してしまう。経営改革をやってからは為替変動に関係なく安定して年間6-7か月のボーナスがだせるようになった。これで住宅ローンが組めると喜ぶ社員もいた。
 関商事は三井合同の幹部職だった先代が、財閥解体で社員をリストラして、最後に自分も三井合同を去って、独立起業してできた会社である。社員の首を切ったら最後は自分もそこを去る、潔い人だったようだ。創業社長はスタンフォード大を卒業しており、大学同期の友人であったヒューレットとパッカードが創業したHP社と総代理店契約を締結して会社を立ち上げた。あるとき、HP社が横河電機と日本法人をつくることになり、総代理店契約を解消して社員の半数くらいが合弁会社YHPへ移籍した。もちろん相応の対価があったと聞いている。先代が亡くなり、二代目が30代前半で社長になった。固定相場制だった外国為替がフロートに切り替わり、為替変動に業績が左右されていた。営業マン一人一人がドル価格をベースにして販売価格(円)を計算していた。だから、会社にいて見積書を作っている時間が長かったし、利幅も薄かった。てんでばらばらだったのである。取締役たちは先代社長の薫陶を受けた人たちだったから、為替変動の荒波をかぶり経営の悪化も重なって二代目社長と軋みが生じていた。二代目は為替変動の影響を受けて業績がアップダウンすることや、利益が薄く、財務構造が脆弱であることに危機感を抱いていた。だから、それらを変えるために6つのプロジェクトを用意していたのだろう。長期経営計画委員会・資金投資計画委員会・収益見通し分析委員会・為替対策委員会・電算化推進委員会・利益重点営業委員会そこへタイミングよくわたしが新聞広告の中途採用に応募したというわけ。利益重点営業委員会だけメンバーではなかったが、東京営業所長が実者担当者になっていた。かれが提案した「円定価表」システムは円定価を計算するためにドル価格・仕入レート・為替予約が関連しており、相談を受けているうちに為替変動と連動したコンピュータシステムが良さそうなので、こちらも引き受けた。だから6つの委員会全部がわたし個人の仕事になった。四半期単位で円定価表を出力して取引先に配布した。ある計算式を使ってバルクで為替予約をしたから、日米金利差で為替差損がでない、そして為替差益が常にでるような仕組みが出来上がった。円定価表の粗利益を操作することで、粗利益率がコントロールできるようになった。それまでよりも10ポイント以上高くなった。関商事は欧米50社の世界最先端で競争力の強い商品を扱っていた。スイスのオシロクォーツ社やウォータゲート事件で使われたレシーバーのメーカであるWJ社、HP社の技術者数名がスピンアウトして作ったウィルトロン社などいい製品群が揃っていた。
 経済学、外国為替、会計学、原価計算などの専門知識はあったが、システム開発についてはプログラミングも開発に関連するさまざまな技術もなかったから、プロジェクトを抱えながら、専門書を読み漁り、オービックのSEと一緒にシステム開発をしながらスキルを吸収した。システム開発の専門書を40冊ほどは読みながら、仕事ですぐにつかったのでスキルが飛躍的に伸びた。3年ほどで国内トップレベルのSEと対等な関係で仕事ができた。
 2年間でプロジェクトは初期の目的を果たし、成果が出てきたころだった。東京営業所長のEさんから、売上の3割を占めている米国メーカの日本法人立ち上げを打診されているので、一緒にやらないかと誘われた。魅力的な話だった。彼とはウマが合っていたから心が少し動いた。Eさんは一つ年上、わたしが出遭った中ではナンバーワンの営業マンだった。TDKの担当をしていたことがあり、細かい注文を取りながら大きなものを狙っていた。嗅覚が鋭い。毎年5億円×10年間、50億円の受注を一人で上げるほどの凄腕。そして営業事務の合理化についてもしっかりした考えの持ち主だった。二人で朝までよく飲んだ。売上の3割を失うと、関商事の屋台骨が揺らぎそうだったので、お断りしたら、彼は思いとどまったが、翌年その米国メーカは総代理店解約を解消して日本法人を設立した。わたしが承知していれば、Eさんが社長でわたしが管理担当副社長だったかも。33歳のときの話しである。
 統合システム開発で二代目社長と衝突して関商事をやめた。我慢のならない約束違反があったからだが、若気の至りでもあった。
 どこから話を聞いたのか、退職して2週間後にオービックのSEのS沢さんに「うちの社に来て、一緒に輸入商社向けの統合システムパッケージ開発をしないか、20社ほど取引先があるからそこへ売り込める」とお誘いをいただいたが、お断りした。S沢さんは、その後オービックの開発担当取締役になった。かれからSEの技術を盗んだ、専門書を読んだだけでは実務はやれない。トップレベルのSEと仕事をすると学べることが多い。S沢さんの後(1983年)で、日本電気情報サービスのT嶋SEと半年ほど統合システム開発で仕事している。この人は要求がきつかったね。実務設計も外部設計もプログラミング仕様書も独力で書いた。(実務デザインは日本能率協会方式の事務フロー図を描いた。SRLへ転職してNCDさんのSEと仕事したときは産能大方式だった。)T嶋SEの仕事は内部設計のみ。仕事の分担ははっきりしているほうがいい。日本電気の汎用小型機を導入するからナンバーワンSEを派遣しろと二代目社長が注文を付け、それで担当になったSEだった。オービックのS沢さんと同じくらいのスキルのもち主だった。三菱電機系列と日本電気系列のシステム会社のそれぞれのトップSE2人と仕事させてもらった。スキルが伸びたのは、彼らのお陰だ。トップレベルのSEの仕事がどの程度のものかがわかった。
 日商岩井の出身の総務部長からも日商岩井の関係会社を紹介すると電話があったし、帝人エレクトロニクスにコネがあった第3営業部長のSさんも、課長職で推薦するからと、退職直後に電話いただいた。SRLに転職して、最後の仕事は帝人とは臨床治験検査データ管理の合弁会社の経営を任されることになるのだから人生とは不思議だ。
 経営分析やシステム開発で時代の尖端技術をもち、マネジメント能力に優れていたら企業を選んで転職できた好い時代だった。辞表を出してから就活しても、ブランクなしに転職できたのである。運がよかっただけかもしれない。
 1984年2月1日にSRLへ転職して2か月後には上場要件を満たす統合システム開発の核の部分を担当することになった。関商事の10倍ほどの開発予算で、使うコンピュータは当時富士通で最大の汎用大型機だった。10億円のマシン、うれしかった。
 統合システム開発が4つのプロジェクトチームに分かれて私の入社1年前にスタートしていた。経理課長と係長が担当していたが、二人ともコンピュータの知識はゼロ、まったく進んでいなかったから、経理部長の岩本さんも専務の矢口さんも焦っていた。この二人は富士銀行から転籍組。だからすぐに担当替えがされ、関商事で培ったスキルがすぐに役に立つことになった、こういう仕事を担当する運命になっていたのだろう。トーマツ青木監査法人から財務経理システムチームにシステム・スキルのあるという触れ込みで公認会計士Tさんが派遣されていたが、経理課長が「いらないだろう、外していいか?」と訊くので外してもらった。スキルが低すぎて、こちらのほうが教えなければならず、足手まといだった。SRLはこの人の派遣に毎月300万円支払っていたから、2か月分で入社早々のわたしの年収だった。ずいぶん安く使ってもらった。(笑) 当時は「公認会計士+SE」というマルチ人材がまだ育っていなかった。
 財務経理システム、投資及び固定資産管理システムがわたしの担当。統合システムだから購買在庫管理システム・売上債権管理システム・原価計算システムとのインターフェイス仕様が問題となった。全部のプロジェクトチームが集まって4月に会議したときに、暗礁に乗り上げた。わたしが担当することに全員が承知したので、翌週インターフェイス仕様書を書いて各チームにその通りにやるように通知した。皆さんびっくりした顔をしていた。各サブシステムの内容を承知してなけれが、インタフェイス仕様書は書けない。そんなマルチの能力のもち主は一人もいなかった。購買在庫管理システムの外部設計もすったもんだしていたので半分ほど手伝ってやった。わたしの担当部分は2か月間の並行ランをふくみ8か月で開発完了、1年以上遅れてスタートした財務経理システムが一番最初にノートラブルで動き出した。わたしがどういうレベルの仕事をやったかわかっていたのは、親会社である富士レビオの元経理部長で1984年当時SRLの監査役をしていた外口さんだけ。富士レビオの東証一部上場時に経理部長だったから、上場要件を満たすための統合システム開発どれほど大変なのかよくご存じだった。それを入社して8か月でやりぬいたのをよく見ていてくれた。
 仕事は困難なほど楽しい。だから簡単な仕事はつまらぬ。


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