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#2631 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(1) Mar. 31, 2014 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]

 今日(3/31)は30センチほど雪が積もったので午前中に雪掻きした。下の部分は融けてびちゃびちゃだから重い、50cmの立方体に切り出しスコップに載せて庭の雪山へ積み上げる、いい運動になった。

 漠然とライフワークだと考えていたテーマがある。マルクス『資本論』を超える経済学を創るという夢である。
 資本論の体系構成がはっきり見えだしたのは学部の学生のときだった。経済学の体系構成に関する研究をテーマに選んで大学院へ進み、研究を続ける傍ら、マルクスが設定した公理・公準を入れ替えたらどういうことになるのかという疑問がわいたが、意味のある適切な公理・公準が見つからず、思考は堂々巡りを続けた。
 他人の後を追うだけの研究なんてつまらない、美しい諸概念の体系を目の前にして、それを乗り越えられない能力の限界を思い知らされ、糸口が見えない状態が続いていた。研究に集中すれば糸口が見つかるというような性質の問題でないことは乗り上げた暗礁を眺めただけで明らかだった。研究生活を続けることに意味がなくなってしまった。自分の内部で何かが熟成してくるのを待つしかないのである。民間企業に就職して経営企画、経営管理管理、予算編成及び統括管理、株式上場プロジェクト、実務デザインとシステム開発、企業買収、赤字子会社建て直し、合弁会社経営などさまざまな仕事に没頭しつつ、マルクスの労働概念に抱いた違和感の正体を探り続けることになった。
 マルクスを超える経済学を創造するためには回り道が必要だった、回り道をしても届くかどうかはまったくわからないが、残って研究生活を続けても乗り越えられないことだけははっきり自覚できた。若き学徒にとっては酷い話だが、こういうときは頭で考えないようにしていた。全一な判断は論理的な思考ではなしえず重要な局面では直感でやるしかないが、それは目隠しをしたまま崖があるかもしれない道を突っ走るようなものだからそら恐ろしいことだった。

 日本人の「仕事観」とマルクスの「労働観」には天と地ほどの差があることを業種の違う企業へ転職を繰り返して身体で理解した。マルクスを乗り越える準備が完了したのを感じたのはようやく50歳前後の頃のことである。
 何年かあとに塾の仕事を辞めてから、人生の終わりに差し掛かったところで残る時間のすべてを投入して書き始めるつもりだったが、一週間の春休みをとり、考えが変わった。学術論文を書くためには年単位のまとまった時間が必要だが、それがなくても大まかなデッサンを書きあげて公表しておくことには意味がある。
 本論は別に専用ブログをつくりそこで展開すればよしとして、全体の見通しを述べておくことはいまでもできるしムダではない。いくつかの課題も具体的に明らかになるはずで、学術的な論証はあとまわしでよい。十数年かかるだろうから、わたしにはそういう時間と体力をそろえるのはすでに無理がありそうで、若い人たちのために大事なところだけピックアップしておけばいいと気がついたしだい。
 いままでの西欧の経済学説とは根底から大きく異なることだけはハッキリしているから、どこがどのようにことなるのか、そこから話しをはじめてみたい。

 マルクス『資本論』はウィリアム・ペティ、アダム・スミス、リカードなどによって析出・洗練されてきた経済学的諸基概念の関係を分析してそれらを一つの体系の中に統合するものであった。
 マルクスにあっては、「抽象的人間労働」と「具体的有用労働」がもっとも根本的な経済学的基礎概念である。それが「単純な流通関係」に置かれると、交換価値と使用価値をもつことになる。「商品の一般的な交換関係」に措定されると貨幣が出てくる。継いで「生産関係」へと移行し、「市場関係」へと順次概念的関係が拡張されていくという構造になっている。概念的関係は、「単純な国際市場関係」から「世界市場関係」へと至り、国々との関係で資本や賃労働が定義されるような構成になっているのである。
 こんなことをいう経済学者は日本に一人もいないし、世界中を探してもいない。マルクスは経済学でユークリッドが平面幾何学で示したような公理・公準に基く演繹的体系化を経済学的諸概念を使って試みたのである。そしてそれは経済学諸概念の美しい演繹的な体系になっている。
 高校2年生ときに中央経済社から出版され始めた公認会計士二次試験講座の経済学に眼を通し、近代経済学の本を読んだ後で『資本論』を読んだのだが、その全体構造がまるでつかめず、大きな森に迷い込んだ感覚があった。そしていつかこの森を征服してやろうとひそかに決意したのである。学部横断的にゼミ生を募集した市倉宏祐先生(哲学)の一般教養ゼミで『資本論』を読み、継いで『経済学批判要綱』を読むことで、基本概念の体系化の跡を追いかけ、高2のときの迷い込んだ森の全体図が理解できた。
 しかしマルクスの経済学体系構成全体がどのようなものであるかをおおよそつかまえることはできたが、適切に説明する術をもたなかった。既存の学説とはまるで異なる結論だったのである。共産党ともアカデミズムの世界で最大学派であった宇野経済学ともまったく異なる地平に立っていた。

 経済学の体系構成について学術論文を書くだけで一冊の本となるだろうが、わたくしのやるべきことはこうしたことに関する学術論文を書くことではない。
 『ユークリッド原論』を参考に『経済学批判要綱』と『資本論』の各版を比較対照しながら若き学徒が追跡すればいい、資本論は経済学諸概念の演繹的な体系なのである。私がやるべきことは資本論とはまったく別の経済学諸概念の演繹体系全体のデッサンだ。日本的職人仕事観からどのような経済学体系が創造できるのか見てみたいとは思わないだろうか、知的好奇心と冒険心をくすぐる壮大なテーマである。

 肝心要の最初のところ、「学の端緒」をブレイクダウンしてみよう。マルクスのいう「抽象的人間労働」とは、「生産関係」のところでさらに具体的なレベルで明らかになるのだが、工場生産を前提とした労働である。抽象的人間労働という概念にも工場労働の匂いが残っている。たとえていえば、蒸留酒を作る際に、元の醸造酒のフレーバが残るようなものだと考えてくれたらいい。
 そこには資本家と工場労働者が居て原材料と生産手段がある。資本と賃労働と原材料と生産手段と言い換えてもいい。労働者は生産手段をもたないし、生産物は労働者のものではない。
 マルクスが「労働疎外」という用語を使っているか「疎外された労働」という用語を使っているかは、細かいことはとっくに忘れているから、必要があれば『~要綱』『経済学批判』『資本論』などを調べて別項で検討することになるのだろうが、ここでは簡単に、労働者が賃労働の対価として賃金を受け取ることで、生産手段や生産物から切り離されている状態をさして「疎外された労働」を定義しておきたい。西欧の「労働」は全一なものにはなりえないのである。「全一な労働」に対して「疎外された労働」を対置して考えればいい。
 工場労働者は時間で自らの労働能力を商品として売ることで商品生産に参加する。こういうタイプの労働者と、パン職人や肉屋、靴職人、カバン職人、衣服の製造にかかわるさまざまな種類の職人など、自ら自前の道具をもった一群の職人が西欧にも存在してきたのだが、マルクス経済学の射程内にはこれらの職人仕事は入らない、歓びや自己実現のないあわれむべき「労働」経済学なのだ。

 西欧には労働は奴隷のすることだという考えがギリシアの古代都市国家から連綿と受け継がれており、アダム・スミスもリカードもマルクスもそういう「特殊西欧的な常識」の中で自らの経済学を考えており、それは経済学体系に影響している。
 マルクスは労働を苦役ととらえるから、賃労働からの労働者階級の解放が政治的イデオロギーとして出てくることになった、彼の経済学的な分析と体系構築と人間解放の共産主義という幻想の政治的イデオロギーはこうして必然的に三位一体のものとなっている。

 「平行線は交わらない」というのはユークリッド幾何学の公理・公準のひとつである。ところがこれは平面幾何学を前提にしているときにのみいいうることで、球面幾何学上では「平行線は二点で交わる」ことになる。地球儀を思い浮かべ、赤道に垂直に平行線を二本引くとそれは北極と南極で交わることになる。
 私が言いたいことの要点は、公理公準が異なれば学の体系も別物になるということだ。ここまでは商学部会計学科に所属し市倉ゼミで学んでいた時代の結論だった。では、公理公準を任意に取り替えて経済学体系を語ることに意味があるのかというのが、学部で学んでいたときとその後に大学院で研究していたときの疑問であった。意味のある学の端緒を自分の頭で探したが見つからなかった。いくつか業種の異なる分野で仕事を体験して、身体を通して理解するしか術がなかったのである。
 わたしはずいぶん回り道地をしたようだが、最短距離を走ったのだと十数年前に気がついた。だから、ケリをつけるべく人生最後の数年間をこのライフワークに費やすつもりでいるのである。

 疎外された労働というマルクスの言辞や用語に漠然とした違和感があったが、彼の著作を読むだけではその正体がわからなかった。道元の『正法眼蔵』同様に、身体を使って(修行あるいは)仕事をすることでしか答えが見出せない気がしていたが、マルクスが捨象した職人仕事にその鍵があることに、業種の異なる何社かで仕事をした挙句にようやく気がついた。不器用でずいぶんと鈍だと反省はしているが、お陰でA・スミスもリカードもマルクスも西欧経済学とその亜流も全部まとめてひっくり返せるから、結果から見ると無駄はなく最短距離を歩いた気がしている。リカードの比較生産費説ともグローバリズムともおさらばできる。地球環境への影響を小さくして雇用も確保し失業問題を解消可能だ、それが職人仕事を中心においた経済学である。

 賃労働や奴隷の労働と職人仕事がどれほど異なっているかはなんどもカテゴリー「経済学ノート」でとりあげたが、もう一度整理・展開してみたい。日本ではあらゆる仕事が職人仕事になってしまう、そういう不思議な文化的な土壌がある。これは世界中で日本だけの文化的な特質だろう。日本人はこうした文化に基く新しい経済学を創造して見せることができる。

―余談―
 学術論文にするには、たったこれだけの文章で十数か所は注をつけなければならぬ。スミス以前の経済学についてはスミスがしっかり盗んでおきながら言及を避けているウイリアム・ぺティーの経済学があることを馬場宏二先生の著作『経済学古典探索』(御茶ノ水書房 2008年刊)で知った。マルクスもプルードンの系列の弁証法をいただいておきながら意図的に言及を避けているのとよく似ているから、苦笑せざるをえない。スミスにとってはそれほどペティが重要だったという証左である。


*#2631 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(1) Mar. 31, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-03-30-1

 #2634 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(2) Apr.7, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-06

 #2643 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(3) Apr. 13, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-13


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イルミネーション・チャイルド・ロック


腹かかえて笑ってしまった…!
あはは。

最近は銭勘定が経済学と言うらしい。
そもそも銭が何故存在するのか?
何故人は銭にしばられ続けるのか?
その辺のところをないがしろにした
経済学など誰も見抜きもしないぜよ。
言ってみればアリん子のマスターベーションやな。

あほらし。
by イルミネーション・チャイルド・ロック (2014-04-12 23:21) 

ebisu

そのうちにわかります。
by ebisu (2014-04-13 01:08) 

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