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#4341 経済学との出遭いと戦い:経済学の公理 Aug. 15, 2020 [A3. 職人仕事観に基く経済学の展望]

 #4340の「余談」に書いたものに加筆して独立させます。タイトルで検索しやすいようにとの配慮です。タイトルと内容が一致していなければ、あとで記事を検索するのが困難になります。いままで、関連があるからと<余談>を追加していましたが、記事検索システムができたのですから、やり方を変えないといけませんね。何かをやるといろんなことが影響を受け、いままでのやり方では不具合が生じます。その都度、何がベストか考えます。


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 経済学は演繹的な体系構成をもっています。どのような演繹体系も一群の前提条件=公理から出発してその学問体系を構成していきます。数学モデルもそうした体系の一つです。ユークリッド『原論』が人類史上初めての演繹的学問体系です。
 A.スミス、D.リカード、K.マルクスの経済学には労働=苦役という公理が横たわっています。工場労働者の労働の淵源は奴隷労働です。自由民は労働しません。労働からの解放が究極の善、目標でもあります。それが西欧の経済学に共通しています。労働からの解放が至上命題となります。自己を再設計可能なAIと機械がAIのコントロール下に置かれることで、そう遠くない未来に、人間が「労働から解放」されるのかもしれません。そういう未来を描いた小説、野崎まど著『タイタン』が4月に発売されています。
 こうした労働観と対極にあるのが日本人が育んできた仕事観です。職人仕事に端的に現れています。仕事は神聖なもの、だから、刀鍛冶は正月に禊をしてから初仕事をして、一振り目の刀を神に捧げます。仕事は神聖なものであり、自分が修行して育んできた技術の粋を表現する場でもあります。だから、仕事が生きがいなのです、職人仕事観からは「労働からの解放」という結論は出てきません。工場で仕事する工員も日々仕事の改善をするのも、職人が仕事の手を抜かないのもそういうことなのでしょう。わたしは本社管理部門の仕事や社長の特命プロジェクト仕事が多かった。4分野ほどの専門知識と経験を生かしてやる仕事は「労働」ではありませんでした。職人仕事そのもの。だから、日本の企業には工場も本社部門も職人仕事をやっているのです。
 職人仕事観を公理に措定すると、まったく別の経済学と経済社会が立ち上がります。そういう可能性と理論的な背景を明らかにすることが、わたしのライフテーマでした。根室高校2年生の時にマルクス『資本論』を読んだときに、巨大な森に迷い込んだ感触とこの巨大な森から抜け出したら何が見えてくるのかというのが、学問を志す出発点でした。大方のところはすでに弊ブログ書いてあります。
 経済学で公理を問題にした経済学者はいまのところわたし一人です。マルクス『資本論』は超えることができました。マルクス自身も『資本論初版』(1867年)を書いたときに自分の方法論の限界に気が付いたと思っています。ヘーゲル弁証法をベースに『経済学批判』⇒『経済学批判要綱』⇒『資本論初版』と書き進んできたマルクスは、その限界にようやく気が付いたのです。正・反・合の図式ではやれないところまで来てしまいました。(国内)市場関係や国と国際市場関係まで拡張したら、経済学的基本概念の展開が困難であることには気が付いたと思います。フランス語版(1872-1875)はまったく別な書物であると、自身が書いています。その方法的な意味を理解した経済学者はいません。『資本論初版』の方法的限界が見えてきたので、そうせざるをえなかったのでしょう。
 マルクスはヘーゲルではなくて、経済学体系の方法論を探るためにはユークリッド『原論』を読むべきでした。ですが、マルクスは数学が不得手でした。『数学手稿』をみると、微分概念が理解できなかったことがわかります。『資本論』を読んでも『経済学批判要綱』を読んでも微分・積分は出てきません、四則演算に終始しています。そのこと自体も「マルクスの経済学」の限界になっています。方法論の誤りだけでなく、数学的なツールが使いこなせませんでした。『資本論』や『経済学批判要綱』を通して読んでずっと感じていた違和感はそこにもありました。マルクスは経済学的諸概念の分析と定義の研究を、『経済学批判』⇒『経済学批判要綱』⇒『資本論初版』と一貫して行ってきたので、そういう思考の仕方が鋳型になってしまっていたように思えます。無限小概念が理解できなかったから、彼にとっては微分という操作がわけがわからないものになりました。
 『数学手稿』は、苦手だった数学の学習ノートのようなもので、出版すべきものではありませんでしたが、彼を神のごとくあがめる信者たちが出版してしまいました。泉下のマルクスは苦笑いしているでしょう。
 紀元前に成立した学の体系としては唯一、ユークリッド『原論』がありますが、数学が苦手ですからマルクスは手に取ることすらなかったのでしょう。元々はギリシア自然哲学の専門家でした。イェーナ大学に提出した博士論文のタイトルは『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』英語版(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』です。ギリシア哲学が専門だったのに、なぜかユークリッド『原論』を読まなかった、それが経済学者として致命傷でした。流行りのヘーゲル弁証法に飛びついてしまった。まことにイージーでした。二項対立図式ではちょっと複雑な関係、三項以上の世界が記述できません。たとえば市場関係や国家が導入された国際市場関係、そして最終形態の世界市場関係が記述できるわけもないのです。それなのにマルクスは歴史にヘーゲル弁証法を当てはめ「唯物史観」を、古典派経済学から経済が基礎概念相互の関係の分析と経済学の体系構成に利用し『資本論』を創り上げました。
 現代数学の体系化の試みの成果として、ブルバキの『数学原論』シリーズ(38巻)があります。現代数学は高度に専門化・分化して、統一的な観点から演繹的体系を構成するのは個人の仕事でも集団の共同作業・研究でも著しく困難なのです。
 それでも、公理を変えることで、まったく異質な経済社会の展望と建設は可能です。

*斉藤毅「ブルバキと「数学原論」


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